2018年7月19日 (木)

■映画と夜と音楽と…826 陽の主役・陰の悪役



【子連れ狼・死に風に向かう乳母車/仁義なき戦い/仁義なき戦い・広島死闘篇】

●僕にとって加藤剛は映画の人であり、時代劇の人だった

六月十八日に加藤剛が亡くなっていたとわかり、七月上旬、テレビや新聞で大きく取り上げられていた。八十歳の名優。最近では「船を編む」(2013年)の加藤剛が印象に残っている。よい映画は、登場人物たちも愛しく思えるものだ。よい辞書を作るために十数年、様々な言語を収集する言語学者の姿は加藤剛ならではの誠実さとまじめさがうかがえ、こんな人間になりたかったなあ、と思わせるものだった。しかし、僕にとって加藤剛は、時代劇の人なのである。テレビ版「大岡越前」が代表作として紹介されていたが(僕も将軍になる前の吉宗を捕らえるエピソードだった第一回目を見ているが)、やはり映画の人であり、時代劇の人なのである。

事件現場に椿の花弁が置かれている連続殺人事件を捜査する与力を演じた「五辯の椿」(1964年)の加藤剛は若かった。続いて、テレビ時代劇「三匹の侍」(1966年)がある。丹波哲郎の柴左近がいなくなり、若手の加藤剛が加わった。そして、小林正樹監督の「上意討ち 拝領妻始末」(1967年)では三船敏郎と共演した。栗原小巻と演じた「忍ぶ川」(1972年)と同じ年には、「子連れ狼・死に風に向かう乳母車」(1972年)に出演している。さらに言うなら、最近、映画化された司馬遼太郎の「関ヶ原」(2017年)は、三十七年前にTBS開局何十周年かの記念で、三夜連続の九時間ドラマとして映像化されたことがあるのだけれど、加藤剛が演じた石田三成が実にはまり役だった。

俳優座養成所から俳優座に入り、ずっと俳優座の役者として活躍してきた人である。俳優座は映画部を持っていて、俳優座が制作した作品もある。加藤剛は積極的に映画に出演した人だと思う。松本清張原作の「影の車」(1970年)や「砂の器」(1974年)なども代表作として挙げられるが、ああいう暗い陰のある役は、あまり向いていないのではないかと思う。どうしても「誠実でまじめな人」というイメージがあるからだ。僕は小学六年生のときにテレビ版「人間の条件」で初めて加藤剛を見た記憶があり、あのヒューマニスト梶のイメージにぴったりだった。軍隊に入っても己の信念を貫く主人公を演じて、加藤剛は映画版の仲代達矢より向いていたのではないだろうか。

僕にとって加藤剛が時代劇の人である最も大きな理由は、「子連れ狼・死に風に向かう乳母車」の孫村官兵衛が忘れられないからだ。三十四歳、加藤剛は最も充実した役者人生を送っていた頃だと思う。殺陣も見事だった。子連れ狼こと拝一刀(若山富三郎)は、冒頭、あるいきさつから官兵衛に立ち会いを申し込まれ、刃を交える。じっと対峙した一刀は刀を鞘に収め、「この勝負、負けに致す」と言う。「何故に」と問う官兵衛に、「まことの武士として残しておきたいがゆえに----」と一刀は言いおき、乳母車を押して去っていく。その後ろ姿を見ながら官兵衛は、「また、死に損なったか」とつぶやくのである。この若き加藤剛がすばらしい。

●加藤剛と名和宏が出ていた「子連れ狼・死に風に向かう乳母車」

以前にも書いたと思うけれど、「子連れ狼・死に風に向かう乳母車」は間違いなくクエンティン・タランティーノ監督の「キル・ビルVol.1」(2003年)に影響を与えている。ヒロインが無理矢理キスしてきた男の舌を噛み切ってペッと吐き出すシーン、日本の居酒屋でものすごい数の相手をヒロインがたったひとりで縦横無尽に斬りまくり、腕や足や胴体が飛び散るシーンなど残酷描写の好きなタランティーノ監督は、映画オタク時代に見まくった日本映画の一本にオマージュを捧げているのだと思う。それに、「子連れ狼」は英語版の劇画もアメリカでヒットした。トム・ハンクスの「ロード・トゥ・パーディション」(2002年)は、アメリカ版「子連れ狼」と言われた。ギャング全盛の頃の時代設定だが、確かに物語のベースは「子連れ狼」だった。

「子連れ狼・死に風に向かう乳母車」で女郎として買ってきた娘に旅籠で劣情を催し、無理矢理くちづけしたために舌を噛み切られてしまうのは、「文句松」という女衒を演じた名和宏だった。「子連れ狼・死に風に向かう乳母車」の中で拝一刀親子を別にして、「自分がなりたいキャラクターを選べ」と言われたら、多くの人は孫村官兵衛役を選ぶだろう。それほど毅然としてかっこいい役である。中には僕のような草野大悟ファンがいて、馬上短銃(たんづつ)の名手役を選ぶかもしれない。彼は川で溺れている大五郎を見て、助けるためにガンベルトを川岸に置いて飛び込むが、川が泳ぐほどの深さがないことに気付く。目の前で、溺れる真似をしていた大五郎が立ち上がる。そのとき、拝一刀が刀を抜いて現れ、あわてて短銃を取りに戻ろうとするがバッサリ斬られてしまう。

また、ワンシーンにしか出なくても印象的な役もあって、官兵衛を取られたのならあの役でもいいや、という人もいるだろう。でも、絶対に誰も選ばないのが名和宏が演じた「文句松」の役である。どうしても、何かの役を選ばなければならないとしたら、映画の冒頭で旅の母娘を犯し官兵衛に斬られる渡り徒士(わたりかち)役の山谷初男の方がマシだと思うだろう。女衒という嫌われる商売で、宿でにわかに劣情を催して「銭で買った体を俺がどうしょうと勝手だ」と言いながら、処女の娘を犯そうとして舌を噛み切られて悶絶死する役なんて、絶対にやりたくないと思うに違いない。しかし、その役を憎々しげに演じた名和宏は名悪役だった。

加藤剛が亡くなった八日後の六月二十六日、その名和宏が亡くなった。加藤剛より五歳年上の八十五歳だった。訃報は加藤剛ほど大きくは扱われなかったが、「名悪役」という見出しの下、小さな写真が添えられて掲載された。その写真を見れば、名前は知らなくても、多くの人が「ああ、あの悪役の人ね」とわかったことだろう。テレビ「水戸黄門」などでも悪役を演じたと記事には書かれていたから、悪代官などの役で知られているのかもしれない。しかし、僕は加藤剛の訃報より、名和宏の訃報に強く反応したのだった。「名和宏、とうとう死んだかあ」と、感慨深いものを感じたのだった。八十五歳、六十年以上の長い役者のキャリアがある。出演作は、数えきれない。何度死んだかも、数えきれない。僕は、名和宏が死ぬシーンをいくつも数え上げることができる。

●加藤剛と名和宏はまったく異なる役者人生だったけれど----

加藤剛が優等生なら、名和宏は不良生徒だった。加藤剛が陽なら、名和宏は陰だった。加藤剛のイメージが「誠実」なら、名和宏のイメージは「陰険」あるいは「悪辣」だったかもしれない。当然のことだが、悪役を演じるようになってから、自ら憎々しげな悪役面を作っていた。しかし、やくざ映画の名作と言われる「博奕打ち 総長賭博」(1968年)の名和宏は、若山富三郎に「渡世の筋が違う」と非難され刺されてしまう役だが、とてもいい役で見せ場もあった。本当の悪役は金子信雄で、名和宏は金子信雄に騙され踊らされてしまう組長だった。名和宏と若山富三郎の間を取り持とうとした鶴田浩二は、最後に金子信雄を刺す。

金子信雄が独特の演技で強烈なキャラクターとして作り上げ観客にも妙な人気が出たのが、「仁義なき戦い」(1973年)の山守親分である。その山守組と呉市の縄張りを争うのが土居組だった。土居組の組長を演じたのが名和宏(このときは名和広だった)である。この名和宏は組長然としていて、貫禄もある。山守に土居を殺せと命じられた広能昌三(菅原文太)は、広島の組に客分として入り込み、その組に挨拶にきた土居に何発も弾丸を撃ち込む。しかし、第一部で死んだ名和宏は、第二部「仁義なき戦い・広島死闘篇」(1973年)で生き返り、今度は広島の村岡組の組長を演じた。ここでも、名和宏は貫禄を見せる。一年前に女衒を演じ、舌を噛み切られて悶絶死した人とは思えない。役者やのう、と感心する。

「仁義なき戦い・広島死闘篇」は、村岡組の山中(北小路欣也)がテキ屋の大友(千葉真一)の組との抗争で何人も殺して逮捕され、終身刑になるが脱走して再び大友組の組員を射殺し、最後は追い詰められて自決するというのが主たるストーリーだ。大友は村岡組長の戦争未亡人の姪(梶芽衣子)と愛し合い組長も認めるが、山中が終身刑になると村岡は手のひらを返して姪に再婚を勧める。そのときの名和宏のセリフが、僕の記憶にずっと残っている。「待つ、待つゆうて、ホンマに待ったモンはおらん」と、村岡組長は大人の言い方で姪を説得しようとするのだ。「仁義なき戦い」シリーズには名ゼリフがいっぱいあるが、これもそのひとつだと思う。

ところで、日活からキャリアをスタートさせた名和宏は、当初は二枚目役で主演作もあった。昭和三十一年(1956年)に公開された「地底の歌」という作品がある。原作は平林たい子。今や「平林たい子賞」まである純文学系の人だが、こんな小説を書いているとは知らなかった。主人公のやくざを演じたのが名和宏で、若いやくざの「ダイヤモンドの冬」を演じたのがデビューしたばかりの石原裕次郎だった。「地底の歌」は小林旭主演でリメイクされ、「関東無宿」(1963年)のタイトルで公開された。小林旭がやくざを斬ると、斬られたやくざはタタタッと走って障子を倒し、スクリーンいっぱい真赤になるシーンなどが注目され、鈴木清順監督の伝説のカルトムービーになった。「ダイヤモンドの冬」を演じたのは平田大三郎。六〇年代の日活映画をよく見ていた人は、顔が浮かんでくるはずだ。

2018年7月12日 (木)

■映画と夜と音楽と…825 村上さんが訳した西部小説



【太陽の中の対決/3時10分、決断のとき/追撃のバラード】

●村上春樹さんが訳したエルモア・レナードの西部小説

その文庫本は今年の二月に出ていたらしいのだが、僕はまったく知らなかった。ある雑誌の書評欄で紹介されていて、「エッ、村上春樹がレナード訳したの」とちょっと驚いた。レイモンド・チャンドラーやロス・マクドナルドを愛読するハードボイルド好きの村上さんだから、エルモア・レナードを訳していても不思議ではないのだが、村上さんが訳したのは西部小説の「オンブレ」と「三時十分発ユマ行き」だった。エルモア・レナードの代表的な西部小説である。ただし、「オンブレ」は一九六一年にペーパーバックで出版されたもので、「三時十分ユマ行き」は一九五三年にパルプマガジンに掲載されたものだ。相当に古い小説である。

本のことなら何でも詳しい友人のTによると、「オンブレ」は五十年ほど昔に翻訳が出ていたという。ポール・ニューマン主演の「太陽の中の対決」(1967年)という「オンブレ」を原作にした映画が公開された頃だ。「オンブレ」は「太陽の中の対決」という映画化されたタイトルで出ていたのではあるまいか。僕は映画は見ているけれど、原作が出ていたのは知らなかった。友人のTはあらゆるジャンルの小説を読んでいて、西部小説にも手を出している。僕が大学生の頃だったか、中央公論社から西部小説のシリーズが出たことがあった。僕もちょっと気をそそられたけれど、結局、買わなかった。Tはこのシリーズも買っている。ただし、あまりに売れなくて三冊で打ち切られたという。

「三時十分ユマ行き」は短い小説だが、それを膨らませて映画化し「決断の3時10分」(1957年)として日本公開された。グレン・フォードとヴァン・ヘフリンの主演である。そのリメイクが「3時10分、決断のとき」(2007年)だ。こちらはラッセル・クロウとクリスチャン・ベイルが主演した。こうした情報は、「オンブレ」の「訳者あとがき----神話としてのウェスタン」で村上春樹さんがマニアックに書いている。それを読むと、村上さんが相当なレナード愛読者だとわかる。さらに、その文章の中には、「レナードのもうひとつの傑作西部小説『Valdez Is Coming(バルデスがやってくる)』」も紹介されていた。

僕はリメイク版「3時10分、決断のとき」については、八年前の一月に「父親の誇り・息子の敬意」というタイトルでコラムを書いている(「映画がなければ生きていけない2010-2012」8頁参照)。同じ短編からの映画化としては最初のバージョンが好きなのだが、リメイク版は父親と息子の関係を深く描いていて、感動的な作品になっていた。ただし、現代風に脚色しているから、結末に悲劇的な要素もあり、後味としては昔の版に愛着を感じている。それに、僕はグレン・フォードが好きなのだ。今回、原作は初めて読んだけれど、映画は物語を相当に膨らませていたのだとわかった。

「バルデスがやってくる」は「追撃のバラード」(1970年)の邦題で、一九七一年の暮れに日本公開になった。主演はバート・ランカスター。その映画のことも昔に書いたことがあるのだが、どういうことを書いたのか記憶していなかった。そこで、僕の本の索引で引いてみると、「映画がなければ生きていけない2010-2012」の379頁、「真夏にユキが降った頃----」というコラムだった。紹介している作品は「ワイルド7」(2011年)と「追撃のバラード」だった。ああ、やっぱり----と僕は思った。僕の記憶の中に限れば、「ワイルド7」と「追撃のバラード」には密接な関係があるのだった。

●「追撃のバラード」から「ワイルド7」を連想して思い出した若い日々

「追撃のバラード」の原作である「バルデスがやってくる」について、村上春樹さんは「孤独なメキシコ人バルデスがとことんいじめ抜かれながら、性悪な白人に率いられる強大な悪の一味に立ち向かい、たった一人でそれをじわじわと壊滅させていく」と紹介している。細かい物語を省略して紹介するならば、実に簡潔にまとめられていると思う。映画では「とことんいじめ抜かれる」シチュエーションに、バルデスが巨大な十字架を背負わされて荒野に追いやられるシーンがある。両手は、十字架の横の柱に縛り付けられている。歩くことはできるのだが、背中を折ったままである。この姿勢を長時間続けるのは拷問だ。

十字架を背負うことは、キリスト教圏では重要な意味があるのだと思う。ただ、日本人である僕が見ると、そういうことはわからない。十字架を背負ったまま荒野をさまよう、バルデスの不屈の精神を感じ取るだけだ。「追撃のバラード」公開の少し後、「週刊少年キング」に連載されていた「ワイルド7・緑の墓」の中で、悪漢たちの手に落ちた主人公・飛葉が同じ拷問に遭うシーンがあった。巨大な十字架を背負わされた飛葉ちゃんが苦しむ顔をする。そのアップのコマを憶えている。おそらく望月三起也さんは「追撃のバラード」を見たんだな、と僕は思った。そういうことで、僕の記憶の中では「追撃のバラード」と「ワイルド7」がつながるのだ。

七年前のコラムでは、その後半に「ワイルド7」にまつわる僕自身の若い頃のことを書いていた。今から振り返ると、四十五年も前のことを詳細に僕は書いている。そのコラムについては、ある人から「『ワイルド7』で人生の思い出を書いちゃうんですね、ソゴーさん」と感心したのか、呆れたのか、わからないコメントをもらったことがある。自分で読み返してみても、ウームと腕を組んでしまった。もっとも、僕が「日刊デジタルクリエイターズ」というメールマガジンに毎週、コラムを書き始めた最初の数年の頃には、「映画と人生の人」と呼ばれていた。映画をダシにして人生を語っちゃう、と言われたものだった。

僕が会社の先輩だった柴田さんに頼まれて「日刊デジクリ」に連載を始めたのは、一九九九年八月下旬のことだった。まだ二十世紀だった。僕は四十代で、あまり売れないデジタルデザイン誌の編集長だった。メルマガの連載を引き受けた理由は、自分が編集している「デジタルグラフィ(デジタルで描いたもの)」という雑誌の宣伝になるかと思ったからだ。何しろ、デジタルクリエイターズ向けのメールマガジンだから、ぴったり読者ターゲットじゃないか、と僕は思った。残念ながら、数年後、僕は「デジタルグラフィ」休刊の挨拶を書くことになったけれど、編集長として休刊の挨拶を書くのは二度目だった。編集部員時代に八ミリ専門誌「小型映画」で休刊号の編集後記を書いたから、まあ、実質は三度目である。

「デジタルグラフィ」編集部は僕の他に編集部員がひとりいるだけだったので、それほど会社としては撤退が大変だったわけではないと思う。ただ、僕は会社を辞めるつもりでいた。あるデジタル系メーカーが運営するギャラリーのディレクターはどうかと紹介してくれる人がいて、ギャラリーの所長さんと会ったこともある。結局、先方がいろいろ忖度し、その話はなくなったのだけど、当時、まだ小学生ふたりの子供を抱えた僕としては、辞めなくてよかったのだろうと今は思う。しかし、当時の僕は屈辱感にまみれ、かなり屈折した気持ちで日々を送っていた。「おめおめと、生き恥を晒してます」などと、親しい筆者に会うと自虐的に口にした。

そんな気分だったこともあったし、充たされない気持ちを抱えていたので、その頃に書いたものには、何かを希求する気分が色濃く出ているように思う。だから、「映画と人生の人」などと言われたのだろうか。それから、十数年も経った二〇十一年なのに、僕は「ワイルド7」の映画化をきっかけに、「ワイルド7」と大学生の僕と結婚前だったかみさんのことを長々と書いていたのだ。それを書いたとき、僕はもう還暦を目前にしていたし、四十代とは、精神的にはずいぶん変わってしまったと自覚していた。会社でも、いつの間にか管理部門に移り、役員になり、出版計画を作成し、キャッシュフローまで見るような立場になっていた。

●二十年にわたって書いてきた文章に変化する気分を読み取る

さらに、七年の月日が流れて、今の僕は完全にリタイアして数年になるし、一年の半分以上は実家の裏でひとり暮らしをしている。まだまだ、いろいろな悩みはあるし、ときに「つまらん人生やった」と独り言をこぼしたりしているが、毎日、ある意味では悠々自適で、傍から見れば優雅な老後を送っているように見えるかもしれない。本を読み、DVDを見て、原稿を買く。洗濯をして干す。買い物をして料理をする。実家の老親ふたりの様子を見にいく。病院に付き添う。猫と遊ぶ。洗濯ものを取り入れて畳む。僕の一日は、それくらいの要素しかない。十日に一度ほど、高校時代の友人と街で会い、居酒屋や焼鳥屋で飲むが、度を過ごすことはない。

思想信条上の問題で「日刊デジタルクリエイターズ」の連載を降りて、もう四年ほどになるだろうか。自分のブログで毎週、文章を書いているが、これは自己満足みたいなものじゃないか、と自問することも多くなった。どれほど読んでもらえているのだろう、と不安になるときもある。それでも、「映画がなければ生きていけない」シリーズをまとめる目標もあって書き続けてきた。そして、今年で「映画がなれば生きていけない2013-2015」を出してから三年が経つ。発行は二〇一五年の十一月下旬だった。僕の本は三年に一度のペースで出してきた。今年末に「映画がなければ生きていけない2016-2018」を出せればいいなと思っていた。

僕も出版社で原価計算をしたり、何社かの印刷会社や用紙会社から見積もりを取り、その比較をしたり、値下げ交渉をしたりということを散々やったので、自分の本のコストと販売部数の関係はある程度わかる。高松の瓦町にあるジュンク堂には、僕の本の四巻目と五巻目が並んでいて、何冊かは売れたと教えてもらったが、六百頁を越える厚さで二千円から二千二百円の値付けは、版元がかなりがんばってくれているとしか思えない。ということで、六巻目を出してもらえるか、版元の水曜社に問い合わせるのを躊躇していたけれど、先日、メールで連絡したら「六巻目、出しましょう」と返事をもらった。だから、そろそろ出版の準備をしなければならない。

最初に七年分の原稿を二巻の本にして出版したのは、二〇〇六年の暮れのことだった。三ヶ月後に第二五回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」をもらった。あれから、もう十二年近くが過ぎて、冒険小説協会会長の内藤陳さんが亡くなってからでも七年になる。いつの間にか、そんなに時間が経ってしまった。自分が書くものは変わってしまった、と思うこともあるけれど、年は重ねたが相変わらず青臭いことを書いていると思うこともある。そんなとき、村上春樹さんが翻訳した「オンブレ」「三時十分ユマ行き」を読み、さらに村上さんの後書きを読んで、昔見た「太陽の中の対決」「決断の3時10分」を甦らせ、同時に、昔書いたコラムを読み、二十年書き続けてきた文章に、年と共に変化する自分の気分を読み取り、なぜか諦念のようなものを感じ取ってしまったのだった。

2018年7月 5日 (木)

■映画と夜と音楽と…824 20分もカットされていた作品



【赤い殺意/かぶりつき人生/櫛の火】

●キャメラマン姫田眞左久さんの全作品インタビュー集

高松市立図書館の新刊コーナーを見ていたら「姫田眞左久のパン棒人生」という本があり、「これは読まねば」と思って借りて帰った。A5判の分厚い本である。版元はダゲレオ出版。かわなかのぶひろさんのところだ。「月刊イメージフォーラム」一九八六年十二月号から八年間にわたり、断続的に連載されたインタビューが元になっているらしい。発行は一九九八年七月になっているのだが、どうして今頃になって新刊コーナーに入ったのだろう。きれいな新しい本だった。内容は、戦前に大映から仕事を始めて、戦後、映画製作を再開した日活でキャメラマンを務めた姫田さんに、全作品に沿ってインタビューした資料的価値の高い本だった。

ただ、僕としては「月刊イメージフォーラム」という名前が出てくると、いろいろと思い出すことがある。僕が勤めていた出版社はビデオ雑誌も出していて、ビデオデッキやビデオカメラがよく売れていた頃には稼ぎ頭だったことがある。その頃、「イメージフォーラム」を主宰する(今は青山学院大学の近くで映画館を備えたビルになっているが、その頃は四谷にあった)かわなかのぶひろさんが(パートナーの富山さんが中心になって)ダゲレオ出版を立ち上げ、「月刊イメージフォーラム」を創刊することになった。その創刊広告が僕の勤める出版社が出していたビデオ雑誌に載ったのである。

その創刊広告にビデオ雑誌編集部にいたH女史の名前が筆者としてあったので、ビデオ雑誌編集長が騒ぎ出した。Hさんは8ミリ雑誌をやっていた頃から「自主映画の母」と呼ばれ、自主映画界で若者たちをサポートしてきた人だった。かわなかさんとも知り合いで(新宿ゴールデン街でよく飲んでいたらしい)、「月刊イメージフォーラム」での連載を頼まれたのである。僕もHさんに連れられて時々ゴールデン街で飲んでいたから、ある夜、かわなかさんと酒場で出会ったことがある。その時、かわなかさんと日活映画の話になり、「君らの世代は『紅の流れ星』だろうが、僕らの世代は『赤い波止場』だ」と言われたのをよく憶えている。なぜなら、僕も「紅の流れ星」(1967年)より「赤い波止場」派(1958年)だったからだ。

さて、僕などは自社の編集部員が他社の雑誌に執筆するというのは、その人の能力が認められたのだから問題ないじゃないかと思っていたけれど、ビデオ雑誌編集長は「競合誌に原稿を書くとは何事だ」と騒ぎ出し、社長にご注進した。当然、社内で公に問題になり、「月刊イメージフォーラム」発売前から内容も見ないでHさんの糾弾が始まった。結果から言うと、Hさんは会社を辞めざるを得なくなった。僕はHさんが好きだったのと、そんなことでやめる必要ないだろうと思っていたから、かなり憤慨したものだ。後に、僕自身がかわなかさんと飲み歩くようになったとき、「T(ビデオ雑誌編集長)さんが、あんなに狭量な人だとは思わなかったな」と言われたことがある。

かわなかさんはHさんに申し訳ないと思ったのだろうか、創刊して間もない「イメージフォーラム」の巻頭のロング・インタビューに「自主映画の母」というタイトルでHさんを登場させた。Hさんは、その後、ぴあフィルムフェスティバルのディレクターなどを経て、フリーの立場で映画界で活躍した。僕は、その後、カメラ雑誌編集部から異動して新しく創刊された別のビデオ雑誌の編集長になり、かわなかのぶひろさんを取材したのがきっかけで親しくさせていただき、「青年、青年」と呼ばれながらゴールデン街の酒場を何軒もハシゴすることになった。そんなことで、僕の「映画がなければ生きていけない1999-2002」の巻末解説はかわなかさんに書いていただいた。

●今村昌平監督と神代辰巳監督との仕事を中心に語っている

姫田さんが本の中で最も多く語っているのは、今村昌平監督との仕事だった。今村監督の二作目「果しなき欲望」(1958年)以来、「にあんちゃん」(1959年)「豚と軍艦」(1961年)「にっぽん昆虫記」(1963年)「赤い殺意」(1964年)と日活での仕事が続き、「復讐するは我にあり」(1979年)「ええじゃないか」(1981年)まで担当する。今村昌平監督の助監督だった浦山桐郎の監督デビュー作「キューポラのある街」(1962年)も姫田さんの仕事である。日活で娯楽アクション映画に徹した桝田利雄監督とも相性がよかったらしく、監督デビューから付き合い初期の「赤い波止場」も撮影した。

今村監督に続いて姫田さんが多く語っていたのが、神代辰巳監督との仕事だった。神代監督のデビュー作「かぶりつき人生」(1968年)から組んでいる。「かぶりつき人生」は田中小実昌さんの原作で、日劇ミュージックホールの人気ダンサーだった殿岡ハツ江が主演した。日劇ミュージックホールは、銀座のど真ん中でヌードショーが見られると話題だったのだが、もうずいぶん前にマリオンに変わってしまった。ストリップショーというよりストリップ・ティーズといった趣で、「はとバス夜のコース」に入っていて女性客に人気だったという。深夜番組の「11PM」などに登場した日劇ミュージックホールのダンサーが、色っぽいダンスを踊っていたのを憶えている。

その日劇ミュージックホールのダンサーから女優になったのは、「赤い殺意」の春川ますみである。当時、女優が裸になるとかリアルなセックスシーンを演じるのにはまだまだ抵抗があるため、春川ますみが主演に起用されたのは日頃からヌードを見せているダンサーだったからだと僕は思っていたが、映画を見ると春川ますみのフツーのおばちゃんっぽいところがぴったりはまっていて適役だと思った。今村監督の狙いもそうだったのではないだろうか。以降、春川ますみは名脇役として活躍する。また、最近でもテレビに顔を出しているあき竹城も元日劇ミュージックホールのダンサーだった。他に、アンジェラ浅丘とか松永てるほ、岬マコなんて名前も懐かしい。

彼女らに比べて殿岡ハツ江は「かぶりつき人生」に主演しながら、女優としては大成しなかった。浅黒い肌でスリムな体ながら、エネルギッシュな踊りを見せてくれた記憶がある。ちょっと日本人離れしている風に見えて、案外、日本的な容貌だった。彼女は「無頼・人斬り五郎」(1968年)にストリッパー役で登場していて、そのシーンで流れた音楽と共に強く印象に残っている。刑務所で死んだ弟分(藤竜也)の姉(小林千登勢)を尋ねて地方の小都市を訪れた藤川五郎は、姉が映画館でモギリをしていたと聞き映画館を訪れると、そこはストリップ小屋に変わっていた。そこで、舞台に立っていたのが殿岡ハツ江である。「かぶりつき人生」に主演したのと同じ年のことだった。

その後、しばらく神代監督は映画が撮れず、日活がロマンポルノ路線になってから立て続けに撮り始める。姫田さんも実名で一般映画と変わりなく仕事をし、神代監督とのコンビで名作を残した。姫田さんの証言の中で僕がエッと驚いたのは、ロマンポルノ作品ではなく神代監督が東宝で撮った「櫛の火」(1975年)だった。この前後の神代作品に、二十代半ばだった僕は夢中だったのだ。「青春の蹉跌」(1974年)「宵待草」(1974年)「櫛の火」「アフリカの光」(1975年)と続く純文学路線である。何しろ、原作が石川達三、古井由吉、丸山健二と新旧の芥川賞作家(石川達三は第一回目の受賞者/丸山健二は当時は最年少受賞だった)である。「宵待草」は長谷川和彦のオリジナル脚本とされていたが、石川淳の長編(「白頭吟」だったと思う)の盗作じゃないかと指摘された。

●古井由吉作品が初めて映像化されたのだったけれど----

----この映画には草刈正雄、ジャネット八田、桃井かおりといった人たちが出たんだけど、出来がすごくよかった。ところが、蔵原惟繕さんがオランダでロケーションした「雨のアムステルダム」と併映になっちゃった。どちらも長かったんですね。「雨のアムステルダム」は二時間を越えていたし、「櫛の火」も一時間四十五分ぐらいあった。そうなると蔵原さんは神ちゃんの先生格でしょ。「切れ」って言えないんですよね。東宝にしても「雨のアムステルダム」をメインにしている。で、「櫛の火」を切らざるを得なくなっちゃった。結局二十分ぐらい切ったわけです。(「姫田眞左久のパン棒人生」)

姫田さんのこの証言に僕は愕然とした。僕は「櫛の火」を封切りで見にいったのだが、「雨のアムステルダム」なんてまったく憶えていない。ショーケンと岸恵子の恋愛ものである。しかし、「櫛の火」のシーンは今も鮮やかに浮かんでくる。入院している桃井かおりの病室にいる草刈正雄が病院の中庭を見て、そこで別の芝居があり、再び病室にカメラが戻ってくる、いわゆる「3シーン1カット」と言われた神代流長まわしの場面とか、ジャネット八田と草刈正雄が一緒に公園のブランコに乗るシーンなど、倦怠感漂う名シーンだった。当時、「杳子・妻隠」「男たちの円居」「円陣を組む女たち」「行隠れ」など、僕は古井さんの小説にどっぷりはまっていたから、初めて映像化された古井ワールドに期待したのだった。

しかし、あの作品は二十分もカットされていたのだ。姫田さんは「話が分かんなくなっちゃった。だからみんな怒ってね。オールラッシュを見たときは、ホントすごかったんだよねえ。ガッカリでしたよ」と語っている。神代監督の倦怠感あふれる朦朧とした曖昧スタイルは、「内向の世代・朦朧派」と揶揄された古井さんの世界を描くにはピッタリだった。だいたい、古井由吉作品を映画化しようと考える人はほとんどいないだろう。あの文体を映像で表現するのは困難だ。「櫛の火」は、入院していた元恋人が突然自分の胸で死んだ後、主人公が人妻と知り合い逢瀬とセックスを重ねるだけの話だから、そのニュアンスの部分を描き出すのが重要だった。それなのに二十分も切られたら、ニュアンスの部分は失われてしまう。

それでも、「櫛の火」の二年後、古井ワールドの映像化に挑戦しようとする人がいた。芥川賞受賞作「杳子」の映画化である。それが、前述の僕の会社の先輩H女史だった。彼女は古井由吉さんの自宅を訪問して映画化権を取得し、プロデューサーとして自主制作した。16ミリでの制作だったが、作品は完成し(杳子の姉役の山口小夜子が妖しくてよかった)、ぴあシネマブティックの上映作品として北の丸公園の科学技術館地下ホールで何回かの上映が行われ、当然、僕も見にいった。どちらかと言えば、Hさんに古井さんを紹介してもらえるかと期待しながら----。結局、僕は当時、作品社から出ていた「古井由吉エッセイ全集」三巻のサイン入り本を入手した。それは、Hさんが古井さんに頼んでくれたのだった。

そう言えば、あの頃、僕は「古井由吉論----その曖昧な存在」という文章を四百字詰原稿用紙で三十枚くらい書いたことがあったなあ(と、突然、思い出した)。ただし、読み返してみると、当時、夢中で読んでいた蓮実重彦さんの文芸評論の文体にそっくりだったので(たとえば「古井由吉的存在」なんて表記)、「こりぁアカン」と机の奥にしまい込んだ。破り棄てるにはちょっと未練があったのだが、その後、原稿は行方不明になった。それにしても、二十分カットされる前の「櫛の火」を見てみたい。姫田さんはカット版については「ジャネット八田の裸だけがよかった」と言っているけれど、僕としても不純な動機ではなく(?)、ジャネット八田をもう一度見たいのだ。とてもきれいな人だったけれど、野球選手の田淵幸一と結婚して引退してしまった。

2018年6月28日 (木)

■映画と夜と音楽と…823 人は本当のことを話しているのか



【三度目の殺人/光】

●人は話をしてコミュニケーションをとるしかないけれど----

僕は、正直な方だと思う。基本的に嘘はつかないし、物事を膨らませて報告したりしない。自分に不利なことも正直に話すし、間違いを認めて率直に詫びる。謝るのに抵抗がないと言えば嘘になるが、謝らないでいて後でバツの悪いことになるよりはましと思って、間違ったと思えば訂正し謝ることにしてきた。しかし、自分ではそう思っていても、人から見ればどうなのかはわからない。「ソゴーさん、本当のこと言ってる?」と疑う人がいないとは限らない。本当のことを話しているのに、信用してもらえないことも経験したことはある。

昔、知り合った人で、話をやたらに膨らませる人がいた。「嘘つき」というより「ほら吹き」に近い人だった。彼は僕より数歳上で、いわゆる団塊の世代。大学時代は全共闘運動真っ盛りで、その中心になって活動した人である。論理を展開するのには長けている。おまけに論争で負けることを恥とし、相手を論破するまで絶対に譲らないという全共闘世代の見本のような人だった。そういう人だったから、就職すると労働運動に熱中し、活動家として名を馳せた。そんな頃、僕はある労働組合の倒産闘争で彼と一緒になった。ある出版社が倒産し、労働組合が職場を占拠し「会社再建」か「労働債権の確保」をめざしたのである。

その倒産闘争の共闘会議が作られ、出版労連の役員として僕とその人が加わることになったのだ。「組合活動は会議と交渉だ」と言われるほど人と会うことが多いのだが、僕とその人は交渉の場や会議に一緒に出ることが多かった。その人と最初に交渉の場に出て、その後、会議で交渉の経過を報告したときのことだった。その人が先輩だったから僕は報告をまかせたのだが、その人は「××だと言ってやったんだよ」と報告し、「嘘、そんなこと言ってないじゃん」と僕は隣の席で驚いた。その後、その人の言動を注意していると、そういうことがやたらに多く「おいおい」と僕は思った。

ただし、その人の名誉のために言っておくと、その「膨らませた報告」によって致命的な問題になったことはない。それに、その人は会議での運動方針の立て方などに独特の着眼点を持っており、感心することも多かった。とはいっても、自分が言ってないことを「××だと言ってやったんだ」などと言うのは気になっていた。ある時、その人の出身組合の若い執行委員と会ったときに「××さんがこう言ってたよ」と話すと、「ソゴーさん、あの人の言うこと信用しちゃダメですからね」と笑いながら釘をさされた。その人は、そう言われながらも、自身の会社内では愛されているのが伝わってはきたけれど----。

人は本当のことを話しているのだろうか、という問いは本質的なことなのかもしれない。たぶん、あの人も自分が話していることは、本当のことだと思っていた。嘘を言っている、ほらを吹いているという自覚はなかったのではないか。今思い出すと、そう思える。主観的事実と客観的事実の差ではないか。僕は自己を客観視することを心がけてきたし、人はどう受け取るかと考えて報告するようにしてきたつもりである。それでも、感情的になることは多く、自分の伝えたいことが伝わらないもどかしさは、多々感じてきた。しかし、それでも、人は話をしてコミュニケーションをとるしかないではないか。

●本当だと本人が思っていることを口にしているだけではないのか

「万引き家族」(2018年)で話題の是枝裕和監督だが、僕は前作「三度目の殺人」(2017年)にまだ引っかかっている。昨年秋に公開されたが、一度見ただけでは理解できなかった。何か重要なことが描かれているのに、それを自分は受け取れなかったという気分がずっと続いていた。このところ「家族」を描くことが多かった是枝監督だが、「空気人形」(2009年)のような別の作品系列がある。「三度目の殺人」は法廷ミステリというジャンルに括られる構成を持っているが、単なるミステリにしては解けない謎が多すぎる。もっと深いものを描こうとしたのではないか、という気がしてならなかった。そこで、改めてDVDで見直してみた。それも三度だ。

しかし、それでもわからないことが多く、僕は視覚障害者のための音声ガイドと聴覚障害者のための日本語字幕をオンにして、四度目の視聴を行った。その結果、僕が見逃していたサインや記号や演出に気付いたのだが、それでもやはり何かがつかめていない気がしてならない。結局、この映画の登場人物に対しては「みんな、本当のことを言っているのか?」という疑念が深まるばかりなのだ。どんでん返しらしい証言も出てくるが、それも本当のことなのか信じきれない。また、離婚調停中で妻と共に暮らす重盛(福山雅治)の娘が万引きをして重盛に連絡があり、その場で娘が嘘泣き(かどうかもわからないけれど)で涙を流すエピソードもある。「嘘と本当」を見分けることなどできないのだと言っているのだろうか。

北海道で高利貸しふたりを殺して放火し、三十年刑務所に入っていた三隅(役所広司)は仮釈放になるが、勤めていた小さな食品工場の社長を多摩川の河川敷でスパナで撲殺し、ガソリンをかけて死体を損壊したとして二度目の殺人で起訴されている。弁護を引き受けた摂津(吉田鋼太郎)は、三隅の供述がころころ変わるのに手を焼いて、同じ事務所の重盛と若い川島(満島真之介)に助けを求める。二度目の強盗殺人となると、死刑は免れない。裁判に勝つことだけが弁護士の仕事だと考えている重盛は、強盗殺人を殺人と窃盗と主張し終身刑に落とすことを狙う。重盛の父親(橋爪功)は裁判官で三十年前に三隅に温情判決を出したのだが、三隅が二度目の殺人を犯したことで責任を感じている。

重盛と川島が殺人現場の河原へいくと、足の悪い女子高生(広瀬すず)がいる。犯行現場には死体を焼いた跡が十字架の形に残っている。被害者の家を訪れると、先ほどの女子高生が出てくる。被害者の娘である咲江だ。母親(斉藤由貴)は三隅が書いた詫びの手紙を引き裂く。しかし、ある日、三隅の告白として、被害者の妻に頼まれて保険金目当てで殺したという記事が週刊誌に出る。重盛が拘置所で面会すると、三隅は週刊誌にそう話したという。事件前、三隅の口座に正体不明の五十万が振り込まれている事実もあり、主犯は被害者の妻とした方が三隅の刑が軽くなると計算し、重盛はその主張に乗る。しかし、ある日、咲江が事務所に現れ、予想外の告白をする。

裁くことが、この映画のテーマだ。そして、裁きの十字架が重要なモチーフになる。三隅が飼っていたカナリアたちの墓に並べられた小石の十字架、最後に真実が何なのかわからなくなった重盛がただずむ十字路など、いろいろと複雑な趣向が凝らされている。しかし、それらの細かなことに気付いたのは、音声ガイドと日本語字幕で見たときだった。判決が出た後、傍聴席にひとり残っていた咲江の前を通るとき、三隅はやわらかなものを両手で包み込むようにし、咲江の前にくると手を広げ、その中から何かが飛び立ったように目で宙を追う。その動作を、音声ガイドは明確に説明してくれた。ああ、そういうことだったのか、と僕は深くうなずいたのだった。

しかし、それでも、真実が明かされたとは思えなかった。咲江の告白も、本当のことなのかと疑う。彼女の足の障害は川島の調査では生まれつきなのだが、咲江自身は周囲に「子供の頃に工場の屋根から飛び降りて----」と話している。そのことを重盛が指摘すると、咲江は「嘘じゃありません」と答える。また、三隅は「僕のような人殺しの言うことを信用しちゃいけません」と言い、最後に供述を百八十度ひっくり返してしまう。彼らだけではなく、摂津も重盛にあることを問われ、きちんと返事をせずに「あいつ、そんなこと言ってんのか」とはぐらかす。いや、重盛自身も本当のことなど語っているのか。裁判に有利なことしか語らないではないか。人は本当のことを言っているのだろうか。本当だと本人が思っていること、本当だと思いたいことを口にしているだけではないのか。

●視力を失いつつある写真家と映画の音声ガイドを制作する女性の恋愛

「三度目の殺人」を音声ガイド版で見ようと思いついたのは、河瀬直美監督の「光」(2017年)に心を強く打たれたからだった。「光」は視力を失いつつある写真家と、映画の音声ガイドを制作する女性の恋愛を描いたもので、ここ数年で僕が見た恋愛映画としては出色の出来だった。河瀬監督の前作「あん」(2015年)に続いて、写真家の中森を永瀬正敏が演じている。ヒロイン美佐子は、水崎綾女という女優さん。僕は初めて見たが、美人というよりは個性的で印象に残る。河瀬監督は「萌の朱雀」(1997年)で尾野真千子を世に出した人だ。尾野真千子も個性ある魅力的な女優だけれど、この水崎綾女という人もこれから出てくるのではないだろうか。よい映画は、ヒロインも魅力的に見せてくれる。

「光」は、映像を解説する女性の声が流れて始まる。それがある作品の音声ガイドを作る作業だとわかってくる。上映が終わり、モニターとして参加していた視覚障害者の人たちの批評が始まる。「サゾウって何ですか?」と訊かれた美佐子は、「砂で作った裸の女の像です」と言い「わかりにくいですね」と自答する。彼女が書いてきた音声ガイドを読み上げ、実際の視覚障害者たちに聞いてもらっているのだ。その中のひとり中森はラストシーンのナレーションを、「きみの主観が入りすぎている」と厳しく批判する。つい、強く反論した美佐子は、そのことで中森の存在が気になってしまう。上司に聞くと「才能を評価されていた写真家」と教えられ、写真集を見せられる。その中の「光」を感じさせる作品に美佐子は惹かれる。

美佐子が音声ガイドを担当している作品の監督(藤竜也)が会ってくれることになり、美佐子は気になっていたシーンの解釈などを訊く。ラストシーンの解釈を訊くと、監督は穏やかに話をはぐらかす。美佐子はどう音声ガイドをつけるか迷い始める。何度目かの音声ガイドのナレーション原稿を仕上げ、モニターたちを集めた試聴が始まる。しかし、今度も中森は厳しい批評をする。その帰路、まだ少しは見える中森が白杖も使わず壁づたいに歩いている姿を見て、美佐子は跡を追う。やがて、美佐子は中森に強く惹かれていく。このふたりの関係がストイックで、僕好みの大人の恋愛劇になっていた。

カメラ雑誌の編集をしていた僕としては、写真家役の永瀬が視力を失った目で二眼レフを扱うシーンやカメラマン仲間との会話など、細かなところに目配せが利いているなと感心して見ていたけれど、音声ガイド制作という仕事を詳しく見せてくれたことで新たな興味が湧いた。なるほど、音声ガイドをつける作業は、その映画を深く理解することなのだと気付き、今まで音声ガイド付きのDVD(それほど多くはない)を見るときには、サッサとオフにしていた自分の不明を恥じた。どんな職業でも専門家に話を聞くとおもしろいというのが僕の経験則だが、音声ガイド制作者にも大いなる興味を持ったのだった。本当の音声ガイド制作者の話を聞いてみたい。

2018年6月21日 (木)

■映画と夜と音楽と…822 評価基準は「能力だけ」と思いたい



【ドリーム/ライトスタッフ】

●巨大な部屋でソロバンを使って一日中計算している女性たち

その話を聞いたのは四十数年前のことだが、今も鮮明に憶えている。その話を聞いたとき、強烈なイメージが僕の頭の中に花開いた。体育館のように広い部屋に、整然と等間隔に机が並んでいる。その机に向かって紺の制服を着た数え切れないほどの若い女性たちが腰掛けていて、全員が机の上に置いたソロバンで何かを計算している。くる日も、くる日も一心不乱に計算を続ける。ほとんどの女性が商業高校の出身で、もちろんソロバンは得意だ。彼女たちは朝きて夕方帰るまで、一日中、計算をし続ける----。そんなイメージが生まれ、四十数年間、僕の頭のどこかに居座っている。

一九七五年、出版社に入社してすぐの頃の話だ。僕は八ミリ専門誌「小型映画」の編集部にいて、その日は編集長についてある人の取材をしていた。インタビューは編集長が行い、僕は黙って聞いているだけだった。録音テープの管理が僕の役割である。取材が終われば、そのテープから原稿を起こさなければならない。一字一句、正確に起こした膨大な原稿を元に編集長が取材記事を仕上げるのである。時には取材に立ち合っていないテープを起こすことがあったけれど、その日は幸いにも取材に同行させてもらったのだった。

その日、僕が話を聞いていた相手は高名な小児科の医師であり、小型映画界では有名なアマチュア作家であり、ある光学メーカーの社外顧問をしているという人だった。その人に長い時間取材していろいろな話を聞き、後にテープを起こしたのだから、話の内容はよく頭に入ったはずだが、他のことはすべて記憶から消えている。ただひとつ、その人が話した「昔、光学メーカーの廊下の両側に大きな部屋があり、たくさんの商業高校を出た女性たちが、毎日、ソロバンで計算をしていたんだ。一本のレンズを設計するためにね」という言葉が、四十数年経った今も僕の中にはっきりと残っている。その言葉から浮かんだイメージが鮮明だったからだろう。

コンピュータが導入されてから、レンズの設計は飛躍的に楽になったと光学メーカーの技術者から聞いたことがある。たとえば一眼レフの交換レンズは「○群○枚」と表記されるように、何枚もの凹レンズや凸レンズを組み合わせて作る。設計では、光が最初のレンズに入り、どう屈折し、次のレンズでどうなるかなど、光軸のシミュレーションなどをしなければならないし、そのためには複雑な計算が必要になる。コンピュータが導入されるまで、それは人の力で行われていたのだ。しかも、ソロバンでやっていたというから、おそらく昭和三十年代までのことではないだろうか。

昭和三十年代、ソロバン能力は高く評価されたものだった。小学生の多くは近所のソロバン塾に通っていた。「読み書きソロバン」という言葉は江戸時代以降、庶民の基礎学力として言われてきた。ソロバン塾はどこにでもあった。僕も小学校の四年か五年生になって通い始め、八級から始めて半年ほどで三級にまで進んだ。ソロバンと暗算である。暗算は頭の中に架空のソロバンを浮かべ、言われた数字をそのソロバンを使って計算する。「願いましては----」で始まり、「ご和算では----」で終わったときのソロバンの玉の位置で答えが決まる。しかし、昭和四十年代に入り、カシオがすべてを変えてしまった。昭和四十年九月、カシオは電子式卓上計算機を発売する。

「ドリーム」という映画を見たときに真っ先に思い出したのが、光学メーカーの広い部屋で毎日、ソロバンを使って光軸計算をしている若い女性たちの話だった。

●人が計算する時代からIBМメインフレームに移行するとき

「ドリーム」は、一九六一年、ガガーリンの有人宇宙飛行の成功によってソ連に先を越されたアメリカが、ジョン・グレンの地球の軌道を周回する飛行を成功させた一九六二年までの時代を背景として描かれる作品である。若きケネディ大統領は「月にいく」ことを約束し、黒人問題は公民権運動で盛り上がりを見せていた。しかし、南部の州は州法をたてに白人と黒人の隔離政策を続けていた。白人用のトイレがあり、「非白人(カラード)」用のトイレがある。バスでの黒人席は後部であり、白人の学校と黒人の学校は明確に区分されていた。また、冷戦のまっただ中、学校ではソ連が攻めてきたときや、核ミサイルが落とされたときの避難訓練を子供たちに行っていた(ボブ・ディランの自伝にも出てくる)。

そんな時代、NASAはソ連に負けるなと必死で宇宙飛行を実現させようとする。そのNASAで計算を専門に担当する女性たちがいた。彼女たちは、毎日、計算ばかりしている。計算チームの中に「西計算グループ(ウエスト・コンピューティング・グループ)」があり、そこには黒人女性たちだけが集められていた。その計算チームで働く三人の黒人女性が、エンストした車を直そうとしているシーンから「ドリーム」は始まった。プロローグとしてキャサリンという黒人少女が数学の天才と教師たちに認められ、両親に「この子に教育を」と勧めるエピソードがあるが、本編はその三十数年後の一九六一年から始まるのだ。

三人の黒人女性は、キャサリン、ドロシー、メアリー。ドロシーを演じるのは、僕の好きな太っちょのオクタビア・スペンサー。彼女は管理職がいなくなった西グループで管理職の役割を果たしている。キャサリンは計算能力を買われて、ハリソン本部長(ケヴィン・コスナー)が統括するメインチームに異動になるが、そこのスタッフは本部長の秘書以外は全員白人男性である。メアリーもエンジニアチームのチーフに能力を評価されて異動になる。三人は、それぞれの部署で努力し、困難を乗り越え、偏見と差別に耐え、能力を発揮する。それを、ハリウッド映画らしいエンターテインメントにしているので、見ていて「やったぜ」という気分になる。

まず、キャサリン。新しい部署の近くには「カラード」用のトイレがなく、八百メートルも離れたトイレにいくしかない。部署にあったコーヒーポットからコーヒーを飲むと部署の全員が目を剥き、翌日、「カラード」とシールを貼られた小さなポットが置かれている。ある日、ハリソン本部長が「毎日、どこへいってるんだ」とキャサリンを責めると、キャサリンはとうとう切れて「トイレです。ここには私用のトイレがない」と訴える。続くのはハリソン本部長がコーヒーポットのシールをはがし、トイレの「カラード」という看板をたたき落とすシーンだ。「NASAでは小便の色は同じだ」と言いおいて去るハリソン本部長。ケヴィン・コスナーに拍手した。

一方、メアリーは、NASAでエンジニアになるために、白人のための学校でしか受けられない授業を受けなければならず、裁判所に請願書を提出する。法廷に出頭したメアリーは、「ヴァージニア州法が黒人と白人を分離することを認めている」と言う判事を相手に談判する。判事が一族の中で初めて軍隊に入ったこと、初めて学士になったことなどを挙げ、「何事も初めてやることで前例になる」と訴え、「肌の色は変えられません。だから前例になる必要があるのです。判事のお力が必要です」と説得し、初めて白人の学校に入学することが許される。その結果、彼女は初めて黒人女性としてNASAのエンジニアになるのだ。

●肌の色によってではなく能力によって評価されることの正当さ

思わず立ち上がり拍手したくなったのは、ドロシーのエピソードだ。彼女は西グループの全員のことを考えている。ある日、IBMの大型コンピュータが導入されることを知り、コンピュータの勉強を始め、グループのメンバーたちにプログラミングの教育を始める。導入されたIBMはなかなか稼働しないのだが、ドロシーが設定すると正常に動き始め、その能力を買われて上司で東グループの管理職のミッチェルからIBM室への異動を命じられる。しかし、ドロシーは「グループ全員でないと受けない」と拒否し、彼女の要望は受け入れられる。その後のシーンが、いかにもハリウッド映画だった。

ドロシーは西グループの部屋に入り、全員に向かって「部署が変わるわよ。もう計算機はいらない」と宣言する。ドロシーを先頭に黒人の女性たち数十人が部屋を出ていく。次のカットは誰もいない廊下だ。勢いのいい音楽が高鳴り(まるでロッキーのテーマである)、廊下の角を曲がってドロシーを先頭に黒人女性たちが行進するように力強く現れる。次のカットは彼女たちのしっかりと歩む足下だ。「やったぜ。ざまーみろ」という気分になる。虐げられてきた者たちが、その能力によってリベンジを果たした瞬間である。勝ち誇っていい、あなたたちにはその権利がある、と言いたくなる。うまいなあ、ハリウッドってこういう作り方は----、臆面もなく。

偏見と差別意識に充ちた白人たちの中で、能力だけが評価基準だというケヴィン・コスナー演じる本部長と、初めて地球の軌道を三回周回することになるジョン・グレンが、肌の色をまったく気にしない人物に描かれていた。特にジョン・グレンは非の打ちどころのない好漢だった。アメリカの英雄であり、後に上院議員になり、九十五歳まで生きたジョン・グレンだから、好漢として描くしかなかったのだろう、と意地悪く見ることもできるが、このジョン・グレンの存在が「ドリーム」に気持ちのよい涼風を吹き込んでくれる。観客はヒロインたちに感情移入して見るだろうから、白人だって捨てたものじゃない、と思わせるキャラクターは必要なのだ。

それにしても、同じ時期のNASAを舞台に描いた「ライトスタッフ」(1983年)とは、ずいぶん印象が違う。もちろん「ライトスタッフ」はアメリカ初の宇宙飛行をめざす飛行士たちを描いた気持ちのよい映画だが、振り返ってみれば黒人はひとりも出てこなかった気がする。「ドリーム」のセリフにもあったけれど、最初の宇宙飛行士の選考基準は身長などの肉体的条件と共にIQ130以上という条件も付けられていた。それに、おそらく「白人男性」という条件も暗黙の了解としてあったに違いない。その頃、日本人も南部の人種隔離政策の州にいけば、「カラード」のトイレを使用しなければならなかった。

2018年6月14日 (木)

■映画と夜と音楽と…821 さよならフィリップ・ロス



【さよならコロンバス/白いカラス/エレジー/アメリカン・バーニング】

●高校生の頃にアメリカのユダヤ系作家たちを多く読んだ

「さよならコロンバス」(1969年)という映画を見たのは、一九六九年の秋だった。僕は高校三年生である。その年の一月、東京大学の安田講堂にバリケードを組んで立て籠もっていた学生たちが、機動隊員の発射する催涙弾や放水によって強制的に排除されるのがテレビ放映され、それを見た高校生たちも「何かしなければ」という気分になった。その結果、高校紛争が全国的に広がっていた。僕の高校も例外ではなく、五月の体育祭で生徒会長として挨拶していた僕の友人は、「国家権力の象徴である日の丸の旗を引きずりおろそう」と、当時の言葉で言えば「造反演説」をして停学処分になり、その後、自主退学に追い込まれた。

体育祭の翌日、僕は生徒総会で生徒会長を処分させない運動を提起したが、オピニオンリーダーとして影響力を持っていた元新聞部部長の「彼は昔の彼ならず」という発言で、生徒総会は「彼は信念を持って行ったのだろうから、その行動の責任をとるべきである」という結論に導かれた。元新聞部部長は生徒会長とも僕とも友人であったが、元新聞部部長は太宰治の言葉を引用することで、生徒会長が過激派に影響を受けて変化したことを暗に批判したのだろう。その元新聞部部長については、学校のトイレの壁に「民青の親玉Tを殺せ」と書かれたことがあるから、「校則に則った良心的改革派」だったのかもしれない。元新聞部部長の兄は香川県では稀少な存在である日教組の組合員だったから、兄の影響を受けていたのかもしれない。

その二ヶ月ほど後、夏休み前に元新聞部部長が廊下で受験問題をクラスの仲間たちと出し合い答えているのを見て、僕は一気に受験勉強をやる気をなくした(言い訳になるけれど、その結果、僕は翌年、浪人することになる)。元々、大してやっていなかった勉強を放棄し、現代国語と日本史以外の授業では本を読んで過ごし(他の生徒は受験と関係のない授業では、『内職』と称して受験科目の勉強をしていた)、夏休みもほとんど読書ばかりしていた。その頃、僕が読んでいた作家は主に「第三の新人」と言われた、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、小島信夫、庄野潤三、まだ若手作家だった大江健三郎と開高健だった。それに、アメリカの現代作家をよく読んだ。

当時、アメリカ文壇はユダヤ系の作家が多くいた。J・D・サリンジャーは人気があったし、ノーマン・メイラーも新潮社から全集が出ていたし、ソール・ベロウは長編「ハーツォグ」を出したばかりだった。ジョン・アップダイクの「走れウサギ」が大江の「個人的な体験」に影響を与えたという情報を鵜呑みにして(どちらも主人公が「ウサギ」や「鳥〈バード〉」と呼ばれる)、アップダイクにも何冊か手を出した。しかし、僕が最も気に入ったのは、バーナード・マラマッドだった。当時、日本で翻訳されていた全作(角川文庫から鈴木武樹さんの翻訳で「汚れた白球」「アシスタント」が出ていた)を読んだものだ。それに、集英社文庫で出ていたフィリップ・ロスの「さようならコロンバス」は、薄かったのですぐに読めると思って購入した。

図書館に勤める特に将来の夢もない青年が、プールで女の子と知り合う。彼女には成功したユダヤ人の父親がいるのだが、その父親は青年のことを認めない。ふたりはセックスする関係になるが、避妊のことで口論になったりする。当時、避妊薬のピルは耳にしていたけれど、ペッサリーというのはこの小説で初めて知ったのではなかったかな(僕はそんなことが気になる十七歳だったけれど、未だにペッサリーがどういうものか、具体的には知らない)。結局、青年は彼女と別れる。ボーイ・ミーツ・ガール・ストーリーである。それが、映画化され公開されたのだ。監督は僕が気に入った「ある戦慄」(1967年)の新鋭ラリー・ピアースだった。ヒロイン役は、翌年、「愛とは決して後悔しないこと」というキャッチフレーズで大ヒットした「ある愛の詩」(1970年)でスターの仲間入りをするアリ・マッグローだった。

●クレア・ブルームは離婚の理由を「性的な節操のなさ」と語った

今年、五月二十二日に死んだフィリップ・ロスの記事が新聞に載り、その見出しは「アメリカの最も偉大な作家」となっていた。「えー、まだ生きてたの」と思ったのは、僕が高校生のときに読んでいた作家は大江さん以外みんな亡くなっており、フィリップ・ロスが生きていたのが意外だったからだ。さらに、「最も偉大な作家か?」と見出しに疑問を抱いた。ウィキペディアを見ると、トマス・ピンチョンやコーマック・マッカーシーなどと共に「現代アメリカの最も重要な作家」と認められていたらしい。また、ウィキペディアでは、「へぇー」と驚く情報が掲載されていた。ロスは一時期、女優のクレア・ブルーム(チャップリン主演「ライムライト」のヒロインです)と結婚していたが、離婚の理由を彼女は「性的な節操のなさ」と語ったという。

その話を読んで、「やっぱりね」と僕は思った。処女作「さようならコロンバス」でも「性」は重要な要素だったが、その後の作品では「性」を主要なテーマに据えた作家だったからだ。そういう意味ではノーマン・メイラーも「二十世紀に残された文学的テーマは〈性〉の領域だ」と宣言して「彼女の時の時」などを書き、そのメイラーの言葉に共感した大江健三郎は「性的人間」を書いたけれど、僕はなぜかフィリップ・ロスが書く「性的小説」になじめず、その後の作品は読まなくなった。しかし、フィリップ・ロスの小説はアメリカでの評価は高く、それにベストセラーになるほどよく売れた。

ベストセラーになる作品だったから、主要作品はかなり映画化されているのだが、調べてみると日本未公開のものが多い。日本公開された映画化作品は「さよならコロンバス」の他、「白いカラス」(2003年)「エレジー」(2008年)「アメリカン・バーニング」(2016年)であり、何と僕はすべて見ていることになる。そして、どの作品もおもしろく見たのだった。「白いカラス」については、以前にこのコラムで書いたこともある。昨年、見たのは「アメリカン・バーニング」(2016年)だ。これは、イギリス出身の俳優ユアン・マクレガーが初めて自ら監督したものだ。何だか、僕にとっては、ひどく胸に迫る作品だった。

フィリップ・ロスの作品は自己を投影した、作家とか大学教授といったインテリを主人公にすることが多い。「白いカラス」も「エレジー」も、主人公は初老と言ってもいい大学教授である。ただし、「白いカラス」には主人公の友人であるユダヤ人作家ネイサン・ザッカーマン(ゲイリー・シニーズ)が出てくる。ザッカーマンが物語の語り手なのである。ザッカーマンは、フィリップ・ロスのいくつかの作品に登場する作者の分身だ。「白いカラス」ではアンソニー・ホプキンスが演じる主人公と、ザッカーマンが会話をする夜のシーンが印象に残る。ザッカーマンの湖畔の家が印象に残っている。あんな家で原稿を書いて暮らしたい、と思った。

「白いカラス」という邦題は日本の配給会社がつけたのだろうが、黒人であることを偽りユダヤ系白人として生きてきた主人公という設定から発想したのだろう。彼は謎めいた美人の清掃員(ニコール・キッドマン)と知り合い恋に落ちる。ニコール・キッドマンが終始、憂い顔で無口な女性を演じている。ロスの作品には年の差のある男女の恋愛がよく描かれる。「エレジー」は、まさにそれがテーマだった。主人公の大学教授は、スキンヘッドのベン・〈ガンジー〉・キングスレーだ。彼は三十歳も年下の女子学生(ペネロペ・クルス)と恋に落ちるが、その年の差ゆえに嫉妬と不安を感じ始める。ちなみに、なぜかニコール・キッドマンもペネロペ・クルスもトム・クルーズと結婚していた。

●ユアン・マクレガーは初監督作品にフィリップ・ロスを選んだ

「アメリカン・バーニング」は邦題であり、原題は「アメリカン・パストラル」である。邦題は「燃え上がるアメリカ」という意味でつけたのだろうか。意味がよくわからない。「burning」だとしたら、名詞ではないので英語として成立しないのではないか。昔、「ミシシッピー・バーニング(原題も同じ)」(1988年)という人種差別を扱ったアラン・パーカー監督のよい映画があったけれど、「アメリカン」を「アメリカ人」と名詞で使っていると解釈すると、「アメリカ人炎上」という意味なのかな。確かに映画を見ると、「アメリカ炎上」と言いたくなる気持ちはわかる。

この作品も語り手としてネイサン・ザッカーマン(「グッドナイト&グッドラック」のデヴィッド・ストラザーン)が登場する。彼が何十年ぶりかで故郷の同窓会に出席すると、ハンサムでアメフトの選手としてハイスクールのヒーローだったスウィードの写真が飾られており、彼はスウィード(ユアン・マクレガー)の生涯に思いを馳せる。スウィードは結婚して手袋工場を継ぎ、妻(ジェニファー・コネリー)は娘メリーを生む。スウィードは娘を溺愛して育てるが、子供の頃から娘は感受性が強く、テレビニュースでベトナムで僧が焼身自殺する映像を見てショックを受ける。

やがて、メリー(ダコタ・ファニング)は、急進的な革命運動に傾倒していく。両親を「ファシストの豚」と罵る。彼女が大学から戻っているときに町の小さな郵便局が爆破され、主人が死亡する。警察はメリーを犯人として指名手配するが、スウィードは無実を信じて娘の行方を探す。しかし、娘は行方不明で、スウィードも娘が犯人だと信じざるを得ない証拠も出てくる。娘が行方不明になって何年も経ったある日、工場のレポートをしたいという女子学生がやってくる。スウィードとふたりになった女子学生は、メリーの伝言を口にする。しかし、ホテルに会いにいくと、女子大生と名乗った女に侮辱されただけだった。それから数年が過ぎ、街でその女を見かけて問いつめるとメリーの居場所がわかり、スウィードは会いにいく。

メリーは革命運動から脱落し、カルト宗教の信者になっている。身体を洗ってはいけないという教えに従い、メリーは汚れきった姿だ。家には帰らないというメリーは、再び姿を消し、スウィードにまた絶望の日々が戻る。やがて長い年月が過ぎていき、娘のことを気にかけながら彼が死んだとき、喪服を身につけて顔を隠した女が彼の墓前にやってくる----。公民権運動の時代に黒人たちの暴動が起こったり、ベトナム戦争の反対デモが盛り上がったり、世界的に学生たちが反旗を翻した時代に爆破テロが頻発したり、ヒッピームーブメントが起こりカルト宗教に走る人たちが増えたり、六〇年代から七〇年代にかけてのアメリカ社会の問題が娘を通して主人公に降りかかることで、アメリカ現代史を描く作品になっていた。

あの時代、メリーのような女子学生は実際にいた。僕はメリーを見ていて、過激派に誘拐されたメディア王ハースト家の娘パトリシアを思い出した。彼女は誘拐した過激派に洗脳され、過激派に加わり資金強奪のためにライフル銃を持って銀行を襲った。七〇年代前半、世界的に注目された不可思議な事件だった。その後、彼女は放送局にテープを送り、両親を「ファシストの豚」と呼んだ。それにしても、「トレインスポッティング」(1996年)でジャンキーの若者を演じて注目され、「スター・ウォーズ エピソードI/ファントム・メナス」(1999年)で若き日のオビワン・ケノビを演じたユアン・マクレガーが、監督第一作にフィリップ・ロス作品を選ぶとは思わなかったなあ。

2018年6月 7日 (木)

■映画と夜と音楽と…820 「バカな男ねぇ」と星由里子は言った



【妻として女として/女の座/女の歴史/恋する女たち】

●加山雄三はすぐに追悼コメントを出し「澄チャンは永遠だ」と讃えた

西城秀樹と同じ日に死んでしまったがために、本来ならメディアにもっと取り上げられるはずだった星由里子の死が目立たないニュースになってしまった。もちろん、若大将こと加山雄三はすぐに追悼コメントを出し、「澄チャンは永遠だ」と讃えた。苗字は作品によって異なったが、「澄子」というのが常に「若大将シリーズ」での彼女の名前だった。石井隆作品では、女は常に「名美」であるのと同じだったのかもしれない。もっとも、石井隆作品とは正反対の脳天気な「若大将シリーズ」だから、別の名前を考えるのが面倒だっただけかもしれない。ちなみに「若大将シリーズ」の二代目ヒロインをつとめた酒井和歌子が何という名前だったかは、まったく記憶にない。ただし、酒井和歌子は僕にとって永遠のヒロインである。最近、テレビCMで笹野高史の奥さん役をやっているのは、実に許容しがたい。

さて、星由里子を「若大将シリーズ」のヒロインとしてしか記憶していない人に向かって、僕は異議を申し述べたいと思う。当時の映画会社で言えば、日活と東映は男優中心のプログラムを組んでいた。日活なら、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、二谷英明などである。東映は、もちろん中村錦之助、東千代之介、大友柳太朗、大川橋蔵などがいた。大映は大御所の長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎だ。しかし、ホームドラマ系の松竹は、どちらかと言えば女優を中心とした作品が多かった。東宝の作品系列は明朗な現代劇が多く、「社長シリーズ」「駅前シリーズ」「無責任シリーズ」「若大将シリーズ」などと、「妖星ゴラス」といったSF映画や怪獣映画でプログラムを組み、その間に巨匠・黒澤明作品、成瀬巳喜男作品、豊田四郎の文芸作品などを公開した。

東宝で女性映画の巨匠と呼ばれたのは、成瀬巳喜男だった。その成瀬作品に星由里子が出演したのは、五十七年前のこと。十八歳のときである。その年、若大将シリーズ第一作「大学の若大将」(1961年)も公開されている。一方で若大将の恋人を演じ、一方で巨匠作品でシリアスな演技を見せていた。「妻として女として」(1961年)は、成瀬作品としては「浮雲」(1955年)の系列に連なる、ちょっとドロドロした男女関係を描いた作品だった。妻を演じたのは淡島千景であり、女を演じたのは高峰秀子である。大学の建築学科の講師である男(森雅之)は妻がありながら、二十年近くつきあいのある愛人(映画の中では妾と呼ばれている)がいる。

高峰秀子が初めて登場するシーンでは、喫茶店で淡島千景と向かい合っている。何かの打ち合わせらしい。そこへ淡島千景の娘(星由里子)がやってきて、「おばさま、こんにちは」と挨拶し、母に銀座のデパートで見つけた高価な靴を買ってくれとねだる。ふたりの関係はどういうものなのかと見ていると、銀座の酒場にいる森雅之になる。森雅之がバーテンと話している内容から、その店を経営しているのは淡島千景で、近々、新宿に新しい酒場を開くことになっているらしい。そこへ、その酒場のママである高峰秀子が戻ってくる。森雅之は彼女を店の外に呼び出し、関西に出張するので熱海で落ち合おうと言う。

つまり、淡島千景は自分が経営する酒場のママに夫の愛人を雇っているのだ。その店の女の子(水野久美)を新宿の新しい店のママにするのを条件に、高峰秀子の日常を探らせている。淡島千景は水野久美に「最近、旅行すると言ってなかった?」と訊く。夫が出張を利用して高峰秀子と密会することを予測しているのだ。星由里子はその十八の娘を演じているが、やがて淡島千景は子供が産めない体で、娘も中学生の息子も愛人である高峰秀子が産んだことがわかる。妻と愛人は対立し、「子供を返してくれ」と言ってくる。森雅之を挟んで対立する淡島千景と高峰秀子の言い合いを聞いた星由里子は、高峰秀子を「かわいそうな人だと思うけど、バカよ」と言い捨て、弟を連れて家を出ていく。デビュー間もない十代での演技だが、しっかりしたものだった。

●大人数の登場人物の関係やキャラクターを整理して見せる名人技

成瀬作品の「女の座」(1962年)は、「浮雲」や「妻として女として」ほどドロドロしていないので僕は何度も見返す好きな作品だ。東宝女優陣総出演の作品である。渋谷に近い町にある金物屋。笠智衆と後妻である杉村春子の老夫婦がいて、死んだ長男の嫁の高峰秀子がいる、先妻の子の草笛光子は離れを自分で建てて、お茶とお花を教えている。後妻の子の淡路恵子は結婚して九州で暮らしていたが、三橋達也の夫と共に東京にもどってくる。後妻の次女の司葉子は、勤めていた会社が倒産。末娘の星由里子は映画館の切符売り場に勤めている。先妻の長女の三益愛子はアパートを経営していて、夫(加東大介)は若い女と駆け落ちし、娘(北あけみ)はアパートに入ってくる若い男に興味津々だ。先妻の次男の小林桂樹は、渋谷でラーメン屋を営んでいる。その妻は丹阿弥谷津子である。

最初、父親が倒れたというので子供たちが集まってくるシーンがあり、そこで大人数の登場人物の関係やキャラクターを整理して見せてしまうのは名人技である。高峰秀子の夫は三年前に亡くなり、中学生の長男がいるのも説明されるし、高峰秀子のたったひとりの妹が団令子であり、劇団の研究生でバー勤めをしていることも簡潔に観客に伝わる。杉村春子は最初の結婚で産んだ子がいて、成長したその子が偶然にも三益愛子のアパートに入り、珍しい苗字から「もしや」と三益愛子が確認し、数十年ぶりに杉村春子と息子(宝田明)が再会する。その宝田明に、男など見向きもしなかった草笛光子が一目惚れしてしまう。しかし、宝田明は高峰秀子に惹かれ、一方、宝田明の悪評を妹の団令子から聞かされた高峰秀子は----というように、様々なエピソードが錯綜する。

司葉子と星由里子のエピソードは、気象庁に勤める青山(夏木陽介)にかかわるものだ。小林桂樹のラーメン屋を手伝うことになった司葉子は、毎晩、その店で食事をする夏木陽介(最近亡くなりましたね)と知り合う。妹の星由里子は以前から夏木陽介と知り合いで、「いい人だから」としきりに司葉子と夏木陽介をくっつけようと企てる。見合いをして結婚話が持ち上がっている司葉子に、「どっちにするか、はっきり決めなさいよ」とつっつくが、司葉子は「青山さんは、いい人だけど----」とはっきりしない。ある日、別々に星由里子から伝言を受けた司葉子と夏木陽介は喫茶店で会い、それが星由里子の企てだと気付く。

その後、台所で高峰秀子と司葉子が話をするシーンがある。「(星由里子から)青山さんて人のこと聞いたんだけど、その人のこと好きなの」と高峰秀子に訊かれた司葉子は、「自分が好きなのよ。青山さんのこと。私をダシにして、あの人、試してるのよ。悪いヤツ」と明るく答える。しばらくして、同じ台所で司葉子と星由里子が話している。台所にやってきた高峰秀子に司葉子が「見合い相手と結婚するわ」と告げると、星由里子が「青山さんのことどうするの」と口を出す。司葉子は「バカね。まだあんなこと言ってる。自分が青山さん、好きなくせに」と笑顔で言う。そのとき、舌を出す星由里子の表情が忘れられない。

「女の座」は東宝のオールスター映画(昔、正月映画やゴールデンウィーク向けなどでよく作られた)だから、登場人物がやたらに多く、それぞれのキャラクターを生かしたエピソードが描かれる。そのため、人物関係や錯綜する物語の整理が大変なのだが、「女の座」は実によく整理されたオールスター映画の名作だと思う。暗いエピソードもあるけれど、笑う場面もあるし、司葉子や星由里子など若い美人女優を見る楽しさもある。家族間の金銭に関わる醜い話もある。それでも、ラストシーンで後味よく終わってくれる。司葉子、星由里子の若い頃を見るにはお勧めの作品だ。

●和服を着こなした美しい星由里子が放った「バカな男ねぇ」というセリフ

成瀬作品に出たいと願った若い女優が監督に直訴したとき、「三十を過ぎたらいらっしゃい」と答えたというエピソードは有名だ。大人の女性を描くことに定評があったから、そんな話がひろがったのだろうか。星由里子は十七か八で初めて成瀬作品に出演し、二十歳を過ぎると出なくなってしまった女優である。「女の歴史」(1963年)以降、彼女は成瀬作品には出演していない。この年、「ハワイの若大将」(1963年)が封切られ、以降、「若大将」シリーズは大人気番組になり、海外ロケが増える。もしかしたら、そちらのヒロイン役が忙しくて、成瀬作品に出られなくなったのだろうか。中学生だった僕は、「エレキの若大将」(1965年)から見始めて、酒井和歌子にヒロインがバトンタッチされるまで見ていたが、その頃、小津安二郎監督の名は知っていたものの成瀬巳喜男監督はまったく知らなかった。

「女の歴史」は、戦前、戦中、戦後を生き抜いたヒロイン(高峰秀子)の物語である。見初められて商家に嫁いだ高峰秀子は夫(宝田明)との間に息子をもうけるが、夫は戦死する。戦後、結婚披露宴で初めて出会った夫の友人(仲代達矢)と再会し、ほのかな想いを寄せるが、男は闇屋の事件に関わり姿を消す。息子と義母を抱えて、闇屋をしながら戦後を生き抜いた高峰秀子は、やがて美容院を開き、息子(山崎努)は成長して自動車販売会社の営業マンになる。その息子は母親の反対を押し切って、バー勤めの女(星由里子)と暮らし始めるが、ある日、自動車事故で死んでしまう(それを知らせてくるのが、息子の友人役の若き児玉清)。

息子の死後、星由里子が訪ねてきて妊娠していることを告げる。しかし、高峰秀子は「誰の子かわかるものか」と冷たく突き放す。「私、そんな女じゃありません」と星由里子は怒りを見せ、「だったら堕ろします」と言い捨てて出ていく。しばらくして、後悔した高峰秀子は後を追い、彼女のアパートへいくと、隣人から「病院へいった」と言われる。呆然として雨の中を歩いていると、濡れながら帰ってくる星由里子と出会う。「もう、堕ろしたの」と尋ねると、星由里子は母子手帳を見せる。このシーン、「女の歴史」の中でも特に印象に残る。「女の歴史」は「女たちの歴史」でもあったのだ。子供を残して夫が死んでしまった高峰秀子の歴史、そして同じ境遇になった星由里子の歴史が続いていく。あの時、二十歳だったとは思えないほど、星由里子の演技は充実していた。

もう一本、忘れられない星由里子のシーンがある。大森一樹監督・斉藤由貴主演「恋する女たち」(1986年)だ。昔、大森一樹監督に取材したとき、「名作を作っちゃったなあ」と自ら言っていたが、大森監督らしい軽妙な作品ではある。ラストシーンは監督の好きな「冒険者たち」(1967年)へのオマージュだ。ヒロインは人気絶頂の斉藤由貴。仲のよい同級生は、おニャンコの高井麻巳子と相良ハル子が演じた。相良ハル子の両親は離婚し、母親(星由里子)は小料理屋を開いている。ある日、恋の悩みを打ち明けながら開店前の店で斉藤由貴と相良ハル子がビールを飲んでいると、離婚した父親(蟹江敬三)がやってくる。ロシア文学助教授の父親は書斎に残したままのツルゲーネフ全集の何巻かを取りにきたのだ。

そのとき、母親が帰ってくる音がする。あわてて相良ハル子は父親を隠し、戻ってきた母親をごまかして父親を裏口から外へ出す。そのとき、父親は本を一冊落としてしまう。店に戻った母親が「あら、ダンナの本じゃない」とツルゲーネフの本(「初恋」が入っている)を拾い上げる。「それ、私が借りたんです」と斉藤由貴が繕う。星由里子はその本を開き、見返しを見てから本を閉じ、「バカな男ねぇ」としみじみと言う。渡された本を開き、斉藤由貴が見ると「恋する者は弱者なり」と書き込みがある。次のシーンは「初恋」の冒頭を読みながら夜道を歩く斉藤由貴である。

今も僕の脳裏には、四十を越え、和服を着こなした美しい星由里子が放った「バカな男ねぇ」というセリフが刻み込まれている。僕自身に向かって言われたような気がしたのだ。それは、若大将と結ばれるはずだったのに、青大将と結婚してしまい、十数年後に離婚した澄子の言葉のようにも思えた。しかし、若大将と結婚したとしても、同じ結果を迎えていたかもしれない。結局、人生は長く、正しい決断というものはない。結果として、本人が納得できるかどうかだろう。それにしても、僕が忘れられない星由里子のシーンには、どうして「バカ」というセリフが関連しているのだろうか。

2018年5月31日 (木)

■映画と夜と音楽と…819 社会批判をする孤高の監督



【麦の穂をゆらす風/この自由な世界で/わたしは、ダニエル・ブレイク】

●引退を表明した老監督が引退を撤回して撮った怒りの作品

日本未公開だった「ヴァーサス/ケン・ローチ映画と人生」(2016年)をWOWOWが放映してくれたので、改めて「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016年)と一緒に見たが、やはり心に残るいい映画だった。さらに、八十歳を目前にして引退を表明したケン・ローチが、保守党がイギリス議会の過半数を占め福祉関連の予算を削ったことに怒り、引退を撤回して撮ったのが「わたしは、ダニエル・ブレイク」だと知った。

僕は「麦の穂をゆらす風」(2006年)以来、日本公開されたケン・ローチの作品はすべて見ている。今、最も尊敬する監督だ。「麦の穂をゆらす風」「ジミー、野を駆ける伝説」(2014年)でアイルランド問題を取り上げ、「この自由な世界で」(2007年)では移民問題をテーマにし、「ルート・アイリッシュ」(2010年)では戦争を請け負う民間企業を舞台にし、「エリックを探して」(2009年)「天使の分け前」(2012年)「わたしは、ダニエル・ブレイク」ではイギリスの貧困層を描き出した。

ケン・ローチがメッセージするものに僕は共感するのだが、「ヴァーサス/ケン・ローチ映画と人生」で若い頃からの盟友が語るように、彼は「イギリスで最も左翼的な監督」であり、「人間の生活を描くなら政治は切り離せない」という信念を持つ人である。そういう監督の作品だから反発する人もいるだろうと僕は思っていたが、何と「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、昨年日本公開された映画を対象とするキネマ旬報ベストテンで洋画部門のベストワンを獲得した。多くの評論家が点数を入れたことになる。

「ヴァーサス/ケン・ローチ映画と人生」の中には、ケン・ローチ作品を「国の恥」だと批判する新聞記事、「ケン・ローチはなぜ自国をけなし続けるのか」と書かれた記事、カンヌでパルムドールを受賞した「麦の穂をゆらす風」を、「IRAを好意的に描いた映画だ」と弾劾する批評などが出てきた。政策や権力を批判する作品を撮れば、「自国の恥を海外に晒す」と反応する浅薄な人々はどこの国にもいるのだ。そんな批判にもめげず、ケン・ローチは五十年間----途中まったく映画を撮れない時期もあったが----信念を貫いてきた結果、今では多くの人々からリスペクトを受ける監督になった。もしかしたら、新作はもう見られないかもしれないけれど、ケン・ローチ作品ならいつでも僕は見る用意がある。

しかし、「麦の穂をゆらす風」を「IRAを好意的に描いた反イギリス的作品」などと批判する人は、本当にあの映画を見たのだろうか。「彼らは見ないで批判する」とケン・ローチは言っていたが、「ケン・ローチの映画など見るのもイヤだ」と拒否する自称・愛国者や右翼的な人はいるのだろう。「麦の穂をゆらす風」はアイルランド・リパブリック・アーミーの物語ではあるが、イギリスと妥協した指導部と停戦案に反対する民兵たちとの内部抗争を描き、昨日まで一緒に戦っていた仲間たちが殺し合う(兄弟さえも分かれて戦う)悲しさを浮き彫りにして秀逸な作品だ。十年も前に見ただけだが、今も僕の脳裏に鮮明に甦る。主人公の悲しみに充ちた、透き通ったブルーの瞳が忘れられない。

●批判されることに甘んじなければならないのが権力を持つ政治家

先日、亡くなった毎日新聞社の岸井さんのように、ジャーナリストは権力に対して毅然とした態度で臨み、きちんとまっとうな批判をする人たちだと僕は思っていたが、テレビのニュース番組やワイドショーを見ていると、権力にすり寄るコメンテーター、権力の代弁をする提灯持ちジャーナリストなどがけっこういることに唖然とする。特に某通信社の論説委員という肩書きを持つ人など、あからさまに安倍政権を擁護するコメントばかりで見ているのがイヤになる。

また、批判されることに甘んじなければならないのが権力を持つ政治家だと思うけれど、今の政治家はトランプを筆頭に岸信介の孫も吉田茂の孫も他者からの賞賛ばかりを欲し、おまけに恥ずかしげもなく自画自賛を繰り返す。日本にも権力を怖れずに批判するケン・ローチのような監督が登場してほしいものだ。昔は、大島渚、熊井啓、山本薩夫(日共系だけど)など、日本にも政治的なテーマを描く監督がけっこういた。

ケン・ローチは労働者階級出身だがグラマースクールに進学し、オックスフォード大学に進んだ。僕が子供の頃に学んだイギリスは完全な階級社会で、オックスフォードやケンブリッジには裕福な上流階級の子弟ばかりがいると聞いていたが、ケン・ローチは大学で明確な階級的格差を感じたのだろう。思想的に過激というわけではないが、世の中の不正義には決然と意見を言う態度が明確で、その作品を見ていると自然と背筋が伸びる気がする。

しかし、一方的に描くわけではない。たとえば、「この自由な世界で」では、東欧からの移民を斡旋する会社で働くシングルマザーを主人公にしてイギリスの移民問題を取り上げるのだが、ヒロインは単なる正義派ではなく、移民を甘い言葉で誘い搾取する。人材派遣会社をリストラされた主人公は、自らの利益のために不法移民たちに仕事を斡旋する会社を始める。不法移民たちを利用するのだ。

僕が子供の頃に学んだ情報では、イギリスは「揺り籠から墓場まで」という福祉社会だということだった。しかし、ケン・ローチのイギリスの労働者階級の人々を主人公にした作品を見ていると、今のイギリスは福祉をどんどん切り捨てているように思える。「リトル・ダンサー」(2000年)や「ブラス!」(1996年)で描かれたように炭坑は閉鎖され、労働者たちは切り捨てられた。

サッチャー首相の時代に大きく福祉政策が変わったのだろうか。そのイギリスの変化は、今の日本に似ているのかもしれない。何もかも「自己責任」論で片づけ、弱者を顧みない。「弱者を救う」ためにあるのが政治なのではないか。引退を表明したケン・ローチが保守党政権になり福祉予算が縮小されるのに怒り、引退を取り消して撮った「わたしは、ダニエル・ブレイク」を見ると、ケン・ローチの怒りに共鳴する。映画の力を感じることができる。そんな、まっとうな映画は少ない。

●貧しい者たちが身を寄せ合うように生きていく姿に涙する

タイトルバックに音声だけが流れて「わたしは、ダニエル・ブレイク」は始まる。ダニエルの支援給付金(日本の生活保護給付と理解して僕は見た)の支給申請に対して、医療担当者が資格審査をしているのだ。女性の声がマニュアル通りの質問を繰り返す。「手を頭より上に上げられるか」とか、「我慢できずに大便を漏らしたことがあるか」といった質問だ。ダニエルの声は苛立つ。「俺は四十年間、大工だった。しかし、心臓を悪くして医者に就業を止められた。だから、支援金給付を申請している」と言い、「そんな質問は関係ない」と答える。相手は「そんな態度をとっていると、よくありませんよ」と恫喝するように言う。そんな杓子定規な対応に、ダニエルはさらに苛立ち反抗的な返答をする。

結局、ダニエルの申請は「資格なし」という通知書一枚で断られる。不服を申し立てようと役所に赴くが、担当者は規則一点張りで融通を利かせない。申請はネットでしか受け付けないと言う。詳しい説明はサイトを見ろと言うだけだ。担当者は役人ではなく、業務委託された民間企業の人間である。コンピュータもネットもまったくわからないダニエルは、どうしていいか途方に暮れる。

そんなとき、やはり支援金申請にきていたふたりの子供(姉のデイジーと弟のディラン)を連れたシングルマザーのケイティが、担当者に規則を楯に不当な扱いを受けているのを見て、ダニエルは「もう我慢ならない。彼女の訴えを聞いてやれ」と口を出す。それでも、担当者は「規則だから」と譲らない。なおも抗議するダニエルに、責任者は「警察を呼ぶぞ」と脅す。

ダニエルは経済的弱者であり、パソコン弱者である。誰もがパソコンを使え、ネットを閲覧できると思うのは間違いだ。しかし、公共機関も企業も経費削減のためにネットを活用する。告知は「詳しくはサイトを見ろ」だし、書類は「ダウンロードしろ」だし、できれば「電子申請」が望ましいという。人件費も削減できるし、書面にする印刷費も郵送費もかからないネットは莫大なコストダウンになるからだ。映画はダニエルの悪戦苦闘を丁寧に描き出す。

役所の年配の女性が見かねてダニエルに教えてくれるが、その女性は上司に呼ばれて叱責される。申請者に個別に教えてはいけない、という規則らしい。時間をとられるし、ひとりひとりにそんな対応をすればきりがない、ということなのだろう。すべては、コストダウンと効率化のためだ。しかし、社会的セーフティネットであるべき役所(日本で言えばハローワークや生活保護の申請窓口など)がそんなことでいいのだろうか。

生活費に困り家具などを売り払い食いつないでいるダニエルだが、知り合った母子を見守るように世話を焼く。母子の家は電気が止められ暖房もないので、窓に断熱効果のある梱包用のプチプチシート(正式名称は何だろう?)を張ったり、ロウソクで照明と暖房効果があるようにしたり、大工の腕を生かして家を修理したりする。子供たちもダニエルに懐く。貧しい者たちが身を寄せ合うように生きていく。

しかし、シングルマザーの生活は一向によくならない。子供たちにだけ食べさせて、自分は飢えている。ダニエルだって金銭的に援助ができる身ではない。彼女は追いつめられていく。一方、ダニエルは心臓の調子が悪くなる。そんなダニエルの部屋に心配した姉のデイジーがやってくるシーンには、心温まるものがある。ラストシーン、教会で「午前九時の葬儀は、貧者の葬儀と言われています。費用が安いからです」と語り始めるシングルマザーのケイティ。その後の言葉には涙を禁じ得ない。

2018年5月24日 (木)

■映画と夜と音楽と…818 しまなみ海道を走る



【新・平家物語/義仲をめぐる三人の女/のぼうの城】

●重要文化財指定を受けた武具類の八割が保存されている国宝館

先日、友人に誘われて「しまなみ海道」の大三島までいってきた。高松から高速道路に乗り、今治市を通って大島、塩で有名な伯方島を抜けて三つ目が大三島だった。その後、生口島、因島、向島を通って尾道に抜けるのが「しまなみ海道」である。高松からだと瀬戸大橋で岡山に渡り、尾道側から大三島にいった方が距離が短いということだったが、ちょうど囚人の脱走事件があったとき(その日に逮捕された)なので、検問での混雑を避けて今治市側からのルートをとった。今治市は刑務所脱走事件で話題になっていたが、もうひとつの話題である加計学園があり、高速道路から大きな「加計学園・岡山理科大学」の看板が見えて、ニュースでおなじみになった新設の立派な校舎もあった。

大三島の大山祗(おおやまずみ)神社まで約三時間。僕はまったく知らなかったが、大山祗神社は有名らしく、神社の周囲にはレストランや料理屋、お土産屋などがあり多くの観光客がいた。立派な神社で敷地も広く、国宝館や海事博物館などもある。境内には樹齢三千年と言われる巨大な楠(天然記念物に指定されていた)もあった。全国の国宝・重要文化財の指定を受けた武具類の八割が保存されているという国宝館には、平重盛、源義経、木曾義仲、巴御前、武蔵坊弁慶、静御前といった人々が奉納した刀や薙刀、鎧甲冑が展示されていた。刀は反りの大きい古刀で、差すのではなく帯に吊す形のものだった。主に源平時代のものが多いのは、やはり瀬戸内海だからだろう。

瀬戸内海は、源平合戦の主戦場になった。高松には屋島という台形の山があるけれど、屋島裏の海を舞台にした「那須の与一」の物語が有名である。義経に追われて屋島に逃れた平家は、追ってきた源氏の軍勢を前に船を出し、船に立てた扇を射抜いてみろと挑発する。船は揺れているから扇の的もゆらゆら揺れている。弓の名手である与一が指名され、彼は見事に扇を射抜く。その後、平家は屋島から逃れ、壇ノ浦の海に沈む。大三島に向かう高速道路の背景に見えた四国山脈を見ながら、「平家の落人部落はこういうところにあったんだろうなあ」と思いを馳せた。瀬戸内の島々に逃れた平家一族もいたことだろう。

壇ノ浦の戦いというと、やはり木下順二の壮大な戯曲「子午線の祀り」を思い出す。僕は戯曲も読んだが、幸いなことに舞台も見ることができた。今も鮮明に思い出すことができる見事な舞台だった。中心人物は平知盛で、演じたのは前進座の嵐圭史。歌舞伎、能、新劇など様々なジャンルの役者たちで構成され、ギリシャ古典劇のコロスのような「群読」という手法を取り入れ、「平家物語」の世界を構築した。最近、野村萬斎が再演したというが、それは見ていない。木下順二は平家物語にある平知盛の最後の言葉「見るべきほどのことは見つ、今は早や自害せん」に触発され、この壮大な叙事詩の主人公に知盛を選んだという。僕も「平家物語」の中で最も印象に残るのが、この言葉である。知盛は壇ノ浦に入水し、鎧甲冑の重みで体は沈んだ。

源平の時代の面白さを教えてくれたもう一本の戯曲は、山崎正和の「野望と夏草」だった。平清盛と後白河法王が対決する、権力を巡る物語である。これも先に戯曲を読み、幸いにも内野聖陽と津加山正種が演じた舞台も見た。保元平治の乱から平家滅亡までを描いたもので、実におもしろいものだった。「平家物語」の冒頭のフレーズ「盛者必衰の理をあらわす」をひしひしと感じたものだった。さらに、源氏の世になっても権力争いは絶えず、そのおもしろさを教えてくれたのは、大河ドラマ「草燃える」だった。岩下志麻が北条政子を演じ、その弟で純粋な青年武士から権謀術数を駆使する老獪な権力者になっていく北条義時を新人だった松平健が演じた。原作は永井路子の鎌倉ものの小説群。僕はその原作を読み漁り、実朝暗殺までのいきさつを理解した。

●映画界デビュー間のない市川雷蔵が清盛を演じた「新・平家物語」

日本の古典の中では、「平家物語」は群を抜いておもしろい。僕は「太平記」にも挑戦したのだが、途中で挫折した。「平家物語」のおもしろさは、やはり琵琶法師が語るというスタイルだったので、大衆受けする形になったからだろうか。七五調の語りは、耳になじみやすい。戦前、源平合戦の知識は日本人の基礎教養だったのだが、今の人たちでどれほどの人が知っているだろう。僕の世代でも、知らない人の方が多い気がする。もっとも、僕は見ていないのだが数年前に大河ドラマで「平清盛」なる作品が松山ケンイチ主演で放映されたので、案外、若い人にも知られているのかもしれない。その作品では、平清盛は白川上皇の落とし胤ということになっていたのだろうか。

戦前から戦後、吉川英治は超人気作家だった。その人気作品のひとつに「新・平家物語」がある。昔、仲代達矢の清盛役で大河ドラマになったことがあるが、日本映画界の巨匠・溝口健二が映画化したのは昭和三十年(一九五五年)のことだった。主演は、映画界にデビューして間のない市川雷蔵である。若々しい平清盛だった。眉尻を跳ね上げるようにしていて、武者らしい勇ましさだった。あの独特の口跡のよさは、デビュー当時からのものだったのがわかる。僧兵たちに囲まれて弓を引く姿も凛々しく、市川雷蔵ファンは必見の作品だ。もちろん、溝口健二らしい奥行きのある画面が格調高く、色彩設計も凝っている。撮影監督は宮川一夫。小津も黒澤も彼と仕事がしたくて、大映で「羅生門」や「浮草」を撮った。それほどの名手だった。

大映で映画化された「新・平家物語」は三部作だった。二部は「義仲をめぐる三人の女」(1956年)で、監督は衣笠貞之助である。木曾義仲を演じるのは白塗りの二枚目、長谷川一夫だ。巴御前は京マチ子。若い頃の京マチ子は、気の強い女を演じたら右に出る者はいなかった。「羅生門」のときの鋭い視線を思い出すと納得する。巴御前には、ぴったりである。三部は僕は未見だが「静と義経」(1956年)で、監督は島耕二が担当した。この作品も撮影は宮川一夫だ。淡島千景、菅原謙二がキャスティングされているので、菅原謙二が義経を演じたのだろうか。この頃の菅原謙二というと、柔道ものばかりに出ていた記憶がある。配役のトップが淡島千景なのでおそらく静御前役なのだろうが、三番目にキャスティングされている香川京子の方がイメージ的には合っている気がする。

●本屋さん大賞の受賞作は必ず映画化されるから----

大三島を後にして向かったのは、大島にある「今治市村上水軍博物館」だった。天気はよく、瀬戸内海の島影が美しい。「しまなみ海道」が通じたからか、島の道も広くきれいに整備されている。ただ、旧道に入ると車がすれ違うのも苦労するような道になった。「村上水軍博物館」は海辺にあり、海に向かって建てられた砦のような建物だった。村上水軍が使っていたという軍船が再現されて、入り口の横に置かれていた。館内の展示や映像での説明を見ると、瀬戸内のひとつの島を完全な海城にしていたという。小さな島が集まる海域だから潮の流れが複雑で、渦を巻いたりして、簡単には島にも近づけなかったらしい。

館内のショップには和田竜の「村上海賊の娘」のサイン本が売られていたし、出版元の新潮社とコラボレーションした「村上海賊の娘ドラ焼き」も売られていた。「村上海賊の娘」は吉川英治新人文学賞を受賞し、本屋さん大賞を獲得した人気時代小説だ。「村上水軍博物館」としては、村上水軍を有名にしてくれた作品である。ちなみに、「昨今では、彼らを『村上水軍』ではなく、『村上海賊』と呼ぶことが多い。(中略)『水軍』では、彼らの多様な活動を表現できないため、最近では古文書などに見える『海賊』という呼称を用いることが多くなってきている」とパンフレットにあった。

和田竜は、シナリオのコンクールである城戸賞を受賞した人である。その受賞作を小説にした「のぼうの城」を出版してベストセラーになり、映画化の話が舞い込んだ。当然、映画化された「のぼうの城」(2011年)は和田竜自身が脚本を書いた。この小説が話題になったとき、僕は「タイトルがうまいなあ」と思ったものだ。「のぼう」とは何? と誰もが思うだろうが、読めばわかるのだ。「でくのぼう」と呼ばれる主人公。いつの間にか「のぼう様」と領民たちは呼んだという設定なのだった。このすっとぼけた主人公を、野村萬斎が演じた。豊臣秀吉の大群を相手に、小さな城の城主の留守を守る守備兵たちが奮闘する。水攻めに遭い、城外の湖面に船を浮かべて敵の前で踊る設定があり、その踊りは野村萬斎だからこその説得力があった。

和田竜の二作目は「忍びの国」で、これも原作者本人の脚本で、昨年、映画化された。和田竜の四作目が「村上海賊の娘」上下二巻だった。本屋さん大賞受賞作は、一回目の「博士の愛した数式」(2005年)以来、間違いなく映画化されるので、「村上海賊の娘」も映画化される可能性は高いだろうなあ、そのときはまた「村上水軍博物館」の入場者数は増えるかもしれないな、と考えながら「村上水軍博物館」を後にした。「村上海賊の娘ドラ焼き」は買わなかったけれど----。

2018年5月17日 (木)

■映画と夜と音楽と…817 葬儀に戸惑う



【お葬式/社葬/おくりびと/遺体 明日への十日間】

●できたばかりの東京タワーの形の文鎮を買ってきてくれた叔父の死

ひと月足らずの間に二度、納棺を手伝った。遺体を数人で持ち上げ、棺の中に移す作業である。ひとりは義妹の義母、ひとりは九十三になる父のひとまわり年下の弟で僕には叔父にあたる人だった。父には八人の兄弟姉妹がいたが、子供の頃に何人か亡くなって、成人したのは五人。しかし、長男は四人の子供を残して早世し、父には姉と弟ふたりが残った。五年ほど前に九十三で姉が亡くなり、すぐ下の弟も三年前に亡くなった。この四月に末っ子だった叔父が亡くなったので、父はすべての兄弟姉妹を失ったことになる。九十三年も生きているのだから仕方がないのかもしれない。「ワシもすぐにいくことになる」などとつぶやいている。

先日亡くなった叔父も八十一だから大往生だと思う。亡くなる一週間ほど前に父に会いたがっていると連絡が入り、僕は病院へ父を送った。父は両耳に補聴器を入れているのだが、ほとんど聴こえない。苦しい息をしながら叔父は父と会えて喜んでいたのだけれど、会話は成立しなかった。父は叔父の手を黙って握り病室を出た。その数日後、九十二歳になる母も見舞いにいきたいというので、父母を車に乗せて病院へいった。そのときには、叔父は酸素マスクをしているものの苦しい息が続いていた。一年ほど前に肺にガンが見つかり治療していたが、ひと月前に急に容態が悪化したという。すでに意識はなく、会話もできなかった。その叔父の手を握って母は涙ぐんだ。翌日、従兄弟から「父が亡くなりました」と連絡が入った。

叔父は中学を出てすぐ、タイル職人をしていた父の元に弟子入りした。父は二人目の子(僕のこと)が生まれたばかりで、二十七か八になっていた。叔父は十五歳。母は毎日、通ってくる叔父の面倒をみたらしい。日本が占領時代を終え、独立国家になったばかりの頃である。朝鮮半島では、まだ戦闘が続いていた。父は敗戦後に中国大陸から引き揚げてきて、いろいろな仕事をしていたようだが、最終的にタイル職人になり、その頃は親方として何人か使っていたのだ。僕がものごころついた頃には十人近くの職人が、毎朝、我が家の前に集まり、父からどこの現場へいけばいいか指示が出ていた。親方としては仕事をとり、毎日、段取りをして現場に派遣し、月末になると集金をして封筒に給金を詰め、ひとりひとりに手渡していた。それなりに苦労があったと思う。

その父は僕が大学を出た後にタイル職人を辞めたのに、叔父はずっとタイル職人として生きた。地方紙の訃報欄に叔父は「十河タイル代表」として載ったが、父は「ワシのことかと思う人がいるかもしれん」と口にした。僕が小学校に上がる前、父はオートバイで現場にいっていたが、そのバイクには「十河タイル」と描いてあった。そのバイクのオイルタンクにまたがっている僕の写真が残っている。昭和三十二、三年の頃だ。その頃、一人前のタイル職人になった叔父は結婚して新婚旅行に東京へいき、完成したばかりの東京タワーに登り、僕にお土産として東京タワーの形をした文鎮を買ってきてくれた。叔父に長男が生まれたのは昭和三十五年である。その長男は六十近くになり、初めての喪主に「まったく勝手がわからない」と戸惑っていた。

●伊丹十三監督は義父の葬儀の経験を元に「お葬式」を作った

伊丹十三が監督としてデビューした「お葬式」(1984年)を作るきっかけになったエピソードは、「お葬式」が大ヒットした後、雑誌やテレビのインタビューなどで紹介され広く知られることになった。義父の葬儀を取り仕切った個人的な体験が元になっているという。「お葬式」を私映画として見た人は、葬式の間に愛人が尋ねてきて近くの森の中で主人公(山崎努)がセックスするシーンがあり、「あれも伊丹監督の告白か」などと書いていた。主人公の設定はほとんど伊丹監督自身を連想させるし、実際の奥さんである宮本信子が主人公の妻を演じているのである。主人公が愛人とセックスしているシーンでは、妻の宮本信子が公園に設置された丸太の遊具に乗って、ブランコのように前後に揺らすカットが挟まれる。僕はあまり好きではないが、セックスを連想させる直喩カットだった。

伊丹監督が「お葬式は映画になる」とひらめいたのは義父の葬式を経験したからだが、初めて身内の葬式を経験すると誰でもなるほどと思うことが多く、それを詳細に描くことで映画になると発想するのは、さすがに才人の伊丹さんだと思う。映画会社は「お葬式なんて暗い映画がヒットするわけがない」と否定したらしいが、「お葬式」が大ヒットしたものだから、東映は「社葬」(1989年)なんて映画を臆面もなく作った。こちらは愛人宅で腹上死した新聞社の社主の葬儀を描いた映画だった。「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」というセリフが記憶に残っているように、社葬を巡るドタバタの間に全国紙の販売戦争も描いていた。

「お葬式」の中では、義父の臨終を看取るとすぐに葬儀の準備に追われる遺族の姿が描かれた。葬儀社が準備したビデオをみんなで見て、葬儀の手順や作法を学ぶシーン。みんな真剣なだけに、おかしさが漂ってくる。厳粛な葬儀なのに滑稽なのである。しかし、自分で体験してみると、あの映画には共感することが多い。遅かれ早かれ誰でも葬儀の経験はするだろうから、「お葬式」が大ヒットしたのも今となってはよくわかる。八年前、僕も義父の葬儀を経験した。喪主は義弟だったけれど、長女の夫で最年長の僕としては、何かを決めるときにはいろいろと相談を受けることになった。しかし、僕としても身内の葬儀は初めてだから、すべては戸惑うことばかりだった。

湯灌・納棺も初めて経験した。葬祭場の控えの間だった。広い畳の部屋で、遺体を安置し通夜を行う。通夜では線香を絶やさないが、今は蚊取り線香みたいな渦巻き型の線香があり、一度火をつければ十二時間保つというから夜通し起きている必要はない。その通夜の前に畳の部屋で湯灌が行われた。大きなバスタブが運び込まれ、部屋の隅にあったバルブにシャワーのホースがつながれる。排水用のホースも接続され、遺体はきれいに洗われた。男女ふたりの人が遺体に大きな布をかけたまま、髪はシャンプーしてくれるし、髭も剃ってくれる。湯灌が終わり、改めて化粧をした後、納棺が行われる。遺体に水を飲ませたり、最後の別れをしたり、儀式めいたことが続いた。これも、身内の葬儀を経験しなければ、まったく知らないことだった。

●葬儀で会った従姉妹たちに幼い頃のことを教えてもらう

僕の場合、「人生で必要なすべてのことは、本と映画で教えてもらった」と断言できる。湯灌や納棺の儀式も、義父の葬儀の前に「おくりびと」(2008年)を見ていたので、実際の納棺を見て「なるほど」と思った。ただ、今回、立て続けに二度納棺を手伝ったが、それぞれ細かな違いがあった。葬祭場の違いで少しずつ異なるのだから、地域によってはいろいろ大きな違いがあるのかもしれない。僕はずっと東京での葬儀しか出ていなかったので、高松の葬儀のしきたりに戸惑ったものだ。焼香も名前を読み上げて順番があるとか、来賓の焼香では肩書きまで読み上げるとか、「止め焼香」という役にはそれなりの人を当てるとか、初めて知ったものだった。すべて、葬儀社の人の言うままに従った。

叔父の湯灌は義父のときより、さらに丁寧だった。立ち会っていた家族親戚の全員が叔父に湯をかけ、顔の一部を拭き別れを告げた。やはり男女ふたりが担当し、厳粛な儀式めいた仕草で執り行う。「おくりびと」では、山崎努と本木雅弘の納棺の儀式を見て、遺族が「ありがとう」と礼を言うシーンがあるけれど、目の前で遺体を丁寧に洗いきれいにしてもらっているのを見て叔母は何度も礼を言った。「入院して、十日間もお風呂に入れなかったから、きれいにしてもらってよかったね」と叔父に話しかける。職人だった叔父は、一日も欠かさず風呂に入った。最後に全身を洗ってもらい、シャンプーやひげ剃りまでしてもらい、新しい着物に着替えさせてもらい、気持ちよく眠っているように見えた。

オーケストラのチェロ奏者だった主人公(本木雅弘)が失職し、妻と故郷に帰ってたまたま納棺師になり、次第にその職業に使命感や誇りを感じていく物語が「おくりびと」だった。最初、妻には納棺師になったことは告げられない。案の定、真実を知った妻は「気持ちが悪い」と口にする。叔父の湯灌・納棺を見ながら、僕も「大変な仕事だな」と思った。眠るように亡くなった遺体ばかりではないだろう。「遺体 明日への十日間」(2012年)は東北の震災と津波で亡くなった人たちを安置する場所で、懸命に働いた人たちを描いた実話をベースにした映画だが、津波に呑み込まれて亡くなった泥だらけの幼い娘を「洗っていただけませんか」と母親に懇願され、「今は飲み水さえ----」と絶句する葬儀社の社員を演じた緒形直人の姿が記憶に残る。

実家で暮らしていると、冠婚葬祭の「葬」ばかりある。リタイアして一年の半分以上を四国で暮らすようになって三年、葬儀と仏事に何度出たことだろう。父は高齢で、兄も目を悪くして免許を返納したから、運転できる僕に「出ろ」となることが多い。叔父の一周忌もひとりで車を運転して、讃岐山脈の麓にある寺へ出向いた。しかし、そういう場では子供の頃に一緒に遊んだ従兄弟や従姉妹に会う。僕がすっかり忘れてしまった幼少期の話をしてくれる叔父叔母もいる。母方の叔父の四十九日には、年下の叔母に二十数年ぶりに会ったし、先日の叔父の葬儀でも四歳年上の従姉妹に会った。子供の頃、姉のように慕っていた人だ。十歳上の従姉妹にも会い、「十代後半、あんたの家に下宿してたのよ」と言われた。そういえば----と、六十年以上前の記憶がぼんやりと甦る。「もう私も八十だけど----」と、その従姉妹は続けた。長い時間が過ぎ去り、周りの人が少しずついなくなる。

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