2018年11月19日 (月)

●天皇への密使・第四章その7

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その7

■1945年8月5日 17:00 大磯
「旦那様、門の前にお車が----」
 女中が息せき切って、吉田茂の書斎に飛び込んできた。
「車?」
「平河町のお屋敷に置いてあった、あのお車です」
「ロールスロイスか?」
「それが、門の前に----」
 吉田は、あわてて立ち上がった。廊下に出て、玄関を抜ける。庭を通り、表門へ向かう。なるほど、格子戸を越えて石段を下りたところに、あのロールスロイスが駐まっている。イギリスで購入し、日本まで運んできたものだ。ろくにガソリンが手に入らない今、動かすことはまったくなくなったが、戦争が終わればまた活躍することになるはずだ。
 吉田は石段を降り、車の周囲をまわった。誰かが点検し、ガソリンを入れ、ここまで乗ってきたのだ。それ以外には考えられない。あの日系二世の顔が浮かんだ。後部のドアに弾痕らしき穴が三カ所あいていた。吉田は顔をしかめた。いずれ、修理に出さねばならない。ドアを開けて、後部座席を見た。座席も床も、きれいに拭ってある。丁寧すぎるほどだ。
 まるで死体を運んだ跡じゃないか、と吉田は思った。この車がどんな状況をくぐってきたか、想像した。あの日系二世は、うまく憲兵隊司令部から逃亡できたのか。憲兵たちは、またやってくるだろう。吉田の関与をしつこく尋問するかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。「盗んだやつが、改心して戻しにきたんだろ」と煙に巻いてやる。わざわざ、この車をここまで届けにきたのは、あの男のメッセージに違いない。任務を完了したということなのだ。
「旦那様、お電話です」と、女中が呼びにきた。
「誰から?」
「首相です」
 吉田は、自分より十も年上なのに、難しい時期の内閣を引き受けた鈴木貫太郎の姿を浮かべた。この車がここにあるように、あの男が届けようとした親書も首相の手に渡ったのだろう。吉田は、急いで母屋に戻った。
「吉田です」と、受話器を取り上げた。
「鈴木です」と、落ち着いた声が聞こえた。
「何か、ありましたか?」
 期待しても裏切られることが多いのだから、期待するまいと思っていたのに、期待感が言葉にこもった。
「手紙は、届きました」
「というと----」
「今日、閣議の件を上奏いたしました」
 グルー大使の親書が陛下に届いたということだ。
「もうひとつのものは、まだです」
 とりあえず親書が届けば、陛下のご決断を大きく左右するはずだ、と吉田は思った。ソ連の参戦が確実な情報なら、陛下のご聖断によって陸軍も抑えられるだろう。もうひとつは新兵器の実験映像だというが、今すぐ見られなくても仕方あるまい。新兵器といっても、どれだけの威力があるものなのか。原子爆弾というものを、吉田は想像できなかった。海軍出身の鈴木首相には、何らかの知識があるようだったが。
「手紙が届けば----」
 盗聴に気をつけていたが、今までのところ、聞かれても大丈夫だろうと高を括った。しかし、「もうひとつのもの」と首相が言ったのは、まずかったかもしれない。
「そういうことです」
 首相は、電話を切った。これで、戦争を終わらせることはできるだろう、と期待しながら吉田は受話器を下ろした。

■1945年8月5日 19:30 東京・九段
「夕方、目立つ車が大磯の駅前を通り、吉田邸の方向へ向かいました」と、大磯駅前の旅館に駐留する部下から連絡が入った。大磯の吉田茂、樺山愛輔、原田熊雄などの動向を監視するために、その旅館を拠点にしていた。吉田の逮捕前には二十四時間の監視体制をとっていたが、吉田の釈放後は定期的にそれぞれの屋敷を見まわる程度だった。それが、一昨日から再びあわただしくなった。
「吉田邸の表門の前に駐車し、男がひとり降りました。国民服の男です。我々は離れて監視し、身を隠しておりました。男は徒歩で海岸の方に向かい、その後、海沿いに平塚方面から茅ヶ崎近辺に戻るので尾行しました」
「それで?」と、古沢中尉はいらだった声を出した。
「茅ヶ崎に入ったあたりで、男の姿が消えたのです」
「何! まかれたのか」
「いえ、尾行には気づかれていないと思います」
 電話の向こうの声が、小さくなった。身を縮めている様子が浮かぶ。古沢中尉は、その反応に満足した。
「気づかれていないのに、見失ったのか」
「そのあたりは、夏草がうっそうと茂った里山で、人の背より高い雑草が生えているのです」
「言い訳をするな!」
「そのあたりのどこかに身を潜めていると思われますので、全員で半径五百メートルほどの地域を包囲する形をとり、見張っております」
「確実にその中にいるのか? 何人で包囲している?」
「そのあたりから抜け出たとは思われません。ただ人数が五人なので、包囲していると言っても抜け道は----」
「そのまま包囲して見張っていろ。ただし、私が着くまで絶対に手を出すな。見つけたら、気づかれぬように跡を尾けろ」
 古沢中尉は、窓の外を見た。夏とは言っても、さすがにもう薄暗くなっていた。茅ヶ崎までは時間がかかる。夜陰にまぎれて動き出すつもりだろうが、その前に捕まえたい。古沢中尉は、富田曹長を呼んだ。
「すぐ、出動する。部下は三名、おまえが選んで車を手配しろ」
 富田曹長が、了解の意味を示す敬礼をした。
「ところで、神山大佐の遺体、どうしますか?」
「今は?」
「取調室に仮に安置していますが」
「この件が片づいてから考える」
「この暑さです。処理は早い方が----」
「それでは、棺桶の準備と遺族への連絡、その他、誰かに処理させろ」
「報告は?」
「もう上には報告した。取り調べ中に人質になり、逃亡を図った犯人に射殺されたとな」
「それでは、軍人としては恥になります」
「逃亡されたのは我々の失敗だが、責任は死んだ大佐にとってもらう。死んだ人間に、恥も誉れもない」
「死人に口なし、ですな」と、富田曹長は皮肉な口調で言った。
 上官に敬意を払わない、その態度が古沢中尉を苛立たせる。そのうち、そんな態度がとれないようにしてやるぞ、と古沢中尉は思った。

2018年11月15日 (木)

●天皇への密使・第四章その6

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その6

■1945年8月5日 16:00 茅ヶ崎
「兄さん」と、ヘンリーは菅野少尉であるジョニー・スガノを抱き上げて呼んだ。
 もう何度めになるだろう。何度呼んでも、兄は目を開かない。心臓は止まり、息はしていない。死んだのだ。背中に二発の銃弾が命中し、一発は心臓を貫いていた。あの時、もっと早く兄を車に引き上げていれば、と何度もヘンリーは思った。兄は、命がけで救いにきてくれたのに----。
 拷問で意識が薄れていたヘンリーの前に、日本の軍服を着た兄が現れた時は幻想だと思った。願望が幻を生んだのだ、と信じられなかった。兄に会いたいと願っていた。日本に潜入するミッションを引き受けたのも、もしかしたら兄に会えるかしれないと考えたからだった。その兄が現実に目の前にいるとわかった時、ヘンリーは日本に潜入したひとつの目的を果たした。
 日本海軍の軍服を身に着けた兄が自分を逃がそうとしているとわかると、ヘンリーは兄の身を案じた。憲兵隊の本部から逃亡するのは不可能だ。だが、兄は再びやってきた。命をかけて、弟を救い出すために、たったひとりで憲兵隊司令部に乗り込んできたのだ。あの古沢中尉さえいなければ、兄も死なずに逃げ切れたのに----。
「ここだ。彼女に教えてもらった洞窟がある」
 瀬川が車を止めた。田舎道の両側には、夏草が生い茂っている。
「そこで夜まで身を隠す。菅野少尉もそこまで運ぼう」
 なぜ、瀬川が兄と一緒にやってきたのか。ここまでの長い道中、車の中であらましは聞いていた。兄が軍令部で米国情報を担当していたこと。それを偶然に知ったこと。京子が兄に電話をしたこと。弟が憲兵隊に逮捕され、兄弟であることがわかると、兄にもスパイの嫌疑がかると半ば脅し、救出に協力させたと、瀬川は運転しながら話してくれた。
 ヘンリーが兄を後部座席から下ろすと、瀬川は再びエンジンをかけ、夏草の茂る野原に車を乗り入れた。車が夏草をなぎ倒す。道から数メートル乗り入れて止め、瀬川は降りると倒れた周囲の夏草を立てた。車が通った跡を修復する。しばらくすると、背の高い夏草が車を隠し、道から見ただけではわからなくなった。
「こっちだ。運ぼう」
 そう言って、瀬川は兄の左手を持ち上げ自分の肩にまわした。ヘンリーも兄の右手を自分の肩にまわし、ふたりは歩き始めた。ここまで長く走ってきたが、憲兵隊の追跡はどうなっているだろう、と考えた。大磯で兵士を射殺したことから、彼らも大磯から平塚・茅ヶ崎にかけての地域を逃亡先として推定するかもしれない。
 洞窟の入り口は、すぐにはわからなかった。高さ一メートル、幅五十センチほどの裂け目で、やはり夏草がおおっている。瀬川が先に潜り込んだ。瀬川の手が伸び、兄の両肩をつかんだ。ヘンリーは、兄の足を持ちあげる。兄を運び入れると、ヘンリーも続いた。狭い入り口だったが、中は意外な広がりがあった。立ち上がっても余裕があり、奥行きは五メートルほどあった。たくさんの石ころが転がっている。
 ヘンリーは、兄の遺体を一番奥に横たえた。着ていた国民服の上着を脱ぎ名札をはぎ取ると、それで兄の頭部を包んだ。石ころを拾って積み上げ、兄の体を隠していく。黙って見ていた瀬川が手伝い始める。
「必ず帰ってきて、兄さんを弔うからな」と、ヘンリーは語りかけた。
「ここなら、しばらくは見つからないだろう。いずれ、彼女に火葬にしてもらおう」と、瀬川が言った。
 兄の遺体を焼く京子の姿が浮かんだ。なぜか、背景は海に沈んでゆく夕日だった。それから骨壺を抱く京子、その骨壺を受け取る自分の姿が浮かんでくる。これは、そうありたい未来を想像しているのだろうか。
「俺が死んだら、やっぱり火葬にしてもらおう」
 ヘンリーは、そう口にした。瀬川が振り返るのがわかった。
「兄さんが命をかけて助け出したんですから、生き延びるんですね」
「生き延びても、母に何て言えばいいんだ」
「あなたが死ななければ、お母さんも喜びます」
 ヘンリーは、瀬川を見た。
「兄は、なぜ、危険を冒してまで----」
「車の中で話したことは、半分の事実です。あなたを助け出すのは肉親の情だったのでしょうが、そのためだけで彼は裏切ったのではないと思います。私の脅しに屈したように言いましたが、それはおそらく違います」
「どういうことだ?」
「菅野少尉は、米国のスパイだったと思われます」
「本当か?」
「私はジョニー・スガノが菅野丈太郎として軍令部にいることを知り、組織の上部に彼の調査を依頼しました。しかし、すぐに『彼には触るな』と警告がきました。その時にわかりました。お兄さんは、スパイだと。だから、私はお兄さんに話を持ちかけたのです。脅迫めいたやり方で彼を追いつめた時、彼はあなたを救出することにはためらいなく賛同しました。もちろん、弟を思う強い気持ちがあったからでしょうが、自分も同じ側に立っていたのだと、わからせたかったのではないでしょうか」
「兄さん」と、ヘンリーはこんもりと盛り上がった石の山に手を合わせ、首を垂れた。
「京子さんは、あなたが捕まった時、お兄さんなら何とかしてくれるのではないかと、無我夢中で電話をしました。それが、結局、あなたを救うことになったのです」
「彼女は、大丈夫なのか?」
「たぶん、今頃はあなたから引き継いだ使命を果たし、自宅に帰っているはずです。夜の道を案内してくれるので、十一時前にはここにきてくれることになっています」
「彼女に、また危険を冒させるのか」
「彼女の希望です。あなたを憲兵隊司令部から救い出せたら、ここで身を隠し、夜、予定時間に海に出る。彼女は、あなたが無事に帰還するのを確認したかったし、見送りたかった。いや、あなたにもう一度会いたいのでしょう」
 瀬川の口調には、複雑な気持ちが表れていた。その中には、たぶん嫉妬もある。
「きみは、彼女を愛しているのか?」と、ヘンリーは訊いた。
「愛しています。ずっと前から」
「そうか」
「あなたは、どうなんです。あなたが捕まった後の彼女は、ふつうではありませんでした」
 瀬川がじっと見つめてくる。ヘンリーは何も言えなかった。愛しているか。そう、愛しているのだ。あの夜、様々な鬱屈を吐き出すように、彼女にこの数年の出来事を話した。特にヨーロッパ戦線での経験。未だにうなされる指を失った時のこと。気がつくと、彼の中から何かが解放されていた。目の前の女性を愛おしく思った。
「返事はいいです。あなたの顔を見ていて、わかりました」
 そう言うと、瀬川は立ち上がった。
「日のあるうちに、車を返してきます。夜に走っていると、目立って仕方がないですから」
「どこへ?」
「大磯の吉田邸。あの車は、わざわざイギリスから運んできたものだそうです。それほど気に入っているのでしょう。大磯の吉田邸の前に乗り捨ててきますよ。ここに隠しておくと、いつまでも見つけられないかもしれないですから」
「律儀だな。監視されているかもしれないぜ」
「気をつけます」
「武器は?」
 ヘンリーは人質の大佐から奪った拳銃を取り出し、顔の前にかざしながら瀬川に訊いた。
「あなたのお兄さんの拳銃が、車の中にあります」
 瀬川は、身を屈めて出ていった。ヘンリーは銃創と拷問によって痛めつけられた体を横たえ、目を閉じる。京子の面影が浮かんできた。その時、瀬川は自分が囮になるつもりではないかと気づいた。吉田邸に車を戻しにいけば、途中で目撃されるだろうし、憲兵たちは車を発見した場所を中心にした地域に隠れていると考える。彼らの目は、吉田邸に向けられるかもしれない。
 うまく憲兵に見つからなかったとしても、車を吉田邸の近くに乗り捨て、暗い道を徒歩で一時間以上かけて戻らなくてはならない。瀬川は、危険を承知で出ていったのだ。あの男の方が京子を幸せにするだろう、とヘンリーは思った。少なくとも、俺のような人殺しではない。

2018年11月12日 (月)

●天皇への密使・第四章その5

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その5

■1945年8月5日 12:30 茅ヶ崎
 京子が帰り着くと、祖母が奥の部屋から現れた。六十八になる祖母はまだまだ元気で、庭に畑を作り、毎日、世話をしている。少しでも食料を自給しなければ、配給だけでは暮らせなかった。昔は田畑もあったが、祖父が早くに亡くなり、息子の源三の学資を捻出するために手放してしまったのだ。その息子は帝大の教授にまでなったが、憲兵隊に廃人にされ、四十代で亡くなってしまった。
 祖母にとっては、京子がただひとりの孫である。その孫が、もう一年近く危険なことをやっていた。口には出さないが、死ぬほど心配しているのはわかる。だが、黙って京子を見守っているのは、京子の父母への思いがわかっているからだ。母を右翼に殺され、父も憲兵隊に殺されたのも同然だった。この国は、京子に不幸しかもたらせていない。
「大丈夫かい?」と、リュックを下ろす京子に祖母が言った。
「大丈夫よ」
「もう、終わったの?」
「まだ、今夜で終わるはず」
「大丈夫かい?」
「今、訊いたばかりよ」
「そうだねぇ----」
 祖母は黙り込んだ。京子は玄関をあがり、仏間に入った。仏壇の前に座り、父母の位牌を見つめる。父母が生きていたら----と夢想することは、今もある。しかし、今、父母が生きていたら、何て生きにくい世の中になっていることか。英国人の母を、近所の人々は白い目で見るはずだ。自由主義者の父も、こんな世の中には絶望したに違いない。
 ヘンリーの面影が浮かんだ。無事に逃げ延びただろうか。瀬川は救い出してくれただろうか。約束の場所にいくまで、それはわからない。京子が教えた秘密の場所。子供の頃、夏になると祖父母のこの家に遊びにきていた。近所の子供たちから「あいのこ」とのけ者にされた京子は、ひとりで遊んでばかりいた。
 小高い裏山に登り、木々や夏草におおわれた場所で、ある日、京子は絶好の隠れ場所を見つけた。狭い入り口を入ると、広がりのある洞窟だった。そこは京子のお気に入りの場所になった。今でも、ひとりになりたい時、そこにいくことがある。街道からそう遠くもなく、夜になるまで身を隠すには絶好の場所だと思った。その洞窟の詳しい地図を瀬川に渡してある。
 そこからなら夜になっても、海岸に出るまで十分ほどだった。ヘンリーが上陸した海岸まで、わずかな月明かりしかない暗い道を歩かなければならないが、京子が先頭に立てば迷うことはない。灯火管制が敷かれ、かすかな光でも遠くから発見される可能性があるから、懐中電灯はもちろん提灯さえ使えない。海岸に着けば、海に向かって合図の光を点滅させ、迎えのボートを待つだけだ。
「おまえ、この間の夜、あの人と何を話していたのだい?」
 不意に、背後から祖母に話しかけられた。
「話って----、それぞれの家族のこととか、いろいろよ」
「おまえ、両親のことを話したのかい」
 祖母は、意外そうな声を出した。京子は父と母のことは堅く口を閉ざし、誰にも話したことがない。それは、相手に心を許していないからだった。英国人の母、自由主義者の父、それを誇りに思うからこそ、今の時代に父母の話をしたくはなかった。ヘンリーに話せたのは、彼が米国人だったからだろうか。いや、違う。あの人には、心の底から気を許せたのだ。
「お父さんがお母さんと出会った時のことも話したわ」
 祖母がうなずいた。それだけで、祖母にはわかったのかもしれない。
「源三があなたのお母さんと英国で出会った時、あなたのお母さんは十九だった。四年後、源三が帰国する時に結婚した。もうすぐ、あなたも十九になるわね」
 祖母は、私とヘンリーの間に起きたことを知っているのだろうか、と京子は思った。父は母を見た瞬間、ひと目惚れだったという。母も同じように父に惹かれたのだ。その父母の血を、京子は受け継いでいた。

2018年11月 8日 (木)

●天皇への密使・第四章その4

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その4

■1945年8月5日 11:00 横浜・日吉
 軍令部の草野少佐の元に憲兵隊から連絡が入ったのは、一時間ほど前のことだった。菅野少尉が米国スパイの容疑者を連れ出したという。その際、神山大佐を人質にとり、車に乗り込む寸前に射殺し逃亡した、と憲兵隊の古沢という中尉が言った。草野をとがめる口調だった。
「まさか、我々が引き渡しに応じなければ拉致せよ、という命令だったんじゃないですよね。少佐」と、古沢中尉は言った。
「そこまで、強引じゃない」と、草野少佐は冷静に答えた。
「少佐、驚きませんね。菅野少尉の行動を予想していたのですか」
「まさか」
「そちらにうかがって、菅野少尉についてお訊きしたい」
「わかった」
 草野は電話を切った。古沢中尉が言ったように、菅野少尉の行動を予想していたのだろうか、と草野少佐は己に問いかけた。確かに、驚きはなかった。菅野兵介と名乗る男が憲兵隊に拉致されたことを知った時の菅野少尉の様子を見て、何かを予想していたのは確かだ。だが、菅野少尉がそこまで思い切ったことをするとは思っていなかった。
 この二年間、菅野少尉は米国の情報を綿密に分析し、正確な情勢判断をしてきた。優秀な分析官だった。それは間違いない。草野少佐は、全幅の信頼を置いていた。だが、すべてを打ち壊す今回の行動は、菅野兵介という男とよほど深い関係があったということだろう。もしかしたら、菅野少尉の肉親なのだろうか。
 あり得ることだった。あの電文と遺棄されたボート、上陸の痕跡、吉田邸近くの事件、憲兵隊の動きと情報を合わせると、日系二世を日本人に偽装させて上陸させたと推察できた。だとすれば、菅野少尉の肉親、もしかしたら兄弟だったのかもしれない。弟が憲兵隊に捕まり、拷問されていると知ったら、俺だって同じことをするかもしれない、と草野は思った。
 しかし、菅野少尉の肉親が我が国へ潜入したのだとしても、それは偶然だったのだろうか。菅野少尉が我が国に送還され、軍令部に配属されていることを、米国側では知っていたのだろうか。交換船の中でも上陸直後も、菅野少尉の取り調べは厳重に行われたはずだ。そのうえで彼の軍隊への志願は認められ、歓迎された。その英語力は軍令部でも大いに期待されたものだ。彼の態度にも、何の不審もなかった----。
「憲兵隊の古沢中尉がお見えです」
 机の前で直立した兵士の声で、もの思いに耽っていた草野少佐は我に返った。電話を終えてから、けっこうな時間が経っていた。そんなに長く考えていたのに、結局、草野少佐の中では何の結論も出なかった。
「空いてる部屋に通しておけ」と答え、草野少佐は立ち上がった。
 古沢中尉をひと目見た途端、草野少佐は嫌悪感を抱いた。典型的な権威をふりかざす軍人だった。憲兵になるために生まれてきた男だ。力を信奉し、その力の前に自分以外の人間がひれ伏すのを望み、彼らの反応を見てますます増長する男。肩を怒らせ、胸を張っている古沢中尉を見て、草野少佐はそう感じた。
「草野だ」と、ことさら上官を意識させる口調で言った。
「憲兵隊の古沢中尉です」
「それで?」
「それで、とは?」
「何を知りたい?」
「菅野少尉がスパイ容疑の男を拉致した理由です」
「わからん」
「わからん? あなたの部下ではないのですか」
「部下だよ」
「軍令部はいっさい関係ないと?」
「そうだな。引き渡しは頼んだが、大佐を射殺してまで男を拉致せよとは言っていない」
「容疑者が米国に関する重要な情報を持っていると、軍令部が確信した理由は何ですか?」
「菅野少尉が話したと思うが」
「傍受した電文と、漂っていたボートですか」
「そうだ」
「米国スパイが上陸し、吉田茂と接触した」
「おそらく----。吉田は、そちらで監視していたのだろう」
「吉田の動きは逐一、把握しています」
「それで」
「機密事項です」
「そうか。こちらも、菅野少尉が話したこと以外は機密だ。情報を漏らしすぎたと思っとるくらいだ」
「菅野少尉は、日系二世だそうですね」
「反米的な適性国民として強制送還された」
「それを信じたのですか」
「日米交換船から降りる前に、何度も厳しい査問を受け、上陸直後にも徹底的に調査された人物だ」
「巧妙に偽装していたのでは?」
「その可能性は、誰にでもある」
「あなたにも?」
「そうだな」
 草野少佐は、苦笑いした。英国で日本大使館に勤務していた頃、英国人から接触され、スパイになれと誘われたら自分は引き受けただろうか。国を思う気持ちは人一倍あると確信している。軍人になったのは、学校の成績はよかったが、貧しい育ちだったからだ。官費で学べる学校しか選択できなかった。もちろん、国に命を捧げるつもりで軍人になった。だからといって、愚かな戦争を認めるわけではない。
「きみにも、可能性はあるぞ」
「バカな----」
「菅野少尉が米国のスパイだとしたら、今朝のような派手なことはしないだろう。スパイは目立たず、あくまで正体を現すことをしないものだ」
「あの捕らえた男が重要な任務を負っていて、それを救出するためには己の正体がバレるのも辞さなかったのでは?」
「さっきから、きみは仮定の話ばかりしている」
「仮説を立て、証明するのが私の仕事です」
「勝手な仮説を立て、後は拷問で自白させる。証拠など関係ない。それが、きみたちのやり方じゃないのか」
「お言葉ですが、すべてお国のためです」
「そう言えば、すべてのことが許されると思っているのか」
「あなたのような人が、軍人とは思えない」
「いろんな軍人がいていいはずだ」
「そうとは思えません。あなたは軍人である前に非国民だ」
 草野少佐は笑った。この男とは、どこまでいっても平行線だ。絶対に交わることはない。
「帰りたまえ。きみに話すことはない」
 草野少佐は、古沢中尉に背中を向けて部屋を出た。
「少佐、後悔しますよ」と、古沢中尉の声が聞こえた。

2018年11月 5日 (月)

●天皇への密使・第四章その3

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その3

■1945年8月5日 10:30 ロング・アイランド
 陸軍長官ヘンリー・スティムソンは、久しぶりにロング・アイランドの自宅に戻っていた。ポツダム以来のハードなスケジュールは、七十七歳の身にはきつい日々だった。それに、心労も重なった。原子爆弾の投下は秒読みの段階に入ったというのに、日本はポツダム宣言を受諾する様子もない。このままでは、大量殺人兵器を使わざるを得なくなる。結果は、日本人の大量虐殺だ。
 東京の外務省とソ連大使のサトーの間には、未だにソ連を仲介とした和平案についての電文が往き来している。彼らの暗号は、開戦前から解読されており、日本の動きは筒抜けだった。あの日系二世は、エンペラーにグルーの親書を渡せたのだろうか、とスティムソンは思った。あるいは、命を落としたか。あの親書が渡り、原子爆弾の爆破実験のフィルムを見たうえで、天皇制には手をつけないと彼らが信じれば、今の日本はすぐに降伏するはずだった。
 その時、電話が鳴り、スティムソンは受話器をとりあげた。
「マーシャルだ」と、相手は言った。
 ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長。すぐれた頭脳の持ち主で、冷静な判断を下せる軍人だった。
「決まったかね?」と、スティムソンは訊いた。
「ああ、グローヴスから連絡があった。あいつは、どうしても日本に原子爆弾を落としたいらしい。パールハーバーやバターンの死の行進のことも口にした。復讐心に凝り固まっている」
 レスリー・グローヴス陸軍少将は、マンハッタン計画の実務上の責任者だ。原子爆弾の開発、製造、そして投下まで、グローヴスを司令塔として動いてきた。スティムソンは、報告を受けるだけである。
「いつに?」
「テニアン島を、六日の午前二時四十五分に飛び立つ予定だ。日本時間では、午前一時四十五分。日本までの飛行時間は六時間。六日の八時前には、日本の上空にいる」
「目標は?」
「小倉、長崎、広島、どこになるかは天候次第だ。京都は、入ってない」
 グローヴスは、強硬に京都への原爆投下を主張した。地形も理想的だと言い、スティムソンが「京都は外せ」といくら言っても聞かなかった。それを何とか抑えて、京都だけは目標から外した。あの美しい古都が消えるなど、耐えられない。それに、京都に原爆を落としたら、戦争が終わっても日本人は永遠にアメリカ合衆国を許さないだろう。千年の都だ。日本人の歴史を知っていれば、京都が特別の町であることは理解できる。
「二十時間後には、我々は、一瞬で大量殺人を行った最初の人間として歴史に残る」
 スティムソンの声は沈んでいた。
「私も、ずっと反対してきた。アイゼンハワーも、マッカーサーも賛成はしておらんよ」
 確かに軍人たちは、原子爆弾投下に反対していた。東京の下町を火の海にし一夜で数えきれない人々を殺した、あのブラッディ・ルメイでさえ「原子爆弾は必要ない。今のまま空襲を続ければ日本は降伏する」と言っている。
「これで、戦争は終わるだろう。しかし、人類は後悔することになる」と、スティムソンはつぶやいた。
「ヘンリー、少し休んだ方がいい」
「ああ、そうするよ」
 スティムソンは電話を切り、すぐに別の番号をまわした。グルー国務次官の自宅だった。さすがに、週末まで国務省には出ていまい。召使いが出て、すぐにグルーに代わった。
「スティムソンだ。テニアン島を離陸する時刻が決まった。今から、約十五時間後。日本時間の午前一時四十五分。二十一時間後、午前七時時四十五分には日本上空の予定だ。その時の天候で判断し、小倉、長崎、広島、三都市のどこかに原子爆弾が落ちる」
 スティムソンは一気に話した。
「止められないのですね」
 しばらく沈黙した後、グルーが言った。
「もう動き出した。日本の対応は遅すぎる。間に合わん」
「まだ十五時間あります。日本時間で五日中にポツダム宣言受諾の正式な返事があれば、ギリギリ止められるかもしれません」
「ポツダム宣言を受諾するにしても、日本は中立国のスウェーデンに仲介を依頼するだろう。時間がない。あの日系二世に望みは託せるか?」
「連絡が途絶えています。ワシントンのサノバビッチが、彼の潜入を日本側に漏らした」
 紳士で通っているグルーが、ダーティワーズを使う。サノバビッチが誰か、グルーにはわかっているのだ。スティムソンにも、誰なのか伝わった。
「親書が天皇に渡っていれば、何万人かは死なずにすむのです」
 グルーが絶望的な声を出した。

■1945年8月5日 11:00 大西洋
 戦艦オーガスタは大統領を乗せて、悠然と大西洋をヴァージニア州ニューポート・ニューズに向かって進んでいた。大西洋を半分過ぎたところだった。二日前、トルーマン大統領は同行していた船内の記者団を自室に招き入れ、初めて原子爆弾についての発表を行った。「近々、それは日本に対して使用されることになる」と、トルーマンは語った。
 記者たちは口々に、原子爆弾なるものについて質問をした。どれほどの威力があるのか、いつ完成したのか、日本のどこに投下されるのか、などである。トルーマンは「まだ機密であり、諸君がこの船に乗っている限り、原子爆弾の話を聞いても知らせられないから発表したのだ」と答え、「これで戦争は終わるだろう」とトルーマンは断言した。記者のひとりが手を挙げ、トルーマンは発言を許可した。
「大統領、確かに我々は通信を許可されておらず、下船するまで本社に連絡をすることもできません。ということは、この船が港に着くまでには、どこかで大量の日本人が死ぬことになるのですね」と、彼は言った。
「ジャップが死ぬことを、私は気にしない。これで戦争は終わるだろう。そのことによって、多くのアメリカ兵の命が失われずにすむのだ」
 トルーマンは記者の発言に含まれた皮肉なニュアンスに顔をしかめながら、原子爆弾使用の正当性を口にした。トルーマンが話し終わると、記者たちの大半が立ち上がり拍手をした。
 今、バーンズ国務長官を前にして、トルーマンはそのことを誇らしく思い出していた。しかし、心のどこかで大量殺人兵器である原子爆弾を初めて使用した大統領として、歴史に名が残ることにわだかまりがあった。ジャップが死ぬことは気にならなかったが、何万人という人間を一瞬で殺していいものかという疑念はぬぐえない。
 目の前のバーンズには、何の迷いもないように見えた。莫大な国費を投入して開発した新兵器を使うのは当たり前だったし、「スターリンは腰を抜かすぞ」と投下の成功を待ち望んでいた。今後、アメリカは向かうところ敵なしになる魔法の杖を手にしたのだ。そのバーンズとトルーマンは、今、ふたりだけで船室に籠もり、ポツダムでのソ連との交渉結果を検討していた。
「ジャップが手を挙げたら、今後はソ連が我々の警戒すべき相手になる」と、バーンズは言った。
「スターリンは、信用ならん。満州はもちろん、北海道も手に入れたがるだろう」
「大統領、日本をドイツにしてはならない」
「我々だけで占領する。そのためには、ソ連参戦前に日本を降伏させなければならん」
「だから、とっとと原子爆弾を落とせと言ったのだ。スティムソンの進言など考慮する必要はなかった。それだけ、投下が遅れてしまった。スティムソンの背後にはグルーがいる。グルーはジャップに甘すぎる」
 ふたりだけの時のバーンズの口の利き方が、トルーマンには気に障るようになっていた。政界に進出したとき、田舎出の自分を教え助けてくれたのは確かにバーンズだった。彼も同じように田舎出の上院議員だったからだ。だが、ルーズヴェルトが死んで跡を継いだ大統領とはいえ、バーンズの言葉には大統領に対する敬意が感じられなかった。いつまでも、後輩政治家としか見ていない。
「グルーの最後のあがきは失敗した。十数時間後には、ジャップ共の頭の上で神の光が輝く。アルマゲドンだよ」と、バーンズが言った。
「きみの情報源から、何か言ってきたのかね」
「グルーは、自宅に籠もっているそうだ。それに、日本が降伏したら、国務次官を退く決心をした。日本のポツダム宣言受諾と当時に、グルーから辞表が出る」
 トルーマンは、ハーヴァード出身のグルーとは肌が合わなかった。同じ時期にハーヴァードで学んでいたルーズヴェルトとグルーは、同じ階級として信頼しあっていたのだろう。日本に十年にわたって滞在し、あのヒロヒトとも信頼関係を築いたという。
 トルーマンがバーンズを国務長官に任命した時に、グルーは辞意を固め、進退伺いを出してきた。トルーマンが人事の変更はしないと宣言したのと、日本の降伏を見届けたかったから、今も国務次官のポジションにいるのだ。だが、今やグルーは、補佐官のジャック・シモンズにさえ背かれている。シモンズの情報で、バーンズにはグルーのことがすべて伝わっていた。
 トルーマンは、日本降伏後のソ連及び共産勢力の封じ込めをどうするかを熱心に説くバーンズを改めて見つめた。確かに、日本が降伏した後は、中国大陸では蒋介石の国民党軍と、毛沢東や周恩来が率いる共産軍との戦いが激化する可能性がある。ソ連は、中国共産軍を支援するだろう。それに、日本の植民地支配から解放される朝鮮や台湾がどうなるか。インドシナ半島の情勢も予断を許さない。
 一発の原子爆弾によって日本が無条件降伏することを、トルーマンは心の底から願っていた。

2018年11月 1日 (木)

●天皇への密使・第四章その2

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その2

■1945年8月5日 9:20 東京・九段
 取調室で待っていると、ふたりの憲兵がヘンリーを連れてきた。菅野少尉の向かいの椅子に座らせる。昨日よりはしっかりしているように見えるが、左手の爪があったところには血が盛り上がって固まったままだった。ヘンリーの唇が震えて、何か言った。憲兵たちが出ていくと、菅野少尉は手帳を取り出した。
〈おまえを救い出す。この後、責任者が立ち会いにくる。そいつを人質にして、ここを出る。門の外に車が待っている。それに乗れ〉
 ヘンリーが右手を差し出した。その手にペンを握らせる。
〈そんなことをしたら、兄さんが危険だ〉
〈問題ない。おまえと一緒にいく〉
〈母さんが喜ぶ〉
 ドアが開き、大きな男が入ってきた。大佐だった。
「神山大佐だ。責任者の立ち会いを求めたのはきみか」
 菅野少尉は海軍式の敬礼をした。
「そうであります。この男が重要な情報を持っている可能性があるものですから、尋問に立ち会っていただき、それが確認できましたら、引き渡しをお願いしたいのです」
「それは、きみのところの草野少佐にも言ったが、無理だ」
 その時、菅野少尉は拳銃を抜き、神山大佐の顎にぴたりと銃口を押しつけ、左腕で大佐の両腕を巻き込んだ。左腕に挟んだ大佐の両腕を締め上げると、大佐が呻いた。
「何を、何をする」
「こいつの拳銃を奪え」と、菅野少尉はヘンリーに言った。
 ヘンリーは素早く立ち上がり、大佐の腰のケースから拳銃を奪って構えた。動きに無駄がない。ダメージを装っていたのか。昨夜から比べると、かなり回復したのだろう。
「あんたは人質だ。このまま門のところまでいってもらう」
 そう言うと、菅野少尉は扉を蹴った。神山大佐の大きな体が、うまく盾になってくれる。体を斜めにして神山大佐の後ろに立つと、ほとんどの部分が隠れた。菅野少尉の後ろをヘンリーが歩く。彼らが廊下に出ると、最初に気づいた憲兵が走り寄ってきた。
「通せ。大佐を殺すぞ」と、菅野少尉は怒鳴った。
 周囲にいた憲兵には聞こえたはずだ。憲兵たちのあわただしい動きが止まり、遠巻きにする形になった。単純な手段だが、相手にはわかりやすい。ただ、相手が気をのまれている間に、逃げ出してしまわなければならない。時間が経てば経つほど、こちらには不利になる。門を背にして大佐を盾にして立ち止まり、ヘンリーを先にいかせる。拳銃で威嚇しながら、ヘンリーが門に向かった。菅野少尉は、後ろ向きにジリジリと下がる。大佐は抵抗を示すためか、歩くのに協力しないので引きずる形になった。
「協力しないと、ここで撃つ」と、菅野少尉は耳元で囁いた。
 大佐の抵抗が止まった。そのまま玄関を出る。石段を下がる。門まで数メートルだ。ロールスロイスがドアを開けて待っていた。ヘンリーが乗車し、手をさし伸ばす。
「かまわん。撃て、撃つんだ」という声が聞こえた。
 車から憲兵隊司令部の入り口に視線を戻すと、石段の上にあの中尉が立っていた。憲兵たちが銃を構えて遠巻きにする後ろで、手を振りあげている。憲兵たちの銃が一斉に火を噴けば、大佐の体は蜂の巣になる。憲兵たちは躊躇していた。
「逃げられてしまうぞ。撃て。責任は俺がとる。撃て、撃つんだ」
 もう一度、古沢中尉が叫んだ。古沢中尉の隣で拳銃を構えていた富田曹長が引き金を引いた。その銃弾が大佐の足下で土煙をあげた。それをきっかけに、憲兵たちは一斉に引き金を引く。おびただしい銃声が響いた。神山大佐の体が急に重くなった。支えきれない。それに何発かが、菅野少尉の手足をかすめ、肉を削いだ。
 菅野少尉はずしりと重くなった神山大佐の体を、勢いをつけて突き飛ばした。憲兵たちが、後ずさる。菅野少尉は振り返って走った。ヘンリーが手を伸ばす。その手をつかんだ時、再び銃声が轟いた。ロールスロイスが発車した。ヘンリーは、菅野少尉の体を車の中に引き込んだ。ロールスロイスは、全速力で走り出した。

■1945年8月5日 10:30 東京・丸の内
 東京駅には、大勢の人があふれていた。誰もが、疲れ切った顔をしている。京子はリュックを背負ったまま、待合室の片隅に腰を下ろした。そんなかっこうの人が多くいるので、京子の姿もその中に溶け込んでしまう。駅の中には明らかに戦災で焼け出された人たちもいて、雨露をしのいでいるらしい。空襲で親を亡くした子供たちも汚れ放題の服を身につけて、人々に食べ物をねだっている。
「どちらまで」と、隣から声が聞こえた。
 京子が顔を向けると、中年の女性が笑顔を見せていた。誰もがうつむきがちなのに、その笑顔を見て京子は気持ちが和んだ。年の頃は四十半ばだろうか。品のよい顔立ちで、髪を後ろでまとめ、もんぺに筒袖の一枚ものを身につけ、やはりリュックを背負っていた。
「茅ヶ崎までです」
「お近くて、いいですわね」
「ええ」
「息子がね、広島の連隊にいるんです」
「そこまで?」
「ええ、面会にね。もうずいぶん会っていないんです」
 その息子のことを、誰かに話したかったのだろう。聞いてほしい気持ちが顔に現れていた。
「おいくつですか。息子さん」
「二十一歳です」
「お国のために、ご苦労様です」
「ええ、そうですわね」
 京子が誰もが言いそうな返事をしたせいか、その女性は急にそわそわし始めた。二十一歳の息子の命が心配なのに、相手はさしさわりのないことしか言わない。「お国のために」などと返されたので、その後の言葉を飲み込んだのかもしれない。
「切符は買えたんですか?」
「ええ、昨夜から並んで。明日の朝には広島に着きます」
 広島は海軍の重要拠点の呉も近いし、軍事都市だった。それが、不思議なことに今まで空襲に遭っていない。京子は一度もいったことがないが、戦争が終われば厳島神社には一度いってみたいと思っている。平家物語は、京子の愛読書でもあった。平家一族が壇ノ浦で源義経の軍と戦い、平家の敗北が明らかになった時、平知盛が口にする「見るべきほどのことは見つ」という言葉が京子は好きだった。その言葉を放った後、知盛は「いまは、はや自害せん」と言って鎧を着たまま入水する。
 そう言えば数年前に見た、十六歳の原節子が主演した日独合作の「新しき土」という映画では、主人公が住む家の裏手が厳島神社だった。日本人が見ると不思議だが、あれはきっとドイツの観客向けに日本らしい光景を見せるためだったのだ。ヒトラーも「新しき土」をベルリンで見たと聞いた。ドイツ版の題名は「サムライの娘」だったはずだ。あれは確か、日独防共協定締結記念で作られた映画だった。
「それでは、私はホームにまいりますので」
 急に黙り込んだ京子を不審に思ったのか、女性は立ち上がり頭を下げた。京子も腰を浮かし、軽く会釈する。「お気をつけて」と、後ろ姿に声をかけた。
 今頃は、もうヘンリーを救えたかどうか、結果が出ているのだと京子は駅の時計を見上げた。瀬川からの連絡では、九時に憲兵隊司令部に乗り込む予定だった。ヘンリーの兄が、やはり協力してくれることになった。京子の電話が、菅野少尉を追い込んだのかもしれない。瀬川は、「どちらにしろ、あなたも米国スパイの嫌疑をかけられる」と、脅迫めいた手を使ったようだ。
 九時に瀬川と菅野少尉は司令部に乗り込み、京子は鈴木首相の私邸を訪ねることにした。ヘンリーの使命を果たし、救い出す。どちらも成功すれば、今夜、ヘンリーを上陸地点に送り、彼は迎えの潜水艦に乗る。潜水艦が待つのは、二時間と言われている。今夜の二十三時から午前一時までだ。その時間内に海岸からライトで合図をすれば、迎えのボートがくる。
 迎えのボートは岩場には近寄れないから、ヘンリーは海に飛び込み、少し泳いでボートに乗らなければならないだろう。憲兵隊では拷問を受けたはずだ。そんな力がヘンリーに残っているか、京子は心配だった。ヘンリーが帰っていくのは仕方がないこと、と京子はあきらめていた。無事でいてくれたら、再会できるかもしれない。死んでしまったら、二度と会えない。思い出を抱えて生きるしかない。
 十八で初めて抱いた思いを、京子はずっと胸の奥に秘めて生きることになるだろう。生きてさえいてくれれば----と、京子は祈った。

2018年10月29日 (月)

●天皇への密使・第四章その1

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その1

■1945年8月5日 8:45 東京・本郷
 鈴木邸を遠くから見つめて、京子は大きく深呼吸をした。何事もなくあの屋敷に入れれば、使命を果たすことになる。鈴木首相は、本郷丸山町の私邸で長男と共に首相官邸に出仕する支度をしているはずだった。固辞し続けていた総理大臣職を鈴木が引き受けざるを得なくなった時、長男が首相秘書官としてつきそうことを選び、鈴木は常に長男と共に行動していた。
 慶応三年生まれで七十七歳という高齢ながら鈴木貫太郎が首相に指名されたのは、徹底抗戦を主張する陸軍をのらりくらりとした対応で懐柔できると思われたからかもしれない。しかし、鈴木は海軍出身で連合艦隊司令長官を務めた硬骨漢であり、その後、侍従長として天皇の近くに仕え、天皇の厚い信頼を得ていた。天皇は、父親ほど年の差がある鈴木を愛した。
 四月に小磯内閣を引き継いだ鈴木首相は、すぐにルーズヴェルト大統領の死に遭遇し、共同通信社の短波放送を通じて哀悼の辞を米国国民に向けて送った。その月末には愛人エヴァ・ブラウンと共に自殺することになるアドルフ・ヒトラーが、死んだルーズヴェルト大統領を罵る声明を出したのとは対照的だった。
 しかし、鈴木内閣が発足した時から多くの人間が、「鈴木内閣の使命は、戦争を終わらせることではないか」と疑っていた。鈴木内閣を「バドリオ内閣」と呼ぶ人間たちもいる。二年前の一九四三年七月末、イタリアのムッソリーニは失脚して拘束され、首相となったピエトロ・バドリオは連合国側と秘密裏に休戦交渉を進め、九月には休戦協定が結ばれた。
 しかし、その動きを察知したヒトラーは、イタリアに進駐しローマを占領する。南部に逃げたバドリオ政権は、十月に日独伊三国同盟を破棄しドイツに宣戦布告したため、ヒトラーに支えられたムッソリーニ政権との内戦状態になる。そして、昨年六月、ローマは連合国側によって解放された。
 しかし、三国同盟を破棄し、連合国側と秘密裏に終戦協定を結んだバドリオ政権は、日本においては「裏切り者」としてとらえられており、「バドリオ」という名前を人々は侮蔑的に口にした。「鈴木内閣はバドリオ政権ではないか」という言葉には、勝手な終戦工作は許さないという意味があり、特に陸軍はその動きを警戒し、憲兵隊は鈴木内閣の和平派閣僚を監視していた。
 鈴木は二・二六事件の折り、侍従長を務めていたため「君側の奸」として反乱軍に狙われ、安藤輝三陸軍大尉率いる兵士たちに官邸を襲撃された。鈴木は股間と左胸と頭部左など四カ所に被弾し、士官がとどめを刺そうとした時、夫人が血まみれの夫をかばったため、指揮官の安藤大尉は礼をして去った。その後、瀕死の重傷だった鈴木は、奇跡的に命をとりとめたのだ。
 その数時間前、鈴木夫妻は在日アメリカ大使のグルー夫妻が催したアメリカ大使館での晩餐会に出席し、トーキー映画を楽しみ、夜遅くグルー大使夫妻に見送られて帰宅したところだった。グルー大使は、鈴木の奇跡的な回復を喜んだ。そのことは、グルー本人が「滞日十年」の中で書いていると、京子はヘンリーから聞いていた。その鈴木首相に、京子は親書とフィルムを託せばいいのだ。
 京子はリュックを背負い、ゆっくりした足取りで鈴木邸の勝手口をめざした。勝手口の前に立った時、どこからともなくふたりの憲兵が姿を現した。やはり、監視されていた。
「女、このうちを訪ねるのか?」
「はい」と、おどおどしながら京子は答えた。
 いきなり憲兵に声をかけられ、怖れを見せない者はいない。憲兵は、京子の胸の名札を確認するように見た。
「茅ケ崎から? 何の用だ」
「こちらで、女中を探しているというので----」
「誰から聞いた」
「大磯の吉田様の屋敷で女中をしている者がご主人から相談され、私をこちらにご紹介いただいたのですが」と、住所を知られたため京子は大磯を強調して答えた。
「何、吉田だと!」と、もうひとりの憲兵が言った。
「おい、そのリュックの中を見せてみろ」と、目の前の憲兵の口調が変わった。
 あえて吉田茂の名を出したことが、裏目に出たのだろうか。

■1945年8月5日 9:00 九段
「軍令部の菅野少尉が、あの男との面談を求めてきております」と、受付の部下から連絡が入った。
 またか、と古沢中尉は不機嫌になった。男の引き渡しを要求して、軍令部の草野少佐から神山大佐に再び連絡が入ったことは聞いていた。菅野少尉の上官か、と古沢中尉は思った。菅野少尉の顔が浮かぶ。何かが、古沢中尉の中で引っかかっていた。あの男の名は、どうせ偽名だろうが、菅野と名乗ったのは、なぜだろうか。同じ名の少尉がやってきたのは、単なる偶然なのか。
「取調室で待たせておけ」と、古沢中尉は答えた。
「それが、神山大佐との面談を求めております」
「大佐と?」
「はい。軍令部の草野少佐から話は通っているはずだと----」
「わかった。大佐と話してみる」
 何もわかっていないあのバカは、何か軍令部に約束したのだろうか。古沢中尉は立ち上がり、神山大佐の机に向かった。神山大佐の前で直立し、踵を合わせて軍靴の音を高くたて、「神山大佐殿」と声をかけて敬礼をした。あえて大仰に見せる。その皮肉に気づかず、神山は単純に喜ぶ。
「何だ?」
「軍令部の菅野少尉が、またきております」
「ああ」
「神山大佐殿との面談を求めているとのことです」
「それで、どこにいる?」
「取調室で待たせておけと命じました」
「では、私が引導を渡そう」
「引導?」
「引き渡すことはできん、と言ってやる」
「軍令部には何も?」
「きみに話したと思うが、草野少佐という男からまた連絡があった。米国に関する重要な情報を、あの男が持っているから引き渡してほしいとな。しつこく言ってきた。だが、ダメだと言ったのだ」
「では、なぜ」
「もう一度、尋問を試みたいらしい。そこに、私に立ち会ってほしいというのだ。男が何か話したら重要情報の一部だと騒いで、私に引き渡しを求めるつもりなのだろう」
「では、私が立ち会います」
「向こうは、責任者の立ち会いを求めておる。貴様が出る幕ではない」
 どうも、ご機嫌を損なったようだった。
「すぐに、あの男を取調室に連れてこい」
 そう言うと、神山大佐は靴音をたてて部屋を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、何となくイヤなものを古沢中尉は感じていた。

 神山大佐が部屋を出ていき十分ほど経った頃、古沢中尉の机に富田曹長が息せき切ってやってきた。敬礼もおざなりに、口を開く。
「中尉、菅野少尉を調べたら、ありゃ反米的だとして米国から強制送還された日系二世です。第二次日米交換船できて、志願して海軍軍令部に配属されました。米国通として米国情報を担当していますが、こりゃあ、怪しいですぜ」
 古沢中尉は、富田曹長の上官を上官とも思わない口の利き方も気にならなかった。あの男が菅野と名乗ったのは、理由があった。菅野と名乗ることで、何らかの発信をしていたのだ。菅野兵介という名前で、あの少尉が気づいたのだ。こちらの動きが、軍令部に筒抜けなのは以前から気づいていた。あの男の名前も、軍令部は知ったのだ。それで、菅野少尉がやってきた。
 その時、門の方が騒がしくなった。ドタドタと人が走りまわる音がする。ひとりの憲兵が部屋に飛び込んできた。
「大変です。軍令部の少尉が神山大佐を人質にして、捕虜を連れ去ろうとしています」
 その瞬間、それほどまでして菅野兵介を軍令部に連行したいのか、それほどの情報を持っているのか、という考えが古沢中尉の頭をよぎった。いや、あり得ない。菅野少尉と菅野兵介には、個人的な関係があるに違いない。菅野兵介が我が国に潜入した米国の間諜だとしたら、日系二世の菅野少尉と何らかの関係がある。それが、やつが菅野と名乗った理由だ。
 古沢中尉は廊下へ走った。富田曹長が拳銃を握りしめ、後を追った。

■1945年8月5日 9:10 東京・本郷
 鈴木貫太郎が官邸に出かける準備をしていると、女中が勝手口に女中の候補だという女がきていると告げにきた。女中を探していると聞いていなかったので、彼女は少し不満そうである。まさか、自分に代わる者ではあるまいと思っているようだが。
「吉田茂様にご紹介いただいて、と申しております」
「何、すぐに面接する。応接に通しておきなさい」
「旦那様、ご自身でお会いになるのですか」
「ああ、すぐにな」
 鈴木は、昨日一日、待ち続けた。吉田からは何の連絡もなく、今朝になってようやく電話が入り、「使いの者に事故があった」と吉田は言った。盗聴を警戒しているようだった。「届け物は、届かないかもしれない」と吉田は言って電話を切った。しかし、今、吉田の紹介という者がきている。女がくるとは予想していなかったが、何らかの事情があるのだろう。
 応接室に入ると、若い娘がもんぺの膝をきちんとそろえて座っていた。白い半袖の開襟シャツが女学生のように見せている。実際、本当の女学生なのかもしれない。横にリュックを置いてあった。
「吉田くんからの紹介だって」と、鈴木は声をかけた。
「はい」と、娘は立ち上がる。
「貞永京子くんか」と、鈴木は名札を見て言った。「昔、貞永さんという法律学者がいた。お会いしたことがある。もしかしたら、きみは?」
「娘です。父は亡くなりました」
 鈴木は、娘の厳しい表情に何も言えなかった。座るように手で示し、自らもソファに腰を下ろした。
「そうか、気の毒に。空襲で?」と、ようやく口にした。
「いえ、憲兵の拷問で体を弱らせました」
 鈴木は、再び言葉を失った。娘の言葉に含まれた、強い憎しみを感じたのだ。
「それは、お気の毒に。それで、吉田くんの紹介というのは----」
 娘は立ち上がり、背中に手をまわしてもんぺからシャツを引き出し、何かを取り出した。四角いケースのようだ。それからシャツの胸から白い紙に包んだものを取り出し、テーブルに並べた。別々に身に着けていれば、どちらかを発見されても、もう一方は隠しおおせるかもしれないからだろう。
「グルー大使の親書と、新型爆弾の実験を記録したフィルムです」
 そう言いながら、娘は白い包み紙を外し封筒を出した。本当に存在したのか、と鈴木は唸った。吉田の話を信じていないわけではなかったが、実際に目にすると、不思議なものを見るような気持ちだった。
「きみがなぜ、これを?」
「これを持ち込んだ人は、憲兵隊に捕まりました。私が、その使命を引き継いだのです」
「よく、これを持って、ここにこれたね。外には憲兵の監視があっただろうに」
「ええ、リュックの中を見せろと言われました」
「それで?」
「リュックには、野菜しか入れていません。フィルムはかさばるのですが、リュックを背負っていれば、シャツの背中に入れておいても目立ちません。リュックを下ろすとまた背負うのが大変だからと、憲兵には背負ったまま中を見せました。さすがに女の私の体までは調べませんでした」
「きみは、この手紙の内容とフィルムに何が写っているか、知っているのかね」
「詳しくは知りません。これを運んできた人は、ワシントンを出る前にフィルムを見たそうです。その新型爆弾の爆破実験を見れば、すぐにでも日本は降伏するはずだ、と彼は言いました」
 鈴木は、腕を組んだ。吉田が言ったように、国体の維持が保証され、ソ連の参戦が本当なら、それだけでポツダム宣言即時受託に持ち込める。新型爆弾が原子爆弾だすれば威力は計り知れない。記録フィルムには、その爆破実験が写っているという。しかし、フィルムを陛下に渡せるかどうか。親書だけなら上奏の折りに手渡せるだろうが、フィルムのように目立つものを渡すとなると木戸内大臣がどう反応するだろうか。
 今年の初めまで、木戸内大臣は軍部の報告以外、陛下への謁見を許可しなかった。戦況が厳しくなり、陛下の意向もあって今年二月に重臣たちを謁見し、現況についての意見を聴取したが、その時、近衛文麿でさえ三年ぶりの謁見だったのだ。その折の近衛上奏文の内容が憲兵隊に伝わり、四月には吉田茂が起草に協力したとして逮捕された。近衛の謁見には木戸内大臣以外は立ち会っていなかったことから、木戸から軍部へ上奏の内容が伝わったとしか考えられなかった。
 しかし、陛下から特別に鈴木が首相に指名された理由は、木戸内大臣もわかっているはずだ。今の鈴木は、緊急であっても陛下に謁見できる立場だった。だが、フィルムは手渡しできるかどうか。陛下は活動写真が好きで、かつては弟君の高松宮などを招き定期的な上映会を宮中で開いていた。だから、映写の設備は整ってはいるが----。
「その新型爆弾は、いつ落とすというのかな?」
 鈴木は原子爆弾であることについては、まだ半信半疑だった。日本の学者たちも原子爆弾の原理を研究し、その威力は未知ではあるものの想像を絶するとは聞いていた。しかし、彼らは、まだまだ開発は無理だと断言した。それを、米国は本当に開発したのだろうか。
「わかりません。すでに準備はできていて、いつでも落とせるようです。グルー大使は事前に日本に警告すべきと主張したそうですが、大統領が受け入れなかったとか。今日にでも落とされるかもしれません。だから、早急にポツダム宣言を受諾してほしいと、陛下に親書を託したのでしょう」
 鈴木は、もう四年近く会っていないグルー大使の顔を思い浮かべた。物静かな教養のある紳士だった。信頼できる人物だった。陛下もグルー大使の親書なら信頼するだろう。
「早急に陛下にお会いして、親書をお渡ししよう。しかし、フィルムは親書を読まれた後に、改めて陛下からのご要望を受けたうえでお渡しすることになるかもしれん。すべて、私が預かっておく」
「わかりました。間違いなく届くのであれば、私の役目は終わりました。これで失礼します」
「ああ、それで。女中の件は?」
「もし、また憲兵に止められたら、採用されなかったと答えます。だから、このリュックの中身はそのまま持ち帰ります。採用されたら、挨拶代わりに差し上げるつもりのものだと憲兵に説明しましたから----」
「そうか、それは残念だな」と、鈴木は本当に残念そうな声を出した。
 首相だといっても、食糧難は庶民と同じなのかもしれない、と目の前の老人を見つめて京子は思った。一国の首相としての立場上、闇の食料に手を出すようなことはしそうには見えなかった。そんな一本気で、実直そうな印象があった。

2018年10月25日 (木)

●天皇への密使・第三章その6

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第三章その6

■1945年8月4日 21:00 横浜・日吉
 京子と別れた瀬川は、いつものように組織の上部に連絡を入れた。潜入した菅野兵介が憲兵隊に連行されたことを報告し、その後の憲兵隊の動きを探れるかどうかについて問い合わせ、さらに軍令部の菅野少尉に関する調査を依頼した。その返信がくるまでには、時間がかかった。いつもの神社に参拝をするふりをして連絡文を受け取り、内容を確認して廃棄し、そのまま夜勤のために軍令部に出仕した。今は二十四時間体制で、米国の放送を確認しているのだ。このところ、瀬川はずっと深夜の担当だった。
 やはり、菅野兵介を救出する手だてはなかった。憲兵隊司令部に拘留されているのは確認できたが、そこに捕らえられている限り手の打ちようがなかった。それに組織の上部にしても、彼の具体的な使命は知らない。潜入の補助、使命達成への協力を指示されていただけだ。瀬川の方が情報を持っている。
 菅野兵介の使命は、京子に託された。明朝、京子はそれを果たすために、再び上京することになっている。問題は、憲兵に誰何されずに、そこへ親書とフィルムを届けられるかどうかだった。しかし、そのことを組織に報告すれば、本来の使命は達成できる可能性があるのだから、菅野兵介の救出は必要ないという結論になる。菅野兵介は、尊い犠牲者となるだけだ。
 あの人を助けて、と京子は言った。その時の京子の深い悲しみに沈んだ顔が浮かんだ。一年近く京子を見てきたが、あんな顔をしたのは初めてだった。特別な感情が、京子の悲しみに充ちた表情に現れていた。瀬川は、嫉妬に似た気持ちが湧き起こるのを感じたが、それはすぐに消えていった。京子の切なる願いを叶えたい気持ちが勝った。初めて、京子が十八歳らしい素直な感情を見せたのだ。
 あの男を救えるとしたら、菅野少尉しかいないのではないか。菅野少尉への京子の電話の反応を探るために、瀬川は英語放送の解釈についての協力という口実で軍令部五課の菅野少尉を訪ねた。そこで教えられたのは、菅野少尉は憲兵隊司令部に出かけており、帰りの時刻が不明だということだった。菅野は出直すことを告げて、五課の部屋を出た。
 五課の部屋のドアを閉め、振り返ると廊下を歩いてくる菅野少尉がいた。ひどく沈んだ顔をしている。考え事をしているのか、下を向いた顔に陰があった。
「菅野少尉」と、瀬川は声をかけた。
 菅野少尉が顔を上げた。じっと瀬川を見る。誰だか、わからない様子だった。しばらくして、「ああ、きみか」とつぶやいた。
「また、英語の解釈について、お訊きしたいところが出たものですから」と、瀬川は言った。
「重要なこと? 悪いが、急ぎでなかったら、後にしてくれないか」
 菅野少尉の心を、別のことが占めているのだ。もちろん、実の弟が憲兵隊に捕らえられているからだ。憲兵隊司令部にいっていたとすれば、京子の電話の内容が本当かどうか確認しにいったに違いない。この顔を見れば、菅野少尉が弟と会ったのがわかる。
「何か、ご心配なことでも?」と、瀬川は探りを入れた。
「あっ、いや、何でもない」
 そう言って、菅野少尉は扉のノブをつかんだ。
「弟さんのことですか?」
 瀬川がそう言った瞬間、菅野少尉は振り返った。鋭い視線が瀬川を射抜いた。瀬川の対応次第では、殺すことも躊躇しない目だった。その冷酷な視線にたじろいだ。
「何のことだ?」
「憲兵隊に逮捕されたヘンリーのことです」
 瀬川は、賭けに出た。自分の正体が露見し、逮捕されるかもしれない。菅野少尉は、どちらを選ぶだろう。しかし、今の瀬川には、ある確信があった。菅野少尉は、じっと瀬川を見つめる。やがて、瀬川に放っていた殺気を消し、ドアのノブを離した。
「貴様、何者だ」
「ここでは----」
 何も言わず、菅野少尉は振り返り、廊下の奥に向かう。瀬川も従った。菅野少尉は、廊下の奥の物置代わりになっている小部屋の扉を開き、中に入った。瀬川も周囲を見渡してから身を滑り込ませた。
「貴様、あの女の仲間か」と、菅野少尉が言った。
「彼女は、あなたの弟を救い出したがっている。だから、危険を冒して、あなたに電話をした」
「貴様たち、米国の間諜だな」
「それは、弟さんと会ったということですね。話はできましたか?」
「大きなお世話だ」
 瀬川の賭けは、今のところ破綻していない。軍令部米国情報担当の少尉に自らの正体を明かすことは、身の破滅を意味する。逮捕され、尋問され、国賊と呼ばれて処刑される。だが、米国スパイとして日本に潜入した男の兄だとわかれば、菅野少尉の身も安全ではない。菅野少尉自身が米国のスパイと疑われるのは間違いない。どんなに言い訳しても、信用はされないだろう。
「貴様たち、俺をはめたな」
「そんなつもりはありません。彼女は心底、あなたの弟を救いたかった。だが、我々には手も足も出ない。あなたにも、何ができるかわからない。しかし、我々よりは可能性があった。少なくともヘンリーに面会できた。彼の様子は?」
 瀬川の言葉を、菅野少尉は黙って聞いていた。
「拷問で、ひどく痛めつけられている」と、しばらくしてつぶやいた。
「やはり----」
「このままでは殺されてしまう」
 菅野少尉の苦悩が伝わってきた。それなのに、瀬川は菅野少尉の弱みにつけ込んで、ヘンリーの救出を手伝わせようともくろんでいた。いや、手伝いなどではなく、菅野少尉自らが先頭に立たなければ、菅野兵介ことヘンリー・スガノは救えない。その場合、菅野少尉は裏切り者になり、この国に居場所はなくなる。
「救えませんか」
「どうやって----」
「あなたが救うしか方法はない。あなたなら憲兵隊司令部に入れるし、もしかしたら身柄引き取りも可能かもしれない」
「身柄引き取りを軍令部として依頼したが、それは無理だ。弟は兵士をひとり射殺----」
 菅野少尉は言葉を途中で切り、瀬川を見つめた。
「貴様か。一緒にいた男は----」
 瀬川は、何も答えなかった。肯定も、否定もしない。
「くそっ、俺を身動きできないほど、はめたな」
「今更、私を間諜として突き出せない? あなた自身が疑われるかもしれませんね」
「俺の言葉など、誰も信用しなくなる。日系二世だしな。今頃は、憲兵隊も俺のことを調べているだろう」
「なぜ?」
「カンノだろうが、スガノだろうが、俺の名と捕まえた男の名が同じだからだ」
「あなたには、選択肢がほとんどない」
「それはわかっている。俺も弟は救いたい」
「では、協力していただけますね」
 菅野少尉は、あきらめたように首を縦に振った。
「だが、どんな計画だ」
 そう言われて、瀬川には明確な計画がなかった。
「明日の朝までに、逃亡用の車は準備します。こんな場合ですから、ガソリンは何とか手配します。車のあてもあります。ロールスロイス。点検して、給油し、憲兵隊司令部の前で待機しています。その車の持ち主はすぐにわかるかもしれないが、文句は言わないでしょう。『車庫から盗まれた』と、ぬけぬけと言い逃れてしまうような人物です。ところで、あなたは、もう一度、ヘンリーに会えますか?」
「ああ、再度の尋問を依頼してある」
「だとすれば----」
「単純な計画だな。取調室で誰かを人質にとる。ヘンリーを連れて、司令部を出る。人質を連れて、車に乗る。どこかで人質を解放する」
「人質にとるのは、やはり高官でないと」
「あてがある。草野少佐には悪いが----」
「草野少佐?」
「上司の名前を使わせてもらう。いい人だし、世話になったが」
「ヘンリーを救出したら、一緒に生まれた国に戻ったらどうですか」
「俺は、あの国から追放されたんだ」
「そういうことに、なっていますね」
 瀬川は、菅野少尉を見た。菅野少尉は笑ったようだった。自分が追い込まれた窮地に対する自嘲の笑いか。あるいは、瀬川の言葉に含まれた言外の意味がわかったのか。瀬川は、自分の確信が本物だったと思った。

2018年10月21日 (日)

●天皇への密使・第三章その5

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第三章その5

■1945年8月4日 19:00 東京・九段
「軍令部から厄介な依頼がきた」
 のんびりした口調で、神山大佐が言った。
「何でありますか?」と、古沢中尉は訊いた。
「例の男、軍令部米国情報担当の五課にとって、我が国の存亡を左右する情報を保有している可能性があるので引き渡してもらえないか、ということだ。そのことで、もうすぐ担当官がくる」
「引き渡すと答えたのですか?」
 古沢中尉は、勢い込んで尋ねた。このバカなら、引き渡すと答えかねないと疑ったのだ。
「まさか。検討すると答えた。そうしたら、『とりあえず、うちの担当官と面会させてほしい』と言うので、断りきれなかった」
「尋問は、こちらに任せてほしいものです」
 古沢中尉は、露骨にムッとした顔をしてみせた。
「そこを、何とかしろ!」と、さすがに神山大佐も上官への当てつけに怒りを露わにした。
「わかりました。しかし、今の状態のあの男、ろくに話もできないと思いますよ」
「それは、それでいい。面会させた事実があればいい」
「わかりました」
「それから、吉田はどうした?」
「帰しました」
「そうか。まあ、いろいろ人脈を持つ男だからな」
「ただ、間違いなく吉田と菅野は接触していると思います」
「なぜだ?」
「菅野が何も持っていなかった、と言った時の吉田の反応です。一瞬ですが、意外そうな、驚いたような顔をしました」
「そうか」
 その時、神山大佐の机の電話が鳴った。神山が受話器を取り上げる。わかった、と答えてすぐに受話器を戻した。
「軍令部の担当官がきたそうだ。対応してくれ」
「少し待たせておきましょう」
 古沢中尉が答えると、神山大佐は椅子にふんぞりかえるようにして「わかった」と答えた。

 さっき、憲兵隊司令部の前ですれ違ったステッキをついた男は元外務官僚の吉田茂だったな、と菅野少尉は長く待たされる間に思い返していた。今年の五月は、ずっと陸軍刑務所にいたはずだ。その後、陸軍刑務所が空襲で焼けて、どこかの小学校に移されたと聞いた。釈放されて二ヶ月になるが、まだ憲兵隊に呼び出されているのか。
 取調室に案内されたまま、もう三十分以上が過ぎていた。すんなり、こちらの要望が通るとは思っていなかったが、相変わらずの対応だった。軍令部など、陸軍大臣直属の組織である憲兵隊にとっては、相手にするほどのものではないと思い知らせたいのだろう。菅野少尉の要望は、立会人抜きで面会したいということだった。それも、相手を怒らせているに違いない。こちらの持っている情報を提供しろと言ってくるかもしれない。
 その時、取調室の扉が開いた。菅野少尉は立ち上がった。相手が中尉だったからだ。陸軍と海軍の違いはあるが、階級はとりあえず相手が上だった。菅野少尉は、海軍式の敬礼をした。せめてもの当てつけだ。相手の顔に侮蔑の色が広がった。
「憲兵隊、古沢中尉だ」
「軍令部米国情報分析官の菅野少尉であります」
「少尉、きみはスガノというのか。どんな字を書く? 水道管の管かな」
「いえ、草カンムリの方です。それに野原の野です」
 ひっかけようとしたな、と菅野は思った。
「菅野か。あの男と同じ字だ。あの男、カンノ・ヘイスケと名札や偽造の身分証明にもあって、便宜上そう呼んでいるが、もしかしたらスガノかもしれんな」
「日本語の読みは、複雑であります」
 フフッと、古沢中尉は笑った。
「そちらは、立ち会いなしでの面会を希望していると聞いた」
「はい」
「なぜだ?」
「機密に関することでありますから」
「言えん、というのか! ここは憲兵隊司令部だぞ!」
 どうも、権威や権力が好きな男らしい。軍人に多いタイプだ。菅野の最も嫌う人種だったが、ここらで少し情報を出すか。相手の威光に恐れ入ったような応対が、このタイプの男たちの自尊心を満足させるはずだ。
「では、申し上げます。実は、昨日、早朝、海軍の監視艇が相模湾沖で米国艦船のものと思われる救命ゴムボートを発見しました」
「その情報を海軍内で隠蔽していたのか」
「隠蔽などとは----」
「うるさい。なぜ、憲兵隊に報告せん」
「それは、私の上官にお訊きください。私の権限では、先ほどの情報をお話しするのが限度です」
 古沢中尉は、満足の笑みを浮かべた。
「おまえも上官の命令との板挟みでつらいところらしいな。座れ」
 そう言って、古沢中尉は取調室の中を歩き始めた。もったいぶっているのか、あるいは考え事をしているように見せたいのか。
「よろしい。立会人なしで面会させよう。今、連れてくる」
 古沢中尉は扉を開け、合図をした。ふたりの憲兵に両側を支えられて、男が連れられてきた。ヘンリーだった。その姿を見た瞬間、菅野少尉は自分の顔色が変わるのを感じた。湧き起こる怒りを抑え込むのに苦労した。
 ヘンリーは菅野少尉の向かいの椅子に座らされたが、すぐに上体が机の上に突っ伏した。意識はあるのだろうか。菅野に目も向けない。顔全体が腫れ上がっているように見えた。机を抱きかかえるようにダラリと伸びた手、左手の指が三本なくなっていた。さらに、残った左手の二本の指の爪がなくなっている。血が盛り上がり、こびりついていた。あえて、傷ついた手の残った指の爪を剥がしたのか。何と、残酷なことをする。
「ふたりにしてやる。その男の口が利けるかどうかは保証しない。ただし、その男が何か話したら、こちらにも報告してもらおう」
 弟の無惨な姿を見つめたまま「了解しました」と、菅野少尉は冷ややかに見下ろす古沢中尉に答えた。古沢中尉と憲兵たちが部屋を出ていく。おそらく、この部屋には盗聴マイクが仕掛けられている。そうでなければ、やつらが立会人抜きの面会など認めるものか。菅野はポケットから手帳を取り出して走り書きをし、ヘンリーの肩を揺すった。腫れた瞼でふさがったヘンリーの右目が開いた。その前に、菅野少尉は立った。
 ヘンリーの顔に驚愕が走った。驚きの表情のまま身を起こす。何か言いそうになったヘンリーの口を、菅野少尉の手がふさいだ。手帳に書いた文章を見せる。
〈盗聴されてる。俺は、海軍の軍令部少尉。これは取り調べだ〉
 ヘンリーがうなずいた。問いかける目は変わらない。
「おまえは、日系二世だな。我が国に潜入した目的は何だ」と、菅野少尉は言いながら手帳にすばやく英文を書く。
〈詳しいことは言えない。おまえは何しにきた〉
 ヘンリーは、右手を振った。菅野少尉はその手にペンを持たせ、手帳を差し出した。ヘンリーの震える字が書かれる。やはり、英文だった。
〈終戦を早めるために〉
 やはり、「鶴」として潜入したのは、弟だったのか。菅野少尉は、手帳に質問を書きながら言った。
「昨日、相模湾から上陸したのは貴様だな」
〈電文は解読した。「鶴」はおまえか。「菊」をどうする〉
〈昔なじみから届けるものがあった。それ以上は話せない〉と手帳に書きながら、ヘンリーが呻いた。
〈わかった。いつまで黙秘する〉
〈明日いっぱいがんばりたい。命があれば〉
〈拷問はやめさせる。後は待て〉
〈危険なことはやめてくれ。覚悟はできてる〉
「貴様の目的は何だ」
 ドン、と菅野少尉は机を叩いた。ヘンリーが再び呻いてみせる。
〈その指は戦傷か〉
〈おかげで勲章をもらった〉
 菅野少尉は、ヘンリーの肩を「大丈夫だ」というように叩いた。その時、ヘンリーが早口で何かしゃべった。盗聴マイクを通して聞くと呪文のように聞こえただろうが、菅野少尉には充分に伝わった。ヘンリーは「Mother waiting」とつぶやいたのだ。
「何もしゃべらないつもりか。だとしたら、このまま憲兵隊での拷問が続くぞ。軍令部では、そんな方法は取らない。話すつもりなら、軍令部で貴様の身柄を引き取る。どうだ、これ以上、ここにはいたくないんじゃないか」
 そう言って、菅野少尉はしばらく沈黙した。相手の反応を待っていると思わせたいのだ。やがて菅野少尉は扉を開いて、そこにいた憲兵に尋問は終了したと伝えた。ふたりの憲兵が再びヘンリーを抱き上げ、引きずるようにして連れ出した。しばらくして、古沢中尉が現れた。扉を閉めながら、「早かったな」と言った。
「何もしゃべりません」
「そのようだな。しかし、軍令部には引き渡さん。それは承知しているな」
 盗聴していたことを認めたようなものだが、居丈高な態度は相変わらずだ。
「あの男、かなり弱っているようです。尋問になりませんでした。これ以上痛めると、尋問するどころではなく命に関わるでしょう。拷問は中止していただけませんか。改めて、尋問をしたいのです。それまでに、あの男を休ませておいていただきたいのですが----」
「どうするかは、こちらの勝手だ。こちらでも尋問を進めるし、口を割らなければ割らせるだけだ」
「指の爪をふたつも剥がして、口を割らなかった男ですよ」
「しぶといやつだ」
「私の権限を越えますが、こちらの情報を話します。男から情報を得なくても、ほぼ確認できると思います。それを提供すれば、我々の再度の尋問と、拷問を中止して男の命を保証してもらえますか」
「内容次第だな」
 古沢中尉は、もったいぶった反応をした。
「先ほど、救命ボートを発見したことはお話ししました。その後、米国の戦艦、おそらく男を上陸させた潜水艦から発信されたと推測できる電文を傍受しました。『鶴は菊を目指して飛び立った』という内容です。おそらく、あの男が鶴です。菊とは我が国のことかと最初は思いました。分析の結果、畏れおおくも天皇陛下であらせられるのでは、と我々は推察しました。最初、陛下に危害を加える計画かと考えましたが、その後の情報で何かを託されて我が国に潜入したものだと確信しました。あの男に確認したいのは、託されたものが何かということです。いかがでしょう。ここまで情報を開示したのですから、先ほどのこちらの願いを聞いていただけませんか」
 菅野は確信していた。弟はポツダム宣言受諾を促す重要な何かを持ってやってきたのだ。そして、明日いっぱいで、その任務の結果が決まる。だから、明日いっぱい黙秘を貫こうとしている。
 古沢中尉は、菅野少尉の話を注意深く聞いていたが、改めて考えを巡らせているようだった。やがて結論を出したのか、首をまわし、顔を上げ、菅野少尉を見つめた。やはり、もったいぶっている。
「わかった。その情報を小出しにして、あの男を尋問してみよう。拷問はやめておく。それは、約束する。我々も、あの男に死なれたのでは元も子もない」
「ありがとうございます。身柄を引き取りたいというお願いは、ご検討いただけましたか」
「ふざけたことを言う。さっき念を押したはずだ。あの男は、兵士射殺の疑いもある。軍令部などに渡せるものか」
「わかりました。今日のところは、これで引き上げます」
 菅野少尉は再び海軍式敬礼をして、踵を返し、取調室の扉を開けて足を踏み出した。

 菅野少尉が部屋を出た後、しばらく考え事をしていた古沢中尉は、扉を開いて富田曹長を呼んだ。
「何でありますか?」
「軍令部五課の菅野少尉を、早急に調べろ。経歴はもちろん、わかることは全部だ」
「あの少尉に向かって、あの男が何か口にしましたが----」
「そうだ。意味不明だったが、イントネーションから推察して英語ではないかと思われる。菅野少尉と何らかの関係があることを言ったのかもしれない」
 富田曹長は、急いで取調室を出ていった。

2018年10月18日 (木)

●天皇への密使・第三章その4

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第三章その4

■1945年8月4日 17:00 東京・平河町
 吉田茂は一日、じりじりと焦る心を抑えて夕方を待ち続けた。麻生鉱業の寮から一歩も出なかったが、動かないことで憲兵隊が監視をあきらめるとは思わなかった。かえって、吉田がずっと籠もっていることを不審に思うかもしれない。
 午後四時を過ぎ、吉田は自動車の手配を頼んだ。やってきた車の後部座席に身を沈め、平河町の屋敷跡まで三十分ほど焼け跡だらけの東京を走った。窓の外の光景は、もう見慣れたものになった。しかし、その無惨さには慣れることはない。それでも、人々は焼け跡にバラックを建て、何とか生き延びている。今は真夏だから、裸同然でも生活できる。これから秋がきて、冬になればどうなるのだろう。
 飢えと寒さで、死んでいく人間がどれほど出るか。上野駅の構内や地下道には、親を失った戦災孤児たちが集まっているという。毎日、どうやって生き延びているのか。この国に、こんな荒廃をもたらせたものに吉田は肚の底から怒りを感じた。英米を相手に戦争を始めるとは、愚かなことだった。もうすでに遅すぎるとはいえ、すぐにでも戦争を終わらさなければならない。
 だが、軍部は未だに本土決戦を口にし、和平工作を行おうとする者を国賊と呼ぶ。狂信的な軍人たちはクーデターを起こし、あくまで聖戦遂行を主張するだろう。現に、陸軍内部には阿南陸軍大臣を辞任させ、終戦をもくろむ鈴木内閣をつぶそうとする勢力がある。その背後には、東条がいる。彼らを抑えるには、陛下のご聖断しかあるまい。一刻も早く、ポツダム宣言受諾を連合国側に伝えなければならない。
「着きました」と、運転手が振り返った。
 吉田は窓の外を見渡し、我に返った。運転手がドアを開けてくれたので、ステッキを片手に降り立つ。何度見ても、焼けた屋敷跡は情けない。車庫だけは何とか焼け残り、愛車も無傷だったのが救いだった。吉田はその車の下を探り、自分が貼っておいたメモがなくなっているのを確認した。
「吉田茂だな」
 屋敷跡を出て車に乗り込もうとした時、憲兵が声をかけてきた。ずっと吉田を監視していたのか、あるいは、屋敷跡を監視していたのかもしれない。
「憲兵隊司令部に同行してもらいたい」
 吉田は、ジロリと憲兵を睨んだ。まだ、二十代に見える若い憲兵だ。その年頃の兵隊は前線に駆り出されていると思ったが、憲兵隊にも若い兵士が配属されているらしい。
「どういう用件ですかな?」
 吉田の高圧的で不機嫌な口調に、若い憲兵は気圧された気配だった。ムキになったように大声を出した。
「くれば、わかる」
 憲兵隊の車が少し離れた場所に停車していた。
「あれに乗るのかね。それとも、わしの車で尾いていってもいいのかね」
 一瞬、若い憲兵は言葉に詰まった。考えている。逮捕なら、有無をいわさず車に押し込むはずだ。何かの容疑をかけられているわけではないらしい。
「その車でよろしい」と、憲兵は不承不承という感じで答えた。

 十分ほどで憲兵隊司令部に到着し、吉田は取調室に通された。一度経験しているからか、吉田は落ち着いていた。あの時には、「国家反逆罪」といった大げさな容疑だった。それは、吉田を始めとする反戦グループへの脅しだったのだ。結局、憲兵隊もうやむやに決着させるしかなかった。
 この時期、和平工作を探る人間の方が愛国者だ、と吉田は信じていた。聖戦遂行などと叫んでいる輩は、国を滅ぼす国賊である。そんなことを考えて己を鼓舞していると、取調室の扉が開き目の鋭い酷薄そうな士官が入ってきた。
「憲兵隊の古沢中尉です。お訊きしたいことがあります」
 口調だけは、丁寧だった。
「昨日の朝、大磯の浜辺近くで、ある人物に会いましたね」
「いや、誰とも会ってはおらんよ」
「大磯のあなたの屋敷の近くで、昨日の朝、兵士がひとり射殺されたのをご存知ですかな」
 男の鋭い視線が刺さるようだった。
「いや、その頃は東京に出る準備で忙しくてな」
「東京へは何をしに?」
「しばらく、人に会っていなかったのでな」
「誰にお会いになりました?」
「近衛さんはおらなんだし、東郷さんに会ったな」
 鈴木首相に会ったことは言わなかった。
「本当に、昨日の朝、誰にも会っていない?」
「ああ、わしはまだ惚けてはおらんよ」
「ある人物に会ってもらいましょう」
 そう言って古沢中尉は椅子を立ち、扉を開けて誰かに声をかけた。しばらくして、ふたりの憲兵に両脇を支えられて男が連れてこられた。その姿を見て、吉田は身が震えた。
「この男、見覚えはありませんか?」
「いつも、そんな顔ではあるまい」
 殴られ続けたのか、男の顔は腫れ上がっていた。瞼が腫れて目をつぶしているし、頬は痣になっていた。両腕を支えられていないと、立っていられない様子だ。意識はあるのだろうか。
「昨日、会いませんでしたか」
「どちらにしろ、初めて見る男だよ」
「この男、拳銃と偽造した身分証明などを持っていただけで、後は何も持っていなかった。あなたが、何かを受け取ったのではないですか?」
 吉田は表情が変わらないようにするのに苦労したが、口をへの字にし憮然とした不機嫌な顔を通した。不機嫌な顔には、昔から自信があった。
「会ったこともない男から、何も受けとれんだろ」
 古沢中尉は、吉田を凝視している。睨み合いなら負けんぞ、と吉田はさらに口をへの字に結び、奥歯をかみしめ、その視線を受け止めていた。

■1945年8月4日 17:30 横浜
 京子は、茅ヶ崎に帰る列車の中にいた。もうすぐ横浜だ。菅野少尉に電話をした後、瀬川に「あなたにできることは、もう何もない。彼の使命を受け継ぐことだけです。今から帰っても、茅ヶ崎に着く頃は薄暗くなります。夜間の外出はまずい。今日は、もう帰った方がいい」と言われ、京子は素直に従ったのだ。瀬川は、憲兵隊司令部の様子を探ってみるという。
 しかし、考えても仕方がないと言い聞かせれば言い聞かせるほど、ヘンリー・スガノの姿が浮かんできた。彼の昨夜の表情や、話したこと、そして、彼とのふれあい、それらが十八歳の京子をの胸をいっぱいにしていた。
 学校に通いながら父の看病をし、父が死んでからは祖母と暮らしていた京子の身近にいた男性は、月に一度会っていた瀬川だけだった。月に一度だけとはいえ定期的に会っていた瀬川は、京子が次第に大人びてくることに戸惑っている風に見えた。言葉遣いは最初から丁寧だったが、最近ではその口調に京子との距離を縮めてはならないという意志を感じた。そこに、京子は瀬川の好意を感じ取った。だが、兄弟のいない京子は、瀬川を兄のように思っていた。
 それでも、十八歳の娘だ。男の好意を感じて、うれしくないはずがない。しかし、いつ身に危険が迫るかもしれない状況の中で、京子にときめきは生まれなかった。もちろん、瀬川も自分の中に生まれた京子への想いを顕わにすることはなく、隠し通していると思っている。戦争が終わるまで、そんな感情とは無縁なのだと瀬川も京子もわかっていた。
 しかし、初めて海から現れたヘンリーを見た時、京子の胸はざわめいた。それが、異性に対するときめきだと気づいたのは、その男が「彼女は口が利けないのか」と言った時だった。そんな言葉でも、男が自分のことを口にしたのがうれしかった。無視されていたら、きっと傷ついたに違いない。
 その後、自転車で大磯に向かったふたりを見送り、朝の散歩をしていたという言い訳が通用する時間まで林の中に潜んでいたが、ずっとふたりのことを心配していた。いや、あの米国からきた日系二世がどうしているか、そのことばかりを考えていた。その時に、自分が初めて異性を意識しているのだと自覚した。
 ヘンリーが血を流して戻った時、京子の胸に経験したことのない感情が湧き上がった。初めての気持ちだった。胸を突き刺す痛みを感じた。この人がいなくなったら、私は悲しみに暮れるだろうと確信した。これが恋をするということかしら、と京子は思った。
 勤労奉仕から戻った時、熱に浮かされてうわごとを口にするヘンリーを京子は心配し、「大丈夫よ。安心して」と寄り添う自分を夢想した。ヘンリーが目を覚まし、京子の瞳を覗き込むようにして、「きみには西洋人の血が入っているのか」と口にした時、自分に目を向けてくれたのだと歓びを感じた。その後の個人的な話の中で、京子は本当は「戦争が終わったら、あなたの国にいってみたい」と言いたかったのだった。
 昨夜、ヘンリーは家族の思い出を話してくれた。家族全員の名も、その時に教えてくれたのだ。苦労をした父母のこと、兄弟たちの保護者のようだった兄ジョニー、躾に厳しかった姉のマリー、陽気でおしゃまな妹のベティ、悪戯好きの末っ子フランク。貧しいけれど幸せな家庭が浮かんできた。そんな思い出を語ることができるヘンリーがうらやましかった。京子は、いつしか自分の父母のこと、母が撃たれたこと、十八歳になるまでのことを、何もかもヘンリーに打ち明けていた。ヘンリーは黙って耳を傾けてくれた。
 やがて、父の無惨な姿を憲兵隊の留置所で見た時のことを話し始めた京子の頬を涙が伝った。涙は後から後から流れて、止まらなくなった。静かに涙を流す京子の肩を抱き寄せ、ヘンリーは包み込むように腕をまわした。包帯を巻いたヘンリーの胸に顔を伏せて、京子は涙が止まるまでじっとしていた。その姿勢だと、ヘンリーは傷の痛みを感じ続けていたに違いない。
 京子は顔を起こした。その京子の瞳を覗き込んで、ヘンリーは力づけるようにそっとくちづけをした。電流が走った。驚いた京子は両手でヘンリーの胸を押し返し、ヘンリーが痛みに呻いた。「あっ」と京子は声を挙げ、「ごめんなさい」と謝るとヘンリーは笑った。その屈託のない笑顔に惹かれて、京子は思わず自分からヘンリーにくちづけを返していた。そんな自分に驚き、すぐに立ち上がり、京子はふすまを開いた。
「きみに頼みたいことがある」と、ヘンリーが言った。
「わかってるわ」と、京子は答えた。
 しかし、何もわかってはいなかったのだ。その部屋から逃げ出したかっただけだ。自分の行為が恥ずかしくなったからだった。しかし、京子は、自分の声が弾んでいるのがわかった。その時のことを思い出し、京子は顔が赤らむのを感じた。あわてて列車の中を見渡す。誰も自分のことなど注意を向けていない。そう思うと、改めて思い出し笑いが浮かんだ。しかし、憲兵隊に連行されるヘンリーの姿が甦り、その思い出もすぐに消える。ああ、誰かあの人を助けて、と叫びそうになる。
 兄弟たちのやさしい保護者だったという兄のジョニー。私の電話をどう受け取るだろう。救い出してくれるだろうか。憲兵隊の拷問だけは止めてくれるだろうか。いても立ってもいられない。そんな気持ちだった。時間が経つと、それだけあの人が痛めつけられている気がする。父の無惨な姿が浮かぶ。ヘンリーも同じ目に遭っているのだろうか。親書とフィルムは、京子のたすき掛けにした袋の中に入っている。何も身につけていないことで憲兵は怪しみ、あの人を拷問にかけても何かを引き出そうとするだろう。
「きみに、この親書とフィルムを預けたい。どこに届ければいいか、吉田邸の車の下に連絡文があるはずだ。しかし、監視されている可能性がある。俺が囮になっておびき出すから、その後、きみが確認してほしい。届ける先がわかったら、そこへ届けてほしいのだ」と、今朝、ヘンリーは言った。
 ヘンリーは自分が捕まるかもしれないと覚悟していたし、京子に対しては女であることで憲兵があなどり、高をくくり、見逃す可能性があると計算したのだろう。その後で、ヘンリーは身につけていた守り袋を取り出した。
「これは、僕が軍隊に入る時に母がくれたお守りだ。日本の風習らしいね。中に母の大切な思い出が入っている」
 そう言ってヘンリーが取り出して見せてくれたのは、きれいな虹色に輝く一枚の貝殻だった。
「これは、父が結婚の記念に母に贈ったものだ。父が十七で移民船で着いた時、カリフォルニアの海岸で拾ったものらしい。結婚の時にはまだ貧しくて、父はこんなものしか贈れなかった。これを、きみに持っていてもらいたい」
 その言葉には、ヘンリーのどんな気持ちが込められていたのだろう。初めてのくちずけの意味をくりかえし考えながら、京子はポケットに忍ばせた守り袋をそっと人差し指でなぞった。お願いです、あの人を私のところに返してください、と京子は初めて神に祈った。

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