2019年3月21日 (木)

■日々の泡---人生エッセイの先生だった


【江分利満氏の優雅な生活/山口瞳】

僕の映画エッセイは「映画に人生を重ねる」と言われることが多いけれど、エッセイあるいはコラムを書くときの文体、それにスタイルや構成は様々な作家の影響を受けている。

東海林さだおさんと椎名誠さんのエッセイは、数え切れないほど読んだ。「さらば国分寺書店のオババ」の頃、椎名誠さんは「昭和軽薄体」を掲げユーモアあふれるエッセイを書いていたが、椎名さんは影響を受けた作家として嵐山光三郎さんを挙げていた。

カメラ雑誌編集部にいて体験取材レポートを書いていた一九八〇年代の頃、僕は意識的に東海林さだおさんと椎名誠さんの文体とスタイルを真似て、オモシロおかしいレポートを書いていた。東海林さだおさんの言いまわしを、そのまま借用したこともある。

体験取材では、様々なところへいった。カメラ量販店の店員を体験したり、レンズ工場でレンズを作ったりしたこともあるが、様々なジャンルの写真家に入門することが多かった。いつも、そのジャンルでは第一人者と言われる人ばかりだった。

水中撮影では中村征夫さん(まだ木村伊兵衛賞をとる前だったけれど)の弟子になり、初めてアクアラングを背負った。ヨット写真の添畑薫さんにはモーター付きゴムボートに乗せてもらって、駿河湾を疾走した。

料理写真の泰斗だった佐伯義勝さんのスタジオでは、光文社の女性誌の料理頁の撮影のときに弟子入りしたし、早世したネイチャーフォトグラファーの木原和人さんとは一緒に沢登りをした。高所恐怖症なので、気球撮影に誘われたときだけは「勘弁してくれー」と、必死に逃げた。

体験取材レポートは加藤孝カメラマンの写真と共に好評で、一回八ページももらえていた。というか、八ページ分の原稿を書くのは、けっこう大変だった。もっとも、僕は原稿を書くのが早かったので、時間はそれほどかからなかったけれど----。

仕事ではない文章では、「敗れざる者たち」で熱い文章を書いていた若き沢木耕太郎さん、関川夏央さんの中期以降のエッセイにも影響を受けている。一時期熱中し、エッセイも小説も読み尽くした向田邦子さんではあったが、文章的な影響ではなくエッセイの構成のようなものを学んだ。

また、村上春樹さんのエッセイはすべて読んでいるし、かなり影響を受けていると思う。村上さんは女性誌に見開き連載したような軽いユーモア・エッセイも書くし、分析的で長文の音楽エッセイや海外の生活記録、あるいは旅行記など幅広く書いているが、そのすべてのものから僕はインスパイアされた。

しかし、僕がエッセイの書き方として最初に影響を受けたのは、山口瞳さんの「江分利満氏の優雅な生活」である。「江分利満氏」シリーズは、人生エッセイのひとつの頂点と言ってもいい。

「江分利満氏の優雅な生活」を読んだすぐ後、僕は江分利満氏と同年齢だった自分の父親をモデルにして、模倣した文章を書いている。もっとも、「江分利満氏の優雅な生活」はエッセイではなく小説であり、一九六三年の直木賞を受賞した。

僕が読んだのは、その五年後の一九六八年、十六歳のときだった。高校一年生の春休みに読んだのだ。薄い新潮文庫で読み、読み終わるとすぐに続編の「江分利満氏の華麗な生活」を買いに走った。

「買いに走る」と言えば、「江分利満氏の優雅な生活」の冒頭は、江分利満氏の小学生の息子である庄助が手に十円玉を握りしめて、貸本屋へ走っていく場面だった。山口瞳さんの実際の息子が正介さん(現在は作家で映画評論家)であることを知るのは、ずっと後のことである。

「江分利満氏の優雅な生活」は小説仕立てにはなっているけれど、ほとんどエッセイである。東西電機の社宅に妻と息子と住む江分利氏は、山口瞳さん本人と完全に重なる。しかし、小説仕立てであることで、感傷的でストレートな叙懐を照れずに書けるのだ。山口さんは事業を失敗した父親のことも、妻の病気のことも赤裸々に書く。

この手法を後に多用したのが、諸井薫さんだった。諸井さんはエッセイ仕立ての短文の登場人物を「彼は」とか「男は」と三人称で書いた。それによって、中年男のストレートな感傷を描き出し、読者であるお父さんたちは感涙にむせぶ夜を過ごした。一時は本屋に山積みだった諸井さんの本も、今は見なくなってしまったなあ。

おもしろいことに、岡本喜八監督によって映画化された「江分利満氏の優雅な生活」(1963年)は、原作では東西電機とされていた勤め先をサントリー宣伝部に変え、江分利満氏(小林桂樹)を山口瞳に似せたメーキャップにした。

おまけに江分利満氏は直木賞候補になり、記者(中丸忠雄?)に取材されるシーンまであったと思う。才人・岡本喜八監督らしくアニメーションも使用するし、ストップモーションなども多用された。その二年前に日本で公開されたルイ・マルの「地下鉄のザジ」(1960年)の影響を受けていたのかもしれない。

山口瞳さんが開高健と共に、サントリー宣伝部にいたことは多くの人が知っている。「洋酒天国」というPR誌を編集し、「トリスを飲んでHawaiiにいこう」というコピーを書いたことは有名だった。それは、直木賞を受賞した頃から知られていたのだろう。だから、映画では江分利の勤務先をサントリーにした。

「江分利満氏の優雅な生活」を読んでから三十年近くの月日が流れ、出版社に就職していた僕は入社二十年経った頃に月刊「コマーシャル・フォト」という広告写真専門誌の編集部に配属になり、あるとき広告制作会社サン・アドを取材することになった。

「サン・アド」はサントリー宣伝部にいた開高健、柳原良平、坂根進、山口瞳らがフリーになって作った広告制作会社だが、出資したのはサントリーである。したがってサントリーの広告を作るのだけれど、他の会社の広告制作も行い、広告業界では主要な制作会社だった。

僕が取材したのは二十数年前だから、アートディレクターの葛西薫さんがいろいろな広告を作っていた。僕が取材した頃より少し後、葛西さんの仕事ではサントリー・ウーロン茶のシリーズが忘れられない。中国ロケで女性ふたりが登場し、中国語の「鉄腕アトム」の歌が流れるCМなど今も映像と音が甦ってくる。

その「サン・アド」を取材したとき、僕は「ここに開高健、山口瞳がいたのか」と、少し感慨にふけった。もちろん、イラストレーターの柳原良平さんもいた。初めて読んだ「江分利満氏の優雅な生活」の表紙カバーは柳原良平さんのイラストだったから、江分利満氏を思い浮かべると、今もアンクル・トリスの顔が重なってしまう。

2019年3月14日 (木)

■田中絹代「最後の輝き」02

2月17日に高松市レグザムホールで開催された「映画の楽校106回/田中絹代・最期の輝き」で話した内容の後半です。

■戦後の田中絹代

戦争中も戦後も田中絹代は映画に出続けました。戦争中の昭和二十年に成瀬巳喜男監督の「三十三間堂通し矢物語」があり、溝口健二監督とは戦後、「女性の勝利」「歌麿をめぐる五人の女」「女優須磨子の恋」と続き、戦争未亡人がパンパンに墜ちていく「夜の女たち」の公開が昭和二十三年でした。

また、夫の出征中、子供の病気で進退窮まり、一夜だけ体を売った妻を演じた小津安二郎監督の「風の中の牝鶏」もやはり昭和二十三年の公開でした。サイレント時代の小津作品にはよく出ていた田中絹代ですが、戦後の小津作品は「風の中の牝鶏」と昭和二十五年の「宗方姉妹」(1950年)だけしかありません。

姉妹の姉で楚々とした日本女性を演じたのが田中絹代、アプレゲールつまり戦後派のドライな妹を演じたのが、高峰秀子でした。ただ、私は小津作品の中では、この二本はあまり好きではありません。その後、田中絹代は溝口健二作品と成瀬巳喜男作品で名作を残し、高峰秀子は成瀬作品になくてはならない女優になりました。

昭和二十六年、一九五一年、朝鮮戦争特需の年で、まだ日本は占領されていましたが、この年、田中絹代は成瀬巳喜男監督の「銀座化粧」、溝口健二監督の「お遊さま」「武蔵野夫人」が公開になります。この年には、何と出演作は七本を数えました。

そして、昭和二十七年、溝口健二監督の「西鶴一代女」(1952年)に出演します。田中絹代の代表作、映画史に残る一本です。田中絹代、四十三歳でした。吉永小百合の「映画女優」は、この映画の撮影に入ったシーン、つまり「西鶴一代女」のファーストシーンの撮影場面がラストシーンになっています。

老醜をさらす夜鷹、男たちに笑いものにされるファーストシーン。そこから、ヒロインお春の夜鷹に墜ちるまでの回想が始まります。僕は、この映画は名作だと思いますが、見るのが辛くて一度しか見られませんでした。

それに比べ、同じ昭和二十七年に出演した成瀬監督の「おかあさん」は、何度見たかわかりません。僕が成瀬作品が好きだということもありますが、その中でも「おかあさん」は特別な作品です。

戦後、夫婦力を合わせてクリーニング店を再開しますが、夫は無理がたたって死んでしまう。長男も肺病で死に、次女も養子に出さざるを得なくなる。長女の香川京子が田中絹代のおかあさんを、作文を読むようなナレーションで描写します。

その後も、田中絹代は多くの作品に出続けます。重要な作品として、成瀬作品では「流れる」(1956年)があります。原作は幸田文の名作です。芸者置屋の女中になったヒロインが、そこで見聞した人間模様を描き出します。

幸田文のもうひとつの名作である「おとうと」は、市川崑監督が映画化(1960年)しますが、田中絹代はヒロイン岸恵子の継母を演じました。すでに五十を過ぎており、母親役といった脇の仕事が増えていきます。

昭和四十年、黒澤明の「赤ひげ」(1965年)でも、加山雄三が演じた保本登の母親を演じています。その後、出演作品は減り、「赤ひげ」の九年後の「サンダカン」までに出演したのは、「男はつらいよ 寅次郎夢枕」(1972年)など二本だけでした。

■投げキッス事件と女性監督

田中絹代と言えば、昭和二十五年の「投げキッス」バッシング事件が有名です。昭和二十四年、田中絹代はハワイ国際興業の招待と毎日新聞社の後援で、日米親善使節としてアメリカへわたります。

十月に日本を発ち、ハワイに立ち寄り、アメリカ本土ではハリウッドを訪問します。そこでMGM社長のルイス・メイヤーや女優のベティ・デイヴィスに会います。マックスファクター社では、メイクの技術指導を受けたそうです。その後、三ヶ月の旅を終えて、昭和二十五年一月十九日に羽田空港に降り立ちます。

そのとき、田中絹代は茶色と白のアフタヌーン・ドレスに毛皮のハーフコート、サングラスに黒手袋、首にはハワイみやげのレイをしていました。派手な格好です。出かける時は和服で、日本女性らしいつつましさを見せていたので、出迎えた人たちは唖然としました。

さらに、田中絹代は迎えの人々や報道陣に向かって「投げキッス」を連発しました。そのままオープンカーで銀座をパレードし、その姿を見た日本中の人々は猛反発します。『総スカン』状態です。ファンレターが一通もこなくなりました。田中絹代自身に寄れば、一時は女優をやめようと思い詰め、自殺さえ考えたと言います。

しかし、その後、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男といった巨匠たちの作品に出演し、再び女優として再起しました。その力になったひとりは、成瀬監督だったのではないでしょうか。「銀座化粧」「おかあさん」に出演した後、田中絹代は監督をやりたいと成瀬に相談します。成瀬は昭和二十八年の自作「あに・いもうと」(1953年)の現場に、田中絹代を監督見習いとして参加させます。

「あに・いもうと」は室生犀星の原作で、「伊豆の踊子」のように何度も映画化されています。成瀬監督版の前にも昭和十一年に一度映画化されています。成瀬版は、森雅之の兄と京マチ子の妹でした。末の妹は久我美子です。

ちなみに僕は三度目の映画化作品、今井正監督版を封切りで見ていまして、人気絶頂の頃の草刈正雄の兄と秋吉久美子の妹でした。末の妹は池上季実子です。テレビでは渥美清と倍賞千恵子が、山田洋次の脚本でやりました。

室生犀星と言えば「故郷は遠きにありて思うもの」というフレーズで有名な詩人であり作家ですが、今時は読んでいる人も少ないと思っていましたが、三年前、大杉漣と二階堂ふみの主演で「蜜のあわれ」という映画が作られましたし、昨年、実に久しぶりに「あにいもうと」がテレビドラマになりました。大泉洋の兄、宮崎あおいの妹です。これも山田洋次脚本でした。

成瀬巳喜男監督「あに・いもうと」の現場で修行した田中絹代は、日本で二人目の女性監督としてデビューします。昭和二十八年の「恋文」という作品です。今も東京渋谷には恋文横丁がありますが、戦後、そこにアメリカ兵のオンリーさんたちが恋人に英文の手紙を書いてほしいとやってくる代書屋があったということです。

その後も、「月は上りぬ」(1955年)「乳房よ永遠なれ」(1955年)「流転の王妃」(1960年)「女ばかりの夜」(1961年)「お吟さま」(1962年)など、足かけ十年で六本の監督作品があります。監督作品の評価はよかったようですが、やはり女性であることが不利だったのでしょうか。

現在は、河瀬直美、西川美和、タナダ・ユキ、荻上直子など中堅から新人まで、女性監督の方が活躍している印象さえあります。時代は大きく変わりました。

2019年3月 7日 (木)

■田中絹代「最後の輝き」01



2月17日に高松市レグザムホールで開催された「映画の楽校106回/田中絹代・最期の輝き」で話をしてきました。以下は、その原稿です。上映作品は「サンダカン八番娼館 望郷」。四十数年ぶりに見て、同じシーンで涙ぐみました。そのまま話をしたので少し興奮気味だったかもしれません。おまけに、水戸光子を轟夕起子と間違って話してしまい、観客に指摘されるお粗末さ。完全に勘違いしていました。轟夕起子は黒澤明の監督デビュー作「姿三四郎」のヒロインでした。つい最近、大映版「細雪」の長女は轟夕起子だという話をしたのが、原稿を書くときに影響したのかもしれません。でも、言い訳ですね。
長いので、「戦後の田中絹代」以降は、次週に掲載することにしました。

■「サンダカン八番娼館 望郷」の田中絹代

「サンダカン八番娼館 望郷」とてもいい映画です。この映画を見ると、必ず胸に迫ってくるシーンがあります。サキが故郷に帰り、サキの仕送りで兄が建てた家の風呂に入っているとき、兄と妻の会話が聞こえてくるシーンです。サキは泣き声を隠すために、湯に頭を沈めて泣く。このシーンで僕は必ず泣きます。

それから、水の江滝子が指輪をいっぱい出してきて、自分の過去を話すシーン、からゆきさんたちの墓がすべて同じ方向に向いて建てられているのがわかるシーン、万感胸に迫るものがあります。水の江滝子は松竹歌劇団(SKD)出身で、戦前に「男装の麗人」と言われたとは聞いていましたが、演技を見るのは「サンダカン」が初めてでした。

僕が子供のころ、NHKの「ジェスチャー」で女性軍のキャプテンをやっていた水の江滝子を知ったのですが、その頃、彼女は日活のプロデューサーでした。石原裕次郎を見出したのも彼女で、デビュー当時、彼女の家に石原裕次郎を下宿させていたそうです。

「サンダカン八番娼館」に、ターキーはなぜ出演したのか。僕の推測ですが、熊井啓監督が頼みこんだのだと思います。熊井啓は助監督時代から監督になるまで、日活でプロデューサーである水の江滝子と親しく接していたはずです。助監督時代の熊井監督が脚本を書いた「霧笛が俺を呼んでいる」も「銀座の恋の物語」も企画製作は水の江滝子でした。それにしても、おキクさんを演じた水の江滝子の存在感、半端ではありません。

さて、昨年の秋に亡くなりましたが、女性史研究家と名乗っていた山崎朋子さんが書いた「サンダカン八番娼館」は一九七二年に出版され、翌年、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し評判になりました。ベストセラーになって多くの読者を得ました。当時、僕は大学生でしたが、そのことはよく覚えています。映画化は、受賞の翌年、一九七四年のことでした。監督は先ほどお話ししたように、熊井啓。社会派と言われていた人です。

といっても熊井監督は日活出身で、赤木圭一郎の「霧笛が俺を呼んでいる」、石原裕次郎の「銀座の恋の物語」、吉永小百合と高橋英樹の「ひとりぼっちの二人だが」などのシナリオも書いていますし、石原プロに頼まれて「黒部の太陽」の監督もしています。

ただ、監督デビュー作が冤罪ではないかと言われた死刑囚を描いた「帝銀事件・死刑囚」であり、その後、「日本列島」という政治陰謀ものが続いたり、アートシアターギルドで在日朝鮮人問題をテーマにした井上光晴原作の「地の群れ」を作ったりしたので、社会派監督のイメージが定着しました。

ただし、「サンダカン」の前に作った二本は「忍ぶ川」と「朝やけの詩」であり、どちらも純愛ものでした。三浦哲郎の人気のある原作「忍ぶ川」は、多くの監督が映画化を望みましたが、熊井監督が栗原小巻と加藤剛の主演で映画化しました。

栗原小巻も人気がありましたし、初夜のシーンが話題になり、ポスターも肩から上だけですが、加藤剛と小巻ちゃんの裸を全面に出し、当時、大ヒットした作品です。「朝やけの詩」は、確か若き関根恵子が高原の湖のそばでヌードになるシーンがあったように記憶しています。

というように、けっこう商売上手な監督ですが、冤罪事件にはやはり強い関心があったのでしょう、松本サリン事件で犯人と目された河野さんを、寺尾聰に演じさせて「日本の黒い夏 冤罪」を2000年に作ります。その後、黒澤明の脚本を元に「海は見ていた」を2002年に作り、その五年後、2007年に亡くなりました。

昨年の秋、高知県でシネマ・サンライズという自主上映活動をしている吉川さんという方に頼まれて、上映会で少し話をしてきたのですが、その夜に、吉川さんから四十五年前に深作欣二監督からもらったという分厚い手紙を見せてもらいました。一九七三年、学生だった吉川さんは深作監督に手紙を出し、その返事が便せん十枚にも及ぶものだったのです。

深作監督は「仁義なき戦い」がヒットして、その続編を撮っているときだったのですが、その中で「今、映画化したいもの」として「サンダカン八番娼館」をあげていました。当時の話題のベストセラーだったのですが、深作さんも「サンダカン」を作りたかったんだ、とちょっと驚きました。深作さんが映画化したら、どんなものになっていたか、見てみたいですね。

ただ、「サンダカン八番娼館」は、やはり熊井監督の方が合っていたかなと思いますし、間違いなく映画史に残る名作になりました。また、老いたサキを演じた田中絹代にとっても「最後の輝き」を見せた映画になりました。この映画の後、田中絹代はテレビでは主に倉本聰作品に出ますが、晩年になって代表作となる映画をもてたのは幸せなことだったと思います。

ちなみに、倉本聰さんの脚本では、「りんりんと」という東芝日曜劇場で一話放映された作品が当時、評判になりました。その後、倉本脚本で萩原健一主演のテレビシリーズ「前略おふくろ様」の「おふくろ様」を演じます。

第一部にはほとんど出演場面はなかったのですが、1976年秋から1977年春まで続いた「前略おふくろ様パート2」では、主人公サブの母親として田中絹代はかなり登場します。認知症になった母親のエピソードがシリーズ後半の大きなテーマになったからです。そのシリーズでサブの母親は亡くなるのですが、ドラマの中の死と現実の田中絹代の死が重なってしまいました。

当時、「前略おふくろ様」を欠かさず見ていた僕は、田中絹代の現実の死をドラマが利用したような印象を持ちましたが、後年、倉本聰さんのエッセイを読んでいると、ドラマでの「おふくろ様」の死と田中絹代の現実の死は偶然に重なったということです。そのことを倉本さんは悔やんでいるように書いていました。

ちなみに、田中絹代は身寄りがなく、又従兄弟にあたる映画監督の小林正樹が喪主をつとめました。僕は、田中絹代の死亡記事を読んで、初めて小林正樹と田中絹代が親戚だったことを知りました。

小林正樹監督は、田中絹代が大幹部をつとめる松竹に太平洋戦争の直前に入りますが、徴兵され、戦後、木下惠介監督の助監督を経て監督デビューします。その後、「人間の条件」「切腹」「上意討ち」などの名作を作りました。

先ほどお話しした高知の上映会では、小林正樹監督の「いのち・ぼうにふろう」が上映されました。小林正樹監督の作品は「黒い河」という、新人の仲代達矢が注目された作品以降、ほとんど仲代が主演ですが、「いのち・ぼうにふろう」も仲代が主演で栗原小巻も出ています。

さて、「サンダカン」公開の三年後、田中絹代は67歳で亡くなります。田中絹代は1909年(明治42年)に生まれ、1924年(大正13年)に十四歳で映画界に入ります。今年は、生誕110年に当たります。亡くなったのが1977年(昭和52年)ですが、その三年前の1974年(昭和49年)に「サンダカン八番娼館 望郷」の演技で高い評価を受けました。

すでに映画の黎明期からの長いキャリアによって伝説的な女優となっていましたが、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞という国際的な評価を得ます。まさに「田中絹代 最後の輝き」でした。

■戦前の田中絹代

田中絹代は、サイレント時代から活躍した女優でした。松竹蒲田の女優でしたから、小津安二郎監督の初期作品である昭和四年の「大学は出たけれど」(1929年)や昭和八年の「非常線の女」(1933年)などに出ています。

日本映画がトーキーになるのは、昭和の初期で、田中絹代も昭和六年の本格的トーキー作品「マダムと女房」に主演しました。

川端康成の「伊豆の踊子」が初めて映画化された昭和八年、田中絹代はヒロインの踊子・薫を演じています。このとき、彼女は二十四歳でしたが、身長152センチ、体重40キロの小柄な田中絹代は十代で充分通用しました。

ちなみに「伊豆の踊子」は、それ以降、美空ひばり、鰐淵晴子、吉永小百合、内藤洋子、山口百恵で映画化されました。原作の踊子の年齢と最も近かったのは山口百恵ですが、その一九七四年の映画化を最後に、もう四十五年間、映画化されていません。人気がなくなったのでしょうか。

ちなみに、川端康成の作品は私もかなり読みました。日本人初のノーベル文学賞受賞者ですが、「伊豆の踊子」や「眠れる美女」を読むとよくわかりますが、完全なロリコンだと思います。

田中絹代が人気絶頂だった頃、松竹に清水宏という監督がいました。田中絹代より六歳年上でしたが、当時の監督は若いですから、田中絹代が十八歳のときに二十四歳の才能あふれる監督でした。

ふたりは、昭和二年、絹代が十八歳のときに「試験結婚」をしますが、二年後に離婚します。つまり、田中絹代は二十歳でバツイチになったわけです。その後、原作では十四歳の「伊豆の踊子」を演じるのですが、実はすでに二十四歳のバツイチだったわけですね。

僕は清水宏作品が大変に好きで、もっと評価されるべき監督だと思っています。戦前の作品に「有りがとうさん」という昭和11年、226事件の年に作られたトーキー作品があります。加山雄三のお父さん・上原謙が定期バスの運転手です。

原作は川端康成の「ありがとう」という二ページくらいの掌小説ですが、それを78分の映画に仕上げました。道を譲ってくれたりすると、「ありがとう」と声をかけるので、「ありがとうさん」と呼ばれるバスの運転手が、様々な事情を抱えた乗客を乗せて定期ルートを走る映画です。

都会に身売りされていく娘がいたり、途中、道路工事をしているのは、朝鮮から強制的に連れてこられた人たちです。車掌の女性が顔見知りの女工夫と話す場面では、「私たちはバスには乗れないから」というセリフが出てきます。

今見ると、戦前の日本の様々な問題に気づきます。そういう史料的な価値もあります。ユーチューブで「有りがとうさん」で検索すると出てきますから、興味のある方にはおすすめします。上原謙が若くて二枚目です。加山雄三より、ずっといい男ですね。

また、清水監督は昭和十三年に「按摩と女」(1938年)という、とてもよくできた作品を作るのですが、これは七十年後の2008年に「山のあなた 徳市の恋」というタイトルでリメイクされました。主演は、草なぎ剛です。しかし、やはり徳大寺伸が演じたオリジナルの方がよかったですね。

伊豆あたりの温泉場でしょうか。目の見えない按摩の徳市がいます。彼は負けず嫌いで、山道でも杖を頼りに目明きを追い越していきます。ある日、知りあった宿の女客に気を引かれますが、そんなときに盗難騒ぎがあり、「もしかしたら----」と疑いを持ちます。徳市は、彼女を助けようとするのですが----という物語でした。

女客を演じたのは、若くてきれいだった高峰三枝子でした。何しろ昭和十三年の映画ですから、本当に若い。この映画の翌年、大ヒットして高峰三枝子の人気が沸騰する「暖流」が公開されます。

「暖流」はつぶれかけた病院の再建のために事務局長として乗り込む佐分利信の主人公が、看護師の水戸光子と院長令嬢の高峰三枝子の両方に惹かれる話で、映画を見た男性客が水戸光子派と高峰三枝子派に分かれたといいます。

さて、田中絹代の夫だった清水宏監督は、戦後の昭和二十三年に、本物の戦災孤児たちを起用して「蜂の巣の子供たち」という作品を作ります。子供が好きで、ロケが好きで、全編、瀬戸内沿岸でロケした作品です。原爆が落ちた広島も当時のまま写っています。本当に何もない光景です。

それに、どうしても涙をこらえられないシーンもあります。実際に清水監督は戦災孤児を何十人も引き取り、個人的な孤児院のようなものを作りました。戦後の作品では、小児麻痺の子供たちの収容施設を作った人を、宇野重吉主演で映画化した「しいのみ学園」(1955年)も忘れられません。

吉永小百合が田中絹代の生涯を演じた市川崑監督の「映画女優」(1987年)という映画があります。三十二年前の作品です。この中で、清水宏監督を演じたのは、渡辺徹でした。榊原郁恵の太った夫ですね。

この映画の中で、夫と喧嘩をして腹を立てた田中絹代が、いきなり着物の裾をまくって座敷でおしっこをするシーンがあります。おそらく有名なエピソードなんでしょうね。それにしても吉永小百合が演じたので、僕はそのシーンでびっくりしましたけど。

戦前の田中絹代というと、やはり昭和十三年の「愛染かつら」(1938年)をあげないわけにはいきません。この年、田中絹代は二十九歳です。冒頭、四、五歳くらいの女の子と歩いているヒロイン高石かつ枝が写ります。そこへ同僚の看護師がやってきます。

「親戚の子」だと言いますが、女の子が「お母さん」と呼びかけて、預けてある実の子だとばれてしまいます。その夜、子供がいるのを隠して看護師をやっていたというので、看護師寮で糾弾されるのですが、彼女の事情を知って全員が味方になります。

このシーンで看護師のひとりとして、新人の木暮実千代が出ていますが、そのことを知っていないと気付きません。僕は木暮実千代の自伝を読んでいたので、わかりました。

その後、様々な障害を乗り越えていく、文字通り「花も嵐も踏み越える」上原謙演じる医者との恋愛が描かれるわけですが、これが世の女性たちに受けて大ヒットします。男性観客も田中絹代の楚々とした日本女性ぶりに魅せられ、彼女は日本映画を代表する女優になりました。

しかし、すでに子持ちの役がくる年齢になっていた田中絹代は、昭和十九年、敗戦の一年前に作られた木下恵介監督の「陸軍」(1944年)では、出生していく兵士の母親役を演じました。この年、三十五歳です。

以前、『陸軍』は映画の楽校で上映したということですが、この戦意昂揚映画であるべき「陸軍」を作ったために木下監督は軍ににらまれ、松竹を辞めて実家へ帰っていた時期があります。今見ると、戦意昂揚映画というより反戦映画に見えてしまいます。

「陸軍」という映画は、陸軍に命を捧げた祖父、父、息子の三代を描く作品ですが、ラストシーン、子供を戦場に送り出す田中絹代演じる母親が延々と子を追っていくのが、子を思う母の気持ちを表していて、やはり反戦映画に見えてしまいます。

戦前から活躍した映画評論家の双葉十三郎さんは、こう書いています。
「私は『陸軍』の母親役に感動した。木下恵介監督のみごとな演出のおかげもあるのだが、出征してゆく息子を見送りの群衆の背後から追いつづける移動撮影の彼女には戦争に抵抗することを許されない母親の悲痛さがあふれて、私の胸をつまらせずにはおかなかったのである」

また、「天才監督・木下恵介」という評伝を書いた作家の長部日出雄さんは、「戦争中に作られた木下恵介『陸軍』をいま見ると、とうてい戦意昂揚に役だったとは思えない。主眼は明治から三代にわたって息子を戦争に取られた母親の悲しみにあり、まるで反戦映画のように見える」と書いています。

2019年2月28日 (木)

■日々の泡---怒れる若者だった



【長距離走者の孤独/アラン・シリトー】

アルバート・フィニーが八十二歳で亡くなった。最近でも「ボーン・レガシー」(2012年)や「007 スカイフォール」(2012年)などで姿を見ていたので、年を重ねてからの顔もよくわかっているけれど、僕にとっては「いつも2人で」(1967年)の三十になったばかりの頃の顔の方がなじみが深い。

僕は高校一年のときに「いつも2人で」を封切りで見て以来、とても気に入っていて定期的にDVDで見ている。「今日は、『いつも2人で』を見たい気分だなあ」と思うと、ためらわず棚からDVDを取り出す。

すでに三十半ばになっていたオードリー・ヘップバーンは、女子大生を演じるのにはちょっと無理があるけれど、友達の役でジャクリーヌ・ビセットも出てるしなあ、と思いながらリモコンの再生ボタンを押す。

「いつも2人で」の中では、アルバート・フィニーは二十歳過ぎの貧乏な建築学科の大学生から、十年後の成功した嫌味な建築家までを演じている。オードリーとアルバート・フィニーは恋愛時代から新婚時代、そして倦怠期を迎えた夫婦までを演じるのだ。

ということで、僕は「いつも2人で」でアルバート・フィニーを初めて見たわけだが、その後、「この俳優はどんな映画に出ていたんだ?」と調べてみると、「土曜の夜と日曜の朝」(1960年)の主人公役で評価されたのだと知った。

また、「土曜の夜と日曜の朝」と言えばアラン・シリトーのデビュー作で、この長編によってシリトーは注目されたとわかった。シリトーは、「土曜の夜と日曜の朝」のシナリオを自ら書いていた。

シリトーは労働者階級出身の作家だった。その頃のイギリスは完全な階級社会で、労働者出身の若者が学ぶ学校と、将来はオックスフォードやケンブリッジに進むような上流階級の子弟が学ぶ学校は明確に別れていた。

アルバート・フィニーが演じた労働者の青年は、そんな閉塞的な階級社会で仕事から解放される土曜の夜に羽目を外す。その姿が、社会への反抗であり、異議申し立てだった。彼は怒りを抱いているが、その怒りを何に向ければいいのかがわからず、愚行を繰り返す。

一九六〇年代のことだから、何年も前に公開された「土曜の夜と日曜の朝」を見ることはできなかったが、アラン・シリトーはずっと気になっている「長距離ランナーの孤独」(1962年)の原作者じゃないか、と僕は思い至った。

映画「長距離ランナーの孤独」は、僕の気に入りの一本だった。主人公の不良少年を演じたトム・コートネイも記憶に残っていた。感化院の院長を演じたマイケル・レッドグレイブの偽善者ぶりが印象に残る。

その頃、僕はイギリスで起こった「怒れる若者たち(アングリー・ヤングメン)」と言われたムーブメントに強い興味を抱いていた。僕自身、強い閉塞感を抱いた「怒れる若者」だったのだ。

実際には、おとなしい少年だったけれど、心の中ではいつも強い怒りを感じていた僕は、ある日、高松市丸亀町の宮脇書店の片隅で「怒りを込めて振り返れ」というソフトカバーの薄っぺらい本を見つけた。

聞いたこともない出版社が出していた、イギリス人作家の戯曲だった。作者は、ジョン・オズボーン。その戯曲こそが「怒れる若者たち」という言葉を生み出したのだと、「訳者あとがき」に書かれてあった。

そして、アラン・シリトーも「怒れる若者たち派」の作家だと紹介されていた。「長距離ランナーの孤独」の主人公は貧しい労働者家庭の育ちで、かっぱらいを繰り返すうちに自然と逃げ足が鍛えられる。

とうとう逮捕されて感化院に送られるのだが、長距離走の才能を認められ感化院代表としてレースに出場することになる。しかし、体制や権力の欺瞞を知り、ゴール直前、ある形で復讐を遂げる。まさに「怒れる若者たち」の代表だった。

しかし、僕が「長距離走者の孤独」を読んだのは、高校を卒業してからだった。映画だけで充分だと思っていたのだろうか。卒業してひとりで東京暮らしを始めたある日、僕は本屋で新潮文庫の「長距離走者の孤独」を手に取った。

短編集だったから、その夜に読了し、それから集英社から出ていたアラン・シリトーの作品を立て続けに読んだ。「屑屋の娘」「ウィリアム・ポスターズの死」「グスマン帰れ」などだ。

一時期、集英社文庫で何冊も出ていたシリトーの作品は、やがてまったく翻訳されなくなった。今でも日本では、シリトーと言えば処女長編「土曜の夜と日曜の朝」と「長距離走者の孤独」の作家としてしか知られていない。

しかし、映画公開から半世紀以上が経ち、またシリトーが死んで九年が過ぎる今も、「The Loneliess of the Long-Distance Runner」だけは、世界でも有名な短編のひとつであることは確からしい。

2019年2月21日 (木)

■日々の泡---小説も映画も泣いた



【二十日鼠と人間/ジョン・スタインベック】

ジョン・スタインベックの「二十日鼠と人間」を読んだのは、中学生のときだった。十三歳か、十四歳だったと思う。だから、「二十日鼠と人間」は僕の精神形成に大きな影響を与えている。

この短編は大恐慌時代のアメリカ・カリフォルニアの農場が舞台で、いろいろなタイプの人物が描かれる。子供のように純粋で善良で心優しい人物、誠実だが世の中を知り尽し人間への絶望を抱えた人物、コンプレックスのために敵意ばかりを肥大させた人物----などなどである。

まず、主人公であるふたり組のジョージとレニーの登場で物語は始まる。ジョージは頭のよい、世の中を知り尽した人物だ。レニーは知的障害のある大男で、すべてジョージに頼っている。ジョージは、レニーの保護者的な存在だ。

今から振り返ると、ジョージもレニーも単純な主人公たちではなかった。作者は他の登場人物たちと同等の距離感を持って、ふたりを描いていたと思う。ジョージには狡猾な部分があるし、レニーの愚かさには僕は苛立ちを感じた。

レニーは小動物が好きで、ポケットに二十日鼠を入れて可愛がったりするが、大男で力が強いくせに加減ができず、力を入れすぎて殺してしまうことが多い。それを悲しむ善良で心優しい人間だが、同じことを何度も繰り返す。その愚かさは、ジョージを苛立たせる。

彼らは季節労働者で、農場を渡り歩いている。いわゆる「ホーボー」だ。ひとつの農場で落ち着けないのは、レニーが何かとトラブルに巻き込まれることが多いからである。時代は一九三〇年代。世の中には知的障害者に偏見を持ち、意味なくからかうような男たちもいる。

ジョージとレニーは、ある農場に雇われる。農場主はそれなりに誠実な人物だが、露骨に黒人を差別する。一九三〇年代であることを考えれば、彼が特に差別主義者であるとは言えないだろう。農場で誰もやりたくない仕事を担当している黒人は勉強家で知的で、愚かな白人たちより立派な人物だ。

農場主の息子は小男で、そのことに強いコンプレックスを抱いている。だから、自分が腕力に優れていることを誇示しようとする。物語の中では悪役だが、僕はその後の実人生で彼のような人物には何人も出会った。彼は最初から大男のレニーに反感を抱き、喧嘩腰で接する。

ジョージは、とにかくトラブルを避けようとする。それが、彼の世渡りの知恵だ。彼には、レニーと一緒に小さな自分の農場を持つ夢がある。そのことを、ことある度にレニーに話し、レニーはその夢がすぐにでも実現するのだと、子供のように信じ込む。

農場には様々な人間が雇われているが、みんな、社会の底辺で蠢くように生きている。ジョージのように、ささやかだが堅実な夢を語る人間は珍しい。彼らは、不運で過酷な人生に痛めつけられている。しかし、不具の老人がふたりの夢に乗っかり、夢が実現する可能性が出てくる。

そんなとき、トラブルの種がふたりの前に現れる。農場主の息子の若い新妻である。彼女は、男と見れば媚びをうるような女だ。どんな男にも気を持たせるようなことを言う。ジョージは、彼女を避ける。しかし、純粋なレニーは彼女の言葉を疑わない。そして、悲劇が起こる。

この短編のラストでは、間接的な表現だったが一発の銃弾が発射される。その場面を読みながら、僕は滂沱の涙を流していた。そのとき、十三、四の少年の胸に「二十日鼠と人間」は熱く焼けた鉄の印を押しつけたのだ。今も、僕の心の中にその焼き印は、はっきりと残っている。

以来、僕はスタインベックの熱心な愛読者になった。すでにノーベル文学賞を受賞していた作家である。ヘミングウェイ、フォークナーに続くアメリカの偉大な作家と認められていた。当時の僕は、スタインベック作品を読むことに誇りを感じていたものだった。

原作を読んでから長い月日が流れた後、映画化された「二十日鼠と人間」(1992年)が公開された。僕が滂沱の涙を流したときから、三十年近くの時間が過ぎていた。もちろん、僕はその映画を見にいき、ラストシーンで再び滂沱の涙を流した。

ジョージを演じたのは、この作品で初めて見る俳優だった。おまけに、彼は制作者であり監督でもあった。彼は、ゲイリー・シニーズといった。三十七歳になるゲイリー・シニーズは、舞台版「二十日鼠と人間」の演出も担当したという。

二年後、ヒット作「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994年)の主人公フォレスト・ガンプの上官を演じて、ゲイリー・シニーズは多くの人に知られるようになる。フォレスト・ガンプは負傷した上官を抱えて戦場を脱出し、帰還後、上官を訪ねると彼は両脚のない姿でエビ漁師になっている。

大男のレニーを演じたのは、「プレイス・イン・ザ・ハート」(1984年)の盲目の役で記憶に残る名優ジョン・マルコビッチだった。あまり大きな男だという印象がなかったジョン・マルコビッチが、怪力の大男に見えてきたのには驚いたものだった。

ラストシーン、ゲイリー・シニーズの目の演技が忘れられない。鋭い目を持つ(どちらかと言えば悪役の目であり、僕は彼の顔から手塚治虫の悪役キャラクターであるアセチレン・ランプを連想した)ゲイリー・シニーズだが、その目に深い悲しみを湛えていた。

自分が愛し守ってきたものを自らの手で壊さざるを得ないところに追い込まれた深い悲しみが、ゲイリー・シニーズの鋭い視線の中に浮かび上がり、その瞳には人間社会の不条理と理不尽な運命に対する怒りが燃え上がっていた。

2019年2月14日 (木)

■日々の泡---貸本屋の人気作家だった



【青空娘/源氏鶏太】

我が家は職人の家だったから、僕が子供の頃、二階に住み込みの弟子がいた。多いときでも二人くらいだったけれど、その職人見習いさんたち(みんな十代半ばだった)に遊んでもらった記憶もある。

中には安物のギターを持っていて、流行歌を弾き、歌ってくれた人もいた。彼らの部屋には月刊平凡や月刊明星、付録の歌謡集などが転がっていた。源氏鶏太の小説は、そんな雑誌の連載で読んだのかもしれない。

昭和三十年代、源氏鶏太は雑誌、新聞などの連載小説をひっきりなしに書いていた。当時の流行作家は多くの出版社や新聞社からの注文を受け、一ヶ月に書く原稿枚数はものすごい量にのぼったという。

源氏鶏太は長くサラリーマン(住友系の大企業)と作家の二足の草鞋を履いていたはずだが、あの頃はもうサラリーマンを辞めていたのだろうか。長いサラリーマン経験を生かして書く小説は、世の多くのお父さんたちに受け入れられたのだった。

有名なのは、戦後の流行語にもなった「三等重役」だろう。占領軍の指令によって経営者たちの多くが公職追放になったため、いきなり企業トップになった「三等重役」を描いた小説で、映画化されて広く知られることになった。

映画化された「三等重役」(1952年)で新米社長を演じたのは河村黎吉だったが、調子のよい秘書課長のような役を演じた森繁久彌の人気が出た。その人気が後の「社長」シリーズにつながるのだが、森繁独特の軽妙な演技は「三等重役」から始まったのかもしれない。

昭和二十年代後半から昭和四十年代初めまで、西暦で言えば一九五一年から一九六七年までの十六年間で、源氏鶏太の小説は八十作以上が映画化されている。凄いことだ。テレビドラマを加えれば、一体どれほどの数になるだろう。

僕がよく憶えている源氏鶏太原作のテレビドラマは、森繁久彌主演「七人の孫」である。「七人の孫」は、先日亡くなった樹木希林が一般に顔を知られるようになったドラマである。当時の名前は、悠木千帆だった。

悠木千帆はお手伝いさん役で、森繁とのトボけた掛け合いが話題になった。余談だが、その頃、悠木千帆は演劇仲間の岸田森と結婚していた。岸田森もテレビドラマ「氷点」のヒロインの兄役で人気が出る。

森繁が唄う主題歌が好きで「七人の孫」を欠かさず見ていた僕は、源氏鶏太という名前になじみがあったのだろう、貸本屋で何冊かを借りて読んだことがある。「青空娘」「意気に感ず」といったタイトルが甦ってくる。貸本屋の人気作家だった。

その頃、石原裕次郎も源氏鶏太原作のサラリーマンものを撮っている。相手役は芦川いづみがつとめることが多く、芦川いづみファンだった僕は「喧嘩太郎」(1960年)や「堂々たる人生」(1961年)がとても好きだった。

「堂々たる人生」の裕次郎は倒産しかかっている玩具会社の社員で、ファーストシーンは浅草寺境内での芦川いづみとの出会いだった。彼は社内の陰謀を暴き、関西財界の大物に気に入られて資金援助を受け会社を救う。

同時期に、高倉健も源氏鶏太のサラリーマン小説の映画化作品で主演している。「天下の快男児 万年太郎」(1960年)と「万年太郎と姐御社員」(1961年)である。この二本には、自民党の大物代議士になった山東昭子が出演している。

万年太郎は喧嘩早くて、何かというと上司を殴って左遷されるのだが、そういう主人公が現実の会社では上司に逆らえない観客に受けたのだろう。その頃、日本の企業は終身雇用で年功序列。上司の命令は「絶対」だった。

昭和二十二年の出世作「たばこ娘」以来、源氏鶏太にはタイトルに「娘」がつくシリーズがある。映画化された作品で見ると、「ひまわり娘」(1953年)「見事な娘」(1956年)「青空娘」(1957年)「娘の中の娘」(1958年)などである。どのヒロインも明朗快活、いつも顔を上げて生きている印象がある。

特に増村保造監督がデビュー作「くちづけ」(1957年)に続いて監督した二作目「青空娘」は、若尾文子の溌剌とした演技で気持ちのよい作品になった。彼女が演じたのは、高校を卒業し、東京の父の家に寄宿することになった娘である。

しかし、父には正妻があり、腹違いの兄と姉、それに弟がいる。継母にとっては、夫の愛人の娘だ。彼女は、彼らから使用人扱いされる。しかし、彼女が東京の父の家にいくことにしたのは、行方不明の母を捜す目的があったからだった。

彼女を愛することになるのは、高校時代の教師(菅原謙二)と、腹違いの姉が恋をしている金持ちの御曹司(川崎敬三)である。御曹司は性格のよい若者で、ヒロインも次第に惹かれていく。どちらも好漢である菅原謙二と川崎敬三の「恋のライバル関係」も爽やかに描かれる。

薄幸のヒロインが持ち前の素直で明るい性格で人生を切り開き、すべてがハッピーになって終わる単純明快な物語(晩年の作品以外、源氏鶏太作品はすべてそうだ)ではあるけれど、いつ見ても懐かしさがあふれてくる。

昭和三十年代の貧しさを僕はよく憶えているので単純に「昔はよかった」とは思わないが、日本の社会や人間関係は複雑になりすぎたのではないか、とも思えてくる。今から見ると源氏鶏太の小説は能天気ではあるけれど、それを受け入れ、多くの人が愛読した時代もあったのだ。

そうでなければ、十六年の間に八十数本も映画化されるわけがない。「素直で明朗闊達な性格の主人公が人生を切り開き、すべてがハッピーエンドで終わる単純明快な物語」を、そのまま受け入れる素直な読者が無数に存在したのである。今や、絶滅危惧種だろうけど---。

2019年2月 7日 (木)

■日々の泡---抽象画のようだった



【砂の上の植物群/吉行淳之介】

吉行淳之介の「砂の上の植物群」を読んだのは、十六か十七歳の高校生の頃だった。友人たちは「そんなエッチな本を読んで----」と言ったけれど、僕がその小説を読んだ理由は性的な興味があったからではない。

今から振り返ると、性的にはオクテだった僕にその小説に書かれていたことが理解できたのだろうか疑問に思う。ただ、僕は高校生のときに新潮社から出ていた分厚い一冊本の「吉行淳之介短編全集」「吉行淳之介長編全集」を読破するほどの愛読者だった。

また、「砂の上の植物群」は、僕の中から抽象絵画への関心を引き出してくれることにもなった。「砂の上の植物群」とは、パウル・クレーの作品のタイトルから引用したものだと知ったからだ。

パウル・クレーを知らなかった僕は、彼の画集を見つけて開いた。新鮮な驚きがあった。その結果、具象画だけが絵画だと思っていた少年は、心象を描く作品というものが存在するのだと知ったのである。

その頃、吉行淳之介は流行作家(今や死語ですね)だった。週刊誌では座談の名手として座談会の連載を持ち、上品なエロ話ができる作家として売れていた。また、軽妙なエッセイを連載していた。エッセイ集に「栗と栗鼠」というタイトルのものがあり、僕がその意味を理解したのはずっとずっと後のことだった。

「桃栗三年、柿八年」ということわざをモジって、「股尻三年、膝八年」と言ったのは吉行淳之介だという話を聞いたことがある。女性のいる銀座の酒場で、隣に座ったホステスの体をさりげなく触るワザについてのフレーズだという。

吉行淳之介には、そういう「洒脱な遊び人」「性的技巧者」「軽妙だが軽薄ではない都会人」といったイメージがあった。その頃の吉行淳之介は、同じように性的なテーマを描いても、純文学作品とエンターテインメント作品を書き分けていた。

端的に言うと、扇情的に描くか、分析的に描くかという違いである。ポルノグラフィーは性的場面を扇情的に描き、読者を興奮させなければならない。純文学作品では、性的場面を描いても人が生きる意味を考えさせなければならない。

今でも、最初に「砂の上の植物群」を読んだときの印象を僕はよく憶えている。それは、化粧品のセールスマンである主人公が、仕事をさぼって公園で思いを巡らせている場面から始まった。

彼は、ある推理小説の構想を考えている。彼には若くして死んだ父親との葛藤があるらしく、その父親が死んだ後も残った妻の体を凶器にして殺人を図るという小説だが、その肝心なトリックが思いつかない。

やがて、主人公はセーラー服の女子高生(その唇に真っ赤な口紅を塗っている)と知り合い関係を持つ。女子高生には保護者のような姉がいて、その姉を堕落させたい願望があるのか、主人公に姉を誘惑するように持ちかける。

主人公は姉に近づき、誘惑し、関係を持つ。その姉には被虐趣味があり、何度も身を重ねる関係になり、ある日、主人公に手を縛って性交してほしいとねだる。しかし、それこそが主人公の父親が女の体に残した凶器だったのではないか、と主人公は疑い始める。

五十年も前に読んだので、記憶が曖昧な部分もあるのだけれど、ざっと要約すると、そんな物語が展開したと思う。今、書くとしたら、もっと直接的な表現もあるのだろうが、何しろ一九六三年に発表された小説である。露骨な描写はなかったと思う。

吉行淳之介作品は、独特の感覚的な表現が魅力的だった。評論家の川村二郎さんは「感覚の鏡」という長編の吉行淳之介論を書いているが、吉行淳之介の感覚的な文章は僕に大きな影響を与えていると思う。

「砂の上の植物群」では三十四歳で死んだ画家の父親が主人公に大きな影を落としているけれど、現実の吉行淳之介にも三十四歳で死んだ父親・吉行エイスケの影が見え隠れする。父親も作家だったからだ。

NHK朝の連続ドラマ「あぐり」は、吉行淳之介の母親あぐりの人生を描いており、エイスケを野村萬斎が演じていた。ちなみに淳之介の妹は女優の吉行和子と、詩人で後に芥川賞を受賞した吉行理恵である。兄と妹で芥川賞を受賞したのは、他にはいないと思う。

ちなみに「砂の上の植物群」は原作が出版された年に映画化され、一九六四年八月末、東京オリンピックの五十日前に公開された。才人の評判が高かった中平康が監督し、脚本には池田一朗(後の時代小説作家・隆慶一郎)が参加している。

僕は公開当時に見たかったのだが、さすがに中学一年生では映画館に入りにくく、後年、思いを果たした。主人公は「日本のアラン・ドロン」と言われた頃より少し年を取った仲谷昇、女子高生は西尾三枝子、その姉は稲野和子だった。

西尾三枝子は三田明のヒット曲を元に作った青春映画「美しい十代」(1964年)でデビューしたばかりの清純派だったが、この映画への出演をきっかけに大胆派に転向し、後にテレビドラマ「プレイガール」に出演することになる。

稲野和子という女優は、思い出すと今でも背筋がザワッとするほど官能的な人だった。十代半ばの少年にとっては、「イヤラシゲーな」人だったのである。小説は抽象画を見ているような印象だったが、映画はセックスシーンも直截的で僕は戸惑ったものだった。

2019年1月31日 (木)

■日々の泡---違いを受け入れる



【最後の国境線/アリステア・マクリーン】

昨年公開されたドイツ映画「はじめてのおもてなし」(2016年)を面白く見た。現在のドイツの状況がよくわかった。難民問題を取り上げているのだが、コメディにしているので、ニューナチの連中や極右の人種差別主義者が出てきても苦笑いですむ。シリアスに描いたら、ちょっとやりきれない。

先進国のリーダーで唯一まともでまっとうなメルケルさんさえ退陣に追い込まれている現在のドイツの状況を思うと、この映画のように問題が解決したらいいのにな、と叶わぬ願いを抱いてしまう。

狷介で口の悪い老医師リヒャルトがいる。引退を勧められても頑として認めないし、難民センターで奉仕活動をしている移民出身の研修医タレクには嫌味ばかり言っている。手術中に彼にミスを指摘されると、口を極めて罵る。

妻のアンゲリカは元教師で校長の経験もあるが、今は引退している。子供はふたりいるが、独立し家を出ている。息子のフィリップはエリートの企業弁護士で、離婚し男の子をひとり育てている。娘のゾフィは三十を過ぎているのに、まだ「自分探し」の真っ最中で今は大学で心理学を学んでいる。

ある日、難民センターへいき協力を申し出たアンゲリカは、家族が集まった晩餐の席で「難民をひとり受け入れる」と宣言する。夫と息子は反対するが、娘のゾフィは賛成する。その家族の議論が、ドイツ国内の難民支援派と難民受け入れ反対派の対立のようだった。

結局、夫は人種差別主義者と言われるのが嫌で妥協し、家族を殺されたナイジェリア難民のディアロを自宅に受け入れることになる。そこから、「難民受け入れに寛容だったドイツ」の現在の問題が様々に描かれていく。

見終わって、クレジット・タイトルを見ているとき「あれ、センタ・バーガーだったんだあ」と思わず声を挙げた。「上品で、きれいなおばあさんだなあ」と思いながら見ていた一家の母親アンゲリカを演じていたのは、何とセンタ・バーガーだったのである。

僕がセンタ・バーガーを最後に見たのは、サム・ペキンパー監督の「戦争のはらわた」(1977年)だから四十二年も前のことになる。最近の出演作を何本か見たカトリーヌ・ドヌーヴより二歳年上だが、今はセンタ・バーガーの方がずっときれいだ。「はじめてのおもてなし」出演時は七十五歳である。

ドイツ出身の女優というとマレーネ・ディートリッヒが有名だけど、戦後ではヒルデガルド・ネフ、マリア・シェル(マクシミリアン・シェルの姉)、ロミー・シュナイダー、クリスティーネ・カウフマンもいると思って調べてみたら、マリア・シェルもロミー・シュナイダーもセンタ・バーガーもオーストリアのウィーン出身だった。

クリスティーネ・カウフマンもオーストラリア出身である。「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)で描かれたように、オーストリアはナチス・ドイツと合併した。アドルフ・ヒトラーだってオーストリア人だったのだ。ドイツとオーストリアの関係は、密接なのだろうか。

センタ・バーガーが今も現役の女優で、美しさを保っているのを知って僕は大変うれしくなった。昔、とても好きだった女優さんなのだ。改めてネットで調べてみると、「戦争のはらわた」以降の出演作はほとんど日本未公開だった。「はじめてのおもてなし」が四十一年ぶりの日本公開である。三十六歳のセンタ・バーガーが七十五歳になって現れたことになる。まるでタイムマシンだ。

僕が初めて見たセンタ・バーガーは、やはりサム・ペキンパー監督作品「ダンディー少佐」(1965年)だった。忘れられないのはジュリアン・デュビビエ監督の遺作になった「悪魔のようなあなた」(1967年)のヒロイン。人気絶頂期のアラン・ドロンの相手役である。何しろ僕の最愛の作品「冒険者たち」と同じ年に制作されている。

もう一本、僕がどうしても見たい映画に二十歳のセンタ・バーガーが出演している。彼女がハリウッドデビューした「秘密情報機関」(1961年)という、リチャード・ウィドマークが制作し主演したスパイ映画である。六〇年代の冷戦を背景にしたハリウッド映画には、ドイツ人女優の需要が多かったのかもしれない。

センタ・バーガーも六〇年代にはスパイ映画への出演が多い。僕がどうしても「秘密情報機関」を見たいと思っている理由は、アリステア・マクリーンの「最後の国境線」を原作にしているからだ。彼女は、おそらくハンガリーからイギリスに亡命する博士の娘の役に違いない。

初期のアリステア・マクリーン作品は、非常に完成度が高かった。デビュー作「女王陛下のユリシーズ号」は不朽の名作である。ただ、完読するには忍耐が必要だろう。しかし、二作め「ナヴァロンの要塞」が映画化され大ヒットした後、中期以降の作品は映画のために書くようになり、質は低下した。

後期の作品など、読むに耐えないものさえある。僕は十一作めの「八点鐘が鳴るとき」まではすべて読破し、その後、チョコチョコと適当に読み、「軍用列車」以降は書店で新刊を見かけても「マクリーン、また出したんだ」とチラリと見るだけで手に取りもしなくなった。

「最後の国境線」は、冷戦真っ盛りの一九五九年に、四作めのアリステア・マクリーン作品として出版された。僕が読んだのは、四十年ほど前のことになる。二十代後半、僕はマクリーン作品を集中して読んだものだった。「最後の国境線」は、マクリーンの初めてのスパイ小説である。極寒のハンガリーを舞台に繰り広げられる逃亡と追跡の緊迫感は、半端ではなかった。手に汗握る。冒険小説として一級品である。

そして、その小説には忘れられないフレーズがあった。ある登場人物が語る長いセリフの中にそのフレーズはあり、僕の記憶に刻み込まれたのだった。後年、かわぐちかいじさんのマンガ(作品名は憶えていない)を読んでいたら、そのフレーズが以下のように引用されていた。

----最後の国境線は人間の心(アリステア・マクリーン)

「はじめてのおもてなし」を見ていると難民排斥を訴える人々の言動は醜悪で、「最後の国境線は人間の心」というフレーズの意味を実感する。他者の違いを受け入れられない人は、突き詰めていくと、結局、自分以外の人間は受け入れられないのである。自分以外の人間は、どんなに共通する部分があっても自分と何かが違っているのだから。

僕は「はじめてのおもてなし」を見て、「違いを受け入れる寛容さと許容する心」を改めて肝に命じた。ちなみに、「はじめてのおもてなし」の監督はセンタ・バーガーの息子だという。

2019年1月24日 (木)

■日々の泡---サヨナラだけが人生だった



【黒い雨/井伏鱒二】

市原悦子さんが八十二歳で亡くなった。僕は、セーラー服姿の市原悦子さんを見たことがある。巣鴨あたりのキャバクラにいったら、市原悦子似のおばさんがセーラー服を着て出てきた----とかいう話ではない。

本当に、あの市原悦子さんがセーラー服を着て、女子高校生を演じていたのだ。撮影当時、市原さんは二十歳を過ぎたばかりだから女子高生の役も不自然ではないが、僕が見たのは十数年前だったので、「家政婦は見た」の市原さんがセーラー服を着ているような錯覚に陥った。

その映画は、井伏鱒二原作の「駅前旅館」(1958年)だった。監督は文芸映画の巨匠、豊田四郎である。この映画がヒットしたので、その後「駅前シリーズ」は「社長シリーズ」と並んで、森繁久彌の代表的なシリーズになった。森繁、フランキー堺、伴淳三郎がメインキャストである。

「駅前旅館」の撮影当時、市原悦子は養成所を出て俳優座の劇団員になったばかりの頃である。見た目も、しゃべり方も後年と同じだった。つまり、彼女の演技は当時から完成されていたのである。

僕が井伏鱒二の「駅前旅館」を読んだのは、二十年ほど前のことだ。原作は「私、駅前の柊元旅館の番頭でございます」と始まる一人称の語りである。さらに、「です・ます」調を採用している。

現在、井伏鱒二作品を読む人がどれほどいるかはわからないが、日本近代文学史の中でも重要な作家だと思う。ただ、僕が井伏鱒二という名前を知ったのは、高校の現代国語の教科書に太宰治の「富嶽百景」が載っていたからだった。

「富嶽百景」は、短いので教科書に採用されやすい。小説なのか随筆かわからない内容だし、「私」は「太宰さん」と呼ばれる。さらに、「井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をして居られる」と実名で書いている。

その井伏鱒二の紹介で「私」は甲府で見合いをし、結婚する決意を固めるのである。その相手が、後に津島佑子さんを生む太宰の正妻になる。「富嶽百景」で有名になった一節に、「富士には、月見草がよく似合ふ」がある。

しかし、高校生のことである。そんな情緒あふれる文章より、生徒たちの興味を惹いたのは、「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた」という部分だった。生徒たちは「放屁」という言い方を初めて知り、休み時間に「放屁するぞ」とふざけあった。

僕も、名作の誉れ高い太宰治の短編に「放屁」という言葉が出てきたのには少し驚いた。教師の話では「井伏鱒二は否定してるけどね」ということだったが、ずっと残る作品にそんなことを書かれても、井伏鱒二は心中するまで太宰の面倒を見たのだなと僕は思った。

甘ったれで破滅型の太宰治に対して、井伏鱒二には「大人」のイメージがある。温厚で包容力があり、作家には珍しく人望のある人物という印象が強い。作品群からも、そんなことを感じてしまう。

その井伏鱒二が唐の詩人の「勧酒」を自由に和訳したフレーズが有名になったのは、井伏鱒二の「貸間あり」(1959年)を映画化(脚本に藤本義一が加わっている)した川島雄三監督が口癖のように言い続けたからだった。

  コノ盃ヲ受ケテクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  花ニ嵐ノタトエモアルゾ
  サヨナラダケガ人生ダ

どちらかと言えば、僕はこの漢詩の和訳の仕方に惹かれて井伏鱒二の作品を手に取った。それは、後に井伏鱒二の代表作になる長編で、当時、出たばかりで話題になっていた本だった。

昭和四十一年(一九六六年)、僕が十五歳の秋に「黒い雨」は新潮社から刊行され、翌年まで続くベストセラーになった。今でも僕は憶えている。初めて、高校の図書館で「黒い雨」を手にしたときのことを----。

僕が棚から「黒い雨」を取り出し、パラパラとページをめくっていると、通りがかったTという同級生が「それ、読んだ方がええぞ」と声をかけてきた。Tは同じクラスだったが、ほとんど口をきいたことはなかった。

僕の学校はヘアースタイルについてはそれほどうるさくなかったのに、Tはスキンヘッドに近い丸刈りだった。制服は詰め襟で、みんな頸のホックを外していることが多かったのに、Tはいつもきちんとホックを閉じていた。だから、僕のTに対する印象は「変なヤツ」だった。

「黒い雨というのは、広島の原爆の後に降った真っ黒い雨のことなんや。放射能がいっぱい入っとって、それに濡れたら原爆症になるんや」と言うと、Tはすっと歩いていった。当時でも、雨に放射能が含まれていて、濡れると禿げると言われたりしていたので、僕は一瞬、Tの言葉を理解するのが遅れた。

しかし、僕は「黒い雨」の意味するところも、その小説の内容もまったく知らなかったのだけれど、Tの説明ですべて納得してしまった。ただ、井伏鱒二という作家は「山椒魚」で評価された人でユーモア作家だと思っていたから、「黒い雨」がシリアスな原爆小説だと知って意外に思ったものだった。

後年、今村昌平監督が「黒い雨」(1989年)を映画化したとき、僕はひと足早く東映本社の試写室で見ることができた。今村昌平監督の盟友である北村和夫の抑制された名演に目を見張り、女優としてカムバックした田中好子の演技に好感を抱いた。

風呂で髪がズルッと抜けるところの田中好子の表情は、今も鮮やかに甦ってくる。まるでホラー映画のように、僕はドキリとしたものだった。「黒い雨に濡れた」という噂で嫁にいけない姪に叔父(北村和夫)は心を痛める。

「黒い雨」は、第十三回日本アカデミー賞の主要部門をほとんど独占した。最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀脚本賞、最優秀主演女優賞(田中好子)などである。そして、最優秀助演女優賞を受賞したのは、田中好子の叔母を演じた市原悦子だった。

2019年1月17日 (木)

■日々の泡---足るを知る

【清貧の思想・麦熟るる日に/中野孝次】

元日産会長カルロス・ゴーンが逮捕されて二ヶ月になる。やったことが違法だったかどうかは裁判になってからの判断なのだろうけれど、その報道を見る限り、僕の感想は「人間の欲望は果てしがない」というものだった。

日産の報酬だけでも十数億円、加えてルノー会長としての報酬もあり、それで充分過ぎると思うのは僕が乏しい年金生活者だからだろうか。ただし、四十年勤め保険料をせっせと納めたおかげで、今のところひとり暮らしをするには不自由はしていない。食べていければそれでいい、と思っている。

もっとも、僕の四国での生活と言えば、実家の裏の父が持つ借家の一軒を只で使わせてもらっているし、行動範囲は半径二キロくらいに限られている。金はかからない。実家と借家を行き来し、食事はすべて自分で作っている。

早朝の散歩のときに二十四時間開いているスーパーで二日分の食料を買っているが、支払いは二千円足らずですんでいる。十日に一度くらいの割合で四キロほど離れた高松市の中心街に出かけ(電車代は190円)、友人と居酒屋などに入る。その後、ショットバーでウィスキーを飲んで帰るのだが、支払いはせいぜい四、五千円ですむ。

健康保険料、介護保険料、所得税、住民税を引かれた年金は、現役時代から比べれば可処分所得が極端に少ないけれど、労働しないで二ヶ月に一度まとまったお金が振り込まれるのはありがたいとしみじみ思う。四十年間働いた自分に改めて感謝する。

そんなとき「ライムライト」(1952年)のチャップリンのセリフを思い出す。老道化師(チャップリン)が、自分をバレースクールに通わせるために姉が街娼になっていたのを知って自殺を図ったバレリーナ(クレア・ブルーム)に向かって言うセリフである。

----人生に必要なのは、勇気と、想像力と、少しのお金。

カルロス・ゴーンと対照的なのは、メディアが勝手に「スーパー・ヴォランティア」などと祭り上げたオバタさんだろう。その生き方を知れば知るほど頭が下がる。月六万円足らずの国民年金だけで、ヴォランティアとしての生活を賄っているという。軽自動車のヴァンで寝泊まりし、食事も安くあげているらしい。

ヴォランティアにいった現地に迷惑をかけないことを己に課し、謝礼などは一切受け取らない。見返りは求めない。遠く離れた被災地へいくのにはガソリン代もかかるだろうに、と心配になる。おそらく高速道路は使わず、一般道で九州から東北の被災地に通ったのだろう。

そんなことを考えていたら、昔、ベストセラーになった中野孝次さんの「清貧の思想」を思い出した。本が出たのは一九九二年、バブル崩壊直後のことだった。中野さんは本来はドイツ文学者なのだが、「徒然草」や「方丈記」などの解説本も出していて、「清貧の思想」も吉田兼好や西行、良寛、芭蕉などの生き方を取り上げている。

要するに、物質的な豊かさより「心の豊かさ」を持とう、という内容だ。「しぐるるや あるだけの飯 もう炊けた」と詠んだ放浪の俳人・山頭火なども「清貧の思想」的生き方の系譜に入るだろう。

日本語には「足るを知る」という言葉がある。少しのお金があり、生活するのに充分ならそれでいいと思っている今の僕は「足るを知る」状態なのだろうか。うーむ、そこまでは悟っていないかもしれない。ただ、特に欲しいものもないし、食べるものも贅沢したいとは思わない。

早朝のスーパーに行くと、消費期限がその日になっている魚肉類(前日の売れ残り)は割引になっていて、どうせその日に調理するからと、そんな食材を買っている。飲みに出ても、居酒屋の煮込みと焼酎で満足する人間だ。着るものはユニクロですませている。

誰に会うわけでもない。散歩し、実家の両親の様子を見、本を読み、DVDを見、原稿を書き、公園で猫と戯れて終わる日々である。西行、芭蕉、あるいは山頭火のような生活はできないが、放浪の詩人のような生き方に憧れる気持ちはある。物質的豊かさより「心の豊かさ」を感じる方が幸せだとも思う。

日本人の多くがそんな生き方に共感したから「清貧の思想」はベストセラーになったのだろう。しかし、「清貧の思想」がベストセラーになったとき、僕は「中野孝次さんの本がベストセラー?」と少し違和感を感じたものだった。その十四年ほど前、僕にとっての大切な一冊が、中野孝次さんの初めての小説集「麦熟るる日に」だったからだ。

それは、「鳥屋の日々」「雪ふる年よ」「麦熟るる日に」の自伝的小説三編をまとめた単行本だった。出版された年は一九七八年、新聞の書評を読んですぐに買ったから、僕が読んだのもその年だった。僕は社会人になって三年、まだ学生気分を引きずる未熟な青年だった。

三部作の語り手は、中野さん自身だと思って読んでもいい。記憶だけで書くので少し違うかもしれないが、冒頭の一行は「記憶の世界は薄暮に似ている。そうは思わないか」というものだった。自身の記憶を手探りするように語られる物語は、まだ二十七歳で文学の夢をあきらめていなかった僕をのめり込ませた。

確かに薄暮の世界のように、うすぼんやりとした景色が見えてきた。記憶の中の人物は薄い膜がかかったように、ときには輪郭がゆらゆらと揺れるシルエットだけになったように感じられた。それは、自身の少年から青年にかけての時期を数十年後に回想して描くには、最も適した文体ではないかと僕は思った。

中野さん自身は大正十四年生まれだから、僕の父と同じ歳である。大工の子として生まれ「職人の子に教育はいらない」と中学進学を断念させられる。しかし、優秀だった中野さんは猛勉強をして旧制中学の卒業資格を取得し、旧制第五高等学校へ進み、戦後に東大文学部独文科を卒業する。そんな生い立ち(徴兵令状が届くまで)が小説の形で語られるのだ。

身につまされたのは、同じように僕もタイル職人の子だったからかもしれない。子供の頃は「本ばっかり読んどらんで」と、よく叱られたものだった。家には本が一冊もなかったから、僕の小遣いはほとんど本に費やされることになった。ただ、僕は中野さんほど優秀でもなく、努力家でもなかった。だから、今、ただの年金生活者として、身分相応に足るを知る生活をしている。

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