2017年2月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…761 調布が映画の街だった頃


【ハレンチ学園/遊び】

●Iのお母さんは東京の美しい山の手言葉を話しとても優しい人だった

数少ない友人たちを別にして、僕には恩人が三人いる。ひとりは勤めていた出版社の先輩だったHさん、ひとりは亡くなった写真家の管洋志さん、そしてもうひとりは高校時代の友人Iのお母さんである。Iのお母さんは、東京の美しい山の手言葉を話し、とても優しい人だった。僕の父母は貧しい農家の生まれで、尋常小学校を出てすぐに働き始めた。戦後はずっと香川県に暮らし、職人として建築現場で働き、讃岐弁丸出しでしゃべる。もちろん自分の親には感謝しているが、初めてIのお母さんに会ったとき、僕は「東京物語」(1953年)の三宅邦子を連想し、続いてテレビドラマ「七人の孫」の加藤治子(断っておくが、決して後年の向田邦子作品の彼女ではない)を思い浮かべた。

Iと知り合ったのは、たぶん高校一年の三学期くらいだと思う。クラスもまったく違ったが、中学以来の友人だったKが同じクラスのIと仲良くなり、それで紹介されたのではなかっただろうか。ちなみに、後に僕が結婚する相手もIと同じクラスだったが、僕が彼女と同じクラスになったのは三年になってからだった。しかし、僕はIとは同じクラスになったことがあるのだろうか。よく憶えていない。ただ、高校三年生になる前の春休みに、僕は群馬県前橋の彼の家に遊びにいっているのだ。散歩のときに見た利根川沿いにあった前橋刑務所の赤煉瓦の塀を記憶している。それはTとFという級友と三人で大阪・東京を巡る旅の途中だった。

翌年に受験する大学を見にいくという名目で、僕はその旅行を両親に認めてもらった。僕らは鈍行で大阪に出て、その夜、フォークコンサートを聴きにいった。高石友也、岡林信康、高田渡、ジャックスなどが登場するコンサートだった。そのまま東京行きの夜行列車に乗り、翌朝、東京駅に着いた。午前中にFが泊めてもらうという早稲田に住む親戚の家にいき、僕は早稲田大学を見にいった。その日は夕方から大手町の日経ホールだったか、産経ホールだったかで日野皓正クィンテットのコンサートを聴きにいった。ドラムスは日野元彦、ギターが増尾好秋だったのは記憶しているが、他のメンバーは誰だったか忘れてしまった。

コンサートが終わり、僕とTは地方の大学の先生が上京したときに泊まる本郷の施設にいき宿泊した。Tの父親が香川大学の教授だったのだ。その翌日だったか、僕はひとりでIが帰っている前橋の実家を訪ねた。Iのお父さんは金融公庫に勤めていて、頻繁に転勤をしていた。高松に転勤になっていたときにIが高松高校に入ったが、その後、前橋に転勤になった。Iは寮に入り、転校はしなかったのだ。そのときは春休みで家に帰っていたのだった。僕は初めてIの家族に会った。勤め人の家庭は珍しく、厚かましく押し掛けた僕をお母さんは優しく歓待してくれた。考えてみれば、あのときIのお母さんは四十前だったのではないか。Iの妹は小学生だったのではなかっただろうか。

しかし、僕が本格的(?)にIのお母さんにお世話になるのは、翌年の四月、僕の浪人生活が決まり、上京してひとりで暮らし始めてからだった。いろいろあって一年近く会っていなかったIと再会したのは、その年の初夏の頃だった記憶がある。久しぶりに実家に帰るというIに連れられて、僕は調布の多摩川住宅にいった。その春にIのお父さんが転勤になり一家は東京に戻っていたのだが、ずっと家を出て生活していたIはその新居にいくのは初めてだったと思う。「確か、この辺なのだけど」と言いながら団地の号数を確かめていた。Iはひとりでは帰りづらかったのかもしれない。その団地の手前に、石原プロモーションがあった。まだ小さなビルの一角だった。

●僕が初めて調布にいった頃、大映と日活は共に経営不振だった

邦画五社が健在だった頃、映画会社はそれぞれ東京近辺に撮影所を持っていた。松竹は大船、東宝は世田谷の砧、東映は大泉、そして大映と日活は調布に撮影所を構えていた。僕が初めてIに連れられて調布にいった頃、その大映と日活は共に経営不振に陥り、毎週二本の作品を系列館に配給する力をなくしていた。窮地に陥った大映と日活は、ダイニチ映配という配給システムを作り系列の映画館に作品を提供していた。それでも、客は入らなかった。日活は宍戸錠にマカロニの扮装をさせて(初代ヒゲゴジラは藤村俊二)、永井豪のヒットマンガ「ハレンチ学園」(1970-71年)を映画化し、シリーズ化した。十兵衛役は、後に「北の国から」で活躍する児島みゆきだった。

両親には心配ばかりかけるIだったが、一緒についていった僕をお母さんは再び歓待してくれた。「何かあったら、いつでもいらっしゃい」という言葉に甘えて、僕は何度多摩川住宅に通っただろうか。調布からのバス代を惜しんで、ふた駅手前の国領から歩くようになっていた。一年浪人し、何とか大学に潜り込んだ秋、僕は方南町(住所は杉並区和泉)に引っ越したため、下高井戸駅まで歩き調布へいくことがさらに増えた。「洗い物があったら持っていらっしゃい。下着でもいいのよ」と言われ、僕は汚れ物の袋を抱えてよく京王線に乗ったものだった。それでも、最初は遠慮してジーンズのような手では洗えない(コインランドリーが登場する以前の時代だ)ものにしていたが、「遠慮しなくていいのよ」と言われ、下着まで洗ってもらうようになった。

そんな頃、お母さんと「関根恵子は、調布の駅前でスカウトされたようですよ」という話をした気がする。現在は高橋伴明監督と結婚し、高橋恵子になっているけれど、確かに彼女は調布で女優としてスカウトされたのだ。調布近辺には大映や日活の関係者が多かった。浅丘ルリ子も多摩川撮影所の近くに家を建て、そこは日活の若手俳優たちのたまり場になっていたそうである。当時は、調布は映画の街だったのだ。だが、僕がIの家に通っている間に大映は倒産し、日活はロマンポルノ路線に変更になった。そんな大映の末期に活躍した若手女優が関根恵子であり、松坂慶子であり、新人男優には篠田三郎(後のウロトラマンタロウ)や大門正明(「セーラー服と機関銃」より「赤い鳥逃げた?」かな)がいた。

関根恵子は、僕が上京した一九七〇年に「高校生ブルース」「おさな妻」「新・高校生ブルース」の三本に出演した。今から見ればどうということもない映画だが、当時は際どくて、あざとい作品と思われた。十五歳の新人女優に新婚初夜を演じさせるのである。一九七一年、僕が大学に入った年には「高校生心中 純愛」「樹氷悲歌(エレジー)」「遊び」「成熟」という作品に出た。相手役は篠田三郎が多かった。大門正明が相手役を演じ、増村保造が監督した「遊び」はやはり評価が高かった。渥美マリの「でんきくらげ」(1970年)を撮っても評価の高い増村監督だ。どんな映画であっても、きちんと自分の作品として仕上げた。

あれから長い年月が経ち、十五歳だった関根恵子は還暦を過ぎた高橋恵子になり、今ではレディースアデランスのコマーシャルに出ている。十八だった僕は公的に前期高齢者になり、老齢年金が支給されるようになった。増村監督が亡くなったのは、もうずいぶん昔のことになったし、プロ野球チームを持っていた大映という映画会社があったことを知る人は少なくなった。あの当時、四十代だったはずのIのお母さんも年を重ねた。二十年ほど前、Iのお父さんが亡くなったときに久しぶりにお母さんと会ったが、その後は不義理を重ねていた。年賀状のやりとりもいつの間にか途絶えた。だが、忘れたことはなかった。僕の中では、とても大きな存在だったのだ。

●Iのお母さんが亡くなったと聞き五十年近く前の調布を思い出した

--------------------------------------------------------------------------------
「すいません。ご迷惑をかけて。朝早くから、本当に…」
 語尾が消え入るようだった。
「いえ、いいんです。気にしないでください。最近は早起きして、ジョギングでも始めようかと思っていたところですし。それより、礼子ちゃんが家出というのは、本当ですか」
 中山の母親に会うと、未だにいい子ぶる癖が出る。十八から二十二までの四年間、私には母親がいた。すらりとした背の高い美しい母親だ。小学二年生で亡くした母親が生きていれば、こんな風になっていたに違いないという思いで、私は中山の母親を見ていた。いや、甘えていた。
「一昨日、きつく叱ったのがいけなかったんです。何も、あんなに叱らなくても…」
 やはり、取り乱しているのだ。いつもなら、もっとはっきりした言い方をする。誰が叱ったのか、どういう状況だったのか、明晰な物言いをするはずだった。そんなところも、私が敬愛していた理由だった。
「何があったのですか。一昨日」
「とにかく、あがってくださいな」
 居間へ入っていくと中山が父親と一緒に、溜め息をつき果たしたような顔でソファに身を沈めていた。一晩中こうして、三人で顔を突き合わせていたのだろう。その情景が浮かぶようだった。
--------------------------------------------------------------------------------

これは、僕が昔書いた小説「黄色い玩具の鳥」(電子書店で発売中です)の一節だ。もちろん、すべてフィクションだが、この文章を書いているとき、僕はIのお母さんを思い浮かべていた。この小説の主人公は子供の頃に亡くした母親の理想の姿を、このヒロインに見出しているが、Iのお母さんに頻繁に世話になっていた頃の僕の心情がここには反映されている。実際、「この人が本当の母親だったらな」と若い僕は思ったものだ。

二月中旬、中学時代からの友人のKから電話があった。「Iのお母さんが亡くなった」という。いつかはそんな連絡が入るかもしれないと思ってはいたが、心の準備ができていなかった。それに、僕は遠く離れた四国にいる。最近、友人たちの両親の訃報が多い。現にKも立て続けに両親を亡くしたばかりだ。「Iは、高松にいるようだから無理しなくていいと言っていたけど、お母さんが会いたがっていたらしい」とKは言う。「こんなことだったら、会っとくんだったなあ」とKが口にした途端、後悔の念が湧き起こった。なぜ、もう一度、会いにいかなかったのか。きちんと、お礼を言っておかなかったのか。口では言い尽くせないほど、世話になったのに----。

Iのお母さんの告別式の日は、入院中の母親が帰宅後の生活の練習のために一日だけ実家に戻る日だった。そのために、車で病院まで迎えにいかねばならない。僕は自宅にいるかみさんに連絡して、葬儀に出てもらうように頼んだ。その夜、寝床に入って暗闇を見つめていると、様々な思い出があふれかえるように甦り、胸の奥が切なくなった。涙があふれそうになる。十八歳の僕、あの頃、Iのお母さんは四十になったばかりだったろう。結婚して挨拶にいったときも、まだまだ若かった。子供が産まれた後、「お子さんたちは元気?」といつも年賀状に書いてくれた。Iのお母さんの思い出をたどると、僕の大学時代の記憶が後から後から甦ってくる。記憶の洪水に溺れ、明け方まで眠れなかった。

2017年2月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…760 かの国の大統領に見せたい映画


【扉をたたく人/正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官/天国の門/愛と哀しみの旅路】

●9.11以降のアメリカの移民政策がどれほど厳しくなっていたか

たったひとりの愚かな男の言動が世界を混乱に陥れている。アメリカ合衆国大統領は、それほどの権力と影響力を持つのか。日本には「××に刃物」ということわざがある。「民主的な選挙で選ばれた大統領」だと言うが、ヒトラーだって選挙で選ばれたのだ。「シン・ゴジラ」(2016年)で描かれたように、「かの国」に振りまわされるものの「かの国」に追従するしか生きる途がない日本は、尻尾を振ってご機嫌をとるペットのようにすり寄っている。しかし、かの国の大統領は、日本を従順な手下としか見ていないのではないか。日本が何かを主張すると、とたんに切れて感情を爆発させる気がする。その愚かな男の機嫌を損ねることを、日本の政治家たちはまるで腫れ物にさわるように怖れている。

愚かな大統領に見せたい映画がある。それを見て改心するほどの理性と知性を彼が持っているとはとても思えないが、9.11以降のアメリカの移民政策がどれほど厳しくなっていたか、その映画は教えてくれる。厳しい移民政策に対するアンチとして、その映画は作られたからだ。今、それ以上に移民や難民に対する厳しい対応を行おうとしているかの国の大統領は、その映画を見て己を恥じるがいい。もちろん、恥を知る気持ちなど彼は持ち合わせていないだろうし、僕がこんなことを書いても何の影響も与えないけれど、少なくとも心ある人はこの映画を見て何かを感じるに違いない。アメリカにだって、無謀な大統領令を阻止しようとする人々がいるのだから----。

リチャード・ジェンキンスは脇役として多くの映画に出ているが、「扉をたたく人」(2007年)で初めて主演をつとめたのではないだろうか。この作品でアカデミー主演男優賞にノミネートされ、一躍注目された。僕も顔は知っていたが、この作品で名前を憶えた。もちろん、映画がとてもよくできていたからだ。彼が演じたウォルターは著作も数冊ある大学教授で、社会的な成功者である。コネチカットの大学近くに立派な自宅があるし、ニューヨークには広いアパートメントを所有している。しかし、ピアニストだった妻を亡くし、今は心を閉ざして生きている。期限に遅れたレポートを受け取らないほど学生には厳しいくせに、自分は毎年同じ講義ノートを使っている。仕事に対して熱意を失っている。

彼は、ニューヨークでの学会に出席することになる。数ヶ月ぶりにニューヨークのアパートに戻ると見知らぬ荷物があり、人が住んでいる気配がある。浴室の扉を開けると若い黒人女性がバスタブに浸かっていて悲鳴をあげ、アラブ系の青年が飛び出してくる。ウォルターが自分が持ち主だと鍵を見せると、青年は警察に通報したかどうかをしきりに気にする。黒人女性は「やっぱりだまされたのよ」と青年を責める。青年はシリアから難民申請をしてアメリカにきたタレクで、申請が認められず今は不法滞在をしているとわかる。女性は恋人のゼイナブで、彼女もセネガルからきた不法移民である。彼らはだまされて部屋代を払い、ウォルターのアパートに二ヶ月も住んでいた。

警察沙汰になるのを嫌い詫びを言って出ていく、大きな荷物を持つふたりの姿を見ていたウォルターの心を何かが動かし、しばらくいてもいいと口にする。そこから奇妙な共同生活が始まる。タレクはジャンベというボンゴのような打楽器の奏者で、ある夜、ジャズクラブで彼の演奏を聴き、ウォルターはリズムを刻む心地よさに浸る。ある日、アパートに帰ったウォルターは置いてあったジャンベをたたき始め、ウォルターから手ほどきをうけることになる。それをきっかけに親しくなったふたりは、公園でジャンベを演奏したりする。しかし、その帰りの地下鉄でタレクは警官の不審尋問に遭い、いきなり逮捕されてしまう。

タレクが移送されたのは、クィーンズ地区にある移民局が管理する拘置所だった。自らも不法滞在であるゼイナブは面会にいけず、ウォルターがタレクの面会にいく。ミシガンに住んでいるタレクの母親マーナも不法移民で、連絡がないタレクを心配してニューヨークにやってくるが、やはり面会にはいけない。ウォルターは弁護士を雇い、タレクを助けようと奔走する。その弁護士もアラブ系移民で、「タレクの処遇は厳しいものになるかもしれない」と報告し、それに対して「あなたに子供はあるの?」と辛辣に問うマーナに「ふたりいる。それに二十三年暮らしていたのに強制送還になった伯父も」と答える。彼自身もグリーンカード(永住権)を取得するのに苦労したのだ。

ずっと感情を表さなかったウォルターが移民局の拘置所に面会にいき、タレクがすでに送還されたと知ったときの感情の爆発が心を打つ。同時多発テロ以降の厳しい移民政策に対する批判が、スクリーンから迸る。翌日、「あの子のそばについていてやりたい」というマーナを空港に送るウォルターは、「あなたも出てしまえば、もう帰ってこれない」と言う。二〇〇七年の制作だから、同時多発テロから六年、今から十年前の映画だった。監督は俳優として映画に出ていたトム・マッカーシー。この映画の脚本監督で注目され、昨年は「スポットライト 世紀のスクープ」(2015年)の脚本監督で高く評価された。

●いくつかのストーリーでアメリカの移民難民問題の複雑さを描く

同時多発テロ以降の厳しくなった移民政策を多層的に描いたのが、「正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官」(2009年)だった。いくつかのストーリーが平行して展開され、アメリカの移民難民問題の複雑さを描いている。ハリソン・フォードが演じたのは、I.C.E.(移民税関捜査局)に勤める捜査官である。彼は不法移民を取り締まるのが仕事だが、移民たちの事情に同情的で、仲間からは「彼らに甘すぎる」と言われている。ある日、縫製工場に抜き打ちで調査に入り、捜査官たちは逃げまどう不法移民たちを逮捕する。

しかし、彼は隠れた場所で「見逃してほしい」と必死の目をするメキシコ人女性を捕らえられない。彼女を見逃したものの別の捜査官に逮捕されたメキシコ人女性の言葉が気になり、彼女が残したメモを手かがりにして彼女の幼い子供を見つける。ハリソン・フォードは彼女のメキシコの住所を探し出し、幼い子供をそこに連れていくが、彼女はアメリカに残してきた子供が心配で再びアメリカに不法移民として入っていた。かの国の大統領が壁を作って防ごうというメキシコからの不法移民である。

また、オーストラリアからやってきた女優志願の女性がいる。彼女はグリーンカードを得ようと移民局に日参しているが、なかなか実現しない。そんなとき、移民審査官(レイ・リオッタ)と知り合う。彼は自分と寝れば、グリーンカードを発行してもいいと言い、彼女は承諾する。移民審査官の権力を使って女性を口説く卑劣な男というのは、いつものレイ・リオッタの役柄である。しかし、恋人もいるのにそんな提案を受け入れるほど、グリーンカード取得というのは厳しく困難なのだろうか。

また、学校で作文のテーマに同時多発テロを選んだバングラデシュ出身のイスラム教徒の少女は危険分子と見なされて、家庭にFBIの捜査が入り、家族全員が不法滞在とされて拘束される。彼らの弁護を引き受けた人権派の女性弁護士(アシュレイ・ジャッド)は政府機関を相手に交渉するが、壁は厚い。イスラム教徒の一家に対する偏見も根強い。一方、ハリソン・フォードの同僚でイラン人の一家がいる。アメリカで成功した一家であり、永住権も取得しているが、一家の娘が殺害される事件が起きる。といったように様々なストーリーが描かれるのだが、すべてに関係するのが9.11以降に(特にイスラム系の人々に)厳しくなったアメリカ合衆国の移民・難民政策である。

二十七年前に作られた「グリーンカード」(1990年)では、まだグリーンカード(永住権)を恋愛ドラマのモチーフとして成立させる余裕があった。オーストラリア出身のピーター・ウィアー監督は、フランス人のジェラール・ドパルデューを主演にアンディ・マクダウェルとのラブロマンスを作る。独身者は入居できない広いガーデンのあるアパートメントに入居したいプロンディ(アンディ・マクダウェル)は、グリーンカード(永住権)がほしいフランス人のジョージ(ジェラール・ドパルデュー)と書類だけの偽装結婚をするが、移民局が調査にくるというので同居しなければならないはめになる。よくあるシチュエーション・コメディの設定だが、よくできた作品だった。しかし、今、グリーンカードをこんな風には描けないかもしれない。

アメリカは「移民の国」と言われる。しかし、先に新大陸にきた移民たちが、次にやってきた移民たちを排斥しようとした負の歴史もある。それはアメリカ史の恥部として、アメリカ国民は目を背けてきた。「天国の門」(1981年)では後から移住してきたロシア・東欧系の農民たちが、先に西部にやってきて成功している牧場主たちに迫害され殺害された歴史が描かれ、アメリカの観客の反感を買った。また、マーチン・スコセッシ監督も「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2001年)で、元は移民だがアメリカ生まれの世代になった住民たちが新参者のアイルランド系移民を排斥し、対立した歴史(原作はノンフィクション)を描いた。

かつて日系移民も「安い賃金で文句も言わず働く」ことで白人たちに嫌われ、日本人をターゲットにした差別的な移民法が成立した。さらに、カリフォルニア州を皮切りに日系移民は土地の所有ができないという法律が次々に成立した。そして、日本軍の真珠湾攻撃の二ヶ月後、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは大統領令を出し、日系移民の強制収容を実施した。日系移民は財産を没収され、トランクひとつだけを許され、砂漠のキャンプに集められた。その数は十二万人とも言われる。この大統領令が間違いだったとアメリカ合衆国が認め日系人たちに補償をしたのは、戦争が終わって四十年も経ったレーガン大統領のときだった。日系移民への迫害が描かれた「愛と悲しみの旅路」(1990年)や「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)も、かの国の人々に改めて見てもらいたいものだ。

2017年2月 9日 (木)

■映画と夜と音楽と…759 死者を弔う


【秋日和/海街diary/女の座】

●母との会話から忘れていた街並みが甦った

母親が入院したと兄から連絡があり、三週間ほど前から四国に戻っている。実家の裏の一軒家で暮らしているが、昔の家で断熱材など入っていないから寒くてたまらない。エアコンは一階にしかないし、暖まるのは一部屋だけだ。夏に二階にベッドを上げてしまったのだが、この時期は明け方になると二階は特に冷える。顔が冷たくなって目覚め、温度計を見ると室温が三度になっていたことがある。凍死しゃうぞ、と思った。それで、天気予報で翌日の最低気温を確認し、このところ加湿機能のあるヒーターをつけたまま一階のソファで寝ている。予定では、最も寒い時期には自宅のマンションにいるはずだったのだ。その大寒の時期に、高松で暮らしている。

母は脊椎の圧迫骨折で、暮れからコルセットを付けて寝ていたという。その知らせはなかったが、一月中旬に痛みがひどくなり救急車で入院し、兄から連絡が入った。入院したのは、自宅から歩いても五分の外科である。連絡をもらって三日後に帰郷し、病院をのぞくと母はベッドで寝たきりだったが、頭ははっきりしているようだった。九十を過ぎているので、入院して寝たきりになるとボケることがあると聞いたこともある。年寄り特有のくどさと忘れっぽさは前のままだが、話すことの辻褄は合っている。その点では安心した。

翌日から、午前と午後の散歩のときに病院をのぞいている。僕が顔を出すと、母の昔話が始まる。自分では記憶をたどったことはなかったが、小学生の六年まで住んでいた家の近所の話につきあっていると、忘れていたはずの光景や店の名前が甦ってきた。八百屋はミヤモトだったし、内科・小児科の病院はノダ医院だった。女医さんでやさしかったのを憶えている。夏になるとかき氷を売っていた、角の家の名前がどうしても思い出せなかった。もっとも、母はかき氷屋の存在そのものを憶えていなかった。

母の話はとりとめがない。子供の頃の話から戦争中の話へと飛ぶし、いつの間にか、結婚し子供が産まれた頃に話が移っている。昨年の暮れに五歳年上の兄を亡くしたのが思い出話のきっかけになっているようだった。祖父は母たちを生んだ最初の妻を早くに亡くし、何度か妻を迎えた。最後の子供は六十のときに産まれた娘で、僕には叔母に当たるが十歳ほど年下になる。僕の祖母が産んだ子供は、伯父と母と母の下にふたりの妹がいるのだが、母はそれ以外に五人の子が亡くなっていると言う。何だか「おしん」の思い出話を聞いている気分である。

九十年も昔のことだから無事に育つ子は少なかったのだろうが、早死にしたと聞いていた祖母が十人近く子を産んでいたのは驚きだった。その全員の名を母は憶えていて、ひとりひとり指を折りながら、まるで弔うように口にした。無事に育った兄と自分とふたりの妹がいたのに、妹のひとりは十年近く前に亡くなり、今度は九十六歳で兄が亡くなった。祖父は新しい家庭を持ったから、五歳年上の兄が父親代わりだったと母は泣く。その伯父は十代半ばで満州に渡り、満鉄に八年勤め、二十五で終戦を迎えた。戦後はずっと郵便局に勤めていたはずだ。伯父はふたりの子供を持ったが、ふたりとも障害があり、下の子は特にひどく生涯歩くことはできなかった。ふたりとも親より先に亡くなっている。

●叔父の四十九日で三十年ぶりに会った親戚の人々

四国に帰った週末に、伯父の四十九日があった。一年ほど前、母を車に乗せて伯父に会いにいき、そのときが結局は最後になった。伯母はデイサービスにいっていたので、そのときには会えなかったから、四十九日に会うのが三十年ぶりになる。小学生の頃、よくひとりで泊まりにいき可愛がってもらった伯母である。母方の祖父の葬儀で会ったのが最後だと思う。そのとき、母の異母妹で僕より十歳ほど年下の叔母に当たる人とも会った。そのときが初対面だった。僕は十八で上京し、ずっと東京で勤めていたので、親戚づきあいはほとんどしていない。故郷にいれば、冠婚葬祭はいろいろあって、何かと親戚たちと顔を合わすことになる。

四十九日の日は雪が舞うような荒れた天候だったが、二度めになる伯父の家への道を軽快に運転した。伯父の家のすぐ近くに父親の実家があり、そちらにも法事に出る父を乗せていったから一度も迷うことなく到着した。玄関の戸を開けて、「こんにちは、進です」と言った瞬間、「進ちゃんな」と伯母の声が返ってきた。座敷から伯母の顔がのぞいた。変わらない、というのが最初の印象だった。下半身が悪くて歩けなくなっていると聞いていた通り、板敷きの廊下を這うようにして玄関にやってきた。昔から肥えた体で、いつも明るい伯母だった。「肝っ玉かあさん」の京塚昌子に似ている。しかし、伯母の方は「何も知らんでおうた(会った)ら、わからんな」としみじみと僕の顔を見た。

田舎の家の仏間は広い。隣室とのふすまを外しているから、二十人くらいが座っても余裕がある。僕の後から母の一番下の妹にあたるU子叔母が長女と一緒にやってきた。彼女は従姉妹になるが僕よりかなり若く、会うのは初めてだった。母の異母妹で僕より年下の叔母は、夫と長女と一緒にやってきた。彼女は小学校の先生である。「初めまして」と言うので、「おじいちゃんの葬儀で会いました」と答える。僕の祖父は彼女の父親になるわけで、八十七で亡くなった。もう三十年前のことだ。やがて、僧侶がふたりやってきて袈裟を身につけ、仏壇の前に正座し、読経が始まった。途中、二度の中休みはあったけれど、二時間近く読経は続いた。僕は正座をやめて、胡座を組ませてもらった。

●生まれ故郷にいると親戚づきあいは続いていただろう

七回忌のシーンから始まる映画は、小津安二郎監督の「秋日和」(1960年)である。昔の映画には法要シーンがよく登場した。それだけ、人々がきちんと冠婚葬祭の行事を行っていたのだろう。最近の映画では「海街diary」(2015年)が四人姉妹の祖母の法事や墓参りを描いていたが、日常のディテールを丁寧に綴った作品だからだろう。家族の関係を描くのには冠婚葬祭が適している。父と別の女性の間に産まれた妹(広瀬すず)を引き取った三人の姉(綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆)の物語だが、姉たちの母方の祖母の法要に広瀬すずは「私、出てもいいのかな」と口にする。彼女の母が三人の姉の母(大竹しのぶ)から夫を奪ったからだ。

「海街diary」は次女ヨシノ(長澤まさみ)が男の部屋から朝帰りすると、長女のサチ(綾瀬はるか)に「父親が亡くなった知らせが届いたからいってきて、チカ(夏帆)をつけるから」と言われるところから始まる。父親は愛人を作って家を出たが、その女性が亡くなり、別の女性と一緒になり、山奥の温泉旅館で働いていたのだ。父には娘(広瀬すず)がいて、後から葬儀にやってきたサチを含めた三人は、その妹に「鎌倉で一緒に住まない?」と誘う。しかし、父親の葬儀のシーンも、鎌倉での祖母の法要シーンも、前後のエピソードは描かれるが、葬儀や法要そのもののシーンは省かれていた。読経のシーンを描いても仕方ないと思ったのだろうか。

小津監督の「秋日和」は、原節子の夫の七回忌から始まる。娘(司葉子)も成人している。夫の友人たち(中村伸郎、北龍二)が「アヤちゃん、きれいになっちゃって」などと言っている。そこへ故人の兄(笠智衆)がやってくる。挨拶が始まり、揃って寺の座敷に向かう。座布団が並べられていて、皆、神妙な顔で正座する。読経が始まり、友人のひとり(佐分利信)が遅れてやってくる。北竜二と目を合わせ会釈する。中村伸郎が少し身を乗り出し、「遅かったじゃないか」と小声で言う。佐分利信は「ちょっとね」と答え、中村伸郎が「今、始まったばかりだ」と教える。佐分利信は「じゃあ、早すぎたかな」とつぶやく。それだけのやりとりだが、やっぱり小津作品は味わい深いなあと思わせてくれる。

主人公を未亡人に設定することが多かった成瀬巳喜男監督だが、葬儀や法要シーンはそれほど多くない。「女の座」(1962年)のヒロインの夫の三回忌のシーンが浮かぶくらいだ。東宝の女優陣総出演のオールスター映画だから、登場人物が多く複雑だ。東京オリンピックのための高速道路が敷地を通るといった話が出てくるし、渋谷のラーメン店から近いらしいから都内にあるのだろう、古くからある荒物屋(タバコも売っている)が舞台である。隠居状態らしい老夫婦(笠智衆と杉村春子)がいる。杉村春子は後妻だ。先妻の長女が三益愛子で、夫(加東大介)とアパートを経営している。死んだ長男の妻が高峰秀子で、彼女には中学生の息子がひとりいる。

次男(小林桂樹)は渋谷でラーメン店をやっていて、いつも不機嫌な妻(丹阿弥谷津子)に頭が上がらない。先妻の次女(草笛光子)は、実家の庭に離れを建ててお茶とお花を教えており金まわりがいい。杉村春子が産んだのは、三人の娘(淡路恵子、司葉子、星由里子)である。淡路恵子は三橋達也と結婚し九州にいたのだが、ふたりで仕事を辞めて実家で居候を始める。高峰秀子の妹が団令子で、彼女はホステスのアルバイトをしながら演劇をやっている。杉村春子は息子を置いて離婚し笠智衆と再婚したのだが、三益愛子のアパートに入居した男(宝田明)が成長した息子だとわかり、一家に波風が立つ。

三益愛子の娘が東宝のヴァンプ女優だった北あけみで、宝田明の部屋に入り浸ったりしている。血はつながっていない草笛光子が宝田明に一目惚れするのだが、宝田明は高峰秀子に好意を寄せるので話はややこしくなる。独身のふたりの娘(司葉子と星由里子)にからむのが気象庁に勤めている夏木陽介だ。星由里子は渋谷の映画館のチケット売場に勤めているのに、彼女が好意を寄せる夏木陽介は「生まれてから一度も映画を見ていない」という設定がおかしい。これだけ多彩な人物たちが、一堂に会するのが高峰秀子の夫の三回忌である。小津の「東京物語」(1953年)の葬儀シーンも同じだが、冠婚葬祭を終えた会食シーンでは親戚や家族の関係が鮮明になる。

最近の映画で、そんなシーンがあまりなくなったと感じるのは、やはり現実を反映しているからだろうか。地方から出てきて都会生活をしている核家族は、親戚間の冠婚葬祭に出席する機会がほとんどない。僕は祖父母の葬儀以外は、母に頼んで僕の名で香典を包んでもらい弔電を送るだけだった。まして、法要など出席したことはない。同時に頼る親戚もなく、妻の大きな手術のときも待合室で僕はひとりで待っていた。何かあったときに相談する相手もいなかった。六十を過ぎてリタイアし故郷で過ごすことが多くなった途端、昨年から葬儀や法要への出席が多くなった。

ずっとこちらで暮らしていたら、まったく違う人生だったのだなと改めて実感している。しかし、こちらで暮らしていたら伯父にも頻繁に会えたかもしれない。もっと満鉄時代の話を聞いておくのだったと、四十九日の読経を聴きながら後悔することもなかったかもしれない。延々と続く読経を聴いていると、若い頃の伯父の姿が浮かんできた。

2017年2月 2日 (木)

■映画と夜と音楽と…758 若き写真家が撮った永遠のスター


【ディーン、君がいた瞬間(とき)/エデンの東/理由なき反抗/ジャイアンツ】

●入場料を払って見にいっていた海外の写真家の展覧会

もう三十年近く前のことになるだろうか。写真家のデニス・ストックがジェームス・ディーンを撮った写真展を日本橋のデパートで見たことがある。ニューヨークの街角でロングコートを着てたばこを吸うジェームス・ディーン、故郷の農場で作業服でたたずむジェームス・ディーンなど、映画では見せない表情が新鮮だった。特にメガネをかけた姿が珍しく、自然な日常が写っている印象を受けた。そのとき、図録を買って帰り、ときどき見返していたが、数年前に写真集関係は処分してしまった。

僕は四十年の出版社勤務で三十年を編集者として過ごし、十年を管理部門で働いた。三十年の編集者生活のうち半分の十五年ほどは、カメラ雑誌の編集部だった。アマチュア向けのカメラ誌に合計で十数年、広告写真の専門誌に三年ほど在籍した。そんな関係から写真集や写真関係の書籍がかなりたまったのだ。写真集は購入したものもあるし、贈呈されたものも多かった。写真展にいくと必ず図録を購入したから、いつの間にか本棚ひとつが写真関係の書籍ばかりになった。

メーカー・ギャラリーは新宿や銀座にいくつもあり、週替わりで写真展が開かれている。それをすべて見るのは無理だったが、機会があれば見るようにしていた。入場料を払って見にいっていたのは、海外の写真家の展覧会だった。ロバート・キャパ、アンリ=カルチェ・ブレッソン、ロベール・ドアノー、アーヴィング・ペン、ダイアン・アーバス、エリオット・アーウィット、ヘルムート・ニュートン、サラ・ムーン、ロバート・フランクなどなど、である。そんな写真展では、必ず図録を買っていた。

デニス・ストックのジェームス・ディーン写真展もその流れで見にいったのだけれど、見にきている人たちがいつもの写真展とは違っていた。ジェームス・ディーンのファンらしき人々なのである。ジェームス・ディーンの映画が日本で公開されたとき、すでに彼は事故死していたこともあり、すでに伝説になっていた。一九五六年、僕はまだ五歳になっていない。ジェームス・ディーンに夢中になったのは、僕よりひとまわり上の年代の女性たちであり、「理由なき反抗」(1955年)のジミー(赤いブルゾンにブルージーンズ)に憧れた少年たちである。その写真展当時、彼らは五十代になっていた。

ジェームス・ディーンは一九三一年二月八日に生まれ、一九五五年九月三十日に二十四歳で亡くなった。「エデンの東」(1954年)「理由なき反抗」「ジャイアンツ」(1956年)の三本の主演作を遺した。事故死したのは「ジャイアンツ」の撮影が終了した直後のことだった。主演デビュー作「エデンの東」ではアカデミー賞候補になっている。若干二十三歳だった。僕はダクラス・サークの作品で、ワンシーンだけ出てきた端役のジェームス・ディーンを見たことがある。「僕の彼女はどこ?」(1952年)かもしれない。

●ニコラス・レイ監督のパーティに参加する若きデニス・ストック

カメラマンが主人公の映画はいくつか挙げられるが、実在の写真家を主人公にした作品はあまり思いつかない。最近では「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」(2007年)があるが、あれはアニー・リーボヴィッツ自身を撮ったドキュメンタリーだった。ニコール・キッドマンがダイアン・アーバスを演じた「毛皮のエロス/ダイアン・アーバス幻想のポートレイト」(2006年)なんて映画もあったけれど、「何だかな?」という感じである。若きデニス・ストックと「エデンの東」公開前のジェームス・ディーンを描いた「ディーン、君がいた瞬間(とき)」(2015年)は、短期間のふたりの交流を事実を基に描いており、僕は面白く見た。

一九五四年の暮れ、ニコラス・レイ監督のパーティにフラッシュを付けたカメラを首から提げて参加する若きデニス・ストックから映画は始まった。ニコラス・レイ監督に会ったデニスは、「この前の作品でスチールを担当したデニス・ストックです」と言う。スチールカメラマンのことなど覚えていない映画監督は「楽しんでいってくれ」と答え、横にいたナタリー・ウッドを紹介する。彼女はニコラス・レイ監督の次回作「理由なき反抗」のヒロイン役が決まっている。今は主演俳優の候補を選んでいるところだという。

パーティになじめず、ひとりでプールサイドに出たデニス・ストックは、そこで若い俳優のジェームス・ディーンと出会う。ジェームス・ディーンは「エデンの東」の試写会にデニス・ストックを誘い、試写を見たデニスはジェームス・ディーンが主演であることに驚く。ジョン・スタインベックの小説をエリア・カザンが監督した話題作である。公開されれば、一躍、ジェームス・ディーンは注目されるに違いない。無名の若い俳優が、ハリウッド・スターになるのだ。ジェームス・ディーンの独特な雰囲気やたたずまいが気に入り、デニス・ストックは被写体になってくれと依頼するが、ジェームス・ディーンは何だかんだとはぐらかす。

一方、ジェームス・ディーンは映画会社の支配を嫌い、「エデンの東」の宣伝のためのパブリシティをすっぽかしたりするので、勝手な行動をワーナー・ブラザースのジャック・ワーナー社長(ベン・キングズレーが必見)にとがめられる。「勝手なことばかりしていると、『理由なき反抗』の主役にはしないぞ」と恫喝するジャック・ワーナーは、いかにも映画が全盛だった五〇年代ハリウッドの帝王という感じである。しかし、ジェームス・ディーンは、従順に従うようなタイプではない。いい芝居だけをしたいという思いで、自由に生きている。また、恋人であるイタリア人女優ピア・アンジェリとの生活を楽しんでいる。

●ジェームス・ディーンの最後の誕生祝いに立ち会った写真家

デニス・ストックが撮った「エデンの東」公開直前のジェームス・ディーンの写真は、「ライフ」誌に「気難しい新スター」というタイトルで四ページわたって掲載された。それが掲載されるまでの二ヶ月ほどの物語が「ディーン、君がいた瞬間」で描かれる。それにしても、もう少し何とかならなかったのか、このタイトル。原題は「LIFE」で、たぶん「ライフ」誌と「人生」のダブルミーニングだろう。ジェームス・ディーンが育ったインディアナ州の町にふたりで赴くのが後半で描かれるのだが、そのとき「先週、誕生日だったね」と祖父母や叔父夫婦にお祝いされるので、その時期が二月中旬だったとわかる。

それが、ジェームス・ディーンの最後の誕生祝いになったことは、観客たちは知っているわけだ。このとき、二十四歳を迎えたジェームス・ディーンは、七ヶ月後に自動車事故で死んでしまうのである。彼の日常のシーンを捉えた写真も、おそらくデニス・ストックが撮ったもの以外にはほとんど残っていないはずである。雨のニューヨーク・タイムズスクエアでの写真、インディアナの故郷の農場での写真、いとこの少年と本を読んでいる写真、どれも僕には見慣れたものだったから、それを撮った瞬間が映画で描かれると、本当にこんな風だったのだろうなあと思えてくる。

ジェームス・ディーンの撮影を終え、マグナム・フォトのマネージャーと「ライフ」のビルの前で会ったデニス・ストックは掲載誌を受け取り、「次のテーマは何だ?」と問うマネージャーに「ジャズメンたちを撮りたい」と答える。デニス・ストックの未来の成功をうかがわせて映画は終わるが、その後に彼が撮影したジャズ・シーンは「ジャズ・ストリート」という作品集にまとまった。五〇年代のニューヨークは、モダン・ジャズの黄金時代である。チャーリー・パーカーがいて、新人のマイルス・デイビスがいた。バードランドを始め、ジャズクラブがいっぱいあった。

村上春樹さんが翻訳したビル・クロウの「さよならバードランド」という本がある。ビル・クロウは、五〇年代からジャズ・ベーシストとして活躍したミュージシャンである。その本は「あるジャズ・ミュージシャンの回想」とあるように、「ジャズ黄金時代のニューヨークで活躍したベーシストの自伝的交友録」なのである。表紙カバーは和田誠さんのイラストで、ニューヨークの街角を背景に大きなベースを黒いカバーに入れ、背中に背負って歩いているビル・クロウを描いている。そのイラストの基になっている写真を撮ったのが、デニス・ストックだった。

ニューヨークの早朝、巨大なベースを黒いカバーに包んで歩いているビル・クロウの写真は、ジャズメンたちを撮影したデニス・ストックの作品群の中でも有名な一枚だ。今ならネットで検索すれば、出てくるだろう。もちろん、ジェームス・ディーンを撮ったデニス・ストックの写真もネットで見られる。昔なら写真集を探したり、写真展にいかなければ見ることができなかった写真が簡単に検索できる。そのこと自体は、とてもよいことだとは思うけれど、写真家の著作権保護から考えると複雑な思いもしてくるのだった。

2017年1月26日 (木)

■映画と夜と音楽と…757 プリンセス・レイアは戦うヒロインだった



【スター・ウォーズ/スター・ウォーズ フォースの覚醒/ブルース・ブラザース/ハリウッドにくちづけ】

●メリル・ストリープは「友人で親愛なる去りしレイア姫」と言った

メリル・ストリープがゴールデン・グローブ賞での受賞スピーチでトランプ批判をしたことは世界的なニュースになったけれど、その最後は「私の友人で親愛なる去りしレイア姫がかつて言ったように、砕かれたハートをもってアートにしましょう」という言葉で締めくくられた。プリンセス・レイアことキャリー・フィッシャーは昨年の暮れ、十二月二十七日に飛行機の中で心臓発作を起こし、そのまま亡くなった。六十歳では早すぎる。「スターウォーズ・フォースの覚醒」(2015年)で久しぶりにレイア役としての姿を見たのに残念だ。

ところで、メリル・ストリープが「友人で親愛なる去りしレイア姫」と言ったとき、「ああ、そうか。メリル・ストリープは『ハリウッドにくちづけ』で、キャリー・フィッシャー自身を演じていたな」と僕は思い出した。メリル・ストリープはキャリー・フィッシャーよりかなり年上だと思っていたので、最初はふたりの結び付きがピンとこなかったのだ。調べてみると、メリル・ストリープの方が七歳年上だったけれど、女優として日本で知られたのはキャリー・フィッシャーの方が早かった。彼女は、日本でも公開前から大騒ぎになった「スター・ウォーズ」(1977年)のヒロインなのである。メリル・ストリープは、まだ「ディア・ハンター」(1978年)さえ公開されていなかった。

「スター・ウォーズ」の日本公開は、アメリカ公開の翌年一九七八年の夏だった。アメリカでの評判が凄くて、雑誌(「スターログ」など)が大々的に特集したりした。「キタキツネ物語」(だったと記憶している)が大ヒットして儲かったフジテレビの映画製作チームはジェット旅客機をチャーターし、スタッフ全員でアメリカまで「スター・ウォーズ」を見にいったという話まであった。待ちきれない人たちの間では「スター・ウォーズ」をアメリカまで見にいくことが流行し、帰国して自慢そうに映画について報告した。テレビに登場する映画リポーターと称する人たちも、「冒頭の宇宙船のシーンが凄い」とか、「ライト・セーバーという光るサーベルでの戦いが美しい」などと喋り散らした。

勤めて二年目、結婚して一年半の僕にはアメリカまでいく資金も時間もなかったから、そんな騒ぎを横目に見て「チッ、どうせ特撮を売り物にしたスペースオペラだろ」と皮肉な笑みを浮かべて切り捨てた。「子供だましみたいなものさ」と、あまり振りまわされないようにしていた。会社の先輩と後輩にSF映画好きがいて、あまりに騒ぐので反発したこともあったのだろう。しかし、社会現象になるほど騒がれれば、気にならないわけがない。翌年の夏休みを当て込んで公開された「スター・ウォーズ」は大ヒットしたが、僕は世間が静まり始めた頃に人目を忍んで(?)見にいった。そして、ファーストシーンから圧倒された。

銀河系を舞台にした正邪の戦いという物語の設定はシンプルなので、冒頭で背景を説明し、いきなり巨大な宇宙船の腹を見せるというハッタリは成功していた。あれで、観客は物語の中に引き込まれる。巨大な宇宙船に小さな宇宙船が引き込まれ、邪悪そうなダースベイダー(あの息と声!)が登場し、可憐なプリンセス・レイアが捕らわれる。プリンセス・レイア役に最後まで残ったのがキャリー・フィッシャーとジョディー・フォスターだったそうだが、日本ではほとんど無名だったキャリー・フィッシャーに決まったから、プリンセス・レイアの新鮮さが映画にマッチし、キャリー・フィッシャー=プリンセス・レイアになったのだ。

しかし、三年後、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」(1980年)が公開されたとき、三年間での容貌の変化に僕は戸惑った。少女の面影を残していたキャリー・フィッシャーは完全な大人の女性になったわけだが、プリンセス・レイアが初めて登場したときには僕はちょっと唖然とした。同じように、美少年の雰囲気を持っていたルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミルも、少年から大人になってしまい容貌が変わっていた。「おまえは、桜木健一か」と、僕はスクリーンに向かって突っ込んだものだ。テレビ「柔道一直線」で有名になった桜木健一も、その後は「仁義なき戦い」のチンピラ役が目立ったくらいで、あまり見かけなくなっていたけれど----。

●キャリー・フィッシャーは麻薬中毒を克服し文才を発揮して六十年を生きた

「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」と同じ年に作られたヒット映画「ブルース・ブラザース」(1980年)に出演したキャリー・フィッシャーは、強烈な印象を僕に残した。「おいおい、あれがプリンセス・レイアかい?」と思ったものだ。ジョン・ベルーシを機関銃で撃ちまくるクレイジーな元カノ役である。後に知ったのだが、キャリー・フィッシャーが麻薬におぼれることになったのは、もしかしたらこの映画でジョン・ベルーシと共演したことがきっかけになっているのだろうか。ジョン・ベルーシは薬物の過剰摂取で死んでしまったが、キャリー・フィッシャーは麻薬中毒を克服し、文才を発揮して六十年を生ききった。

キャリー・フイッシャーが自らの麻薬中毒になった経験と、世界中で誰もが知っているミュージカル・スターだった母親との葛藤を小説にして発表したのは、「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」(1983年)から六年後のことだった。日本で翻訳が出たのは一九八九年の晩秋である。朝日新聞の書評欄で紹介された「崖っぷちからのはがき」という本が、キャリー・フイッシャーが書いた自伝的な小説だと知って僕は驚いたものだ。その年の暮れ、僕は久しぶりにキャリー・フイッシャーをスクリーンで見た。彼女はヒロインの友人役だった。その映画「恋人たちの予感」(1989年)では、ヒロイン役のメグ・ライアンが輝いていた。

「崖っぷちからのはがき」は「ハリウッドにくちづけ」(1990年)として映画化され、キャリー・フイッシャー役をメリル・ストリープ、母親のデビー・レイノルズ役をシャーリー・マクレーンが演じ、新旧ふたりの名女優の演技合戦が話題になった。キャリー・フイッシャーは自ら脚本も書いた。監督はマイク・ニコルズ。母娘の複雑な関係、心理的なやりとり、お互いの葛藤などを細かく描写する名監督である。僕はデビー・レイノルズと言えば「雨に唄えば」のヒロインしか浮かばなかったが、彼女が人気歌手のエディ・フイッシャーと結婚しキャリー・フイッシャーを生み育てたことを、その映画を見て実感した。

ちなみに、父親のエディ・フイッシャーの結婚歴は凄い。エリザベス・テイラー、コニー・スティーヴンス、デビー・レイノルズの三人を妻にしている。美女ばかりだ。そんな父親と母親を持ったキャリー・フイッシャーは、ハリウッドのサラブレッドだった。プリンセス役としては、最適だったのではあるまいか。「スター・ウォーズ」でプリンセス・レイアを演じ、薬物依存から立ち直り、女優として仕事を続け、また、脚本の執筆も行った才女である。残念ながら十二月二十七日に六十で亡くなったが、母親のデビー・レイノルズも娘の後を追うように翌日の二十八日、突然に亡くなった。娘の葬儀の相談をしているときだったという。

昨年の暮れ、僕は毎日続いた訃報に驚いてばかりいた。キャリー・フイッシャーに続くデビー・レイノルズの死には、「娘が呼んだのだろうか」と思い、その翌日の二十九日、根津甚八の六十九歳の死を惜しんだ。石井隆監督作品「GONINサーが」(2015年)で別人かと思うほど容貌が変わってしまった根津甚八を見て、僕は目を疑った。それが、彼の最後の映画出演になってしまったのだ。唐十郎の紅テントに出ていた根津甚八を見たことがなかった僕は、「娘たちの四季」というテレビドラマで初めて彼を見て、何という存在感を見せる役者かと驚いたことを今も憶えている。長女役の夏圭子の相手のCМディレクター役だった。有名な遺書を残し自殺したCMディレクター杉山登志をモデルにしているのではないかと僕は思った。

●ヒュー・グラントが「最近のハリウッドは戦うヒロインばかり求められる」と嘆く

コメディ出演が多いトボケた二枚目ヒュー・グラントがアカデミー賞女優マリサ・トメイを相手役にして出演した「Re:LIFE~リライフ~」(2014年)は「ノッティングヒルの恋人」ほど長く愛される作品にはならないだろうが、ヒュー・グラントらしい演技が見られる楽しい作品だった。十数年前にアカデミー脚本賞を受賞した名作を書いたヒュー・グラントは、その後は鳴かず飛ばずで、今はまったく仕事がない。エージェントから遠い州のカレッジでシナリオ創作コースを教える仕事を紹介され、嫌々ながら生活のために講師を始めることになる。その映画の中で、ヒュー・グラントは「最近のハリウッドは、戦うヒロイン、強い女ばかりが求められる」と嘆く。そのセリフに僕は笑ってしまった。

ハリウッド映画で「強い女」と言われて、真っ先に浮かぶのが「エイリアン2」(1986年)のリプリーことシガニー・ウィーヴァーである。一作めの「エイリアン」(1979年)でも彼女は孤軍奮闘したったひとり生き残ったが、「戦うヒロイン」と言えば「エリイアン2」が強烈な印象を残す。少女をエイリアンにさらわれたリプリーが手榴弾や銃を装備するシーンでは、僕はスタローンの「ランボー」(1982年)やシュワルツネッガーの「コマンドー」(1985年)を連想した。監督のジェームス・キャメロンは戦うヒロインが好きらしく、「アビス」(1989年)のメアリー・エリザベス・マストラントニア、「ターミネーター2」(1991年)のリンダ・ハミルトンなどを創り出した。

しかし、ハリウッド映画のヒロイン像を変えたのは、「スター・ウォーズ」のプリンセス・レイアことキャリー・フィッシャーではなかったか。それまでのプリンセスは、男たちに守られるか弱い女性だった。強いヒーローと聖なる女性という構図である。七〇年代のウーマン・リブによってハリウッド映画におけるヒロインの描かれ方も変わり始めていたが、「戦うヒロイン」がはっきりと登場したのはプリンセス・レイアだったのではないだろうか。六〇年代後半から始まったニューシネマでは「弱い男」「泣く男」たちが描かれ、「自立するヒロイン」が登場した。しかし、シリアスなドラマが多く、スペースオペラのような作品で「戦うヒロイン」が登場するまでには至らなかった。

今も、僕は憶えている。ルークが宇宙船の狭い部屋に閉じこめられていたプリセス・レイアを救い出したとき、プリンセス・レイアは先頭に立って銃を構え宇宙船の中を走っていったことを。彼女はルークやハン・ソロを従えた戦うヒロインだったのだ。その流れは、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」のヒロインへとつながっている。プリンセス・レイアことキャリー・フイッシャーはハリウッドのサラブレッドであり、ハリウッド映画に多大な貢献をした。現在では六十年は短いけれど、メリル・ストリープに「親愛なる去りしレイア姫」と惜しまれる人生である。充実した人生だったのではないか。

2017年1月19日 (木)

■映画と夜と音楽と…756   いかがなものかな、大統領


【マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙/ディア・ハンター/恋におちて/マディソン郡の橋】

●「おまえのかーちゃん、でーべそ」という類の子供の喧嘩レベルの反論

ドナルド・トランプが好きになれない。というより、嫌悪を感じる。顔を見ると虫酸が走る。その言動は下劣で、下品で、見ている方が恥ずかしくなる。マルティン・ベックのシリーズに「唾棄すべき男」というタイトルがあったと記憶しているが、その言葉が浮かんでくる。野卑で、感情的で、子供っぽくて、差別的で、攻撃的で、とにかく僕が嫌いな要素をすべて体現しているかのようだ。人格高潔な人物が大統領になるとは限らないが、ニクソン、ロナルド・レーガン、ブッシュ(息子の方)にも増して僕が嫌いなアメリカ大統領が誕生してしまった。僕がアメリカ国民だったら、耐えられないだろう。カナダへ逃げ出したくなる。

メリル・ストリープもそう感じていたのかもしれない。ゴールデングローブ賞で功労賞的なセシル・B・デミル(代表作は「十戒」かな)賞を受賞したときのスピーチ映像を見たが、トランプの名前は出さず理性的な言葉を連ねていたものの、寸鉄人を刺すような批判だった。トランプが自分に批判的な記事を書いた記者の身体的障害をネタに嘲笑したことを批判し、彼女のスピーチに人々は聞き入っていた。人前で誰かを批判するのであれば、彼女のように人々の共感を得られるような言葉を選ぶべきだと僕は思った。聞いていても不快にならないし、深い説得力に充ちていた。感動的だった。誹謗・中傷・悪声・罵倒・罵詈雑言で相手を侮辱し、罵り続けるトランプとは大違いだ。

メリル・ストリープのスピーチがニュースで話題になると、トランプは例によってツイッターで下品な反論をしつこく続けた。「ハリウッドで過大評価されているメリル・ストリープ」というフレーズには僕もちょっと笑いそうになったけれど、相変わらずの下劣さである。「おまえのかーちゃん、でーべそ」という類の子供の喧嘩レベルの反論は、本人の知性レベルがゼロだと告白しているようなものではないか。もっとも、僕も昔からメリル・ストリープのことを「メリル・あたしうまいでしょ・ストリープ」と呼んでいて、その演技は鼻につくところがあるなと感じていたので、「過大評価されている女優」というフレーズに思わず笑ってしまったのだ。

しかし、僕がメリル・ストリープを「うますぎて鼻につく」ように感じ始めたのは最近のことだ。昔、杉村春子の演技に舌を巻いたが、メリル・ストリープに対するものもそれに近い。何をやっても評価され、何度もアカデミー主演女優賞を受賞した女優である。最近では「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(2011年)を見て、嫌みなくらいうまいなあ、と思ったものだ。もっとも、「クレイマー、クレイマー」(1979年)でアカデミー助演女優賞、ウィリアム・スタイロンの小説の映画化「ソフィーの選択」(1982年)でアカデミー主演女優賞を受賞した頃、ハリウッド一番の名女優だなと素直に僕は思っていた。そう言っては何だが、それほどの美女ではない。演技力が彼女の武器だった。

一九四九年生まれのメリル・ストリープは、僕の兄と同い年になる。日本で言えば団塊の世代、アメリカではベビーブーマーのひとりだ。僕とは二歳しか違わないのだが、昔からずっと年上の名女優という気がしていた。映画デビューは「ジュリア」(1977年)だそうだが、あの映画では、女優はリリアン・ヘルマン役のジェーン・フォンダとジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーブしか記憶に残らない。男優では、ダシール・ハメット役のジェーソン・ロバーツが忘れられない。しかし、メリル・ストリープは何の役だった? という感じだ。僕が初めて、メリル・ストリープという女優を記憶に刻んだのは、「ディア・ハンター」(1978年)だった。

●公開前から非常な評判になっていた「ディア・ハンター」

「ディア・ハンター」の日本公開は一九七九年三月だったけれど、公開前から非常な評判になっていた。当時は、ずいぶんテレビで映画紹介番組があった。僕は、公開前にイヤになるくらいロシアン・ルーレットのシーンを見たものだ。ベトナム戦争に従軍したロバート・デ・ニーロやクリストファー・ウォーケンなど故郷の仲間たちがベトコンの捕虜になり、河を利用して作られた水牢に入れられている。ひとりひとり捕虜が連れ出され、ロシアン・ルーレットを強要され、ベトコンたちの賭の対象にされる。水牢に死んだ捕虜の体が無造作に投げ入れられ、彼らの恐怖は極限に高まっている。やがて、デ・ニーロとウォーケンが連れ出され、ロシアン・ルーレットを強要される。

アメリカ軍がサイゴンから撤退し、ベトナム戦争が終結してから、まだ四年も経っていなかった頃だ。「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)に参加していた人たちは多かったし、ベトナム戦争ではアメリカ軍が悪役だった。六〇年代末、「ホ、ホ、ホーチン」と北ベトナムの指導者ホーチミンを讃える歌を、有名なフォーク歌手が歌っていたくらいである。だから、左翼系知識人の中には、「ベトコンがあんな残酷なことをするわけがない」と主張し、「ディア・ハンター」を反動映画扱いする人たちもいた。また、「米帝(米国帝国主義)のお先棒を担ぐ映画だ」と批判する人もいた。

しかし、映画の力は圧倒的だった。三時間のあいだ、僕が映画館の椅子の背もたれに背中をつけたのは十分もなかったのではないか。ずっと身を乗り出し、スクリーンを食い入るように見ていた。特にロシアン・ルーレットのシーンは手を強く握りしめていたのを憶えている。「いい映画」や「好きな映画」にはけっこう出会えるが、「すごい映画」にはなかなかぶつからない。「ディア・ハンター」は、極め付きの「すごい映画」だった。「ゴッドファーザーPARTII」(1974年)や「タクシードライバー」(1976年)ですでにスターになっていたロバート・デ・ニーロのうまさを改めて実感し、初めて見たクリストファー・ウォーケンの繊細さと青い目に魅了されたものだった。

メリル・ストリープの出演場面は、それほど多くはなかった。前半の一時間近くは故郷の田舎町での結婚式が延々と続くけれど、メリル・ストリープとクリストファー・ウォーケンが淡い恋仲で、ロバート・デ・ニーロの複雑な感情が描かれる。その後、唐突にベトナムの戦闘シーンになり、ジャングルでの戦いが続く。やがて、捕虜になり、何とか生還するが、クリストファー・ウォーケンは行方不明となり、ロバート・デ・ニーロは英雄として故郷に帰る。しかし、町の入り口に張られた自分の帰還を歓迎する横断幕を通り過ぎ、デ・ニーロは歓迎式典に顔を出さず、メリル・ストリープと再会する。そのときの微妙な感情の交錯が印象に残る。美人じゃないけど、うまい女優だなと僕は思った。

あれから三十六年が経ち、こんな大女優になるとは想像もしなかった。「ディア・ハンター」出演のとき、すでに三十近かった彼女は、現在、六十七である。「ディア・ハンター」で共演したロバート・デ・ニーロは、一九四三年生まれで、彼女よりは六歳上。今年、七十四歳になる。その後、ふたりはハリウッドを代表する演技派になり、役作りのために自在に太ったりやせたりするデ・ニーロは「演技オタク」とまで言われ、メリル・ストリープはすれっからしの映画ファンである僕などに、「嫌みなほどうまい」とか「うますぎで鼻につく」などと言われるようになった。しかし、お見逸れしました、と僕は謝るしかない。ゴールデン・グローブ賞の数分間のスピーチは、何にも勝る名演技でしたと----

●「恋のおちて」のメリル・ストリープの葛藤する演技も見事

「ディア・ハンター」の後、メリル・ストリープとロバート・デ・ニーロが本格的に共演した作品に「恋におちて」(1984年)がある。家庭のある中年男女の恋愛を描いて秀逸だった。デビッド・リーン監督の「逢びき」(1945年)を下敷きにしているという話だったが、あまりそんな気はしなかった。八〇年代のアメリカだから、ヒロインはグラフィックデザイナーという仕事をしているし、ふたりが逢い引きを続けるのはニューヨーク・マンハッタンに通う通勤列車の中である。ふつうの男がふつうの女性に恋をして、次第にのっぴきならないところまで高まり、結局、家庭と恋のどちらをとるかまで追い込まれる。ただのラブ・ロマンス作品にならなかったのは、デ・ニーロとメリル・ストリープ主演だからだろう。

恋する女の切なさが観客の心に響いてくるのは、ベストセラー小説をクリント・イーストウッドが映画化した「マディソン郡の橋」(1995年)である。このとき、メリル・ストリープは原作のヒロインより実年齢は若かったが、初老の女性の揺れる心理を表現して絶妙の演技を見せた。監督のイーストウッドのうまさもあるのだが、夫とヒロインが乗る車の後ろにイーストウッドのピックアップトラックが信号で停車するところは、映画史に残る名シーンである。一言もセリフはなく、それぞれの車に乗る男と女の表情、ウィンカの点滅、車のドアの取っ手、信号のアップなどが交錯し、ふたりの心理を表現する。結局、ヒロインは車を降りず右折し、男は左折して別れてゆく。

その「マディソン郡の橋」に劣らず、「恋のおちて」のメリル・ストリープの葛藤する演技も見事だ。ふたりはマンハッタンに逢い引きのための部屋を借り、結ばれるために部屋にいく。しかし、夫と子供のいるメリル・ストリープは家庭を裏切れない。デー・ニーロの方も妻と子供の顔がちらつく。ふたりは何もせずに別れるが、デ・ニーロの様子をいぶかしんだ妻は問い詰め、「でも、何もなかったんだ」と言い訳するデ・ニーロに「なお、悪いわ」と言い返す。彼女は夫を許すことができずに家を出ていく。そんなものかなと僕は思い、妻に正直に話さない方がいいこともあるのだと学んだ。当時、僕は結婚して十年、幼いふたりの子供がいた。「恋におちて」のような状況ではなかったが、デ・ニーロが演じたふつうの男には、なんとなく共感したものだった。

そのデ・ニーロも昨年のアメリカ大統領選挙期間中、ドナルド・トランプの女性蔑視の会話が公開された後、「私はトランプの顔を殴ってやりたい」と発言し、世界にニュースとして流れた。そんなストレートなコメントをしたデ・ニーロに、僕は喝采を送ったものだった。僕だって、トランプの顔を殴りたくなったし、今だって殴りたくなる気分はおさまっていない。先日の記者会見を見ていて、さらに嫌いになった。というより、あきれ果てたというべきだろうか。トランプを見ていると、世界は悪い方にしか向かっていない気分になってくる。メリル・ストリープが発言したくなった気持ちがよくわかった。彼女にとっては、自分の国の大統領なのだから----

2017年1月12日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」-------夜間高校の時代・後編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■高校進学が夢だった----------------夜間高校の時代・後編

「キューポラのある街」では、主人公ジュンの高校進学の問題が大きなテーマです。ジュンの家は、父親が埼玉県川口の鋳物工場で働いていましたが、ある日、クビになります。父親がクビになると、その日から暮らしが成り立たなくなるようなその日暮らしです。母親は家で内職に励んでいますが、大した収入にはなりません。そういえば、当時は多くの家で母親が内職をしていましたね。

貧乏人の子沢山と昔から言われますが、中学三年生のジュンを筆頭に、小学生のタカユキ、その下に次男がいるのに、父親がクビになった日、母親は四人目の赤ん坊を生みます。父親は後に水戸のご老公になる東野英治郎です。母親は杉山とく子という地味な脇役女優が起用されました。

小学生のタカユキを演じたのは、この映画で名子役と言われるようになった市川好郎です。彼は「いつでも夢を」にも、浜田光夫の弟役で出ています。大人になっても東映のやくざ映画などに出演していましたが、いつの間にかいなくなりました。子役は大成しないといいますが、坂上忍はなぜかブレイクしています。

ジュンはスーパーマンというあだ名の担任教師に、「高校はどうするんだ」と訊かれ返事に困って沈黙します。教師は「何か困ったことがあったら、先生に話すんだぜ」と優しい言葉をかけます。先頃亡くなった加藤武の若き日の姿です。若いときもごつくて、あまり変わりません。加藤武や小沢昭一は今村昌平と麻布中学で同級生だったこともあり、今村一家ですからこの映画にも出演したのでしょう。小沢昭一などワンシーンに登場するだけで、ほとんどカメオ出演です。

当時、鳩を飼育することが流行しました。恥ずかしながら私も兄と一緒に二階の外に鳩小屋を作り、鳩を何羽か飼っていました。「キューポラのある街」でもタカユキと弟が鳩を飼育しています。遠くへ連れて行って、鳩を放つという訓練をしています。次第に遠くしていくのです。

タカユキは学校で禁止されている鳩の売買をして小遣い稼ぎをしています。その売買のトラブルが元で、高校生に屑鉄の盗みをさせられるというエピソードがあります。それを知ったジュンが相手と話をつけるのですが、その時に鳩一羽の値段が900円です。ジュンは分割で返すと交渉します。

当時、900円は子供にとって大金です。この映画より2年ちょっと早く公開された大島渚監督の監督デビュー作「愛と希望の街」(1959/11/17公開)は、オリジナルのタイトルが「鳩を売る少年」です。冒頭、街角で靴磨きに並んで鳩を撃っている中学生がいます。その貧しさに同情したブルジョアの女子高生が鳩を買おうとして「800円」と言われ、「あら、高いのね」と思わず口にします。

少年は「デパートで買うと1000円はします」と答えます。デパートで鳩を売っていたのですね。この「愛と希望の街」も貧しい母子家庭の少年の高校進学問題が大きなテーマでした。「愛と希望の街」の少年は鳩を売った金で食料品を買います。八百屋の店先に、「タマネギひと山20円」「ソーセージ1本15円」と出ています。

鳩の話をつけた後、ジュンとタカユキは中華屋で食事をしますが、その時に「あたい、高校いくよ。どんなことがあっても」と宣言します。その後、ジュンが志望高校を見にいくシーンがありますが、その時の吉永小百合の表情を見ると、「高校進学が夢だった」時代があったことがよくわかります。

父親は仕事がなくやけ酒ばかり飲んでいます。ある夜「ダボハゼの子はダボハゼだ。中学出たら、みんな働くんだ」と父親は怒鳴ります。しかし、「あたいは、タボハゼじゃないよ」とジュンは、自分の人生を切り開こうと努力します。

ところが、父親が復職し、ジュンが高校にいけるようになった時、ジュンは父親に頼らず自立して学ぶために、大きな会社の工場で働きながら定時制高校に通う道を選びます。「そんなこと言ったって夜間じゃ----」と言う父親や浜田光夫を説得します。定時制高校が肯定的にとらえられています。

これは「いつでも夢を」も同じで、勤労学生をたたえる風潮が当時あったことの証明でしょう。偉いな、彼らは----という雰囲気でしょうか。ちなみに鋳物工場で働きながら組合活動をやっている浜田光夫は、高校にいけなくてグレた過去を持っています。

「キューポラのある街」を現在の視点で見て違和感を感じるのは、朝鮮人問題かもしれません。ジュンと仲のよい同級生ヨシエと、タカユキの子分のサンキチは姉弟です、父親は在日朝鮮人で、母親は日本人です。ジュンの無学な父親は「朝鮮人とつきあうな」と頭ごなしに言い、ジュンの反発を買います。時代は北朝鮮の帰国運動の頃で、新国家建設のための帰国運動が盛り上がっています。

当時、北朝鮮は「労働者の地上の楽園」でした。ヨシエたちも北朝鮮へ帰国することになります。父親とヨシエとサンキチが出発するシーンが、この映画の大きなヤマ場で、公開当時の観客を感動させました。「新国家建設中だからビー玉なんかねぇだろ」と言いながらタカユキがサンキチに餞別のビー玉を渡すのは笑えます。フィクションですが、この人たちは、その後、どうなったのか、北朝鮮の実態を知った今は心配になります。

「いつでも夢を」は、工場の健康診断シーンから始まります。工員たちが我先にと診察室に向かいます。町医者の出張健診です。助手として娘のひかる、吉永小百合がくるので工員たちは騒いでいるのです。ひかるは「我が町の太陽」と呼ばれる明るい美しい娘。人気者です。行員のひとり勝利、浜田光夫が「ぴかちゃん、昨夜、学校休んだだろ」と言い、ふたりが定時制高校の同級生だとわかります。

健診の帰り、父親を荷台に乗せて自転車で走っているとき、乱暴な運転のトラックとぶつかりそうになり、怒鳴ってきた運転手、橋幸夫に吉永小百合は立て板に水の口調で啖呵をきります。よくある設定ですが、橋幸夫はこれでいかれてしまいます。

同級生の浜田光夫と橋幸夫の恋の鞘当てめいたものが始まるわけですが、中卒で働いているトラック運転手の橋幸夫は、働きながら定時制高校で勉強している浜田光夫を尊敬します。その時、「夜学」と口を滑らせて、浜田光夫に「定時制」と訂正されます。

定時制高校は四年です。浜田光夫は高卒資格を取り、大企業に入社して背広で仕事をするのが夢です。家は貧しくて、教育がないばかりに自分も職工風情にしかなれなかったことを悔やんでいます。強烈な上昇志向、大企業志向を発散させます。

吉永小百合は、そんな浜田光夫に「幸せってそんなことじゃないと思う」と反論し、授業の終わった後の教室で生徒全員を巻き込んだ議論が起こります。体の弱い松原智恵子も加わります。

その後、生徒たちが夜の道を「寒い朝」を歌いながら帰るところは、僕が好きなシーンです。先頭に自転車を押した吉永小百合、並んで浜田光夫、すぐ後ろを松原智恵子が歩きます。引いたショットになると、背景に巨大なコンビナートのような工場が映ります。巨大な煙突から煙が無防備に出ています。

「キューポラのある街」もそうでしたが、大工場が肯定的に描かれます。そこは労働者の生活を向上させてくれる「夢の工場」のような描かれ方です。まだ、公害問題などなかった時代の脳天気な描き方というのは、その後を知っている現在の視点からの批判になります。とにかく「いつでも夢を」の工場を背景にして全員で歌いながら帰るシーンは、理屈抜きで感動させます。

昭和38年の正月映画です。終戦から18年。明るい太陽のようなひかるにも暗い過去があることがわかります。彼女は戦災孤児。育ててくれた人も死に、目ばかりギョロギョロさせていたとき、和尚の紹介でやもめの町医者の養女になったのです。吉永小百合自身、東京の下町が大空襲にあった昭和20年3月10日の三日後に生まれています。

もし、吉永小百合が三日早く下町に生まれていたとしたら、生まれてすぐに戦災孤児になっていた可能性はあるわけです。もっとも、生後すぐの赤ん坊は生き残れなかったかもしれませんが。このように、大ヒット曲を元にした明るい調子の歌謡映画にも、戦争の影がさすのは、当時の映画ではよくあることでした。

そんな時代から、半世紀が過ぎました。我々の生活は豊かになったのでしょうか。貧しくて進学できないという人はいなくなったのでしょうか。今は高校進学は100パーセントに近くなっているでしょうが、中退も多いし、いじめの問題もなくなりません。大学進学、あるいは専門学校への進学者も増えています。

だからといって、経済的理由で希望の学校へいけない人もまだ存在しています。格差社会と言われるようになって、収入格差が教育格差になり、生涯賃金の差となる、などとも言われています。東大性の親の年収調査をしたら、裕福な家庭ばかりだったとか、家庭の収入と教育の関係は未だに大きいようです。奨学金の返済も滞ったり、卒業しても教育ローン返済に苦しんでいるという話も聞きます。

それでも、半世紀前よりはましになっていると慰めるより仕方がないのでしょうか。

ちなみに、「いつでも夢を」の監督は野村孝です。「いつでも夢を」と同じ年に石原裕次郎主演「夜霧のブルース」(1963年)という秀作を撮り、翌年、隠れた名作「無頼無法の徒 さぶ」(1964年)を撮ります。山本周五郎の原作を小林旭、長門裕之、浅丘ルリ子で映画化したものです。

映画ファンに最も人気があるのは「拳銃は俺のパスポート」(1967年)です。「拳銃」と書いて「コルト」と読ませます。宍戸錠主演の殺し屋映画で、最後の埋め立て地でのひとり対大勢の対決シーンは伝説になりました。ユーチューブで、そのシーンだけは見られます。おすすめします。野村監督は、2015年の5月5日に88歳で亡くなりました。

2017年1月 5日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」------夜間高校の時代・前編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■高校進学が夢だった----------------夜間高校の時代・前編

夜間高校、夜間中学というものがありました。今もあるのでしょうか。古い人は「夜学」と言います。「いつでも夢を」(1963年)という映画の中で、「夜学」と言ったトラック運転手の橋幸夫に、「定時制高校」と呼び方を訂正する定時制高校生の浜田光夫が登場しますが、「定時制」という呼び方が昭和三十年代後半には定着しました。大学は「定時制」とは言わず、「一部・二部」という呼び方ですが、それはいつ頃からでしょうか。吉永小百合は仕事が忙しく、確か早稲田大学の第二文学部卒業だったと思います。

夜間中学は昭和26年(1951年)7月16日に初めて開校します。東京都足立区立四中で、入学式には四人しかいませんでしたが、9月19日には定員いっぱいの100人になりました。戦後6年、当時は教育に無理解な親が多く、貧しい家にとっては子供も一家の労働力でした。

特に足立区は2000世帯のスラム街と貧農、零細な商工業者が多かったのです。東京都教育委員会は「未就学生徒の対策に他によい方法がないので」と認可しましたが、中学は義務教育というタテマエを重んじる文部省は設置に反対をし認めておらず、現在まで黙認という形を取っています。

教育は、貧困によって敗北します。貧しい家の子供たちは、子供のうちから働き金を稼ぐことを強いられます。したがって、進学の問題は貧しい家の子供たちにとって、大きな夢となります。昭和三十年後半までは、中学を出たら働く子供たちが大勢いました。

高度成長期、彼らは「金の卵」と呼ばれましたが、結局は単なる労働力としてしか見られませんでした。しかし、東京オリンピックが開催され、高度成長が加速された頃、高校進学率が70パーセントを超えます。僕が高松市立桜町中学を卒業したのは昭和42年3月でしたが、その時、50人ほどいたクラスで就職したのは一名だけでした。

僕は中学でバスケット部にいたのですが、一年先輩でキャプテンをつとめていた人が高校受験に失敗して高校の定時制に入りました。僕が高校に入ったとき、一年定時制に通っていた彼は全日制に改めて入学し、僕と同学年になりました。当時、定時制は働きながら通う人もいたのでしょうが、そういう受験浪人の人の受け皿になりつつあったことも事実です。

今回は「高校進学が夢だった頃 夜間高校の時代」と題して、昭和を振り返ってみたいと思います。そのためのテキストは「いつでも夢を」と「キューポラのある街」です。どちらも吉永小百合主演です。「キューポラのある街」は昭和37年、1962年4月8日公開。浦山桐郎監督のデビュー作で、兄貴分の今村昌平が脚本に協力しています。吉永小百合が多くの賞に輝いた作品です。これで吉永小百合は女優になったと言われました。

余談ですが、浦山監督は作品数が少ないので有名で、「キューポラのある街」の後、和泉雅子主演「非行少女」(1963年)を撮り、六年後に三作目「私が棄てた女」(1969年)を発表し、また6年間何も作っていません。

結局、55年の人生で監督作はアニメを含めて9本です。劇場映画の最後は吉永小百合の『夢千代日記」映画版でした。浦山監督を恩師と言いつづけた吉永小百合ですが、映画の「夢千代日記」で夢千代が死ぬ時の臨終のセリフについては意見が対立し、吉永小百合は譲らなかったそうです。

「夢千代日記」は早坂暁脚本でNHKでシリーズが何度か放映された、吉永小百合の代表ドラマです。第一シリーズは林隆三だったかな、次のシリーズは松田優作、確か石坂浩二が出たシリーズもあったはずです。毎シリーズ、主要な役で男優が出ます。

夢千代は胎内被爆者で、映画では発症して死に至ります。その時、浦山監督は夢千代に「ピカが憎い」と言わせようとし、長く夢千代を演じてきた吉永小百合は「夢千代は絶対にそんなセリフは言いません」とがんばった。夢千代ファンだった僕もそう思います。夢千代はそんな性格の人じゃない。結局、監督と主演女優は妥協し、完成した映画では夢千代は「ピカが----」と言って死にます。「憎い」は言わなかったのです。

私は、一度だけ、浦山監督と呑んだことがあります。何しろ、有名な酒乱ですから、戦々恐々として呑んでいました。1980年か81年、もう三十五年近く前のことです。フリーライターの人と三人でした。いろいろ話を聞きたかったのですが、僕が勘定を持たなければいけない場だったのと、酒乱の伝説におびえてロクに話を憶えていません。今から思うと、せっかくの機会だったのに残念でした。

さて、吉永小百合は、昭和37年、橋幸夫とのデュエットで「いつでも夢を」をヒットさせ、その年の大晦日にレコード大賞を受賞します。翌年の正月1月11日に「いつでも夢を」が公開されました。昭和20年3月13日生まれの吉永小百合、17歳の一年間は彼女にとって記念すべき年になりました。

「いつでも夢を」も定時制高校が舞台になります。「キューポラのある街」で定時制高校に進むことにしたジュンですが、「いつでも夢を」では父親の病院を手伝いながら定時制高校に通うヒカルとして登場します。

昭和37年、まだ多くの若者たちが経済的理由から定時制高校で学んでいました。文部科学省の資料によると、高校進学率は昭和25年は42.5パーセント、昭和29年に50パーセントを超え、昭和36年には60パーセント、ということは10人の内4人が中学を卒業して働いていたことになります。

昭和40年に70パーセント、昭和45年には80パーセントを超え、昭和50年には91.9パーセントになります。男女別に見ると、昭和35年には男子59.6パーセント・女子55.9パーセントと3.7パーセントの開きがありましたが、昭和44年以降は女子が男子の進学率を上回ります。昭和50年には男子91パーセント、女子93パーセントで逆転します。

2016年12月29日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」------親子断絶の時代・後編



年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■昭和28年に封切られた二本の映画------親子断絶の時代・後編

昭和28年、「東京物語」より五ヶ月早く公開された木下恵介監督の「日本の悲劇」という映画がありました。小津、木下といえば松竹の二大巨匠です。中井貴一のお父さん、佐田啓二は小津映画にも木下映画にも出演しかわいがられた俳優ですが、佐田啓二と大船撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の娘・益子が結婚するときには、小津安二郎と木下恵介が仲人をつとめました。ふたりとも生涯、独身だったのです。木下恵介にはゲイ疑惑がありますが、小津安二郎には愛人の芸者がいたという証言もあります。

川崎長太郎という私小説作家がいて、彼は小田原の芸者に惚れて、彼女との交流を何篇かの小説にしているのですが、その中に大津監督という人物が登場します。一説によると、川崎長太郎は小津安二郎と芸者を取り合って振られたということですが、その恨みから小説に書いてしまったのでしょうか。私は昔、その小説を読みましたが、小説としてよくできていたという印象しかありません。

さて、木下監督の「日本の悲劇」も「親子の断絶」「年老いた親と成人した子供たち」の問題を描いた、それも強烈にセンセーショナルに描いた映画でした。タイトルも「日本の悲劇」と大仰なものですが、映画は冒頭に当時のニュースフィルムを編集して流し、政治の貧困や社会的課題を声高にメッセージします。公開当時、「東京物語」より「日本の悲劇」の方が衝撃を与え、高く評価されました。

東大を出て松竹に入社し、最初に「東京物語」のフォース助監督としてつき、大島渚などと共に松竹ヌーヴェルヴァーグのひとりとして何本かの映画を監督し、後に作家となって直木賞を受賞する高橋治が、「絢爛たる影絵」という小津安二郎を描いた長編で、こんなことを書いています。

----昭和二十八年、六月二日の夜、私は大船駅のフォームに座っていた。何本も電車が来ては発車していった。だが、私には乗って帰ろうという気が全く起きないのだ。いや、その気力もなかったといった方が正しいかもしれない。それはその日撮影所で試写を見てきた一本の作品にとことん打ちのめされたからに他ならない。木下恵介、脚本、監督「日本の悲劇」である。

その後、高橋治は映画評論家の佐藤忠男さんの批評を引用します。
----木下恵介の「日本の悲劇」は、「東京物語」より露骨に息子と娘に頼り切っている母親を、息子と娘が冷酷に捨ててしまう話である。木下恵介は、愛情にみちみちた家族の映画を何本もつくったことによって大衆的な名声を得たが、彼の描く家庭は、しばしば、社会の荒波の中で解体の危機にさらされているものであった。家族の結びつきのもろさを暗示することによって、逆に、その貴重さをきわだたせるということは、日本のすぐれた庶民映画の基本的な方法であった。

その後、高橋治は、こう続けます。
----「日本の悲劇」を高く評価するのは佐藤だけではない。
「思い出すよ、あの晩のことは。しんどかったな。酒を浴びるほど呑んだけど酔えない。なに考えてるかっていえば、大船やめて、荷物まとめて故郷へ帰ろうかっていうことばっかりだ。このまま撮影所にいて、一生かかったってあれ以上のものは作れっこないと思ったものな。六月二日だ。日まで覚えてる」篠田正浩もそういう。

ちなみに、高橋治は「風の盆恋歌」が代表作で、おわら風の盆を全国的に有名にした人です。その後、「風の盆恋歌」という歌もできて、誰にでも知られるようになりました。

さて、高橋治や篠田正浩にそれほどの衝撃を与えた「日本の悲劇」は、どんな作品でしょうか。日本の現状を大上段に断罪するようなニュース映像が流れた後、熱海の旅館街が映ります。旅館の二階で宴会が行われていて、酌婦の嬌声なども聞こえてきます。旅館の玄関でギターを弾いて歌っている流しがいます。何と佐田啓二です。彼は旅館の仲居である春子に呼ばれて、二階にきて酔った客の注文に応じて歌います。春子は客にもたれたりして、だらしない姿を見せます。それが、現在の春子です。

春子を演じるのは、初めて主演に抜擢された望月優子です。彼女は、この映画だけで映画史に残りました。戦争未亡人の春子は、戦後の混乱の中、闇屋をやったりして、息子と娘を育ててきました。長女の歌子を演じるのは桂木洋子です。当時のアイドル女優で、いろんな映画に出ています。音楽家の黛俊郎と結婚して引退したとき、涙したファンは多かったといいます。

息子は田浦正巳です。俳優座養成所で仲代達矢と同期でしたが、仲代より先に売れました。仲代は翌年の「七人の侍」の道を行く浪人でほんの一瞬しか映らないような役をやっていますが、それより一年前に「日本の悲劇」の重要な役で出演しました。他にも、いろいろ出ていた人でしたが、いつの間にか田浦正巳は消えてしまいました。仲代達矢が八十をとっくに過ぎた今も現役の役者をやっているのを考えると、人生は長いと感じます。

何かというと「苦労して育てた」と言う春子ですが、子供たちは小さい頃に母の仕事先を訪ねたとき、男たちに媚びを売るだらしない酌婦の姿を見て以来、母を嫌悪し恥じています。今もべたべたと子供たちを頼る母は、うとましい存在です。「おまえたちを苦労して育てた」と言われると、うんざりし、つい母親をうとんじてしまいます。そんなとき、医学生である息子には養子話が起こります。大きな病院の院長から養子になって跡を継いてほしいという話で、息子はすっかり乗り気です。

そんな現在の話の間に、苦労した母の昔のエピソードが描かれます。春子は汚いこともやったし、男にもだらしなかったし、闇屋時代には法律にそむくこともやった。きれいごとでは生きてこれなかったと春子は思っていますが、子供たちはそんな春子に反発を感じるし、恥じることも多かったのです。今の春子に優しくしてくれるのは、旅館の板前の高橋貞二と流しの佐田啓二だけです。

ある日、娘の歌子が妻子持ちの男と駆け落ちし、相談に東京の息子のところを訪れますが、すでに大きな病院の院長宅で広い自室を与えられて暮らしている息子は、早く養子の手続きをしてほしいとしか言いません。絶望して帰路に就いた春子は、乗換駅(湯河原駅)のホームで呆然とベンチに座ります。

やがて列車が近づいてきたとき、春子は衝動的に飛び込んでしまいます。このシーンは衝撃的で、本当に飛び込んでいるように見えます。映画の衝撃が強かったのは、このシーンの驚きもあったのでしょう。望月優子は「死んでもいい」と思いながら決死の撮影をしたと、後に自伝で告白しています。

「日本の悲劇」は「東京物語」の五ヶ月前の公開です。小津安二郎も六月二日の撮影所内の試写を見ています。この日、小津は日記に「木下恵介の『日本の悲劇』の試写を見る。野心作ならむも一向に感銘なく、粗雑にして、すの入りたる大根を噛むに似たり」と書いています。いかにも小津らしいですね。しかし、「日本の悲劇」が小津に何らかの影響を与えたことは間違いないと思います。

子が親を棄てること、親と子の断絶、家族の崩壊、そういったテーマを「おれはあんな風には描かない」と思ったのかもしれませんが、テーマとしては同じものを描いています。「日本の悲劇」があったから、「東京物語」は、あんな物語になり、あんな描き方になり、普遍的な価値を得たのではないか、そんな風に思います。

2016年12月22日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」-親子断絶の時代・前編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■昭和28年に封切られた二本の映画------親子断絶の時代・前編

日本映画のオールタイムベストワンに選ばれたり、海外ではイギリス映画協会が10年ごとに選出する「映画監督が選ぶベストテン」で2002年度に一位に選ばれるなど、高い評価を受けているのが小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)です。最近も山田洋次監督が「東京家族」というタイトルでリメイクし、小津監督にオマージュを捧げました。

私は日本映画のベストワンとしては、「東京物語」、成瀬巳喜男監督の「浮雲」のどちらを挙げるか迷うところですが、ベスト5なら「東京物語」「浮雲」「幕末太陽傳」「秋津温泉」などを迷わずに選びます。他に黒澤明作品を一本くらい入れるかもしれません。

「東京物語」は昭和28年、1953年11月3日に公開されました。日本が独立し、GHQの検閲がなくなって一年半です。黒澤明監督の「七人の侍」は翌年の四月公開ですから、「東京物語」公開時にはまさに撮影真っ盛り。当時、日本の映画界は観客も増え続けており活気を呈していました。

昭和28年は、どんな年だったか、検証してみましょう。

1月17日付けの朝日新聞で「意表に出る演技、代表的アプレ芸人」と紹介された芸人がいます。トニー谷です。これがマスコミ初登場でした。この後、トニー谷は日本中の人気者になります。「ざんす、ざんす、さいざんす」という言葉遣いも流行しました。そろばんをギターのように抱えたりしてチャカチャカ鳴らして踊る、変な芸人でした。

私が憶えているトニー谷は、ずっと後にテレビ「アベック歌合戦」の司会をやっている姿です。「あなたのお名前なんてぇーの」とか、「そもそもふたりの関係は?」と歌い踊りながら質問します。それに対して出演したアベック(今ならカップル?)が、「恋人同士でございます」なんてヘンな節をつけて答えます。舟木一夫と松原智恵子が主演した映画では、この番組に出るふたりが見られます。それくらい全国的に有名でした。ただし、今見ると、ちょっと恥ずかしいですね。

1月9日には今井正監督の「ひめゆりの塔」が公開され、大ヒットします。GHQの検閲があった占領中には描けなかった、その時点から八年前の沖縄戦の物語です。1月末には五味康祐と松本清張が芥川賞を受賞します。後に五味康祐は剣豪小説ブームを生み出し、松本清張は社会派推理小説ブームを生み出します。2月1日にはNHKがテレビの本放送をスタートさせます。街頭テレビが設置され、今から見れば、小さくて解像度の低いブラウン管に大勢の人が群がりました。NHKの「ジェスチャー」もスタートします。

政治の世界では吉田茂が「バカヤロー」と言って、国会が解散。海外ではソ連のスターリンが死に、7月末には3年1ヶ月ぶりに朝鮮戦争が休戦になります。それ以来、38度線を境にしての休戦状態が、今も続いているわけです。8月には民放の日本テレビが放送を開始。9月になると、ソ連書記長としてフルシチョフが登場します。この後、フルシチョフはスターリン批判を行い、粛正や暗殺などスターリンの悪行を暴き、ソ連は「雪解け」と言われます。

「東京物語」が公開された11月3日、国会では吉田茂首相が「自衛隊は憲法内での軍隊。しかし、戦力ではない」と答弁し、「戦力なき軍隊」と言われ、その年の流行語になります。「××なき××」と言い方はいろいろ言い換えられました。12月24日には奄美群島返還の日米協定の調印が行われ、八年ぶりに奄美群島が日本に戻ってきました。翌日のクリスマスの日、日本初のスーパーマーケット「紀ノ国屋」が青山にオープンします。

そんな時代を背景にして「東京物語」は制作されましたが、物語の大きなテーマは「親と子の関係」「家族の崩壊」でした。具体的に言えば「年老いた両親と成人した子供たち」の関係です。これは普遍的な課題ですが、戦後のモラルの変化を敏感に読みとった制作者たちの問題提起でもありました。すでに、家族関係は大きく変わろうとしていたのです。二十年ほど後、核家族という言葉が生まれ、やがてその言葉も死語になりますが、戦後の家族というものの変化の兆しを描いた作品かもしれません。

物語は尾道から年老いた両親が上京するところから始まります。東京には医者を開業している長男と美容院を開いている長女、それに戦死した次男の嫁がいます。また、大阪に三男がいて、尾道で両親と同居して教師をしている末の娘がいます。長男の家族は妻とまだ小学生の息子がふたり、長女のところには髪結いの亭主がいます。子供たちは自分たちの生活に精一杯で、両親の相手をしている余裕がない。別に邪険にしているつもりはないけれど、相手もできないというので、金を出し合い二人を熱海に静養にいかせますが、旅館がうるさくて老人二人はそそくさと東京に帰ってきてしまいます。

老夫婦は「私たちはなんぼかましですよ」と、言い聞かせるように子供たちのことを認めようとします。『長男は医者だし、長女は美容院をきちんとやっているし、戦死したのもひとりだけだし」と言い聞かせながら、「わたしたちゃ、なんぼかましですよ」と老いた母が言うとき、その言葉の裏には大きな落胆があると感じさせます。老いた母親役の東山千栄子が言う「ながいっきゃ、するもんじゃのう」という言葉も、年老いてこんな子供たちを見るのなら長生きなどしたくなかったという意味に聞こえてきます。それが、演出のうまさです。

結局、親身になって相手をしてくれたのは、戦死した次男の嫁の原節子だけでした。老人たちは大阪に寄って三男を訪ねますが、母親の具合が悪くなり、尾道に帰った途端に亡くなります。原節子を含めて子供たちが尾道に集まり、通夜・葬儀が続きます。葬儀を抜け出した三男が、しみじみと「孝行をしたいときには親はなし、さればとて墓に布団はきせられず」とつぶやくように、子供たちだってそんなにひどいわけじゃない。しかし、成人し自分の家族や生活を持った子供にとって、年老いた親は荷物になるということを、明確に描き出します。

超がつく高齢者社会を迎え介護が大きな問題になる現代から見れば、まだまだ深刻そうには見えませんが、「親の面倒を見ること」や「親子の断絶」は、いつの時代にもあることです。「東京物語」は、そんな普遍的なテーマを静かに感じさせるが故に、60年以上たった今も名作として高く評価されているのでしょう。

«■映画と夜と音楽と…755 音のない世界で生きること

無料ブログはココログ
2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28