2023年3月18日 (土)

■日々の泡----大江健三郎と映画

プライムビデオ「われらの時代」https://amzn.to/3JNG68q

大江健三郎さんが亡くなった。僕が最も影響を受けた作家であり、思想家でもあった。十六歳から十七歳にかけて新潮社版「大江健三郎全作品」を毎月一冊ずつ購入し、「奇妙な仕事」から「個人的な体験」まですべてを読んだ。もっとも、最初に買ったのが六巻めだったから初めて読んだのは「性的人間」で、続いて「空の怪物アグイー」などの短編を読み、巻末の長編「個人的な体験」で完全にやられてしまった。

それから一巻めから買い始め、改めて「奇妙な仕事」「死者の奢り」から読んだ。長編「芽むしり仔撃ち」というタイトルになじめず、つい「草むしり----」と言ってしまい、物知りな新聞部の部長に何年にもわたってからかわれ続けた。長編「われらの時代」が日活の才気あふれる若手監督である蔵原惟繕によって映画化されていることを知り無性に見たくなったが、八年も前に公開になったプログラム・ピクチャーを見る機会はなかった。

長編「日常生活の冒険」を読みすっかり主人公の斎木犀吉にイカれたときには、物知りの新聞部部長に「あれは、伊丹一三がモデルなんだ。本人もそう言っている」と教えられた。あわてて伊丹一三の「ヨーロッパ退屈日記」を読んだが、大江についてはどこにも出てこなかったと思う。後に大江夫人の伊丹ゆかりさんは、伊丹一三(当時はデザイナーで俳優でエッセイストだった)の妹だと知った。

1967年、「万延元年のフットボール」が出て話題になっていた。もしかしたら、僕が初めて買った函入りの単行本だったのかもしれない。その後、大江作品が出るとすぐに買ったから、ほとんどの本は初版で持っている。ただし、「燃えあがる緑の木」三部作以降は、何冊か読んでいない作品もある。最後に読んだのは「水死」だったろうか。エッセイ集も「持続する志」以来、ほとんどのものは読んでいる。

先日、まだ読んでいなかった「大江健三郎 作家自身を語る」(2007年刊)というロング・インタビューを読んだ。へぇー、と思うことがいっぱい出てきた。印象に残っているのは、司馬遼太郎が大江作品の愛読者で「燃え上あがる緑の木」についての感想を書いた手紙をもらったとか、伊丹十三は大江と妹との結婚に反対したとか、浪人時代に伊丹だけに読ませていた長編習作があったとか、興味深い話ばかりだった。

その本の中で「自分の作品の映画化については認めない」といったニュアンスの発言があった。確かに、初期の数作を除いて大江作品の映像化はない。唯一の例外が伊丹十三監督の「静かな生活」(1995年)である。これは、伊丹監督だから特別に許可したのだろう。主人公として伊丹監督の甥の大江光さん(作中ではイーヨー)が活躍する。イーヨーを演じた渡部篤郎は、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。語り手の妹マーちゃんは佐伯日菜子だった。

しかし、ロング・インタビューのニュアンスを読みとると、初期作品の映画化に不満があり以降は許可を出さなかったようだ。蔵原惟繕監督「われらの時代」(1959年)、増村保造監督「偽大学生」(1960年)、大島渚監督「飼育」(1961年)の三作である。当時の新進気鋭の若手監督たちばかりだ。僕は「飼育」も見たかったのだが、何枚かのスチールしか見たことがない。ところが、先日、アマゾン・プライムビデオで「われらの時代」を見ることができた。

主人公の大学生は長門裕之で、洋パン(アメリカ人の愛人)と呼ばれる女(渡辺美佐子)に養われている。弟はジャズ・バンドに属し、そのリーダーのドラマーである在日朝鮮人と暮らしていて、同性愛を噂されている。主人公はフランス語を学びたいという音大の女子学生(吉行和子)と知り合い関係を持ち、彼女は妊娠する。閉塞感を感じている主人公は「日本脱出」願望が強い。彼の希望はフランス大使館が募集している論文で一位を獲得し、パリにいくことだ。

六十年近く前に読んだきりなので原作はほとんど忘れていたが、ジャズバンドの若者が天皇の行列に爆弾を投げる状況に追い込まれた直前の心理状態を描写したところだけは、今も甦ってくる。映画では天皇についての会話は出てくるが、彼らが爆弾テロを計画する相手は「ある権力者」に変更され正体はボカされていた。当時、天皇制批判者としての大江健三郎は尖っていたから、原作での標的は天皇だったと思う(読み返していないので、違っていたらゴメン)。

ということで、ようやく「われらの時代」を見ることができたのだが、吉行和子が若くて可愛いなとか、当時から「同性愛者」を登場させていたんだとか、主人公を東大仏文の学生のように設定したのは書きやすかったからかなとか、「洋パン」という言葉は戦後十年以上経っていたのにまだ使っていたんだとか、フランスからの独立運動家であるアルジェリア留学生を登場させるのは時代だなあとか、枝葉末節の感想しか抱けなかった。若者の閉塞感と脱出願望も古臭さを禁じ得なかった。

大江作品の中に登場した映画としては、アンドレイ・タルコフスキー監督の「ストーカー」(1979年)が印象に残っている。短編連作「静かな生活」の一篇に「案内人(ストーカー)」がある。僕もタルコフスキー作品では「ストーカー」が一番好きだが、あの独特のイメージをかき立てる映像にイーヨーが強く反応するということから書き起こされていたと記憶している。タルコフスキー作品は「僕の村は戦場だった」(1962年)以来、静謐な水のイメージがすこぶる喚起的である。

今やすっかり別の意味になってしまった「ストーカー」だが、早川SF文庫で出ていた「ストーカー」は哲学的な小説だった。宇宙人が着陸した地域は「ゾーン」として隔離されているが、そこに侵入し宇宙人の痕跡の残るものを密猟する人間たちがいる。主人公は「ゾーン」の「案内人(ストーカー)」である。それを難解さで有名なタルコフスキーが映画化したものだから、簡単にはストーリーは要約できないけれど、映像詩のような体全体で浸りたくなる作品だった。水のシーンはずっと見ていられる。

頭と同じ大きさの瘤を持って生まれてきた大江光さんは、成長して優れた音楽家となった。小説中のイーヨーあるいはアカリが彼そのままとは思わないけれど(彼が語る言葉は、すべて現実の光さんの言葉だと大江さんはインタビューで答えている)、「ストーカー」という映像詩的作品にビビッドに反応する光さんは、やはり独特の感性を持っているのだろう。イーヨーあるいはアカリは、大江さんの死をどのように受け止めているのだろう。無理なことだが、長江古義人を喪ったアカリの物語を大江さんの文体で読みたいと思う。

 

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2023年3月11日 (土)

■日々の泡----ウディ・アレンの自己弁護

先日、「ウディ・アレン自伝 唐突ながら」を読んだ。たまたま、その少し前にローナン・ファロー著「キャッチ・アンド・キル」という大部のノンフィクションを手にしたのだが、著者がウディ・アレンとミア・ファローの実の息子だと知り、ちょっと驚いた。ミア・ファローにはたくさんの養子がいるので、誰が実子なのかよく知らなかったのだ。

「キャッチ・アンド・キル」はテレビ・ジャーナリストであるローナン・ファローが、映画界の大物プロデューサーであるワインスタインのセクハラ問題を調査し報道したいきさつが詳細に描かれている。その後、ニューヨーク・タイムズなども追随し、ワインスタインの長年にわたる性暴力の実態が暴かれ、やがて世界的な「ミー・ツー」運動へと発展していく。

その「キャッチ・アンド・キル」の中で著者は姉のディラン(養女)とは仲良く育ったと書いているが、その姉が父であるウディ・アレンを性的虐待で訴え、やがてアレンとミア・ファーローの泥沼の裁判になったことも書いている。著者自身は父への思いもあり、なかなか複雑な胸の裡も明かしている。

ちなみに「ローズマリーの赤ちゃん」(1968年)「フォロー・ミー」(1972年)などの代表作を持つミア・ファローだが、僕はいいと思ったことがない。中学生の頃、映画雑誌でフランク・シナトラが若い女優と結婚したというゴシップ記事を読んだときからファニー・フェイスだなあとは思ったが、どこがいいのかよくわからなかった。

ただ、ミア・ファローは「男を利用してのし上がろうとする」(ウディ・アレンの自伝の中の表現)人らしく、結婚相手はみんなすごい。シナトラに続いて結婚したのは、アンドレ・プレヴィンである。彼との間にも実子がいる。僕はジャズ・ピアニストとしてのプレヴィンのアルバムは数枚保有しているが、クラシック界では指揮者・作曲家としての評価が高い。

プレヴィンと離婚して同棲した相手が、ウディ・アレンである。蜜月の時期には「カイロの紫のバラ」(1985年)など、監督と主演女優としての仕事も数多く残したが、アレンがミア・ファローの養女であるスン=イー・プレヴィンと肉体関係があったなど、様々なスキャンダル騒ぎが起こって関係は最悪になり、自伝の中でもミア・ファローについてはかなり厳しい。

ウディ・アレンは自伝の中で「あのスキャンダルに対する興味で、この本を手に取るのは仕方がないけどね」みたいなことを書いていて、実際、アレンの側からの言い分がふんだんに記述されている。ディランに性的虐待で訴えさせたのはミア・ファローだとし、彼女が娘の「七歳の頃の記憶をねじ曲げさせた」ように書いていた。その辺のことは読んでいて面白くないので読み飛ばした。

ただ、アレンはスキャンダルのせいで映画が作れなくなったし、自伝の発行も出版社内の反対があって一度はつぶれてしまったという。その出版社が性的ハラスメントを告発する「キャッチ・アンド・キル」を出したところだったので、編集者や息子のローナン・ファローもアレンの自伝出版に反対したらしい。ということで、アレンの自伝は別の出版社から刊行された。

ウディ・アレンの映画は「セックス」が重要なテーマになっているし、性的コンプレックスみたいなものだけでストーリーを作ってしまったりするのだが、実生活のアレンの悩みをそのまま作品にしていたのだな、と自伝を読んで思ったりした。大学生の頃、アートシアター・ギルドの上映館だった新宿文化で「ボギー! 俺も男だ」(1972年)を見て、神経症の男が作ったのかという印象を抱いたが、外れてはいなかったみたいである。

それでも、僕には大好きなアレン作品がある。本人が出ていない「インテリア」(1978年)と「ハンナとその姉妹」(1986年)だ。出てくるのはインテリばかりで、小説家や詩人などの役を演じる俳優たちがスノッブな会話を交わす。いかにもアレン作品らしくて、そのテイストがたまらない。アレン作品はほとんど見ていてどれも楽しめたが、その二本はちょっと特別扱いなのである。

ちなみに、韓国の孤児だったスン=イーは孤児院にやってきたミア・ファローに選ばれて養女となり、そのときの父親アンドレ・プレヴィンの姓となっていたが、大学生のときにミア・ファローの同棲相手(義理の父親?)であるウディ・アレンと関係を持ち、後にアレンと結婚する。アレンの自伝では「スン=イーとの結婚生活でいかに幸福か」を強調している。

また、今度、生まれるなら「パド・パウエルになりたい」などと言っている。映画作りより、ジャズクラブでクラリネットを吹いている方が幸せだったのだろうか。バド・パウエルは天才的ジャズ・ピアニストだったけれど、精神的な病で苦しんだ人だ。「ラウンド・ミッドナイト」(1986年)の主人公(テナーサックス奏者デクスター・ゴードンが演じた)は、バド・パウエルがモデルと言われている。ちなみに僕は、バド・パウエル作曲「クレオパトラの夢」は好きです。

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2023年3月 9日 (木)

■日々の泡----中大寮歌はLGBTの魁か?

大島渚監督は男性の同性愛に関心があったのか、「戦場のメリークリスマス」(1983年)ではイギリス軍捕虜役のデビッド・ボウイと収容所所長である日本軍青年将校役の坂本龍一の微妙な関係を描き、「御法度」(1999年)は司馬遼太郎の「新選組血風録」の中でも「衆道」を取り上げた「前髪の惣三郎」をメインにし、他の数編からエピソードを加えている。

僕が男性の同性愛の存在を知ったのは、高校生のときに大江健三郎の短編を読んだからだった。短編のタイトルは忘れてしまったが、その中に中年男が主人公に向かって「付き合ってください。人間同士の愛です」という言葉が出てきて、その意味が分からず物知りの新聞部の部長に訊くと、彼は「同性愛」について詳しく教授してくれた。

同じ頃、司馬遼太郎の「新選組血風録」を読み、「前髪の惣三郎」に出会い「衆道」という言葉を知った。その後、稲垣足穂の作品なども読んだ。当時、足穂の大著「少年愛の美学」が話題になっており、日本には昔から男同士の愛があったのだと知った。徳川家光なども小姓ばかりを寵愛し、女には見向きもしないので春日局が世継ぎを生ませるために苦労したという話も歴史小説で読んだのだろう。

ということで、江戸時代末期まで男同士の愛は後ろ指をさされるものでもなかったらしい。宗教の教えとして同性愛を禁止する国は今も多く、先日のサッカー・ワールドカップの開催国にも批判が起こった。また、ある国のゲイを公表している選手がソチの冬季オリンピックへの出場を拒否したというニュースもあった。ロシアでは、同性愛は罪として禁止されている。

この間の国会における「LGBT」に関する討議が僕にはナンセンスに思えるのは、自民党保守派の認識のバカバカしさばかりが目立つからだ。僕は同性婚を認めるべきだと思っているので、何が問題なのかは皆目わからない。ニュースで流れたニュージーランド(だったと思うけれど)の国会議員が同性婚を認める法律に賛成の立場から行ったスピーチ「愛し合うふたりが喜ぶだけで、他には何の変化も起こらない」というのに僕は同意する。

そんなことを考えていたら、たまたまユーチューブでちあきなおみが唄う「惜別の歌」にぶつかった。「遠き別れに耐えかねて」と始まる、昔、小林旭の歌でヒットした曲である。けっこう知られていると思う。作詞は島崎藤村だ。ちなみに高校生の頃、ふざけて「しまざき・ふじむら」と言っていたら、テストで「ふじむら」しか出てこなくなりバッテンをもらってしまった。

「惜別の歌」は中大寮歌なのだが、あまり知られていない。何かの会で中大の先輩に会い、酔ったその人が「おい、中大寮歌、唄うぞ」と言い出し、仕方なく僕も「惜別の歌」を唱和したことがある。僕は法学部だけが評価されていた中央大学(赤門に対抗して白門を主張し、お茶の水にあった頃)の端っこにあった文学部校舎に四年間通っていた。

当時、「司法試験合格者トップ」と言っていた中大だが、確かに優秀な人はみんな法学部だった。小説家だけど北方謙三さんも逢坂剛さんも法学部出身だし、相米慎二さんも法学部だと思う。しかし、なぜ島崎藤村が中大寮歌を作詞したのかはわからない。島崎藤村と縁がある大学は、明治学院大学のはずだ。

「惜別の歌」は出だしの歌詞は有名だが、三番まで唄える人はどれほどいるだろう。僕もずっと一番しか唄わなかったので、ある日、三番までを唄ってみて、ハタと気付いたことがある。三番は「君がさやけき目の色も 薄紅の唇も」と始まるので、僕は女性を形容しているのだと何となく感じていたのだが、通して読むと「別れていく友」を表現しているのである。

別れていく友に「君がみどりの黒髪も またいつか見ん」と唄っているわけで、これは明らかに同性の友への恋情ではないか。先日、小谷野敦さんの分厚い「川端康成伝」を読んだところ、川端が一高の寮にいた頃、一級下の少年と同性愛関係にあったと出てきた。これは、川端自身も書き残していることであり、当時、寮ではそういうことは珍しいことではなかったのだろう。

ということで、早く同性婚を認めればいいと思う。保守派の人々は「日本古来のよさを継承する」と言っているのだから、日本古来から続く「衆道」という伝統ある男同士の愛についても継承すべきではないのか。また、日本人初めての「ノーベル文学賞」受賞者であり、日本古来の文化と美しさを讃えた川端康成も経験していることなのであるから。

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2023年3月 4日 (土)

■日々の泡----辻真先さんの三部作

辻真先さんと会えるかも----と、すごく期待した日があった。もう15年前のことになる。第26回日本冒険小説協会全国大会で熱海の旅館に入ったときである。受付で僕と同室者の名前を見て「おっ」と思った。佐々木譲さんと辻真先さんの名前があったからだ。前年、映画の本で特別賞をもらったものだから、僕も作家扱いで作家部屋に割り振りされていたのだった。

佐々木譲さんがきているということは、「今年の大賞は『警官の血』だな」と思ったが、「辻さんは?」と疑問が湧き受付で尋ねると「辻さんは熱海住まいで、都合がつくと大会にきてくれるんです」ということだった。僕は特別賞を受賞した縁で日本冒険小説協会に入れてもらったばかりの新参者だったから、昔からの会員の事情はまったく知らなかったのだ。

さて、その夜、「辻さん、これなくなった」と受付の人から知らされたので、作家部屋には大賞受賞者の佐々木譲さんとふたりきりになってしまった。佐々木譲さんはきちんとした人で、宴会の後、早めにふたりで部屋に戻り、いろいろ話すことができた。先日、僕の新刊「映画と本がなければまだ生きていけない」と「赤い死が降る日」をお送りしたら、コメントと共に写真入りでツィートしていただいた。

佐々木譲さんはもう長くツィートを続けているが、そのツィートをまとめた本も出ている。僕は何度かやりとりさせてもらった。一回は「冒険者たち」(1967年)について。佐々木譲さんも「冒険者たち」好きなのだ。先日のツィートでは僕の映画本の文章「『離愁』を越えるラストシーンを僕は知らない」に「激しく共感」と書いていただいた。佐々木さん、「離愁」も好きなのだと、うれしくなった。

さて、辻真先さんの話に戻る。先日、辻さんの「深夜の博覧会 昭和12年の探偵小説」「たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説」「馬鹿みたいな話! 昭和36年のミステリ」の三作をまとめて読了した。確か、「たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説」は、その年のミステリ・ベストワンを独占したのじゃなかったかな。

僕が初めて辻真先さんの名前を意識したのは、たぶんアニメの脚本家としてだと思う。「エイトマン」「鉄腕アトム」から始まり、「サザエさん」をはじめとして数え切れないテレビアニメーションに関わってきた。その辻さんが、テレビ草創期のNHKディレクター(1954年入局/1962年退職)として「バス通り裏」「お笑い三人組」などを手がけた人だと知ったのは、いつ頃だっただろう。

そして、僕が小学生の頃、欠かさず見ていた「ふしぎな少年」も辻さんが担当した帯ドラマだったのだ。「時間よ、止まれ」である。太田博之である。手塚治虫である。マンガとドラマが並行して進行するという画期的な企画だった。おそらく辻さんの関わりが大きかったのだと思う。手塚治虫は、きっと連続テレビアニメ「鉄腕アトム」に辻さんの参加を強く求めたのだ。NHK退職時期は完全に重なる。

「馬鹿みたいな話! 昭和36年のミステリ」の最後は、虫プロが毎週放映するテレビアニメを制作すると発表した話題で終わる。「無理だ」と誰もが口にする。しかし、その後の日本のアニメの進化を僕たちは知っている。小説の時代から62年後の現在、日本のアニメは世界中で知られる存在になった。それを熟知して辻さんは「馬鹿みたいな話! 昭和36年のミステリ」を書いている。

ちなみに「馬鹿みたいな話! 昭和36年のミステリ」は生放送中のテレビスタジオ(完全な密室)で主演女優が殺されるプロローグから始まる。随所に辻さんの実体験が盛り込まれており、様々なエピソードが実名で明かされている。「バス通り裏」「ジェスチャー」「お笑い三人組」「夢で逢いましょう」「ふしぎな少年」などの笑っちゃうようなエピソードに事欠かない。

「馬鹿みたいな話! 昭和36年のミステリ」は辻さんがミステリ作家デビューした「仮題・中学生殺人事件」から50周年および作者の卒寿記念の出版である。「卆」という字は「九」と「十」だから、1932年生まれの辻さんは90歳になる。90歳のミステリ作家はすごい。長命だった映画監督には新藤兼人がいて、純文学の世界では野上弥生子がいるが、辻さんにも100歳を越えた現役ミステリ作家を期待したい。

ところで、三作に共通して登場する探偵役「那珂一兵」のモデルは漫画家の永島慎二(本人承諾済み)なのだと辻さん自らが「あとがき」で書いていて、まったく知らなかった僕は驚いた。もっとも、僕は辻さんのミステリを初めて読んだのが「完全恋愛」(2009年)なのだから、読者としてはあまり自慢できない。あくまでテレビディレクター・アニメ脚本家としての辻真先ファンなのである。なお、刊行当時「完全恋愛」も大きな話題になったが、作者名は牧薩次(まき・さつじ)。「つじ・まさき」のアナグラムだった。

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2023年2月25日 (土)

■日々の泡----山根貞男さんへのレクイエム

山根貞男さんは加藤泰監督作品なら、どんなものでも絶賛した。加藤泰監督最後の劇場公開作品になった「炎のごとく」(1981年)も、「キネマ旬報ベストテン」の投票で山根さんだけが邦画一位に挙げていた。僕も人後に落ちない加藤泰ファンではあるが、あの年の邦画一位にはならないだろうと思った。夏には鈴木清順監督の「陽炎座」(1981年)、秋には根岸吉太郎監督の「遠雷」が公開され、暮れには「セーラー服と機関銃」も封切られた。おまけに「泥の河」もあったのだ。

山根さんの初期の映画論集「映画狩り」の表紙は加藤泰監督「遊侠一匹・沓掛時次郎」(1966年)の中村錦之助だった。見返しか扉は「緋牡丹博徒 お竜参上」(1970年)だった記憶がある。デザインは鈴木一誌さん。その本には長編の「加藤泰論」が掲載されていた。山根さんほど邦画を見続け、論評した評論家はいない。先日、83歳で亡くなったが、亡くなるまで邦画を深く掘り下げた人だった。山根さん独特の論法が僕には懐かしい。お竜さんも、人斬り五郎も、山根さんほど真摯に論評されれば本望だったのではないか。

山根貞男さんを初めて知ったのは、50年近く昔のこと。1975年に出版社に入社したときだった。玄光社という出版社で、月刊「コマーシャル・フォト」という雑誌を出しており、そこに山根さんは長く「日本映画月評」を連載していた。その見開きページだけ、山根さんの希望でレイアウトを担当したのは鈴木一誌さんだった。独特なデザインだから、全体の中で目立って(浮いて?)いた。

デザインをし写植を貼り込んだ完全版下が鈴木一誌さんの事務所から届き印刷所に渡す関係から、そのページは時間がかかるにも関わらず、山根さんは締め切りをギリギリに設定し、新作の邦画をなるべく掲載しようとした。ただし、設定した締め切りはきちんと守っていたらしい。僕は、そのページの担当編集者に原稿を見せてもらったことがある。きちんと、読みやすい字で書かれていた。

しかし、そのページは当時の社長に目の敵にされた。映画好きを自認する社長は、山根さんの映画に対する見方を受け入れることができなかった。僕が喝采する論理的な文章を「訳の分からんことを書く奴だ」と憎んだ。また、採り上げる映画も気にくわなかった。あるとき、日活ロマンポルノの武田一成監督作品「おんなの細道 濡れた海峡」(1980年)を、山根さんは見開きの2/3ほどを費やして絶賛した。

僕は、さっそく「おんなの細道 濡れた海峡」を見にいった。山根さんの批評が先に頭にあったから、より深く読みとることができたと思う。原作は、当時、僕が愛読していた田中小実昌さんの小説だった。「ポロポロ」(何と谷崎賞である)などが出ていた頃だ。ストリップ劇場でコメディアンをやりながら翻訳や雑文書きをしていた東大出のコミさん(一度ゴールデン街「まえだ」のカウンターで見た)を彷彿とさせる主人公は、三上寛が演じた。

山根さんは、「おんなの細道 濡れた海峡」の中の排泄シーンの切なさを特に絶賛し、そのことを中心に書いていた。ストリッパーのヒモとして旅を続ける三上寛と女がバスに乗っていて便意を催し、さみしい崖っぷちのようなところで排便するシーンである。確かに、そのシーンには人生のわびしさ、せつなさ、やるせなさが漂い、「生きていくのは、しんどいなあ」というため息が聞こえてきそうだった。

しかし、その回を読んだ社長は激怒した。ページのレイアウトについても、ずっと文句を言い続けていたこともあり、「こんな連載は、即刻やめろ」と編集長と担当者を呼んで怒鳴りつけた(よく怒鳴る人だった)。しかし、担当者のSさんはそう言われれば言われるほど反発する人で、「絶対やめません」と答えた。また、「昼行灯」と呼ばれていた編集長も「見開きだけのことですし、広告クリエイターたちには好評です」と社長を煙に巻いた。

結局、山根さんの「日本映画月評」は十年近く続く長期連載になった。そのときの文章は、国書刊行会から出ている分厚い「日本映画時評集成 1976-1989」にまとまっている。今でも、相米慎二監督のデビュー作「翔んだカップル」(1980年)を絶賛した文章、森崎東監督の「生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言」(1985)を深く分析した文章を僕は憶えている。特に後者は、倍賞美津子と原田芳雄のアップのスチール写真と見開きのレイアウトさえ浮かんでくる。

山根さんは、ときどき原稿を編集部に届けにきたから、あの坊主頭と薄いサングラスを掛けた姿は早くから知っていたが、直接、会話したことはない。僕が「炎のごとく」公開時に加藤泰監督のインタビューをして妙に話が合い(意気投合と書くのはおこがましい)、翌年の一月号から連載を受けてもらったことから間接的な関係ができたくらいである。

監督の連載が始まってしばらくした頃、山根さんのページ担当者がやってきて「加藤泰監督が連載を持つなんてほとんどないことなので、山根さんが『小型映画』の一月号からほしいらしい」と言った。僕は快諾したが、その年の10月号で「小型映画」は休刊になった。僕は一度、加藤泰監督の京都の自宅まで個人的な旅行として原稿を受け取りに赴いたことはあったけれど、休刊の挨拶は電話でした。

それからしばらくして、日仏会館かアテネ・フランセで「加藤泰特集」として代表作何本かの上映があり、監督と山根貞男さんの対談が行われた。その日、僕は対談を聞くために出席し、終わった後、控室に顔を出して加藤泰監督に挨拶をした。監督は「ほんまに『小型映画』惜しいことしましたなあ」と言ってくれたが、奥にはサングラスの山根さんがいて、僕に「うろんな奴」という視線を向けていた。

ちなみに、僕が加藤泰監督の自宅に伺ったとき、監督は映画が撮れず叔父である「山中貞雄」についての原稿を書いていた(後にキネマ旬報社から刊行された)が、二時間も様々な話をしてくれた。しかし、1985年、加藤泰監督は亡くなった。朝日新聞の訃報には「葬儀は行わず、工藤栄一監督、映画評論家の山根貞男氏らで送った」と出ていた。あの頃、山根さんは、まだ四十代くらいだったのだ。それにしては、老成している印象があった。

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2023年2月18日 (土)

■日々の泡----人生は苦役か?

地下室のヘンな穴 
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ミヒャエル・ハネケ監督の「ピアニスト」(2001年)でカンヌ映画祭主演男優賞をとったブノワ・マジメルというフランス人俳優が気に入り、一時期、集中して彼の出演作を見た。クロード・シャブロル監督の「悪の華」(2003年)「石の微笑」(2004年)「引き裂かれた女」(2007年)もよくできていたし、裏社会の冷酷非情で残虐な人間を演じた「裏切りの闇で眠れ」(2006年)も印象に残っている。

ジャンヌ・モローと共演した「銀幕のメモワール」(2001年)や「ピエロの赤い鼻」(2003年)など作品にも恵まれていたのだけれど、次第に日本での公開作品も少なくなり、マルグリット・デュラスの自伝小説を映画化した「あなたはまだ帰ってこない」(2017年)で、占領下でナチに協力するパリ警察の警部を演じているのを見たとき「ずいぶん老けたなあ」と思った。それに、動きがつらそうなほど体重が増え、腰まわりも立派になっていた。

僕はフランス映画ならとりあえず見る性癖があるので、先日、「地下室のヘンな穴」(2022年)を見たら、最新のブノワ・マジメルが出てきた。まだ40代後半なのだが、すっかり中年男になっており、腹もかなり出ている。「ピアニスト」のときの青年の面影は、すっかりなくなっていた。人間だからそれは仕方がないのだけれど、演じている役柄に好感が持てなかった。もちろん役者だからどんな役でも演じるのだろうが、ちょっと落胆したのも事実だ。

中年の夫婦がパリ郊外に敷地の広い家を買う。その地下室に穴があり、時空間がねじれているらしく、抜けると自宅の二階に出る。しかし、その間に現実の時間が12時間進み、本人は三日分若返るのがわかる。夫は穴に関心を示さないが、妻は三日若返るのを利用してひっきりなしに穴をくぐり抜け若さを取り戻そうとする。「若返って、モデルとして活躍するのよ」と妻は宣言し、心配した夫は穴をふさごうとするが妻に阻止される。妻は妄執にとらわれる。

一方、夫の会社の社長は夫婦の新居に招かれた食事会で、同行した愛人に「電子ペニス」にしたことを暴露される。スマホで操作できるという。いつでも勃起させられるし、大きさも選べるらしい。動きも自動だ、と社長は自慢する。しかし、ある日、倒れた衝撃で「電子ペニス」が故障し、日本まで修理にいかなければならなくなる。日本人の医者(エンジニア?)は部品を交換するが、試運転で再び故障する。ブノワ・マジメルが演じたのは、「電子ペニス」を自慢する社長である。

かなりシュールな設定の物語だったけれど、ちょっと考えさせられる映画だった。主人公は「みんなが電子ペニスにしたら、男たちを区別するのにどうすればいい?」などと口にし、「哲学的な問題だ」と考え込む。昔読んだ徳大寺有恒さんの「運転術」の冒頭に「男は、セックスが下手と言われるのと、運転が下手と言われることに最も傷つく」という意味のフレーズがあり、今も記憶に残っている。

結局、妻は精神的におかしくなり、社長は自滅する。一方、夫の方は妻が若返るのと逆にどんどん年老いていき、隠居姿で愛犬を横に、森に囲まれた池で釣り竿を垂らし、悠々と老後を送る姿が描かれる。単純に見れば、ある種の教訓話かとも受け取れるが、そう簡単ではない。たとえば故障のリスクはあっても「俺も電子ペニスがほしい」と思う人はいるかもしれないし、「どんなマイナスがあっても若さを取り戻したい」と願う人はいるだろう。

僕は、早く愛犬と一緒に釣り糸を垂れたいと思う人間である。僕は「人生は苦役である」という認識に立脚するから、「苦役は早く終わらせたい」と思っている。だからといって投げやりには生きたくないので、それなりに自覚的に考え努力してきたつもりだ。したがって、絶対に若返りたいとも思わないし、性的能力にはまったく自信がない(下手かもしれない)けれど、己の肉体を人工的に改造して能力を上げたいとは思わない。

少し前に、新書「ショーベンハウアー」を読んだ。大学の先生が書いたショーペンハウアー入門書である。「でかんしょ節」で有名なデカルト、カント、ショーペンハウエル(昔はそう言った)だが、僕はまったく読んだことはなかった。ところが、その入門書でショーペンハウアーの思想のベースを知り、にわかに興味を持ち、とりあえず入りやすいと書かれていた「余録と補遺」(1851年/63歳のときの出版)の中の「幸福について」を買ってきて読んでいる。

----高齢になると、人生の労苦を乗り越えてきたことがひとつの慰めとなる。

----この世を一種の地獄とみなし、この地獄の業火に耐える不燃性の一部屋を手に入れることのみを考える人のほうがはるかに思い違いをしていない。
(光文社古典新訳文庫・鈴木芳子訳)

■新刊2点を出しました

2023年2月11日 (土)

■日々の泡----人の違いを受け入れる

たくさん映画を見たので、中にはあるシーンだけは印象的に記憶に残っているのに、タイトルが思い出せないというものもある。特に60歳を過ぎて見た映画に多いのは、記憶力が年相応に低下しているからかもしれない。つまり、それだけ老人力がついたわけである。

先日の首相秘書官の同性婚に対する発言を聞いて思い出したハリウッド映画のシーンがある。わりと最近に見た映画のはずだが、タイトルが出てこない。スティーブン・キング原作の映画だった気がする。その映画の中でゲイの青年がゲイ嫌いの男たちに「ゲイである」という理由だけで撲殺されるシーンがあった。

アメリカ南部あるいは中西部あたりの田舎町が舞台だったと思う。偏見に凝りかたまった男たちが登場しゲイの青年を取り囲んだとき、男たちの醜い表情に目を背けたくなった。彼らは「ゲイ」であることを嫌悪し、殴り殺してもいいと思っている。かつてハリウッド映画は人種差別による私刑(リンチ)を数多く描いたが、現在はそれが性的マイノリティに向かっている。

偏見は、差別に繋がる。人種への偏見、性的マイノリティへの偏見など、いつまで経ってもなくならない。日本でも被差別部落への偏見、在日朝鮮人への偏見、アジア人蔑視、あるいはアイヌなどの少数民族に対する偏見は未だに存在する。それは世代的なものもあり、戦前の教育を受けた父母の世代より僕ら戦後世代では薄まっていると思うし、今の若者たちはそんな存在さえ知らないかもしれない。

だから自民党の保守的な家族観、あるいは岸田首相の「同性婚を認めれば社会が変わってしまう」という答弁、罷免された秘書官の「同性婚を認めれば国を捨てる人が出る。同姓カップルが隣にいるのもイヤだ。見るのもイヤだ」という発言には、僕でさえ時代錯誤だという感覚を持ってしまう。結婚は異性間だけという発想自体が、今の僕には理解できない。

同性婚に対する発言によって罷免された秘書官が持つ「同性愛者に対する根拠のない絶対的な嫌悪」は、ゲイの青年を撲殺する男たちと同じではないか。それほどの発言だと感じた。なぜ、それほどの嫌悪感を持つのか。自分と違うからか。自分がノーマル(正常)で、彼らがアブノーマル(異常)だと思うからか。しかし、あなたは本当にノーマル(正常)なのか。ノーマル(正常)とは何か、と考えないのか。

人間は自己肯定が基本である。でなければ、生きていけない。完全な自己否定は自殺に行き着くしかない。したがって、どれだけ自省的で自己を客観視できる人物であろうと、基本的には自分を肯定して生きている。しかし、かつて同性愛が犯罪なみに忌み嫌われていた頃、彼らは自己の性的嗜好を秘匿し、後ろめたく生きていかなければならなかった。本来なら自己を肯定して生きられたはずなのに。

今でもロシアやイスラムの国々では、同性愛は罪となる。かつてのイギリスもそうだった。ベネディクト・カンバーバッチが主演した「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(2014年)は、数学者アラン・チューリングが同性愛者として逮捕されるところから始まった。第二次大戦後のことである。そこから回想が始まり、彼がドイツ軍の暗号解析に大きな成果を上げた数学者だったことがわかる。彼は「コンピュータの父」でもあった。

僕も何人かの優れたゲイの人に会ったことがある。ひとりは日本を代表するアートディレクターだった。彼が亡くなって久しいが、彼がデザインした多くのグラフィック作品は歴史に残るものである。また、別のひとりは国際的に活躍するヘアデザイナーだった。高倉健からカトリーヌ・ドヌーヴまで、彼がヘアーメイクを手掛けた映画スターたちは数多い。

僕は性的には異性愛者だけれど、最近、続けて見直したルキノ・ヴィスコンティ作品の描写に改めて驚かされた。ヴィスコンティはバイセクシャルであることを公表していたが、「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)「ベニスに死す」(1971年)「ルートヴィッヒ」(1972年)には、若い男たちの半裸が実になまめかしく描かれていた。ヴィスコンティ作品の怪しい魅力は、監督の性的嗜好によって高められていたのだと改めて理解した。

といっても、男優同士のセックスシーンには僕も衝撃を受けたことがある。ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」(1997年)でのレスリー・チャンとトニー・レオンのセックス描写はハードだった。しかし、僕は自分がそのシーンに衝撃を受けたことによって、「まだゲイに対する偏見を持っていること」を自覚し反省した。「ブエノスアイレス」は、僕にとっての試金石あるいは踏み絵だった。

しかし、今では「怒り」(2016年)での妻夫木聡と綾野剛が演じたゲイカップルのハードなセックスシーンを見て「生きる切なさ」を感じるようになった。彼らの熱演に拍手を送った。特に綾野剛は素晴らしい。異性愛の男たちは女優がレズビアン・シーンを演じるのは楽しんで見るくせに、男同士のセックスシーンには「嫌悪感」を抱く。「気持ちが悪い」と口にする。自分と違うことで拒否をする。

自分と同じ人間は、ひとりもいない。顔が違う。背の高さが違う。足の大きさが違う。性格が違う。生まれも育ちも違う。得意なことも違う。好きなこと、嫌いなことも違う。好きになる人も違う。それなのに、好きになる相手が同性であるだけで、なぜ嫌悪するのか。そのことによって、自分はどんな迷惑や被害を蒙るのか。

自分と違うことでいちいち嫌悪していたら、生きていけない。違いを受け入れることが、自分以外の人間と社会的に共存するための基本である。顔が違うのと同じように、人の性的傾向も異なるのだ。

 

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2023年2月 4日 (土)

■日々の泡----ガッテン承知之介

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古い日本映画ばかり見ていると、「そうそう、あの頃はこういう言い方が流行っていたなあ」と思うことが多い。言葉は生き物で変化し続けるというけれど、流行語は特に命が短い。すぐに「死語」になる。「死語」は陳腐化する。僕は、昔「トレンディな」という言葉を流行が廃れた頃に使って、若い女性たちに嗤われたことがある。

先日「あいつとの冒険」(1965年)という青春映画を見ていたら、「心臓ねぇ」というセリフが出てきた。完全に忘れていたけれど、「そういえば、よく使ってたなあ。特に若い女の子が」と思い出した。そのセリフを口にしたのは、女子高生役の太田雅子こと後の梶芽衣子だった。18歳である。まだ改名をしていないデビューの年の作品だった。

「青春前期 青い果実」(1965年)で日活は太田コンビ(太田博之と太田雅子)を売り出した。太田雅子にとっては、二本目の映画出演である。一方、太田博之はその十年近く前から子役としてテレビや映画に出ており、NHK「ふしぎな少年」の主人公(「時間よ止まれ」ですね)も演じていた。後に「小僧寿司チェーン」を立ち上げ実業家として成功する。

太田博之は1965年に「あの雲に歌おう」「われら劣等生」「おおい雲」「青春前期 青い果実」「青春とはなんだ」「あいつとの冒険」に出演している。「あいつとの冒険」は1965年9月18日公開だった。太田雅子はデビューの年、「悲しき別れの歌」「青春前期 青い果実」「男の紋章 流転の掟」「あいつとの冒険」「泣かせるぜ」「赤い谷間の決闘」の六本に出演した。

梶芽衣子の自伝によると、その頃に日活同期入社の渡哲也(「泣かせるぜ」「赤い谷間の決闘」で共演した)に撮影所の食堂に呼び出されたという。生意気で何かとトラブルを起こす太田雅子は現場スタッフたちにも評判が悪く、「おまえは女なんだし、みんなに愛されるようになれ」と言われたらしい。しかし、気の強い太田雅子は、それでも突っ張り通した。

ちなみに「心臓ねえ」という言葉は「度胸がいい」というのではなく、「よくやるわね」と呆れるニュアンスがあり、「厚かましいわね」という意味も含んでいたと思う。たとえば、知らない女の子に声をかけたなどと友達に話すと、「おまえ、心臓だな」と反応された。まあ、正確なニュアンスは当時に戻らないとわからないかもしれない。

そんなことを考えていたら、昔、口にしていた言葉がいくつか思い浮かんだ。その中でも久しぶりに甦ったのが「骨皮筋右衛門」と「ガッテン承知之介」だった。ミイラのようにガリガリに痩せた人を「骨皮筋右衛門」と形容し、「了解」の意味で「ガッテン承知之介」と答えたものだ。

「ガッテン」は「合点」と書く。もっとも、僕の子供の頃でも「ガッテン」と答える人はまずいなかった。どちらかと言えば、時代劇の言葉である。「合点だあ」とよく口にしたのは、たとえば銭形平次(ルパン三世の銭形警部のおかげで、まだ若い人にも知られている?)の子分の八五郎だった。三河町の半七、人形佐七、黒門町の伝七など、岡っ引きの子分たちはなぜか「ガッテンだ」と答えることが多かった。

その「合点」が一般化した(?)のは、リクルートが創刊した肉体労働(ブルーカラー)系求人誌「ガテン」(1991~2009年)によってだろうか。以後、「ガテン系」という言い方が定着した。僕は「ガテン系」と聞くと、大工、左官などの建築系職人を連想する。僕の父はタイル職人だったから、子供の頃からそういう人たちになじんでいるせいかもしれない。

さて、子供の頃、「ガッテン」は使わなかったが、「ガッテン承知之介」は使っていた。少しふざけた言い方だったから、子供たちに受けたのかもしれない。もしかしたら、「おぼっちゃまくん」の「おはヨーグルト」みたいに、人気のあったマンガにでも出てきた言い方だったのだろうか。「赤胴鈴之助」はシリアス系時代劇マンガだったけれど、杉浦茂のギャグ系時代劇マンガには登場しそうな言葉だ。

今度、メールで「了解」ではなく、「ガッテン承知之介」と返信してみようかな。うちの奥さん(冗談があまり通じない)にそんなラインを送ると、「私をバカにしてるの?」と本気で目くじら立てられそう(この表現も死語かも?)だから、相手を選ばなければいけないけどね----。でも、流行らせてみたいものです。

 

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2023年1月28日 (土)

■日々の泡----音楽で映画は変わる

図書館に新刊の「あの音を求めて モリコーネ、音楽、映画、人生を語る」(フィルムアート社)が入っていたので、500ページを越える分厚い本だったけれど借りてきた。ついでに映画本コーナーを覗くと、「伊福部昭と戦後日本映画」(アルファベータ)という、これもA5判で背幅が3センチはあろうかという本が見つかり、一緒に借りてきた。

エンニオ・モリコーネはセルジオ・レオーネ監督「荒野の用心棒」(1964年)の口笛やムチの音をフューチャーした曲が日本でも大ヒットし、一時期はマカロニ・ウェスタン専門の映画音楽家のイメージがあったけれど、「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)のテーマ曲が世界的に有名になり、ああいう穏やかな心やすまる音楽も作れるのだと知られるようになった。

実際のエンニオ・モリコーネの作曲歴を見ると、イタリア映画が多いものの多彩な監督作品に音楽を提供している。「荒野の用心棒」と同じ年にはベルナルド・ベルトルッチの監督デビュー作「革命前夜」も担当しているし、ピエール・パオロ・パゾリーニ監督作品もある。70年代になるとハリウッドからのオファーも増え、ドン・シーゲル監督「真昼の死闘」(1970年)も担当した。2007年にはアカデミー名誉賞、2016年には「ヘイトフル・エイト」で作曲賞を受賞した。

「ヘイトフル・エイト」のクエンティン・タランティーノ監督はマカロニ・ウェスタン大好きでモリコーネの曲を自作に引用することが多く、「キル・ビル」(2003年)や「ジャンゴ 繋がれざる者」(2013年)で軽快で勇ましいモリコーネの曲を流し、改めてモリコーネのイメージを固めたが、この本によると「タランティーノの血まみれ趣味は好きではない」と語っている。ごもっとも、と僕も同意した。

面白いのはセルジオ・レオーネという監督が音楽を依頼してきて会うと、小学生のときの同級生だとわかり、「荒野の用心棒」の音楽を引き受けるのだが、映画そのものは「ひどい出来」と語っていること。僕も「荒野の用心棒」はまったく評価しないので、同感だった。僕が初めてレオーネ監督を認めたのは「続・夕陽のガンマン」(1966年)だ。最後の三人の対決が話題になった、やたらに長い(冗長と言われた)マカロニ・ウェスタンを僕は高く評価している。

モリコーネ自身は最も通じ合った監督として「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレの名前を挙げている。「明日を夢見て」(1995年)「海の上のピアニスト」(1998年)「マレーナ」(2000年)などすべて担当し、最後の仕事もトルナトーレ監督の「ある天文学者の恋文」(2016年)だった。興味深いのはクリント・イーストウッド監督のオファーを断り続けたこと。モリコーネは「レオーネに義理立てしてね」みたいなことを言っている。

レオーネ監督の最高傑作は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)だと語っているが、それも僕は同感だった。やたらに長い作品だが、よくできた映画だと思う。音楽も印象的だ。少女時代のヒロインが踊るシーンのワルツ、仲間の少年が射殺されるとき(このスローモーションの使い方は抜群。ジョン・ウー監督みたいに単純じゃない)の音楽、音楽だけで数十年の時間の経過を観客に感じさせるやり方など、モリコーネにとっても最高の仕事だった。同じ傾向の作品だが、ブライアン・デ・パルマ監督の「アンタッチャブル」(1987年)の音楽も忘れがたい。

さて、もう一冊、日本のクラシック界の重要な音楽家であり、戦後、「銀嶺の果て」(1947年)で映画音楽を初めて手がけて以来、数え切れない映画に音楽を付けてきた伊福部昭の本も資料的な価値は大きかった。巻末には「伊福部昭 映画作品 映画会社別リスト」がまとめられていて、改めて手がけた映画作品の多さに驚く。成瀬巳喜男監督「白い野獣」(1950年)も伊福部昭だったんだ、と改めて認識した。

しかし、伊福部昭で最も有名な映画音楽は「ゴジラ」(1954年)だろう。あの曲は多くの人が知っている。また、大映作品も多く手がけていて、僕は「座頭市」シリーズの音楽が印象に残っている。「座頭市物語」(1962年)以来、大映版「座頭市」はすべて担当しているはずだ。また、市川雷蔵の「眠狂四郎」シリーズにも音楽を付けている。そして、最後の仕事は東宝の「ゴジラVSデストロイア」(1995年)だった。

伊福部昭は1914年に生まれ、2006年に逝去。エンニオ・モリコーネは1928年に生まれ、2020年に亡くなった。戦後の映画全盛期に精力的な仕事をした作曲家たちだった。映画音楽を手がけた作曲家には、誰でもが知っている代表曲がある。彼らと同時代なら「007のテーマ」のジョン・バリー、「ラーラのテーマ」のモーリス・ジャール、「燃えよドラゴン」「スパイ大作戦のテーマ」のラロ・シフリンなどがいる。

 

■新刊2冊が発売になりました

2023年1月21日 (土)

■日々の泡----三保敬太郎のジャズ・ピアノ

アマゾン・プライムで日活の古い映画が見られるので、先日、日活版「事件記者」(1959年)と「事件記者 真昼の恐怖」(1959年)を見た。NHKで放映されていた「事件記者」は大人気で視聴率が50%近くになったこともあった。もっとも今ほどチャンネルも多くなく、番組も少なかった。昼間のテレビ放送はなく、テストパターンがずっと映っていた。

「事件記者」は僕も子供の頃に見ていて、新聞記者に憧れたものだ。池上彰さんは僕と同世代だが、「事件記者」を見てジャーナリストをめざしたという。「事件記者」はNHKで1958(昭和33)年から1966(昭和41)年まで放映されたのだけれど、生放送だったため映像はほとんど残っていないらしい。日活で映画化された「事件記者」シリーズは1959(昭和34)年から1962(昭和37)年まで10作品が作られた。テレビ版レギュラーメンバーに加えて、沢本忠雄や内田良平など日活の俳優たちも記者役で出演している。

一作めの「事件記者」は、沢本忠雄と山田吾一の新人記者が警視庁記者クラブにやってくるところから始まった。沢本忠雄は「東京日報」の新人記者で受付で記者クラブの場所を訊くが、「記者クラブはこっちですね」と受付に言って階段を上る男(山田吾一)がいたのでついていく。ところが、彼らは捜査会議中の部屋に入ってしまうのだ。

テレビ版を見ている観客には、山田吾一のガンさんはお馴染みだったはずだ。「中央日日」のおっちょこちょいで間抜けで食いしん坊のガンさんは、シリアスなドラマの中のコメディリリーフ的な役柄で視聴者に愛されていた。案の定、「中央日日」の新人記者として登場したガンさんは知ったかぶりで捜査会議中の部屋に入って会議を中断させ、初日からキャップのウラさん(高城淳一)の大目玉を食らう。

事件の犯人役は、宍戸錠と野呂圭介である。野呂圭介は「けんかえれじい」(1966年)などのコメディ演技ではなく、拳銃マニアで非情に何人も射殺する。異常者的な雰囲気を醸し出す殺人者である。彼に指示を出す宍戸錠も「殺すな、と言っただろ」と、少し持て余し気味だ。ちなみに宍戸錠も見せ場があるわけではなく、犯人役に徹底している。

さて、僕は懐かしく「事件記者」を見ていたのだけれど、うれしかったのは全編に流れる音楽だった。音楽の担当は三保敬太郎である。昔、三保敬太郎の評伝が発行されて書評で紹介されたことがあり、僕は彼のジャズ・ピアノを聴いてみたいと思っていたので念願が叶った。古い世代だと「11PM」のテーマ音楽の作曲者と言うと、「ああ、あの音楽ね」とうなずくと思う。

三保敬太郎は作曲家であり編曲家であり、ジャズ・ピアニストであり、レーシング・ドライバーであり、俳優や映画監督も経験したという。ジャズメンで映画音楽を担当した人は多い。一時期のフランス映画は「シネ・ジャズ」と言われたものである。有名なのはマイルス・デイビスの「死刑台のエレベーター」(1957年)だろう。日本公開は1958年9月、三保も見ていたに違いない。

クインシー・ジョーンズ(久石譲は彼から名前をとった)はロッド・スタイガー主演の「質屋」(1964年)で初めて映画音楽を担当し、ミシェル・ルグランは「過去をもつ愛情」(1954年)で初めて映画音楽を手がける。クインシー・ジョーンズがアルゼンチンで見出したラロ・シフリンは、誰でも知っている「燃えよドラゴン」と「スパイ大作戦」のテーマを作曲した。

アルゼンチンのテナー・サックス奏者であるガトー・バルビエリは数本の映画に関係したが、最初の映画音楽の仕事であった「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972年)のテーマがヒットした。「ラストタンゴ・イン・パリ」はケニュー・ドリュー(ピアノ)とニールス・オルステッド・ペデルセン(ベース)のデュオ演奏が忘れがたい。ペデルセンはウッドベースで旋律を奏でた。

三保敬太郎は日活版「事件記者」10作すべての音楽を担当しているらしいが、アマゾンプライムで検索しても2作しか出てこない。しかし、すべての作品を見たく(聴きたく)なった。調べてみると東映の「花と嵐とギャング」(1961年)も担当している。以前に見たときは気付かなかったのだ。改めて見て(聴いて)みたいと思う。とっぽい高倉健がやたらに喋りまくる石井輝男監督のギャング映画である。

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