2016年9月22日 (木)

■映画と夜と音楽と…743 不機嫌な顔のヘレン・ミレン


【クィーン/終着駅 トルストイ最後の旅/RED/ヒッチコック/マダム・マロリーと魔法のスパイス/ホワイトナイツ・白夜/黄金のアデーレ 名画の帰還】

●ヘレン・ミレンは二十歳頃から舞台でシェイクスピアなどを演じていた

ヘレン・ミレンという女優を初めて認識したのは、「クィーン」(2006年)でアカデミー主演女優賞を受賞したときだった。六十を過ぎての受賞である。ダイアナ妃が事故死した前後のエリザベス女王を描いた作品で、実在の人物を演じる場合はどれだけ似ているかということで見られることが多いが、女王らしさがよく出ていたのだろう。話し方も重要なのだろうが、僕に英語のニュアンスはわからない。ただ、イギリス出身の女優でないと演じるのは難しいのではないか。ヘレン・ミレンは二十歳の頃から舞台に立ち、シェイクスピアものなどを演じていたという。

ヘレン・ミレンは一躍注目されたのか、その後の十年間、途切れることなく出演作が公開されている。文豪トルストイ(クリストファー・プラマー)の最期の日々を描いた「終着駅 トルストイ最後の旅」(2009年)では、悪妻と言われる気の強い妻ソフィーを演じ、「RED」(2010年)では元イギリス情報部員のスナイパーを演じた。引退した凄腕の老エージェントたちが登場するアクション映画で、ヒットしたらしく続編「REDリターンズ」(2010年)も作られた。ヘレン・ミレンは凄腕の殺しのプロで、キツネ顔の彼女にはよく合っていた。大きなライフルを構え、スコープを覗く姿が似合っていた。

アンソニー・ホプキンスがヒッチコック監督を演じた「ヒッチコック」(2012年)では、ヒッチコックの妻アルマを演じている。ヒッチコック夫人は強烈な個性の人で、彼女の協力があったからヒッチコックはあれだけの名作を残せたのだ。アルマ夫人は、映画編集者であり脚本家でもあったから、企画段階からチェックし夫に自信に充ちたアドバイスをした。「ヒッチコック」は「サイコ」(1960年)を作ったときの夫妻の関係を描いているのだが、ヘレン・ミレンは気の強い、ある意味では夫を支配しようとしている妻を演じた。目がつり上がり、突き放す視線で冷たい表情ができるヘレン・ミレンは、こういう役がホントによく似合う。

そういえば、ニコール・キッドマンがグレース・ケリーを演じた「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」(2014年)にも冒頭にヒッチコック監督が登場した。ヒッチコックは「マーニー」(1964年)のヒロインを、引退したグレース・ケリーにオファーする。しかし、モナコ皇国はフランスとの難しい交渉が進行していて、グレース王妃は夫であるレーニエ公を支えなければならず、出演に気を惹かれながらもあきらめる。「マーニー」は、結局、「鳥」(1963年)のティッピ・ヘドレンをヒロインにして、007シリーズで人気が出たショーン・コネリーを起用して映画化された。それにしても、ヒッチコックは金髪女優が好きだったが、グレース・ケリーはその中でも特別だったようだ。

さて、ヘレン・ミレンはラッセ・ハルストレム監督の「マダム・マロリーと魔法のスパイス」(2014年)でも、プライドが高く意地の悪いレストランの女主人を演じた。インドからフランスにやってきた移民一家は、田舎町でカレーレストランを開くが、その向かいには古くからあるフレンチ・レストランが建っていた。ミシュランの一つ星を獲得した由緒あるレストランで、そのことをオーナーのマダム・マロリーは誇りにしている。逆の言い方をすると、エスニックなインド料理屋など見下しているのだ。こういう役をやらせると、ヘレン・ミレンは、はまる。やっぱり、意地の悪そうな顔なのだ。

●「ホワイトナイツ/白夜」の若きヘレン・ミレンが実に美しい

ヘレン・ミレンに関してはずっと「意地の悪そうな尖った顔」と思っていたが、彼女が三十代で出演した「ホワイトナイツ/白夜」(1985年)を見て、その考えを改めた。映画もよくできているが、ヘレン・ミレンが実に美しい。彼女が演じたのは、ソ連から西側に亡命した天才ダンサーであるニコライ(ミハイル・バリシニコフ)の元恋人役だった。

東京にいくはずが、故障でソ連のシベリア地方の空港に緊急着陸した旅客機に乗っていたニコライは、身分証明書などを着陸前に廃棄する。ソ連で名前が知れると、逮捕される危険があるのだ。しかし、KGB大佐に正体がばれて、アメリカに亡命した反逆者として逮捕される。そのニコライと八年ぶりに再会するのが、かつて恋人だったガリナ(ヘレン・ミレン)だった。ヘレン・ミレンは父親がロシア系なので、この役をオファーされたのだろう。

ニコライを見張るのは、ベトナム戦争に反対してアメリカからソ連に亡命した黒人のタップダンサー・レイモンド(グレゴリー・ハインズ)である。ふたりは反発しあうが、やがてそれぞれのダンスの素晴らしさを認め、そろってアメリカ大使館に逃げ込もうとする。しかし、KGB大佐の厳しい監視の目が光っていた。ちなみに、KGB大佐を憎々しげに演じるのは、ポーランド出身の映画監督イエジー・スコリモフスキーだ。役者としては「イースタン・プロミス」(2007年)でもヒロインのロシア系の叔父の役で出ていた。ロシア人役が必要なときには、便利に使われているようだ。

「ホワイトナイツ/白夜」は映画としてもよくできているが、本物のトップダンサーであるミハイル・バリシニコフとタップの名手グレゴリー・ハインズの芸がたっぷりと見られるのがうれしい。ときどき、僕はそのダンス・シーンだけを見たくなる。オープニングシーンでもバリシニコフのダンスはふんだんに見られるし、後半、ハインズとふたりで踊るシーンも延々と続いて楽しくなる。トップダンサーのダンスは美しいの一言だ。バリシニコフがジャンプするとき、その体の線は足の先から手の先までうっとりするほどである。背筋もきれいに延びている。僕はバレエに関しては門外漢だが、凄いというのはわかった。

一方、グレゴリー・ハインズのタップダンスも負けていない。フレッド・アステアのタップダンスはずいぶん見たが、ハインズはアステアと違ってアグレッシヴなダンスだ。ジーン・ケリーに近い。躍動的で動きが大きい。見ていると、リズムが乗り移る。そのシーンだけ見たいと思う至芸が登場する作品がいくつかあるが、僕にとってはまず年老いたチャップリンとバスター・キートンの舞台がたっぷりと見られる「ライムライト」(1952年)があり、次に見たくなるのが「ホワイトナイツ/白夜」のバリシニコフとハインズのダンスシーンである。ずっと見ていたいと思うほど素晴らしく、美しい。

●絵を取り戻そうとするのは過去の幸せな記憶を取り戻すこと

ナチの手を逃れてアメリカに亡命し数十年経ったユダヤ人の老婦人をヘレン・ミレンが演じた、「黄金のアデーレ 名画の帰還」(2015年)を大変おもしろく見た。事実に基づく物語だという。オーストリアの画家グスタフ・クリムトの作品に関する実話で、改めてクリムトの絵を見直したくなった。

四十年以上前だが、大学生のときに中央公論社から出ていた「日本の絵画」「世界の絵画」から好きな画家を選んで数冊買った。その「エコール・ド・パリ」の巻だったと記憶しているけれど、クリムトの代表的な作品が載っていた。「キンキラキンだなあ」というのが最初の印象だった。エゴン・シーレの作品などもそうだが、世紀末のヨーロッパの退廃の香りがした。

その画集を買った頃、代表的な作品である「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」はオーストリアの美術館が所蔵していたはずだ。しかし、二〇〇六年、長い法廷闘争の末、裁判所はアデーレの姪であるマリア・アルトマンに所有権があることを認めた。その結果、その絵画作品は156億円で落札され、現在はニューヨークのギャラリーに展示されている。「黄金のアデーレ 名画の帰還」は、マリアと彼女の弁護士ランドール・シェーンベルク(音楽家シェーンベルクの孫)を主人公にして、ふたりが紆余曲折を経て絵画を取り戻すまでが描かれている。

実業家の叔父がクリムトを支援して描かせた叔母の肖像を姪が取り戻そうするのだが、「黄金のアデーレ 名画の帰還」が感動的なのは、その動機が封印してきた過去を取り戻そうとすることから発しているからだ。バウアー家の次女だったマリアは、大広間にかけられていたクリムトが描いた叔母の肖像画を見て育った。

子供のいなかった叔父夫婦は一緒に住んでいたから、彼女にとっては父母がふたりずついるのも同然だったのだ。しかし、彼女の結婚式の直後にオーストリアはナチスを迎え入れ、ユダヤ人たちは排斥される。アデーレを亡くし独り身だった叔父は先にマリアの姉を連れて脱出したが、父母とマリアと夫は逃げ遅れる。

やがてナチがやってきて、バウアー家の絵画や財産は没収される。ナチが奪ったクリムトの絵は美術館に収蔵され、戦後、そのままオーストリアの美術館が保有している。それをナチに奪われたものだとして、マリアは弁護士シェーンベルクを通じて返還を申し出るが、オーストリア政府は応じない。

マリアは絵画を取り戻すためだとしてもウィーンにいくことを頑なに拒んでいたが、自分の過去に向き合うために六十年近く訪れていないオーストリアの土を踏むことを決意する。過去が甦る。アメリカで六十年近く暮らしてきたのに、二十数年暮らしていたウィーンでの生活が彼女の記憶の底からまざまざと甦ってくる。マリアが過去を封印してきたのは、病気の父と母を残して夫とふたりでアメリカに逃げてきたからだった。父母に送り出されたとはいえ、やむを得ずだったとはいえ、彼女は父母を置いて逃げたのだ。

彼女が自宅の壁にあった叔母の肖像画を取り戻そうとしたのは、かつて家族が一緒に暮らし幸せだった一族の思い出を取り戻すためなのだ。そのことが、頻繁に挿入される過去の映像から伝わってくる。渋い色調で描かれる過去のシーンはサスペンスもあり、手に汗握るエピソードになっている。映画的に誇張されているのだろうが、マリアと夫はギリギリのタイミングでウィーンを脱出する。だから、現在のシーンが生きてくる。

絵画の返還を勝ち取ったラストシーン、過去の幸せな思い出の中に自然に溶け込んでいく年老いたヘレン・ミレンの表情がいい。さすがに七十を越えて老けてしまったけれど、シャープな顔は健在だ。ずっと見せていた厳しく不機嫌な表情と辛辣な言葉遣いが、ラストシーンの優しくやわらかな表情で昇華する。名演と言わなければならない。

2016年9月15日 (木)

■映画と夜と音楽と…742 扇動する政治家たち


【シンドラーのリスト/プライベート・ライアン/アミスタッド/ブリッジ・オブ・スパイ】

●ルーカスとスピルバーグが映画館を遊園地に変えてしまったのか

もうずいぶん昔のことになるが、「ルーカスとスピルバーグが映画館を遊園地に変えてしまった」と言われたとき、なるほどうまいことを言うものだと思った。その言葉には批判的なニュアンスが含まれており、その批判をもっともだと僕は思ったのだ。「スターウォーズ」(1977年)と「ジョーズ」(1975年)の世界的な大ヒットは、その後のハリウッド映画を変えてしまったのは間違いない。さらに、コンピュータ・グラフィックスの進化が現在のハリウッド大作に大きく影響した。

スピルバーグが初めて作品的に評価され、「こんな映画も作れる監督だったのか」と目を見張らせたのは、「カラーパープル」(1985年)だった。しかし、いくつかの部門でアカデミー賞にノミネートされたものの、受賞には至らなかった。その後、スピルバーグは「ジュラシック・パーク」(1993年)のような完全なエンターテインメント路線と、「シンドラーのリスト」(1993年)や「プライベート・ライアン」(1998年)といったシリアス路線を作るようになる。

しかし、僕は「シンドラーのリスト」も「プライベート・ライアン」も世評ほど評価できなかった。どんなにシリアスなテーマを扱っても、莫大な制作費を回収するために世界的にヒットさせなければならないスピルバーグが背負う宿命には同情するが、彼が本質的に映像的エンターテイナーであるがために、どうしても観客を驚かそうとするケレンやハッタリが目に付くからである。たとえば「カラーパープル」でウーピー・ゴールドバーグがダニー・グローヴァーに命じられて髭を剃るとき、まるでヒッチコック作品のようなサスペンスを僕は感じてしまった。

また、「シンドラーのリスト」では、強制収容所の所長(レイフ・ファインズ)が所長室の窓から無造作に収容所内を歩いているユダヤ人収容者を狙撃したとき、僕はものすごいショックを受けたものだった。しかし、そのとき僕はスピルバーグの計算を感じたのだ。ここで、観客へ衝撃を与えたいと彼は考え、そのように撮影したのだろうと想像した。また、「プライベート・ライアン」ではノルマンディー上陸の場面の臨場感が「まるで本物の戦場にいるようだ」と話題になったけれど、そこにも僕はスピルバーグの「観客を驚かせたい」という計算を感じてしまったのだった。

僕は「激突」(1971年)以来、ほとんどのスピルバーグ作品を見ているし、そのうまさには感心している。また、「レイダース 失われた聖櫃」(1981年)では、そのエンターテインメントぶりに感心し、最後まで映画館の椅子から身を乗り出して見続けたものだったが、魂を震わせ心底からのめり込むように見た作品はなかった。唯一、「アミスタッド」(1997年)でそんな感じがあったかもしれない。しかし、あの作品も最後は、なぜかアクション映画になってしまった。

そんな僕が、「ブリッジ・オブ・スパイ」(2015年)には身を乗り出し、二時間以上の上映時間を忘れて見入ったのだった。トム・ハンクスのうまさもあるが、冷戦時代の再現、渋く抑えた色彩設計、ドラマ作りのうまさ、それに何といってもソ連のスパイを演じたマーク・ライアンスの魅力など、様々なことが重なって見事な作品になっていた。主人公の弁護士の人物像に共感できたこともある。僕は子供だったが、かろうじて米ソの緊張が最高潮に高まっていた六〇年前後の時代の空気がわかる世代に属していることもあっただろう。「ブリッジ・オブ・スパイ」は、僕に様々なことを考えさせる作品だった。特に、現在の世界に(もちろん日本にも)蔓延する排他的な空気について、僕は考えさせられたのだった。

●米ソの対立は激化し核戦争の脅威が現実のものになっていた

一九五七年、米ソの対立は激化し、冷戦は世界に核戦争の脅威を現実のものにしていた。僕も子供の頃、米ソ間で第三次世界大戦が起こり、日本にもソ連から水爆が飛んでくると思っていた。アメリカでは、それはもっと現実のものとされ、学校では子供たちにソ連が攻めてきたときの対応を教えていた。以前にも書いたが、ボブ・ディランの自伝の中にも出てきた話だ。「ブリッジ・オブ・スパイ」の中でも、そんな描写がある。主人公の弁護士ドノヴァンの息子は学校で原爆実験の記録映像を見せられ、ソ連が攻撃してきたときにどうすればよいかを教えられている。息子は「ソ連のスパイなのに、なぜお父さんは弁護するの?」と素朴に質問する。教育という名の洗脳である。

映画は、ソ連のスパイのアベルが逮捕されるところから始まる。弁護士ドノヴァンは、そのスパイの弁護を引き受けざるを得なくなる。「人々から憎まれる」と言いながら渋々引き受けた弁護だったが、誰でもが弁護される権利があることを証明するために懸命な努力をする。判事が「あいつはソ連のスパイだ。権利なんてない。評決は決まっている。形だけの裁判だ」とまで言っても、FBIが逮捕時に令状を持参しなかったことから「逮捕は無効」と主張し、国中を敵にまわす。自宅を銃撃され、警護にきた警官は「なぜ、あんな奴を助けようとする」と難詰する。

その時代の雰囲気が伝わってくる。戦後、アメリカでは共産主義の恐怖が必要以上に宣伝され、マッカーシー上院議員のような扇動政治家が登場する。彼は「国防省には大勢の共産主義者がいる。私はリストを持っている」などと主張し、大衆の恐怖心を煽った。ミッキー・スピレーンは自作のマイク・ハマー・シリーズで、共産主義者をアメリカを滅亡させようと画策する犯罪者として描いた。まるで、イスラム教徒はテロリストだと断罪するかのようだった。振り返ってみれば、マッカーシー上院議員は、何とトランプ大統領候補に似ていることか。

反動政治家の扇動に乗って、大衆はソ連を脅威とみなし憎んだ。だから、アメリカ合衆国に潜入していたスパイを憎悪し、彼を死刑にせよと叫ぶ。メディアも同調した集団ヒステリーである。そんな中、人権を守り、ソ連のスパイだとしても弁護される権利は憲法で保障されていると主張するドノヴァンの言葉は、誰の耳にも届かない。彼の弁護で死刑を免れ、三十年の刑になったアベルは、数年後、アメリカのスパイ機がソ連領空で撃墜され、逮捕されたパイロットとの交換要員にされることになる。その交換の交渉人として、ドノヴァンは指名される。彼は壁が建設されたばかりの東ベルリンに入り、ソ連および東ドイツとギリギリの交渉を始めるのだ。

●政治の本質は直接的な意味でも比喩的な意味でも「敵は殺せ」

僕らの世代では必読書だった埴谷雄高の「幻視の中の政治」では、「政治の本質は『敵は殺せ』」だと書いてあった。それは、文字通り「殺す」ことでもあるが、比喩的な意味でも「殺す」ことなのだと僕は理解した。ファシズムが支配する独裁権力の世界では、ひとりの権力者が自分の考えと反する敵たちを処刑してきたのを僕らは知っている。現在でも、ある国ではそんな状態が続いている。民主主義の世界では実際に殺されることはない(と思う)が、政治の世界で「敵は殺せ」という論理が生きているのは同じだ。その方法が、現実的な処刑ではなく、投票あるいは多数決という形を取っているだけなのである。

たとえば、小泉首相がやった「郵政民営化選挙」である。あのとき、小泉首相は自分の考え(郵政民営化)に反対する勢力を「抵抗勢力」と名付けて敵(攻撃する対象)と見なした。その敵を選挙で敗北させるために、選挙区に刺客(比喩だとはいえ、各メディアは「刺客」という言葉を使用した。的確だったのだ)を送り込んだ。落選した「郵政民営化反対」の政治家は、政治的には殺されたのである。「敵(反対する勢力)は殺す」のが、政治の世界なのだと改めて思う。結局、憲法改正か遵守か、原発推進か廃棄か、それぞれの考えの立場を鮮明にして政治家となるのなら、自説を実現するために反対する人間たちに数で勝つ(殺す)必要があるのだ。

先日の都知事選挙でも、当選した小池知事の選挙の手法を「小泉直伝の劇場型選挙」と自民党幹部は言った。自民党都連という敵を作り、彼らが都政を不透明にしている元凶というイメージを大衆に抱かせる。そのうえで、自民党幹部たちを悪役にする。小池候補の考え方や政治的ポジションには危うさを感じている僕でさえ、途中から小池候補が圧勝するだろうと予想した。明確な敵を作り、大衆を煽り、正義はこちらにあるというイメージを醸し出すことで、多くの人々はなびくのかと改めて思った。何と、人々は扇動されやすいことよ。その手法を明確に使っているのが、排外的なスタンスを鮮明にしているドナルド・トランプだ。彼は、人々が心の中で思っていても口に出せない様々な対象を攻撃し、人々の後ろめたさに正当性を与え、大衆の浅ましさを煽る。

共和党の大統領候補になってからも、トランプの扇動する発言は止まらない。人種差別的であり、排他的であり、人々の対立を煽る発言を繰り返す。僕はトランプが正式に大統領候補になったことに驚くしかないのだが、そこには彼を支持する多くの大衆がいるわけで、実際にはそのことに驚いている。正気とは思えない。トランプは様々なものを攻撃することで、自分たちが言いたかった本音を言ってくれていると思わせた。それによって、熱烈な支持を得ている。だが、その本音は欲求不満の酔っぱらいが、酒場で怒鳴り散らしている内容に等しい。「メキシコは犯罪者を送り込んでいる」「イスラム教徒はテロリストだからアメリカへくるな」など、まともな人間なら素面ではとても口にできない。

共和党支持者のクリント・イーストウッドは、「言葉を自粛する現状を打破した意味で、ドナルド・トランプを評価する」という本気なのか皮肉なのかわからないコメントを出したが、確かにイーストウッドの説には説得力があった。イーストウッドは、「人種差別的な言辞に神経質になりすぎたために社会は何かを失った」と言うのだ。それは日本でも同じだ。差別に神経質になりすぎたために、様々な言葉が使用禁止になった。いわゆる「言葉狩り」である。「盲縞」や「隠亡」という言葉が出るので、テレビで古典落語が演じられることはなくなった。それは差別問題の本質ではないと思うのだが、そんな表面をつくろうだけの社会なっているのは間違いない。イーストウッドは、トランプの暴言を支持することでそこを指摘したのだろう。

だが、それは一方でヘイトスピーチを繰り返して恥じないような人たちを作り出すことではないのか。あの「障害者は世の中に不要だ」と主張した大量殺人者のような考えを生み出すことになるのではあるまいか。「優生保護法」があった日本では、元々、そういう考えを抱く下地があった。事件の後、犯人の主張に「正論だ」とコメントする人間たちがネットに現れたという。人は、自分と違うものを排斥しようとする。それが様々な障害を持つ人たちや、社会的セイフティネットに頼らなければ生きていけない人たちを排斥するようになったら、社会はお終いだと思う。誰もが、多かれ少なかれ社会的な下支えがなければ生きていけない存在なのだ。自分だけは誰にも頼らず、自己責任で生きていると思っている人がいたら、それは大いなる勘違いである。人は社会的な存在だ。様々な目に見えない何かが、人々のつながりが、すべての人を支えている。

2016年9月 8日 (木)

■映画と夜と音楽と…741 恋する監督たち


【執炎/夜明けのうた/愛の渇き/あかね雲/心中天網島/shall we ダンス?/川の底からこんにちは/上海から来た女/アニー・ホール/カイロの紫のバラ】

●浅丘ルリ子を思い浮かべたのは倉本聰さんの最新刊を読んだから?

先日、ふっと「浅丘ルリ子が最も美しい映画は、『憎いあンちくしょう』から続く一連の蔵原惟繕監督作品かなあ」と頭をよぎった。突然のことで、何かから連想したわけでもない。なぜ、そんなことが浮かんだのだろう。先日、浅丘ルリ子が何十年ぶりかで、元夫の石坂浩二と共演すると何かの見出しを見たからだろうか。あるいは、倉本聰さんの「見る前に跳んだ」という最新刊を読んだからだろうか。浅丘ルリ子と石坂浩二が結婚するきっかけになったのは、倉本聰さんが脚本を書いたドラマで共演したからだった。倉本さんの初エッセイ集「さらば、テレビジョン」の中に、石坂浩二とふたりで浅丘ルリ子邸へ結婚の申し込みにいくエピソードがある。

蔵原惟繕監督の「憎いあンちくしょう」(1962年)に出演して、明らかに浅丘ルリ子は変わった。「銀座の恋の物語」(1962年)も蔵原監督で石原裕次郎と浅丘ルリ子が主演しているが、「憎いあンちくしょう」のヒロインはそれまでの待っているだけの女ではなかった。主人公(石原裕次郎)をコントロールしようとする女だった。彼女はきちんとした自我を持ち、意志が明確で、男に従属することなく、逆に男と対立する形で対峙しようとする。後の浅丘ルリ子のイメージは、この作品で固められた。それは、たぶん蔵原監督の功績だ。

次作の「何か面白いことないか」(1963年)は「憎いあンちくしょう」と同工異曲の作品で前作を越えることはなかったが、ここで蔵原監督は石原裕次郎を除いた、浅丘ルリ子の単独企画を立ち上げる。「執炎」(1964年)「夜明けのうた」(1965年)「愛の渇き」(1967年)の三本である。大人になった浅丘ルリ子でなければ、主演できないテーマの作品だった。「執炎」は浅丘ルリ子百本記念映画であり、彼女のために作られた作品だった。相手役は、まだそれほど俳優として知られていなかった伊丹一三である。「夜明けのうた」はアンニュイな雰囲気を漂わせ、「愛の渇き」は三島由紀夫原作を得て若い未亡人の性に対する悶えを描いている。

今から振り返っても、この時期の浅丘ルリ子は美の絶頂にあった。それは、おそらく蔵原惟繕監督が浅丘ルリ子に恋をしていたからだと思う。日活関係者の回顧エッセイによれば、現実に蔵原監督と浅丘ルリ子は恋愛関係にあったという。その情熱がスクリーンに定着されたのだ。僕にも憶えがあるけれど、男は恋する女を美しく写そうとする。ファインダーの中で演技をする女優が、自分に向かって愛の言葉を囁いている気になる。女優が美しく写されたいと思ったら、監督に自分を恋するように仕向けることだ。これは、蔵原監督だけではない。他の監督も、同じである。

蔵原監督作品で女優としての美しさを引き出され、さらに大人の女優としての演技に開眼した浅丘ルリ子は、その後テレビドラマに進出し、人気を博した。倉本聰さんの脚本だった「二丁目三番地」、原田芳雄と共演した「冬物語」や「愛について」などで、映画で培った演技力を見せつけた。彼女がテレビ界に進出したのは、日活がロマンポルノ路線になったことによるものだったが、テレビドラマに出ることで全国的に全世代的に名を知られ、彼女は日本を代表する女優のひとりになった。おまけに、あまりうまくはなかったけれど、「愛の化石」というヒット曲まで生まれた。

●監督と女優の夫婦がいくつも名作を作ってきた

女優に惚れて映画を撮る。あるいは、映画を撮っている間に女優に惚れるということはある。あの強面だった大島渚だって、女優である小山明子に恋をして、隠れて逢瀬を重ねながら、「日本の夜と霧」(1960年)や「飼育」(1961年)を撮っていたのだ。同じく松竹ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた吉田喜重監督は「秋津温泉」(1962年)で岡田茉莉子と出会い、その最良の演技を引き出し、美しさを描き出し、結婚後、松竹から独立した後は岡田茉莉子だけを描くために作品を作り続けたのではないかとさえ思える。吉田監督にとって、岡田茉莉子は永遠のミューズ(創造の女神)だったに違いない。

彼らと同じ世代の監督に篠田正浩がいる。岩下志麻は篠田監督の初期作品「夕陽に赤い俺の顔」(1961年)や「わが恋の旅路」(1961年)でヒロインを演じているが、「暗殺」(1964年)あたりから岩下志麻の顔が変わり、結婚後の作品「あかね雲」(1967年)や「心中天網島」(1969年)の頃にその美しさの絶頂を迎えている。特に、自分たちのプロダクションでアートシアター・ギルド(ATG)と組んで制作した低予算の実験的な作品だった「心中天網島」の岩下志麻は、遊女と商家の女将の二役を演じて女優としての頂点を極めた。ファインダーの中の妻を見ながら、監督は改めて恋をしていたに違いない。

監督が恋する視線で女優を見つめた作品は、相当に多いのではないか。実際に恋愛関係でなくても、あるいは現実の夫婦でなくても、多くの場合、撮影している間、主演女優に恋をしている監督はいるのではないか。それが作品の力になり、女優は美しく輝き、作品自体の質を上げている。そんな風に思える作品は、いくつもある。本来は女優ではなかったから、せりふまわしや演技はうまくなかったけれど、「shall we ダンス?」(1996年)を見たときに草刈民代の姿(特にダンスシーン)が美しく撮影されていることに驚いた。ダンサーだから立ち姿は凛として美しいのだが、その美しさが最も際立つように撮られていた。

だから、映画が公開された後、周防正行監督と草刈民代が結婚したニュースが流れたとき、「やっぱりな」と思ったものだった。その後、寡作な周防監督はあまり作品を撮っていないが、「ダンシング・チャップリン」(2011年)を見ても、「終の信託」(2012年)を見ても、草刈民代が周防監督にとってのミューズであることがわかる。ある意味では、監督と女優の幸せな関係なのかもしれない。

石井裕也監督の「川の底からこんにちは」(2009年)を見たとき、ヒロインを演じた満島ひかりが物語が進むにつれ、どんどん輝き始めたのには感心したものだった。「どうせ私はこんな女ですから----」と自分を卑下して生きているヒロインは、家出してきた故郷に帰り、実家の家業を継いで再興をはかる。コメディタッチで描かれるから、ヒロインはかっこわるいし、物事はなかなかうまく展開しない。それでも、次第にヒロインは輝き始めるのだ。この映画を見た後、石井監督と満島ひかりが結婚したことを知ったけれど、このときも「やっぱりね」と思った。

僕が満島ひかりに注目したのは、「愛のむきだし」(2008年)だった。その後、「川の底からこんにちは」が評判になり、テレビドラマで主演をするようになって顔を知られるようになった頃、彼女が結婚していることはあまり知られていなかった。その後、どうなのかなと思っていたところ、最近、離婚したという。石井裕也監督は「舟を編む」(2013年)「ぼくたちの家族」(2013年)「バンクーバーの朝日」(2014年)など、どの作品も好調だからいいのだけど、新しいミューズを発見することを願っている。

●アキ・カウリスマキはカティ・オウティネンに恋をしている?

女優に恋をするというより、愛した女優を使わずにいられないらしい恋多き(要するに女好き)監督クリント・イーストウッドは、一時期、愛人のソンドラ・ロックばかりをヒロインにした。ソンドラ・ロックはカーソン・マッカラーズの小説「心は寂しい狩人」を映画化した「愛すれど心さびしく」(1968年)の聾唖の青年の生きるよすがになっていた寂しい少女役で僕の記憶に残っていたが、イーストウッドの「アウトロー」(1976年)で開拓者一家の娘を演じ、「ガントレット」(1977年)では一転して勝ち気な娼婦を演じた。さらに「ダーティファイター」(1978年)「ブロンコ・ビリー」(1980年)と続く。イーストウッドと最後の共演になったのは、「ダーティーハリー4」(1983年)だった。

一時期、本妻のマギーの家を出たイーストウッドとソンドラ・ロックは一緒に暮らしていたようだが、結局、最後は裁判沙汰になって別れた。ある本によると、ソンドラ・ロックは回顧録などを絶対に出さないという条件で、高額の和解金を受け取ったという。そんな話を聞くと、ちょっとさみしい。イーストウッドは、「許されざる者」(1992年)で娼婦たちの中の姐的な役を演じたフランシス・フイッシャーとの間に娘が生まれたり、その後、別の女性と結婚して子供をもうけたり、老境に入ってもいろいろと忙しい人生を送っている。若い頃から健康オタクだから、まだまだ新作が期待できるし、最新作「ハドソン川の奇跡」(2016年)も公開になった。

「ギルダ」(1946年)で有名なリタ・ヘイワースと恋をして結婚したのは、オーソン・ウェルズだった。アメリカの男たちの羨望の的だったに違いない。そのリタ・ヘイワースをヒロインにして、オーソン・ウェルズはフィルム・ノワールの傑作「上海から来た女」(1947年)を撮っている。主人公の船員をオーソン・ウェルズ自身が演じ、彼を誘惑し人生を狂わせる人妻をリタ・ヘイワースに演じさせている。もしかしたら、美しい人妻に惑い、疑い、振りまわされる主人公はウェルズ自身の思いなのだろうか。どちらにしろ、この映画でもリタ・ヘイワースは美しい。

恋する相手をヒロインに起用して、彼女の代表作を作ってしまうのは、やはり恋多き監督ウッディ・アレンだった。「アニー・ホール」(1977年)はダイアン・キートンの代表作であるし、「マンハッタン」(1979年)も忘れがたい。その後、ウッディ・アレンはミア・ファーローと恋に落ち、彼女の代表作「カイロの紫のバラ」(1985年)を作る。もっとも、その後、ウッディ・アレンとミア・ファーローも泥沼の訴訟合戦に陥ってしまう。恋をして蜜月時代があり、やがて情熱が冷めて憎み合い、最後は訴訟になるというケースは多いのだろうが、その結果、彼らは二度と一緒に映画を作らない。

そんなことと無関係なのは、アキ・カウリスマキとカティ・オウティネンである。ふたりがどういう関係なのかは知らないが、少なくともカウリスマキ監督は映画を撮るときにはカティ・オウティネンに恋をしていると思う。「パラダイスの夕暮れ」(1986年)から始まり、「マッチ工場の少女」(1990年)があり、「浮き雲」(1996年)があり、「過去のない男」(2002年)があり、「ル・アーヴルの靴みがき」(2011年)がある。三十年間、カティ・オウティネンはカウリスマキ作品のヒロインを演じ続けてきたのだ。カティ・オウティネンの出ないカウリスマキ作品なんて、考えられないじゃないか。決して美人ではないカティ・オウティネンだが、作品の中で彼女は輝き、美しい。あれは絶対、恋する監督の視線で描かれているからに違いない。

2016年9月 1日 (木)

■映画と夜と音楽と…740 男たちよ、幻想を棄てなさい


【リップスティック/八月の濡れた砂/告発の行方/ザ・レイプ】

●高畑淳子は香川県出身なので田舎の人間は肩入れする

高畑淳子は香川県の出身なので、こちら(高松)でも息子の事件で大騒ぎになり、僕の母などもひどく気の毒がっている。「あの人、香川県の出身やのに」と言う。そのことと今度の事件と何の関係がある? と思ったが、田舎の人間はそれだけで肩入れする。僕が高畑淳子が香川県出身だと知ったのは、七、八年前、「高松純情シネマ ほっこまい」という映画を新宿に見にいったときだった。「高松純情シネマ ほっこまい」は「さぬき映画祭」で優秀脚本賞を受賞し映画化されたもので、その監督をした高嶋弘さんから上映案内メールをもらったからだった。

その映画は高松でロケされていたし、高畑淳子が出演していたし、僕が高校三年生のときに軽音楽同好会に一年生で入ってきた藤原くんが出ていた。藤原くんは、今はプロのミュージシャンとして活躍している。僕も彼のベース・デュオのジャズCDを購入したことがある。上映が終わって高嶋監督と話をしていると、監督が僕の高校の三年後輩であることがわかった。僕が三月に卒業した後の四月に入学したので、重なってはいない。そのときに、「高畑も同級なんです」と教えてもらった。彼女は同級生の映画への友情出演だったのだ。高校生のときから「私は女優になる」と言っていたらしい。その後、彼女は中学も僕と同じだとわかった。桜町中学という優雅な名前の学校だった。

ただ、高畑淳子という女優はテレビ出演が中心なので、ある時期まで僕はあまり注目していなかった。昔、「金八先生」に出ていた記憶があるが、演技をきちんと確認したのは久しぶりに見た大河ドラマ「篤姫」の姑役だった。何だか騒がしい芝居をする人だなあという印象である。僕はあまりテレビを見ないので、高畑淳子の息子もほとんど知らなかった。事件を起こしてドラマが撮り直しだというので、「そんなに売れていたんだ」と初めて知った。写真を見ると、母親に似ている印象があった。こんな事件で知るのは、なんだかなあ、という感じである。

それにしても、ニュースを見ると大騒ぎになっていて、高畑淳子も親として謝罪会見を開いた。高畑淳子には同情が集まるだろうが、こんなにマスコミに騒がれると「強姦致傷」事件の被害者のことが気になった。相手が高畑某でなければ、新聞のベタ記事ですんだろう。注目されることもなかっただろうに、ネットでは興味本位のツィートなどが盛んらしい。まったくの別人だったらしいが、被害者の写真も流れたという。二十二歳の犯人に対して「四十代の女性」と報道されていたので、「四十代でもこんな美人だったら俺も----」という心ないコメントもあったらしい。

そんな騒ぎを見ていたら、「セカンド・レイプ」という言葉を思い出した。僕の記憶ではアメリカ映画「リップスティック」(1976年)が女性の側からレイプを描いた最初の作品だと思う。レイプをテーマにしていること、主演が文豪ヘミングウェイの孫娘であること、ラストが衝撃的であることから、当時、日本でも大きな話題になった。その中で、相手を告発したヒロインが裁判で被告側弁護士から追い詰められたり、陪審員に事件当時の状況を再現したりすることで再び傷つけられる「セカンド・レイプ」という言葉も知られるようになった。

●大騒ぎになり被害者はセカンドレイプに晒されるのではないか

興味本位な目で見られる性犯罪だから、被害者なのに落ち度があったように言われたり、被害者になったのが恥ずかしいことのように思われたりする。だから、被害者が告訴しなければ加害者が起訴されない強姦罪(強姦致傷になると被検察判断で起訴できるらしい)では、泣き寝入りする被害者も多いと聞く。しかし、最近、性犯罪に対する目が厳しくなっているし、勇気を出して相手を告発する女性も多くなってきたという。セクシャル・ハラスメントに対する意識もそうだが、フェミニズムの闘いが少しは浸透してきたのかもしれない。

先日、久しぶりに「八月の濡れた砂」(1971年)を見ていて、レイプ(僕は"強姦"という字に抵抗があり、レイプと書くことが多い)に対する社会的意識がずいぶん変わったなと実感した。四十年前のこの映画では性的に早熟な高校生(村野武範)と童貞の高校生(広瀬昌助)が出てきて、青春期の焦燥や社会に対する反発が性的なものを通して描かれる。冒頭、広瀬昌助は大学生四人に輪姦された後、浜辺に放り出される少女(テレサ野田)を助けるし、ラストはふたりの少年がヨットのデッキで少女の姉(藤田みどり)をレイプする。少女の姉は彼らが反抗する大人たち(俗物)の代表として描かれ、レイプにある意味を付与していた。

広瀬昌助はテレサ野田と親しくなるが、少女がレイプされたことにこだわり、義姉(懐かしの八木昌子)に「女の人って無理矢理やられて、相手を好きになることってある?」と訊いたり、少女と泳いで沖に出たとき「やられたときのこと、憶えてるか。俺、まだこだわってんだ」と言ったりする。これは、当時(今でも?)の男たちの意識をそのまま表したセリフだと思う。レイプに対して男たちの罪の意識が薄いのは、「女も楽しんだろ」という気持ちがあるからだ。今回の高畑某もレイプした後、自室のベッドで寝ていたという。朝になって警官がやってきて、初めて犯罪だったと自覚したのかもしれない。

この「レイプで女性も歓んでいる」というバカな意識は男には根強くあって、自分がレイプするときは相手を歓ばしていると思い、「スローなブギにしてくれ」の主人公のように自分の恋人がレイプされると「感じたか。感じたんだろ」と言って責めるのだ。これは、昔からポルノグラフィーやエロチックなシーンが多発する小説(たとえば昔の西村寿行や大藪春彦のアクション小説。なぜかふたりとも香川県出身)、ポルノ映画やアダルトビデオではイヤになるくらい描かれてきた幻想だ。下世話な言い方だが、「やってしまえば、女は服従する」という幻想を男たちに植え付けてきた。マッチョな男たちは、特にそんな意識が強い。

僕には、イヤな記憶がある。小学生の頃だった。テレビで松本清張原作の連続時代劇が放映され、遅い時間だったが僕はずっと見ていた。主人公は明朗闊達な正義の若侍。彼を慕う可憐なヒロインも登場した。ところが、卑劣で世渡りのうまい武士がいて権力に取り入り、ヒロインを無理矢理に犯してしまう。犯されたヒロインは主人公を慕いながらも、犯した男に惹かれ彼の手先になるのだ。五十年以上たった今も僕はそのことが許せず、その色悪的な武士を演じた津川雅彦(だったはず)が好きになれないし、「女はやってしまえば服従する」とうそぶくバカな男が大嫌いだ。

そうした男たちの「いい気なもんだ」的思い込みを打ち砕いたのが、「リップスティック」だった。ヒロイン(マーゴ・ヘミングウェイ)は、突然レイプされ、相手を告訴する。しかし、被告側弁護士はヒロインが誘った、あるいはそんな素振りを見せたと主張する。彼女の過去の男性との性関係を暴露し、ふしだらな女のイメージを陪審員に植え付ける。結局、「少々乱暴にセックスしたけど、女が誘ったと思えるところもあったし、男がそうなるのも無理ないね」という判断(アメリカではレイプが多いらしい。男の欲望に寛容なのか?)になり、男は無罪。しかし、その後に取ったヒロインの行動が男たちにショックを与えた。僕は男だけれど、この結末には「ざまーみろ、勘違いしてると痛い目に遭うよ」と思ったものだった。

●ジョディー・フォスターが演じたレイプされたふしだらな女の真実

女性の側からレイプという卑劣な犯罪を描くときは、どうしても「リップスティック」的な展開になる。十二年後の映画だが、この作品でアカデミー主演女優賞を受賞したジョディー・フォスターと、「トップガン」「刑事ジョン・ブック」のヒロインを演じたケリー・マクギリスが競演した「告発の行方」(1988年)も、レイプか同意があった性行為かが裁判で争われる。「リップスティック」から十二年経ったな、と思わされるのは、ジョディー・フォスターが扇情的なシーンを演じ、それによって酒場の男たちが次第に興奮していくのを正面から描いていることだった。

地方検事補(ケリー・マクギリス)は、レイプ事件を担当する。酒場で女性(ジョディー・フォスター)が三人の男に性的暴行を受けたというのだ。調べていくと、状況は被害者に不利なことばかり。女性はかなり酔っていたうえ、マリファナもやっていた。性的にはふしだらなイメージのある女性だった。男たちは「誘われた。同意があった」と主張し、裁判に勝ち目がないと判断した彼女は、過失傷害で司法取引に応じてしまう。しかし、被害者のジョディー・フォスターは検事補を非難し、あくまで男たちによるレイプだったし、男たちをけしかけた酒場の客たちも教唆した罪があると告発する。インテリの女性と崩れた女性、ふたりの対立と共闘が印象に残っている。

日本でフェミニストの立場からレイプを告発してきたのは、僕らの世代にとっては「レモンちゃん」こと落合恵子だった。「リップスティック」公開の数年後、作家になった彼女は「ザ・レイプ」という作品を上梓する。この本は話題になり、東陽一監督が映画化した。「ザ・レイプ」(1982年)は、人気女優だった田中裕子主演だった。セクシーさでは売っていなかった田中裕子(NHKテレビ小説「マー姉ちゃん」の長谷川町子役ですからね)だけど、ポスターでは薄物だけを羽織った姿でがんばっていた。この映画もレイプで加害者を告訴したヒロインが逆に苦境に立つという展開で、先行作品と同じ展開だった。

しかし、犯罪被害者が、それが犯罪だったことを証明しなければならないというのは、一体どういうことだろう。今回の高畑某の事件が起訴され裁判になった場合、これだけ注目されているのだからマスコミがまた群がるだろう。興味津々で裁判を傍聴するだろう。そのとき、逐一具体的に事件の状況が証言され、再現される。被害者は多くの人目に晒される。落合恵子は、「セカンド・レイプ」(1994年)という本も出版している。もう二十年以上前のことだ。しかし、世の中はほとんど変わっていない。男たちは、「イヤよイヤよもイイのうち」とか「イヤよイヤよと帯を解き」的な幻想を棄てなければならない。イヤなものは、イヤなのだ。強制的に暴力的に性行為を迫るのは、卑劣な犯罪なのだと自覚しなければならない。

2016年8月25日 (木)

■映画と夜と音楽と…739 故郷の訛もいつしか消えた



【青春デンデケデデケデケ/父と暮せば/細雪/悪名/仁義なき戦い/青葉繁れる/祭りの準備】

●長い東京暮らしでディープな讃岐弁に反応できなくなった

実家の両親は今年そろって九十一なのだが、まだまだ元気で自分たちのことは自分たちでしている。なまじ手伝おうとすると、嫌がられてしまう。それはそれでありがたいことなのだが、具合が悪くなっても自分たちで始末しようとするから心配になることもある。先日、母親の足の具合が悪くなり、父が代わって食事の支度をしていた。その翌日、今度は父親が高血圧で起き上がれなくなった。そこで、僕は夕食のおかずを作りタッパーウェアふたつに詰めて届けたのだが、母親は「食べるもんは、ようけあったんや/食べるものは、たくさんあったのよ」と、あまりありがたがらない。「まあ、そのうち食べて」と言いおいて冷蔵庫にしまい、「フン、何だよ」と思いながら(?)裏の家に帰った。

毎日、午前中に一度は実家に顔を出すようにしている。実家の二階には兄夫婦が同居しているので心配はしていないが、やはり一度は様子を見ておきたいのと、新聞を読むのも目的のひとつだった。ひとり暮らしを始めてから、僕は新聞を取っていないのだ。それに、今では実家の猫の散歩につきあうのも日課になった。だから、その翌日にも僕は実家に顔を出し、両親の様子を見てから新聞を読み、猫と戯れ、帰ろうとした。そのとき、母親が「ものご、持っていにまい」と讃岐弁で言った。四十五年間の東京暮らしのせいか、僕は瞬間的に「ものご」という言葉に反応できなかった。一瞬後、「ああ、タッパーウェアのことね」と思った。「ものご」とは「入れもの」のことだ。「入れものを持って帰りなさい」と母は言ったのだ。「いぬ/帰る」「いね/帰れ」「いにまい/帰りなさい」となる。

少し前から琴平電鉄(通称コトデン)が車内や駅で「讃岐弁マナーキャンペーン」というものを展開している。「せっとるけん、こんもにして/混んでいるので(音量を)小さくしてください」とか、「おっりょんのに/降りているのに」とか、「ぐるり見てんまい/周りを見てごらんなさい」といった讃岐弁のコピーにイラストを添えて、車内マナーを教えるポスターが貼られている。僕は電車に乗るたびにしみじみと眺めるのだが、中には「こんな讃岐弁あったかな?」と思うものもある。以前にも書いたが、「青春デンデケデケデケ」は讃岐弁で会話が書かれ、その後に標準語の翻訳がついた小説で話題になった。作者の芦原すなおさんは、香川県の西部、いわゆる西讃の出身だと聞いた。

「青春デンデケデデケデケ」は文芸賞を受賞して、そのまま直木賞を獲得したと思う。団塊世代の青春物語で、ベンチャーズのエレキサウンドに雷に打たれたようにいかれてしまった主人公が、仲間を集めてバンドを結成する物語だ。僕も世代が近いのと、似たようなことを高校時代にやっていたので、共感した部分も多かった。大林宣彦監督が映画化(1992年)し、香川県でロケをした。大林監督は尾道出身なので、瀬戸内海を挟んだ四国の青春に興味があったのかもしれない。映画は異常に細かいカット割りと、やはり讃岐弁が特徴だった。母親役の根岸季衣が「しゃんしゃんしまい/さっさとやりなさい」と言ったのをよく憶えている。

しかし、原作を読んだとき、僕は「こんな讃岐弁、使わないぞ」といくつか違和感を持った。まず、最初の章のタイトルにもなっている「どんどろはん」である。「雷」のことを指すのだが、「どんどろはん」なんて聞いたことがない。それに「あんじゃるい/気持ち悪い」という言葉もよく出てくるのだが、僕は言ったことがないし聞いたこともない。僕の両親は東讃の出身だし、僕も高松市内で育ったが、高松はどちらかと言えば東讃地区になるのではなかろうか。「どんどろはん」という言葉を聞いたのは、井上ひさしの戯曲「父と暮せば」を黒木和雄監督が原田芳雄と宮沢りえで映画化(2004年)したときだった。広島弁では、雷のことを「どんどろはん」と言うらしい。

●井上ひさしは方言にこだわった作家だった

井上ひさしは、言葉にこだわった作家である。本人が東北の出身だったからだろうか、方言にこだわり様々な作品を残した。代表的なのは「吉里吉里人」だろうか。「吉里吉里語」というものを作ってしまった。「父と暮せば」も、すべて広島弁で会話が進む。井上ひさしと方言で思い出すのは、NHKで何回か放映した連続ドラマ「国語元年」である。明治維新、東京には様々な地方人が集まる。新政府の中心は、薩摩と長州だから薩摩弁と長州弁が飛び交う。そこに会津弁やら江戸弁が加わる。その当時、江戸人は薩摩弁を理解し得たのだろうか。たとえば歯切れのいい江戸弁を喋る勝海舟と薩摩弁の西郷隆盛が、江戸城明け渡しをめぐって会談したとき、現在のプーチンと安倍の会談のようにそれぞれに通訳が必要だったんじゃないだろうか。

会津藩は京都守護職を命じられ、さらに新撰組のパトロンになり、尊皇攘夷の浪士を取り締まり斬りまくったから官軍に憎まれ、戊辰戦争で徹底的に攻められ、白虎隊の悲劇なども生まれた(今も会津人は長州・薩摩を敵と思っているらしい)が、そもそも薩摩や長州の人間の言葉は理解しにくかったのではないか。会津弁も独特の訛があり、特に西の人間には通じにくかったかもしれない。「国語元年」には会津弁を喋る佐藤慶が出てきたが、彼は会津出身で普段の会話のときには会津弁の訛があったと聞いたことがある。百五十年前、ネイティブな会津弁スピーカーと生粋の薩摩弁スピーカーが初対面で会話して、コミュニケーションが成立したとは、僕には想像できない。

「メジャーな方言」というのは概念矛盾だと思う。しかし、関西弁は今や誰でも知っている言葉なのだけど、標準語からすれば方言扱いになる(?)。正確には大阪弁というべきだろうと思うが、その中には船場言葉もあれば、河内弁もある。船場言葉が聞けるのは、市川崑が監督した谷崎潤一郎の「細雪」(1983年)だ。「こいさん、たのむわ」という冒頭の言葉で、その世界に入ってしまう。河内弁が聞けるのは、勝新太郎と田宮二郎がコンビを組んだ「悪名」(1961年)シリーズである。昔、僕は今東光の原作小説を読んだのだが、主人公の朝吉はもっとバカなチンピラだった気がする。確かに河内弁で全編貫かれていて、独特の雰囲気を醸し出していた。

大阪・京都はかつて日本の中心だったので、京都弁も方言という気はしない。明治維新以降、方言で有名になったのは、南から見ていくとやはり「ごわす」の薩摩弁、「おまえくさ」の博多弁、「おえりゃせんのう」とか「ぼっけえきょうてぇ」の岡山弁、夏目漱石の「坊ちゃん」のおかげで何とか名を残す愛媛弁、夏目雅子の「なめたらあかんぜよ」の啖呵で有名な「鬼龍院花子の生涯」(1982年)のおかげで全国区になった土佐弁、近畿地方はとばして、語尾が「だぎゃあ」と聞こえる名古屋弁、関東はとばして、東北弁、中でも「津軽じょんがら節」(1973年)などの情緒にあふれた津軽弁が人気があるようだ。

振り返ってみると僕は様々な映画のおかげで、けっこう方言に詳しくなった。中でも映画が有名にしてしまった方言は、広島弁ではないだろうか。「仁義なき戦い」(1973年)シリーズで有名になった広島弁は、日本中のやくざがあんなしゃべり方をするのではないかと錯覚を起こさせる。「わしゃあよう」と語りかけ、「じゃけんのう」で終わる。あれは、第一作の舞台になった呉の言葉ではないのだろうか。だいたい「たま、とっちゃるけんのう」というのは、正式な(?)広島弁なのだろうか。しかし、「父と暮せば」の広島弁と共通している言葉も多いので、広島のネイティブ・スピーカーはあのように話しているのかもしれない。

●讃岐弁の用例を少しずつ採取し始めたのだけど----

高松で生活するようになって、少しずつ讃岐弁の採取を始めた。ノートにメモ程度に書くくらいだが、始めてみると「そうそう、昔、こう言っていたな」と懐かしい。讃岐弁は方言の中でもマイナーで有名ではないが、そこで育った人間には大切なものだ。東京あたりでは語尾に「ね・さ・よ」をつけることが多い。「あのね」「あのさ」「あのよ」という具合だ。讃岐弁では、それが「の」になる。「あんの」「ほいでの」という使用例が散見される。昔、東京からきた気取った転校生が「言葉が汚い」と作文に書いていた。確かに、語尾に「の」をつけると何だか濁った感じになる。

先日、街角で「まっついや」という言葉を耳にした。「ついや」と僕も言っていた。「同じ」という意味である。「ついや」とは「同じである」になり、「まっついや」は「まったく同じである」という意味だ。おそらく「対(つい)」からきたのではあるまいか、と僕は推理している。また「さら」という言葉がある。「新しいもの」あるいは「新品」のことである。「まっさら」とは、「まったくの新品」という意味だ。それから類推すると「まっ」が頭につく場合は「強調」なのだろう。標準語では「真っ白」という言い方があるから、この場合の「まっ」は「真」ではないのか。「真に同じである」あるいは「真に新品である」が、讃岐弁では「まっつい」「まっさら」となるのではないか。

まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか、という人は多いと思うけれど、何となくそんなことを考えているのは楽しい。今は、「こすい」とか「へらこい」、あるいは「がち」という言葉の発生について興味が湧いている。「こすい」とは「ずるい」に近いが、少しニュアンスが違う。標準語でも「こすっからい」という言葉がある。「がめつい」(これも「がめつい奴」という芝居で有名になった関西弁)という意味も少し入るのではないかと思う。「へらこい」は「欲張っている」というニュアンスに、「汚い、卑劣」という意味が加わった讃岐弁だろうか。「へらこげな奴」「こすげな奴」と香川県で言われたら、絶対に怒らなければいけない。

「がち」は、どう説明すればいいだろうか。「がちげにせんの」と子供の頃に食べ物を前にしてよく叱られたものだ。そのシチュエーションから類推すると、「餓鬼」という言葉が浮かんでくる。「腹ぺこで、待ちかねて食べ物に群がる餓鬼」のイメージである。それから推察して「がちげにせんの」を翻訳すると、「腹ぺこの子供が食べ物に群がるような浅ましい真似はしないのですよ」という意味だろうか。しかし「がち」の語感と「餓鬼」はかなり違う。「がちんこ」とか「がちで」と最近はテレビでも使われるが、あの「がち」とは違うと思う。そんなことを考えていると、謎は深まるばかりである。

「青春デンデケデケデケ」のように地方の青春を描くとき、方言は大事な要素になる。たとえば井上やすしが仙台での青春を描いた「青葉繁れる」(1974年)を岡本喜八監督はいきいきと映画にしたし、昭和三十年代に土佐中村の近くの漁村でシナリオライターを夢見る青年を描いた、中島丈博のシナリオを黒木和雄が監督した「祭りの準備」(1975年)など、方言の会話がいっそうの効果を上げた。方言が表わす地方性が、よけいに切なさを漂わせる。地方から上京して夢を叶える、というベクトルが働いていた時代が確かにあった。それは、僕が上京する頃(1970年)にも残っていた。しかし、上京して方言の訛が失われていくことが、彼ら(僕を含めて)の「ある人生」を象徴していたのではないだろうか。

2016年8月18日 (木)

■映画で振り返る昭和の日本  未亡人の時代・後編



お盆時期は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■女性映画の巨匠----------------------------------未亡人の時代・後編

もう一本の未亡人が主人公の「鰯雲」は昭和33年9月の公開ですから、かなり現代に近い感覚があります。「おかあさん」から6年、映画はカラーのワイド版ですし、かなり時間がたった気がします。冒頭、新聞記者の「ご主人は戦争で?」という質問に、「ええ」と答える淡島千景に戦争の傷跡を感じますが、それ以降は戦争の影をほとんど感じません。世の中は未来に向かっているという雰囲気だったのでしょうか。

その年、すでに東京タワーが建設中ですし、野球では西鉄ライオンズの黄金時代でした。昭和31年から33年にかけて、日本シリーズでジャイアンツ相手に三連覇。三年連続で日本一になっています。監督は高松中学出身の三原侑です。クリーンアップは、豊田、中西、大下です。ちなみに私の小学生の同級生に中西太の甥がいました。昭和33年10月の日本シリーズで、西鉄は前半の三連敗から四連勝を果たして三連覇を達成しました。「神様、仏様、稲尾様」と言われたときです。

本田スーパーカブが発売され、フラフープが流行します。日清食品から「即席チキンラーメン」が発売になったのも、昭和33年8月25日ですから「鰯雲」公開の一週間前ですね。一食35円でした。翌年には年間6000万食が生産されました。冷蔵庫も一般家庭に入り始めたのか、この年、冷蔵庫用脱臭剤「キムコ」が発売になっています。

また、缶ビールもこの年の9月15日に初めて発売になりました。スチール缶使用の「缶入りアサヒ」です。プルトップ式の缶が出るのは昭和40年ですから、まだ七年後です。したがって、穴開けの道具が必要でしたが、アウトドアでもビールが飲めるようになり、画期的な出来事でした。350ミリリットル入り75円でした。

そういったことからわかるように、人々の生活は落ち着き経済的にも余裕が出てきます。そんな時代を背景にして作られた「鰯雲」は、東京近郊である神奈川県厚木を舞台にしています。今の厚木市は東京や横浜などに通勤する人たちのベッドタウンです。当時は農地ばかりでしたが、駅前に商店街があり、映画館や新聞社の支局があるような町でした。そうした風景も「鰯雲」に出てきます。

原作は和田傳の農民文学です。それを橋本忍が脚色しました。ヒロインは戦争で夫を亡くし、長男をひとりで育てている農婦です。口うるさい姑がいます。彼女の実家、本家は兄の中村雁治郎が継いでいます。戦前は地主でしたが、農地改革で田畑を減らされ、経済的には厳しい状態です。本家には跡継ぎの小林桂樹、次男で商業学校を出て銀行勤めの太刀川寛、その下に男が二人と女が二人という大家族です。

雁治郎は若い頃は家長の父親に逆らえず、最初の妻は働きが悪いと追い出され、二度めの妻も同じように追い出されてしまい、今は三度めの妻・清川虹子です。戦前、農家の嫁は貴重な労働力だったので、俵も担げない、苗も植えられない嫁は実家に返されることもあったらしい。

そんな父親の時代と、昭和33年当時の長男の結婚観の違いが描かれます。長男の小林桂樹が司葉子と見合いをし、結婚することになるのですが、みっともないことはできないと金もないのに見栄を張ろうとする雁治郎に対して、若い二人は友人たちを招いて会費制で披露宴を開こうとします。

ヒロインの淡島千景は女学校を出たしっかりした女性で、本家の兄の古い考え方と若い甥たちの考え方の両方が理解できます。自らトラクターを使い農地を梳き、経済的には彼女がひとりで支えているのですが、姑に仕えるつらさも知っています。そんな彼女は新聞記者・木村功が農家の実態を取材にきて知り合い、不倫関係になります。

淡島千景の女学校時代の友人で厚木駅前に料亭を出した新珠三千代は、店も繁盛しているしパトロンもいるので優雅に暮らしています。パトロンが設立した自動車教習所に通って免許を取り、まだ数少ない自家用車を乗り回しています。当時、女性ドライバーはまだ少ないのですが、数年後には「一姫、二トラ、三ダンプ」と言われる交通戦争の時代になります。

「鰯雲」は旧世代と新世代、戦前の制度やモラルと戦後の改革や新しい考え方が対立し、世代間の違いが描かれます。遺産相続、舅・姑の老人問題、結婚観、男女関係などです。分家のひとり娘・水野久美が大学へいくという話を聞いた本家の雁治郎が、分家の親に怒鳴り込むシーンがあります。「大学出の娘のところに婿にくる男はいない。おまえたちは百姓をやめるつもりか」というわけです。結局、本家のクレームで娘は大学をあきらめて洋裁学校に通います。

そんな風に今から見れば、とんでもなく封建的かもしれませんが、映画の中では民主主義や個人主義といった戦後の価値観にとまどう旧世代が存在します。今の目で見ればまだまだ戦前のモラル、「個人」ではなく「家」という考え方が強い時代だったと思えますが、現代のモラルが戦後十数年のこの時代あたりから定着してきたのがわかります。

明らかに、戦後は終わっています。映画の中に田圃の真ん中を走る小田急のロマンスカーが映ります。時代は豊かになり始めていたのです。雁治郎にしても、今は農地が削られて経済的に厳しいかもしれませんが、もうしばらくすれば農地を宅地に売って、土地成金になれるはずです。

さて、この映画の冒頭は新聞記者の木村功が淡島千景に農家の現状を取材するシーンです。成瀬映画らしく、具体的な数字が羅列されます。時代的なものがよくわかりますから、その部分を拾ってみました。

木村「養鶏の方は?」
淡島「卵は安くなりましたから、今はもう50羽ほどしか飼っていないんです。月3000円にもなるかしら」
木村「卵も我々買うものの身になると安くないんだが。米が16万8千円、麦と畑もので15万円、養鶏が年に3万から4万として、一年間の収入は35万8千円になりますかね」
淡島「そんなに?」
木村「大ざっぱな計算ですがね。米が七反、畑が五反、合計一町二反の農地を持っていると、だいたい3万程度の月給取りということになりますね。くいっぱくれはないし、こりゃ、割といいですね。」
淡島「そんな計算は無茶だわ。収入だけで、それに伴う支出がないんだもの」

淡島千景は経費・コストが計上されていないこと、農家の労働がいかに大変かを語ります。また、農家の嫁にきてがいないこと、自分の娘だったら農家などには嫁がせないといったことを言います。すでに、そういう時代になっていたのですね。

この当時の大学卒の初任給は、13,000円前後だとのことです。はがきは5円、かけそばが25円、映画の封切りが150円でした。「鰯雲」の中で本家の次男と分家の娘が映画館に入りますが、かかっていたのはスタンリー・キューブリック監督の「現金に体を張れ」でした。この年、映画館の観客動員数は、11億2700万人でした。ほぼ、毎月、全人口が映画を一本見ていたわけです。結局、その年がピークになり、翌年から次第に観客動員数は下がり続けます。

2016年8月11日 (木)

■映画で振り返る昭和の日本----未亡人の時代/前編


お盆時期は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■女性映画の巨匠----------------------------------未亡人の時代・前編

未亡人という言葉は、「夫が死んだときに一緒に死ぬべきだったのに、未だに死んでいない人」という意味なので、現在、あまり使われなくなっている言葉ですが、今回は昭和の古い時代を検証するために「未亡人の時代」と題して、女性映画の巨匠と言われる成瀬巳喜男監督作品を中心にお話したいと思います。

戦後の成瀬作品は、未亡人を主人公や脇役に設定することが多くなりました。女性映画の成瀬と言われますが、内容は「自立する女性」「女ひとりで生きていく女性」を多く描いた監督です。本日、メインで取り上げようと思っている「おかあさん」では田中絹代は途中から未亡人になりますが、妹の中北千枝子は大陸からの引き揚げ者で戦争未亡人です。

時代的には戦争未亡人が多くいた時代ですから、そうした人物が頻繁に登場します。昭和28年(1953年)公開の「妻」という作品にも、主人公の上原謙が心惹かれる女性は戦争未亡人です。「川端康成の時代」の時に取り上げた「山の音」でも、主人公の息子の上原謙の愛人は戦争未亡人でした。ふたりの戦争未亡人が助け合うように一緒に住んでいます。ひとりは洋裁で身を立て、ひとりは子供たちに勉強を教えて生計を立てています。

そんな風に成瀬監督は、ひとりで生きていく女性を描きました。時代のせいか、未亡人の設定が多い。昭和26年の「銀座化粧」の田中絹代はバーのママとして生きている。成瀬作品で最も多く主演した高峰秀子は、昭和35年「女が階段を上がる時」では銀座のバーのママ、昭和37年「女の座」では雑貨屋の長男の未亡人、昭和38年「女の歴史」では美容院を経営する戦争未亡人、昭和39年「乱れる」は食料品店の長男の未亡人、というように夫を亡くした女性を演じます。成瀬映画で、一本だけ主演した淡島千景も司葉子も夫と死別した女性でした。

今回は、昭和27年6月12日公開の「おかあさん」と昭和33年、1958年9月2日に公開になった淡島千景主演の「鰯雲」の二本を見ながら、昭和の日本を振り返りたいと思います。

「おかあさん」が公開された昭和27年6月は、日本が講和条約を結んで、独立したばかりのころでした。その年の4月28日に占領が終わったわけです。6年8ヶ月におよぶ占領時代でした。その日までGHQの許可なく国旗を揚げることはできなかったのですが、その日は堂々と各省庁に国旗が掲揚されました。恩赦もあり、全国の受刑者3600人が出所しました。ただし、今に続く問題ですが、多くの基地が残され、日米地位協定に様々な条件がついたこともあり、多くの国民は「形式だけの独立」と失望したと言います。

一方、沖縄は「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治下」におかれたままです。「国際社会に復帰した祖国日本の慶事を、われわれ琉球人民は無量の感慨をこめて祝福したい。それにしても取り残された嘆息が深く、もがいたところでどうにもならぬあきらめが、われわれの胸を締め付ける」と、当時の「沖縄タイムズ」は書きました。今に続く沖縄の思いですね。

その三日後、昭和27年5月1日は「血のメーデー」事件が起こります。吉田内閣は、皇居前広場を中央メーデーの会場にすることを禁止しますが、メーデー主催者の総評は不許可は憲法違反として地裁に取り消しを求める訴訟を起こします。東京地裁は4月28日、総評の主張を認める判決を下しました。国は控訴し、やむを得ず明治神宮外苑広場を使ってメーデーが開催されますが、デモの後、学生などが警官隊をおしきって皇居前広場に入ります。それを阻止しようと警官隊は催涙弾や拳銃を発射し、デモ隊に死者2名、負傷者約1500名が出る惨事になりました。

この頃、ラジオドラマ「リンゴ園の少女」が美空ひばり主演で放送され、その挿入歌「リンゴ追分」がヒットしました。5月にレコードが発売され、またたく間に70万枚が売れたと言います。その頃になると、レコードを買う余裕も一般的に出てきたのでしょう。戦争から七年、朝鮮戦争で景気はよくなっていました。ただ、まだまだ戦争の傷跡は残っています。「おかあさん」公開の同じ日に、戦後、インドネシア独立戦争に参加した残留元日本兵・軍属20人がスマトラから帰国しています。

「おかあさん」という映画は、森永製菓が全国に「おかあさんをテーマにした綴り方」を募集し、そこで選ばれた作品を元に水木洋子が脚本を書いたものです。ですから、長女役の香川京子の作文を読み上げるようなナレーションで、一家が紹介されるシーンから映画は始まります。力持ちのお父さん、働き者のお母さん、胸を患っているお兄さん、おしゃれ好きでかわいい妹、そして、美容師になるために勉強中の叔母から預かっている従兄弟が紹介されます。一家は戦前はクリーニング屋を営んでいましたが、戦災で焼け出され、今は店を再開するためにがんばっていることが説明されます。

おかあさんは露天で駄菓子を売っている。となりの露天では沢村貞子がマッチなどの実用品を並べている。長女の香川京子は屋台で今川焼きを売っている。同級生たちが洋裁学校に通う途中に声をかけていく。この当時、洋裁はブームでした。洋裁学校は戦後、ものすごい勢いで増えました。その香川京子の屋台の床几では近くの平井ベーカリーの息子、岡田英次が本を読んでいる。今川焼きの旗がアイスキャンデーに変わり、季節が変わったことを知らせます。家では父親がクリーニング店の開店の準備をしている。そこへ療養所から長男が逃げたと電報がくる。母親が恋しくて逃げ帰ったのです。

その後、一家は不幸が続きます。長男が死に、クリーニング店を開いたものの無理がたたって父親も死んでしまいます。ただ、あっさりと描かれるので、そういうこともある。人生ってそういうものだという感じがします。いいこともあれば、不幸なこともある。田中絹代の母親は、そんな風に淡々と物事を受け入れ、子供たちを育てるために懸命に働きます。やさしい母親像が胸にしみます。

街の風景が写ります。成瀬監督はちんどん屋が好きなのか、多くの作品に登場させていますが、ここでも商店街を練り歩くちんどん屋が出てきます。子供たちがついて歩きます。しかし、この時代ですから、道は舗装されていません。土埃がたちます。雨が降れば、そこここに水たまりができます。

また、夏祭りの様子も子細に描かれます。演芸大会があり、香川京子と妹も出場します。香川京子が「花嫁人形」を歌い、妹が踊ります。ふたりとも浴衣姿です。岡田英次も参加します。彼は翻訳小説を読んだり、流行の英語を使ったりのハイカラ好みですから、歌うのは「オー・ソレ・ミオ」です。それを聴いていた両親は恥ずかしそうに会場を去ります。この大会の特等はサンヨーラジオです。ラジオが高価だった時代です。

成瀬映画は、当時の庶民の生活を知るには絶好の資料になります。物価もわかるし、こまかな生活の知恵もあります。田中絹代が子供を夏みかんを買いにやりますが、「果物屋じゃなく八百屋で買うんだよ。値段が違うからね」と指示を与えたりします。

クリーニング屋を再開し、弟弟子の加東大介がやってきます。「ハバロフスクで捕虜をやっていたので、私たちは捕虜のおじさんと呼ぶことにしました」と香川京子のナレーション。ついこの間まで戦争があったのだと身に迫って感じます。戦争はいろんなところに影を落とします。父親の通夜に手伝いにきていた沢村貞子、中北千枝子、岡田英次の母親の三人が、戦死した身内の話をします。

中北の夫は戦死、沢村貞子の夫は勤め先の銀行の宿直室で空襲で焼け死に、パン屋の長男は戦死の通知だけしかこなかった。この後、パン屋の母親が未だに長男が生きているんじゃないかと希望をもっているエピソードが描かれます。みんな、戦争を生き延びて、何とか暮らしている。そういう時代でした。

懐かしいのは、夕方になると豆腐屋のピープーという音が聞こえてきたり、夜遅くなったことを示すのに夜泣きそばが出てくるのも、この時代の映画です。この時代の観客は、夜泣きそばのチャルメラが聞こえてくるだけで、夜の何時頃かがわかったのです。夜食用ですから、夕食からけっこう時間たっています。9時とか10時くらいでしょうか。

父親が死んだ後、加東大介の手伝いを得て、田中絹代はクリーニング店を続けますが、女手ひとつで苦労します。次女は望まれて叔父の養子になります。また、預かっていた甥も、妹の中北千枝子が美容師の試験に受かり、近々、引き取ることになりそうです。加東大介も自分の店を開くために去っていき、新しい小僧と香川京子と三人になることを暗示して映画は終わります。

この映画は私が生まれてすぐの頃の公開ですが、見ているととても懐かしい。街の風景や祭りなどの様子はもちろん、母親が乗り物に乗り付けないので、酔い止めのために貼るつもりでいた梅干しを子供が食べてしまう話など、そうだったよなあ、という感じです。貧しい暮らしを描いていますが、笑えるエピソードやギャグが散りばめられていて、見終わってとてもさわやかな感じがします。

2016年8月 4日 (木)

■映画と夜と音楽と…738 猫・猫・猫


【男と女/ヒマラヤ杉に降る雪/仁義/ロング・グッドバイ/レンタネコ】

●猫好きになったらジャコメッティの言葉が好きになった

男「彫刻家のジャコメッティは知ってる?」
女「知ってるわ」
男「彼はこう言った。『火事になったら一枚のレンブラントより猫を救う』」
女「そして『後で放してやる』----素晴らしいわ」
男「そうだね。芸術より人生だ」

ドーヴィルの海岸を散歩しながら、男と女はそんな会話をする。男はレーサー、女はスクリプター。ドーヴィルの寄宿制の学校にそれぞれ子供を預けており、ある日、面会にきて列車の時刻が過ぎてしまったとき、男は教師に頼まれて女をパリまで車に乗せる。女はスタントマンだった夫を事故で亡くし、男はレース中に瀕死の重傷を負ったとき、精神的にダメージを受けた妻が病院の屋上から飛び降りた。そんな中年の男と女の恋愛を、観客のイメージを喚起する映像で見せたのが「男と女」(1966年)だった。

映像の素晴らしさは、今見ても色褪せていない。クロード・ルルーシュは監督としてより、キャメラマンとしてのセンスが抜群だ。この映画が作り出した三百六十度回転ショットはその後、多くの模倣を生んだが、海岸を犬をつれて散歩する老人のショット、夕陽に映える海岸をその犬が狂ったように跳ねまわるショットなど、映像詩のようなイメージショットが忘れられない。そこに、フランシス・レイ作曲のあまりにも有名になったスキャットがかぶさる。それだけで、スクリーンに埋没する。

しかし、久しぶりに「男と女」を見た僕が括目したのは、冒頭に書いた男と女の会話だった。今年、一月に自宅に帰ったときに我が家にいた仔猫を見て以来、僕はどんどん猫好きになり、今まで何度も見た映画の中の猫の登場シーンを新鮮に振り返ったりするのだ。猫に関心がなかったときには、完全に見過ごしていたシーンである。ということは、登場人物の感情も見過ごしていたということだ。猫を飼っている登場人物(特に孤独に暮らす初老の人物)を、僕はより深く理解できるようになったのである。

たとえば、「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)に登場する日系人に対する差別をまったく持たない老弁護士(マックス・フォン・シドー)は、かわいい猫を飼っているシーンがあるのだが、その猫に対する慈愛に充ちた表情は、この人物の心根の優しさを表していたのだなと気付いたし、僕はその猫が「アメリカン・ショートヘア」という種類だということまでわかるようになった。現在、最も人気のある猫の種類だという。今の僕は、どんな猫でもかわいいと思うが、確かにアメリカン・ショートヘアはかわいい。

また、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「仁義」(1970年)の初老の警部(ブールヴィル)は、一人暮らしで数匹の猫を飼っている。孤独な部屋へ帰った彼が最初にやることは、猫たちに餌を準備することであり、器に水を注ぎ足すことである。パリのナイトクラブのオーナー(フランソワ・ペリエ)の息子を卑劣な罠を仕掛けて逮捕し、息子の釈放を餌にオーナーに密告と裏切りを強要する冷酷非情な警察官である彼をなぜ猫好きにしたのか、改めてメルヴィル監督の意図を分析したくなった。

●朝の散歩をしているうちにいろんな猫が気になり始めた

大昔、僕が猫好きではなかった頃に読んでも面白かった長田弘さんの「猫に未来はない」と「サラダの日々」を読み返していたら、「男と女」のジャッコメッティの言葉が「猫に未来はない」の巻頭に、「火事になったら、一枚のレンブラントより一ぴきのねこを救おう。そしてその後で、そのねこを放してやろう」と引用されていた。アルベルト・ジャコメッティは、よほどの猫好きなのだろう。気持ちはわかる。

僕は仔猫の世話をするうちに、猫と暮らすことがどういう意味を持つのかを知った。一日中、自分の部屋のドアを開けておく。夜、寝ているときにモソモソと仔猫が入ってきて一巡して出ていくこともある。僕の部屋の押入で寝ていることもある。僕の部屋の本棚を登り、天井すれすれのところをゆっくり歩いていることもあった。部屋の中だけで飼っているので、網戸の前に猫座りしてじっと外を眺めている姿を見ると、何だか胸が切なくなるし、不憫に思えてくる。

猫についての体験と知識が増えるにつれ、僕は野良猫(最近は地域猫というのかな)にも感情移入し始めた。早朝の散歩をしていると、今まで気付かなかったのに、いろんな猫を見かけるようになった。そのたびに、僕は「ちゃんと食べているのだろうか」と心配になる。立ち止まり、屈み込み、猫に話しかけている。ほとんどの猫は、じっと止まって警戒しながら、僕を見つめる。僕が立ち上がったり、一歩踏み出すとサッと逃げる。そんな姿を見ると「ひどい目に遭って、警戒心が強くなったのだろうなあ」と、また不憫さが募る。

早朝の散歩コースはいろいろ変えていて、ある日、利根川沿いを歩いていたら、集団の猫に出会った。十数匹はいたと思う。よく見ると、奥の方に生まれたばかりの仔猫たちがいた。しかし、一匹の白い親猫が僕の顔を見つめて、威嚇するように口を開け牙をむいた。本当に怖くなるほどだった。子供たちを守るために、あんなに威嚇したのだろう。僕が立ち止まって仔猫たちの様子を見ようとしたので、「あっちへいけ」と必死で立ち向かってきたのだ。その母親の心情に、また泣きそうになった。ただし、翌日から散歩のコースを変更した。

新しい散歩コースには途中に親水公園があり、そこで三匹の野良猫を見つけた。茶色の猫は警戒心が強くないらしく、僕が二メートルくらいまで近づいても逃げなかった。白と黒のまだら猫は相当に警戒していて、僕の姿を遠くに見ただけで姿を消した。キジトラの猫は中間で、五メートルほどまで寄っても大丈夫だった。彼らを見て僕が心配したのは、やはり「ちゃんと食べているのだろうか」ということだった。翌日、僕は猫の餌をビニール袋に詰めて持参した。

最初は警戒していた三匹も一週間が過ぎる頃には、僕の顔を見るとニャアニャアと鳴きながら一メートルあたりまで寄ってくるようになった。僕は餌を置き、少し離れる。猫たちは警戒しながら寄ってきて、餌を食べる。そんなことを一ヶ月も続けていた。その間に、餌をやっているのが僕だけではないことを知った。ひとりは初老の男性だった。また、ふたりの中年女性は、毎日のように餌を持ってきているらしい。僕のように雨が降ったら散歩に出ないというのではなく、きちんと毎朝、餌を与えているようだった。

七月に入ると、また、四国の実家の裏で暮らすことにしていたから、僕が餌をやり始めてしまった公園の三匹の猫のことが心配だった。僕は六月だけ毎朝、餌を持ってきた気まぐれな猫爺にすぎないのだけど、とりあえず猫たちは猫好きの人々のおかげで何とかなるのだろうと安心した。しかし、早朝、人があまりいないときには、野良猫をかなり見かけたから、僕が心配しなくても彼らはたくましく生き抜いているに違いない。すべての猫の面倒を見るわけにはいかないのだ。にわか猫好きなどいなくても、きっと彼らは立派に生きていくだろう(と思いたい)。

●一人暮らしの家で一緒に暮らす猫が三カ月だけほしい

猫ブームだという。テレビでも猫が出てくる番組が増えたし、コマーシャルにやたらに猫が出てくる気がする。娘が昨秋、棄てられた仔猫を拾ってきて、我が家もにわかに猫好きになったのだが、かみさんに「うちもブームに乗り遅れていないな」と言うと、あっさり「そうね」と返された。ブームと、どこかでシンクロしてしまったらしい。ホームセンターのペットコーナーに頻繁に寄るし、かみさんと娘はいくつかの動物病院にいき、「やっぱり、あそこの先生がいいわね」などと言っている。

エリオット・グールドがフィリップ・マーロウを演じた「ロング・グッドバイ」(1973年)の冒頭、飼い猫のために深夜にマーロウがキャットフードを買いにいくエピソードがある。しかし、いつものキャットフードがなく、仕方なく別のキャットフードを買って帰り、いつものキャットフードの缶に入れ替えて猫をだまそうとする。しかし、猫は食べない。そんなエピソードを僕は何も考えずに見ていたし、「そんなあ、どんなキャットフードでも同じでしょ」などと思っていた。

しかし、猫を飼ってみてわかったのは、そのエピソードが本当だということだった。餌が変わると、猫が見向きもしないことがある。猫は、よくわかっているのだ。また、かみさんによると、最初の頃、猫のトイレ用の砂を安いものに変えたところ、そのトイレを使わなくなったので、あわてて元の高級な砂に戻したということである。環境や食べ物が変わることを嫌がる人もいる。猫も同じなのだ。そんなことがわかってくると、さらに猫に対する愛着が湧いてくる。

そんな風だったから、家族と別れて生活することには特に感慨もなかったくせに、僕は猫と別れて暮らすのが辛くなった。かみさんに「四国に連れていこうかな」と冗談めかして言ってみたが、飼い主は娘であり、あんたには権利はないと却下された。最後に、「実家のタマが待ってるでしょ」と付け足した。確かに、実家には両親が物置で飼っている猫と、兄夫婦が二階で飼っている猫がいる。実家の猫は、今では僕にもすっかりなついているし、二階の猫も人なつっこい。しかし、僕は一人暮らしの家で一緒に暮らす猫がほしいのだ。

そう言えば、「レンタネコ」(2011年)という、猫好きになった今から思えば素敵な映画があった。市川実日子が演じるヒロインはたくさんの猫を飼い、リヤカーを引いて街を歩き猫をレンタルしている。単身赴任している中年男(光石研)も猫を借りる客のひとりだった。あんな商売をしている人、いないだろうか。とぼけた味わいが忘れられない「かもめ食堂」(2005年)や「めがね」(2007年)を撮った荻上直子監督作品だった。荻上作品のテイストが僕は好きなのだが、「レンタネコ」以降、五年も新作を撮っていないみたいだ。

ちなみに、私立探偵フィリップ・マーロウは原作では猫は飼っていなかった。原作者のレイモンド・チャンドラーは猫好きで、愛猫タキを抱いている写真が残っている。それを知っていたシナリオ・ライターが「ロング・グッドバイ」で、マーロウに猫を飼わせたのだろう。ちなみに、このところチャンドラーの長編の新訳を出し続けている村上春樹さんも猫好きだ。奥さんの陽子さんも猫好きで、彼女が撮影した猫の写真がたくさん村上さんのエッセイ集には掲載されている。

2016年7月28日 (木)

■映画と夜と音楽と…737 手紙を待ちわびる日々があった


【けんかえれじい】

●大橋巨泉の死によって歳を重ねた浅野順子の姿が映された

テレビ界の功労者である大橋巨泉が亡くなって、連日、ワイドショーなどでは大きく報道されていた。そのたびに寿々子夫人のコメントが紹介されたり、昔の夫妻の写真が映されたりするが、寿々子夫人についてはあまり紹介がない。そう思っていたら週末のニュース番組で、昔、浅野順子というアイドルで、ニッポン放送で巨泉の番組アシスタントをしていて知り合い、十四歳の年の差を越えて結婚し、四十七年間を添い遂げたと紹介されていた。そう、半世紀以上も昔のことだが、浅野順子は少女モデルをしていて学習誌の表紙に登場したりしていた。その後、歌手になり、数少ないが映画にも出演した。しかし、その一本は映画ファンに絶大な人気を誇る作品である。

あるワイドショーでは、大橋巨泉と親しかったというので高橋英樹親娘が登場してコメントしていた。よくゴルフを一緒にしていたという。高橋英樹と大橋巨泉というつながりは意外だったが、「これは夫人の方のつながりで親しくなったのではないか」と思った。高橋英樹と浅野順子は、名作「けんかえれじい」(1966年)の不滅の恋人たちである。南部キロク(高橋英樹)とミチコ(浅野順子)。忘れられない名前だ。キロクが軍事教練を担当する軍人(佐野浅夫)と喧嘩し、さらにキロクのバックのスッポン(川津祐介)も軍人と喧嘩してしまった結果、岡山から逃げ出さなければならなくなり、ミチコに秘かに別れを告げるシーンの切なさが甦る。

キロクはスッポンに、自分が下宿するミチコの家が見える場所で車を止めてもらう。その家に向かって、キロクはまず「ミー」と大声をあげ、空中に放たれたその声を両手で蝶でも包み込むように捕まえ、自分の口に入れて飲み込む。次に「チー」と叫んで同じようにする。さらに、「コー」と大声をあげ、その声を捉えてゆっくりと口に入れ、飲み込んで自分の腹におさまるまでをなぞるようにゆっくりと胸から腹まで手をおろしていく。少年の感傷だと言ってしまえばそれまでだが、十代の少年(高橋英樹はとても旧制中学生には見えないけれど)の気持ちをよく表していた。

親戚を頼って会津に逃れたキロクは、毎日、ミチコに手紙を書き、その返事を待っている。しかし、ミチコから返事はこない。キロクは手紙を書き、その最後に「お気が向きましたら、ここに接吻をしてください」とキスマークを要求し、丸く囲んだスペースを書いた便箋を送る。次は手紙を待っているキロクのシーンだ。おばさんが「キロクちゃん、待ってるもの、もうきてるよ」と言うと、キロクは手紙を受け取って大慌てで自室に戻り、期待に充ちて封を切る。しかし、その返信には「気が向きません」としか書かれていない。その手紙に重なるミチコのそっけない声が悲しい。

「けんかえれじい」は鈴木隆という人が書いた小説で、ぶ厚い上下二巻の本だった。僕は、映画を見た後、古本屋で見つけて買った。その後、NHKが夕方の時間帯で少年向け連続ドラマとして放映したことがある。一度だけ見てみたが、原作には忠実だったものの映画版とあまりに違うので見るのはやめた。原作はかなり長く、鈴木清順監督は日活を馘首された後、「続・けんかえれじい」の脚本も用意していた。それは映画ファンの間で評判になり映画化を望む声も多かったが、ついに実現しなかった。日活を首になった後、十数年後の「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)が評判になって鈴木清順という名が一般的にも知られるようになった頃には、すでに監督自身に撮る気がなくなっていた。

●「けんかえれじい」を初めて見たのは十八のときだった

僕は「清順作品で最も好きな映画は?」と訊かれると、「けんかえれじい」を挙げる。大学時代の友人のMは「東京流れ者」(1966年)に思い入れていたし、「関東無宿」(1963年)や「野獣の青春」(1963年)が好きだという友人もいた。「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」(1981年)になると、好きというより「凄い」としか言えなくなる。やはり、僕は「鈴木清順監督の映画」として初めて見た「けんかえれじい」が忘れられないのだ。笑えるし、心躍るし、悲しみも味わえる。清順作品らしいシュールレアレスティックなシーンも散りばめられている。モノクローム作品だからこそ、絢爛豪華な色彩を駆使する清順美学は抑えられ、ストイックな美意識に充ちている。

たとえば、キロクとミチコが夜の桜並木を歩いて帰るシーンだ。教会のミサ(ふたりはクリスチャンである)を終えたふたりは、黒バックの中の満開の桜並木を歩く。キロクは何とかミチコと手をつなごうとするが、うまくいかない。やっとミチコの手を取ると勢いよく歩き出し、「どうしたの?」と問うミチコに「この前、この辺で首吊りがあったそうや」と答える。「首吊りがこわくちゃ、キロクちゃんの男がすたるでしょ」とミチコが笑う。そこへ、キロクが所属する硬派グループ・OSMS団の団長タクアンが登場する。タクアンは「メッチェンと手なぞつなぎおって」と、硬派としてあるまじき行為をしていたとキロクをなじる。

キロクはあわててミチコの手をふりほどき、一段高い土手の上に立つタクアンの前に立つ。そのふたりを映すから、ミチコは首から上しか映っていない。そこで、三人の会話があり、キロクは思わず「わてのオネェです」と言い訳をする。タクアンは「そら悪かった。お近づきの印に、その辺でうどんでも」と仁義を切るが、ミチコは「けっこうです。南部さん、帰りましょう。うどんならうちで食べましょう」と無視する。それを聞いたタクアンは「南部さん? オネェと違うんけぇ」とキロクを責め、「明日、学校でけりをつけよう」と言いおき、持っていた木刀で桜の枝を一閃して去っていく。タクアンが去った後、キロクとミチコの上にハラハラと桜の花びらが散ってくる。

「けんかえれじい」は、喧嘩という手段でしか十代の鬱積を晴らせない旧制中学生を主人公にした青春映画だ。時代背景は昭和初期だが、いつの時代にも変わらない普遍性を描いているから、決して古びることはない。初めて見たとき僕は十八歳で、喧嘩修行に励むキロクの姿に共感したものだった。喧嘩の先生であるスッポンに竹藪の中で喧嘩の奥義を教えられたり、様々な仕掛けをした喧嘩修行のシーンは笑いながらも、もの悲しい切なさを感じたものだった。だから、キロクが恋い慕うミチコも僕の心に深く刻み込まれた。十八歳の浅野順子は、輝くように美しかった。

浅野順子がヒロインを演じた映画は、唯一「けんかえれじい」だけである。子役から出ていたから、映画版「赤胴鈴之助」(1958年)シリーズにも出ていたようだが、僕の記憶には残っていない。市川雷蔵主演の「薄桜記」(1959年)にも出演しているらしいから、今度、確認しておこう。しかし、「けんかえれじい」が公開され、ジワジワと口コミで評判になり、カルトムービーとして映画ファンの間で伝説になった頃、二十一歳で彼女は大橋巨泉と結婚し、完全に芸能界をリタイアしてしまった。それから、四十七年後、大橋巨泉の死をきっかけに、僕はテレビで六十代になった彼女を見た。確かに歳は重ねていたが、「けんかえれじい」のミチコさんがそこにはいた。

●「遠距離恋愛」なんて言葉も存在していなかった

僕が初めて「けんかえれじい」を見た場所は、銀座並木座だった。十八歳。浪人をしていた。浪人することが決まったとき、僕は親に無理を言って東京の予備校にいくことにした。どうしても、故郷を出たかったのだ。しかし、上京した僕は食事代を節約して名画座に通う日々を始めた。池袋文芸坐、文芸地下、日勝文化、新宿テアトル、飯田橋佳作座、ギンレイホール、銀座並木座、渋谷全線座などなどである。予備校にはほとんど顔を出さず、たまに高校時代の友人の下宿にいき泊まったりしていた。しかし、僕は故郷に恋人を残していた。その頃、そんな言葉はなかったが、「遠距離恋愛」だったのだ。

彼女とは高校二年のときに知り合い、三年で同じクラスになった。席を並べたこともある。成績は僕よりよかったはずなのに大学には進まず、地元の洋裁学校に入った。洋服のデザインや縫い物、手芸などが好きだったのだ。そんな彼女と別れて、僕は上京した。それから頻繁に手紙のやりとりが始まった。初めての一人暮らしで僕がホームシックになり、やたらに手紙を書いたからだったと思う。誰とも口をきかない日々が続き、僕は毎日のように手紙を書いた。

僕が住んでいた滝野川の「すみれ荘」は、大家さんの家の裏にある小さな木造の二階建てアパートで、一階は六畳と共同の炊事場と洗濯場、共同トイレがふたつあった。一階の六畳間にはタクシー運転手の一家四人が住んでいた。二階は四畳半が三部屋あり、中年男と老婆と僕が借りていた。二階にも小さな共同炊事場があった。一階の一家の奥さんは、最初、僕が予備校生だと知ると親切にしてくれたのだが、僕に女の名前で頻繁に手紙が届き出すと、不良を見る目つきになった。僕宛に届く手紙は三日に一度はあったし、時には二通一緒に届くこともあった。後に出した手紙が先に届くこともあった。奥さんは「予備校生のくせに何だ」という視線を浴びせるようになっていた。

それでも、僕は手紙を書いた。ときには、キロクのようにキスマークをねだる(恥!)ような手紙を書いたこともある。書いたことを後悔し、すぐに「前の手紙は読まずに破ってほしい」と取り消しの手紙を出したこともある。そんなことをしていたから、僕は初めて見た「けんかえれじい」に感情移入したのだろう。ミチコさんの家を眺めながら「ミー・チー・コー」と叫んだキロクの気持ちも、手紙を待ちわびる気持ちも僕には手に取るようにわかったのだ。そして、あの映画史に残る障子越しのラブシーンを見たとき、叶わぬ恋の切なさが十八歳の僕を貫いた。着物姿の浅野順子は、大人びていた。

振り返れば、四十六年も前のことである。あの頃の自分が、まるで別の人間のように思える。僕は四十六年をかけて、十八歳の頃の自分自身を消滅させてきたのかもしれない。今の僕を僕は否定はしないが、あの頃の僕を懐かしむ気分は強い。僕は小心で、気弱で、臆病で、対人恐怖症で、不安と劣等感と何かに対する恨みのようなものを抱えて生きていた。自分によいところなど何もないと思っていた。自信はなく、育ちや出身や肉体的なコンプレックスばかりが強かった。讃岐弁が出るのが怖くて、ろくに口も利けなかった。そんな思いを、夜になると手紙に書き綴っていたのかもしれない。もらった方は、ずいぶん迷惑だっただろう。それでも、返事はきた。

あれから四十六年たって、僕はその相手とまだ結婚している。巨泉夫妻の結婚四十七年までには六年ほど足りないが、高校時代からカウントすれば、すでに五十年近いつきあいになる。昨年からは、いろいろな理由から別居と同居を交互に繰り返す暮らしになったが、四国と東京に遠く離れていても昔のように手紙を書くことはない。用事がない限り、メールも電話もない。同居していてもほとんど会話はないから、特に気にはならない。たまに電話しても、用件が終わると話すことがない。それでも、何となく相手のことがわかるようになっている。長い年月を共に過ごしたからだろうか。彼女は、「けんかえれじい」のヒロインと同じ名だった。

2016年7月21日 (木)

■映画と夜と音楽と…736 乗り物は常に暴走する


【ブリット/突破口/007 ゴールデンアイ/ダーティーハリー5】

●香川県の人たちは運転マナーが悪いと自覚している?

昨年、高松で七カ月ほど暮らしたとき、最初に驚いたのは運転マナーのひどさだった。実家の車を借りてひとり暮らしに必要なものを買い出しに出たときに真っ青になり、しばらく怖くて運転できなかった。その後、週に一度ほど買い物や図書館にいくので運転したのだが、毎回、車内で罵りの言葉を吐くことになった。「ウィンカーってのはな、曲がりますって合図なんだ。曲がった後で出しても意味ないだろ」とか、「車線変更するならウィンカー出せ」とか、車内で大声を出していた。

僕は信号手前二十メートルの位置で黄信号だったらブレーキを踏むが、高松ではアクセルをグッと踏み込むのが常識らしい。一度、「死ぬ気か」と思ったのは六車線の赤信号に隣を走っていた車が突っ込んだときだった。僕は当然、ブレーキを踏んで止まった。信号は黄色から赤に変わったのに、隣の車線の車は交差点に突っ込んだのである。片側三車線だから六車線を横切らねばならない。それでもアクセルを踏む車があるのだから、後は推して知るべしだ。ここに書いても信じてもらえないようなことも僕は経験した。高級車に乗った老婦人が運転していた。

そんなことで、高松でずっと暮らしてきた友人たちに会うたび、「こちらの運転マナーはひどすぎるよ。交通量が少ないから、それが前提になって自分勝手でわがままな運転になっているのだろうな」とぼやいていた。二車線の右車線を走っていると、よく車をせき止めている右折車がいる。対抗二車線を横切って右側にある店舗などに入るためである。だから、右車線を走っているときは、いきなり右折する車に注意していなければ追突してしまう。もちろん、そこには信号などない。幹線道路のど真ん中なのである。しばらく待てば対抗二車線を横切れるほどの交通量なのだ。

僕の実家の近くに、片側二車線なので四車線の広い道路がある。そこもしばらく待っていれば車がいなくなる瞬間があり、いきなり横断する歩行者がいる。ヤマダデンキなど両側に量販店が並ぶ道である。道路の真ん中で右折しようとする車が次々と現れ、その間に道路のど真ん中に人が立っていたりする。半年ほど運転してみて(週に一回、近距離しか運転しないのだが)少しは馴れたが、よく事故に巻き込まれなかったものだと思う。交通量の多い都会の常識は、まったく通じない。そんなことを実感していたら、先日、JAFの調査結果が四国新聞にも出ていた。

それによると、「運転マナーが悪い」と思っている人が最も多い県が香川県だったという。アンケートに答えた人は、「ウィンカーを出さずに右折・左折する車が多い」と憤慨しているらしい。僕に言わせれば、ウィンカーを出している人も出すタイミングが遅いと思う。曲がる三秒前には出せと教習所で教えられて以来、僕は三秒前にはウィンカーを出す。カッチ、カッチ、カッチだ。周囲の車に自分の動きを認知させるには、三秒は必要だと思う。高松では自分は早めに出していると思っている人でも、せいぜい一秒前ではないか。僕の少ない経験の中ではあるけれど----。

●映画の中では様々な乗り物が暴走を繰り返してきた

現実の交通事情は別にして、映画はその始まりからスリルを求めて、車などの乗り物が暴走するシーンを映してきた。サイレント時代に危険なアクションシーンで人気を集めたのは、バスター・キートンだった。体を張ったアクションが売り物だったから、現在のスタントマンのようなことを平気でやっている。チャップリンも自身で危険なシーンをこなしているが、バスター・キートンには負ける。危険なシーンは今の映画でも基本的には同じだ。まず高い所。キートンは落ちたら間違いなく死ぬような場所で、観客をハラハラドキドキさせた。次は乗り物の暴走だ。機関車、列車、馬車、そして車である。

以来、アクションを見せる映画ではカーチェイスは必然になった。昔、僕は石原裕次郎の初期作品「錆びたナイフ」(1958年)を見ていて、「日本でもカーチェイスをきちんと撮っていたのだなあ」と思って感心したことがあるが、あれは編集技術がうまかったのかもしれない。カーチェイスの凄さが話題になった映画としては、高校生のときに見た「ブリット」(1968年)が最初だった。自身もカーレースに出場していたスティーブ・マックィーンの主演で、カーチェイス・シーンを自分で運転しているということだった。

確か、刑事ブリットが乗っていたのはマスタング(当時はムスタングと言っていた)だったと思う。その車で、二人組の殺し屋が乗った車を追跡する。坂道の多いサンフランシスコの街を縦横無尽に、無茶苦茶に走りまわる。坂道が多いから、車の中から撮ったショットなど見ていて酔いそうになる。実際、気分が悪くなった観客もいた。そんな評判がさらに評判を呼び、カーチェイスを見るために「ブリット」を見る人もいて大ヒットした。マックィーンは、その数年後、「栄光のル・マン」(1971年)というレース映画にも主演した。

カーチェイスは、その後、さらにエスカレートする一方だったが、車と車ではなく、車と複葉機のカーチェイスとか、戦車のカーチェイスなどの変則アイデアも登場した。車と複葉機の追っかけは、犯罪映画の傑作「突破口」(1973年)で見られる。組織の殺し屋(ジョー・ドン・ベイカー)は、複葉機で農薬散布などを請け負う主人公(ウォルター・マッソー)が組織の金を奪った犯人だと知り、複葉機で飛び立とうとするところを巨大な(走るダブルベッドと呼ばれた)アメ車のオープンカーで追いかけ、離陸を阻止する。

戦車チェイスを見せたのは、ピアース・ブロスナンがジェームズ・ボンドを演じた「007 ゴールデンアイ」(1995年)だった。ソ連が崩壊した後なので、ロシアでのロケが可能になり、ペテルスブルクの街中を戦車が爆走した。ちなみに、007シリーズのスタントチームは世界一と言われているから、シリーズのアクロバティックなアクションシーンはどれを見ても目を見張る。二十数年前、二台の車がダンスを踊るように走るCMがあったけれど、あれは実写で007シリーズのスタントチームの仕事だった。「コマーシャル・フォト」という月刊誌にいたときに僕自身が取材したから間違いない。

アイデアだなあと思ったのは、「ダーティハリー5」(1988年)のカーチェイスだった。シリーズの五作めで、人を殺すことがどんどんエスカレートしてしまい映画自体の出来はイマイチなのだけれど、ハリーの乗った車を爆薬を積んだラジコンカーが追っかけるシーンには感心したものだった。最初はラジコンカーだけが映るから本物かと思うが、ラジコンカーだとわかって「あれっ」と思う。しかし、ラジコンカーはしつこくてハリーの車の下に入ろうとする。下に入れば、爆薬を爆破させるつもりなのだ。主人公が追われる逆カーチェイスだが、ハラハラさせられた。

その後も様々な工夫があり、CGの発達によるエスカレーションがあった。最近ではトム・クルーズの「スパイ大作戦」シリーズや「ワイルドスピード」シリーズを見ると、派手なカーチェイスがあり、衝突した車が巨大な炎を上げて爆発する。実写部分と特殊効果部分が完全に融合している。しかし、「また、CGでしょ」という思いがして、何となく白けてしまう。キートンの時代と同じように、数百メートルのビルの外壁を登るシーンがあり、その高さに目がくらむけれど、それもやっぱり「実写じゃないよね」と囁く声が聞こえ、映画にのめり込めない。「ブリット」を手に汗握り、身を乗り出すように見ていた十代の自分が懐かしい。

●四十二歳で免許を取り常磐高速を走りまわっていた頃

僕が免許を取ったのは、四十二歳のときだった。大学卒業の春休みに取ろうと思っていたら、二月から出社しろと言われて取り損なったままだったのだ。ここで取らないと一生取らないだろうと決意して、僕は教習所に通った。周りは高校生から大学生くらいの若い人が多かった。最初に教習車に乗ったとき、教官がいきなり「はい、走らせて」と言う。「どうやるんでしょうか」と聞き返したら、「初めてなのか」と驚かれた。免許を失効した再教習者だと思われたのだ。「あんたも大変だね」と教官に同情されたこともある。リストラに遭い、再就職のために免許を取りにきた中年男と思われたのだった。

仮免許の試験のときは、教習車に同乗する他の受験者は若い女性たちだった。縁石に二度乗り上げてしまい、僕だけが落ちた。彼女たちは「おじさーん、次、がんばってね」と去っていった。次は、通った。面目を施したのは、教習所内で二度ほど実施される学科試験の結果だった。あるとき、教官が「このクラスで二度ともトップになった人がいます」と言い、僕を立たせたのだ。娘や息子のようなクラスメイトから尊敬のまなざしを受け、面映ゆかったが、「運転技術は彼らの方がずっとうまいんだろうな」と思っていた。僕は目撃しなかったけれど、教習所に車で通ってくる強者もいたらしい。

そんな思いをして取った免許だから、それまでの二十年間分を取り戻すように僕は走った。酒を飲まずに帰宅し、毎夜、一時間ほど走り、週末は五時間ほど走りまわった。週に十数時間は車の中だった。月に百リットル以上のガソリンを消費した。一年間で一万キロ以上を走破した。常磐高速の入り口まで十分足らずだったから、やたらに常磐高速を走った。桜土浦あたりで降りて、筑波山のハイウェイを登る。山道を走るのが楽しかった。ただ、目的もなく走った。常磐高速のカーブで三車線を使った高速運転を一度だけやってみたことがある。

そんなある日、いつものように常磐高速を走っているとき、ピシッと音がして後部座席のウィンドが砕けた。狙撃されたのか、と本気で思った。といっても、止まるわけにはいかない。そのまま走り続け、高速道路を降りて止まった。銃弾が打ち込まれたようになっていたが、おそらく飛び石だろう。しかし、車内にそれらしい石は落ちていない。跳ねただけなのだろうか。僕は首をひねりながら帰宅し、かみさんに報告すると「高いのよ。修理代」と言われた。翌日、かみさんがディーラーに持っていくという。そのとき、僕は「運転の神様に、たしなめられたのかな」と思った。そう、安全運転が一番なのである。

それにしても、七月上旬からまた高松での生活を始めたので、地方都市での生活では車がないと大変困るものだとは実感している。近所の家は、みんな二、三台の車を駐めている。一人一台の世界なのだ。軽自動車がよく売れているわけだ。自転車代わりなのである。車を持たない僕は、手首を痛めて自転車にも乗れないから、移動は徒歩である。街中に出るには、バス停まで十分、電車の駅まで十五分ほど歩く。一度、街の中心地まで歩いてみたら、一時間ほどかかった。そんな距離を歩く人は、こちらではほとんどいない。「よく歩くね」と驚かれたりする。しかし、歩いている分には、運転マナーを罵る必要もないので、心穏やかでいられる。

«■映画と夜と音楽と…735 女が男を守るとき

無料ブログはココログ
2016年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30