2019年7月11日 (木)

■日々の泡----重厚長大な小説


【風と共に去りぬ/マーガレット・ミッチェル】

長い小説というと、トルストイの「戦争と平和」とかドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」といったタイトルが浮かぶ。

まあ、吉川英治の「宮本武蔵」も長いし、司馬遼太郎「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」も長い。山岡壮八の「徳川家康」なんてのもメチャクチャ長いけど、この際、世界文学の中でと限定しておく。

僕は「戦争と平和」は100ページくらいで投げ出し、「カラマーゾフの兄弟」はずっと気になりながら10年ほど前にようやく読破した。「失われた時を求めて」は何度か挑戦しながら、その都度挫折したままだ。

しかし、大学生の頃、「アンナ・カレーニナ」は夢中で読んだし、ドスト氏の「未青年」「白痴」もおもしろく読んだ。まあ、長いから苦手というものでもないらしい。長くても読めるものは読める。

ちなみに「徳川家康」は読んでいないが、「竜馬がゆく」「坂の上の雲」は読み出したらやめられなかった。短編連作(長編も何作かある)のシリーズものだから長さの比較にはならないけど、池波正太郎の「鬼平犯科帳」は30巻くらい読んだ。

僕が初めて読んだ重厚長大な小説は、「風と共に去りぬ」だった。小学六年生のとき、友だちの家へ遊びにいくと本棚に河出書房版「世界文学全集」が並んでおり、その中に「風と共に去りぬ」上下巻があったのだ。

映画は有名だったから、僕もそのタイトルは知っていたので、つい借りてしまったのだった。重く大きな本だった。その夜から読み始めると、けっこう読みやすくてスイスイ読める。小さな活字で2段組になっている全集2巻を、僕は1週間ほどで読破した。

ただ、ヒロインのスカーレット・オハラは気に入らなかった。嫌な女だと思った。おそらく、多くの男の読者は良妻賢母型で心優しいメラニー(映画ではオリヴィエ・デ・ハヴィランドが演じた)に好意を持つのではないだろうか。12歳の僕もそうだった。

スカーレットが恋する紳士的なアシュレイ、無頼漢の魅力を放つレット・バトラーを比べると、圧倒的にレット・バトラーに感情移入した。奴隷制度を当然とし、それを疑問に感じない南部の紳士たちには批判的な目を向けた。

後年、アン・エドワーズが書いた「タラへの道 マーガレット・ミッチェルの生涯」を読んだとき、僕はマーガレット・ミッチェルは「風と共に去りぬ」だけしか書かなかったことを知った。

「風と共に去りぬ」があまりに評判になり、ピューリッツア賞を受賞し、世界中で大ベストセラーになり、その版権管理で忙しくて次作が書けなかったという説もあるけれど、たぶん他には何も書くものがなかったのだろう。

マーガレット・ミッチェルは南部のインテリの家に生まれ、高等教育を受けて新聞社に入り、コラムを執筆したりする。子供の頃から祖父母に昔の南部の生活や南北戦争についての話を聞き、古きよき南部のイメージを抱き続けていた。

それが長大な小説「風と共に去りぬ」に結実したのだが、その一作ですべてを吐き出したのに違いない。それに、スカーレット・オハラという強烈なキャラクター(作者に似ているらしい)を創造したのも、彼女の手柄であった。

初めて読んだときには、妹の婚約者を奪ったりする(別に愛していたわけではなく、金のためなのだけれど)スカーレット・オハラは「嫌な女」としか思わなかったのだが、長い人生を生きてみるとスカーレット的な女性の生き方に共感する気持ちが湧いてくる。

多くの人が持つスカーレット・オハラのイメージは、映画化された「風と共に去りぬ」(1939年)でヒロインを演じたヴィヴィアン・リーだろう。スカーレット・オハラ=ヴィヴィアン・リーであり、これほど女優と役が離れ難く語られるのも珍しい。

プロデューサーのセルズニックが初めてセットの階段を昇ってくるヴィヴィアン・リーを見たときに、「ついにスカーレット・オハラを見つけた」と叫んだという伝説も本当かもしれない。

インド生まれのイギリス人女優ヴィヴィアン・リーは、「無敵艦隊」(1937年)で共演したローレンス・オリヴィエと恋に墜ち、「嵐が丘」(1939年)に出演するためにハリウッドに滞在していたオリヴィエと一緒にいたのだ。

ある日、アトランタの町が炎で包まれるシーンを撮影(スカーレットとレット・バトラーはスタンドイン)していたセルズニックは、炎に照らし出されたヴィヴィアン・リーを見てそう叫んだと言われている。

ヒロイン探しに難渋し、主演女優が決まらないままアトランタ炎上のハイライトシーンの撮影に入ったときにセルズニックがヒロインを見つけたというのは、まさに伝説として語られるにふさわしいエピソードだ。

映画は原作以上に世界中でヒットし、スカーレット・オハラ=ヴィヴィアン・リーとなった今、彼女以外が演じるヒロインは想像できない(宝塚が舞台化して、何人かの日本人がスカーレットを演じたことがある)。

ちなみに、僕は様々な女優がスカーレット・オハラ役のスクリーン・テストを受ける映像を見たことがある。確か、メラニー役のオリヴィエ・デ・ハヴィランドもスカーレット役のテストを受けた。ベティ・デイヴィスのスクリーン・テストも残っていたはずだ。

「タラへの道 マーガレット・ミッチェルの生涯」を書いたアン・エドワーズは「ヴィヴィアン・リー」(どちらも文春文庫で出ていた)という伝記も書いていて、こちらも僕はおもしろく読んだ。

ヴィヴィアン・リーは「風と共に去りぬ」の後、「哀愁」(1940年)「美女ありき」(1940年)「アンナ・カレニナ」(1948年)「欲望という名の電車」(1951年)と映画史に残る作品に出ているが、ローレンス・オリヴィエとも別れ、精神を病み、55歳で死んだ。

まるで、テネシー・ウィリアムズ原作でエリア・カザン監督の「欲望という名の電車」で演じたブランチ・デュボアみたいな後半生だった。

2019年7月 4日 (木)

■日々の泡----古典となった写真家の文章

【ちょっとピンボケ/ロバート・キャパ】

写真家の名前などまったく知らない人でも、ロバート・キャパだけは知っているという人は多い。なぜ、それほどキャパの名は知られているのだろう。僕は長く写真雑誌の編集者をしていたので、多くの写真家の作品を見たけれど、キャパの作品は特別優れているというわけではなかった。

もちろん写真作品には様々なジャンルがあり、記録性よりアート性を優先するものもあるし、現実のシーンをスナップ的に写し取る作品もあれば、画面の隅々まで作り込んで撮影する作品もある。キャパの作品は記録性が重視されるもので、初期のトロツキーの演説の写真など相当な歴史的価値がある。

キャパが一般の人々の心を捉えるのは、戦場カメラマンであったこと、最後には地雷を踏んで死んでしまったことなどから、ある種のロマンを感じるからではないだろうか。彼の年上の恋人だったゲルダ・タローも、スペイン戦争の時に戦車の下敷きになって死んでしまった。

キャパと言えばスペイン戦争での「撃たれて崩れ落ちる兵士」の写真が有名だが、沢木耕太郎さんが「キャパの十字架」で疑義を呈しているように、撮影者はゲルダ・タローで兵士は訓練中に滑っただけ、というのが真相なのかもしれない。「キャパの十字架」は大変に面白いノンフィクションで、沢木さんの実証的な追跡がスリリングでさえある。

キャパとゲルダは共にスペインに入り、戦場の写真を撮り、撮ったフィルムを未現像のままパリの通信社に送った。その中の一枚が「崩れゆく兵士」で、キャパの知らないうちに配信されて世界中の雑誌に掲載された。パリに戻ってみると、キャパの名は一躍有名になっていて、彼もゲルダも戸惑ったことだろう。

僕がキャパの「ちょっとピンボケ」を読んだのは、十五歳の時だった。ロバート・キャパという名前を誰かに教えられ、筑摩書房(だったと思う)の世界ノンフィクション全集の一冊に入っていたのを読んだのだ。図書館で借りた本だった。

「ちょっとピンボケ」の中に登場する「ピンキー」と呼ばれたキャパの恋人のことが、僕の頭の中に残った。「ピンキー」という呼び名がニックネームだとはわかったが、どういう意味なのかははかりかねた。翌年、「ピンキーとキラーズ」が登場し、「恋の季節」を大ヒットさせるのだけれど、ますます「ピンキー」の意味がわからなくなった。

キャパはゲルダ・タローの死に打ちひしがれていた時、オランダ人の映像作家ヨリス・イヴェンスに誘われて日中戦争の現場を取材している。日本軍の爆撃で死んだ中国人、呆然とする人々の写真が残っている。キャパが撮影に協力したイヴェンスの記録映画「四億」は、ニューヨークで公開された。当時、歌われたように「支那にゃ四億の民が」いた。

ちなみに、ゲルダ・タローもロバート・キャパも本名ではない。ゲルダ・タローの「タロー」は戦前にフランスで美術の勉強をしていた岡本太郎と知り合い、その語感が気に入って「タロー」と名乗ることにしたのだ。キャパは毎日新聞社パリ支局の仕事をしたり、日本人留学生と同居したり、その頃から日本と縁があった。

さて、僕は「キャパの遺言」という小説で第62回江戸川乱歩賞の候補になったので、それを書くためにキャパについては改めて詳しく調べてみた。特に昭和13年に中国大陸にいたこと、昭和29年に毎日新聞社の招きでひと月ほど日本にいたことが僕の小説の着想の元になっているので、その時期についてはかなり資料を読み込んだ。

キャパはインドシナの戦場で地雷を踏んで死ぬのだが、それはライフ誌派遣のカメラマンがアメリカへ帰る用事ができ、誰か別の人間を送らねばとなったとき「おお、ちょうどキャパが日本にいるぞ」というので、急遽、インドシナへいってくれないか、とライフ誌から依頼されたからである。

ところで、僕の「キャパの遺言」は最終候補の4作品に残ったけれど、選考委員の湊かなえさんには「ノンフィクション部分が面白い」と書かれ、今野敏さんには「事実が書きたいのならノンフィクションを書けばいい」と評され、受賞は佐藤究さんの「QJKJQ」に決まった。

そんなこともあって、「キャパ」と書くといろいろ複雑な思いもあるのだけれど、「ちょっとピンボケ」を初めて読んだときの印象は今も鮮やかで、もっと文章を残してくれればよかったのにと思う。写真家で名文家といえば藤原新也さんが思い浮かぶけれど、「ちょっとピンボケ」も写真家が書いた古典としてずっと残るだろう。

ところで、ゴタールの「気狂いピエロ」で「映画って何?」と訊いたジャン=ピエール・ベルモンドに、「映画は戦場だ」と答えたアメリカの映画監督サミュエル・フラーの膨大な自伝を読んでいたら、ロバート・キャパの写真に一兵士として写っているフラーが掲載されていた。

すでに何冊か小説を出版し、また映画監督として名を成していたサミュエル・フラーだったが、第二次大戦にアメリカが参戦すると、志願して歩兵となる。ヨーロッパ戦線に派遣され、様々な経験を積んでいく。彼の第一歩兵大隊は「ビッグ・レッド・ワン」と呼ばれ、その勇敢さをうたわれた。その歩兵たちの写真を、ロバート・キャパが撮っているのだ。

キャパは従軍カメラマンとして、ノルマンディー上陸作戦に参加する。兵士たちと一緒に上陸用舟艇に乗り、ノルマンディーの海岸に飛び降りる。そのときのブレた兵士の写真は有名だが、これも未現像フィルムをロンドンに送ったときに技師が現像に失敗し、数枚の写真しか残らなかったという。

サミュエル・フラー監督は自分の体験をベースにして「ザ・ビッグ・レッド・ワン」という小説を書き、後に映画化した。日本では「最前線物語」(1980年)として1981年1月に公開された。

リー・マーヴィンが演じる古参の軍曹とマーク・ハミル(スターウォーズで人気者になった直後)などの新兵たちが戦いの中で成長する物語だった。「最前線物語」のヤマ場は、やはりノルマンディー上陸作戦だった。

2019年6月27日 (木)

■日々の泡----少女マンガの繊細さに打たれる


【河よりも長くゆるやかに/吉田秋生】

35歳で自殺した鷺沢萠(さぎさわ・めぐむ)は、1987年(昭和62年)に第64回文學界新人賞を「川べりの道」で受賞した。まだ19歳の女子学生だった。その作品は、朝日新聞の文芸時評で取り上げられたと思う。その中に「マンガが文学作品に影響を与える時代になったのか」という一文があり、それによって僕は初めて吉田秋生(よしだ・あきみ)という名前を知った。

僕がマンガを読まなかったわけではない。子供の頃からたくさんのマンガを読んできたし、高校生の頃に樹村みのり作品を読み少女マンガにも守備範囲を広げた。その後、少女マンガもけっこう読んだのだけれど、吉田秋生のことは知らなかったのだ。吉田秋生は1983年に「河よりも長くゆるやかに」と「吉祥天女」で小学館漫画賞を受賞していた。それは彼女のふたつの作品系列を代表するものだった。

朝日新聞の文芸時評では「川べりの道」は「河よりも長くゆるやかに」の影響を受けているのではないかと指摘していたのだった。しかし、そのことを否定的に書いていたわけではない。僕だってマンガからは多大な影響を受けた。僕よりも17歳も若い鷺沢萠が少女マンガの影響を受けていたとしても当然のことだ。僕は文學界新人賞受賞作品に影響を与えたという吉田秋生の作品に俄然興味を惹かれたのである。

なぜかというと、当時、30半ばだった僕は「文學界新人賞」に応募していたからだった。30過ぎて初めて応募したのだが、一次選考を通り、70数編の候補作の中に残り、作品名と名前と居住地だけは掲載された。「川べりの道」受賞のときに僕も応募していたかどうかは忘れたけれど、結局、僕は三度応募して、すべて一次選考通過で終わった。だから、19歳の少女の作品に興味を抱き、その作品に影響を与えたといわれるマンガを読んでみたくなったのだ。

「河よりも長くゆるやかに」は、マンガでしか描けない青春物語だった。僕は、さらに「吉祥天女」を読み、ずいぶん幅の広い作品を描く人だと思った。「夜叉」も「吉祥天女」の系列に入るだろう。人気の高い「BANANA FISH」は、まるでハリウッド映画だった。僕は、どちらかと言えば「河よりも長くゆるやかに」「櫻の園」「海街diary」と続く、日常を繊細に描く作品系列が好きだった。

吉田秋生の作品を読み漁っていた頃、映画化された「櫻の園」(1990年)が公開された。翌年、ほとんどの映画賞を受賞する勢いだった。監督は中原俊。日活ロマンポルノを中心に活躍していた人だったが、「櫻の園」で一躍注目された。「櫻の園」は少女たちの繊細な心の動きを描き出し、映画評論家たちに絶賛された。絶賛した人たちは、中年男性が多かった。たぶん、彼らが想像する少女たちのイメージに合致したからではあるまいか。当時、38歳だった僕もそのひとりだった。

冒頭、ある名門女子高校の演劇部二年生の舞台監督が大学生らしいボーイフレンドと部室にいるところから始まる。彼女は前夜から男と一緒だったようだ。そこへ、次々に部員たちが登校してくる。三年生の部長である志水由布子は髪を切った姿で現れ、みんなを驚かせる。志水由布子は「櫻の園」のヒロインを演じる大柄な倉田知世子に憧れていて、いつも彼女を見つめている。

そんなところへ、部員の杉山紀子が前夜に他校の生徒と一緒に喫茶店でタバコを吸っているところを補導され、朝から職員会議で「櫻の園」の上演を中止するかどうかが話し合われているという情報がもたらされる。不良と見られている杉山紀子は部長の志水由布子に憧れていて、いつも彼女の視線の先には志水由布子がいる。この少女たちのほのかな関係が、この映画の何とも言えない切なさを醸し出す。

映画「櫻の園」は原作を映画的に凝縮し、ある名門女子高校の演劇部がチェーホフ作「櫻の園」を上演するまでの数時間が描かれた。しかも、多くの人物を登場させながら、うまく整理されていた。その15年後、是枝裕和監督によって「海街diary」(2015年)が映画化された。「河よりも長くゆるやかに」からずいぶん長い時間が過ぎていたけれど、原作は吉田秋生の日常を描く作品系列の到達点を見せる作品だった。

三人姉妹が暮らす鎌倉の古い家。そこへ腹違いの中学生の妹がやってくる。昔、三人姉妹の父は愛人ができて家を出た。その父が亡くなり、妹を引き取ったのだ。三十代の看護師の長女、二十代らしい信用組合に勤める次女、二十歳前後らしいスポーツ店に勤める三女、それに中学生の四女が加わり、まるで現代版「細雪」である。

それぞれの恋や悩みなどが描かれるが、すべては日常の中で淡々と過ぎていく。人々が物語に感情移入し共感するのは、「ああ、そうだよなあ、と身につまされる話」か「あんな風になりたい、と憧れる夢のような話」だとすれば、是枝監督作品は「ああ、そうだよなあ、と身につまされる話」の代表的なものだと思う。「海街diary」も観客が日常的に出会うような出来事が描かれていく。

「海街diary」の登場人物たちは、誰もが「自分が相手を傷つけたかもしれない」と思いながら生きている。だから、人間関係の描写が繊細なのだ。不倫相手である鬱病の妻と別居している医者と長女の会話、エリート銀行員から地方の金融機関に転職してきた課長と次女が交わす会話、三女が妹と交わす死んだ父についての会話、そして父親の不倫相手の子である四女と長女が交わす会話----それらからは、人々の繊細さと優しい心が浮かび上がってくる。

それは、今や是枝作品には欠かせない役者となったリリー・フランキーによって発せられるラスト近くのセリフ「すずちゃん、お父さんのこと知りたくなったら、こそっと聞きにおいで」という囁きに象徴されている。こんなに心穏やかになる作品はめったにないし、それは吉田秋生の原作に負うところが大きい。「河よりも長くゆるやかに」があったから、ここまで到達したのだろう。吉田秋生の人間に対する深い洞察眼を感じる。

それにしても、鷺沢萠の自殺のニュースを聞いたときの衝撃は今も忘れていない。人が自殺する理由なんて想像できるはずもないけれど、鷺沢萠の自殺を知ったとき、最初に思い浮かんだのが「河よりも長くゆるやかに」だった。彼女自身が自作の「川べりの道」への影響を認めていたのかどうかは、未だに調べてはいないけれど----。

2019年6月20日 (木)

■日々の泡----神を追究した作家

【巴里に死す/芹沢光治良】

機会があれば見てみたいと思っていた「りんごの唄」で有名な映画「そよかぜ」(1945年)をユーチューブで見た。公開は敗戦の二ヶ月後、昭和20年(1945年)10月11日だった。リンゴ園をヒロインが歌いながら歩くシーンは何度も見たけれど、どんな映画なのかはまったく知らなかった。

初めて「そよかぜ」を見ると、戦争があったことも、敗戦のこともまったく出てこないのに驚いた。これを当時の人々は、どんな想いで見たのだろう。完全な音楽映画である。映画は楽団の演奏で始まり、上原謙(加山雄三のお父さん)、佐野周二(関口宏のお父さん)、斎藤達雄(サイレント時代から小津作品に出演)がトランペットなどを吹いている。

NHKのテレビ小説などから深作欣二監督の「仁義なき戦い」(1973年)まで、戦後を取り上げたドラマで「リンゴの唄」はその時代を象徴的に表現した。焼け跡闇市の光景が映り「リンゴの唄」が流れれば、見ている人たちは「ああ、敗戦直後なのだ」と理解する。最近の若者たちの反応はわからないが、少なくとも僕らの世代までは時代を象徴する音楽的記号となる。

「そよかぜ」では上原謙らのバンドが出ている劇場の照明係で歌の上手な少女みちを並木路子が演じ、何度か「りんごの唄」を歌う。劇場の看板歌手が結婚引退するので、上原謙は劇場主に「みちを抜擢しては」と推薦するが、劇場主は拒否する。今風に言えば、「リスクが大きい」ということらしい。

上原謙、佐野周二、斎藤達雄らのバンド仲間とみつは、同じ家で共同生活をしている。みつは佐野周二を好きらしいのだが、佐野周二はみつに会うと憎まれ口を叩き、「子供のくせに」と子供扱いしかしない。ある日、とうとうみつは怒って故郷に帰ってしまう。そこがリンゴ園なのである。本当はみつが好きな佐野周二は、バンド仲間たちとみつの故郷に向かう。

最後は、看板歌手に抜擢されたみつが大きなステージの真ん中で「りんごの唄」を歌うシーンだ。昔の映画には、音楽ショー的な要素が強いものがある。テレビの音楽番組と同じ役割を、映画が担っていたのだろう。「そよかぜ」には歌手の役で霧島昇や二葉あき子が出ていた。監督は佐々木康。僕が子供の頃、東映時代劇をやたらに撮っていた監督である。

さらに「異国の丘」(1949年)もユーチューブで見ることができた。昭和24年4月25日の公開だ。冒頭、マッカーサー元帥がソ連に日本人抑留者の返還を要請し、冬季でも可能なように砕氷船を提供すると申し出ているがソ連からは何の返答もない、というクレジットが出て時代性を強く感じた。戦後4年経っていたけれど、まだ数十万人の日本人がシベリアに抑留されていたのだ。

引っ越しのシーンから「異国の丘」は始まった。広くて立派な屋敷だが、手放すことになったらしい。運送屋の会話から、主人はシベリア抑留から戻っていないことがわかる。トラックに積まれたピアノを、その家の少女が弾く。その少女に、祖母が母親を呼びにいかせる。その頃、母親(花井蘭子)は庭で夫とのことを回想している。

夫(上原謙)とは見合いで知り合い、結婚し、やがて夫を強く愛するようなる。夫は、音楽好きでヴァイオリンの名手だった。そのため、生まれた子供たちには音楽を学ばせようと、妻は高価なピアノを購入した。しかし、夫が出征し、戦後4年にもなるのに戻ってこない。妻は歯を食いしばって家を守り、子供を育て、姑に仕えてきたが、とうとう家を手放すことになったのだ。

ラスト近く、国立病院の患者たちの慰問にいき、妹がピアノ、兄がヴァイオリンを弾く。患者のひとりが「異国の丘」をリクエストし、ふたりは演奏する。すると、ひとりの患者が立ち上がり、「私は、シベリアで抑留されていた。ここには『異国の丘』の作曲者である吉田もいる」と言い出し、吉田正が患者として登場し「早く同胞たちを帰還させよう」と訴えた。後に昭和歌謡の作曲者として活躍する吉田も長く抑留されていたのだ。

ウーム、古さは感じるが、やっぱりその時代の空気がストレートに伝わってくるなあと思いながら、資料を観察するように「異国の丘」を見ていたのだけれど、原作者が芹沢光治良であるのにはちょっと驚いた。調べてみると、昭和22年(1947年)に出た「夜毎の夢に」という小説の映画化だった。芹沢光治良が、こんな小説を書いていたのか、と何だか感慨に耽ってしまった。

僕が高校生の頃、芹沢光治良の本はいくらでも書店で見かけたものだ。その頃、芹沢光治良は日本初のノーベル賞作家・川端康成の跡を継いで日本ペンクラブの会長を務めており、その後、芸術院会員になった。芸術院会員になるというのは、美術・音楽・演劇・文学などのジャンルでの最高峰の名誉である。

芹沢光治良の小説は、「巴里に死す」を読んだことがある。十代半ばのことだった。出版は太平洋戦争真っ直中の昭和十八年(1943年)だ。そんな時代に、よく出せたものだと思う。1952年に森有正がフランス語に翻訳し、フランスで1年で10万部も売れたという。そんなことは、まったく知らなかった。

ところで、僕は大学生の頃、森有正の本を愛読していた。当時、筑摩書房から「バビロンの流れのほとりにて」というエッセイ集が出ていたのだ。哲学者でフランス文学者でエッセイスト。代表作は「遙かなノートル・ダム」である。明治の文部大臣であり「日本語をやめて英語にしてしまえ」と提唱した森有礼の孫だ。森有礼は暗殺されたけど、彼の提案が受け入れられていたら、今頃は僕も英語をしゃべっていた。

外国語が苦手なわりには、なぜか僕は大学でフランス文学を学んだのだが、僕がフランス文学科を選んだ理由のひとつに「巴里に死す」を読んだことがあると思う。芹沢光治良は1925年にソルボンヌ大学に入学するが、その後、結核にかかりスイスのサナトリュウムで療養し、1929年に帰国する。よき時代の巴里を知る日本人だった。

僕が高校生だった頃、芹沢光治良は長大な自伝的長編「人間の運命」を刊行中だった。1962年から1968年にかけて新潮社から刊行され、後に新潮文庫に7巻でまとまった。しかし、その長さに怖れをなし、結局、僕は「人間の運命」を読まなかったのだけれど、博識な友人が「天理教の話だろ」と一言で片付けたのを記憶している。

確かに、芹沢光治良の生涯と天理教は密接に関係しているが、それは両親が天理教に入信したこと、また、育ててもらった叔父の家も天理教の教会になったということであり、彼自身が入信していたかどうかはわからない。晩年、「神シリーズ」を書き続けたこともそういう印象をもたらしたのかもしれないが、僕は「巴里に死す」以外は読んでいないので何も言えない。しかし、未だに気になっている作家なのである。

2019年6月13日 (木)

■日々の泡----ノンフィクションの魅力

【パリは燃えているか/ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール】

このところ白水社から翻訳出版されている、ジャーナリストやノンフィクション作家が書いた現代史の本を読んでいる。ベルリンの壁ができる頃の冷戦状況を描いた「ベルリン危機1961」、ベルリンの壁が崩れて始まったソ連崩壊を描く「東欧革命1989」、真珠湾攻撃後の日系人強制収容を取材した「アメリカの汚名」などだ。

どの本もそれぞれ興味深いのだけれど、すべて重厚長大なハードカバーで重いのが難点だ。寝転んでは読めない。先日読んだ「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」も本文は500ページを越え、資料リストや索引などが60ページ以上ある分厚さだった。筆者ロベルト・ゲルヴァルトは、ドイツ人の歴史家で現代史の教授である。

ラインハルト・ハイドリヒは、1942年5月27日にドイツ軍の占領下プラハで暗殺されたナチ高官だ。まだ38歳だったが、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐSS(ナチス親衛隊)の有力者だった。また、「ユダヤ人絶滅政策」と呼ばれたホロコーストを急進的に推進した責任者でもあった。生きていれば、戦後、厳しく罪を問われただろう。

ハイドリヒが「死刑執行人」と呼ばれていたのは、フリッツ・ラング監督の「死刑執行人もまた死す」(1943年)を見たときに知った。フリッツ・ラング監督はサイレント時代からドイツ映画界で名作を作ってきたが、ユダヤ人であったことからナチスが政権を取った後の1934年にフランスに亡命し、その後ハリウッドに移った。

ハリウッドでは多くのフィルム・ノワール作品を手がけたけれど、特に劇作家ブレヒトの協力で制作した「死刑執行人もまた死す」は、ハイドリヒ暗殺事件の翌年に早々と公開した作品でありながら、その完成度の高さには目を見張るものがある。全編、緊迫感に充ちた傑作だ。

僕が初めて「死刑執行人もまた死す」を見たのは、アメリカ公開から四十年以上経ったときだった。それまで日本公開がなかったからだが、その圧倒的な迫力に圧倒された。この映画が制作された頃、ナチス政権はまだ盤石でヒトラーは意気軒昂だった。ヨーロッパはドイツ軍に席巻されていた。

映画は、プラハの街角から始まる。ヒロインのマーシャが買い物をしていると、ナチ親衛隊員たちがバラバラと現れる。ハイドリヒが暗殺されたというのだ。マーシャはひとりの男と知り合い彼を助ける。しかし、周囲を封鎖され脱出できなくなった男は、マーシャの家にかくまわれる。

彼は医師でありレジスタンスのメンバーであり、ハイドリヒの暗殺犯だった。一方、ゲシュタポは犯人が逮捕されるまで市民を無差別に逮捕して銃殺すると宣言し、マーシャの父親も逮捕される。マーシャは男を探し出し、自首してくれるように懇願するが----。

この映画から74年後、「ハイドリヒを撃て!『ナチの野獣』暗殺作戦」(2016年)が日本公開された。これは歴史的事実を踏まえた作品で、イギリスの戦闘機からふたりの男が落下傘でプラハ近くの森林地帯の雪原に降下するところから始まった。

ふたりは、ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府から派遣された暗殺チームである。ハイドリヒ暗殺作戦のコードネームは「類人猿作戦」だった。ふたりはプラハのレジスタンス組織と接触するが、彼らはハイドリヒ暗殺に反対する。

ハイドリヒ暗殺に成功したとしても、報復として大勢のプラハ市民が殺されるだろうとレジスタンスのリーダーは言う。しかし、レジスタンスにかくまわれながら、ふたりは準備を進め、ハイドリヒを襲撃する。そのときの傷によって6月4日にハイドリヒは死に、暗殺者たちはレジスタンスにかくまわれる。

予想通り、ナチスの報復はすさまじく、さっそく犯人たちをかくまった村の数百人が銃殺される。暗殺者に対する追及は苛烈を極め、通報者には莫大な報償が約束される。その金に目がくらみ、家族の安全を保証させ、密告したのはカレル・チャルダだ。イギリス仕込みのチェコ工作員でありながら、ゲシュタポ本部に出頭し仲間を売る。

映画は、実在の彼らを描いた。ふたりの暗殺者は、ガプチークとクビシュである。彼らをかくまっていた主婦マリエ・モラヴェッツはゲシュタポに踏み込まれ、青酸カリのカプセルを飲んで自殺する。夫はレジスタンスと無関係だったが、息子と共にゲシュタポに逮捕され拷問される。

「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」によると、そのときの描写がすさまじい。息子は「二十四時間近くの残酷な尋問に耐えたあと、水槽に入った母親の生首を見せられ、おやじの首も並べるぞと脅されて、口を割った」という。暗殺者たちは隠れていた教会を包囲され、壮絶な銃撃戦の果てに自決する。拷問されるより死を選んだのだ。

ナチの報復は続く。彼らをかくまっていた数人の司祭は死刑になり、数千人が逮捕され千人以上が処刑された。さらに四千人ほどの人が強制収容所あるいは一般刑務所に収容されたという。ひとりの暗殺に対して、ナチの報復は信じられない執拗さだった。また、ハイドリヒ暗殺以降、ユダヤ人のホロコーストはさらに加速した。

ところで、僕が海外のノンフィクション作家やジャーナリストの重厚長大なノンフィクション作品を好んで読むようになったきっかけは、やはり中学生の頃に常盤新平編集長時代の「ミステリマガジン」を定期購読していたからだと思う。

初めて買った「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」の真ん中あたりにあった早川書房の新刊を告知するページでは、「パリは燃えているか」というタイトルが目立っていた。ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールが書いたパリ解放のノンフィクションだった。

そのタイトルに興味が湧いた僕は書店で実物を手にしたが、中学生には手が届かない値段だった。結局、原作を読んだのは数年後だったが、それより前にルネ・クレマン監督によって映画化された「パリは燃えているか」(1966年)を見た。ただ、多くの人が登場するものの明確な主人公のいない物語は感情移入できず、中学生にはよく理解できなかった。

「パリは燃えているか」の数年前、コーネリアス・ライアンが書いた「ザ・ロンゲスト・デイ」がアメリカでベストセラーになっている。ただし、日本では映画化された「史上最大の作戦」(1962年)が公開されて一般的に有名になり、主題歌もヒットしたが、原作はあまり売れなかった。

「ザ・ロンゲスト・デイ」は様々な人物に取材してノルマンディー上陸作戦を描いたものだから、日本が悲惨な敗戦を経験してからまだ十数年の時期では、連合軍の勝利の物語を読む気にはならなかったのかもしれない。それに、翻訳ものがそれほど売れる時代ではなかった。

コーネリアス・ライアンは第二次大戦時にヨーロッパ戦線や太平洋戦線を従軍記者として取材した人物だが、それから半世紀以上を経て戦後生まれのアニトニー・ビーヴァーが書いた「ノルマンディー上陸作戦1944」が白水社から上下二巻で出ている。こちらも、近々、読んでみようかと思っている。

2019年6月 6日 (木)

■日々の泡----銀座を舞台にした作家


【銀座二十四帖/井上友一郎】

川島雄三監督の「銀座二十四帖」(1955年)が好きで、何度も見ている。ただし、VHSテープでしか持っていないので、四国の実家にいるときには見ることができない。VHSの再生ができないからだ。昔、NHKの衛星放送で放映されたときに録画したものだと思う。

ナレーションおよび主題歌を担当しているのは、まだ若々しい声の森繁久彌である。「おいらは銀座の雀なのさ、夜になったら鳴きながら~」という森繁節が、冒頭のタイトルバックに流れる。戦後十年経った昭和三十年、「もはや戦後ではない」と言われた頃である。

確かに、街に戦争の痕跡は見当たらない。銀座の街も、登場人物たちが住むアパートメントも清潔で美しい。焼け跡なども出てこない。フランス語を交えてキザなしゃべり方をする売れっ子の画家(安部徹)の乗るオープンカーはアメリカ車である。

しかし、人々の過去には戦争が深く関わっている。物語は「銀座のコニー」と呼ばれる花屋を営む男(三橋達也)を中心に展開する。花屋を手伝う三人の十代半ばの女の子たちは、孤児院から通っている。「コニーのおじちゃんは、夜、学校に通わせてくれる」と、彼を慕っている。彼女らは戦災孤児なのだ。

女の子のひとりを演じるのは、十五歳の浅丘ルリ子である。彼女自身、大陸からの引き揚げ者だった。ある日、花屋でバラの花を買いたいと、和服の上品な女性(月丘夢路)がルリ子に声をかける。「これ、売り先が決まっているのですけど----」とルリ子がコニーに訊くと、「分けて差し上げなさい」と彼は言う。

月丘夢路は銀座の外れ、おそらく築地あたりだと思うが、義理の母が営む川沿いの料亭で暮らしている。嫁ぎ先に娘を置いたまま家を出て、姿をくらました夫と離婚したがっているらしい。彼女は、父の遺した絵画を銀座の画商に託して処分を依頼する。

その料亭の近くで毎日、絵を描いている男(大坂志郎)がいる。彼は大阪から出てきた月丘夢路の姪(北原三枝)と親しくなるが、正体は警察官で絵を描きながら料亭を見張っているらしい。月丘夢路の夫が現れないかと張り込んでいるのだ。

北原三枝は、松竹から日活に移籍したばかりの頃だ。若く、溌剌として、美しい。当時の女性としては、スタイルも抜群だ。その容姿で「ミス平凡」の大阪代表になり、上京した設定である。その審査会風景も写る。審査員の中に平凡出版(現マガジンハウス)の清水達夫の姿もある。

画廊に並べられた作品の中で、月丘夢路の少女の頃を描いた絵が評判になる。満州にいた頃、内地からやってきた若い学生が描いたものだという。サインはGM。月丘夢路に横恋慕した画家(安部徹)は頭文字が同じなので、「自分の作品だ」と言い出す。

その絵を見たコニーは兄のタッチだと直感し、月岡夢路を問い詰めるが、確証は得られない。コニーの兄は大陸で行方不明になったままなのだが、コニーはどこかで生きているという希望を捨てられない。ここでも、十年前の戦争の影が色濃く漂う。

コニーは弟分(佐野浅夫)がクスリの中毒から抜けられず、銀座にヒロポン(覚醒剤)を卸している黒幕を憎んでいる。コニーは、その黒幕がGMと名乗っていることを知る。また、大坂志郎もクスリの密売ルートを追っているらしい。その黒幕は、月丘夢路の夫なのだろうか?

原作者の井上友一郎は、昭和初期に作品を川端康成に認められて世に出た人で、大学卒業後に新聞記者として中国戦線に従軍した後、作家専業となったが、戦後は風俗小説を多く書いた。「銀座二十四帖」は1955年に新潮社から出た小説で、すぐに映画化された。

僕が井上友一郎の小説を読んだのは、十八の頃だ。高校の現代国語の教科書に載っていた田宮虎彦の「絵本」が気になった僕は、中央公論社が出していた「日本の文学」の「田宮虎彦・井上友一郎・木山捷平集」を図書館から借りて読んだ。その本には、井上友一郎の「菜の花」「ハイネの月」などが収録されていた。

井上友一郎原作の映画化作品は、1954年から1963年の十年間ほどで9作品ある。流行作家だったのだろう。ほとんどはプログラムピクチャーとして消えていったものだが、「銀座二十四帖」の他にもう一本、映画史に残っている作品がある。

成瀬巳喜男監督の「銀座化粧」(1951年)がそれだ。戦前から高い評価を得ていた成瀬監督は、戦後は不調で「めし」(1951年)で復活したと言われるが、僕は1950年の「怒りの街」「白い野獣」「薔薇合戦」を面白く見たし、1951年の3本「銀座化粧」「舞姫」「めし」も大好きだ。

「怒りの街」は結婚詐欺を働くふたりの大学生(原保美と宇野重吉)の生態が面白かったし、「白い野獣」は売春婦の更生施設を描き梅毒の恐怖を煽る作品だったが、梅毒で狂っていく北林谷栄が印象に残った。「薔薇合戦」は化粧品会社の宣伝合戦が面白く、当時の広告制作状況が興味深かった。

また、「舞姫」は岡田茉莉子のデビュー作品で、原作は川端康成である。「舞姫」とは、プリマドンナのこと。モダン・バレェの世界を扱っている。空襲で崩れたままの昔の屋敷跡にたたずむ山村聡のシーンが、戦後間もない作品だと認識させてくれる。

「銀座化粧」は「めし」より前の作品だが、成瀬作品らしい男女の関係(腐れ縁?)が描かれる。子持ちで銀座のバーのママをやっているヒロイン(田中絹代)は、昔の男が借金にきてもキッパリと断れず、なんとなくずるずると関係が続く。

後に「女が階段を上がる時」(1960年)で、銀座のバーの女たちを詳細に描く成瀬監督だが、その原型が「銀座化粧」である。「女が階段を上がる時」では、高峰秀子、団令子、淡路恵子、北川町子、中北千枝子、柳川慶子、横山道代、塩沢ときなどが女給を演じたが、「銀座化粧」では珍しく香川京子が女給役をやっている。

「銀座化粧」は銀座のバーのママの生態や男関係を描いて、いかにも風俗小説という感じだったが、「銀座二十四帖」は最後にアクションシーンもあり(あまり感心しないのだけれど)、ミステリ的な要素も加わっている。井上友一郎の著書を調べてみると、「清河八郎」「唐人お吉」「近藤勇」といった時代小説もある。器用な作家だったのだろう。

ちなみに「銀座」と付くタイトルは、他に「銀座川」「銀座の空の下」「銀座更紗」「銀座学校」などがある。銀座を舞台にするのが、好きだったのかもしれない。井上友一郎は1909年に生まれ、1997年に米寿で亡くなった。今では作品を見ることもなくなったが、中公版「日本の文学」があれば再読してみたい。

2019年5月30日 (木)

■日々の泡----杉葉子さんが亡くなった

【若い人/石坂洋次郎】

女優の杉葉子さんが亡くなった。90歳だったという。1929年(昭和4年)に生まれ、1949年(昭和24年)に19歳で今井正監督「青い山脈」「続・青い山脈」のヒロイン寺沢新子を演じ、新人女優として一躍注目を浴びた。

彼女の死は新聞やテレビで報じられたが、ほとんど「青い山脈」の女学生役にしかふれられていなかった。しかし、杉葉子は1950年代に50本以上の映画に出演しているのだ。もちろん、堂々の主演作もある。中でも僕が記憶しているのは、成瀬巳喜男監督作品の数々だ。

「石中先生行状記」(1950年)「めし」(1951年)「山の音」(1954年)では脇役にまわっているが、「夫婦」(1953年)では上原謙と夫婦の役を演じている。地方の支社から東京本社に戻ってきて、ふたりで住める部屋を探している若い夫婦である。

夫の同僚(三国連太郎)は愛妻を亡くしたばかりで、毎日、悲嘆に暮れているが、家は二階屋で広く、夫婦は一階に間借りすることになる。三国が美しい杉葉子に舞い上がり、「僕は本当の素敵な女性を知りませんでした」などと言い出すのがおかしい。「奥さんに比べれば、死んだ妻なんて」と手のひらを返す。

三国に親切な妻に、夫は心おだやかではない。ある日、三国が病気で寝込み、夫は出社しても気が気がではない。会社の女子社員ふたりが三国を見舞いにいくというので三人で帰ると、杉葉子が洗面器とタオルを持って二階から降りてくる。三国の髭を剃っていたという。

夫の同僚だし、部屋を借りているしということで、杉葉子は三国に親切にしているのだが、夫はますます嫉妬にかられる。男らしい役の多い息子の加山雄三と違い、上原謙はこういうイジイジした優柔不断な男を演じると味わいがある。「夫婦」の後半でも、子供を堕すかどうかで悩む夫を演じる。もっとも、そんなところが成瀬作品の魅力ではあるが----。

僕は成瀬作品はどれも好きだけれど、杉葉子主演の「夫婦」は特に好きな作品だ。「山の音」では主人公の山村聡は会社重役を演じていて、その秘書役で杉葉子が出てくるのだが、いつもと違って笑顔のない暗い役だから、ちょっと違和感を感じる。杉葉子には、明るい笑顔が似合う。

「青い山脈」はもちろん封切りでは見ていなくて、もしかしたら吉永小百合版「青い山脈」(1963年)よりも後に見たのかもしれないが、初めて見たとき杉葉子の制服のスカートが意外と短いのに驚いた。昭和24年、敗戦間もない頃というイメージが強かったからだ。そんな時代に短いスカートは----と思いで込んでいたのだ。

「青い山脈」は、何度も映画化された石坂洋次郎の小説である。石坂洋次郎の本もいつの間にか書店からフェードアウトしたが、書店の棚を占有していたのは、やはり60年代だろうか。戦後すぐに「青い山脈」が新聞連載されて大人気になり、僕の中学高校の頃は超がつく流行作家だった。

映画化された作品、テレビドラマ化された作品を数えると、ものすごい数になるだろう。たとえば「光る海」(1963年)は吉永小百合と浜田光夫によって映画化されたが、TBSドラマとしても1965年2月から5月にかけて放映されている。こちらは鰐淵晴子と石立鉄男の主演だった。

僕が初めて読んだ石坂洋次郎作品は、旺文社(だったと思うけれど)から出ていた新書サイズの軽装版「青春文学全集」に入っていた「若い人」だった。このシリーズでは、井上靖「あすなろ物語」や伊藤整「青春」などを読んだ記憶がある。

「若い人」は1937年(昭和12年)に発表された作品だが、前年に起こった226事件のことも、中国で続いている戦争のこともまったく感じさせない小説だった。最初に読んだとき、僕は戦後に書かれたものだと錯覚していたかもしれない。

しかし、「若い人」は時局から見ても不謹慎な小説として、やはり右翼団体からの圧力があったという(不敬だということだったらしい)。石坂洋次郎は1925年に青森県立弘前高等女学校に教師として勤め始め、1929年からは秋田県立横手中学校に勤務していたが、この圧力によって教職を辞した。

「若い人」には、石坂洋次郎自身の女学校教師としての経験が反映されているのだろう。主人公間崎は女学校の教師であり、彼の目を通してふたりの女性が描き出される。ひとりは女学生の江波恵子であり、もうひとりは進歩的な女教師の橋本スミである。

江波恵子は飲み屋を営む母親の私生児で、複雑で奔放な性格に描かれる。この江波恵子が魅力的で主人公も惹かれていくのだが、読者も彼女の魅力でページをめくることになる。女教師の方は大人の女性ではあるが常識的で、間崎はついに恵子と男女の関係になってしまう。

昭和12年だろ、教師と女学生がこんな関係になる小説が許されたの、と中学生の僕は思ったものだった。それでも、この小説はすぐに文芸ものが得意だった豊田四郎監督によって映画化されている。1937年(昭和12年)11月公開。真珠湾攻撃の4年前のことである。時代は戦争に向かって突き進んでいた。

その後、僕は「青い山脈」「あいつと私」「美しい暦」「草を刈る娘」「花と果実」などけっこう読んでみたけれど、どれも食い足りない読後感が残った。単なる風俗作家じゃないの、と十代の僕は生意気にも断定したものだった。結局、「若い人」の印象が一番強く残っている。

ちなみに「若い人」も4度映画化されている。僕が見ているのは石原裕次郎、吉永小百合、浅丘ルリ子が出た3度目の映画化である日活版「若い人」(1962年)だけだが、これはけっこう楽しめた。恵子の母親の愛人を演じた北村和夫が、いい芝居をしている。

テレビドラマにも4度なっていて、僕はNHK「銀河テレビ小説」で1972年7月から一ヶ月放映された「若い人」がしっかり作られていて好きだった。江波恵子は大映倒産によって、テレビに出始めたばかりの新人・松坂慶子が演じて注目された。彼女は、この後、大女優になっていく。間崎を演じたのは、知性派の二枚目、若き石坂浩二だった。

2019年5月23日 (木)

■日々の泡----動物小説の面白さを知った


【荒野の呼び声/ジャック・ロンドン】

「馬に乗った水夫」(アーヴィング・ストーン著)というジャック・ロンドンの伝記を読んだのは、中学生の時だった。当時、定期購読していた「ミステリマガジン」に短期連載されていたのだ。後に早川書房から単行本にまとまった。

小学生のときには「キューリー夫人」とか「エジソン伝」といった偉人伝のような子供向けの本をいろいろ読んだけれど、特に偉人でもない小説家を取り上げた本格的なバイオグラフィ(伝記)を読んだのは初めてだったし、アメリカでは伝記作家という存在が成立するのだと知った。

しかし、「馬に乗った水夫」がジッャク・ロンドンの伝記でなかったら、僕は読まなかったかもしれない。「ミステリマガジン」を定期購読していたのは、ミステリを読みたかったからで、ノンフィクションには馴染みがなかったからである。しかし、当時の「ミステリマガジン」は、ミステリ以外の作品やコラムが充実していた。編集長だった常盤新平さんの方針だったようだ。

僕は小学生で「荒野の呼び声」と「白い牙」を読み、ジャック・ロンドンという名前を記憶していた。後に原題が「The Call of the Wild」と知り、物語の内容からすれば「野生の呼び声」という邦題の方がニュアンスを伝えていると思ったけれど、僕の小学生の頃は「荒野の呼び声」というタイトルが一般的だったと思う。

「荒野の呼び声」は、僕が初めて読んだ動物小説だった。飼い犬だったバックがさらわれてソリを引く重度労働に従事させられたり、様々な人間と出会い苦難に充ちた経験をし、やがて「野生の呼び声」によって荒野へ帰っていく物語だった。荒野で遠吠えをするバックの孤影を、僕は鮮明に浮かび上がらせた。

狼と犬の間にできた「白い牙」と呼ばれる犬の物語の舞台は、ゴールドラッシュに湧くアラスカだった。狼の血を引く「白い牙/ホワイト・ファング」は猜疑心の強い子犬だったが、原住民に拾われ、強いソリ犬のボスに育つ。やがて白人に買われ、闘犬に出されるようになり、無類の強さを誇る。

しかし、闘犬のために育てられたブルドッグと対戦して重傷を負い、瀕死のところを判事の息子に救われる。初めて心優しい人間に出会った白い牙は、判事の家の忠実な番犬になる。これは「荒野の呼び声」とは逆で、猛々しい野生の狼犬から幸せに暮らす飼い犬になる物語だった。

「白い牙」で印象に残ったのは、「片目」と名付けられた父親の狼である。過酷な荒野の生活を送ってきた片目は、右の目がつぶれている。犬のキチーとの間に白い牙を含めて五匹の子を為し、オオヤマネコと戦い死んでいく。

「片目」は、「シートン動物記」の「狼王ロボ」を僕に連想させた。ただし、僕が読んだのは、「シートン動物記」を白戸三平がマンガにしたものである。1961年から1964年にかけて、僕の小学4年生から中学1年生のときに発表されたマンガだった。

その頃、金曜日の夜8時から一時間、日本テレビ系で三菱電機提供による番組枠があった。そこではプロレス中継と「ディズニーアワー」が隔週で交互に放映されていた。小学生たちはもちろんプロレスに熱中したけれど、僕はどちらかと言えば「ディズニーアワー」の方が楽しみだった。

その「ディズニーアワー・冒険の国」の回で、映像化された「白い牙」が放映された。そのときの映像を、僕は今でも憶えている。檻の中に入れられて吠える主人公の狼犬。過酷な労働をさせられ、闘犬シーンでは牙を剥いて戦った。犬の目には、人間たちは己の欲望だけに生きているように見える。

ということで、僕はジャック・ロンドンという作家に強い興味を持っていたのだった。「馬に乗った水夫」を読んだ僕は、ジャック・ロンドンが極貧に生まれ、幼い頃から働き、やがて水夫になり、そんな経験を経て社会主義者となったことを知った。

1876年生まれのジャック・ロンドンは、マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」に共感し、1901年にアメリカ社会党に入党する。1903年、27歳のときに「荒野の呼び声」を発表し、流行作家となった。以降、50冊以上の著書を残したという。

ちなみに数年前、僕は書店で柴田元幸さんが翻訳したジャック・ロンドン著「火を熾す」を見つけ、久しぶりに彼の短編を読んだ。村上春樹さんもジャック・ロンドンの「To Build a Fire」にインスパイアされた短編を書いている。

さて、ジャック・ロンドンは20世紀初頭のアメリカで社会主義者だったから、ウォーレン・ベイティが監督主演した「レッズ」(1981年)にジャック・ロンドンが出ていたと、ずっと僕は錯覚していた。「レッズ」は、二十世紀初頭のアメリカでコミュニストとして生きた人たちを描いていたからだ。

「レッズ」(赤たち、つまり共産主義者たち)は、ロシアのヴォルシェビキによる十月革命をルポした「世界を震撼させた十日間」を書いたアメリカ人ジャーナリスト、ジョン・リード(ウォーレン・ベイティ)を主人公にした物語だ。映画のラスト・クレジットでは重厚な「インターナショナル」が流れる。

しかし、「レッズ」にはリードの友人である劇作家ユージン・オニール(ジャック・ニコルソン)は登場するが、ジャック・ロンドンとは少し時代がずれている。ジャック・ロンドンは、ロシア革命以前の1916年に死んでいるのだ。モルヒネを飲んでの自殺だという。40年の生涯だった。

ジャック・ロンドンの代表作は、何度も映画化されている。「シーウルフ/海の狼」「野生の呼び声」「白い牙」などである。ケン・アナキン監督でチャールトン・ヘストンが出た「野生の呼び声」(1972年)や若きイーサン・ホークが出ていた「ホワイトファング」(1991年)を僕は憶えている。

2019年5月16日 (木)

■日々の泡----評価は他人がするもの


【ものぐさ精神分析/岸田秀】

僕には説教癖はなかったとは思うけれど、それでも勤めている頃、若いモンと飲んだとき、「評価は他人がするもの。自己評価は何の意味もない」とよく言っていた。多分に、自分に対する戒めの言葉でもあった。もっとも、若いモンが僕の言葉を聞いて雷に打たれたように感じ、納得していたとはとても思えなかった。

人は、何かと自己評価をする。「僕ってシャイだから」という男はサイテーだと思うけれど、同じようなことを多くの人は言っている。たとえば「私、人見知りだから」とか「私、口べたでしょう」とか、日常的によく耳にする。それも一種の自己評価、あるいは自己イメージの他者への強制である。

しかし、ある人は僕のことを「親切な人だ」と思っているかもしれないが、別の人は「無愛想で不親切で、いけ好かない奴」と思っているかもしれない。ある人は僕を「人見知りで照れ屋」と思っているかもしれないが、別の人は僕を「傲慢で人を見下す、唾棄すべき奴」と思っているかもしれない。

評価とは、結局、そういうものなのだ。人の性格、能力、容姿、その他モロモロ、他人が自分をどう思うか、ということで評価は決まる。「あの人の歌は素晴らしい」と大勢の人が評価すれば、その人はプロの歌手になれるかもしれないし、「あの人の書くものは面白い」と大勢に評価されれば作家になれるかもしれない。

しかし、世の中の多くの問題の原因は、自己評価と他人の評価の落差によるものが大きいのではないか。たとえば、若いモンが「私は仕事で評価されていない」と飲んだ席でグチるとき、彼の自己評価と会社の評価には大きなズレがある。また、「自分探し」という言葉があるが、それも「本当の自分」がいるという、過大な自己評価が生み出す幻想だと思う。

「本当の自分」などいない。他人が見た僕が「本当の僕」なのだと、あるときから僕は言い聞かせてきた。もちろん、僕も十代・二十代の若い時分には、「本当の自分」みたいな幻想を持っていたし、自分が世の中に受け入れられず不遇だと感じ、鬱屈やルサンチマンを抱いて生きていた。しかし、それは結局、自己憐憫にしかつながらなかった。自己憐憫は、何も生み出さない。

三十を過ぎ、勤めている出版社の労働組合委員長を経験し、日本出版労働組合連合会の業種別組織の事務局長を経験したとき、大勢の人(最大で13組合500人くらいになったことがある)をまとめる大変さに、「自分と同じ考えや感じ方、同じ美意識や価値観を持つ人」は世の中にひとりもいないことを実感した。自分の考えや感じ方は、自分だけのものなのだと当たり前のことを思い知らされた。

そう学んだとき、何かが吹っ切れた。僕が提起する運動方針を「是」と評価する人が過半数を超すと、民主的な手続きとして採択されるわけだが、それでも多いときには半数近くの人が「非」としているのだと学んだのである。その頃に、僕が出合った本が岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」だった。1982年、僕は30歳、平組合員からいきなり執行委員長になった頃だった。

岸田秀さんの理論は、ものすごくアバウトに言うと「すべては幻想である」ということになる。日本人としての「共同幻想」があり、「本能の壊れた人間の幻想」があるのだ。僕は岸田秀さんが分析する現象のひとつひとつに納得し、目から鱗が落ちる思いをした。

その本の中でも僕の意識を徹底的に変えてしまったのが、「自己嫌悪の効用----太宰治『人間失格』について」と「セルフ・イメージの構造----主観と客観の逆比例の法則を提唱する」という文章だった。文庫本で、それぞれ10ページほどの短文だが、30年生きてきた僕の意識を変革させてしまったのだった。

岸田さんは「自己嫌悪とは、つまり、『架空の自分』が『現実の自分』を嫌悪している状態」と分析し、「社会的承認と自尊心が自分を有能だと思いたがるとき、あるいは、卑劣漢が自己を道徳的だと思いたがるとき、その落差をごまかす支えとなるのが、自己嫌悪である」と結論づける。

たとえば「酔って女性に浅ましいことを言って口説いた」男が、翌朝、「本当の自分は、そんなことをする人間じゃない」と自己嫌悪に陥ったとする。そのとき、「本当の自分」とは「人にそう思ってもらいたいところの自分」であり、「本当の自分」などではなく、「架空の自分」であると岸田さんは指摘する。

「自己嫌悪は一種の免罪符である」と、岸田さんは手厳しい。「自己嫌悪をよく考察してみると、たとえば、自分のあるいやらしい行為を嫌悪しているとき、そのいやらしさの肝心なところはすっぽり抜けており、『どうかしていた』自分の行為として許せる範囲内の、むしろ抹消的な点が主として嫌悪の対象となっている」と容赦ない。

この文章を読んで以来、僕は「自己嫌悪」に陥ることさえできなくなった。であるなら、自己嫌悪になるような浅ましい言動を慎めばよいのだが、酔っぱらっての失敗はその後も続き、二日酔いの頭で「ああ、酔って、せこく、浅ましく、卑怯未練で、小心な、本来の自分が出てしまったな」と戒めるしかなくなった。

また、「セルフ・イメージの構造」という文章は、「『生きるのが下手な人へ』という本が出て、ほぼ二十万部とか三十万部とか売れたということを聞き及び--(中略)--世の中には、本気で自分のことを生きるのが下手だと思っている人が大勢いるらしいということを知り」と始まるのだけど、それを読んだだけで僕はテーマに共感した。

----人間は誰でも自分について、おれはかくかくしかじかの性質だとか、このような性格だという一定のイメージをもっている。自分は生きるのが下手だというのも、このようなセルフ・イメージの一例である。--中略--このセルフ・イメージは、当人の客観的性質の反映ではなく、他の人びとに対する当人の期待ないし要求の反映なのである。

ここまで分析されてしまうと、手の施しようがない。セルフ・イメージとは、その人物が他の人びとに「こう思ってもらいたいイメージ」にすぎないと指摘されているのだ。だから「生きるのが下手な人」と思っている人は「生きるのが下手で損ばかりしている人と思われたい、浅ましい人」であり、裏返せば「もっとうまく立ちまわって得したい」と考えているのである。

また、岸田さんは「人間は自分を正当化せずにはいられない存在である」と書く。しかし、ここまで突き詰められると、逃げ場がなくなってしまうではないか。僕は岸田さんの本で目から鱗が落ちまくったけれど、結局、自分とはどういう人間であるのか、他人から見た自分ではなく本来の自分の姿をどう見出すのか、そしてその自分としてどう生きていけばいいのか、という迷宮に迷い込むことになった。

その結果、僕が落ち着いたところは、中学生の頃から愛読してきたハードボイルド小説や冒険小説の主人公たちの行動律を見習うことだった。「自分のモラルとルールを持ち、己に恥じることをしない」という簡単な行動律である。それが、かっこよく言えば僕の美学に適ったのだ。しかし、そうは言っても実行するのは困難だった。

僕は「自覚的に生きる」ことを幼い頃から己に課してきたつもりだが、経験の中から自分のモラルとルールを築き上げるには長い時間がかかったし、己に恥じることをしないために自己のモラルやルールのハードルを下げることもままあった。つまり、ある局面(たとえば上司からの強い圧力など)において妥協をしてしまうのだ。

そのことを、ある時期、僕は「守るべき最後の砦がどんどん後退していく」とよく嘆いた。それでも、何とか四十年の勤め人生活を果たし、今、振り返ると「(たとえば、同僚を売らない、部下に責任を押し付けない、といった最後の砦は守ったつもりだし)己に恥じることはしてこなかった」という想いはある。それだけでも、よしとすべきか?

ちなみに、つい最近、岸田秀さんの新刊「唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか」を読んだのだが、岸田さんはまったく変わっていなかった。これが最後の本になるようなことを帯で書いていたけれど、岸田さんの理論は相変わらず一貫している。岸田さんは、僕と同じ「うどん県」こと香川県の西讃出身である。郷土の先達として、明晰な分析と理論を生み出す頭脳を尊敬している。

2019年5月 9日 (木)

■日々の泡----陶酔の時よ来い

【美しい夏・女ともだち/チェーザレ・パヴェーゼ】

60年代後半から70年代前半、要するに僕が高校大学の頃、晶文社の本は高かったけれど若者たちに人気があった。高校生のとき、僕は背伸びをして犀のマークの晶文社から出ていたロープシン(サヴィンコフ)の「蒼ざめた馬」を買ったものだ。ポール・ニザン著作集の第一巻「アデン・アラビア」を買ったのは大学一年生のときである。

「アデン・アラビア」は「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせない」という冒頭のフレーズが有名で、当時の若者たちはそのフレーズだけをノートに書き写したり、口ずさんだりした。といっても、結局、今まで「アデン・アラビア」を読み通したという人には会ったことがない。

その晶文社からチェーザレ・パヴェーゼ全集が出ていたのが、やはり1970年前後だった。これは15巻ほどで完結するはずだったが、半分ほど刊行された時点で中断した。現在は、岩波書店から「パヴェーゼ文学集成」が出ているし、岩波文庫では代表作のいくつかが読める。

僕は大学のフランス文学科に通っていたのだけれど、イタリアの作家であるパヴェーゼは人気があり、友人から「『月と篝火』を読んだか?」などと言われた。パヴェーゼは自殺した作家だから人気があるのかな、と僕は考えたが、そのまま読むこともなく、ずっとそのことが気にかかっていた。

卒業して何年か経った頃、書店で白水社の「世界の文学」シリーズでパヴェーゼの「美しい夏・女ともだち」が出ているのを見つけ、その頃には経済的余裕もあったので美しい白いハードカバーの単行本を買った。1979年のことで、定価は1300円。まだ、消費税は導入されていない。僕は就職して4年、28歳だった。

白水社「世界の文学」シリーズには、映画化されたファウルズの「コレクター」やアップダイク「走れうさぎ」、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」といった売れ筋と共に、当時はそれほど注目されていなかったアルゼンチンのボルヘスなども出ていた。イタリアの作家としては、パヴェーゼの他にイタロ・カルヴィーノ「木のぼり男爵」が出ているだけだった。

チェーザレ・パヴェーゼは1950年8月27日、北イタリアのトリノのホテルの一室で睡眠薬自殺を遂げた。生まれたのは1908年だから、42年間の人生だった。同じ頃に自殺した作家というと、日本では太宰治を思い浮かべるが、太宰は1909年に生まれ、1948年(昭和23年)に玉川上水に山崎富栄と共に入水した。太宰はパヴェーゼより1年遅く生まれ、2年早く死んだことになる。

白水社版「美しい夏・女ともだち」の解説によると、死の前日、パヴェーゼは「幾人かの女性につぎつぎに電話して夕食を誘ったが、はかばかしい返事はひとつも得られず、最後にいかがわしい場所の女を呼びだしたが、その女にさえ『行きたくないわ、あんたは嫌なひとだし、あんたに会ってもつまんないもの』と言われた」という。女の言葉は、ホテルの交換手が聞いたものだった。

人は誰かに拒絶されることによって、ひどく傷つく。僕は高校生のとき、同級のある男から「おまえ、好かんわ」と面と向かって言われたことがあり、しばらく落ち込んだ。その男とは、まったく住んでいる世界が違うと感じていたし、特に友達になりたいとは思っていなかったけれど、そのときからしばらく「人から拒絶されること」について考えたものだった。今も、そのときの相手の表情が浮かんでくる。

パヴェーゼも女たちに拒絶されたことで、傷つき落ち込んだのだろうか。それが絶望を呼び起こし、死に至ったのか。そんな作家の人生を知って「美しい夏・女ともだち」を読むと、ひどくやるせない気持ちになった。その2篇は死の前年、1949年に発表された小説だった。そして、僕は「美しい夏」の冒頭の数行が特別に好きになった。

----その頃はしじゅう楽しいお祭りさわぎがつづいた。家を出て、通りを横ぎればたちまち熱狂できたし、あらゆるものがほんとにすばらしかった。(菅野昭正・訳)

その文章を読んだとき、僕にもそんな時代があったのだという想いが湧き上がってきた。そのフレーズは、なぜか僕が好きだったアルチュール・ランボーの「いちばん高い塔の歌」を金子光晴が訳したフレーズを連想させた。昔からことある度に、僕は「いちばん高い塔の歌」の最初の詩句を口にする。

  束縛されて手も足も出ない うつろな青春
  こまかい気づかいゆえに 僕は自分の生涯をふいにした
  ああ 心がただ一すじに打ち込める
  そんな時代は ふたたび来ないものか?

ちなみに小林秀雄訳では後半は、『時よ来い ああ、陶酔の時よ来い』となっていて、そのフレーズの方が「美しい夏」の冒頭と通じ合うような気がした。要するに、「美しい夏」では「しじゅう楽しいお祭りさわぎがつづいた」時代は去り、語り手はその頃の回想に浸っている。過ぎ去った昔は、帰ってはこない。その寂寥感が冒頭から漂い、かつての陶酔の時を渇望する。

330ページほどある単行本の後半は「女ともだち」で、こちらの方が「美しい夏」より少し長かった。僕が「女ともだち」を読みたかったのは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督が映画化しているからだった。映画化作品の日本初公開は1964年だが、制作されたのは1956年である。

「女ともだち」はアントニオーニの監督三作めであり、彼の評価が高まった「さすらい」(1957年)「情事」(1960年)「太陽はひとりぼっち」(1962年)の日本公開後に初期作品として公開された。しかし、僕は「女ともだち」は「太陽はひとりぼっち」より好きだった。

僕がアントニオーニの「女ともだち」(1956年)を好きなのは、主演がエレオノラ・ロッシ=ドラゴだからだ。僕はエレオノラ・ロッシ=ドラゴの出演作品は、他には「激しい季節」(1959年)と「刑事」(1959年)しか見ていないが、気品ある大人の女性の魅力に若い頃からまいっている。日本の女優で言えば、亡くなった白川由美みたいなイメージである。

エレオノラ・ロッシ=ドラゴは僕の母と同じ歳だったから、2007年に82歳で亡くなっている。しかし、「女ともだち」を見ると、30歳の美しい彼女の姿が永遠に残っているのだ。パヴェーゼが自殺した6年後の映画だった。映画の舞台はトリノ。パヴェーゼが死んだ街だった。「女ともだち」は、ヒロインの仲良くなった若い女ともだちが自殺して終わる物語だった。

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