2017年10月19日 (木)

■映画と夜と音楽と…791 痛いぞ、北野武監督作品

【アウトレイジ/アウトレイジ ビヨンド/アウトレイジ最終章】

●映画が半分ほど進んだときに「火事です」のアナウンス

数え切れないほど映画館には入ったけれど、映画の途中で「火事です。二階から火が出ました。落ち着いて脱出してください」というアナウンスがあったのは初めてだった。火災報知機の作動と共に自動的にアナウンスされるもので、どこか非人間的で機械的な響きだった。朝の九時五十分から始まった一番の回である。平日とはいえ、ヒット作らしく五十人近くの観客がいた。

しかし、そのアナウンスであわてた人はいなかった。全員、半信半疑という感じではあったが、すみやかに席を立ち、われがちに----というのでもなく、また整然にとも形容できない感じで(上映が終わって普通に出ていく風に)出口に向かう。僕は「マジか」などとつぶやきつつ彼らを見送り、まだひと組のカップルが残ったままなのを確認して会場を出た。そのカップルも席を立ったから、数分のうちに全員がアナウンスに従ったわけである。

しかし、廊下へ出るとシネコンの従業員が「今、確認していますので、この近辺でお待ちください」と言っていた。火災報知器のボタンが押されたのは間違いないらしいが、本当の火事なのかどうかを確認しているという。僕は一度ロビーに出たが、大勢の人がわいわい言っていたので、従業員に「席で待っててもいいの?」と訊いて、再び劇場内に戻った。たったひとり、スクリーンを見つめていると、何となくいい気分になった。

数分後、ポツリポツリと人が戻ってくる。しばらくして若い男性従業員が姿を現し、上映を再開することを告げた。それから五分ほどが過ぎると、元のように五十人ほどの人が戻っていた。ざわめきは、まったくない。結局、中断したのは二十分足らずだったろうか。僕は映写室に近い席だったので、いつ上映が始まるか映写窓を見つめていた。今はデジタル上映だろうから、フィルムを巻き戻す作業もないのだろうなあと考えていた。

しかし、どのシーンから再開するのだろう。ちょうど真ん中あたりのシーンだった。二時間足らずの作品で、五十分ほどが過ぎたところだ。松重豊が演じる警視庁の組織暴力担当刑事が、韓国の政財界を牛耳るフィクサーの屋敷を訪ねたところだった。その邸宅に入ったところで画面が消え、真っ白なスクリーンになり、明かりが灯り、「火事です」というアナウンスがあったのだ。再開は、その少し前のシーン、韓国人のフィクサーが襲撃された喫茶店で松重豊の刑事と上司が話をしているところから始まった。二十分の中断、少し巻き戻して再生----、自宅でDVDを見ている錯覚に陥る。

中高年の観客が多かったが、「アウトレイジ最終章」(2017年)はヒットしているようだった。平日の朝一番の回に五十人くらい入っているのだから、公開した土曜日から続いた三連休にはけっこう入っていたのではないだろうか。僕は見たくてたまらなかったが、混んでいるのがイヤだったので休み明け早々に見にきたのだ。その前夜、僕は「アウトレイジ最終章」を見ている夢まで見た。それほど、公開を楽しみにしていた。「アウトレイジ」(2010年)「アウトレイジ ビヨンド」(2012年)は、何度見たかわからない。

どうも、権謀術数、謀略、裏切りが渦巻く権力争いの話が僕は好きらしい。シェイクスピアなら「リチャード三世」が好きだし、司馬遼太郎なら「関ヶ原」が好きだし、やくざ社会の跡目問題でもめる「仁義なき戦い 代理戦争」(1973年)「仁義なき戦い 頂上作戦」(1974年)がとりわけ好きだし、戦後の政界の権力闘争を描いた「小説吉田学校」(1983年)もおもしろく見た。どんな世界にも権力争いはある。その争いの中で誰が味方で、誰が敵かわからなくなり、人間の本性が見えてくる。

●北野作品とタランティーノ作品の残酷描写は平気で見られる

北野武監督作品が嫌いだという人はいる。わかる気がする。生理的な痛さ、暴力性(そうでない作品もあるけれど)が肌に合わないのだと思う。僕も残酷描写が苦手で、ホラー作品はほとんど見ないのだが、北野武監督作品とクエンティン・タランティーノ監督作品は、どんなに残酷な描写でも平気で見ていられる。もっとも、このふたりの残酷描写は質も傾向もまったく違う。タランティーノ作品には拳銃で撃たれて頭が破裂するといった描写があるが、大げさすぎて笑いたくなるユーモアを感じるのだ。

一方、北野武作品の暴力には「生理的な痛み」を感じる。「その男、凶暴につき」(1989年)の頃から暴力の描き方に独特のものがあると感じていたが、驚いたのは「ソナチネ」(1993年)を見たときだった。最初の方で、ビートたけしの村川が組の幹部である矢島健一を一方的に殴るシーンがあった。その描き方が斬新でリアルだった。ホントに痛そうに見えた。暴力の怖さのようなものが伝わってきた。この監督は、本物のやくざが人を殴るのを見たことがあるのではないか、と僕は思った。

「BROTHER」(2000年)公開前のテレビの特集番組だった。北野武監督が登場し、ある暴力シーンのことを「あれ、痛いでしょ」とインタビュアーに言っていた。それは、相手の鼻の両方の穴に箸を差し込み、下から突き上げるというシーンだった。初めて見たとき、そのシーンに僕はショックを受けた。誰でも、こんなことはされたくないよな、と思うことがある。鼻に箸を差し込み下から突き上げられるなんて、考えただけでゾッとする。それを北野武監督はやってしまう。

「アウトレイジ」シリーズは、とにかく大勢の人が死ぬ。殺され方は様々で、北野武監督はそれが描きたくて作ってるのじゃないかとさえ思えてくる。痛いシーンの連続だし、わざわざなんでこんな殺し方するの? と思う場面もある。「アウトレイジ」で言えば、水野(椎名桔平)の殺され方だ。捕らえられ車に乗せられた水野は頭から黒い袋をかぶせられ、首にロープをまかれる。そのロープの反対側をわざわざ海辺の杭に縛り付け、車を走らせる。ロープがピンと張られ、水野は勢いよく車から飛び出す。その後のシーンで「水野は首がほとんど千切れてましたよ」と刑事の片岡(小日向文世)が大友(ビートたけし)に言う。

たぶん、どう殺すか、どう痛めるつけるか、北野武監督はアイデアを絞り出しているに違いない。痛いシーンを列挙すると、カッターナイフで小指を切ろうと血だらけになるシーン、そのカッターナイフで相手の顔を×に切りつけるシーン、歯医者の椅子にいる石橋蓮司の口の中を治療用のドリルでかきまわすシーン、覚醒剤を売っている中華料理店のオヤジの耳に菜箸を突っ込むシーン、同じく中華包丁で指を切断するシーン、國村隼に舌を突き出させ下から顎を叩き上げて舌を噛ませるシーン----などなど、一作目の「アウトレイジ」を思い浮かべるだけで、こんなにもある。拳銃で簡単に射殺される方がましだと思えてくる。

●「アウトレイジ最終章」は銃弾がふんだんに飛び交う展開になった

「アウトレイジ最終章」にも様々な殺され方が出てくるが、どちらかと言えば拳銃や機関銃での撃ち合いが主流になっている。特に狭い自動車内での突然の撃ち合いは、この映画の最大の見ものだ。そのせいか、僕は「ゴッドファーザー」シリーズを連想した。大勢のパーティー客に向かって大友と市川(大森南朋)が皆殺しにする勢いで撃ちまくるシーンにはカタルシスさえおぼえた。「ゴッドファーザーPARTIII」(1990年)でホテルの会場に集まったマフィアのボスたちを、ヘリコプターから機関銃で連射するシーンを僕は思い出していた。

テレビスポットでも流れていたので見た人は多いだろうが、林の中の道に首まで埋められている花菱会の会長(大杉漣)のシーンは誰しもギョッとするだろう。しかし、生理的な痛みは感じない。大杉漣は首まで埋められて大変だっただろうが、北野武監督に命じられれば何でもするしかないのだ。文句は言えない。何しろ、それまでピンク映画やロマンポルノばかりに出ていた大杉漣を「ソナチネ」で起用し、メジャーな役者(メジャーになってから周防監督の「変態家族 兄貴の嫁さん」の老人役だったのが有名になった)にしたのは北野監督なのだから---。

しかし、首だけ出した大杉漣の場合は自動車が間近に迫るということはなかったようだ。映画はそのように見せていたが、実際にそんな危険な撮影はしていないのはわかる。編集でごまかしていた。首まで埋められたうえ、間近をジープが走りまわるという体験をしたのは、水戸黄門になる前の西村晃である。そんな危険な撮影を命じたのは、深作欣二監督だった。「北陸代理戦争」(1977年)のワンシーンである。そんなエピソードを知ると、「殺すで、人ひとり殺すで。当たるで、この映画」と興奮する「蒲田行進曲」(1982年)の監督(蟹江敬三)は深作欣二その人ではないかと思う。

たぶん、北野武監督が「アウトレイジ」シリーズで意識したのは深作欣二監督であり「仁義なき戦い」なのだと思う。「その男、凶暴につき」は、最初、深作欣二が監督する予定だった。それが、どういういきさつかは知らないが、深作欣二監督が降りた。そこで、監督経験のまったくないビートたけしが監督することになった。初めてだったとはいえ、それまでビートたけしは大島渚を始め、何人もの監督の現場を見ていたのだ。僕が初めて見た俳優ビートたけしは東陽一監督作品「マノン」(1981)年だった。ヒロイン烏丸せつこのやくざな兄の役である。

余談だが、「マノン」は、確か佐藤浩市の映画デビューではなかっただろうか。佐藤浩市が俳優としてデビューしたのは、NHKドラマ「続・続・事件」(1980年)だと記憶している。大岡昇平のベストセラー「事件」は野村芳太郎監督が映画化したが、その後、NHKが深町ディレクター・早坂暁脚本でドラマ化した。主演の弁護士役は若山富三郎である。これが好評で、富三郎主演で何作か続編が放映された。早坂暁のオリジナル脚本だ。「続・続・事件」は母親(岸恵子)に家庭内暴力を振るう息子(佐藤浩市)の物語だった。

ところで、「アウトレイジ」には、日本のやくざ映画のDNAは感じない。特に今回の「アウトレイジ最終章」は、日本映画的な要素がほとんどない。「ゴッドファーザー」のようなハリウッド的なものを感じる部分もあるが、たぶん最も近いのはフレンチ・ノアール、もっと言えばジャン=ピエール・メルヴィル監督作品ではないだろうか。北野武監督作品が、フランスで受ける理由がそこにあるのではないか。フランスにはキタノ・ファンが多い。残虐で暴力シーンばかりの北野武監督作品を僕が偏愛するのも、フレンチ・ノアールを熱狂的に愛しジャン=ピエール・メルヴィル監督を神と仰ぐ僕だから不思議はないのかもしれない。

2017年10月12日 (木)

■映画と夜と音楽と…790 祝!! カズオ・イシグロ



【日の名残り/わたしを離さないで/上海の伯爵夫人】

●女中頭への秘めた慕情を仄かに描き出し人生の重みを感じさせる

カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した。両親とも日本人だが、本人は英国籍を取得し、ずっと英語で小説を書いている。確か、五歳までは長崎で育ったはずだ。父親の仕事の関係でイギリスに渡り、そのままイギリスで暮らしている。アンソニー・ホプキンスが主演した「日の名残り」(1993年)の原作者として映画ファンには知られている。「眺めのいい部屋」(1986年)や「モーリス」(1987年)など、ジェイムズ・アイヴォリー監督は古い時代のイギリスを格調高く描く人だが、「日の名残り」もその一本である。アンソニー・ホプキンスがイギリスの執事という仕事を重厚に演じ、女中頭(エマ・トンプソン)への秘めた慕情を仄かに描き出し、人生の重みを感じさせる作品だった。

カズオ・イシグロのもうひとつの代表作として「わたしを離さないで」がある。僕が買ったハードカバーは、すでに十刷を越えていたと思うから、当時、日本でもベストセラーになっていたのだろう。翻訳小説が売れない中では珍しいことだった。それから、しばらくしてキャリー・マリガン主演の「わたしを離さないで」(2010年)が公開された。僕が初めてアンドリュー・ガーフィールドを記憶にとどめた映画である。ところで、今回の受賞のニュースで新聞やテレビが、日本でも劇化やテレビドラマ化された「わたしを離さないで」を紹介していたが、どのニュースも内容紹介でネタバレをやっていて「いいのかい」と僕は思った。初めて読むとき、「あのこと」を知らないで読むのと知って読むのとでは、大きな違いがある。

「わたしを離さないで」は、大人になり、自分の運命を知り、そのことを受け入れ、あらかじめ決められていた仕事に就いている若い女性の語りで始まる。奇妙な仕事が語られ、子供時代の集団生活をしていた学校時代が回想され、徐々に「あのこと」が明らかになっていく過程が重要なのではないだろうか。確かに、最初の章からある予感がある。しかし、「あのこと」は明確には書かれていない。ただ、奇妙な仕事に、奇妙な呼称がついているだけだ。ヒロインは、仲のよかった少年と少女の今を語り、彼らに会いにいき、不思議な会話を交わす。その会話や子供時代の回想から、「あのこと」が次第に浮かび上がる仕掛けになっているのだが、勘のいい人は早くにわかってしまうかもしれない。

僕は何の情報もなく読み始めたので、「あのこと」を明確に読みとったのは半ばまで読み進んだときだった。もちろん、それまでにある予感はあったし、「もしかしたら----」と思ってはいた。しかし、明確に「あのこと」がわかると、それまでの奇妙な会話や子供時代の不思議な出来事が、まったく別の意味を持って立ち上がってくる。それによって、描かれる世界を深い悲しみが覆うのだ。ヒロインが仲間たちとある町にいき、そこで古い音楽のテープを手に入れ、そのテープの音楽を聴くというだけのエピソードが印象深く心に刻まれるのは、「あのこと」が背景にあるからだ。その曲がタイトルになった「ネバー・レット・ミー・ゴー」である。

「わたしを離さないで」の映画版は、小説と違って最初からヒロインの環境や生活を映像で見せることになるので、早くから「あのこと」は観客にわかるだろう。それでも、「あのこと」が次第に描き出される形になっているから、それによってヒロインたちの深い悲しみが伝わってくるのだ。しかし、やはり、あの全編に漂う悲哀感は、カズオ・イシグロの文章を読むことで(翻訳だったけど)強く印象付けられるものだろう。「わたしを離さないで」を読みながら僕は、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を思い出した。映画化された「ブレードランナー」(1982年)と違い、原作にはある深い悲しみが描かれている。主人公は狩られる側に感情移入していくし、次第に自分自身のアイデンティティが崩れ始める。それが映画ではストレートに伝わってはこなかった。

●「上海の伯爵夫人」は戦前の上海の雰囲気が魅力的だった

カズオ・イシグロが脚本を書いた映画に「上海の伯爵夫人」(2005年)がある。一九三六年の上海を舞台にしている。翌年、第二次上海事変が起こる。日中戦争の本格的な始まりだ。当時、上海にはフランス租界など列強の進出があり、国際都市として様々な国の人物がいた。もちろん、日本人も多く進出していた。スビルバーグ監督が「太陽の帝国」(1987年)で描いたのと同じ頃の上海である。「上海の伯爵夫人」の主人公ジャクソン(レイフ・ファインズ)はイギリス人で、ある事件で家族を失い自らは盲目となり、抜け殻のようになって上海をさまよっていた。そんなある日、あるクラブでジャクソンは亡命ロシア貴族のソフィア(ナターシャ・リチャードソン)と出会う。

一九一七年にロシア革命が起こり、多くのロシア貴族が満州や中国に逃げてきていた時代だ。革命から十九年後の上海。ソフィアは子供の頃に父母や叔母たちと共に逃げてきたのだろう。ソフィアは旧ロシアでは貴族だったのだが、家族を養うためにクラブ・ホステスとして働いていた。ソフィアの叔母を演じているのがヴァネッサ・レッドグレーブだった。一方、ジャクソンは日本人の実業家であるマツダ(真田広之)と出会う。しかし、謎めいた言動をするマツダは、何を考えているのかわからない。ジャクソンは賭で大金を得、クラブを開き「白い伯爵夫人」と名付け、ソフィアを店に雇い入れる。ふたりは惹かれあっているのだが、過去に深い傷を負っているらしいジャクソンは心を開かない。やがて「白い伯爵夫人」には、国民党、日本軍、英米の情報部員などが集まり、複雑な政治状況を反映した謀略の場になる。

僕がレイフ・ファインズを気にいっているためか、「上海の伯爵夫人」は、ストーリーの細かなところは忘れてしまったが、とても好きな映画だ。印象的なシーンがいくつか記憶に刻み込まれている。映像は格調高く、美しい。戦前の上海の雰囲気が魅力的だった。この時代の上海を描いた映画は何本も見ているが、無国籍都市の雰囲気があって、思わずディック・ミネの「夜霧のブルース」や「上海帰りのリル」などを歌いたくなる。冒険小説の舞台にも向いているらしく、生島治郎さんの「黄土の奔流」も上海の租界のナイトクラブから始まったと記憶している。生島さんは上海生まれだった。僕の父も上海で終戦を迎えている。日本人にはなじみのあった都市である。

戦前の上海はロマンチックで創作欲をそそるのか、カズオ・イシグロは「わたしたちが孤児だったころ」で、やはり戦前の上海を舞台にしている。「上海の伯爵夫人」の方が「わたしたちが孤児だったころ」より後だから、小説を書くために調べた上海を舞台にして脚本を書いたのかもしれない。「わたしたちが孤児だったころ」は、上海の租界で暮らしていた主人公が十歳のときに両親が行方不明になり、イギリスに連れ戻された主人公はホームズのような探偵になって、両親の失踪の真相を探るために再び上海に戻るという物語だったと思う(けっこう昔に読んだので、ちょっとあやふやだけど)。

●ヴァネッサ・レッドクレーブとの母娘共演作は「上海の伯爵夫人」だけ?

「上海の伯爵夫人」が印象に残っている理由のひとつは、ヴァネッサ・レッドグレーブと実娘のナターシャ・リチャードソンが共演しているからだ。ナターシャ・リチャードソンは、ヴァネッサ・レッドグレーブとトニー・リチャードソンとの間にできた娘である。トニー・リチャードソンと言えば、僕らの世代では忘れられない監督だ。三十歳のときに「怒りを込めて振り返れ」(1958年)を発表し、続いて「土曜の夜と日曜の朝」(1960年)「密の味」(1961年)「長距離ランナーの孤独」(1962年)と、「怒れる若者たち」ムーブメントを映画の世界から発信した人である。六〇年代には、「ラブド・ワン」(1965年)「マドモアゼル」(1966年)「ジブラルタルの追想」(1967年)と絶好調だった。

一方、ヴァネッサ・レッドグレーブと言えば、英国演劇界の名優の血を引く名女優だ。お父さんはマイケル・レッドグレーブである。僕の印象に残っているマイケル・レッドグレーブは、「長距離ランナーの孤独」の少年院の偽善的な校長である。名優マイケル・レッドグレーブは、ローレンス・オリヴィエと同じようにナイトの称号を女王陛下から授けられた。息子のコリン・レッドグレーブも次女のリン・レッドグレーブも俳優として活躍した。つまり、ナターシャ・リチャードソンはマイケル・レッドグレーブの孫で、日本で言えば梨園のお嬢様である松たか子(叔父が中村吉右衛門だもの)みたいなものである。

そのナターシャ・リチャードソンはリーアム・ニーソンと結婚し、ふたりの子供をもうけた。しかし、「上海の伯爵夫人」から四年後、スキー場での事故で亡くなってしまう。まだ、四十六歳だった。ナターシャ・リチャードソンの代表作というと、やはり「上海の伯爵夫人」になるのだろう。実母だけではなく、実の叔母のリン・レッドグレーブも出演していた。それにしても、弟のコリンも妹のリンも亡くなり、娘のナターシャにも先立たれたヴァネッサ・レッドグレーブだが、八十の今も現役女優としてがんばっている。イギリス映画の老女役というと、ヴァネッサか、マギー・スミスか、ジュディ・デンチといったところだが、それぞれ持ち味が違うのが凄い。

2017年10月 5日 (木)

■映画と夜と音楽と…789 誰も信じられない世界



【われらが背きし者】

●いつ何が起きるかわからない不安感が消えない映画

ジョン・ル・カレ原作の映画化「われらが背きし者」(2016年)は、全編、緊張感を感じる映画だった。サスペンスフルというより、いつ何が起きるかわからない不安感が消えない。手に汗握るというのではない。何でもないシーンでも、身を乗り出してスクリーンから目を離させない力がある。原作が持つ力なのだろう。つまり、ストーリー自体に読者(観客)を鷲掴みにする魅力があるのだ。そして、何が起こっているのか、これから何が起こるのか、常に先を知りたいという強い欲求が湧きあがる。原作者が制作総指揮に加わっていることも、スクリーンを凝視させ続ける力を生み出すことに寄与しているのかもしれない。

ジョン・ル・カレの小説を初めて読んだのは、中学生のときだった。もう、五十年以上前になる。初めて買ったハヤカワ・ノヴェルズの新刊「死者にかかってきた電話」である。ル・カレの処女作だ。すでに、世界的ベストセラー「寒い国から帰ってきたスパイ」は日本で翻訳され、「スパイ小説の金字塔」のキャッチフレーズで版元は売っていたが、僕は順番に読まなければならないという幼い潔癖さによって、ちょうど翻訳されたばかりの第一作から読み始めたのだ。しばらくして、二作目の「高貴なる殺人」が翻訳され、それも読了した僕はようやく「寒い国から帰ってきたスパイ」を読む資格を得たのだった。

ちょうど、「寒い国から帰ってきたスパイ」が映画化されたときだった。アレック・リーマスを演じたのはリチャード・バートンだったが、ヒロインはクレア・ブルームというあまり美人ではない女優だった。彼女がチャップリンの「ライムライト」(1952年)のヒロインだったことなど僕は知るよしもなく、「なぜ、もっと美人女優を使わないのだ」と不満に思っていた。もっとも、僕が映画化に関して不満だったのは、邦題が「寒い国から帰ったスパイ」(1965年)だったことだ。なぜ、「帰ってきたスパイ」ではないのか、と「ザ・スパイ・フー・ケイムイン・フロム・コールド」と、習い始めたばかりのカタカナ英語の発音で僕は怒りを表明した。

しかし、次に翻訳されたル・カレの「鏡の国の戦争」(映画化されたのは1968年)は、中学生には難しすぎた。当時、ミステリマガジンで書評を担当していた石川喬司さんは、ル・カレの小説を「アタマ・スパイ」と名付けた。リアルなスパイの世界を描いているのかもしれないが、十代半ばだった僕には「ジェイムズ・ボンド」や「ナポレオン・ソロ」の方が向いていたのである。そして「ドイツの小さな町」に至り、僕はついに読み通すことができず、以降、ル・カレの新作を敬遠することになった。その結果、スマイリー三部作も読まなかったし、何十年ぶりかで買った「リトル・ドラマー・ガール」も読み通すことができなかった。

ル・カレを再び読んだのは、「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」だった。その映画化作品「裏切りのサーカス」(2011年)がよくできていたからだ。そして、「誰よりも狙われた男」(映画化は2013年)、なぜか版元が岩波書店に変わった「われらが背きし者」(映画化は2016年)と続けて読んでいる。相変わらずのル・カレ節。五里霧中で読み進むと、少しずつ霧が晴れていく感じである。ル・カレの原作で映画化されたものは、調べると十二本。テレビドラマ「高貴なる殺人」を除いて、僕はすべて見ていた。日本未公開だった「死者にかかってきた電話」(1967年)も数年前、WOWOWで放映されたときに見た。その結果、僕は「ル・カレ原作に外れなし」と改めて確認した。特に二十一世紀になってからの作品は、どれも名作ぞろいと言えるだろう。

●プロローグで描かれた残虐な殺人がどうつながるかという興味

二十一世紀になって最初に映画化されたル・カレ原作の「テイラー・オブ・パナマ」(2001年)はジェフリー・ラッシュが好演していたし出来もよかったが、グレアム・グリーン原作でキャロル・リード監督の「ハバナの男」(1960年)に似ている気がした。もしかしたら、ル・カレはグレアム・グリーンにオマージュを捧げていたのだろうか。「テイラー・オブ・パナマ」はル・カレが制作総指揮だが、脚本も彼自身が担当している。続く「ナイロビの蜂」(2005年)は、主人公(レイフ・ファインズ)の殺される妻役のレイチェル・ワイズが印象に残る。レイフ・ファインズは外交官の役で、こういう役をやると似合う。

それからずいぶん経って、「裏切りのサーカス」(2011年)をル・カレは制作総指揮した。ル・カレ、八十歳のときである。七〇年代に発表したジョージ・スマイリー三部作の一作目「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」が原作で、タイトルもそのままなのだけれど、わけのわからない邦題になった。「サーカス」が「イギリス情報部」を指す言葉だと知らないと、この邦題は意味不明だ。映画の中ではしきりに「サーカス」という言葉が飛び交う。「裏切りのサーカス」も、全編、緊張感の漂う作品だった。不穏な空気が常に流れている。ホラー作品のような不気味さが漂う。

その後、フィリップ・シーモア・ホフマンの遺作になった「誰よりも狙われた男」(2013年)を経て、「われらが背きし者」に続く。どちらも制作総指揮としてル・カレがクレジットされている。八十を過ぎても旺盛な創作欲を見せるル・カレだが、映画化にも強い意欲があるのだろう。「われらが背きし者」の原作は、テニスのシーンから始まったと記憶しているが、映画はプロローグとして残虐な殺人が描かれる。空中で回転する黒人ダンサーから始まり、それがバレエ公演だとわかる。それを見ている母と娘らしいふたり連れがいる。一方、年輩の男と彼より少し若い男が出会い、抱擁をする。親しい間柄らしい。

シーンは変わり「モスクワ」とクレジットが出て、大勢の男たちがテーブルについている。先ほど年輩の男と抱擁していた男が、書類にサインをする。次のシーンは雪原の中の一本の道を走る高級車だ。先ほどサインした男が妻と娘(バレエ公演を見ていたふたりだ)を乗せて走っている。その先で事故なのだろうか、トラックが停まっていて、その横にパトカーらしき車がある。銃を構えた警官とおぼしき男が立っている。男が車を停めると、警官がやってくる。銃を構えた警官が立っているのを見た頃から、僕にはすでに予感があった。たぶん、どんな観客も、そこに不穏な空気を感じるはずだ。案の定、男と妻はいきなり射殺され、娘は車を逃げ出す。警官が笑みを浮かべて「コートを忘れてるぞ」と呼びかける。娘が振り向くと、警官は無慈悲に射殺する。

●一体何が起こるのだろうという強い関心が湧き起こる

本編は、「モロッコ」のクレジットと共に始まった。ユアン・マクレガーが黒人女性と寝ようとしている。しかし、黒人女性は「やっぱりダメ」と言って身を離す。次のシーンは、高級レストランでテーブルに向かうユアン・マクレガーと黒人女性だ。ふたりの間には気まずい空気が流れている。他に数人のロシア人らしき男たちがいて、高価なシャンパンを飲んでいる。その中で大きな声で話しているのは、プロローグで殺された男を抱擁していた年輩の男である。その男ディマは、黒人女性に置いてきぼりにされたユアン・マクレガー(ペリーと名乗り、ロンドンの大学で詩を教えていると言う)を強引に自分のテーブルに誘う。

この冒頭から、一体何が起こるのだろうという強い関心が湧き起こる。年輩の男は愛想はいいが、何となく不気味で怪しい。彼についているボディガードのような男たちも正体不明だ。しかし、ディマと名乗った男は、再び強引にペリーをパーティに誘う。断ったペリーに、男は賭を提案する。男が勝ったら、ペリーはパーティにいかなければならない。ディマはペリーにカードを見せろと言い、ディマは一瞬見たカード番号を当ててみせる。特殊な能力だが、これも後半の伏線になっている。ペリーは派手なロシア式パーティに同行し、美しい女に紹介される。しかし、その女も妙に謎めいている。だいたい、そのパーティの出席者たちが怪しい。タトゥーだらけのロシアン・マフィアのような男がいる。

こんな風に、始まった途端、スクリーンは緊張感に充たされ、不穏な雰囲気が漂い、怪しい男たちが跋扈する。何が目的なのか、主人公は何に巻き込まれるのか、不安に感じながらも、早く物語が進まないかと気が急く。プロローグで描かれたエピソードが、いつ本編とつながるのかが気になって、スクリーンから目が離せない。しかし、意外に早くプロローグの謎はディマによって明かされる。ところが、それからがメインの物語になっていくのだ。後は、ハラハラしながら見続けるしかない。怪しい男に見えていたディマに、いつの間にか感情移入している。それは、ペリーがディマに友情を感じ始めているからに違いない。つまり、観客はペリーに感情移入するが故に、緊張感を強いられるのだ。

「寒い国から帰ったスパイ」以来、ル・カレ作品にはスパイとして敵方に潜入する物語が多い。映画化された中でも女優がスパイに仕立てられる「リトル・ドラマー・ガール」(1984年)があり、出版社の社長がイギリス情報部の依頼でソ連に潜入する「ロシア・ハウス」(1990年)があった。「われらが背きし者」もそのひとつだが、ここでは相手が血も涙もない極悪非道なロシアン・マフィアであることで、擬装工作がいつバレるかというハラハラドキドキの度合いが高まることになる。加えて、イギリス情報部内の権力争いが描かれ、いつ裏切られるかわからないというサスペンスも醸し出される。

スパイ・ストーリーの基本は「誰も信じられない。誰もがいつ裏切るかわからない」ということだ。その中に詩を教えている素人のプロフェッサーが妻と共に巻き込まれ、友情を感じた相手のために命をかけて戦うことになる。彼をサポートしているはずのイギリス情報部だって信用できないのだ。その怖さが、「われらが背きし者」を見ている間、観客に緊張感を強いる。ホッと息つく暇もない。ああ、やっと救われたかと思った瞬間、ル・カレによって裏切られる。作者が登場人物に対して無慈悲であればあるほど、物語はおもしろくなる。意外性に充ち溢れる。そんなどんでん返しの場面で、ユアン・マクレガーのアップになる。その表情だけで、観客は何が起きたのかわかる。相当、すれっからしの観客である僕も呆然とした。

2017年9月28日 (木)

■映画と夜と音楽と…788 三十年の馬鹿騒ぎ



【仁義の墓場/暗黒街の顔役】

●「やすらぎの郷」にはいろいろな昔の映画が使われていた

倉本聰さんの久しぶりの連続ドラマ「やすらぎの郷」が話題になっている。もっとも、九月いっぱいで終わりそうだ。八千草薫が演じていた九条摂子が死に、その摂子に純愛を捧げ続けてきた「やすらぎの郷」のスポンサーである、芸能界のボス加納英吉(織本順吉)が死んで、一気に最終回に向かっている。主人公の脚本家・菊村栄は倉本聰さん自身を思わせるし、他の出演者も本人に近いキャラクターを演じている。女優たちの若く美しい頃のプロマイドやスチール、過去の映画などがときどきインサートされ、懐かしい思いにとらわれることもある。

加賀まり子が演じるマヤという女優も、もちろん彼女自身を想像させるが、若い頃のスチールで使われたのは「月曜日のユカ」(1964年)ではなかっただろうか。これは、僕が小学生のときに公開された作品で、才人監督・中平康の代表作のひとつになった。小悪魔と呼ばれた時代の加賀まり子主演で、彼女が演じたユカは金持ちの愛人(当時は二号と言った)だった。パパと呼ばれるパトロン役は、なんと加藤武だ。そのパパに隠れて会っている若い恋人が中尾彬である。

「月曜日のユカ」には、シナリオに若き倉本聰さんが加わっている。斎藤耕一との共作だった。斎藤耕一はスチルカメラマンから監督になった人である。「囁きのジョー」(1967年)で監督デビューし、後にアート・シアター・ギルド(ATG)で「約束」(1972年)や「津軽じょんがら節」(1973年)などを作るが、シナリオだけに参加することもあったらしい。若い頃、倉本さんは日活作品の脚本を多く書いている。それにしても、五十三年前の小悪魔的なイメージを今も持続している加賀まり子はすごい。

認知症のしのぶ(有馬稲子)の付き人で愛人という役で藤木孝が出ていたが、相変わらずおかっぱ頭みたいなヘアースタイルだったので嬉しくなった。ロカビリー歌手として人気が出た彼は、六〇年代前半に何本か映画に主演し、その後、悪役などを多く演じてきた。僕が思い出すのは、加賀まり子と共演した「涙を、獅子のたてがみに」(1962年)という篠田正浩監督作品だ。ストーリーはエリア・カザン監督でマーロン・ブランド主演の「波止場」(1954年)にインスパイアされたところがあるけれど、僕は好きな映画である。

「涙を、獅子のたてがみに」の加賀まり子は純情なウェイトレスを演じているが、若く溌剌としていて美しい。また、妖艶な人妻を演じた岸田今日子が印象に残る。波止場の労働者役で若き近藤正臣(「やすらぎの郷」に老ディレクター役で出演している)が出ているが、セリフもなく、ほとんどエキストラと同じ扱いだった。彼が注目されるのは、今村昌平監督の「『エロ事師たち』より 人類学入門」(1966年)の坂本スミ子の息子役である。タイトルクレジットには、「近藤正臣(新人)」と出ている。

八千草薫が演じた九条摂子という女優は戦前から活躍していた設定になっているが、八千草薫自身は戦後にデビューした人である。宝塚を経て映画デビューした。「やすらぎの郷」の中で彼女自身が見ていた昔の映画は、「夏目漱石の三四郎」(1955年)だと思う。この映画を僕は見ていないが、服装などから彼女が演じているのは、おそらく美弥子である。八千草薫は二十四歳だった。おでこが目立つが、美しさの絶頂にあった。

僕が印象に残っている若き八千草薫というと、文芸映画の巨匠と呼ばれた豊田四郎監督の「雪国」(1957年)だ。川端康成の有名な小説である。駒子を岸恵子、島村を池部良が演じ、八千草薫が葉子を演じた。おとなしい純情な役ばかりだった八千草薫だったが、「雪国」では駒子と島村に敵意を抱き、いつも怒りの表情を見せていた。「駅長さーん、駅長さーん」と、夜汽車の窓を開けて呼ぶ姿が新鮮だった。

●芸能界のボス役の織本順吉が最期に口にした辞世の句

芸能界のボスを演じた織本順吉は、いろいろな映画やテレビドラマに出ていた人である。「仁義なき戦い 完結篇」(1974年)では早川組長を演じていたのをよく憶えている。三部・四部で室田日出男が演じていた早川は、年をとって織本順吉になったわけだ。織本順吉の実年齢は九十歳。「やすらぎの郷」では、百歳近いフィクサーを演じていた。元海軍の参謀で、戦後は芸能プロ社長として芸能界を仕切ってきた男という設定である。裏社会にも通じていて、政財界にも影響力を持っていた。その男の最期に石川力夫の辞世の句をしゃべらせていた。例の「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」である。

渡哲也が石川力夫を演じた「仁義の墓場」(1975年)で、刑務所の屋上に昇った石川力夫は頭までかぶった毛布から顔を見せ、ニヤリと笑って身を投げた。その房の壁には「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」と描かれている。石川力夫は水戸の出身だった。同じ水戸出身の深作欣二監督は、個人的な興味が強くあったのではないだろうか。「仁義の墓場」は深作監督の最高傑作だと僕は思う。しかし、もう一度見ろと言われると二の足を踏む。主人公の石川力夫の生き方が凄まじすぎるのだ。初めて見たとき、こんな人間がいるのか、と衝撃を受け口も利けなくなった。

「仁義の墓場」で渡哲也は渾身の演技を見せる。せっかく大病から復帰したというのに、この映画を撮ってから再び入院した。渡哲也は「仁義の墓場」を撮る前後、倉本聰さんと多く仕事をしている。まず、NHKの大河ドラマ「勝海舟」は倉本さんが脚本を担当し、主演は渡哲也だった。しかし、渡哲也は病気で倒れ、長期入院する。代役は松方弘樹である。しかし、NHKとのトラブルで嫌気がさした倉本さんは北海道へ逃避する。それが、倉本さんが富良野に移住するきっかけになった。

一方、渡哲也は長期入院している間に「くちなしの花」が大ヒットする。このおかげで「経済的には助かった」と、どこかで渡哲也は話していた。このときの病が癒えて、復帰第一作が「仁義の墓場」だった。そこで無理をしたのか、再び渡哲也は入院した。やがてテレビドラマ「大都会--闘いの日々--」(1976年)で復帰するが、その脚本を書いていたのが倉本さんだった。渡哲也の役名は黒岩刑事。再び深作監督と組んだ「やくざの墓場 くちなしの花」(1976年)の主人公も黒岩刑事だった。

ということで、倉本さんが「やすらぎの郷」の織本順吉の最期の言葉で「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」と言わせたのは、「仁義の墓場」の印象が強かったからではないかと僕は推察した。その言葉を聞いた石坂浩二演じる菊村栄は、やすらぎの郷に帰って高井秀次(藤竜也)と白鳥(上条恒彦)に織本順吉の臨終の様子を話すのだが、「最期に『大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ』と言った。昔の極道の辞世の句だそうだ」と説明していた。

この石川力夫の辞世の句に倉本さんとしては、強い思い入れがあるのかもしれない。僕も機会があれば、死ぬときにこの辞世の句を引用するつもりだった。ただ、僕の場合は何の説明もなく、七十で死ぬのなら「大笑い、七十年の馬鹿騒ぎ」と言うつもりだった。引用ではなく、剽窃。つまり、パクリである。

●石川力夫の自殺から三年後に公開された「暗黒街の顔役」

石川力夫は、戦後すぐに新宿で闇市を開き、「光は新宿から」というフレーズで有名になった和田組マーケットの和田組に属していたやくざである。自分の親分である和田組長を日本刀で襲い、全治一ヶ月の重傷を負わせた。「仁義の墓場」で親分を演じていたのは、ハナ肇だった。狂犬のような石川力夫が現れると、腫れ物にさわるように対応していた。石川は府中刑務所に収監され、やくざ社会からは「関東ところ払い」を食らう。大阪でシャブ中になり、再び東京に戻るが、人を殺して再び刑務所に入る。その刑務所で自殺する。そのときの辞世の句が「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」であり、彼の墓には「仁義」の二文字だけが彫られているという。

石川力夫が自殺したのは、一九五六年二月二日のことだった。戦後の十年間を駆け抜けた極道だった。石川力夫が残した辞世は、当時、有名だったのかもしれない。確かに人殺しの極道が残すには、何だか心に残る辞世の句ではある。三年後のことだが、この辞世の句を映画の中で使ったのは岡本喜八監督だった。「暗黒街の顔役」(1959年)は鶴田浩二のやくざが主人公だが、彼は最後に傷つきながら車を運転して殴り込みに向かう。死を覚悟したそのとき、鶴田浩二は「三十年の馬鹿騒ぎか」と自嘲気味に口にする。

「暗黒街の顔役」には、東宝の役者が勢ぞろいした感がある。三船敏郎は自動車修理工場のオヤジの役だった。平田昭彦も似合わないやくざを演じている。冒頭に金融業者の社長が殺されるシーンがあり、その殺し屋を演じた佐藤充が怖かった。鶴田浩二はやくざで、弟(宝田明)をかばう兄でもある。同じタイトルのハリウッド映画もあり、当時は「暗黒街」や「顔役」という言葉はよく使われていた。しかし、現在、どちらも死語になってしまった。

三船敏郎と鶴田浩二は、ほとんど同じスタッフ・キャストで撮った「暗黒街の対決」(1960年)でも共演しているし、それ以前に稲垣浩監督版「宮本武蔵」(1954年)では、三船が武蔵を演じ、鶴田が佐々木小次郎を演じた。このとき、お通を演じたのが八千草薫だった。このお通役で八千草薫は人気を不動のものにした。「やすらぎの郷」の九条摂子はある監督を「先生」と慕い続けて生きてきた設定だったけれど、八千草薫自身も親子ほど年の離れた谷口千吉監督と生涯をまっとうした。

ところで、石川力夫の辞世の句は、彼の自殺当時(昭和三十一年)、かなり有名になったのだろうか。「暗黒街の顔役」のシナリオを書いたのは関沢新一。東宝で数多くのプログラム・ピクチャーを書いている。彼は印象に残っていた石川力夫の辞世の句を、死を覚悟した主人公の最期のセリフにした。それほど有名だったとすれば、倉本聰さんも同時代の事件として石川力夫の死を知っていたかもしれない。石川力夫が死んだとき、倉本さんは二十一歳、まだ東大生だったが、若かった故にその辞世の句は印象に残ったかもしれない。

2017年9月21日 (木)

■映画と夜と音楽と…787 孤独な老人は猫を飼う



【ブロークン 過去に囚われた男】

●二カ月ぶりの高松で近所の公園に五匹の猫が住み着いていた

七月初旬に千葉の自宅へ戻り、二ヶ月たって再び高松の実家に帰ってきた。四月初旬から三ヶ月ほど高松にいて、その間、毎朝の散歩で近くの神社周辺で暮らしている猫たちと顔見知りになった。中でもキキと名付けた(「魔女の宅急便」の黒猫から名付けたつもりだったけれど、キキは主人公の名前でしたね)黒猫は、僕を見ると近づいてきて「ニャーオ」と鳴く仲になった。彼(彼女かもしれないが)は、黒猫とはいっても毛並みが悪く、近くで見ると少しグレーがかって見えた。病気なのか、ときどき「ゴホッ」と咳をするし、体も小さい。目はグリーンに見えたが、目やにが目立つときもあった。

毎朝、僕が神社の近くにいくと、神社の前の民家のガレージに駐車している車の下で待っていた。僕がじっと立って待っていると、最初は警戒しながら近づいてきた。そんなことが続いて、警戒心は少しずつ薄れていったようだ。あるとき、神社でお参りをして振り向くと、足下にキキがいたことがある。じっと、僕を見上げている。僕のお参りが終わるのを待っていたのだろうか。雨の日は、神社の軒下で待っていた。雨に濡れたみすぼらしい姿で涙を誘う。元々、病気なのか手並みにムラがあり、哀れを誘うところがあった。他にもう一匹、黒猫がいたが、その猫は艶やかな黒い毛並みで視線も凛としていた。

七月初め、自宅へ帰るのでしばらく会えなくなると、何日か前から話していたのだけれど、キキに通じたかどうかはわからない。最後の日には、「元気で待ってろよ」と声をかけたが、心なしか心配そうな顔をしていた気がする。自宅でいる間、キキのことがずっと気になっていた。九月初旬に再び高松に戻ると、翌朝、すぐに神社へいった。顔の真ん中が黒く、僕が「鼻グロ」と名付けた大柄な斑の猫はいた。あの毛並みのよい黒猫もいた。屋根の上でじっとしていたのは、二ヶ月前にはまだ小さかった三毛猫だ。キキとよく一緒にいた。二ヶ月前には見かけなかった茶色の猫もいた。しかし、キキはいなかった。

それから二週間、毎日、早朝、昼間、夜と時間帯を変えて神社とその近辺を歩いているが、キキには出会わない。他にいくところなんかないはずだ。やっぱり死んじゃったのだろうか、と考えると胸の奥が痛くなった。千葉の自宅と高松の実家をいったりきたりの生活だし、ひとり暮らしだから猫を飼うのは無理だと考えて、野良猫と散歩する猫好き老人の関係を保っていたが、やっぱり保護すべきだったのかと後悔する。先日、地方ニュースで香川県がまた犬の殺処分数が日本一になったこと、猫と合わせると全国四位であることが報じられた。まさか、殺処分されたのではあるまいな、とまで考える。しかし、あきらめきれず、毎朝、キキがいた場所を散歩している。

それにしても、実家周辺の猫の動向は激しく変化する。数度見かけただけで、いなくなった猫も多い。二ヶ月前にはいなかったのに、今度帰ってきたら近所の公園に五匹の猫が住み着いていた。茶トラ、キジトラ、三毛、レッサーパンダ風、それに白猫である。まだ、生まれて数ヶ月から半年くらいだと思う。「安易な餌やりが野良猫を増やす」と言われるけれど、誰かが餌皿を置いてキャットフードをやっている。先日、茶トラの子猫が餌をせっせと食べているのを見たら、何だか切なくなってしまった。また、自宅に戻る前に少しなついていた茶トラが近所の田圃の周辺で暮らしているのだが、先日、散歩の途中で出会い「生きてたか」と喜んだ。その後、しばらく僕の跡をついてきて、道の角で前脚を立てた猫座りをした。しばらくして振り返ると、まだじっとこちらを見つめている。たまらなくなった。

●深い孤独の中に生きる老人を癒すのは猫よりほかにいない

七十半ばになったアル・パチーノが主演した「ブロークン 過去に囚われた男」(2014年)の主人公マングルホーンは、出演シーンの半分くらいは子猫を相手にしていた気がする。画面のどこかに子猫がいるか、彼が子猫を抱いているか、子猫に話しかけているのだ。何しろ、猫のレントゲン写真が出てくるし、子猫の手術シーンが詳細に描写される。そこまでやる必要があるの、と思うくらいだった。僕はおもしろく見たが、客が入らないと思われたのか、劇場公開はされなかった。確かに地味で、ちょっと抽象的でわかりにくい作品だけど、老人の孤独は身にしみてよくわかる。ベルイマンの「野いちご」(1957年)のように、老人を主人公にすると人生の深さが描ける気がする。

マングルホーンは小さな鍵屋を営んでいる。車に子供が閉じこめられて呼ばれたり、古い金庫を開けてくれと頼まれると店名を描いたバンで出かけていく。ひとり暮らしで、家に帰るとファニーと名付けた子猫に話しかける。現在の心配はファニーが食べ物を吐き、便をしないことだ。この子猫のエピソードが映画の主要なストーリーになっている。病院でレントゲンを撮ると、飲み込んだ鍵が小腸で詰まり、腸閉塞を起こしているという。念のため別の病院の獣医の意見も聞き、マングルホーンはファニーの手術に同意する。その費用はけっこう高いので、分割での支払いにしてもらう。そして、子猫の手術の様子が詳細に描かれる。

マングルホーンはいつも金曜日に銀行へいく。窓口のドーンという年輩の女性は犬を飼っていて、互いにペットの報告をし合う仲だ。また、ある夜、気分を変えるために出かけたゲームセンターで、マングルホーンはギャリーという男と再会する。ギャリーはマングルホーンを「伝説のコーチ」と呼ぶ。かつてマングルホーンは少年野球のコーチをしていて、ギャリーは今も尊敬しているらしい。ギャリーは日焼け・マッサージサロンを経営していて、ぜひコーチにもきてほしいと名刺を出す。ギャリーの話では、マングルホーンの息子のジェイコブも少年野球チームにいたが、親子は今は疎遠になっているらしい。「ジェイコブは成功したらしいね」とギャリーが言うと、「親はこんなだがな」とマングルホーンは答える。

そのジェイコブのオフィスをマングルホーンは訪ねる。金融関係の仕事をしているらしい息子は、詐欺まがいの口調で取引の電話をしている。父親を高級レストランに連れていくが、つまらないことで親子は言い争いになる。「母さんとは話すかい」とジェイコブが言い、「いや」とマングルホーンは答える。ふたりは離婚したらしい。「妻を愛したことはない」と彼は言う。気まずい気分で息子と別れ、マングルホーンは孫娘と遊ぶ。しかし、子供相手でも気むずかしい老人である。結局、彼が愛情を注ぐのは子猫のファニーだけなのだ。そして、彼は出すあてもなく、クララへの手紙を書き続ける。クララは昔の恋人なのだろうか、彼にとっては「完璧な女性」なのである。

ある日、老人たちの集まりにドーンを誘ったことから、ふたりはデートをする間柄になる。ドーンを演じているのは、「ピアノ・レッスン」(1993年)のホリー・ハンターだ。彼女は人生を肯定的に生きている女性で、毎朝、新鮮な気持ちで新しい日を迎えているという。「友だちは人生を豊かにしてくれる宝よ」と、ポジティブな生き方をしている。そのドーンにマングルホーンは、「自分のボートにファニーを抱いて乗り、海の彼方に消えていくのが夢だ」と語る。ネガティブな夢である。偏屈で、短気で、根暗な老人を、しわがれ声のアル・パチーノが迫真の存在感で見せる。過去を振り返ることでしか幸福感を得られず、老いた先の死を待ち望む日々。その孤独は深い。彼の孤独を救うのは、猫だけである。

●非情な警部も猫を相手にしたときには「猫なで声」を出していた

孤独な老人には猫が似合う。彼の孤独を救えるのは、猫だけしかいない。ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「仁義」(1970年)でヴールヴィルが演じた初老の警部は、数匹の猫を飼っていた。誰もいないアパルトマンに帰って彼が最初にやることは、猫たちに餌を与えることである。アパルトマンの中で、捜査で何日も帰ってこない警部を猫たちはおとなしく待っているのだ。彼は一匹一匹の名前を呼びながら餌皿に餌を出し、水の器に新しい水を満たす。護送の途中で逃げられた犯罪者を探し出すために、堅気になっていた昔の仲間の息子を薬物保持容疑で逮捕し、息子の刑期を取引材料として密告を促すという卑劣な手段を用いる非情な警部も、猫を相手にしたときには「猫なで声」を出していた。

第二次大戦が終わって間もないアメリカ。日系移民が多く住む島で弁護士を開業するマックス・フォン・シドーは、漁業を営む日系移民の男が殺人罪で起訴された事件を引き受ける。島の白人たちは日系人に対する偏見を抱いたままだし、まだ十年前にしかならないパール・ハーバーへの攻撃を忘れていない。日本人は敵であり、日系人たちは感情のわからない不気味な存在なのだ。そんな中で、マックス・フォン・シドーは日系人青年の弁護を引き受ける。人種偏見が判決を左右してはならないと、彼は力説する。弁護のために様々な資料を読み込む。そんな彼のデスクの上をアメリカン・ショートヘアの子猫が歩く。資料読みの邪魔をする子猫を、マックス・フォン・シドーは愛おしそうになでる。「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)の中の最も心暖まるシーンだ。

老人とは言えないが、孤独であることは共通している「ロング・グッドバイ」(1973年)のフィリップ・マーロウ(エリオット・グールド)も猫によって救われている。原作者のレイモンド・チャンドラーが愛猫家だった(タキという黒猫を抱いた写真が残っている)ので、脚本家が原作にはない猫を登場させたのではないかと川本三郎さんは書いていた。マーロウは夜中に猫の餌を切らして買いにいく。いつものキャットフードがない。仕方なく別のものを買い、いつもの缶に入れ替えて猫に与えるが、猫は食べない。最初に見たときは笑ったが、今なら猫が食べないのは当然だとわかる。猫はキャットフードのラベルを見て食べるのではなく、匂いでわかるのだ。いつもと違う餌は食べないだろう。その猫が、友人に裏切られたマーロウの心を癒す。

ところで、今朝、散歩の途中、キキとよく一緒にいた小さな三毛猫と出会った。高松に戻って、何回か民家の屋根に寝そべっているのを見かけたが、路上で出会うのは初めてだった。僕が彼(彼女かもしれないが)の前に身を屈めると、三毛は見上げて「ニャーオ」と鳴いた。間違いなく、僕のことを憶えていた。しかし、その後、威嚇するように牙を剥いた。甘えているのではない。怒っているのかもしれない。三毛が、もう一度、「ミャーオ」と鳴いた。「おまえが勝手にいなくなったから、キキは死んでしまったじゃないか」と、責められている気がした。

2017年9月14日 (木)

■映画と夜と音楽と…786 権力者はメディアを嫌う



【大統領の陰謀/ニュースの真相】

●権力者は裸の王様になることが最も愚かであると僕は教えられたが----

加計学園問題で「行政がゆがめられた」と前文部科学省事務次官の前川さんが新聞で証言すると、すぐに読売新聞が前川さんが事務次官時代に出会い系バーに通っていたということを大きく報じた。これは、後に前川さんが現役時代に警察官僚あがりの自民党代議士を通じて注意されたことがあると証言し、官邸から情報が出たと推察されることになる。

読売新聞(かつて滝田ゆうは読捨新聞と称した)の記事の後、官房長官は記者会見で「文科省の天下り問題で責任をとって辞めるべきときに、地位に恋々としていたような人」と、前川さんに対する人格攻撃をした。人格攻撃をして「胡散臭い人」のイメージを植え付け、「そんな人の言うことは信用できない」という印象操作(首相が××のひとつ覚えのように口にした)を狙ったのだ。権力がひとりの人間をつぶそうとした露骨な行為だった。

そんな露骨な権力の意図が成功したのが、沖縄返還を巡る日米の秘密協定をスクープした毎日新聞の「西山記者事件」だった。沖縄返還に伴い発生する莫大な経費を日本が肩代わりするという、日米の密約を証明する資料を毎日新聞の西山記者が入手し、野党議員にリークした事件である。政府はその資料の存在を認めたが、その入手方法に問題があるとした。

西山記者が外務省の女性事務官と「情を通じ」(当時、そう表現したと記憶している)不正に入手したもので、公務員法違反などで起訴したのだった。当時、僕は二十代だったが、あのときの手のひらを返すような世間の反応をよく記憶している。世紀のスクープがいつの間にか男女の痴情事件に変わり、日米の密約のことはどこかへ消えてしまった。日米の密約こそが問題だったんじゃないか、と僕はいきまいたものだった。

西山事件のときの宰相は佐藤栄作だった。現首相の祖父の弟である。現首相もメディアを選別し、自分に批判的なメディアを攻撃し、ときには総務省の放送行政を通じてテレビ局へ圧力をかけたりするが、佐藤栄作もメディアを選別した。露骨にメディアの選別を実行した最初の宰相かもしれない。彼は長期政権を終えるとき、記者会見場から新聞記者たちを追い出し、テレビカメラだけを残させたのだ。

新聞は自分の言葉を正確に伝えないが、テレビカメラは自分が話すことをストレートに国民に伝えてくれるからというのがその理由だった。現在、アメリカのトランプ大統領が自分に批判的なメディアを「フェイクニュースだ」として選別し、自分に迎合的なメディアを優遇しているけれど、日本の首相だって同じだったのだ。トランプと違い、日本の現首相はもっと巧妙にメディア選別、メディア・コントロールをやっている。メディア側が自主規制する形で、政権に迎合しているのだ。

要するに、権力者は自分が批判されることが嫌いなのである。僕は、少年の頃、権力者は裸の王様になることが最も愚かであると教えられた。そのためには、周囲にイエスマンを配置してはならない。「王様は裸だ」と指摘してくれる人材を置かねばならない。それが、人の上に立つ人間の度量である。そう学んだ。だから、自分に批判的なものには、謙虚に耳を傾けなければならない。一国の首相であるなら批判的なメディアをこそ歓迎し、自分の政策や方針に迎合的であったり、提灯持ち的なメディアを喜んでいるのは意味がない。

しかし、そう考える権力者は見たことがない。現首相は選挙の応援演説で批判的な人たちに向かって、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言った。テレビのワイドショーのコメンテーターも、現政権の露骨な提灯持ちジャーナリストばかりが目立つ。これは、テレビ局側の配慮なのだろう。政権に睨まれて放送免許を取り消されたら、元も子もないのだ。現場だって、忖度する。

●アメリカのジャーナリズムは日本よりはましだと思っていたけれど---

アメリカのジャーナリズムは、日本よりはましだと思っていた。ジャーナリズムは、権力のチェックが使命である。権力は堕落する。これは間違いない。常に厳しい批判にさらされることで、その堕落を少しは防ぐことができるのだ。「大統領の陰謀」(1976年)などを見ると、アメリカのジャーナリズムの気骨に感心する。しかし、「ニュースの真相」(2015年)を見ると、権力とメディアの関係は日本とそう変わらない気がしてきた。

テレビ局の経営者は、ニュースの真相よりはテレビ局の利益と存続を優先するし、政界との結びつきもある。彼らは、ニュース番組の現場スタッフの真相を突き詰める熱意を削ごうとすることもある。現場への圧力だ。テレビ局にしろ、新聞社にしろ、営利企業である限り、それは起こる。

「60ミニッツ」というニュース番組は、アメリカ三大ネットワークのひとつであるCBSの看板番組である。長年、そのキャスターを務めたダン・ラザーは、アメリカで最も信頼される人物のひとりだった。「ニュースの真相」では、そのダン・ラザーをロバート・レッドフォードが演じている。説得力のある話し方、落ち着いた雰囲気、包容力を感じさせる物腰、深い知識と教養、レッドフォードがアメリカで最も信頼されたキャスターを存在感たっぷりに見せる。

ヒロインはプロデューサーのメアリー・メイブス。ケイト・ブランシェットが演じている。原作はメアリー・メイブスの手記であり、実際の出来事を描いている。そう思って見ると、この映画を作ったことが、アメリカの自由度を表している気がする。元大統領のスキャンダルである。存命の人も多い。まだいろいろ差し支えがあるはずだ。日本で同じテーマで制作することは無理だろう。

二〇〇四年、ジョージ・ブッシュが二期目の大統領選挙を戦っているときである。メアリー・メイブスはブッシュがベトナム戦争への派遣を逃れるために、コネを使って州兵のパイロットになり、さらにその期間中、特別に基地の勤務を免れていたという情報を得る。調査チームは、軍関係に強いチャールズ中佐(デニス・クエイド)、ジャーナリズムについて大学で教えていたルーシー、それにダン・ラザーに憧れてジャーナリストになったマイクである。

彼らの調査が始まり、ブッシュの軍歴について次第に明らかになる。テキサスの石油関係の重要人物に頼まれてブッシュの息子ジョージ(現大統領)を州の軍隊に入れたという議員のインタビューもとれる。そして、ブッシュが特別に基地での勤務を免除されていたことを示す文書を持っている元軍人が現れる。

しかし、その文書はオリジナルではなくコピーだった。そのコピーの真贋の鑑定を数人の専門家に依頼する。結果は半数の専門家が本物と判定し、半数がオリジナルではないので真贋の判定は不能という結果になる。また、メアリーはサインの筆跡鑑定を依頼し、本物との報告を受ける。そして、ダン・ラザーと共に上層部を説得し、放送に踏み切るのだ。

しかし、放送直後、ブッシュ陣営を支持するブログで文書に対する疑問を呈せられる。その文書が書かれた時代には存在しないフォントが使われているというのだ。その文書はワードによって作成されたもので、その時代にはワードは存在していない、したがって偽物だという告発だった。そこから、他のメディアによる告発も始まる。まるで、従軍慰安婦問題で朝日新聞が取材源の曖昧さを認めた後に起こった、朝日新聞バッシングを見ているようだった。

●ひとつの瑕疵を追求し本質の問題をすりかえるのが権力の手口

メアリーは次第に窮地に追い込まれていく。しかし、ダン・ラザーは揺るがない。メアリーへの信頼が、彼を迷わせないのだ。だが、文書を提供した中佐が入手経路を告白し、にわかに文書に対する信頼性が薄らいでいく。やがて、CBSは文書が偽物である可能性は否定できないという結論を出し、ダン・ラザーに番組中に詫びさせる。

ダン・ラザーは長く務めた「60ミニッツ」のキャスターを降板する。また、メアリーたちはCBSが依頼した外部の調査委員会による調査を受ける身になる。そのメンバーは保守系の人物が多く、番組は反共和党・反ブッシュに偏向していたのではないかという査問のようになる。メアリーの政治的ポジションも、過去にわたって調べ上げられる。

メアリーは捕虜になったイラク兵たちへの拷問があったことをスクープしたり、メディアとして反権力を貫いてきたプロデューサーだ。その過去の仕事が政権からは煙たがられ、憎まれていたのだろう。ここぞとばかりにバッシングを受ける。他のメディアも、彼女のスキャンダルを暴こうとする。この辺は、どこの国でも同じだなあと思う。溺れる人間に石を投げ、首吊りの足を引っ張るのだ。

メアリーは調査委員会に招聘されることになり、ダン・ラザーに紹介された弁護士に相談する。弁護士は「委員会に反論をするな」とアドバイスするが、結局、彼女は委員会メンバーの理不尽さに耐えられず、自説を展開する。ニュースの内容はおおむね真実だが、ひとつの文書の真贋が不確実だからと言って、ブッシュの軍歴に対する疑念までがなかったことになるのは納得いかないと----。こういう強いヒロインを演じると、ケイト・ブランシェットははまる。

メアリーのジャーナリストとしての信念は「質問しなければ、何もわからない」である。つまり「質問することで真実に近づける」と、彼女は思っているのだ。質問することが、ジャーナリストの仕事だと信じている。権力者たちは、質問されることを嫌う。一方的な発表だけで、すまそうとする。日本の官房長官の定例記者会見を見ていてもそうだ。

今年、その官房長官の定例会見で異変が起こった。東京新聞の女性記者の鋭く執拗な質問に、官房長官がタジタジになった。彼女が質問するのは、ジャーナリストとして当然のことだ。しかし、その女性記者は政権に嫌われ、先日の新聞によると政府が東京新聞に「不適切な質問があった」として抗議したという。いつもの現政権のやり方だな、と僕は思った。

首相を筆頭に、メディアへの抗議・攻撃・恫喝を繰り返してきたのが現政権だ。経営者に圧力をかけ、現場に自主規制を強いる。現場が政権の意向や経営者の考えを忖度し始めたらメディアは終わりだが、現場で働く人の多くはジャーナリストである前に勤め人である。我が身が大事だし、長いものには巻かれる。「ニュースの真相」を見ると、そこはアメリカでも基本的には変わらないらしい。

2017年9月 7日 (木)

■映画と夜と音楽と…785 密告者の悲哀



【トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/黒い牡牛/スパルタカス】

●ジョン・ウェインとロナルド・レーガンはゴリゴリのタカ派だった

ジョン・フォード監督作品に出演したジョン・ウェインはすばらしい。アトランダムに挙げても「捜索者」「黄色いリボン」「静かなる男」があり、「リバティ・バランスを射った男」は何度見ても泣く。また、ハワード・ホークス監督と組んだものには、「赤い河」「リボ・ブラボー」などがある。

ジョン・ウェインが六十を過ぎて初めて「勇気ある追跡」でアカデミー主演男優賞を獲得したとき、僕は我がことのように喜んだものだった。ガンに冒された体をおして出演した遺作「ラスト・シューティスト」は、ドン・シーゲル監督らしい作品で僕はとても好きだった。

ただ、ジョン・ウェインの政治的立場は好きではなかった。今生きていたら、彼はおそらくトランプ大統領を絶賛しているだろう。選挙応援も買って出たのではあるまいか。トランプ大統領はロナルド・レーガン大統領を尊敬しており、彼が行った政策をなぞろうとしているらしい。

ジョン・ウェインとロナルド・レーガンは、ハリウッドの俳優たちの中でも極端なタカ派でゴリゴリの共和党支持者だった。レーガンは二流の主演俳優だったが、ジョン・ウェインはアメリカを代表する大スターだった。高校生の頃、ジョン・ウェインが監督主演した「グリーンベレー」(1968年)を見にいった。ベトナム戦争真っ盛りのときに、「アメリカの正義」を謳いあげた時代錯誤としか思えない反共映画だった。

「グリーンベレー」では、ベトコンたちは雲霞のように押し寄せるエイリアンと同じ扱いだった。三角の傘をかぶり、アメリカ人から見ると無表情で不気味な東洋人の顔をしていて、殺しても殺しても押し寄せてきた。アメリカ兵たちは、アメリカに従順であるベトナムの善良な農民たちを救い、教え導き、自由の国を築こうとしているのだった。

ベトナム戦争に批判的なキャラクターとして、「逃亡者」で人気者になったデビッド・ジャンセンがリベラルなジャーナリストとして登場するが、彼はベトナムで戦うアメリカ兵たちの現実と英雄的行動を知ってタカ派に転向する。東洋の果てのようなベトナムの内戦に、アメリカが介入する大義を見出すのである。

ジョン・ウェインは、アメリカの英雄だった。白人で、男らしくて、豪放磊落。アメリカが世界で一番偉大な国だと思っている白人労働者たちの理想だった。トランプ大統領および彼を熱烈に支持する人々が夢見る「アメリカ男」の典型だった。(映画の中では)彼は勇敢で、死を怖れず、何より男の誇りを大切にした。

「コレヒドール戦記」(1945年)では、卑怯なジャップどもに負けてフィリピンを撤退しなければならなかったが、必ず帰ってきてジャップにめにもの見せてやると誓い、「硫黄島の砂」(1949年)では双方に多大な犠牲を出した硫黄島の戦いでジャップを殺しまくり、アメリカを勝利に導いた。擦鉢山に星条旗をたてる兵士たちは、太平洋戦争の勝利の象徴だった。しかし、ジョン・ウェインには従軍経験はなかった。彼が撃つのは、常に空砲だった。

●ダルトン・トランボの赤狩りに対する戦いを描いた作品

第二次大戦が終わると同時に、東西対立が始まった。ソ連はアメリカの敵国になり、アメリカに暮らす共産主義者は「アメリカ的なよきものに対する裏切り者」だった。共産主義者は弾劾され、排斥された。一九四七年、戦争終結から二年足らずのとき、ハリウッドでも共産主義者狩りが始まった。レッドパージである。

プロデューサーや監督、シナリオライターなど十九人の人々が、下院の非米活動委員会に召還されるという噂がハリウッドを覆った。そんな頃、ハリウッド一ギャラの高いシナリオライターであるダルトン・トランボは、仲間たちと「合衆国憲法修正第一条」についてのパンフを制作し、タカ派である「アメリカの理想を守る映画人同盟」の集会で配布しようとする。

「合衆国憲法修正第一条」とは、「思想信条および言論の自由、結社の自由」を保障するものである。つまり「国民が頭の中で考えることを、国家が裁くことはできない」とダルトン・トランボたちは主張し、「政府による公聴会に召還される義務はない」ことを訴えようとしたのだ。そのトランボたちの集まりに自宅を提供したのは、有名な俳優のエドワード・G・ロビンソンだった。

しかし、タカ派の「映画人同盟」議長ジョン・ウェインはロナルド・レーガンと組み、ハリウッドの共産主義者およびリベラリストたちを首にし仕事を奪おうとする。そこに、ハリウッド・ネタで人気のゴシップライターであるヘッダ・ホッパーが加わる。彼女は読者への影響力をバックに映画会社のボスを脅し、リベラルな人々の首を切らせる。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」(2015年)は、ダルトン・トランボの赤狩りに対する戦いを描いた作品だった。「ハリウッドに最も嫌われた男」というサブタイトルは見当外れで、「ハリウッドのブラックリストを終わらせた男」とつけるべきだろうが、「赤狩り」時代を知らない人には「ブラックリスト」がよくわからない。

共産主義者およびシンパ、さらにリベラルと目された人々がブラックリストに載り、不当に仕事を奪われ、生活を破壊され、中には自殺に追い込まれたのが、集団ヒステリーともいうべき「赤狩り」の時代だった。そして、「アカども」を憎み、彼らの仕事を奪ったひとりがジョン・ウェインだったことを、この映画では明確に描いている。この映画を見る限り、ジョン・ウェインはイヤな奴だ。

集会でパンフを配ろうとしたトランボとウェインは対立する。そのとき、トランボは「きみは自分が勝ったように戦争の勝利を誇るが、私は従軍した。きみの従軍地を言ってみたまえ。映画で撃つのは空砲だけだ」とウェインを挑発する。ウェインが怒り「何が言いたい」と身を乗り出すと、トランボは「殴るのならメガネを取る」とメガネを外して顔を突き出す。

また、その後のシーンでは、エドワード・G・ロビンソンへの仕事を妨害し、彼が音を挙げるのを待って公聴会で友を裏切る証言をさせ、その褒美のように「これからは仕事が殺到する」と高見から言うジョン・ウェインが登場する。そのときのエドワード・G・ロビンソン(本人によく似せていた)の表情が悲しい。密告者の悲哀がにじみ出す。

エドワード・G・ロビンソンは、公聴会で証言を拒否して議会侮辱罪に問われたハリウッド・テン(主にシナリオライターたち十人)の裁判闘争支援のためにカンパを募り、自らはゴッホの絵(彼は世界的な美術コレクターとして有名だった)を売って多額な資金援助をする。彼はトランボに「最高裁判事を買収するのならモネを売る」とジョーク混じりで口にする。

それほど、トランボたちを支援していたロビンソンったが、ジョン・ウェインやロナルド・レーガンたちの卑劣な妨害によって仕事を干され、公聴会で「共産主義者の知人」たちの名を告白してしまうのだ。「赤狩り」の時代が人々を傷つけたのは、権力が個人に裏切りを強要し、自分の破滅か、友人たちの破滅かを選ばせたことである。ジョン・ウェインたちは、その権力側だったのだ。

●十年以上たってハリウッドのブラックリストは有名無実化していく

ダルトン・トランボが「ローマの休日」(1952年)のシナリオを書いたことは、今ではかなり知られている。トランボの死後、遺族の元に「ローマの休日」で受賞したアカデミー原案賞が贈られた。一九九三年、「ローマの休日」公開から四十年後のことである。

トランボはハリウッドのリベラルな人々の名を載せたブラックリストによって仕事ができなくなって以後、変名でシナリオを書くしかなかったのである。彼は「ローマの休日」を書き、友人のシナリオライター(彼も後にブラックリストに載る)の名前で映画会社に売り込む。また、B級映画ばかり製作していたキング兄弟の会社で、様々な名前を使って数え切れないシナリオを書いた。一本のギャラが安かったから、数多く書くしかなかったのだ。

やがて、トランボたちが別名で書いていることを察したジョン・ウェインやヘッダ・ホッパーたちは、「彼らを雇うと、俳優たちに仕事をボイコットさせ、映画が作れなくしてやる」とキング兄弟を脅しにくる。そのときの兄のフランク(ジョン・グッドマン)の対応が痛快だ。

弁護士然とした連盟の男を、フランクはバットを振るって叩き出す。「俺たちの映画は、俳優なんて素人でもいいんだ。新聞に書くなら書け。俺たちの客は新聞を読まん」と怒鳴りながら----。そこへ、トランボが「黒い牡牛」のシナリオを持って現れる。そして、公開された「黒い牡牛」(1956年)はアカデミーのオリジナル・ストーリー賞を受賞する。しかし、作者とされたロバート・リッチは授賞式の壇上に現れなかった。

トランボたちが仕事を奪われて十数年が過ぎた頃、トランボを訪ねて人気俳優のカーク・ダグラスがやってくる。後に彼の代表作になる「スパルタカス」(1960年)のシナリオの依頼だった。同じ頃、ドイツ人でヒット作を連発しているオットー・プレミンジャー監督も、ポール・ニューマン主演を予定している「栄光への脱出」(1960年)のシナリオ執筆をオファーしてくる。オットーは第一稿を読んで、「この程度のレベルなら実名でクレジットするぞ。責任をとらせるんだ」と、苦虫をかみつぶした顔で言う。そんな言い方で、トランボを支援しているのだ。

ブラックリストに載っている人物を雇うと、映画製作を妨害され、チケットの不買運動が起こると脅されていた時代、そんなことをまったく怖れないオットー・プレミンジャーの存在は珍しい。一方、カーク・ダグラスは共同プロデューサーから「トランボをおろせ」と言われ、ヘッダ・ホッパーからも露骨な脅しを受ける。

しかし、「だったら俺は外れる。撮りなおせ」と言ってカーク・ダグラスは試写室を後にする。完成した「スバルタカス」を見たケネディ大統領は、「すばらしい映画だ。大ヒットするだろう」と絶賛する。何しろ、鬼才スタンリー・キューブリック監督が演出した作品なのだ。

「スパルタカス」「栄光への脱出」には、堂々とダルトン・トランボの名前がクレジットされた。それによって、ハリウッドのブラックリストは有名無実化していく。やがて、エイブラハム・ポロンスキーが自らの脚本で「夕陽に向かって走れ」(1969年)を監督し、六〇年代からは本名で書けるようになったトランボも自らの小説を脚色し監督した「ジョニーは戦場へ行った」(1971年)が公開され、話題になる。その前年、リング・ラードナー・Jrが脚本を担当した「M★A★S★H」(1970年)がヒットした。彼らは、レッドパージを受けた代表的な人たちだった。それらの映画が公開された頃のことは、僕も鮮明に憶えている。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」は、一九七〇年になり、シナリオ協会の賞をもらったトランボが壇上で挨拶するシーンで終わる。彼の挨拶を聞いている招待客の中には、年老いたエドワード・G・ロビンソンがいる。彼は複雑な表情だ。「あの不幸な時代。誰もが傷ついた」とトランボが言う。最も傷ついたのは、自己の破滅か、友人の破滅かを権力に迫られ、友人の名を明かすことで裏切らざるを得なかった、エドワード・G・ロビンソンのような人たちなのかもしれない。

エドワード・G・ロビンソンは数年後、ガンに冒された病床でアカデミー名誉賞の受賞を聞き、この世を去った。トランボはそれより六年長く生き、一九七九年、七十三歳で亡くなった。トランボが亡くなる三ヶ月前、ジョン・ウェインはガンのため七十二歳で死んでいた。トランボとウェインは二十世紀のアメリカで、ほとんど同じ時間を生きたが、まったく異なる生き方を選んだ。

2017年8月31日 (木)

■映画と夜と音楽と…784 西川作品にまつわる××について



【蛇イチゴ/ゆれる/ディア・ドクター/夢売るふたり/永い言い訳】

●女性監督が活躍する日本映画界の中でもトップランナーか

三回、夏休みで「映画と夜と音楽と----」を休載した。今回から再開するのだけれど、これで十九年目に入ることになる。メルマガ「日刊デジタルクリエイターズ」に毎週、映画コラムを書き始めたのが一九九九年の八月下旬だった。「日刊デジタルクリエイターズ」の夏休み明けからのスタートだったのである。最初は「デジクリトーク」として始まったが、途中からタイトルを「映画と夜と音楽と----」に変えた。「あなたと夜と音楽と----」をモジっているのだが、大した意味はない。また、数年前にメルマガ連載をやめて、自分のブログで書き続けることにした。それにしても、丸十八年間を書き続けてきたのかと思うと、ちょっと感慨深いものがある。何しろスタートしたのは二十世紀だったし、僕もまだ四十代だったのだ。

夏休みの間に読んだ本の一冊に、西川美和監督の「映画にまつわるxについて2」がある。西川監督は数年に一本しか作らない(作れない)ので、本編としては「蛇イチゴ」(2003年)「ゆれる」(2006年)「ディア・ドクター」(2009年)「夢売るふたり」(2012年)「永い言い訳」(2016年)の五本しかない。西川監督の新作が公開されると僕は必ず見ているわけだから、たぶん作品を評価しているのだろうけれど、好きな監督かというと何となく違う気がする。たとえば、同世代の女性監督としては、「かもめ食堂」(2006年)の荻上直子監督(1972年生まれ)、「百万円と苦虫女」(2008年)のタナダユキ監督(1975年生まれ)の作風については僕は明確に好きだと言えるのだが、西川美和監督(1974年生まれ)の作品については、単純に「好きな映画」と言いにくいのだ。

西川監督作品はどれも評価が高く、いろいろな映画賞も受賞している。キネマ旬報ベストテンに入る作品ばかりだ。「ゆれる」は二位だったし、「ディア・ドクター」は一位だった。それに、自ら脚本を書くので、脚本での受賞も多い。それを小説化すると、三島由紀夫賞の候補になったりする。初めて先に小説として書いた「永い言い訳」は直木賞候補作品となり、それを自ら脚本にして映画化する形になった。今のところ小説作品だけである「その日東京駅五時二十五分発」は、広島出身の彼女が書かずにいられなかったのだろうが、文学の世界で高い評価を受けている。才媛である。うらやましいほどの才能だ。

誤解しないように念を押しておくと、僕も西川監督作品は高く評価しているし、新作を楽しみにしている。公開されると必ず見る。しかし、どこかに微妙な違和感のようなものを感じるのだ。雨上がり決死隊の宮迫が主演した「蛇イチゴ」以来、その微妙な何かが僕をして「西川監督作品が好きだ」と断言させないのである。それは、いったい何なのだろう、と永く思ってきたが、エッセイ集「映画にまつわるxについて2」を読んで、何となくわかった気がした。この本は「永い言い訳」を発想し、小説を書き、それを映画化していく数年間を、自らが赤裸々(ここまで書いていいのかなと思うくらい)に明かす、文字によるメイキング(製作舞台裏)の公開だった。映像によるメイキングと違って、監督のメンタルな部分が明かされているのが、とてもおもしろい。

それで、僕が何を納得したかというと、「この人は非常に頭がいい」ということだった。文章は明晰で、自己についても謙虚や自惚れとはまったく異なるレベルで客観的であり、分析力は確かで、必要なら己の生活や過去の失敗などを明かすことができ、それを無理に茶化して道化を演じることもない。たぶん優等生だったのだろうと思ったら、僕が二度失敗した早稲田大学第一文学部の出身だった。エッセイの中で、大学生の時にカメラマンのアシスタントをしていたと書いていたので、てっきり日芸写真学科とか専門学校かと思っていたのだ。僕は早稲田一文出身者には無前提的に降伏することにしているので(会社員時代に信頼していたスタッフふたりは、共に早稲田一文出身だった)、そのエッセイを読んで感心してしまったのだった。

●是枝裕和監督は入社試験の面接で彼女の才能を見抜いたのか?

これは西川監督自身も書いていることだが、彼女は映像制作関係の仕事を志望して、いくつかの会社を受けた。そのひとつがテレビマンユニオンであり、その入社試験の面接官が今や日本を代表する監督になった是枝裕和さんだった。テレビマンユニオンの試験は落ちだが、是枝監督から「フリーでいいのなら仕事をしないか」と電話があり、是枝監督や諏訪敦彦監督などの現場を経験する。是枝監督作品では監督助手的なポジションとして、監督がオッケーを出したシーンにダメ出しをしたりする役だったという。二十代半ばでそんな得難い経験をし、是枝監督の勧めもあり、二十八歳で脚本監督を務めた「蛇イチゴ」(制作は是枝監督)でデビューし、新人監督に与えられる栄誉や賞をほとんど獲得した。

もちろん、西川監督本人の才能と実力(二十八歳で大勢のスタッフを指揮するのは力業だと思う)があったのは間違いないが、是枝監督がそれを見抜いたことを凄いと僕は思ってしまう。是枝監督は、二十三歳の就職志望の女子大生の中に何を見いだしたのだろう。「こいつは才能があるぞ」と確信したのだろうか。出版社に勤めていた頃、僕はリクルート担当者として多くの面接を経験した。数え切れない若者たちを見た。最終的には面接官たちの討議によって合格者が決まるのだが、その討議は常に紛糾した。全員が一致して推すことはほとんどなく、面接官によって推薦者はバラバラだった。僕が推した人の中にも、その後、あまり活躍しなかったり、編集者として不向きだったりという人物はいた。そんな時、面接官たちは「人を見るのはむずかしいな」と嘆きあったものだ。

昔の映画会社では監督の元に数人の助監督が付き、その中から監督に育つ人が出てくる。たとえば、木下恵介監督門下では小林正樹監督、吉田喜重監督、勅使河原宏監督、脚本家の山田太一さんなどがいる。しかし、現在の映画界の状況で、是枝監督と西川監督のような師弟関係は珍しい。西川監督はエッセイ集の中で是枝監督を「師匠」と書いているし、二十代半ばの自分を是枝監督は助手として常に身近に置いていたことで、自分が「マスコット的存在」あるいは「愛人」として見られていたのではないかとさえ書いている。気負いも衒いもなく、そうすんなり書けるのが凄いなあ、とまた感心してしまう。自身を冷静に分析し、客観的に見ることは、なかなかできることではない。

ということから、僕が西川監督作品に感じる「かすかな違和感のような何か」が何となく僕にはわかってきたのだ。つまり、それは「西川監督作品が理知的過ぎるのではないか」ということだった。もっと、くだけた言い方をすると「西川美和監督作品には、どこか理屈っぽさを感じる」のである。それは、もしかしたら西川監督が自身の発想(自分が見た夢が元だったりするという)を徹底的に分析し、膨らませ、集中して脚本化(小説化)し、すべての登場人物の生い立ちまで作り上げ、完全な世界を構築した上で映像化しているからかもしれない。現場で演出をするとき、彼女の中には、ひとつの世界が完成しているのだ。すべての登場人物は、生まれてからそのシーンに登場するまでの人生が把握されているのである。

しかし、それは、ある種の不完全さが醸し出す、曖昧さやゆるさを許さないのではないか。「蛇イチゴ」の賽銭泥棒で暮らしている行方不明だったやくざな長男が、自分の祖父の葬儀にぶつかり家族と再会してしまうという設定には、ナンセンスでバカバカしいおかしさがあるし、「ディア・ドクター」の過疎の村の偽医者に心酔する若い医者という設定にも、同じようにナンセンス喜劇の要素がある。「夢売るふたり」での焼けた店を再建するために、夫婦で結婚詐欺を始めるという設定も同じである。それを喜劇にすることも可能だけれど、どちらかと言えば西川監督は、そんなブラックな喜劇的設定からシリアスな方向にいくことが多い。ユーモアはあるのだけれど、作品としては「笑えない」方向にいくのだ。そこには、人間に対する冷徹な(見方によっては意地悪な)視線がある。

●西川監督は「嘘」を物語を進める原動力としてきたが---

高く評価された二作目「ゆれる」は、笑える要素などまったくないシリアスな作品だった。その作品からは、キリキリと見る者に強く迫るものをぼくは感じた。見るのが、つらくなったのだ。田舎で暮らす兄(香川照之)と都会で派手な生活を送る売れっ子カメラマンの弟(オダギリジョー)。兄が好きだった女(真木よう子)を気まぐれのように抱いて棄て都会に出た弟。その女を自分が営むガソリンスタントで雇い、ずっと保護してきた兄。ある日、弟が母親の一周忌で帰ってくる。ガソリンスタンドで昔の女と出会った弟は、その夜に女と再び関係を持つ。翌日、兄弟と女は吊り橋のある渓谷にいく。女は弟と一緒に東京へいくと言い出す。弟が写真を撮っていると、兄と女が吊り橋の上にいる。そして、女が落ちる----。兄は、女を突き落としたのだろうか。そんな物語である。

僕が最初に見た西川監督作品が「ゆれる」だった。映画を見て、理解できない何かが残った。それを知りたくて、僕は小説化された「ゆれる」を買った。カバーは吊り橋の写真である。しかし、小説は映画とはまったく異なるものだった。第一章は「早川猛のかたり」となっていて弟の一人称、第二章は「川端智恵子のかたり」で吊り橋から落ちて死ぬヒロインの一人称、第三章は「早川勇のかたり」で兄弟の父親の一人称、第四章は「早川修のかたり」で兄弟の伯父の一人称、第五章で再び「早川猛のかたり」で弟の一人称に戻り、第六章で「早川稔のかたり」で初めて兄の一人称になる。第七章で「早川猛のかたり」になり、物語はクライマックスを迎える。そして、エピローグ的に第八章「岡島洋平のかたり」で兄弟を等しく見る人間の視点を提出する。実に巧妙に設計された小説だった。

映画「ゆれる」と小説「ゆれる」は、まったく別のものである。同じ主題が展開されていても、まるで違う解釈が生まれる。やっぱり、西川美和はただ者ではない、という思いが強くなった。そして、小説「永い言い訳」が出版されたとき、僕はそれを手に取ったのだった。その書き方も、不思議な構成になっていた。それを映像化するときには、逆にシンプルにせざるを得ない。だから、映画化された「永い言い訳」の方がずっとわかりやすくなっている。そして、「映画にまつわるxについて2」を読むと、監督は手の内をすべて晒している。そのうえで、僕は映画化された「永い言い訳」を見た。そして、今まで西川作品に感じていた「違和感のようなもの」が薄まっているのに気づいた。

「永い言い訳」は、二十年連れ添った妻が友人とバス旅行に出て事故で死んだとき、妻の留守に女性編集者と自宅でセックスしていた小説家の物語である。主人公の衣笠幸夫(本木雅弘)は売れている小説家だが、本名が有名な野球選手と同じなのでペンネームにしている。二十年連れ添った美容師の妻(深津絵里)は、結婚以来ずっと「サチオくん」と呼んでいて、そのことにサチオは苛立つ。妻に髪をカットしてもらいながら、「編集者がきたときくらいは、サチオくんと呼ぶのをやめてほしい」と言う。その後、妻が親友とバス旅行に出かけると、サチオはすぐに愛人を自宅に招き入れる。ふたりは、夫婦のベッドでセックスする。翌朝、ふたりがソファで睦みあっていると、妻が事故で死んだと警察から連絡が入る。

旅行会社が開いた遺族への説明会で、サチオは感情をむき出しにして「妻を返してくれよ」と叫ぶ男と出会う。一緒に死んだ妻の親友の夫で、トラック運転手の陽一(竹原ピストル)である。彼には小学六年生の息子と就学前の娘がいる。彼らをフランス料理屋に招待したサチオだが、娘が甲殻類アレルギーで大騒ぎになり、陽一は娘を連れて病院へ走る。息子を預かったサチオは彼らのマンションにいき、息子が母親の死で中学受験をあきらめたことを知る。娘と帰ってきた陽一にサチオは「彼はあきらめきれてないよ」と言い、仕事で留守が多い陽一に代わって、自分が子供たちの面倒を見に通ってもいいと提案する。ノートとパソコンさえあれば仕事はできるのだと----。

「蛇イチゴ」では「おいしい蛇イチゴがある」という嘘が象徴的に提出され、「ゆれる」では女をつり橋から突き落としたのかどうかという虚実が描かれた。「ディア・ドクター」では偽医者の嘘が、「夢売るふたり」は結婚詐欺という嘘が、物語を進める原動力になった。しかし、「永い言い訳」では設定の中心に「嘘」は存在しない。もちろん、人間を描くときに「嘘」は重要な要素だが、「永い言い訳」の物語を進めるのは「残された者の後ろめたさ」である。妻が死んだときに他の女とセックスしていた男、その妻の死を悲しめない男、彼は「死んだ人間の復讐」を感じているのだ。そんなダメ男の心情が、妻が死んで以来、髪を伸ばしっぱなしにしている主人公から伝わってきた。

2017年8月24日 (木)

■イタリアの巨匠たちの作品には喚起的な映像があふれている

今週も夏休みで「映画と夜と音楽と----」は休載します。
以下は、八年ほど前、ある写真雑誌の依頼で書いたものです。

■イタリアの巨匠たちの作品には
 いつ見ても写真が撮りたくなる喚起的な映像があふれている

閃光がスクリーンを裂く。フラッシュの発光音、チャージする音が続く。絶え間なく響くのはシャッター音だ。フィルムを巻き上げるモータードライブの音が間を埋める。美しい女がスタジオの床に横たわり、身悶えするように蠢く。女に馬乗りになりカメラを構えた男は、ファインダーから目を離さずシャッターを押し続ける。

まるで狂った二匹の獣が絡み合うような、激しいスタジオ撮影を終えた若き写真家は、一変して静かな男になり小型カメラを抱えて街に出る。彼は公園で抱き合うカップルを撮影し暗室でプリントすると、男女の背後の茂みに死体のようなモノが写っているのに気付く…。彼は、その部分をどんどんブローアップしていく。

それは、鮮烈な視覚体験だった。ロンドンがファッションの発信源だった頃の映画。一九六七年七月、その映画を見た少年はひと夏をアルバイトでつぶし、念願の一眼レフを手に入れた。モータードライブが装着できるキヤノンF1には手が届かず、FTbと刻印されたカメラで満足するしかなかったけれど…。

映画「欲望」(原題は「ブローアップ」)を見て写真家になった人を、少なくとも三人は知っている。それほど、冒頭の撮影シーンは強いインパクトを観客に与えた。さらに暗室作業を魅力的に描いたミケランジェロ・アントニオーニの名は、写真界に多大な貢献をした人間として記憶されるべきだろう。

その十数年後、日本の広告写真やファッション写真に影響を与えたのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督だった。ヨーロッパの王侯貴族の物語「ルードウィッヒ 神々の黄昏」は、イタリア貴族の生まれだったヴィスコンティにしか描けない絢爛たる絵巻だった。

イタリアには、もうひとりの巨匠がいた。フェデリコ・フェリーニ…。後年の奔放な映像を作り出す才能は、空を飛ぶキリスト像から始まる「甘い生活」ですでに花開いていた。モノクローム時代のフェリーニの映像は喚起的だ。

彼らより世代は若いが、イタリア出身にはベルナルド・ベルトルッチ監督もいる。撮影監督ビットリオ・ストラーロのゾクゾクするような映像が素晴らしい「暗殺の森」一本だけでも、彼の名は世界の映画史に残るだろう。まだ現役のベルトルッチは、更なる傑作を生み出すかもしれない。

■ミケランジェロ・アントニオーニ作品
「欲望」(1966年)
アントニオー二の世界では、すべてのことが不確かだ。主人公の写真家は、「存在するもの」に確信が持てなくなり、自らに問う。「写っているものは、本当に存在しているのか?」

「太陽はひとりぼっち」(1962年)
愛は不毛だ、とアントニオー二は言う。愛は失われ、新たな愛が生まれかかるが、再び失われる。ラストシーンの無人のカットが、心の中の何かを掻き立てる。「日蝕」というタイトルが喚起的だ。

■ルキノ・ヴィスコンティ作品
「ルードウィッヒ 神々の黄昏」(1972年)
城の佇まい、登場人物たちの背景を彩る館の装飾、家具のひとつひとつ、衣装デザインの見事さ、馬車や器などの大道具小道具など、すべてが完璧な美術品のような映画だった。

「熊座の淡き星影」(1965年)
他にも代表作はあるのだが、この作品には強く惹かれる。タイトルも好きだ。モノクロームで描かれる夜のシーンの陰影の深さは、若きクラウディア・カルディナーレをさらに美しく見せる。

■フェデリコ・フェリーニ監督作品
「甘い生活」(1959年)
冒頭、キリスト像を吊り下げたヘリがローマの上空を飛び、ハリウッドのグラマー女優はドレス姿で噴水に入る。モノクロームの世界は、イメージを膨らませてくれるものがある。

「8 1/2」(1963年)
最近、ハリウッドでミュージカル「NINE」としてリメイクされたが、オリジナルはカーニバルのような映画だ。主人公の映画監督はフェリーニ自身か。目がくらむような映像が続く。

■ベルナルド・ベルトルッチ監督作品
「暗殺の森」(1970年)
名手ビットリオ・ストラーロは、ダンスホールで見事な照明のワザを見せ、白い雪の積もる暗い森の中で真っ赤な血を描き出す。ドミニク・サンダの美しさは、ストラーロによって永遠に刻み込まれた。

「シェルタリング・スカイ」(1990年)
なぜか、この映画のジョン・マルコヴィッチとデブラ・ウィンガーが好きだ。アフリカの砂漠の映像が美しく、登場人物たちと共に彷徨したくなる危険な映画。愛もさまようしかないのか。

2017年8月17日 (木)

■映画は理想を描きたい


以下は、昨年、高知の県立美術館ホールでの「ヒマラヤ杉に降る雪」上映会で依頼されて、一時間ほど話をした時のノートです。そう言えば、最近、サム・シェパードも亡くなってしまいましたね。

■映画は理想を描きたい

十数年ほど前のことですが、アメリカの映画協会が映画史上のヒーローの投票をし、順位をつけたことがあります。そのとき、インディ・ジョーンズもジェームズ・ボンドもランボーもおさえて一位になったヒーローは、アティカス・フィンチという人物でした。みなさん、ご存知ですか。

彼は南部の弁護士です。一作しか登場しませんが、良識的なアメリカ人の誇りとなっています。彼は、ハーパー・リーが書いた「アラバマ物語」の主人公です。映画化されたのは、一九六二年。まだ、南部では『ホワイト』と『カラード』という表示がレストランやバスやトイレなどに貼られていた時代です。日本人も、もちろん『カラード』になります。

私が 「アラバマ物語/to kill a mockingbird」を初めて見たのは、小学生の高学年だったと思います。テレビ放映でしたが、いたく感動しました。原作は暮らしの手帖社から今も発売されています。原作本の表紙は、映画で主人公の娘スカウトを演じた少女の写真です。映画は、大人になった主人公が少女時代を回想する形で語られます。

一九三二年、大恐慌まっただ中のアメリカ南部が舞台です。スカウトは六歳。少し年上の兄がいて、父親は弁護士。面倒見のよい黒人のハウスキーパーがいて、子供らを厳しくしつけています。

父親を演じたのがグレゴリー・ペックです。「ローマの休日」からほぼ十年、ペックは少し歳を取って落ち着いた感じになり、相変わらず誠実そうな人柄をスクリーンで見せてくれます。ペックは長く大根役者(アメリカではハム)と言われましたが、「アラバマ物語」のアティカス・フィンチ役で、ようやくアカデミー主演男優賞を獲得します。

「アラバマ物語」でペックが演じたのは、妻に先立たれてふたりの子供を育てながら田舎町で弁護士を営む男です。彼には知性と教養があり、真面目で誠実な人物です。穏やかで落ち着いた話し方をし、感情を露わにせず、そのくせ堅物ではなくユーモアに満ちています。

子供たちには愛情に溢れた理解のある父親だし、誰にも偏見を持たず公正に接しています。また、町の中に現れた狂犬を射殺するシーンでは、射撃の名手だったことが判明しますが、そのことを誇らない奥ゆかしさも描かれます。

彼はリベラルな考え方をする人間で、「偏見」という頑迷な呪縛から解放されています。一九三〇年代のアメリカ南部の白人としては、とても珍しい存在かもしれません。彼は黒人の青年が白人女性をレイプしたとして告発されている事件で、判事の頼みによって黒人の弁護を引き受けます。

一九三〇年代のアメリカ南部。その頃、黒人たちがどのように迫害され差別されていたのか私にはわかりませんが、白人たちのリンチに遭い木に吊るされた黒人の死体を「奇妙な果実」と歌ったビリー・ホリディの名曲「ストレンジ・フルーツ」が録音されるのは一九三九年のことでした。

誰も引き受け手のなかった黒人レイプ犯の弁護を父親が引き受けたがために、主人公の少女は学校でいじめられ、彼女は「なぜ、引き受けたの」と父親に問います。まだ幼い娘に父親は「自尊心を保つため」と正面から答えます。

それは彼の信念であり、生き方のスタイルです。困難な弁護になることはわかっているし、町の人々から非難されるだろうことも予想できました。だが、彼は引き受けます。なぜなら、自尊心をなくさないでいたいから----

無知と偏見と愚かさと、いわれのない敵意に充ちた南部社会の中でペックは誇りを失わず、「黒人びいきめ」と唾をかけられても毅然とした態度を崩しません。ペックが演じる弁護士は、私が考える理想の人物でした。

そんな非の打ちどころのない人物は、とかく聖人のように描かれ血肉の通わない非人間的なものになってしまいがちですが、ペックはそんな理想的な人物が現実の世界で生きているのだと思わせてくれます。

私は「アラバマ物語」を何度見たかわかりませんが、十七年ほど前からは「アラバマ物語」を見ると、私はもうひとりの父親を思い出すようになりました。「ヒマラヤ杉に降る雪」(一九九九年)の主人公(イーサン・ホーク)の父親(サム・シェパード)です。

第二次大戦に出征し日本軍と戦って片腕を失った主人公は島へ帰り、父親が発行し続けた新聞社を継いでいます。彼は社主であり記者であり印刷工でもあります。ある日、彼は日系人の漁師が殺人罪で起訴された法廷を取材する。太平洋戦争終結から間もない頃、日系人に対する偏見はまだ払拭されていません。

その被告人の妻は、今でも彼が愛している日系女性です。彼は少年時代から彼女に憧れ、いつか森の中で密会する間柄になっています。しかし、日系人と白人という違い、太平洋戦争の勃発、その後の日系人の隔離政策などによって彼らは結ばれない。

WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)っぽいイーサン・ホークと工藤夕貴のラブシーンは見ていて少し違和感がありますが、描き方に工夫があり見応えのあるラブストーリーになっています。特に少年少女の時代のエピソードは心に沁みるものがあります。

主人公の父親は戦前から島の新聞社を運営しています。彼はリベラルで公正で、偏見からは最も遠いところにいる人物です。時は一九四一年を迎え、真珠湾攻撃が起こり、日系移民たちが迫害される。その時、公正な立場から日系移民には何の罪もないことを彼は自分の新聞でキャンペーンを張ります。

しかし、そのことによって新聞は購読拒否に遭い経営難を迎える。彼の家には嫌がらせの電話がひっきりなしにかかってくる。自宅に石を投げ込まれる。「日本人びいき」と町では誹られる。しかし、彼は自分の信念を曲げない。日系人がアメリカ政府の命令によって強制収容され、自分の土地を奪われることを彼は正義ではないと説きます。

その父親も死に、主人公は父親の偉大な幻影を感じながら同じ道を歩んでいます。取材先で出会う人々は「立派なお父さんだった」と彼に言う。誇らしい反面、彼は自分自身に忸怩たるものを感じている。彼にとって父は決して越えられないライバルなのです。彼は独自に調査を続け、殺人で告発されている日系人の漁師にとってのある事実を発見します。彼は、その事実をどうするでしょう。それが、サスペンスを醸し出します。

彼は日本人の攻撃で死に瀕し片腕を失った。彼の恋人は日系の男に奪われた……。彼は日系人に対する自らの感情を手探りします。〈俺は日本人を憎んでいるのだろうか……〉と。その時、彼は思ったはずです。〈父だったらどうするだろう〉と。彼にとって父親は指針です。あるいはひとつの価値観です。理想を求めた父親の生き方は、間違いなく子供に伝わっています。

「アラバマ物語」は黒人に対する迫害と偏見、「ヒマラヤ杉に降る雪」は日系人に対する迫害と偏見がテーマになっています。共に法廷ドラマを核に物語が進行し、意外などんでん返しがあり、悲しくせつない結末があります。

この両方の映画に共通して出てくる醜い人間たちがいます。偏見に凝り固まり、己の欲に無自覚な人間たちです。黒人の弁護を引き受けたグレゴリー・ペックを誹る男たち、日系人を正当に扱ったゆえにサム・シェパードを非難する狭量な人間たち、日系人の弱みにつけ込み土地をだまし取り「だってあいつらは敵国の人間よ」と自己を正当化して恥じない女たちです。

グレゴリー・ペックはユダヤ人に対する偏見をテーマにした「紳士協定」(一九四七年)という映画にも出演しています。ジャーナリストの役で、彼はユダヤ人に対する偏見をレポートするために「実は僕はユダヤ人」という嘘のカミングアウトをして人々の反応を見ます。そのことによって、彼はひどい迫害、選別、差別を受けるのです。

見るからにWASP風なペックだから、ユダヤ人だとわかってからの相手の態度の変化が見られるのがこの映画の面白さです。彼らは豹変します。偏見を持つ人々は普段は紳士や淑女然としていても、相手がユダヤ人だとわかった途端にソワソワし落ち着かない。皆、一様に醜い表情に変わります。

人種偏見はアメリカだけの話ではありません。コリアン・ジャパニーズを自称する金城一紀の直木賞受賞作「GO」の中に出てくる恋人の父親は、金持ちでインテリで教養もありリベラルな振りをしていますが、「韓国人の血は汚れている」と平気で口にする、やはり醜い人間です。

主人公は、日本人の恋人に在日韓国人であることを告白できない。初めて彼らがセックスをしようとする直前、主人公はそのことを告白します。その時、ヒロインは心ではわかっていても、肉体が相手を拒絶していることに気付きます。「GO」は若いふたりが、偏見という実体がないくせにやっかいなものをどう乗り越えるかがテーマでした

2001年9月11日のニューヨーク貿易センタービルへのテロ事件以来、アメリカではアラブ系移民に対する緊張感が高まったそうです。真珠湾攻撃後の日系人に対する迫害を、そのことに重ねて論じるジャーナリズムもありました。半世紀以上たっても、人間の社会はそうしたことを未だに乗り越えられません。

映画はそんな人間の醜悪さを具体化して見せてくれます。「黒人びいきめ」とペックの顔に唾を吐きかける白人男の醜さ、黒人をリンチしようと集まってくる白人たちの下卑た顔、「白人のくせに日系人の味方をするのか」とサム・シェパードの家に石を投げ込む人間たちの卑劣さ、それを映像の力で見せてくれます。

「アラバマ物語」を見て、偏見に満ちた男たちに感情移入する人間はいないと思います。「ヒマラヤ杉に降る雪」を見て、自分もサム・シェパードの家に石を投げ込みたいと思う人間はいないでしょう。

私は、映画や本の効用を信じている人間です。そして、映画は理想を描くべきだとも思っています。私が神と仰ぐフランスの映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルはこう言っています。

──映画は夢を描くものだ。
私の映画は、もし私だったらこういうふうに行動したいという願望から作られている。

ギャングが主人公なら「こうありたいギャング」を描き、殺し屋が主人公なら「こういう風に行動したい殺し屋」を描いたメルヴィルです。そういう広い意味で、僕は映画は理想(夢)を描くべきだと思っています。理想(夢)を求めないで、どうして人間は成長できるでしょうか?

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