2017年1月19日 (木)

■映画と夜と音楽と…756   いかがなものかな、大統領


【マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙/ディア・ハンター/恋におちて/マディソン郡の橋】

●「おまえのかーちゃん、でーべそ」という類の子供の喧嘩レベルの反論

ドナルド・トランプが好きになれない。というより、嫌悪を感じる。顔を見ると虫酸が走る。その言動は下劣で、下品で、見ている方が恥ずかしくなる。マルティン・ベックのシリーズに「唾棄すべき男」というタイトルがあったと記憶しているが、その言葉が浮かんでくる。野卑で、感情的で、子供っぽくて、差別的で、攻撃的で、とにかく僕が嫌いな要素をすべて体現しているかのようだ。人格高潔な人物が大統領になるとは限らないが、ニクソン、ロナルド・レーガン、ブッシュ(息子の方)にも増して僕が嫌いなアメリカ大統領が誕生してしまった。僕がアメリカ国民だったら、耐えられないだろう。カナダへ逃げ出したくなる。

メリル・ストリープもそう感じていたのかもしれない。ゴールデングローブ賞で功労賞的なセシル・B・デミル(代表作は「十戒」かな)賞を受賞したときのスピーチ映像を見たが、トランプの名前は出さず理性的な言葉を連ねていたものの、寸鉄人を刺すような批判だった。トランプが自分に批判的な記事を書いた記者の身体的障害をネタに嘲笑したことを批判し、彼女のスピーチに人々は聞き入っていた。人前で誰かを批判するのであれば、彼女のように人々の共感を得られるような言葉を選ぶべきだと僕は思った。聞いていても不快にならないし、深い説得力に充ちていた。感動的だった。誹謗・中傷・悪声・罵倒・罵詈雑言で相手を侮辱し、罵り続けるトランプとは大違いだ。

メリル・ストリープのスピーチがニュースで話題になると、トランプは例によってツイッターで下品な反論をしつこく続けた。「ハリウッドで過大評価されているメリル・ストリープ」というフレーズには僕もちょっと笑いそうになったけれど、相変わらずの下劣さである。「おまえのかーちゃん、でーべそ」という類の子供の喧嘩レベルの反論は、本人の知性レベルがゼロだと告白しているようなものではないか。もっとも、僕も昔からメリル・ストリープのことを「メリル・あたしうまいでしょ・ストリープ」と呼んでいて、その演技は鼻につくところがあるなと感じていたので、「過大評価されている女優」というフレーズに思わず笑ってしまったのだ。

しかし、僕がメリル・ストリープを「うますぎて鼻につく」ように感じ始めたのは最近のことだ。昔、杉村春子の演技に舌を巻いたが、メリル・ストリープに対するものもそれに近い。何をやっても評価され、何度もアカデミー主演女優賞を受賞した女優である。最近では「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(2011年)を見て、嫌みなくらいうまいなあ、と思ったものだ。もっとも、「クレイマー、クレイマー」(1979年)でアカデミー助演女優賞、ウィリアム・スタイロンの小説の映画化「ソフィーの選択」(1982年)でアカデミー主演女優賞を受賞した頃、ハリウッド一番の名女優だなと素直に僕は思っていた。そう言っては何だが、それほどの美女ではない。演技力が彼女の武器だった。

一九四九年生まれのメリル・ストリープは、僕の兄と同い年になる。日本で言えば団塊の世代、アメリカではベビーブーマーのひとりだ。僕とは二歳しか違わないのだが、昔からずっと年上の名女優という気がしていた。映画デビューは「ジュリア」(1977年)だそうだが、あの映画では、女優はリリアン・ヘルマン役のジェーン・フォンダとジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーブしか記憶に残らない。男優では、ダシール・ハメット役のジェーソン・ロバーツが忘れられない。しかし、メリル・ストリープは何の役だった? という感じだ。僕が初めて、メリル・ストリープという女優を記憶に刻んだのは、「ディア・ハンター」(1978年)だった。

●公開前から非常な評判になっていた「ディア・ハンター」

「ディア・ハンター」の日本公開は一九七九年三月だったけれど、公開前から非常な評判になっていた。当時は、ずいぶんテレビで映画紹介番組があった。僕は、公開前にイヤになるくらいロシアン・ルーレットのシーンを見たものだ。ベトナム戦争に従軍したロバート・デ・ニーロやクリストファー・ウォーケンなど故郷の仲間たちがベトコンの捕虜になり、河を利用して作られた水牢に入れられている。ひとりひとり捕虜が連れ出され、ロシアン・ルーレットを強要され、ベトコンたちの賭の対象にされる。水牢に死んだ捕虜の体が無造作に投げ入れられ、彼らの恐怖は極限に高まっている。やがて、デ・ニーロとウォーケンが連れ出され、ロシアン・ルーレットを強要される。

アメリカ軍がサイゴンから撤退し、ベトナム戦争が終結してから、まだ四年も経っていなかった頃だ。「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)に参加していた人たちは多かったし、ベトナム戦争ではアメリカ軍が悪役だった。六〇年代末、「ホ、ホ、ホーチン」と北ベトナムの指導者ホーチミンを讃える歌を、有名なフォーク歌手が歌っていたくらいである。だから、左翼系知識人の中には、「ベトコンがあんな残酷なことをするわけがない」と主張し、「ディア・ハンター」を反動映画扱いする人たちもいた。また、「米帝(米国帝国主義)のお先棒を担ぐ映画だ」と批判する人もいた。

しかし、映画の力は圧倒的だった。三時間のあいだ、僕が映画館の椅子の背もたれに背中をつけたのは十分もなかったのではないか。ずっと身を乗り出し、スクリーンを食い入るように見ていた。特にロシアン・ルーレットのシーンは手を強く握りしめていたのを憶えている。「いい映画」や「好きな映画」にはけっこう出会えるが、「すごい映画」にはなかなかぶつからない。「ディア・ハンター」は、極め付きの「すごい映画」だった。「ゴッドファーザーPARTII」(1974年)や「タクシードライバー」(1976年)ですでにスターになっていたロバート・デ・ニーロのうまさを改めて実感し、初めて見たクリストファー・ウォーケンの繊細さと青い目に魅了されたものだった。

メリル・ストリープの出演場面は、それほど多くはなかった。前半の一時間近くは故郷の田舎町での結婚式が延々と続くけれど、メリル・ストリープとクリストファー・ウォーケンが淡い恋仲で、ロバート・デ・ニーロの複雑な感情が描かれる。その後、唐突にベトナムの戦闘シーンになり、ジャングルでの戦いが続く。やがて、捕虜になり、何とか生還するが、クリストファー・ウォーケンは行方不明となり、ロバート・デ・ニーロは英雄として故郷に帰る。しかし、町の入り口に張られた自分の帰還を歓迎する横断幕を通り過ぎ、デ・ニーロは歓迎式典に顔を出さず、メリル・ストリープと再会する。そのときの微妙な感情の交錯が印象に残る。美人じゃないけど、うまい女優だなと僕は思った。

あれから三十六年が経ち、こんな大女優になるとは想像もしなかった。「ディア・ハンター」出演のとき、すでに三十近かった彼女は、現在、六十七である。「ディア・ハンター」で共演したロバート・デ・ニーロは、一九四三年生まれで、彼女よりは六歳上。今年、七十四歳になる。その後、ふたりはハリウッドを代表する演技派になり、役作りのために自在に太ったりやせたりするデ・ニーロは「演技オタク」とまで言われ、メリル・ストリープはすれっからしの映画ファンである僕などに、「嫌みなほどうまい」とか「うますぎで鼻につく」などと言われるようになった。しかし、お見逸れしました、と僕は謝るしかない。ゴールデン・グローブ賞の数分間のスピーチは、何にも勝る名演技でしたと----

●「恋のおちて」のメリル・ストリープの葛藤する演技も見事

「ディア・ハンター」の後、メリル・ストリープとロバート・デ・ニーロが本格的に共演した作品に「恋におちて」(1984年)がある。家庭のある中年男女の恋愛を描いて秀逸だった。デビッド・リーン監督の「逢びき」(1945年)を下敷きにしているという話だったが、あまりそんな気はしなかった。八〇年代のアメリカだから、ヒロインはグラフィックデザイナーという仕事をしているし、ふたりが逢い引きを続けるのはニューヨーク・マンハッタンに通う通勤列車の中である。ふつうの男がふつうの女性に恋をして、次第にのっぴきならないところまで高まり、結局、家庭と恋のどちらをとるかまで追い込まれる。ただのラブ・ロマンス作品にならなかったのは、デ・ニーロとメリル・ストリープ主演だからだろう。

恋する女の切なさが観客の心に響いてくるのは、ベストセラー小説をクリント・イーストウッドが映画化した「マディソン郡の橋」(1995年)である。このとき、メリル・ストリープは原作のヒロインより実年齢は若かったが、初老の女性の揺れる心理を表現して絶妙の演技を見せた。監督のイーストウッドのうまさもあるのだが、夫とヒロインが乗る車の後ろにイーストウッドのピックアップトラックが信号で停車するところは、映画史に残る名シーンである。一言もセリフはなく、それぞれの車に乗る男と女の表情、ウィンカの点滅、車のドアの取っ手、信号のアップなどが交錯し、ふたりの心理を表現する。結局、ヒロインは車を降りず右折し、男は左折して別れてゆく。

その「マディソン郡の橋」に劣らず、「恋のおちて」のメリル・ストリープの葛藤する演技も見事だ。ふたりはマンハッタンに逢い引きのための部屋を借り、結ばれるために部屋にいく。しかし、夫と子供のいるメリル・ストリープは家庭を裏切れない。デー・ニーロの方も妻と子供の顔がちらつく。ふたりは何もせずに別れるが、デ・ニーロの様子をいぶかしんだ妻は問い詰め、「でも、何もなかったんだ」と言い訳するデ・ニーロに「なお、悪いわ」と言い返す。彼女は夫を許すことができずに家を出ていく。そんなものかなと僕は思い、妻に正直に話さない方がいいこともあるのだと学んだ。当時、僕は結婚して十年、幼いふたりの子供がいた。「恋におちて」のような状況ではなかったが、デ・ニーロが演じたふつうの男には、なんとなく共感したものだった。

そのデ・ニーロも昨年のアメリカ大統領選挙期間中、ドナルド・トランプの女性蔑視の会話が公開された後、「私はトランプの顔を殴ってやりたい」と発言し、世界にニュースとして流れた。そんなストレートなコメントをしたデ・ニーロに、僕は喝采を送ったものだった。僕だって、トランプの顔を殴りたくなったし、今だって殴りたくなる気分はおさまっていない。先日の記者会見を見ていて、さらに嫌いになった。というより、あきれ果てたというべきだろうか。トランプを見ていると、世界は悪い方にしか向かっていない気分になってくる。メリル・ストリープが発言したくなった気持ちがよくわかった。彼女にとっては、自分の国の大統領なのだから----

2017年1月12日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」-------夜間高校の時代・後編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■高校進学が夢だった----------------夜間高校の時代・後編

「キューポラのある街」では、主人公ジュンの高校進学の問題が大きなテーマです。ジュンの家は、父親が埼玉県川口の鋳物工場で働いていましたが、ある日、クビになります。父親がクビになると、その日から暮らしが成り立たなくなるようなその日暮らしです。母親は家で内職に励んでいますが、大した収入にはなりません。そういえば、当時は多くの家で母親が内職をしていましたね。

貧乏人の子沢山と昔から言われますが、中学三年生のジュンを筆頭に、小学生のタカユキ、その下に次男がいるのに、父親がクビになった日、母親は四人目の赤ん坊を生みます。父親は後に水戸のご老公になる東野英治郎です。母親は杉山とく子という地味な脇役女優が起用されました。

小学生のタカユキを演じたのは、この映画で名子役と言われるようになった市川好郎です。彼は「いつでも夢を」にも、浜田光夫の弟役で出ています。大人になっても東映のやくざ映画などに出演していましたが、いつの間にかいなくなりました。子役は大成しないといいますが、坂上忍はなぜかブレイクしています。

ジュンはスーパーマンというあだ名の担任教師に、「高校はどうするんだ」と訊かれ返事に困って沈黙します。教師は「何か困ったことがあったら、先生に話すんだぜ」と優しい言葉をかけます。先頃亡くなった加藤武の若き日の姿です。若いときもごつくて、あまり変わりません。加藤武や小沢昭一は今村昌平と麻布中学で同級生だったこともあり、今村一家ですからこの映画にも出演したのでしょう。小沢昭一などワンシーンに登場するだけで、ほとんどカメオ出演です。

当時、鳩を飼育することが流行しました。恥ずかしながら私も兄と一緒に二階の外に鳩小屋を作り、鳩を何羽か飼っていました。「キューポラのある街」でもタカユキと弟が鳩を飼育しています。遠くへ連れて行って、鳩を放つという訓練をしています。次第に遠くしていくのです。

タカユキは学校で禁止されている鳩の売買をして小遣い稼ぎをしています。その売買のトラブルが元で、高校生に屑鉄の盗みをさせられるというエピソードがあります。それを知ったジュンが相手と話をつけるのですが、その時に鳩一羽の値段が900円です。ジュンは分割で返すと交渉します。

当時、900円は子供にとって大金です。この映画より2年ちょっと早く公開された大島渚監督の監督デビュー作「愛と希望の街」(1959/11/17公開)は、オリジナルのタイトルが「鳩を売る少年」です。冒頭、街角で靴磨きに並んで鳩を撃っている中学生がいます。その貧しさに同情したブルジョアの女子高生が鳩を買おうとして「800円」と言われ、「あら、高いのね」と思わず口にします。

少年は「デパートで買うと1000円はします」と答えます。デパートで鳩を売っていたのですね。この「愛と希望の街」も貧しい母子家庭の少年の高校進学問題が大きなテーマでした。「愛と希望の街」の少年は鳩を売った金で食料品を買います。八百屋の店先に、「タマネギひと山20円」「ソーセージ1本15円」と出ています。

鳩の話をつけた後、ジュンとタカユキは中華屋で食事をしますが、その時に「あたい、高校いくよ。どんなことがあっても」と宣言します。その後、ジュンが志望高校を見にいくシーンがありますが、その時の吉永小百合の表情を見ると、「高校進学が夢だった」時代があったことがよくわかります。

父親は仕事がなくやけ酒ばかり飲んでいます。ある夜「ダボハゼの子はダボハゼだ。中学出たら、みんな働くんだ」と父親は怒鳴ります。しかし、「あたいは、タボハゼじゃないよ」とジュンは、自分の人生を切り開こうと努力します。

ところが、父親が復職し、ジュンが高校にいけるようになった時、ジュンは父親に頼らず自立して学ぶために、大きな会社の工場で働きながら定時制高校に通う道を選びます。「そんなこと言ったって夜間じゃ----」と言う父親や浜田光夫を説得します。定時制高校が肯定的にとらえられています。

これは「いつでも夢を」も同じで、勤労学生をたたえる風潮が当時あったことの証明でしょう。偉いな、彼らは----という雰囲気でしょうか。ちなみに鋳物工場で働きながら組合活動をやっている浜田光夫は、高校にいけなくてグレた過去を持っています。

「キューポラのある街」を現在の視点で見て違和感を感じるのは、朝鮮人問題かもしれません。ジュンと仲のよい同級生ヨシエと、タカユキの子分のサンキチは姉弟です、父親は在日朝鮮人で、母親は日本人です。ジュンの無学な父親は「朝鮮人とつきあうな」と頭ごなしに言い、ジュンの反発を買います。時代は北朝鮮の帰国運動の頃で、新国家建設のための帰国運動が盛り上がっています。

当時、北朝鮮は「労働者の地上の楽園」でした。ヨシエたちも北朝鮮へ帰国することになります。父親とヨシエとサンキチが出発するシーンが、この映画の大きなヤマ場で、公開当時の観客を感動させました。「新国家建設中だからビー玉なんかねぇだろ」と言いながらタカユキがサンキチに餞別のビー玉を渡すのは笑えます。フィクションですが、この人たちは、その後、どうなったのか、北朝鮮の実態を知った今は心配になります。

「いつでも夢を」は、工場の健康診断シーンから始まります。工員たちが我先にと診察室に向かいます。町医者の出張健診です。助手として娘のひかる、吉永小百合がくるので工員たちは騒いでいるのです。ひかるは「我が町の太陽」と呼ばれる明るい美しい娘。人気者です。行員のひとり勝利、浜田光夫が「ぴかちゃん、昨夜、学校休んだだろ」と言い、ふたりが定時制高校の同級生だとわかります。

健診の帰り、父親を荷台に乗せて自転車で走っているとき、乱暴な運転のトラックとぶつかりそうになり、怒鳴ってきた運転手、橋幸夫に吉永小百合は立て板に水の口調で啖呵をきります。よくある設定ですが、橋幸夫はこれでいかれてしまいます。

同級生の浜田光夫と橋幸夫の恋の鞘当てめいたものが始まるわけですが、中卒で働いているトラック運転手の橋幸夫は、働きながら定時制高校で勉強している浜田光夫を尊敬します。その時、「夜学」と口を滑らせて、浜田光夫に「定時制」と訂正されます。

定時制高校は四年です。浜田光夫は高卒資格を取り、大企業に入社して背広で仕事をするのが夢です。家は貧しくて、教育がないばかりに自分も職工風情にしかなれなかったことを悔やんでいます。強烈な上昇志向、大企業志向を発散させます。

吉永小百合は、そんな浜田光夫に「幸せってそんなことじゃないと思う」と反論し、授業の終わった後の教室で生徒全員を巻き込んだ議論が起こります。体の弱い松原智恵子も加わります。

その後、生徒たちが夜の道を「寒い朝」を歌いながら帰るところは、僕が好きなシーンです。先頭に自転車を押した吉永小百合、並んで浜田光夫、すぐ後ろを松原智恵子が歩きます。引いたショットになると、背景に巨大なコンビナートのような工場が映ります。巨大な煙突から煙が無防備に出ています。

「キューポラのある街」もそうでしたが、大工場が肯定的に描かれます。そこは労働者の生活を向上させてくれる「夢の工場」のような描かれ方です。まだ、公害問題などなかった時代の脳天気な描き方というのは、その後を知っている現在の視点からの批判になります。とにかく「いつでも夢を」の工場を背景にして全員で歌いながら帰るシーンは、理屈抜きで感動させます。

昭和38年の正月映画です。終戦から18年。明るい太陽のようなひかるにも暗い過去があることがわかります。彼女は戦災孤児。育ててくれた人も死に、目ばかりギョロギョロさせていたとき、和尚の紹介でやもめの町医者の養女になったのです。吉永小百合自身、東京の下町が大空襲にあった昭和20年3月10日の三日後に生まれています。

もし、吉永小百合が三日早く下町に生まれていたとしたら、生まれてすぐに戦災孤児になっていた可能性はあるわけです。もっとも、生後すぐの赤ん坊は生き残れなかったかもしれませんが。このように、大ヒット曲を元にした明るい調子の歌謡映画にも、戦争の影がさすのは、当時の映画ではよくあることでした。

そんな時代から、半世紀が過ぎました。我々の生活は豊かになったのでしょうか。貧しくて進学できないという人はいなくなったのでしょうか。今は高校進学は100パーセントに近くなっているでしょうが、中退も多いし、いじめの問題もなくなりません。大学進学、あるいは専門学校への進学者も増えています。

だからといって、経済的理由で希望の学校へいけない人もまだ存在しています。格差社会と言われるようになって、収入格差が教育格差になり、生涯賃金の差となる、などとも言われています。東大性の親の年収調査をしたら、裕福な家庭ばかりだったとか、家庭の収入と教育の関係は未だに大きいようです。奨学金の返済も滞ったり、卒業しても教育ローン返済に苦しんでいるという話も聞きます。

それでも、半世紀前よりはましになっていると慰めるより仕方がないのでしょうか。

ちなみに、「いつでも夢を」の監督は野村孝です。「いつでも夢を」と同じ年に石原裕次郎主演「夜霧のブルース」(1963年)という秀作を撮り、翌年、隠れた名作「無頼無法の徒 さぶ」(1964年)を撮ります。山本周五郎の原作を小林旭、長門裕之、浅丘ルリ子で映画化したものです。

映画ファンに最も人気があるのは「拳銃は俺のパスポート」(1967年)です。「拳銃」と書いて「コルト」と読ませます。宍戸錠主演の殺し屋映画で、最後の埋め立て地でのひとり対大勢の対決シーンは伝説になりました。ユーチューブで、そのシーンだけは見られます。おすすめします。野村監督は、2015年の5月5日に88歳で亡くなりました。

2017年1月 5日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」------夜間高校の時代・前編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■高校進学が夢だった----------------夜間高校の時代・前編

夜間高校、夜間中学というものがありました。今もあるのでしょうか。古い人は「夜学」と言います。「いつでも夢を」(1963年)という映画の中で、「夜学」と言ったトラック運転手の橋幸夫に、「定時制高校」と呼び方を訂正する定時制高校生の浜田光夫が登場しますが、「定時制」という呼び方が昭和三十年代後半には定着しました。大学は「定時制」とは言わず、「一部・二部」という呼び方ですが、それはいつ頃からでしょうか。吉永小百合は仕事が忙しく、確か早稲田大学の第二文学部卒業だったと思います。

夜間中学は昭和26年(1951年)7月16日に初めて開校します。東京都足立区立四中で、入学式には四人しかいませんでしたが、9月19日には定員いっぱいの100人になりました。戦後6年、当時は教育に無理解な親が多く、貧しい家にとっては子供も一家の労働力でした。

特に足立区は2000世帯のスラム街と貧農、零細な商工業者が多かったのです。東京都教育委員会は「未就学生徒の対策に他によい方法がないので」と認可しましたが、中学は義務教育というタテマエを重んじる文部省は設置に反対をし認めておらず、現在まで黙認という形を取っています。

教育は、貧困によって敗北します。貧しい家の子供たちは、子供のうちから働き金を稼ぐことを強いられます。したがって、進学の問題は貧しい家の子供たちにとって、大きな夢となります。昭和三十年後半までは、中学を出たら働く子供たちが大勢いました。

高度成長期、彼らは「金の卵」と呼ばれましたが、結局は単なる労働力としてしか見られませんでした。しかし、東京オリンピックが開催され、高度成長が加速された頃、高校進学率が70パーセントを超えます。僕が高松市立桜町中学を卒業したのは昭和42年3月でしたが、その時、50人ほどいたクラスで就職したのは一名だけでした。

僕は中学でバスケット部にいたのですが、一年先輩でキャプテンをつとめていた人が高校受験に失敗して高校の定時制に入りました。僕が高校に入ったとき、一年定時制に通っていた彼は全日制に改めて入学し、僕と同学年になりました。当時、定時制は働きながら通う人もいたのでしょうが、そういう受験浪人の人の受け皿になりつつあったことも事実です。

今回は「高校進学が夢だった頃 夜間高校の時代」と題して、昭和を振り返ってみたいと思います。そのためのテキストは「いつでも夢を」と「キューポラのある街」です。どちらも吉永小百合主演です。「キューポラのある街」は昭和37年、1962年4月8日公開。浦山桐郎監督のデビュー作で、兄貴分の今村昌平が脚本に協力しています。吉永小百合が多くの賞に輝いた作品です。これで吉永小百合は女優になったと言われました。

余談ですが、浦山監督は作品数が少ないので有名で、「キューポラのある街」の後、和泉雅子主演「非行少女」(1963年)を撮り、六年後に三作目「私が棄てた女」(1969年)を発表し、また6年間何も作っていません。

結局、55年の人生で監督作はアニメを含めて9本です。劇場映画の最後は吉永小百合の『夢千代日記」映画版でした。浦山監督を恩師と言いつづけた吉永小百合ですが、映画の「夢千代日記」で夢千代が死ぬ時の臨終のセリフについては意見が対立し、吉永小百合は譲らなかったそうです。

「夢千代日記」は早坂暁脚本でNHKでシリーズが何度か放映された、吉永小百合の代表ドラマです。第一シリーズは林隆三だったかな、次のシリーズは松田優作、確か石坂浩二が出たシリーズもあったはずです。毎シリーズ、主要な役で男優が出ます。

夢千代は胎内被爆者で、映画では発症して死に至ります。その時、浦山監督は夢千代に「ピカが憎い」と言わせようとし、長く夢千代を演じてきた吉永小百合は「夢千代は絶対にそんなセリフは言いません」とがんばった。夢千代ファンだった僕もそう思います。夢千代はそんな性格の人じゃない。結局、監督と主演女優は妥協し、完成した映画では夢千代は「ピカが----」と言って死にます。「憎い」は言わなかったのです。

私は、一度だけ、浦山監督と呑んだことがあります。何しろ、有名な酒乱ですから、戦々恐々として呑んでいました。1980年か81年、もう三十五年近く前のことです。フリーライターの人と三人でした。いろいろ話を聞きたかったのですが、僕が勘定を持たなければいけない場だったのと、酒乱の伝説におびえてロクに話を憶えていません。今から思うと、せっかくの機会だったのに残念でした。

さて、吉永小百合は、昭和37年、橋幸夫とのデュエットで「いつでも夢を」をヒットさせ、その年の大晦日にレコード大賞を受賞します。翌年の正月1月11日に「いつでも夢を」が公開されました。昭和20年3月13日生まれの吉永小百合、17歳の一年間は彼女にとって記念すべき年になりました。

「いつでも夢を」も定時制高校が舞台になります。「キューポラのある街」で定時制高校に進むことにしたジュンですが、「いつでも夢を」では父親の病院を手伝いながら定時制高校に通うヒカルとして登場します。

昭和37年、まだ多くの若者たちが経済的理由から定時制高校で学んでいました。文部科学省の資料によると、高校進学率は昭和25年は42.5パーセント、昭和29年に50パーセントを超え、昭和36年には60パーセント、ということは10人の内4人が中学を卒業して働いていたことになります。

昭和40年に70パーセント、昭和45年には80パーセントを超え、昭和50年には91.9パーセントになります。男女別に見ると、昭和35年には男子59.6パーセント・女子55.9パーセントと3.7パーセントの開きがありましたが、昭和44年以降は女子が男子の進学率を上回ります。昭和50年には男子91パーセント、女子93パーセントで逆転します。

2016年12月29日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」------親子断絶の時代・後編



年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■昭和28年に封切られた二本の映画------親子断絶の時代・後編

昭和28年、「東京物語」より五ヶ月早く公開された木下恵介監督の「日本の悲劇」という映画がありました。小津、木下といえば松竹の二大巨匠です。中井貴一のお父さん、佐田啓二は小津映画にも木下映画にも出演しかわいがられた俳優ですが、佐田啓二と大船撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の娘・益子が結婚するときには、小津安二郎と木下恵介が仲人をつとめました。ふたりとも生涯、独身だったのです。木下恵介にはゲイ疑惑がありますが、小津安二郎には愛人の芸者がいたという証言もあります。

川崎長太郎という私小説作家がいて、彼は小田原の芸者に惚れて、彼女との交流を何篇かの小説にしているのですが、その中に大津監督という人物が登場します。一説によると、川崎長太郎は小津安二郎と芸者を取り合って振られたということですが、その恨みから小説に書いてしまったのでしょうか。私は昔、その小説を読みましたが、小説としてよくできていたという印象しかありません。

さて、木下監督の「日本の悲劇」も「親子の断絶」「年老いた親と成人した子供たち」の問題を描いた、それも強烈にセンセーショナルに描いた映画でした。タイトルも「日本の悲劇」と大仰なものですが、映画は冒頭に当時のニュースフィルムを編集して流し、政治の貧困や社会的課題を声高にメッセージします。公開当時、「東京物語」より「日本の悲劇」の方が衝撃を与え、高く評価されました。

東大を出て松竹に入社し、最初に「東京物語」のフォース助監督としてつき、大島渚などと共に松竹ヌーヴェルヴァーグのひとりとして何本かの映画を監督し、後に作家となって直木賞を受賞する高橋治が、「絢爛たる影絵」という小津安二郎を描いた長編で、こんなことを書いています。

----昭和二十八年、六月二日の夜、私は大船駅のフォームに座っていた。何本も電車が来ては発車していった。だが、私には乗って帰ろうという気が全く起きないのだ。いや、その気力もなかったといった方が正しいかもしれない。それはその日撮影所で試写を見てきた一本の作品にとことん打ちのめされたからに他ならない。木下恵介、脚本、監督「日本の悲劇」である。

その後、高橋治は映画評論家の佐藤忠男さんの批評を引用します。
----木下恵介の「日本の悲劇」は、「東京物語」より露骨に息子と娘に頼り切っている母親を、息子と娘が冷酷に捨ててしまう話である。木下恵介は、愛情にみちみちた家族の映画を何本もつくったことによって大衆的な名声を得たが、彼の描く家庭は、しばしば、社会の荒波の中で解体の危機にさらされているものであった。家族の結びつきのもろさを暗示することによって、逆に、その貴重さをきわだたせるということは、日本のすぐれた庶民映画の基本的な方法であった。

その後、高橋治は、こう続けます。
----「日本の悲劇」を高く評価するのは佐藤だけではない。
「思い出すよ、あの晩のことは。しんどかったな。酒を浴びるほど呑んだけど酔えない。なに考えてるかっていえば、大船やめて、荷物まとめて故郷へ帰ろうかっていうことばっかりだ。このまま撮影所にいて、一生かかったってあれ以上のものは作れっこないと思ったものな。六月二日だ。日まで覚えてる」篠田正浩もそういう。

ちなみに、高橋治は「風の盆恋歌」が代表作で、おわら風の盆を全国的に有名にした人です。その後、「風の盆恋歌」という歌もできて、誰にでも知られるようになりました。

さて、高橋治や篠田正浩にそれほどの衝撃を与えた「日本の悲劇」は、どんな作品でしょうか。日本の現状を大上段に断罪するようなニュース映像が流れた後、熱海の旅館街が映ります。旅館の二階で宴会が行われていて、酌婦の嬌声なども聞こえてきます。旅館の玄関でギターを弾いて歌っている流しがいます。何と佐田啓二です。彼は旅館の仲居である春子に呼ばれて、二階にきて酔った客の注文に応じて歌います。春子は客にもたれたりして、だらしない姿を見せます。それが、現在の春子です。

春子を演じるのは、初めて主演に抜擢された望月優子です。彼女は、この映画だけで映画史に残りました。戦争未亡人の春子は、戦後の混乱の中、闇屋をやったりして、息子と娘を育ててきました。長女の歌子を演じるのは桂木洋子です。当時のアイドル女優で、いろんな映画に出ています。音楽家の黛俊郎と結婚して引退したとき、涙したファンは多かったといいます。

息子は田浦正巳です。俳優座養成所で仲代達矢と同期でしたが、仲代より先に売れました。仲代は翌年の「七人の侍」の道を行く浪人でほんの一瞬しか映らないような役をやっていますが、それより一年前に「日本の悲劇」の重要な役で出演しました。他にも、いろいろ出ていた人でしたが、いつの間にか田浦正巳は消えてしまいました。仲代達矢が八十をとっくに過ぎた今も現役の役者をやっているのを考えると、人生は長いと感じます。

何かというと「苦労して育てた」と言う春子ですが、子供たちは小さい頃に母の仕事先を訪ねたとき、男たちに媚びを売るだらしない酌婦の姿を見て以来、母を嫌悪し恥じています。今もべたべたと子供たちを頼る母は、うとましい存在です。「おまえたちを苦労して育てた」と言われると、うんざりし、つい母親をうとんじてしまいます。そんなとき、医学生である息子には養子話が起こります。大きな病院の院長から養子になって跡を継いてほしいという話で、息子はすっかり乗り気です。

そんな現在の話の間に、苦労した母の昔のエピソードが描かれます。春子は汚いこともやったし、男にもだらしなかったし、闇屋時代には法律にそむくこともやった。きれいごとでは生きてこれなかったと春子は思っていますが、子供たちはそんな春子に反発を感じるし、恥じることも多かったのです。今の春子に優しくしてくれるのは、旅館の板前の高橋貞二と流しの佐田啓二だけです。

ある日、娘の歌子が妻子持ちの男と駆け落ちし、相談に東京の息子のところを訪れますが、すでに大きな病院の院長宅で広い自室を与えられて暮らしている息子は、早く養子の手続きをしてほしいとしか言いません。絶望して帰路に就いた春子は、乗換駅(湯河原駅)のホームで呆然とベンチに座ります。

やがて列車が近づいてきたとき、春子は衝動的に飛び込んでしまいます。このシーンは衝撃的で、本当に飛び込んでいるように見えます。映画の衝撃が強かったのは、このシーンの驚きもあったのでしょう。望月優子は「死んでもいい」と思いながら決死の撮影をしたと、後に自伝で告白しています。

「日本の悲劇」は「東京物語」の五ヶ月前の公開です。小津安二郎も六月二日の撮影所内の試写を見ています。この日、小津は日記に「木下恵介の『日本の悲劇』の試写を見る。野心作ならむも一向に感銘なく、粗雑にして、すの入りたる大根を噛むに似たり」と書いています。いかにも小津らしいですね。しかし、「日本の悲劇」が小津に何らかの影響を与えたことは間違いないと思います。

子が親を棄てること、親と子の断絶、家族の崩壊、そういったテーマを「おれはあんな風には描かない」と思ったのかもしれませんが、テーマとしては同じものを描いています。「日本の悲劇」があったから、「東京物語」は、あんな物語になり、あんな描き方になり、普遍的な価値を得たのではないか、そんな風に思います。

2016年12月22日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」-親子断絶の時代・前編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■昭和28年に封切られた二本の映画------親子断絶の時代・前編

日本映画のオールタイムベストワンに選ばれたり、海外ではイギリス映画協会が10年ごとに選出する「映画監督が選ぶベストテン」で2002年度に一位に選ばれるなど、高い評価を受けているのが小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)です。最近も山田洋次監督が「東京家族」というタイトルでリメイクし、小津監督にオマージュを捧げました。

私は日本映画のベストワンとしては、「東京物語」、成瀬巳喜男監督の「浮雲」のどちらを挙げるか迷うところですが、ベスト5なら「東京物語」「浮雲」「幕末太陽傳」「秋津温泉」などを迷わずに選びます。他に黒澤明作品を一本くらい入れるかもしれません。

「東京物語」は昭和28年、1953年11月3日に公開されました。日本が独立し、GHQの検閲がなくなって一年半です。黒澤明監督の「七人の侍」は翌年の四月公開ですから、「東京物語」公開時にはまさに撮影真っ盛り。当時、日本の映画界は観客も増え続けており活気を呈していました。

昭和28年は、どんな年だったか、検証してみましょう。

1月17日付けの朝日新聞で「意表に出る演技、代表的アプレ芸人」と紹介された芸人がいます。トニー谷です。これがマスコミ初登場でした。この後、トニー谷は日本中の人気者になります。「ざんす、ざんす、さいざんす」という言葉遣いも流行しました。そろばんをギターのように抱えたりしてチャカチャカ鳴らして踊る、変な芸人でした。

私が憶えているトニー谷は、ずっと後にテレビ「アベック歌合戦」の司会をやっている姿です。「あなたのお名前なんてぇーの」とか、「そもそもふたりの関係は?」と歌い踊りながら質問します。それに対して出演したアベック(今ならカップル?)が、「恋人同士でございます」なんてヘンな節をつけて答えます。舟木一夫と松原智恵子が主演した映画では、この番組に出るふたりが見られます。それくらい全国的に有名でした。ただし、今見ると、ちょっと恥ずかしいですね。

1月9日には今井正監督の「ひめゆりの塔」が公開され、大ヒットします。GHQの検閲があった占領中には描けなかった、その時点から八年前の沖縄戦の物語です。1月末には五味康祐と松本清張が芥川賞を受賞します。後に五味康祐は剣豪小説ブームを生み出し、松本清張は社会派推理小説ブームを生み出します。2月1日にはNHKがテレビの本放送をスタートさせます。街頭テレビが設置され、今から見れば、小さくて解像度の低いブラウン管に大勢の人が群がりました。NHKの「ジェスチャー」もスタートします。

政治の世界では吉田茂が「バカヤロー」と言って、国会が解散。海外ではソ連のスターリンが死に、7月末には3年1ヶ月ぶりに朝鮮戦争が休戦になります。それ以来、38度線を境にしての休戦状態が、今も続いているわけです。8月には民放の日本テレビが放送を開始。9月になると、ソ連書記長としてフルシチョフが登場します。この後、フルシチョフはスターリン批判を行い、粛正や暗殺などスターリンの悪行を暴き、ソ連は「雪解け」と言われます。

「東京物語」が公開された11月3日、国会では吉田茂首相が「自衛隊は憲法内での軍隊。しかし、戦力ではない」と答弁し、「戦力なき軍隊」と言われ、その年の流行語になります。「××なき××」と言い方はいろいろ言い換えられました。12月24日には奄美群島返還の日米協定の調印が行われ、八年ぶりに奄美群島が日本に戻ってきました。翌日のクリスマスの日、日本初のスーパーマーケット「紀ノ国屋」が青山にオープンします。

そんな時代を背景にして「東京物語」は制作されましたが、物語の大きなテーマは「親と子の関係」「家族の崩壊」でした。具体的に言えば「年老いた両親と成人した子供たち」の関係です。これは普遍的な課題ですが、戦後のモラルの変化を敏感に読みとった制作者たちの問題提起でもありました。すでに、家族関係は大きく変わろうとしていたのです。二十年ほど後、核家族という言葉が生まれ、やがてその言葉も死語になりますが、戦後の家族というものの変化の兆しを描いた作品かもしれません。

物語は尾道から年老いた両親が上京するところから始まります。東京には医者を開業している長男と美容院を開いている長女、それに戦死した次男の嫁がいます。また、大阪に三男がいて、尾道で両親と同居して教師をしている末の娘がいます。長男の家族は妻とまだ小学生の息子がふたり、長女のところには髪結いの亭主がいます。子供たちは自分たちの生活に精一杯で、両親の相手をしている余裕がない。別に邪険にしているつもりはないけれど、相手もできないというので、金を出し合い二人を熱海に静養にいかせますが、旅館がうるさくて老人二人はそそくさと東京に帰ってきてしまいます。

老夫婦は「私たちはなんぼかましですよ」と、言い聞かせるように子供たちのことを認めようとします。『長男は医者だし、長女は美容院をきちんとやっているし、戦死したのもひとりだけだし」と言い聞かせながら、「わたしたちゃ、なんぼかましですよ」と老いた母が言うとき、その言葉の裏には大きな落胆があると感じさせます。老いた母親役の東山千栄子が言う「ながいっきゃ、するもんじゃのう」という言葉も、年老いてこんな子供たちを見るのなら長生きなどしたくなかったという意味に聞こえてきます。それが、演出のうまさです。

結局、親身になって相手をしてくれたのは、戦死した次男の嫁の原節子だけでした。老人たちは大阪に寄って三男を訪ねますが、母親の具合が悪くなり、尾道に帰った途端に亡くなります。原節子を含めて子供たちが尾道に集まり、通夜・葬儀が続きます。葬儀を抜け出した三男が、しみじみと「孝行をしたいときには親はなし、さればとて墓に布団はきせられず」とつぶやくように、子供たちだってそんなにひどいわけじゃない。しかし、成人し自分の家族や生活を持った子供にとって、年老いた親は荷物になるということを、明確に描き出します。

超がつく高齢者社会を迎え介護が大きな問題になる現代から見れば、まだまだ深刻そうには見えませんが、「親の面倒を見ること」や「親子の断絶」は、いつの時代にもあることです。「東京物語」は、そんな普遍的なテーマを静かに感じさせるが故に、60年以上たった今も名作として高く評価されているのでしょう。

2016年12月15日 (木)

■映画と夜と音楽と…755 音のない世界で生きること


【マラソンマン/奇跡の人/愛は静けさの中に/エール!】

●耳鼻咽喉科の診察用椅子も歯医者の椅子に劣らない拷問器具になる

一年ほど前から耳鳴りがひどくなった。特に左の耳である。三年前、定期検診で左の耳の「聴力低下」を指摘され、その後、毎年、左耳は「聴力低下」の判定結果が出る。低い周波数の音か、高い周波数の音が聞こえにくくなっているのだろう。年齢と共に聞こえる音域が狭くなるのかもしれない。しかし、聴力の低下は、「老化」だとあきらめていた。赤瀬川原平さんの言い方にならえば、「老人力がついた」ことになる。物忘れをしたり、耳が遠くなったり、歯がガタついたり、歩行に時間がかかるようになると、立派な老人力がついたわけである。

しかし、起きている間、四六時中耳鳴りがしている状態は不快だった。「耳鳴りよ、耳鳴りよ、今日もまたおまえと私が残ったね」と歌ってばかりもいられない。四国から自宅に帰って以来、ここ数週間で特にひどくなった気がするのはなぜだろう。耳鳴りの原因は、ストレスの場合もあるという。家庭にストレスがあるのだろうか。とうとう我慢できず、先日、近くの耳鼻咽喉科を受診した。医者嫌いの僕が待合室で一時間近く待って診てもらったのだから、よほど耐え難かったのだ。それと、耳が聞こえなくなる不安も現実のことに思えたからだった。

今年九十一になった父は両耳に高価な補聴器を入れているが、僕の言葉をまったく理解しない。聞こえないのだ。母親は片耳に補聴器を入れると多少は聞こえるらしく、何とか会話が成り立つけれど、実家の裏で暮らしている間、父とはほとんど筆談だった。あるいは、父のアイフォンにメールを送るしかない。父が耳が遠くなるのは、早かった。二十年前には、すでに補聴器の世話になっていたのではないか。現在よりは聞こえていたらしいが、七十歳前後でかなり耳が聞こえなくなっていたと思う。

僕は子供の頃から、父親の方に似ていると言われてきた。父と十いくつ離れた叔父がいるけれど、その叔父の子供の頃にそっくりと親戚の間でよく言われた。ということは、父の遺伝が強いのだ。だから、僕も五年もすれば耳が聞こえなくなるのだろうかと心配になる。それに、僕は子供の頃、中耳炎で長く医者に通った。耳の炎症を冷やすために耳朶の周りに湿布薬を含ませたガーゼを巻き、三角形のビニールカバーをして生活していた。そのカバーには三カ所にヒモがついていて、頭の上をまわし顎の下で結んでいた。子供心に、ひどくカッコ悪いと思ったものだ。今は、そんな姿の子供を見かけない。治療法が変わったのだろう。

そんなわけで、一度診てもらえば安心する(?)のではないかと思い、思い切って重い腰を上げて耳鼻咽喉科の門をくぐった。ネットで調べた最も近い病院の耳鼻咽喉科の先生は女医さんとのこと。それも、ハードルを低くした要因かもしれない。その日も起きたときから耳鳴りがおさまらず、待合室で座っている間にもキーンという音が耳の奥で続いていた。診察の結果は「中耳に問題がある。耳抜きができないでしょ」とのこと。治療はまず左の鼻に空気を通し、細長い金属の鉗子のようなものを耳管と喉と鼻腔が一緒になるところに差し込み、空気を噴出しながら薬を吹き付けるという。「動くと危ないので動かないこと。少し痛いです」と女医は言った。

そのとき、僕は「マラソンマン」(1976年)を思い出した。何十年前であっても、あのシーンは絶対に忘れられない。歯医者の椅子に座らされたダスティン・ホフマンが元ナチの医者ローレンス・オリビエに拷問されるシーンだ。ダスティン・ホフマンは麻酔なしで歯を削られるのである。あの、歯を削る機械がキーンと回転する音は、まるで耳鳴りの音のようではないか。耳鼻咽喉科の診察用椅子も、歯医者の椅子に劣らない拷問器具に変わる。ホントに痛かったし、治療が数十秒だったから我慢できたけど、あれを数分続けられたら「勘弁してください。何でもします」と僕は言うだろう。

●「音」の記憶だけで少年時代からの生涯を描いた開高健の小説

目を瞑ると視覚を休めることはできるが、聴覚は休むときがない。そういう意味では、嗅覚も触覚も同じだけど、視覚と聴覚は人間の五感の中でも大事だし働き者だと思う。さらに耳はどんな音も聞いてしまうが、人間の聴覚には聞きたいものを選び出す能力があるらしい。雑踏の中で友人が話す言葉を聞き取れるのは、そうした選別能力のおかげだという。補聴器をしている人の話を聞くと、雑踏の中での会話が一番わからないそうだ。人の声も雑音も同じ音のレベルとして受信するからだろう。人間の能力は不思議である。

開高健に「耳の物語」という長編小説がある。少年時代から大学卒業までを描いた「破れた繭」、寿屋(サントリー)に入社し芥川賞を受賞して作家になった執筆時までを描いた「夜と陽炎」の二巻本として新潮文庫から出ていたが、その後、文庫ぎんが堂で一冊にまとまった。開高健は自伝的(十九歳で父親になった)小説をたくさん書いているけれど、「耳の物語」は聴覚の記憶を中心にした自伝小説である。文庫の裏表紙には「幼い日の耳に残る草の呼吸、虫の羽音。焼夷弾の不気味な唸り。焼け跡の上を流れるジャズのメロディ。妻と娘が浴びせかける罵声。アラスカで聞いたバロックの名曲----。『音』の記憶をたよりに生涯を再構築」とある。

開高健と言えば、味覚の人である。昔、「新しい天体」というグルメ小説を読んだら、描き出される食べ物をすべて食べたくなった。今でも、その中で紹介されたタレで食べるたこ焼きの「明石焼き」、宍道湖で獲りたての白魚を辛子醤油につけて食べる「踊り喰い」などを憶えている。短編「ロマネ・コンティ」を読めば高価なワインを飲みたくなるし、アマゾンやゴビ砂漠の旅行記を読めば、その土地で食べる豪快な食事を実際に食べたくなる。その開高健が聴覚の記憶を連ねた「耳の物語」は、「輝ける闇」「夏の闇」ほどの感銘深さはないが読んでみると不思議な世界が体験できる。

「耳の物語」を読んで、僕も自分の耳の記憶を探ってみたことがある。しかし、いくら甦らせようとしても、最初の音の記憶がわからない。五、六歳の頃に親戚の誰かが口にした言葉が浮かんできたり、ラジオ放送の断片が浮かんできたりしたものの、明確に思い出せるものがない。小学生の後半くらいからは、あのときにこんな音楽が流れていたとか、あのときにこう言われたといった記憶を時系列で浮かべることができる。テレビ番組の主題歌などを人々が懐かしがるのは、それが耳の記憶だからだろう。僕も「月光仮面」や「怪傑ハリマオ」の主題歌が、当時の音で甦る。中学生の頃に商店街のスピーカーから流れていたシルヴィー・バルタンの「アイドルを探せ」も甦ってきた。

映画だって音の記憶から甦る場合がある。トーキーになって以降、映画を構成するのは映像と音である。視覚と聴覚を働かせなければ、映画は楽しめない。映画の音には、セリフやナレーション、効果音、音楽がある。その中で特に映画の記憶と密接に結びつくのが音楽だ。「太陽がいっぱい」のニーノ・ロータが作った音楽を思い出すと、十三歳の僕自身の姿が甦る。「サウンド・オブ・ミュージック」や「HELP!四人はアイドル」なども、僕の中学生時代の思い出だ。だから、聴覚に傷害を持つ人の「音のない世界」のことは想像もできなかった。

●映画の中の描かれ方が違ってきたのは人々の意識の変化か?

ヘレン・ケラーは戦前に日本を訪れ、「見えず・聞こえず・話せない三重苦の人」なのに健常な人に勝る偉業を成し遂げた女性として日本人を驚かせた。それから何十年かして「奇跡の人」(1962年)が公開された。タイトルはヘレン・ケラーその人を指すのだと僕は思っていたが、原題(直訳すれば「奇跡の労働者」)を知って、幼いヘレンに文字を教え知性を甦らせたサリヴァン先生がタイトルになっているのだとわかった。確かに、視覚と聴覚を失い、その結果、言葉を理解できず話せない少女に言葉を教えることは奇跡的な仕事である。だからこそ、井戸端で水を手に受けたヘレンが「ウォーター」の意味を理解する瞬間が感動的なのだ。彼女には触覚しかない。あのシーンを思い出すと僕はいつも、人間はすばらしいと実感する。

同じように僕が忘れられない聾唖者の物語に、「愛は静けさの中に」(1986年)がある。「奇跡の人」と同じく原作は舞台劇である。島の聾学校に赴任した教師ジェイムズ(ウィリアム・ハート)は、学校の雑用係として働くサラ(マーリー・マトリン)と出会う。彼女は聾学校の生徒で優秀だったが、今は堅く心を閉ざしている。ジェイムズはサラに惹かれ、やがてふたりは愛し合うようになる。一緒に暮らし始めたふたりだが、サラにはジェイムズは自分を愛しているのではなく、憐れんでいるのではないかという疑念が消えない。

「愛は静けさの中に」は実際の聾唖者であり、映画出演は初めてのマーリー・マトリンをヒロインに抜擢し大成功した。彼女は、この作品でアカデミー主演女優賞を受賞し、手話で挨拶する姿を観客たちはステンディング・オベイションで称えた。しかし、同じく主演男優賞を受賞したウィリアム・ハートは、長時間演台を独占してしゃべりまくり、観客をシラケさせた。映画の役が感動的だっただけに、受賞挨拶を利用して己の考えを主張するウィリアム・ハートの姿は共感を呼ばなかった。同世代(理屈っぽい世代だ)の俳優としてウィリアム・ハートが好きだった僕は残念に思った。

昨年、「エール!」(2014年)というフランス映画を見た。フランスの田舎で農業を営むペリエ一家は父母とポーラと弟の四人家族だが、両親と弟は聴覚障害者である。家庭内では手話で会話し、ポーラは家族と村の人たちとの意志疎通の手助けをしている。買い物にも一緒にいき店の人に手話を通訳するし、父親が村長の方針に反対し選挙に立候補したときには、父親の手話での演説を通訳する。家族でひとりだけ耳が聞こえるから、彼女にはいろんな負担がかかってくる。しかし、まだ十代半ばの少女だ。自分がいなければ家族が困るとわかっていても、様々な悩みが生まれることになる。

ある日、音楽教師がポーラの声に驚く。彼女の音楽的才能を見い出し、その歌声は奇跡的だと絶賛する。彼女が淡い恋心を抱いていた男子生徒とふたりでデュエットすることになり、ポーラは家族に内緒で練習を続ける。教師はパリの音楽学校のオーディションを受けることを強く勧め、ポーラは迷いながらも受験を決意する。しかし、彼女の歌声を聴けない(才能を実感できない)家族は理解を示さず、ポーラも自分がいなくなれば家族が困ることになると思いオーディションをあきらめる。しかし----、という物語である。この作品では、聴覚障害の父母と弟が普通に描かれていて、僕は好感を抱いた。

かつては、障害者に対して過剰に思い入れた作品が多かった。センチメンタリズムに彩られた描き方だった。しかし、世の中の意識が変化したせいか、聴覚障害があるとしても、それは「怒りっぽい人」「涙もろい人」のような性格描写と同じような捉え方で、「耳は聞こえません。それが何か?」という感じの描き方になっている。「愛は静けさの中に」では、「耳が聞こえないことに対する同情を、男は愛だと思っているのではないか」という疑念が聴覚異常のあるヒロインを苦しめた。その中から、「障害者の真の意味での精神的自立とは?」というテーマが浮かび上がってきた。まだ、社会に対してそんなメッセージを送らなければならなかった時代だった。

しかし、二十八年後に制作された「エール!」が描く世界はまるで違った。両親はあけっぴろげで、子供たちの前でも手話で愛を交わしセックスについて話をし、弟は耳が聞こえないことを利用(ちょっと問題ある言葉かもしれないが、まあそんな感じなのだ)して姉の友だちを口説き、ちゃっかりセックスするし、ポーラはそんな家族を負担に思ったり、時には怒鳴ったりする。「エール!」を見ていると、耳が聞こえないことはちょっと不自由だけど、聞こえる人とそんなに大きな違いはないよ、と思えてくるのだ。たぶん、人々の意識が「障害者は特別な存在ではない」という認識に変わってきたのだろう。そういう変化は、僕には歓迎すべきことに思える。

2016年12月 8日 (木)

■映画と夜と音楽と…754 六〇年代のスパイたち


【コードネームU.N.C.L.E./0011ナポレオン・ソロ/荒野の七人/大脱走/狼の挽歌】

●五十年ぶりにリメイクされた「0011 ナポレオン・ソロ」

ガイ・リッチー監督の「コードネームU.N.C.L.E.」(2015年)をおもしろく見た。六〇年代のスパイ映画の雰囲気を再現していて、懐かしさを感じてしまう。ストーリーも、いかにも六〇年代風だった。冒頭、ベルリンのチャーリー検問所を抜けて東ベルリン側へ潜入するナポレオン・ソロの描写も、スタイリッシュな映像とキレのよいカットつなぎでワクワクさせる。ソ連のスパイのイリヤ・クリヤキンの登場で、さらに期待感が盛り上がる。イリヤ・クリヤキンの追跡は執拗で、「ターミネーター2」の液体金属ターミネーターを連想させた。

CIAのナポレオン・ソロとKGBのイリヤ・クリヤキンをどうコンビにするのかと思っていたら、ナチの残党を悪役に設定し、ナチと手を結ぶ富豪のファシストが核弾頭を開発するのを防ぐのが米ソ両国の共通利益になるため、一時的に手を結ぶことになる。ナポレオン・ソロとイリヤ・クリヤキンは、それぞれ相手を出し抜けという指令を受けながら協力する形になる。そこに、イギリス情報部MI6などもからんできて、六〇年代スパイ映画の要素がほとんど入っていた。ただ、ナポレオン・ソロを演じたヘンリー・カヴィル(「マン・オブ・スティール」主演)がクラーク・ケントに見えて仕方がなかった。

「0011ナポレオン・ソロ」シリーズがテレビ放映されていたのは、僕が中学生の頃だった。東京オリンピックがあった一九六四年に始まり、四年後に終了した。その間、映画版が八本公開されている。僕は中学への通学途中で見た映画のポスターをよく憶えているのだが、あれは第一作「0011ナポレオン・ソロ/罠を張れ」(1964年)だったのだろうか。ひび割れた鏡に、ソロの姿が何人も映っているシーンが配置されていた。二作目の「消された顔」(1965年)だったような気がする。当時、早川ポケットミステリではスパイものがやたらに翻訳されていたけれど、「ナポレオン・ソロ」シリーズも原作なのかノベライゼーションなのかはわからないが何冊も出版された。

ちなみに、当時のポケミスのカタログを調べてみると、マイクル・アヴァロン作「ナポレオン・ソロ/アンクルから来た男」が第一弾だった。919番で、ひとつ前の918番はドナルド・ハミルトン作「待伏部隊」である。これは、マット・ヘルムのシリーズ第六弾だった。部隊シリーズは、ディーン・マーチン主演で映画化されている。927番が記念すべきリチャード・スタークの第一作「悪党パーカー/人狩り」である。933番では「電撃フリント」が出ている。こちらはジェームス・コバーン主演で映画化された。「ナポレオン・ソロ」シリーズは短期間で発行され、976番「ソロ対吸血鬼」は「調査に赴いたソロとクリヤキンを恐怖のどん底に叩き込むシリーズ第八弾」と書かれている。

カタログを見て思い出したのだが、「エイプリル・ダンサー・シリーズ」というのもあった。「アンクルきっての女情報部員シリーズ」であり、その第一弾として「アンクルから来た女」(マイクル・アヴァロン作)が980番で出ていた。ただし、あまり売れなかったのか、シリーズ第二弾「燃える女」以後は出ていないようだ。もっとも、同時期にギャビン・ライアルの「最も危険なゲーム」「深夜プラス1」「本番台本」が立て続けに翻訳されているし、1007番ではディック・フランシス「興奮」が「競馬スリラー・シリーズ」と銘打って翻訳された。これが、ディック・フランシスの本邦初登場だったと記憶している。半世紀前のことだった。

●「荒野の七人」の最後のガンマンもこの世を去った

先日、ロバート・ヴォーンの死亡記事が新聞に出た。「ロバート・ヴォーン=ナポレオン・ソロ」である。彼は、ガイ・リッチー監督の「コードネームU.N.C.L.E.」は見たのだろうかと気になった。死因は急性白血病だというから、映画公開時には健康だったのではないだろうか。八十四歳だった。「ナポレオン・ソロ」に出ていた頃、政治的野心のある俳優だと言われていた。だからスティーブ・マックィーン主演「ブリット」(1968年)で上院議員の役をやったのだと、まことしやかに言われた。「タワーリング・インフェルノ」(1974年)や「復活の日」(1980年)でも上院議員の役をやっているから政治は嫌いではなかったのかもしれないが、政界に進出したとは聞いていない。

ロバート・ヴォーンを初めて見たのは、「荒野の七人」(1960年)だった。ほとんどセリフのない寡黙なガンマン役である。ユル・ブリンナー以下、七人のガンマンを演じたほとんどすべての俳優が後に主演を果たした。公開当時、すでに主演作があったのはユル・ブリンナーを別にすれば、スティーブ・マックィーンとホルスト・ブッフホルツだった。スティーブ・マックィーンはマイナーな映画に主演し、テレビシリーズ「拳銃無宿」で人気が出ていた。ホルスト・ブッフホルツは、「わが青春のマリアンヌ」(1955年)で注目されたドイツ出身の俳優である。

ナイフの名人役のジェームス・コバーン、「七人の侍」で薪割りをやっている千秋実のエピソードをそのままに演じたチャールズ・ブロンソン、それにロバート・ヴォーンは、この映画の後に主演俳優になった。もうひとりのブラッド・デクスターは、五〇年代から八〇年代までハリウッド映画の脇役として出演しているが、特に強く印象に残る作品はない。ペギー・リーの元夫らしいけれど、詳しくは知らない。もしかしたら、「荒野の七人」出演者の中で最も長生きし、長く活躍したのは山賊の頭領を演じたイーライ・ウォラックなのではあるまいか。亡くなったのは二〇一四年で、あと半年生きていれば白寿(九十九歳)を迎えることになった。僕は「ゴッドファーザーPARTIII」(1990年)のウォラックが忘れられない。

「荒野の七人」の七人のガンマンは、ロバート・ヴォーンを最後に全員が鬼籍に入った。映画が公開されて五十六年になる。ロバート・ヴォーンもスティーブ・マックィーンもチャールズ・ブロンソンもジェームス・コバーンも、みんな若かったのだなあと今更ながら感慨に耽る。マックィーンは「大脱走」(1963年)でブレイクし、大スターになった。低迷していたチャールズ・ブロンソンはヨーロッパに出稼ぎにいき、口ひげを生やした「さらば友よ」(1968年)でブレイクし、フランスとイタリアで活躍した後にハリウッドに凱旋した。ジェームス・コバーンは「電撃フリント」シリーズで主演し、その後、サム・ペキンパー作品などで主演。晩年まで渋い脇役として活躍した。

そして、ロバート・ヴォーンと言えば、やはり「ナポレオン・ソロ」シリーズである。イアン・フレミングが作り出した「007」こと「ジェイムズ・ボンド」シリーズが映画化されて大人気になり、雨後の筍のように後から後から様々な秘密情報部員たちがデビューしたあの時代、「0011ナポレオン・ソロ」は他のスパイたちとはやはり違っていた。毎週、テレビで活躍していたこともあるだろうが、映画版だって八本も作られたのだ。「0011」を使うに当たっては、イアン・フレミングの了解をとったということだったが、映画版五作めの「ナポレオン・ソロ対シカゴ・ギャング」の原作はイアン・フレミングであり、シリーズ中、最も出来がよいと言われている。

●イリヤ・クリヤキンことデビッド・マッカラムは現役の俳優だ

「0011ナポレオン・ソロ」シリーズの魅力は、相棒イリヤ・クリヤキン(デビッド・マッカラム)とチーフのウェーバリー(レオ・G・キャロル)とのチームワークにあった。特に、イリヤ・クリヤキンは子供たちに人気があった。僕も好きだったし、級友たちもクリヤキン派だった。たぶん、女と見るとデレデレし、モテモテのナポレオン・ソロは子供たちにとってはイヤラシゲーな大人に見えたのだ。真面目で、女性に対して純情なイリヤ・クリヤキンに自然と好感を持ったのだろう。ガイ・リッチー作品でも、ふたりの女性に対する対応の違いは明確に描かれていた。

「荒野の七人」のうち、スティーブ・マックィーン、ジェームス・コバーン、チャールズ・ブロンソンが「大脱走」にも出演しているけれど、デビッド・マッカラムを僕が初めて見たのも「大脱走」だった。スコットランド生まれのデビッド・マッカラムはイギリス人捕虜の役で、脱走を指揮するリチャード・アッテンボローの副官の役で活躍する。列車のホームで正体がばれ、射殺されるシーンでは僕は思わず眼を閉じた。フランクなアメリカ兵と違って、堅物で上官に絶対服従のイギリス将校役が似合っていた。真面目なキャラクターという印象が定着したのだ。

先日、WOWOWで四十六年ぶりに「狼の挽歌」(1970年)を見た。チャールズ・ブロンソン演じる殺し屋が自分を裏切った女(ジル・アイアランド)を、高層ビルの外壁を昇る透明なエレベーターの中で狙撃するラストシーンが有名になった映画だ。チャールズ・ブロンソンとジル・アイアランドは実生活では夫婦だった。その映画が公開される数年前、高校のクラスメイトに「イリヤ・クリヤキンことデビッド・マッカラムとチャールズ・ブロンソンは友だちだったけれど、マッカラムの奥さんだったジル・アイアランドを横恋慕したブロンソンが奪ったのだ」と教えられた。

以来、友だちの奥さんを奪った男という目でブロンソンを見ていた僕は、ジル・アイアランドとの共演作「狼の挽歌」(ベッドシーンまであるのだ)を見ても「いい気なもんだ」としか思えなかった。しかし、その後の長い長い人生の経験の中で、友だちの奥さんを好きになるという状況は大変一般的であり、妻の不倫相手が夫の友人というのは統計上トップになるかもしれないほど普通のことだと学んだ僕は、プロンソンへの偏見を棄て、同時にマッカラムへの同情も棄てた。そのマッカラムは、ブロンソンよりずっと長生きし、今もテレビドラマ「NCISシリーズ」に検死官役でレギュラー出演している。八十三歳の現役俳優である。彼は、ロバート・ヴォーンの葬儀に出席しただろうか。

2016年12月 1日 (木)

■映画と夜と音楽と…753 大利根河原の三兄弟


【先生と迷い猫/関の彌太ッペ/ひとり狼/座頭市物語】

●利根川沿いの畑に棄てられていた三匹の仔猫たち

千葉の自宅に戻り最初に見にいったのは、近くにある親水公園で暮らしている猫たちの様子だった。六月末まで、散歩のときに餌をやっていたのだが、その後どうしているかが気になっていた。公園の隅に餌皿があり、毎朝、定期的に餌をやっている女性がいるのは知っていたので、無事に暮らしているだろうとは思っていたのだけれど、やはり野良猫だから何があるかわからない。少しなじみになった三匹の猫に別れの挨拶はしたのだが、猫が理解したとは思えない。餌をくれていたじいさんが急にこなくなって、腹を立てていたかもしれない。

もっとも、僕以外にも朝の散歩の途中で餌をやっているおじさんとおばさんを見かけたから、たぶん生き延びていると確信していた。それで、自宅に帰った翌日の昼、親水公園までいってみた。朝の方が猫は姿を現しやすいので、もしかしたら会えないかと思っていたのに何と五匹の猫がいた。犬を散歩させている人もいるのに、堂々と公園の真ん中を歩いている猫もいる。生け垣の中で丸まっていたのは、最も人なつっこい猫だ。僕が近づいても逃げず、ニャアと鳴いた。四ヶ月以上もいなかったので、自宅の猫でさえ僕のことを忘れていたから、一ヶ月ほど餌をやっていただけのオヤジを憶えているはずはない。やはり、どの猫も近づくと逃げた。驚いたのは、猫が五匹に増えていたことだった。

翌朝、僕は散歩のコースを利根川にした。利根川のほとりの廃車置き場のようなところに猫の巣があるのだ。六月に通ったときは、子供を産んだばかりの母猫がいて、ひどく警戒し、僕に向かって威嚇するように口を大きく開き牙をむいた。あのとき、ざっと数えて十匹はいただろう。まるで、猫の梁山泊である。黒猫、白猫、三毛猫、茶虎、キジ虎など、どんな猫でもいそうだった。そんな猫たちも気になっていたので、様子を見ようと利根川コースを選んだのだった。利根川へいくと、暖かい晴天の朝だったので、道の真ん中に三匹の猫が寝そべっていた。近づくと警戒するので、立ち止まって様子を見ていると、猫たちも僕をじっと見つめてくる。梁山泊の方から、さらに数匹が出てきたので、僕はきびすを返した。

ところが、少し離れた角の畑のところにくると、三匹の猫がいた。茶色と白と黒の三色の毛が散っているのが二匹、一匹は白と黒の猫である。三毛猫のうちの一匹はライオン丸のようなタテガミで、顔は少し獰猛に見える。よく見ると、犬のチンに似た顔だ。シャム猫の血が入っているのだろうか。もう一匹の三毛猫はかわいい顔をしていた。その三毛猫より体がひとまわり小さな黒と白の猫も、顔はよく似ている。たぶん、その三匹は同じ雌猫が生んだのだ。兄弟か姉妹かわからないが、少なくとも血はつながっているのだろう。おそらく、三匹まとめて利根川の河川敷に棄てられたのではあるまいか。その三匹の中で最も獰猛な顔の毛がフサフサと立っている猫が僕の方へ寄ってきた。他の二匹もつられたのか、逃げずに近づいてきた。

猫は、警戒心の強い動物だ。たいていの野良猫は人間が近づくと逃げる。しかし、その三匹は、妙に人に懐いていた。それでも、一定の範囲には入ってこない。僕は「今日は食べ物持ってないんだよ。明日、持ってくるからね」と声をかけ、バイバイと手を振って離れた。それでも、自分を見て逃げなかった猫たちには情が移る。翌朝、キャットフードをポケットに入れて、前日に三匹の猫に会った場所へ向かった。坂道を降りていると、犬をつれて散歩しているおばあさんが鳩に餌をやるように野原に向かって何かを撒いていた。あの三匹の猫が、その足下にいた。僕が近づく前におばあさんは犬を連れて離れ、草むらにキャットフードが少し散っていた。

「餌、くれる人がいるんだね」と話しかけながら、持ってきた餌皿にキャットフードを入れると、三匹が頭をそろえて食べ始めた。ガツガツと食べるので、やっぱり満足に食べていないのかなと思った。そのうち、あの獰猛な顔をした三毛猫が餌皿から顔を上げ、僕を見つめてニャアと鳴き、何と僕の足に身を寄せてきた。スリスリと体をすり寄せる。匂いをつける猫の動作だとは知っているが、そんなことを野良猫にされたのは初めてだった。獰猛な顔の猫は足の間を抜けて、まとわりつく。その間に二匹は餌を完食し、一番体が小さな白と黒の二色の猫はクールに去っていく。もう一匹の三毛猫は「もっとくれよ」と言うように、ニャアと鳴いた。

そんなわけで、僕は毎朝、散歩の途中に彼らに餌をやることになった。もっとも、雨の朝と雪の朝には会えなかったので、少し心配した。どこか雨宿りできる、暖かい場所はあるのだろうかと不憫になった。雪が降った翌朝、ひどく冷え込んでいたけれど、六時半頃に利根川に着くと、遠くから僕を見つけた獰猛な顔の猫(ライオン丸と名付けた)が走り寄ってくる。それを見て、他の二匹も近寄ってきた。三匹が僕の足に身をこすりつけ、まとわりつく。ポケットから出したキャットフードの袋を破り餌皿に入れて草むらに置くと、三匹は頭を合わせて食べ始める。その姿を見ていると、幸せな気分になれた。

翌日、いつもより三十分遅くいくと、猫たちがいる畑の持ち主らしいおじさんがいた。軽トラックが停まっている。猫たちが僕に寄ってくると、おじさんは「捨て猫されちゃったんだよね」と話しかけてきた。「七月から面倒見てるんだ」と言う。聞くと、猫のために小屋を畑の横に造り、朝晩に餌を与えているという。僕が「よく人に懐いていますよね」と言うと、「人に慣れちゃって」と困ったような顔をした。僕が「時々、餌やっているんですが、いいですか」と訊くと、「やらないでほしいな」とおじさんは言う。猫たちが餌を食べ残すとカラスがきて困ると続けた。

「そうですか、わかりました」と、僕は答えた。明日から、あの子たちに足にまとわりつかれるという至福の喜びがなくなるのだろうか、と内心ではひどくがっかりしていた。

●大利根河原で有名なのは「天保水滸伝」の大喧嘩

という前振りなので、また猫について書くのかと思う人がいるかもしれない。最近、イッセー尾形主演の「先生と迷い猫」(2015年)という、たぶん猫好きの人たちばかりで作った映画を見たことだし、そういう方向もあるだろうけれど、今回は「利根川」について書きたいと思う。「利根川」が出てくる映画と言えば、「天保水滸伝」を元にしたものが浮かぶ。「天保水滸伝」は講談や浪曲で知られ、僕の世代くらいまでは長谷川伸原作の「一本刀土俵入り」(利根川沿いの取手の宿が舞台)や新国劇の「名月赤城山」などと同じように基礎教養のひとつだった。三波春夫のセリフ入りの歌「大利根無情」は、平手造酒を歌ったものである。

天保の頃、利根川下流に飯岡の助五郎というやくざがいた。一方、笹川の繁蔵という新興のやくざが勢いをつけてきた。飯岡の助五郎は十手を預かり、役人との二足の草鞋を履く男である。助五郎と繁蔵は最初は親しかったのだが次第に対立することになり、ついに大利根河原で大喧嘩になる。このとき、笹川の繁蔵の助っ人に浪人の平手造酒が加わる。一説によると、この大利根河原の喧嘩で飯岡方はかなりの人数がやられたけれど、笹川方で死んだのは平手造酒ひとりだと言われている。ただ、この大喧嘩の後にも対立は続き、繁蔵は殺され、助五郎は天寿をまっとうする。したがって、講談などでは飯岡の助五郎は悪役にされている。

講談、浪曲などで流布された「天保水滸伝」だが、活動写真と言われた頃から映像化もたびたび行われてきた。「忠臣蔵」と同じくらいの頻度だろう。平手造酒が主人公になった映画は、戦前だけでも数十本にのぼる。アメリカには、OKコラルの決闘でワイアット・アープとその兄弟に加勢するドク・ホリディ伝説があり、日本には笹川の繁蔵に加勢する平手造酒伝説があるのだ。調べてみると、一九二五年に大久保忠素の監督で「平手造酒」という作品が作られている。大河内伝次郎が平手造酒を演じた「平手造酒」(1928年)はその三年後の作品だが、その三年間に平手造酒が出る映画が数本あるらしい。毎年のように作られていたのだろう。

「股旅」という言葉を作ったのは、長谷川伸だと言われている。長谷川伸は大衆演劇の祖のような人で、「一本刀土俵入り」「関の弥太っぺ」「瞼の母」「沓掛時次郎」など、多くの股旅ものの戯曲を書いた。また、門下から大勢の大衆小説家が出ている。昔は、「一本刀土俵入り」の駒形茂兵衛のラストのセリフ「しがねぇ姿の土俵入りでござんす」とか、「瞼の母」の番場の忠太郎の「上の瞼と下の瞼をしっかり閉じりゃあ、会わねぇ昔のお袋の----」といったセリフは、誰でもが知っているものだった。同じように、「天保水滸伝」も人々の口に膾炙された物語だった。

そして、長谷川伸は自作に「天保水滸伝」の物語を取り込んだのだった。それは、飯岡の助五郎や笹川の繁蔵といった実在の人物たちが、実際に利根川の河原で喧嘩をやったことが元になっているため、また、そのことが人々に広く知られているため、自作に取り込んだのだろう。たとえば、「瞼の母」の冒頭のエピソードでは、番場の忠太郎に憧れる若い渡世人である半次郎は、飯岡の助五郎一家に殴り込みをかけて追われることになる。また、「関の弥太っぺ」では主人公の関の弥太郎は飯岡方の助っ人になり、兄弟分の箱田の森介は笹川の繁蔵方についている。ふたりは、大利根河原で鉢合わせする。

●股旅映画には日本人の心情を描いた名作が多かった

股旅映画は、いつ頃から作られなくなったのだろう。「木枯し紋次郎」がニュー股旅ものとして人気になったのは、七〇年代前半だった。テレビシリーズを担当した市川崑監督は、リアルな「股旅」(1973年)という作品をアートシアター・ギルドで制作した。市川崑監督は「帰って来た木枯し紋次郎」(1993年)も作っていて、もしかしたら日本映画で股旅者が主人公になった最後の映画かもしれない。時代劇だって、今ではほとんど作られていない。まして、股旅映画など、ここ何十年も見たことがない。もっとも、笹沢佐保が木枯し紋次郎を創作しニュー股旅ものがヒットするまでにも、長い空白期間があった。

しかし、六〇年代には中村錦之助や市川雷蔵が主演する、股旅映画の名作が目白押しだったのだ。錦之助には「瞼の母」(1962年)があり、「関の彌太ッペ」(1963年)があり、「遊侠一匹 沓掛時次郎」(1966年)があった。市川雷蔵には「沓掛時次郎」(1961年)があり、「中山七里」(1962年)があり、「ひとり狼」(1968年)がある。その中でも、僕が愛してやまないのは「関の彌太ッペ」であり、「ひとり狼」である。どちらも僕の生き方の根本に影響を与えた映画と言ってもいい。少なくとも、その二本の股旅映画を見ていなければ、(いいか悪いかは別にして)今のような僕にはなっていないだろう。

関の弥太郎は親切で人情あふれる旅人として登場し、利根川沿いの取手の宿の近くで女の子を助けて祖母の旅籠に送り届ける。しかし、訪ね当てた妹が死んでいたと知って絶望し、助っ人家業の一匹狼として十年を生き、今では凄惨な顔に変わり果てていた。飯岡の助五郎一家と笹川の繁蔵の大利根河原の喧嘩で、飯岡方に雇われた弥太郎は笹川方の助っ人に恩人がいることを知り、飯岡方を裏切る。飯岡の助五郎一家は、裏切り者として執拗に弥太郎を追う。一方、弥太郎は十年前に助けた娘が美しく育ったことを聞いて、遠目からそっと見届けようとするが、弟分の森介が娘を助けた恩人だと偽って旅籠に逗留していることを知る。

娘と旅籠の難儀を解決しようと急ぐ弥太郎の前に、飯岡の助五郎一家が立ちふさがる。弥太郎は今は外せない用事があるから、刻限を決めてくれれば必ずいくと告げる。娘を助けた弥太郎は、今は弥太郎が本当の恩人だと気づいた娘の呼び声を振り切って、飯岡の助五郎一家が待ちかまえる場所へ一歩一歩踏みしめながら近づいていく。その後ろ姿に「完」の字が重なり、作品完成時の撮影所内試写では絶賛されながらも「立ちまわりの直前で終わる股旅ものってありか?」という声もあがった。それでも、「監督デビュー三作めで名作を作ったな」と、山下耕作は所内で一躍話題になった。何度見ても、凄い映画だと僕も思う。何度見ても、同じところで僕は泣く。

ちなみに大利根河原の決闘を背景にしているのは、勝新太郎の代表作「座頭市物語」(1962年)だ。市が旅人として草鞋を脱いでいるのが、飯岡の助五郎一家である。ある日、市は釣りをしている浪人(天知茂)と知り合う。彼の名は、平手造酒。ラストは助五郎一家と繁蔵一家の喧嘩であり、市と平手造酒の一騎打ちが見せ場になっている。もっとも、助五郎も繁蔵もろくでもないやくざに描かれていて、市はどちらにも荷担しない形になる。それでも、市が友情を抱いた相手である平手造酒と、一騎打ちをせざるを得なくなるのが切ないラストだった。

2016年11月24日 (木)

■映画と夜と音楽と…752 忍者たちはプロレタリアートか?


【十七人の忍者/忍者狩り/忍者秘帖 梟の城/風の武士/赤い影法師/忍びの者】

●近鉄特急で名古屋から伊勢神宮へ向かった

仕事を完全リタイアしてから僕にしては珍しく、自宅と実家を行き来する間を利用して少し旅行をしている。京都と奈良にいき、金沢をまわり、今回、実家から自宅へ帰る途中に伊勢神宮にいったみた。年を重ねると、やはり一度はいっておきたいと思うようになったのだ。伊勢神宮を詳しく紹介するテレビ番組を見た影響もある。テレビの旅番組は昔からよく見ていたが、最近は自分でもいってみたくなる。

十一月半ば、高松から名古屋へいき、そこでかみさんと落ち合った。名古屋駅から街をブラブラして名古屋城まで歩き、金の鯱を見た。帰りは別のルートで古い町並みや商店街を抜け、名古屋駅から栄までいきホテルに泊まった。翌朝、近鉄特急で伊勢市に入り、まず外宮をまわった。内宮まで距離があるということだったけど、最近は歩くのが苦にならないのでかみさんとブラブラ歩き、途中、フレンチ・レストランでランチをして内宮に到着。後で調べたら、人気のあるレストランだったらしい。

内宮は確かに広い。テレビ番組で教えてもらった穴場の撮影場所なども見てまわり、三時過ぎにはけっこう疲れてしまった。バスで伊勢市駅まで戻り、JRの各駅で泊まる予定の津まで戻ろうと誰も乗っていない列車に腰掛けていたら、不審に思ったのか車掌さんに行き先を訊かれた。「津です」と答えると、「この電車、途中で二十分ほど止まったりしますから、松阪駅で後からくる快速に乗り換えた方がいいですよ」と教えられた。それで、二両の電車から四両の快速に乗り換えて津に到着し、ホテルに入ってから夕食に出た。

翌日は、伊賀上野にいく予定だった。JRで亀山駅までいって乗り換えなのだが、奈良方面からやってきた二両の電車が目の前で切り離され、一両で伊賀上野へ向かう。四十数分、山の中を走る各駅列車を楽しんで、伊賀上野で降りると駅前には数台のタクシーが停まっているだけで、人もいないし、店も開いていないし、何もない。駅で訊くと、そこから私鉄に乗り換えて上野市駅で降りると、観光案内所などもあるという。しかし、もう降りてしまったので、タクシーに乗り、お城に向かうことにした。

伊賀上野は、忍者と芭蕉の街である。お城を囲む公園には、忍者博物館や芭蕉の記念館もある。まず、忍者博物館に入る。入り口を間違って別の引き戸から入ると、いきなり抜き身を持ったおじさんが目の前にいた。おじさんは数人の観光客相手に、忍者刀の解説をしているのだった。持っている刀は、実際のものと同じ重さがあるという。客には手に取らせて重さを実感させるらしく、僕も抜き身を差し出されて受け取った。確かに重い。かみさんも重さを実感したらしい。

土間での解説が終わると座敷に上がり、忍者屋敷のからくりをくノ一姿の若い女性が解説してくれる。壁のどんでん返しや隠し部屋など、隣にいた中国人の若い女性はいちいち感心して声を挙げていた。今は外国の観光客の方が「ニンジャ」に興味があるのかもしれない。TBSテレビの「サスケ」は、「ニンジャ・ウォリアーズ」といった名前でアメリカでも放映されているようだし、アニメの「ニンジャ・タートルズ」も最近、ハリウッドで実写化された。

マコ岩松が東洋の某国の重要人物で、彼を守るボディガードとして雇われた主人公(ジェームス・カーン)が襲いくる忍者たちを拳銃で撃ちまくったのは、サム・ペキンパー監督の「キラー・エリート」(1975年)だった。もう四十年前の映画になった。船の墓場のような廃船が浮かんだ海の真ん中で、忍者たちは後から後から現れる。ペキンパーが全盛期から下り坂に入った時期の作品だが、僕は早川書房から出ていた原作を読んでいたので期待して見にいったものだった。もちろん、撃たれた忍者はスローモーションで海中に落ちていく。

●六〇年代の初めには司馬遼太郎も忍者小説を書いていた

僕が小学生の頃、忍者ブームが起こった。少年漫画誌の巻頭特集には「これが忍者だ」という図解が掲載され、組立付録には十方手裏剣がついていた。白土三平が「サスケ」を連載し、横山光輝が「伊賀の影丸」や「片目猿」を連載した。「伊賀の影丸」の得意技は「木の葉隠れ」で、連載を重ねるにつれて木の葉の渦はダイナミックになった。後年、山田風太郎作品をほとんど読破したとき、「伊賀の影丸」第一部に出てくる特異体質を持つ敵の忍者たちは、風太郎の忍法帖シリーズにヒントを得ているのだとわかった。

忍者ブームは、小説から始まったのだろうか。山田風太郎の忍法帖シリーズはエログロ扱いされたが、柴田錬三郎や司馬遼太郎などの忍者小説も人気があった。五味康輔の「柳生武芸帖」も忍者である霞の兄弟が活躍する。マンガでは、白土三平の功績が大きいだろう。物語の間に術を合理的に解説し、リアルな忍者物語を描いた。「忍者武芸帖」(1967年)は、大島渚監督が映画化(アレを映画化というのか自信はないけれど)した。リアルな忍者映画を大量生産したのは、東映だった。「伊賀の影丸」(1963年)だって、松方弘樹主演で映画化されたのだ。不死身の忍者・阿魔野邪鬼は、山城新伍だった。

東映は、忍者ブームで制作した作品でいくつかの名作を生み出した。「十七人の忍者」(1963年)や「忍者狩り」(1964年)などである。どれも、リアルな描写が特徴だった。忍者とは訓練された人間のことであり、スーパーマンではないという前提で、これらの集団抗争時代劇は作られている。「十七人の忍者」は城の奥深くに守られたお墨付きを奪う使命を帯びた十七人の幕府の隠密たちが、ひとり、またひとりと命を落としながら、使命を果たそうとする物語であり、「忍者狩り」は幕府隠密によって改易になった藩の浪人たちが隠密に狙われた藩に雇われ、幕府から送りこまれた忍者たちを狩り出す物語である。

「十七人の忍者」で幕府隠密の忍者たちを迎え撃つのは、雇われ忍者の近衛十四郎である。彼は根来の忍者であり、忍者の怖さを知らない城の侍たちの理解を得られないまま孤独に戦う。「忍者狩り」でも、忍者たちを狩り出す浪人たちの首領を近衛十四郎が演じている。草として藩に潜入している忍者を狩り出すために、彼は怪しいと思われる藩士数人を縛り、ひとりずつ斬っていくという残忍さを見せる。その徹底したやり方をに藩士たちが離反し、ここでも彼は孤立する。悲壮な表情の似合う近衛十四郎だから、半死半生で敵の大将・闇の蔵人と差し違えるシーンは実に壮絶だ。

こうした東映の忍者映画は六〇年代前半から作られ始めた。錦チャンやひばりの明朗時代劇が飽きられ、リアルな殺陣や残酷描写が時代劇に取り入れられたのだ。その頃、後に国民作家となる司馬遼太郎も忍者小説の担い手で、東映でいくつか映画化されている。ひとつは直木賞受賞作「梟の城」を工藤栄一監督が映画化した「忍者秘帖 梟の城」(1963年)であり、ひとつは加藤泰監督が映画化した「風の武士」(1964年)である。「風の武士」の主人公を演じた大川橋蔵には、柴田錬三郎原作の「赤い影法師」(1961年)もある。

司馬遼太郎の「梟の城」は、中井貴一主演で三十六年後にリメイクされた。監督は篠田正浩である。最初に主人公の葛籠重蔵を演じたのは、大友柳太朗だった。ヒロインは高千穂ひづるだったが、リメイク版では鶴田真由になった。伊賀忍者の重蔵は信長の伊賀攻めを生き延び、やがて太閤秀吉の命を狙うようになる。重蔵に対抗心を燃やす同じ伊賀忍者の風間五平や、敵方の甲賀忍者・魔利洞玄、徳川に雇われた服部半蔵など、様々な忍者群が登場する血沸き肉躍る大活劇だ。司馬さんも、若い頃にはこんな楽しい物語を書いていた。

●「忍びの者」は左翼思想を基調にしたプロパガンダ映画か?

映画界に忍者ブームを呼び起こしたのは、もしかしたら市川雷蔵が主演した「忍びの者」(1962年)だったのかもしれない。大映で作られたこの作品は大ヒットしてシリーズ化され、八作まで作られた。ただし、最初の主人公は石川五右衛門で、途中から「忍びの者 霧隠才蔵」(1964年)のタイトルで霧隠才蔵が主人公になった。テレビでも一年間の連続時代劇(1964年7月~1965年7月)として放映さた。主人公の石川五右衛門を演じたのは品川隆二。どちらかと言えば、僕はテレビ版の方に思い入れが強い。

「忍びの者」は、冒頭、若き石川五右衛門が頭領の百地三太夫の妻に誘惑され密通する。それをたてに五右衛門は頭領から信長暗殺を命じられ、京都に潜入する。何度か信長暗殺を試みるが失敗し、合理主義者の信長は忍者の存在が許せず伊賀攻めを行い伊賀は壊滅状態になる。その戦いの中で、五右衛門は百地三太夫と対立する一方の頭領である藤林長門守が百地と同一人物だったのを知る。百地三太夫を演じたのは怪優・伊藤雄之助で、百地三太夫として登場した彼は、忍者屋敷のからくりを使って百地砦を抜け出し、変装して藤林長門守になるシーンがある。観客には早くから二人が同一人物だと知らされるのだ。

「忍びの者」シリーズは市川雷蔵の代表作になったが、監督の山本薩夫にとっても大ヒット作となり、その後の映画製作がやりやすくなった。中学生の僕は、山本薩夫監督は左翼の人だと思っていた。戦前からマルクス主義に傾倒し、戦後は東宝の大労働争議で組合側闘士として活躍し、日本共産党に入党した人である。作る作品も共産党的なものが多かった。その監督が、何と「忍びの者」を作ったのだ。僕は意外な気がしたが、ある人から「忍びの者」の原作者である村山知義は戦前からのプロレタリア作家なのだと教えられた。

えー、だとすると「忍びの者」もプロレタリア文学なのかと思い、学校の図書館にあった分厚い「忍びの者」を借り出した。何とか読了した僕は、どこがプロレタリア文学なのかわからなかったが、「忍びの者」は一九六〇年十一月から一九六二年五月まで日本共産党の機関誌「赤旗」に連載されたのは確かだった。プロレタリア文学ではなかったにしろ、左翼的プロパガンダが展開されているのかもしれなかった。「赤旗」に連載された小説を、日本共産党御用達である山本薩夫監督が撮るのは何の不思議もないではないか。しかし、主演の市川雷蔵は、そんなことは関係なかったのだろうなあ。

もしかしたら民衆と権力の構図を、戦国時代の武将たちの権力闘争と虐げられた忍者たちの関係の中に描いたのか。そんなことを、僕は考えた。同じ頃、白土三平の「忍者武芸帖 影丸伝」は唯物史観によって描かれた作品だという批評を何かで読み、そんな小難しいものなのかとも思った。白土三平はすでに月刊漫画誌「ガロ」で「カムイ伝」を連載しており、「その唯物史観に貫かれた権力者と民衆の関係を深化させている」と、ある批評家は分析しており、単におもしろいマンガとして読んでいた僕は、そんなことはまったく理解できず、コンプレックスを抱いた。

ということで、今でも市川雷蔵(藤村志保もよいです)の「忍びの者」を見ると、僕の頭の中には「唯物史観」だとか、「左翼プロパガンダ」だとか、「プロレタリアート」だとか、「日本共産党」といった言葉が浮かんでくるのである。

2016年11月18日 (金)

■映画と夜と音楽と…751 映画は戦場だ


【最前線物語/拾った女/東京暗黒街 竹の家/四十丁の拳銃】

●「気狂いピエロ」のパーティーシーンに登場する映画監督

「サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか」は、僕の「映画がなければ生きていけない」シリーズと同じA5判・上下二段組で七百五十頁を越える枕本だった。背幅は五センチある。四百字原稿用紙に換算すると二千枚を優に越えるだろう。価格も六千円だ。しかし、一九〇二年に生まれ、二十代から映画の脚本を書き始め、第二次大戦には志願して歩兵として従軍し、戦後、「地獄への挑戦」(1949年)で監督デビューし、一九九七年に八十五歳で亡くなるまで、映画を作り続けた男の全人生を語るには足りなかったのかもしれない。

僕がサミュエル・フラーの名を知ったのは、十八歳のときに見たゴダールの「気狂いピエロ」(1965年)に印象的に登場したからだった。ジャン=ポール・ベルモンドが最初の方でパーティに出かけるのだが、そのパーティで壁にもたれてグラスを持つサングラスのアメリカ人が出てくる。彼は映画監督だという。ベルモンドは「映画とは何ですか?」と問いかけ、彼はひと言「映画は戦場だ」という印象的なセリフを吐く。それがサミュエル・フラーの初めての映画出演だった。もちろん、ゴダールはサミュエル・フラー監督にオマージュを捧げているのである。

映画監督が尊敬する監督がいる。サミュエル・フラーも後進の監督たちにレスペクトされ、その後、様々な映画に出演している。ドイツ出身のヴィム・ヴェンダース監督に乞われて、「アメリカの友人」(1977年)「ことの次第」(1981年)「ハメット」(1982年)に出ているし、フィンランド出身のアキ・カウリスマキ監督の「ラ・ヴィ・ド・ボエーム」(1992年)にも出演した。映画監督たちに尊敬され、その風貌を買われて彼らの作品によく登場したということで、昔から僕はサミュエル・フラー監督と鈴木清順監督は共通すると思っている。サミュエル・フラー作品は、日活時代の鈴木清順作品のように、カルト的な人気を誇っていた。

サミュエル・フラー監督は自伝を読むと早熟だったらしく、父親の死後、家族とニューヨークに出て十一歳から新聞の売り子を始め、やがて新聞社の小僧に潜り込んで編集長に可愛がられ、別の新聞社に十六歳の新聞記者として雇われる。その後、小説を書き始め、初めての小説は一九三五年に出る。二十三歳のときである。小説は亡くなる四年前の一九九三年まで書き続け、十二の作品を発表した。映画の脚本は一九三六年、二十四歳で手がけ、一九三八年には年間で三本が映画化されている。その後、作品数が減少するのは、軍に志願し歩兵としてヨーロッパ戦線で戦ったからである。

「戦争映画を得意とした監督」と言われることが多かったサミュエル・フラーだったが、本物の戦争を何年も経験していたのだ。自伝の中でも従軍中の話には多く割かれていて、百五十頁ほどのヴォリュームである。写真も掲載されていて、中にはロバート・キャパがフラーを撮影したものもいくつかある。フラーは三年間に及ぶ歩兵時代を後に「ビッグ・レッド・ワン」(1980年)という小説にまとめ、それを原作に「最前線物語」(1980年)を作る。日本公開は、一九八一年の一月末だった。今でも僕は、「最前線物語」の公開を待ちわびていた頃を憶えている。サミュエル・フラー監督作品としては、異例の前宣伝が行われたものだった。

百戦錬磨のベテラン軍曹を演じたのは、リー・マーヴィンだった。彼の小隊に配属される若き兵士たちは、マーク・ハミル(「スターウォーズ」の三年後ですね)などが演じた。兵士たちは軍曹に指揮され、様々な戦場を経験し、兵士として鍛えられていく。そして、ノルマンディー上陸作戦がやってくる。淡々とした描き方なのだが、戦場のリアリティのようなものがスクリーンから伝わってきた。後に「プライベート・ライアン」(1998年)が「まるで本物の戦場のようだ」と言われたが、あれは音響などによるテクニカルなもので、「最前線物語」のジワジワと伝わってくるものとは違っていた。ちなみに、スピルバーグ監督の「1941」(1979年)にもフラー監督は出演している。

●サミュエル・フラー監督はフィルム・ノアールを得意とした

サミュエル・フラーが監督として最初にヒットさせたのは、「鬼軍曹ザック」(1951年)である。僕は、この映画は朝鮮戦争を舞台にしていると思っていたが、何とアメリカ公開が一九五一年の一月だった。朝鮮戦争が始まったばかりの頃に映画化していることになる。映画の中に、おかしな仏像が登場したり、東洋の描き方に違和感を感じる部分もあるのだけれど、今では貴重な作品になっている。自伝を読むと、五作目の「パーク・ロウ」(1952年)は十代で経験した新聞業界を扱った作品らしく、興味を引かれるが僕は見ていない。六作目の「拾った女」(1953年)はフィルム・ノアールとして名高く、昔、見たことがある。主演は、僕の大好きなリチャード・ウィドマーク。冒頭、ウィドマークが電車の中でスリを働くシーンが印象的だ。

僕にとってサミュエル・フラーは「戦争映画の監督」ではなく、「フィルム・ノアールの監督」だった。まず、東京を舞台に撮った「東京暗黒街 竹の家」(1955年)がある。伝説の映画である。主演は、後にテレビシリーズ「アンタッチャブル」のエリオット・ネス役で日本でも有名になるロバート・スタックだ。彼が選ばれた理由は日本では有名ではないので、ロケでも騒がれないだろうということだった。あるアメリカ人が殺され、彼の友人がアメリカからやってくる。男は殺された男の妻(シャーリー・ヤマグチ)と恋仲になったり、日本の警部(早川雪洲)と連携したりして、東京に巣食うアメリカ人ギャング団を突き止める。

冒頭でアメリカ人が殺される場所は、富士山が見えている。フジヤマ、ゲイシャくらいの認識しかない時代のハリウッド映画だから、日本人が見ると変なところは多いのだけど、当時の東京の光景は貴重だ。最後の銃撃戦は、銀座松屋デパートの屋上遊園地を使っている。ギャング団のボスはロバート・ライアン。キャストも豪華だった。シャーリー・ヤマグチは山口淑子のこと。戦争中は、中国人スター李香蘭として活躍した。戦後、山口淑子の名で黒澤明作品などに出ていたが、ハリウッドに渡りシャーリー・ヤマグチとして出演した。当時、彼女は彫刻家イサム・ノグチと結婚していた。

昨年だったか、WOWOWで「フィルム・ノアール特集」として、「クリムゾン・キモノ」(1951年)と「殺人地帯U・S・A」(1961年)が放映された。どちらも、サミュエル・フラー監督作品だ。「クリムゾン・キモノ」は、最初に女が射殺される事件があり、戦友だったふたりの刑事が登場する。白人と日系人の刑事だ。日系人刑事を演じたのが、ジェームス繁田。年とってからのジェームス・繁田はよく見たが、若い頃の姿を見るのは初めてで、ハンサムなのに驚いた。ロサンジェルスの日本人街リトル・トーキョーが背景になっていて、タイトルからわかるように日本文化がいろいろ登場する。

ふたりの刑事は事件を追い、ある証人を見つける。美人のアーチストだ。彼女をふたりで護衛することになり、白人刑事がひと目惚れをする。しかし、ある夜、日系人刑事と彼女が親密になり、親友が惚れている相手だと日系人刑事は自分の心を抑制するが、彼女は日系人刑事に好意を寄せる。それを知った白人刑事と日系人刑事の対立があり、戦友だったふたりの間に亀裂が入る。そのとき、日系人差別の問題を出してくるのが唐突な感じがしたけれど、戦後十四年という時代性を考えれば、そういうものかとも思う。アメリカ人の多くは「ジャップ」と口にしていたし、パールハーバーを忘れていない。

「殺人地帯U・S・A」の主人公の少年が成長してクリフ・ロバートソンになって出てきたときは、懐かしいなあと思った。六十年代に主演作が何本かあるB級スターである。悪ガキだった主人公は、ある夜、路地裏で父親が三人の男たちに殴り殺されるのを目撃する。やがて成長し、刑務所から出獄した主人公は暗黒街の組織に潜り込む。そこで、父親の仇を見つけ、復讐を始めるのだ。典型的なB級ノアールだが、当時の観客にはショックを与えただろうと思えるシーンがいっぱいある。サミュエル・フラー作品には大スターは出てこないし、あまりお金もかかっていない。B級作品の扱いだったのだろうか。

●「四十丁の拳銃」は異色西部劇として突出している

サミュエル・フラー監督の人気は、日本で言えば東宝の岡本喜八、東映の加藤泰、大映の三隅研次、日活の鈴木清順といった職人監督たちの評価と共通するものがある。大作は作っていないが、戦争映画、暗黒街映画、西部劇などを地味な俳優を使って作り続け、カルト的な人気が出て、ゴダールやヴェンダースなどの芸術派監督たちにオマージュを捧げられ、そのことで改めて脚光を浴び過去の作品が注目された。「気狂いピエロ」に出演した頃、サミュエル・フラーは五年間も新作を撮っていない。その後、評価が高まり、代表作「最前線物語」を作る。映画会社も力を入れて広報宣伝をするような扱いになった。しかし、すでに七十近くになっていた。

僕が一番好きなサミュエル・フラー作品は、「四十丁の拳銃」(1957年)だ。当時、日本で名を知られていたのは、女牧場主役のバーバラ・スタンウィックくらいではなかろうか。他の出演者たちはバリー・サリヴァン、ディーン・ジャガーと言われても、今では誰も知らないだろう。もっとも、僕もバーバラ・スタンウィックを知るのは、この映画から十年近く後、テレビシリーズ「バークレー牧場」の女牧場主としてだった。新人リー・メジャースの人気が出た「バークレー牧場」の母親役バーバラ・スタンウィックは、馬に乗る姿も凛々しくて見事だった。

後に「四十丁の拳銃」を見て、この映画に出たから「バークレー牧場」の役をオファーされたのではないかと僕は思った。映画が始まってすぐ、見事なシーンがある。主人公が街道を馬でやってくると、馬の大群がやってくる。バーバラ・スタンウィックを先頭に、四十人の男たちが四十頭の馬に乗って疾駆してくるのだ。馬群が主人公をかすめて走り抜けていくのだが、その撮影がすごい。ローアングルのカットなどをインサートして細かく編集し、迫力を出す。イーストウッド監督主演「ペイルライダー」(1985年)の冒頭シーンは、このシーンに影響を受けているのではないか。「四十丁の拳銃」を見ることができたのは二十年ほど前のことで、いろんな映画を見て驚かなくなっていた僕が、「凄い」と思わず口にした。

----「四十丁の拳銃」は、異色西部劇にしたかった。キング・ヴィダーの「白昼の決闘」(46)、アンソニー・マンの「復讐の荒野」(50)、ニコラス・レイの「大砂塵」(54)といった、わたしに霊感を与えてくれた先駆的異色西部劇群に比肩するものにしたかったのだ。

フラーは、自伝にそう書いている。結果は、ここに例として挙げられた西部劇以上のものになったと僕は思う。それにしては、見ている人が少ないし、西部劇ファンの人でも見ていない人がいる。「四十丁の拳銃」は必見です。ビリー・ワイルダー監督がレイモンド・チャンドラーと喧嘩しながらシナリオを仕上げた作品「深夜の告白」(1944年)と並んで、バーバラ・スタンウィックの代表作でもある。

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