2019年1月17日 (木)

■日々の泡---足るを知る

【清貧の思想・麦熟るる日に/中野孝次】

元日産会長カルロス・ゴーンが逮捕されて二ヶ月になる。やったことが違法だったかどうかは裁判になってからの判断なのだろうけれど、その報道を見る限り、僕の感想は「人間の欲望は果てしがない」というものだった。

日産の報酬だけでも十数億円、加えてルノー会長としての報酬もあり、それで充分過ぎると思うのは僕が乏しい年金生活者だからだろうか。ただし、四十年勤め保険料をせっせと納めたおかげで、今のところひとり暮らしをするには不自由はしていない。食べていければそれでいい、と思っている。

もっとも、僕の四国での生活と言えば、実家の裏の父が持つ借家の一軒を只で使わせてもらっているし、行動範囲は半径二キロくらいに限られている。金はかからない。実家と借家を行き来し、食事はすべて自分で作っている。

早朝の散歩のときに二十四時間開いているスーパーで二日分の食料を買っているが、支払いは二千円足らずですんでいる。十日に一度くらいの割合で四キロほど離れた高松市の中心街に出かけ(電車代は190円)、友人と居酒屋などに入る。その後、ショットバーでウィスキーを飲んで帰るのだが、支払いはせいぜい四、五千円ですむ。

健康保険料、介護保険料、所得税、住民税を引かれた年金は、現役時代から比べれば可処分所得が極端に少ないけれど、労働しないで二ヶ月に一度まとまったお金が振り込まれるのはありがたいとしみじみ思う。四十年間働いた自分に改めて感謝する。

そんなとき「ライムライト」(1952年)のチャップリンのセリフを思い出す。老道化師(チャップリン)が、自分をバレースクールに通わせるために姉が街娼になっていたのを知って自殺を図ったバレリーナ(クレア・ブルーム)に向かって言うセリフである。

----人生に必要なのは、勇気と、想像力と、少しのお金。

カルロス・ゴーンと対照的なのは、メディアが勝手に「スーパー・ヴォランティア」などと祭り上げたオバタさんだろう。その生き方を知れば知るほど頭が下がる。月六万円足らずの国民年金だけで、ヴォランティアとしての生活を賄っているという。軽自動車のヴァンで寝泊まりし、食事も安くあげているらしい。

ヴォランティアにいった現地に迷惑をかけないことを己に課し、謝礼などは一切受け取らない。見返りは求めない。遠く離れた被災地へいくのにはガソリン代もかかるだろうに、と心配になる。おそらく高速道路は使わず、一般道で九州から東北の被災地に通ったのだろう。

そんなことを考えていたら、昔、ベストセラーになった中野孝次さんの「清貧の思想」を思い出した。本が出たのは一九九二年、バブル崩壊直後のことだった。中野さんは本来はドイツ文学者なのだが、「徒然草」や「方丈記」などの解説本も出していて、「清貧の思想」も吉田兼好や西行、良寛、芭蕉などの生き方を取り上げている。

要するに、物質的な豊かさより「心の豊かさ」を持とう、という内容だ。「しぐるるや あるだけの飯 もう炊けた」と詠んだ放浪の俳人・山頭火なども「清貧の思想」的生き方の系譜に入るだろう。

日本語には「足るを知る」という言葉がある。少しのお金があり、生活するのに充分ならそれでいいと思っている今の僕は「足るを知る」状態なのだろうか。うーむ、そこまでは悟っていないかもしれない。ただ、特に欲しいものもないし、食べるものも贅沢したいとは思わない。

早朝のスーパーに行くと、消費期限がその日になっている魚肉類(前日の売れ残り)は割引になっていて、どうせその日に調理するからと、そんな食材を買っている。飲みに出ても、居酒屋の煮込みと焼酎で満足する人間だ。着るものはユニクロですませている。

誰に会うわけでもない。散歩し、実家の両親の様子を見、本を読み、DVDを見、原稿を書き、公園で猫と戯れて終わる日々である。西行、芭蕉、あるいは山頭火のような生活はできないが、放浪の詩人のような生き方に憧れる気持ちはある。物質的豊かさより「心の豊かさ」を感じる方が幸せだとも思う。

日本人の多くがそんな生き方に共感したから「清貧の思想」はベストセラーになったのだろう。しかし、「清貧の思想」がベストセラーになったとき、僕は「中野孝次さんの本がベストセラー?」と少し違和感を感じたものだった。その十四年ほど前、僕にとっての大切な一冊が、中野孝次さんの初めての小説集「麦熟るる日に」だったからだ。

それは、「鳥屋の日々」「雪ふる年よ」「麦熟るる日に」の自伝的小説三編をまとめた単行本だった。出版された年は一九七八年、新聞の書評を読んですぐに買ったから、僕が読んだのもその年だった。僕は社会人になって三年、まだ学生気分を引きずる未熟な青年だった。

三部作の語り手は、中野さん自身だと思って読んでもいい。記憶だけで書くので少し違うかもしれないが、冒頭の一行は「記憶の世界は薄暮に似ている。そうは思わないか」というものだった。自身の記憶を手探りするように語られる物語は、まだ二十七歳で文学の夢をあきらめていなかった僕をのめり込ませた。

確かに薄暮の世界のように、うすぼんやりとした景色が見えてきた。記憶の中の人物は薄い膜がかかったように、ときには輪郭がゆらゆらと揺れるシルエットだけになったように感じられた。それは、自身の少年から青年にかけての時期を数十年後に回想して描くには、最も適した文体ではないかと僕は思った。

中野さん自身は大正十四年生まれだから、僕の父と同じ歳である。大工の子として生まれ「職人の子に教育はいらない」と中学進学を断念させられる。しかし、優秀だった中野さんは猛勉強をして旧制中学の卒業資格を取得し、旧制第五高等学校へ進み、戦後に東大文学部独文科を卒業する。そんな生い立ち(徴兵令状が届くまで)が小説の形で語られるのだ。

身につまされたのは、同じように僕もタイル職人の子だったからかもしれない。子供の頃は「本ばっかり読んどらんで」と、よく叱られたものだった。家には本が一冊もなかったから、僕の小遣いはほとんど本に費やされることになった。ただ、僕は中野さんほど優秀でもなく、努力家でもなかった。だから、今、ただの年金生活者として、身分相応に足るを知る生活をしている。

2019年1月10日 (木)

■日々の泡---すべての始まりだった



【鉄仮面/ボアゴベ・黒岩涙香翻案】

子供の頃から、本好きではあった。ただし、我が家は本のない家だったから、小学校三年生くらいから学校の図書室に入り浸っていた。その頃に読んでいたのは、子供向けの偉人伝や日本の歴史、それに地理の本だった。初めて文字ばかり印刷された(挿し絵はところどころに入っていたけれど)物語の本を読んだと記憶しているのは、「鉄仮面」である。

黒岩涙香が翻案したもので、原作者は「ボアコベ」と記憶していた。その本の表紙や本の姿、挿し絵を今も憶えている。小学四年生の誕生日か、クリスマスのプレゼントとして両親が贈ってくれたものだ。フランス版伝奇小説で、怖い場面もあった。

黒岩涙香が「岩窟王」の作者だとは知っていた。その頃、ラジオドラマで「岩窟王」が放送されていたからだ。「岩窟王」がアレキサンドル・デュマ(父の方。息子のアレキサンドル・デュマは「椿姫」を書いた)の長大な「モンテ・クリスト伯」の翻案だと知るのは、ずっと後のことだ。

高校生になって集英社版世界文学全集で「モンテ・クリスト伯」の二巻本を読んだのだが、翻案の「岩窟王」の方が面白かった気がした。しかし、この「愛と復讐の物語」は今も人々を魅了するらしく、つい最近も現代の日本に舞台を移して連続テレビドラマ化された。

さて、記憶が曖昧な部分もあったので、先日、「鉄仮面 ボアコベ」でネット検索してみたら、「鉄仮面 デュ・フォルチュネ・ボアゴベ」でヒットした。翻訳本も講談社文芸文庫で上下二巻で出ている。そんなに長い物語だったのだ。

訳者は長島良三さんである。早川書房の編集者で、フランス語の翻訳家になった。ジョルジュ・シムノンの「メグレ警視」シリーズなど、いろいろ訳している。数年前、新聞の死亡欄に名前を見つけて、「長島さんが亡くなったか」と僕はしばらく感慨に耽ったものだった。

ネット検索してみると、おもしろいサイトが見つかった。「講談社BOOK倶楽部」の「講談社文芸文庫・私の一冊コーナー」で、村上春樹さんが「鉄仮面」について文章を書いていたのだ。「お奨め作品をひとつ選ぶとすれば、やはりこの『鉄仮面』にとどめを刺す」とあり、「若い人には馴染みがないかもしれないが、僕が子供の頃は少年向けにリライトされた小説が人気を呼んだものだ」と続く。

村上さんとは世代的に近いので、好きな映画(たとえばポール・ニューマン主演「動く標的」)や読書体験(僕も高校生のときに「偉大なギャツビー」を読んだ)では共通することが多いなあと思っていたが、まさか「鉄仮面」までシンクロするとは思わなかった。

もっとも、村上さんは「読み終えて、『こんなあほな本を読んで時間を無駄にした』と嘆かれる方もいらっしゃるかもしれないが、時間を無駄にするのもけっこう大事ですよ」と結んでいる。全文を読みたい方のために、以下にurlを掲載しておきます。

http://bungei-bunko.kodansha.co.jp/recommendations/1.html

さて、講談社文芸文庫の作品紹介では「バスチーユに囚われた『鉄仮面』の正体は? 史実に基づく伝説を題材にした、波瀾万丈の歴史冒険ロマン。フランス語原典による初の完訳版」となっている。フランス語原典は入手しずらかったらしく、黒岩涙香は英語版を元に翻案したらしい。

九歳か十歳の僕が読んだその翻案本のあとがきにも、ルイ十四世の時代に鉄の仮面をかぶせられた囚人が実際にいたと書かれていた。謎の囚人で、正体はわからない。同じ囚人伝説を元にして、アレキサンドル・デュマ(父)も「鉄仮面」を書いている。

こちらは長大な「ダルタニヤン物語」の中の一篇だ。「ダルタニヤン物語」の第一部は有名な「三銃士」で始まるが、その数十年後の物語が「ブラジュロンヌ子爵」であり、その後半に「鉄仮面伝説」が取り上げられている。昔、講談社文庫で「ダルタニヤン物語」の全訳が出ていたのだけれど、なんと文庫で十一巻あり、僕は怖れをなして、敬遠してしまった。

ボアゴベ版「鉄仮面」よりは、大ベストセラー作家であったアレクサンドル・デュマ(父)の作品の方がよく知られていて、昔から様々な形で映画化されてきた。「三銃士」はダグラス・フェアバンクスの時代から何度も映画化されてきたし、アラン・ドロンが主演した「黒いチューリップ」(1963年)なども懐かしい。「鉄仮面」物語も何度か映画化されているけれど、僕が記憶しているのは若きレオナルド・ディカプリオが主演した「仮面の男」(1998年)だ。

デュマの「鉄仮面」では、謎の仮面の囚人はルイ十四世の双子の弟だったという説を採っている。引退していた三銃士たちは、その仮面の男を救い出し王と入れ替えようとする。年老いた三銃士をジェレミー・アイアンズ(アラミス)、ジョン・マルコヴィッチ(アトス)、ジェラール・ドパルデュー(ポルトス)という英米仏の名優たちが演じた。ダルタニヤンを演じたのは、ガブリエル・バーンである。キャスティングは一流だった。ディカプリオは、もちろんルイ十四世と双子の弟フィリップの二役を演じている。

黒岩涙香翻案の「鉄仮面」は、それとはまったく違う物語だ。といって、僕も六十年近く前に読んだだけだから筋道たてて説明できるわけではない。ただ、囚われた恋人を救うために、ひたすら奔走し艱難辛苦を乗り越えるヒロインが印象に残っている。ラスト、ヒロインは数十年ぶりに馬上の恋人と再会するのだけれど、その場面の挿し絵は今も鮮明に浮かんでくる。

それにしても、なぜ、両親は「鉄仮面」を選んでプレゼントしてくれたのだろう。後に、母は「本ばっかり読んどらんで、勉強せえ」と口やかましくなるのだが、その後の僕の読書遍歴は「鉄仮面」からスタートしていると言えるだろう。もしかしたら、後にフランス文学に傾倒するきっかけになったのかもしれないし、ミステリ、SF、伝奇、冒険小説、時代小説好き(要するに何でも読む)になったのも「鉄仮面」を読んだからかもしれない。

余談だが、高校生の頃、友人たちと話していたとき、「この鉄面皮め」と言おうとして、「この鉄仮面め」と言ってしまい、しばらく仲間内で「この鉄仮面め」という言い方が流行った。今では、「鉄面皮」という言葉さえ若い人には通じないかもしれない。時は過ぎ、言葉は変わり、古い物語は消えてゆく。

2019年1月 3日 (木)

■日々の泡---心に残るタイトルだった

【心は孤独な狩人/カーソン・マッカラーズ】

カーソン・マッカラーズの小説が映画化されたと知ったのは、映画雑誌でエリザベス・テイラーの新作が「金色の眼に映るもの」だと読んだときだった。それは映画雑誌の編集者が原題から訳したものらしく、その小説は「黄金の眼に映るもの」というタイトルで翻訳されているのを僕は後に知った。その記事が高校一年生だった僕の記憶に残ったのは、一体どんな物語だろうと思わせるタイトルだったからだろう。

カーソン・マッカラーズは、アメリカ南部を舞台にした小説を書いた女性作家だ。詩人でもあった。「黄金の眼に映るもの」は一九四一年、彼女が二十四歳のときに出版された長編小説である。その前年、二十三歳のカーソン・マッカラーズは初めての小説「心は孤独な狩人」を出して高く評価されたのだった。カーソン・マッカラーズは一九一七年に生まれ一九六七年に没するから五十年間の人生だったのだが、代表作と言われる二作を二十三歳と二十四歳で出してしまったのである。

「金色の眼に映るもの」として紹介された映画は、その後、配給会社が「禁じられた情事の森」(1967年)というタイトルに変更して公開した。巨匠ジョン・ヒューストンの監督作であり、当時、最もギャラの高いハリウッド・スターのふたりだったエリザベス・テイラーとマーロン・ブランドが共演し、ハリウッド・コードが緩んだために正面から同性愛を描けるようになった結果、ゲイ・ムービーのハシリになった作品なのだが、まるで安っぽいポルノ・ムービーのようなタイトルになってしまった。

しかし、なぜ発表後三十六年も経って、初めてカーソン・マッカラーズの「黄金の眼に映るもの」は映画化されたのだろうか。ハリウッドのコードがうるさくて、それまで同性愛をテーマにしてきちんと描けなかったこともあっただろう。ゲイであったテネシー・ウィリアムズ原作の「熱いトタン屋根の猫」(1958年)や、シャーリー・マクレーンとオードリー・ヘップバーンが共演したリリアン・ヘルマン原作の「噂の二人」(1961年)などは、同性愛を正面切って描けなかったためにテーマがボヤケてしまった作品である。

しかし、これは僕の単なる推測だが「黄金の眼に映るもの」が映画化された年に、原作者のカーソン・マッカラーズが死んでいるのが何かを物語っている気がする。それまで一度も彼女の小説は映画化されていなかったのに、翌年の一九六八年には立て続けに「心は孤独な狩人」が映画化されているのだ。その後、カーソン・マッカラーズの小説の映画化は、二十三年後に短編をベースにした「悲しき酒場のバラード」(1991年)があるだけである。「心は孤独な狩人」は「愛すれど心さびしく」(1968年)という邦題で、一九六九年のゴールデンウィークに日本公開された。

一九六九年は、東大闘争と共に明けた。一月十九日、東大安田講堂に立てこもった学生たちは、大学の要請で構内に入った機動隊によって放水と催涙弾を浴び、ひとり、またひとりと講堂(安田砦と呼ばれた)から引き立てられた。その様子はテレビ中継によって全国に流れ、多くの若者たちをいても立ってもいられない気持ちにさせた。十七歳だった僕も同じだった。その年の五月の体育祭、友人で生徒会長代行だったIはいわゆる造反演説を行って停学になり、その後、退学に追い込まれた。

そんな頃に、僕は「愛すれど心さびしく」を見たことになる。よく映画なんか見にいく気になったものだと思うけれど、あの激動と混乱の時期、ふっとひとりになりたくなったのかもしれない。「愛すれど心さびしく」のことは、テレビ番組の映画紹介で知っていた。評判はよかった。主演のアラン・アーキンは、前年に見たオードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」(1967年)での冷酷な殺人者の印象が強かったから、心優しい聾唖の青年役に僕は戸惑ったものだ。

口が利けない青年は心優しいが故に、人々の様々な感情のはけ口にされ、心の中に澱のようなものをため続ける。人々は彼に話すことで何かを解放しているのだが、彼自身の屈託や鬱積には出口がない。そんな中で、ただひとり、彼と気持ちを通わせるのは、下宿している家の少女ミックだけである。ミックだけが青年の救いになる。昔、僕は初めて村上春樹さんの「1973年のピンボール」を読んだとき、冒頭の文章から「愛すれど心さびしく」を連想した。こんな文章だ。

----彼らはまるで枯れた井戸に石でも放り込むように僕に向って実に様々な話を語り、そして語り終えると一様に満足して帰っていった。

村上さんはエッセイなどで「愛すれど心さびしく」を好きな映画だと書いているし、カーソン・マッカラーズの短編を翻訳もしている。もしかしたら、十代で「愛すれど心さびしく」を見た後、僕と同じように「心は孤独な狩人」を読んだのかもしれない。だから、「1973年のピンボール」の冒頭で僕が連想したことは、的外れではない可能性もある。「愛すれど心さびしく」を見た後、僕も「カーソン・マッカラーズを読まねば」と妙な悲壮感を抱いて決意した。まだ十七歳の幼い少年だったのだ。

聾唖の青年の救いであった少女ミックを演じたのは、この作品でデビューしたソンドラ・ロックだった。すでに二十歳を過ぎていたが、少女のような儚さと脆さと、意識しない残酷さを持っていた(それが悲劇的なラストを呼び寄せる)。しかし、じっとさみしそう見つめる彼女の視線が印象に残った。そんなソンドラ・ロックはデビュー作で、いきなりアカデミー助演女優賞にノミネートされる。しかし、後にクリント・イーストウッド作品でヒロインとして活躍し、私生活ではイーストウッドのパートナーとして一緒に暮らし、やがて破局を迎え裁判で争うことになるとは予想もしなかった。

昨年末、十二月十五日の新聞の訃報欄にソンドラ・ロックの小さな写真が載っていた。ソンドラ・ロックは十一月三日に死亡していたが、一ヶ月以上経って判明しAP通信が発信したのだという。一九四四年生まれの七十四歳だった。死亡記事を読んだ僕の頭に「コラムを書くとしたら『儚い女----ソンドラ・ロック』というタイトルだな」という思いが浮かんだ。僕はイーストウッドとのいきさつを思い浮かべて彼女の人生を偲び、そんなフレーズを連想したのだけれど、やがて「愛すれど心さびしく」の消えてしまいそうな儚い少女の姿が鮮明に浮かび上がってきた。

2018年12月27日 (木)

■「映画がなければ生きていけない」最終巻を出して



■「映画がなければ生きていけない」最終巻を出して

シリーズ第六弾「映画がなければ生きていけない2016-2018」が12月20日に発売になりました。22日には朝日新聞一面のサンヤツ広告にも出て、知人からもいくつか連絡をいただきました。その本にも書きましたが、足掛け20年ほぼ週一回の映画コラムを書き続けてきて、本の形にするのはこれで最後にし、一区切りつけることにしました。

簡単に言えば、週一回の映画コラムを書き続けるのが厳しくなったからです。要するに、「この映画について書きたい」と思わせる作品がそう多くないということでしょうか。最近の映画もかなり見ているのですが、週一回のペースでは時には無理して書くということもありました。本当に書きたくなったら書く、もっとゆったりしたペースで書きたいという気分になったのです。

今回、出版準備で五カ月近く映画コラムを休んでみて、よく20年書き続けてきたなあと思うと同時に、自分の書くものが変わってしまったことも実感しました。ネットで検索したとき、昔の僕のコラムを何度も読み返しているという人の文章に出会ったことがあります。そんなコラムは、書いたときのことを自分でもよく憶えているものです。

そういう誰かの記憶に残っているコラムは、やはり作品に対する熱い思い入れを書いた文章でした。しかし、連載の年月を重ねるにつれ、自分の中に残るコラムの数が減ってきたような気もします。初期のコラムは取り上げる映画への思い入れも強く、センチメンタルで今読むと恥ずかしく思うこともありますが、映画が自分の生き方と密接に関わっていると実感できたものでした。

ということで、無理して何かの映画を取り上げるより、ブログを始めた当初に『日々の泡』と題して書いていた日々の随想みたいな形にしようと思います。とは言っても、当面は「読書遍歴」をテーマにして、時系列で続けるのではなく、アト・ランダムに僕が読んできた本を紹介しようと考えています。映画化された本も多いので、相変わらず本と映画と音楽(JAZZ)の話題が中心になると思います。年明けからスタートします。

ちなみに通しタイトルにした『日々の泡』は、ジャズ・トランぺッターであり作家だったフランスのボリス・ヴィアン(早川書房から全集が出ていた)の代表的な小説です。利重剛監督が『クロエ』として映画化し、岡崎京子が「うたかたの日々」として漫画化したことがあります。ボリス・ヴィアンは自身の小説の映画化作品『墓に唾をかけろ』の試写中に死ぬという劇的な夭折を遂げました。羨ましい。

2018年12月20日 (木)

■菊池寛と映画について

2018年は「菊池寛生誕130年・没後70年」で様々なイベントが出身地の四国高松で開催されています。そのひとつとして「藤十郎の恋」上映会が高松市の菊池寛記念館のホールで11月18日に開かれ、一時間ほど話をしてきました。なお、本日から「映画がなければ生きていけない2016-2018」が発売になりました。

■菊池寛と映画について

●文学者と映画

漱石こと夏目金之助が松山中学に赴任したのが、1895年(明治28年)でした。その年、フランスのリュミエール兄弟が、スクリーンに上映する形のシネマトグラフを発明し、現在の映画の歴史は始まりました。その方式は瞬く間に世界に広がり、十年後にはアメリカでニッケルオデオンと呼ばれる五セントで見られる映画館が現れます。

日本での初めての活動写真の常設館は、1903年(明治36年)に開設された「浅草電気館」です。ただし、本格的な劇映画というより、見せ物に近いものでしたし、女優は登場せず歌舞伎のように女形が演じました。当時は活動写真と呼ばれるようになりましたが、大正期に入り、新しい表現形式として、また、娯楽として一般的に広がります。ただし、昭和初期にトーキーになるまではサイレントでした。

漱石より若い世代の文学者、菊池寛や谷崎潤一郎、あるいは横光利一、川端康成などは、積極的に映画に関わりました。菊池寛は第二次大戦中に大映の社長になりますが、谷崎も大正期に映画会社とかかわり、文芸部顧問として映画の脚本にも手を染めました。谷崎の最初の妻、千代の妹は谷崎のバックアップで映画女優になります。この義妹をモデルに、谷崎は「痴人の愛」を書きました。

谷崎は1920年(大正9年) 横浜の大正活映株式会社脚本部顧問に就任。妻の妹のせい子を芸名・葉山三千子として女優にします。彼女は奔放な性格の女性だったようです。谷崎が執筆したシナリオは、「アマチュア倶楽部」(1920年6月)、泉鏡花の原作を脚色した「葛飾砂子」(1920年11月)、「月の囁き」(1921年)、「雛祭の夜」(1921年3月)、「蛇性の婬」(1921年7月)といったものがあります。

大正活映は大正9年(1920年)4月に設立され、横浜の山下公園に撮影所をもっていました。そこの俳優募集に応募し、17歳で入社したのが岡田時彦です。同社設立第一作である栗原監督の『アマチュア倶楽部』で映画デビューを果たし、12月公開の『葛飾砂子』に出演します。すべて谷崎のシナリオでした。谷崎潤一郎にかわいがられ、「岡田時彦」という芸名をもらいます。戦後、東宝から川端康成原作・成瀬巳喜男監督の「舞姫」でデビューすることになった岡田時彦の娘も谷崎から「岡田茉利子」という芸名をつけてもらいます。

大正11年(1922年)、大活は解散し、東京・蒲田の松竹キネマに吸収されます。大活に俳優として在籍していた内田吐夢は監督に転向し、戦争中は満州映画協会にいき、戦後、長く中国大陸に抑留され、中華人民共和国の成立にも立ち合い、戦後八年経って帰国し、東映で「飢餓海峡」や「宮本武蔵」五部作などの名作を作ります。

文学者と映画の関係は昔から深かったようです。川端康成も若い頃に実験的な「狂つた一頁」という映画のシナリオを書いています。『狂つた一頁』は、1926年(大正15年)に製作・公開された日本映画です。監督は衣笠貞之助。衣笠が横光利一、川端康成ら新感覚派の作家と結成した新感覚派映画聯盟と、衣笠映画聯盟で製作した作品で、字幕なしのサイレント映画として公開されました。映画史的には、日本初のアヴァンギャルド映画とされています。

彼らとは違って、菊池寛は実業家として映画とかかわりました。戦争中の1943年に発足した大映の初代社長を引き受けることになったのです。そして、戦後、1945年、昭和20年11月30日、その年の6月に発足したばかりの映画公社が占領軍の指令によって解散になり、映画製作者連合会が大映社長の菊池寛を会長として設立されます。しかし、その後、菊池寛は公職追放になり、1947年、昭和22年に永田雅一が大映の社長になりました。菊池寛は翌年の1948年、昭和23年に亡くなります。

生まれた順で見ると、谷崎が1886年、明治19年、菊池寛が2年後の1888年、明治21年、芥川龍之介が菊池寛より四歳若く1892年、明治25年、川端康成は菊池寛より十一歳若い1899年、明治32年生まれでした。

さて、大映の社長だったこととあまり関係はないのでしょうが、菊池寛の小説の映画化は大映が多く手掛けています。1955年、昭和30年公開の「藤十郎の恋」も、その一本です。

菊池寛の小説の映画化で最も初期の作品は、1925年、大正14年の「恩讐の彼方に」のようです。1938年、昭和13年には「藤十郎の恋」が映画化されています。長谷川一夫が東宝へ移籍した第一作でした。監督は山本嘉次郎。黒澤明の師匠です。

山本監督は高峰秀子主演の「馬」という映画が有名です。かわいがって育てた馬が軍馬になるという、お国のためにという映画ですが、この映画の撮影時のエピソードで知られるのが、まだ十代半ばだった高峰秀子と助監督の黒澤明の淡い恋です。

長谷川一夫の「藤十郎の恋」にも、若き助監督であった黒澤明がスタッフで参加していました。この時にお梶を演じたのは、入江たか子。私の世代だと内田吐夢監督の中村錦之助版「宮本武蔵」で、お通を演じた入江若葉のお母さんという説明になりますが、もう入江若葉もわからない人が多い。大林宣彦監督作品には、今でも友情出演でよく出ているのですが----。

本日上映の「藤十郎の恋」は、長谷川一夫が十七年後に自らリメイクした作品です。監督は、森一生。1936年、昭和11年から監督をしているベテランでした。戦後、大映を代表する監督になります。時代劇が中心でしたが、市川雷蔵の「ある殺し屋」シリーズ、「陸軍中野学校 雲一号指令」なんかも手掛けています。

森一生監督で私が好きなのは、五味康祐原作の「薄桜記」を雷蔵と勝新で映画化した作品ですが、市川雷蔵と組んだ作品はどれもいいです。このふたりのコンビでの菊池寛原作では、「忠直卿行状記」があります。これは、名作です。

ある日、家来たちが「殿に勝ちを譲るのも難しくなった」と話すのを漏れ聞いた忠直卿は、次第に疑心暗鬼になり、人が信じられず、家来を意味もなく手打ちにし、奥女中たちを犯し、手の付けられない暴君になっていきます。シェークスピアの「マクベス」に通じる悲劇だと思います。これを雷蔵が見事に演じ、菊池寛作品の映画化としては最も成功した一本になったと思います。

●「藤十郎の恋」について

「藤十郎の恋」は1919年、大正8年に「大阪毎日新聞」に掲載されました。その二年後、1921年に戯曲化されています。どちらも、割合に短い作品です。映画化作品は、かなり膨らませていますし、お梶に偽りの恋を仕掛ける場面まで、藤十郎に恋い焦がれる若い女などのオリジナルのキャラクターを登場させたり、藤十郎の芸に対する苦悩を深く掘り下げたりしています。それだけに、原作より説得力が出ていると思います。

また、お梶が自害した後の反応も、映画は藤十郎が『冷酷な人間』ではないように描こうとしています。原作では近松門左衛門は一緒に立ち合わないのですが、映画ではその嫌な部分を近松にやらせています。原作の、その箇所を読みあげてみます。

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お梶の死を聴いた藤十郎は、雷に打たれたように色を易えた。が彼は心の中うちで、『藤十郎の芸の為には、一人や二人の女の命は』と、幾度も力強く繰り返した。

お梶が、死んで以来、藤十郎の芸は、いよいよ冴えて行った。彼の瞳は、人妻を奪う罪深い男の苦悩を、ありありと刻んでいた。彼がおさんと暗闇で手を引き合う時、密夫の恐怖と不安と、罪の怖しさとが、身体一杯に溢ふれていた。
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映画では、人気俳優の長谷川一夫を「芸のために鬼になれる冷酷な男」として、描くわけにはいかなかったのでしょう。近松門左衛門を演じた小沢栄太郎(この頃は小沢栄と言っていましたが)は、卑劣な悪役を多く演じた人です、顔も悪役面ですから、彼は観客に憎まれてもいいわけです。

この映画の中でキーになるのが、近松門左衛門が書いた『大経師昔暦』です。いわゆる「おさん茂兵衛」の不義密通ものです。この作品の成立は、正徳5年(1715年)とされていて、元禄時代に設定している映画とはちょっと辻褄が合いません。近松門左衛門が元禄16年(1703年)に書いたのは、『曽根崎心中』です。正徳元年(1711年)に『冥途の飛脚』を書き、その四年後に『大経師昔暦』を書いたわけです。

まあ、そういう歴史的事実は後でお話ししましょう。辻褄の合わないところは突っ込まずに、大店の妻と手代の密通事件を扱った『大経師昔暦』を知っていれば、この「藤十郎の恋」がさらに深く理解できます。大映は、この映画の一年前、「近松物語」という作品を制作しました。監督は巨匠・溝口健二です。「近松物語」は『大経師昔暦』が原作です。

京都で暦を販売する権利を持つ大経師、そこの主人は進藤英太郎で、その妻おさんは香川京子です。手代の茂兵衛は長谷川一夫。茂兵衛に想いを寄せる女中お玉が南田洋子でした。火のないところに不義の煙を立てる悪役の番頭を小沢栄が演じました。主要メンバーは、「藤十郎の恋」とあまり変わりません。

ある誤解と番頭の悪意からおさんと手代の茂兵衛は「不義密通」の噂を立てられます。その噂に追い詰められ、やむなく二人で逃亡し、死ぬ覚悟をしますが、その時初めて茂兵衛はおさんへの想いを口にします。これが「藤十郎の恋」の劇中劇で演じていた場面です。茂兵衛の気持ちを知ったおさんは、「おまえの気持ちを知って、死ねんようになった」と口にします。この時の香川京子が素晴らしい。

私は小津・黒澤・溝口と並び称せられた巨匠の中では、溝口作品が最も苦手だったのですが、近年、戦後の作品を見直して大変素晴らしい作品ばかりだと感服しています。その中でも「近松物語」は最高傑作ではないかと思います。今年、香川京子が自作を振り返るインタビュー本を出したのですが、やはり「近松物語」を自身の最高作と言っていますし、その中のあるシーンに特に言及しています。

確かに、そのシーンはエモーショナルで情感にあふれ、半世紀以上の女優人生でも最高の瞬間だろうと私も思います。ジャン=リュック・ゴダールに「映画史」という長大な作品があります。古今東西の映画を引用している作品ですが、その中にも「近松物語」のそのシーンが出てきます。

その「近松物語」を見て「藤十郎の恋」を見ると、より深く藤十郎の気持ちがわかると思います。もしかしたら、大映はそんなことを考えて「近松物語」の翌年に「藤十郎の恋」を公開したのかとさえ思います。「藤十郎の恋」に出てくる不義密通者の裸馬での引きまわし、「近松物語」のラストシーンがそれでした。映画史に残る名場面です。香川京子の死に臨む表情が、今も語り継がれています。

●近松門左衛門と坂田藤十郎

近松門左衛門は浄瑠璃の作者としてスタートしますが、やがて歌舞伎狂言も書き始めます。初めて書いた歌舞伎狂言は坂田藤十郎の演じた「夕霧七年忌」です。貞享元年、1684年、32歳の時でした。近松はこれ以降、元禄の末まで、藤十郎のために歌舞伎狂言を書き続けます。元禄に入ると京都の都万太夫座専属の座付き作者として浄瑠璃より歌舞伎の脚本が中心になります。都万太夫は、映画の中で進藤英太郎が演じています。

坂田藤十郎は元禄期の京都において、一代の名優と言われた「和事師」でした。近松の狂言「傾城仏の原」「傾城壬生大念仏」などを演じ、「古今濡れごとの開山、けいせい買いの元祖」などと評判になります。濡れごとや廓場を演じて、右に出る者はないと言われました。近松と藤十郎のコンビは、当時、絶大な人気を誇ったわけです。

ただ、歴史的には、近松は元禄十六年、1703年、51歳の時に竹本義太夫のために書いた浄瑠璃脚本「曽根崎心中」が大成功し、浄瑠璃脚本に専念します。その後「冥途の飛脚」「心中天の網島」「女殺し油の地獄」などは、近松の五十代から六十代に書かれたものです。先ほどの「大経師昔暦」も正徳五年、1715年、近松63歳の時の作品です。

つまり、坂田藤十郎が活躍した元禄期より十年以上経って書かれたものなんですね。ただ、菊池寛は、そんなことは百も承知で小説にした。「藤十郎の恋」では、どうしても不義密通をテーマにした「大経師昔暦」をもってこないと物語が成立しない。芸のために人妻に偽りの恋を仕掛ける必然性がなくなるわけですから。

「大経師昔暦」は、「おさん茂兵衛」の物語として伝わってきました。不義密通ものの代表的な物語として、戦前までは長谷川伸の「一本刀土俵入り」とか「瞼の母」の最後のセリフのように、誰でも知っていたものだったようです。

●菊池寛が主人公の映像作品

最後に、菊池寛が主人公になった映像作品を紹介しておきましょう。公開当時、流行語のようになったのが、その映画のタイトル「末は博士か大臣か」でした。1963年9月の公開です。私は小学校の六年生でしたが、その看板を憶えています。もちろん、大映作品でした。監督は文芸作品が多かった島耕二という人です。

映画は高松中学時代からの親友同士である菊池寛と綾部健太郎のふたりを中心に描かれます。綾部健太郎は後に政治家になり、立憲政友会、日本進歩党、改進党、そして自由民主党に所属しました。1966年には、第53代衆議院議長を務めます。綾部健太郎は「末は大臣」になったわけですね。菊池寛はフランキー堺が演じ、綾部健太郎は船越英二が演じました。二時間ドラマでおなじみ船越さんのお父さんです。ちなみに菊池寛の妻は藤村志保でした。

菊池寛が作家として成功する映画のクライマックスとして、大正九年十月に「父帰る」が初演されるのですが、その劇中劇で兄を演じたのが、後にペギー葉山と結婚する根上淳、弟役が倉石功、妹役が渚まゆみでした。渚まゆみは大映から東映に移り、深作欣二作品によく出ていましたが、作曲家の浜口倉之介と結婚しました。まあ、どうでもいい情報ですが----

1960年代は菊池寛ブームだったのでしょうか、映画「末は博士か大臣か」の二年後、1965年10月07日~1966年04月07日まで放映されたのが「がいな奴」というドラマでした。私の記憶では西日本放送で、夜の九時から三十分のドラマだったと思います。昔のドラマは半年間、26話続いたのです。菊池寛は小山田宗徳。それ以外の配役は記憶していなかったのですが、調べると八千草薫が出ているので、奥さんの役だったのでしょうか。

その他の配役としては、人見きよし、戸浦六宏、加藤嘉、桜むつ子、益田喜頓、河野秋武、山茶花究となつかしい顔ぶれです。戸浦六宏は大島渚と京大の同期で大島作品の常連の俳優でした。河野秋武は「わが青春に悔いなし」、山茶花究は「用心棒」と黒澤作品を思い出します。

昔、「ディズニーランド」という一時間番組がプロレス放送と交互に隔週で放映されていたのですけれど、その時、小山田宗徳はウォルト・ディズニーの声を吹き替えていました。確か、「がいな奴」で初めて顔を見たんじゃなかったかな。そんな記憶があります。脚本は笠原良三。東宝で「社長シリーズ」「若大将シリーズ」「クレージーキャッツ」映画の脚本を書きまくっていた職人ライターでした。

2018年12月13日 (木)

■聖なるものに命を懸ける

10月17日に高知県立美術館ホールで開催された、シネマ・サンライズ主催の「いのち・ぼうにふろう」上映会で一時間ほど話をしてきました。その時に準備した原稿です。

■聖なるものに命を懸ける

●「無償の行為と自己犠牲」を描く「いのち・ぼうにふろう」

人間が美しく見えるのは、自己犠牲を顧みず、何の見返りも求めない無償の行為を行う時だと思います。八月の初めのことですが、行方不明になった二歳の子供を発見したので、一躍マスコミの注目を浴びたオバタさんというボランティアの方がいました。

最初にニュースを見た時、メディアが「スーパーヴォランティア」などと言っているので「この人、何者だろうな」などと思いましたが、その後、オバタさんがどういうことをやってきた人なのかを知り、「立派な人なのだ」とその生き方に感動しました。

今年は政治家の嘘、大学の理事といった権力を持った人間たちの嘘、また、自己保身ばかり目立った日大アメフト監督の会見など、嫌な大人の姿ばかり見せられました。

白を黒と言いくるめる政治家。保身のために学生を売る教育者。高級官僚。みんな、私利私欲と保身ばかりです。権力を持ったエリートたちの醜さにうんざりしていたので、オバタさんの生き方を見て、「清貧に甘んじて、何の見返りも求めず人のために生きている人がいる」と、大変にすがすがしい思いをしました。

もっとも、私自身、とてもオバタさんのような生き方はできません。ただただ、立派な人だと尊敬するだけですが----

何の見返りも求めない、一片も私心がない、私利私欲もない、人のために自己を犠牲にする、そんな人を見ると私は感動します。涙が出ます。映画を見ていて、感動の涙をこらえられなくなるのは、劇中の人物がそのような生き方を見せてくれた時です。

アクション映画でも、そういう場面はあります。たとえば、「ターミネーター2」のアーノルド・シュワルツェネッガー演じるターミネーター。ターミネーターは、将来、反乱軍のリーダーになるジョン・コナーを守ることをプログラムされていますから、機械であるターミネーターは自分のことなど考慮せず、ただただジョン・コナーを守り続けます。

そして、最後。自分の中にチップがあることで、将来、人類が機械に征服されてしまう危険があることから、ターミネーターは自ら溶鉱炉の中に身を沈めていきます。自己犠牲ですね。このシーン、けっこう涙ぐませてくれました。

自己犠牲、見返りを求めない無償の行為を主人公が行う時、理由の多くは愛する人間を救うためです。愛する女性のために命を棄てる、という物語は昔から数えきれないほど作られてきました。

しかし、日本映画で「愛する女性のために命を懸けて戦う」物語が登場したのは、映画評論家の佐藤忠男さんによれば、昭和4年、1929年の「沓掛時次郎」からだといいます。原作は長谷川伸、大河内傅次郎の主演でした。「沓掛時次郎」は、その後、何度も映画化されますが、これが最初で、大ヒットし、股旅映画のブームになりました。

「沓掛時次郎」は、加藤泰監督で中村錦之助と池内淳子が主演した「遊侠一匹・沓掛時次郎」が有名ですが、物語は一宿一飯の恩義のために立派なやくざであった三蔵と対決して斬ってしまい、死に際の相手から妻子を親戚の家に送ってくれと頼まれた主人公が、その妻を愛してしまい、彼女のために命を懸けるというものでした。

佐藤さんによれば、それまでの時代劇では侍ややくざが戦うのは、忠義のためか、親分のためか、自分の仲間のメンツのためであって、「愛する女のために戦う」のは「沓掛時次郎」が最初ではないかということです。

「沓掛時次郎」から7年後、昭和11年には山中貞雄監督が「河内山宗俊」という映画を作ります。山中貞雄は才人と言われた人ですが、兵隊にとられ中国大陸で戦病死します。親友・小津安二郎は、その死を嘆き、日本映画界の大きな損失と惜しみました。先ほどの加藤泰監督は、山中貞雄の甥で、キネマ旬報社から山中貞雄の評伝を出しています。

「河内山宗俊」は河竹黙阿弥の歌舞伎の登場人物たちを元にしていますが、ほとんどオリジナルの物語でした。やくざなお数寄屋坊主の河内山宗俊とやくざの用心棒をしている浪人の金子市之亟は、やくざな弟のために身売りをしなければならなくなった甘酒屋の少女のために命を懸けてやくざたちと戦います。

前進座が全面協力し、河内山宗俊を河原崎長十郎、金子市を中村翫右衛門が演じています。甘酒屋の少女は十五歳の新人・原節子でした。原節子は聖なるイメージを持つ美少女でした。その穢れのない聖なるものを守るために、無頼漢、無法者、アウトローたちは命を張るのです。

ラストシーンは、長屋裏の下水の溝。その中でやくざたちを相手に大立ちまわりをし、アウトローたちがひとり、またひとりと倒れていきます。

その「河内山宗俊」から三十五年後、小林正樹監督は「いのち・ぼうにふろう」を作りました。小林正樹監督は1916年生まれです。「河内山宗俊」公開の年、この年は226事件の年ですが、小林正樹監督は二十歳でした。映画界への就職を考えていた時期です。おそらく、小林正樹は「河内山宗俊」を見たに違いありません。

「いのち・ぼうにふろう」には、三十五年分の歳を重ねた中村翫右衛門が出ています。深川安楽亭の主人、無法者たちから「親方」と呼ばれています。息子の梅之助はよく似ていましたが、孫の梅雀は梅之助には似ていますが、中村翫右衛門と並べると、あまり似ていない気がします。

さて、「いのち・ぼうにふろう」は、命を棒にふらない物語です。世の中からはみ出し、人殺しも平気な無法者として生きている若者たち。彼らは、自分の人生に価値があるなどとは思っていません。自分の命など「棒にふる」ほどのものでしかないと思っている。

しかし、その彼らが「清らかで聖なるもの」を目にし、そのために命を張る決意をします。アウトローである彼らが目にしたのは、「河内山宗俊」のような美しい少女ではなく「愛し合う恋人たちの純な心」です。

山本圭と酒井和歌子が演じた若い恋人たち。酒井和歌子のおきわが身売りされるのを、幼馴染の山本圭の富次郎は店の金に手を付けてまで何とか防ごうとします。しかし、やくざに袋叩きにあい、安楽亭に巣食う仏の与兵衛に助けられます。

与兵衛が探し出したおきわはまだ店には出ておらず、安楽亭に帰った与兵衛は知らずの定七(仲代達矢)が罠かもしれないと警戒して断った抜け荷話にのろうとします。与兵衛は金を稼ぎ、富治郎とおきわを救おうと考えたのです。

しかし、定七は「俺は知らねぇよ」と関わりません。ですが、その夜、出刃包丁を持って安楽亭を出ようとした富治郎を止めた定七は、彼の言葉に身を震わせます。

──みすみす命を捨てにいくようなもんだと俺が言ったら「はい、わかっております」とぬかしやがった。「いのちぼうにふっていってやれば、私も気がすむ。おきわも喜んでくれるでしよう」と言いやがる。

それを聞いたならず者たちは、ふたりを救おうと決意します。彼らの心を震わせたのは、美少女といった具体的なものではなく、抽象的なものです。それは、富次郎がおきわを思う「こころ」です。おきわのために自らを棄てる覚悟をしていた富次郎の「純粋な想い」です。その恋人たちの互いを想う心が、無法者たちの心を動かします。「聖なるもの」に命を懸ける決意をします。

ちなみに、この時期の酒井和歌子を救うためなら、私も命棄てます。当時、東宝のアイドル女優としては内藤洋子がいましたが、私は圧倒的に酒井和歌子派でした。風邪薬のコマーシャルに出てきただけでワクワクしていました。今でも、テレビコマーシャルに七十近い酒井和歌子が出てくると、ドキドキします。

酒井和歌子には、陰があります。それが、単なるアイドルではなく、女優としての幅を感じさせるのです。酒井和歌子は巨匠・小林正樹監督作品としては、前作の「日本の青春」にも出ています。遠藤周作のユーモア小説「どっこいショ」を原作にして、初めて藤田まことがシリアスな演技を見せた作品で、藤田まことの息子を黒沢年男を演じ、その相手役を酒井和歌子が演じました。

山本圭も、当時は若い女性ファンの多い人でした。昨年、歳を重ねた姿でテレビの「やすらぎの郷」に出ていましたが、この映画の頃は、テレビドラマ「若者たち」で人気が出た後のことです。山本学、圭、亘の三人兄弟は山本薩夫監督の甥で、山本薩夫監督の「戦争と人間」という映画では、山本圭は吉永小百合の恋人を演じています。

さて、無法者たちは「棒にふるほどの価値しかない命」だと思っていたのに、自分たちの命を張る価値のあるものに出会いました。彼らは自分の命をかけて、恋人たちを添い遂げさせようとします。「いのち・ぼうにふる」のではなく、命を懸けるに値するものを見つけたわけです。与兵衛は言います。

──俺はどうも無駄なことが好きな性分らしい。いいもんだぜ、人が皆、くだらねぇと思うようなことに命を張るのは…
──いのちぼうにふってみるのもいいもんじゃねぇか。

もうひとつ、「命」に関する重要なセリフがあります。栗原小巻が演じたおみつのセリフです。ちなみに、当時、栗原小巻も絶大な人気があり、吉永小百合ファンをサユリスト、栗原小巻ファンをコマキストと言いました。吉永さんと張りあうくらいの人気だったんですね。

さて、無法者たちが罠かもしれないと思いながら抜け荷の仕事に出かけた夜、絶望した富次郎は死のうとします。それを止めたおみつは、富次郎の「私なんか生きてても何にもなりゃしない」という言葉を聞いた途端、それまでのクールさを投げ捨てて叫ぶように言います。

──生きてても何にもなりゃしない……、私、そんなこと許せない。みんな、あんたたちのためにいったのよ。定さんたちは死んだかもしれないのよ。あの人たちを無駄死にさせたいの。生きてても何にもならない人なんてありゃしない。死んじゃいけない、死んじゃいけない、死んじゃいけない。富さんも定さんも与兵衛さんも……

この映画を初めて見たとき、私は二十歳でした。「いのちぼうにふろう」という映画を見にいって、二十歳の私は逆に生きることを励まされたものでした。「生きていても何にもならない」と思われていた獣のようなならず者たちが、人のために自分を投げ出す、いのちぼうにふる、そんな自己犠牲が私を感動させました。

彼らは恋人たちのために、みすみす罠と思う仕事に出かける。彼らの生きる意味は、そこにあった。人は何かをするために生きている。何かの役に立つために生きている。たとえ自分の命は棒に振ったって、誰かの役に立つかもしれない。そんなことを二十歳の私は考えました。

●小林正樹監督について

小林正樹監督について、少しお話ししましょう。一昨年、2016年は小林正樹監督の生誕百年で、没後二十年でした。八十で亡くなったんですね。小林監督は人気女優・田中絹代の親戚でした。真珠湾攻撃の年に松竹に入社しますが、徴兵されて、本人によれば後に作る「人間の条件」には、自身の軍隊での体験がかなり反映されているそうです。

戦後、木下惠介監督の助監督につきますが、木下監督とは四、五歳しか違いません。後に日本映画の巨匠たちで「四騎の会」を作りますが、そのメンバーは黒澤明、市川崑、小林正樹、木下惠介でした。

監督になったのは、「息子の青春」で昭和27年です。初期は大船調のドラマを作っていましたが、私の印象に残っているのは、「黒い河」です。1956年、昭和三十一年の作品で、この作品でやくざを演じた仲代達矢が注目されました。ヒロイン有馬稲子をレイプする役で、印象に残ります。

仲代達矢は黒澤明との関係をよく言われますが、黒澤作品は1961年、昭和36年の「用心棒」が最初で、注目されたのは、その5年前の「黒い河」でした。その後、小林正樹監督作品には必ずと言っていいほど出ています。何といっても、9時間に及ぶ大作「人間の条件」の主人公の梶を演じています。

「人間の条件」は五味川純平の原作を九時間余りで映画化した作品ですが、第一部は1959年、昭和34年に公開され、完結編は1961年、昭和36年に公開されました。足掛け三年です。この作品で注目されたのが、赤、つまり共産主義者の上等兵を演じた佐藤慶、軍隊のいじめに耐えられず小銃で自殺する気弱な初年兵を演じた田中邦衛です。佐藤慶を紹介したのは仲代達矢でした。

俳優座養成所から俳優座の役者になった仲代ですから、養成所仲間や俳優座の仲間にいろいろ知りあいがいるわけです。ちなみに、田中邦衛は「人間の条件」の後、黒澤の「悪い奴ほどよく眠る」の気持ちの悪い殺し屋役で注目され、青大将に抜擢されました。

小林正樹監督が自ら「代表作」と言う「切腹」で老け役を演じた時、仲代達矢はまだ三十代でした。「上意討ち 拝領妻始末」は三船プロ製作なので三船の主演ですが、その親友で最後に対決する武士を仲代が演じました。

「切腹」によって、小林正樹監督は黒澤路線にいくのではないかと、公開当時は思われていたようですが、「切腹」には敗者の視線、低い位置からの視点があります。それは黒澤作品には、存在しないものだと思います。

その後の小林作品に「上意討ち--拝領妻始末」があるので、よけい黒澤路線に似ていると思う人がいるかもしれませんが、剣の達人とはいえ家付きの妻に気をつかって生きる婿養子を演じた三船敏郎は、黒澤作品とはまったく違うキャラクターになっていました。

監督作の最後になったのは、1985年、昭和60年の「食卓のない家」で、これも仲代の主演です。円地文子の小説を映画化した「食卓のない家」は、1972年に起きた浅間山荘事件と連合赤軍事件を題材にした作品で、実際の事件に取材したもので浅間山荘に立て籠もって警官や民間人を殺し、多くの仲間を「総括」の名でリンチして殺した、犯人の学生たちのひとり(中井貴一)の父親(仲代達矢)を主人公にして物語が展開します。

「いのちぼうにふろう」は東宝と俳優座が提携して制作し、当時の人気俳優たちが数多く出演しています。人気絶頂の酒井和歌子や栗原小巻。勝新太郎も特別出演です。しかし、私は仲代達矢、佐藤慶、岸田森、草野大悟、山谷初男といった一癖ありそうな役者たちの顔ぶれに魅力を感じたものでした。

●山本周五郎について

「いのち・ぼうにふろう」の原作は、山本周五郎の短編「深川安楽亭」です。少し、山本周五郎についてお話ししましょう。私が初めて読んだ山本周五郎作品は「赤ひげ診療譚」でした。中学一年生の春休み。きっかけは、黒澤明監督が映画化し春休み明けに公開されると知ったからでした。

私は中学生で読んだ「赤ひげ診療譚」に人生の価値観を教えられ、「さぶ」に感激して「無償の愛に生きる」と誓い、復讐者の殺人物語「五辧の椿」をまるでドストエフスキーの「罪と罰」のように読み、「青べか物語」に庶民の生きる力を学び、「ながい坂」で人生を知ったつもりになりました。高校生のころ、中村吉右衛門が連続テレビドラマで「ながい坂」をやったのです。

山本周五郎の小説は頻繁に映画化されましたが、森田芳光監督がリメイクした「椿三十郎」(2007年)以降は、テレビドラマで取り上げられることはあっても映画化作品はないようです。山本周五郎作品が頻繁に映画化されたのは、六〇年代でした。

1960年に中村錦之助の「暴れん坊兄弟」というのがあり、1962年の「日々平安」を映画化した「椿三十郎」から、1968年の岡本喜八版「斬る」まで十数本あります。黒澤明は「赤ひげ」(1965年)を含めて二本。映画史に残る作品が多く、「ちいさこべ第一部・第二部」(1962年)「青葉城の鬼」(1962年)「青べか物語」(1962年)「五辯の椿」(1964年)「冷飯とおさんとちゃん」(1965年)「なみだ川」(1967年)など名作ぞろいでした。

60年代だけで、黒澤明が二本、田坂具隆が二本、三隅研次が二本、川島雄三、野村芳太郎、岡本喜八と日本映画の巨匠・名匠・鬼才の名前が並び、山本周五郎作品の人気がうかがわれます。ただし、本人は1967年に亡くなりました。

70年代に入ると、黒澤明が「季節のない街」を映画化した「どですかでん」(1970年)を初めてカラーで撮ります。小林正樹監督が「深川安楽亭」を映画化した「いのち・ぼうにふろう」(1971年)を完成させ、1972年には、人気絶頂だったコント55号の萩本欽一と坂上二郎を主演にした「初笑い・びっくり武士道」という作品が公開されました。監督が野村芳太郎、脚本に加藤泰が加わっています。

その次の周五郎作品の映画化は、1976年の松田優作主演「ひとごろし」までありません。さらに20年以上の空白があり、「雨あがる」(1999年)「どら平太」(2000年)「かあちゃん」(2001年)「海は見ていた」(2002年)など、2000年前後に市川崑、熊井啓といった名匠の作品が並びます。「雨あがる」「どら平太」「海は見ていた」はすべて黒澤明が脚本を書きました。日本映画の巨匠は、山本周五郎作品を愛していたのです。

自らも3本映画化し、他の監督が映画化したものを含めると、たくさんの周五郎作品の脚本を書いた黒澤明は、本当に周五郎作品が好きだったのでしょう。私は周五郎作品の箴言ばかりを集めた「泣き言はいわない」という文庫本を読み返していて、黒澤明がなぜ山本周五郎の作品を愛したかがわかった気がしました。ふたりの共通点は「説教好き」ということですね。

黒澤作品は説教くさいところがあります。小津安二郎監督や成瀬巳喜男監督などと違って、黒澤監督ははっきりとしたメッセージを自作に込めます。そして、登場人物の口を借りて、説教をする。黒澤作品に「師と弟子」という登場人物が多いのは、説教を聞かせるためではないかとさえ思います。

「姿三四郎」の矢野正五郎と三四郎に始まり、「野良犬」の志村喬と三船の関係、「椿三十郎」の主人公と若侍たち、「赤ひげ」の新出去定と保本登など、「教え導く者」と「導かれ高みに登る者」という構図が共通するのです。そして、「教え」は常に「説教くさい」。だから、「泣き言はいわない」の文庫解説を読んで、僕は納得しました。解説者はこんなことを書いていました。

----山本周五郎を評して"人生派作家"とする評家が多いのは、山本に箴言を配置した作品が多いこととも連係しているように思われる。山本と青年時代から親交のあった山手樹一郎が、わたくしにこう語ったことがあった。
「山本君の酒は説教酒でしてね。飲むとかれ一流の人生論的な説教が始まる。若いころからそうでしたよ」
したがって、同じ年配の文学仲間たちのあいだでは、山本の箴言にみちた人生論は、ヤレヤレまた始まったかといった雰囲気で敬遠されたものらしい。(「泣き言はいわない」解説・木村久邇典)

山本周五郎の箴言を集めた文庫本の解説なのにこれでいいの? と思うでしょうが、周五郎作品が好きな人は、彼の人生に対する箴言を読みたいから読んでいるのです。「説教くさい」黒澤映画はあまり好きではない私も、山本周五郎作品の人生論的な箴言には、深い共感と感動をおぼえることは多々あります。

----毒草から薬を作りだしたように、悪い人間の中からも善きものをひきだす努力をしなければならない。人間は人間なんだ

----心に傷をもたない人間がつまらないように、あやまちのない人生は味気ないものだ

----自分の傷が痛いから、人の傷の痛さもわかるんだ

何だか「相田みつを」みたいですが、読んでいると「いのちぼうにふろう」のおみつのセリフが浮かんできませんか。それは、山本周五郎自身の人間認識だと思います。どんな悪党であっても「生きてても何にもならない人なんてありゃしない」のです。

私が昔、山本周五郎の小説に深く心を動かされたのは、主人公たちが次第に人間として成長していく姿でした。弱い者、虐げられた者、迫害された者、貧しい者、社会の底辺で蠢くように生きるしかない者たち、そんな人間たちに寄せる作者の共感でした。

「赤ひげ診療譚」の出世主義者だった保本登が、様々な経験を経て貧しい者たちの医者として生きようとする決意に私は感動しました。金銭的な豊かさ、社会的な権力などには何の魅力もないのだと学んだのです。人に尽くすこと、自分の能力を社会に役立てることが大事なのだと、山本周五郎の作品群は今も語っています。

2018年12月 6日 (木)

●天皇への密使・終章

「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載ですが、「天皇への密使」も最終回です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。なお、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」は、アマゾンで予約受付が始まりました。

●天皇への密使・終章

 長い物語が終わった時、傾いた夕陽が障子を赤く染めていた。彼女は話し終えると、思い出をかみしめているのだろうか、じっと黙ったままだった。沈黙が続いた。私は改めて質問したいことがあったけれど、何も言えず、彼女がふたたび口を開くのを待った。縁側から涼しい風が吹き込んできた。その風が、彼女を一九四五年の夏から三十年後の夏に呼び戻した。
「長い物語でしょう」
「ええ、驚きました」
「戦後になって、調べてみたの。あれは、どういうことだったのかとね。サンフランシスコで講和条約が結ばれたのが、昭和二十六年の九月。その条約の発効が翌年の四月末だった。日本が独立国に戻ったのは、その時よ。まだ、朝鮮戦争は続いていた。私が彼と一緒に初めてアメリカへいったのは、それから三年後。昭和三十年になっていたわ」
「彼というのは、ヘンリー・スガノ?」
「そう。彼は日本が独立した後、菅野兵介として日本人になり、私にプロポーズした。私は断わったわ。ヘンリーは私が瀬川さんを愛していて、そのために断わったのだと思ったようだった。それでも、彼は日本に残った。瀬川さんとの約束を果たさなければならないと言ってね。それから十年、彼はガンで亡くなったの。最期は看取ることができた」
「あの仏壇の写真の、スーツを着た中年の紳士ですか?」
「そうよ。亡くなる一年前の写真。収容所で撮った写真は、お兄さんのジョニー。収容所で別れる前にヘンリーが撮影した写真なの」
「ハーヴァードのキャンパスで写っているのは?」
「瀬川玄一郎。彼の住んでいた部屋を私が整理して、遺品を親族に送ったの。迷惑がられたかもしれないけど、血のつながった人たちだからね。その時、あの写真を見つけて、もらっておいた。たぶん、瀬川さんが一番幸せだった頃の写真ね。だから、明るく笑っているのよ」
「アメリカでは、ヘンリーの家族に会ったのですか?」
「会ったわ。お兄さんの遺骨も届けた。お母さんに、『思い出の貝殻を戻します』と言ったら、『あなたが、持っていなさい』と言われた。ヘンリーが、それを私に渡した意味がわかっていたのね」
 昭和三十年。一九五五年だ。日本では「もう戦後ではない」と言われ、テレビも普及し始め、三年後に完成する東京タワーの建設計画がスタートした。長く首相を務めた吉田茂が退陣し、鳩山一郎内閣が成立した。米ソの対立は激しくなり、冷戦が続いていた。大国は競うように水爆実験を行った。
「ヘンリーのお兄さん、ジョニー・スガノは、やはりアメリカのスパイとして日本にきたのですか?」
「わからなかった。でも、瀬川さんは確信を持っていたようね。だから、自分の正体を明かしてヘンリー救出の話を持ちかけたのよ」
「反米的な敵性国民という擬装をして、命がけでアメリカのために働いた。それなのに、何も報われなかったのですか」
「そんなものかもしれないわ。強制収容された日系人には何の補償もなかったし、差別的な移民法が改正されたのも、戦後だいぶ経ってからだった」
「結局、原爆の爆破実験の記録フィルムはどうなったのですか?」
「天皇に渡る前に、ヒロシマに原爆が落とされた。もっと早く、それを首相や陸相が見ていたら、原爆を落とされる前に日本はポツダム宣言を受諾したかもしれない。でも、たぶん軍部を抑えることはできなかったでしょうね。大本営はヒロシマに落とされたのが原爆とわかっていても、『新型爆弾』と発表して被害を過少に報告した。どちらにしても、歴史に『もしも----』はないわね」
「アメリカの政治家たちは、どうなっていました?」
「トルーマンは、大統領を二期務めて故郷に引きこもった。ルーズヴェルトは四期めの当選をしたけど、数カ月後に死んだの。彼が生きていたら、原爆を落としたかしら。落としたでしょうね。原爆の開発を推進したのは、ルーズヴェルトだったから。スティムソンは戦争が終わって五年後に亡くなり、バーンズは『ポケットに原爆』と言われた原爆を背景にした強硬外交を嫌われ、戦後二年でトルーマンに罷免された。グルーは八月十五日に国務次官を辞任し、戦後、アメリカ対日協議会を組織した。その後、日本はグルーに勲章を授与し、皇太子がアメリカまで届けたけど、大使館での授与式には老齢を理由に出てこなかったそうよ。一九六五年に八十四歳で亡くなった」
 戦後三十年経ったのだ。多くの人が世を去っていた。終戦を担った鈴木貫太郎首相も、戦後の日本を担うことになった吉田茂首相もすでに鬼籍の人だ。彼らと、目の前にいる貞永京子という美しい中年の女性とが、三十年前の数日間、密接な関係があったことは誰も知らない。それを想像すると、不思議な感慨が湧き起ってくる。
「さあ、夕飯の支度をしましょう」
 彼女は自分自身に言い聞かせるように、そう言って立ちあがった。
「僕も風呂を沸かします」
 私は立ちあがり、縁側から庭に出た。
 その夜のことだった。私がその日のことをノートに書き終えたのは、夜の十二時近くになっていた。ふと気になって、離れの窓を開き母屋を眺めた。いつもは十時には明かりが消えているのに、まだ明かりがともっていた。仏間の電灯が点いているようだった。その時、仏壇の三人の写真をずっと見つめている彼女の姿が、私の脳裏に浮かびあがってきた。

 貞永京子の葬儀に参列したのは、介護施設の人たちと彼女の遺言処理を行う弁護士だという初老の男性を別にすると、私たち親子だけだった。介護施設の介護士長だという女性が、貞永京子の遺言に従って連絡をし、葬儀を手配した。弁護士によると、貞永京子の遺志に従い、遺産はいくつかの団体に寄付することになっているという。
 ずっとひとりだったようだが、晩年もそれなりに余裕のある生活だったのだろう。化粧を施された貞永京子の顔は八十八歳なりの年輪は重ねていたけれど、四十年前の夏、十九の私が魅せられた気品と美しさが保たれていた。母も「きれいね。昔から変わらない」とつぶやいた。
 彼女の棺の中には、仏壇にあった三枚の写真と守り袋が収められていた。介護士長によると、それは彼女の遺志だったという。やはり、終戦直前の三日間が、彼女の人生の輝ける記憶だったのだ。しかし、あの父親の著書に隠されていた拳銃はどうしたのだろうか。もう、とっくに処分したのかもしれない。
 棺は閉じられ、車に乗せられ、火葬場へ向かった。私と母はつきそい、彼女が骨になるのを介護士長と共に待った。弁護士は用があるということで、告別式が終わると帰っていった。施設の関係者も仕事があり、介護士長だけが火葬場までつきそった。彼女は、骨壺を受け取り、納骨まで責任を持って行うと私たちに告げた。
「どれくらい、施設でお世話になったのですか?」と、母が訊いた。
「三年ほどですね。広い敷地の屋敷を売り、私どもの介護付きマンションに入居された時は八十五歳でした。頭は亡くなるまではっきりしていたのですが、体の方が弱ってしまって、日常生活を送るのがつらくなっていたようです。おひとりですから、大変だったろうと思います」
「そうですか」と、母はうなずいた。
「貞永さんは、翻訳家だったそうですね。そのせいか、亡くなるまで、よく本を読んでいらっしゃいました。テレビで見るのはニュースだけ----」
「頭のよい方だったのよ」
「そんな貞永さんが、夏の今頃の時期には窓辺に車椅子を寄せて、一日中、じっと海を眺めていらっしゃいました。何か、祈りを捧げているようにも見えました」
 介護士長の言葉に、私は四十年前の夏の朝を思い出した。海を眺めて祈っていた、貞永京子の後ろ姿が甦る。終戦の夏の死者、菅野丈太郎と瀬川玄一郎のために祈っていたのだろうか。いや、あの夜、もうひとり死者がいた。憲兵隊の古沢中尉だ。彼女も「三人が死んだ」と口にした。
「彼女が亡くなった後、連絡してほしいと言い残したのは、私だけでしたか?」と、母が訊いた。
「ええ」
 その介護士長の返事を聞くと、母は私を振り返った。
「あなたは、京子さんのこと知っていたかしら」
「四十年前の夏、ひと月も貞永さんの家で世話になったよ」
「そうだったかしらねぇ」
「母さんが頼んでくれたんだよ」
「そうだったかしらねぇ」
「そうだよ」
「おまえ、その時、何か聞いた?」
「終戦当時の彼女の思い出話」
「終戦当時ねえ。一緒に勤労動員で軍需工場にいってた頃よ。あの頃、十八で、京子さんは本当にきれいだった。お母さんがイギリスの方だったから、日本人離れしたスタイルで、背が高くて、髪の毛も栗色で----。でも、そのせいで、嫌な目にもあったのよ。あの頃の日本ですからね」
 母は惚けてはいなかったが、昔話を始めると止まらなくなった。昔のことはよく憶えていて、克明に話す。だが、貞永京子の終戦当時のことは、聞いたことがなかった。
「京子さんはね、最初に会った時からいつも沈鬱な顔をしていたけれど、あの年の夏は、いつにも増して憂い顔だった。八月の半ば頃だったかしら、憂い顔にさらに暗い影がさすようになった。終戦になってひと月くらい後だったかしら、その憂い顔が一瞬明るくなった。心配していた人が、生きていたって----。あの頃は、みんなそんな人を待っていたのよ。戦地にいた夫や恋人や兄弟が無事だったと知って喜ぶ人もいたけど、戦死がわかって悲しむ人もいた。京子さんも大事な人をひとり、亡くしたとも言っていたわね。あれは、もう冬が近くなった頃だったかしら、急に学校をやめると言いだしたの」
「どうして?」
「私も理由を訊いたわよ。そしたら、『私は人を死なせたの。今まで通りには生きていけない』と言うの。もちろん、それは直接的な意味じゃないと思った。あの頃、人の死に責任を感じることはいっぱいあった。それだけ、身近に人の死がたくさんあった。女学校の友人のひとりは母親の手を引いて空襲の中を逃げ惑ううち、母親の手を離してしまい、母親が焼け死んだのを自分のせいだと思いこんだ。何かというと、『私は母を殺した』と泣いたわ。そんなことは、いっぱいあったの。私もそう思って、決心をひるがえすように説得したけど、駄目だった。翌年から、彼女は学校にこなくなった」
「その後、いつ会ったの?」
「しばらく会わなかったのだけど、私がお父さんと結婚する時に招待状を送ったの。そしたら返事がきて、『出席はできないけど、今度、おふたりで遊びにきて』とあったの。私たちは、その年の夏に彼女の家に遊びにいき、それから数年は毎年、夏にお父さんとお邪魔したのよ」
「いつごろ?」
「まだ、日本が占領されていたころかしら」
「彼女は、ひとりで住んでいた?」
「お祖母さんとふたり」
「男性はいなかった?」
「一度、男の人がきていたのに、出会ったかしら」
「どんな人だった?」
「よく憶えてない。でも、左手の指がないとかで、白い手袋をしていたわ。『戦争でやられたのよ、きっと』って、お父さんと話したことを憶えてる」
 その戦争がヨーロッパ戦線で、ナチスと戦った時の戦傷だとは、両親は想像もできなかっただろう。しかし、なぜ彼女は愛していたヘンリーの求婚を断ったのだろう。ヘンリーの死を看取るような関係だったのに、なぜ一緒に暮らさなかったのか。なぜ、ひとりで生きてきたのだろう。ヘンリーが思っていたように、瀬川に殉じたのだろうか。瀬川が死んだ以上、自分だけが幸せになるのをためらったのだろうか。

 その日、母を実家に送り、私は車で十分ほど離れている自宅に帰った。子供たちが独立し、今は妻とふたりだけで都内のマンションで暮らしていた。この四十年、私は平凡な人生を送ってきた。大学を出て商社に就職し、あちこち転勤で動いたが、三十過ぎで結婚し、一男一女に恵まれた。いろいろあったが、過ぎてみればみんな済んだことだ。今は還暦を控え、落ち着いた人生を送っている。
 すでに夕方で、妻は買い物にでも出たのか、不在だった。私は自分でお浄めの塩を体にかけ、玄関に入った。黒いネクタイを外しながら書斎にしている部屋に入り、洋服箪笥に脱いだブラックスーツのジャケットをかけた。キッチンへいきグラスに氷を入れてウィスキーを注ぎ、リビングのソファに腰を下ろした。不意に、大きなため息が出た。
 貞永京子の訃報が届いて以来ずっと、四十年前に聞いた物語を何度も何度も反芻した。思い返せば返すほど、彼女が語った細部が甦ってきた。おどろくほど鮮明に、私は物語を描き直すことができたのだ。まるで、目の前に映像が浮かんでくるようだった。そして、疑問も甦った。一瞬で恋に落ちた相手の求婚をなぜ彼女は断わり、ひとりで生きる道を選んだのか。そこには何か、彼女が語らなかった原因があるのではないだろうか。
 その時、母から聞いた彼女の「私は人を死なせたの。今まで通りには生きていけない」という言葉が浮かんできた。あれは、文字通り「人を殺した」という意味だったのではないだろうか。彼女は、憎い男に向かって、小型拳銃の引き金を引いたのではないのか。
 海に向かって祈るような姿を見かけた四十年前の朝、彼女は「三人が死んだ」と言った。菅野丈太郎、瀬川玄一郎、それに古沢中尉だ。三人の中には、憎んでいた相手が入っている。そして、あの夜、彼女は瀬川とヘンリーを案内するために、父親の形見の拳銃を持って家を出た。あの拳銃は、三十年後も仏壇の引き出しにしまわれていた。あの拳銃のことを「あの夜、私を守ってくれた」と彼女は言った。
 あの夜、ヘッドライトが消えた後、彼女だけが見えていたという。しかし、彼女以外にも見えていた人間がいたのではないか。古沢中尉はヘンリーに撃たれ、彼女の方へヨロヨロと向かってきたと言った。その目が正面から彼女を捉えたと言った。突然消えたヘッドライトのせいで、本当に何も見えていなかったのだろうか。おぼろげにでも見えていたのなら、中尉は彼女に気付くだろう。
 彼女は、向かってくる古沢中尉を撃ったのではないか。二十五口径の小型拳銃でも、眉間を撃ち抜けば相手は死ぬ。古沢中尉が車にぶつかり、ボンネットに手をついてフロントガラス間近に顔を寄せ、車の中の彼女を見た。とっさに、彼女は古沢中尉を撃った。そして、それをヘンリーに言えなかった。古沢中尉を殺したのは、ヘンリー自身だと思わせてしまった。それが、彼女がヘンリーの求婚を断り続けた理由ではなかったのだろうか。
 とっさに撃ったのかもしれないが、彼女が古沢中尉を殺せば「父の復讐」になる。引き金を引く瞬間には身を守る思いでいっぱいだったとしても、自分に復讐心がほんの少しでもなかったか、憎しみと殺意があったのではないか、自分は父の復讐のために引き金を引いたのではないか、と次第に浮かんでくる己への疑問に悩んだのではないだろうか。
 人を殺したことが、次第に彼女の中で重荷になっていった。十八の娘が人を殺して平気でいられるはずがない。そして、そのことを言いそびれ、時間が経てば経つほどヘンリーには打ち明けられなくなった。だから、彼と結婚し一緒に暮らすことはできなかった。
 四十年前、私が会った貞永京子は、優雅な物腰のとてもやさしい人だった。感情を高ぶらせることなく、いつも穏やかな表情を浮かべて日常を送っていた。あの夏に聞いた物語も、そんな彼女の口から語られると現実離れした冒険譚に思えた。「殺人」は、あの貞永京子と結びつかなかった。しかし、彼女は、本当に古沢中尉を殺したのかもしれない。
 貞永京子は、何と孤独な人生を送ってきたことだろう。母を殺され、父を廃人にされ、十八で人を殺した。彼女はどんな思いで、戦後七十年を生きてきたのだろうか。幸せを感じる時はあったのだろうか。ヘンリーが死んでからでも五十年、彼女は孤独な人生を歩み続けた。たったひとりで、長い年月を生きた。戦争は、彼女の人生を奪った。愛する人との暮らしを奪い、ささやかな幸せを奪った。
 海を見つめて祈っているように見えた貞永京子の姿が、深い悲しみを伴って浮かび上がってきた。 (了)

■参考文献(順不同)
「昭和 二万日の全記録」        講談社
「昭和史発掘」松本清張        文春文庫
「昭和史」半藤一利・著        平凡社
「昭和陸軍全史」川田稔        講談社現代新書
「日本のいちばん長い日」半藤一利      文春文庫
「日本のいちばん長い夏」半藤一利      文春新書
「原爆が落とされた日」半藤一利・湯川豊     PHP文庫
「日本崩壊」大森実         講談社文庫
「ヤルタからヒロシマへ 終戦と冷戦の覇権争い」
    マイケル・ドブス/三浦元博・訳  白水社
「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃    NKH BOOKS
「終戦史 なぜ決断できなかったのか」吉見直人    NHK出版
「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民   草思社
「『スイス諜報網』の日米終戦工作」有馬哲夫    新潮社
「高松宮と終戦工作」工藤美知尋      光人社NF文庫
「カウントダウン ヒロシマ」
   スティーヴン・ウォーカー/横山啓明・訳  早川書房
「日米戦争と戦後日本」五百旗頭真      講談社学術文庫
「侍従長の回想」藤田尚徳        講談社学術文庫
「回想十年」吉田茂         中公文庫
「父 吉田茂」麻生和子        新潮文庫
「吉田茂という逆説」保阪正康       中央公論新社
「赫奕たる反骨 吉田茂」工藤美代子      日本経済新聞出版社
「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」北康利    講談社
「滞日十年」ジョセフ・C・グルー/石川欣一・訳   ちくま学術文庫
「駐日米国大使ジョセフ・グルーの昭和史」大田尚樹   PHP
「ヘンリー・スティムソン回顧録」
  ヘンリー・スティムソン/マックジョージ・バンディ 中沢志保/藤田怜史・訳
            国書刊行会
「鈴木貫太郎自伝」鈴木貫太郎       日本図書センター
「宰相鈴木貫太郎の決断」波多野澄雄      岩波現代全書
「無念なり 近衛文麿の闘い」大野芳      平凡社
「東条英機と天皇の時代」保阪正康      ちくま学芸文庫
「戦艦大和ノ最期」吉田満        講談社文芸文庫
「日米交換船」鶴見俊輔/加藤典洋/黒川創    新潮社
「戦陣訓の呪縛 捕虜たちの太平洋戦争」
   ウルリック・ストラウス/吹浦忠正・監訳  中央公論新社
「四人の軍令部総長」吉田俊雄       文春文庫
「秘録陸軍中野学校」畠山清行/保阪正康・編    新潮文庫
「特高警察」荻野富士夫        岩波新書
「憲兵 元・東部憲兵隊司令官の自伝的回想」大谷敬二郎  光人社NF文庫
「憲兵物語 ある憲兵の見た昭和の戦争」森本賢吉   光人社NF文庫
「帝国陸海軍軍事の常識 日本の軍隊徹底研究」熊谷直  光人社NF文庫
「ノー・ノー・ボーイ」ジョン・オカダ/川井龍介・訳  旬報社
映画「愛と哀しみの旅路」(1990年)アラン・パーカー監督
映画「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)スコット・ヒックス監督
その他、いくつかのインターネットサイトを参照しました。

2018年12月 3日 (月)

●天皇への密使・第四章その11

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。なお、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」は、アマゾンで予約受付が始まりました。

●天皇への密使・第四章その11

■1945年8月6日 1:45 テニアン島
 テニアン島では、現地時間の午前二時四十五分になろうとしていた。一時間前、三機の気象観測班のB29が日本の小倉、長崎、広島の上空に向けて飛び立った。リトルボーイと名付けられた原子爆弾を積んだエノラ・ゲイが四国の海岸線に到着する頃、それぞれの都市の気象条件を報告するためだ。まだ、どこを目標にするかは決まっていない。
 リトルボーイとニックネームをつけられたのは、その爆弾が巨大で、けた違いに重かったからである。そのため、機長の母親の名前である「エノラ・ゲイ」と機体に描かれたB29は、今回の任務には不要と思われる様々な装置を外し、超過した重量を吸収しなければならなかった。ギリギリの重量のため、滑走路もめいっぱい使って離陸する必要があった。そして、日本時間の午前一時四十五分、予定通りエノラ・ゲイは離陸した。
 日本までは、往復十二時間。日本時間の午前八時前後には、小倉か、長崎か、広島の上空に到達するはずだった。

■1945年8月13日 08:30 東京・皇居
 阿南惟幾陸軍大臣は、九時からの最高戦争指導会議の前に、天皇への謁見を願い出た。上奏の内容は別件であったが、天皇に直接、ポツダム宣言受諾の聖断を翻すことを勧めるためだった。国体の維持を条件にポツダム宣言を受諾することを連合国に示したにもかかわらず、連合国側は明確な返答をせず、「天皇は連合軍最高司令官に隷属する」ともとれる回答をよこしただけであった。
 英文で「subject to」となっている部分を大本営は「隷属する」と訳し、外務省は「制限の下におかる」と訳したが、どちらにせよ日本が降伏すれば連合国司令官の下に占領され、天皇もその下に位置することになる。これでは天皇制の維持は危ぶまれる。いくら原子爆弾が広島に続き長崎に落とされたといっても、国体が維持できないのでは日本国が存続する意味はない。
 そして、今、阿南陸相は、天皇に向かって熱心に「国体の維持が保証されないままポツダム宣言を受諾することは、おやめあそばすように」と、繰り返し口にしていた。阿南は、鈴木貫太郎が侍従長を勤めた時期、侍従武官として天皇の側近くに仕えた。天皇は、無骨な阿南を愛した。その阿南の度重なる進言を、天皇は止めた。
「阿南よ、もうよい。心配してくれるのはうれしいが、もう心配しなくともよい。朕には確証がある」と、天皇は言った。
 確証? 確証とは何だ。天皇制が維持され、国体は護持されるということか。阿南は、一瞬、理解ができなかった。しかし、天皇はにこやかな顔で、じっと阿南を見つめていた。メガネの奥の目が穏やかな光を放っている。ポツダム宣言受諾を決め、戦争が終わることが見えた今、穏やかで落ち着いた心になっていらっしゃるのであろう、と阿南は推察した。陛下は間違いなく、国体が護持されることの確証をお持ちなのだ。
 これ以上、自分が申し上げることはない。やるべきことはやった、これで腹が切れる、と阿南は思った。

■1945年9月15日 10:00 茅ヶ崎
 天皇の玉音放送から、ひと月が過ぎた。十日ほど前には、米国の戦艦ミズーリ号の船上で、降伏文書の調印が行われたと新聞に出ていた。連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ったのは、それより以前の八月三十日だった。飛行機のタラップを降りるマッカーサーの写真は、日本人の誰もが目にしている。
 ひと月の間に世の中は大きく変わったが、京子と祖母の暮らしに大した変化はない。人々は焼け跡にできた闇市で何とか食料を手に入れ、飢えをしのいでいる。闇米を求めて、このあたりの農家にも都会の人たちがやってくる。都会の駅には、戦災孤児たちがたむろしている。復員兵の姿も目につき始めた。
 京子は女学校に戻ったが、教師たちの言うことがガラリと変わってしまった。敗戦からたったひと月なのに、掌を返したような大人たちが信用できなかった。元々、この国を憎んでいた京子だったが、この国の人間たちに改めて絶望したのだった。彼らが戦争中に言っていたことは、一体何だったのか。
 京子は、庭に作った畑の手入れをしていた。今は体を動かしている時だけが、心の安定を得られた。灯火管制がなくなり、明かりが漏れるのを気にせずにいられる夜はありがたかったが、ふっとヘンリーと瀬川の最後に見た姿が浮かぶと心が騒ぎ、眠れない夜になってしまう。それに、あの洞窟で京子はヘンリーの兄らしき男の遺体を見つけた。秘かに弔ったが、その死の記憶が強烈に残った。また、あの憎むべき憲兵隊中尉の死も京子を眠りから遠ざけた。ヘンリーに撃たれ、よろよろと車の方にやってきた中尉の顔が眠ろうとすると浮かんできた。
「あいつは、死んで当然だった」と、畑仕事をしていた京子の口から無意識に言葉が出た。
 その時、門の前にジープが停まった。最近は、このあたりにも米軍のGIが現れる。子供たちは「ギブミー・チョコレート」などと早くも覚えた英語を叫んで、GIのジープを追いかけている。現金なものだが、甘いチョコレートなど、このあたりの農家の子供は口にしたことさえなかっただろう。大人たちの変節に比べれば、かわいいものだ。
 門をくぐって入ってきた人物を見て、京子は立ち上がった。日除けもかねて姉さんかぶりにしていた手ぬぐいをとり、額の汗を拭いた。戸惑いが顔に出る。いや、恥じらいだった。
「ヘンリー」と、京子は口にした。
「帰ってきたよ、京子」
 米軍の制服を着たヘンリーは、帽子をとり笑っていた。左手には白い手袋をしている。失った三本の指のところには何か詰めているのか、五本そろっているように見えた。
「通訳として、日本に派遣されたんだ。勤務は、横浜だ。頻繁に会える」
「よかったわ」と京子は言ったが、声は沈んでいた。
「喜んでくれないのかい。あの後、きみが憲兵隊に捕らえられたんじゃないかと心配でたまらなかった」
「姿を見られないうちに逃げたわ」
「そうか。よかった。ところで、あの憲兵隊の中尉はどうなったか、知ってるかい」
「彼は----、死んだわ」
 京子は、声の調子が変わらないように答えた。ヘンリーは複雑な表情をする。
「俺は戦争で、いっぱい人を殺した。殺したくはなかったが、相手は人ではなく、敵というものなのだと言い聞かせてきた。確かに、怒りを込めて引き金を引いたことはある。しかし、憎しみと殺意を込めて引き金を引いた相手は、あの男だけだった。もっとも、何も見えていないところへ撃ち込んだだけだが----」
 あの夜のことが甦った。京子は両手でヘンリーの手をとった。
「あなたを拷問し、お兄さんを殺した男」
 そして、私の父も----と京子は言いかけたが、言葉は出なかった。
「さっき洞窟にいってみたんだが----」
「洞窟であなたのお兄さんの遺体を見つけて、火葬にしたの。遺骨は、仏壇に置いてあるわ」
「そうか。ありがとう」
 そう言うと、ヘンリーは沈黙した。兄のことを思い出しているのだろう。だが、ヘンリーは、京子が真っ先に訊きたかったことを口にしない。
「瀬川さんは?」
 ヘンリーの顔が曇り、京子は理解した。
「どこで?」
「あの夜、彼は飛び込んだ時、岩に右膝をぶつけて骨が砕けた。さらに、やつらの撃った弾丸が背中を貫いた。俺は浮いていた彼の脇の下に腕をまわして、泳ぎ続けた。彼は『もう離してくれ』と言ったが、俺は泳ぎ続け、迎えにきたボートと運よく遭遇した。ボートに引き上げた時、彼はもう死んでいた。翌日、硫黄島への途中で水葬にした。アメリカと日本の途中の海で、彼は眠っている」
 京子は、初めて会った時の瀬川を思い出そうとした。いつも丁寧な口調で京子に話した。
「俺は、瀬川との約束を守るためにやってきた」
 ヘンリーが決意したように言った。
「どんな約束?」
「彼は、最後に言ったのだ。『彼女を守ってくれ』と----。彼が、きみを愛していたのは知っていたのだろう」
「わかっていたわ----。瀬川さんの遺言だから、私を守るためにやってきたの?」
「もちろん、彼に言われなくてもそうするつもりだった」
 京子の胸に、ようやく静かに波紋が広がるように喜びが湧き起ってきた。

2018年11月29日 (木)

●天皇への密使・第四章その10

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。なお、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」は、アマゾンで予約受付が始まりました。

●天皇への密使・第四章その10

■1945年8月6日 01:00 茅ヶ崎
 京子が岩場の近くにたどり着いた時、ヘンリーと瀬川は車のヘッドライトに照らされ、ひとりの男の前に手を挙げて立っていた。その時、松林の方から「でかした、井川」と言いながら、あの憲兵隊の中尉が現れた。京子の胸が反応する。寝たきりになった父の姿が浮かんだ。中尉の後ろに、焼けた吉田邸からヘンリーを尾行していった男がいた。他の憲兵たちも姿を現し、十人の男がヘンリーと瀬川を取り囲んだ。ふたりの後ろは岩場だ。三メートル足らずの高さとはいえ、後ずさるわけにはいかない。
 京子は小型拳銃を手にして、静かに彼らに近づいた。必要なら憲兵たちを撃つつもりだった。憲兵たちはヘンリーと瀬川を警戒し、銃を構えて車の前に出ている。誰も背後には気を配っていない。京子はジリジリと車に近づいた。幸い、運転席のドアは開いたままになっている。あの井川という男がヘンリーと瀬川を追い詰め、ひとりで降りた時のままなのだ。憲兵たちは車の二メートルほど前、ヘンリーと瀬川から三メートルほど離れて半円を描いて立っていた。
 気が急いていた。ヘンリーと瀬川は正面からヘッドライトを浴びているので、京子の姿は見えていないだろう。これから京子がしようとしていることに気づいてくれるといいが、気づかなくてもヘンリーなら、その一瞬を逃さないに違いない。京子は、車の開いたドアの陰に身を潜めた。運転はできないが、エンジンを切るくらいはできる。
 右手でキーを握り、左手をフロントガラスに押し当てて動かした。ヘッドライトの反射で、その部分は明るくなっているはずだ。その手にヘンリーが気づいてくれるだろうか。なるべく光を見ないようにしていたが、京子は目を強く閉じ車の下の暗い方を向いた。それから、一分間を数え始めた。自分の瞳孔は閉じさせなければならない。
「仲のいいことだな。おまえたち、そういう仲か」と、中尉の声が聞こえた。
「おまえと、その腰巾着はどうなんだ?」と、ヘンリーが挑発した。
 一瞬、沈黙があった。しばらくして、中尉の声が聞こえた。
「ここで迎えを待つのか?」
「おまえたちが派手にライトを点けたから、もう迎えはこないだろうよ」
 そのヘンリーの声が聞こえた時、京子はヘンリーが自分の手の動きに気づいたのを確信した。誰にもわからなくても、自分にはわかる。心が躍った。
「見捨てられたわけだな。おまえは、またあの部屋へ舞い戻ることになる。今度は、死ぬ思いをするぜ」
 中尉がそう言い終わると同時に、京子はエンジンを切った。ヘッドライトが消える。同時に目を開いて京子はヘンリーの方に走ろうとしたが、ヘンリーが瀬川を押し倒して身を伏せ中尉を撃つのを見た。瀬川とヘンリーが横に転がり、位置を変える。
 撃たれた中尉が後ずさり、よろよろと車に近づいてきた。ボンネットに手をつく。頭を上げた中尉の目が、フロントガラス越しに正面から京子を捉えた。暗闇に慣れない目には京子が見えていないにしても、ぞっとするような目だった。
 ヘンリーが憲兵たちに向かって連射した。その音で京子は我に返った。憲兵たちが、ヘンリーの銃弾に怯えて身を伏せるのが見えた。銃声が途絶え、憲兵たちは立ち上がり一斉に銃の引き金を引いた。再び銃声が途絶え、瀬川が海に向かって飛び込んだ。続いて、ヘンリーも飛んだ。それを見届けて、京子は松林の方に走った。
 松林に飛び込んだ時、誰かが「ヘッドライトをつけろ!」と怒鳴る声がして背後が明るくなった。京子は振り返った。「中尉殿」と、誰かが叫んだ。車の前輪の横に倒れている中尉が見えた。あの中尉は、死んだのだ。父を廃人にし、ヘンリーを痛めつけた男。冷酷な憲兵だった男。二度と立ちあがることはない。断続的に銃声が響いた。暗い水面を憲兵たちが撃っていた。
「ふたりとも、無事でいて」と、京子は気が高ぶったまま祈り、走り続けた。

■1945年8月6日 01:20 相模湾
「合図がありました」
 陸に向かって双眼鏡を覗いていた副長のサイモンが言った後、五人乗りのボートに二人の部下が乗り込むと、合図があった同じ場所で強い光が灯った。夜空に向かって一筋の光が延びる。周辺の海面も明るくなった。
「何だ。あれは?」
「おそらく車のヘッドライトでしょう。サーチライトではなさそうです」
「何が起こったのか」
 ナーカ号艦長のフレデリック・フォードは、腕を組んだ。何かトラブルが発生したのは間違いない。その中へ、部下たちを向かわせるのか。危険はある。しかし、あの日系の男の顔が浮かんだ。ヨーロッパ戦線の英雄で、敵陣へたったひとりで潜入した男だ。見捨てるわけにはいかない。
「不測の事態が起こったようです。ボートは待機させますか?」と、サイモンが言う。
「いや、向かわせる。ひとり増やし、応戦専門の戦闘員を乗せろ」
 急な変更で人選に手間取ったが、戦闘経験豊富なマッケンジー軍曹が志願し、三人がボートに乗って合図のあった場所をめざした。目的地は、今は煌々とライトで浮かび上がっている。目標としては申し分ないが、そこは危険に充ちているように思えた。
 突然、ライトが消え、銃声が聞こえてきた。静かな暗い海では、遠くまで響く。ボートの三人も気づくだろう。拳銃と小銃の音が交錯している。間違いなく、銃撃戦が起こっているのだ。フォードは部下の身を案じ、あの日系人の死を覚悟した。

 目的地の岩場が五十メートルほどに迫った時、突然、ライトが消えたのをマッケンジー軍曹は不審に思い、軽機関銃を構えて警戒した。あれほどライトを点灯していたのだから、急に暗くなると光の届かない暗い水面上の五十メートルも離れたボートは識別できまいと思ったが、油断はできない。この距離だと拳銃で命中させるのは無理だが、すでに小銃の射程距離には入っている。
 続いて起こった銃声と、大きな水音。マッケンジーは漕ぎ手のふたりに待機を命じた。もう少し離れた方がいいと判断し、水音をたてず、ゆっくりと後退を命じた。百メートルほど離れたところで、再びライトが点灯した。銃声が響く。水面を撃っているらしい。車を岩場の突端までもってきてヘッドライトを点灯しているが、下に向けて水面を照らすことはできていない。
 数人の男たちが海岸線に立ち、銃を構えている姿がライトで浮きあがっていた。無防備だった。海側からの攻撃など想定していない。マッケンジーは軽機関銃を構えて、撃つまねをした。掃射すれば、男たちを簡単に撃ち殺せる。だが、マッケンジーは引き金から指を離した。
「軍曹、どうしますか?」と、漕ぎ手が訊いた。
「もう少し待機する」
 十分ほどが過ぎた時、もうひとりの漕ぎ手が言った。
「誰かが泳いできます。軍曹」
 暗い水面に、かすかな水音がした。敵かもしれない。マッケンジー軍曹は、軽機関銃を構えなおした。

2018年11月26日 (月)

●天皇への密使・第四章その9

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。なお、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」は、アマゾンで予約受付が始まりました。

●天皇への密使・第四章その9

■1945年8月6日 00:15 茅ヶ崎
 迂回し洞窟の上に出るまで、やはり三十分ほどが必要だった。音を立てないように進むのに、時間がかかったからだ。時間が過ぎていくことに焦りがあったが、ここで見つかっては元も子もない。京子がようやく洞窟の上に出て静かに降りようとした時、洞窟から人影が出てくるのがわかった。五メートルほど下に、瀬川とヘンリーがいた。
 そのまま進むと、包囲している憲兵たちの方に向かうことになる。声を挙げれば、憲兵たちに気づかれる。京子は迷った。その時、地面についていた手に石が当たった。その拳大の石をつかんだ。その石を、ふたりが進むであろう方向の反対側に向かって、できるだけ遠くに投げた。石が夏草の中に落ち、ガサガサと音を立て、ドサッと音がした。静かだっただけに、遠くまで響いた。瀬川とヘンリーの動きが止まった。
 上から見ると夏草の動きで、音がした方へ向かって何人かが動いているのがわかった。暗さに慣れた目には、かすかな月明かりでも確認できたのだ。元々、京子は夜目が効く方だった。しかし、そのかすかな夏草の動きは、同じ草原の中にいる瀬川とヘンリーにわかるだろうか。

 ドサリと音がした瞬間、ヘンリーは振り返った。瀬川もビクッとして腰を屈め、音がした方へ顔を向けた。ふたりは顔を見合わせた。そのまま夏草の中に身を隠して、しばらく様子をうかがう。じっとしていると、何かが伝わってきた。誰かがいる。音のした方に向かっている。
「誰か、いる」と、ヘンリーは瀬川に囁いた。
 瀬川はうなずき、いくぞ、と言うように親指を立てた右手を振った。誰がいるにせよ、目的の場所に向かうしかない。音をたてないゆっくりした動きで、ふたりは進み始めた。これでは時間がかかるな、とヘンリーは苦笑いした。自分の身は、もうどうなってもいい気がした。兄に会えたのに、何の話もしないまま兄は死んでしまった。父と母に再会できたとしても、兄の死を伝えなければならない。死を告げる使者だ。
 そんな役はやりたくない。ただ、自分も死んで、ふたりの死を知った時の両親のことを思うと、せめて自分だけは生還しなければならないと思う。自分を愛してくれる者のために生きる。それは、ひとつの生きる理由だ。だとしたら、京子もヘンリーが生き延びることを望むだろう。ヘンリーも、京子が無事であることを知るまでは死ねないと思った。もう一度、彼女の笑顔を見たかった。

 瀬川とヘンリーは、あの岩場に向かって草を揺らさないようにして動いている。夏草を踏む音が響かないようにしているので、ひどく時間がかかっている。上から見ていた京子にはその動きが判別できたが、遠く離れると暗くて見えなくなった。少なくとも、彼らの跡を憲兵が追っている様子はない。
 だが、先ほど京子が石を投げたあたりに、人が集まっているようだった。そこから何人かが分かれて、周囲を探っている様子だ。やがて、洞窟の入り口の前に、ひとりの男が現れた。先ほど見かけた憲兵かどうかは、暗くてわからない。一体、何人いるのだろう。男は、洞窟には気づかないようだったが、その場所に屈み込み何かを確認していた。もうひとりの憲兵がやってきた。
「どうした」と、小声で屈んだ男に訊いた。
「踏み跡だ。誰かがこっちの方向へ進んでいる。みんなを集めろ」
 ひとりが去り、男は周囲を見渡した。夏草をかき分ける。その時、洞窟の入り口に気づいた。警戒しながら、狭い入り口から中を覗く。ポケットから何かを取り出した。シュッと音がして、炎があがる。マッチをすったのだ。火を洞窟の中に投げ入れる。
「どうした、井川。光が見えたぞ」と、夏草の中から男が姿を現した。
「ここに隠れていたんだ」と、井川と呼ばれた男が洞窟を指さす。
 男たちが集まった。五人いた。
「できたばかりの踏み跡が、こっちに続いている。早く追わないと、夏草は強くてすぐに元にもどるから踏み跡がわからなくなる。三人で追ってくれ。要所に目印をつけておけ。小杉は残れ」
 三人の男たちが、夏草の中を追い始めた。
「この状況を知らせに戻れ。そろそろ古沢中尉が到着しているはずだ。ここへ連れてこい。それから、目印を見つけて、三人の跡を追え。目的地は、おそらく海岸だろう。俺は、車で先まわりして海岸に出てみる」
 井川と呼ばれた男が、小杉に命じた。小杉が去ると、井川はもう一度、周囲を見渡した。井川が見上げたとき、京子はあわてて頭を引っ込めた。京子は、あの岩場まで先まわりしなければ----、と気が急いた。しかし、瀬川とヘンリーより先に着けるだろうか。

■1945年8月6日 00:45 茅ヶ崎
 かなり時間がかかったが、瀬川とヘンリーは海岸に出た。海は暗く、沖には何も見えなかった。本当に迎えはきているのか。
「時間がない。すぐに合図を」
 瀬川が懐中電灯をヘンリーに差し出した。ヘンリーは受け取り、岩場の突端に立ち、沖に向かって照射し、大きく回転させた。それを三度、繰り返す。沖に向けてはいるが、近くに誰かいれば気づくだろう。どこにも光はなく、どんな小さな光でも目立ってしまう。追ってくるやつらがいれば、自分たちの場所を知らせたことになる。ヘンリーは、暗い夜の海を見つめながら拳銃を取り出した。
「追ってきているのは、おそらく憲兵隊だ。彼らが現れるのが先か、迎えがくるのが先か」
 ヘンリーは、他人事のように言った。
「彼らが現れたら、飛び込むしかないですね」
「きみは、もういってくれ」
「わかりました。ご無事で」
 瀬川がそう言って立ち去ろうとした時、エンジン音がして車が近づいてきた。ヘッドライトが照射された。強烈な光がふたりを照らし出す。五メートルほど離れた場所で停止し、ドアが開いた。
「手を挙げろ。おまえらを包囲したぞ」
 車から降りた男が叫んだ。ヘッドライトの光で、ヘンリーは目がくらんだ。何人いるのか、まったくわからない。自分だけだったらヘッドライトを撃ち、海に飛び込んだだろう。しかし、瀬川がいた。瀬川を見ると、呆然と立ちすくんでいる。兵士を殺した時と同じだ。実戦には向かない根っからのインテリである。ヘンリーは拳銃を持ったまま手を挙げた。
「拳銃を捨てろ」
 シルエットの男が怒鳴った。ヘンリーは瀬川を見てから、拳銃を足下に落とした。瀬川が、うなずいたように見えた。
「拳銃をこちらに蹴れ」
 ヘンリーは言われた通りにした。拳銃は男のところまで届かず、車の前一メートル程のところで止まった。男が車の前に出てきた。光に目が慣れる。男はひとりだった。拳銃を拾うときに、チャンスがあるかもしれない。ヘンリーは身構えた。
「井川、でかしたぞ」と、声がした。
 ヘンリーと瀬川がやってきた方向から、あの男が現れた。古沢中尉。その後ろにいるのは、富田曹長だった。そのふたりには借りを返したい、とヘンリーは思った。自分を拷問し、兄を射殺した。
「また、会ったな」と、古沢中尉が車の前に出てきた。
 ヘッドライトを背にして、十人の憲兵たちがヘンリーと瀬川を取り囲んだ。五人が私服で、五人が制服だった。八人は銃を構えて半円形になり、ヘンリーと瀬川を包囲している。古沢中尉が前に出て、富田曹長は中尉の少し後ろに立った。ヘンリーと瀬川の後ろは岩場になっている。
 瀬川が怯えたように、ヘンリーにすり寄ってきた。瀬川の右の足がヘンリーの足に密着する。ヘンリーの太股に、瀬川のズボンの右のポケットに入っている拳銃が触れた。手を挙げたまま、ふたりは並んで密着するような形になった。古沢が近寄ってきた。
「仲のいいことだな。おまえたち、そういう仲か」
「おまえと、その腰巾着はどうなんだ?」
 ヘンリーは、顎で富田曹長を示した。そのまま、車のフロントガラスに目をやった。何かが車の中で動いたような気がした。
「ここで、迎えを待つのか?」
「おまえたちが派手にライトを点けたから、もう迎えはこないだろうよ」
「見捨てられたわけだな。おまえは、またあの部屋に舞い戻ることになる。今度は、死ぬ思いをするぜ」
 古沢中尉がそう言った時、ヘッドライトが消えた。ヘンリーは瀬川に覆いかぶさるようにして、ふたりで身を伏せた。右手を瀬川の右ポケットに入れ、拳銃を取り出し、目の前に向かって引き金を引く。古沢中尉の叫び声が聞こえた。
 瀬川の体をつかみ体を回転させ、元の位置から数メートル横に移動させ、ヘンリーも横に並んだ。ヘッドライトに照らされ続けて瞳孔が開いているので、周囲は真っ暗闇で何も見えない。憲兵たちも同じはずだ。ヘンリーは見えないまま身を伏せ、立て続けに引き金を引いた。どこからくるかわからない銃弾は、恐怖を呼ぶ。憲兵たちも身を伏せているのだろう。ヘンリーは、「飛び込め!」と瀬川に囁いた。
 ヘンリーの銃声が途絶えると、憲兵たちが立ちあがる気配がして一斉に反撃してきた。先ほどいた場所に、銃弾が撃ち込まれた。あのままいたら、蜂の巣になっていたところだ。憲兵たちの銃声が途絶えた瞬間、瀬川が立ち上がり飛び込む気配がした。ヘンリーも身を起こし上陸した時の記憶を甦らせ、海面と思える方向に向けて勢いよく身を躍らせた。暗闇へのジャンプは、地獄の底へ向かうようだった。

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