2019年5月23日 (木)

■日々の泡----動物小説の面白さを知った


【荒野の呼び声/ジャック・ロンドン】

「馬に乗った水夫」(アーヴィング・ストーン著)というジャック・ロンドンの伝記を読んだのは、中学生の時だった。当時、定期購読していた「ミステリマガジン」に短期連載されていたのだ。後に早川書房から単行本にまとまった。

小学生のときには「キューリー夫人」とか「エジソン伝」といった偉人伝のような子供向けの本をいろいろ読んだけれど、特に偉人でもない小説家を取り上げた本格的なバイオグラフィ(伝記)を読んだのは初めてだったし、アメリカでは伝記作家という存在が成立するのだと知った。

しかし、「馬に乗った水夫」がジッャク・ロンドンの伝記でなかったら、僕は読まなかったかもしれない。「ミステリマガジン」を定期購読していたのは、ミステリを読みたかったからで、ノンフィクションには馴染みがなかったからである。しかし、当時の「ミステリマガジン」は、ミステリ以外の作品やコラムが充実していた。編集長だった常盤新平さんの方針だったようだ。

僕は小学生で「荒野の呼び声」と「白い牙」を読み、ジャック・ロンドンという名前を記憶していた。後に原題が「The Call of the Wild」と知り、物語の内容からすれば「野生の呼び声」という邦題の方がニュアンスを伝えていると思ったけれど、僕の小学生の頃は「荒野の呼び声」というタイトルが一般的だったと思う。

「荒野の呼び声」は、僕が初めて読んだ動物小説だった。飼い犬だったバックがさらわれてソリを引く重度労働に従事させられたり、様々な人間と出会い苦難に充ちた経験をし、やがて「野生の呼び声」によって荒野へ帰っていく物語だった。荒野で遠吠えをするバックの孤影を、僕は鮮明に浮かび上がらせた。

狼と犬の間にできた「白い牙」と呼ばれる犬の物語の舞台は、ゴールドラッシュに湧くアラスカだった。狼の血を引く「白い牙/ホワイト・ファング」は猜疑心の強い子犬だったが、原住民に拾われ、強いソリ犬のボスに育つ。やがて白人に買われ、闘犬に出されるようになり、無類の強さを誇る。

しかし、闘犬のために育てられたブルドッグと対戦して重傷を負い、瀕死のところを判事の息子に救われる。初めて心優しい人間に出会った白い牙は、判事の家の忠実な番犬になる。これは「荒野の呼び声」とは逆で、猛々しい野生の狼犬から幸せに暮らす飼い犬になる物語だった。

「白い牙」で印象に残ったのは、「片目」と名付けられた父親の狼である。過酷な荒野の生活を送ってきた片目は、右の目がつぶれている。犬のキチーとの間に白い牙を含めて五匹の子を為し、オオヤマネコと戦い死んでいく。

「片目」は、「シートン動物記」の「狼王ロボ」を僕に連想させた。ただし、僕が読んだのは、「シートン動物記」を白戸三平がマンガにしたものである。1961年から1964年にかけて、僕の小学4年生から中学1年生のときに発表されたマンガだった。

その頃、金曜日の夜8時から一時間、日本テレビ系で三菱電機提供による番組枠があった。そこではプロレス中継と「ディズニーアワー」が隔週で交互に放映されていた。小学生たちはもちろんプロレスに熱中したけれど、僕はどちらかと言えば「ディズニーアワー」の方が楽しみだった。

その「ディズニーアワー・冒険の国」の回で、映像化された「白い牙」が放映された。そのときの映像を、僕は今でも憶えている。檻の中に入れられて吠える主人公の狼犬。過酷な労働をさせられ、闘犬シーンでは牙を剥いて戦った。犬の目には、人間たちは己の欲望だけに生きているように見える。

ということで、僕はジャック・ロンドンという作家に強い興味を持っていたのだった。「馬に乗った水夫」を読んだ僕は、ジャック・ロンドンが極貧に生まれ、幼い頃から働き、やがて水夫になり、そんな経験を経て社会主義者となったことを知った。

1876年生まれのジャック・ロンドンは、マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」に共感し、1901年にアメリカ社会党に入党する。1903年、27歳のときに「荒野の呼び声」を発表し、流行作家となった。以降、50冊以上の著書を残したという。

ちなみに数年前、僕は書店で柴田元幸さんが翻訳したジャック・ロンドン著「火を熾す」を見つけ、久しぶりに彼の短編を読んだ。村上春樹さんもジャック・ロンドンの「To Build a Fire」にインスパイアされた短編を書いている。

さて、ジャック・ロンドンは20世紀初頭のアメリカで社会主義者だったから、ウォーレン・ベイティが監督主演した「レッズ」(1981年)にジャック・ロンドンが出ていたと、ずっと僕は錯覚していた。「レッズ」は、二十世紀初頭のアメリカでコミュニストとして生きた人たちを描いていたからだ。

「レッズ」(赤たち、つまり共産主義者たち)は、ロシアのヴォルシェビキによる十月革命をルポした「世界を震撼させた十日間」を書いたアメリカ人ジャーナリスト、ジョン・リード(ウォーレン・ベイティ)を主人公にした物語だ。映画のラスト・クレジットでは重厚な「インターナショナル」が流れる。

しかし、「レッズ」にはリードの友人である劇作家ユージン・オニール(ジャック・ニコルソン)は登場するが、ジャック・ロンドンとは少し時代がずれている。ジャック・ロンドンは、ロシア革命以前の1916年に死んでいるのだ。モルヒネを飲んでの自殺だという。40年の生涯だった。

ジャック・ロンドンの代表作は、何度も映画化されている。「シーウルフ/海の狼」「野生の呼び声」「白い牙」などである。ケン・アナキン監督でチャールトン・ヘストンが出た「野生の呼び声」(1972年)や若きイーサン・ホークが出ていた「ホワイトファング」(1991年)を僕は憶えている。

2019年5月16日 (木)

■日々の泡----評価は他人がするもの


【ものぐさ精神分析/岸田秀】

僕には説教癖はなかったとは思うけれど、それでも勤めている頃、若いモンと飲んだとき、「評価は他人がするもの。自己評価は何の意味もない」とよく言っていた。多分に、自分に対する戒めの言葉でもあった。もっとも、若いモンが僕の言葉を聞いて雷に打たれたように感じ、納得していたとはとても思えなかった。

人は、何かと自己評価をする。「僕ってシャイだから」という男はサイテーだと思うけれど、同じようなことを多くの人は言っている。たとえば「私、人見知りだから」とか「私、口べたでしょう」とか、日常的によく耳にする。それも一種の自己評価、あるいは自己イメージの他者への強制である。

しかし、ある人は僕のことを「親切な人だ」と思っているかもしれないが、別の人は「無愛想で不親切で、いけ好かない奴」と思っているかもしれない。ある人は僕を「人見知りで照れ屋」と思っているかもしれないが、別の人は僕を「傲慢で人を見下す、唾棄すべき奴」と思っているかもしれない。

評価とは、結局、そういうものなのだ。人の性格、能力、容姿、その他モロモロ、他人が自分をどう思うか、ということで評価は決まる。「あの人の歌は素晴らしい」と大勢の人が評価すれば、その人はプロの歌手になれるかもしれないし、「あの人の書くものは面白い」と大勢に評価されれば作家になれるかもしれない。

しかし、世の中の多くの問題の原因は、自己評価と他人の評価の落差によるものが大きいのではないか。たとえば、若いモンが「私は仕事で評価されていない」と飲んだ席でグチるとき、彼の自己評価と会社の評価には大きなズレがある。また、「自分探し」という言葉があるが、それも「本当の自分」がいるという、過大な自己評価が生み出す幻想だと思う。

「本当の自分」などいない。他人が見た僕が「本当の僕」なのだと、あるときから僕は言い聞かせてきた。もちろん、僕も十代・二十代の若い時分には、「本当の自分」みたいな幻想を持っていたし、自分が世の中に受け入れられず不遇だと感じ、鬱屈やルサンチマンを抱いて生きていた。しかし、それは結局、自己憐憫にしかつながらなかった。自己憐憫は、何も生み出さない。

三十を過ぎ、勤めている出版社の労働組合委員長を経験し、日本出版労働組合連合会の業種別組織の事務局長を経験したとき、大勢の人(最大で13組合500人くらいになったことがある)をまとめる大変さに、「自分と同じ考えや感じ方、同じ美意識や価値観を持つ人」は世の中にひとりもいないことを実感した。自分の考えや感じ方は、自分だけのものなのだと当たり前のことを思い知らされた。

そう学んだとき、何かが吹っ切れた。僕が提起する運動方針を「是」と評価する人が過半数を超すと、民主的な手続きとして採択されるわけだが、それでも多いときには半数近くの人が「非」としているのだと学んだのである。その頃に、僕が出合った本が岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」だった。1982年、僕は30歳、平組合員からいきなり執行委員長になった頃だった。

岸田秀さんの理論は、ものすごくアバウトに言うと「すべては幻想である」ということになる。日本人としての「共同幻想」があり、「本能の壊れた人間の幻想」があるのだ。僕は岸田秀さんが分析する現象のひとつひとつに納得し、目から鱗が落ちる思いをした。

その本の中でも僕の意識を徹底的に変えてしまったのが、「自己嫌悪の効用----太宰治『人間失格』について」と「セルフ・イメージの構造----主観と客観の逆比例の法則を提唱する」という文章だった。文庫本で、それぞれ10ページほどの短文だが、30年生きてきた僕の意識を変革させてしまったのだった。

岸田さんは「自己嫌悪とは、つまり、『架空の自分』が『現実の自分』を嫌悪している状態」と分析し、「社会的承認と自尊心が自分を有能だと思いたがるとき、あるいは、卑劣漢が自己を道徳的だと思いたがるとき、その落差をごまかす支えとなるのが、自己嫌悪である」と結論づける。

たとえば「酔って女性に浅ましいことを言って口説いた」男が、翌朝、「本当の自分は、そんなことをする人間じゃない」と自己嫌悪に陥ったとする。そのとき、「本当の自分」とは「人にそう思ってもらいたいところの自分」であり、「本当の自分」などではなく、「架空の自分」であると岸田さんは指摘する。

「自己嫌悪は一種の免罪符である」と、岸田さんは手厳しい。「自己嫌悪をよく考察してみると、たとえば、自分のあるいやらしい行為を嫌悪しているとき、そのいやらしさの肝心なところはすっぽり抜けており、『どうかしていた』自分の行為として許せる範囲内の、むしろ抹消的な点が主として嫌悪の対象となっている」と容赦ない。

この文章を読んで以来、僕は「自己嫌悪」に陥ることさえできなくなった。であるなら、自己嫌悪になるような浅ましい言動を慎めばよいのだが、酔っぱらっての失敗はその後も続き、二日酔いの頭で「ああ、酔って、せこく、浅ましく、卑怯未練で、小心な、本来の自分が出てしまったな」と戒めるしかなくなった。

また、「セルフ・イメージの構造」という文章は、「『生きるのが下手な人へ』という本が出て、ほぼ二十万部とか三十万部とか売れたということを聞き及び--(中略)--世の中には、本気で自分のことを生きるのが下手だと思っている人が大勢いるらしいということを知り」と始まるのだけど、それを読んだだけで僕はテーマに共感した。

----人間は誰でも自分について、おれはかくかくしかじかの性質だとか、このような性格だという一定のイメージをもっている。自分は生きるのが下手だというのも、このようなセルフ・イメージの一例である。--中略--このセルフ・イメージは、当人の客観的性質の反映ではなく、他の人びとに対する当人の期待ないし要求の反映なのである。

ここまで分析されてしまうと、手の施しようがない。セルフ・イメージとは、その人物が他の人びとに「こう思ってもらいたいイメージ」にすぎないと指摘されているのだ。だから「生きるのが下手な人」と思っている人は「生きるのが下手で損ばかりしている人と思われたい、浅ましい人」であり、裏返せば「もっとうまく立ちまわって得したい」と考えているのである。

また、岸田さんは「人間は自分を正当化せずにはいられない存在である」と書く。しかし、ここまで突き詰められると、逃げ場がなくなってしまうではないか。僕は岸田さんの本で目から鱗が落ちまくったけれど、結局、自分とはどういう人間であるのか、他人から見た自分ではなく本来の自分の姿をどう見出すのか、そしてその自分としてどう生きていけばいいのか、という迷宮に迷い込むことになった。

その結果、僕が落ち着いたところは、中学生の頃から愛読してきたハードボイルド小説や冒険小説の主人公たちの行動律を見習うことだった。「自分のモラルとルールを持ち、己に恥じることをしない」という簡単な行動律である。それが、かっこよく言えば僕の美学に適ったのだ。しかし、そうは言っても実行するのは困難だった。

僕は「自覚的に生きる」ことを幼い頃から己に課してきたつもりだが、経験の中から自分のモラルとルールを築き上げるには長い時間がかかったし、己に恥じることをしないために自己のモラルやルールのハードルを下げることもままあった。つまり、ある局面(たとえば上司からの強い圧力など)において妥協をしてしまうのだ。

そのことを、ある時期、僕は「守るべき最後の砦がどんどん後退していく」とよく嘆いた。それでも、何とか四十年の勤め人生活を果たし、今、振り返ると「(たとえば、同僚を売らない、部下に責任を押し付けない、といった最後の砦は守ったつもりだし)己に恥じることはしてこなかった」という想いはある。それだけでも、よしとすべきか?

ちなみに、つい最近、岸田秀さんの新刊「唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか」を読んだのだが、岸田さんはまったく変わっていなかった。これが最後の本になるようなことを帯で書いていたけれど、岸田さんの理論は相変わらず一貫している。岸田さんは、僕と同じ「うどん県」こと香川県の西讃出身である。郷土の先達として、明晰な分析と理論を生み出す頭脳を尊敬している。

2019年5月 9日 (木)

■日々の泡----陶酔の時よ来い

【美しい夏・女ともだち/チェーザレ・パヴェーゼ】

60年代後半から70年代前半、要するに僕が高校大学の頃、晶文社の本は高かったけれど若者たちに人気があった。高校生のとき、僕は背伸びをして犀のマークの晶文社から出ていたロープシン(サヴィンコフ)の「蒼ざめた馬」を買ったものだ。ポール・ニザン著作集の第一巻「アデン・アラビア」を買ったのは大学一年生のときである。

「アデン・アラビア」は「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせない」という冒頭のフレーズが有名で、当時の若者たちはそのフレーズだけをノートに書き写したり、口ずさんだりした。といっても、結局、今まで「アデン・アラビア」を読み通したという人には会ったことがない。

その晶文社からチェーザレ・パヴェーゼ全集が出ていたのが、やはり1970年前後だった。これは15巻ほどで完結するはずだったが、半分ほど刊行された時点で中断した。現在は、岩波書店から「パヴェーゼ文学集成」が出ているし、岩波文庫では代表作のいくつかが読める。

僕は大学のフランス文学科に通っていたのだけれど、イタリアの作家であるパヴェーゼは人気があり、友人から「『月と篝火』を読んだか?」などと言われた。パヴェーゼは自殺した作家だから人気があるのかな、と僕は考えたが、そのまま読むこともなく、ずっとそのことが気にかかっていた。

卒業して何年か経った頃、書店で白水社の「世界の文学」シリーズでパヴェーゼの「美しい夏・女ともだち」が出ているのを見つけ、その頃には経済的余裕もあったので美しい白いハードカバーの単行本を買った。1979年のことで、定価は1300円。まだ、消費税は導入されていない。僕は就職して4年、28歳だった。

白水社「世界の文学」シリーズには、映画化されたファウルズの「コレクター」やアップダイク「走れうさぎ」、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」といった売れ筋と共に、当時はそれほど注目されていなかったアルゼンチンのボルヘスなども出ていた。イタリアの作家としては、パヴェーゼの他にイタロ・カルヴィーノ「木のぼり男爵」が出ているだけだった。

チェーザレ・パヴェーゼは1950年8月27日、北イタリアのトリノのホテルの一室で睡眠薬自殺を遂げた。生まれたのは1908年だから、42年間の人生だった。同じ頃に自殺した作家というと、日本では太宰治を思い浮かべるが、太宰は1909年に生まれ、1948年(昭和23年)に玉川上水に山崎富栄と共に入水した。太宰はパヴェーゼより1年遅く生まれ、2年早く死んだことになる。

白水社版「美しい夏・女ともだち」の解説によると、死の前日、パヴェーゼは「幾人かの女性につぎつぎに電話して夕食を誘ったが、はかばかしい返事はひとつも得られず、最後にいかがわしい場所の女を呼びだしたが、その女にさえ『行きたくないわ、あんたは嫌なひとだし、あんたに会ってもつまんないもの』と言われた」という。女の言葉は、ホテルの交換手が聞いたものだった。

人は誰かに拒絶されることによって、ひどく傷つく。僕は高校生のとき、同級のある男から「おまえ、好かんわ」と面と向かって言われたことがあり、しばらく落ち込んだ。その男とは、まったく住んでいる世界が違うと感じていたし、特に友達になりたいとは思っていなかったけれど、そのときからしばらく「人から拒絶されること」について考えたものだった。今も、そのときの相手の表情が浮かんでくる。

パヴェーゼも女たちに拒絶されたことで、傷つき落ち込んだのだろうか。それが絶望を呼び起こし、死に至ったのか。そんな作家の人生を知って「美しい夏・女ともだち」を読むと、ひどくやるせない気持ちになった。その2篇は死の前年、1949年に発表された小説だった。そして、僕は「美しい夏」の冒頭の数行が特別に好きになった。

----その頃はしじゅう楽しいお祭りさわぎがつづいた。家を出て、通りを横ぎればたちまち熱狂できたし、あらゆるものがほんとにすばらしかった。(菅野昭正・訳)

その文章を読んだとき、僕にもそんな時代があったのだという想いが湧き上がってきた。そのフレーズは、なぜか僕が好きだったアルチュール・ランボーの「いちばん高い塔の歌」を金子光晴が訳したフレーズを連想させた。昔からことある度に、僕は「いちばん高い塔の歌」の最初の詩句を口にする。

  束縛されて手も足も出ない うつろな青春
  こまかい気づかいゆえに 僕は自分の生涯をふいにした
  ああ 心がただ一すじに打ち込める
  そんな時代は ふたたび来ないものか?

ちなみに小林秀雄訳では後半は、『時よ来い ああ、陶酔の時よ来い』となっていて、そのフレーズの方が「美しい夏」の冒頭と通じ合うような気がした。要するに、「美しい夏」では「しじゅう楽しいお祭りさわぎがつづいた」時代は去り、語り手はその頃の回想に浸っている。過ぎ去った昔は、帰ってはこない。その寂寥感が冒頭から漂い、かつての陶酔の時を渇望する。

330ページほどある単行本の後半は「女ともだち」で、こちらの方が「美しい夏」より少し長かった。僕が「女ともだち」を読みたかったのは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督が映画化しているからだった。映画化作品の日本初公開は1964年だが、制作されたのは1956年である。

「女ともだち」はアントニオーニの監督三作めであり、彼の評価が高まった「さすらい」(1957年)「情事」(1960年)「太陽はひとりぼっち」(1962年)の日本公開後に初期作品として公開された。しかし、僕は「女ともだち」は「太陽はひとりぼっち」より好きだった。

僕がアントニオーニの「女ともだち」(1956年)を好きなのは、主演がエレオノラ・ロッシ=ドラゴだからだ。僕はエレオノラ・ロッシ=ドラゴの出演作品は、他には「激しい季節」(1959年)と「刑事」(1959年)しか見ていないが、気品ある大人の女性の魅力に若い頃からまいっている。日本の女優で言えば、亡くなった白川由美みたいなイメージである。

エレオノラ・ロッシ=ドラゴは僕の母と同じ歳だったから、2007年に82歳で亡くなっている。しかし、「女ともだち」を見ると、30歳の美しい彼女の姿が永遠に残っているのだ。パヴェーゼが自殺した6年後の映画だった。映画の舞台はトリノ。パヴェーゼが死んだ街だった。「女ともだち」は、ヒロインの仲良くなった若い女ともだちが自殺して終わる物語だった。

2019年5月 2日 (木)

■加藤泰監督のこと


三重県で「シネマ游人」という映画関連の同人誌が出ています。年2回(春、秋)の刊行で、第7号が4月頭に発行になりました。三重県在住の映画評論家・吉村英夫さん(よく山田洋次監督作品のパンフに寄稿しています)が毎号原稿を掲載するなど、読み応えのある同人誌です。以下は、その7号に寄稿したものです。

■加藤泰監督のこと

高校生の頃、神と仰ぐ映画監督がふたりいた。「明治侠客伝 三代目襲名」の加藤泰監督と、「けんかえれじい」「東京流れ者」の鈴木清順監督である。十数年後、まさかその神々に会えるとは思ってもいなかった。ふたりを含めて憧れの十数人の映画監督に会えたのは、僕が在籍していた八ミリ専門誌「小型映画」に「監督インタビュー」という連載ページを作り、毎月、新作が公開される監督たちに取材を申し込んでいたからだ。一九八一年のことである。

新作公開の時期なら、どの監督も取材を断らない。パブリシティとして受ける。一回目は加藤泰監督の「炎のごとく」だった。続いて「影の軍団・服部半蔵」の工藤栄一監督、その後、「セーラー服と機関銃」の相米慎二監督、「泥の河」の小栗康平監督、「陽炎座」の鈴木清順監督(荒戸源次郎さんも一緒だった)などが続き、何回も取材していた大林宣彦監督(確か「ねらわれた学園」だった)以外は初めて会う人ばかりだったから、まだ二十代だった僕は緊張したものだった。

中でも一回目であり、神と仰いでいた加藤泰監督の取材のときには、かなり緊張していたと思う。加藤泰監督の数年ぶりの新作は東宝作品で、取材は日比谷の東宝会館(芸術座が入っていた)の宣伝部のあるフロアだった。そこの応接室でカメラマンとふたりで待っていると、セーターを着た気楽な格好で白髪の加藤泰監督が入ってきた。現場での鬼神のごとき厳しさは映画雑誌などで読んでいたが、インタビューの間ずっとニコニコとした表情で、僕の拙い質問に丁寧に答えてくれた。

今でもよく憶えているのは、「瞼の母」で中村錦之助と橋のたもとの女乞食(浪速千栄子)の長いシーンのことだ。映画を見るとわかるが、力の入る名場面である。ところが、「あのシーン、画面上の隅にマイクが写っとんですわ」と監督は京都弁で言った。身振り手振り付きである。「ただね、ここで観客がマイクに気付くようでは僕の負け。そう思うて、そのままいったんですわ」と監督は言った。

また、僕が「三代目襲名」の藤純子が鶴田浩二に桃を渡すシーン、「お竜参上」で藤純子が菅原文太にみかんを渡すシーンのことを質問すると、やおら立ち上がり「世の中には、男と女しかおらしまへんわな」と、加藤泰作品でおなじみの男女の情感を漂わせる話をしてくれた。結局、新作「炎のごとく」の話は、あまり聞かなかった気がする。

その取材の途中、監督が「下手な八ミリ撮りますのや。親バカやから長まわしして、カメラ振りまわしましてな」と話し始めた。お嬢さんが生まれて八ミリを撮り始めたため、ほとんどホームムービーだという。「仕事とちごうて、ほんまに下手なアマチュアですわ」と、監督は笑った。その話があったので、半年後、僕は京都の監督の自宅に連載依頼の電話をかけた。

一九八二年一月号から始まった加藤泰監督の連載は見開き二ページで、僕は「ローアングルのキャメラアイ」と通しタイトルを付けた。数回連載した頃に、姉妹誌「コマーシャル・フォト」に映画評を連載している映画評論家の山根貞男さんが「加藤泰監督が連載を受けたので驚いている」と担当者から話があった。担当者は「小型映画」を山根さんに送る手配をしたという。

山根さんと言えば、加藤泰作品を絶賛する評論家であり、加藤泰作品が公開されれば、どんな作品でもベストワンに投票する。一九八一年度のキネ旬ベストテンでも、山根さんはただひとり一位に「炎のごとく」を入れていた。

そんな頃、僕は私用で京都へいくことがあり、竜安寺を出て監督宅に「原稿あがっていれば、いただきにあがります」と電話すると、「ちょうどポストに入れたとこですわ。京都にいるなら、寄ってください」と言われ、ご自宅にうかがったことがある。監督の書斎で二時間ほど、いろいろな話をした。監督は「今、山中貞雄の評伝、書いてますのや」と言った。山中監督は、加藤泰監督の叔父である。その原稿は、後にキネマ旬報社から刊行された。

一九八二年十月号をもって「小型映画」は休刊した。その半年前に月刊にした「ビデオサロン」がどんどん部数を増やしているのに反して、八ミリ専門誌はどんどん部数を減らしていたからだ。僕は雑誌が休刊になるため連載を終了していただきたい、と監督に連絡をした。監督は快く了解してくれたのだが、結局、十回の連載で中断することになり、僕には心苦しさだけが残った。

その少し後のこと、アテネフランセか日仏会館で「加藤泰作品特集上映会」が開かれるのを知った。監督自身が登壇し、山根さんと対談するという。その上映会に僕は出かけ楽屋を訪ねると、山根さんと話していた監督はイスから立ち上がって走りより、「雑誌、残念なことしましたなあ」と声をかけてくれた。

加藤泰監督にお会いしたのは、それが最後になった。数年後、新聞の訃報で「遺言により葬儀は行わず、工藤栄一監督、山根貞男氏らが見送った」と報じられた。僕は大きな喪失感を味わったが、その作品にはいつでも会えるのだと言い聞かせた。

それからずいぶん経って、「小型映画」休刊時の編集長だった上司から「山根さんに頼まれて、加藤泰監督の連載、掲載時の画像含めて出すことにした」と言われた。筑摩書房のリュミエール叢書の一冊としてまとめるのだという。

掲載した画像には、僕が加藤泰監督から預かった藁半紙に書かれた伊藤太輔監督の「王将」(助監督を務めたがクレジットは加藤泰通になっている)の絵コンテも入っていた。年月が経ち(何しろ一九四八年の作品だ)、触れるだけで崩れてしまいそうだった藁半紙を複写するのに苦労したことを思い出した。

その本は、今ではちくま文庫で「加藤泰、映画を語る」として出ている。連載当時のまま「ローアングルのキャメラアイ」のタイトルで、毎回の見出しが並んでいる。その見出しも、文中の小見出しも、画像や挿し絵につけたキャプションも、若き日の僕が書いたものだ。何だか、申し訳ない気がしている。

2019年4月25日 (木)

■日々の泡---いつ読むかは大切なこと

【孤独な青年/アルベルト・モラヴィア】

先日、久しぶりに高田馬場駅から早稲田通りを早稲田に向かって歩く機会があり、懐かしくなって、飯田橋ギンレイホールと共に現在も健在な名画座である早稲田松竹の前で上映作品の看板を眺めた。

スチール写真などを貼ってあるウインドウの横にパンフレットを差し込んだスタンドがあったので、上映予定のパンフレットをもらって三月の上映作品を確認すると、まるで45年前の大学時代へタイムスリップした気分になった。

パンフレットには「まぼろしの市街戦」(1966年)「追想」(1975年)「勝手にしやがれ」(1960年)「気狂いピエロ」(1965年)「暗殺の森」(1970年)「水で書かれた物語」(1965年)「手をつなぐ子ら」(1964年)といったタイトルが並んでいた。

49年前、僕は早稲田大学近くの予備校に通っていたので、毎日、高田馬場駅から早稲田まで歩いていた。駅前の芳林堂(今も変わっていない)や早稲田松竹にはよく入ったものだった。たまには沿道のパチンコ屋にも入ったけれど、古本屋と書店と名画座が僕のテリトリーだった。

それにしても、早稲田松竹では時間が止まっているのではないか。ただし、入場料金は大人が1300円、学生が1100円になっていた。記憶が確かではないのだが、僕が通っていた頃は100円か150円で二本立てが見られたと思う。池袋の文芸坐や文芸地下、銀座並木座も同じくらいだった。

当時、150円あればラーメンが食べられた。だから僕は昼食を抜いて、名画座の椅子に身を沈める日々を送っていたのだ。高田馬場から早稲田の予備校まで歩いていたのも、バス代を節約するためだった。

僕は高田馬場から二つ目の池袋で赤羽線に乗り換え、一つ目の板橋駅を降りて五分ほどの滝野川の四畳半一間の安アパートで暮らしていた。僕は貧しく、痩せていて、そして若かった。

そんな思い出が甦ってきたその日、早稲田松竹のパンフレットを見て連想した作家がいた。アルベルト・モラヴィアである。「ベルトルッチ監督の『暗殺の森』は、確かモラヴィアの『孤独な青年』が原作だったな」と、僕はつぶやいた。

アルベルト・モラヴィアを連想したのは、ゴダール特集として「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」もパンフレットに載っていたからだ。ゴダールがブリジット・バルドー主演で撮った「軽蔑」(1963年)もモラヴィアの原作なのである。

僕がアルベルト・モラヴィアの名前を知ったのは、中学生のときだった。当時、定期購読していた早川書房発行の「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン(後にハヤカワズ・ミステリマガジン)」の社告ページでモラヴィアの小説(「無関心な人々」だったと思う)が広告されていた。

その本が、なぜ僕の興味を引いたかというと、「ローマ法王によって発禁になった」というようなキャッチコピーがついていたからだった。当時、イタリアはカトリックの戒律が厳しくて何かというと官能的な小説が発禁になったり、エロチックな映画が上映禁止になっていた気がする。

ピエトロ・ジェルミ監督「イタリア式離婚狂奏曲」(1961年)という映画が上映された時代である。当時、イタリアでは離婚が認められていなかったし、避妊もダメだったから(検温で排卵日を避けるだけのオギノ式はいいんじゃないかという論議があったらしい)イタリア人は子沢山というイメージがあった。

ということから、イタリアで発禁になった小説は、きっと「イヤラシイ」(まだ猥褻という言葉を知らなかった)ものに違いないという短絡的な受け取り方を13歳の僕はしたのである。まあ、幼かったわけですね。その結果、アルベルト・モラヴィアという名前が僕の記憶に深く刻み込まれることになった

しかし、大学生になった頃、モラヴィアが文学的評価の高い作家だと知ることになる。当時、イタリアの作家というと自殺したチェーザレ・パヴェーゼの方が人気があったけれど、モラヴィアはイタリアの重要な現代作家だと教えられたのだ。

そして、アルベルト・モラヴィアの作品が多く映画化されていることにも気付いたのだった。「軽蔑」や「暗殺の森」は評判になったが、その他にも話題作があった。「ローマの女」(1954年)はジーナ・ロロブリジーダ主演だし、「河の女」(1955年)はソフィア・ローレンが日本で注目され、スターになるきっかけになった作品だった。

モラヴィアは、政治的な立場を鮮明にしていた作家だったらしい。そのためか、第二次大戦中はムッソリーニ政権から作品を禁書に指定され、新聞への執筆も禁じられていたという。戦後、ずいぶん経った1984年にイタリア共産党から欧州議会の選挙に立候補して当選した。

「暗殺の森」(原作は「孤独な青年」)はファシストの青年(ジャン=ルイ・トランティニャン)が主人公で、ある人物の暗殺を命じられ、その妻(ドミニク・サンダ)に惹かれていく物語だったが、第二次大戦前の複雑なイタリアの政治状況を背景にしていた。

また「軽蔑」では、女好きの映画プロデューサー(ジャック・パランス)と自分の妻(ブリジット・バルドー)を二人きりにしてしまうシナリオライター(ミッシェル・ピッコリ)は、共産党の党員証をポケットから落とすシーンがある。

政治的(コミュニスト)であり、官能的な物語を書いたから、モラヴィアの作品は厳格なローマ・カトリックによって発禁指定に遭ったのかもしれない。中学生の頃、下賤な目的で手に取らなくてよかったと思う。読んでも理解できなかったろうし、つまらなく思ったに違いない。

大学生になって初めて読んだから、それなりの理解ができたのだろう。いつ読むか、というのは大事なことだと思う。僕は、早くに読み過ぎたと思う本もけっこうあるので、もう一度読み返してみたいと思っているのだけれど、感銘を受けた本がまるで違った印象になったらどうしょうと、少し迷っている。

2019年4月18日 (木)

■日々の泡---何でも書ける作家がいた



【秋津温泉/藤原審爾】

先日、ユーチューブでいろいろ見ていたら「地獄の曲り角」という古い日活映画が出てきた。昭和34年(1959年)のモノクロ作品だ。主演は葉山良二で、恋人役は稲垣美穂子だった。南田洋子が事件の裏を知る悪女役で出ていた。

葉山良二は三流ホテルのボーイだが、犯罪じみたことにも手を染める小悪党である。ある夜、汚職事件に関係しているらしい男がホテルの部屋で殺し屋に殺される。ボーイはその部屋であるものを見つけ、強請りを企てたために政治的陰謀に巻き込まれるという話だ。その原作者が藤原審爾だった。

藤原審爾原作の最も早い時期の映画化作品は、黒澤明が脚本を書いた「獣の宿」(1951年)である。昭和26年、藤原審爾は新進作家だった。同人雑誌で注目され純文学から出発した藤原審爾は、病気や結婚などもあって読み物作家として様々なエンターテインメント作品を手掛けていた。

藤原審爾の作品を振り返ってみると、初期には恋愛小説の傑作「秋津温泉」があり、その後、やくざを主人公にした作品、殺し屋小説、脱獄囚の物語、警察小説のハシリのような「新宿警察」シリーズ、スパイ小説、任侠小説、時代小説、動物小説などがあり、そのジャンルの広さに驚いてしまう。

1950年代から70年代にかけての30年ほどの間に、藤原審爾は映画に60本近くの原作を提供した。中でも、1959年に5本、1961年に7本、1963年に6本、1964年に5本、1967年に4本、1971年に4本、1972年も4本と集中しているし、その他の年にも1、2本の映画化作品がある。

それらの作品群は「地獄の曲がり角」のように時間と共に忘れ去られた作品もあるが、多くは映画ファンに知られている。「恐喝こそわが人生」は二度映画化されたし、「よるべなき男の仕事・殺し」は市川雷蔵の「ある殺し屋」「ある殺し屋の鍵」(1967年)になり、村川透監督によって「よるべなき男の仕事・殺し」(1991年)としてリメイクされた。

カルト的人気のある作品としては、新東宝の「地平線がぎらぎらっ」(1961年)や日活の「拳銃(コルト)は俺のパスポート」(1967年)などがある。前者は黒澤明監督の「用心棒」(1961年)の冒頭、桑畑三十郎に片腕を斬られるジェリー藤尾が同じ年に主演した脱獄ものだ。後者でも、ジェリー藤尾はスナイパー宍戸錠の弟分を演じた。

僕は石井輝男が新東宝から東映に移って監督した「花と嵐とギャング」(1961年)「恋と太陽とギャング」(1962年)が大好きだ。若き高倉健がよく喋るトッポいチンピラ(「スマイリー健」という通り名)を演じているのが楽しい。ガンブームの頃に作られた映画だから、ガンアクションに凝っている。もちろん、原作は藤原審爾だ。

藤原審爾はチンピラ小説も書いており、チンピラと良家のお嬢様の純愛を描いた「泥だらけの純情」は1963年に18歳の吉永小百合と浜田光男が映画化し、14年後の1977年に山口百恵と三浦友和でリメイクされた。「秋津温泉」でわかるように、元々、藤原審爾は純愛小説の名手だったのだ。

意外なことに山田洋次監督の「馬鹿まるだし」(1964年)も原作は藤原審爾だし、森崎東監督の「喜劇 女生きてます」シリーズの原作も藤原審爾である。かと思うと、江波杏子主演で加藤泰が監督した「昭和おんな博徒」(1972年)や高倉健主演「日本やくざ伝 総長への道」(1971年)なんてのもある。

日本映画史上の名作として残っているのは、今村昌平が監督した作品だ。「果てしなき欲望」(1958年)は、今村監督の三作めである。終戦時に軍医が埋めた大量のモルヒネを掘り出そうとする、五人の男女の欲望に駆られた姿を描き出す。今村作品独特の、人間のエネルギー(欲望)にあふれた力強い画面が印象に残る。

今村昌平監督の「赤い殺意」(1964年)も名作の誉れ高い作品だ。夫(西村晃)に虐げられ、いつもおどおどしている妻(春川ますみ)が、ある日、強盗に犯される。妻は首を吊ろうとするがロープが切れて(春川ますみの小太り体型に説得力があった)死ねず、その後、しぶとく強い女に変貌していく姿を生々しく描いている。

しかし、僕が昔から日本映画ベスト3の1本としているのは、岡田茉莉子の100本記念として制作された吉田喜重監督の「秋津温泉」(1962年)である。他の2本は成瀬巳喜男監督の「浮雲」(1955年)と川島雄三監督の「幕末太陽傳」(1957年)だ。「浮雲」と「秋津温泉」には人生の真実を教わり、「幕末太陽傳」からはしぶとく生きることを学んだ。

「秋津温泉」は18歳の時に見て、生涯忘れられない一本になった。結核で岡山の叔母の家を頼った主人公の河本(長門裕之)には、藤原審爾自身の姿が重なる。秋津温泉の秋津荘の娘・新子(岡田茉莉子)の看病で病気から回復した河本は、戦後、岡山で塾を開きながら小説を書いている。

ある日、妻の兄(宇野重吉)が文学新人賞を受賞したと知らせがあり、地元の新聞記者たちが取材にやってくる。帰宅した河本は妻に「私が働きますから、あなたもいい作品を書いてください」と言われ、「俺はどんなに堕落しても、あんな大衆小説は書かん」と怒鳴りつける。

それから十数年後、東京の出版社の立派なビルのロビーで、河本はショップの店員をしつこく口説く中年になっている。流行作家になった義兄の紹介で出版社に入り、長い年月が過ぎたのだ。そこへエレベーターから編集長と義兄が降りてくる。編集長は、「わが故郷」というエッセイの取材で義兄と岡山に同行しろと言う。

「故郷でいいことなんて何もなかった」と答える河本だが、同人誌に純文学作品を書いていた頃、安酒で酔いどれては「おめおめと、また秋津か」と言いながら新子に救いを求めて秋津温泉へいっていた。河本は十年ぶりに新子を訪ねるが、今の彼は新子の肉体だけを求める、つまらない男になっている。

原作が発表されたのは戦後すぐの1946年だったが、映画版「秋津温泉」は原作を大胆に脚色していた。ファーストシーンは、岡山空襲の直後である。山陰に疎開した叔母の下へ向かう途中、結核で動けなくなり秋津温泉の宿に泊まり、女学生姿の新子と出会う。そこから終戦、戦後を経て、映画制作時の現在までを描いている。十数年に及ぶ男女の変遷が僕に「人生の真実」を教えたのだ。

「秋津温泉」を見てから数年後、僕は薄い文庫本を入手した。「秋津温泉」は、美しい文章で綴られた恋愛小説だった。「鮮烈」という言葉が浮かんだ。映画とは違った感動があった。しかし、その後の藤原審爾の作品群は、完全なエンターテインメントばかりだった。それを知ったとき、河本が義兄の作品に向かって放った言葉が浮かんできた。

しかし、純文学をエンターテインメントより上位に置いていた若き日の僕と違い、今は藤原審爾という作家の凄さがわかる。「小説の名人」と異名をとったそうだが、それも納得する。何でも書いた(書けた)作家だった。現在、作品が入手しにくいのは残念だ。ちなみに、娘は藤真利子という名で女優になった。

「秋津温泉」を見て以来、僕は己に忸怩たる想いが湧くと「おめおめと、また秋津か」と口にするようになった。大学時代も、勤めているときも、何度「おめおめと、また秋津か」とつぶやいたことだろう。今でも、深夜ひとりもの思いに沈むとき、思わず口を衝いて出ることがある。

----おめおめと、また秋津か!!

2019年4月11日 (木)

■日々の泡----二度映画化された短編

【殺人者たち/アーネスト・ヘミングウェイ】

ヘミングウェイの短編集「われらの時代」と「男だけの世界」から抜粋した旺文社文庫のヘミングウェイ短編集が中学の夏休みの課題図書になったことがある。最初に「インディアンの村」という短編が配置され、ニック・アダムスという少年を主人公にした物語が続いた。

「ヘンリーズ・ランチルームのドアがあいて、二人の男が入ってきた」というフレーズで始まる、「The Killers」という短編の主人公は青年に成長したニック・アダムスだった。食堂に入ってきた二人の男を「ニック・アダムスは、カウンターの反対の端から」眺める。その後、男たちとカウンターの中のジョージとの会話だけで物語は進む。

やがて二人の男はジョージとニックと調理場にいた黒人コックのサムを猿ぐつわをして縛り上げ、毎晩、決まった時間に食事にやってくるオーリー・アンダーソンという男を殺すために待ち伏せをする。しかし、その日に限ってオーリーはやってこず、二人の男は立ち去る。

ニックはオーリーの下宿を知っていたので、彼に二人の男が殺しにきたと報せにいく。しかし、オーリーはベッドに寝そべったまま「いいんだ、どうでもいいんだよ、そいつらの人相など」と言う。警察に知らせても無駄だし、もう手の打ちようがないと口にする。ニックは、再び食堂に戻り、ジョージと会話する。

  「あの人、どんなことをしたのかな?」ニックが言った。
  「だれかを裏切ったのさ。それをやっちまうと、たいてい殺されるんだ」

文庫本で15ページほどの短編が深く印象に残ったのは、会話中心で描写されるスタイルが新鮮だったのだと思う。内面描写はなく、人物たちの行動と状況しか描かれない。「これがハードボイルドだ」と中学生の僕は、きっと興奮したのだろう。しかし、その叙述スタイルは登場人物に感情移入ができず、中学生にとってはわかりにくかったと思う。

ちょうどその頃、「殺人者たち」(1964年)という映画が公開された。テレビシリーズ「シカゴ特捜隊M」で好きになったリー・マーヴィンがサングラスをし、消音器のついた拳銃を構えている映画の広告が新聞に掲載され、それがヘミングウェイの短編「The Kiiiers」を原作にしていることを知った。監督は、ドン・シーゲルという人だった。

ある町の聾唖学校へ二人の男がやってくる。背の高い男(リー・マーヴィン)は銀髪でサングラスをし、黒いスーツを身に付けている。手足が長く、しなやかな動きを見せる。もうひとりは小男(クルー・ギャラガー)で、すばしっこい感じだ。やはり、黒いスーツでサングラスをしている。ふたりの会話は、ヘミングウェイの原作を思い出させる。

男たちは目的の男がいる教室をめざす。目的の男(ジョン・カサヴェテス)は聾唖学校の教師だ。受付からの電話で、男は二人の男が「そちらに向かった」と連絡を受けるが、現れた二人の男たちの銃口に逃げもせず、慫慂と死を受け入れる。

依頼を果たした殺し屋たちは、男がなぜ抵抗もせず、逃げもしないで銃弾を受けたか不審に思う。そして、男の過去を探り始めるのだ。やがて、男がレーサーだったことを調べ出し、相棒のメカニックから話を聞き出す。男はシーラ(アンジー・ディッキンソン)というファム・ファタール(運命の女)に出会ったという。

その女はジャック(後に大統領になるドナルド・レーガン)というギャングの情婦であり、現金輸送車強奪のためにレーサーを誘惑し犯罪に引き込んだことがわかる。おまけに現金を奪った後、女は男を裏切っていた。殺し屋たちが殺した男は、誰かを裏切ったのではなく、愛した女に裏切られ、生きる気力も失っていたのだとわかるのだ。

「殺人者たち」を見た十数年後、僕は「殺人者」(1946年)を見た。ヘミングウェイの「The Killers」を最初に映画化した作品だ。この作品では、冒頭の15分ほどはヘミングウェイの原作通りに物語が進む。異なるのは、ニックが報せた後、二人の男たちに男(バート・ランカスター)が殺されることである。

シーンが変わると、保険会社の調査員(エドモンド・オブライエン)が警察で事件のことを調べている。被害者の男の過去を調べると、男がボクサーだったこと、ファム・ファタールと出会い、やがて犯罪に引き込まれていったことなどがわかる。

その女(エヴァ・ガードナー)はギャングのボスの情婦で、事件の後で男を裏切ったことが判明する。「女に裏切られたとき、彼はすでに死んでいたのよ」というセリフが出てくる。ここで「殺人者たち」が「殺人者」のオリジナルストーリーのリメイクだとわかるのだ。

それにしても、文庫で15ページほどのヘミングウェイの短編は、その背景にどういう物語があったのかを想像させる力をもっていた。オリジナルの部分を加えて「殺人者」「殺人者たち」は成立したのである。どちらも、見応えのある映画化作品だった。

ちなみに、現在の翻訳では「The Killers」は「殺し屋」と訳されている。「殺し屋」という日本語がいつ頃から使われ始めたのかは不明だが、昔読んだ小林信彦さんの著書にそれらしいことが出ていた。アルフレッド・ヒッチコック・ミステリマガジン編集長時代のエッセイだったと思う。

それが正しければ、昭和三十年代に生まれた言葉なのかもしれない。「エラリー・クィーンズ・ミステリマガジン」「マンハント」など、翻訳ミステリ雑誌が乱立した時代があった。そんな頃に「殺し屋」という言葉が生まれたのだろうか。

八百屋、魚屋、果物屋、文房具屋などと並んで「殺し屋」なんて店があると怖いけれど、要するに職業的殺人者のことである。「日本に殺し屋なんかいない」と言ったのは、日活で殺し屋ばかりを演じた宍戸錠だそうだが、日活映画ははずいぶん殺し屋を登場させたものだ。究極は鈴木清順監督の「殺しの烙印」(1967年)だろう。

それにしても「殺し屋」とは、言い得て妙かもしれない。それだけで「殺しを生業とする人」とわかる。英語で言えば「コントラクト・キラー/Contract Killer」あるいは「暗殺者」の意味を持つ「アサシン/Assassin」だろうか。最近では、「ヒットマン/Hitman」でも通じるかもしれない。ただ、英語が苦手な僕は「マーダラー/Murderer」と「キラー/Killer」の違いがよくわからない。

 

2019年4月 3日 (水)

■日々の泡----ショーケンに弔いの花束を


【傷だらけの天使・魔都に天使のハンマーを/矢作俊彦】

3月26日、平成の最後にショーケンこと萩原健一が68歳で亡くなった。ショーケンは1950年7月26日に埼玉県与野市(現・さいたま市)に生まれ、1967年、17歳でザ・テンプターズのリード・ヴォーカルとしてデビューした。

僕は一歳下だったから、同世代としてデビューのときから知っている。ただし、テンプターズやタイガースは少女趣味の大甘な歌ばっかり歌っていたから、どちらかというと「ケッ」という感じで見ていた。「失神」で顰蹙を買ったオックスを含め、彼らは少女向けのアイドル・グループだった。

当時の男子たちが好きだったのは、ワイルド・ワンズ、ゴールデンカップスといった音楽的スタイルのあるグループ、あるいは先駆者的な「ブルー・シャトー」のジャッキー吉川とブルー・コメッツなどだったと思う。少なくとも、彼らはルックスを売りにはしていなかった。

ただし、ショーケンはグループ解散後、師と仰いだ斎藤耕一監督の「約束」(1972年)で俳優としての才能を発揮した。当初、当時の二枚目俳優で人気のあった中山仁が主演に決まっていたが、なかなか女優が決まらず、中山仁が降りてしまう。

その後、ヒロインに岸恵子が決まると今度は相手役が決まらず、映画監督になるつもりで斎藤耕一監督の助監督をやっていたショーケンが出ることになったというエピソードがショーケンの自伝で披露されていた。

ちなみに、パリからやってきた年上の岸恵子の面倒を斎藤監督に命じられてショーケンが見ることになり、何かと一緒にいたため噂になったそうだ。それについては「男女の関係はなかった」と弁明し、その頃は范文雀と半同棲状態だったと告白している。

范文雀はテレビドラマ「サインはV」でヒロインのライバルであり、不治の病で死んでいくジュン・サンダース役で人気が出た女優である。日活映画「野良猫ロック」シリーズや「大幹部 ケリをつけろ」(1970年)などにも出ていて僕の好きな女優だったが、54歳で早世してしまった。

さて、ひょんなことから出演した「約束」だったが、作品の評価は高くキネマ旬報ベストテン5位に入り、ショーケンの演技が認められるきっかけになった。演技もできることがわかり、アイドル的人気もあったから日本テレビの連続ドラマ「太陽にほえろ!」のオファーがくる。

「太陽にほえろ!」のマカロニ刑事を認めていなかった僕がショーケンを役者として「うまい」と思ったのは、映画「青春の蹉跌」とテレビドラマ「傷だらけの天使」を見たからだった。どちらも1974年の仕事である。「傷だらけの天使」はその年の秋から翌年の3月までの半年間の放映だった。

「青春の蹉跌」は日活ロマンポルノで評価された神代辰巳監督が、東宝で作った一般映画である。石川達三の原作は僕が高校時代にベストセラーになったものだったが、僕はまったく評価していなかった。ところが、映画になった「青春の蹉跌」は抜群にいいのだ。

セオドア・ドライサーの「アメリカの悲劇」を映画化した「陽のあたる場所」(1951年)と同じストーリーパターンなのだけれど、ショーケンが演じた主人公の造形が素晴らしかったのと、当時の大学の状況(内ゲバなど)がリアルに描かれていたことが印象的だった。

この年以降、僕はショーケンが出る映画は見逃さないようになった。ショーケンは、神代辰巳、工藤栄一、黒澤明、蜷川幸雄、鈴木清順、山下耕作、深作欣二など鬼才や巨匠の作品に出演しキャリアを重ねるが、中でも山下耕作監督の「竜馬を斬った男」(1987年)のあるシーンが強く記憶に残った。

それは坂本竜馬暗殺の下手人と言われる佐々木只三郎を演じた作品だったが、そのシーンで僕は彼の演技から狂気のようなものを感じたのだ。手紙を燃やし、燃えている手紙を食べてしまうというシーンだった。役者はみんなどこか狂気じみているのかもしれないが、特にショーケンは突き抜けていた。

しかし、ショーケンの代表作と言えば、やはりテレビドラマ「傷だらけの天使」と「前略おふくろ様」ではないか。「傷だらけの天使」は、当時の若者たち(もちろん僕を含めて)を熱狂させ、最終回(工藤栄一監督)に漂う哀しみと切なさは今も胸の奥から甦るし、「前略おふくろ様」の板前サブちゃんの囁くようなナレーションは今も耳に残っている。

「傷だらけの天使」はショーケンと同い年の作家、矢作俊彦さんの中にも深く残っていたのだろう。放映から三十年以上経った2008年初夏、矢作さんは「傷だらけの天使・魔都に天使のハンマーを」を出版した。三十数年後の木暮修が公園のホームレスとして目覚めるところから、物語は始まる。

もちろん、僕はすぐに買って読んだ。矢作俊彦さんの愛読者でもあったし、「傷だらけの天使」のファンでもあったからだ。巻末には「傷だらけの天使」の脚本を書いた市川森一さんとショーケンへの謝辞があったから、もちろんショーケンも読んだに違いない。どんな感想を持ったのだろう。

ショーケンの自伝は「ショーケン」というタイトルで、彼が57歳のときに出た。その巻頭は「おれは、生まれてきちゃいけない人間だったのかもしれない」という文章である。クスリ、酒、女、結婚と離婚、逮捕歴などが赤裸々に書かれた自伝だった。

しかし、巻末の文章は「五十七年間、こんなに激しく生きてきたのに、まだまだやり足りない。もっともっとやれる。これからショーケンの第二幕が始まる」となっていた。それから十一年、こんな風に第二幕が閉じられるとは思ってもいなかった。合掌。

余談だけど、1975年1月、玄光社という出版社の最終面接で、僕は「青春の蹉跌」の3シーン1カットの素晴らしさを熱弁し合格した。ただし、そのせいで希望していた「コマーシャルフォト編集部」ではなく「小型映画編集部」に配属されてしまった。まあ、それでも40年勤めさせてもらったわけで、これもショーケンのおかげかもしれない。

2019年3月28日 (木)

■日々の泡----ヘミングウェイの猫たち


【老人と海/アーネスト・ヘミングウェイ】

全身ガンに冒され「生きてるのが不思議」と医者に言われた妻は、認知症を患う夫と共に大型のキャンピングカーで旅に出る。五十年連れ添った夫婦だが、今でも深く愛し合うふたりだ。

目的地は英語教師だった夫が一度はいきたいと言っていた、フロリダ・キーウェストにあるヘミングウェイ博物館である。ヘミングウェイ博物館は、アーネスト・ヘミングウェイが晩年を過ごした家で、そこで「老人と海」を書いたと言われる。

ヘミングウェイ博物館には猫が数十匹も暮らしているのだが、それはヘミングウェイが飼っていた猫の子孫(六本指の遺伝子を持つ)だという。しかし、現在のヘミングウェイ博物館は観光名所化していて、老夫婦が到着したときには結婚パーティが行われている。

様々なイベント用の会場として貸し出しているらしい。「まったく、どうなってるの」と、想像していたのとは大きく異なり妻は落胆するが、認知症の夫は結婚パーティに紛れ込み、一緒になって踊り出す。

しかし、頭がはっきりしているときの夫は、昔通りの文学好きの英語教師である。その日の朝も夫はホテルのビュッフェの黒人ウェイトレス相手に、「老人と海」の冒頭の文章を暗誦し解説する。

彼は誰彼かまわずにヘミングウェイやハーマン・メルヴィルなどアメリカ文学の話を始めるのだ。ところが、夫は「老人と海」の最後のフレーズが思い出せない。「美しい文章なのに---」と夫は落ち込む。

すると、ウェイトレスが「老人はライオンの夢を見ていた」と暗誦し、「卒論が『老人と海』だったの」と彼女は言う。そこへやってきた妻に、夫は感激して「彼女は『老人と海』を卒論にしたのだ。すばらしい」と言う。

妻は「スペンサー・トレイシーの映画の方がよかったわ」と皮肉まじりに答える。夫が若い女性と親しく話しているので、嫉妬したのだ。妻は、今も夫を熱烈に愛している。

72歳のヘレン・ミレンと82歳のドナルド・サーランドが老夫婦を演じた「ロング・ロングバケーション」(2017年)は、結末が予測できるものの見ていて楽しい映画だった。

おまけにヘミングウェイ博物館を見ることもできたし、ヘミングウェイ博物館の猫たちもスクリーンに登場し、「ここの猫は指が六本あるのよ」というセリフも出てきた。

映画を見た後、強烈に「老人と海」を読みたくなり、僕は書棚を探した。薄い文庫本である。昔は活字が小さく100ページくらいしかなかったが、現在の新潮文庫版は140ページほどある。

映画の中で引用されたように、ラストのフレーズは「老人はライオンの夢を見ていた」だった。冒頭で老人の容貌を描写するフレーズも映画で引用されていたが、確かに印象に残る文章である。

僕が「老人と海」を読んだのは高校生のとき、たぶん17か18の頃である。テレビで放映された(「日曜洋画劇場」だったかな)スペンサー・トレイシーが老漁師を演じた「老人と海」を見て、原作が読みたくなったのだ。

それまで、僕はヘミングウェイの代表的な短編と「武器よさらば」しか読んだことはなかった。クラーク・ゲイブルとイングリッド・バーグマンの映画で有名な「誰が為に鐘は鳴る」も読んではいなかった。

「ロング・ロングバケーション」でヘレン・ミレンが言っていたけれど、映画版「老人と海」は名作である。主要人物は老人の漁師と彼を手伝う少年だけ。その少年も最初と最後にしか登場しない。

ずっと不漁続きだった老人が小舟で漁に出て過ごす四日間の物語だから、海と小舟と老人のシーンばかり続くことになる。ひとりで漁に出た日、老人の釣り竿に巨大なカジキマグロがかかるのだ。

しかし、簡単には釣り上げられない。小舟だから、巨大な魚に引きづられ沖へ出てしまう。老人は、魚が弱るのを待つ。しかし、老人と巨大なカジキマグロの戦いは四日間におよび、空腹と睡魔が老人を襲う。

ようやく、老人は戦いに勝つが、獲物が巨大すぎて小舟には乗らないので、カジキマグロを舟の横にくくりつけて帰途につく。しかし、港に向かう途中、カジキマグロは鮫に襲われ食いちぎられていく。

それだけの物語だから、最初と最後の港のシーン以外は大海原と小舟と老人だけで見せなければならない。ときに巨大な魚が跳ね、釣り糸(ほとんどロープ)を引いたり緩めたりするシーンばかりである。

原作では内面の描写があるが、映画では特にナレーションが入るわけではなかったと思う。当然、スペンサー・トレイシー(アカデミー主演男優賞を二度受賞した)の演技力が要求される。ひとり芝居である。

アーネスト・ヘミングウェイは登場人物たちの行動と会話、そして状況の描写だけで小説を書いた。読者は、登場人物たちの内面を行動と言葉から読みとらなければならない。

その叙述スタイル(非情なスタイルと評された)は「ハードボイルド」と呼ばれたが、その後、ミステリ・ジャンルのダシール・ハメットへとつながり、ある特定のジャンルの物語を指すようになってしまった。

しかし、「老人と海」では老漁師と巨大な魚との戦いを描くわけだから、「お前はおれを殺す気だな、老人は心のうちで思った」という内面を描写する文章を出さざるを得ない。

老人は魚相手に独り言を口にし、「かれは右手で綱をしっかり握りしめ、その上に腿をのせ、全身の重みをへさきの板にゆだねるようにした」という行動描写が臨場感を読む者に与えた。

それまでの作品ではヘミングウェイの「ハードボイルド文体」になじめなかった僕は、初めて「老人と海」を夢中で読んだ。老人の内面が描かれるために、感情移入がしやすかったからだ。

あるいは、映画を先に見たために読んでいて映像が浮かんできたからかもしれないが、その後、「移動祝祭日」「陽はまた昇る」「海流の中の島々」など主だったヘミングウェイの作品を読破し、結局、最高傑作は「老人と海」だという結論に達した。

ちなみに、「ロング・ロングバケーション」の中で、オートキャンプ場で隣に駐車していた一家と老夫婦が話をしているとき、「夫にヘミングウェイの家を見せるの」と妻が言うと、隣の一家の主人が「ヘミングウェイって南軍の将軍?」と聞き返すシーンがある。

男の妻はあわてて「あら、作家よ。確か、自殺したのよね」と言いつくろう。アメリカでも、今ではヘミングウェイはその程度の認知度なのだろうかと僕は思った。まあ、日本でも夏目漱石を知らない人がいるかもしれないけれど----。

ヘミングェイが生まれたのは1899年で、自殺したのは1961年。僕が初めてヘミングウェイを読んだ頃は、ヘミングウェイのショットガン自殺はまだ生々しく語られていた。自殺から数年後、中学の夏休み課題図書がヘミングウェイの短編集だった。

ヘミングウェイがノーベル文学賞を受賞したのは、1954年である。もう65年も前のことになってしまった。ヘミングウェイが死んだ歳より僕は5年も長生きしてしまったのか、と改めて思う。

ひげを生やしたヘミングウェイの写真を初めて見たときは、かなりな老人に思えたが60歳にもなっていなかったのだ。ちなみに六本指の猫を、ヘミングウェイは「幸運を呼ぶ猫」と信じていたらしい。

そのヘミングウェイの猫たちに会うためだけでもキーウエストまでいきたいなあと思っていたら、「ロング・ロングバケーション」で見ることができた。ヘミングウェイが飼っていた2匹の猫の子孫は、今では50匹以上になっているらしい。

2019年3月21日 (木)

■日々の泡---人生エッセイの先生だった


【江分利満氏の優雅な生活/山口瞳】

僕の映画エッセイは「映画に人生を重ねる」と言われることが多いけれど、エッセイあるいはコラムを書くときの文体、それにスタイルや構成は様々な作家の影響を受けている。

東海林さだおさんと椎名誠さんのエッセイは、数え切れないほど読んだ。「さらば国分寺書店のオババ」の頃、椎名誠さんは「昭和軽薄体」を掲げユーモアあふれるエッセイを書いていたが、椎名さんは影響を受けた作家として嵐山光三郎さんを挙げていた。

カメラ雑誌編集部にいて体験取材レポートを書いていた一九八〇年代の頃、僕は意識的に東海林さだおさんと椎名誠さんの文体とスタイルを真似て、オモシロおかしいレポートを書いていた。東海林さだおさんの言いまわしを、そのまま借用したこともある。

体験取材では、様々なところへいった。カメラ量販店の店員を体験したり、レンズ工場でレンズを作ったりしたこともあるが、様々なジャンルの写真家に入門することが多かった。いつも、そのジャンルでは第一人者と言われる人ばかりだった。

水中撮影では中村征夫さん(まだ木村伊兵衛賞をとる前だったけれど)の弟子になり、初めてアクアラングを背負った。ヨット写真の添畑薫さんにはモーター付きゴムボートに乗せてもらって、駿河湾を疾走した。

料理写真の泰斗だった佐伯義勝さんのスタジオでは、光文社の女性誌の料理頁の撮影のときに弟子入りしたし、早世したネイチャーフォトグラファーの木原和人さんとは一緒に沢登りをした。高所恐怖症なので、気球撮影に誘われたときだけは「勘弁してくれー」と、必死に逃げた。

体験取材レポートは加藤孝カメラマンの写真と共に好評で、一回八ページももらえていた。というか、八ページ分の原稿を書くのは、けっこう大変だった。もっとも、僕は原稿を書くのが早かったので、時間はそれほどかからなかったけれど----。

仕事ではない文章では、「敗れざる者たち」で熱い文章を書いていた若き沢木耕太郎さん、関川夏央さんの中期以降のエッセイにも影響を受けている。一時期熱中し、エッセイも小説も読み尽くした向田邦子さんではあったが、文章的な影響ではなくエッセイの構成のようなものを学んだ。

また、村上春樹さんのエッセイはすべて読んでいるし、かなり影響を受けていると思う。村上さんは女性誌に見開き連載したような軽いユーモア・エッセイも書くし、分析的で長文の音楽エッセイや海外の生活記録、あるいは旅行記など幅広く書いているが、そのすべてのものから僕はインスパイアされた。

しかし、僕がエッセイの書き方として最初に影響を受けたのは、山口瞳さんの「江分利満氏の優雅な生活」である。「江分利満氏」シリーズは、人生エッセイのひとつの頂点と言ってもいい。

「江分利満氏の優雅な生活」を読んだすぐ後、僕は江分利満氏と同年齢だった自分の父親をモデルにして、模倣した文章を書いている。もっとも、「江分利満氏の優雅な生活」はエッセイではなく小説であり、一九六三年の直木賞を受賞した。

僕が読んだのは、その五年後の一九六八年、十六歳のときだった。高校一年生の春休みに読んだのだ。薄い新潮文庫で読み、読み終わるとすぐに続編の「江分利満氏の華麗な生活」を買いに走った。

「買いに走る」と言えば、「江分利満氏の優雅な生活」の冒頭は、江分利満氏の小学生の息子である庄助が手に十円玉を握りしめて、貸本屋へ走っていく場面だった。山口瞳さんの実際の息子が正介さん(現在は作家で映画評論家)であることを知るのは、ずっと後のことである。

「江分利満氏の優雅な生活」は小説仕立てにはなっているけれど、ほとんどエッセイである。東西電機の社宅に妻と息子と住む江分利氏は、山口瞳さん本人と完全に重なる。しかし、小説仕立てであることで、感傷的でストレートな叙懐を照れずに書けるのだ。山口さんは事業を失敗した父親のことも、妻の病気のことも赤裸々に書く。

この手法を後に多用したのが、諸井薫さんだった。諸井さんはエッセイ仕立ての短文の登場人物を「彼は」とか「男は」と三人称で書いた。それによって、中年男のストレートな感傷を描き出し、読者であるお父さんたちは感涙にむせぶ夜を過ごした。一時は本屋に山積みだった諸井さんの本も、今は見なくなってしまったなあ。

おもしろいことに、岡本喜八監督によって映画化された「江分利満氏の優雅な生活」(1963年)は、原作では東西電機とされていた勤め先をサントリー宣伝部に変え、江分利満氏(小林桂樹)を山口瞳に似せたメーキャップにした。

おまけに江分利満氏は直木賞候補になり、記者(中丸忠雄?)に取材されるシーンまであったと思う。才人・岡本喜八監督らしくアニメーションも使用するし、ストップモーションなども多用された。その二年前に日本で公開されたルイ・マルの「地下鉄のザジ」(1960年)の影響を受けていたのかもしれない。

山口瞳さんが開高健と共に、サントリー宣伝部にいたことは多くの人が知っている。「洋酒天国」というPR誌を編集し、「トリスを飲んでHawaiiにいこう」というコピーを書いたことは有名だった。それは、直木賞を受賞した頃から知られていたのだろう。だから、映画では江分利の勤務先をサントリーにした。

「江分利満氏の優雅な生活」を読んでから三十年近くの月日が流れ、出版社に就職していた僕は入社二十年経った頃に月刊「コマーシャル・フォト」という広告写真専門誌の編集部に配属になり、あるとき広告制作会社サン・アドを取材することになった。

「サン・アド」はサントリー宣伝部にいた開高健、柳原良平、坂根進、山口瞳らがフリーになって作った広告制作会社だが、出資したのはサントリーである。したがってサントリーの広告を作るのだけれど、他の会社の広告制作も行い、広告業界では主要な制作会社だった。

僕が取材したのは二十数年前だから、アートディレクターの葛西薫さんがいろいろな広告を作っていた。僕が取材した頃より少し後、葛西さんの仕事ではサントリー・ウーロン茶のシリーズが忘れられない。中国ロケで女性ふたりが登場し、中国語の「鉄腕アトム」の歌が流れるCМなど今も映像と音が甦ってくる。

その「サン・アド」を取材したとき、僕は「ここに開高健、山口瞳がいたのか」と、少し感慨にふけった。もちろん、イラストレーターの柳原良平さんもいた。初めて読んだ「江分利満氏の優雅な生活」の表紙カバーは柳原良平さんのイラストだったから、江分利満氏を思い浮かべると、今もアンクル・トリスの顔が重なってしまう。

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