■日々の泡----零落について
四方田犬彦さんの長編評論「零落の賦」を開いたら、冒頭に室生犀星の「よしや うらぶれて異土の乞食(かたゑ)となるとても」というフレーズが掲げられていた。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と始まる詩である。どんなに落ちぶれても故郷には帰らない、という決意を記した若き犀星の詩なのだろう。
四方田さんは「零落がかつて人生の高みにあった者にしか許されていない行為であることはすでに述べた。人は低所に留まっているかぎり、どこに向かっても零落することができないのだ」と規定していた。「そうかなあ」と少し疑義を感じたが、確かに一度は高いところにいないと落ちることはできない。
「零落」の同義語を調べてみたら「落魄」や「淪落」などが出てきた。では、「尾羽打ち枯らす」はどうなのかと考えたが、これは落ちぶれた様子を形容する言葉であって、落魄した状況を指すのではないから同義語とはならないのかもしれない。簡単に言えば「落ちぶれる」ことである。
犀星は「うらぶれて」と書いているが、これは「落ちぶれる」より哀愁が漂う気がする。誰もが落ちぶれるのはイヤだと思うけど、過去、小説や映画やドラマなどでは「零落の人生」が何度も描かれてきた。最近のハリウッド作品には実在の人物のサクセスストーリーを映画化するものが増えている気がするが、人は「落ちぶれていく人生」を見るのは嫌いではないらしい。
テレビや週刊誌で「あの人は今」特集があると、多くの人が興味を持って見る。一世を風靡した有名人が今は落ちぶれていたりすると、気の毒にはなるかもしれないが視聴者や読者の好奇心は満足する。「ああ、やっぱり一時的に華やかな生活を送っても、人生は長いもんね」と自らの平凡な(と思っている)人生を肯定できるからかもしれない。
「零落」を描いたドラマですぐに思い出したのは、「スタア誕生」(1954年)と「黄昏」(1951年)だった。どちらもいい年をした男が零落する。「スタア誕生」のジェームス・メイスンはハリウッドの有名スターだったが過度の飲酒のために落ちぶれ、自身のプライドのせいでさらに零落していく。一方、彼が見出した歌手(ジュディ・ガーランド)はスタアへと昇っていく。
「黄昏」のローレンス・オリヴィエは有名な高級レストランの支配人だったが、若い娘(ジェニファー・ジョーンズ)に惚れて道を外し落ちぶれていく。彼と別れた娘はスターになり、彼はホームレスとなり教会の炊き出しに並ぶまでになる。ある日、「食べないと死ぬ」とつぶやきながら娘が出演している劇場の楽屋口に現れ小銭をねだる。
ここで面白いのは、そんな状態なのに男にはまだプライドがあるのだ。男の姿を見た娘(まだ男を愛している)は驚き、有り金を差し出し男に着せるものを楽屋に探しにいく。しかし、男はその財布から小銭だけを抜き取って去っていく。ここで映画は終わるから救いはない。
名匠ウィリアム・ワイラーが名作「ローマの終日」(1953年)の前に監督した作品だ。名優ローレンス・オリヴィエの落魄ぶりがすさまじい。原作は「アメリカの悲劇」(映画「陽の当たる場所」)のセオドア・ドライサーの「シスター・キャリー」である。
「黄昏」は「男のメロドラマ」とも言われるが、「落ちていく物語」は女性の方が似合うのかもしれない。その代表作としては「哀愁」(1940年)が浮かんでくる。「風と共に去りぬ」(1939年)のヴィヴィアン・リー主演作としては「哀愁」と「欲望という名の電車」(1951年)が有名だが、スカーレット・オハラ以外は「落魄の女」なのである。
「哀愁」の美しいヒロインは夜の女にまで身を落とす。「欲望という名の電車」のブランチは容色は衰え落魄した姿で登場し、義弟(マーロン・ブランド)の容赦ない非難を浴びて精神的に追いつめられ狂う。その姿には、やがて実生活で精神に変調をきたすヴィヴィアン・リー自身が重なってくる。
若きローレンス・オリヴィエのハリウッド出演のために愛人としてイギリスから同行したヴィヴィアン・リーは、スタジオ見学をしているときにプロデューサーのセルズニックに見出されて「風と共に去りぬ」のヒロインに抜擢される。しかし、オリビエとも離婚した中年過ぎから奇矯な行動をとるようになる。彼女自身が「零落の女優」になってしまったのだった。










