2021年9月16日 (木)

■日々の泡----物語全体からあふれ出す「郷愁」


【蝉しぐれ/藤沢周平】

藤沢周平にはまったのは、三十年ほど前になる。はまっていた頃に出た新刊が「秘太刀馬の骨」だったから、調べてみると一九九二年のことだ。まさに「はまった」と言う以外になかった。その二ヶ月、僕は藤沢周平作品だけしか読まなかった。毎日、通勤の行き帰りに読み、昼休みに読み、休日は終日読み続けた。

その頃には、藤沢周平作品のほとんどが文春文庫か新潮文庫(若干、講談社文庫)で読めた。亡くなる五年前のことだから、すでにほとんどの藤沢作品が書かれていたのだ。僕がはまったきっかけは「隠し剣」シリーズだった。「孤影抄」を読み、「秋風抄」を読んだ。続けて「麦屋町昼下がり」を読んで、下級武士ものにはまってしまったのだ。

「市井もの」も読んでみたが、人情噺に何となく違和感を感じて、その後は手を出さなかった。とにかく「下級武士もの」「秘剣もの」を探して読み漁った。やがて連作長編「用心棒日月抄」シリーズや「風の果て」「三屋清左衛門残日録」「蝉しぐれ」などの長編も踏破した。「花のあと」「玄鳥」などの「女剣士もの」もお気に入りだった。

「風の果て」を読んだときは、セルジオ・レオーネ監督の大作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)を連想した。藤沢周平は映画好き、それも洋画好きであること、海外ミステリの愛読者であることをエッセイで書いているので、もしかしたらレオーネ作品にインスパイアされたのかと思ったが、特に調べはしなかった。

海外ミステリ好きであることは、彫師伊之助シリーズや神谷玄次郎シリーズを読むと何となくうかがえるけれど、僕が読んだのは「霧の果て」一冊だけだから断言はできない。それに、立花登シリーズも僕は一冊も読んでいない。今でも未読の作品はまだまだあるけれど、下級武士が主人公の作品はほとんど(すべて?)読み切ったと思う。その集大成が「蝉しぐれ」だった。

その頃まで藤沢作品をまったく読まなかったわけではない。いや、むしろ藤沢作品が世に受け入れられる以前、彼の本があまり売れなかった頃に僕は藤沢作品をいくつか読んだ記憶がある。「帰郷」とか「又蔵の火」といった、めちゃめちゃ暗く救いのない短編を「オール読物」や「小説現代」で読んでいたのだ。一九七〇年代半ばのことだと思う。

藤沢周平自身が書いているけれど、深い鬱屈を抱えて生きていた藤沢さんは「ハッピーエンドの話が書けなかった」という。自身のルサンチマンをはらすかのように書いた作品を読まされた当時の読者は気の毒だった、というようなことをエッセイで詫びている。藤沢作品が明るくユーモアさえ漂わせるようになるのは、「用心棒日月抄」からである。この連作はヒットし、連続テレビドラマにもなった。

読み物雑誌で何作か読んだ僕は、積極的に藤沢作品を読もうという気にはならなかったのだけれど、大学時代の友人が青樹社という出版社の編集部に就職したので、時々、彼から本をもらうことがあった。川上宗薫、泉大八、宇野鴻一郎などの官能小説(新書サイズだった)をもらうことが多かったのだが、あるとき彼は「この人、絶対、人気作家になるから」と「逆軍の旗」という単行本をくれた。一九七六年のことだ。

「逆軍の旗」は短編集で、タイトルになっている短編の主人公は明智光秀だった。光秀を主人公にするのが、いかにも藤沢周平だった。「また、暗い話なんだろうなあ」と思いながら読んだら、案の定、救いのない物語だった。読み終わると、心が沈んだ。深い余韻は残るのだが、気持ちが落ち込んでしまう。もう、藤沢周平は読まないぞと僕は思い、「隠し剣孤影抄」の絶賛の書評が出たときも無視をした。

しかし、何かが僕の嗅覚にひっかかり、藤沢周平がその作品群の大部分を書き終えた頃、僕はようやく「隠し剣日月抄」を手に取ったのだ。ありがたいことに未読の作品は山のようにあった。二ヶ月の間に文春文庫と新潮文庫が何十冊と書棚に並び、図書館を駆使して未読作品を読み続けた。一茶が主人公の作品や商人が主人公の大人の恋愛ものも読んだ。そのたびに「やっぱり武家ものだな」とつぶやいた。

その結果、好きな短編はいっぱいあるが、今でも読み返すのは「蝉しぐれ」である。「三屋清左衛門残日録」も会社をリタイアしたときに再読してひどく身に沁みたが、「蝉しぐれ」は何度読み返したかわからない。これが現代小説だったらセンチメンタルすぎるしリアリティの問題があるだろうが、時代小説だからこそストレートに「郷愁」に浸れるし、「心映えの美しさ」に手放しで感動できる。

フランスの映画監督ジャン=ピエール・メルヴィルは「人生は三つの要素でできている。愛と友情と裏切りだ」と言ったけれど、「蝉しぐれ」には「愛と友情と裏切り」つまり「人生」のエッセンスが描かれている。主人公と隣家の娘ふくの幼い頃からの愛、主人公とふたりの友人との友情、そして様々な裏切りも描かれる。それらは権力闘争であり、男女の関係であり、人生に抱く「夢」や「希望」の裏切りだ。

「蝉しぐれ」は下級武士の家に育った牧文四郎の成長物語である。冒頭、文四郎は隣家のふくが蛇にかまれたのを救う。十五歳と十二歳である。しかし、文四郎の父は藩の権力争いに巻き込まれ、切腹を申しつけられる。家禄を召し上げられ、文四郎と母は罪人のように狭い長屋に押し込められる。

やがて許され、文四郎に郷方役が命じられた後、かつて住んでいた普請組の組屋敷を訪れると、江戸屋敷に奉公に出たふくに藩主のお手がついたことを文四郎は知らされる。そのときの藤沢周平の文章は、ある意味で「手放し」である。現代小説でここまで臆面もなく書かれたらたまらないが、これが時代小説では心震わせる名文になる。

----では、終わったのだと文四郎は思っていた。その思いは唐突にやって来て、文四郎を覆いつつみ、押し流さんばかりだった。
 蛇に噛まれたふく、夜祭りで水飴をなめていたふく、借りた米を袖にかくしたふく、終わったのはそういう世界とのつながりだということがわかっていた。それらは突然に、文四郎の手のとどかないところに遠ざかってしまったのである。

ちなみに青樹社にいた友人は、藤沢周平没後に出た「藤沢周平のすべて」(現在は文春文庫)に「藤沢先生のこと」という回想文を寄せている。僕の好きな「花のあと」(北川景子主演で映画化された)も最初の単行本は、一九八五年に青樹社から刊行されたのだ。勝手な言い草だけれど、「花のあと」をもらっていたら僕はもっと早く藤沢周平を再発見できたのにな、と思わないでもない。

2021年9月 9日 (木)

■日々の泡----社会意識に目覚めた作品


【地の群れ/井上光晴】

昔、「われらの文学」という現代文学全集が講談社から出ていた。六〇年代後半のこと。埴谷雄高、野間宏などの戦後派、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎、小島信夫などの第三の新人、大江・開高、高橋和巳、倉橋由美子などがラインナップされていたと思う。その一冊に「井上光晴集」があった。

「われらの文学」の巻頭には一枚だけコート紙が挟み込まれ著者近影が印刷されており、その裏面に著者の直筆で様々なフレーズが書き込まれていた。たとえば吉行淳之介は「樹に千匹の毛蟲」と毛筆で書いていたと記憶している。「蟲」という漢字を使うのが、いかにも感覚派の吉行らしいと思ったものだ。

井上光晴は「雨のショポショポ降るパンにカラスの窓からのぞいてるマテツのキポタンのパカヤロウ」(少し違っているかもしれないけど)と書いていた。読んだとき僕は十七歳くらいだったから何のことかよくわからなかったが、後にある種の春歌だと知った(たぶん、大学生になって大島渚監督の「日本春歌考」(1967年)を見たからだ)。

これは朝鮮人慰安婦の歌である。「雨のショボショボ降る晩にガラスの窓から覗いてる満鉄の金ボタンのバカ野郎」という意味だ。娼家の窓から満鉄(南満州鉄道)社員が女を買おうかと覗いている----。半世紀以上経っても僕の記憶から消えていないのだから、読んだときに強く印象に残ったフレーズだったに違いない。そして、その本には「地の群れ」という長編小説が掲載されていた。

ときは一九六八年。高校生の僕は、社会意識に目覚め始めていた。差別や偏見には、特に強く反発した。「幼い正義感」とは言いたくない。まだ純粋に社会に異議申し立てができたのだ。汚れていなかった時代。だから「地の群れ」という小説にひどく触発された。「地の群れ」の舞台は長崎であり、佐世保だった。その年、佐世保は米軍の空母エンタープライズ寄港反対闘争で全国的に有名な地名になっていた。

井上光晴は、社会性の強いテーマで小説を書く人だった。在日朝鮮人、非差別部落の人々、原爆スラムと呼ばれる貧民窟に暮らす原爆症の人たち、そうした登場人物を配置し、様々な葛藤を描き出した。「地の群れ」もそんな小説だった。中心には、貧民街の診療所の医師がいる。しかし、彼も様々な鬱屈と罪の意識を抱えて生きていた。

彼は戦後の共産党員で、共産党が武力革命を掲げていた時代の山村工作隊に医療救援班として派遣される。そこで先乗りしていた親友が飢えで病に倒れ、死んでいくのを看取った経験がある。やがて共産党を除名になり親友の恋人と結婚したが、今は妻から離婚を切り出されている。過去の悔いと現在の鬱屈が、彼をアルコール依存症にしている。

そんな医師のところに娘の初潮が止まらないという母親がやってくる。その病状が原爆症に似ているので伝えると、母親は頑なに「自分は原爆に遭っていないので、そんなことは絶対にない」と言い続ける。娘が危なくなって救急車で長崎の市民病院に運ばれても、母親は「娘は胎内にもいなかったし、私は疎開していて原爆に遭っていないのだから」と主張し、「どうしても原爆症にして、この子の将来をめちゃくちゃにするのか」と医師にくってかかる。

その母親が「××新田みたいなモノ」と差別的に口にするのが、被爆者たちが多く暮らす原爆スラムだ。当時、広島にも「原爆スラム」があったのは、「仁義なき戦い・頂上作戦」(1973年)でも描かれた。一方、医師の元にやってきた別の娘は「××新田のモノに暴行されたから、体を調べて証明書を書いてくれ」と言う。彼女は左手にケロイドのある青年にレイプされ、「誰かにしゃべったら、おまえの出身をバラす」と脅されたのだ。彼女は被差別部落で暮らしている。

また、医師は戦前、佐世保近くの炭坑に徴用工として連れてこられていた朝鮮人一家の娘と恋仲になり、妊娠させた過去がある。姉にひどく責められたが彼は責任逃れに終始し、朝鮮人の姉は「あんたが朝鮮人だったら一緒にさせるのに----」と諦めた口調で言う。姉に責められ続けた妹は、ある日、自殺してしまう。医師は相手が朝鮮人の少女だったから責められずにすんだことでホッとした自分を、今になって許せない。

こんな調子で、救いのない物語が展開する。当時の僕は偏見が偏見を生み、差別がさらに差別を作り出す日本社会の矛盾に対して「何かをしなければ----」という気分になった。だからといって、何かができたということでもない。全国的に高校紛争が広がり始めた時期ではあったけれど、保守的な四国香川県では高校生はがんじがらめにされていた。僕を大学生が主宰するマルクス勉強会に誘った友人は、体育祭の国旗掲揚で異議申し立てをして退学になった。

二年後の一九七〇年、「地の群れ」は社会派監督・熊井啓によってアート・シアター・ギルド(ATG)で映画化された。井上光晴自身が脚色に参加した。医師を鈴木瑞穂、被爆を隠し続ける母親を奈良岡朋子、暴行された少女を紀比呂子が演じた。佐世保に入港するエンタープライズが映り、爆音をたてて米軍戦闘機がスクリーンを横切った。原爆で破壊された教会、マリア像などが頻繁に挿入される。今から思えば、いかにも一九七〇年に制作された映画だと思う。

それ以来、井上光晴の作品は何作か読んできた。しかし、瀬戸内晴美の不倫相手の小説家が井上光晴だったことは、娘の井上荒野が父母と瀬戸内晴美のことを「あちらにいる鬼」で書くまでは、まったく知らなかった。瀬戸内が寂聴の名で出家した理由が、井上光晴との関係を清算するためだったというのは本当だろうか。瀬戸内寂聴は、井上荒野の取材にすべてを語ったという。

ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」(1987年)で有名な原一男監督が、井上光晴を五年間にわたって追ったドキュメンタリー「全身小説家」(1994年)を僕は見ていない。その映画で瀬戸内寂聴や埴谷雄高などが詳細にインタビューに答えているらしい。また、原監督の冷徹な姿勢によって、井上光晴の死後に調べて明らかになった経歴の虚偽が容赦なく暴かれているという。ちなみに井上光晴を「全身小説家」と形容したのは、埴谷雄高だった。

 

2021年9月 2日 (木)

■日々の泡----ノーベル賞作家の性的嗜好


【千羽鶴/川端康成】

川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの大騒ぎを憶えている。朝日新聞は何面にもわたって特集を組み、代表作「雪国」の駒子のモデルだという越後湯沢の元芸者のコメントを本人の写真入りで紹介していた。僕は高校二年生だったけど、「何だかなあ」と思ったことを今もよく記憶している。何も、今更、モデルなんて出さなくても----と思ったのだ。

ノーベル文学賞決定のニュースが流れたのは、一九六八年十月十七日の木曜日だった。その五日前、十二日の土曜日にはラテンアメリカで初めて開催されるメキシコ・オリンピックの開会式が行われた。川端康成のニュースと共にスポーツ欄にはオリンピック競技の写真があふれていた。バレーボールでは男女とも銀メダル、マラソンでは君原健二が銀メダルを獲得した大会だった。

当時、世間は騒然としていて、四日後の十月二十一日は国際反戦デーで、学生たちを中心としたデモ隊が防衛庁や国会構内に乱入した。新宿では火炎瓶が投げられ、新宿駅を占拠したデモ隊が線路にあふれたため国電(当時の呼称)は全面ストップした。その結果、警視庁は深夜に騒乱罪を適用し、逮捕者は八百人を数えた。今では、新宿騒乱事件と呼ばれている。

その頃、僕は四国高松の進学校にいて世の中の出来事の意味を知ろうと、友人に誘われた勉強会に参加していた。主宰していたのは香川大学生で、彼は香川大学には珍しい存在だった反代々木系だった。テキストはマルクスの「賃労働と資本」。ある日、大学生の下宿を出たとき、どう見ても公安の刑事としか見えない中年男と正面から顔を合わせた。あ、俺もマークされたな、と思った。

そんな時代だったから、川端康成が大騒ぎになっていても読もうという気にはならなかった。日本的な伝統や美意識を書いている作家というイメージだったからだ。誰でも知っているのが「伊豆の踊子」と「雪国」で、特に「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という冒頭のフレーズは誰もが(読んでいなくても)知っていた。

もっとも、僕はそれまでに課題図書として「伊豆の踊子」や「十六歳の日記」などは読んでいた。「伊豆の踊り子」は、その時点でも何度か映画化されていて、戦前は田中絹代、戦後は美空ひばり、鰐淵晴子、吉永小百合、内藤洋子が演じていた。山口百恵が鳴り物入りで「伊豆の踊子」を演じるのは数年後のこと。相手役募集の広告が新聞一面に掲載され僕の友人も応募したけれど、決まったのはすでにテレビドラマでの主演もあった三浦友和だった。

「伊豆の踊子」「十六歳の日記」は青少年向けとして問題のない作品と見られていたから、中学高校の課題図書になっていたのだろう。「伊豆の踊子」は淡い恋を描いた青春小説のように思われていたし、祖父の死を冷徹に観察し描写する「十六歳の日記」は、人間の死について考えさせるよい教材だと思われていた。後に読み返して僕は別の視点を強く感じたのだけれど、十代半ばで読んだときは素直に「日本文学の名作」として捉えていた。

しかし、僕が初めて読んだ川端康成の小説は「千羽鶴」だった。高校生の兄が買った文庫本だったと思う。それを、中学生のときに読み、ひどくショックを受けた。何しろ、主人公が父の愛人だったかもしれない中年女の胸のあざを思い出すところから始まるのだ。そのイメージが強烈だった。

----菊治が八つか九つの頃だったろうか。父につれられてちか子の家に行くと、ちか子は茶の間で胸をはだけて、あざの毛を小さい鋏で切っていた。あざは左の乳房に半分かかって、水落の方にひろがっていた。掌ほどの大きさである。その黒紫のあざに毛が生えているらしく、ちか子はその毛を鋏でつんでいたのだった。

この小説を読んで以来、「川端康成→千羽鶴→胸のあざ」と連想してしまう。もちろん、「千羽鶴」はセックスの仕方も知らない十代半ばの少年には理解できなかったけれど、何となく怪しい雰囲気は伝わってきた。大人になった菊治は父の愛人だったと疑っているちか子に茶会で令嬢を紹介されるが、そこには父と関係があった太田夫人がきていて彼女の菊治への執着が始まる。

菊治は太田夫人と関係を持ってしまう。また、太田夫人の娘もからんできて、菊治を巡って数人の女たちが様々な葛藤を巡らすのだ。いかにも、川端康成作品らしい。背景として描かれるのは鎌倉であり、お茶会であり、茶道具や掛け軸などの伝統的な美術品が小道具として登場する。昭和二十四年、占領下の日本で書かれた小説とは思えない。

「千羽鶴」の映画化は原作が出て数年後、吉村公三郎監督の作品がある。僕は見ていないのだが、おそらく太田夫人を木暮実千代、ちか子を杉村春子が演じている。その頃の木暮実千代は「雪婦人絵図」などの妖艶な役が多かったから、欲望に溺れていく太田夫人にはぴったりだったかもしれない。また、ちか子も杉村春子ならはまり役だろう。菊治は森雅之だった。

僕は増村保造監督版(1969年)を見ている。これは、制作年から見ると川端のノーベル賞受賞ブームに乗って作られたのだろうか。菊治は「三匹の侍」で一般的に知られるようになった平幹二郎だった。太田夫人は若尾文子。こちらも増村監督によって引き出された妖艶さにあふれていた。ちか子は、確か京マチ子。京マチ子が太田夫人でもよかったと思うけれど、ちか子には不気味さが必要だから京マチ子に向いている。

その後、「雪国」「山の音」「美しさと哀しみと」「眠れる美女」など、主要な川端作品は読んできた。その結果、僕が高校生の頃に日本文学を代表するふたりの文豪と言われた川端康成も谷崎潤一郎も「性的嗜好がかなり偏った」(要するに変態)作家であると結論するに至った。谷崎は「脚フェチ」と「マゾヒズム」、川端は「ロリータ・コンプレックス」が作品群に貫かれている。

2021年8月26日 (木)

■日々の泡----ラテンアメリカ文学の衝撃


【蜘蛛女のキス/マヌエル・プイグ】

ラテンアメリカ文学が日本で多くの人に読まれるようになったきっかけは、新潮社がガルシア=マルケスの「百年の孤独」を翻訳出版したことだった。調べてみると意外に早く、一九七二年のことである。その冒頭の文章と物語の語り口が日本の文学界に衝撃を与えたらしく、様々な書評に取り上げられた。僕も、その評判につられて読んだ。

読んで最初に思ったのは、物語を語る力だ。日本の小説にはないダイナミックな物語だった。神話のようでもあり、荒唐無稽なホラ話のようでもあった。ただ、「百年の孤独」が受け入れられたのは、ラテンアメリカという多くの人にはなじみの薄い世界が舞台だったからだろう。これが日本を舞台にして日本の作家が書いたモノだったら、あれほどの評判にはならなかったのではないか。

しかし、ラテンアメリカ文学の紹介というと、僕は新潮社より集英社の方が貢献したのではないかと思う。僕が最初にラテンアメリカ系の文学者として認識したのは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスだった。一八九九年生まれだから、僕が初めて「伝奇集」を読んだのは、彼が七十を過ぎた頃になる。日本に紹介されたのも遅かったのではないだろうか。

ボルヘスを教えてくれたのは、読書家の友人だった。ボルヘスには「悪党列伝」という世界の悪党とされる人間を描いた作品があり、その中で吉良上野介が取り上げられているというのだ。南米の作家が忠臣蔵を取り上げていることに僕は驚いた。当時、集英社版「世界文学全集」の中にボルヘスの「悪党列伝」が入っていたと記憶している。

ガルシア=マルケス以前に紹介されていたラテンアメリカ系作家はボルヘスの他には、パブロ・ネルーダくらいだったろうか。しかし、「百年の孤独」が評判になって以来、ラテンアメリカ文学の様々な作家の作品が紹介されるようになった。僕は八〇年代に入って刊行された集英社版「ラテンアメリカの文学」全十八巻の中の二冊を買った。ガルシア=マルケスの「族長の秋」とマヌエル・プイグの「蜘蛛女のキス」である。

「蜘蛛女のキス」はタイトルに惹かれて買ったような気がする。「蜘蛛女のキス」は変わった小説だった。特に前半は、モリーナとヴァレンティンというふたりの囚人の刑務所の房内での会話だけで進行していくというアヴァンギャルドさである。モリーナは今の言い方で言うとトランスジェンダーの男であり、ヴァレンティンは政治犯である。反政府組織の闘士だ。

このふたりが交わす会話が濃密で、古い映画の話などを延々と続けていったりする。不思議な雰囲気が醸し出される。ここで語られる古い映画の話は、作者プイグ自身の経験が反映しているらしい。子供の頃からの映画好きで、リタ・ヘイワースなどハリウッド女優に憧れていたという。処女長編のタイトルが「リタ・ヘイワースの背信」だから、よほど好きだったのだろう。

僕としては初めて読むスタイルの小説だった。アルゼンチンで刊行されたのが一九七六年で、日本での発行は一九八三年。その三年後には、映画化された「蜘蛛女のキス」(1985年)が日本公開になった。モリーナ役のウィリアム・ハートがタオルをターバンのように巻き女装した姿が強く記憶に残っている。ウィリアム・ハートは多くの映画賞を受賞するほど評判になった。

映画版「蜘蛛女のキス」の出来があまりによかったので、小説の記憶より映画の記憶の方が強く残っているのだけれど、これは映画好きの原作者にとってはうれしいことかもしれない。プイグはイタリアのチネ・チッタ(シネマ・シティ)で映画監督を目指していたという。後に彼は「蜘蛛女のキス」を戯曲化する。対話劇だから戯曲にするのは向いているし、さらにミュージカル化もされて各国で上演されているらしい。

映画版でよく憶えているのは、病気になって弱ったヴァレンティンをかいがいしく介抱するモリーナの姿である。粗相をしたヴァレンティンの体を拭ってやるモリーナは神々しくさえある。次第にヴァレンティンを愛し始めるモリーナの気持ちがひしひしと伝わってくる。しかし、モリーナは秘密を抱えてヴァレンティナと同じ房にいるのだ。

「蜘蛛女のキス」はどんでん返しが後半に用意されていて、ふたりの会話を読み進んでいると驚くことになるし、映画の方はショットが変わるだけでどんでん返しが描けるから見ている方の驚きは大きくなるだろう。「蜘蛛女のキス」がベストセラーになり、映画もヒットした理由はその辺にあるのかもしれない。とはいえ、「トランスジェンダー」の男の切なく報われない愛を描いた珠玉の恋愛映画であった。

 

2021年8月19日 (木)

■日々の泡----エリートの自慢話?


【羊の歌/加藤周一】

先日、「銀の匙をくわえて生まれてきた」というフレーズを使ったところ、矢作俊彦さんが古い日活映画のシーンをつないで作った「アゲイン」(1984年)を思い出した。様々な日活映画の名シーンが編集されるのだが、その狂言まわし的な役を「エースのジョー」こと宍戸錠が演じていた。もちろん殺し屋「エースのジョー」としての登場だ。

その宍戸錠が口にするセリフは矢作さんらしく、とびきり気取っている。「あの頃は、悪夢でさえ薔薇の香りがした」なんていうのは最たるものだが、「銀の弾丸、歯のない口にくわえて生まれてきた」というセリフがあった。「エースのジョー」ならそうだろうなあ、と納得する。さしずめ、僕などは「チープなアルミ・スプーン」をくわえて生まれてきたクチだろう。

しかし、「銀の匙」といえば、中勘助の自伝小説がよく知られている。今でも岩波文庫では売れ筋らしい。僕が子供の頃、「子供に読ませたいオススメ本」として山本有三の「路傍の石」や下村湖人の「次郎物語」などと共に挙げられていた。中勘助は教師時代の夏目漱石の教え子で、大正初期に「銀の匙」を書き上げて漱石に送り、漱石の推薦で朝日新聞に連載された。

僕が「銀の匙」を読もうと思ったのは高校生のときで、古本屋で新潮社の古い「日本文学全集」を見つけて買った。「内田百閒・中勘助・坪田譲治」の三人集だった。「風の中の子供」などの児童文学の坪田譲治が入っているのでもわかるように、「銀の匙」も少年向けと思われていたのかもしれない。しかし、内田百閒がなぜ加わっているのだろうか。彼も漱石門下だったからかもしれない。

僕は、その三人集を「銀の匙」を読もうと思って買ったのだけれど、結果的には内田百閒の愛読者になってしまった。「阿房列車」など十数編の短編が入っていたと記憶しているが、その中に「サラ・サーテの盤」という一種の怪談が入っていた。サラ・サーテ自らが録音した「ツィゴイネルワイゼン」の盤に人の声が入っている、というところから怪しい物語が始まるのだ。

「サラ・サーテの盤」は、僕が読んだ十数年後に鈴木清順監督によって映画化され、「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)として映画界を席巻した。ただし、どういう事情か、「サラ・サーテの盤」は原作としてクレジットされていない。原田芳雄が演じた人物の名前「中砂」も小説のまま使っているのに、どういう事情があったのだろうか。

さて、中勘助の「銀の匙」を読むと主人公の生まれ育つ環境は裕福で、「いい気なモンだな」と思うところもある。この自伝での「銀の匙」は、別に「何不自由ない裕福な家に生まれた」という意味ではない。しかし、貧乏人が「あいつは銀の匙をくわえて生まれてきたからな」と言うときは、「何不自由なく育った奴」という僻み的発言になる。

まあ、自伝で貧乏話を長々とされても辟易するとは思うけれど、裕福な家に生まれ幸福に育ったという話も「いい気なモンだ」と思うだけだ。中勘助の「銀の匙」は幼年期からの回想がビビッドに綴られており、そういう嫌みさからは免れている。したがって、長く読み継がれているのだろう。感受性の問題だと思う。自伝を感動的に書くのは、本当に難しいのだ。

僕は様々な自伝や伝記作家やジャーナリストが書いた伝記や評伝を読んできたけれど、結局、自伝ではどこかに「言い訳」や「自慢」の匂いを感じることが多かった。エリア・カザンの自伝は膨大で読むのは大変だったが、赤狩りのときに友人たちを国家権力に売り渡したことの「言い訳」とモンローやエヴァ・ガードナーなど美女との情事の自慢だけが読後の記憶として残った。

自伝で感心するものは少ないが、それでも僕が感動した自伝は加藤周一の「羊の歌」だった。一九六八年に岩波新書から上下二巻で刊行されて評判になり、高校二年の僕はすぐに買って読んだ。それから半世紀以上が経ち、一度も読み返したことはないけれど、読み終わったときの身が震えるような感動は今も鮮明に憶えている。感じやすかった十七歳だったことを差し引いても、第一級の自伝だと今でも思う。

加藤周一も「銀の匙をくわえて生まれてきた」人だった。裕福で教養のある両親、東京の山手で育ち、学校生活も恵まれている。虚弱体質だった子供の頃、病気で寝ているときの描写でさえ、何となく幸福感にあふれていた。彼は秀才で東大の医学部に入学する。やがて文学に目覚め、中村真一郎と福永武彦と共に「マチネ・ポエティック」という文学運動を始め、戦後日本の代表的な知識人となる。

高校生の僕が加藤周一の名前を知ったのは、その頃、集中して大江健三郎の小説を読んでいたからだろう。エッセイ集にも手を出し「持続する志」などを読んでいた。たぶん、そのエッセイの中に加藤周一の名前が出てきたのだ。大江健三郎が加藤周一の名を出すとしたら、深いレスペクトと共に書いていたに違いない。大江健三郎がレスペクトする人物として僕は加藤周一を知った。そういうバイアスがかかって読んでいたのかもしれないが、それを抜きにしても「羊の歌」の印象は素晴らしい。

それから十年ほど後のこと。出版社に入り、読書家の先輩と呑んでいたときだった。その先輩の読書量は半端ではなかった。特に思想系ではあらゆる本を読んでいるのではないかと思うほどだった。吉本隆明の著作のほとんどを読破しているのが僕には信じられなかった。その先輩に「加藤周一の『羊の歌』は忘れられません」と言うと、彼は「あのエリートの自慢話ね」と鼻で笑った。

エリートの自慢話----、その言葉が頭に残った。確かに、そういう要素はある、と僕も思ったからだ。だからといって「羊の歌」の評価に影響するとは思えなかったし、僕の印象は変わらなかった。ただし、「鼻持ちならないエリートの自慢話」と受け取る人もいるのだと、僕は肝に銘じた。

それから、さらに十数年後。元「特選街」編集長で呑み友達のIさんと秋葉原の赤津加のカウンターで呑んでいるとき、例によって本や映画の話で盛り上がり、僕が「今まで読んだ自伝で最も感動したのは加藤周一の『羊の歌』です」と言うと、Iさんも興奮気味に「あの本は素晴らしい」と手放しで絶賛した。しかし、僕が会社の先輩に「エリートの自慢話」と言われたことを口にすると、「それは違う」と色をなした。

僕と同じようにIさんにとっても大切な本だとわかったが、Iさんは僕と違って、その頃、月に一回ほど朝日新聞夕刊に連載されていた加藤周一の「夕陽妄語」を読み続けるほどの愛読者だった。僕は、「羊の歌」以外の加藤周一の評論・エッセイは読んだことがなかった。「羊の歌」を読んだ頃に評論に挑戦し、難しすぎて挫折したからだろう。朝日新聞では社会評論や政治評論を書いていたから、よけいに敬遠したのだと思う。

ただ、その頃、評判になっていた「日本文学史序説」だけは気になっていて、そのことをIさんに告げると「あれは面白いですよ。万葉から戦後文学まで一気に通史として書いていますから」と熱心にすすめてくれた。しかし、結局、僕が「日本文学史序説」を買ったのは二巻の単行本ではなく、平凡社から出た「加藤周一著作集」全十五巻の四巻と五巻だった。長い評論だけれど、確かに面白く読めた。

ただし、他の巻は買っていない。「文学の擁護」「現代ヨーロッパ思想註釈」「近代日本の文明史的位置」「現代の政治的意味」「ある旅行者の思想」「藝術の精神史的考察」など難しいタイトルの巻ばかりである。その十三巻が「羊の歌」に充てられていた。加藤周一没後、すでに十数年が過ぎた。今でも、「羊の歌」は岩波新書で売れているのだろうか。

2021年8月12日 (木)

■日々の泡----途方に暮れていた頃


【遠雷/立松和平】

立松和平さんは、一時期「ニュースステーション」にリポーターとして出演し、独特の訛りのある喋り方で有名になった純文学作家だ。一九四七年生まれで、同年の北方謙三さんと文芸誌「新潮」に原稿を持ち込む文学仲間だった。もっとも、立松さんは早稲田、北方さんは中央大学だった。どちらにしろ、どこの大学も揉めている時期だった。

七〇年代後半に入って、六〇年代末の学生運動をテーマにした小説が出始めた。僕の高校の先輩である芥川賞作家の高城修三さんも「闇を抱いて戦士たちよ」(1979年)で自身が体験した京大闘争を描いた。三田誠広も「僕って何」(1977年)で芥川賞を受賞し、ベストセラーになった。立松和平さんも同じ世代で、当時の若者の閉塞感や苛立ちや不安を小説にしていた。

僕は処女作品集「途方にくれて」からずっと、立松和平さんの作品集を買い続けた。「途方にくれて」が出たのは一九七八年のこと。僕は就職して早い結婚をし、毎日、途方に暮れていた。だから、「途方にくれて」というタイトルに惹かれて買ったのだ。集英社発行だった。表紙カバーは漫画誌ガロに作品を発表していた鈴木翁二さんのイラストだったと記憶している。

それ以降、一冊も欠かさず僕は立松和平さんの本を買い続けた。一九八〇年発行の長編小説「遠雷」まで十冊、さらに短編集「冬の真昼の静か」と一九八一年発行のエッセイ集「回りつづける独楽のように」を購入した。「遠雷」でようやく評価が高まった新人作家は、その後、名が知られるようになり、宇都宮市役所勤めを辞め専業作家になる。

立松和平さんの初期十二冊をすべて読んだかと言われると、ちょっと困る。彼の本を僕は「読むべき本」として手元に置いていたというより、同時代を生きる世代の近い作家の証言のように感じていた。後に、その時代を思い出すとき、その小説群を読むと時代の空気感までが甦ってくるのではないか、そんな思いで買い続けていた気がする。

二十七歳の僕には、「途方にくれて」というタイトルが心に刺さったのだ。立松さんは自身の体験をベースにしていた。八冊目の「火の車」では、作家として生活できず妻子を連れて宇都宮に帰るまでの話が綴られていたと思う。しかし、売れない作家にしては、三年間で十冊も出しているのが不思議だった。

初期の数冊はあまり知られていない版元からも出ているが、その他は集英社、新潮社、文藝春秋などから本が出るようになっていた。そして、立松さんは「遠雷」を書く。「出世作」という言葉があるけれど、「遠雷」がまさにそれだった。評価は高く、評判になり、翌年一九八一年には映画化され、日活出身でロマンポルノの若手監督だった根岸吉太郎さんの評価も高まった。

しかし、僕が「遠雷」の次に出た短編集「冬の真昼の静か」と最初のエッセイ集を買っただけで、それ以降の立松作品を読まなくなったのは、自分が思い入れて応援していた新人作家が世に認められたことによって「もう、いいか」と思ってしまったからだろうか。「遠雷」が文学賞を受賞し、映画化作品も様々な映画賞を獲得したことによって、僕は何を感じていたのだろう。三十近くになって何者でもない己に焦燥感を感じていたのか。

その頃の僕は「遠雷」の主人公の気持ちに近かったのかもしれない。映画を見て、その思いをさらに強くした。宇都宮郊外のビニールハウスでトマト栽培を続ける主人公の青年の現実を見極める気持ち、あるいは諦念みたいなものが、当時の僕には共感できたのだ。彼は見合いで初めて会った相手をモーテルに連れ込み、「結婚するから」とセックスを迫る。彼は現実の生活を肯定し、何かを割りきって生きているのだ。

青年を演じたのはデビュー翌年の一九七八年、「サード」「事件」「帰らざる日々」と名作が続いた永島敏行で、すでに俳優を四年続けていた。見合い相手は難病映画で女子高生を演じた石田えりだった。彼女の役は何人もの男を知っている「遊んでいる女」でモーテルで正体を現すが、結婚した後はトマト農家の堅実な主婦になる。主演のふたりは「遠雷」で高く評価された。「遠雷」は原作者、監督、主演者たちの出世作になったのだ。幸福な作品だと思う。

物語の中ではビニールハウス近くの団地の主婦(横山りえ)と駆け落ちし、女を殺して逃げ帰ってくる主人公の友人(ジョニー大倉が演じた)の存在が大きな比重を占める。彼は何かに苛立ち、現実を拒否し、手に入らない何かを求めて、結局、身を破滅させる。その友人の思いが主人公には痛いほどわかるのだが、自身はそんな思いをおくびにも出さず、淡々とトマト作りにいそしむ。

映画では、そんな主人公の切ない気持ちが、桜田淳子のヒット曲「私の青い鳥」に託して描かれた。結婚式の披露宴だったろうか、主人公はその歌を唄いながら、友人の思いとその結末に涙を流す。僕は、あれほど切ない「クッククックー」を聞いたことがない。見事な演出だと思う。ほとんどの映画賞を総なめにしたのは当然だった。

一九八一年秋、僕は三十を目の前にして「遠雷」の主人公の気持ちに共振れした。もう若くはない、マンションも買った、子供も産まれる、覚悟を決めなきゃいけないんだ、と僕は永島敏行が唄う「クッククックー」を聞きながら言い聞かせた。それでも、ジョニー大倉の演じた友人のように何かを諦めきれず、抗う気持ちが消えなかった。しかし、一方で僕自身の思いを描いてくれている新人作家から卒業しようと思ったのかもしれない。

ちなみに、二〇一二年に「内藤陳さんを偲ぶ会」が目白の椿山荘で開かれたとき、北方謙三さんに「立松和平さんとは、どういうお知り合いだったのですか?」と訊いたことがある。「若い頃、文芸誌に原稿を持ち込む仲間だったんですよ」と北方さんは答えた。その後、僕は「北方さん、赤ヘルの中大ブントだったんですよね。もしかしたら、相米慎二さんとも一緒だったんですか?」と不躾な質問をした。かなり酔っていたんだろうなあ。

そのとき、一度だけインタビューをした相米慎二監督の顔と、ある新聞社の人に「今度、立松和平さんを紹介します。一緒に飲みましょう」と言われたことを思い出した。その後、連合赤軍事件を描いた「光の雨」連載中、資料として手記を読みこんだため、メンバーのひとりから「盗作」と訴えられる事件が起こり、結局、立松さんとは面識を得られなかった。相米さんも立松さんも亡くなってずいぶん経ってしまった。

 

2021年8月 5日 (木)

■日々の泡----ハードボイルドな作家


【檻/北方謙三】

北方謙三さんの「弔鐘はるかなり」が出たのは一九八一年で、その風貌もあってハードボイルド小説の人気作家となった。もちろん、僕もよく憶えている。同じ年、志水辰夫さんが「飢えて狼」でデビューし、僕はそちらの方が好きだったけれど、北方さんの小説は「逃れの街」「眠りなき夜」「さらば、荒野」「檻」と二年間は読み続けた。

「檻」が出た一九八三年の頃には北方さんの人気は絶頂で、一般的な知名度も高まっていた。作品を読んだことがない人でも、その風貌や名前を知っていた。テレビや雑誌での露出が多かったからだ。僕はタモリがやっていた「今夜は最高」に出てきたのを見た記憶があるが、はっきり憶えているのは「笑っていいとも」の「テレホンショッキング」に出演したときのことである。

後に北方さんはあちこちで書いているけれど、そのときにタモリに向かって「大学のバリケードの中にいたときに『新潮』編集部の人が原稿依頼にやってきた」という話をしていた。その作品「明るい街へ」は同人誌に掲載したものが「新潮」編集者の目に留まり、転載されたという。一九七〇年三月号だというから、編集者がバリケードにやってきたのは一九六九年の秋くらいだろうか。

僕が大学に入ったのは一九七一年四月で、その頃には学校側は何かあるとすぐ機動隊を導入することに抵抗がなくなっていた。入学したときには学生会館は大学側によって封鎖され、中庭で内ゲバなどが起こるとすぐに機動隊がやってきた。入学早々、内ゲバを見ていた僕は機動隊員に追われる経験をした。大学側はすぐにロックアウトをした。その頃、全共闘全盛の頃を知る先輩から「カスバの女」の替え歌を教えてもらった。

 涙じゃないのよ 催涙弾に
 ちょっぴりこの頬 濡らしただけよ
 ここは神田の解放区 赤いメットの花が咲く
 ブントの男の心意気

北方さんはタモリ相手に、自分が赤いヘルメットをかぶっていたことを自慢げに話していた。「ブントですよ」とも言ったかもしれない。まだ、学生運動の記憶が人々の中に残っていた時代だ。僕は出版社に潜り込み、五年以上が過ぎていた。もしかしたら、最初の子供が産まれる頃だったのかもしれない。ブラウン管の中で「赤ヘル」だとか「ブント」などと口にする流行作家に対して複雑な気持ちを抱いた。

大学時代、先輩たちの中には北方さんと同じ赤ヘルのブントだった人たちがいて、バリケードの中のことをいろいろ懐かしげに話す人もいた。僕が一九七五年の広島カープ初優勝にひどく思い入れたのは、その年、カープは帽子とヘルメットだけを赤にし、怒濤の勢いで優勝に向かっていたからだ。古葉監督の元、山本と衣笠がいて「赤ヘル軍団」と呼ばれた。

そんな複雑な感情を抱いたからというわけでもないが、「檻」を最後に僕は北方作品を読むのをやめた。それは「檻」以上のものは、もう書けないのではないかという思いだった。それ以降、北方さんの書くものは「繰り返し」になっていったと思う。「逃れの街」(1983年)が工藤栄一監督によって映画化され、「友よ鎮かに瞑れ」(1985年)のテレビスポットが派手に流れていた。

「檻」は裏社会で生きていた男が結婚して小さなスーパーのオーナーとして暮らしている話だ。しかし、彼の周囲にヤクザのような男たちが現れ始め、商売を妨害する。やがて、彼の昔の血が騒ぎ始める。僕は「檻」を読みながら渡哲也の「無頼」シリーズを思い出した。まるで、昔の日活映画じゃないか、と思った。

その数年後、ビデオ雑誌の編集長をやっていた僕はイメージフォーラムを主宰する映像作家であり造形大学教授のかわなかのぶひろさんと知り合い、「青年、青年」とかわいがってもらった。新宿ゴールデン街には、何度つきあったかわからない。終電がなくなっても飲み歩き、阿佐ヶ谷南にあった頃のかわなか邸に泊めてもらったことさえあった。

ある夜、かわなかさんから「ゴールデン街の酒場で飲んでいると、北方謙三が『無頼』のテーマを教えてくれ、と言ってきたことがある」と聞いた。かわなかさんは内藤陳さんとは古い知り合いで、日本冒険小説協会にも初期から参加していた。その関係で北方謙三さんとも知り合いだったのだろう。

「無頼」のテーマは「ヤクザを礼賛している」という理由でレコードも発売禁止になっていて、歌詞を確認するには映画を見るしかなかったが、その頃はまだビデオも出ていなかったのだ。かわなかさんから話を聞いて、僕は「『檻』には、間違いなく『無頼』が影響している」と確信した。その夜、僕とかわなかさんは「やくざの胸はなぜにさみしい~」と大声で唄いながらゴールデン街の路地を抜けた。

北方謙三さんに初めて会ったのは、日本冒険小説協会・内藤陳会長の最後の誕生会だった。二〇一一年の秋のことだ。新宿の中村屋ビルだったと思う。陳さんのガンの再発が知られていた頃で、多くの作家も参加した。僕がかわなかさんと話していると、向かいの椅子に大沢在昌さんと北方謙三さんが腰を下ろした。僕は数年ぶりに会う大沢さんに会釈をしたが、かわなかさんに気付いた北方さんが挨拶にやってきた。

そのとき、僕は初めて北方さんを間近で見ることになったけれど別に紹介されることもなく、北方さんは大沢さんのところに帰っていった。逆に僕は大沢さんに近づき挨拶をした。「小説宝石」で対談してから四年が経っていた。大沢さんは僕を見て笑みを浮かべ、「お痩せになりましたね」と言った。対談時から比べると十キロ以上、僕は体重を落としていた。大沢さんも年に一度、別荘でダイエットする期間を設けているという。

「対談のときの写真見ると、顔がまん丸だったもんですから」と僕は答えた。僕の「映画がなければ生きていけない2007-2009」の巻頭に対談を再録させてもらったが、その写真を見ると大沢さんと並んで写る僕の顔は大きくて、遠近感が間違っているようにさえ見える。そのとき、大沢さんは笑ったが、隣にいた北方さんは「こいつは誰だ」というような顔をしていた。すでに文壇の大御所の風格だった。

その夜、出席した作家たちの挨拶があり、北方さんや大沢さん、今野敏さんや藤田宣永さん、西村健さんなどに続き僕も挨拶させられた。協会の特別賞をもらっていたので、そこでは僕も作家扱いされたからだ。その夜、藤田宣永さんのおしゃべりを初めて体験したが、僕は有名な作家たちの間で小さくなっていた。だから、その夜の集合写真の左上の端っこに僕は小さく写っているだけだ。おまけに広角レンズだから、顔が歪んでいる。中央には陳さんの両脇に大沢さんと北方さんがいて、周囲を作家たちが囲んでいた。

2021年7月29日 (木)

■日々の泡----人生が美しく不思議な夢だった頃


【我が名はアラム/ウィリアム・サローヤン】

中学生のときの愛読書にウィリアム・サローヤンの「我が名はアラム」がある。ずっと好きで、大学生の頃まで何度も読み返した。角川文庫で持っていたのだが、数十年後に福武文庫から復刊されたので、それも買った。訳者は三浦朱門である。その訳でなじんでいるので、他の訳では読めないだろう。

しかし、僕は三浦朱門が嫌いだった。中学生の頃はそんなことは気にしなかったが、その後、三浦朱門は文化庁長官になったり、芸術院の長を長く務めたり、いわゆる権力側(体制側)の人間として生きた人だし、エリート主義を肯定する発言ばかりしていた人である。そう言っては何だが、文学的業績は大したことがないくせに出自がよくて、「銀の匙をくわえて生まれてきた人」だった。

僕は小説を書く人間は「反権力」とは言わないまでも、体制側の人間であってはいけないと思っている。様々なものを批判的に見る目が必要ではないかと考えているのだ。しかし、三浦朱門夫妻(妻はあの曾野綾子)は自らの恵まれた育ちに居座り、エリート主義を臆面もなく標榜し、反動的かつ右翼的発言ばかりを繰り返す。社会の底辺で生きる人や虐げられた人々と同じ視点に立つなんてことは、絶対にないだろう。

ということで「我が名はアラム」を読むたびに三浦朱門訳に甘んじざるを得ないことに忸怩たる思いを抱くのだけれど、「我が名はアラム」の冒頭の短編「美しい白馬の夏」の最初のフレーズは、十代半ばの僕を夢中にさせ一生残る感銘を与えたのだった。その文章は、僕の「人生に対する姿勢」のようなものを作ってしまったのではないかとさえ思っている。

----ずっと以前、僕がまだ九つで、この世が素晴らしく、人生がまだ美しく不思議な夢であった頃、僕以外の者が皆、少しキ印だと思っていた従兄のムーラッドが朝四時に来て僕の部屋の窓をたたいた。

ムーラッドは美しい白馬に乗っていた。彼はアラムを誘い出し、少年たちは白馬に乗って早朝の草原を駆ける。しかし、それはムーラッドがある農夫の家から勝手に連れ出して別の厩に隠している馬で、ある朝、ふたりは白馬に乗っているときに、その農夫と出会ってしまう。農夫は、自分のところの白馬によく似ていると言い、馬の口の中の歯並びまで見る。

しかし、農夫は「この馬はうちの馬にそっくりで、あんたたちが正直者で評判のガローラニヤン一族の者でなければ、馬泥棒と思ってしまうところだった」と言って去る。「我が名はアラム」の中には、こんな印象に残るセリフが散りばめられていて、サローヤンが元々は台詞中心の戯曲で認められた作家だとわかる。

短編集だが一編は短く、中にはコントのような印象の作品もある。学校での話、風変わりな先住民の話などが綴られ、九歳で登場したアラム・ガローラニヤンは少しずつ成長し、最後の短編になると育ったカリフォルニアからニューヨークへ向かう若者になっている。その短編のタイトル「嘲る者たちへの言葉」は僕のお気に入りだ。

おそらくサローヤン自身の自伝的要素が強い物語なのだろう。作中のガローラニヤン一族はアルメリア人で、一族そろってアメリカのカリフォルニアに移民として住み着き、果樹園などを営んでいる。作中に漂うのは、故郷をなくした人間たちの悲しみだ。ガローラニヤン一族の中の変わり者のひとりは、自宅が火事だと知らされたとき、こんなことを言う。

----火事が何だ。ほっとけ。我々は国をなくした。

エリア・カザン監督の「アメリカ アメリカ」(1963年)を見たときだったか、トルコでのアルメリア人たちへの迫害がひどかったことを知った。虐殺も起こった。そして、アルメニアという国は消滅し、アルメニア人たちは故郷喪失者になった。その悲しみが「我が名はアラム」には充ち充ちている。

サローヤンは前述のように「わが心高原に」「君が人生の時」というブロードウェイのヒット戯曲で世に出た人だ。同じ年に「我が名はアラム」を出版し、その後、多くの小説、エッセイ、戯曲を書いた。映画「人生喜劇」(1944年)では脚本に関係し「アカデミー原案賞」を受賞した。映画演劇とも縁の深い人だった。

「我が名はアラム」を読んでからずいぶんたった頃、なぜかサローヤン・ブームが起こり、いくつかの作品が日本で相次いで出版された。「ロック・ワグラム」が新潮社から出て、「ママ・アイラブユー」と「パパ・ユーアークレイジー」が伊丹十三の訳で出版され、僕はすぐに買ったものだ。どれも原作が発表されてから三十年が経っていた。もしかしたらサローヤンの死によって、作品が見直されることになったのだろうか。

しかし、なぜか僕はそれらを読了することができなかった。早川書房から出ていた「わが心高原に」や「サローヤン短編集」なども持っていたのだが、きちんと読めたのは未だに「我が名はアラム」だけである。相性が悪いのではないか、とさえ思う。しかし、「我が名はアラム」のそれぞれの物語を思い浮かべるとき、「珠玉の短編」という言葉が浮かんでくる。

ちなみに文庫本で背表紙が三ミリほどしかない薄さだから、読み通すのに時間はかからない。そのせいか、昔、ペーパーバックの原書は英語の副読本としてよく使われていた。サローヤンの英語が読みやすいかどうかはわからないが、タイトルは「マイ・ネーム・イズ・アラム」だから、中学に入って最初の英語の授業で習うフレーズなのである。

2021年7月22日 (木)

■日々の泡-----冒険小説の代表作


【高い砦/デズモンド・バグリィ】

デズモンド・バグリィの小説を愛読していた時期がある。ただし、それより前、僕は彼の原作と知らずにポール・ニューマン主演の「マッキントッシュの男」(1973年)を見ていた。ジョン・ヒューストン監督で脚本に若きウォルター・ヒルが参加している。僕は封切りで見にいった。大学生のときで帰省していた高松の映画館だった。一九七四年の冬のことだ。

なぜ封切りで見にいったかというと、ドミニク・サンダが出ていたからである。石岡瑛子さんがアートディレクションをした「パルコ」のポスターに登場して一般的な人気を得るのは数年後のこと。その当時、「ドミニク・サンダ」などと騒いでいるファンはそんなに多くなかったが、僕はミステリアスな雰囲気に魅せられて熱烈なドミニク・サンダのファンになっていた。

「マッキントッシュの男」はポール・ニューマンのホテルの部屋に訪ねてきたドミニク・サンダが何かの指令を伝えると、次には主人公が郵便配達を襲い宝石を奪って逮捕され、終身刑を受けて刑務所に入るという展開になる。何が起こっているのか、最初はよくわからない。やがて脱獄組織が主人公に接近してきて、ある男と一緒に脱獄に成功し、荒涼とした荒野の真ん中の屋敷に匿われる辺りからサスペンスが盛り上がる。

「マッキントッシュの男」のラスト、主人公は相手と取引をして別れようとするのだが、それを許さないドミニク・サンダがいきなり敵の銃で相手を撃ち殺す。大型のモーゼルが何度も火を噴く。女性の手には大きすぎるモーゼルの銃把をしっかりと握り、手をまっすぐに伸ばしたドミニク・サンダを仰角気味のアングルで捉えたショットはゾクゾクするほどカッコよかった。

カバーに映画のシーンが使われた「マッキントッシュの男」の本が公開当時に書店に並んだと思うのだが、僕の記憶にはない。翻訳が出たのは一九七三年のことだった。しかし、デズモンド・バグリィの初めての翻訳は一九七二年出版の「裏切りの氷河」である。僕は友人のTから「マッキントッシュの男」と「裏切りの氷河」を借りて読んだのだが、それはたぶん一九七四年のことだ。僕は大学四年だった。

ただし、二冊まとめて借りたものだから、僕は映画を見ていた「マッキントッシュの男」から読んでしまった。続いて「裏切りの氷河」を読んだのだけれど、読み終わってから「何だ、『マッキントッシュの男』の前日談じゃないか」と気付いた。「裏切りの氷河」で正体を暴かれ逮捕された大物スパイが、「マッキントッシュの男」で主人公と一緒に脱獄する男なのだった。

僕が就職したばかりの頃だと思うのだが、朝日新聞の文化欄で福永武彦の「最近、イギリスのスパイ・冒険小説の力作がたくさん出ている」という記事が出たことがある。ミステリ好きの福永さんだから不思議ではなかったのだけれど、その記事で絶賛されていたのがデズモンド・バグリィの「高い砦」だった。一九六五年にイギリスで出版された「高い砦」の翻訳が出たのは一九七四年だった。

僕が「高い砦」を読んだのは、その記事がきっかけだったのかもしれない。「裏切りの氷河」「マッキントッシュの男」はスパイ小説で、冒険小説という印象はあまりなかった。ただし、主人公が窮地に陥ったときに独特のアイデアで脱出するのが新鮮で、それがバグリィの持ち味だと気付いた。「裏切りの氷河」では、携帯用の小さなガスボンベが反撃の武器になったと記憶している。

日本での出版は逆になったが「高い砦」はバグリィの二作目で、「裏切りの氷河」の五年前の作品だった。「高い砦」を読んでわかったのは、バグリィがアイデアをこらして工夫する独特の武器は、初期作品からの彼のこだわりなのだった。「高い砦」では中世を研究している学者の指導で投石機を作り、襲ってくる共産軍に反撃する。

南米の某国で雇われパイロット(ギャビン・ライアル作品みたい)をしているオハラは、急に呼び出されてアンデス山脈を越える飛行を頼まれる。乗客は十数人。しかし、副操縦士の妨害で高度五千メートルのアンデス山中に不時着してしまう。不時着の衝撃で副操縦士は死ぬのだが、そのときに「ビバカ」と謎の言葉を口にする。

乗客の中には様々な人物がいる。美しい娘と老人、彼らを守るように従うラテン系のハンサムな若者。アメリカ人のセールスマン。老婦人に大学教授風の男など。彼らは力を合わせて山を下りようとするが、途中、橋が壊れている。その対岸に軍隊が現れ、彼らを襲ってくる。老人が軍隊の狙いは自分だと言う。彼は某国に帰国しようとしている元大統領(だったと思う)で、軍隊はそれを阻止しようとする共産軍なのだ。

ここで副操縦士が口にした「ビバカ」が「ビバ・カストロ」だとわかる。この小説が書かれた頃は、カストロがキューバ革命に成功して数年しか経っていない。ただし、僕が「高い砦」を読んだ七〇年代半ば、カストロと共に戦ったチェ・ゲバラは若者たちに人気があったし、世界的にも支持されていた。したがって、「高い砦」の反共的な部分をイヤがる読者もいた。もっとも、僕はそんな無粋なことは言わなかったけれど。

様々な人たちが協力して軍隊に反撃する展開になるのは予測できるのだが、それがよくできているのだ。野暮は言いっこなしである。オハラに協力する謎のアメリカ人フォスター、大統領のボディガードでハンサムなミゲル(だったと思う)など、今でも僕の思い入れの強いキャラクターだ。それに反して典型的なエゴイストで卑怯者ピーボディ(だったと思う)は、今、思い出しても腹立たしい。

後半、谷を挟んで対峙するオハラたちと別れてアンデス山脈を越えて助けを求めにいく三人(フォスターとミゲルとピーボディ)のシーンが、「これが冒険小説ってもんだぜ」という展開になる。雪の高山を何の装備もなく越えていく男たち。ひとりは足を引っ張り続ける卑怯者である。途中、意識をなくしたフォスターを肩に担いで歩いていくミゲルを想うたび、今でも僕は涙ぐむ。

四十数年前に読んだきりの本を今でも記憶だけでここまで書けるというのに、それから何十年か後、日本冒険小説協会および内藤陳会長と縁ができ、新宿ゴールデン街の「深夜+1」で呑んでいるとき、「男の中に熱い血が流れている限り、不可能ということはない」というフレーズが「高い砦」の中に出てくると言われ「???」と僕は思った。そんな文章は、僕の記憶のどこにもなかったのだ。

「深夜+1」ではバグリィの翻訳者だった矢野徹さんも数え切れないほどスツールに腰掛けたことだろうし、何しろデズモンド・バグリィ本人が来日したときにやってきてボトルを入れ、日本のファンの熱心さに感激して帰った冒険小説の聖地である。それなのに陳さんが冒険小説のスピリッツとする「高い砦」のキーフレーズを僕はまったく記憶していなかったのである。

しかし、今も僕はフォスターを担いでアンデスから降りてきたミゲルが銃殺されるシーンを思い出し涙する。それは、どんなに魅力的なキャラクターであっても殺すことを躊躇しない小説家としての冷徹さを教えてもらったという意味で、バグリィは凄いなあと思う。だから、初めてハードカバーで出た「敵」までの十二作は、すべて読んだのだった。

2021年7月16日 (金)

■日々の泡----漢文調が好きだった


【山月記/中島敦】

高校時代の漢文の先生は、「十国修」という詩人としての名前を持っていた。僕がそのことを知ったのは、高校二年の三学期、生徒会の広報担当をしていたとき、卒業文集の「玉翠」を編集することになったからである。「玉翠」は長く続く文集で、僕は参考のためにバックナンバーを遡り始めた。昭和四十四年(1969年)のことだった。

昭和三十年代の「玉翠」を読むと、毎年のように巻頭に短い詩が掲載されていた。その詩の作者は「十国修」となっており、一体誰だ? と僕は思った。そういうときには物知りの新聞部部長Tに訊いてみるのが、その頃の僕の常だった。やはり、Tは知っていた。「漢文の××先生だよ」とTは言った。兄ふたりと姉ふたりが同じ高校を出ていたから、そんな情報も持っていたのだろうか。

その頃、僕は「現代詩手帖」を毎月買っていた。読者の投稿作品掲載欄に毎月のように帷子燿という作者の詩が載っていた。彼は十五歳だという情報があり、自分より年下の少年が凄い詩を書くのだと劣等感に苛まれたものだった。だいたい、その作者名が読めなかった。「帷子」を「かたびら」と読めるようになったのは「経帷子」や「鎖帷子」という字を知ってからだったし、「耀」は「よう」としか読めなかった。

話が横道にそれてしまったが、あの頃の「現代詩手帖」を読んでいた人間は決して「帷子耀」を忘れないだろう。そのひとりに四方田犬彦さん(僕の一歳下)がいて、消えてしまった帷子耀を探しにいく本を数十年後に出した。そこには、もうひとりの天才マンガ家・岡田史子(CОМを中心に作品を発表していた)を探す旅の記録も収められていた。その四方田さんの本を読んで「かたびら・あき」と読むのだと僕は知った。

というくらい十七歳の僕に大きな影響を与えていた「現代詩手帖」だったのだが、高校二年の秋に出た「現代詩年鑑」を見ると巻末に全国の詩人のリストが掲載されていて、そこに「十国修」の名前があった。また、作品が「現代詩手帖」に掲載されており、その月号も載っていた。「すごい、××先生は『現代詩手帖』に作品が載るんだ」と、世間知らずの僕は興奮した。

その興奮を抱えたまま僕は先生を廊下で呼び止め、「また、昔のように『玉翠』に巻頭詩を書いていただけませんか?」と依頼した。当時、もう五十代だったろう××先生は少し首を傾けたまま僕を見て、「いつまでですか?」と静かに問うた。僕は印刷所に入稿するスケジュールを頭の中で検討し、「二週間あります」と答えた。先生はしばらく僕の顔を見つめ、「そんな短時間では----、書けません」と厳しい口調で答えた。

あのときの先生の顔を今も思い出す。十行ほどの詩なんて二週間もあれば充分と甘く考えていた僕だったので、ガーンという擬音が入るほどショックを受けた。思い知らされたのだ。「そんな短い時間で書けるような作品を、私は書いていない。詩とは、苦しみ、血を流して書くものです」と言われた気がした。作品に向かう詩人の姿勢を教えられたのだ。

僕は××先生の漢文の授業が好きだった。物静かで、大きな声を出す人ではなかったし、誰かを声高に叱ることもない。ただ、その授業は一言も聞き漏らしてはいけない雰囲気があった。他の生徒たちは知らないが、少なくとも僕はそう思っていた。それに「五言絶句」など定型で書かれる漢詩の響きが心地よく、僕はよく口にした。最も有名なのは、やはり杜甫の「春望」だろうか。

 国破れて 山河あり
 城春にして 草木深し
 
そんなわけで、僕は漢文調の文体に弱い。僕が岩波の新書版「森鴎外全集」や「石川淳選集」を揃えたのは、ときどき彼らの漢文調の文章に触れたくなるからだ。森鴎外の史伝「渋江抽斎」や「伊沢蘭軒」(どちらも通読するのはむずかしいけれど)、あるいは石川淳の「紫苑物語」など、文章のリズムだけを味わいたくなる。「國の守は狩を好んだ」という「紫苑物語」冒頭の韻を踏んだフレーズは、まるで漢詩のようだと思った。

僕が漢文調の文体として初めて読んで驚いたのは、中島敦の「山月記」だった。高校の国語の教科書に載っていた。たぶん多くの人が読んでいる短編だと思う。現在では「青空文庫」にストックされているし、簡単にスマホにダウンロードできる。先日、僕は焼鳥屋のカウンターでひとりで呑みながらスマホで「山月記」を読み直し、改めて感服してしまった。凄い短編だなあ、と思う。

李徴は「科挙」に合格するような秀才だったが、自尊心が強く官吏の世界の人間関係にうんざりし(たぶん自分よりバカとしか思えない上司に従うのがイヤになったのだろう。僕も覚えがある)、詩人として生きようと職を棄て妻子を連れて帰郷するが、詩人としては成功せず、貧窮のため再び下級官吏の職に就く。しかし、屈辱的な日々のため出張時に遂に訳の分からないことを叫びながら湖水に向かい、行方知れずになる。

翌年、高級官吏となった李徴の旧友が供を連れて旅をしているとき、ある丘で人喰い虎に襲われるが、突如、虎は身をひるがえして叢に隠れ、その叢から「危なかった」と人の声がする。それを李徴の声だと知った旧友が問いかけると、李徴は自分が虎になったいきさつを語り出す。最後に、自作の詩を読み上げ、それから妻子の世話を友に託す。僕には、その後に続く文章が強く印象に残った。

----先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己が人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる様な男だから、こんな獸に身を堕すのだ。

李徴のこの言葉は、中島敦自身の言葉なのだろうか。中島敦は文学を志し、一度は新人賞に応募し佳作に入るが、佳作に留まったことを恥じて後悔する。その後は作品を書きながら、横浜の女子校の教師として働き妻子を養う。やがて持病の喘息がひどくなり、転地療養のつもりで日本領だったパラオの仕事に転職。昭和十七年初頭、赴任前に知人に預けていた作品が初めて「文学界」に掲載される。日本軍が太平洋やアジア各地で連戦連勝だった頃である。

喘息は好転せず、その年、中島敦は帰国し、初めて自分の作品が文芸誌に掲載されたことを知る。「山月記」は好評で、いくつかの出版社から依頼もくる。彼は初めて専業作家となるが、それも数ヶ月のことだった。昭和十七年十二月四日、真珠湾攻撃からほぼ一年後、三十三歳でこの世を去る。死後に発表された「李稜」は彼の最高傑作と言われ僕も読んで感心したけれど、やはり「山月記」の読後の寂寥感を僕は愛す。物悲しさや曰く言い難い淋しさが呼び覚まされる独特の小説だ。

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