2020年5月21日 (木)

■日々の泡----映画の見方を教えてくれた本


【岩崎昶/映画の理論】

岩崎昶先生の「映画の理論」は、岩波新書のベストセラーだった。初めて読んだのは、高校生のときだったと思う。黒澤明の「羅生門」(1950年)が詳細に分析されていた。また、エイゼンシュタインのモンタージュ理論も多くのページを割いて解説されていた。

大学に入って「映画論」の授業を選択した。岩崎昶先生だった。いや、岩崎先生だったから選択したのだ。先生は「映画の理論」を教科書に指定していた。僕は改めて「映画の理論」を読み直した。映画を分析的に見るということを教えてくれた最初の本だった。

授業は、1971年の4月中旬に始まった。お茶の水の聖橋から小川町へ向かって下る途中にあった、今はなき中央大学文学部校舎一階の講堂代わりに使用される大きな階段教室だった。「白門」と呼ばれた中大校舎は法学部が使用していて、文学部校舎は道を挟んだ外れにあった。法学部の後光で輝いている大学だったから、仕方がないと僕らは諦めていた。

初めての「映画論」の授業。僕は、数百人が入れる階段教室の後方に座った。教壇が遙か彼方のようだった。だから、岩崎先生が入ってきたときの記憶はあまりない。顔も憶えていない。著書に掲載されていたポートレートで憶えているだけだ。声も今では甦ってこない。しかし、間違いなく岩崎先生は教壇に立ち話し始めた。

そのときのことで僕が記憶しているのは、岩崎先生が「前期は黒澤明監督の『羅生門』を上映して、それについて話をする」と言い、大学では授業で映画が見られるのだと感激したことだった。「羅生門」は銀座並木座で見ようと思っていたから、得した気分だった。

しかし、僕は岩崎先生には距離を置いていたし、何かを質問したこともない。高校時代、僕が「映画の理論」を読んでいると、同級生が「岩崎昶って日共系の映画評論家だろ」と侮蔑的に口にしたからだ。僕は岩崎先生のことなど何も知らなかったが、その男はいろんな知識があり、その男の言葉が当時の僕を強く縛りつけた。

要するに、僕はその男に対して強い劣等感を抱いていたのだ。彼にはカリスマ性があり、教師を論破するほど弁が立ち、新聞部部長として学内のオピニオンリーダーだったし、女たちにモテた。彼は後に小学館に入り「小学六年生」編集長として「ゴルバチョフの冒険」という特集を組み、小学生向け学年誌が初めて丸谷才一の書評に取り上げられた。

当時、日共こと日本共産党は学生たちに人気がなかった。日共の青年部である民主青年同盟は新左翼系(代々木に共産党本部があることから反代々木系)の学生からは「民コロ」と呼ばれ、軽蔑されていた。ノンポリだった僕も心情的には赤ヘル(中大ブント)びいきだっため、校舎裏で「民青」の学生たちに取り囲まれ自己批判を迫られたことがある。

僕らの世代は全共闘世代(中大ブントのバリケードの中には、北方謙三さんや相米慎二さんがいた)の後に入学したので、「内ゲバ世代」と呼ばれている。大学へいくと中庭で毎日のように、色の異なるヘルメットをかぶった学生たちが角材や鉄パイプをふるって殴り合っていた。大学へいくのに、命の危険を感じる時代だった。

そんな時代だったから、高校の同級生(彼は一年先に僕と同じ中大仏文に入っていた)に言われた「日共系映画評論家」である岩崎昶先生には近づけなかったのである。その後、僕は岩波新書「現代映画芸術」など数冊の岩崎先生の本を読んだし、「映画論」は二年生になっても履修したのに、とうとう岩崎先生とは一度も口を利かなかった。

今になって思えば、岩崎先生に聞いておけばよかったと思うことばかりだ。昭和初期から映画評論家として活躍していた岩崎先生は、左翼系映画人としてにらまれたが、甘粕正彦の満州映画協会に救われ映画製作に携わる。その関係か、李香蘭が山口淑子として中国から引き上げてきたとき、身元引受人のようなこともやっている。

映画評論家の佐藤忠男さんは戦争中の映画人についての本を出しているが、その中で「どんな映画人も多かれ少なかれ戦争協力者だった時代、『戦ふ兵隊』の亀井文夫監督と岩崎昶だけは戦争協力を拒否し、反戦を貫いた映画人だった」と書いている。

そんなことを知ったのは、僕が大学で「映画論」を聴いていた頃から十数年も経ってからだった。僕は岩崎先生のことを知れば知るほど、大学生のときに話しかけておけばよかったなあ、と後悔した。岩崎先生は日本映画史の証人だけでなく、歴史そのものの証人でもあったのだ。軍国主義に傾く日本を身をもって体験した。

しかし、1981年、岩崎先生は僕が大学を出た6年後に亡くなった。明治36年(1903年)に生まれた、78年間の人生だった。その岩崎先生が1974年に発表し、1975年に刊行した朝日選書「ヒトラーと映画」(朝日新聞社)を、先日、僕はふとした拍子に書棚から引き出して読み始めた。30年ほど前に買って読んでいたはずなのだが、まったく初めて読む印象だった。

僕はナチスと映画の関係に昔から関心があり、いろいろと資料を読んでいる。ナチの宣伝相ゲッベルスについても何冊かの本を読んだ。岩崎先生の「ヒトラーと映画」を読んでいて感じたのは、ヒトラーもゲッベルスも岩崎先生にとっては同時代の人間なのだということだった。ヒトラーが政権を奪い、ナチが勃興するのを同時代に目撃したのだ。

また、サイレント時代から映画を見ている岩崎先生は、ドイツ表現主義の代表作「カリガリ博士」もフリッツ・ラング監督のドイツ時代の作品も、レーニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」もすべて日本初公開時に見ているのである。そのせいか、改めて読むと、岩崎先生の声が聞こえるようで新鮮だった。

ところで「ヒトラーと映画」を読んでいて見たくなったのは、クエンティン・タランティーノ監督の「イングロリアス・バスターズ」(2009年)だった。史実を無視したまったくのフィクションで、ヒトラーやゲッベルスを始めナチの高官たちが映画館に閉じ込められて虐殺される無茶苦茶な「イングロリアス・バスターズ」を岩崎先生が見たら、どんな反応をするかと考えると、何だか楽しくなってきた。

2020年5月15日 (金)

■日々の泡----太ったおばさんのために靴を磨く


【J・D・サリンジャー/フラニーとズーイー】

母の足腰がすっかり弱ってしまい、実家の買い物は父がシニアカートに乗っていっていたのだが、二月の入院以来、酸素吸入が離せなくなり、外出ではボンベを引いて歩かなければならないため、買い物にいくのにも不自由するようになった。

そういうことで僕がまとめて買い物することが多くなったが、それでもリュックタイプの小型の酸素ボンベがあり、ときどき父はそれを背負ってシニアカートで買い物に出かけている。しかし、大きなものを買うのは無理なので、先日、父から大量の買い物を頼まれた。

新型コロナウィルス騒ぎで、心臓に問題のある95の老人は人の集まるところへはいかない方がいいこともあり、僕は軽自動車を運転して近くのスーパーへいった。もっとも、僕自身が感染リスクの高い高齢者ではある。しかし、東京とは違って高松は人が少なく、スーパーといっても密度は低い。

米やトイレットペーパー、ティッシュペーパー、食料品などを買い込み、駐車場までカートを押していき車に荷物を積み込むと、駐車場にあるカート置き場にカートを戻した。そのまま車のところへ戻ろうとしたとき、カート置き場の近くに車を駐めた太ったおばさんが、「カートに何か残ってるよ」と声をかけてきた。

僕は自分が置いたカートを振り返ったが、何も載っていないし、買い物袋も見えない。一瞬、問いかけるような顔をしたのか、おばさんはさらに「巾着みたいなのが下がってるわよ」と言った。その瞬間、僕はとても大事なものをカートに引っかけたままだったのに気づいた。

それは黒革の巾着で、中には財布とカード入れが入っているのだ。財布の中には五万円以上入っているし、様々なポイントカードや病院の診察券と保険証などが入っている。カード入れにはキャッシュカード、クレジットカード、免許証、マイナンバーカードなど、とても重要なものが収納されている。

その巾着をカートに引っかけていたのを、僕はすっかり忘れていた。あわててカートに戻り、黒のため見えにくかった巾着を取り上げ、おばさんに向かって「ありがとうございます。これ財布が入っているんです」と心の底から礼を言った。おばさんは軽くうなずき、スーパーの売り場へ向かった。

車に戻り、エンジンをかけて駐車場を出ると、僕は大きな声で「ラッキー。神様は本当にいるんじゃないか」と叫んだ。本当にそう思ったのだ。あのとき、おばさんが声をかけてくれなかったら、僕は完全に財布とカード入れを忘れていただろう。もしかしたら、そのまま出てこないこともあり得た。

だから、僕は太ったおばさんの姿を借りた神が降臨したのだと感じ、先日、久しぶりに見返した「素晴らしき哉、人生!」(1946年)を思い出した。冒頭、天国で神様がまだ羽がもらえない見習い天使を呼ぶところから始まり、見習い天使は飛び降り自殺をするまで追い込まれてしまうジェームス・スチュアートの人生を救えと命じられる。

アメリカはイギリスのピューリタンたちが上陸して建国した国だから、こういう設定がすんなり観客に受け入れられるのだろうなあ、と初めて見たときには思ったが、先日、久しぶりに見ると抵抗なく主人公の守護天使の存在が納得できた。もしかしたら、僕も年とったのかもしれない。

といって、僕が神の存在を信じているわけではないし、何かの宗教を信じていることもない。ただ、高松にいる間は、毎朝、散歩のときに近所の神社に寄り、賽銭を入れ、二礼二拍手一礼をして手を合わせている。やっぱり、年をとったせいなのかなあ。

大事なものを完全に忘れるところだったのに、おばさんが教えてくれたことで助かったとき、僕は本気で「神様はいる」とつぶやいていた。そのまま帰るのがもったいなくて僕は車を家とは逆の方へ向け、「神様が助けてくれたのだ」と興奮しながら運転をした。

運転しているとき、僕の脳裏に甦ってきたのは、シーモア・グラスの言葉だった。「太ったおばさんのために靴を磨け」というフレーズである。五十年以上前に初めて読んだJ・D・サリンジャーの「フラニーとズーイー」の最後に出てくる、作品全体を貫くキーワードである。

僕は高校生のときに荒地出版社から出ていた原田敬一さん訳の「フラニーとズーイー」を読んだので、ずっと「フラニーとズーイー」と言っているけれど、同じ頃に野崎孝さん訳で新潮社から出たのは「フラニーとゾーイー」と表記されていた。「ゾーイー」の方が正確な発音なのだという。ちなみに、村上春樹さんの新訳では「フラニーとズーイ」になっている。

「フラニーとズーイー」は「フラニー」と題された短編と「ズーイー」というタイトルの中編で構成された作品だ。「フラニー」では久しぶりに会った若い男女レーンとフラニーのデートシーンが描かれる。フラニーとレーンの思いはすれ違い、デートの最中にフラニーは失神する。

「ズーイー」は、実家に帰ってきたフラニーが何かをつぶやきながら寝込んでいるのを、兄のズーイーが励まそうとする物語だ。最初、バスタブに浸かっているズーイーのところに母親がやってきてフラニーを心配するのだが、湯上りのズーイーはフラニーと話すものの却ってフラニーを落ち込ませてしまう。

そのフラニーに、遠くに住む作家の兄バディから電話がかかってくる。フラニーはグラス家の末っ子であり、次兄のバディは長兄シーモアが自殺した後、生存する最年長の兄弟である。その後、フラニーとバディの電話での会話が続くのだけれど、その最後に出てくるのが「太ったおばさんのために靴を磨け」という言葉だった。

「フラニーとズーイー」は宗教的な要素が強い小説だし、「フラニー」はレストランのテーブルでの男女の会話が中心で、「ズーイー」はグラス家の中だけで展開されるのだが、小説としては非常に凝ったものになっている。だから「太ったおばさんのために靴を磨け」という言葉に至ったとき、大きな感動が生まれ目から鱗が落ちる。

今、僕の手元には村上春樹さんの訳した新潮文庫版しかないので、そこから引用しよう。

----その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか? ああ、なんていうことだ、まったく。それはキリストその人なんだよ。まさにキリストその人なんだ。ああ、まったく

スーパーマーケットの駐車場のカート置き場で僕に声をかけてくれたのは、太ったおばさんの姿をした神様だったに違いない。

2020年5月 7日 (木)

■日々の泡----「銀鬘」というヒロイン


【レイモンド・チャンドラー/カーテン】

初めて読んだレイモンド・チャンドラーの小説は「カーテン」だった。中学一年生の夏、僕は12歳である。その夏の終わり、僕は初めて「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」の1964年9月号を買った。表紙に「レイモンド・チャンドラー/カーテン」と刷り込まれていたからだ。同じ号に「短期連載 ジョルジュ・シムノン/若い女の死」とあったけれど、それはまた別の話。

チャンドラーがパルプマガジンに書き飛ばした中短編の主人公は、「私」という一人称が多いが、名前はフィリップ・マーロウとは限らない。チャンドラーが「ブラック・マスク」誌に初めて書いた「脅迫者は射たない」は三人称であり、冒頭に「男の名前はマロリーといった」と出てくる。彼の名はジョン・マロリーだが、マーロウ・マロリーにしたかったという話も残っている。1933年のことである。チャンドラーは45歳。日本は昭和8年、5.15事件の翌年だった。

3年後の1936年、日本で2.26事件があった年、「ブラック・マスク」誌に「カーテン」が発表された。主人公の名前はフィリップ・マーロウとなっているが、フィリップ・マーロウが登場するのは初長編「大いなる眠り」からだから、初出のときには違う名前だったはずだ。もっとも、チャンドラーは「主人公は処女作いらい一貫した人物として書いた」と言っている。初期には、ジョン・ダルマスといった名前も使っている。

「カーテン」の冒頭のフレーズは17年後の1953年、チャンドラー65歳の時に刊行された「長いお別れ」の冒頭の有名なフレーズに重なる。僕は初めて「長いお別れ」を読んだとき、「何だ、これは。『カーテン』の始まりと一緒じゃないか」と思った。一方、「カーテン」のメインプロットは「大いなる眠り」に使われていて、初めて「大いなる眠り」を読んだときには、「何だ、『カーテン』じゃないか」と思ったものだった。

ちなみに、僕は編集者時代に双葉十三郎さんを何年も担当し、毎月、映画の原稿をもらっていたのだが、ある日、「なぜ、『大いなる眠り』だけでチャンドラーの翻訳をやめたのですか?」と訊いたことがある。「翻訳は、眼を悪くするんでね」と双葉さんは答えた。双葉さんは牛乳瓶の底のようなメガネをかけ、いつも試写室の最前列に座っていた。視力はあまりよくなかった。「それで、清水くんにチャンドラーを薦めたんだ」と続けた。今では、すべての長編が村上春樹訳で読めるようになった。

さて、創元推理文庫版「チャンドラー短編全集1」の稲葉明雄さんの解説によると、「雨の殺人者」「犬の好きな男」「カーテン」「女で試せ」「支那の翡翠」「ベイ・シティ・ブルース」「湖中の女」「山には犯罪なし」の8編は、その一部分を長編中に使用したという理由でアメリカで出版された中編集には採録されていないという。「カーテン」の冒頭は、こんな文章である。

----はじめて私がラリー・バッツェルを見かけたのは、『サーディ』の店の前で、彼が古物のロールス・ロイスのなかで酔いつぶれているところだった。そばには一度みたら忘れられないような目をした背のたかい金髪女がいっしょだった。(中略)二度目に会ったときの彼は、ロールス・ロイスも持たず、金髪女といっしょでもなく、映画界の人間らしくもなかった。(稲葉明雄・訳)

村上春樹さんが訳した「ロング・グッドバイ」の冒頭を引用してみよう。

----テリー・レノックスとの最初の出会いは、〈ダンサーズ〉のテラスの外だった。ロールズロイス・シルバー・レイスの車中で、彼は酔いつぶれていた。(中略)かたわらに若い女がいた。暗い赤みのかかった美しい髪で、実のない微笑みを唇に浮かべ、肩にはブルー・ミンクのショールを掛けていた。

「カーテン」のラリー・バッツェルは、テリー・レノックスに重なる。ある朝、ラリーは拳銃を持ってマーロウのベッド脇に立っている。ラリーは「自動車でおれをサン・バーナディノまで送ってくれよ」と言うのだ。テリー・レノックスと同じである。しかし、マーロウがシャワーを浴びている間にラリーはいなくなり、近所で機関銃によって撃ち殺される。ギャングの仕業だ。部屋へ戻ったマーロウは、ラリーの置き手紙を見つける。

その後、ラリーを撃ち殺した二人組のギャングにマーロウもつかまってしまう。しかし、隙をついて一人を射殺し、もうひとりを捕らえたマーロウは、男と死体を手錠でつなぎ道端に置き去りにする。「まさか、こんな格好で置きざりにしようってんじゃないだろうな?」という男に、マーロウが口にしたセリフが12歳の僕の心を撃ち抜いた。そのセリフこそがチャンドラー作品の魅力だった。秘めたセンチメンタリズムである。マーロウは、こう言ったのだ。

----今朝、きみらが眠らせたのは、あれは僕の友達だったんだ。

チャンドラー作品を読む喜びがここにはある。ギャングたちが登場するハードボイルドなストーリーの中、主人公が一瞬見せる感傷である。ダシィール・ハメットとは、ここがまったく違うのだ。たとえばハメットの「ガラスの鍵」は主人公のギャンブラーとギャングのボスの友情物語であり、主人公は友情のためだけに命を懸けるのだけれど、その心情は徹底的に隠されている。描写はハードボイルド(非情)であり、主人公はセンチメンタルなセリフなど一切口にしない。

しかし、チャンドラー作品が(特に女性に)好まれるのは、ストーリーの底流にセンチメンタリズムが流れているからだ。その資質を受け継いでいるのが村上春樹さんである。村上作品が多くの人(特に女性)に好まれる理由は、どんなストーリーでもその底流に甘美な感傷が流れているからだ。もちろん、センチメンタリズムを前面に押し出して読者の歓心を惹こうとする低級な作品ではない。乾いたストーリーを展開しながら、奥底にある心情を読者に感じさせる。そんな芸当はチャンドラーだからできたことで、それを村上さんが引き継いだ。

「カーテン」の中には、マーロウが「銀鬘」と名付けるヒロインが登場する。マーロウが気絶から目覚めると女がいて、マーロウの逃亡を手助けする。そのヒロインが印象的だった。初めて読んだ12歳のときから半世紀以上経っても、僕の記憶に刻み込まれている。そして、「カーテン」の最後はこう結ばれていた。そのフレーズだけで、マーロウの心情と感傷が伝わってくるではないか。

----警察のほうへもどる途中で、とあるバーに車をとめ、一、二杯ひっかけた。なんの用もなさなかった。酒のおかげで『銀鬘』のことを思いだしたが、もう二度と彼女に会うことはなかった。

「銀鬘」の字面は12歳の僕の脳裏に刻み込まれ、後に「夜の銀狐」という歌謡曲がヒットしたとき、なぜかそれが「銀鬘」というヒロインを連想させた。今なら「銀鬘」などと訳さず、「シルバー・ウィッグ」とそのまま表記すると思う。双葉十三郎訳「大いなる眠り」の「黒メガネ」が村上春樹訳では「サングラス」に置き換わったように----。

 

2020年4月23日 (木)

■日々の泡----短い髪の少女


【フランソワーズ・サガン/悲しみよこんにちは】

先日、もう何度めかになるけれど、ダニエル・オートゥイユ主演の「やがて復讐という名の雨」(2007年)を見ていたら、この中に出てくるヒロインが僕の好みのタイプなのだと気付いた。その理由は、髪が短いことである。彼女の場合は髪の毛が逆立っている感じだが、とりあえずショートヘアではある。

ティモシー・ダルトンがジェイムズ・ボンドを演じた「007 消されたライセンス」(1989年)も何度も見る映画なのだが、そちらは明確にショートヘアのヒロインを見るのが目的だ。彼女は女性パイロットとしてラストシーンでも活躍するし、アクションシーンもこなしている。ボーイッシュな短髪が似合う。聞くところによると、リチャード・ギアの奥さん(だった?)らしい。

さらに、最近では僕の気に入りの女優は、「ターミネーター ニュー・フェイト」(2019年)でグレースを演じた人である。背が高くて手足が長く、ショートヘアだった。ダニーという女性を守るために、未来から送られてきた女性兵士である。彼女は人間だがサイボーグ的に強化され、ターミネーターに対抗できる戦闘力を持っている。短髪のブロンドが女性兵士という設定にリアリティを感じさせた。

六〇年代に多感な時期を過ごした僕らの世代は、「ショートヘア」というより「セシル・カット」という言葉の方がイメージしやすい。本当はもっと先行する世代が流行らせた言葉なのだが、まあ僕らまでは通じるだろう。十八歳のフランソワーズ・サガンが書いた世界的なベストセラー小説「悲しみよこんにちは」のヒロインであるセシルからきている。

厳密に言えば「セシル・カット」という言葉は、映画化された「悲しみよこんにちは」(1957年)でヒロインを演じたジーン・セバーグのヘアスタイルに由来する。当時、観客に衝撃を与えたほど極端に短くした髪形だった。ジーン・セバーグは、その髪形とスタイルのままゴダールの「勝手にしやがれ」(1959年)に主演し、シャンゼリゼ通りを「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」と売り歩いた。

ほぼ同時期、フランスにジャクリーヌ・ササールという女優がいた。彼女は「悲しみよこんにちは」に出演するはずだったのだが、英語が話せないので話は流れた。しかし、「芽ばえ」(1957年)というイタリア映画に主演し、日本でもアイドル的な人気が出た。彼女のヘアスタイルは、ショートヘアの対極だった。サラサラした長い髪が魅力だった。作品によっては長い髪を後ろで結び、ポニーテール風にした。

それは「ササール・カット」と呼ばれ、当時の若い男たちを夢中にしたものである。多くの男たちは、僕と違って長い髪を好むらしい。しかし、なぜか僕は短い髪の女性に惹かれる。女性にとっても髪を短くすることによって、何かから解放されるのではないか。たとえば「ローマの休日」(1953年)のアン王女も長い髪をバッサリとカットする。それは、自由の象徴だったのではないだろうか。

「悲しみよこんにちは」のセシルはジーン・セバーグのイメージが強すぎて、日本で連続テレビドラマ化されたときもヒロインはショートヘアのセシル・カットで登場した。梓英子という女優が演じたヒロインの名前は忘れたが、彼女のショートヘアは今も憶えている。デボラ・カーが演じた役は南田洋子、ミレーヌ・ドモンジョが演じた父の愛人役は富士真奈美だった。

フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」を僕が読んだのは、十代半ばの頃だった。刊行されて十年以上が経ち、すでに新潮文庫に入っていた。サガンのポートレートが巻頭に挿入されていて、セシル・カット風の髪だったような気がする。サガンはすでに三十を過ぎており、「ブラームスはお好き?」や「ある微笑」などを出版し、「悲しみよこんにちは」がフロックではなかったことを証明していた。

それにしても、十八歳の少女が書いた短い小説が世界的なベストセラーになり、ハリウッドで映画化されるというのは、稀有なシンデレラ・ストーリーである。そんな成功を収めたら普通の人生は送れないだろうなあ、と誰もが思ったかもしれないが、そんな人々の期待に応えるようにサガンは、自動車事故、結婚と離婚、アルコール中毒、ドラッグなどに彩られたスキャンダラスな人生を送った。

さて、「悲しみよこんにちは」を読んで僕はどう思ったか、よく憶えていない。感心したのか、こんなものかと思ったのか。若干の反感は感じたのではないだろうか。嫉妬もあったと思う。十八になっても自分にはこんな小説は書けないだろうな、と思ったかもしれない。ただ、冒頭の部分は今も鮮やかに記憶している。その憂鬱な感覚の表現には、たぶん素直に感心したのだと思う。

オットー・プレミンジャーが映画化した「悲しみよこんにちは」の冒頭も、パリの街中をスポーツカーで走りまわり、パーティに明け暮れるセシルの生活をモノクロームで描き出し、憂鬱な感覚を醸し出す。ナイトクラブで踊るセシルの顔のアップに、ステージでジュリエット・グレコが唄う「悲しみよこんにちは」という曲が重なり、セシルは去年の夏のバカンスを回想する。それは、カラーで描かれた陽光にあふれた世界だった。

この対比がうまくいっていると思う。原作で「毎朝、悲しみよこんにちはと目覚める」という、現在のヒロインの憂鬱な感覚をモノクロームとカラーで対比させているのだ。去年の夏の出来事を経た十八歳のヒロインには、憂鬱な感覚がつきまとって離れない。それを「ボンジュール・トリステス」という言葉で表現したのだけれど、やはり希有な才能があったのだろうなあ。

「悲しみよこんにちは」から何十年も経って書かれた、サガンの「夏に抱かれて」を僕は読んだことがある。相変わらず恋愛をテーマにしていたが、さすがに奥の深い大人の恋愛になっていた。背景になるのは、ナチスに占領されていた時代のレジスタンス活動である。ところで、今、フランソワーズ・サガンを読む女性はいるのだろうか。昔は、少女たちの必読書だったのだけれど----。

2020年4月16日 (木)

■日々の泡----不条理に反抗する作家


【アルベール・カミュ/ペスト】

新型コロナウィルスの世界的感染状況を受けてアルベール・カミュの「ペスト」が売れていると聞いたので、久しぶりに読んでみるかと古い本を探し出した。僕が持っている本は新潮文庫版で上下二巻の分冊である。ずいぶん前から一冊にまとまっているはずだが、僕が買った当時は製本技術のせいなのか、そんなに大長編でもないのに分冊になっていた。宮崎嶺雄さんの訳である。

本の奥付を見てみると、初版の発行日は「昭和30年12月25日」になっており、僕が買ったのは上巻も下巻も「昭和43年10月20日発行」の20刷だった。1968年だから、僕は高校二年生。十七歳である。「そうか、俺は17歳で『ペスト』を読んでいたのか」と何だか感慨深いものを感じた。しかし、当時の僕が「ペスト」を理解できたとは思えない。

この文庫解説は初版時の昭和30年(1955年)に書かれているから、カミュはまだ生存していた。ノーベル文学賞をもらうのが四十過ぎだから、この時点ではまだ受賞していない。サルトルと共に戦後フランスの最も重要な作家として日本でも位置づけられていたが、カミュの小説作品はまだ「異邦人」と「ペスト」の二作しかなかった。

カミュは作品数の少ない作家である。小説が数編、戯曲が数編、哲学的エッセイが数編というところだろうか。しかし、僕が高校生の頃、カミュは特別な作家と思われていたのか、思索の断片を記録したカミュのノートが立派なハードカバーで二巻の「カミュの手帖」として出ていて、僕はその高い本を買ったものである。しばらくしてカミュ全集も出版され、僕は「正義の人々」が入った巻や「反抗的人間」なども購入した。

つまり、十七歳から十八歳の頃の僕は、アルベール・カミュを読もうと背伸びしていたのだ。後に僕は大学のフランス文学科に入るのだけれど、誰かに「どうして仏文科なの?」と訊かれると、「カミュの『異邦人』にやられたものでね」などと気取って答えたものだった。確かに「異邦人」は読んではいたけれど、理解していたかどうかは怪しいものである。

僕が入ったフランス文学科の連中の多くは、カミュの「異邦人」にやられた口だった。みんな、「今日、ママンが死んだ」という冒頭の一行にやられてしまうのだ。その後の主人公ムルソーの理由のない殺人、審判で動機を訊かれ「太陽がまぶしかったから」などと答えるかっこよさが「よくわからないけど、凄い」という気分にさせる。ということで、僕らは「仏文九組ムルソー一派」を名乗り、神田神保町の喫茶店「ラドリオ」にたむろした。別名「仏文九組ラドリオ一派」でもあった。

それほど入れ込んでいたアルベール・カミュだったのだが、大学を出て以来まったく読んでいなかった。マルチェロ・マストロヤンニがムルソーを演じた「異邦人」(1968年)が公開されたときにはさっそく見にいったけれど、あれもずいぶん前のことになった。それが、数年前に「最初の人間」(2011年)という映画を見て、突然、カミュの作品を読み返したくなった。

「最初の人間」は、カミュが自動車事故で死んだ後に発行された未完の小説だ。それがずいぶん経って映画化されたのである。「最初の人間」は読んでいなかったが、映画を見るとカミュの自伝的作品だった。アルジェリアに入植したフランス人の父親とスペイン系の母親の元に生まれたカミュは苦労して新聞記者になり作家となるが、家族の中で読み書きができたのは彼だけだったことも描かれていた。

現在時でのカミュはノーベル文学賞を受賞し、独立運動が盛んな故郷アルジェリアに戻り、大学で講演をする。ちょうどアルジェリアの独立運動が燃え盛っている頃で、彼の立場は微妙で命の危険さえあると言われる。カミュは独立は支持しながら、無差別な爆弾テロを繰り返す独立派を容認できないのだ。そんな現在を描きながら、子供の頃からの回想が交錯する。祖母と映画を見にいき、字幕を読んでやる幼いカミュのエピソードが記憶に残る。

先日、NHKのEテレビの「100分で名著」で「ペスト」を取り上げていた。世界中が新型コロナウィルスの感染と戦っている今だから取り上げたのかと思ったら、2018年に放映されたものの再放送だった。フランス文学者の中条省平さんが講師を務めていた。最後の回だけは、さらにゲストとして内田樹さんが登場し、いかにも楽しそうにカミュについて語っていた。

「ペスト」は不条理文学の代表的な作品として位置づけられている。一九四※年四月十六日の朝、アルジェリアの港町オランの医師ベルナール・リウーは階段で死んだ鼠を発見する。鼠の死骸は増え続け、やがて人々がペストのような兆候を現して死に始める。医師会の長老や知事は、なかなかペストであることを認めようとしない。しかし、とうとう国はオランでのペストの発生を認め、街を封鎖する。今、日本でも騒がれている「都市のロックダウン」である。

現在の日本の状況を認識しつつ「ペスト」を読み返してみると、「なるほど人間は歴史に学ばないし、過ちを何度でも繰り返すのだな」という気持ちになる。オランの知事や医師会の長老などの姿が安倍首相に重なってくる。カミュは「ペスト」をドイツ軍に占領されていたフランスの数年間を象徴化して書いているが、現在の世界の感染の状況を見ると何と深く形而上的な認識をしていたのだろうかと思う。占領も感染症も、突然やってくる「不条理なもの」である。

「ペスト」には、典型的な人物たちが登場する。医師リウー、旅行者だが都市封鎖に遭い保険隊に志願するタルー、目立たない下級役人だが保険隊の要になるグラン、血清を開発する老医師カステル、彼らはペストによっても変わらず、己の職務を誠実に果たそうとする。また、街の脱出を図る新聞記者ランベール、ペストも神の審判だと説教するパヌルー司祭、ペストによって救われたと喜ぶ犯罪者コタールなどは、時間と共に変貌を遂げる。彼らはペストという不条理に反抗し、やがて「連帯」を実感する。

今、「ペスト」を読み返す意義は大きいかもしれない。できれば、愚かな指導者たちに読ませたい。特に、世界が連帯して新型コロナウィルスに立ち向かわなければならないときに、中国やWHOといった存在を敵と想定し、責任を押しつけ、自らの責任を逃れようとしている愚かなアメリカ大統領こそ読むべきだと思うが、トランプは文字を読むのがひどく苦手だとクビになった元側近の誰かが書いていた。あの救い難い愚かさは、書物を読んだことがないからなのだろう。

2020年4月 9日 (木)

■日々の泡----怪異譚に託す思い


【山田太一/異人たちとの夏】

ある時期、山田太一さんの本を読みあさったことがある。ただし、シナリオ集は読んだことがない。小説やエッセイを読んだ。もちろん、山田太一ドラマは「それぞれの秋」にはまって以来の大ファンで、ほとんどの作品を見てきた。

山田太一という名前を知ったのは、「それぞれの秋」だった。主演の頼りなさそうな小倉一郎、その友達を演じた火野正平、セーラー服でスケバンを演じた桃井かおり、母親役の久我美子、父親役の小林桂樹、兄役の林隆三、妹役の高沢順子など、今でも様々なシーンを鮮明に憶えている。

だから、僕にとっては山田太一は名脚本家という存在だった。そう思い込んでいたから、角川文庫でぶあつい「沿線地図」が出ているのを発見したとき、誰かがノベライゼーションを出したのだと思ったものだった。しかし、それは地方紙に小説として連載された作品だと解説にあった。

えーっ、山田太一って小説も書くの、というのが最初の僕の印象だった。ちょっと軽んじた感じである。後に向田邦子が小説を書いて、名脚本家が素晴らしい小説を書けるのだと証明するのだけれど、山田太一は小説を書いてもすごいのだと僕は認識した。

その後、「飛ぶ夢をしばらく見ない」という小説が出て評判になり、僕もすぐに読んだのだが、シリアスで現実的なテレビドラマの世界と違い、ひどく幻想的な設定に驚いたものだった。小説では非現実的な発想をし、テレビドラマとはまったく違う世界を創りあげていた。

その結果、僕は山田太一さんの小説とエッセイを読みあさることになった。ずいぶん読んだと思う。新潮社書き下ろしの「冬の蜃気楼」は、山田太一の松竹の助監督時代が元になっていて、そこに出てくる巨匠のモデルは木下恵介だろうか、小津安二郎だろうかなどと思いながら読んだ。

朝日新聞連載の「丘の上の向日葵」は、毎日、待ちかねて読み続けた。小説が完結し、本人のシナリオでテレビドラマが始まったのは、その後のことである。ドラマには、僕が仕事で毎月通っていた富士フイルム本社ビルが頻繁に登場した。葉月里緒菜がデビューした作品だから、もうずいぶん昔のことになる。

身長差があるカップルの物語「君を見上げて」とか、鍵屋が主人公の物語とか、ほとんどの小説を読み、エッセイ集もかなり読んだ。中でも僕の記憶に深く残っているのは、「異人たちとの夏」だ。一九八八年の大林宣彦監督の映画化作品(脚色は市川森一)が、より印象を深くしているのかもしれない。

「異人たちとの夏」は、非現実的な設定(ベースは「牡丹灯籠」ではないか)という意味で「飛ぶ夢をしばらく見ない」の系列に入るかもしれない。誰かが書評で「父母恋い小説」と書いていた記憶がある。「異人たちとの夏」を読むと、誰もが自分の父母について思いを巡らせるだろう。

主人公の原田英雄は四十を過ぎ、離婚したばかりのシナリオライターである。都内のマンションにひとりで住んでいる。そのマンションはオフィス使用が多く、夜に明かりが点いているのは六階の英雄の部屋と三階のひと部屋だけである。三階には、女性がひとりで住んでいた。

ある夜、その女性が主人公を訪ねてくる。女性はひとりきりで淋しくてと、ひとりでは飲みきれないというシャンパンを持ってやってくる。しかし、「別れた奥さんに接近させてもらいます」と仕事仲間のディレクターに言われた直後で機嫌が悪かった英雄は、女性を追い返す。

しばらく後、地下鉄の無人駅の取材で不思議な体験をした後、「浅草」の表示を見て久しぶりに英雄は懐かしい浅草へいく。十二歳まで父母と共に暮らした町だ。英雄が十二のとき、自転車の二人乗りをしていた父母は国際通りで事故に遭って死んだのだ。

しかし、その夜、英雄はたまたま入った寄席で父親そっくりの男を見かける。男は「もう、出ようか」と声をかけて寄席を出ていく。英雄が出ると、男は待っていて「うち、くるか」と言う。英雄がついていくと、アパートの二階の部屋には母親そっくりの女がいた。

大林監督の映画版では、主人公を風間杜夫、父親を片岡鶴太郎、母親を秋吉久美子が演じた。後に英雄と深い仲になる同じマンションに住む桂(ケイ)役は、名取裕子だった。その他の主要な人物は英雄の仕事仲間のテレビディレクター(永島敏行)くらいで、登場人物は多くない。

最初の夜、父母とそっくりな男女と楽しい時間を過ごした英雄は、半信半疑で改めてアパートを訪ね、帰りしなに「名字、何ですか。表札出てないし」と訊き、母親に「原田に決まってるだろ。親に名字訊く子供がどこにいるのさ」と言われ、本当の父母なのだと理解する。

自分より若い寿司職人の粋な父と美人の母に英雄は甘える。十二歳で別れてしまった父母に四十の男が子供のように甘えるのだ。そのシーンがたまらない。片岡鶴太郎は、この映画で初めて俳優として評価されたのではなかったか。はまり役である。

しかし、英雄はテレビ局のスタッフなどに「体、大丈夫ですか」と声をかけられることが増える。「ひどくやつれている」と指摘される。男女の仲になった桂からも「誰かに会ってるの? ひどい姿よ」と言われ、父母に会っていることを告白する。

二十八年前に死んだ父母が、現実の存在として目の前にいる。この世のものではないはずだ。しかし、小説も映画も二人を現実の存在として描き出す。そこが、この作品のいいところだと思う。二十八年前に死んだ両親が、四十になった息子を当たり前のこととして受け入れる。

しかし、英雄は桂に促され、父母と別れる決意をする。アパートを訪ねた英雄は訳を話し、三人で浅草の町を散歩して今半別館へすき焼きを食べにいく。真夏のすき焼き。別れの宴である。秋吉久美子の素晴らしい演技があり、僕にとっては忘れられないシーンになった。

----おまえをね、大事に思っているよ。おまえをね、誇りに思っているよ

山田太一さんのエッセイを読むと、戦前、浅草で食堂をやっていた父母の元で育ったという。戦後、父親と湯河原に住み、やがて早稲田大学に入る。そこで、寺山修司と親友になり、卒業後は松竹に入った。木下恵介の助監督を務め、木下監督が松竹を辞めてテレビに進出したときにシナリオライターとしてデビューする。

「男たちの旅路」「想い出づくり」「ふぞろいの林檎たち」など、山田太一さんがテレビドラマの世界に残した功績は大きいが、小説ももっと読まれていいのではないか。ドラマでは書かない幻想譚、あるいは怪異譚に何らかの思いを込めたのではないか。そんなことを感じる。

2020年4月 2日 (木)

■日々の泡----松田政男さん追悼


【松田政男/薔薇と無名者】

松田政男さんの「薔薇と無名者」を買ったときのことは、五十年が過ぎた今も鮮明に憶えている。上京して初めて買った映画評論集だった。高校生のときに、古本市で小川徹さんの「橋の思想を爆破せよ」という映画評論集を初めて買ったので、松田さんの「薔薇と無名者」は僕が買った二冊目の映画評論集になる。版元は芳賀書店だったと思う。後にエッチな本で有名になる神保町に店がある芳賀書店だが、昔から映画関係の本を出していた。

一九七〇年の初夏のことだった。僕は上京し、ひとりで浪人生活を送っていた。予備校が早稲田にあったので、池袋駅で乗り換えて赤羽線でひと駅めの板橋駅から歩いて五分ほどの滝野川の安アパートに住んでいた。四畳半ひと間だけで炊事場も便所も共同だった。板橋駅の東口へ出ると、目の前に近藤勇を祀った廟がある。確か、近藤勇は流山で捕らえられ板橋で首をはねられたはずなので、その刑場跡なのかもしれない。

僕のアパートはその廟の横を抜けて明治通りの方へ向かうのだが、廟の前の道を北に上ると突き当たりに映画館があった。僕の記憶では「人生坐」という名前だったはずなのだけれど、後に池袋文芸坐のS支配人に話を聞いたときに「それは弁天坐でしょう」と言われた。初めていったときには松本俊夫の(というよりピーターの)「薔薇の葬列」(1969年)と大島渚の「絞死刑」(1968年)を上映していたが、滝野川で僕が暮らすようになって三ヶ月ほどで閉館した。

その映画館の前の道を東へ十メートルほどいったところに古本屋があった。僕は毎日のように、その古本屋を覗いたものだった。アパートを出て銭湯へいき、滝野川商店街をブラブラして古本屋を覗き、最終上映の映画を見るなんて理想の生活をしていた。その映画館では、四国高松にいたらとても見られないアートシアターギルド(ATG)作品を百円で見ることができたのである。

その古本屋では清水昶さんの詩集「少年」や松田政男さんの「薔薇と無名者」を買った。古本とはいえ、どちらもけっこう高くて何度も躊躇したものだ。何しろ僕は本当に貧しくて、映画を見るために昼食を抜いていた。身長は今と変わらず一七〇だったが、体重は五〇キロを切っていた。ウエストは六十八センチ。今からは想像できないほど痩せていた。

何度も躊躇して買ったのだが、「薔薇と無名者」は僕に新しい世界を教えてくれた。映画を思想的に見る視点である。その本の中で松田さんは、自分のことを「失業革命家」と称していた。「職業革命家」という言葉は僕も知っていたが、「失業革命家」と自称する姿勢(そこには自虐的なニュアンスはなかった)に僕は何か割り切れないものを感じたものだった。

後に、松田さんが若い頃に共産党に入党し、山村工作隊に参加していたという噂を聞いた。共産党が武力革命路線を提唱し、それを信じて全国の農村をベースに革命をめざした若者のひとりだったのだろう。世代的には、大島渚と近かったのかもしれない。京都大学で大島渚と同学年だった戸浦六宏は、共産党に二度入党し三度脱退したという。大島の処女作を批判し、「だったら出てみろ」と言われて二作目に出演し、以降、ほとんどの大島作品に出た。

「薔薇と無名者」を読んで、僕は松田政男さんが大島渚監督の「絞死刑」に出ていた検察事務官だったと知った。その少し前に僕は「絞死刑」を、大島渚作品としては珍しくおもしろく見たのだった。低予算の映画らしくセットにほとんど金をかけず、出演者も絞り込んでいた。大島一家である戸浦六宏、小松方正、小山明子などの他、松田政男さんのような役者ではない人を出演させていた。

松田政男さんに初めて紹介されたのは、出版社に勤め始めて数年後のことだと思う。八ミリ専門誌「小型映画」編集部に、映画関係者に広い人脈を持つHさんという女性がいた。僕は隣の編集部にいたのだが、映画好きということで何かと誘ってもらうことが多く、ある夜、新宿ゴールデン街の「銀河系」でH女史に松田さんを紹介されたのである。その後も「銀河系」ではいろんな人と出会ったものだ。

H女史と松田さんはかなり親しいらしく、その後も僕は何度か「銀河系」で一緒に飲むことになった。僕は「薔薇と無名者」を買ったことを話し、明け方まで飲み続けるようなこともあった。松田さんはH女史の紹介で自主映画作品をよく見るようになり、その世界に詳しい映画評論家になった。その関係で、「ぴあフィルムフェスティバル」の草創期から応募作品を全部見る下審査のようなことをしていた。

あれは、一九七九年の初夏のことだったと思う。まだ猿楽町にあった「ぴあ」の上映室で遅くまで松田さんと一緒に応募作品を見て、そのまま新宿へ飲みに出た。明け方まで飲み続け、夜明け頃に靖国通り沿いの中華料理店に入り、丸テーブルを囲んだ。松田さんとH女史、僕、他にも誰かがいたと思う。お腹を空かしていた僕はけっこう食べたが、すっかり松田さんにごちそうになってしまった。

明るくなった新宿東口駅前で、僕はジャン・マイケル・ヴィンセント、ウィリアム・カット、ゲーリー・ビジーの三人がサーフボードを抱えている映画の看板を見た。「ビッグ・ウェンズデー」である。「俺には、きっと一生『ビッグ・ウェンズデー』なんてこないんだろうなあ」と僕はつぶやき、「きみは、まだ二十七なんだろ。これからだぞ」と松田さんに言われた。あれから四十一年の月日が流れ、三月二十日の新聞の訃報欄に、僕は松田さんの名前を見つけた。

松田政男(まつだ・まさお=映画評論家)
17日午後8時15分、肺炎のため埼玉県戸田市の病院で死去。87歳。東京都出身。葬儀・告別式は故人の遺志で行わない。しのぶ会を後日開催する予定。出版社で埴谷雄高や吉本隆明らの著書を編集。「テロルの回路」「風景の死滅」などの著書を残した。

2020年3月26日 (木)

■日々の泡----大江健三郎とゾルバ


【大江健三郎/性的人間】

大江健三郎の「性的人間」を読んだのは、忘れもしない高校二年、十六歳のときだった。衝撃を受けた。刺激が強すぎた。僕が初めて買った大江健三郎の作品集だった。

当時、新潮社からハンディサイズの「大江健三郎全作品」六巻が刊行されていた。東大新聞に載った処女作「奇妙な仕事」から、書き下ろし長編「個人的な体験」までが収められた作品集である。

その頃、話題になっていたのは長編「万延元年のフットボール」だった。すでに次の新作が出ていたのだ。その小説は筒井康隆が「万延元年のラグビー」というパロディを書くほど騒がれていた。

しかし、僕は話題の小説ではなく、すでに評価の定まった「全作品」の六巻めを最初に買った。確か冒頭に「性的人間」が配置され、「空の怪物アグイー」などの短編が続き、後半に長編「個人的な体験」が収められていた。

だから、僕は「性的人間」を最初に読むことになった。後に、サルトルとカミュが論争したという「政治的人間」のことを知り、大江健三郎は「政治的人間」に対置するものとして、「性的人間」とつけたらしいと推測した。

小説は、深夜に海辺の別荘に向かうスポーツカーから始まる。金持ちの青年J、その妻、キャメラマン、詩人、全裸の若いジャズシンガーなどが乗っている。彼らの関係が次第に明らかになっていく。それが前半の物語だ。

構成は一部と二部のように完全に分離されている。後半は、前半の別荘の乱痴気騒ぎに登場した青年Jが痴漢の少年と出会う物語だ。彼は、全裸の上にコートを身につけただけで電車に乗っている。

簡単に説明するとそれだけの物語なのだけれど、後半では特に「性的なるもの」についての考察がある。ただし、十七歳の少年にはそんなことは読みとれない。痴漢行為がなぜ形而上的なものになるのか、まったくわからなかった。

しかし、前半の乱交パーティ風の展開や後半の痴漢行為の描写などが、若い僕を刺激した。ただし、下半身を刺激したのではない。ポルノグラフラフィは扇情的な描写だが、「性的人間」はまさに純文学的な描写だったからだ。

刺激されたのは、僕の頭脳である。「これが純文学なのか」と衝撃を受け、そのまま第六巻を読み進み、「個人的な体験」に入り、またまた僕はびっくりした。「鳥(バード)」と呼ばれる青年と火見子というヒロインとのセックスシーンが延々と続いたからである。

頭にもうひとつの大きな瘤のようなものをつけて生まれた我が子を見て、バードはかつての恋人だった火見子の元に逃げる。自分の息子を引き受けるか、死を願うか、迷いながらバードは火見子とのセックスに耽るのだ。

後にジョン・アプダイクの「走れ、うさぎ」を読んで、物語の基本構造が似ているなと感じたが、「個人的な体験」が発表されたときにもそれは指摘されたことだったらしい。確かに、似ていた。

どちらにしても、僕は初めて小説で「露骨な性的描写」にぶつかり驚いたのだった。しかし、それで大江健三郎作品を読み尽くそうと決意し、作品集を毎月一冊ずつ購入し、講談社から出ていたサイケデリックな装丁の函入り「万延元年のフットボール」も買った。

そのときから現在まで、大部分の大江作品は読んできた。伊丹十三が自殺してからは、ほとんど彼についての小説ばかり書いている大江さんではあるけれど、元々、「日常生活の冒険」の斎木犀吉は伊丹がモデルになっていた。

高校時代に大江健三郎と伊丹十三(いろいろ改名した人だけれど、伊丹の名は父親の伊丹万作監督から引き継いでいる)は同級生になり、伊丹の妹と大江健三郎は結婚する。だから、その死は衝撃だっただろうし、生涯にわたって書き続けることになったのだろう。

とすると、若い頃から俳優やデザイナーなどをやっていた伊丹の周辺を見ていた大江健三郎は、「性的人間」の詩人やジャズ・シンガーやキャメラマンなどの人物像をそこら辺から得たのかもしれない。

ところで、「性的人間」を思い出すと、僕が必ず連想する映画がある。「その男ゾルバ」(1964年)というエーゲ海のクレタ島を舞台にした作品だ。主人公のイギリス人作家(アラン・ベイツ)はクレタ島の炭坑を相続し、島へ渡る。

クレタ島へ行く船を待つ港の酒場で、作家はひとりのギリシャ人と出会う。ゾルバ(アンソニー・クイン)である。彼は強引に売り込み、炭坑の責任者となり、ふたりは一緒に島に上陸する。

島で作家は未亡人(イレーネ・パパス)と恋に落ちる。未亡人には、ずっと彼女を恋い慕う若者がいた。作家が未亡人の家から早朝に抜け出すのを目撃した若者は、断崖から海に身を投げて死ぬ。

若者の死を知った一族が未亡人の家を取り囲み、沈黙のまま見つめる。モノクロームの画面に白と黒の衣装が際立つ。大勢の人たちが家に石を投げ、やがて引きずり出された未亡人は若者の父親に刺殺される。作家もゾルバも何もできず、目の前で彼女が殺されるのを見ているだけだ。

「性的人間」に、これに似た場面がある。海辺の道をヘッドライトが切り裂くようにスポーツカーで疾駆しているとき、突然、大勢の人々が集まっているのを照らし出す。無表情な漁民たちだ。

彼らはある家を取り囲んで、じっとたたずんでいる。その家の主を無言で非難しているのだ。不気味な民衆たちのイメージである。僕は、その場面を読むたびに「その男ゾルバ」のイレーネ・パパスを思い出す。

2020年3月19日 (木)

■日々の泡----恍惚の人


【岡野雄一/ペコロスの母に会いに行く】

父が入院したので母をひとりにしておくのが心配になり、高松の実家で母とふたりで暮らすことになった。ただし、一ヶ月もしないうちに、「もう耐えられない」とグチが出た。最近は、午前中や午後に一時間から二時間ほど、実家の裏の一軒家(僕の仮住まい)に避難するようになった。

健忘症や認知機能の低下は老人の宿命のようなものだが、先日、歩いて父の入院している病院までいったのに、病室で三十分ほどいた後、玄関を出ると母が「ここで待ってるから」と言う。僕が駐車場から車を取ってくるのを待っているというのだ。

その日は天気が良くて暖かだったから、少しは歩いた方がいいと思って散歩がてら父を見舞ったのに、そのことを完全に忘れている。独り言も増えたし、何度説明しても思い込んでしまった考えに固執する。繰り返しは多いし、同じことを何度も訊いてくる。

それでもプライドは高いから、こちらが老人扱いすると怒り出す。先日は「私は、この家の女主人だ」と胸を張った。こちらも、ついついきつい言い方になる。他の人たちの話を聞くと、母はまだマシな方なのだけれど、ついイライラしてしまう。

父は耳はほとんど聞こえないが頭はしっかりしているし、金銭の管理も自分でやっている。十日に一度の入院費の精算も自分で行う。僕は言われた引き出しから財布を出して届けるだけだ。そんな父と話しているときの母は、意志疎通がきちんとできているように見える。70年以上連れ添った夫婦である。僕など理解できない何かが存在するのだろう。

ふたりとも、今年で95歳になる。大正14年生まれだ。結婚したのは戦後の焼け跡闇市の頃。兄は昭和24年9月生まれだから、たぶん戦後3年目に結婚したのだと思う。人生百年と言われるが僕の親戚は長寿の人が多く、母方の伯父も父方の伯母も90半ばまでしっかりしていた。かみさんの母親(僕の義母)も大正15年生まれで、今年94歳になる。

昔、有吉佐和子の「恍惚の人」という小説がベストセラーになり、「恍惚の人」は流行語になった。その後、「ボケ老人」と言われ、「痴呆症」という言葉がしばらく使われていたけれど、差別的(?)だというので、いつの間にか「認知症」という病名が一般的になった。

「恍惚の人」は文芸作品の巨匠・豊田四郎監督によって映画化された。本が出たのが一九七二年、映画の公開は一九七三年である。老人介護の問題を取り上げ、一般的に知らしめた最初の小説ではなかっただろうか。主婦が舅を介護するのだが、その大変さが伝わる内容だった。

主人公を演じたのは、高峰秀子。舅役は森繁久彌である。森繁は役に入り込んだという。嫁が排泄の世話をする場面もあり、家庭での介護の問題を提示した。当時は、長男の嫁は舅姑の世話をするのが当たり前と思われていたし、協力する夫も少なかったのではあるまいか。

介護保険が導入されたのは、何十年前だっただろうか。僕は四十を過ぎていたと思う。ある日、突然、介護保険料が給与から引かれるようになった。ということは、保険導入からすでに二十年以上が過ぎたのか。介護保険料の納入は四十から始まるのは、今も変わっていないのだろうか。

介護保険導入によって「介護ビジネス」という言葉が登場し、ビジネスチャンスを狙って多くの企業が参入した。そんなこともあり、今では介護施設に親を入れるのは当たり前になった。近所を散歩をしていると、そこら中に介護施設がある。仕方のないことなのだろうが、預ける側には「後ろめたさ」みたいなものもあるだろう。

一昨年亡くなった赤木春恵さんが「最高齢で主役を演じた」と言われたのが「ペコロスの母に会いに行く」(2013年)だった。原作が四コマ漫画だから、全体にユーモラスに描かれているけれど、認知症になった母親は子供にとってはシリアスな問題である。笑い飛ばせる余裕があれば---と思う。

主人公(岩松了)は長崎の広告代理店に勤め、広告取りの営業をしている。タウン誌に漫画やイラストを描いていて、ときどきライブハウスで歌っている。母の認知症が進行し、施設に預けることになる。面会にいくと、母は息子がわからない。禿頭をなでさせると、「雄一や~」と認識する。その辺がユーモラスなのだが、現実としては深刻だ。

一方で、母の人生が描かれる。少女の頃の友達が長崎の遊郭に売られていく。長崎に原爆が落ちて、友達は被曝する。戦後、結婚して子供を産んだ母は彼女を探しに島原へいく。しかし、友達は娼婦であることを恥じて彼女の前から逃げるように去る。手紙を出しても返事はこない。

一方、夫は大酒飲みで、苦労続きの日々だ。父の給料日には呑み屋に寄らないように息子の雄一が迎えに出される。雄一に母と手を繋いで海を見ていた記憶が甦る。あれは、もしかしたら心中を考えていたのではないか----。そんな母の一生が現在の認知症の姿と共に描かれる。

赤木春恵の姿が、僕の母に重なってくる。たった一年前に通じていたことが、今は通じなくなっているのを見ると、悲しみが湧き上がる。そのとき、母の生涯が一気に頭の中を駆けめぐる。僕が小学生の頃の母の姿、十八から僕は家を出たので年に一度くらいしか会うことはなかったが、それでも様々な思い出が甦る。

「恍惚の人」が流行語になっていた頃、僕は大学生だった。あれから五十年近くが過ぎ去り、今、その言葉が現実のものとして迫ってくる。それが、人生なのかもしれない。くるべきものは、いつかやってくるのだ。それを受け止め、生きていかなければならないのだろう。にしても、切ない思いが去らない。

 

2020年3月12日 (木)

■日々の泡----小津の冷徹な視線


【高橋治/絢爛たる影絵】

千葉の自宅へ帰ってひと月足らず、父が入院したので再び高松にやってきた。九十四歳の母にひとり暮らしをさせるのは無理があり、実家で母と暮らしている。実家の向かいの家に兄夫婦が住んでいて義姉が見てくれているのだが、義姉は施設に入っている実母もいて大変なのだ。先日、母が半月入院し、そのときも義姉にずっと付き添ってもらった。

三月末に九十五歳になる父は、大正十四年生まれ。去年、父名義のクレジットカードを作るために申し込もうとしたら、「大正」という字が申込用紙からなくなっていた。簡単に申し込めるという楽天カードをネットで調べたが、選べる生年月日は八十九歳までだった。九十以上はクレジットカードは作れないらしい。何がキャッシュレス推進だ、と言いたくなった。

父がiPhoneを使い始めたのは八十半ばだったと思う。年齢が高すぎて機種代は二年間の通信料に上乗せ分割ができず、一括払いになった。要するに向こう二年間で死ぬ可能性があると判断されたのだ。そのときに入手したiPhone5を父は今も使っている。

さて、そんな父母の姿を見ていると、いつも思い出す映画のセリフがある。母が何度も同じことを訊いてきてイラついたりしたときは、そのセリフを自分に言い聞かせている。それは小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)の中で大坂志郎が口にしたセリフだった。

「東京物語」は尾道で教師をしている末娘(香川京子)と暮らす老夫婦(笠智衆と東山千栄子)が、東京に住む子供たちを訪ねて出てくる物語だ。長男(山村聡)は町医者で、長女(杉村春子)は美容院を経営している。戦死した次男の嫁(原節子)は会社勤めでアパート暮らしだ。

長男も長女も邪険にしているつもりではないのだが、両親の上京を歓迎している様子はない。ふたりは金を出し合い、両親を熱海に送り出す。親孝行のつもりでも、何となく厄介払いの感じだ。熱海にいったふたりは旅館がうるさくて眠れず、予定を切り上げて帰ってくる。杉村春子は「もう帰ってきちゃったの」と迷惑顔である。

広い東京で行き暮れた老夫婦は次男の嫁のアパートで歓待を受け、「あんたは、ほんまにええ人じゃ」と東山千栄子は尾道弁で言う。老夫婦は帰りの列車の中で「ワシらはなんぼかええ方じゃよ」と互いに慰め合う。東山千栄子は「ながいっきゃ、するもんじゃのう」と口にするが、その言葉は「長く生きてきて実の子からこんな目に遭うくらいなら、長生きなんかしたくなかった」と聞こえる。

ふたりは大阪で暮らしている三男(大坂志郎)と会ってから尾道に帰り、すぐに老妻は死んでしまう。葬儀が行われ、子供たちが集まる。葬儀の後、長男も長女もさっさと帰り支度をし、悲しむ様子がない。杉村春子はさっそく形見分けの話を持ち出し、「ほらほら、お母さんのあの着物、私もらうわよ」と妙に明るく言う。

そんな実の兄や姉の態度を見て「みんな、ひどいわ」と香川京子が言うと、原節子が「みなさん、お忙しいのよ。ご自分の生活で精一杯なの」とかばう。彼らは自分の家族を持ち、自分の仕事と生活でいっぱいいっぱいなのかもしれない。そんなつもりはなくても、いつの間にか親を棄てている。

年老いた親の問題は六十年以上昔より、今の方がずっと難しくなっている。人々の心は変わったし、時代も変わってしまった。「東京物語」の世界より、もっと複雑になった。だが、僕は「東京物語」のテーマ「親を棄てる」を思うとき、三男が葬儀を抜け出し、心配して追ってきた原節子に寺の廊下で言うセリフを必ず思い出す。

孝行をしたいときには親はなし
さればとて墓に布団は着せられずや

自宅と実家をいったりきたりし始めて六年目に入った。最初の年は七ヶ月ほど実家の裏の家にいたが、去年は通算で八ヶ月以上いることになった。この五年で、確実に老父母は衰えている。特に母の衰えが目立つ。この一年ほどは自宅に二ヶ月ほど帰ってくると、母の認知機能や理解力が目立って落ちていることに気付く。

それでも父がしっかりしているので、ふたりで暮らしていると何とかやれるのだが、父が入院してしまうと母ひとりでは不安が募る。先日、片方の補聴器が見あたらなくなったとき、「元々、片方しか入れてなかった」と母は言い張り、一瞬、唖然とした。補聴器はずっと両耳に入れており、一年足らず前に僕が一緒に専門店に付き添い新しくしたものだったからだ。僕は、母の顔を見つめた。悲しみが湧いてきた。

小津監督は生涯独身で、母と二人で暮らしていた。そんな小津だから家族について冷徹な目で見つめた「東京物語」が作れたのだろうか。「東京物語」はイギリスのBBCが世界の映画監督からアンケートをとった結果、古今東西の映画の中のベストワンになった。それほど高く評価されるのは、「家族」「親子」そして「親を棄てる」というテーマが普遍的だからなのだろう。

小津監督に関する本は様々に出ている。たぶん黒澤明に関する本より多いのではないか。僕もかなり読んできた。主だった研究書には目を通したし、笠智衆や三上真一郎が書いた思い出本も読んだ。数十冊は読んだと思うけれど、やはり面白かったという意味では、高橋治が書いた「絢爛たる影絵」だろう。

冒頭、女性と会うために北海道にいた高橋治は電報で呼び戻され、松竹大船撮影所で「東京物語」のフォース助監督につく。チーフ助監督は、今村昌平である。生意気盛りの高橋治は、小津組の現場の沈黙に反抗し、カチンコを叩いて引くときにわざと足下の缶を蹴飛ばし、大きな音を立てる。現場に緊張が走る。

その日の撮影が終わりスタジオを出た高橋治は、待っていた小津監督に声をかけられる----というように、大学を出てすぐに入った松竹で高橋治は小津監督と身近に接した経験があり、そういうスタンスで長い物語を綴っていく。後に数本の作品を監督し、松竹ヌーヴェルヴァーグの一員となった高橋治は作家になり、直木賞を受賞し、「風の盆恋歌」など「恋歌」シリーズで名を残した。

この「絢爛たる影絵」は小説的な面白さもあるが、何年も経ったあるとき、突然「東京物語」が気になり始め、改めて作品の魅力、価値を見定めようとする高橋治の魂の遍歴みたいなものも描かれていて、独特な魅力のある本なのだ。数多く読んだ小津監督本の中で、いつまでも忘れられない印象を残している。

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