2018年5月17日 (木)

■映画と夜と音楽と…817 葬儀に戸惑う



【お葬式/社葬/おくりびと/遺体 明日への十日間】

●できたばかりの東京タワーの形の文鎮を買ってきてくれた叔父の死

ひと月足らずの間に二度、納棺を手伝った。遺体を数人で持ち上げ、棺の中に移す作業である。ひとりは義妹の義母、ひとりは九十三になる父のひとまわり年下の弟で僕には叔父にあたる人だった。父には八人の兄弟姉妹がいたが、子供の頃に何人か亡くなって、成人したのは五人。しかし、長男は四人の子供を残して早世し、父には姉と弟ふたりが残った。五年ほど前に九十三で姉が亡くなり、すぐ下の弟も三年前に亡くなった。この四月に末っ子だった叔父が亡くなったので、父はすべての兄弟姉妹を失ったことになる。九十三年も生きているのだから仕方がないのかもしれない。「ワシもすぐにいくことになる」などとつぶやいている。

先日亡くなった叔父も八十一だから大往生だと思う。亡くなる一週間ほど前に父に会いたがっていると連絡が入り、僕は病院へ父を送った。父は両耳に補聴器を入れているのだが、ほとんど聴こえない。苦しい息をしながら叔父は父と会えて喜んでいたのだけれど、会話は成立しなかった。父は叔父の手を黙って握り病室を出た。その数日後、九十二歳になる母も見舞いにいきたいというので、父母を車に乗せて病院へいった。そのときには、叔父は酸素マスクをしているものの苦しい息が続いていた。一年ほど前に肺にガンが見つかり治療していたが、ひと月前に急に容態が悪化したという。すでに意識はなく、会話もできなかった。その叔父の手を握って母は涙ぐんだ。翌日、従兄弟から「父が亡くなりました」と連絡が入った。

叔父は中学を出てすぐ、タイル職人をしていた父の元に弟子入りした。父は二人目の子(僕のこと)が生まれたばかりで、二十七か八になっていた。叔父は十五歳。母は毎日、通ってくる叔父の面倒をみたらしい。日本が占領時代を終え、独立国家になったばかりの頃である。朝鮮半島では、まだ戦闘が続いていた。父は敗戦後に中国大陸から引き揚げてきて、いろいろな仕事をしていたようだが、最終的にタイル職人になり、その頃は親方として何人か使っていたのだ。僕がものごころついた頃には十人近くの職人が、毎朝、我が家の前に集まり、父からどこの現場へいけばいいか指示が出ていた。親方としては仕事をとり、毎日、段取りをして現場に派遣し、月末になると集金をして封筒に給金を詰め、ひとりひとりに手渡していた。それなりに苦労があったと思う。

その父は僕が大学を出た後にタイル職人を辞めたのに、叔父はずっとタイル職人として生きた。地方紙の訃報欄に叔父は「十河タイル代表」として載ったが、父は「ワシのことかと思う人がいるかもしれん」と口にした。僕が小学校に上がる前、父はオートバイで現場にいっていたが、そのバイクには「十河タイル」と描いてあった。そのバイクのオイルタンクにまたがっている僕の写真が残っている。昭和三十二、三年の頃だ。その頃、一人前のタイル職人になった叔父は結婚して新婚旅行に東京へいき、完成したばかりの東京タワーに登り、僕にお土産として東京タワーの形をした文鎮を買ってきてくれた。叔父に長男が生まれたのは昭和三十五年である。その長男は六十近くになり、初めての喪主に「まったく勝手がわからない」と戸惑っていた。

●伊丹十三監督は義父の葬儀の経験を元に「お葬式」を作った

伊丹十三が監督としてデビューした「お葬式」(1984年)を作るきっかけになったエピソードは、「お葬式」が大ヒットした後、雑誌やテレビのインタビューなどで紹介され広く知られることになった。義父の葬儀を取り仕切った個人的な体験が元になっているという。「お葬式」を私映画として見た人は、葬式の間に愛人が尋ねてきて近くの森の中で主人公(山崎努)がセックスするシーンがあり、「あれも伊丹監督の告白か」などと書いていた。主人公の設定はほとんど伊丹監督自身を連想させるし、実際の奥さんである宮本信子が主人公の妻を演じているのである。主人公が愛人とセックスしているシーンでは、妻の宮本信子が公園に設置された丸太の遊具に乗って、ブランコのように前後に揺らすカットが挟まれる。僕はあまり好きではないが、セックスを連想させる直喩カットだった。

伊丹監督が「お葬式は映画になる」とひらめいたのは義父の葬式を経験したからだが、初めて身内の葬式を経験すると誰でもなるほどと思うことが多く、それを詳細に描くことで映画になると発想するのは、さすがに才人の伊丹さんだと思う。映画会社は「お葬式なんて暗い映画がヒットするわけがない」と否定したらしいが、「お葬式」が大ヒットしたものだから、東映は「社葬」(1989年)なんて映画を臆面もなく作った。こちらは愛人宅で腹上死した新聞社の社主の葬儀を描いた映画だった。「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」というセリフが記憶に残っているように、社葬を巡るドタバタの間に全国紙の販売戦争も描いていた。

「お葬式」の中では、義父の臨終を看取るとすぐに葬儀の準備に追われる遺族の姿が描かれた。葬儀社が準備したビデオをみんなで見て、葬儀の手順や作法を学ぶシーン。みんな真剣なだけに、おかしさが漂ってくる。厳粛な葬儀なのに滑稽なのである。しかし、自分で体験してみると、あの映画には共感することが多い。遅かれ早かれ誰でも葬儀の経験はするだろうから、「お葬式」が大ヒットしたのも今となってはよくわかる。八年前、僕も義父の葬儀を経験した。喪主は義弟だったけれど、長女の夫で最年長の僕としては、何かを決めるときにはいろいろと相談を受けることになった。しかし、僕としても身内の葬儀は初めてだから、すべては戸惑うことばかりだった。

湯灌・納棺も初めて経験した。葬祭場の控えの間だった。広い畳の部屋で、遺体を安置し通夜を行う。通夜では線香を絶やさないが、今は蚊取り線香みたいな渦巻き型の線香があり、一度火をつければ十二時間保つというから夜通し起きている必要はない。その通夜の前に畳の部屋で湯灌が行われた。大きなバスタブが運び込まれ、部屋の隅にあったバルブにシャワーのホースがつながれる。排水用のホースも接続され、遺体はきれいに洗われた。男女ふたりの人が遺体に大きな布をかけたまま、髪はシャンプーしてくれるし、髭も剃ってくれる。湯灌が終わり、改めて化粧をした後、納棺が行われる。遺体に水を飲ませたり、最後の別れをしたり、儀式めいたことが続いた。これも、身内の葬儀を経験しなければ、まったく知らないことだった。

●葬儀で会った従姉妹たちに幼い頃のことを教えてもらう

僕の場合、「人生で必要なすべてのことは、本と映画で教えてもらった」と断言できる。湯灌や納棺の儀式も、義父の葬儀の前に「おくりびと」(2008年)を見ていたので、実際の納棺を見て「なるほど」と思った。ただ、今回、立て続けに二度納棺を手伝ったが、それぞれ細かな違いがあった。葬祭場の違いで少しずつ異なるのだから、地域によってはいろいろ大きな違いがあるのかもしれない。僕はずっと東京での葬儀しか出ていなかったので、高松の葬儀のしきたりに戸惑ったものだ。焼香も名前を読み上げて順番があるとか、来賓の焼香では肩書きまで読み上げるとか、「止め焼香」という役にはそれなりの人を当てるとか、初めて知ったものだった。すべて、葬儀社の人の言うままに従った。

叔父の湯灌は義父のときより、さらに丁寧だった。立ち会っていた家族親戚の全員が叔父に湯をかけ、顔の一部を拭き別れを告げた。やはり男女ふたりが担当し、厳粛な儀式めいた仕草で執り行う。「おくりびと」では、山崎努と本木雅弘の納棺の儀式を見て、遺族が「ありがとう」と礼を言うシーンがあるけれど、目の前で遺体を丁寧に洗いきれいにしてもらっているのを見て叔母は何度も礼を言った。「入院して、十日間もお風呂に入れなかったから、きれいにしてもらってよかったね」と叔父に話しかける。職人だった叔父は、一日も欠かさず風呂に入った。最後に全身を洗ってもらい、シャンプーやひげ剃りまでしてもらい、新しい着物に着替えさせてもらい、気持ちよく眠っているように見えた。

オーケストラのチェロ奏者だった主人公(本木雅弘)が失職し、妻と故郷に帰ってたまたま納棺師になり、次第にその職業に使命感や誇りを感じていく物語が「おくりびと」だった。最初、妻には納棺師になったことは告げられない。案の定、真実を知った妻は「気持ちが悪い」と口にする。叔父の湯灌・納棺を見ながら、僕も「大変な仕事だな」と思った。眠るように亡くなった遺体ばかりではないだろう。「遺体 明日への十日間」(2012年)は東北の震災と津波で亡くなった人たちを安置する場所で、懸命に働いた人たちを描いた実話をベースにした映画だが、津波に呑み込まれて亡くなった泥だらけの幼い娘を「洗っていただけませんか」と母親に懇願され、「今は飲み水さえ----」と絶句する葬儀社の社員を演じた緒形直人の姿が記憶に残る。

実家で暮らしていると、冠婚葬祭の「葬」ばかりある。リタイアして一年の半分以上を四国で暮らすようになって三年、葬儀と仏事に何度出たことだろう。父は高齢で、兄も目を悪くして免許を返納したから、運転できる僕に「出ろ」となることが多い。叔父の一周忌もひとりで車を運転して、讃岐山脈の麓にある寺へ出向いた。しかし、そういう場では子供の頃に一緒に遊んだ従兄弟や従姉妹に会う。僕がすっかり忘れてしまった幼少期の話をしてくれる叔父叔母もいる。母方の叔父の四十九日には、年下の叔母に二十数年ぶりに会ったし、先日の叔父の葬儀でも四歳年上の従姉妹に会った。子供の頃、姉のように慕っていた人だ。十歳上の従姉妹にも会い、「十代後半、あんたの家に下宿してたのよ」と言われた。そういえば----と、六十年以上前の記憶がぼんやりと甦る。「もう私も八十だけど----」と、その従姉妹は続けた。長い時間が過ぎ去り、周りの人が少しずついなくなる。

2018年5月10日 (木)

■映画と夜と音楽と…816 泣き言はいわない



【無頼無法の徒 さぶ/なみだ川/斬る】

●黒澤明監督が愛した山本周五郎の作品群

岩下志麻の回想録のことを書いたとき、「五辯の椿」を紹介したら山本周五郎のことが頭から離れなくなった。亡くなって、半世紀が過ぎる作家だが、今も多くの読者がいるらしい。一時期、その小説が頻繁に映画化されたが、森田芳光監督がリメイクした「椿三十郎」(2007年)以降は、テレビドラマで取り上げられることはあっても映画化作品はないみたいだ。今は、藤沢周平人気の方が高いのかもしれない。藤沢周平の小説やエッセイはかなり読んだけれど、筆名についての話は読んだことがない。ただし、藤沢さんが四十を過ぎて新人賞を受賞して登場したとき、この人は山本周五郎から一字もらったのかなと僕は思ったことがある。

山本周五郎作品が頻繁に映画化されたのは、六〇年代だった。僕は見ていないが中村錦之助の「暴れん坊兄弟」(1960年)というのがあり、「日々平安」を映画化した「椿三十郎」(1962年)から岡本喜八版「斬る」(1968年)まで十数本ある。黒澤明は「赤ひげ」(1965年)を含めて二本ある。映画史に残るような作品が多く、「ちいさこべ第一部・第二部」(1962年)「青葉城の鬼」(1962年)「青べか物語」(1962年)「五辯の椿」(1964年)「冷飯とおさんとちゃん」(1965年)「なみだ川」(1967年)など名作ぞろいだ。黒澤明の二本、田坂具隆が二本、三隅研次が二本、川島雄三、野村芳太郎、岡本喜八と日本映画の巨匠・名匠・鬼才の名前が並ぶ。山本周五郎作品の人気がうかがわれる。ただし、本人は一九六七年に亡くなった。

七〇年代に入ると、黒澤明が「季節のない街」を映画化した「どですかでん」(1970年)を初めてカラーで撮る。巨匠のひとりだった小林正樹監督も「深川安楽亭」を映画化した「いのち・ぼうにふろう」(1971年)を完成させた。翌年には、人気絶頂だったコント55号の萩本欽一と坂上二郎を主演にした「初笑い・びっくり武士道」という作品が公開された。僕も映画の看板は見た記憶があるのだが、監督が野村芳太郎、脚本に加藤泰が加わっているから、ちょっと興味を引く。その次の周五郎作品の映画化は、松田優作主演の「ひとごろし」(1976年)までない。さらに二十年以上の空白があり、「雨あがる」(1999年)「どら平太」(2000年)「かあちゃん」(2001年)「海は見ていた」(2002年)など、市川崑、熊井啓といった名匠の名前が並ぶ。「雨あがる」「どら平太」「海は見ていた」はすべて黒澤明が脚本を書いたものだ。日本映画の巨匠は、山本周五郎作品を愛したのである。

僕が初めて読んだ山本周五郎作品は「赤ひげ診療譚」だった。中学一年生の春休みのことだ。きっかけは、黒澤明監督が映画化し春休み明けに公開されると知ったからだった。「赤ひげ」制作のニュースは新聞や雑誌で読んでいた。特に新人・内藤洋子の記事が多かったと思う。僕は春休みの課題だった作文に「春休みの読書」とタイトルを付け、春休み中に読んだ二冊の本「赤ひげ診療譚」と「ジャン・クリストフ」(ただし、読んだのは一部だけ)の感想を書いた。山本周五郎とロマン・ロラン。当時、僕はふたりを同列に見て本を選んでいたのだ。その作文は校内誌に掲載され、僕はちょっと鼻を高くした。

●山本周五郎と黒澤明の共通点は「説教くさい」ことだが----

原作を読んで映画を見るということを初めてやったのが、「赤ひげ診療譚」だと思う。脚色なんて知らない頃のことだ。僕は四月に公開になった「赤ひげ」を見ながら、原作とはここが違うなと気になって仕方がなかった。原作は短編連作の形を取っていて、小石川療養所が舞台なのは共通しているし、主人公が若き医師の保本登であり、「赤ひげ」と呼ばれる所長の新出去定が登場するが、第一話は狂女(映画では香川京子が演じた)の話であり、一話一話にそれぞれ中心的な人物が登場する。そうした形の原作を読んでいたから、その各エピソードをまとめ上げ、三時間に及ぶ長編映画に仕上げていることに戸惑ったのだろう。それでも、最後には感動の涙を流した。

自らも何本も映画化し、他の監督が映画化したものを含めると、たくさんの周五郎作品の脚本を書いた黒澤明は本当に周五郎作品が好きだったのだろう。この原稿を書くので周五郎作品の箴言ばかりを集めた「泣き言はいわない」という本を読み返していて、黒澤明がなぜ山本周五郎の作品を愛したかがわかった気がした。たぶん、ふたりの共通点は「説教好き」なのだ。いっぱい映画を見続けてきたけれど、ある時期から僕は映画を批評的(批判的にではない)に見る目を持ち始めた。そうすると、昔は素直に感動した黒澤作品に、いくつか違和感を感じたのだ。そのひとつが「黒澤作品は説教くさい」ということだった。

小津安二郎監督や成瀬巳喜男監督などと違って、黒澤監督ははっきりとしたメッセージを自作に込める。そして、登場人物の口を借りて、説教をする。黒澤作品に「師と弟子」という登場人物が多いのは、説教を聞かせるためではないかとさえ思う。「姿三四郎」の矢野正五郎と三四郎に始まり、「野良犬」の志村喬と三船の関係、「椿三十郎」の主人公と若侍たち、「赤ひげ」の新出去定と保本登など、「教え導く者」と「導かれ高みに登る者」という構図が共通する。そして、「教え」は常に「説教くさい」のだ。だから、「泣き言はいわない」の解説を読んで、僕は納得してしまったのだった。

----山本周五郎を評して"人生派作家"とする評家が多いのは、山本に箴言を配置した作品が多いこととも連係しているように思われる。山本と青年時代から親交のあった山手樹一郎が、わたくしにこう語ったことがあった。
「山本君の酒は説教酒でしてね。飲むとかれ一流の人生論的な説教が始まる。若いころからそうでしたよ」
したがって、同じ年配の文学仲間たちのあいだでは、山本の箴言にみちた人生論は、ヤレヤレまた始まったかといった雰囲気で敬遠されたものらしい。(「泣き言はいわない」解説・木村久邇典)

山本周五郎の箴言を集めた本の解説なのにこれでいいの? と思うだろうが、周五郎作品が好きな人は彼の人生に対する箴言を読みたいから読んでいるのだ。「説教くさい」黒澤映画はあまり好きではない僕も、山本周五郎作品の人生論的な箴言に深い共感と感動をおぼえることは多々ある。それに、黒澤作品の中でも「赤ひげ」だけは見るたびに涙する。映画化されても、ほとんどは原作にあるセリフを生かしているからだ。新出去定はこんなことを口にする。

----毒草から薬を作りだしたように、悪い人間の中からも善きものをひきだす努力をしなければならない。人間は人間なんだ

人に指摘されたこともないし、「説教酒」と言われたこともないけれど、僕も根本のところで説教好きの人間なのかもしれない。山本周五郎の作品を好む理由は、彼の箴言に感動するからだろう。でなければ、周五郎作品の中から箴言だけを抜き出して一冊にした「泣き言はいわない」なんて本を書うわけがない。まず、そのタイトルが自戒の言葉として僕は気に入ったのだ。昔、僕は「ぼやきのソゴー」と自称し、「ボヤキとグチは違うのだ。ボヤキには己を客観視するユーモアがある」と力説していたが、山本周五郎の「泣き言はいわない」を買って以来、ボヤキを含めて泣き言をいわないように努力している。

●あまり有名ではないが山本周五郎原作の愛すべき小品たち

山本周五郎原作の映画は三十本近くを数えるが、そのうちの十七本を僕は見ている。その中でも「青べか物語」「いのち・ぼうにふろう」といった、割に知られている作品以外に僕が偏愛するのが、野村孝監督「無頼無法の徒 さぶ」(1964年)、三隅研次監督「なみだ川」(1967年)、岡本喜八監督「斬る」(1968年)の三本だ。「なみだ川」と「斬る」については、以前に書いた記憶があるけれど、「無頼無法の徒 さぶ」についてはまったく触れたことがないと思う。主演は小林旭で、恋人役は浅丘ルリ子である。監督はカルト的人気を誇る殺し屋映画「拳銃(コルト)は俺のパスポート」(1967年)の野村孝。僕は日活で山本周五郎作品が映画化されたのが意外だった。

「さぶ」は山本周五郎の代表的な長編だ。経師屋に奉公するしっかり者の栄二(小林旭)には少しノロマの弟分さぶ(長門博之)がいる。栄二に想いを寄せているすえ(浅丘ルリ子)もいる。ある日、仕事先の大店で大事なものがなくなったと騒ぎになり、それが栄二の道具箱から発見される。身に覚えのない栄二だが店は解雇され、自暴自棄になりぐれていく。やがて暴れて捕縛され、栄二は寄場に送られる。さぶは出てきたら一緒に店を持とうと言い、栄二を待っている。そして、栄二が出てきたとき、すえが意外な告白をする----。「無頼無法の徒」という余計なタイトルがついているが、「さぶ」は原作を丁寧に映画化した作品だった。小林旭がいいし、浅丘ルリ子がいい。モノクロームの画面が美しい。

「なみだ川」も市井に生きる姉妹の人情物語だ。姉(藤村志保)はちょっとずれた(今ならテンネンと言われそうな)お人好しの慌て者。妹(若柳菊)はしっかり者で大店の若旦那から「嫁に」と望まれている。父は飾り職人だが、体を悪くして姉妹で面倒を見ている。やくざな兄もいる。そんな事情もあり、嫁入りをためらう妹のために姉はある嘘をつく。その嘘が誤解を生んで、様々な波紋が広がる。しかし、姉の気持ちは妹に伝わり、最後は涙なしでは見られない人情話に落ち着くのだが、とぼけた藤村志保の名演技が印象に残る。小品だけれど、愛すべき作品である。

「斬る」は三隅研次監督・市川雷蔵主演の同名作品(原作は柴田錬三郎)とは違い、岡本作品の常連である仲代達矢の主演だ。武士崩れの旅人(仲代達矢)と百姓上がりの浪人者(高橋悦史)がある藩にやってくると、七人の若侍たちが奸物の家老を斬って砦山に籠もる事件が起こる。仲代は若侍たちと知り合い彼らに味方するが、高橋悦史は次席家老が若侍たちを討つために集めた浪士隊に入る。原作は「砦山の十七日」で、お家騒動の渦中に巻き込まれる流れ者という設定では「椿三十郎」と共通する。「椿三十郎」の原作は「日々平安」だが、主人公は映画のようなスーパーマンではない。最初に登場したときは腹ぺこの情けない姿である。「斬る」では、仲代の演じる元武士の旅人が椿三十郎的な活躍をする。浪士隊のひとりを演じた岸田森(岡本作品の常連です)のエピソードに涙を禁じ得ない。

2018年5月 3日 (木)

■社会人になった頃


今週は黄金週間です。「映画と夜と音楽と----」は休載します。
以下は、昨年、三重県の林久登さんが出している映画誌「シネマ游人」に頼まれて書いた文章です。

■社会人になった頃

昭和六年創業と歴史はあるが、二十数人しかいない小っぽけな出版社に僕が入社したのは、大学卒業前の昭和五十年(一九七五年)二月十二日だった。石油ショック直後のひどい就職難で、その出版社の入社試験にも二名しか採らないのに百人ほどの受験者がきていた。僕は大学時代に一眼レフを持ってあちこち撮影し、四畳半の下宿を暗室にして現像・焼き付けをしていたので、その出版社が出している月刊「コマーシャル・フォト」を志望して受けたのだが、面接での応対が災い(?)し、こと志と違う編集部に配属されてしまった。

玄光社というその会社は戦前から写真関係の書籍や「写真サロン」という写真誌を出していた専門出版社で、名付けたのは北原白秋だった。写真は光と影で作るものだからと、「玄(漆黒の闇)と光の会社」としたのである。しかし、「玄」にそんな意味があるとはほとんどの人は知らず、社名を説明する時には「玄関の玄に光です」とか、「玄界灘の玄に光です」「玄米の玄です」などと説明していた。

そんな会社の試験を受けたのは前年の年末で、正月明け早々に面接があった。その時、僕は好きなものを訊かれ「映画です」と答えたうえ、観たばかりの神代辰巳監督作品「青春の蹉跌」のワンシーンについて詳細に語ってしまったのだった。それはショーケンが妊娠した桃井かおりを殺そうとして雪原をふたりで滑り落ちるシーンで、「3シーン1カット」と言われた神代の手法について、僕はかなり長くしゃべった記憶がある。

結局、僕が配属されたのは「小型映画ビギナーシリーズ」というムック編集部で、いきなり「トーキー入門」というムックを作っている現場に入ることになった。当時、ちょうどサウンド8ミリという同時録音ができるカメラが発売になり話題をさらっていたが、8ミリカメラは撮影中にジージーと大きな音を立てるので昔からの8ミリ作家には同時録音は好まれず、マニアはパルス方式というフィルムとオープンテープを同期させるトーキー作品を作っていた。その方法は本一冊で解説しなければならないほど、難しかったのである。

編集の仕事もろくに知らない僕が「トーキー入門」に貢献したのは、モデルとしてだった。二十三歳で体重が五十キロ、百七十センチ。スリムだった僕は、トーキー作品制作の過程を説明する写真のモデルをつとめるのが、入社早々の主たる仕事だった。その他、取材の仕事もやらされた。8ミリマニアだという藤子不二雄の安孫子素雄さんを新宿の仕事場で取材し、ドラえもん、パーマンなどを安孫子さんが8ミリで撮影しているカットを描いてもらったのだ。

しかし、帰社してテープを再生すると、まったく録音されていない。あわてた僕はメモだけを頼りに二ページの原稿を仕上げ、安孫子さんに送って了解を得た。その記事は意外にも編集長に好評で、その後、取材の仕事が増えることになった。あの時、安孫子さんに描いてもらったカットは返却した憶えがないので、ずっと後に机の中を捜索したが、とうとう出てこなかった。

僕がいた「小型映画ビギナーシリーズ」編集部は、編集長と先輩と僕という三人のスタッフだったが、隣に「小型映画ハイテクニックシリーズ」というムック編集部があり、そちらは編集長と入社四年目の人のふたり編集部だった。時々、僕はそちらの編集部に貸し出されることがあり、編集長と同行し取材したテープを起こすといった仕事をやらされた。

「小型映画ハイテクニックシリーズ」は8ミリだけでなく、16ミリも対象にしていた。当時、日本のメーカーから発売になっていた安価な16ミリカメラは、キヤノン・スクーピックだった。しかし、僕はボリューやボレックスといったヨーロッパメーカーの16ミリカメラに魅せられた。五月革命のパリを三本ターレットのシネカメラを持って歩くジャン=リュック・ゴダールの写真を「朝日ジャーナル」で見たのは高校生の時だった。かっこいいなー、と憧れたものである。

ある時、「小型映画ハイテクニックシリーズ」のバックナンバー「映画製作入門」を見ていたら、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」の絵コンテとそれに対応する実際の映画のカットが並べられ、監督自身の解説がついた構成で十六ページ続いているのを発見し、映画製作の裏側を知った気分になった。「これは、案外、悪くない部署かもしれないな」と思った。

そんなことで二ヶ月ほどが過ぎ、二冊目のムックが「監督入門」というテーマに決まった。その中で、ふたりのベテラン・キャメラマンを取材することになった。ひとりはフリーの岡崎宏三さん。もうひとりは東宝の中井朝一さんだった。中井朝一さんと言えば、黒澤明監督のメイン・キャメラマンである。当時は、「デルス・ウザーラ」の撮影準備で忙しいという話だったが、それでも取材を受けてもらえることになった。

この時の取材で印象に残っているのは、黒澤明監督が望遠レンズ好きになった経緯だ。「野良犬」の撮影の時、殺人があった家を写しているシーンは、出演者たちにキャメラがどこにあるかわからないほどのポジションに置き、望遠レンズで撮影しドキュメンタリータッチの臨場感を出したという。以降、黒澤組で望遠レンズは多用されるようになる。

ただし、黒澤監督は二律背反のような機能を求めた。レンズは焦点距離が長くなるほど距離感は詰まるが、被写界深度(焦点が合って見える前後の範囲)が狭くなる。被写界深度を深くするためには絞り込むしかない。たとえば「用心棒」で三船が敵対するやくざたちをあおって、火の見櫓に登るショット。三船の背中をなめて地上を写す。左右のフレームからやくざたちが刀を構えて、へっぴり腰でフレームインする。

このショットは望遠レンズで三船から地上のやくざまでの距離感を詰め、さらに三船からやくざまでを被写界深度に入れてシャープに見せている。これをやるには、f32やf64といった最小絞りまで絞り込む必要がある。とすると、めちゃくちゃ現場を明るくしなければならない。ということで、東宝砧撮影所のライトはすべて黒澤組に集められ、撮影所の全電力を使うことになり、他の撮影はストップする。

ライトをガンガン照らすから、出演者はやけどをするほど熱くなる。特に金属は持てないほど熱くなる。カツラの中はブリキになっている。三船のカツラも煙が出るほど熱くなったという。余談だが、三船の頭髪が薄くなったのは、黒澤組でライトを浴びすぎたのが原因だとも伝えられている(ホントかどうかは不明です)。

一方、岡崎宏三さんは、市川崑監督の「吾輩は猫である」を完成させたばかりだった。「試写があるから取材の前に見ておいてほしい」と言われ、ある夜、僕は日比谷の劇場試写にいき、豪華なパンフレットやニュースリリースをもらい、「吾輩は猫である」を見た。その映画では「猫の見た目ショット」があり、コンバージョンレンズをつけた超広角撮影で障子の桟などが歪曲していた。もちろん「猫の見た目」だから、ゆらゆらと揺れる手持ち撮影である。

実際の取材では、一作前の「雨のアムステルダム」のヨーロッパロケの話の方が多かった。蔵原惟繕監督でショーケンと岸恵子の恋愛ドラマである。当時、人気のあった劇団四季の松橋登も出ていた。しかし、すでに二ヶ月前に公開は終わり、二番館にまわっている時だった。

僕は編集長の命令で、飯田橋の佳作座にかかっていた「雨のアムステルダム」に一眼レフカメラと三脚を持って出かけ、最後列の真ん中の席に陣取り、岡崎さんが話したシーンになるとスクリーンをカシャカシャと撮影した。現在だとすぐに逮捕されてしまうだろうが、当時は何のおとがめもなかったのである。一九七五年五月のことだった。

2018年4月26日 (木)

■映画と夜と音楽と…815 怨む女--梶芽衣子



【野良猫ロック セックス・ハンター/女囚701号 さそり/曽根崎心中】

●「目力」と言うにふさわしい梶芽衣子の視線の強さ

「目力」という言葉がいつから使われ始めたのかはわからないが、五十年前にその言葉があれば、間違いなく梶芽衣子に対して使われたはずだ。「オール読物」に連載されていた梶芽衣子の回想録が文芸春秋社から単行本「真実」として発行されたが、その表紙の写真を見れば一目瞭然である。誰もが、きりっとした強い視線に引きつけられるだろう。まっすぐ見つめる瞳の奥には「冷たい炎」が見える。メラメラと燃え上がる炎ではない。清岡卓行に「氷った焔」という詩があるけれど、梶芽衣子の瞳は「氷った情熱」をたたえている。何かを思い詰めたら、やり遂げるまで突き進む強い意志を抱いているのに、表情はあくまでクールなのである。

僕は中学生の頃、学年誌「中二コース」の映画紹介欄で初めて太田雅子という女優を知った。日活青春映画「青い果実」(1965年)が紹介されていたのだ。主役は子役の頃からテレビドラマ(NHK「ふしぎな少年」など)に出て人気絶頂だった太田博之(後に小僧寿司チェーンを立ち上げる)と、新人の太田雅子。日活は太田コンビとして売り出そうとしたのだ。しかし、その後、太田雅子は主役を外れ、裕次郎映画の脇にまわることが多くなる。裕次郎主演の「泣かせるぜ」「赤い谷間の決斗」(1965年)などで、同期デビューの渡哲也と共演する。石原裕次郎の相手役は浅丘ルリ子、渡哲也の恋人役は太田雅子という配役である。

それでも、山本陽子よりはマシだったかもしれない。山本陽子は、裕次郎とルリ子コンビの傑作ムードアクション「赤いハンカチ」(1964年)では、二谷英明とルリ子の屋敷の女中役でワンシーン登場し、ひと言セリフがあるだけだった。それも背中からのロングショットで顔なんてほとんど写っていなかった。太田雅子は「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)では裕次郎を慕い、裕次郎の昔の恋人ルリ子に嫉妬する役だった。元航海士の裕次郎が営む波止場のレストランの料理人(高品格)の娘で、ボーイをしながらボクシングに励む混血青年(黒塗りの郷鍈治)に愛されている。彼女は裕次郎を慕い続けるが、最後は混血青年と結ばれることになる。

この時期、太田雅子は「生意気な新人」として日活撮影所で有名だったという。「真実」には、「夜霧よ今夜も有難う」でスタッフなどにいじめられ、高品格に慰められるエピソードが出てくる。また、同期の渡哲也には「お前な、女なんだから可愛がられなきゃ駄目だ」と食堂で説教されたと書いてあった。多摩川沿いの日活調布撮影所の食堂は、僕も取材でいったことがある。宣伝部の人が「あそこが裕次郎さんの定位置でした」と教えてくれたものだが、「真実」を読んでいてあの食堂が浮かんできた。赤木圭一郎が事故死した場所も教えてもらった。僕が取材したのはロマンポルノを量産していた頃だが、裕次郎、旭、錠、そして藤竜也や梶芽衣子がいた頃のスタッフたちが多く残っていた。

●改名した翌年には十四本の日活映画に出演した

太田雅子が梶芽衣子になったのは、一九六九年のことだった。マキノ雅弘監督が日活で撮った「日本残侠伝」(1969年)のとき、マキノ雅弘監督につけてもらった名前である。日活が経営難に陥り、労働組合が力を持ち始めていた頃だった。石原裕次郎を始めスターの多くは日活を離れ始めていた。その結果、藤竜也や梶芽衣子など若手俳優たちを主人公にした集団劇が登場する。「日活ニューアクション」と呼ばれたアナーキーな作品群である。藤田敏八、長谷部安春、澤田幸広監督たちが活躍する。一九七〇年、梶芽衣子の出演作は十三本を数えるが、翌年の正月公開だった「野良猫ロック 暴走集団'71」(1971年)もその年のうちに撮影は終わっていたから十四本に出たことになる。同じ年の秋からスタートしたテレビ時代劇「大江戸捜査網」にもレギュラー出演した。

「真実」の中でも一章を立てて梶芽衣子が思い出深く語っているのは、やはり「野良猫ロック」シリーズのことだ。同じ年の「反逆のメロディー」「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」を加えての七本は、この後、何度もオールナイト上映が行われ、僕は繰り返し見ることになる。ほぼ一年間に集中して作られた「日活ニューアクション」と呼ばれる作品群は、当時の若い映画ファンを熱狂させたものだった。その作品群を象徴する女優が梶芽衣子だった。詩人で映画評論家(本職は建築家)の渡辺武信さんは、「日活ニューアクション」を絶賛した人で、それをきっかけに文芸座で始まった初期からの日活作品のシリーズ上映に通いつめ、「日活アクションの華麗な世界」をキネマ旬報に長期連載した。

「野良猫ロック」シリーズは三本を長谷部安春監督が担当し、二本を藤田敏八監督が撮った。当時は、藤田敏八監督の方が人気があったし、作品的にも注目されていた。「野良猫ロック」シリーズ以外にも、同じ年に「非行少年 若者の砦」「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」を撮り、翌年、日活最後の一般映画「八月の濡れた砂」(1971年)を公開し、若者たちの支持を受ける。公開後、ジワジワと話題になったのは、TBSアナウンサーの林美雄さんが担当する深夜のラジオ番組で、繰り返し石川セリが歌う「八月の濡れた砂」をかけたからかもしれない。林さんは早くに亡くなったが、番組の中で小劇場の芝居を紹介したり、邦画のプログラム・ピクチャーを取り上げることが多かった。

さて、藤田敏八監督は梶芽衣子主演「修羅雪姫」(1973年)および「修羅雪姫 怨み恋歌」(1974年)を撮っているが、不思議なことに「真実」の中には一度も名前が出てこない。「野良猫ロック セックス・ハンター」で梶芽衣子のイメージを創り出した長谷部安春監督は、「恩人」として何度も登場する。大ヒットした「さそり」シリーズの四作目を東映の俊藤プロデューサーに頼まれてどうしても撮らなければならなくなったとき、彼女は監督に長谷部安春を指名する。その他、「真実」の中に登場するのは「仁義なき戦い 広島死闘篇」(1973年)で組んだ深作欣二監督、「曾根崎心中」(1978年)の増村保造監督だが、「ある別の監督」といった言い方で藤田敏八監督の名は出さない。藤田監督と何かもめたのだろうかと勘ぐりたくなる。

●回想録のタイトルが「真実」になっている意味は?

日活を出て撮った「さそり」シリーズ、その間を縫って東宝で撮った二本の「修羅雪姫」、そして「さそり」シリーズの主題歌である「怨み節」の大ヒット、それらによって梶芽衣子には「怨みを貫く女」のイメージが定着した。何しろ、「修羅雪姫 怨み恋歌」では追いつめた最後の仇が首を吊ってしまったため、その胴体を蛇の目傘の柄に仕込んだ刀で寸断してしまう凄まじさである。「さそり」のヒロインが無言を通すことを提案したのは彼女自身だということだが、「修羅雪姫」もほとんど無言で仇たちを追いつめ惨殺していく。その間、怨みを抱き復讐に燃える目の演技だけで観客を引きつける。その目には「怨み」が宿っている。

「真実」を読んでいると、これが言いたかったんだろうなあという箇所がいくつかあった。最も印象に残るのが「鬼龍院花子の生涯」の映画化の話である。梶芽衣子は「鬼龍院花子の生涯」の映画化を企画し、鬼政役として若山富三郎のオーケーをとり話を東映にもっていく。しかし、東映からはなしのつぶて。ところが、突然、東映が「鬼龍院花子の生涯」を映画化することになり、鬼政は仲代達矢、ヒロインは夏目雅子と発表される。さらに、一度も会ったことのない東映の日下部プロデューサーが「ヒロイン以外ならどの役でもいい、と言っている」と人を介して伝えられたという。企画が盗まれたのだ。冷静に語っているが、彼女の怒りが伝わってくる。

----あの映画が封切られたのは三十六年も前の話ですし、この一件について今さら触れることになるとはまったく思いもしませんでした。ただ近年になって日下部さんが『シネマの極道 映画プロデューサー一代』という本を新潮社から刊行されたことで間違った情報がまるで事実であるかのように世間に広がっているのを知ったため、それを野放しにはできないと思ったのです。(「真実」)

「真実」を読むと、やはり梶芽衣子の強い意志が伝わってくる。そういう人なのだろう。信念を貫く。思いこんだら、やり通さずにはおかない気迫を感じる。だから、増村保造監督と映画を作りたいという彼女の強い思いは、とうとう「曾根崎心中」(1978年)に結実し、彼女に多くの主演女優賞をもたらせる。しかし、その後、プッツリと映画出演は途切れてしまうのだ。彼女は活躍の場をテレビドラマに移し、やがて二十八年続く中村吉右衛門主演「鬼平犯科帳」の密偵おまさとして生きることになる。密偵おまさには強い思い入れがあるらしく、「私にとってこの二十八年間はかけがえのないものだったのです」と語っている。

しかし、「鬼平犯科帳」への出演を最優先にしたことから、スケジュールを空けることがむずかしくなり、長期に拘束される映画への出演は途絶えてしまった。テレビドラマへの出演が中心になり、僕らは、梶芽衣子の姿をスクリーンで見ることができなくなった。彼女自身も「二十八年の間には黒澤明監督からオファーを二度いただいたこともあります。けれど作品にとことんこだわっておつくりになる監督とご一緒するには半年から一年近くの日数が必要とされるのです。黒澤映画に出演させていただけるなど、俳優としてはこのうえもなく光栄なことなのですが、それを重々承知のうえで失礼をさせていただくことになってしまいました」と書く。黒澤作品の梶芽衣子を見てみたかったと思う。「乱」(1985年)の原田美枝子の役を梶芽衣子がやったら、おもしろかったかもしれない。

2018年4月19日 (木)

■映画と夜と音楽と…814 狂う女----岩下志麻



【五辯の椿/智恵子抄】

●岩下志麻の写真を部屋の壁に貼っていたことがある

十五歳から十六歳にかけて、僕は岩下志麻が好きだった。和服姿で出ていた婦人誌の表紙を切り取り、部屋の壁に貼っていた。なぜ、十歳も年上の岩下志麻だったのだろう。小学生の頃、「秋刀魚の味」(1960年)という映画の看板で彼女を見たことは憶えている。山田洋次監督の「馬鹿が戦車(タンク)でやってくる」(1964年)の岩下志麻も美しいと思ったが、それを見たのは大学生になってからだ。僕が好きだった頃の岩下志麻は、映画版「おはなはん」(1966年)やベストセラーになった「宴」(1967年)などに出演していた。どちらもテレビドラマで評判になった物語だ。その頃、「智恵子抄」(1967年)や「あかね雲」(1967年)の看板を、自転車を止めてじっと見ていた僕自身が浮かんでくる。当時は、至る所に上映中の映画のポスターが貼ってあった。

なぜ、僕は岩下志麻が好きだったのか。テレビドラマ「花いちもんめ」を見たからだろうか。そう思って調べてみたが、「花いちもんめ」は一九六八年三月二日から四月二十日までの連続ドラマだった。岩下志麻はNHKで毎日放映していた生放送のドラマ「バス通り裏」(1958年4月~1963年3月放映)でデビューした人だから、テレビドラマは初めてではないけれど、松竹に入り人気女優となっていたから連続テレビドラマに出るのは珍しいことだった。「花いちもんめ」は父親(佐野周二/関口宏のお父さん)と五人の息子(川崎敬三、河原崎長一郎、荒木一郎、石立鉄男など)の家庭に腹違いの妹(岩下志麻)がやってくるというコメディタッチのドラマだった。脚本は田村孟。松竹ヌーヴェルヴァーグを担ったひとりで、「悪人志願」(1960年)という監督作があり、大島渚や篠田正浩監督の脚本を多く手がけた。その関係で、岩下志麻が主演したのかもしれない。

岩下志麻が篠田正浩監督と結婚したのは一九六七年三月だが、その一年前から一緒に暮らしていたと、先頃出た春日太一さんが岩下志麻にインタビューした「美しく、狂おしく--岩下志麻の女優道」(文藝春秋社)に出ていた。僕は結婚したばかりの岩下志麻と篠田監督の写真を婦人誌で見た記憶がある。別に気にはならなかった。大人の女のひとだと思っていたからアイドル的に好きなのではなく、女優として好きだったのだろうか。その頃、僕がアイドル的に好きだったのは東宝の酒井和歌子だった。世間一般は内藤洋子に傾いていたが、僕は絶対に酒井和歌子派だった。こちらも「ボーイズライフ」という雑誌に掲載されていたピンナップを切り抜いて机の引き出しに入れていた。当時、日活なら松原智恵子、東映では大川栄子、大映では梓英子が気に入っていた。

十六歳の頃、ある同級生に「岩下志麻が好きなんだよなあ」と言ったところ、「あの『バス通り裏』に出てた同級生の子だろ」と言われ戸惑ったことがある。「バス通り裏」は何度か見たことがあるけれど、十朱幸代の記憶しかなかったからだ。「バス通り裏」はNHKディレクターだった辻真先さんが担当していたが、彼は後に「時間よ止まれ」と言って時間を止められる「ふしぎな少年」を連続ドラマにした。そちらは、欠かさず見ていた。手塚治虫さんのマンガとテレビドラマが同時進行していた。辻さんと手塚さんのコラボレーション作品だったらしい。辻さんは後にミステリ作家になるが、辻さんのサイトへいくと「バス通り裏」時代の岩下志麻のプライベート写真が掲載されている。高校生の岩下志麻だ。

●「五辯の椿」は前半が倒叙ミステリで後半は本格ミステリ

小津安二郎監督の「秋日和」(1960年)に、ワンシーンだけ出ている岩下志麻のことはよく知られている。原節子を重役室の佐分利信のところに「こちらでございます」と案内するBG(当時はビジネスガールと言った)役である。そのとき岩下志麻は十九歳だが、その後とあまり変わらない容姿だ。すでに大人びていたのかもしれない。岩下志麻は、その後の三十年ほどはほとんど変化がないように見える。「極道の妻たち」あたりからは年齢(と貫禄)を感じるが、それでも美しさは保っている。しかし、やっぱり僕が好きだったのは、「宴」「智恵子抄」「あかね雲」の岩下志麻だった。二十代半ば、すでに「五辯の椿」(1964年)という代表作を持っていた。野村芳太郎監督との仕事も多く、それぞれが彼女の代表作となっている。

しかし、この時期の岩下志麻の代表作としては、やはり三時間近くある大作「五辯の椿」を挙げるべきだろう。若い娘が色仕掛けで大店の主人らしい中年男をたらし込み、夜具の上で抱かれながら簪で刺し殺すというショッキングな場面から始まり、観客の心を鷲掴みにしてしまう。まだ二十二、三だった岩下志麻の若い嬌声が耳に残り、媚態が艶めかしい。前半では、岩下志麻が連続殺人を犯すわけだが、その理由ははっきりしない。しかし、倒叙ミステリとして、大変おもしろくできている。何人めかの狙う相手が悪徳医者(伊藤雄之助)なのだが、彼を殺そうとして逆に岩下志麻が窮地に陥る場面もあり、ハラハラドキドキするサスペンスが醸し出される。

後半に入り、加藤剛が演じる与力が登場してからは、謎解き中心の本格ミステリになる。ひとつの物語で倒叙ミステリと本格ミステリが楽しめるのだから、アイラ・レヴィンの傑作ミステリ「死の接吻」みたいなものである。ちなみに、「死の接吻」も二度映画化されている。原作が出たばかりの頃に映画化された「赤い崖」(1956年)はロバート・ワグナーの主演、再映画化の「死の接吻」(1991年)はマット・デュロンとショーン・ヤングが出ていた。ちなみに、日本でも連続テレビドラマになり、黒沢年男が野心的な主人公の若者を演じた。もっとも、原作の第一部の倒叙ミステリ部分は犯人の視点で描写しながらその正体を隠しているが、映像化するにあたっては主人公の顔を出さざるを得ず正体を隠すわけにはいかなかった。

「五辯の椿」がよくできているのは加藤剛の与力が調べ始めると、様々な謎がさらに深まることである。前半の展開で予想していたことが、次々と裏切られる。その謎が次第に明かされていくおもしろさは、さすがに野村芳太郎監督だと思う。松本清張の短編を映画化した「張り込み」(1958年)が野村監督の最高傑作だと思うけれど、野村監督のミステリ系列の作品の中には時代劇ミステリの傑作「五辯の椿」がそびえたっている。一般的には「砂の器」(1974年)の人気が高いようだけど、結城昌治の「やくざな妹」を映画化した「昭和かれすすき」(1975年)なんて小品も忘れがたい。それにしても器用な監督で、すれ違いメロドラマの「あの橋の畔で」(1962~63年)から岩下志麻の「おはなはん」や「コント55号と水前寺清子の神様の恋人」(1968年)まで何でもこなした人だった。

「五辯の椿」では、岩下志麻の淫蕩な母親役に左幸子がキャスティングされている。この左幸子が素晴らしい。大店のわがままな娘で番頭上がりの律儀な夫を軽蔑し、遊びほうけ、若い愛人を作っては別邸で愛欲に耽るような女である。「美しく、狂おしく--岩下志麻の女優道」の中で、春日太一さんが「殺しでいいますと、母親役の左幸子さんを殺す場面も凄かった」と訊くと、「取っ組み合いするシーンだったんですよ。それで、本気で行ってしまって。左さんボリュームあるからなかなか思うようにいかないのですが、もう思いっきりの力で引きずり回したんですよ(中略)左さんは全て計算ではなくて本能の赴くままにお芝居するタイプの方だと思います」と岩下志麻は答えている。この母娘のシーンは作品の肝になる場面で、謎が解かれると同時にヒロインがなぜ何人も殺すのか、その動機が解明されるのだ。

●狂っていく高村智恵子を演じた「智恵子抄」のポスター

さて、どうして僕は十代半ばに岩下志麻を好きだったのか、その答えは、この文章を書き進めているうちに甦ってきた。はっきりと、僕の中に五十年前の記憶が浮かび上がってきたのだ。それは一冊の文庫本から始まった。十五歳のとき、僕は高村光太郎の「智恵子抄」を買った。現代教養文庫版で「紙絵と詩 智恵子抄」という本だ。高村智恵子の紙絵作品が光太郎の詩と共にカラーで掲載されていた。後半には高村光太郎が書いた「智恵子の半生」という文章、「画室の冬」と題された高村智恵子自身のいくつかの文章、平塚らいてうなどが智恵子を回想する文章などが掲載されていた。昭和四十年(一九六五年)八月に初版が出ているが、僕が買ったのは昭和四十二年(一九六七年)の春だった。高校生になってすぐの頃である。

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが----

「智恵子抄」の冒頭の詩「人に」は、そのようなフレーズで始まっていた。そのフレーズが妙に身に沁みた。小学校のときに好きだった女の子と中学は別々になり、三年間は離れていたが高校で再会し、毎日、胸をときめかしていた時期だったからかもしれない。自転車通学をしていた僕は、毎朝、電車通学し商店街を歩いている彼女を追い越すときに胸をドキドキさせていた。そんな十五歳の少年には「智恵子抄」の全編が新鮮だった。そのいくつかの詩を僕は暗唱しながら、自転車のペダルを漕いだ。

 人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
 砂にすわって智恵子は遊ぶ。

これは、狂った智恵子が九十九里で静養している頃の詩である。そして、ある日、僕は「智恵子抄」という映画の看板に出会った。そこには、着物を着た岩下志麻が九十九里らしい砂浜に立っている姿が描かれていた。手前に立って彼女を見守るように見つめているのは、丹波哲郎が演じる高村光太郎だ。看板の下端には「高松松竹」と入っていたと思う。ポスターには、「名匠・中村登監督作品」と刷り込まれていたかもしれない。その映画の看板を、僕は自転車を止めて見つめた。岩下志麻は知っていたが、そのとき僕は、きっと智恵子を演じた彼女に恋をしたのだ。

----これは、私が是非やらせていただきたいって松竹にお願いしたの。高村光太郎の詩集を読んで、ぜひこれは映画でやりたいなと思っていました。
----もともと私は精神科の医者になりたかったんですよね。ですから、ああいう精神に異常をきたした役にとても興味があったんです。

五十年後、「美しく、狂おしく--岩下志麻の女優道」で岩下志麻はそう語っている。女優人生は六十年を迎えるという。多彩な作品が残っている。日本映画史を飾る名女優だと思う。ちなみに「智恵子抄」の公開は、昭和四十二年(一九六七年)六月五日だった。その日、イスラエルとアラブ諸国は戦闘状態に入り、第三次中東戦争が勃発した。イスラエル軍の奇襲によってアラブ側は大敗したという。そんなこととは一切関係なく、僕は自転車に乗って、毎朝、好きな女の子の姿を探していた。「智恵子抄」のポスターを盗もうかと考えていた。

2018年4月12日 (木)

■映画と夜と音楽と…813 出てくるだけで頬がゆるむ役者



【静かなる男/我が道を往く/裸の町】

●ジャック・ヒギンスの影響でアイリッシュウィスキーも飲み始める

先日、久しぶりにラフロイグを飲む機会があり、「やっぱり独特の味と香りだなあ」と改めて確認した。ラフロイグを初めて飲んだのは数十年前のことで、当時はかなり高価なウィスキーだった。ただし、クレゾール(消毒薬?)を連想させるような香りに慣れず、「どこがうまいの?」と思ったものだった。それから様々なウィスキーを飲む経験をし、一時はバーボンばかりだったが、今ではシングルモルトでも、ブレンデッドでも、アイリッシュでも何を飲んでもうまいと思う。アイリッシュ・ウィスキーを飲むようになったのは、ジャック・ヒギンスの小説の影響かもしれない。アイリッシュ・パブでは、ブッシュミルズかジェイムソンを飲む。

そんなことを思い出していたら、村上春樹さんのアイラ島とアイルランド旅行記「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」を読みたくなり、久しぶりに本棚から取り出した。「サントリー・クォータリー」誌に掲載したもので、スコットランドのアイラ島とアイルランドを訪ね、ウィスキー醸造所を巡る旅行記である。アイラ島には七つの醸造所があり、すべてシングルモルトだ。村上さんによれば、癖のある順にアードベッグ、ラガヴリン、ラフロイグ、カリラ、ボウモア、ブルイックラディー、ブナハーブンとなるらしい。やはり、ラフロイグは癖が強い方なのだろう。

もっとも、僕はこの七つの銘柄のうち、ラフロイグとボウモアしか飲んだことがない。それも熟成した年数によって変わる。ラフロイグは十五年か二十年ものを飲んだ。ボウモアは何年ものだったか忘れてしまった。数年前、WOWOWのドキュメンタリーでリリー・フランキーがボウモアの醸造所を訪ねる番組を放映した。そのとき、アイラ島を見たのだけど、僕もウィスキーを飲むためにいってみたいなあ、としみじみ思った。僕のウィスキー好きは勤めていた会社でも知られていたらしく、退職時の記念品に相棒だった同僚はバランタインの三十年ものを贈ってくれたし、労働組合からはサントリー山崎の十八年ものをもらった。二本合わせると、十万円である。それを僕は、早々に飲んでしまったのだけれど。

----アイルランドを舞台にしたジョン・フォードの映画「静かなる男」の中で、バリー・フィッツジェラルドがウィスキーを勧められ、「水はいる?」と尋ねられて、「わしゃ、水を飲みたいときには、水だけを飲む。ウィスキーを飲みたいときにはウィスキーだけを飲む」と答えるなかなかチャーミングな場面があったけれど、実際にはそういう人はむしろ少数派で、少量の水を加えて飲む人がほとんどである。「そのほうがウィスキーの味が生きるんだ」と彼らはいう。

これは、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」に出てくる一節だ。この文中の「静かなる男」には欄外に村上さんの長文の注釈がついていて、冒頭に「僕は何かすごくいやなことがあると、いつもビデオで『静かなる男』を見ることにしている。だから(当然のことながら)ずいぶん何度もこの映画を見た。何度見ても、素晴らしい映画だと思う」という一文がくる。このことは、昔、書いたことがあるけれど、ずっと僕の記憶に残っていて、僕も気持ちが落ち込んだときには「静かなる男」を見たりした。この本から、そういう影響は受けたのだけれど、相変わらずウィスキーは水で割らず、けっこうストレートで飲むことが多い。「ストレート・ノーチェイサー」を気取っているのだ。

●アカデミー主演男優賞と助演男優賞の両方でノミネートされた

バリー・フィッツジェラルドは、酔っぱらいの役がよく似合う。そんな先入観ができたのは、「静かなる男」(1952年)の馬車の御者役の印象が強かったからだろうか。あの映画にバリー・フィッツジェラルドが出ていなかったら、ホントに味気ない作品になってしまっただろう。アイルランドの田舎駅、ジョン・ウエインの荷物を勝手に馬車に積み込む、とぼけた小男の御者。チンクシャな顔をし、笑うと愛嬌がほとばしる。狂言まわし的な役で、ウィスキーに目がない。笑わせる演技の間が抜群で、ユーモア漂うキャラクターである。一八八三年にアイルランドに生まれた役者で、ジョン・フォードに雇われて渡米したという。

フォード一家の役者と言えばいいのだろうか。しかし、僕が見たバリー・フィッツジェラルドが出演したジョン・フォード作品は、「果てなき航路」(1940年)「我が谷は緑なりき」(1941年)「静かなる男」(1952年)だけである。まあ、あまり西部劇には向かないような気がする。バリー・フィッツジェラルドの代表作となると「我が道を往く」(1944年)だが、監督はレオ・マッケリーである。この作品で、バリー・フィッツジェラルドはアカデミー主演男優賞と助演男優賞の両方でノミネートされた。同じ作品で、ビング・クロスビーも主演男優賞にノミネートされたからややこしい。結局、バリー・フィッツジェラルドは、助演男優賞に落ち着いた。

アイルランド出身の老神父フィッツギボン役がバリー・フィッツジェラルドだ。彼が長年愛してきたニューヨーク下町のセント・ドミニックは、金貸しに催促を受けているような貧しい教会だが、そこへ新任神父オマリー(ビング・クロスビー)がやってくる。型破りなオマリー神父に老神父フィッツギボンは眉をひそめ、彼の転任を教皇に進言するが、自身の引退を勧められ、オマリーが教会の新しい神父だと知る。一方、オマリーは自分は副神父でよいとフィッツギボンに譲り、不良少年たちにコーラスを教えて更正をはかる。そのコーラス団をつれてコンテストに出て入賞する。彼らのレコードが発売され、その売上金で教会の補修もできることになる。

ハリウッド調のハッピーエンディングではあるが、これほど感動的な作品はそうない。もちろん、ビング・クロスビーの存在なくして、この映画は成立しないけれど、バリー・フィッツジェラルドがいなければ、きっと味わいのない作品になっただろう。謹厳実直で、伝統を守る老神父。それでいて、愛嬌があり、独特のユーモアを醸し出す。バリー・フィッツジェラルドというキャラクターに負う部分の多い作品だ。彼が主演と助演の両方の候補として取り上げられたのもよくわかる。ラストシーンの余韻は深く、アイルランドへの望郷の念がバリー・フィッツジェラルド自身の人生に重なり、涙なくしては見られない。ハリウッドが持ち得た至宝の一作である。

●ニューヨーク中をロケしドキュメンタリーを見ているような作品

「裸の町」(1948年)では、バリー・フィッツジェラルドはシリアスな演技を求められた。出てくるだけで観客の頬がゆるむような役者だったバリー・フィッツジェラルドだが、ここではニューヨーク市警殺人課の老練な刑事を演じた。この映画の公開によって、「セミ・ドキュメンタリー調」という言葉が使われるようになった。ニューヨーク中をロケし、ドキュメンタリーを見ているような気分になる作品だ。ジュールス・ダッシン監督は意欲的で才能にあふれていたが、この後、赤狩りに遭いハリウッドを追われた。ヨーロッパで映画作りを続けたが、後にギリシャ映画「日曜はダメよ」(1960年)をヒットさせる。

「裸の町」は、アパートで殺されていたモデルの捜査を地道に描いている。刑事たちが町を歩くシーン、俯瞰で見せるニューヨークの広さなど、現実の捜査を思わせて斬新だった。モデル殺しには、宝石強盗事件がからんでいることがわかってきて、最後には犯人逮捕のハラハラドキドキもあり、現在につながる刑事映画の嚆矢と言えるだろう。すぐれた喜劇役者は名優であることが多いが、バリー・フィッツジェラルドも老練な刑事の雰囲気を漂わせ、アクションにさえ挑んでいる。このシリアスなバリー・フィッツジェラルドを先に見ていたら、「静かなる男」の御者とは別人だと思ったかもしれない。

僕は「静かなる男」を先に見てしまったが、「裸の町」の方が「静かなる男」より四年早く制作されている。日本公開は一九四八年の十二月二十八日だった。お正月映画だったのだ。その十ヶ月後、黒澤明監督の「野良犬」(1949年)が公開される。間違いなく、黒澤明は「裸の町」にインスパイアされて「野良犬」を撮ったのだ。刑事が犯人を追うという物語も、ドキュメンタリー・タッチでの撮影も、黒澤明は「裸の町」に影響を受けたに違いない。黒澤明のジョン・フォード好きは有名だが、フォード作品に出たときとは違う「裸の町」のバリー・フィッツジェラルドの演技に驚いたのではないだろうか。

バリー・フィッツジェラルドは、一九六一年一月、心筋梗塞で七十二歳の生涯を閉じた。「静かなる男」に出たときは、すでに六十四歳だったのだ。調べてみたが、「静かなる男」以降の出演作はないようだ。六十半ばで代表作のひとつを持てたのは幸せだったのではないだろうか。ちなみに、「静かなる男」のジョン・ウェインとヴィクター・マクラグレンの延々と続く殴り合いは、宮崎駿監督の「紅の豚」(1992年)の殴り合いに影響を与えていると思う。いや、影響というより、オマージュなのかもしれない。おそらく、宮崎駿監督もジョン・フォード作品が好きなのに違いない。

2018年4月 5日 (木)

■映画と夜と音楽と…812 膝を抱えて聴いたハスキーヴォイス



【奇跡/彼らが本気で編むときは、/追憶】

●暗い学生だったと語った池上彰さんの思い出の曲

ジャーナリストの池上彰さんがテレビ番組で「私の思い出の曲」についてコメントしていた。池上さんは一九五〇年八月生まれ。僕より一歳上だけれど、ほぼ同時代を生きてきたから、その思い出の曲のコメントが妙に身に沁みた。池上さんは「私の一曲は、りりィの『私は泣いています』です。実に暗い学生で、下宿でこの歌をじっと聴いていたんですね」と、いつものしゃべり方で言った。その瞬間、「私は泣いています」と歌うりりィのハスキーヴォイスが甦り、何もない四畳半のアパートの隅で膝を抱えて、何時間もじっとしている大学生の僕自身の姿が浮かんできた。四十五年前のあの頃、僕も暗い(ネクラ・ネアカという言葉は、数年後に生まれる)学生生活を送っていた。

調べてみると、りりィの「私は泣いています」のシングル盤が発売されたのは、一九七四年三月初旬だった。大ヒットしたのはその後のことだとすれば、僕は大学四年になり、オイルショック直後の不況の中、就職活動に悪戦苦闘していた時期だったことになる。その年の五月の連休に帰省し、当時は高松で暮らしていたかみさんの実家へいき、「卒業したら結婚したい」と両親に申し出た僕は、何としても生活の基盤を確立するために就職を決めなければならなかった。しかし、前年秋のオイルショックは、ずっと続いてきた高度成長を打ちのめし、戦後初めて「大卒予定者の内定取り消し」が起こったほどの就職難をもたらせた。文学部フランス文学専攻で、大学紛争によってレポート試験が二年も続いたおかげでようやく卒業できる、卒論も書かなかった(書かせてもらえなかった)劣等生を採用しようという企業はなかった。

おまけに、僕はまともに就職活動をすることに後ろめたさがあった。結婚するためという言い訳があったから、僕は出版社の就職試験をいろいろ受けてはいたのだけど、そんなことをしている自分をどこか軽蔑する気持ちがあった。僕と同じ大学の同じフランス文学専攻を一年早く卒業し、大手出版社の小学館に入っていた高校時代の同級生は、そんな僕に向かって「おまえは、就職活動に本気じゃないところがある」と説教し、初めて僕が筆記試験を通過した集英社の面接試験の直前に下宿に現れ、「集英社はうちの子会社だけど、小学館と違ってワイルドな会社なんだ。『御社一社に絞って受験しました』とハッタリかました方がいいだろう」と自信たっぷりにアドバイスした。その言葉に従って僕はその通りに面接官に答え、面接は三分で終了した。どうして自分の考えで答えなかったのか、と廊下に出た僕は深く恥じ悔やんだ。

時代は、暗かった。全共闘世代の高揚は潮が引くように消えていき、セクト間の内ゲバばかりが起こっていた。大学の中庭で色の異なるヘルメットをかぶった連中が、角材をふるって殴り合っていた。角材はおろか、すでに鉄パイプが登場していたし、少し後にはとうとうバールが用いられるようになった。学校へいくのにさえ、命がけだったのだ。二年前の二月に判明した連合赤軍事件は「革命」という言葉に暗い影を生み、幻滅した僕は二度と「革命」という言葉を口にしなくなった。そんな事件が起こったにもかかわらず、その後も内ゲバでの死者はどんどん増えていた。僕は大学に入った時からノンポリだったけれど、そんな時代のイヤな空気が学内を覆っているのに耐えられなかった。どういうわけか、ノンポリの僕でさえ一度、大学の構内でヘルメットの連中に囲まれたことがある。「おまえは意識が低すぎる。自己批判しろ」と迫られた。

「私、高松に帰ることにした」と後にかみさんになる女性に突然宣言され、彼女のアパートの部屋の整理を手伝い見送ったのは前年の暮れ近く、木枯らしが吹き始めた冬の初めだった。それ以来、下宿と学校を往復し、ときに映画館に籠もるだけになった僕は、自分の将来に不安しか感じられなかった。それでも彼女とは何度か手紙をやりとりし、五月の連休にかみさんの実家に結婚の許可をもらいにいくことになった。就職も決まらない自分なのに、責任だけが生まれるという憂鬱な気分になりながらも、それを彼女に感じさせてはいけないと言い聞かせた。ずっと準備していた天井桟敷を借りての友人たちとの芝居公演を僕は途中で放り出し、五月の連休に僕は高松に帰ったのだった。そこにも、後ろめたい気持ちがあった。そんな暗い時代の僕にとって、あのしゃがれ声で歌うりりィの「私は泣いています」は、心の底奥にまで響くような気がしたものだった。

●「夏の妹」出演が「私は泣いています」より先だった?

りりィは一九五二年二月に生まれ、二〇一六年十一月十一日に没した。六十四年間の人生だった。僕とは学年が同じだったから、同時代を生きた人だった。僕はずっと「私は泣いています」が大ヒットしたから、大島渚が「夏の妹」(1972年)のヒロイン栗田ひろみのピアノ教師で、父親の再婚相手という役でりりィを起用したのだと思っていた。十四歳の栗田ひろみは「夏の妹」でデビューし、その後、アイドルとして絶大な人気を集めた。その相手役に人気のあった若手俳優の石橋正次を起用し、「大島渚もアイドル映画を撮るようになったか」と陰口をたたかれた作品が「夏の妹」だった。沖縄がアメリカから日本に返還されたのは、一九七二年の五月。返還されたばかりの沖縄でロケを行い、登場人物たちの関係に、戦後二十七年間アメリカに占領されてきた沖縄と本土の関係を重ねた作品だった。

今回、確認してわかったのは「夏の妹」の公開は、「私は泣いています」ヒットの二年前だったことだ。これは、僕の記憶がまったく違っていたということになる。すると、ATG直営館の新宿文化で封切り公開時に「夏の妹」を見たとき、僕は栗田ひろみもりりィも新人女優として見ていたことになる。新国劇出身の石橋正次には、映画デビュー作品である藤田敏八監督の「非行少年・若者の砦」(1970年)ですでに注目していた(同じ年、日活「あしたのジョー」実写版に主演)が、その後、テレビの学園ものや特撮ドラマ「アイアンキング」に出演して人気が沸騰、その年の初めには最大のヒット曲「夜明けの停車場」を出し知名度抜群の俳優になっていた。僕は今でも、沖縄の飲み屋街を「シルバー仮面は~さすらう仮面」とギターを弾いて歌いながら歩く石橋正次と栗田ひろみのシーンを記憶している。脚本に加わっていた大島渚一派の佐々木守は、「シルバー仮面」や「アイアンキング」の脚本も書いていたのだ。

りりィも「夏の妹」のときは、まだ二十歳だった。フランソワーズ・アルディみたいな洗い晒しの長い髪で化粧っけもない(ように見えた)りりィは、当時の「先鋭的で、知的で、倦怠感を漂わせた(アンニュイな)、かっこいい」女性だった。まだヒッピー・ムーブメントが現役だった頃の話だ。新宿ゴールデン街あたりにいけば、カウンターで出会いそうな女性のイメージがあった。アングラ(アンダーグラウンドの略です。念のため)演劇やATG(アート・シアター・ギルドです。念のため)映画、ジョルジュ・バタイユの「眼球譚」やスーザン・ソンタグの「キャンプ」、あるいは金井美恵子の詩などを話題にしそうな感じだった。つまり、僕など怖ろしくて話しかけられないタイプに思えた。そんなりりィを「夏の妹」で見ていたから、「私は泣いています」がヒットしたとき、僕はあのしわがれ声をしみじみと聴いたのかもしれない。

「夏の妹」の次に印象に残ったりりィは、松田優作主演・村川透監督の鳴海昌平シリーズ「処刑遊戯」(1979年)の「謎の女」役だった。殺し屋とミステリアスな雰囲気を漂わせる女。ハードボイルド・ストーリーでは絵に描いたような登場人物たちだが、とにかくキマっていた。りりィのあの声が効果的だった。長い手足を持て余すように動かす松田優作が魅力的だった。松田優作が鳴海昌平シリーズで確立したキャラクターは、後の角川映画「野獣死すべし」などにつながっていった。しかし、それ以降、僕はりりィの消息を見失った。僕にとってりりィは、「夏の妹」と「処刑遊戯」の女優であり、「私は泣いています」一曲だけの歌手だった。しかし、その間、彼女は音楽活動を充実させ、女優としてもコンスタントに仕事をしていたのを、僕は三十年後に知ることになる。

●突然、年老いたりりィが目の前に現れた気がした「奇跡」

僕の中で三十年以上の長い時間を経て、突然、りりィが復活したのは是枝裕和監督の「奇跡」(2011年)だった。それまでにも彼女の出演作----たとえば「リンダリンダリンダ」(2005年)「休暇」(2007年)「グーグーだって猫である」(2008年)「石内尋常高等小学校 花は散れども」(2008年)など----を見ていたのに、そこに登場していた女優がりりィだと気付かなかったのだ。「奇跡」は九州新幹線開通に合わせて企画された作品で、「九州新幹線の福岡発と鹿児島発の一番列車がすれ違うところを見ると願いが叶う」という噂を信じて、少年少女たちがそれぞれの願いを抱いてその場所を目指し旅に出る物語だった。少年少女は、ある日、ひとりの少女の祖父母の家に泊めてもらうことになる。その祖母を演じていたのが、りりィだった。スクリーンを見ていた僕は、「りりィじゃないか」と驚いて席を立ちそうになった。

それ以降、僕は多くのりりィの出演作を見た。りりィがずっと女優を続け、年相応の役をやっているのだと知った後、「キツツキと雨」(2011年)「任侠ヘルパー」(2012年)「GONINサーガ」(2015年)「FOUJITA」(2015年)「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016年)などでその姿を見たが、その間、多くのテレビドラマにも出演していた。僕は一度も見ていないのだけれど、人気ドラマ「半沢直樹」にも出ていたらしい。そして、彼女の死後も二本の映画が公開された。「彼らが本気で編むときは、」(2017年)と「追憶」(2017年)である。どちらも、出演シーンは多くはないけれど、印象に残る役だった。

「彼らが本気で編むときは、」はLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)をテーマにした荻上直子監督作品で、少し前に詳しく書いた。育児放棄の姉(ミムラ)の小学生の娘を預かる弟(桐谷健太)が一緒に暮らしている相手は、トランスジェンダーの女性(生田斗真)で、介護施設で働いている。姉弟の母親(りりィ)がその施設に入っていて、桐谷健太はやさしく母を介護している生田斗真を見て恋に落ちるのである。そのりりィは認知症ぎみながらも、重要なセリフを口にする役だった。すでにこの世にいない人なのだと思いながら見たが、この作品が遺作だとすればよかったのじゃないか、と僕は思った。

五十を過ぎたりりィは老女役や母親役が増えたけれど、良妻賢母型の母親は少なかったと思う。孫の少女の髪をやさしく梳いてやる「奇跡」の祖母役は、珍しいのじゃないだろうか。汚れ役、あるいはダメな母親役が似合った。降旗康男監督作品「追憶」の母親役が、まさにそういう役だった。主人公(岡田准一)は刑事になっているが、子供の頃、母親は男を作っては子供を置いたまま出ていく、いわゆる育児放棄の母親だった。年老いてもあちこちに借金し、息子に電話をかけてきて金の無心ばかりする。息子に邪険にされると、電話で「死んでやる」と言って狂言自殺するような、縁を切りたくなる母親だ。それでも、主人公は「薬を飲んだ」と母親から電話があれば、駆けつけざるを得ない。そんな厄介者の母親役が、りりィによく似合った。

りりィは、ガンで亡くなったという。六十四歳は、今の世の中では若死にだろう。おそらく、「追憶」「彼らが本気で編むときは、」の撮影時、彼女の体はすでにガンに蝕まれていたのではないか。しかし、映画を見る限り、そんな様子はうかがえない。「ブラック・レイン」(1989年)の松田優作が末期のガンだとはとても思えないのと同じである。りりィにも松田優作にも、改めて役者魂を感じる。そのふたりが共演した四十年近く昔の「死亡遊戯」が甦ってくる。りりィは、僕にとってはずっと「私は泣いています」の歌手だった。容姿より先に、あのハスキーヴォイスが浮かんできた。しかし、今では多くの映画で老女を演じた女優として僕の記憶に残っている。僕自身、四畳半の隅で膝を抱えていたときから、遥か遠くへきてしまった。若い頃のりりィではなく、白髪頭の彼女の姿が浮かんでくるのも当然かもしれない。

2018年3月29日 (木)

■映画と夜と音楽と…811 人生をやり直したいか?



【リライフ/ペギー・スーの結婚/カミーユ、恋はふたたび】

●「もっと別の人生があったのではないか」と思い始める中年期

僕は「人生はつらい」あるいは「人生は苦い」派だから、人生の持ち時間がいくらあるか知らないが早くなくなってほしいと思っている方なので、「もう一度人生をやり直してみないか」とメフィストフェレスみたいな悪魔が誘惑するように耳元で囁いても、「絶対イヤだ」と即座に断ると思うけれど、多くの人は「人生がやりなおせるなら、やり直したい」と思っているらしい。というのは、そういう物語や映画がけっこう多いからだ。タイムパラドックスをテーマにした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年)も、そういう願望から生まれたのだろうし、多くのタイムスリップものも根底は「人生をやり直したい」願望から生まれたのではないだろうか。

そんなことを考えたのは、先日の昼間、何となくかけたWOWOWで「リライフ」(2017年)という若者向けの映画をやっていたので見始めたら、つい全編見てしまいソコソコ楽しめたからである。僕は知らなかったのだが、ネットのコミックサイトで人気が出たコミックが単行本になり、百万部を越す売上げをあげた原作を映画化したものだという。実写版の前にアニメ版があり、テレビ放映されたらしい。見覚えのある人もいたが、どの登場人物も役者名は知らず、唯一知っていたのは市川実日子だけという有様だったけれど、ちょっと胸がキュンとする場面もあった。僕自身、高校の同級生と結婚しているので、高校生の恋愛物語に照れていてもしょうがないのだけれど、やっぱり気恥ずかしくなるセリフやシーンはあった。

物語は二十七歳のフリーターの青年が、ある研究所の人間に「高校生になって人生をやりなおすリライフの被験者にならないか」と誘われ、十年若返って高校三年生を一年経験し、改めて人生をやりなおすというものである。いろいろ細かな突っ込みどころはあるのだが野暮なことは言わず、二十七歳の経験と意識を持ったまま若返り、今の高校生と一緒に過ごすギャップに笑い、青春を謳歌する設定に浸かってみるのも悪くなかった。人間は二度目だと、やっぱり最初の人生で得た教訓めいたものを生かせるのだろうなあ。それに、主人公はある女生徒を好きになるのだが、そこに一種のどんでん返しがあり、おっ、この先どうなるんだ、と思わせる仕掛けもあった。ラストは大ヒット・アニメ「君の名は。」にそっくりで、今の若者たちはああいう設定や切なさに反応するのかと勉強になった。

「リライフ」は、「人生をもう一度やり直したい」というテーマを描くより、高校生活を感動的に描くために、十年若返って改めて高校生活を送る主人公の視点を借りた感じだった。どちらかと言えば、「人生をやり直したい」と思い詰めるのは、もっと生活の苦労を経験したり、愛し合って結婚したのに倦怠期に陥り「もっと別の人生があったのではないか」などと思い始める中年期、いわゆる「ミドルエイジ・クライシス(中年の危機)」の人たちではあるまいか。もうずいぶん前の映画になったけれど、フランシス・フォード・コッポラが監督した「ペギー・スーの結婚」(1986年)がそうだった。夫に愛人ができて別居中の妻が高校の同窓会に出て、パーティで興奮して失神し、気がついたら二十五年前の高校時代にタイムスリップしていたという物語である。

●人生をやり直したいと夢見ても虚しいだけだと思う

ペギー・スーを演じたのは、当時、三十二歳のキャスリーン・ターナーだった。夫役は、当時、二十二歳のニコラス・ケイジである。ふたりとも、三十半ばの倦怠期で別居中の夫婦を演じ、そのまま二十五年前の高校生も演じている。キャスリーン・ターナーの十七歳はちょっとつらいが、ニコラス・ケイジの老けメイクもつらいものがあった。キャスリーン・ターナーはパラシュートみたいなスカートでポニーテールにして踊ったりするので、ちょっと痛々しいところもあったけれど、若い頃を別の女優が演じていたらまったく違うテイストの作品になってしまっただろう。

もしかしたらコッポラ監督の強い要望に「わかったわよ。私が十七歳を演じるわ」と応えたのかもしれないが、三十二歳のキャスリーン・ターナーの決断に、公開当時、僕は拍手を送ったものだった。彼女自身が演じたから、人生の苦さのようなものが滲み出たのだ。ところで、関係ないけど初めて見たキャスリーン・ターナーは、素っ裸でウィリアム・ハートのナニ(そこはギリギリ映らなかったけど)をつかんで歩いていた。あの「白いドレスの女」(1981年)は、ミステリ映画の傑作だった。二重のどんでん返しも効いていて、悪女もの好きの僕を喜ばせてくれた。当時、僕は双葉十三郎さんの連載を担当していたが、「白いドレスの女」を絶賛した原稿を受け取った。

ちょっと脇道にそれてしまったが、ペギー・スーは高校生活をやり直すことになり、再び将来結婚することになるチャーリー(ニコラス・レイジ)と出会ってしまう。しかし、同じ人生を繰り返したくないペギー・スーはチャーリーを避ける。そこで、新たに孤独な文学青年と出会ったりする。彼女は二度目の人生を、以前の教訓を生かしてやり直そうとするので、一回目の高校生活よりは有意義な人生になる。しかし、結局、彼女は未来に残してきた子供たちが気になり、元の人生に戻ろうとする。結末は、ハリウッド映画らしく「めでたしめでたし」という感じで終わる。結局、映画を見終わった僕の感想は、「人生をやり直したいと夢見ても、むなしいだけ」というものだった。

「ペギー・スーの結婚」は同窓会で失神したペギー・スーの夢だったのではないか、という解釈ができる。現実には人生をやりなおすのは不可能なので、そういう構成にしたのかもしれないが、やはり、元のさやに収まるという終わり方以外には結末を考えにくい。自分の人生は、自分で引き受けるしかない。投げ出すとしたら自殺するしかないけれど、そう簡単には死ねない。チャップリンが言うように「死が訪れるまでは、生きるしかない」のだ。だとしたら、嫌々生きるよりは自覚的に生きた方がマシだと思う。積極的に生きろとか、そういうことではなく、どのように生きてもいいのだが、「これは私の人生であり、私はこのように自分で選択して生きている」と自覚して生きるという意味である。つまり、何かあっても、すべて自分の選択だと覚悟することである。他の何かのせいにしない。他人のせいにしない、運命のせいにしない、時代や社会のせいにしない。

●やり直したら幸福な人生が送れると思うのは勘違いである

物語を要約すると、まるで「ペギー・スーの結婚」のリメイクかと思うのが、フランス映画「カミーユ、恋はふたたび」(2012年)だった。日本公開は三年前。制作年では「ペギー・スーの結婚」と二十六年のへだたりがある。何年経っても同じ発想をする映画人がいるということは、「人生をやり直したい」と考えている人が多いということか。それにしても、古今東西を問わず、タイムスリップするのはなぜ高校時代なんだろう。やっぱり、一番楽しかった時期なんだろうなあ。性には目覚めてるし、恋のときめきはあるし、その恋が結婚につながる可能性はあるし、社会人になるにはまだ猶予があるし、といった時期を求めると、やはり高校時代になるのだろう。

「カミーユ、恋はふたたび」は、女優でもあるノエミ・ルヴォフスキーが脚本・監督・主演している。ヒロインはまったく美人じゃない中年女性なのだが、その中年女性のまま高校生をやってしまう。十代の女の子のコスチュームを着たりするので、ちょっと引く気分もある。ただし、周囲の人は彼女が十代後半に見えるらしいという設定だ。カミーユは、二十五年連れ添った夫に女ができて離婚を宣言される。荒れた気分でパーティで飲み過ぎたカミーユが目覚めると、高校生に戻っている。家へ帰ると死んだ両親が「カミーユ、どうしたの」と迎えてくれる。学校でも何人かの仲良しグループができて、二度目の高校生活が始まる。

しかし、そこへ結婚することになる夫がかっこいい青年の姿で現れ、カミーユは避けようとするが、彼はカミーユに恋をして、しつこくつきまとう。カミーユも将来結婚し、やがて若い愛人を作って離婚を言い出すことを知りながら、彼に惹かれていく。一方、カミーユはタイムスリップしたことを教師に話すのだが、だれも信じない。唯一、哲学の教師だけが彼女の言うことを半信半疑で信じ、やがて教師はカミーユを愛し始める。結局、彼女も本来の時代に戻るのだが、その時、哲学教師に会いにいき、二十五年分の歳を重ねた哲学教師との愛を確認する。しかし、結局、彼女は人生をやり直してよかったのかどうかはわからない。僕がこの映画を見て持った感想は、「やり直した人生がマシだという保証はない」ということだった。

つまり、「満足して幸福であり続けられる人生」なんてものはないのだ。どんな人生にも幸福があり、不幸がある。成功があり、失敗がある。失意の時があり、得意の時がある。高揚があり、どん底がある。期待があり、落胆がある。喜びがあり、悲しみがある。苦しみがあり、楽しみがある。出逢いがあり、別れがある。希望があり、絶望がある。要するに、プラスがあれば、マイナスもあるのだ。それは、どんな人生も変わらない。だとすれば、その人生を生きる人間は努力するしかないのではないか。夢を実現しようとするか、少しでも楽な生活をしようとするか、貧しくてもいいから楽して生きようとするか、どんな生き方でもいいけれど、自分が選択した生き方をまっとうしようと努力するしかない。

結論は、「人生をやり直したら、違う(幸福な)人生が送れると思うのは勘違いである」ということではないか。だから、どんな人生も同じであるなら、もう一度生きろと言われても「イヤだ。絶対にイヤだ」と僕は言う。ようやく、六十六年もつらい人生を生きてきたのだ。人生には間違いなくゴールがあるのだから、僕はセッセと生きて残り時間を減らし、そのゴールに近づいていくしかない。今まで一生懸命走ってきたのに、また、戻って走りなおせと言われたら、どんなマラソンランナーだって拒否するはずである。できれば、ゴールに至るまで、自覚的に生きていたいと思うけれど----。

2018年3月22日 (木)

■映画と夜と音楽と…810 博覧強記の文学者がいた



【真剣勝負/女ざかり】

●百円棚から救いだしてきた丸谷才一著「輝く日の宮」

散歩のついでにブックオフを覗いていたら、丸谷才一さんの「輝く日の宮」があったので百円棚から救い出してきた。本人が習作という長編「エホバの顔を避けて」と二作目の長編「笹まくら」は読んでいないけれど、「たったひとりの反乱」以降の長編は必ず読んでいて、「輝く日の宮」だけ未読だったのだ。短編集は初期の「にぎやかな街で」、芥川賞を受賞した「年の残り」、人に「絶対読め」と勧めまくった「横しぐれ」、後期の「樹影譚」など主だったものは読んでいる。それに、おもしろくて一気に読めた評論「忠臣蔵とは何か」も忘れがたい。英文学者で翻訳も多く、日本の古典にも造詣が深く、エッセイストであり、書評家であり、十年に一作くらいのペースで長編小説を出した博覧強記の文学者である。

僕が初めて丸谷才一という名前を知ったのは、中学一年のときだった。一九六四年、二ヶ月ほどで東京オリンピックが開かれようという夏、僕は常盤新平さんが編集長をしていた「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」を初めて買ったのだが、そこに「深夜の散歩」という新刊が紹介されていた。著者は、福永武彦、中村真一郎、丸谷才一の三人だった。「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」に最近まで連載されていたミステリ・エッセイで、それが一冊にまとまったものだった。ということから、その三人をミステリ好きな純文学作家として僕は認識した。福永武彦が加田伶太郎の名前で本格ミステリを書いているのも、そのときに知った。福永武彦名義で書いた王朝小説「風のかたみ」も、ミステリ的どんでん返しの見本みたいな作品だ。

さて、丸谷才一さんは書評をまとめた本も多いが、「深夜の散歩」もそのジャンルの一冊である。丸谷さんが書評で取り上げた本には、様々なジャンルのものがある。難解なジェイムズ・ジョイスを翻訳する一方、ミステリも書評の対象として多く取り上げた。僕はグレアム・グリーン全集を揃えているのだけれど、何冊かは丸谷さんの翻訳である。グレアム・グリーンはノヴェルとエンターテインメントを意識的に書きわけた作家で、多くの作品が映画化されているが、読者はエンターテインメントの「第三の男」や「ハバナの男」も、ノヴェルと言われる「情事の終り」や「権力と栄光」も区別せずに読んでいるのではあるまいか。丸谷さんも純文学もエンターテインメントも同じように読み、同列に評価していた気がする。

ちなみに僕の手元にある丸谷さんの書評集「いろんな色のインクで」をひもといてみると、「ジェイムズ・ジョイス伝」からエーリッヒ・フロム「愛と性と母権制」、村上春樹「スプートニクの恋人」などと共にジャック・ヒギンズの「密約の地」も取り上げている。そう言えば、内藤陳さんのお別れの会で大沢在昌さんにお会いしたとき、ちょうど新刊の「新宿鮫・絆回廊」を新聞の書評で丸谷才一さんが誉めていたのを読んでいたので、「丸谷さん、絶賛でしたね」と言ったら、大沢さんは「ありゃ、誉めすぎです」と照れていた。丸谷才一さんに誉められたら、どんな作家もうれしいだろうと思う。その丸谷さんも亡くなって、すでに五年が過ぎ去ってしまった。

●「輝く日の宮」に出てきた宮本武蔵の映画とは?

評論「忠臣蔵とは何か」は、ある仮説を立てて実証していくという推理小説的手法で貫かれていて、読み出したらやめられなかった。それに、その本のおかげで僕は様々な知識を得た。「輝く日の宮」も同じように、様々な知識が得られる長編小説だった。短編「横しぐれ」も山頭火について、まるで評伝を読んでいるかのような知識が得られるし、山頭火の自由律の俳句が作品の中に取り込まれ、その俳句の解釈から様々に推論を進めていく小説的おもしろさに充ちていた。「輝く日の宮」の後半は、「源氏物語」には「輝く日の宮」という巻があり、それが抜けているのはなぜかという謎を解き明かすおもしろさで読者をひっぱっていく。

まず、最初の章に「0」と付けられているのが「?」となるが、その意味は読み進めるとわかるようになっている。その章は、いきなり泉鏡花風の文章で始まる。丸谷さんは、ある時期から旧仮名遣いで書き続けているので、ついに鏡花風な文体になったのかと戸惑いながら読んでいると、それはヒロインの杉安佐子が中学生のときに書いた、鏡花を真似た小説の習作であることがわかる。そして第1章には、国文学者になったヒロインが登場するのだ。実に自由に書かれた小説で、第2章では安佐子の学会での発表が中心になる。作者は「ここからは、彼女の『芭蕉はなぜ東北へ行ったのか』の原稿をそのまま載せ、ただし補足した部分は《》に囲み、原稿にあったのに読まなかった部分は縦線で消すことにしよう」と書く。

さらに第4章は、まるまるシンポジウムのやりとりが九十頁近くを使って展開される。最初に状況設定などが書かれ、後は人物の名前と発言が戯曲のように書かれていく。また、ときどきト書きのように人物の反応や動き、観客たちの様子が挿入される。ここで、「源氏物語」専門の女性研究者から「『輝く日の宮』は、最初からなかった」とヒロインは反論され、次第に論争がエスカレートしていくのだ。つまり、第2章を読むと芭蕉の「奥の細道」の研究に詳しくなり、第4章を読むと「源氏物語」に対する様々な説を知ることになる。まるで、国文学の研究書を読んでいるような気分である。

一方、ヒロインの恋愛模様も描かれていて、海外の空港で知り合ったビジネスマンと通い婚(平安時代と同じように男が女の部屋に通う)の仲になり、その相手であるビジネスマンの話もいろいろと出てくるのだが、そのエピソードのひとつがおもしろかった。彼はニューヨークのパーティであるアメリカ人と親しくなり、そのアメリカ人は「大変気に入っているムサシの映画」があると話す。彼が「三船はいい役者ですからね」と答えると、相手は「いや、ミフネではなくて----」と反応する。「中村錦之助?」とつぶやくと、相手は強くうなずく。

----「キンノスケ! 彼がいい」と男はうなづいて、それから、鎖鎌で向つて来る夫婦者にたぢたぢとなつて、絶体絶命の窮地に陥り、つひに女房がおぶつてゐる子供を人質に取つて戦ふ武蔵の映画を、褒めちぎつた。「あの卑怯なムサシ。すばらしい。あれは偽善的なハリウッド映画には決して出て来ないヒーローですよ」(「輝く日の宮」)

ここで、僕にはアメリカ人が言っている映画が内田吐夢監督の遺作になった「真剣勝負」(1971年)だとわかったが、作中のビジネスマンは見たことがなく、アメリカ人の豪華な自宅マンションへいき、ふたりでその映画を見ることになる。そこから三頁ほど、「真剣勝負」の映画が描写される。丸谷さんは実によくまとめていて、「真剣勝負」を見ていなくてもよくわかる。また、「何か唐突な終り方で、あとで調べたら、内田吐夢の死後に編集されたせいとわかつたが」という文章まで出てくる。これは、やはり丸谷さん自身が「真剣勝負」を好きなのではあるまいか、と僕は感じた。不思議な展開の映画だし、公開当時は評価が低かったと記憶しているけれど、やはりあの「卑怯な武蔵」は必見だと思う。

●丸谷才一さんの小説は「女ざかり」が映画化されているが

丸谷才一さんの映画評やコメントはほとんど記憶になかったので、「真剣勝負」が作中に出てきたのは、ちょっとうれしかった。ただ、博覧強記の人だから、映画もかなり見ていたのではないかと思う。前述の「いろんな色のインクで」の中に「千年紀のベスト100作品を選ぶ」という章があり、選者は丸谷さん以外に評論家の三浦雅士さん、仏文学者の鹿島茂さんが加わっている。

1位が「源氏物語」で、2位に「失はれた時を求めて」が入っており、3位がジョイス「ユリシーズ」、6位にフェルメール「手紙を読む女」、7位にモーツァルト「クラリネット五重奏曲」というように文学、音楽、美術、建築作品などが入っているが、映画作品も入っていて、22位に「シテール島への船出」と「81/2」が同位で入っている。他の映画は52位に「キング・コング」、65位に「ワイルドバンチ」と「地獄に堕ちた勇者ども」「暗殺の森」、76位に「七人の侍」「勝手にしやがれ」「北北西に進路を取れ」「去年マリエンバートで」が選ばれていた。

同じ本に、フェリーニの「81/2」についての丸谷さんの短文が入っていた。ジョイスの研究家らしく、その短文は「『81/2』について論じるとき、最も多くあげられる名前はジョイスだといふ。しかしフェリーニ自身は読んでないと答へた。そこでわたしは言ふ。第一に、インタヴューに正直に答へるフェリーニがゐたら、ニセモノに決つてる。読んでないと答へた以上、かならず読んでるはず」と始まっている。九百字足らずの文章だが、そこにはフェリーニに対する深い洞察がうかがえる。やはり、映画を見る目も確かな人だったのだ。

ところで、丸谷才一さんの小説で映画化されたのは、「女ざかり」(1994年)だけである。「裏声で歌へ君が代」から十一年、一九九三年に出版された長編「女ざかり」は、「たったひとりの反乱」と同様にベストセラーになった。新聞社の論説委員の女性が主人公である。映画化に際しては、ヒロインを吉永小百合が演じた。論説委員になって初めて書いた社説が宗教団体の逆鱗に触れ、その宗教団体から多額の献金を受ける政治家が圧力をかけ、ヒロインを左遷させようとする。そんな権力とのかけひきが様々に描かれていく。政治的・社会的な要素が入ってくるのが、丸谷さんの長編の特徴である。

大林宣彦監督にしては、ちょっと異質の作品である。この当時、大林監督は十六ミリカメラを自在に駆使し、細かくカットを割るやり方を試していた。「青春デンデケデケデケ」(1992年)と同じ手法だ。独特のリズムが出るが、めまぐるしさを感じる人もいるだろう。あるいは、妙に落ち着かない気分になる人もいるかもしれない。三十五ミリカメラを三脚に据えて、フィックスで俳優たちの演技をじっくり撮影する映画に慣れている人には向いていない。セリフのやりとりもコマ切れで、しゃべりが速すぎたりする。無名の少年たちが駆けまわる「青春デンデケデケデケ」では効果的だったけれど、どちらかと言えば昔ながらの熱演をするタイプの吉永小百合(他にも、三國連太郎や津川雅彦など)には向いていなかったと思う。丸谷才一さんは、どう思っていたのだろう。

2018年3月15日 (木)

■映画と夜と音楽と…809 53階のアカデミー賞



【15時17分、パリ行き/ディア・ハンター】

●横浜ランドマークタワーのホテルに泊まることになった

一度も海外にいったことがない僕と違い、かみさんはイギリスを含むEU諸国はほとんど踏破し、アジアもヴェトナム、カンボジア、マレーシア、台湾は旅行済みである。したがって、あちこちの旅行会社からパンフレットが頻繁に送られてくる。二月のある日、「ねぇ、横浜のランドマークタワーのホテルが朝食付き一泊8900円で泊まれるわよ。朝食は70階のレストランよ」と、パンフレットを見ながらかみさんが言った。「ふーん、安いね」と言ったものの特に泊まりたいとは思わなかったのだけれど、かみさんはさっそく電話をして三月五日の予約を取ってしまった。しばらくして、「三月五日ってアカデミー賞の日だわ」とかみさんが隣の部屋で大声を挙げた。「録画しときゃいいだろ。字幕入りの放映のほう」と僕は自室から怒鳴り返した。

というわけで、三月五日はWOWOWのアカデミー授賞式の事前に行われる、レッドカーペットのレポートを少し見てから家を出ることになった。レポーターは石田純一と松原千明の娘(原健策の孫)だった。横浜までは、ほぼ二時間。ちょっとした小旅行である。僕は雑誌の編集部にいた頃、ロケでよく横浜(港近辺が多かった)を使ったが、きちんと観光をしたことはない。実は元町にもいったことがなく、中華街はある電機メーカーの新製品発表会の後、接待で連れていってもらっただけだ。昔の日活映画ではやたらに横浜が出てきたけれど、あんな風景が残っているわけもないだろうが、日活映画のディープなファンである矢作俊彦さんの小説を読んでいると、横浜のあちこちにいってみたくなる。

石川町に着いたのは昼前だった。駅前に出ると、少し雨模様である。見慣れぬ制服姿の女子高生たちがまとまってやってきた。「フェリスか」と思わず口にすると、かみさんが「フェリスらしいわよ」と答えた。「フェリスかあ」と僕は改めて感激した。何だかよくわからないが、何といってもフェリスである。かみさんの予定では古い外交官の洋館を見て、「港の見える丘公園」まで歩くことになっていた。ただ、ものすごい坂道である。後から気付いたのだが、途中で石段になっている脇道に曲がらなければならなかったのに、そのまま僕は坂道を登り続けた。途中で風が強くなった。傘をさしていても役に立たない。ようやく坂を登りきると、御屋敷ばかりが並ぶ山手本通りとなっていた。ただ、雨風がひどくなったので公園までいくのはあきらめ、フェリス女学院の角を曲がって元町へ向かう坂道を降りることにした。

元町のレストランで昼食をとって桜木町に戻り、雨風がひどいからホテルにチェックインしてしまおうと「みなとみらい」を歩いていると、シネコンの看板があった。「おお、イーストウッドの新作やってるじゃないか」と時間を確かめると、ちょうど十分後から始まる予定だ。ビルの六階にあがり、自販機でチケットを買いホールに入る。平日だというのに半分以上のシートが埋まっている。「さすがイーストウッドじゃのう」と感心しながら、映画が始まるのを待った。かみさんは予備知識がまったくなかったらしいが、僕は実際のテロ事件で英雄的行動をした三人のアメリカ人の若者たち本人が演じている、ということは知っていた。

●テレビ番組の「本人が演じています」的再現ドラマか?

「15時17分、パリ行き/The 15:17 to Paris」(2018年)というタイトルは、西部劇の名作「決断の3時10分/3:10 to Yuma」(1957年)をもじっているのだろう。イーストウッドらしいお遊びだが、通じなくてもいいと思っているに違いない。数年前、ラッセル・クロウとクリスチャン・ベイルによってリメイクされ、「3時10分、決断のとき」のタイトルで日本公開された。原作は西部小説をよく書いていたエルモア・レナードである。日本では犯罪小説作家としての方が有名で、クエンティン・タランティーノ監督の「ジャッキー・ブラウン」(1997年)の原作者である。エルモア・レナードはイーストウッド主演の西部劇「シノーラ」(1972年)のシナリオも書いている。

そんなことと「15時17分、パリ行き」は、まったく関係ない。列車内の無差別テロを防いだ実話というから、多くの人はもう少し列車内の派手なアクションがあるのかと思っていただろうなあ。スクリーン上で様々なヒーローを演じてきたイーストウッドは、「グラン・トリノ」(2008年)で自らが演じてきたヒーロー像を否定した。その後、現実のヒーローに関心を抱いたのか、ここ三作はすべて事実を元にした実在のヒーローを描いている。イラク戦争で百数十人を射殺した狙撃兵を描いた「アメリカン・スナイパー」(2014年)、ハドソン川へ不時着した旅客機の機長を描いた「ハドソン川の奇跡」(2016年)と続いた。どちらの映画も、ラストのクレジットタイトルのシーンに実際の人々の映像を流した。事実だと強調したかったのだろうか。

しかし、今回の作品はどうなのだろう。列車に乗り合わせた乗客も多くは実際の乗客を使い、救急隊員や警察官たちもそのテロ事件を体験した人たちを登場させているという。映画の最後に主人公たちはフランスの最高勲章レジオン・ドヌールを受勲するのだが、そのシーンには実際のオランド大統領が出てくる。イーストウッドによれば、「演技ではなく再現」であるらしい。その人自身が、そのときにどう動いたかをやってもらったという。確かに「ハドソン川の奇跡」とは、まったく異なるテイストの作品になっている。それに、「ハドソン川の奇跡」は事故後の調査委員会の話が中心になっていて、ドラマ的な葛藤がある。「15時17分、パリ行き」は、テレビ番組でよくある事実の再現ドラマに近い気がした。それにしても、本当にテロリストの最初の一発は、不発だったのか。出来すぎの気がしないでもない。

●クリストファー・ウォーケンの登場で感慨にふける

イーストウッドの新作を見て映画館を出ると、まだ雨風は強かった。ただし、屋根のある動く歩道を利用したので、ランドマークタワーまでは濡れずにいけた。そのままチェックインし、53階の部屋に入る。かみさんはすぐにカーテンを引き、窓際に立ち「ほら、街がジオラマみたいよ」などとのたまわっている。高所恐怖症の僕は、窓に近寄れなかった。遠くを見ることはできるが、真下を見るなどもっての他である。結局、泊まっている間、広い窓の一メートル以内には近づけなかった。かみさんはテレビのスイッチを入れ、いろいろチャンネルを変えていたが、「WOWOWが見られるわよ」と大声を挙げた。

ということで、レストラン街で夕食をすませ、成城石井で酒とつまみを購入して部屋に戻ったのが八時半。テレビの前にソファを移動させ、九時からの字幕入りアカデミー授賞式を待つことになった。毎回、アカデミー授賞式は冒頭の司会者のスピーチが楽しみだが、今年は昨年の作品賞取り違え事件のネタばかりやっていた。昨年は「俺たちに明日はない」(1967年)公開五十年だったので、作品賞発表のプレゼンターにフェイ・ダナウェイとウォーレン・ベイテイが出てきたのだが、今年は「『俺たちに明日はない』公開五十一年を記念して」という紹介で、フェイ・ダナウェイとウォーレン・ベイテイが再び登場してきたので笑った。昨年の失敗もシャレにしてしまうアメリカ的発想は好きだなあ。

九十回目の今年の驚きは、メリル・ストリープのアカデミー賞ノミネート二十一回という記録である。五十一回めで助演男優賞を受賞したクリストファー・ウォーケンがプレゼンターで登場したとき、メリル・ストリープとウォーケンがそろったことに僕はちょっと感激した。同時に「もう四十年前になるのか」と感慨深いものがあった。日比谷のロードショー館で身を乗り出すようにして手に汗を握り、スクリーンに釘付けになっていた二十六歳の僕自身の姿が浮かんできた。あれほどの衝撃を受けた映画は、そんなにない。「ディア・ハンター」(1978年)は、未だに僕の中に強烈な印象を残している。

「ジュリア」(1977年)で映画デビューしたメリル・ストリープは、翌年、「ディア・ハンター」でクリストファー・ウォーケンと共に初めて助演女優賞にノミネートされた。その翌年、「クレイマー、クレイマー」で助演女優賞を受賞し、その後、「ソフィーの選択」(1982年)「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(2011年)と二度も主演女優賞を獲得している。四十年間に二十一回ノミネートされたということは、ほとんど毎回ノミネートされている印象だろうが、最初にノミネートされた「ディア・ハンター」は彼女にとっても思い出深い作品に違いない。メリル・ストリープにとっては、婚約者だったジョン・カザールと共演した唯一の映画である。

ジョン・カザールという俳優は、「ゴッドファーザー」シリーズのコルレオーネ家の次男フレドで人々に知られているが、「ディア・ハンター」でも故郷の鹿狩り仲間として重要な役を演じている。そのジョン・カザールとメリル・ストリープは舞台で共演し婚約をしていたのだけれど、ジョン・カザールは若くして病没し「ディア・ハンター」が遺作になった。だからこそ、プレゼンターでクリストファー・ウォーケンが出てきたとき、真っ先に彼女は立ち上がり拍手した。もちろん、その後、全員が立ち上がりスタンディング・オベイションの拍手は続いた。それにしても「ディア・ハンター」公開四十年か。僕も年をとるはずである。

ちなみに、翌日の横浜は快晴。僕は「港の見える丘公園」へいき、大佛次郎記念館と近代文学館を見てきた。どちらも初めてである。猫好き作家で知られる大佛次郎の記念館では、猫の写真展が開催中だった。近代文学館では、企画展として「山川方夫と三田文学展」をやっていた。「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」で「トコという名の男」を連載していたとき、交通事故で亡くなった作家だ。僕が講談社文庫で「親しい友人たち」を読んだのは、たぶん大学生の時だったと思う。坂上弘(「故人」という長編で山川方夫のことを書いている)、田久保英夫など、僕の好きな作家たちを「三田文学」で育てた編集者でもあった。

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