2016年12月 8日 (木)

■映画と夜と音楽と…754 六〇年代のスパイたち


【コードネームU.N.C.L.E./0011ナポレオン・ソロ/荒野の七人/大脱走/狼の挽歌】

●五十年ぶりにリメイクされた「0011 ナポレオン・ソロ」

ガイ・リッチー監督の「コードネームU.N.C.L.E.」(2015年)をおもしろく見た。六〇年代のスパイ映画の雰囲気を再現していて、懐かしさを感じてしまう。ストーリーも、いかにも六〇年代風だった。冒頭、ベルリンのチャーリー検問所を抜けて東ベルリン側へ潜入するナポレオン・ソロの描写も、スタイリッシュな映像とキレのよいカットつなぎでワクワクさせる。ソ連のスパイのイリヤ・クリヤキンの登場で、さらに期待感が盛り上がる。イリヤ・クリヤキンの追跡は執拗で、「ターミネーター2」の液体金属ターミネーターを連想させた。

CIAのナポレオン・ソロとKGBのイリヤ・クリヤキンをどうコンビにするのかと思っていたら、ナチの残党を悪役に設定し、ナチと手を結ぶ富豪のファシストが核弾頭を開発するのを防ぐのが米ソ両国の共通利益になるため、一時的に手を結ぶことになる。ナポレオン・ソロとイリヤ・クリヤキンは、それぞれ相手を出し抜けという指令を受けながら協力する形になる。そこに、イギリス情報部MI6などもからんできて、六〇年代スパイ映画の要素がほとんど入っていた。ただ、ナポレオン・ソロを演じたヘンリー・カヴィル(「マン・オブ・スティール」主演)がクラーク・ケントに見えて仕方がなかった。

「0011ナポレオン・ソロ」シリーズがテレビ放映されていたのは、僕が中学生の頃だった。東京オリンピックがあった一九六四年に始まり、四年後に終了した。その間、映画版が八本公開されている。僕は中学への通学途中で見た映画のポスターをよく憶えているのだが、あれは第一作「0011ナポレオン・ソロ/罠を張れ」(1964年)だったのだろうか。ひび割れた鏡に、ソロの姿が何人も映っているシーンが配置されていた。二作目の「消された顔」(1965年)だったような気がする。当時、早川ポケットミステリではスパイものがやたらに翻訳されていたけれど、「ナポレオン・ソロ」シリーズも原作なのかノベライゼーションなのかはわからないが何冊も出版された。

ちなみに、当時のポケミスのカタログを調べてみると、マイクル・アヴァロン作「ナポレオン・ソロ/アンクルから来た男」が第一弾だった。919番で、ひとつ前の918番はドナルド・ハミルトン作「待伏部隊」である。これは、マット・ヘルムのシリーズ第六弾だった。部隊シリーズは、ディーン・マーチン主演で映画化されている。927番が記念すべきリチャード・スタークの第一作「悪党パーカー/人狩り」である。933番では「電撃フリント」が出ている。こちらはジェームス・コバーン主演で映画化された。「ナポレオン・ソロ」シリーズは短期間で発行され、976番「ソロ対吸血鬼」は「調査に赴いたソロとクリヤキンを恐怖のどん底に叩き込むシリーズ第八弾」と書かれている。

カタログを見て思い出したのだが、「エイプリル・ダンサー・シリーズ」というのもあった。「アンクルきっての女情報部員シリーズ」であり、その第一弾として「アンクルから来た女」(マイクル・アヴァロン作)が980番で出ていた。ただし、あまり売れなかったのか、シリーズ第二弾「燃える女」以後は出ていないようだ。もっとも、同時期にギャビン・ライアルの「最も危険なゲーム」「深夜プラス1」「本番台本」が立て続けに翻訳されているし、1007番ではディック・フランシス「興奮」が「競馬スリラー・シリーズ」と銘打って翻訳された。これが、ディック・フランシスの本邦初登場だったと記憶している。半世紀前のことだった。

●「荒野の七人」の最後のガンマンもこの世を去った

先日、ロバート・ヴォーンの死亡記事が新聞に出た。「ロバート・ヴォーン=ナポレオン・ソロ」である。彼は、ガイ・リッチー監督の「コードネームU.N.C.L.E.」は見たのだろうかと気になった。死因は急性白血病だというから、映画公開時には健康だったのではないだろうか。八十四歳だった。「ナポレオン・ソロ」に出ていた頃、政治的野心のある俳優だと言われていた。だからスティーブ・マックィーン主演「ブリット」(1968年)で上院議員の役をやったのだと、まことしやかに言われた。「タワーリング・インフェルノ」(1974年)や「復活の日」(1980年)でも上院議員の役をやっているから政治は嫌いではなかったのかもしれないが、政界に進出したとは聞いていない。

ロバート・ヴォーンを初めて見たのは、「荒野の七人」(1960年)だった。ほとんどセリフのない寡黙なガンマン役である。ユル・ブリンナー以下、七人のガンマンを演じたほとんどすべての俳優が後に主演を果たした。公開当時、すでに主演作があったのはユル・ブリンナーを別にすれば、スティーブ・マックィーンとホルスト・ブッフホルツだった。スティーブ・マックィーンはマイナーな映画に主演し、テレビシリーズ「拳銃無宿」で人気が出ていた。ホルスト・ブッフホルツは、「わが青春のマリアンヌ」(1955年)で注目されたドイツ出身の俳優である。

ナイフの名人役のジェームス・コバーン、「七人の侍」で薪割りをやっている千秋実のエピソードをそのままに演じたチャールズ・ブロンソン、それにロバート・ヴォーンは、この映画の後に主演俳優になった。もうひとりのブラッド・デクスターは、五〇年代から八〇年代までハリウッド映画の脇役として出演しているが、特に強く印象に残る作品はない。ペギー・リーの元夫らしいけれど、詳しくは知らない。もしかしたら、「荒野の七人」出演者の中で最も長生きし、長く活躍したのは山賊の頭領を演じたイーライ・ウォラックなのではあるまいか。亡くなったのは二〇一四年で、あと半年生きていれば白寿(九十九歳)を迎えることになった。僕は「ゴッドファーザーPARTIII」(1990年)のウォラックが忘れられない。

「荒野の七人」の七人のガンマンは、ロバート・ヴォーンを最後に全員が鬼籍に入った。映画が公開されて五十六年になる。ロバート・ヴォーンもスティーブ・マックィーンもチャールズ・ブロンソンもジェームス・コバーンも、みんな若かったのだなあと今更ながら感慨に耽る。マックィーンは「大脱走」(1963年)でブレイクし、大スターになった。低迷していたチャールズ・ブロンソンはヨーロッパに出稼ぎにいき、口ひげを生やした「さらば友よ」(1968年)でブレイクし、フランスとイタリアで活躍した後にハリウッドに凱旋した。ジェームス・コバーンは「電撃フリント」シリーズで主演し、その後、サム・ペキンパー作品などで主演。晩年まで渋い脇役として活躍した。

そして、ロバート・ヴォーンと言えば、やはり「ナポレオン・ソロ」シリーズである。イアン・フレミングが作り出した「007」こと「ジェイムズ・ボンド」シリーズが映画化されて大人気になり、雨後の筍のように後から後から様々な秘密情報部員たちがデビューしたあの時代、「0011ナポレオン・ソロ」は他のスパイたちとはやはり違っていた。毎週、テレビで活躍していたこともあるだろうが、映画版だって八本も作られたのだ。「0011」を使うに当たっては、イアン・フレミングの了解をとったということだったが、映画版五作めの「ナポレオン・ソロ対シカゴ・ギャング」の原作はイアン・フレミングであり、シリーズ中、最も出来がよいと言われている。

●イリヤ・クリヤキンことデビッド・マッカラムは現役の俳優だ

「0011ナポレオン・ソロ」シリーズの魅力は、相棒イリヤ・クリヤキン(デビッド・マッカラム)とチーフのウェーバリー(レオ・G・キャロル)とのチームワークにあった。特に、イリヤ・クリヤキンは子供たちに人気があった。僕も好きだったし、級友たちもクリヤキン派だった。たぶん、女と見るとデレデレし、モテモテのナポレオン・ソロは子供たちにとってはイヤラシゲーな大人に見えたのだ。真面目で、女性に対して純情なイリヤ・クリヤキンに自然と好感を持ったのだろう。ガイ・リッチー作品でも、ふたりの女性に対する対応の違いは明確に描かれていた。

「荒野の七人」のうち、スティーブ・マックィーン、ジェームス・コバーン、チャールズ・ブロンソンが「大脱走」にも出演しているけれど、デビッド・マッカラムを僕が初めて見たのも「大脱走」だった。スコットランド生まれのデビッド・マッカラムはイギリス人捕虜の役で、脱走を指揮するリチャード・アッテンボローの副官の役で活躍する。列車のホームで正体がばれ、射殺されるシーンでは僕は思わず眼を閉じた。フランクなアメリカ兵と違って、堅物で上官に絶対服従のイギリス将校役が似合っていた。真面目なキャラクターという印象が定着したのだ。

先日、WOWOWで四十六年ぶりに「狼の挽歌」(1970年)を見た。チャールズ・ブロンソン演じる殺し屋が自分を裏切った女(ジル・アイアランド)を、高層ビルの外壁を昇る透明なエレベーターの中で狙撃するラストシーンが有名になった映画だ。チャールズ・ブロンソンとジル・アイアランドは実生活では夫婦だった。その映画が公開される数年前、高校のクラスメイトに「イリヤ・クリヤキンことデビッド・マッカラムとチャールズ・ブロンソンは友だちだったけれど、マッカラムの奥さんだったジル・アイアランドを横恋慕したブロンソンが奪ったのだ」と教えられた。

以来、友だちの奥さんを奪った男という目でブロンソンを見ていた僕は、ジル・アイアランドとの共演作「狼の挽歌」(ベッドシーンまであるのだ)を見ても「いい気なもんだ」としか思えなかった。しかし、その後の長い長い人生の経験の中で、友だちの奥さんを好きになるという状況は大変一般的であり、妻の不倫相手が夫の友人というのは統計上トップになるかもしれないほど普通のことだと学んだ僕は、プロンソンへの偏見を棄て、同時にマッカラムへの同情も棄てた。そのマッカラムは、ブロンソンよりずって長生きし、今もテレビドラマ「NCISシリーズ」に検死官役でレギュラー出演している。八十三歳の現役俳優である。彼は、ロバート・ヴォーンの葬儀に出席しただろうか。

2016年12月 1日 (木)

■映画と夜と音楽と…753 大利根河原の三兄弟


【先生と迷い猫/関の彌太ッペ/ひとり狼/座頭市物語】

●利根川沿いの畑に棄てられていた三匹の仔猫たち

千葉の自宅に戻り最初に見にいったのは、近くにある親水公園で暮らしている猫たちの様子だった。六月末まで、散歩のときに餌をやっていたのだが、その後どうしているかが気になっていた。公園の隅に餌皿があり、毎朝、定期的に餌をやっている女性がいるのは知っていたので、無事に暮らしているだろうとは思っていたのだけれど、やはり野良猫だから何があるかわからない。少しなじみになった三匹の猫に別れの挨拶はしたのだが、猫が理解したとは思えない。餌をくれていたじいさんが急にこなくなって、腹を立てていたかもしれない。

もっとも、僕以外にも朝の散歩の途中で餌をやっているおじさんとおばさんを見かけたから、たぶん生き延びていると確信していた。それで、自宅に帰った翌日の昼、親水公園までいってみた。朝の方が猫は姿を現しやすいので、もしかしたら会えないかと思っていたのに何と五匹の猫がいた。犬を散歩させている人もいるのに、堂々と公園の真ん中を歩いている猫もいる。生け垣の中で丸まっていたのは、最も人なつっこい猫だ。僕が近づいても逃げず、ニャアと鳴いた。四ヶ月以上もいなかったので、自宅の猫でさえ僕のことを忘れていたから、一ヶ月ほど餌をやっていただけのオヤジを憶えているはずはない。やはり、どの猫も近づくと逃げた。驚いたのは、猫が五匹に増えていたことだった。

翌朝、僕は散歩のコースを利根川にした。利根川のほとりの廃車置き場のようなところに猫の巣があるのだ。六月に通ったときは、子供を産んだばかりの母猫がいて、ひどく警戒し、僕に向かって威嚇するように口を大きく開き牙をむいた。あのとき、ざっと数えて十匹はいただろう。まるで、猫の梁山泊である。黒猫、白猫、三毛猫、茶虎、キジ虎など、どんな猫でもいそうだった。そんな猫たちも気になっていたので、様子を見ようと利根川コースを選んだのだった。利根川へいくと、暖かい晴天の朝だったので、道の真ん中に三匹の猫が寝そべっていた。近づくと警戒するので、立ち止まって様子を見ていると、猫たちも僕をじっと見つめてくる。梁山泊の方から、さらに数匹が出てきたので、僕はきびすを返した。

ところが、少し離れた角の畑のところにくると、三匹の猫がいた。茶色と白と黒の三色の毛が散っているのが二匹、一匹は白と黒の猫である。三毛猫のうちの一匹はライオン丸のようなタテガミで、顔は少し獰猛に見える。よく見ると、犬のチンに似た顔だ。シャム猫の血が入っているのだろうか。もう一匹の三毛猫はかわいい顔をしていた。その三毛猫より体がひとまわり小さな黒と白の猫も、顔はよく似ている。たぶん、その三匹は同じ雌猫が生んだのだ。兄弟か姉妹かわからないが、少なくとも血はつながっているのだろう。おそらく、三匹まとめて利根川の河川敷に棄てられたのではあるまいか。その三匹の中で最も獰猛な顔の毛がフサフサと立っている猫が僕の方へ寄ってきた。他の二匹もつられたのか、逃げずに近づいてきた。

猫は、警戒心の強い動物だ。たいていの野良猫は人間が近づくと逃げる。しかし、その三匹は、妙に人に懐いていた。それでも、一定の範囲には入ってこない。僕は「今日は食べ物持ってないんだよ。明日、持ってくるからね」と声をかけ、バイバイと手を振って離れた。それでも、自分を見て逃げなかった猫たちには情が移る。翌朝、キャットフードをポケットに入れて、前日に三匹の猫に会った場所へ向かった。坂道を降りていると、犬をつれて散歩しているおばあさんが鳩に餌をやるように野原に向かって何かを撒いていた。あの三匹の猫が、その足下にいた。僕が近づく前におばあさんは犬を連れて離れ、草むらにキャットフードが少し散っていた。

「餌、くれる人がいるんだね」と話しかけながら、持ってきた餌皿にキャットフードを入れると、三匹が頭をそろえて食べ始めた。ガツガツと食べるので、やっぱり満足に食べていないのかなと思った。そのうち、あの獰猛な顔をした三毛猫が餌皿から顔を上げ、僕を見つめてニャアと鳴き、何と僕の足に身を寄せてきた。スリスリと体をすり寄せる。匂いをつける猫の動作だとは知っているが、そんなことを野良猫にされたのは初めてだった。獰猛な顔の猫は足の間を抜けて、まとわりつく。その間に二匹は餌を完食し、一番体が小さな白と黒の二色の猫はクールに去っていく。もう一匹の三毛猫は「もっとくれよ」と言うように、ニャアと鳴いた。

そんなわけで、僕は毎朝、散歩の途中に彼らに餌をやることになった。もっとも、雨の朝と雪の朝には会えなかったので、少し心配した。どこか雨宿りできる、暖かい場所はあるのだろうかと不憫になった。雪が降った翌朝、ひどく冷え込んでいたけれど、六時半頃に利根川に着くと、遠くから僕を見つけた獰猛な顔の猫(ライオン丸と名付けた)が走り寄ってくる。それを見て、他の二匹も近寄ってきた。三匹が僕の足に身をこすりつけ、まとわりつく。ポケットから出したキャットフードの袋を破り餌皿に入れて草むらに置くと、三匹は頭を合わせて食べ始める。その姿を見ていると、幸せな気分になれた。

翌日、いつもより三十分遅くいくと、猫たちがいる畑の持ち主らしいおじさんがいた。軽トラックが停まっている。猫たちが僕に寄ってくると、おじさんは「捨て猫されちゃったんだよね」と話しかけてきた。「七月から面倒見てるんだ」と言う。聞くと、猫のために小屋を畑の横に造り、朝晩に餌を与えているという。僕が「よく人に懐いていますよね」と言うと、「人に慣れちゃって」と困ったような顔をした。僕が「時々、餌やっているんですが、いいですか」と訊くと、「やらないでほしいな」とおじさんは言う。猫たちが餌を食べ残すとカラスがきて困ると続けた。

「そうですか、わかりました」と、僕は答えた。明日から、あの子たちに足にまとわりつかれるという至福の喜びがなくなるのだろうか、と内心ではひどくがっかりしていた。

●大利根河原で有名なのは「天保水滸伝」の大喧嘩

という前振りなので、また猫について書くのかと思う人がいるかもしれない。最近、イッセー尾形主演の「先生と迷い猫」(2015年)という、たぶん猫好きの人たちばかりで作った映画を見たことだし、そういう方向もあるだろうけれど、今回は「利根川」について書きたいと思う。「利根川」が出てくる映画と言えば、「天保水滸伝」を元にしたものが浮かぶ。「天保水滸伝」は講談や浪曲で知られ、僕の世代くらいまでは長谷川伸原作の「一本刀土俵入り」(利根川沿いの取手の宿が舞台)や新国劇の「名月赤城山」などと同じように基礎教養のひとつだった。三波春夫のセリフ入りの歌「大利根無情」は、平手造酒を歌ったものである。

天保の頃、利根川下流に飯岡の助五郎というやくざがいた。一方、笹川の繁蔵という新興のやくざが勢いをつけてきた。飯岡の助五郎は十手を預かり、役人との二足の草鞋を履く男である。助五郎と繁蔵は最初は親しかったのだが次第に対立することになり、ついに大利根河原で大喧嘩になる。このとき、笹川の繁蔵の助っ人に浪人の平手造酒が加わる。一説によると、この大利根河原の喧嘩で飯岡方はかなりの人数がやられたけれど、笹川方で死んだのは平手造酒ひとりだと言われている。ただ、この大喧嘩の後にも対立は続き、繁蔵は殺され、助五郎は天寿をまっとうする。したがって、講談などでは飯岡の助五郎は悪役にされている。

講談、浪曲などで流布された「天保水滸伝」だが、活動写真と言われた頃から映像化もたびたび行われてきた。「忠臣蔵」と同じくらいの頻度だろう。平手造酒が主人公になった映画は、戦前だけでも数十本にのぼる。アメリカには、OKコラルの決闘でワイアット・アープとその兄弟に加勢するドク・ホリディ伝説があり、日本には笹川の繁蔵に加勢する平手造酒伝説があるのだ。調べてみると、一九二五年に大久保忠素の監督で「平手造酒」という作品が作られている。大河内伝次郎が平手造酒を演じた「平手造酒」(1928年)はその三年後の作品だが、その三年間に平手造酒が出る映画が数本あるらしい。毎年のように作られていたのだろう。

「股旅」という言葉を作ったのは、長谷川伸だと言われている。長谷川伸は大衆演劇の祖のような人で、「一本刀土俵入り」「関の弥太っぺ」「瞼の母」「沓掛時次郎」など、多くの股旅ものの戯曲を書いた。また、門下から大勢の大衆小説家が出ている。昔は、「一本刀土俵入り」の駒形茂兵衛のラストのセリフ「しがねぇ姿の土俵入りでござんす」とか、「瞼の母」の番場の忠太郎の「上の瞼と下の瞼をしっかり閉じりゃあ、会わねぇ昔のお袋の----」といったセリフは、誰でもが知っているものだった。同じように、「天保水滸伝」も人々の口に膾炙された物語だった。

そして、長谷川伸は自作に「天保水滸伝」の物語を取り込んだのだった。それは、飯岡の助五郎や笹川の繁蔵といった実在の人物たちが、実際に利根川の河原で喧嘩をやったことが元になっているため、また、そのことが人々に広く知られているため、自作に取り込んだのだろう。たとえば、「瞼の母」の冒頭のエピソードでは、番場の忠太郎に憧れる若い渡世人である半次郎は、飯岡の助五郎一家に殴り込みをかけて追われることになる。また、「関の弥太っぺ」では主人公の関の弥太郎は飯岡方の助っ人になり、兄弟分の箱田の森介は笹川の繁蔵方についている。ふたりは、大利根河原で鉢合わせする。

●股旅映画には日本人の心情を描いた名作が多かった

股旅映画は、いつ頃から作られなくなったのだろう。「木枯し紋次郎」がニュー股旅ものとして人気になったのは、七〇年代前半だった。テレビシリーズを担当した市川崑監督は、リアルな「股旅」(1973年)という作品をアートシアター・ギルドで制作した。市川崑監督は「帰って来た木枯し紋次郎」(1993年)も作っていて、もしかしたら日本映画で股旅者が主人公になった最後の映画かもしれない。時代劇だって、今ではほとんど作られていない。まして、股旅映画など、ここ何十年も見たことがない。もっとも、笹沢佐保が木枯し紋次郎を創作しニュー股旅ものがヒットするまでにも、長い空白期間があった。

しかし、六〇年代には中村錦之助や市川雷蔵が主演する、股旅映画の名作が目白押しだったのだ。錦之助には「瞼の母」(1962年)があり、「関の彌太ッペ」(1963年)があり、「遊侠一匹 沓掛時次郎」(1966年)があった。市川雷蔵には「沓掛時次郎」(1961年)があり、「中山七里」(1962年)があり、「ひとり狼」(1968年)がある。その中でも、僕が愛してやまないのは「関の彌太ッペ」であり、「ひとり狼」である。どちらも僕の生き方の根本に影響を与えた映画と言ってもいい。少なくとも、その二本の股旅映画を見ていなければ、(いいか悪いかは別にして)今のような僕にはなっていないだろう。

関の弥太郎は親切で人情あふれる旅人として登場し、利根川沿いの取手の宿の近くで女の子を助けて祖母の旅籠に送り届ける。しかし、訪ね当てた妹が死んでいたと知って絶望し、助っ人家業の一匹狼として十年を生き、今では凄惨な顔に変わり果てていた。飯岡の助五郎一家と笹川の繁蔵の大利根河原の喧嘩で、飯岡方に雇われた弥太郎は笹川方の助っ人に恩人がいることを知り、飯岡方を裏切る。飯岡の助五郎一家は、裏切り者として執拗に弥太郎を追う。一方、弥太郎は十年前に助けた娘が美しく育ったことを聞いて、遠目からそっと見届けようとするが、弟分の森介が娘を助けた恩人だと偽って旅籠に逗留していることを知る。

娘と旅籠の難儀を解決しようと急ぐ弥太郎の前に、飯岡の助五郎一家が立ちふさがる。弥太郎は今は外せない用事があるから、刻限を決めてくれれば必ずいくと告げる。娘を助けた弥太郎は、今は弥太郎が本当の恩人だと気づいた娘の呼び声を振り切って、飯岡の助五郎一家が待ちかまえる場所へ一歩一歩踏みしめながら近づいていく。その後ろ姿に「完」の字が重なり、作品完成時の撮影所内試写では絶賛されながらも「立ちまわりの直前で終わる股旅ものってありか?」という声もあがった。それでも、「監督デビュー三作めで名作を作ったな」と、山下耕作は所内で一躍話題になった。何度見ても、凄い映画だと僕も思う。何度見ても、同じところで僕は泣く。

ちなみに大利根河原の決闘を背景にしているのは、勝新太郎の代表作「座頭市物語」(1962年)だ。市が旅人として草鞋を脱いでいるのが、飯岡の助五郎一家である。ある日、市は釣りをしている浪人(天知茂)と知り合う。彼の名は、平手造酒。ラストは助五郎一家と繁蔵一家の喧嘩であり、市と平手造酒の一騎打ちが見せ場になっている。もっとも、助五郎も繁蔵もろくでもないやくざに描かれていて、市はどちらにも荷担しない形になる。それでも、市が友情を抱いた相手である平手造酒と、一騎打ちをせざるを得なくなるのが切ないラストだった。

2016年11月24日 (木)

■映画と夜と音楽と…752 忍者たちはプロレタリアートか?


【十七人の忍者/忍者狩り/忍者秘帖 梟の城/風の武士/赤い影法師/忍びの者】

●近鉄特急で名古屋から伊勢神宮へ向かった

仕事を完全リタイアしてから僕にしては珍しく、自宅と実家を行き来する間を利用して少し旅行をしている。京都と奈良にいき、金沢をまわり、今回、実家から自宅へ帰る途中に伊勢神宮にいったみた。年を重ねると、やはり一度はいっておきたいと思うようになったのだ。伊勢神宮を詳しく紹介するテレビ番組を見た影響もある。テレビの旅番組は昔からよく見ていたが、最近は自分でもいってみたくなる。

十一月半ば、高松から名古屋へいき、そこでかみさんと落ち合った。名古屋駅から街をブラブラして名古屋城まで歩き、金の鯱を見た。帰りは別のルートで古い町並みや商店街を抜け、名古屋駅から栄までいきホテルに泊まった。翌朝、近鉄特急で伊勢市に入り、まず外宮をまわった。内宮まで距離があるということだったけど、最近は歩くのが苦にならないのでかみさんとブラブラ歩き、途中、フレンチ・レストランでランチをして内宮に到着。後で調べたら、人気のあるレストランだったらしい。

内宮は確かに広い。テレビ番組で教えてもらった穴場の撮影場所なども見てまわり、三時過ぎにはけっこう疲れてしまった。バスで伊勢市駅まで戻り、JRの各駅で泊まる予定の津まで戻ろうと誰も乗っていない列車に腰掛けていたら、不審に思ったのか車掌さんに行き先を訊かれた。「津です」と答えると、「この電車、途中で二十分ほど止まったりしますから、松阪駅で後からくる快速に乗り換えた方がいいですよ」と教えられた。それで、二両の電車から四両の快速に乗り換えて津に到着し、ホテルに入ってから夕食に出た。

翌日は、伊賀上野にいく予定だった。JRで亀山駅までいって乗り換えなのだが、奈良方面からやってきた二両の電車が目の前で切り離され、一両で伊賀上野へ向かう。四十数分、山の中を走る各駅列車を楽しんで、伊賀上野で降りると駅前には数台のタクシーが停まっているだけで、人もいないし、店も開いていないし、何もない。駅で訊くと、そこから私鉄に乗り換えて上野市駅で降りると、観光案内所などもあるという。しかし、もう降りてしまったので、タクシーに乗り、お城に向かうことにした。

伊賀上野は、忍者と芭蕉の街である。お城を囲む公園には、忍者博物館や芭蕉の記念館もある。まず、忍者博物館に入る。入り口を間違って別の引き戸から入ると、いきなり抜き身を持ったおじさんが目の前にいた。おじさんは数人の観光客相手に、忍者刀の解説をしているのだった。持っている刀は、実際のものと同じ重さがあるという。客には手に取らせて重さを実感させるらしく、僕も抜き身を差し出されて受け取った。確かに重い。かみさんも重さを実感したらしい。

土間での解説が終わると座敷に上がり、忍者屋敷のからくりをくノ一姿の若い女性が解説してくれる。壁のどんでん返しや隠し部屋など、隣にいた中国人の若い女性はいちいち感心して声を挙げていた。今は外国の観光客の方が「ニンジャ」に興味があるのかもしれない。TBSテレビの「サスケ」は、「ニンジャ・ウォリアーズ」といった名前でアメリカでも放映されているようだし、アニメの「ニンジャ・タートルズ」も最近、ハリウッドで実写化された。

マコ岩松が東洋の某国の重要人物で、彼を守るボディガードとして雇われた主人公(ジェームス・カーン)が襲いくる忍者たちを拳銃で撃ちまくったのは、サム・ペキンパー監督の「キラー・エリート」(1975年)だった。もう四十年前の映画になった。船の墓場のような廃船が浮かんだ海の真ん中で、忍者たちは後から後から現れる。ペキンパーが全盛期から下り坂に入った時期の作品だが、僕は早川書房から出ていた原作を読んでいたので期待して見にいったものだった。もちろん、撃たれた忍者はスローモーションで海中に落ちていく。

●六〇年代の初めには司馬遼太郎も忍者小説を書いていた

僕が小学生の頃、忍者ブームが起こった。少年漫画誌の巻頭特集には「これが忍者だ」という図解が掲載され、組立付録には十方手裏剣がついていた。白土三平が「サスケ」を連載し、横山光輝が「伊賀の影丸」や「片目猿」を連載した。「伊賀の影丸」の得意技は「木の葉隠れ」で、連載を重ねるにつれて木の葉の渦はダイナミックになった。後年、山田風太郎作品をほとんど読破したとき、「伊賀の影丸」第一部に出てくる特異体質を持つ敵の忍者たちは、風太郎の忍法帖シリーズにヒントを得ているのだとわかった。

忍者ブームは、小説から始まったのだろうか。山田風太郎の忍法帖シリーズはエログロ扱いされたが、柴田錬三郎や司馬遼太郎などの忍者小説も人気があった。五味康輔の「柳生武芸帖」も忍者である霞の兄弟が活躍する。マンガでは、白土三平の功績が大きいだろう。物語の間に術を合理的に解説し、リアルな忍者物語を描いた。「忍者武芸帖」(1967年)は、大島渚監督が映画化(アレを映画化というのか自信はないけれど)した。リアルな忍者映画を大量生産したのは、東映だった。「伊賀の影丸」(1963年)だって、松方弘樹主演で映画化されたのだ。不死身の忍者・阿魔野邪鬼は、山城新伍だった。

東映は、忍者ブームで制作した作品でいくつかの名作を生み出した。「十七人の忍者」(1963年)や「忍者狩り」(1964年)などである。どれも、リアルな描写が特徴だった。忍者とは訓練された人間のことであり、スーパーマンではないという前提で、これらの集団抗争時代劇は作られている。「十七人の忍者」は城の奥深くに守られたお墨付きを奪う使命を帯びた十七人の幕府の隠密たちが、ひとり、またひとりと命を落としながら、使命を果たそうとする物語であり、「忍者狩り」は幕府隠密によって改易になった藩の浪人たちが隠密に狙われた藩に雇われ、幕府から送りこまれた忍者たちを狩り出す物語である。

「十七人の忍者」で幕府隠密の忍者たちを迎え撃つのは、雇われ忍者の近衛十四郎である。彼は根来の忍者であり、忍者の怖さを知らない城の侍たちの理解を得られないまま孤独に戦う。「忍者狩り」でも、忍者たちを狩り出す浪人たちの首領を近衛十四郎が演じている。草として藩に潜入している忍者を狩り出すために、彼は怪しいと思われる藩士数人を縛り、ひとりずつ斬っていくという残忍さを見せる。その徹底したやり方をに藩士たちが離反し、ここでも彼は孤立する。悲壮な表情の似合う近衛十四郎だから、半死半生で敵の大将・闇の蔵人と差し違えるシーンは実に壮絶だ。

こうした東映の忍者映画は六〇年代前半から作られ始めた。錦チャンやひばりの明朗時代劇が飽きられ、リアルな殺陣や残酷描写が時代劇に取り入れられたのだ。その頃、後に国民作家となる司馬遼太郎も忍者小説の担い手で、東映でいくつか映画化されている。ひとつは直木賞受賞作「梟の城」を工藤栄一監督が映画化した「忍者秘帖 梟の城」(1963年)であり、ひとつは加藤泰監督が映画化した「風の武士」(1964年)である。「風の武士」の主人公を演じた大川橋蔵には、柴田錬三郎原作の「赤い影法師」(1961年)もある。

司馬遼太郎の「梟の城」は、中井貴一主演で三十六年後にリメイクされた。監督は篠田正浩である。最初に主人公の葛籠重蔵を演じたのは、大友柳太朗だった。ヒロインは高千穂ひづるだったが、リメイク版では鶴田真由になった。伊賀忍者の重蔵は信長の伊賀攻めを生き延び、やがて太閤秀吉の命を狙うようになる。重蔵に対抗心を燃やす同じ伊賀忍者の風間五平や、敵方の甲賀忍者・魔利洞玄、徳川に雇われた服部半蔵など、様々な忍者群が登場する血沸き肉躍る大活劇だ。司馬さんも、若い頃にはこんな楽しい物語を書いていた。

●「忍びの者」は左翼思想を基調にしたプロパガンダ映画か?

映画界に忍者ブームを呼び起こしたのは、もしかしたら市川雷蔵が主演した「忍びの者」(1962年)だったのかもしれない。大映で作られたこの作品は大ヒットしてシリーズ化され、八作まで作られた。ただし、最初の主人公は石川五右衛門で、途中から「忍びの者 霧隠才蔵」(1964年)のタイトルで霧隠才蔵が主人公になった。テレビでも一年間の連続時代劇(1964年7月~1965年7月)として放映さた。主人公の石川五右衛門を演じたのは品川隆二。どちらかと言えば、僕はテレビ版の方に思い入れが強い。

「忍びの者」は、冒頭、若き石川五右衛門が頭領の百地三太夫の妻に誘惑され密通する。それをたてに五右衛門は頭領から信長暗殺を命じられ、京都に潜入する。何度か信長暗殺を試みるが失敗し、合理主義者の信長は忍者の存在が許せず伊賀攻めを行い伊賀は壊滅状態になる。その戦いの中で、五右衛門は百地三太夫と対立する一方の頭領である藤林長門守が百地と同一人物だったのを知る。百地三太夫を演じたのは怪優・伊藤雄之助で、百地三太夫として登場した彼は、忍者屋敷のからくりを使って百地砦を抜け出し、変装して藤林長門守になるシーンがある。観客には早くから二人が同一人物だと知らされるのだ。

「忍びの者」シリーズは市川雷蔵の代表作になったが、監督の山本薩夫にとっても大ヒット作となり、その後の映画製作がやりやすくなった。中学生の僕は、山本薩夫監督は左翼の人だと思っていた。戦前からマルクス主義に傾倒し、戦後は東宝の大労働争議で組合側闘士として活躍し、日本共産党に入党した人である。作る作品も共産党的なものが多かった。その監督が、何と「忍びの者」を作ったのだ。僕は意外な気がしたが、ある人から「忍びの者」の原作者である村山知義は戦前からのプロレタリア作家なのだと教えられた。

えー、だとすると「忍びの者」もプロレタリア文学なのかと思い、学校の図書館にあった分厚い「忍びの者」を借り出した。何とか読了した僕は、どこがプロレタリア文学なのかわからなかったが、「忍びの者」は一九六〇年十一月から一九六二年五月まで日本共産党の機関誌「赤旗」に連載されたのは確かだった。プロレタリア文学ではなかったにしろ、左翼的プロパガンダが展開されているのかもしれなかった。「赤旗」に連載された小説を、日本共産党御用達である山本薩夫監督が撮るのは何の不思議もないではないか。しかし、主演の市川雷蔵は、そんなことは関係なかったのだろうなあ。

もしかしたら民衆と権力の構図を、戦国時代の武将たちの権力闘争と虐げられた忍者たちの関係の中に描いたのか。そんなことを、僕は考えた。同じ頃、白土三平の「忍者武芸帖 影丸伝」は唯物史観によって描かれた作品だという批評を何かで読み、そんな小難しいものなのかとも思った。白土三平はすでに月刊漫画誌「ガロ」で「カムイ伝」を連載しており、「その唯物史観に貫かれた権力者と民衆の関係を深化させている」と、ある批評家は分析しており、単におもしろいマンガとして読んでいた僕は、そんなことはまったく理解できず、コンプレックスを抱いた。

ということで、今でも市川雷蔵(藤村志保もよいです)の「忍びの者」を見ると、僕の頭の中には「唯物史観」だとか、「左翼プロパガンダ」だとか、「プロレタリアート」だとか、「日本共産党」といった言葉が浮かんでくるのである。

2016年11月18日 (金)

■映画と夜と音楽と…751 映画は戦場だ


【最前線物語/拾った女/東京暗黒街 竹の家/四十丁の拳銃】

●「気狂いピエロ」のパーティーシーンに登場する映画監督

「サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか」は、僕の「映画がなければ生きていけない」シリーズと同じA5判・上下二段組で七百五十頁を越える枕本だった。背幅は五センチある。四百字原稿用紙に換算すると二千枚を優に越えるだろう。価格も六千円だ。しかし、一九〇二年に生まれ、二十代から映画の脚本を書き始め、第二次大戦には志願して歩兵として従軍し、戦後、「地獄への挑戦」(1949年)で監督デビューし、一九九七年に八十五歳で亡くなるまで、映画を作り続けた男の全人生を語るには足りなかったのかもしれない。

僕がサミュエル・フラーの名を知ったのは、十八歳のときに見たゴダールの「気狂いピエロ」(1965年)に印象的に登場したからだった。ジャン=ポール・ベルモンドが最初の方でパーティに出かけるのだが、そのパーティで壁にもたれてグラスを持つサングラスのアメリカ人が出てくる。彼は映画監督だという。ベルモンドは「映画とは何ですか?」と問いかけ、彼はひと言「映画は戦場だ」という印象的なセリフを吐く。それがサミュエル・フラーの初めての映画出演だった。もちろん、ゴダールはサミュエル・フラー監督にオマージュを捧げているのである。

映画監督が尊敬する監督がいる。サミュエル・フラーも後進の監督たちにレスペクトされ、その後、様々な映画に出演している。ドイツ出身のヴィム・ヴェンダース監督に乞われて、「アメリカの友人」(1977年)「ことの次第」(1981年)「ハメット」(1982年)に出ているし、フィンランド出身のアキ・カウリスマキ監督の「ラ・ヴィ・ド・ボエーム」(1992年)にも出演した。映画監督たちに尊敬され、その風貌を買われて彼らの作品によく登場したということで、昔から僕はサミュエル・フラー監督と鈴木清順監督は共通すると思っている。サミュエル・フラー作品は、日活時代の鈴木清順作品のように、カルト的な人気を誇っていた。

サミュエル・フラー監督は自伝を読むと早熟だったらしく、父親の死後、家族とニューヨークに出て十一歳から新聞の売り子を始め、やがて新聞社の小僧に潜り込んで編集長に可愛がられ、別の新聞社に十六歳の新聞記者として雇われる。その後、小説を書き始め、初めての小説は一九三五年に出る。二十三歳のときである。小説は亡くなる四年前の一九九三年まで書き続け、十二の作品を発表した。映画の脚本は一九三六年、二十四歳で手がけ、一九三八年には年間で三本が映画化されている。その後、作品数が減少するのは、軍に志願し歩兵としてヨーロッパ戦線で戦ったからである。

「戦争映画を得意とした監督」と言われることが多かったサミュエル・フラーだったが、本物の戦争を何年も経験していたのだ。自伝の中でも従軍中の話には多く割かれていて、百五十頁ほどのヴォリュームである。写真も掲載されていて、中にはロバート・キャパがフラーを撮影したものもいくつかある。フラーは三年間に及ぶ歩兵時代を後に「ビッグ・レッド・ワン」(1980年)という小説にまとめ、それを原作に「最前線物語」(1980年)を作る。日本公開は、一九八一年の一月末だった。今でも僕は、「最前線物語」の公開を待ちわびていた頃を憶えている。サミュエル・フラー監督作品としては、異例の前宣伝が行われたものだった。

百戦錬磨のベテラン軍曹を演じたのは、リー・マーヴィンだった。彼の小隊に配属される若き兵士たちは、マーク・ハミル(「スターウォーズ」の三年後ですね)などが演じた。兵士たちは軍曹に指揮され、様々な戦場を経験し、兵士として鍛えられていく。そして、ノルマンディー上陸作戦がやってくる。淡々とした描き方なのだが、戦場のリアリティのようなものがスクリーンから伝わってきた。後に「プライベート・ライアン」(1998年)が「まるで本物の戦場のようだ」と言われたが、あれは音響などによるテクニカルなもので、「最前線物語」のジワジワと伝わってくるものとは違っていた。ちなみに、スピルバーグ監督の「1941」(1979年)にもフラー監督は出演している。

●サミュエル・フラー監督はフィルム・ノアールを得意とした

サミュエル・フラーが監督として最初にヒットさせたのは、「鬼軍曹ザック」(1951年)である。僕は、この映画は朝鮮戦争を舞台にしていると思っていたが、何とアメリカ公開が一九五一年の一月だった。朝鮮戦争が始まったばかりの頃に映画化していることになる。映画の中に、おかしな仏像が登場したり、東洋の描き方に違和感を感じる部分もあるのだけれど、今では貴重な作品になっている。自伝を読むと、五作目の「パーク・ロウ」(1952年)は十代で経験した新聞業界を扱った作品らしく、興味を引かれるが僕は見ていない。六作目の「拾った女」(1953年)はフィルム・ノアールとして名高く、昔、見たことがある。主演は、僕の大好きなリチャード・ウィドマーク。冒頭、ウィドマークが電車の中でスリを働くシーンが印象的だ。

僕にとってサミュエル・フラーは「戦争映画の監督」ではなく、「フィルム・ノアールの監督」だった。まず、東京を舞台に撮った「東京暗黒街 竹の家」(1955年)がある。伝説の映画である。主演は、後にテレビシリーズ「アンタッチャブル」のエリオット・ネス役で日本でも有名になるロバート・スタックだ。彼が選ばれた理由は日本では有名ではないので、ロケでも騒がれないだろうということだった。あるアメリカ人が殺され、彼の友人がアメリカからやってくる。男は殺された男の妻(シャーリー・ヤマグチ)と恋仲になったり、日本の警部(早川雪洲)と連携したりして、東京に巣食うアメリカ人ギャング団を突き止める。

冒頭でアメリカ人が殺される場所は、富士山が見えている。フジヤマ、ゲイシャくらいの認識しかない時代のハリウッド映画だから、日本人が見ると変なところは多いのだけど、当時の東京の光景は貴重だ。最後の銃撃戦は、銀座松屋デパートの屋上遊園地を使っている。ギャング団のボスはロバート・ライアン。キャストも豪華だった。シャーリー・ヤマグチは山口淑子のこと。戦争中は、中国人スター李香蘭として活躍した。戦後、山口淑子の名で黒澤明作品などに出ていたが、ハリウッドに渡りシャーリー・ヤマグチとして出演した。当時、彼女は彫刻家イサム・ノグチと結婚していた。

昨年だったか、WOWOWで「フィルム・ノアール特集」として、「クリムゾン・キモノ」(1951年)と「殺人地帯U・S・A」(1961年)が放映された。どちらも、サミュエル・フラー監督作品だ。「クリムゾン・キモノ」は、最初に女が射殺される事件があり、戦友だったふたりの刑事が登場する。白人と日系人の刑事だ。日系人刑事を演じたのが、ジェームス繁田。年とってからのジェームス・繁田はよく見たが、若い頃の姿を見るのは初めてで、ハンサムなのに驚いた。ロサンジェルスの日本人街リトル・トーキョーが背景になっていて、タイトルからわかるように日本文化がいろいろ登場する。

ふたりの刑事は事件を追い、ある証人を見つける。美人のアーチストだ。彼女をふたりで護衛することになり、白人刑事がひと目惚れをする。しかし、ある夜、日系人刑事と彼女が親密になり、親友が惚れている相手だと日系人刑事は自分の心を抑制するが、彼女は日系人刑事に好意を寄せる。それを知った白人刑事と日系人刑事の対立があり、戦友だったふたりの間に亀裂が入る。そのとき、日系人差別の問題を出してくるのが唐突な感じがしたけれど、戦後十四年という時代性を考えれば、そういうものかとも思う。アメリカ人の多くは「ジャップ」と口にしていたし、パールハーバーを忘れていない。

「殺人地帯U・S・A」の主人公の少年が成長してクリフ・ロバートソンになって出てきたときは、懐かしいなあと思った。六十年代に主演作が何本かあるB級スターである。悪ガキだった主人公は、ある夜、路地裏で父親が三人の男たちに殴り殺されるのを目撃する。やがて成長し、刑務所から出獄した主人公は暗黒街の組織に潜り込む。そこで、父親の仇を見つけ、復讐を始めるのだ。典型的なB級ノアールだが、当時の観客にはショックを与えただろうと思えるシーンがいっぱいある。サミュエル・フラー作品には大スターは出てこないし、あまりお金もかかっていない。B級作品の扱いだったのだろうか。

●「四十丁の拳銃」は異色西部劇として突出している

サミュエル・フラー監督の人気は、日本で言えば東宝の岡本喜八、東映の加藤泰、大映の三隅研次、日活の鈴木清順といった職人監督たちの評価と共通するものがある。大作は作っていないが、戦争映画、暗黒街映画、西部劇などを地味な俳優を使って作り続け、カルト的な人気が出て、ゴダールやヴェンダースなどの芸術派監督たちにオマージュを捧げられ、そのことで改めて脚光を浴び過去の作品が注目された。「気狂いピエロ」に出演した頃、サミュエル・フラーは五年間も新作を撮っていない。その後、評価が高まり、代表作「最前線物語」を作る。映画会社も力を入れて広報宣伝をするような扱いになった。しかし、すでに七十近くになっていた。

僕が一番好きなサミュエル・フラー作品は、「四十丁の拳銃」(1957年)だ。当時、日本で名を知られていたのは、女牧場主役のバーバラ・スタンウィックくらいではなかろうか。他の出演者たちはバリー・サリヴァン、ディーン・ジャガーと言われても、今では誰も知らないだろう。もっとも、僕もバーバラ・スタンウィックを知るのは、この映画から十年近く後、テレビシリーズ「バークレー牧場」の女牧場主としてだった。新人リー・メジャースの人気が出た「バークレー牧場」の母親役バーバラ・スタンウィックは、馬に乗る姿も凛々しくて見事だった。

後に「四十丁の拳銃」を見て、この映画に出たから「バークレー牧場」の役をオファーされたのではないかと僕は思った。映画が始まってすぐ、見事なシーンがある。主人公が街道を馬でやってくると、馬の大群がやってくる。バーバラ・スタンウィックを先頭に、四十人の男たちが四十頭の馬に乗って疾駆してくるのだ。馬群が主人公をかすめて走り抜けていくのだが、その撮影がすごい。ローアングルのカットなどをインサートして細かく編集し、迫力を出す。イーストウッド監督主演「ペイルライダー」(1985年)の冒頭シーンは、このシーンに影響を受けているのではないか。「四十丁の拳銃」を見ることができたのは二十年ほど前のことで、いろんな映画を見て驚かなくなっていた僕が、「凄い」と思わず口にした。

----「四十丁の拳銃」は、異色西部劇にしたかった。キング・ヴィダーの「白昼の決闘」(46)、アンソニー・マンの「復讐の荒野」(50)、ニコラス・レイの「大砂塵」(54)といった、わたしに霊感を与えてくれた先駆的異色西部劇群に比肩するものにしたかったのだ。

フラーは、自伝にそう書いている。結果は、ここに例として挙げられた西部劇以上のものになったと僕は思う。それにしては、見ている人が少ないし、西部劇ファンの人でも見ていない人がいる。「四十丁の拳銃」は必見です。ビリー・ワイルダー監督がレイモンド・チャンドラーと喧嘩しながらシナリオを仕上げた作品「深夜の告白」(1944年)と並んで、バーバラ・スタンウィックの代表作でもある。

2016年11月10日 (木)

■映画と夜と音楽と…750 ハズレのないふたり


【ハドソン川の奇跡/フライト】

●世界中の人々が知っている事件をどのように描くのだろう

見たいなあと思っていたのだけれど、人に強く勧められてクリント・イーストウッド監督、トム・ハンクス主演の「ハドソン川の奇跡」(2016年)を見た。「イーストウッドとトム・ハンクスにハズレなし」とつぶやきながら、僕は映画館に向かったものだ。最近の映画は二時間ないとダメと思っているのか、どれもこれも二時間前後あり、長い作品だと三時間近くあるのも珍しくない。よい映画なら時間を忘れるが、二時間が長いと感じる作品も多い。しかし、「ハドソン川の奇跡」は九十六分である。ただし、ラストのクレジットタイトルも見逃してはいけないから、九十六分すべてを見てほしい。

世界中の人々が知っている事件を扱っているだけに、どのように描くのだろうと思っていたが構成がすばらしい。冒頭にワーナーのクレジットタイトルが出た途端、すぐにコクピットからの緊急通信が始まった。音声だけで、映画が始まる前から緊張させる。実は構成について詳しく書くだけでネタバレになる部分があり、あまり触れられない。しかし、回想を巧みに織り交ぜながら、現在時(不時着水後)の進行を見せていく。機長(サリーの愛称で呼ばれ、それが原題になっている)の判断は正しかったのか、空港へ引き返せたのではないか、と事故調査委員会に疑われ、パイロットの職を追われるかもしれないストレスを受けているのが現在時である。

ラストのクレジットタイトルに出てきた原作本の著者には、機長ともうひとりの名前が出ていた。機長に取材して、プロのライターが書いているのだろう。原作がどのように書かれているのか興味があるが、映画的には時制を超越する構成にしたのかもしれない。映画は、自由に回想シーンを入れられる。機長が複葉機で操縦を習い始めた青年(さすがにトム・ハンクスは演じていない)の頃の思い出、軍に入っていたのかジェット戦闘機が故障しながらも見事に着陸させた思い出などが、いきなりインサートされたりする。ちなみに戦闘機シーンのパイロットの声はトム・ハンクスだったが、ヘルメットとマスクでパイロットの顔はわからなかった。

トム・ハンクスの声としゃべり方は、僕もすっかりなじんでいる。落ち着いた穏やかなしゃべり方だし、日本風に言えば口跡がいい。ハドソン川に着水し、水が入ってくる機内で乗客たちに「救命胴衣をつけて外に出てください」と誘導するシーンがあるけれど、あの声としゃべり方で言われたらパニックは起こらないのではないか。観客はトム・ハンクスに感情移入するだろうから、調査委員会の連中がみんな悪役に見えてくる。もちろん、ラストで観客をスカッとした気持ちにさせるために、彼らは映画の中の憎まれ役に設定されているのだ。百五十五人の乗客を救った英雄を、彼らは「空港に引き返せたのに、あえて乗客を危険にさらす判断ミスをした機長」として扱う。

デンゼル・ワシントンの映画に、「フライト」(2012年)という作品がある。監督はロバート・ゼメキス。主人公の機長は突然の故障に遭遇し、とっさの判断で奇跡的な不時着をする。しかし、その後、事故調査委員会に不審を持たれ、操縦中にアルコールを摂取した疑いが浮上する。副操縦士の証言や乗員たちの証言が、それを裏付ける。真相はどうなのか、機長はどう行動するのか、と思わせ、ラストまで目が離せない。この作品は、「ハドソン川の奇跡」と騒がれた事故の後に作られたもので、僕はそれにインスパイアされたのではないかと思いながら見たものだった。

●八十六歳のイーストウッドも六十歳のトム・ハンクスも絶好調

それにしても、八十六歳のクリント・イーストウッド、六十歳のトム・ハンクス、どちらも絶好調ではないか。トム・ハンクスは僕より五歳若いが、イーストウッドの出世作であるテレビ・シリーズ「ローハイド」を子供の頃に見ていた世代だ。「荒野の用心棒」(1964年)の頃は八歳、「ダーティ・ハリー」(1971年)の頃でも十五歳である。そのふたりが初めて組んだのが「ハドソン川の奇跡」だ。イーストウッドが監督あるいは出演した作品にハズレはないし、トム・ハンクスが出ていれば落胆することはない。

自身が主演し監督した「グラン・トリノ」(2008年)で頂点を極めたと僕は思ったが、その後もイーストウッドは作品を作り続け、どの作品も水準以上というすばらしさである。「インビクタス/負けざる者たち」(2009年)「ヒアアフター」(2010年)「J・エドガー」(2011年)「ジャージー・ボーイズ」(2014年)「アメリカン・スナイパー」(2014年)と続いている。さらに、監督はしなかったが野球の老スカウトマンを演じた「人生の特等席」(2014年)は、気持ちのよい作品だった。「グラン・トリノ」と同じように偏屈で口の悪い老人を演じると、イーストウッドの魅力が満開になる。

僕が初めてイーストウッドを見たのは、たぶん「ローハイド」だと思うのだけれど、その記憶があまりない。だいたい、「ローハイド」は四国高松で放映されていなかったのではないか。長く続いたシリーズだから、後半は放映されたのだろうか。僕にとってクリント・イーストウッドは、マカロニ・ウェスタン「荒野の用心棒」の名無しのガンマンだった。その後、「夕陽のガンマン」(1965年)「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」(1966年)が続き、高校生の時に見た大長編(何しろ三時間もある)「続・夕陽のガンマン」が大のお気に入りになった。

「続・夕陽のガンマン」は本筋とは関係のないエピソードが印象に残る。ある川の両岸で橋をめぐって南軍と北軍が対峙し、一進一退の攻防が続いている。賞金稼ぎのふたり、グッドガイのイーストウッドとアグリガイのイーライ・ウォラックは、その橋を通らないと大金を埋めた墓地にたどり着けない。そこで、戦いにうんざりしている隊長の遺志を汲んで、ふたりは戦いの対象になっている橋を爆破してしまう。しかし、その長いエピソードを全部カットしても(実際、テレビ放映ではカットされた)映画は成立する。でも、十六歳の僕はそのエピソードがあるから「続・夕陽のガンマン」が気に入ったのだ。

その時から、僕はイーストウッドとつきあってきた。五十年になる。その後、イーストウッドはドン・シーゲル監督と出会い、「ダーティ・ハリー」でハリウッド・スターとして認められ、同じ年に「恐怖のメロディ」(1971年)で初めて監督をする。ちなみに「恐怖のメロディ」の原題は「私に"ミスティ"をかけて」という意味で、ジャズ好きのイーストウッドらしいタイトルだった。「ミスティ」はジャズの名曲で、僕も何人かのプレイヤーが演奏したCDを持っている。

五十年に及ぶイーストウッドの出演作・監督作の中で、僕の好きな作品を三本選べと言われたら、「アウトロー」(1976年)「ペイルライダー」(1985年)「許されざる者」(1992年)とすべて西部劇になる。この三本は数えきれないほど見た。最高の作品はと訊かれたら、「グラン・トリノ」と答える。この映画は深い。ただし、若い頃に見たら違う受け取り方をしたかもしれない。その他、「スペースカウボーイ」(2000年)もあるし、初期の出演作「奴らを高く吊るせ!」(1968年)「マンハッタン無宿」(1968年)も楽しめる。本当にハズレのない(大きな声では言えないけれど、「ペンチャーワゴン」など出演作にいくつかハズレあり)人である。

●一九九三年がトム・ハンクスのエポック・メイキングの年

「スプラッシュ」(1984年)は「ブレードランナー」(1982年)のレプリカント役で注目され、人気が出たダリル・ハンナの主演作だった。抜群のスタイルのダリル・ハンナを見せるために、人魚の役を設定したのだ。その人魚に恋する青年をトム・ハンクスが演じた。僕は「スプラッシュ」で初めてトム・ハンクスを見たのだが、何だか瓢箪か空豆みたいな顔をした奴だなあと思った。瓢箪顔と言えば、フレッド・アステアである。フレッド・アステアを見ると「うらなり」という言葉が浮かぶ。しかし、トム・ハンクスとフレッド・アステアは特に似ていない。

その後、「ビッグ」(1988年)で子供の心を持つ青年(外見だけ大人になった少年の役)を演じ印象に残ったけれど、この作品で初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。しかし、僕がトム・ハンクスを「うまいなあ」と思ったのは、「プリティ・リーグ」(1992年)の監督役だった。このとき、トム・ハンクスは三十六歳だったが、役の印象はもっと年上の中年男だった。酔っぱらいで、いい加減な奴という登場の仕方だったが、実は名監督で選手たちを導き、適切な采配をし、選手たちの心をつかんでいく。「フラガール」(2006年)のダンス・コーチ役の松雪泰子は、このトム・ハンクスの演技を参考にしたと僕は推察している。

しかし、トム・ハンクスのエポック・メイキングの年は、一九九三年だった。この年、トム・ハンクスはメグ・ライアンとの「めぐり逢えたら」に出演し、ゲイの弁護士を熱演した「フィラデルフィア」でアカデミー主演男優賞を受賞する。ロマンチックな「めぐり逢えたら」では女性ファンを獲得し、「フィラデルフィア」ではエイズにかかり弱っていく姿を迫真の演技で見せた。ゲイの相手役は、後にラテン系のセクシー男優と騒がれるアントニオ・バンデラスだった。翌年、トム・ハンクスは「フォレスト・ガンプ/一期一会」で再びアカデミー主演男優賞を獲得し、二年連続受賞はスペンサー・トレイシー以来だと騒がれた。

あれから、二十年以上の時間が過ぎていった。僕が初めてトム・ハンクスを見たときから数えると、三十二年になる。三十二年前、僕は三十半ば。いろいろ迷いながらも、仕事に没頭していた。その頃は、「ビバ・ビデオ」というビデオ作品を制作する人向けの専門誌を編集していた。ソニーからは8ミリビデオカメラ、ビクターなどVHS陣営からはCカセットを使うビデオカメラが発売された頃だった。ビデオソフトの紹介頁もあったから、毎月発売される映画ソフトをチェックするのも仕事だった。トム・ハンクスのその頃の何本かは、ビデオソフトで見たのかもしれない。

ここ数年、少し肉がつき、それなりの年齢になったトム・ハンクスは、重厚な(口ひげを生やしているような)役をやるようになった。「ウォルト・ディズニーの約束」(2013年)ではウォルト・ディズニーを演じ、「キャプテン・フィリップス」(2013年)では、アフリカの海で海賊の人質になる実在のフィリップス船長を演じた。スピルバーグ監督と組んだ「ブリッジ・オブ・スパイ」(2015年)でも冷戦期にソ連スパイの弁護を引き受け、後にそのスパイとアメリカ人パイロットを交換する交渉を引き受ける実在の弁護士を演じた。そして、「ハドソン川の奇跡」でも実在の機長を演じている。船長、弁護士、機長----、そんな役がふさわしい俳優になった。

現在の貫禄あるトム・ハンクスを見ると、「それに比べて、おまえはどうだ」と問われている気がする。振り返ると、何だかハズレばかりの人生だった気がしないでもない。「おまえは、また裏目裏目に張ろうとするのか」という深作欣二監督作品のセリフに強い思い入れを持っていた若い頃の僕は、裏目にばかり張ってきた結果、ハズレを引き続けてきた気がする。しかし、それも自分の生き方だったと納得している。どんな生き方をしてきたところで、後悔しない人はいない。「わが人生に悔いなし」という感慨は、石原裕次郎の歌の中にしか存在しない(と思う)。「後悔ばかりの年月でした」というのが、ある時期の僕の口癖だった。

2016年11月 3日 (木)

■映画と夜と音楽と…749 中途半端な破滅型


【マイ・フェア・レディ/ガス燈/スタア誕生】

●五十作品を撮ったジョージ・キューカーという映画監督

国書刊行会から出た新刊「ジョージ・キューカー、映画を語る」を読んだ。原書は二〇〇〇年に発行された「on Cukor」だ。キューカー自身は、一八九九年にニューヨークに生まれ、一九八三年にロサンゼルスで死んでいる。舞台監督として活躍していたキューカーは、一九二九年、映画のトーキー化によってダイアローグ監督としてハリウッドに呼ばれ、やがて監督となった。生涯に五十本の作品を監督し、アカデミー賞に四度ノミネートされた後、「マイ・フェア・レディ」(1964年)でようやく監督賞を受賞したときは、すでに七十を越えていた。

ジョージ・キューカーと言えば「風と共に去りぬ」(1939年)をかなり撮り終わっていたときに、プロデューサーのセルズニックによって監督を交代させられたことが有名だ。本書の中でもそのことは触れられるが、キューカーは「過ぎたこと」として真相も明かさず、恨み言も言わない。「セルズニックとは友人だよ」と、ワンマン・プロデューサーもかばう。全編通して読むとキューカーの人柄がうかがえる。穏やかな常識人だったようだ。インタビュアーは、映画評論家で作家で脚本家だったイギリス人のギャビン・ランバートである。ロバート・マリガン監督「サンセット物語」(65年)の原作者であり、脚本も担当している。

インタビューは一九七〇年に行われ、最初の版は一九七二年に発行された。キューカーの死後、筆者のギャビン・ランバートが亡くなる五年前の二〇〇〇年に増補を加えて新版が発行された。その新版には「エピローグのあとに」と題する巻末の文章が加えられており、その冒頭に「私たちは互いの性的嗜好を知ってはいるが、キューカーは"慎みは大人の義務"と見なされていた時代に育った人物である。親友のサマセット・モーム、ノエル・カワード、そして何人かのハリウッドにおける仕事仲間と同様、キューカーは自らの私生活はあくまで"自分個人のもの"という姿勢を貫いてきた」とあった。

つまり、筆者のギャビン・ランバートは自分もキューカーも「ゲイ」だったと明らかにしたうえで、そのことがキューカーの映画作りには何も影響していないと断言している。インタビューが行われた頃、ゲイ・ムービーとして評判になった「真夜中のパーティ」(1970年)が公開され、キューカーも言及しているが、あまり評価はしていない。前年に作られた「真夜中のカーボーイ」(1969年)は主人公(ジョン・ボイド、アンジェリーナ・ジョリーのパパ)が男娼になる物語だが、監督のジョン・シュレシンジャーはゲイであることを明らかにしていた。

キューカーが生きた時代にゲイであることは、とてもきついことだっただろうと思う。筆者のギャビン・ランバートも一九二四年のイギリス生まれだから同じだ。「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(2014年)で描かれたように、イギリスでは戦後もずっと同性愛は法律で禁じられており、映画は主人公のアラン・チューリング博士が同性愛の罪で逮捕されるところから始まる。その取り調べによって、彼の戦争中の暗号解読への貢献が判明していくのだ。現在もロシアでは、まだ同性愛は法律で禁じられているのではなかったか。同性婚を認めようという動きがある一方、保守的な国や人々は同性愛をタブー視している。

●代表作「スタア誕生」に登場する典型的な破滅型スター

僕はジョージ・キューカー作品を熱心に見た人間ではないが、その何本かは強く印象に残っている。彼の代表作としてはキャサリン・ヘップバーンがジョーを演じた「若草物語」(1933年)、グレタ・ガルボが美しい「椿姫」(1936年)、日本では戦後に公開された「フィラデルフィア物語」(1940年)、イングリッド・バーグマンがアカデミー主演女優賞を受賞した「ガス燈」(1944年)、ジュディ・ガーランドの代表作「スタア誕生」(1954年)などがある。キャサリン・ヘップバーンとのコンビが多く、女優を魅力的に撮ることで評価の高い監督だった。

その数多い作品の中で、ハリウッドの重要な作品と言われるのが「スタア誕生」だ。主演のジュディ・ガーランドは芸人の子に生まれ、三歳からステージに立っていた。十三歳でMGMに入社し、「オズの魔法使い」(1939年)でアカデミー特別賞を受賞して、大人気を博す。彼女が農場で「虹の彼方に」を歌うシーンは、アメリカ人なら一度は見たことがあるだろう。日本人の僕だって何度も見た。日本で言えば、終戦後の「美空ひばり」みたいだった。誰もが、彼女を愛したのである。その後、子役時代から華やかな世界で生きてきたストレスのせいか薬漬けの生活となるが、「スタア誕生」で復活。すでに三十二歳になっていた。

ジュディ・ガーランドは歌手としての評価が高く、ずっとミュージカル映画に出演していた。「スタア誕生」は歌手の役であり劇中で歌うシーンも多いけれど、ミュージカルではなくシリアスなバックステージものだった。ハリウッドの裏側を描く作品である。ジュディ・ガーランドは、初めてシリアスなドラマを演じ評価も高かった。彼女自身、アカデミー主演女優賞を期待するほどだったのだ。しかし、絶対視された主演女優賞を逃し、再び失意の日々を送る。一九六九年、四十七歳のとき、ビンセント・ミネリ監督との間にできた娘ライザ・ミネリを残し、薬物過剰摂取により死亡した。

ジュディ・ガーランドの生涯を見ると、子供の頃からショービジネスの世界で生き、子役時代からアメリカ中の人々に知られ、有名人としての生活にスポイルされて薬物に走り、やがて早すぎた死を迎えるという典型的なハリウッドスターの一生に思える。皮肉なことに「スタア誕生」では、破滅的なハリウッドスターを演じたのは夫役のジェームス・メイスンだった。ジェームス・メイスンは人気のある大スターで、酒浸りの人物ノーマン・メインとして登場する。ハリウッドの大イベントのステージに酔って乱入しようとし、バックバンドの歌手エスターに救われる。

その夜、エスターの歌を聴いたノーマンは感銘を受け、ハリウッドのスタジオに紹介すると言い出す。エスターはせっかく得たバンドの専属歌手の地位を棄てることを迷うが、ノーマンの言葉を信じて新しい夢に賭けることにする。しかし、翌朝、迎えにくると言ったノーマンは、酔いつぶれたままロケ先に連れていかれ、エスターを迎えにいけない。そのまま長期ロケで身動きも取れない。エスターはノーマンに裏切られた形になるが、またウェイトレスの仕事に戻り、安い部屋に越して改めて歌手をめざす。ロケから戻ったノーマンはエスターを捜し当て、エスターはノーマンの紹介でスタジオと契約する。ノーマンが撮影所長に彼女の歌を聴かせ、エスターは主演を射止めスターとなる。

ところが、エスターと結婚したノーマンの酒浸りと奇行はますますひどくなり、仕事を失い、いつの間にか忘れられたスターになる。しかし、ノーマンはプライドだけは失わない。ノーマンを心配した撮影所長が持ってきた役が主演ではないからと断り、さらに酒浸りになり、とうとう泥酔して逮捕されてしまう。ノーマンを救うためにエスターは「自分が必ず立ち直らせる」と判事に訴え、実刑は免れる。エスターが自分のためにスターの座を棄てると撮影所長に語るのを聞いてしまったノーマンは、自分が妻の重荷になっていること、自分がいることで妻が仕事を辞めようとしていることを知り、自殺する。落ちぶれた元スターの自滅である。

●破滅型の人間に惹かれるのは破滅への衝動を抑えるためか

ジェームス・メイスンが演じたノーマンは、破滅的な人物である。登場した段階でアルコール依存症であり、はた迷惑な奇行ばかりを行い、その後始末をさせられる映画会社の広報マンはうんざりしている。彼がなぜ酒を飲み続けるのか、なぜはた迷惑な奇行ばかり行うのか、理由はわからない。そういう人間なのだ、というしかない。彼は、まっすぐ破滅に向かって進んでいる。破滅型人間の典型である。

日本で破滅型の典型として有名なのは、やはり太宰治である。若い頃から何度も心中未遂を起こし(一度は相手の女だけ死んでいる)、薬物中毒になり、戦後、再び心中を図り死んでしまった作家である。その他、昔の作家には破滅型の人間がけっこういた。その無茶苦茶さを小説に書いて名をなした人も多い。小説で読むぶんにはおもしろく切ないかもしれないが、周囲の人間にとっては迷惑だったに違いない。作家や芸術家ではない普通の人間が同じことをやったら、性格破綻者として社会的に葬られてしまうだろう。

このコラムを始めた頃(まだ四十代だった)、ニコラス・ケイジがアカデミー主演男優賞を獲得した「リービング・ラスベガス」(1995年)と根津甚八の鬼気迫る演技が忘れられない「さらば愛しき大地」(1982年)を題材にして、「破滅への甘い誘惑」(「映画がなければ生きていけない」第一巻一〇四頁参照)という文章を書いたことがある。その中で、僕は自分が破滅型の人生に惹かれつつも、現実的な世界でスクエアに生きていかざるを得ない存在であり、映画に登場する破滅型の主人公は自分の身代わりとして破滅してくれていると書いた。

あれから十六年経ったが、今も僕は同じ思いを抱いている。人生は生き辛い。素面でなど、生きていけない。アルコールに逃げたと言われても仕方がないが、つかの間の魂の救いを酒はもたらせてくれる。しかし、酔ったあげく、バカげたことをしでかすこともある。大怪我をしたこともある。死と紙一重だったな、と酔いが醒めて思ったことは数えきれない。顰蹙を買い、迷惑がられ、「二度とくるな」と酒場を追い出された。しかし、ときにはそんなことをしないと、この世を生きていけないのだ。

しかし、僕には映画や小説があった。物語の中で、破滅的な人物が破滅に向かって進んでいくのを読んだり見たりして、僕は破滅への衝動を抑制してきたのだと思う(だから、映画がなければ生きていけないのです)。映画の中で自ら破滅に向かって突き進む人物は、僕の身代わりなのだと今も思う。ということは、僕は破滅への衝動を持ってはいるが、それを抑えられる人間(中途半端な破滅型)だったのだ。だとすれば、少々、顰蹙を買う言動はあるけれど(僕よりひどい酔っぱらいは、何人も知っている)、普通の人々の一員ではないのか。そうであるならば、誰もが僕のように破滅への衝動を抱いて生きているのだろうか?

2016年10月27日 (木)

■映画と夜と音楽と…748 映画愛に充ちた映画たち


【ニュー・シネマ・パラダイス/ラスト・ショー/マイ・ファニー・レディ/シネマの天使】

●映画のポスターで自宅の壁を埋め尽くした

僕がひとりで暮らしている高松の家は、一階が六畳ほどの洋間に、六畳ほどのダイニングキッチン、洗面所と風呂、トイレがあり、二階が和室で六畳と三畳になっている。風呂と玄関が無駄に広く、トイレが狭い。階段は急で、手すりがなければ落っこちそうだ。酔ったとき(ほぼ毎晩だけど)には、気をつけなければならない。必要最低限の家具しかないので、白い壁が目立っていた。そこで、自宅から映画のスチルなどを送り、少し壁を飾っていたのだが、先日、高松のギャラリーで「外国映画ポスター展」というのが開かれ、全二百枚を即売していた。一枚三百円。嘘のような値段だった。

それに「第一弾」と銘打って開かれたのは「昭和三〇年代から五〇年代」のもので、僕にとってはストライクど真ん中だった。そこで、会場をまわりチェックしたポスターは二十枚ほどになった。少し多すぎるかと気が引けて厳選したが、それでも十二枚以下には削れない。結局、その十二枚を予約した。二週間ほどで会期が終了し、ポスターを受け取りにいき、帰宅するとすぐに壁を埋め尽くしてしまった。「ギャング」「ル・ジタン」「フリックストーリー」「マッキントッシュの男」「組織」「笑う警官」「ブリット」「眼下の敵」「北国の帝王」のオリジナルポスターである。

その結果、今、僕はリノ・ヴァンチュラ、アラン・ドロン、ポール・ニューマン、スティーブ・マックィーン、ロバート・デュバル、ロバート・ライアン、ウォルター・マッソー、ブルース・ダーン、ロバート・ミッチャム、クルト・ユルゲンス、アーネスト・ボーグナイン、リー・マーヴィンなどに囲まれて原稿を書いている。壁の一面は女優特集にしたので、「スエーデンの城」のモニカ・ビッティ、「軽蔑」のブリジット・バルドー、「いつも2人で」のオードリー・ヘップバーンの美しい顔がこちらを見つめている。

展覧会が開かれたのは朝日町にあるギャラリーMONで、コレクションの持ち主は四国新聞の元文化部長だと聞いた。ギャラリーMON代表のKさんは、「映画の楽校」のNさんに紹介してもらった。実はKさんは、映画館の支配人(だったか宣伝部長)をしていたそうで、昔の高松の映画館事情に非常に詳しい人だった。Kさんのいた中劇(中央劇場だったかな)は、僕が中学高校の六年間、毎週のように通った映画館である。中学一年生のときに中劇で「太陽がいっぱい」「リオ・ブラボー」「恐怖の報酬」の三本立てを見たせいで、僕は映画がなければ生きていけない体になった。僕をシネフィル(映画狂)にした元凶なのである。

僕が熱心に映画を見ていた十代、洋画はライオン通りにあったライオン館、田町にあったスカラ座が封切り館で、中劇のような三本立てをやってくれる映画館は救いの神だった。しかし、Kさんはそれ以前の映画全盛期を知る人で、高松市内だけで映画館が十数館あったという。東映だけでも「高松東映」「高松第二東映」「高松ニュー東映」と三館あったそうだ。Kさんは「よく客が入ったのは『シェーン』だったなあ」と言うくらいだから、昭和三十年代のもうかって仕方がない頃の映画館商売を経験しているのである。僕も父に連れられていった「第一電気館」とか「第二電気館」などを記憶しているが、僕が映画に熱中し始めた頃にはもうなくなっていた。

現在、高松にある映画館は「イオンシネマ」と名画座の「ソレイユ」だけである。「イオンシネマ」はイオンタウンの中のシネコンで、十近くのスクリーンがあるから、それだけの数の映画館があるのと同じだけれど、昔の映画館とは趣が違う。どこのシネコンも同じ作りで、映画の記憶と映画館の記憶が重なることはなさそうだ。僕には「『冒険者たち』はライオン館で見たな」とか、「『サウンド・オブ・ミュージック』は中学二年のときに満員のスカラ座で見た」という思い出があるが、そういう形ではもう映画館の記憶は残らないのではないだろうか。

●思い出の映画感が閉館するときに思うこと

映画館の思い出を持つ映画好きの人たちは、映画館の閉館に感慨深いものを感じるだろう。僕も高松にずっと住んでいたら、ライオン館やスカラ座、中劇などの閉館を知ったとき、さみしさを感じたに違いない。自分の十代の思い出が消えていくような気がしたのではないか。高校生になってからは、何度かガールフレンドと一緒にいったこともあったのだ。二十年ほど前、勤め先の近くにある飯田橋・佳作座が閉館したとき、大学時代によく通った映画館だったから、ひどくさみしい思いを抱いたものだった。僕は閉館した佳作座の前を昼休みによく通ったけれど、そこはいつの間にかパチンコ屋になっていた。

映画館の閉館に人生の思い出を重ねる物語は、映画館で映画を見てきた世代には、作品の出来の善し悪しは別にしてたまらないものがある。そのテーマだけで、作品の評価は甘くなる。映写機が映れば、それだけでゾクゾクする。その中でも、名作として名高いのは「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年)である。子供の頃から映画好きのトトは、村の教会が運営するパラダイス座の映写室に入り浸る。映写技師のアルフレード(フィリップ・ノワレ)は、トトに映写を手伝わせてくれる。戦死した父に代わる保護者のような存在だ。

ある日、可燃性のフィルムが映写機のライトで燃えだし、パラダイス座が火事になる。昔のセルロイド製のフィルムは、爆発するように燃え上がったのだ。その炎にあぶられてアルフレードは目をやられ、倒れた彼をトトは助け出す。パラダイス座は建て直され、トトは盲目のアルフレードを手伝って映写を続け、やがて青年になる。彼は恋をし、その恋が実る。しかし、ある日、理由もわからず彼女は彼の前から去る。その傷が彼の生涯をとらえ、彼は女性を信じられない。そんな彼にアルフレードは、「故郷を出ろ」と忠告する。

アルフレードの忠告に従ったトトは、ローマで映画監督として成功する。数十年後、アルフレードの訃報を聞いたトトは、初めて帰郷する。彼は自分の過去に向き合い、パラダイス座が壊されるのに立ち会う。そして、去っていった恋人の真の理由を知り、アルフレードが彼に遺したフィルムを受け取る。そのフィルムをローマに帰ったトトが試写室で映写するのがラストシーンになるのだけれど、作品全編を映画と映画館への思いがおおっていて、映画好きにはたまらない作品になった。エンニオ・モリコーネ作曲のテーマ曲も、今ではスタンダードとしてよく演奏される。

映画館の閉館を青春の終わりに重ねて描いた最初の映画は、「ラスト・ショー」(1971年)ではないだろうか。原作のタイトルは「ラスト・ピクチャーショー」で、五〇年代のテキサスが舞台だった。映画評論家として活躍していたピーター・ボグダノヴィッチ(僕は彼がジョン・フォードにインタビューした本を持っている)が監督した作品だ。ピーター・ボグダノヴィッチは映画マニアが監督になったような人で、自作の中で好きな映画にオマージュを捧げる。久しぶりの監督作品「マイ・ファニー・レディ」(2014年)でも、ヒロインを古い映画が好きな設定にしたり、ラストで映画狂クエンティン・タランティーノを登場させたり、セリフを拝借した先行作品のオリジナルシーンを流したり、ホントに映画が好きなんだなあと思わされる。

●映画はたくさんのことを教えてくれた

日本映画でも映画館の思い出を描いたり、時代の流れで閉館する映画館へのノスタルジックな思いを描いた作品はある。浅田次郎の原作を映画化した「オリヲン座からの招待状」(2007年)などは、その典型である。小説家は映画ファンが多いが、たぶん浅田次郎さんもそうなのだろう。これは想像だが、浅田さんも「ニュー・シネマ・パラダイス」にインスパイアされ、「映画館にまつわる物語」を書きたかったのではないか。浅田さんは、幽霊を登場させたり、タイムスリップを使ったりして、過去に対する思いを描く作家だ。郷愁、ノスタルジー、サウダージなどと表現される、胸の奥にせつなさが湧きあがる物語をつむぐ。

映画館を描くことは、郷愁と寂寥感を描くことに通じる。リュミエール兄弟がスクリーンに映写する形の映画シネマトグラフを発明したのが一八九五年、まだ百二十年ほどにしかならない。トーキーになってからでは、まだ九十年足らずだ。日本で最初の常設映画館「浅草電気館」ができたのが一九〇三年だから、百十三年前である。戦争があり、映画が全盛を極めるのは昭和三十年代前後のほぼ十年間に過ぎない。昭和三十年代後半からは急速にテレビが普及し、映画の観客は減り続ける。映画の歴史は短く、全盛期はさらに短い。まるで「平家物語」だ。だから、映画と映画館を描くことは、「全盛を極め滅びゆくものの美学」を描くことになる。

僕は知らなかったが、広島県福山市に百二十二年の歴史を持つ映画館があった。だとすれば、リュミエール兄弟のシネマトグラフの発明より古い。「浅草電気館」は最初の常設映画館だけど、その映画館「シネフク・大黒座」は当初は芝居などをかけていたのだろう。やがて、活動写真が人気になり、常設映画館になったのではないか。戦争で焼けて再建され、さらに改築され、二〇一四年に閉館した。「大黒座」が閉館するのを知って、企画されたのが「シネマの天使」(2015年)だった。阿藤快さん(映写技師役)の遺作になった作品である。監督は福山出身だという。自らの映画館の思い出を作品に託している。それだけで、映画好きの人間をうれしくさせてくれる。

「大黒座」に勤務するヒロインがいる。新人スタッフで映画館に思い入れがある方ではなく、そのまま系列のシネコンに移るのを屈託なく受け入れる。彼女の幼なじみのバーを営む青年は、子供の頃から大黒座に通うシネフィルで映画を作る夢を持っている。大黒座の社員のひとりは大黒座に思い入れが強すぎて、閉館するのなら辞職すると言い出す。支配人(石田えり)は、祖父が築き上げた大黒座を時代の流れで閉館せざるを得ず、複雑な思いを抱いている。彼女の古い知り合いで、元は極道だったらしい男(懐かしの岡崎二朗)は大黒座閉館に反対し、彼女に「金ならいくらでも貸す」と言う。

地方局のディレクターが「大黒座閉館」をテーマに、ドキュメンタリーを撮っている。彼は古い大黒座の写真を見ていて、ある老人がいつも写っていることに気づく。年代が違っても、その老人はいつも同じ姿なのだ。ある夜、新人スタッフのヒロインが館内を見まわっていると、その老人(ミッキー・カーチス)が観客席にいる。老人に話しかけると、「どんな映画館にも天使がいて、私が大黒座の天使だ」と告げる。この辺になると、僕は少しむずがゆい(気恥ずかしい)ものを感じたが、制作者たちの映画愛に免じて許すことにした。

そう、映画愛である。映画と映画館を描いた作品は、映画への深い愛情に充ちている。その作り手の思いが、見るものを感動させる。「シネマの天使」には、ラストのクレジットタイトルにさえ映画愛があふれていた。日本中の古い映画館、今はなくなってしまった映画館の写真が映されるのだ。僕が熱心に通った映画館もある。僕はいったことはないが、しかし、その土地の人にとっては様々な思い出があったであろう映画館が次々に現れる。「滅びゆくもの」への哀惜の念が湧きおこってくる。

劇中、シネマの天使であるミッキー・カーチスが、取り壊される大黒座の壁面を埋め尽くすように書かれた、観客たちのメッセージをひとつひとつヒロインに指し示し、語る言葉がいい。素直にグッとくる。

----映画は、彼にたくさんのことを教えてくれた。世界の国々についても、愛についても、人生についてもだ。

2016年10月20日 (木)

■映画と夜と音楽と…747 男が料理する姿は美しい


【起終点駅 ターミナル/深夜食堂】

●料理をすることは気分転換に大変向いている

亡くなった写真家の管洋志さんには、若い頃からいろいろなことを教わった。料理についても、ずいぶん教えてもらったものだ。いつ頃だろうか、管さんは「週刊現代」で「男の料理」といった連載を担当し、料理写真を撮り始めた。何を撮影してもうまい人だったが、土門拳賞受賞作家が料理写真に進出したのは意外な感もあった。その頃、料理写真の世界には二、三人の巨匠がいるだけで、料理写真家の多くは巨匠門下の人たちで占められていた。女性誌や家庭向けの雑誌には必ず料理ページがあり、料理写真家の需要は多かったのである。

その巨匠のひとりであるSさんの撮影現場を、僕もカメラ雑誌編集部にいたときに取材したことがある。様々なジャンルの写真の世界に僕が弟子入りするシリーズ企画で、その時には「料理写真家に弟子入り」というテーマだった。弟子入りするなら、料理写真家の第一人者であるSさんしか思い浮かばなかった。女性誌「JJ」の仕事のときに僕はスタジオに入れてもらい、料理写真の最初から最後までを体験させてもらったのだった。

驚くようなことがいろいろあったし、なるほど秘密兵器みたいな小道具もあるのだな、と思うこともあった。ただ、撮影のための料理だから、見た目がおいしそうでシズル感が出ていればいい。場合によっては食材は生煮えだったり、湯気をドライアイスで演出することもあり、その料理は食べることを前提には作られていなかった。

管さんは、既成の料理写真に対して、そのことを鋭く批判した。「食べられない料理を撮影して載せるのか」ということである。さすがにドキュメンタリーの人だった。「俺たちが写す料理は、撮影が終わったらみんなで食べるし、シズル感を逃さないために素早く撮ってしまう。撮り終わっても、温かくておいしいままだ」と管さんは言った。

グルメでもあり、ワインにもうるさくて(自分の事務所の定款にワインの輸入業を入れていたし、ソムリエの田崎さんとも親しかった)、アルコール全般に詳しい人だった。僕は、管さんが直木賞作家の村松さんと組んでアイルランドでウィスキーの取材をした後のある夜、事務所でシングルモルトの原酒を飲ませてもらったことがある。何にでも詳しい人だった。

その後、管さんの仕事の中でも料理撮影の比率はどんどん増えていき、雑誌「danchyu」ではレギュラーで仕事をするほどになった。老舗レストランの取材や京都の料亭の取材などもあり、素早く撮影して被写体にした料理を食べ、ますます舌を鍛えることになった。柏にある噂のそば屋「竹やぶ」についても、管さんは一冊の単行本を出したことがある。

そう言えば管さんはそばも好物で、一度、護国寺の事務所から車で池袋サンシャイン裏のそば屋に連れてってもらったことがあった。「ここは東京で三本の指に入る」と、管さんは言った。確かに、うまいそばだった。「残りの二本にも連れてってくださいよ」と僕はねだったが、残念ながらその機会はなかった。

僕は上京して一人暮らしを始めたときから自炊していたので、料理をするのには慣れている。一人暮らしのときは、ふつうのアルマイトの鍋でご飯を炊いていた。料理だってレシピなんて知らないから、見よう見まねで味を出し、かっこよく言えば創作料理に挑戦していた。数年後、自分で工夫した特製スープを作り、友達には好評を得た。あの頃、今ほどの調味料や食材があったら、かなり凝った料理を作ったのではあるまいか。

六十を過ぎ、高松の実家の裏で一人暮らしを始めてから、また料理が楽しくなった。五十年前とは違い、様々なだしがあり、調味料があり、食材がある。一時期、青梗菜を使った中華料理に凝り、中華の調味料をいくつか揃えた。餡掛けのとろみをうまく作るために、片栗粉を溶かす水との割合を試したり、いろいろ試行錯誤して中華丼を作った。一人暮らしだから、スーパーの袋詰めの野菜を買うと多いので、野菜を冷凍保存するノウハウも学んだ。スペインレストランのオーナーシェフである兄貴分のカルロスにも、いろいろ教えてもらった。

料理をしていて気づいたのは、料理は気分転換に大変よい、ということだった。本を読んだり、原稿を書いたりして頭を使うと、料理がしたくなる。台所で無心にタマネギなどをみじん切りにしていると、いつの間にか頭の中がリフレッシュされている。悩み事など忘れてしまう。鍋をかければ、煮立つのを待っているだけだ。他のことを考えていると、料理に失敗してしまう。煮立ったら何を入れるか、どれくらいの火力で何分煮るのか、そんなことだけを考えている。

●佐藤浩市が丁寧に作るザンギは味がしみていておいしそうだ

----先生、料理、得意なんですね。
----作ってると、何も考えなくてすむから。

「起終点駅 ターミナル」(2015年)は、初老の弁護士を演じる佐藤浩市の料理シーンが映画そのものの肝になっていた。いくつかの料理を作るのだけれど、特にザンギを作る手順を丁寧に描写するところが印象的だ。北海道ではザンギと呼ぶらしいが、要するに鶏の唐揚げだと思う。劇中でも敦子(本田翼)に「他に何て言うんですか?」と問われ、完治(佐藤浩市)は「唐揚げ?」と自信なさそうに答える。それを聞いた敦子は「先生、内地の人なんですね」と言い、「ザンギはザンギですよね。唐揚げだと、何だか味がしみてなさそう」と、ザンギをほおばりながら笑う。

佐藤浩市が丁寧に作るザンギは、味がしみておいしそうである。鶏のもも肉を二枚買ってきて、まな板に広げ、包丁の先でポツポツとランダムに穴をあける。それを適当な大きさにカットして、タレに漬け込む。タレも、醤油、みりん、料理酒、ウスターソースなどを混ぜ合わせるカットできちんと描写する。そのタレのレシピが後半で重要になる。新しく出直そうとする敦子に、完治はザンギのタレのレシピを書いたメモを渡すのだ。それは、初めて敦子にザンギをふるまったとき、敦子が「おいしい。今度、作り方、教えてくださいね」と言ったことを、完治が忘れていなかったからである。その完治の気持ちに敦子は感激して抱きつき、「作り方、わからなかったら訊きにきていいですか」と問いかける。

その敦子の問いに完治がどう答えたかは、映画を見ていただくのがいいと思う。親子以上に年の離れた男女の物語だ。ふたりの間に流れる感情の機微を読みとるのが、「起終点駅 ターミナル」のおもしろさである。テレビの恋愛ドラマや高校生カップルの恋愛劇ばかり演じてきた、本田翼の新しい面が見られるのも新鮮だった。彼女が演じるのは、やくざな男から覚醒剤を覚えさせられた、風俗や水商売で生きてきた若い女である。「中卒で漢字もまともに読めないから、ふつうの事務員は無理でしょ」というセリフもある。

完治は僕より若い設定だが、世代的にはわかる部分があった。七〇年代後半に学生生活を送り、司法試験に受かって判事になり、エリートコースを歩んでいたが、学生時代に一緒に暮らしていたのに突然姿を消した恋人(尾野真千子)が、ある日、自分の法廷に被告人として現れる。完治は、彼女が別れのプレゼントとして置いていったモンブランの万年筆を、ずっと使い続けているようなロマンチストだ。モンブランのケースには「戦え、鷲田完治」と書かれたメッセージが入っていた。彼女には執行猶予がつき、完治は彼女の暮らす小さな町に月に一度通うようになる。

だが、ある日、悲劇が起こり、完治は東京にいた妻子とも別れ、二十五年間、釧路の片隅で貧乏弁護士として生きてきた。個人からの依頼は受けず、仕事は国選しかやらないと決めている。まるで、自分を罰しているかのようだ。毎日、裁判所まで歩き、決まった道を歩いて帰る。途中、キャバクラの呼び込みを無視し、市場で鶏肉を買う。あばら屋と形容できそうな古い家だ。「鷲田法律事務所」とさびた郵便受けに書いてある。

そんな鷲田完治は、覚醒剤所持で裁かれる敦子の国選弁護人になり、執行猶予の判決が出た後、敦子が訪ねてくる。彼女の依頼を断った埋め合わせか、完治はできたてのザンギの食事に敦子を誘い、そこから若い女との交流が始まる。彼女は十五で家を出て、十年も帰っていない。夜の仕事で生きてきたが、どこか爽やかさを感じさせる存在だった。ある日、熱を出した敦子を完治は病院に連れていき、自分の家に泊めることになる。やがて、彼女の存在が完治を生まれ変わらせる。

●手際よく丁寧に一心に料理をする姿は本当に美しい

大人の男が料理をする姿は美しい。自分のことを言っているわけではない。佐藤浩市も、「深夜食堂」(2014年)の小林薫も、手際よく、丁寧に料理をする。一心に料理をする姿は、本当に美しい。その背中から哀愁が漂い、その手先から料理のおいしそうな香りが漂い始める。作られる料理に、長く生きてきた男の人生が込められているのではないか、とさえ思えてくる。手を抜かない。きちんと下拵えをし、仕込みをし、時間をかけた料理だ。

凝った料理とは違う。シンプルな料理でも、下拵えから始めると様々な手順が必要だ。それを面倒がらずにやるところに、料理の楽しさがある。手軽に簡単に手早く作る(最近は、そんな食品がたくさんある)のは、男の料理ではない(と力む必要もないし、女性だって同じだと思うけれど)。手抜きをせずに生きてきた男は、手抜きをした料理を作ることはできないのだ。そんなことを、「深夜食堂」の小林薫を見ながら思った。

テレビドラマ「深夜食堂」(2014年)の評判は聞いていた。それが映画になって初めて見たので、テレビドラマから見ている人には当たり前のことも新鮮に思えたのかもしれない。監督は、僕のひいきの松岡錠司。高校生のときに8ミリ作品ででPFFに入賞し、僕がその作品を見たのはもう三十数年も昔のことになった。「バタアシ金魚」(1990年)の頃は新人監督だったのに、いつの間にかベテラン監督である。

「深夜食堂」の主人は謎の人物だ。原作のマンガでは片目に丹下左膳みたいな傷のある怖い顔をしているが、懐の深い料理の達人である。毎回のエピソードは、何かの食べ物にからんでいる。映画版も、いくつかのエピソードを脚色して作っていた。どのエピソードも心に沁みる余韻を残すが、無銭飲食をするみちる(多部未華子)の物語がやはり中心だろうか。彼女も料理の腕はすぐれており、すぐれた味覚はマスターの作る料理のおいしさを理解する。

金のない彼女を雇い、食堂の二階に住まわせ、仕入れから下拵えをまかすのは、マスターが彼女の腕を認めたからである。そこには、料理を通じて人間を理解し、コミュニケーションが成立するという、昔ながらの剣豪話のような精神性がある。達人は達人を知るのである。彼女の腕は卵焼きのような単純な料理で試され、老舗料亭の女将に認められる。その女将は「深夜食堂」のマスターと何かの関係があるらしい。マスターの料理の腕は、一流料亭の女将も一目置いている。やはり、謎の人だ。だから、「深夜食堂」のマスターが作る料理には、彼の人生が反映しているように見えてならない。

2016年10月13日 (木)

■映画と夜と音楽と…746 黒澤嫌いを改める?


【幕末太陽傳/羅生門】

●京都から高松まで一本の映画を見にくるほどの熱烈なファン

先日、高松で自主上映活動をしている「映画の楽校」の102回目の上映会で少し話をさせてもらった。五月の百回記念上映会でも話をさせてもらったので、今回が二回目だった。五月のときは「1951年の原節子」というタイトルで、小津安二郎監督の「麦秋」と成瀬巳喜男監督の「めし」の二本立てだった。1951年、昭和二十六年。僕が生まれた年だ。僕は「麦秋」公開と「めし」公開の間に生まれたことになる。この年、原節子は黒澤明監督の「白痴」を含め、三本の作品に出演している。名作ぞろいの充実した年だった。

九月の「映画の楽校」は「蘇ったフィルムたち」と題して、フィルムセンターがデジタル補修したニュープリントの「幕末太陽傳(1957年)と「羅生門」(1950年)の二本に、「映画の楽校」を主宰してきたN校長の趣味(?)で舟木一夫主演「その人は昔」(1967年)を加えた三本立てだった。朝十時から始まり、終わったら夕方五時近いという長丁場である。僕のトークは、昼休み明けの四十分ほどだった。これから上映する作品についてはネタばれになっても困るので、見所のポイントを話しただけで、主に午前中に上映された「幕末太陽傳」について(というより川島雄三監督について)話した。

五月のときは四百人以上の観客だったが、今回は二百人強の入場者だった。あいにくの雨が祟ったのだろうか。昨年末に原節子が亡くなっていたのがわかり、大きくニュースになった。その余韻が続いていて、五月の原節子特集に観客が集まったのかもしれない。僕の話が受けたのかどうかはわからないが、もう一度呼んでくれたので、そうひどい評判ではなかったのかもしれない。ロビーにはNさんが手配してくれた「映画がなければ生きていけない」全五冊が並べられ、来場者はその分厚さに驚いていた。五冊まとめて買ってくれた人がいて、サインを頼まれ照れ隠しに「重いでしょう」と言いながら下手なサインをした。

今回、Nさんに聞いて驚いたのは、舟木一夫ファンの問い合わせがけっこうあったということだ。「その人は昔」はDVDも出ておらず、上映される機会もないという。京都から「その人は昔」を見るためだけにきた、熱烈な舟木ファンもいるという。確かに、僕の話が終わり、「その人は昔」の上映が始まると、けっこうな人がワサワサと入場してきた。その人たちは、「その人は昔」が終わると「羅生門」など見向きもせずに会場を出ていった。その徹底したファンぶりに驚く。ちなみに、舟木一夫の高松公演が翌月に予定されており、四国新聞やタウンペーパーなどで告知宣伝していた。

舟木一夫は東映や日活での出演作が多いので、東宝作品「その人は昔」を僕は知らなかった。相手役は、人気絶頂の頃の内藤洋子である。何しろ、始まってすぐに馬に乗って登場した内藤洋子は、大ヒット曲「白馬のルンナ」を歌う。舟木一夫の相手役というと、東映なら本間千代子、日活なら和泉雅子、松原智恵子といったところだった。「高校三年生」(1963年)は大映で映画化され、姿美千子と倉石功の恋人コンビに脇役で舟木一夫がからむ。「その人は昔」は、今年亡くなった松山善三の原作・脚本・監督である。おしどり夫婦で有名だったから、高峰秀子と再会できて喜んでいるのではないか。

「その人は昔」は、撮影監督が岡崎宏三さんだった。岡崎さんは戦前から撮影監督として活躍した人で、名キャメラマンとして名を成した。「その人は昔」の映像も見事で、特に自然風景が美しく印象に残る。岡崎宏三さんにインタビューしたのは、四十一年前だったなと思い出が甦った。出版社に入社した年の五月、僕は黒澤明監督作品をほとんど撮影していた東宝の中井朝一さんと、岡崎宏三さんを取材したのである。中井さんは黒沢監督がソ連で撮影する「デルス・ウザーラ」の準備中だったし、岡崎さんは市川崑監督の「吾輩は猫である」(1975年)を完成させたところだった。

岡崎宏三さんのインタビューをしたとき、前作「雨のアムステルダム」(1975年)の話が出た。萩原健一と岸恵子のラブ・ロマンスだった。海外ロケが多く、「エマニエル夫人」(1974年)に出ていたフランス人俳優アラン・キュニーなども登場する。三国連太郎、当時人気があった劇団四季の松橋登も出ていた。監督は蔵原惟繕である。記事を作る上で、その「雨のアムステルダム」の岡崎さんが話をしたシーンの写真がどうしても必要になり、僕はまだ二番館でかかっていた「雨のアムステルダム」を調べ、上映館に一眼レフカメラと三脚を持ち込み画面を撮影した。今なら警察に通報されるだろうなあ。その前につまみ出されるか。

●数十年ぶりに見た「羅生門」のラストで涙を流した

「幕末太陽傳」は何度も見ている好きな映画だし、川島雄三監督のファンでもあるので、とりあえず四十分ほど川島雄三監督のことについて主に話をした。しかし、いつものことだが、話す前は緊張するので、スクリーン裏の楽屋でひとりで準備をしていた。音声だけが楽屋に流れる。それで、どのシーンかはわかるし、映像も浮かんでくる。「幕末太陽傳」が終わり、僕の話も無事に終了したので、「その人は昔」の後、久しぶりにゆっくりした気分で「羅生門」を見た。何年ぶりだろうか。少なくとも三十年ぶりくらいではないだろうか。

「羅生門」は、銀座並木座で十八のときに初めて見たが、翌年、大学に入って岩崎昶先生の「映画論」を履修したら、最初の授業のときに「羅生門」を見せられた。大学一年の前期いっぱい使って「羅生門」の分析を講義として聞いた記憶がある。テキストは岩崎先生が岩波新書から出していた「映画の理論」だった。その中に、「羅生門」が詳細に分析されている。岩崎先生が、戦争前から左翼系の映画評論家として名を成し、中国に渡って映画製作に関係し、戦後、李香蘭が帰国したときに受け入れる用意をした人だと知るのは、ずいぶん後のことだった。

その岩崎先生の「羅生門」の講義が甦ってくる。大きな労働争議によって東宝で映画が作れなくなった黒澤明は、「羅生門」を大映で制作した。大映の名キャメラマン宮川一夫は溝口健二とは多く組んでいるが、黒澤明が組んだのは「羅生門」が最初である。岩崎先生の講義では、世界を驚かせた宮川一夫のキャメラワークや太陽を画面に写し込んだ大胆な構図なども詳細に分析していた。盗賊(三船敏郎)が女(京マチ子)を抱くシーンでは、ふたりを高いヤグラに乗せ、キャメラを仰角にして背景に太陽を入れ込み、ギラギラした印象の画面を作ったのは有名になった。

「羅生門」には、三つの場所しか出てこない。崩れかけた羅生門、検非違使庁の庭(お白州みたいなシンプルさ)、それに事件が起きる森の中だ。登場人物も少ない。羅生門では木こり(志村喬)、僧侶(千秋実)、下人(上田吉次郎)の三人。森の中では盗賊、武士(森雅之)、その妻だけである。お白州では巫女(本間文子)が出てきて、死んだ武士の魂を憑依させ事件のいきさつを語る。最初に森の中で武士が死んでいる事件が示され、事件の当事者三人がそれぞれに証言するのだが、みな自分の都合のいいように話を作る。

さらに、最後にその事件を目撃していた木こりが話をし、それらの話を聞いていた下人が「それが一番本当らしいな」と言う。そのとき、羅生門に赤ん坊の泣き声が響き、捨て子が見つかる。その赤ん坊をくるんでいた着物を下人が剥いで持ち去ろうとし、僧侶と木こりが「それでも人間か」と止めようとすると、「赤ん坊を棄てる親の方がよほど鬼だ」と言い返す。さらに木こりが責めると、下人はあることを木こりに告げ、「おまえだって自分の都合の悪いことは隠したじゃないか」と言う。下人が指摘したことは当たっていたのか、木こりは怯み、下人は去る。

僕が黒澤作品が苦手なのは何度も表明してきた。だから、数年ぶりに見た「羅生門」のラストシーンで涙を流すことになろうとは思いもしなかった。しかし、僕は「羅生門」のラストシーン、「わしには六人の子供がいる。六人育てるのも、七人育てるのも苦労は同じだ」と言って、赤ん坊を抱いて去っていく志村喬の姿を見たら、自然と涙が出てきてしまったのだった。「人間は自分勝手なもので、自分の都合のよいことしかいわず、自己を正当化し、美化して恥じない存在。人間は信じられるのか」というのが「羅生門」のテーマであり、それから六十六年経った現在、そんなことで観客は驚かなくなっているが、「それでも人間の善なるものは存在する」というラストシーンのメッセージは、確実に僕に届いたのだ。

僕は黒澤作品の露骨なメッセージ性、卓越した師と未熟な弟子という単純な構図、大仰な芝居、大雨や強風といった極端な自然描写などが嫌いで、何度も見る「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」といった作品もいろいろつっこみながらながら見ていたりする。あまり見たくない作品としては、「生きる」「生きものの記録」「どん底」「蜘蛛巣城」などと共に「羅生門」があった。一番好意が持てるのは「素晴らしき日曜日」であり、素直にいいなと思ったのは「静かなる決闘」だった。「天国と地獄」「悪い奴ほどよく眠る」はサスペンスがあり、よくできたスリラーで面白いが、好きではない。特に「天国と地獄」は仲代達矢が演じた警部が、「今、逮捕しても死刑にできない」と犯人を泳がせ(裁き)、その結果、麻薬中毒者の女を警察が見殺しにする設定に違和感を感じてしまう。

しかし、「羅生門」のラストの露骨なメッセージに泣いてしまった今、僕は改めて黒澤作品を見てみようかと思い始めた。しかし、その場合でも、見るのはモノクローム最後の作品「赤ひげ」までだろうな。カラー作品になった黒澤映画は、やっぱりなじめないのだ。

2016年10月 6日 (木)

■映画と夜と音楽と…745 四十年演じ続けたキャラクター


【クリード チャンプを継ぐ男/ロッキー/ランボー/勝利への脱出】

●「ロッキー」が日本で公開されたのは39年前のことだった

ひとりのボクサーの人生を四十年にわたって演じ続けることは、俳優にとってどんな意味を持つのだろうか。「クリード チャンプを継ぐ男」(2015年)を見ながら、そんなことを考えた。「ロッキー」(1976年)が日本で公開されたのは、一九七七年四月十六日だった。そのとき、僕は二十五歳だった。

アメリカにとっては一年前に、泥沼のベトナム戦争がパリ講話会議を経て終結したばかりだった。建国二百年を迎えた一九九六年、その記念の年に「ロッキー」は制作されたのだ。悪夢のようなベトナム戦争が終わり、建国二百年を迎えた年、アメリカ人は貧しく報われなかった若者が、懸命な努力の末に栄誉と恋人を勝ち取るシンプルな物語に感動し、熱狂したのだった。

三十路を迎えようとしていた貧しい無名の青年は、ある日、建国二百年祭のイベントとして企画されたボクシングの試合を見て、王者モハメド・アリと闘う挑戦者チャック・ウェブナーの姿に共感した。ほとんど知られていなかった挑戦者は果敢なファイトを見せ、売れない役者だった青年に強い印象を残した。青年は自分の人生と生活を主人公に反映させ、三日間で一本のシナリオを書き上げた。

青年の名前は、シルヴェスター・スタローン。イタリア系移民の子だ。荒れた少年時代を過ごし、大学で演劇に目覚め俳優をめざしたが、五十回以上もオーディションに落ち続け、金のためにポルノ映画にさえ出演したこともあった。三十を目前に、夢を追い続けるか、あきらめて堅実な生活を送るか、そんな岐路に立っていたのかもしれない。彼は結婚したばかりだった。

三十になっても場末のリングでファイトをやっている貧しいボクサー、ロッキーはスタローン自身だったに違いない。ボクサーでは食えず、借金の取り立てをやって、何とかその日暮らしをしているような有様だ。ボクシングからは離れられないが、将来に希望があるわけでもない。スタローンも同じだった。役者では食えなかった。

ロッキーの生活の中で、唯一の潤いは近所のペットショップで働くエイドリアン(タリア・シャイア)と話すことだった。しかし、シャイなふたりの会話は、すれ違ってばかりである。容貌に自信のないエイドリアンは、男が自分に関心を持つなどとは思えない。しかし、ロッキーは心の底からエイドリアンを恋している。

一方、最強のチャンピオンとして君臨するアポロ・クリード(カール・ウェザース)は、話題づくりのために無名のボクサーとの試合を組む。挑戦者にチャンスを与えるというのだ。その挑戦者にロッキーが指名される。とても、勝てそうにはない。しかし、老トレーナーのミッキー(バージェス・メレディス)は言う。「俺はひとりで辛い思いをした。それで得た知識をおまえに与えてやりたい。俺が面倒をみてやる。俺の二の舞を演じさせたくない」と。

ロッキーは、過酷なトレーニングを始める。フィラデルフィアの町を走り、港を走り、片手腕立てをし、生卵をいくつも飲む。そして、あのシーンがやってくる。誰もが知ることになるあのテーマ曲が流れる。トレーニングウェア姿のロッキーが、長い石段を駆け上っていく。上り切ったところは、フィラデルフィア美術館だ。

その美術館の広場で、ロッキーは両手を上げてガッツポーズをし、何度も何度もまわり続ける。やがて、試合が始まる。誰もが早いラウンドで、チャンピオンがロッキーをKOすると思っていた。しかし、ボロボロになりながら、ロッキーは最終ラウンドまでファイトを続ける。果敢なインファイターだ。

----最後のリングが鳴っても、まだ立っていられたら
  俺がゴロツキじゃないってことを初めて証明できるんだ

エイドリアンに語った決意の言葉が、ロッキーを最終ラウンドのゴングが鳴ってもリングに立たせていた。瞼を腫らし、ほとんど目がふさがった状態で、ロッキーは「エイドリアン!!」と叫ぶ。それは、映画の中でロッキーがアメリカン・ドリームを実現した瞬間であり、現実の世界で無名の俳優シルヴェスター・スタローンが一躍スターになり、アメリカン・ドリームを実現した瞬間でもあった。「ロッキー」は主人公の人生と、それを演じたスタローンの人生が交錯した、希有な感動作だった。

●スタローンのサクセスストーリーがロッキーと重なった

三日間で書き上げたシナリオは、映画会社の興味を引いた。しかし、スタローンは自分が主人公を演じることを条件にした。映画会社は誰も知らない俳優を主役に起用するほど甘くはない。だが、そのシナリオは魅力的だった。最終的に、スタローンがロッキーを演じることで制作がスタートした。しかし、そんな作品に大金はかけられない。

監督には、低予算で仕上げるのに定評があったジョン・G・アヴィルドセンが指名された。アヴィルドセンも、決して恵まれた経歴ではなかった。ハリウッドで助監督として働いていたが、初めての監督作は低予算のポルノ映画だった。しかし、「ロッキー」は彼にアカデミー監督賞をもたらせる。他にも、作品賞と編集賞を獲得した。

「ロッキー」は、奇跡的な作品だったのだ。スターの出ていない低予算の作品。監督だって、低予算で撮るからという理由で選ばれた。出演者たちも、コッポラの妹で「ゴッドファーザー」シリーズに出演して知られてはいたが、美人女優とは言えない地味なタリア・シャイアがヒロインであり、バージェス・メレディスも名脇役ではあったが地味な老優であり、エイドリアンの兄でロッキーの友人を演じたバート・ヤングも出演作の多いとぼけた俳優だったが、日本では名前を知る観客はほとんどいなかった。

そんなマイナスばかりを集めたら、びっくりするほどのプラスになったのである。テーマ曲だって、今や知らない人はいない。スタローンにとって、ロッキーは分身だったのだろう。大ヒットしてシリーズになったが、二作目からはシナリオだけでなく監督も自分で担当した。

三年後の「ロッキー2」(1979年)は脚本・監督・主演、六年後の「ロッキー3」(1982年)も脚本・監督・主演、九年後の「ロッキー4 炎の友情」(1985年)も脚本・監督・主演、十四年後の「ロッキー5 最後のドラマ」(1990年)は監督に再びアヴィルドセンを迎え、自身は脚本・主演、さらに三十年後の「ロッキー・ザ・ファイナル」(2006年)は脚本・監督・主演である。スタローンは、「ロッキー」を誰にも渡したくなかったに違いない。

その「ロッキー」シリーズからスピンオフした形の「クリード チャンプを継ぐ男」は、スタローン演じるロッキーが登場するものの、ロッキーの物語ではない。アポロ・クリードに、愛人との間に息子がいたというエピソードから物語は始まる。施設で喧嘩を繰り返すアドニス。ある日、隔離された独房に品のよい黒人の中年婦人が訪ねてくる。

父を知らないというアドニスに、「あなたのお父さんはアポロ、最強のチャンピオンだった」と教える。彼女の養子になり成長したアドニスは、ネクタイをしたビジネスマンとして成功しているにも関わらず、宿命的にボクシングの世界に入っていく。彼は、フィラデルフィアにやってきて、ロッキーに「トレーナーになってくれ」と依頼する。

「ロッキー・ザ・ファイナル」で三十年の人生に始末をつけたはずなのに、ある日、スタローンは若い監督から四十年後のロッキーの人生を演じてくれないかとオファーを受けたのだろうか。それは、自らが結末をつけたロッキーの物語を、別の視点で描くものだった。スタローンはそのオファーを受けたとき、どんな気持ちだったのだろう。

そこにはアポロと引き分け、アポロとの再試合に勝ってチャンピオンになり、アポロをリング上で殺したソ連のボクサーにリベンジし、隠退してトレーナーになり、さらに復活して闘い、息子に背かれ、恩人のトレーナーを亡くし、エイドリアンに先立たれたロッキーの人生が描かれていた。スタローンの四十年とロッキーの人生が重なるように見えた結果、「クリード チャンプを継ぐ男」でスタローンは初めてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。

●スタローンがアカデミー賞を獲得する最後のチャンスだった

今年の三月、アカデミー賞授賞式を見ながら、僕は「スタローンに助演男優賞を----」と祈り続けた。もっとも、レッドカーペットでインタビューを受けた七十を迎えたスタローンはまだまだ若かったし、鍛えた肉体は維持していたけれど、僕にはどこか寂しさを感じさせた。

四十年に及ぶハリウッド・スターの生活は華やかなものだったろう。「ロッキー」で実現したアメリカン・ドリームを、スタローンは維持し続けてきたのだ。六十を迎えて「エクスペンダブルズ」シリーズ(2010~2014年)を作り、かつてのライバルたち(アーノルド・シュワルツェネッガー、ドルフ・ラングレン、ジャン=クロード・ヴァンダムなど)を冗談のように出演させ、派手なアクションを展開していた。

「エクステンダブル」という言葉は、スタローンのもうひとつのヒットシリーズの二作め「ランボー怒りの脱出」(1985年)の中で印象的に使われている。北ベトナムの捕虜収容所に囚われているアメリカ人捕虜を救い出すランボーを助ける女案内人に、彼は「俺はエンステンダブルだ」と言い、彼女は強い調子で「ユー・アー・ノット・エクステンダブル」と否定する。そのとき、字幕には「あなたは捨て石じゃないわ」と出た。三十一年も前に見たそのシーンが、僕の記憶にくっきりと残っている。その案内人が殺され、ランボーは反撃する。

しかし、シルヴェスター・スタローンは、「ロッキー」ではアクションスターとして登場したのではなかった。確かに鍛えた肉体はボクサーらしかったが、「ロッキー」では演技そのものを賞賛されたのだ。喋りはモゴモゴしている感じはあるけれど、もしかしたら演技派の俳優になる選択肢もあったのではないだろうか。

「ロッキー」の次に彼が脚本を書き主演したのは、名匠ノーマン・ジュイソンが監督した「フィスト」(1978年)だった。全米長距離トラック組合で権力を掌握していく野心的な主人公を演じた政治的なドラマだ。続く「パラダイス・アレイ」(1978年)では原作・脚本・監督・主演をつとめ、プロレスの世界を背景にイタリア系三兄弟を描いた。

巨匠ジョン・ヒューストン監督の「勝利への脱出」(1980年)では、マイケル・ケイン、マックス・フォン・シドーなどの名優と共演し、ドイツ軍チームとサッカーで対戦する連合軍捕虜チームのゴールキーパーを演じた。彼はチームのムードメイカー的な存在であり、重要な役だった。

イギリス軍将校でありサッカーの名選手だったマイケル・ケインとは違い、サッカーの経験もないくせにチームに入りたがる軽薄なアメリカ兵士役のスタローンは健闘していた。彼らは試合の途中で脱走するはずだったが、脱走より試合を優先する。今でも僕は思い出すが、初めてこの映画を見たとき、ラストシーンで僕は涙を流した。

そんな作品に出ていたスタローンが単なるアクションスターに成り下がったのは、「ランボー」(1982年)がヒットしたからだ。それでも一作めはベトナム帰還兵の悲しみが全編を覆っていたが、二作めについてレーガン大統領が「私は『ランボー怒りの脱出』を見た。アメリカが今何をなすべきか、私にはわかっている」と発言して大ヒットした。

それ以後、スタローンは、撃ち合いや爆破シーン満載の、派手ではあるが単純なアクション映画ばかりに出るようになってしまった。「ランボー」シリーズが行き詰まると、「クリフハンガー」(1993年)に出るという具合である(面白かったけど)。その結果、六十になっても自分の過去のヒット作のパロディのような、「エクステンダブルズ」シリーズで稼ぐしかなくなった。

しかし、そのシルヴェスター・スタローンが初めてアカデミー賞にノミネートされたのだ。アカデミー会員も、これがスタローンに賞を渡すラストチャンスだと思ったのではないだろうか。これだけハリウッドに貢献してきた男だ。ここを逃せば、八十を過ぎたスタローンに名誉賞を授与するしかなくなってしまう。

しかし、それまでに死んでしまったら、死後授与になってしまうではないか。そんなことを思いながら、僕は助演男優賞の発表を待った。ノミネートされた五人の俳優たちのアップが映る。「オスカー・ゴーズ・ツー」の後「マーク・ライアンス」と呼ばれた瞬間、スタローンは落胆の表情をし、やがて寂しい笑顔を浮かべ、拍手を始めた。

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