2016年8月18日 (木)

■映画で振り返る昭和の日本  未亡人の時代・後編



お盆時期は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■女性映画の巨匠----------------------------------未亡人の時代・後編

もう一本の未亡人が主人公の「鰯雲」は昭和33年9月の公開ですから、かなり現代に近い感覚があります。「おかあさん」から6年、映画はカラーのワイド版ですし、かなり時間がたった気がします。冒頭、新聞記者の「ご主人は戦争で?」という質問に、「ええ」と答える淡島千景に戦争の傷跡を感じますが、それ以降は戦争の影をほとんど感じません。世の中は未来に向かっているという雰囲気だったのでしょうか。

その年、すでに東京タワーが建設中ですし、野球では西鉄ライオンズの黄金時代でした。昭和31年から33年にかけて、日本シリーズでジャイアンツ相手に三連覇。三年連続で日本一になっています。監督は高松中学出身の三原侑です。クリーンアップは、豊田、中西、大下です。ちなみに私の小学生の同級生に中西太の甥がいました。昭和33年10月の日本シリーズで、西鉄は前半の三連敗から四連勝を果たして三連覇を達成しました。「神様、仏様、稲尾様」と言われたときです。

本田スーパーカブが発売され、フラフープが流行します。日清食品から「即席チキンラーメン」が発売になったのも、昭和33年8月25日ですから「鰯雲」公開の一週間前ですね。一食35円でした。翌年には年間6000万食が生産されました。冷蔵庫も一般家庭に入り始めたのか、この年、冷蔵庫用脱臭剤「キムコ」が発売になっています。

また、缶ビールもこの年の9月15日に初めて発売になりました。スチール缶使用の「缶入りアサヒ」です。プルトップ式の缶が出るのは昭和40年ですから、まだ七年後です。したがって、穴開けの道具が必要でしたが、アウトドアでもビールが飲めるようになり、画期的な出来事でした。350ミリリットル入り75円でした。

そういったことからわかるように、人々の生活は落ち着き経済的にも余裕が出てきます。そんな時代を背景にして作られた「鰯雲」は、東京近郊である神奈川県厚木を舞台にしています。今の厚木市は東京や横浜などに通勤する人たちのベッドタウンです。当時は農地ばかりでしたが、駅前に商店街があり、映画館や新聞社の支局があるような町でした。そうした風景も「鰯雲」に出てきます。

原作は和田傳の農民文学です。それを橋本忍が脚色しました。ヒロインは戦争で夫を亡くし、長男をひとりで育てている農婦です。口うるさい姑がいます。彼女の実家、本家は兄の中村雁治郎が継いでいます。戦前は地主でしたが、農地改革で田畑を減らされ、経済的には厳しい状態です。本家には跡継ぎの小林桂樹、次男で商業学校を出て銀行勤めの太刀川寛、その下に男が二人と女が二人という大家族です。

雁治郎は若い頃は家長の父親に逆らえず、最初の妻は働きが悪いと追い出され、二度めの妻も同じように追い出されてしまい、今は三度めの妻・清川虹子です。戦前、農家の嫁は貴重な労働力だったので、俵も担げない、苗も植えられない嫁は実家に返されることもあったらしい。

そんな父親の時代と、昭和33年当時の長男の結婚観の違いが描かれます。長男の小林桂樹が司葉子と見合いをし、結婚することになるのですが、みっともないことはできないと金もないのに見栄を張ろうとする雁治郎に対して、若い二人は友人たちを招いて会費制で披露宴を開こうとします。

ヒロインの淡島千景は女学校を出たしっかりした女性で、本家の兄の古い考え方と若い甥たちの考え方の両方が理解できます。自らトラクターを使い農地を梳き、経済的には彼女がひとりで支えているのですが、姑に仕えるつらさも知っています。そんな彼女は新聞記者・木村功が農家の実態を取材にきて知り合い、不倫関係になります。

淡島千景の女学校時代の友人で厚木駅前に料亭を出した新珠三千代は、店も繁盛しているしパトロンもいるので優雅に暮らしています。パトロンが設立した自動車教習所に通って免許を取り、まだ数少ない自家用車を乗り回しています。当時、女性ドライバーはまだ少ないのですが、数年後には「一姫、二トラ、三ダンプ」と言われる交通戦争の時代になります。

「鰯雲」は旧世代と新世代、戦前の制度やモラルと戦後の改革や新しい考え方が対立し、世代間の違いが描かれます。遺産相続、舅・姑の老人問題、結婚観、男女関係などです。分家のひとり娘・水野久美が大学へいくという話を聞いた本家の雁治郎が、分家の親に怒鳴り込むシーンがあります。「大学出の娘のところに婿にくる男はいない。おまえたちは百姓をやめるつもりか」というわけです。結局、本家のクレームで娘は大学をあきらめて洋裁学校に通います。

そんな風に今から見れば、とんでもなく封建的かもしれませんが、映画の中では民主主義や個人主義といった戦後の価値観にとまどう旧世代が存在します。今の目で見ればまだまだ戦前のモラル、「個人」ではなく「家」という考え方が強い時代だったと思えますが、現代のモラルが戦後十数年のこの時代あたりから定着してきたのがわかります。

明らかに、戦後は終わっています。映画の中に田圃の真ん中を走る小田急のロマンスカーが映ります。時代は豊かになり始めていたのです。雁治郎にしても、今は農地が削られて経済的に厳しいかもしれませんが、もうしばらくすれば農地を宅地に売って、土地成金になれるはずです。

さて、この映画の冒頭は新聞記者の木村功が淡島千景に農家の現状を取材するシーンです。成瀬映画らしく、具体的な数字が羅列されます。時代的なものがよくわかりますから、その部分を拾ってみました。

木村「養鶏の方は?」
淡島「卵は安くなりましたから、今はもう50羽ほどしか飼っていないんです。月3000円にもなるかしら」
木村「卵も我々買うものの身になると安くないんだが。米が16万8千円、麦と畑もので15万円、養鶏が年に3万から4万として、一年間の収入は35万8千円になりますかね」
淡島「そんなに?」
木村「大ざっぱな計算ですがね。米が七反、畑が五反、合計一町二反の農地を持っていると、だいたい3万程度の月給取りということになりますね。くいっぱくれはないし、こりゃ、割といいですね。」
淡島「そんな計算は無茶だわ。収入だけで、それに伴う支出がないんだもの」

淡島千景は経費・コストが計上されていないこと、農家の労働がいかに大変かを語ります。また、農家の嫁にきてがいないこと、自分の娘だったら農家などには嫁がせないといったことを言います。すでに、そういう時代になっていたのですね。

この当時の大学卒の初任給は、13,000円前後だとのことです。はがきは5円、かけそばが25円、映画の封切りが150円でした。「鰯雲」の中で本家の次男と分家の娘が映画館に入りますが、かかっていたのはスタンリー・キューブリック監督の「現金に体を張れ」でした。この年、映画館の観客動員数は、11億2700万人でした。ほぼ、毎月、全人口が映画を一本見ていたわけです。結局、その年がピークになり、翌年から次第に観客動員数は下がり続けます。

2016年8月11日 (木)

■映画で振り返る昭和の日本----未亡人の時代/前編


お盆時期は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■女性映画の巨匠----------------------------------未亡人の時代・前編

未亡人という言葉は、「夫が死んだときに一緒に死ぬべきだったのに、未だに死んでいない人」という意味なので、現在、あまり使われなくなっている言葉ですが、今回は昭和の古い時代を検証するために「未亡人の時代」と題して、女性映画の巨匠と言われる成瀬巳喜男監督作品を中心にお話したいと思います。

戦後の成瀬作品は、未亡人を主人公や脇役に設定することが多くなりました。女性映画の成瀬と言われますが、内容は「自立する女性」「女ひとりで生きていく女性」を多く描いた監督です。本日、メインで取り上げようと思っている「おかあさん」では田中絹代は途中から未亡人になりますが、妹の中北千枝子は大陸からの引き揚げ者で戦争未亡人です。

時代的には戦争未亡人が多くいた時代ですから、そうした人物が頻繁に登場します。昭和28年(1953年)公開の「妻」という作品にも、主人公の上原謙が心惹かれる女性は戦争未亡人です。「川端康成の時代」の時に取り上げた「山の音」でも、主人公の息子の上原謙の愛人は戦争未亡人でした。ふたりの戦争未亡人が助け合うように一緒に住んでいます。ひとりは洋裁で身を立て、ひとりは子供たちに勉強を教えて生計を立てています。

そんな風に成瀬監督は、ひとりで生きていく女性を描きました。時代のせいか、未亡人の設定が多い。昭和26年の「銀座化粧」の田中絹代はバーのママとして生きている。成瀬作品で最も多く主演した高峰秀子は、昭和35年「女が階段を上がる時」では銀座のバーのママ、昭和37年「女の座」では雑貨屋の長男の未亡人、昭和38年「女の歴史」では美容院を経営する戦争未亡人、昭和39年「乱れる」は食料品店の長男の未亡人、というように夫を亡くした女性を演じます。成瀬映画で、一本だけ主演した淡島千景も司葉子も夫と死別した女性でした。

今回は、昭和27年6月12日公開の「おかあさん」と昭和33年、1958年9月2日に公開になった淡島千景主演の「鰯雲」の二本を見ながら、昭和の日本を振り返りたいと思います。

「おかあさん」が公開された昭和27年6月は、日本が講和条約を結んで、独立したばかりのころでした。その年の4月28日に占領が終わったわけです。6年8ヶ月におよぶ占領時代でした。その日までGHQの許可なく国旗を揚げることはできなかったのですが、その日は堂々と各省庁に国旗が掲揚されました。恩赦もあり、全国の受刑者3600人が出所しました。ただし、今に続く問題ですが、多くの基地が残され、日米地位協定に様々な条件がついたこともあり、多くの国民は「形式だけの独立」と失望したと言います。

一方、沖縄は「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治下」におかれたままです。「国際社会に復帰した祖国日本の慶事を、われわれ琉球人民は無量の感慨をこめて祝福したい。それにしても取り残された嘆息が深く、もがいたところでどうにもならぬあきらめが、われわれの胸を締め付ける」と、当時の「沖縄タイムズ」は書きました。今に続く沖縄の思いですね。

その三日後、昭和27年5月1日は「血のメーデー」事件が起こります。吉田内閣は、皇居前広場を中央メーデーの会場にすることを禁止しますが、メーデー主催者の総評は不許可は憲法違反として地裁に取り消しを求める訴訟を起こします。東京地裁は4月28日、総評の主張を認める判決を下しました。国は控訴し、やむを得ず明治神宮外苑広場を使ってメーデーが開催されますが、デモの後、学生などが警官隊をおしきって皇居前広場に入ります。それを阻止しようと警官隊は催涙弾や拳銃を発射し、デモ隊に死者2名、負傷者約1500名が出る惨事になりました。

この頃、ラジオドラマ「リンゴ園の少女」が美空ひばり主演で放送され、その挿入歌「リンゴ追分」がヒットしました。5月にレコードが発売され、またたく間に70万枚が売れたと言います。その頃になると、レコードを買う余裕も一般的に出てきたのでしょう。戦争から七年、朝鮮戦争で景気はよくなっていました。ただ、まだまだ戦争の傷跡は残っています。「おかあさん」公開の同じ日に、戦後、インドネシア独立戦争に参加した残留元日本兵・軍属20人がスマトラから帰国しています。

「おかあさん」という映画は、森永製菓が全国に「おかあさんをテーマにした綴り方」を募集し、そこで選ばれた作品を元に水木洋子が脚本を書いたものです。ですから、長女役の香川京子の作文を読み上げるようなナレーションで、一家が紹介されるシーンから映画は始まります。力持ちのお父さん、働き者のお母さん、胸を患っているお兄さん、おしゃれ好きでかわいい妹、そして、美容師になるために勉強中の叔母から預かっている従兄弟が紹介されます。一家は戦前はクリーニング屋を営んでいましたが、戦災で焼け出され、今は店を再開するためにがんばっていることが説明されます。

おかあさんは露天で駄菓子を売っている。となりの露天では沢村貞子がマッチなどの実用品を並べている。長女の香川京子は屋台で今川焼きを売っている。同級生たちが洋裁学校に通う途中に声をかけていく。この当時、洋裁はブームでした。洋裁学校は戦後、ものすごい勢いで増えました。その香川京子の屋台の床几では近くの平井ベーカリーの息子、岡田英次が本を読んでいる。今川焼きの旗がアイスキャンデーに変わり、季節が変わったことを知らせます。家では父親がクリーニング店の開店の準備をしている。そこへ療養所から長男が逃げたと電報がくる。母親が恋しくて逃げ帰ったのです。

その後、一家は不幸が続きます。長男が死に、クリーニング店を開いたものの無理がたたって父親も死んでしまいます。ただ、あっさりと描かれるので、そういうこともある。人生ってそういうものだという感じがします。いいこともあれば、不幸なこともある。田中絹代の母親は、そんな風に淡々と物事を受け入れ、子供たちを育てるために懸命に働きます。やさしい母親像が胸にしみます。

街の風景が写ります。成瀬監督はちんどん屋が好きなのか、多くの作品に登場させていますが、ここでも商店街を練り歩くちんどん屋が出てきます。子供たちがついて歩きます。しかし、この時代ですから、道は舗装されていません。土埃がたちます。雨が降れば、そこここに水たまりができます。

また、夏祭りの様子も子細に描かれます。演芸大会があり、香川京子と妹も出場します。香川京子が「花嫁人形」を歌い、妹が踊ります。ふたりとも浴衣姿です。岡田英次も参加します。彼は翻訳小説を読んだり、流行の英語を使ったりのハイカラ好みですから、歌うのは「オー・ソレ・ミオ」です。それを聴いていた両親は恥ずかしそうに会場を去ります。この大会の特等はサンヨーラジオです。ラジオが高価だった時代です。

成瀬映画は、当時の庶民の生活を知るには絶好の資料になります。物価もわかるし、こまかな生活の知恵もあります。田中絹代が子供を夏みかんを買いにやりますが、「果物屋じゃなく八百屋で買うんだよ。値段が違うからね」と指示を与えたりします。

クリーニング屋を再開し、弟弟子の加東大介がやってきます。「ハバロフスクで捕虜をやっていたので、私たちは捕虜のおじさんと呼ぶことにしました」と香川京子のナレーション。ついこの間まで戦争があったのだと身に迫って感じます。戦争はいろんなところに影を落とします。父親の通夜に手伝いにきていた沢村貞子、中北千枝子、岡田英次の母親の三人が、戦死した身内の話をします。

中北の夫は戦死、沢村貞子の夫は勤め先の銀行の宿直室で空襲で焼け死に、パン屋の長男は戦死の通知だけしかこなかった。この後、パン屋の母親が未だに長男が生きているんじゃないかと希望をもっているエピソードが描かれます。みんな、戦争を生き延びて、何とか暮らしている。そういう時代でした。

懐かしいのは、夕方になると豆腐屋のピープーという音が聞こえてきたり、夜遅くなったことを示すのに夜泣きそばが出てくるのも、この時代の映画です。この時代の観客は、夜泣きそばのチャルメラが聞こえてくるだけで、夜の何時頃かがわかったのです。夜食用ですから、夕食からけっこう時間たっています。9時とか10時くらいでしょうか。

父親が死んだ後、加東大介の手伝いを得て、田中絹代はクリーニング店を続けますが、女手ひとつで苦労します。次女は望まれて叔父の養子になります。また、預かっていた甥も、妹の中北千枝子が美容師の試験に受かり、近々、引き取ることになりそうです。加東大介も自分の店を開くために去っていき、新しい小僧と香川京子と三人になることを暗示して映画は終わります。

この映画は私が生まれてすぐの頃の公開ですが、見ているととても懐かしい。街の風景や祭りなどの様子はもちろん、母親が乗り物に乗り付けないので、酔い止めのために貼るつもりでいた梅干しを子供が食べてしまう話など、そうだったよなあ、という感じです。貧しい暮らしを描いていますが、笑えるエピソードやギャグが散りばめられていて、見終わってとてもさわやかな感じがします。

2016年8月 4日 (木)

■映画と夜と音楽と…738 猫・猫・猫


【男と女/ヒマラヤ杉に降る雪/仁義/ロング・グッドバイ/レンタネコ】

●猫好きになったらジャコメッティの言葉が好きになった

男「彫刻家のジャコメッティは知ってる?」
女「知ってるわ」
男「彼はこう言った。『火事になったら一枚のレンブラントより猫を救う』」
女「そして『後で放してやる』----素晴らしいわ」
男「そうだね。芸術より人生だ」

ドーヴィルの海岸を散歩しながら、男と女はそんな会話をする。男はレーサー、女はスクリプター。ドーヴィルの寄宿制の学校にそれぞれ子供を預けており、ある日、面会にきて列車の時刻が過ぎてしまったとき、男は教師に頼まれて女をパリまで車に乗せる。女はスタントマンだった夫を事故で亡くし、男はレース中に瀕死の重傷を負ったとき、精神的にダメージを受けた妻が病院の屋上から飛び降りた。そんな中年の男と女の恋愛を、観客のイメージを喚起する映像で見せたのが「男と女」(1966年)だった。

映像の素晴らしさは、今見ても色褪せていない。クロード・ルルーシュは監督としてより、キャメラマンとしてのセンスが抜群だ。この映画が作り出した三百六十度回転ショットはその後、多くの模倣を生んだが、海岸を犬をつれて散歩する老人のショット、夕陽に映える海岸をその犬が狂ったように跳ねまわるショットなど、映像詩のようなイメージショットが忘れられない。そこに、フランシス・レイ作曲のあまりにも有名になったスキャットがかぶさる。それだけで、スクリーンに埋没する。

しかし、久しぶりに「男と女」を見た僕が括目したのは、冒頭に書いた男と女の会話だった。今年、一月に自宅に帰ったときに我が家にいた仔猫を見て以来、僕はどんどん猫好きになり、今まで何度も見た映画の中の猫の登場シーンを新鮮に振り返ったりするのだ。猫に関心がなかったときには、完全に見過ごしていたシーンである。ということは、登場人物の感情も見過ごしていたということだ。猫を飼っている登場人物(特に孤独に暮らす初老の人物)を、僕はより深く理解できるようになったのである。

たとえば、「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)に登場する日系人に対する差別をまったく持たない老弁護士(マックス・フォン・シドー)は、かわいい猫を飼っているシーンがあるのだが、その猫に対する慈愛に充ちた表情は、この人物の心根の優しさを表していたのだなと気付いたし、僕はその猫が「アメリカン・ショートヘア」という種類だということまでわかるようになった。現在、最も人気のある猫の種類だという。今の僕は、どんな猫でもかわいいと思うが、確かにアメリカン・ショートヘアはかわいい。

また、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「仁義」(1970年)の初老の警部(ブールヴィル)は、一人暮らしで数匹の猫を飼っている。孤独な部屋へ帰った彼が最初にやることは、猫たちに餌を準備することであり、器に水を注ぎ足すことである。パリのナイトクラブのオーナー(フランソワ・ペリエ)の息子を卑劣な罠を仕掛けて逮捕し、息子の釈放を餌にオーナーに密告と裏切りを強要する冷酷非情な警察官である彼をなぜ猫好きにしたのか、改めてメルヴィル監督の意図を分析したくなった。

●朝の散歩をしているうちにいろんな猫が気になり始めた

大昔、僕が猫好きではなかった頃に読んでも面白かった長田弘さんの「猫に未来はない」と「サラダの日々」を読み返していたら、「男と女」のジャッコメッティの言葉が「猫に未来はない」の巻頭に、「火事になったら、一枚のレンブラントより一ぴきのねこを救おう。そしてその後で、そのねこを放してやろう」と引用されていた。アルベルト・ジャコメッティは、よほどの猫好きなのだろう。気持ちはわかる。

僕は仔猫の世話をするうちに、猫と暮らすことがどういう意味を持つのかを知った。一日中、自分の部屋のドアを開けておく。夜、寝ているときにモソモソと仔猫が入ってきて一巡して出ていくこともある。僕の部屋の押入で寝ていることもある。僕の部屋の本棚を登り、天井すれすれのところをゆっくり歩いていることもあった。部屋の中だけで飼っているので、網戸の前に猫座りしてじっと外を眺めている姿を見ると、何だか胸が切なくなるし、不憫に思えてくる。

猫についての体験と知識が増えるにつれ、僕は野良猫(最近は地域猫というのかな)にも感情移入し始めた。早朝の散歩をしていると、今まで気付かなかったのに、いろんな猫を見かけるようになった。そのたびに、僕は「ちゃんと食べているのだろうか」と心配になる。立ち止まり、屈み込み、猫に話しかけている。ほとんどの猫は、じっと止まって警戒しながら、僕を見つめる。僕が立ち上がったり、一歩踏み出すとサッと逃げる。そんな姿を見ると「ひどい目に遭って、警戒心が強くなったのだろうなあ」と、また不憫さが募る。

早朝の散歩コースはいろいろ変えていて、ある日、利根川沿いを歩いていたら、集団の猫に出会った。十数匹はいたと思う。よく見ると、奥の方に生まれたばかりの仔猫たちがいた。しかし、一匹の白い親猫が僕の顔を見つめて、威嚇するように口を開け牙をむいた。本当に怖くなるほどだった。子供たちを守るために、あんなに威嚇したのだろう。僕が立ち止まって仔猫たちの様子を見ようとしたので、「あっちへいけ」と必死で立ち向かってきたのだ。その母親の心情に、また泣きそうになった。ただし、翌日から散歩のコースを変更した。

新しい散歩コースには途中に親水公園があり、そこで三匹の野良猫を見つけた。茶色の猫は警戒心が強くないらしく、僕が二メートルくらいまで近づいても逃げなかった。白と黒のまだら猫は相当に警戒していて、僕の姿を遠くに見ただけで姿を消した。キジトラの猫は中間で、五メートルほどまで寄っても大丈夫だった。彼らを見て僕が心配したのは、やはり「ちゃんと食べているのだろうか」ということだった。翌日、僕は猫の餌をビニール袋に詰めて持参した。

最初は警戒していた三匹も一週間が過ぎる頃には、僕の顔を見るとニャアニャアと鳴きながら一メートルあたりまで寄ってくるようになった。僕は餌を置き、少し離れる。猫たちは警戒しながら寄ってきて、餌を食べる。そんなことを一ヶ月も続けていた。その間に、餌をやっているのが僕だけではないことを知った。ひとりは初老の男性だった。また、ふたりの中年女性は、毎日のように餌を持ってきているらしい。僕のように雨が降ったら散歩に出ないというのではなく、きちんと毎朝、餌を与えているようだった。

七月に入ると、また、四国の実家の裏で暮らすことにしていたから、僕が餌をやり始めてしまった公園の三匹の猫のことが心配だった。僕は六月だけ毎朝、餌を持ってきた気まぐれな猫爺にすぎないのだけど、とりあえず猫たちは猫好きの人々のおかげで何とかなるのだろうと安心した。しかし、早朝、人があまりいないときには、野良猫をかなり見かけたから、僕が心配しなくても彼らはたくましく生き抜いているに違いない。すべての猫の面倒を見るわけにはいかないのだ。にわか猫好きなどいなくても、きっと彼らは立派に生きていくだろう(と思いたい)。

●一人暮らしの家で一緒に暮らす猫が三カ月だけほしい

猫ブームだという。テレビでも猫が出てくる番組が増えたし、コマーシャルにやたらに猫が出てくる気がする。娘が昨秋、棄てられた仔猫を拾ってきて、我が家もにわかに猫好きになったのだが、かみさんに「うちもブームに乗り遅れていないな」と言うと、あっさり「そうね」と返された。ブームと、どこかでシンクロしてしまったらしい。ホームセンターのペットコーナーに頻繁に寄るし、かみさんと娘はいくつかの動物病院にいき、「やっぱり、あそこの先生がいいわね」などと言っている。

エリオット・グールドがフィリップ・マーロウを演じた「ロング・グッドバイ」(1973年)の冒頭、飼い猫のために深夜にマーロウがキャットフードを買いにいくエピソードがある。しかし、いつものキャットフードがなく、仕方なく別のキャットフードを買って帰り、いつものキャットフードの缶に入れ替えて猫をだまそうとする。しかし、猫は食べない。そんなエピソードを僕は何も考えずに見ていたし、「そんなあ、どんなキャットフードでも同じでしょ」などと思っていた。

しかし、猫を飼ってみてわかったのは、そのエピソードが本当だということだった。餌が変わると、猫が見向きもしないことがある。猫は、よくわかっているのだ。また、かみさんによると、最初の頃、猫のトイレ用の砂を安いものに変えたところ、そのトイレを使わなくなったので、あわてて元の高級な砂に戻したということである。環境や食べ物が変わることを嫌がる人もいる。猫も同じなのだ。そんなことがわかってくると、さらに猫に対する愛着が湧いてくる。

そんな風だったから、家族と別れて生活することには特に感慨もなかったくせに、僕は猫と別れて暮らすのが辛くなった。かみさんに「四国に連れていこうかな」と冗談めかして言ってみたが、飼い主は娘であり、あんたには権利はないと却下された。最後に、「実家のタマが待ってるでしょ」と付け足した。確かに、実家には両親が物置で飼っている猫と、兄夫婦が二階で飼っている猫がいる。実家の猫は、今では僕にもすっかりなついているし、二階の猫も人なつっこい。しかし、僕は一人暮らしの家で一緒に暮らす猫がほしいのだ。

そう言えば、「レンタネコ」(2011年)という、猫好きになった今から思えば素敵な映画があった。市川実日子が演じるヒロインはたくさんの猫を飼い、リヤカーを引いて街を歩き猫をレンタルしている。単身赴任している中年男(光石研)も猫を借りる客のひとりだった。あんな商売をしている人、いないだろうか。とぼけた味わいが忘れられない「かもめ食堂」(2005年)や「めがね」(2007年)を撮った荻上直子監督作品だった。荻上作品のテイストが僕は好きなのだが、「レンタネコ」以降、五年も新作を撮っていないみたいだ。

ちなみに、私立探偵フィリップ・マーロウは原作では猫は飼っていなかった。原作者のレイモンド・チャンドラーは猫好きで、愛猫タキを抱いている写真が残っている。それを知っていたシナリオ・ライターが「ロング・グッドバイ」で、マーロウに猫を飼わせたのだろう。ちなみに、このところチャンドラーの長編の新訳を出し続けている村上春樹さんも猫好きだ。奥さんの陽子さんも猫好きで、彼女が撮影した猫の写真がたくさん村上さんのエッセイ集には掲載されている。

2016年7月28日 (木)

■映画と夜と音楽と…737 手紙を待ちわびる日々があった


【けんかえれじい】

●大橋巨泉の死によって歳を重ねた浅野順子の姿が映された

テレビ界の功労者である大橋巨泉が亡くなって、連日、ワイドショーなどでは大きく報道されていた。そのたびに寿々子夫人のコメントが紹介されたり、昔の夫妻の写真が映されたりするが、寿々子夫人についてはあまり紹介がない。そう思っていたら週末のニュース番組で、昔、浅野順子というアイドルで、ニッポン放送で巨泉の番組アシスタントをしていて知り合い、十四歳の年の差を越えて結婚し、四十七年間を添い遂げたと紹介されていた。そう、半世紀以上も昔のことだが、浅野順子は少女モデルをしていて学習誌の表紙に登場したりしていた。その後、歌手になり、数少ないが映画にも出演した。しかし、その一本は映画ファンに絶大な人気を誇る作品である。

あるワイドショーでは、大橋巨泉と親しかったというので高橋英樹親娘が登場してコメントしていた。よくゴルフを一緒にしていたという。高橋英樹と大橋巨泉というつながりは意外だったが、「これは夫人の方のつながりで親しくなったのではないか」と思った。高橋英樹と浅野順子は、名作「けんかえれじい」(1966年)の不滅の恋人たちである。南部キロク(高橋英樹)とミチコ(浅野順子)。忘れられない名前だ。キロクが軍事教練を担当する軍人(佐野浅夫)と喧嘩し、さらにキロクのバックのスッポン(川津祐介)も軍人と喧嘩してしまった結果、岡山から逃げ出さなければならなくなり、ミチコに秘かに別れを告げるシーンの切なさが甦る。

キロクはスッポンに、自分が下宿するミチコの家が見える場所で車を止めてもらう。その家に向かって、キロクはまず「ミー」と大声をあげ、空中に放たれたその声を両手で蝶でも包み込むように捕まえ、自分の口に入れて飲み込む。次に「チー」と叫んで同じようにする。さらに、「コー」と大声をあげ、その声を捉えてゆっくりと口に入れ、飲み込んで自分の腹におさまるまでをなぞるようにゆっくりと胸から腹まで手をおろしていく。少年の感傷だと言ってしまえばそれまでだが、十代の少年(高橋英樹はとても旧制中学生には見えないけれど)の気持ちをよく表していた。

親戚を頼って会津に逃れたキロクは、毎日、ミチコに手紙を書き、その返事を待っている。しかし、ミチコから返事はこない。キロクは手紙を書き、その最後に「お気が向きましたら、ここに接吻をしてください」とキスマークを要求し、丸く囲んだスペースを書いた便箋を送る。次は手紙を待っているキロクのシーンだ。おばさんが「キロクちゃん、待ってるもの、もうきてるよ」と言うと、キロクは手紙を受け取って大慌てで自室に戻り、期待に充ちて封を切る。しかし、その返信には「気が向きません」としか書かれていない。その手紙に重なるミチコのそっけない声が悲しい。

「けんかえれじい」は鈴木隆という人が書いた小説で、ぶ厚い上下二巻の本だった。僕は、映画を見た後、古本屋で見つけて買った。その後、NHKが夕方の時間帯で少年向け連続ドラマとして放映したことがある。一度だけ見てみたが、原作には忠実だったものの映画版とあまりに違うので見るのはやめた。原作はかなり長く、鈴木清順監督は日活を馘首された後、「続・けんかえれじい」の脚本も用意していた。それは映画ファンの間で評判になり映画化を望む声も多かったが、ついに実現しなかった。日活を首になった後、十数年後の「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)が評判になって鈴木清順という名が一般的にも知られるようになった頃には、すでに監督自身に撮る気がなくなっていた。

●「けんかえれじい」を初めて見たのは十八のときだった

僕は「清順作品で最も好きな映画は?」と訊かれると、「けんかえれじい」を挙げる。大学時代の友人のMは「東京流れ者」(1966年)に思い入れていたし、「関東無宿」(1963年)や「野獣の青春」(1963年)が好きだという友人もいた。「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」(1981年)になると、好きというより「凄い」としか言えなくなる。やはり、僕は「鈴木清順監督の映画」として初めて見た「けんかえれじい」が忘れられないのだ。笑えるし、心躍るし、悲しみも味わえる。清順作品らしいシュールレアレスティックなシーンも散りばめられている。モノクローム作品だからこそ、絢爛豪華な色彩を駆使する清順美学は抑えられ、ストイックな美意識に充ちている。

たとえば、キロクとミチコが夜の桜並木を歩いて帰るシーンだ。教会のミサ(ふたりはクリスチャンである)を終えたふたりは、黒バックの中の満開の桜並木を歩く。キロクは何とかミチコと手をつなごうとするが、うまくいかない。やっとミチコの手を取ると勢いよく歩き出し、「どうしたの?」と問うミチコに「この前、この辺で首吊りがあったそうや」と答える。「首吊りがこわくちゃ、キロクちゃんの男がすたるでしょ」とミチコが笑う。そこへ、キロクが所属する硬派グループ・OSMS団の団長タクアンが登場する。タクアンは「メッチェンと手なぞつなぎおって」と、硬派としてあるまじき行為をしていたとキロクをなじる。

キロクはあわててミチコの手をふりほどき、一段高い土手の上に立つタクアンの前に立つ。そのふたりを映すから、ミチコは首から上しか映っていない。そこで、三人の会話があり、キロクは思わず「わてのオネェです」と言い訳をする。タクアンは「そら悪かった。お近づきの印に、その辺でうどんでも」と仁義を切るが、ミチコは「けっこうです。南部さん、帰りましょう。うどんならうちで食べましょう」と無視する。それを聞いたタクアンは「南部さん? オネェと違うんけぇ」とキロクを責め、「明日、学校でけりをつけよう」と言いおき、持っていた木刀で桜の枝を一閃して去っていく。タクアンが去った後、キロクとミチコの上にハラハラと桜の花びらが散ってくる。

「けんかえれじい」は、喧嘩という手段でしか十代の鬱積を晴らせない旧制中学生を主人公にした青春映画だ。時代背景は昭和初期だが、いつの時代にも変わらない普遍性を描いているから、決して古びることはない。初めて見たとき僕は十八歳で、喧嘩修行に励むキロクの姿に共感したものだった。喧嘩の先生であるスッポンに竹藪の中で喧嘩の奥義を教えられたり、様々な仕掛けをした喧嘩修行のシーンは笑いながらも、もの悲しい切なさを感じたものだった。だから、キロクが恋い慕うミチコも僕の心に深く刻み込まれた。十八歳の浅野順子は、輝くように美しかった。

浅野順子がヒロインを演じた映画は、唯一「けんかえれじい」だけである。子役から出ていたから、映画版「赤胴鈴之助」(1958年)シリーズにも出ていたようだが、僕の記憶には残っていない。市川雷蔵主演の「薄桜記」(1959年)にも出演しているらしいから、今度、確認しておこう。しかし、「けんかえれじい」が公開され、ジワジワと口コミで評判になり、カルトムービーとして映画ファンの間で伝説になった頃、二十一歳で彼女は大橋巨泉と結婚し、完全に芸能界をリタイアしてしまった。それから、四十七年後、大橋巨泉の死をきっかけに、僕はテレビで六十代になった彼女を見た。確かに歳は重ねていたが、「けんかえれじい」のミチコさんがそこにはいた。

●「遠距離恋愛」なんて言葉も存在していなかった

僕が初めて「けんかえれじい」を見た場所は、銀座並木座だった。十八歳。浪人をしていた。浪人することが決まったとき、僕は親に無理を言って東京の予備校にいくことにした。どうしても、故郷を出たかったのだ。しかし、上京した僕は食事代を節約して名画座に通う日々を始めた。池袋文芸坐、文芸地下、日勝文化、新宿テアトル、飯田橋佳作座、ギンレイホール、銀座並木座、渋谷全線座などなどである。予備校にはほとんど顔を出さず、たまに高校時代の友人の下宿にいき泊まったりしていた。しかし、僕は故郷に恋人を残していた。その頃、そんな言葉はなかったが、「遠距離恋愛」だったのだ。

彼女とは高校二年のときに知り合い、三年で同じクラスになった。席を並べたこともある。成績は僕よりよかったはずなのに大学には進まず、地元の洋裁学校に入った。洋服のデザインや縫い物、手芸などが好きだったのだ。そんな彼女と別れて、僕は上京した。それから頻繁に手紙のやりとりが始まった。初めての一人暮らしで僕がホームシックになり、やたらに手紙を書いたからだったと思う。誰とも口をきかない日々が続き、僕は毎日のように手紙を書いた。

僕が住んでいた滝野川の「すみれ荘」は、大家さんの家の裏にある小さな木造の二階建てアパートで、一階は六畳と共同の炊事場と洗濯場、共同トイレがふたつあった。一階の六畳間にはタクシー運転手の一家四人が住んでいた。二階は四畳半が三部屋あり、中年男と老婆と僕が借りていた。二階にも小さな共同炊事場があった。一階の一家の奥さんは、最初、僕が予備校生だと知ると親切にしてくれたのだが、僕に女の名前で頻繁に手紙が届き出すと、不良を見る目つきになった。僕宛に届く手紙は三日に一度はあったし、時には二通一緒に届くこともあった。後に出した手紙が先に届くこともあった。奥さんは「予備校生のくせに何だ」という視線を浴びせるようになっていた。

それでも、僕は手紙を書いた。ときには、キロクのようにキスマークをねだる(恥!)ような手紙を書いたこともある。書いたことを後悔し、すぐに「前の手紙は読まずに破ってほしい」と取り消しの手紙を出したこともある。そんなことをしていたから、僕は初めて見た「けんかえれじい」に感情移入したのだろう。ミチコさんの家を眺めながら「ミー・チー・コー」と叫んだキロクの気持ちも、手紙を待ちわびる気持ちも僕には手に取るようにわかったのだ。そして、あの映画史に残る障子越しのラブシーンを見たとき、叶わぬ恋の切なさが十八歳の僕を貫いた。着物姿の浅野順子は、大人びていた。

振り返れば、四十六年も前のことである。あの頃の自分が、まるで別の人間のように思える。僕は四十六年をかけて、十八歳の頃の自分自身を消滅させてきたのかもしれない。今の僕を僕は否定はしないが、あの頃の僕を懐かしむ気分は強い。僕は小心で、気弱で、臆病で、対人恐怖症で、不安と劣等感と何かに対する恨みのようなものを抱えて生きていた。自分によいところなど何もないと思っていた。自信はなく、育ちや出身や肉体的なコンプレックスばかりが強かった。讃岐弁が出るのが怖くて、ろくに口も利けなかった。そんな思いを、夜になると手紙に書き綴っていたのかもしれない。もらった方は、ずいぶん迷惑だっただろう。それでも、返事はきた。

あれから四十六年たって、僕はその相手とまだ結婚している。巨泉夫妻の結婚四十七年までには六年ほど足りないが、高校時代からカウントすれば、すでに五十年近いつきあいになる。昨年からは、いろいろな理由から別居と同居を交互に繰り返す暮らしになったが、四国と東京に遠く離れていても昔のように手紙を書くことはない。用事がない限り、メールも電話もない。同居していてもほとんど会話はないから、特に気にはならない。たまに電話しても、用件が終わると話すことがない。それでも、何となく相手のことがわかるようになっている。長い年月を共に過ごしたからだろうか。彼女は、「けんかえれじい」のヒロインと同じ名だった。

2016年7月21日 (木)

■映画と夜と音楽と…736 乗り物は常に暴走する


【ブリット/突破口/007 ゴールデンアイ/ダーティーハリー5】

●香川県の人たちは運転マナーが悪いと自覚している?

昨年、高松で七カ月ほど暮らしたとき、最初に驚いたのは運転マナーのひどさだった。実家の車を借りてひとり暮らしに必要なものを買い出しに出たときに真っ青になり、しばらく怖くて運転できなかった。その後、週に一度ほど買い物や図書館にいくので運転したのだが、毎回、車内で罵りの言葉を吐くことになった。「ウィンカーってのはな、曲がりますって合図なんだ。曲がった後で出しても意味ないだろ」とか、「車線変更するならウィンカー出せ」とか、車内で大声を出していた。

僕は信号手前二十メートルの位置で黄信号だったらブレーキを踏むが、高松ではアクセルをグッと踏み込むのが常識らしい。一度、「死ぬ気か」と思ったのは六車線の赤信号に隣を走っていた車が突っ込んだときだった。僕は当然、ブレーキを踏んで止まった。信号は黄色から赤に変わったのに、隣の車線の車は交差点に突っ込んだのである。片側三車線だから六車線を横切らねばならない。それでもアクセルを踏む車があるのだから、後は推して知るべしだ。ここに書いても信じてもらえないようなことも僕は経験した。高級車に乗った老婦人が運転していた。

そんなことで、高松でずっと暮らしてきた友人たちに会うたび、「こちらの運転マナーはひどすぎるよ。交通量が少ないから、それが前提になって自分勝手でわがままな運転になっているのだろうな」とぼやいていた。二車線の右車線を走っていると、よく車をせき止めている右折車がいる。対抗二車線を横切って右側にある店舗などに入るためである。だから、右車線を走っているときは、いきなり右折する車に注意していなければ追突してしまう。もちろん、そこには信号などない。幹線道路のど真ん中なのである。しばらく待てば対抗二車線を横切れるほどの交通量なのだ。

僕の実家の近くに、片側二車線なので四車線の広い道路がある。そこもしばらく待っていれば車がいなくなる瞬間があり、いきなり横断する歩行者がいる。ヤマダデンキなど両側に量販店が並ぶ道である。道路の真ん中で右折しようとする車が次々と現れ、その間に道路のど真ん中に人が立っていたりする。半年ほど運転してみて(週に一回、近距離しか運転しないのだが)少しは馴れたが、よく事故に巻き込まれなかったものだと思う。交通量の多い都会の常識は、まったく通じない。そんなことを実感していたら、先日、JAFの調査結果が四国新聞にも出ていた。

それによると、「運転マナーが悪い」と思っている人が最も多い県が香川県だったという。アンケートに答えた人は、「ウィンカーを出さずに右折・左折する車が多い」と憤慨しているらしい。僕に言わせれば、ウィンカーを出している人も出すタイミングが遅いと思う。曲がる三秒前には出せと教習所で教えられて以来、僕は三秒前にはウィンカーを出す。カッチ、カッチ、カッチだ。周囲の車に自分の動きを認知させるには、三秒は必要だと思う。高松では自分は早めに出していると思っている人でも、せいぜい一秒前ではないか。僕の少ない経験の中ではあるけれど----。

●映画の中では様々な乗り物が暴走を繰り返してきた

現実の交通事情は別にして、映画はその始まりからスリルを求めて、車などの乗り物が暴走するシーンを映してきた。サイレント時代に危険なアクションシーンで人気を集めたのは、バスター・キートンだった。体を張ったアクションが売り物だったから、現在のスタントマンのようなことを平気でやっている。チャップリンも自身で危険なシーンをこなしているが、バスター・キートンには負ける。危険なシーンは今の映画でも基本的には同じだ。まず高い所。キートンは落ちたら間違いなく死ぬような場所で、観客をハラハラドキドキさせた。次は乗り物の暴走だ。機関車、列車、馬車、そして車である。

以来、アクションを見せる映画ではカーチェイスは必然になった。昔、僕は石原裕次郎の初期作品「錆びたナイフ」(1958年)を見ていて、「日本でもカーチェイスをきちんと撮っていたのだなあ」と思って感心したことがあるが、あれは編集技術がうまかったのかもしれない。カーチェイスの凄さが話題になった映画としては、高校生のときに見た「ブリット」(1968年)が最初だった。自身もカーレースに出場していたスティーブ・マックィーンの主演で、カーチェイス・シーンを自分で運転しているということだった。

確か、刑事ブリットが乗っていたのはマスタング(当時はムスタングと言っていた)だったと思う。その車で、二人組の殺し屋が乗った車を追跡する。坂道の多いサンフランシスコの街を縦横無尽に、無茶苦茶に走りまわる。坂道が多いから、車の中から撮ったショットなど見ていて酔いそうになる。実際、気分が悪くなった観客もいた。そんな評判がさらに評判を呼び、カーチェイスを見るために「ブリット」を見る人もいて大ヒットした。マックィーンは、その数年後、「栄光のル・マン」(1971年)というレース映画にも主演した。

カーチェイスは、その後、さらにエスカレートする一方だったが、車と車ではなく、車と複葉機のカーチェイスとか、戦車のカーチェイスなどの変則アイデアも登場した。車と複葉機の追っかけは、犯罪映画の傑作「突破口」(1973年)で見られる。組織の殺し屋(ジョー・ドン・ベイカー)は、複葉機で農薬散布などを請け負う主人公(ウォルター・マッソー)が組織の金を奪った犯人だと知り、複葉機で飛び立とうとするところを巨大な(走るダブルベッドと呼ばれた)アメ車のオープンカーで追いかけ、離陸を阻止する。

戦車チェイスを見せたのは、ピアース・ブロスナンがジェームズ・ボンドを演じた「007 ゴールデンアイ」(1995年)だった。ソ連が崩壊した後なので、ロシアでのロケが可能になり、ペテルスブルクの街中を戦車が爆走した。ちなみに、007シリーズのスタントチームは世界一と言われているから、シリーズのアクロバティックなアクションシーンはどれを見ても目を見張る。二十数年前、二台の車がダンスを踊るように走るCMがあったけれど、あれは実写で007シリーズのスタントチームの仕事だった。「コマーシャル・フォト」という月刊誌にいたときに僕自身が取材したから間違いない。

アイデアだなあと思ったのは、「ダーティハリー5」(1988年)のカーチェイスだった。シリーズの五作めで、人を殺すことがどんどんエスカレートしてしまい映画自体の出来はイマイチなのだけれど、ハリーの乗った車を爆薬を積んだラジコンカーが追っかけるシーンには感心したものだった。最初はラジコンカーだけが映るから本物かと思うが、ラジコンカーだとわかって「あれっ」と思う。しかし、ラジコンカーはしつこくてハリーの車の下に入ろうとする。下に入れば、爆薬を爆破させるつもりなのだ。主人公が追われる逆カーチェイスだが、ハラハラさせられた。

その後も様々な工夫があり、CGの発達によるエスカレーションがあった。最近ではトム・クルーズの「スパイ大作戦」シリーズや「ワイルドスピード」シリーズを見ると、派手なカーチェイスがあり、衝突した車が巨大な炎を上げて爆発する。実写部分と特殊効果部分が完全に融合している。しかし、「また、CGでしょ」という思いがして、何となく白けてしまう。キートンの時代と同じように、数百メートルのビルの外壁を登るシーンがあり、その高さに目がくらむけれど、それもやっぱり「実写じゃないよね」と囁く声が聞こえ、映画にのめり込めない。「ブリット」を手に汗握り、身を乗り出すように見ていた十代の自分が懐かしい。

●四十二歳で免許を取り常磐高速を走りまわっていた頃

僕が免許を取ったのは、四十二歳のときだった。大学卒業の春休みに取ろうと思っていたら、二月から出社しろと言われて取り損なったままだったのだ。ここで取らないと一生取らないだろうと決意して、僕は教習所に通った。周りは高校生から大学生くらいの若い人が多かった。最初に教習車に乗ったとき、教官がいきなり「はい、走らせて」と言う。「どうやるんでしょうか」と聞き返したら、「初めてなのか」と驚かれた。免許を失効した再教習者だと思われたのだ。「あんたも大変だね」と教官に同情されたこともある。リストラに遭い、再就職のために免許を取りにきた中年男と思われたのだった。

仮免許の試験のときは、教習車に同乗する他の受験者は若い女性たちだった。縁石に二度乗り上げてしまい、僕だけが落ちた。彼女たちは「おじさーん、次、がんばってね」と去っていった。次は、通った。面目を施したのは、教習所内で二度ほど実施される学科試験の結果だった。あるとき、教官が「このクラスで二度ともトップになった人がいます」と言い、僕を立たせたのだ。娘や息子のようなクラスメイトから尊敬のまなざしを受け、面映ゆかったが、「運転技術は彼らの方がずっとうまいんだろうな」と思っていた。僕は目撃しなかったけれど、教習所に車で通ってくる強者もいたらしい。

そんな思いをして取った免許だから、それまでの二十年間分を取り戻すように僕は走った。酒を飲まずに帰宅し、毎夜、一時間ほど走り、週末は五時間ほど走りまわった。週に十数時間は車の中だった。月に百リットル以上のガソリンを消費した。一年間で一万キロ以上を走破した。常磐高速の入り口まで十分足らずだったから、やたらに常磐高速を走った。桜土浦あたりで降りて、筑波山のハイウェイを登る。山道を走るのが楽しかった。ただ、目的もなく走った。常磐高速のカーブで三車線を使った高速運転を一度だけやってみたことがある。

そんなある日、いつものように常磐高速を走っているとき、ピシッと音がして後部座席のウィンドが砕けた。狙撃されたのか、と本気で思った。といっても、止まるわけにはいかない。そのまま走り続け、高速道路を降りて止まった。銃弾が打ち込まれたようになっていたが、おそらく飛び石だろう。しかし、車内にそれらしい石は落ちていない。跳ねただけなのだろうか。僕は首をひねりながら帰宅し、かみさんに報告すると「高いのよ。修理代」と言われた。翌日、かみさんがディーラーに持っていくという。そのとき、僕は「運転の神様に、たしなめられたのかな」と思った。そう、安全運転が一番なのである。

それにしても、七月上旬からまた高松での生活を始めたので、地方都市での生活では車がないと大変困るものだとは実感している。近所の家は、みんな二、三台の車を駐めている。一人一台の世界なのだ。軽自動車がよく売れているわけだ。自転車代わりなのである。車を持たない僕は、手首を痛めて自転車にも乗れないから、移動は徒歩である。街中に出るには、バス停まで十分、電車の駅まで十五分ほど歩く。一度、街の中心地まで歩いてみたら、一時間ほどかかった。そんな距離を歩く人は、こちらではほとんどいない。「よく歩くね」と驚かれたりする。しかし、歩いている分には、運転マナーを罵る必要もないので、心穏やかでいられる。

2016年7月14日 (木)

■映画と夜と音楽と…735 女が男を守るとき


【グロリア/レオン/マーキュリー・ライジング/依頼人】

●銃の名手である美しい女が活躍する冒険小説

「リボルバー・リリー」を半分ほど読み進んだ。書店で韻を踏んだタイトルに惹かれて手にし、今のところ期待以上の面白さだ。亡くなった日本冒険小説協会会長の内藤陳さんは、毎年、国内と海外の冒険小説の「読まずに死ねるかベストテン」を発表していたが、会長が生きていたら今年は「リボルバー・リリー」を選んだに違いない。僕は作者の長浦京さんを知らなかったので、著者紹介を読んで一作めの「赤刃」から読んでみた。そちらもユニークなアクション時代小説で、小説現代長編新人賞を受賞している。五年後の受賞第一作が「リボルバー・リリー」なのだった。五年かけただけのことはある。

プロローグは、関東大震災の日の夜から始まる。すでに日が変わっている。女がふたり、今まさに双子を産み落とそうとしている娘を見守っている。ひとりは百合、ひとりは百合に忠実に付き従う奈加である。そこへ、無頼漢たちがやってくる。どさくさまぎれの火事場泥棒であり、娘たちをかどわかして売ろうというやくざたちである。男たちは美しい百合に目を付ける。しかし、百合はやくざたちのドスをかいくぐり、男たちの腕や脚をリボルバーで撃ち抜く。どれも急所を外している。果たして、百合(リリーですね)の正体は? 「お産の面倒みてるより、男五人を倒す方が楽です」とうそぶく奈加の存在も謎である。

カバーの袖には「小曽根百合。実業家・水野寛蔵の下、幣原期間で訓練を受け、十六歳で実地任務に投入。東アジアを中心に三年間で五十七人の殺害に関与し、各国から『最も排除すべき日本人』と呼ばれた美しき諜報員」とある。そんなヒロインが、家族全員を殺されたうえ日本陸軍から追われる十四歳の少年を守ることになる。少年が父親から託された書類には、陸軍が必死になって隠しておきたい秘密があるらしい。陸軍の包囲網に迫られ、百合と少年は熊谷から東京に入るまででも幾度も危難に遭遇する。しかし、陸軍という強大な権力を相手にして、どうやって逃げおおせるのか、結末が心配になっている。

こういう物語だから読んでいると、当然、ジョン・カサヴェテス監督が妻のジーナ・ローランズを主演にして撮った「グロリア」(1980年)を思い出した。マフィアの会計係だった男が裏切り、まだ十歳くらいの息子に裏帳簿を託す。妻が息子を隣室のグロリアに預けた直後、一家はマフィアの殺し屋たちに皆殺しにされる。それを見届けて、グロリアは少年を連れて逃亡する。グロリアは、昔、マフィアのボスの愛人だったらしい。度胸もあるし、リボルバーの扱いにもなれている。追ってきたマフィアたちに「子供を渡せ」と言われると、相手より先にリボルバーを取り出し、本気だと示すためにいきなり撃つ。初めて見たとき、僕は感心したものだ。

「リボルバー・リリー」の百合は、実業家とはいえ全国のやくざの元締めのような黒幕の男に買われて鍛えられた諜報員であり、その男の愛人でもあった。その男が死んで跡を継いだ息子は、百合に好意を持ちながらも、組織の利益のために陸軍と手を結んで百合と少年を追ってくる。百合たちは、軍人たちとやくざたちの両方から追われることになるのだ。そんな設定を見ると、作者の長浦さんは「グロリア」を意識したのかなと思えた。冒険小説の王道のようなストーリー・パターンであるが、そこにオリジナルの着想を生かし、新しい物語を創り出している。

●事件の目撃者になった女性や子供を守る物語は多い

少年あるいは少女が巨大な悪に狙われることになり、それを何らかのプロである大人が守るという物語の嚆矢になった作品は何だろうと考えたが、頭の片隅で何かが浮かびそうになりつつも「これだ」というものがはっきりしない。昔からよくあったのは、事件の目撃者になった弱者(女性や子供)を守る物語だ。これは、探偵スペンサー・シリーズにもあるし、ポーラ・ゴズリングの「逃げるアヒル」(シルヴェスター・スタローンが「コブラ」として映画化)などは典型だろう。守る相手が美しい女性だと、ボディガード役の主人公と恋に落ちるのがパターンである。

主人公の刑事と守られる女性の恋をメインストーリーにした作品には、リドリー・スコット監督の「誰かに見られてる」(1987年)がある。ジョージ・ガーシュインの名曲「Someone to watch over me」をタイトルにした切ないラブストーリーである。刑事役のトム・ベレンジャーもいいし、殺人を目撃し犯人に狙われるニューヨークのセレブ役のミミ・ロジャースも美しいし、何より主人公の妻を演じた女優がいい。ケヴィン・コスナーが主演した「ボディガード」(1992年)もそうだったけど、守られる人は守ってくれる人に恋をしやすいのだろう。

「グロリア」のふたりは白人の中年女グロリアと十歳ほどのヒスパニックの少年で、親子以上に歳は離れているのにまるで恋人同士であるかのように見える瞬間がある。「グロリア」の関係を逆にした「レオン」(1994年)になると、凄腕の殺し屋レオン(ジャン・レノ)と美少女マチルダ(ナタリー・ポートマン)の関係は間違いなく恋人である。シシリー出身なのだろうか、レオンはあまり英語を話せない設定(ジャン・レノ自身がまだ英語を得意ではなかった)で、マチルダが英語を教えるシーンでは彼女の方が年上にさえ見える。

執拗な麻薬取締班のリーダー(ゲイリー・オールドマン)に追いつめられ、重装備の警察隊に包囲されたとき、レオンはキッチンの壁を壊し、通気溝からマチルダを脱出させようとする。「あなたも一緒に」と言うマチルダに「俺は大きすぎて通れない」とレオンは答える。切なそうな泣き顔を見せたマチルダは、「アイ・ラブ・ユー・レオン」と口にする。それは、もう二度と会えないかもしれない恋人への告白に聞こえる。いや、レオンは間違いなく死ぬとマチルダは思ったのだ。だから、思わず、その言葉を口走る。そして、レオンも「アイ・ラブ・ユー・ツー・マチルダ」と答える。

「グロリア」は中年女と少年、「レオン」は中年男と少女、どちらの設定も相手を異性にし、親子ほどの歳の差にしてあるから、守り守られる関係の中に生まれてくる微妙な精神的なものに切なさが漂うのだ。「誰かに見られてる」のように大人の男女にしてしまうと、完全な恋愛関係にしかならない。トム・ベレンジャーはミミ・ロジャースとベッドを共にし、そのことで妻に後ろめたさを持ってしまう。その後の展開は、不倫に悩む男そのものである。もちろん、それはそれで名手リドリー・スコットによって切ないラブストーリーになったのだが、相手が少年(少女)であることの精神的抑制を越えた愛の純粋さは生まれなかった。

●依頼料一ドルで少年を守る女性弁護士もいた

守る相手が子供でも同性の場合は、次第に友情が育まれるという展開が多い。守ってくれる相手に、次第に心を開いていくのだ。ブルース・ウィリスがFBI捜査官で、国家的な陰謀を知ってしまった少年を守って逃亡することになる「マーキュリー・ライジング」(1988年)は、その典型だった。少年はコンピュータに関しては天才で、国家機関の秘密コードを解読してしまうほどだが、精神的な障害を持っていて自閉症的な反応しかしない。その少年を守る羽目になり、様々な危機を孤独に闘い切り抜けるブルース・ウィリスは、次第に少年と心を通わせる。物語が結末を迎える頃には、ふたりには堅い絆ができあがっている。

「レオン」と同じ年に制作された「依頼人」(1994年)も、中年女と少年の物語だった。原作は、弁護士でベストセラー作家のジョン・グリシャムの小説だ。当然、法廷シーンが中心になるし、主人公は弁護士である。「依頼人」が異色なのは、主人公が中年の女性弁護士であること、依頼人が十一歳の少年であることだった。少年は一ドルで弁護士を雇うのだ。このアイデアを思いついたとき、グリシャムは「今度の本もベストセラーだぜ」と思ったことだろう。アメリカは昔から陪審員制度だし、何かというと訴訟になるらしいので、法廷ものの小説や映画は多い。「アラバマ物語」(1962年)だって法廷ものだ。

「依頼人」で女性弁護士を演じたのは、脂がのりきっていた頃のスーザン・サランドンだった。スーザン・サランドンは若い頃から映画には出ているが、中年になってから主演作が増え、どんどん存在感を増してきた。代表作は「テルマ&ルイーズ」(1991年)だろうが、その数年後の「依頼人」でも印象に残る演技だった。つらい過去を持つ女性弁護士。相手は上昇志向の強い検事(トミー・リー・ジョーンズ)で、彼は殺人事件の鍵を握る少年に法をたてにして証言を迫る。しかし、少年は証言すると自身を含めて家族の命がマフィアに狙われることを怖れ、弁護士に救いを求める。スーザン・サランドンとトミー・リー・ジョーンスの演技のぶつかり合いが楽しめる作品だった。

この映画でもスーザン・サランドンは依頼人の少年に愛情を抱き始めるのだが、そこには男女の愛はない。母親が子供に対する愛情に近いものだった。そういえば、「グロリア」も大人の男女関係を連想させるようなシーンもあるけれど、ラストは老女に変装して現れたグロリアが飛びついてきた少年を抱き上げるストップモーションだった。それは、祖母と孫にしか見えない。最後にグロリアに老女の扮装をさせたのは、ジョン・カサヴェテス監督の周到な計算だった気がする。どんな映画も、画面の中のすべてに監督の計算が行き届いているのだろうけれど----

ところで、「リボルバー・リリー」を読み進むと、ラスト近くになってクリント・イーストウッドが警察内の組織的な犯罪の証人である娼婦のソンドラ・ロックを護送する「ガントレット」(1977年)のような展開になってきた。奈加は百合たちを助けるために、死を覚悟して陽動作戦に出る。奈加を数えきれないほどのやくざたちが包囲する。元馬賊の頭目だった奈加だが、助かるとは思えない。一方、霞が関のある場所にいかねばならない百合と少年は、屋形船に乗って東京湾を横切り、帝都の水路を遡る。その屋形船は、鉄板でおおわれている。陸軍は帝都に戒厳令並の封鎖を行い、百合と少年を待ち受けている。とても、切り抜けられそうにはない。やがて、日比谷公園は戦場と化す。一体、ふたりはどうなるのか。

誰か映画にしないか。最初から最後までアクションに充ちているし、追うもの・追われるもののサスペンスにワクワクする。さらに、手を変え品を変えた攻防のアイデアが散りばめられている。映像化には最適な小説だ。派手なアクション映画になるのは間違いない。しかし、主演を張れるのは誰だろう? 個人的には竹内結子(女刑事役で西島秀俊を顎でつかっているし)なんか、よさそうなのだけれど。昔だったら(四十年も前のことだけど)、志保美悦子(ちょっと明朗すぎて陰がないけれど)の役なんだけどなあ。

2016年7月 7日 (木)

■映画と夜と音楽と…734 吉祥寺にあった歌舞伎劇場


【私が棄てた女/宮本武蔵/五番町夕霧楼/月山/喜劇 女は度胸】

●吉祥寺駅から東南の方向へ歩くと劇場があった

もう四十年も昔のことになるが、仕事で吉祥寺によく通っていたことがある。当時、僕は阿佐ヶ谷に住んでいたので、吉祥寺の少し外れに住んでいるイラストレーターの自宅に原稿を受け取りにいっていたのだ。朝、直行したり、夜に受け取りにいってそのまま帰宅することが多かった。吉祥寺の駅から歩くと十分くらいかかった気がする。イラストレーターの自宅は、前進座を越すとすぐだった。

初めて前進座の劇場正面を見たときはちょっと驚いたが、前進座についてはいくぶんかの知識があったので、「ああ、ここがそうなのか」と納得したものだった。それにしても、吉祥寺の駅から十分近く歩く。ここまで、観客がくるとしたら、熱心な人たちなのだろうなと思った。当時、木下順二作「子午線の祀り」の平知盛役が印象的だった嵐圭史が好きだったので、「この劇場に出ているのだなあ」と思いながら眺めていた。当時の僕の前進座についての知識は半端で、「劇団員全員が共産党に入党している」とか、「劇場の裏に宿舎や耕作地があり、劇団員全員が共同生活をしている」といったたぐいの真偽がはっきりしないものだった。

劇団は戦前に設立され、設立メンバーは河原崎長十郎、中村翫右衛門、嵐芳三郎、河原崎国太郎などだった。僕が吉祥寺に通っている頃はすでに次世代が中心になっていて、河原崎長一郎、河原崎次郎、河原崎健三の三兄弟や前述の嵐圭史が活躍していた。また、中村翫右衛門の息子の梅之助が「黒門町の伝七」としてテレビで有名になっていた。大河ドラマ「花神」の主演もこの頃だったろうか。中村翫右衛門、中村梅之助、中村梅雀と見てくると血筋は争えないと思うけれど、だんだん優しい顔になっているのがよくわかる。

ある日、僕がイラストレーターの自宅へ向かってテクテク歩いているとき、向こうから小さな子供と一緒に河原崎長一郎さんが歩いてきた。親子で駅に向かって散歩している様子だった。「ああ、『私が棄てた女』(1969年)だ」と僕は思った。あるいは、その数年前に見てすごく好きになった東陽一監督の「やさしいにっぽん人」(1971年)を思い出していた。それから、僕は「やっぱり、劇場裏で共同生活してるんだ」と納得し、「だとしたら伊藤栄子さんもいるはずだな」と期待した。

僕が中学生の頃だから、五十年ほど前、NHKが夕方に青少年向けの連続ドラマを放映していた。手塚治虫原作の「不思議な少年」は、危機に陥ると時間が止められる能力を持つ少年の話だった。その同じ時間帯だと思うけれど、看護師をめざす四人の若い女性たちの連続ドラマがあった。その中で、しっかり者の看護学校の生徒を伊藤栄子が演じていた。彼女はクールであるが故に誤解され、ひとり孤独に生きている。しかし、その孤独に負けることがない役だった。その四人の中で、僕が好きになったのが彼女だった。

つまり、河原崎長一郎さんと子供を見かけたとき、僕の頭の中には「河原崎長一郎の奥さんは伊藤栄子である。つまり、あの子は彼女が生んだに違いない。ということは、あの劇場裏に伊藤栄子さんも住んでいるのだ。とすると、彼女に出会える可能性も否定はできない」という思いが駆けめぐっていたのである。しかし、その後、何度も同じ道を通ったのに、とうとう伊藤栄子さんには会えなかった。

先日、BS放送を見ていたら、シニア向けサプリメントか健康食品のコマーシャルに伊藤栄子さんが出てきて、印象がほとんど変わっていないのに驚くと同時に懐かしさが湧きあがってきた。彼女の本名は河原崎榮子。夫のことを「長さん」と呼んで、仲睦まじく暮らしていた。しかし、十数年前、三十年連れ添った夫は亡くなった。今の僕と同い年だったから、役者としてはまだまだ活躍できたはずだった。

●中村錦之助主演「宮本武蔵」で武蔵の批判者を演じ続けた

前進座の人たちは劇団を維持するために稼ぐ必要があったのか、映画にはよく出演している。特に河原崎長一郎は、早くから東映作品に数多く出演しており、一時期は中村梅之助と共に前進座の顔のような存在だった。最近は、梅之助の息子の中村梅雀がテレビの二時間ドラマで主演したりして、よく知られる顔になっている。河原崎長一郎の顔を僕が憶えたのは、小学生のときから見始めた内田吐夢監督の(というより、中村錦之助主演の)「宮本武蔵」シリーズだった。

「宮本武蔵」の二作目「般若坂の決斗」(1962年)から五作めの「巌流島の決斗」(1965年)まで、河原崎長一郎は同じ役で出演している。京都の吉岡道場の門弟役である。彼は武蔵の強さに刮目し、その強さの背景にあるものを知ろうとする。ある場合には、吉岡側を客観的に見、あるいは批判的な言辞を吐くので「裏切り者」と言われたりするが、武道の神髄を追求する姿勢が貫かれたキャラクターで、大変に重要な役だった。

しかし、彼は「一乗寺の決斗」(1964年)で、武蔵が吉岡方の幼い名目人を一刀両断したのを目にして、「武蔵、許せん」と斬りかかり、逆に両の目を斬られてしまうのだ。「巌流島の決闘」は一乗寺下り松の死闘をくぐり抜け寺で仏像を彫る武蔵から始まるが、幼子を殺すような男はおいておけぬと寺を放逐される。武蔵が一乗寺下り松にさしかかると、松の近くに小屋ができており、目の見えぬ河原崎長一郎が幼子の供養のために経を唱えている。武蔵の批判者として、彼の存在があるのだ。

同時期、河原崎長一郎は「五番町夕霧楼」(1963年)で主人公を演じている。ヒロインの娼婦役は、佐久間良子だった。水上勉の「五番町夕霧楼」と三島由紀夫の「金閣寺」は同じ金閣寺の放火事件を題材にしているので、主人公の金閣寺の若き修行僧は吃音で、どちらも内面に籠っているような印象を受ける。ただし、三島の「金閣寺」(映画化作品は市川雷蔵主演「炎上」)は修行僧の内面を克明に描き出すが、「五番町夕霧楼」は夕子という娼婦の視点で修行僧を描き出すので、印象的にはまったく違う。

後に松坂慶子と奥田瑛二主演で山根成之監督によってリメイクされた「五番町夕霧楼」(1980年)では、奥田瑛二の吃音症の修行僧が河原崎長一郎が演じたときによく似ているので驚いたものだった。演技に凝る奥田瑛二のことだから、先行作品を研究したのかもしれない。美しさの絶頂期にあった佐久間良子や松坂慶子がヒロインを演じたのでわかるように、これは女優を見せる映画だった。人気女優が肌襦袢の胸も露わに娼婦を演じるのだから、男性客が押し寄せたのである。

●前進座というと河原崎三兄弟を思い出してしまう

河原崎次郎の映画出演は長男の長一郎に比べると少ないが、僕の印象では、あるとき突然に主役で登場したという感じだった。新藤兼人監督の「讃歌」(1972年)である。谷崎潤一郎の「春琴抄」を原作とする作品で、河原崎次郎は佐助を演じた。山口百恵のお琴と三浦友和の佐助で「春琴抄」(1976年)がリメイクされたのは、四年後のことだった。河原崎次郎版はアートシアター系の劇場で公開されただけだったから、山口百恵・三浦友和版ほどは評判にならなかった。

六十を過ぎて芥川賞を受賞したことで話題になった森敦の小説「月山」(1979年)が映画化されたとき、主人公を演じたのは河原崎次郎だった。監督は、倒産した大映で活躍していた村野鐵太郎である。大映時代は「ごろつき犬」(1965年)や「早射ち犬」(1967年)など田宮二郎の「犬」シリーズが代表作だったが、フリーになって文芸作品を撮りたくなったのかもしれない。自らの制作で藤本義一の直木賞作品「鬼の詩」(1975年)や「月山」「遠野物語」(1982年)などを監督した。

次男の次郎と違って、三男の河原崎健三の出演作は多い。清水宏監督の「しいのみ学園」(1955年)を僕が見たのは最近のことだが、小児マヒで足が不自由になった少年が登場した途端、僕は「あっ、河原崎健三だ」と驚いた。このとき、彼は十二歳。子役から出ていたとは知らなかった。ただし、歌舞伎の前進座出身だから幼い頃から舞台を踏んでいたのだろう。僕が初めて河原崎健三を映画で見たのは、「喜劇 女は度胸」(1969年)だった。主に山田洋次監督作品の脚本を書いていた森崎東の監督デビュー作だ。

「喜劇 女は度胸」は、倍賞美津子にとっても初主演作品だった。僕は、公開の翌年、銀座並木座でフーテンの寅の第一作「男はつらいよ」(1969年)と一緒に見た。河原崎健三はまじめで気の弱い役で、男っぽく元気のよい倍賞美津子に惚れてしまう。河原崎健三の一家はめちゃくちゃで喧嘩ばかりしている。トラック運転手で気の荒い兄(渥美清)と父親(花沢徳衛だったと思う)が派手な喧嘩をしている横で、いつも黙って手仕事をしている母親(清川虹子)が、最後にとんでもない秘密を暴露したのが記憶に残っている。この映画の渥美清は女好きで暴力的で、ちょっと怖い。

その後、僕は河原崎健三を大島渚監督の「儀式」(1971年)、神代辰巳監督の「青春の蹉跌」(1974年)、澤田幸広監督の「あばよダチ公」(1974年)などで見た。さらに、忘れられないのは、テレビシリーズ「新 必殺仕置人」(1977年)の第一話に登場した河原崎健三だ。仕置人の元締(元阪神の藤村富美男)のボディガード「死神」役の河原崎健三は、竹で作った目を隠すマスクをして地中から登場した。もちろん、夜のシーンで逆光だった。

一九八〇年、「影の軍団 服部半蔵」公開直前に工藤栄一監督にインタビューできることになった僕は、一番最初にその「死神」のシーンについて「あれ、すごかったですよね」と言ってしまった。監督は苦笑いをして、「ケレンですよ。ケレン」と答えた。「影の軍団 服部半蔵」も、そんなケレンに充ちたシーンがてんこ盛りだった。火術を使う敵役の忍者を演じた緒形拳が、肌を覆う真っ黒な石膏で固めたような鎧を、カランコロンと音を立てて崩していく(もちろん逆光です)シーンは、今も鮮やかに浮かんでくる。僕は映画館で立ち上がり、拍手したくなったものだ。

ところで、前進座に関連して佐藤忠男さんが「戦後映画の展開」(岩波書店)の中で、「どっこい生きてる」(1951年)について書いていた。まだ占領中のレッドパージの時代、今井正監督は都会の最下層の労働者たちを描く「どっこい生きてる」を前進座と組んで制作することになった。今井監督は、この映画を戦後イタリアのネオ・リアリズム映画、特にヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」(1948年)を見て構想したという。しかし、独立プロとしての制作だから、資金集めから始めなければならなかった。佐藤さんは、こう記述している。

----劇団前進座が公演活動をしながら観客から一株五〇円で資金を募集して得た四百万円近い金が資金になった。前進座はかつて山中貞雄監督の時代劇などに出演して多くのすぐれた映画に貢献しているが、戦後は急激に左翼化し、一九四九年には劇団員全員が集団で共産党に入党して世間を驚かせていた。

やはり、並の歌舞伎劇団ではなかったのである。

2016年6月30日 (木)

■映画と夜と音楽と…733 五十年後のセクシー女優


【刑事/家族の灯り/熊座の淡き星影】

●三船敏郎が「御意」の代わりに「グラッチェ」と言った

ピエトロ・ジェルミ監督主演のイタリア映画「刑事」(1959年)を見ていたら、やたらに「グラッチェ」と言うのに今更のように気付いた。買い物していて「グラッチェ」、道を歩いているときも「グラッチェ」である。「はい」と答えるべきシチュエーションだろうと思うときも「グラッチェ」だった。それは、どんなときでも使える便利な言葉のようだ。日本語では「ありがとう」の意味だと思っていたが、どちらかと言えば「どうも」に近いのではないか。

村上春樹さんのエッセイ集「遠い太鼓」だと記憶しているが、ローマで暮らしている頃、テレビで黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」(1958年)をイタリア語の吹き替えで放映していたという。護衛している姫に向かって三船敏郎が「御意」と答えたとき、イタリア語では「グラッチェ」と吹き替えていたという話を読んで笑った。「御意」を現代の日本語に置き換えると、「おおせのままに(おっしゃるとおりに)」という感じだろうか。イタリア語の「グラッチェ」とは、少しニュアンスが違うと思っていた。

しかし、「刑事」での「グラッチェ」の多彩な使用法を聞いていたら、「グラッチェ」がやはり一番適しているとイタリアの翻訳者は考えたのだろうと思った。もっとも、「御意」を英語で「サンキュー・サー」と訳したら、違和感を感じるだろう。そう思ったのだが、「イエス・サー、サンキュー・サー」と答える新兵の声が突然に頭の中に浮かんできて、それでもいいのかなという気がしてきた。

新兵たちが「イエス・サー、サンキュー・サー」と直立不動で声をそろえて答えるのは、スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」(1987年)だった。ベトナム戦争たけなわの頃、徴兵された青年たちは教官に徹底的に鍛えられる。いや、しごかれるといった方が適切か。彼らは人間扱いされない。教官の口から出るのは、卑語と罵倒だけだ。それでも、彼らは「イエス・サー、サンキュー・サー」と答え続ける。反論は許されない。パワー・ハラスメントそのものである。

最近、上司による罵倒などのパワー・ハラスメントで自殺したとして訴えられたという記事をよく見かける。セクシャル・ハラスメントが「セクハラ」として定着した現在、僕がいた職場でも女性に対する物言いには気を使うようになっていたが、それは出版社だったからかもしれない。未だに前近代的な職場は存在するらしい。僕がいた出版社はパワー・ハラスメントにも気をつけていたのか、部下を怒鳴ったりする人は(僕を除いて)いなかった。仕事の指示、ミスの指摘など、上司がやけに部下に気遣いしていた気もする。

アメリカ人は上官に罵倒されても「イエス・サー、サンキュー・サー」と言うのなら、上司に怒鳴られても同じように答えるのだろうか。イタリア人は「グラッチェ」なのだろうか。日本人は、やはり「どうも----」かもしれない。「どうも」は実に曖昧だが、便利な言葉だ。お葬式にいって「このたびはどうも----」と語尾を曖昧にするとあいさつになる。「ニッポン無責任時代」(1962年)の植木等のように「いやー、どうもどうも」と言えば笑ってごまかせるし、お祝いにも使える。何かやってもらったときに「どうも」と言えばお礼の言葉にもなる。

●五十五年のキャリアを持つイタリアのセクシー女優

久しぶりに「刑事」を見たのは、クラウディア・カルディナーレの若い頃を確認したかったからだ。「刑事」のラストシーンで、クラウディア・カルディナーレは日本の観客の心をつかんだ。そのシーンに流れる「アモーレ、アモーレ、アモレ・ミーオ」とアリダ・ケッリ(作曲したカルロ・ルスティケリの娘)が唄う主題歌「死ぬほど愛して」も大ヒットした。「アモーレ」は、最近、サッカーの人気選手が「恋人のことです」と口にして以来、話題になっているイタリア語のようだが、「刑事」の場合は「愛して、愛して、私を愛して」と訳すべきだろう。

「刑事」が大ヒットして、クラウディア・カルディナーレはマリリン・モンローが「MM」と呼ばれるのと同じように、「CC」と呼ばれるようになった。当時、「BB」と呼ばれたフランスの若手人気女優ブリジット・バルドーもいたのだが、こちらはフランス語読みで「べべ」と発音し、「赤ちゃん」の意味である。どちらにしろ、マリリン・モンロー、ブリジット・バルドーと並んで、クラウディア・カルディナーレもセクシー女優として認知された証が「CC」の名称だったのだ。

ところで、クラウディア・カルディナーレの若い頃を確認したくなったのは、ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ監督の「家族の灯り」(2012年)を見たからだった。オリヴェイラ監督は、この映画の制作時は一〇三歳である。現役監督の最長老記録を塗り替え続けていた。「家族の灯り」はオリヴェイラ監督らしい画面作りで、ワンシーンワンシーンがまるで西洋絵画のようだった。冒頭、港町の街灯に火を点けてまわる男の登場から、不思議な世界に引き込まれる。

ガス灯に火が点けられていくのを、部屋の窓から見ている女性がいる。そこから物語が始まるのだが、最初はその家の人間関係がよくわからない。オリヴェイラ作品は説明的ではないので、初めて見る人は戸惑うかもしれない。ただし、深みのある映像とゆったりと物語られるリズムに身を任せれば、オリヴェイラ監督の世界になじめるだろう。「家族の灯り」はポルトガルの作家が書いた戯曲が原作になっているらしい。

その老主人公の妻を演じていたのが、当時、七十四歳になるクラウディア・カルディナーレだった。二十歳くらいから映画に出ているから、その頃でキャリアはすでに五十年を越えていた。その後も「ローマ発、しあわせ行き」(2015年)に出ているので、五十五年の女優としてのキャリアである。「家族の灯り」にはフランスの大女優ジャンヌ・モロー(当時八十八歳、キャリア六十四年)も出ているので、ふたり合わせると(何の意味もないけれど)女優歴は百二十年近くになる。

そのふたりの女優も、一〇三歳のオリヴェイラ監督から見れば、娘の世代である。監督と女優ふたりの年齢を合計すると(何の意味もないけれど)二六一歳になる。それだけでも「何だかスゴいなあ」という感慨が湧いてくる。ジャンヌ・モローは一九二八年生まれ。日本だと昭和三年である。クラウディア・カルディナーレは一九三八年生まれだから、日本の昭和十三年になり、日華事変が始まった翌年になる。日本で彼女に匹敵するキャリアを持つ映画女優(かつてはセクシー系の女優)は思いつかない。

●ギリシャ悲劇を下敷きにした美しい姉と弟の物語

クラウディア・カルディナーレはイタリア出身で、フランス映画にも多く出たし、ハリウッドにも呼ばれて何本も出演しているが、ハリウッド映画ではお色気担当みたいな役ばかりだった。当時の(今でも?)アメリカ男はグラマーなセクシー女優は、頭が空っぽだと思っていたに違いない。バスト一メートルを超えていたジェーン・マンスフィールドはIQが相当に高かったが、間抜けな巨乳美人の役ばかりやらされた。クラウディア・カルディナーレもクルーゾー警部で有名になった「ピンクの豹」(1963年)、四人のプロが集まる西部劇「プロフェッショナル」(1966年)などで肌の露出の多い役ばかり演じた。

しかし、それらの映画の間に彼女はイタリアに戻り、重要な作品を数多く残している。ルキノ・ヴィスコンティ監督と組んだのは、「山猫」(1963年)と「熊座の淡き星影」(1965年)である。また、ジョージ・チャキリスと共演した代表作「ブーベの恋人」(1963年)があり、フェデリコ・フェリーニ監督の「81/2」では、主人公の映画監督グイド(フェリーニ自身と思えばいい)が崇める女優として彼女自身のような役を演じている。すべて、彼女が二十代のときの作品だ。

「山猫」「ブーベの恋人」「81/2」はヒットしたし、映画史的にも定着していて名作として残っているが、ビスコンティ作品の中でもあまり語られることがない「熊座の淡き星影」は、モノクロームの(特に夜の)映像が美しく僕の記憶に鮮明に残っている作品だ。もっとも、物語の方はギリシャ悲劇「エレクトラ」を下敷きにしたものという記憶しかない。美しい姉と強い精神的な結びつきを持つ弟の悲劇だった。ギリシャ悲劇の多くがそうであるように、近親相姦がテーマのひとつになっている。

その物語を現代に移しているのだが、ビスコンティ作品ならではの格調の高さが魅力的だ。古いイタリヤの屋敷。広々とした夜の庭での姉と弟の会話。現代劇でありながら、普遍的で神話的な作品になった。この作品で最も重要なのは、姉を演じるクラウディア・カルディナーレの美しさだ。このとき、彼女は二十代半ば。その美しさの絶頂にあった。女優としても世界的に認められ、演技も評価されている。その自信が、ヒロインのサンドラをオーラのように包み込む。美しく輝かせる。弟の目には、女神のように映る。

母と再婚相手の義父が、かつて密告して父を逮捕させたのではないか、というハムレット的な疑惑も全編を覆うミステリアスな雰囲気を醸し出す。セリフも抽象的で、ときに観念的であり、僕は若い頃に見たので、すっかりまいってしまった。当時、若者たちは難解であることを最も評価したし、僕も例外ではなかった。ただ、二十年以上経って見たときも、その難解さと抽象性にぞくぞくするような魅力を感じたので、やはりビスコンティの難解さは本物だと思ったものだった。本音では、美しさの頂点にあったクラウディア・カルディナーレを見たかっただけかもしれないのだけれど----。

しかし、ММことマリリン・モンローが早くに謎の死を遂げ、BBことブリジット・バルドーが四十代で事実上引退してしまった今、CCことクラウディア・カルディナーレだけが現役を続けている。前述のように二十代での代表作はたくさんあるし、三十代では「ラ・スクムーン」(1972年)や「家族の肖像」(1974年)があり、四十代には「フィツカラルド」(1982年)があり、そして、七十代で「家族の灯り」がある。こうなれば、オリヴェイラ監督にならって、現役女優の最高齢記録を期待したいものだ。

2016年6月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…732 ふたりの女優が死んだ


【兄貴の恋人/暗黒街の顔役/竜馬暗殺/恋人たちは濡れた】

●ひとりは七十九歳で心不全、ひとりは六十七歳で肺ガンだった

六月十四日、ふたりの女優が死んだ。ひとりは七十九歳で、心不全。ひとりは六十七歳で、肺ガンだった。ひとりは、気品のある美しい女優で「日本のグレース・ケリー」とさえ呼ばれたことがあった。その死は、多くのニュース番組で取り上げられ、主演ドラマを持つ後輩の人気女優たちがその人柄を忍んだ。四年前に死別した二枚目俳優だった夫との、おしどり夫婦ぶりを示す映像も流れた。ふたりの間にできた娘が人気歌手と結婚したときのインタビューも流れ、仲睦まじさが懐かしがられた。彼女は若いときに入浴シーンを演じているが、それはほんの少し肌を露出するだけのものだった。五〇年代にデビューした女優だ。映画の表現もつつましいものだった。

もうひとりは前張りをつけて大胆なヌードになり、扇情的なセックスシーンを演じることで、主演を勝ち取った女優だった。大手五社に数えられた映画会社が経営難に陥り、背に腹は替えられない思いで始めたポルノ映画がなければ、彼女が観客たちの記憶に残ることはなかっただろう。しかし、十八歳以上しか見ることができなかった作品で注目された彼女は、アートシアター・ギルド(ATG)で制作した黒木和雄監督作品「竜馬暗殺」で原田芳雄、石橋蓮司、松田優作というクセモノ俳優陣を相手に印象的な役を演じ、映画ファンの記憶に刻み込まれた。

ふたりの女優は、デビューに十数年の差はあったが、同じ映画会社に所属し、六〇年代末の同じ時期に同じ撮影所で同じ人気俳優の主演映画に脇役として出演していた。グレース・ケリーのような気品さえ漂わせる美人女優は、当時のアイドル女優だった内藤洋子が妹を演じる加山雄三主演の「兄貴の恋人」(1968年)の中で、主人公に好意を寄せる年上のバーのママを上品に演じた。後にポルノ女優と呼ばれることになるもうひとりの女優は、学生ではもう通用しなくなった加山雄三が新入社員を演じる「フレッシュマン若大将」(1969年)に出演しているが、どこに出ていたかさえ僕の記憶にはない。

気品あふれる女優は、白川由美といった。もうひとりは、中川梨絵という名だった。テレビドラマに多く出た白川由美は多くの人が知っているだろうが、中川梨絵の名を知る世代は限られるし、その世代でも限られた人しか知らないだろう。おそらく女性より、男性の認知度の方が高いに違いない。「兄貴の恋人」のとき、白川由美は三十二歳だった。「フレッシュマン若大将」のとき、中川梨絵は二十一歳だった。ふたりは、ちょうどひとまわりの年の差があったのだ。白川由美は七十九年の人生の時間を生き、中川梨絵はその十二年分短い人生を生きた。

メディアによる訃報の扱い方を見ても、ふたりの人生の違いは大きい。白川由美の訃報は、夕方のニュースでも数分間も流れた。八〇年代以降、テレビに活躍の場を移した彼女は、「家政婦のミタ」「ドクターX」などに出演し、そのドラマでの映像も放映されたし、二谷英明との映像も「おしどり夫婦」として放映され、主演作のほとんどなかった女優としては、破格の扱いだった。中川梨絵の訃報は、新聞の片隅にほんの数行で告知されただけだった。「日活ロマンポルノ初期の女優」と書かれていた。もちろん、どちらの人生がよかったとか、幸せだったという問題ではない。それぞれの個別の人生を比べることなど、ナンセンスだ。

人は、自分の人生を生きるしかないのだ。別の人生を望むこともあるだろうし、ありたかった人生を夢見続けることもあるだろう。しかし、人は与えられた人生、与えられた時間の中で生きるしかない。いつ死ぬかは、ほとんどの場合わかってはいないし、未来に何が起こるかは予測できない。だから、自分の人生の中で努力し続ける他に「生き方」はない。違う人生を夢見てもむなしいし、たどってきた人生に「if」は存在しない。

●残念だが白川由美主演と言える映画を見たことがない

僕の手元に竹書房から発行された「ゴジラ画報 東宝幻想映画半世紀の歩み」というムックがある。映画のスチルがふんだんに掲載されている。一九九三年十二月の奥付である。「ゴジラ」(1954年)に始まる東宝の怪獣・怪奇・SF・ファンタジー路線は、様々な傑作・名作・怪作を生んだ。それらの映画には、必ず紅一点的な役として清純タイプの女優が登場した。「ゴジラ」の場合は、古生物学の権威である山根博士の娘として登場する河内桃子である。「空の大怪獣 ラドン」(1956年)で紅一点的な役を担ったのは、デビューしたばかりの二十歳の白川由美だった。

僕が最初に見た怪獣映画は「ラドン」だった。阿蘇の噴火口から飛び立つラドンの姿しか記憶にないが、五歳の少年にそんなイメージを刻み込んだのだから印象深い映画だったのは間違いない。その映画の白川由美を僕が記憶しているわけはないのだけれど、スチルで確認する限り、すでにあの知的な美しい顔が完成している。そう、白川由美はデビュー当時の写真を見ても、最後の出演作になったドラマのワンシーンを見ても驚くほど変わっていない。知的で、若い頃から大人びて、美しい。

その後、白川由美は、「地球防衛軍」(1957年)「美女と液体人間」(1958年)「電送人間」(1960年)「妖星ゴラス」(1961年)といった一連のSF映画にも出演するが、「サラリーマン出世太閤記」(1957年)シリーズや「大当たり狸御殿」(1958年)といった東宝明朗喜劇路線でも便利に使われる。文芸作品や女性映画とは、あまり縁がなかった。同世代の司葉子、後輩の星由里子といった女優たちが主演作を撮り始めても、相変わらず脇で便利に使われていた。

その頃の作品で僕が好きなのは、岡本喜八監督の「暗黒街の顔役」(1959年)だ。鶴田浩二、宝田明、三船敏郎が出演するアクション映画である。女優陣は、白川由美、草笛光子、柳川慶子などである。白川由美は主要な役ではあるけれど、男たちの闘いを描く作品だから女優たちは添えもの的になるのは仕方がないのかもしれない。鶴田浩二が「三十年のバカ騒ぎか」と言いながら、悪玉を追ってオープンカーを吹っ飛ばすのは、確かこの映画だったと思う。

僕の印象では、東宝時代の白川由美は、どうも添えもの的なポジションから抜けきらなかった気がする。司葉子が「その場所に女ありて」(1962年)で宝田明を脇役にして堂々の主演を張ったり、他社(松竹)での仕事ながら「紀ノ川」(1966年)という女性文芸作品に主演したり、ファニーフェイスと呼ばれた団令子が女優開眼した「女体」(1964年)に出たような、いわゆる代表作には恵まれなかった。もちろん数多い彼女の出演作をすべて見ているわけではないから、断言はできないのではあるけれど----。

●中川梨絵を思い出すと浮かんでくる二本の映画がある

中川梨絵は、二本の作品で映画ファンの記憶に残り続ける存在になった。いつの間にか映画界からフェードアウトし、ほとんど姿を見ることもなくなったけれど、「竜馬暗殺」を思い出すと中川梨絵の姿が浮かんでくるし、「恋人たちは濡れた」(1973年)の全裸で馬跳びをする姿、自転車に乗ったまま海に消えていくラストシーンが鮮明に浮かんでくる。彼女の一本を挙げるとすれば、「恋人たちは濡れた」になるだろう。神代辰巳の四作目の監督作品である。

田中小実昌の小説を映画化した「かぶりつき人生」(1968年)で監督デビューした神代辰巳は、日活がロマンポルノ路線になる前から性的なものをテーマにする監督だった。「かぶりつき人生」は、ストリップのダンサーとヒモと客たちの話である。すでに四十を過ぎていた神代辰巳だったが、それまでは人気女優だった島崎雪子と結婚した助監督としての方が業界では有名だったかもしれない。その神代辰巳が作品を立て続けに作り始めるのは、ロマンポルノ路線がスタートしてからだった。

一九七一年秋にスタートしたロマンポルノは、初期の過激な作品が猥褻だとして警視庁に挙げられた結果、世の中の話題を集めた。田中真理、白川和子、片桐夕子などが初期の女優たちだった。翌年、神代辰巳の活躍が始まる。その年だけで「濡れた唇」「一条さゆり 濡れた欲情」を監督し、「白い指の戯れ」の脚本を書いた。「白い指の戯れ」はスリの物語で、主人公を荒木一郎が演じアンニュイな雰囲気を漂わせた。ほっぺたの膨れた伊佐山ひろ子がデビューし、鮮烈な印象を残した。監督デビューした村川透は、後に松田優作と組んで「遊技シリーズ」などで人気を博した。

神代辰巳の活躍は続いた。一九七三年には「恋人たちは濡れた」に始まり、四本の作品を監督した。一九七四年は東宝で撮った萩原健一主演の「青春の蹉跌」を含め六本も監督している。さらに、テレビシリーズ「傷だらけの天使」の演出も担当した。もっとも、池部良と荒砂ゆきがゲスト出演した神代監督のエピソードはセックス描写が当時のテレビとしては過激すぎて、再放送では放映されることがなかった。深作欣二が演出し室田日出男と中山麻里がゲスト出演したエピソードが、ストリッパーを演じた中山麻里はほとんど裸だったにもかかわらず、再放送でも問題なく放映されているというのに----。

その初期の神代作品で若者たちの共感を呼んだのが、「恋人たちは濡れた」だった。その評判を聞き、名画座に追いかけて「恋人たちは濡れた」を僕が見たのは、大学三年の冬のことだった。主人公の若者は、海の近くの町に流れ着く。港には漁船が係留されている。その町の映画館に職を得る。場末の映画館といった、わびしいたたずまいだ。自転車にフィルムを積んで運んだり、映写の手伝いをしたりする。町で会った男たちに「久しぶりだな。帰ってきたのか」と声をかけられるが、青年は何のことかわからないという顔をする。このあたり、観念的で不条理な雰囲気である。

しかし、「恋人たちは濡れた」のストーリーを語っても、実は意味がない。これは、感じる映画だし、それは時代の空気と共に見るべき映画だった。だから、今の僕が見て、あのときと同じように受け取ることはないだろう。フラフラと何をしたいのかわからない主人公の姿が描かれ、シラケていた時代を反映する。歌謡曲を口ずさみながら自転車でぐるぐるまわっているだけの映像が続くし、三人の男女が馬跳びを延々と繰り返したりする。全裸で馬跳びをやっているのが、異常とは思えなくなる。心の中の間隙を自覚し、不安と焦燥を抱えていた二十二歳の僕だったから、そんな登場人物の倦怠に鋭く反応した。

昨年、ある名画座で「恋人たちは濡れた」の上映に際して、中川梨絵のトークショーが開催されたという。そのときのトークの内容をネットで知って、僕は安堵感を抱いた。そこには、自身の女優としてのキャリアに誇りを持つ六十六歳の女性がいた。神代辰巳監督についてや、自身が出た十本のロマンポルノ作品について懐かしそうに語っていた。加藤彰や田中登という懐かしい監督の名前も出てきた。藤田敏八監督を含め、彼女の日活時代は監督に恵まれていた。四十年前を、そのように懐かしめるのは幸せな人生だと思う。

2016年6月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…731 どんなときにも日常は存在する


【ヒミズ/共喰い/この国の空】

●「ゴチになります」に二階堂ふみが出てきて驚く

少し前、ナインティナインのテレビバラエティ「ゴチになります」を見ていたら、セーラー服を着た二階堂ふみが出演していた。えっ、と思ったが、キャラクターとしては味があるからバラエティには向いているのかもしれない。かみさんは「ゴチになります」が好きらしく昔から見ているけれど、二階堂ふみのことは知らなかったらしい。僕が「映画には、いっぱい出ている人だよ」と説明し、いくつが出演作を挙げた。二階堂ふみは劇場映画にデビューして八年になるが、その間の出演本数は二十本を越え、テレビドラマにもいくつか出演している。まだ二十一歳の女優としては、かなりなハイペースだ。

二階堂ふみのフィルモグラフィを見てみると、「ガマの油」(2008年)が劇場映画デビューだったらしい。「ガマの油」は役所広司の初監督作品で僕も見ているのだが、益岡徹のガマの油売りはよく憶えているのに、二階堂ふみの印象は薄い。主人公の息子(瑛太)の恋人役だった。三年後に出た「ヒミズ」(2011年)のヒロインが強烈だったので、「ガマの油」の役は僕の記憶の中から吹っ飛んだのかもしれない。二階堂ふみは「ヒミズ」で、ベネチア映画祭のマルチェロ・マストロヤンニ賞を染谷将太と共に受賞した。マルチェロ・マストロヤンニ賞は、最優秀新人俳優・新人女優賞の意味合いを持っている。

先日、深夜の対談番組をたまたま見る機会があり、園子温と二階堂ふみが出演していた。二階堂ふみに賞を取らせたのは、「ヒミズ」を監督した園子温であるから、恩師との師弟対談風になっていた。二階堂ふみが「園さん」と繰り返していたのが印象的だった。園子温監督もこのところ絶好調で、一昨年は二本、昨年は四本の劇場映画を撮っている。僕は綾野剛が髪を金髪に染めて新宿歌舞伎町のスカウトマンを熱演した、「新宿スワン」(2014年)をおもしろく見た。ただ、「愛のむきだし」(2008年)を見たときほどの衝撃はない。少し毒が薄まったのだろうか。

「愛のむきだし」を見たときには、満島ひかりと安藤サクラという女優が記憶に残った。その後のふたりの出演作を追いかけて見るほどだった。その結果、最近の日本映画の重要な作品を見逃さずにすんだ。よい女優は、質のよい作品を選ぶのだろう。満島ひかりは映画で注目された結果、テレビドラマの主演も張るようになった。「愛のむきだし」で満島ひかりを世に送り出し、「ヒミズ」で二階堂ふみに注目させる。園子温監督は、女優の才能を見抜く目を持っているのかもしれない。いや、「ヒミズ」では染谷将太という俳優も見出している。その後の染谷将太の出演作もなかなかのラインナップだ。園作品で鍛えられた新人は、どんな現場でも活躍するのだろう。

園子温は俳優を追い込む厳しい監督らしいが、その結果、俳優としての力を認められるのならありがたいことだ。ただし、園監督作品は暴力シーンが頻繁にあるし、グロテスクな血まみれシーンも多い。「ヒミズ」でも染谷将太と父親役の光石研が殴り合うシーンで、監督は「本当に当てろ」と指示したという。染谷将太は「痛い現場だった」と、どこかで語っていた。二階堂ふみは園子温との対談で、「生傷の絶えない現場でしたね」と言っていた。映画を見ると、確かに痛そうではある。ちなみに、その後、光石研は青山真治監督の「共喰い」(2013年)でも暴力的な父親を演じた。無茶苦茶な役だったが、それだけに僕の記憶に刻み込まれた。主人公を演じた菅田将暉もよかったけれど----。

●親から「おまえはいらない」と言われた子供たち

「ヒミズ」は、親から棄てられた子供たちの物語だ。スミダ(染谷将太)の父親は借金を作り家を出ているし、その後、母親は男を作って主人公を棄ててしまう。ある日、戻ってきた父親(光石研)は、息子に向かって「おまえはいらねぇんだ」という言葉を繰り返す。殴る。蹴る。「死んでくれ」とまで口にする。クラスメイトの茶沢景子(二階堂ふみ)は母親から虐待されている。ふたりとも悲惨な十五歳だ。スミダの願いは「普通の平凡な人生を送ること」だが、現実はひとりで家業の川縁のボート屋を営み、孤独な中学生として生きている。

親に棄てられたスミダは川縁のボート小屋で暮らしているのだが、その河原には変わったホームレスたちが住み着いている。彼らとの交流が不思議な世界を作り出す。そんな世界へ、借金を作って蒸発していた父親が帰ってくる。息子を殴り、痛めつけ、金を搾り取ろうとする。そんな絶望的な状況にいるスミダを茶沢は励まし続ける。一方的に慕ってくる茶沢をスミダはうざいと思いながらも、次第に彼女の存在が彼の救いになる。また、親に棄てられたスミダを救おうとするホームレスの男(渡辺哲)もいる。

「ヒミズ」は悲惨な話が続くし、自暴自棄になったスミダが人を刺そうと、包丁を持って街を彷徨するシーンなどはハラハラして見ていられないほどだし、超現実的なシーンもあって、ときどき理解不能に陥ることもあるが、間違いなく傑作である。「ヒミズ」が傑作になっている大きな要素は、主演の新人ふたりの存在だった。マルチェロ・マストロヤンニ賞を、そろって受賞したのは当然だろう。ラストシーン、ある場所に向かってひたすらに走るスミダの横を伴走しながら、「がんばれ、スミダ」と励まし続ける二階堂ふみを見て僕は涙がこぼれた。あのとき、僕は二階堂ふみのファンになったのだ。

以来、昨年の「この国の空」(2015年)まで、十本の出演作を見た。園子温監督の「地獄でなぜ悪い」(2013年)、「四十九日のレシピ」(2013年)、「脳男」(2013年)、「私の男」(2013年)「渇き。」(2014年)があり、昨年は「味園ユニバース」(2015年)、「ジヌよさらば~かむろば村へ~」(2015年)などがある。多彩なフィルモグラフィだ。「私の男」では浅野忠信を相手にして一歩も引かず、「渇き。」では再び役所広司と渡り合い、「この国の空」では三十八の男(長谷川博巳)を相手にして処女の初々しさを見せた。今年公開になった「蜜のあわれ」では、老作家(大杉漣)を相手にコケテッシュな魅力を発揮している。

●戦争末期の東京の日常には空襲も組み込まれている

「この国の空」は「身も心も」(1997年)以来、十八年ぶりにシナリオライター荒井晴彦が監督した作品だ。「身も心も」には、おそらく全共闘世代である荒井晴彦自身の体験や心情が仮託されていたのだろうが、今回は戦中世代の高井有一の小説を映画化した。「この国の空」は、一九八三年に出版された小説である。高井有一は、古井由吉などと一緒に「内向の世代」と言われる文学世代でもある。終戦時は十三歳。古井由吉も空襲の記憶を小説やエッセイで書いているが、十代が終戦時期に重なり空襲の記憶が鮮明な世代だ。

映画は、「昭和二十年 東京・杉並」というタイトルから始まる。夜、雨戸の閉まった民家がある。庭には防空壕。雨が降っている。メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」が幽かに聞こえてくる。雨が防空壕に流れ込んでいる。翌朝、水の溜まった防空壕を前に、呆然としている母(工藤夕貴)と里子(二階堂ふみ)がいる。隣の民家の雨戸を浴衣姿の市毛(長谷川博巳)が開け、ふたりに「どうしました?」と訊く。ふたりが防空壕のことを言うと、「うちのを使えばいい。妻子を疎開させて、ひとりでこんなところに入りたくないし」と独り言のように言う。

十九歳の里子は、挺身隊逃れのために町会の事務員として働いている。転入や転出の手続き、疎開に出る人のための書類作りなど、細かなことが描かれていく。当時、東京への転入は認められなかったこと、高齢者の疎開希望は通りやすいが、壮年の男は認められなかったことなども描かれる。横浜で焼け出された伯母(富田靖子)が里子の家に転がり込んでくるが、転入が認められないので配給を受けられない。配給がなければ、伯母の食事がまかなえないのだ。そうした、細々とした戦争中の日常が描かれる。里子が「ルーズベルトが死んだそうだわ」と言うセリフがあるから、四月下旬のことだろう。

八月十四日の夜がラストシーンになる。そこに至る、戦争末期の四ヶ月が描かれる。毎日のように空襲があったが、そんな状況の中でも人々は生きていたし、日常生活は続いていく。作品の狙いは、戦争末期の人々の日常を描くことである。市毛は見たところ身体も病弱ではなさそうだが、検査が丙種だったために兵役を逃れている。勤めは銀行で、「近々、金融機関の人間は移動を禁じられるという話です。都市機能をマヒさせないためだとか」と里子に言う。ヴァイオリンを弾く優男だが、理知的で落ち着いた話し方をする。若い男などひとりもいない。落ち着いた中年男に、次第に里子が惹かれていくのは理解できる。里子の視線、仕草などが、少しずつ変わっていく。

ある日、里子は市毛から「宿直で家を空けることが増えるから、ときどき家に風を通してくれませんか」と勝手口の鍵を預かる。風を通しに市毛の家に入った里子は、積もったホコリが気になって掃除を始める。そして、市毛の寝室に敷かれたままの寝床を見つける。敷布も乱れたままだ。脱ぎっぱなしの浴衣がある。里子は、枕に顔を近づける。市毛の体臭が、男を知らない里子を刺激する。官能的である。二階堂ふみは、若いわりに官能的な役の多い人だ。桜庭一樹の直木賞受賞作を映画化した「私の男」もそうだった。

以前、「限りなき日常を生きる」というタイトルでコラムを書いたことがある。日常生活というのは不思議なものだ。異常なことでも、それが続けば日常になる。戦争末期の東京の日常には、空襲も組み込まれている。人々は、空襲にさえ馴れてしまうのか。「この国の空」を見ていると、「空襲」や「焼け出された人」「死んだ人々」「新型爆弾」などが日常会話として交わされる。そんな日常で、里子の一番の関心は隣の市毛のことである。戦争中だって、恋愛はする。男の匂いにときめき、心を熱くし、体を火照らせる。そんな、当たり前のことを当たり前のように二階堂ふみは演じた。

わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから 青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ

「この国の空」は、最後のクレジットタイトルが流れる画面に二階堂ふみが朗読する詩が流れる。戦後詩の名作として有名な茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」である。それを聞きながら、僕は「荒井晴彦は、若い頃に思潮社現代詩文庫を愛読したのではないか」と思った。荒井監督は、「身も心も」(吉野弘に同タイトルの詩がある)のときには、柄本明に長田弘の「クリストファーよ、僕たちはどこにいるのか」を朗読させた。「あれは金曜日だったと思う 疲労が大きなポピーの花束のように きみの精神の死を飾っていた日だ」という最初のフレーズを僕は暗誦できる。そのフレーズがスクリーンから聞こえてきたのだった。僕は、その長い引用を柄本明と共に口ずさんでいた。

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