2017年12月14日 (木)

■映画と夜と音楽と…799 監督を夢見たこともあった



【いつも2人で/ブリット/アメリカの夜】

●七十を過ぎたジャクリーヌ・ビセットも相変わらず美しい

ふたりの女性ミリー(トニ・コレット)とジェス(ドリュー・バリモア)の友情を描いた「マイ・ベスト・フレンド」(2015年)を見ていたら、ミリーの母親役でジャクリーヌ・ビセットが出てきた。実年齢の七十代と同じくらいの設定だろうが、スリムな体型を維持していてセクシーなコスチュームを身に着けていた。彼女の役はテレビ女優の設定(実際にも、ずっとテレビ・ムービーに出演していたらしい)だったし、男関係が派手で映画のラストでは三度目の結婚をするキャラクターである。僕は、最初に登場したときには気付かず、二度めの登場シーンで「このセクシーな老女は、もしかしたらジャクリーヌ・ビセットか?」とまじまじと見てしまった。

ジャクリーヌ・ビセットは一九四四年のイギリス生まれだから、映画の制作当時は七十を過ぎたばかりである。リチャード・レスター監督に見出され、「ナック」(1965年)でデビューしたが、僕が初めて彼女をスクリーンで見たのはオードリー・ヘップバーン主演の「いつも2人で」(1967年)だった。結婚十年で倦怠期を迎えた建築家夫婦が出会いの旅、新婚の旅、友人一家との旅など、何度かのヨーロッパ旅行を回想する物語である。時系列を超越してそれぞれの旅のエピソードが錯綜する描き方で、初めて見た高校一年生のときには「これが映画的な手法なのだな」と興奮したものである。ヘンリー・マンシーニ作曲のテーマ曲も美しく、スタンダードになり、様々なプレイヤーが演奏している。

ジャクリーヌ・ビセットはオードリーとアルバート・フィニーが初めて出会う学生時代のヨーロッパ旅行で、オードリーの旅の仲間として出てきた。建築士を目指すアルバート・フィニーは、ヨーロッパの古い建築物を見ながらヒッチハイクで旅をしている。途中、数人でグループ旅行をしている女子学生たちに出会う。一緒に旅をすることになり、アルバート・フィニーはジャクリーヌ・ビセットに目をつける。しかし、ある日、オードリー以外のみんなが麻疹にかかり、アルバート・フィニーは心ならずもオードリーとふたりだけで旅をすることになる。ジャクリーヌ・ビセットはフィニーが目をつけるだけあって、オードリーよりずっとセクシーな美女だった。

「映画が好きな君は素敵だ」という様々な人が思い出の映画について文章を書いているエッセイ集で、作家デビューして間もない頃の村上春樹さんが「いつも2人で」について書いていた。その短文を読んで、「なるほどね」と思ったことを憶えている。新婚旅行のとき、ホテルのレストランで沈黙したまま向かい合って食事している男女を見て、オードリーが「なぜ、彼らは黙って食事しているの?」と訊き、アルバート・フィニーが「彼らは結婚した人々だ(They are married people)」と答える。そして十年後の旅では、彼らふたりも黙ったまま向かい合って食事をしている。そのことを村上さんはうまく書いていて、エッセイを読んで僕は改めて「いつも2人で」を見て確認した。

●「ブリット」の恋人役で一般に知られるようになった

僕がジャクリーヌ・ビセットをきちんと認識したのは、大ヒットしたスティーブ・マックィーン主演の「ブリット」(1968年)だった。「ブリット」は「0011ナポレオン・ソロ」で人気のあったロバート・ヴォーンが政治家の役で出てくるのと、ムスタング(当時はそう表記した)に乗ったフランク・ブリット刑事がふたり組の殺し屋の車を追ってサンフランシスコを走りまわるシーンが評判になっていた。高校二年生だった僕は、友人の「凄いぞ。坂の多いサンフランシスコの街を走るのだけど、車の中から撮ったシーンは見てると酔いそうだった」という言葉につられて見にいった。確かにカーチェイスは凄かった。監督はイギリス出身のピーター・イェーツ。数年後、「燃えよドラゴン」(1973年)のテーマ曲がヒットするラロ・シフリンのジャズ・ベースの音楽もシャープだった。

ジャクリーヌ・ビセットが登場したのは、ブリットがジャズ・クラブのような店でリラックスした表情を見せていたシーンだった。彼女はブリットの恋人役で、デートの相手だった。「あっ、『いつも2人で』に出てた女優だ」と僕は思った。端役だと思っていた女優が主人公の恋人役で出てきたので、「いい役がとれてよかったね」という温かな気持ちになった(その後、彼女はあっという間に主演女優になったけれど)。印象的だったのは、ふたりが一緒に車に乗っているとき、ブリットに連絡が入り、ふたりで事件現場のホテルにいくシーンだった。それは、ジャクリーヌ・ビセットの視点で描かれたシーンである。

ブリットは、ホテルの駐車場に車を駐める。ジャクリーヌ・ビセットは助手席に座って、彼の用事が終わるのを待っている。ホテルのフロントに向かったブリットは、しばらくしてホテルのフロント係と一緒に出てくる。何か起こったのか、ブリットは客室のコテージに小走りで向かう。それは、ジャクリーヌ・ビセットが見ているカットとして、ロングショットで描かれる。不審を感じたジャクリーヌ・ビセットは車を降り、ブリットを追う。コテージのドアが開かれている。金髪の女が寝乱れた姿で殺されていた。目は開いたままだ。その死体を見て、彼女は絶句する。その気配を感じてブリットが気付き、彼女を外に連れ出す。

次のシーンでは、衝撃を受けたジャクリーヌ・ビセットがブリットに「あれが、あたなの住んでる世界なの。あれを見て平気なの」と責めるように言う。ブリットは黙ったままだ。星の数ほどある警察および刑事映画で「ブリット」が名作になったのは、一般人代表としてジャクリーヌ・ビセットを登場させ、その視点で見たシークェンスを入れてあるからではないか、というのが僕の昔からの分析である。そして、ラストシーン。事件をすべて解決したブリットは自宅に帰る。彼のベッドには、ブリットが住む世界に衝撃を受けながらも、彼を愛しているのであろうジャクリーヌ・ビセットが裸の肩を見せて眠っている。ふたりの未来を感じさせて、「ブリット」は終わった。

「ブリット」は、一九六八年の暮れに公開された。僕が見たのは、年明けのことだった。一九六九年である。その二週間ほど後のことだ。テレビは学生たちによって封鎖された東大安田講堂のバリケードを機動隊が強行突破し、学生たちが排除される場面を映していた。放水と火炎瓶。学園紛争(「闘争」と書かないと怒る人もいるけれど)という言葉は知っていた。しかし、その実態をまざまざと見せられたのである。あの映像を見て、多くの高校生たちは同じ思いを抱いたのかもしれない。三月、東大入試は中止になり、僕の先輩たちは京大に志望を変えるか、浪人を選んだ。そして、その年、学園紛争は多くの高校に波及した。僕のいた高校でも、いくつかの事件が起こった。

●映画狂たちにとって重要な作品のひとつが「アメリカの夜」

「シネフィル(映画狂)」あるいは「シネマフリーク」などと呼ばれる人々にとって、特別に重要な映画がある。たとえば、ベルナルド・ベルトルッチ監督の「ドリーマーズ」(2003年)の登場人物たちは完全な映画狂ばかりだが、彼らはジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(1959年)を至上の映画としてあがめている。フランソワ・トリュフォー監督で言えば、彼の長編第一作でヌーヴェル・ヴァーグの代表作「大人は判ってくれない」(1959年)もそんな作品のひとつである。そのトリュフォー作品に「映画に愛をこめて アメリカの夜」 (1973年)がある。これも、シネフィルたちにとって重要な一本なのだ。何しろ、映画作りの現場を映画にした映画なのだから----。

そして、その「アメリカの夜」のヒロインは、ジャクリーヌ・ピセットだった。フランス人女優を主に使ったトリュフォー監督としては珍しい。イギリス人だけど、ジャクリーヌ・ビセットはフランス語が堪能だったらしい。それともフランソワ・トリュフォー好みの美女だったのかもしれない。トリュフォーは「大人は判ってくれない」以来、自らの分身としてジャン=ピエール・レオーをアントワーヌ・ドワネルと名付けて演じさせ続けた。しかし、女優はジャンヌ・モロー、フランソワーズ・ドルレアック、カトリーヌ・ドヌーヴ、イザベル・アジャーニ、ナタリー・バイ、ファニー・アルダンなど、数多くのフランス人美女を使い続けた。もっとも、ジャクリーヌ・ビセットだけが例外ではなく、「華氏451」(1966年)のヒロインはイギリス女優のジュリー・クリスティーだった。

ところで、「アメリカの夜」とは、ハリウッド映画の手法で、夜のシーンを昼間に撮影してしまうことである。昔の西部劇などを見ているとよく出てきたが、日中撮影でNDフィルターなどを使用して夜のシーンとして撮影するのである。光量を落とし、暗く撮影する。だから空が映ったりすると、雲などの様子で明らかに昼間なのがわかる。これを「アメリカの夜」と称した。邦題では「映画に愛をこめて」という余計なものがついているが、映画の撮影現場のエピソードを様々に描き、映画への愛を逆説的に表現したのだろう。ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、映画製作の現場を見せるのが好きだったが、トリュフォーはそれで一本作ってしまったのだ。

僕が「アメリカの夜」を見たのは、一九七四年の秋だった。就職試験を落ちまくっていた頃である。前年の秋に起こったオイルショックで、ひどい就職難だったし、狭き門の出版社ばかりを受けていた僕は、夏以来すでに十数社の試験を落ちていた。そんな頃に「アメリカの夜」を見て、僕はかつての映画の製作現場への憧れを甦らせた。高校三年の頃、僕は映画監督になるにはどんな大学へいけばいいのかと本気で考えていた。当時、若手の中では深作欣二監督が日大芸術学部映画学科を卒業していた。僕は日芸の映画学科の入試を検討した。しかし、ある友人が「大島渚は珍しく京大だけど、監督になれるのは、みんな、東大出身者だ」と断言した。調べてみると、確かにそうだった。僕は、映像の世界をあきらめて私大の文学部を受験した。

そして卒業が近づき、文章を書くのが好きなこともあって出版社を受け続けていたのだが、「アメリカの夜」を見た数日後、テレビマンユニオンの募集広告を見て、僕は応募してみようかと考えた。当時、映画会社の募集など、すでになくなっていた。大映は倒産し、日活はロマンポルノを量産。松竹は東大卒の映画監督である山田洋次の「男はつらいよ」で何とか息を継いでいた。東映は藤純子が引退し、健さんがフリーになり、実録やくざ路線を突っ走っていた。あのとき、結局、僕はテレビマンユニオンに応募しなかったのだろうか。それとも、応募したけど書類選考ではねられたのだろうか。記憶が曖昧だ。現在、テレビマンユニオン出身の是枝監督の活躍を見ると、もしかしたらあのとき----などと、叶わなかった夢を見る。久しぶりに見たジャクリーヌ・ビセットは、僕にそんなことを思い出させた。

2017年12月 7日 (木)

■映画と夜と音楽と…798 七十年後に出た翻訳



【私が愛した大統領/シン・レッド・ライン/日本のいちばん長い日】

●満州国建国の頃の日米関係は現在の米朝関係に似ている

国書刊行会から今年発行された「ヘンリー・スティムソン回顧録」上下巻を読んだ。といっても、興味のあるところを飛ばし読みしただけだが、やはり歴史の証言として興味深い話ばかりだ。スティムソンは公職に就いて以来、毎日欠かさず日記をつけ、後世の資料となることを意識していたそうで、その日記にもとずいた回顧録だから、たとえば日本が起こした満州事変に際しての記述とか、それ以降の日本に対する対応など臨場感にあふれたものだった。満州事変当時、ヘンリー・スティムソンはアメリカ合衆国国務長官だった。トランプ政権で言えば、(更迭されそうだけど)ティラーソンの立場である。つまり、日本の外務大臣に相当する。

満州事変を起こし傀儡政権である満州国を設立した日本に対し、スティムソンは経済制裁などの圧力をかけ、満州からの撤退を要求する。現在で言えば、クリミアを併合したロシアに対してアメリカが経済制裁を行っているようなものである。それに、当時の日米関係は現在の日朝関係を連想させる。戦前のアメリカは国際連盟には加盟していないが、国際連盟が満州国調査のために派遣したリットン調査団の報告をスティムソンは詳細に検討し、満州国建国は日本の中国大陸への侵略と捉える。この当時のことは、「ラストエンペラー」(1987年)を見ていると、割と理解しやすい。

ヘンリー・スティムソンが日本と密接に関わるのは、真珠湾攻撃から日本の敗戦に至る時期にアメリカ合衆国陸軍長官だったからだ。車椅子の大統領フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト(FDRと略される)は三期十二年を務め、さらに四選を果たし、一九四五年(昭和二十年)一月から十三年目の任期に入った。副大統領は、ハリーS・トルーマンだった。しかし、ルーズヴェルトは、その年の四月に急死する。なったばかりの副大統領トルーマンは、いきなり何もわからないまま大統領になる。ルーズヴェルトはヤルタ会談でのスターリンとの密約も誰にも知らせずに死んでしまったのだ。

ちなみにFDRについては「私が愛した大統領」(2012年)を見ると、よくわかる。第二次大戦直前、イギリス国王(「英国王のスピーチ」で描かれたジョージ6世)を別荘に迎えて、様々な駆け引きをするFDRをビル・マーレイが演じている。ドイツとの戦争が現実のものとなりつつあるイギリスは、アメリカの支援が絶対的に必要だった。その要請に国王自らがやってくる。大戦当初、モンロー主義を唱えるアメリカはドイツとの戦いには参戦せず、イギリスへの物資や武器の提供に留まっていた。結局、真珠湾攻撃がアメリカの大戦参加へのきっかけになった。

ルーズヴェルトが急死したとき、ヒトラーは死者を罵るコメントを発表した。もっとも、ヒトラーはその一ヶ月も経たないうちに自決する。さらに、五月八日、東からはソ連軍に蹂躙(虐殺、強姦、略奪が行われた)され、西からは連合国軍に占領されてドイツは無条件降伏する。ルーズヴェルトの死に対して首相になったばかりの鈴木貫太郎は丁重な弔辞をアメリカ国民に送り、そのコメントは世界に感銘を与えた。ナチスを逃れて亡命していたトーマス・マンは、鈴木貫太郎のコメントに心を打たれ賛辞を残している。リメイクされた「日本のいちばん長い日」(2015年)で鈴木貫太郎を演じたのは山崎努だったけれど、通信社の記者にルーズヴェルトの死に対する弔辞を口述しているシーンが描かれていた。

一方、アメリカも太平洋での戦いでは多大な犠牲を出していた。日本の戦後文学や映画では日本軍の悲惨な戦いばかりが描かれてきたが、日本兵の勇猛さはアメリカ兵を震え上がらせ、バンザイ攻撃は恐怖の的だった。ノーマン・メイラーの「裸者と死者」を読むとその辺は実感できるし、「シン・レッド・ライン」(1998年)を見ると、日本兵との白兵戦に対する怖さが生理的に伝わってくる。玉砕覚悟の狂信的な日本兵に対する恐怖は、多くのアメリカ兵のものだった。特に昭和二十年三月の硫黄島の戦いでは、アメリカ側も二万人ちかい死傷者を出した。さらに、四月から六月までの沖縄戦でも多くのアメリカ兵が死んでいった。硫黄島の戦いについては、クリント・イーストウッドの二部作「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」(2006年)がよくわかる。

その後、アメリカは九州上陸作戦(オリンピック作戦と名付けられていた)、さらに十一月には相模湾からの関東への上陸作戦を計画していた。しかし、スティムソンは上陸作戦を敢行すれば、数十万人のアメリカ兵の犠牲を覚悟しなければならないと考えた。スティムソンはルメイ将軍が指揮する日本本土への無差別爆撃には批判的で、軍事施設に限定すべきだと主張していたし、三月の東京空襲の犠牲者の数にも心を痛めていた。スティムソンは早期に日本を降伏させるために、戦前の駐日アメリカ大使であり、その当時は国務長官代理だったジョセフ・グルー、フォレスタル海軍長官とはかり、ポツダム宣言の原型となる文書をトルーマンに提出する。そこには、明確に「天皇制は維持する」ことが盛り込まれていた。

●スティムソンは京都への原爆投下を反対し続けた

ワシントン随一の知日家であったジョセフ・グルーは国務次官に就任した後、終戦の前年(一九四四年)に「滞日十年」という大部の回顧録をアメリカで出版した。日本と日本人について、正しい認識を持ってもらいたいという願いからだった。日本には狂信的な軍国主義者ばかりがいるのではなく、リベラルな政治家や自由主義者もいるのだと、その本では強調されている。現在、ちくま文庫から上下二巻の翻訳本が出ているが、それを読むと戦前の日本に対する認識がいろいろ訂正される。グルー夫人であるアリスは幕末にやってきたペリー提督の子孫で、夫婦そろって親日派だった。

グルーは「国体の維持」を約束すれば、日本は早期に降伏すると考え、スティムソンも同調した。しかし、スティムソンは陸軍長官として原子爆弾開発も統括していた。実際の責任者はグローヴス准将だったが、陸軍長官であるスティムソンはすべてを管轄していたのである。副大統領のトルーマンは原爆開発計画を知らず、大統領を引き継いで初めてスティムソンから知らされた。そのとき、原子爆弾の開発は最終段階に入っていた。七月、ドイツ・ベルリン郊外のポツダムでチャーチル、スターリンと会談中のトルーマンに、スティムソンは原爆実験が成功したことを知らせる。

原爆投下がいつ誰によって決定されたのかははっきりしない。しかし、原爆実験の準備が行われるのと平行して、原子爆弾はテニアン島へ運ばれていた。トルーマンはポツダム会談を終え、数日かけて戦艦で大西洋を横断する帰途についたが、その間に日本のどこかへ原爆が投下されることを同行した記者たちに発表した。記者たちはそれを知っても、本社に知らせる方法がなかったからである。八月六日、広島、長崎、小倉のどこかを標的として日本上空に到達したB29は、広島上空の雲が切れ街が目視できたため、リトルボーイとあだ名された原爆を投下し、急旋回してテニアン島への帰還に転じた。

原爆投下目標の都市として候補に挙がっていた中に、京都があった。スティムソンは陸軍長官として原爆開発計画の責任者ではあったが、実際の指揮統括はグローヴス准将が担っていた。彼は山に囲まれた盆地である京都は理想的な地形であり、原爆の効果が最も発揮できると考え、京都への投下を強く主張した。しかし、京都への投下を反対し続けたのはスティムソンだった。スティムソンは夫婦で京都旅行をしたことがあり、個人的には美しい古都を破壊することを忍びなかったし、知日家である彼は「京都は日本人にとって特別の町であり、京都を破壊すれば日本人は永遠にアメリカを許さないだろう」とグローヴスたちを説得し、最終的に京都を目標から外させた。

●日米双方の終戦関係の資料を現在の目で読んでみると----

「日本のいちばん長い日」は文藝春秋から大宅壮一の名義で、終戦から二十数年経った頃に発行された。実際の著者は半藤一利さんだったが、当時は文藝春秋社の社員だったので大宅壮一の名義を借りたのである。半藤さんは退職後、「歴史探偵」を名乗る作家になり、「幕末史」や「昭和史」など数多くの歴史に関する本を出している。「日本のいちばん長い日」も、発行後に公開された資料や証言を加えて改めて半藤一利名義の決定版を出した。それを元に映画化したのが原田真人監督版「日本のいちばん長い日」だった。

映画としては僕が高校生のときに見た岡本喜八監督版「日本のいちばん長い日」(1967年)の方がよくできていると思うけれど、昭和史的な興味で見ると原田版「日本のいちばん長い日」はおもしろい。もっとも、僕がグルーの本や半藤さんの「昭和史」などを読み、日米双方の当時の状況を詳しく知ったからかもしれない。高校生の頃の僕には終戦の事情や背景など、何の知識もなかったのだから。それに、岡本喜八版では、阿南陸軍大臣を演じた三船敏郎の切腹シーンがクローズアップされすぎたきらいはある。

原田版でも中心的な人物として阿南陸軍大臣(役所広司)が描かれるが、鈴木貫太郎首相(山崎努)を中心にした視点で展開されるため、阿南陸軍大臣があくまで本土決戦を主張し続けた理由がわかってくる。当時の陸軍内部は閣議でポツダム宣言受諾を決定すれば、クーデターを起こして軍事政権を樹立し、あくまで本土決戦に臨むという空気だったのではあるまいか。それを回避し、終戦に至らせるためには、陸軍大臣としては、本土決戦を主張し続ける他なかっただろう。また、阿南陸軍大臣は「国体の維持」が保証されない限りポツダム宣言の受諾には反対と主張し続ける。そのために、ポツダム宣言の受諾は数日遅れてしまう。

そんな日本側の事情を知って「ヘンリー・スティムソン回顧録」を読むと、歴史の皮肉を感じないではいられない。この回顧録がまとめられたのは、終戦後二年しか経っていない一九四七年のことだったが、第二次大戦はすでに過去の歴史として捉えられていた。大戦後のスティムソンにとっての心配事は、原子爆弾を保有した唯一の国であるアメリカと、大戦後に鮮明になりつつあるソ連を中心とした共産圏との対立だった。そして、朝鮮戦争が始まり、冷戦まっただ中だった一九五〇年秋、ヘンリー・スティムソンは八十三年の生涯を閉じた。

2017年11月30日 (木)

■映画と夜と音楽と…797 すべてのことはうまくいく?



【誰のせいでもない/めまい/ジョーズ】

●ゆっくりした移動撮影が不穏な空気を醸し出す

まるで、ホラー映画のような不穏な「何かよくないことが起きるのではないか」という雰囲気が漂い始め、強いサスペンスを感じる。「怖いことが起きるのではないか」とハラハラする。スクリーンにはある光景が映っているだけなのに、なぜ、そんな風に感じてしまうのだろう。雪の積もった道があり、小高いところに小さな家がある。窓からの光が雪を照らしていて美しい。それだけの光景なのに、不吉な予感がするのだ。ヒッチコック監督作品「サイコ」のモーテルの奥のノーマン・ベイツの家が映ったときのように----。

まったく予備知識なく見始めたヴィム・ヴェンダース監督の「誰のせいでもない」(2015年)は、どういう展開になるのか、まるで見当がつかず、最後まで予想を裏切られるばかりだったが、見終わって深い感銘を受けている自分に気付いた。ホラー映画になっても、犯罪映画になっても、サイコパスが主人公に執拗につきまとうような映画になっても不思議ではなかったが、最後まで登場人物たちは普通に生き、普通の生活者だった。ただ、最後のエピソードだけは異常者的な展開だったけれど、それも意外な結末を迎えた。

冒頭、小屋の中で眠っている男(ジェームス・フランコ)が目覚める。小さなノートに何か書き付け、外に出るとそこは凍った湖の上に設置された小屋である。小屋の前で男たちが氷に開けた穴を囲んで魚を釣っている。日本のワカサギ釣りのようなものか。男たちは「トマス」と呼びかけ、「何枚書けた?」と訊く。肩をすくめたトマスは、「何匹釣れた?」と訊き返す。トマスは車に乗り雪原を走り、自宅へ向かう。途中、一緒に暮らすサラから電話が入り、トマスが作家らしいのがわかる。サラが想いを伝えようとするのとは逆に、トマスはサラとは別れたがっている風にうかがえる。

サラの電話を無視して車を走らせていると、突然、子供の乗ったソリが車の前に滑り落ちてくる。急ブレーキを踏んだトマスは、祈るような思いで車を降りる。車の前を見ると、幼い少年が呆然と座り込んでいる。トマスは少年を立たせ、怪我がないか体を探る。幸い、少年は傷ひとつない。安堵したトマスは周囲を見渡し、小高い丘に建つ一軒家を見る。夕暮れ時の降り積もった雪原の中で、灯りをともした家が美しい。しかし、なぜかそこに不吉な空気が流れるのだ。それはキャメラワークと描き方によって醸し出されたものである。

たとえば、ソリの子供をはねたかもしれないとき、観客にはトマスの側の情報しか与えられない。だから、トマスと同じようにドキドキして車の前を見ることになり、無傷の少年がいてほっとする。そして、少年の家を探して見渡すと小高い場所に家が見える。その光景は、主観的ショットとして撮影されてはいないが、やはりトマスの見た光景なのだ。トマスは少年を肩車してその家に向かう。呆然としたまま「クリストファー」と名乗った少年は、このときの肩車が忘れられなくなる。その家から出てきた女性(シャルロット・ゲインズブール)はトマスから話を聞くと、顔色を変え少年に「ニコラスはどこ?」と訊き、半狂乱になって雪原を車に向かって走り出す。

次のシーンでは、トマスの車を女性警官が運転して彼の自宅前にやってくる。後ろにパトカーがついている。女性警官は「あれは事故よ。あなたのせいじゃない」と言うが、トマスは落ち込んだままだ。パトカーが去り、トマスは助手席でじっと座っている。直接的には描かないので、とまどう観客がいるかもしれない。つまり、ソリに乗っていたのはクリストファーとニコラスという兄弟で、弟のニコラスはトマスの車の下で死んでいたのだ。しかし、そのシーンは描かれないし、サラに「何があったの?」と訊かれたトマスは「言いたくない」と答えるので、セリフによる説明もない。観客は想像力を最大限に発揮しなければならない。

●ファーストシークェンスですべてのキャメラワークが駆使される

トマスが目覚めて事故を起こし、女性警官に送られて家に帰るまでがファースト・シークェンスだが、そのシークェンスだけですべてのキャメラワークが駆使されているかのようだ。しかし、ゆっくりとしたキャメラの動きなのでドラマを追っていると気付かない。不安感をかき立てているのは、常にゆっくりと動いているキャメラから醸し出される何かだ。不穏な空気が漂うのは、無表情な人物にゆっくりとキャメラが寄っていったり、スーとなめらかにキャメラが俯瞰になったりするからだ。それは人物の心理を表現する。

ファーストシークェンスだけで、移動撮影、ドリー(トラック)アップ、クレーンショット、ドリー(トラック)&ズームなどが使われる。単純なズームアップやズームバックは使われず、ドリー&ズームを要所で使用しているのが「誰のせいでもない」のポイントだ。人物に寄るときはトラックアップを使っているので、ズームアップとは背景の変化が異なる。しかし、ドリー(トラック)&ズームを使うと人物のサイズは変わらないのに背景が歪んだように変化する。ファーストシークェンスでは、雪原の中で丘の上の家を見つめるトマスを正面から捉え、ゆっくりとしたドリー(トラック)&ズームが使われていた。

ドリー(トラック)&ズームはヒッチコック監督が「めまい」(1958年)で編み出した手法である。昔は移動撮影のとき、レールを引いてキャメラを乗せた台車を動かしていた。ドリーはテレビスタジオで使うような車輪のついた移動撮影台だ。ヒッチコック監督の頃はレールを引いて移動撮影(トラッキング)させていたと思う。「めまい」で使われた手法は、教会の塔の内部の螺旋階段の模型を造り、それをズームアップしながらトラックバックさせるというものだった。高所恐怖症の主人公ジェームス・スチュワートが愛するキム・ノヴァクを追って螺旋階段を昇るが、途中で下を見てめまいがし昇れなくなるシーンで使われた。

この手法をショッキングなシーンとして発展させたのが、スティーヴン・スティルバーグだった。「ジョーズ」(1975年)の泳げない警察署長ロイ・シャイダーが浜辺で椅子に座って監視しているとき、ジョーズが現れる。その瞬間、ロイ・シャイダーにズームアップしながらトラックバックした。つまり、ロイ・シャイダーの映っているサイズは変化しないが、背景が歪んだように急激に変化する。非常な不安感と衝撃を観客に与える。スピルバーグは観客にショックを与えるために、このドリー(トラック)&ズームを急速に行った。その後、この手法はテレビCMでもよく使われるようになった。

「誰のせいでもない」では、ファースト・シークェンスで丘の上の家を見ているウェストサイズのトマスのカットで使われていた。ただし、すごくゆっくりした変化なので、よほど注意して見ていないとわからない。背景が微妙に変化しているのに、トマスの姿自体には変化がない。ただ、キャメラの動きに気がつかなくても不安感を呼び起こし、何かよくないことが起こるのではないかという予感がする。また、ラストシーンではいくつものドリー(トラック)&ズームのカットが畳みかけるように編集されている。中心にある被写体は変化しなくても、ゆっくりと微妙に変化していく背景があり、それは「人生において明確なものは何もない」というメッセージが込められているような気がした。

●曖昧な現実の世界を曖昧なまま表現しようとするヴェンダース

現実の世界は、曖昧さに充ちている。人との会話でも、意志の疎通が明確にできていると確信することはあるだろうか。自分が発した言葉が正確に相手に伝わっていると思えるだろうか。いや、相手の言葉を自分は間違いなく理解している自信があるだろうか。人の言葉はどのようにもとれるのではないか。まして、相手の言葉が心の中で思っていることだと確信できるはずもない。心の中で思っているのとは逆のことを口にしているかもしれない。あるいは、相手はこちらが言った言葉を皮肉だと捉えているかもしれない。

ヴィム・ヴェンダースの作品が正体のわからない不安感を与えると思ったのは、ハリウッド映画のように「誰でもわかる」ことをめざしていないからだ。観客に与えられる説明(情報量)が少ないし、セリフも「ひとつの意味しかない」のではなく、多様性がある曖昧な描き方が行われる。解釈次第では、反対の意味にとることもできるだろう。しかし、それが現実なのだ。ある人が話していることは、その言葉通りの意味ではなく、心の中では逆のことを思っているかもしれない。それが現実の人間ではないか。その視点で「誰のせいでもない」を見てみると、まったく別の物語に見えてくる。

トマスは幼い少年をひき殺すという経験をした結果、彼の書くものは以前よりずっとよくなる。内面的な苦悩が、作家としての彼を進化させたのだ。事故の二年後に出した小説は、以前に出した二冊に比べ高く評価される。その出版記念会の帰り、彼は事故現場を訪れ少年の母に会う。その日、ふたりにささやかな触れ合いがあり、やがてまた数年が過ぎ、トマスには新しい伴侶ができている。彼の新作はよく売れているし、作家としての地位も確保している。さらに数年が経過し、トマスは文学賞を受賞し、裕福になり、大きな邸宅に暮らしている。そんなとき、十六歳になったクリストファーから手紙が届く。

「誰のせいでもない」の原題は「EVERY THING WILL BE FINE」である。これは直訳すれば「すべてはうまくいく」とでもいう意味だろうか。しかし、反語的にも解釈できる。トマスと会ったクリストファーは「不公平だ。あなたは成功したのに、母は----」と口にし、「事故の前の二冊は出来が悪い」とはっきりトマスに言う。そのとき、トマスが口にする言葉は言い訳にしか聞こえない。事故から十年以上が過ぎ、作家としての成功がトマスを変えたのかもしれない。彼はクリストファーを疎んでいるのだろうか。あるいは、怖れているのかもしれない。

そんな中途半端で曖昧な気分を観客に味あわせたまま、ドリー(トラック)&ズームの手法で捉えられたトマスの顔がボケてゆき、「誰のせいでもない」は終わる。そんな不思議な映画が僕に深い感銘を与えた。その要素のひとつに、二つのシーンにしか登場しないトマスの父親がいる。最初に出てきたときの父親は退職してもまだ元気で死んだ妻の悪口を言い、「私のしてきたことは、すべて間違いだった。無駄に時が過ぎ去った」と言う。その老人の悔いが、僕の中に深く残った。それは、老人ホームで最期を迎えようとしていた「トト・ザ・ヒーロー」(1991年)の主人公の「私の人生は何の意味もなかった----」というつぶやきと同じだった。そんな言葉が、身の裡に深く残る年齢になってしまった。

2017年11月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…796 猫好き作家の映画化作品



【宗方姉妹/帰郷/風船】

●写真家の岩合光昭さんは猫語が話せるのかもしれない

毎日、雨の日でも早朝の散歩を欠かさない。まだ暗い時間に散歩をしていると、猫たちに出逢う。人のいない道を猫が悠々と横切るし、車の下には丸くなった猫たちがいる。朝の冷え込みが厳しくなって、車の下が少しでも寒さを防げるのだろう。茶トラ、三毛、サバトラ、キジトラ、黒、白、ブチ、様々な猫が生きている。その姿、仕草、動きを見ているだけで、孤独感が消えていく。だから、猫と逢うと身を屈め、じっと見つめてしまう。そういうとき、なぜか猫は気配を感じるらしく、遠く離れていても動きを止め、こちらに目を向ける。こちらが動かないでいると、猫もじっと動かず見つめてくる。警戒しているのだ。こちらが急な動きを見せると、サッと逃げていく。

NHKーBSで放映している「岩合光昭の世界ネコ歩き」は猫好きの人はよく見ているようだけど、なぜ世界中の猫は岩合さんに無警戒に自然な姿を見せるのだろうと不思議に思う。ある記事で「猫に嫌われないようにしている」と岩合さんは語っていたが、それだけなのだろうか。岩合さんは猫語が話せるとか、何か秘密があるのじゃないだろうか。僕も猫にはずいぶん馴れて、散歩のときに足下に寄ってきてくれる猫は何匹かいるのだけれど、どの猫も警戒心を完全には解いていない。いつでも、サッと逃げられるような身構えをしている。猫語を話せればいいなと思いながら、人間の言葉で話しかけている。

岩合光昭さんには三十年以上前になるが、取材をしたことがある。当時、僕はカメラ雑誌編集部にいた。岩合さんはアフリカのセレンゲティ自然公園に家族で一年移り住み、動物たちを撮影し「おきて」という写真集を上梓した。三十代半ばのことである。ネイチャーフォトのジャンルに力を入れていたオリンパス光学は、岩合さんを熱心にバックアップしていて、企業カレンダーに岩合さんの動物写真を採用した。そんなこともあって、僕は岩合さんにインタビューしたのだ。当時、新進の動物写真家だった岩合さんだったが、僕の会社の年輩の編集者たちは「岩合さんの息子さん」と、光昭さんのことを呼んでいた。岩合徳光さんという動物写真の泰斗がいて、光昭さんは息子さんだったのだ。

アフリカのセレンゲティ自然公園に家族で移住して暮らしていた岩合さん一家のことは、その後、NHKでドラマになった。奥さんの視点で描かれていたと思うが、奥さんを演じたのは薬師丸ひろ子だった。ドラマが放映された頃だろうか、渋谷の小さなギャラリーで岩合さんが撮った猫の写真展が開催され、写真展としては異例の客を集め新聞記事にまでなった。「動物写真家の岩合光昭さんが猫の写真?」と僕は思ったが、それから岩合さんの猫の写真展はあちこちで開催され、デパートの企画展として全国展開されるようになった。そして、いつの間にか「猫の写真なら岩合光昭」が定着した。昔、「アサヒカメラ」一月号に岩合さんの猫の写真のカレンダーが付録について、部数を延ばしたこともある。毎年「アサヒカメラ」一月号で特集していた、篠山紀信さんの過激なヌードより人気があった(?)らしい。

岩合さんが撮影する猫たちを見ていると、本当に猫が好きなのだと伝わってくる。猫好きの人間にはたまらない。やっぱり、岩合さんは猫語が話せるのに違いない。

●猫が好きで好きでたまらなかった「鞍馬天狗」の原作者

猫好きの作家はいっぱいいるが、大佛次郎の猫好きにかなう人はそういないのではないか。自宅には常に十匹以上の猫がいたというし、生涯に五百匹以上の猫を飼ったそうである。猫グッズの収集も多く、最近、「大佛次郎と猫たち」という展覧会も行われたのではなかっただろうか。川本三郎さんの「老いの荷風」所収「東京と猫を愛した画家、木村荘八」によると、やはり猫好きの木村荘八(画家・文筆家。永井荷風の「墨東奇譚」の挿し絵で知られる)が昭和三十三年に亡くなったとき、「大佛次郎は通夜に出かけた。その時、大佛夫人は木村家の猫たちの食事(カタクチイワシと焼いたアジ)を差し入れに持たせた。通夜の混雑で猫たちの食事が忘れられているだろうからという心づかいだった」という。

大佛次郎と言えば「鞍馬天狗」の原作者だけれど、今では「鞍馬天狗」を知らない若者たちも多いのだろうなあ。僕が初めて大佛次郎を「おさらぎ・じろう」と読むのだと知ったのは、小学六年生のときだった。大河ドラマ「赤穂浪士」が始まったからである。父母が「あれで、おさらぎって読むらしい」と話していたのを憶えている。長谷川一夫の大石内蔵助だった。赤穂浪士たちの探索を引き受けるニヒルな浪人・堀田隼人を演じた林与一に人気が出た。数年後、僕は原作をおもしろく読んだ。その「赤穂浪士」を始め「鞍馬天狗」「照る日曇る日」「ごろつき船」など、大佛次郎と言えば「時代小説」というイメージが強かったが、「現代小説もいいじゃないか」と思ったことがある。

一九五〇年(昭和二十五年)は戦後五年、まだ日本は占領されていた。その年、大佛次郎の現代小説が二本、映画化されている。小津安二郎が監督した「宗方姉妹」と大庭秀雄が監督した「帰郷」である。「ごろつき船」も映画化されているから、年間三本である。売れっ子作家だったのだ。「宗方姉妹」で姉を演じたのは田中絹代、妹は高峰秀子だった。高峰秀子が唯一出演した小津作品ではないか。小津監督が松竹ではなく、新東宝で撮影した作品だからかもしれない。古風な姉に対して、高峰秀子は戦後の若い女性を勢いよく演じている。「勢いよく」とは文字通りの表現で、僕は熱演する高峰秀子に違和感を感じた。やはり、成瀬巳喜男監督作品に出た高峰秀子がいいなと思う。

「帰郷」は戦争中、軍の汚職事件の罪をかぶり東南アジアで行方不明になった男が帰国し、娘と会う話が中心に展開する物語だった。妻は再婚している。母の幸福を願うなら父親には会わない方がいいのだが、やはり会いたい気持ちは募る。そんな父と娘の交情が印象に残る。戦争が引き裂いた家族の悲劇である。父親を佐分利信、娘を津島恵子が演じた。「帰郷」は大佛次郎の現代小説の代表作で人気もあったから、もう一度映画化されている。森雅之が父親、吉永小百合が娘を演じた西河克己監督版「帰郷」(1964年)だ。十九歳の吉永小百合が美しい。「帰郷」公開の一ヶ月後、吉永小百合の代表作で大ヒットした「愛と死をみつめて」(1964年)が公開され、日本中の観客の涙を涸らした。

●川島雄三監督が映画化した大佛次郎の新聞小説

川島雄三監督も大佛次郎原作の現代劇「風船」(1956年)を撮っている。これも森雅之が主演だが、何と彼の役名は村上春樹という。小説家の村上春樹さんは本名らしく、世代的に「春樹」という名前はたぶん「君の名は」の「後宮春樹」からとっているんじゃないかと思っていたが、「君の名は」(最近は「。」付きアニメの方が有名か?)のラジオ放送は一九五二年なので、村上さんが生まれた後のことだ。大庭秀雄監督によって映画化されたシリーズが公開されるのは、一九五三年から翌年にかけてだった。ということは、「君の名は」の主人公が「春樹」という名前なのは、その頃、「春樹」という名前が多かったからなのかもしれない。ちなみに(どうでもいいけど)、柔道協会(正式名は知らない)の理事に上村春樹さんという人がいる。金メダリストらしい。

さて、「風船」は盛大な葬儀のシーンから始まる。そこにきていたナイトクラブを経営する有名画家の息子である都築(二本柳寛)は、弔問客の中の夫婦を見つけて無沙汰を詫びる。かつて父の有望な弟子で、その後、事業を興し、今は光学会社の社長になっている村上春樹(森雅之)である。都築は戦後しばらく村上家に世話なっていたが、何も言わずに出て、その後、連絡もしていなかったらしい。都築がいなくなってから、都築の悪口を言い出す妻を村上はたしなめる。森雅之は、紳士的で穏やかなキャラクターを演じるとよく似合う。知的だし、奥深いものを感じさせる。日本画家を目指していたのに、実業の世界で成功してしまった複雑な気持ちも、その表情から伝わってくる。

村上夫婦には、長男の圭吉(三橋達也)と長女の珠子(芦川いづみ)がいる。圭吉は村上の会社の部長だが、女好きの遊び人でモラルに欠けるところがあり、村上は心配している。珠子は知的障害がある(と母親などから言われている)のだが、ピュアでイノセントな少女である。村上が家庭で心から安らげるのは、珠子と話しているときだけだ。圭吉はバーの女給クミコ(新珠三千代)を愛人にしているが、ある夜、都築の店でシャンソンを歌うミキ子(北原三枝)と出会い、心を奪われる。現代的でドライなミキ子は、都築に心惹かれながら圭吉に近づく。圭吉の心変わりを知ったクミコは自殺未遂事件を起こす。

自殺未遂を起こしたクミコを見舞いもしない圭吉を村上は見限り、自分の会社を辞めさせ他社でやり直させようとするが、父親の気持ちが理解できない圭吉は父を恨む。一方、兄のせいで自殺しようとしたクミコを珠子は献身的に看病する。彼らをそれぞれクールに観察しているのは、都築である。この二本柳寛が演じたキャラクターがおもしろい。彼がいるおかげで、「風船」は深い奥行きを持った物語になっている。後に小林旭や石原裕次郎に何度も殺されることになる二本柳寛だが、この当時はいい役が多い。成瀬巳喜男監督「舞姫」(1951年)では高峰三枝子が何十年も想い続ける心の恋人役だし、「めし」(1951年)では人妻の原節子が心を寄せる相手役だった。

「風船」の後半、物語は意外な展開を見せる。かつて京都の裏店の二階に下宿して寺社に通い日本画の勉強をしていた村上は、関西出張のときにカメラ店でその下宿の娘(左幸子)の写真が貼られているのに気付き、彼女が写真のヌードモデルをしながら弟を学校に通わせているのを知り、再び二階を借りることにする。そして、ときたまそこを足場にして寺社のスケッチを始めるのだが、次第に昔の夢が甦ってくるのだ。やがて、もう初老と言ってもいい年の会社社長は引退し、京都に隠棲することを決意する。彼の元には父を気遣う珠子(彼女も絵を描いている)がやってくるし、下宿の娘も村上を好意の目で見ている----。

僕は川島雄三監督作品はどれも好きだが、「幕末太陽傳」(1957年)「洲崎パラダイス 赤信号」(1956年)と同じくらい「風船」が気に入っている。三本とも川島監督自らがスカウトした芦川いづみがかわいい。ちなみに、「洲崎パラダイス 赤信号」のそば屋の店員を演じた芦川いづみもタマコだったと思う。芦川いづみの役名を考えるとき、「めんどうだから、芦川は全部タマコで通しちゃえ」と考えたのだろうか。小津安二郎監督の「晩春」(1949年)「麦秋」(1951年)「東京物語」(1953年)の原節子の役名がすべて「紀子」だったように。

2017年11月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…795 「ワルシャワ」で思い出すこと



【世代/地下水道/灰とダイヤモンド】

●ナチス・ドイツに占領されていたポーランドが舞台の小説

昨年の直木賞候補になっていた須賀しのぶさんの「また、桜の国で」を読んだ。以前に大藪春彦賞を受賞した「革命前夜」、関東大震災から敗戦までの兄妹の人生を描いた「紺碧の果てを見よ」を読んでいたが、現代史をテーマにしてちょっと変わったエンターテインメントを書く人である。「革命前夜」は東ドイツの音楽学校へ留学した日本人の若者を主人公に設定し、ベルリンの壁が崩壊する前の東ドイツを描いたものだった。秘密警察(シュタージ)によって監視され、密告が奨励される社会である。誰が秘密警察のスパイかわからない。「善き人のためのソナタ」(2006年)で描かれた、息苦しい監視社会だ。そんな現代史を背景に、ミステリの要素を含みながら主人公の成長が描かれる。

「また、桜の国で」は、一九三八年九月三十日にドイツのベルリンからポーランドのワルシャワへ向かう列車に主人公が乗っているところから始まる。その日は「欧州の、ひいては世界の平和が守られた日として永久に歴史に残るだろう」と新聞に書かれている。ドイツ、イタリア、フランス、イギリスが、チェコスロバキアのズデーデン地方をドイツに割譲することで合意した日だったのだ。それによって、欧州での戦火は避けられたと人々はホッと胸をなでおろした。それは、ナチス・ドイツを率いるヒトラー総統の要求を、イタリアのムッソリーニが仲介し、イギリスとフランスが戦争を避けるためにチェコスロバキアに犠牲を強いたということだった。

しかし、戦争が避けられたのは、たった一年だったことを僕は知っている。ヨーロッパ征服の野望に燃えるヒトラーは一九三九年九月、ドイツ軍をポーランドに侵入させ、一ヶ月ほどでポーランドを占領してしまうのだ。その後のポーランドでは、悲劇が続く。ロシアやドイツと違い、ユダヤ人差別のあまりなかったポーランドには多くのユダヤ人が住んでいたが、高い塀を巡らせた狭いゲットーの中に何十万人ものユダヤ人が押し込められる。食料もなく人々は飢え、やがてユダヤ人たちは収容所へ移送される。その後、ゲットーでの絶望的な蜂起が起こるが、ドイツ軍に完膚なきまでに叩き潰される。

「また、桜の国で」を読むと、ロシアとドイツに蹂躙されてきたポーランドの歴史にも詳しくなる。戦前の日本とポーランドの関係、さらに第二次大戦でのポーランドの出来事がよくわかった。主人公をワルシャワの日本大使館の外務書記生に設定してあるので、当時のヨーロッパの情勢も詳しく書き込まれている。ヨーロッパに駐在した日本の大使の中にも英米派とドイツに傾倒する枢軸派がいたのは知っていたが、その対立が日本にも大きな影響を与えたのだ。特に、ナチス・ドイツに共鳴するドイツ駐在の大島大使は、日独伊三国同盟の締結に大きな影響を与えた。

当時、英米派と言われたのは、イギリス駐在大使だった吉田茂である。吉田茂はドイツ派の大島大使を嫌ったという。その大島大使を「杉原千畝 スキバラチウネ」(2015年)で演じたのは、小日向文世だった。杉原千畝は外務省の指令に背いてユダヤ人たちに日本のビザを発行し、多くのユダヤ人を救ったとして「日本のシンドラー」とも呼ばれ、その存在は有名になった。有名になったから映画にもなったのだが、僕は映画を見て詳しいことを知った。杉原にビザを発行してもらった多くのユダヤ人はシベリア鉄道で満州に入ったが、そこでも杉原に同調する外務官僚がいて、ユダヤ人たちが日本を経由してアメリカなどに渡れるようにしたのだ。

「また、桜の国で」の中にも少しだけ杉原千畝が登場する。しかし、主人公は杉原千畝よりずっと深くポーランドの人々と関係を持ち、とうとうワルシャワ蜂起にまで参加するのだ。一九四四年、ロシア戦線でドイツ軍が敗走し、ソ連軍がポーランドに侵攻してくる。ロンドンにあったポーランドの亡命政府は、ドイツ軍に対する蜂起を提起し、レジスタンスたちはワルシャワで一斉に蜂起したのだが、それは大きな悲劇を生む。蜂起は失敗し、ワルシャワは死の街になってしまう。また、ソ連軍も解放軍ではなく、レジスタンスを見殺しにし、戦後のポーランドに圧倒的な支配権を保持し、共産党の傀儡政権を樹立する。

●昨年秋に九十歳で亡くなったポーランドを代表する監督

ポーランドの映画監督で最も有名なのは、去年の秋、九十歳で亡くなったアンジェイ・ワイダだろう。三十歳のときに「世代」(1954年)で監督として登場し、「地下水道」(1956年)「灰とダイヤモンド」(1957年)と、立て続けに問題作を制作した。彼は一九二六年の生まれだから、ドイツ軍が侵攻してきたときには十三歳だった。ワルシャワ蜂起があったのは、彼が十八のときである。レジスタンスに参加した同世代の少年たちも多かったはずだ。アンジェイ・ワイダ自身も、レジスタンスに関係していたという。

「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」は「抵抗三部作」と呼ばれ、戦争中のレジスタンス活動、ワルシャワ蜂起、そして戦後の政治闘争が描かれている。監督デビューの「世代」は、ワイダが「作らねばならなかった映画」なのだろう。それだけの思いが詰まった作品である。たった十年前のワルシャワ蜂起を思い出しながら、ワイダは撮影したのではないだろうか。

この作品に俳優として出演している若きロマン・ポランスキーは、「ポーランド映画は、この作品から始まった」と述べている。また、「灰とダイヤモンド」に主演したズビグニエフ・チブルスキーも出ている。ちなみにチブルスキーは、日本では「ポーランドのジェームス・ディーン」と呼ばれた。「灰とダイヤモンド」の日本公開で人気が出た直後、列車事故で早世したからである。

公開当時、日本でもヒットし、後に多くの映画人に(映像的に)影響を与えた「灰とダイヤモンド」で主人公を演じたチブルスキーは、終始、薄い黒メガネを外さない。それは、ワルシャワ蜂起のときに地下水道で長く暮らしたため、目を弱くしたからという設定だった。戦後、ソ連に占領されたポーランドはソ連の傀儡政権である共産党政府が樹立されるが、主人公マチェックは反共産党組織のテロリストなのである。戦争が終わっても、ポーランドの国内でそんな対立が続いていたのだ。彼はモスクワから派遣される共産党幹部の暗殺を命じられ、待ち伏せをする。そして、狙った人間を射殺するのだが、それは人違いだった。そこから、マチェックの彷徨が始まる。

●ワルシャワ蜂起は悲惨な結末を迎えてしまう

マチェックが目を悪くしたというワルシャワ蜂起を描いたのが、「地下水道」である。一九四四年、レジスタンスが一斉にドイツ軍に戦いを挑んだワルシャワ蜂起は無残に失敗し、レジスタンスたちは地下水道に逃げ込む。「また、桜の国で」の後半はワルシャワ蜂起に加わった主人公の行動を描くのだが、その地下道が多くの死体によって塞がれているという描写が出てくる。映画では匂いは描けないが、「また、桜の国で」では地下水道の強烈な匂いを描写する。下水の匂いに死体の腐臭が加わり、悲惨な地下水道の様子が描き出された。ドイツ兵たちは、その地下水道を火炎放射器で燃やし尽くす。レジスタンスたちは出ようにも出られなくなるのだ。

僕はアンジェイ・ワイダの「抵抗三部作」や「カティンの森」で、ポーランドの現代史を知っているつもりだったけれど、「また、桜の国で」を読んでいろいろと教えてもらった。ロシアとドイツという大国に挟まれて、ポーランドという国は大変な目に遭ってきたのだ。国そのものが消滅していた時期もあった。一九三九年九月にも、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したことを知ったソ連は、反対側からポーランドに侵攻する。つまり、ソ連とナチス・ドイツがポーランドを二分した。

ナチス・ドイツの占領地域から逃れようとした人々は、今度はソ連軍によって逃げ場を失うのだ。その状況は「カティンの森」で描かれている。ソ連軍は捕虜にしたポーランド軍の兵士たちを何万人もカティンの森で虐殺し埋める。その森は後にナチス・ドイツが占領したため、兵士たちの死体が発見されたとき、ソ連は「ナチの仕業」と主張し、ナチス・ドイツは「ソ連軍がやった」と反論した。戦後、何十年もたってソ連が虐殺を認め、ゴルバチョフ大統領が謝罪した。

ところで、僕(および同世代の人たち)は「ワルシャワ」と聞くと、「ワルシャワ労働歌」を連想する。「暴虐の雲 光を覆い 敵の嵐は吹き荒れる」というやつである。また、あの時代、ある大学の校舎がバリケード封鎖され、機動隊が導入されてバリケードが解かれた後の壁に描かれていたフレーズが有名になった。「砦の上に我らが世界を」というフレーズだ。もちろん、これは「ワルシャワ労働歌」の「砦の上に我らが世界 築きかためよ 勇ましく」からきている。

そんな時代から二十年もたった頃だろうか、ある日、酒席で僕は少し年上の女性に出会った。酔った彼女は、いきなり「ワルロー唄おう、ワルロー」と言い出した。「ワルローって何だ?」と僕は思ったけれど、彼女の口から「暴虐の雲~」と出たとき、「ワルシャワ労働歌をワルローって略すかあ」とツッコミたくなった。「インターナショナル」は「インター」(略す方が一般的だ)で通じるけれど----。

しかし、「ワルシャワ労働歌」を高らかに唄うその女性を見て、僕の脳裡にヘルメットをかぶった女性闘士の姿が浮かんできた。僕はポスト全共闘世代だが(内ゲバ世代と言われている)、その当時でも威勢のいい女子学生はいっぱいいたのだ。僕自身はノンポリで、ヘルメットをかぶったことは一度もなく、「ソゴーくん、意識が低いのよ。自己批判しなさいよ」と責められる方だったけれど----。

2017年11月 9日 (木)

■映画と夜と音楽と…794 戦前最後に公開されたハリウッド映画



【スーパーチューズデー 正義を売った日/野望の系列/スミス都へ行く】

●選挙になると必ずかかってきた電話の相手が懐かしい

先日の衆議院選挙は、「何だかなあ、やれやれ」という印象だった。僕は選挙権を得て以来、一度も自民党に投票したことはないけれど、今回も選挙にいった人の三人に一人は自民党に投票したことになる。もっとも、台風で選挙率も五十パーセント強だから、選挙権のある人の六人に一人くらいの計算になるのかな。それで、三分の二の議席を取ってしまうのだから、小選挙区制は考え直した方がいい。今回は、野党のドタバタが自民党を利したのは明らかだが、安倍首相は運がいいとしか思えない。いや、自民党が運がいいのだ。阪神淡路大震災時は村山内閣だったし、東日本大震災のときは菅内閣だった。

選挙になると、いつも電話がかかってくる。出版労働組合連合会(出版労連)の家庭書共闘会議事務局長という役職をやっていた頃、事務局次長としてつきあってもらっていたUさんである。彼は筋金入りの共産党員で、電話で「共産党よろしく」と言ってくるのだ。何しろ生まれは九州の炭住(炭坑で働く人たちの社宅)である。三井三池闘争のときに小学生をやっていた。上京した若い頃は、O電気の労使紛争で活躍したらしい。その後、出版社に入り、書店営業を担当するようになった。ずっと独り身でお城の研究家でもあり、城関係の原稿を頼まれて書いている。最近は、花街(色町)についての本も出版した。

出版労連の中央執行委員の主流派の人たちは、共産党支持者あるいは隠れ党員が多かった。僕も中央執行委員にずいぶん誘われたが、ずっと断り続けていた。しかし、断りきれず、監査役として出版労連本部役員を二年だけやったことがある。そのときの労連委員長は、珍しく「主婦と生活社」出身の反主流派の人だった。その頃だったと思うが、労働組合の上部組織に大きな変動が起こった。「総評」と「同盟」がなくなり「連合」が誕生したのだ。しかし、共産党系の産業別労働組合は「全労連」という組織に所属することになり、出版労連内でも正式に加盟するかどうか論議が盛んになった。

結局、出版労連は「全労連」に加わったのだが、五月一日のメーデーでは圧倒的な人数の「連合」に会場の代々木公園を奪われ、錦糸町の片隅にある公園に追いやられることになった。それまでは青山通りを行進していたのに、下町の誰もいない倉庫街や隅田川沿いの道をわびしく行進することになったのだ。その頃、僕のメーデーの唯一の楽しみは、医労連の人たちの姿を見ることだった。看護婦(まだ看護師と言い換えていなかった)さんたちが中心の労働組合である。彼女たちは、仕事着(ちゃんと看護帽もつけていた)姿だったのである。何百人ものナイチンゲールがまとまっている様子は壮観だった。

しかし、「連合」では大型連休の真ん中に行われるメーデー(大手企業の組合は、参加手当と弁当付きで動員していた)が不評で、ついにメーデーを連休の初日に移動することにした。それじゃあメーデーじゃないだろうと思うのだが、それによって五月一日に代々木公園が空くことになった。そのおかげで、「全労連」は再び代々木公園を使用できるようになり、連休で賑わう五月一日の青山通りを行進できることになったのだ。そういえば、昔、メーデーで青山通りを歩いているとき、倒産したばかりのVAN本社前で社員たちがワゴンセールをやっていたことがある。その後、ブルックス・ブラザーズの青山店になったが、今もそうなのだろうか。

さて、今回の衆議院選挙では「民進党」が分裂し「希望の党」やら「立憲民主党」などになったが、「連合」も混乱した。「民進党」の最大の支持母体が「連合」だったからだ。連合会長と前原代表と小池代表の三者会談で始まった合流話は、小池代表の「選別」発言で連合会長が激怒したという。だいたい、産業別労働組合の連合体であるのに、かなりライトウイングの小池代表を支持することに無理がある。元々、僕は「連合」を労働者の代表とは思っていなかったが、今回の件では少しあきれた。ところで、「全労連」のことはまったく聞かない。共産党関連の組織はしっかりしているから、少ない人数なりにがんばっているのだろう。

●ハリウッド映画は政治もエンターテインメントに仕上げる

ハリウッド映画ではよく大統領選挙が題材にされるし、政治映画とでも呼ぶべきジャンルのものもある。最近ではジョージ・クルーニーが監督した「スーパーチューズデー 正義を売った日」(2011年)が大統領選挙の内幕を描いていておもしろかった。ジョージ・クルーニーは政治的な発言もするし、映画で描くのは「赤狩り」だったり「大統領選挙」だったり、硬派のテーマが多い。明らかに民主党支持である。ドナルド・トランプに対する彼の批判的な発言もニュースになったことがある。

政治家が主人公になった映画としては、最近ではニコラス・ケイジ主演「コンテンダー」(2015年)やトム・ハンクス主演の「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」(2007年)を割におもしろく見た。どちらも実際にモデルの上院議員がいるらしい。そういう実録の政治ドラマを作る下地がハリウッドにはあるのだろう。日本映画で政治ドラマを挙げようとすると、山本薩夫監督の「金環蝕」(1975年)や森谷司郎監督の「小説吉田学校」(1983年)くらいしか思い浮かばない。前者は実際の贈収賄事件がモデルらしいし、後者は政争劇である。

六〇年代半ばは、まだ東西の冷戦のまっただ中だった。キューバ危機から数年経った頃である。その頃、ハリウッド映画で政治的なテーマの作品や政治ドラマそのものが立て続けに公開された印象がある。ジョン・フランケンハイマー監督は、「影なき狙撃者」(1963年)「五月の七日間」(1964年)を続けて制作したし、「未知への飛行 フェイル・セイフ」(1964年)が公開され、「野望の系列」(1961年/日本公開1964年)もあった。アメリカで軍事クーデターが起こったり、核爆弾がソ連へ向かったり、大統領が暗殺されたりといったポリティカル・フィクションばかりだった。

今では有名になった、スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」(1964年)も同じ頃に公開になった。ラストシーンでは、軍人が核弾頭にまたがってソ連に落ちていく。あの頃、第三次世界大戦の恐怖、核戦争の恐怖は現実のものとして受け取られていた。アメリカを中心にして各国は核実験を繰り返し、放射能の雨が降り注いだ。僕は小学生で、「雨に濡れると禿げるぞ」と友だちに言われた。僕らは本気で信じていたものだ。アメリカではソ連が攻めてきたときや核爆弾が落ちたときを想定した訓練を学校で行っていたという。公開される映画も、当然、現実を反映した政治ドラマが増えたのだろう。

●トランプ大統領に関する報道でアメリカ議会の仕組みがわかった

トランプが大統領になり、日本のテレビでもやたらにアメリカの議会制度などが解説され、僕もかなり詳しくなった。それで、改めて「野望の系列」という映画を見てみると実によくわかったけれど、国務長官を任命する話だけで二時間以上のドラマを作るハリウッドの幅の広さには驚いてしまった。大統領が決まると、日本の閣僚に当たる国務長官や司法長官などが決められるのだが、日本の外務大臣に当たる国務長官の人選は大統領として最も重要な仕事なのである。大統領が候補者を任命しても、上院議会での承認が得られなければ国務長官にはなれない。

「野望の系列」は、ある上院議員が大統領が国務長官の後継候補者(ヘンリー・フォンダ)を決めたという新聞記事を見て、あわてて上院の院内総務(彼も上院議員である)のオフィスにいくところから始まった。おそらく彼らは民主党である。筋を通すヘンリー・フォンダには敵が多く、その筆頭が対立する党(共和党)の老練な議員(チャールズ・ロートン)である。彼は四十年も上院議員を務めているが、何年か前に議会でヘンリー・フォンダに厳しい追及を受けたことで恨みを抱いている。

院内総務は「彼では、上院の承認を得るのは大変だ」と、ホワイトハウスに駆けつけて大統領に忠告する。しかし、自身の病を自覚している大統領は、「六年間、平和を維持してきたのだ。私の考える平和外交をやってくれるのは彼しかいない」と、ヘンリー・フォンダの国務長官に固執する。院内総務は、どうやってそれを実現するか、様々な議員に根まわしし、駆け引きを行う。結局、上院でいきなり承認の議論を行えば票が読めないとして、国務長官候補を別個に調査する小委員会を立ち上げ、その委員長に若手の上院議員を当てることにする。

ここに副大統領(「バイス・プレジデント」と呼ばれるが、上院の議長を務めるので、そこでは「プレジデント」と呼ばれている。議長も「プレジデント」と呼ぶのだと初めて知った)などもからんできて、虚々実々の政治ドラマが展開される。ヘンリー・フォンダは小委員会に呼ばれて、過去の言動や思想的な傾向を厳しく調べられるのだが、老獪なチャールズ・ロートンが様々な罠を仕掛けてくる。若い頃の共産主義への傾倒も容赦なく暴こうとするのだ。チャールズ・ロートンは、いかにも共和党的な戦争観・外交観を持っていて、まるでトランプのような発言をする。

ところで、日本の衆議院議員は今回の選挙で十名減らしたといっても、四百五十名以上も存在する。アメリカの上院は百名だけだ。五十州から百名だけが選出される。少なければいいというものでもないのだろうが、日本の国会議員は多すぎる。それに世襲議員ばかりだ。今回、僕は四国高松にいたので、香川一区の選挙戦を観察していたが、自民党の候補者は三代か四代続く世襲(小泉進次郎も四代目だけど)であり、新聞と放送局を保有する家の出である。ある人は「香川県の『市民ケーン』ですよ」と言っていた。対する候補者は「希望の党」から出た元民進党だった。彼はかなり善戦して自民党候補を追い上げたが、結局、比例復活だった。

今回の選挙でも感じたが、日本人は政治に関心がなさすぎる。戦後、アメリカから与えられた民主主義は、結局、日本人の血肉になっていない。そのことはハリウッド映画と日本映画を見比べてもわかる。戦前、日本で最後に公開されたハリウッド映画は「スミス都へ行く」(1939年)だった。アメリカの民主主義、議会政治の理想を謳いあげた名作だ。政治の汚い部分も描かれるし、主人公は政治的陰謀につぶされそうになるけれど、延々と議会で演説し続ける姿にアメリカの議会政治の理想が見える。「スミス都へ行く」は、一九四一年十月に日本で公開された。日本が真珠湾を攻撃する二ヶ月前のことだった。

2017年11月 2日 (木)

■映画と夜と音楽と…793 もうひとつの「離愁」



【離愁/"青衣の人"より 離愁】

●ラストシーンが心に刻み込まれた「離愁」

「離愁」という言葉は、造語ではないかとずっと思っていた。調べてみると、ちゃんと辞書に載っていて、「別れの悲しみ」と説明されていた。「悲愁」という言葉も気になっていたので調べてみると、「悲しみうれえること」と出ている。「哀愁」は「もの悲しさ。うら悲しい感じ」という説明だ。「旅愁」は「旅行中に感ずる、ものさびしさ」となっていた。それぞれ有名な映画のタイトルになっている。ヴィヴィアン・リーの「哀愁」(1940年)、ジョーン・フォンテーンの「旅愁」(1950年)、ビリー・ワイルダー監督の「悲愁」(1979年)、そしてロミー・シュナイダーの「離愁」(1973年)である。

ロミー・シュナイダーの「離愁」については、昔、「愛に関する究極の選択」(「映画がなければ生きていけない」第一巻523頁参照)というコラムで書いた(十五年前ですね)けれど、僕がフランス映画好きだということを割り引いても、映画史に残る名作だと思う。最も美しいロミー・シュナイダーを見ることができるし、ラストシーンは生涯忘れられなくなるだろう。原作はジョルジョ・シムノンで、結末は映画とは異なっている。タイトルは「列車」で、そっけない。映画のタイトルも「列車」なのだが、日本の配給会社が「離愁」とつけた。ラストシーンの哀切さには、ふさわしいタイトルかもしれない。愛を認めることが命を棄てること----という究極のラストシーンだった。

第二次大戦、ドイツ軍がフランスに侵攻したときから物語は始まる。フランスの片田舎のラジオ商(ジャン=ルイ・トランティニアン)は、ドイツ軍が攻撃してきたので大勢の人たちと一緒に列車に乗って逃げ出すが、妊娠している妻と娘とは別の貨車に乗せられ別れ別れになってしまう。途中、謎の美女(ロミー・シュナイダー)が乗ってくる。次第に惹かれあったふたりは、雑魚寝をする人々の間で抱き合い愛を確かめる。しかし、女はユダヤ人で身分証明書もないらしい。大きな街に着いたふたりは夫婦としてナチの検問を通過するが、妻が病院で子供を産んだことを知らされ、男が病室へいっている間に女は姿を消す。

数年後、ナチ占領下の故郷に戻ってラジオ商を続けていた男は、突然、ゲシュタポに呼び出される。男の前につれてこられたのは、ロミー・シュナイダーである。女はレジスタンスだと告げられ、男の妻の身分証明書を持っていたと言われる。「知っているか」と問い詰められ、男は「知らない」と答える。女も、男を知っているそぶりはまったく見せない。「帰っていい」と言われた男はドアへ向かう。そのシーンの緊迫感に手に汗を握る。男は、そのまま出ていくのだろうか。しかし、男は振り返り、女に近づき、その頬に手を添える。その瞬間のロミー・シュナイダーの表情が忘れられない。

だから、「離愁」は僕にとって特別の映画になっている。しかし、「離愁」という耳慣れない言葉を、大学生の僕は造語だと思ったのだった。そのときに辞書を引けばよかったのに、最近、古い松竹映画の「離愁」という映画をDVDで見て、その言葉がちゃん日本語としてあるのだと知ったのだった。その映画は、公開時には「"青衣の人"より 離愁」(1960年)となっていた。大庭秀雄監督作品で、原作は井上靖である。僕は原作をずいぶん昔に読んでいるのだが、まったく内容は忘れてしまっていた。

●岡田茉利子が美しい井上靖原作の「離愁」

「離愁」と同じように、僕にとって特別な映画の一本である「秋津温泉」(1962年)は、岡田茉莉子百本記念映画である。岡田茉莉子は「秋津温泉」で美の頂点にあるが、それは後に結婚する吉田喜重監督が初めて彼女を撮影したからかもしれない。「離愁」は「秋津温泉」の二年前、小津安二郎監督の「秋日和」(1960年)に出演した同じ年に岡田茉莉子がヒロインを演じた作品だ。もうひとりのヒロインである女子大生は、桑野みゆきが演じている。同じ年、桑野みゆきは大島渚監督の「青春残酷物語」(1960年)のヒロインを演じており、ずいぶん役柄が異なっている。ちなみに大島渚監督は、「離愁」の大庭監督の助監督だった。

「離愁」は井上靖のロマンス小説の多くそうであるように、三人の重要な登場人物の一人称的(それぞれ一人称のナレーションが入る)なシーンが重なり合い錯綜し、現代からは考えられないようなプラトニックな恋愛劇が展開される。僕は見ながら「いいよなあ、こんな関係」と独り言を言っていた。僕が井上靖作品を深く愛するのは、恋愛劇といっても主人公たちは手も握らず、告白もせず、内面のドラマがロマンチックに描かれるからである。あるいは、片想いが片想いだけで終わってしまうこともある。現代の若者が見たら、一体どう思うだろう。

冒頭、琵琶湖周遊船に境道介(佐田啓二)が乗っている。彼はデッキで湖面を見つめる憂愁を漂わせる若い娘に目を留める。ここで「私は」と語るナレーターは、境道介だ。船は竹生島に寄り、そこで一時間の自由時間がある。時間がきて船に戻ろうとしたとき、境は若い娘が断崖の縁に座り、船に戻る様子がないのに気付く。自殺を疑った境は、木谷れい子と名乗る娘(桑野みゆき)を放っておけず、京都の友人の家に一緒につれていく。れい子は落ち着いているが、翌日、叔母に迎えにきてもらうことにしたと語る。

翌日、東京かられい子を迎えにやってきた叔母の三浦暁子(岡田茉莉子)は、境と顔を合わせて驚く。ふたりは五年ほど前に知り合いだったらしい。また、暁子の「ご結婚は?」という問いに、境は二年前に結婚したが、妻は胸の病で長野の実家で長く静養していると答える。れい子は叔母と境の過去に何があったのか、好奇心が湧いてくる。そんなとき、五年前に結婚した暁子の夫は大学教授で、研究のために半年ほど海外へ出かけてしまう。頻繁に暁子の家を訪れるれい子は、何かとかまをかけて境との過去を聞き出そうとする。

●三人の登場人物の間の視点移動がおもしろい

「離愁」のおもしろいところは、視点の移動だ。小説ではよくあることだが、映画的には特に視点の移動を明確にしなくても映像で描き出すことができるので、それほど意識せず様々な人物の主観ショットをつなぐことができる。「離愁」では、「私」というナレーションの視点が変わり、暁子の語りになる形で境との過去が回想される。暁子は婚約したばかりの頃、有名な陶芸家の陶芸展で弟子の境と出会ったのだ。その後、父親の遣いで陶芸家の工房を訪れ、境の作品を師匠の作品と間違ったことから親しくなり、ふたりで美術館などを巡り始める。

暁子は自分が境に強く惹かれているのを自覚しながら、やはり婚約を破棄できない。結婚式の数日前、もう二度と会わない決意で境にさよならを告げる。そのとき、どちらもはっきりした意思表示はしない。ふたりとも遠まわしな言い方で好意を告げるだけである。最近じゃ、中学生でももう少し積極的だろう。暁子には婚約しているという制約があるし、境も結婚を間近にした相手に強く言い募ることで、相手を苦しめるだろうという思いがある。しかし、それから五年後、偶然に再会した暁子は境への想いが消えていなかったことを知る。

そんな叔母の気持ちを見抜いたのか、れい子が境に接近する。ここで、また視点の移動が行われる。今度は、れい子が「私」というナレーターになるのだ。れい子は大学をやめて結婚してもいいと思っていた相手がいるのだが、つまらないことで喧嘩をし、ひとりで琵琶湖に旅に出てぼんやりしているところを境に助けられたのだ。その境と叔母の過去に興味を持ち、境の工房を訪ねて接近し、やがて境その人に好意を持ち始める。叔母の暁子に「私に嫉妬しているのね」と口にすると、暁子は「なぜ、私が嫉妬するの?」と言う。れい子は境への強い想いを秘めながら、絶対に表には出さない叔母に苛立ちのようなものを感じる。

映画が公開されたのは五十七年も昔のことだけれど、最近の恋愛ドラマより「離愁」の方が僕には理解できる。「秘めた恋」というのは、永遠のテーマなのではないかと思う。昔から「しのぶれど色に出にけり わが恋は----」という和歌が好きだった。女性とは寝ないことをもって尊しとする古ぼけた美学を持つ僕としては、こういう物語を「ホントにいいなあ」と思ってしまう傾向がある。結局、境と暁子は互いに好意を感じながら、何も口にせず、手も握らず、別れてしまう(最後に一度だけ情熱的なくちづけを交わすけれど)のだから、内面の葛藤を描く心理的なドラマ展開になる。そこが気に入り、僕にとってのもうひとつの「離愁」になった。

ちなみに北海道出身の境が酔って唄うのがアイヌ語の「ピリカ」だった。その「ピリカ」は、後のシーンで、二度と境の名を口にせず、二度と会わないことを誓い合った叔母と姪によって唄われる。効果的な使われ方だった。小学校の音楽の時間に習った「ピリカ」を、僕は五十数年経っても憶えていた。彼女たちが唄うのに合わせて口ずさんだ。「ピーリカ、ピリカ、タンドシリピリカ-----ヌケクスネ」と僕は記憶していたのだが、何となく細かな部分で違っていたような気がする。

2017年10月26日 (木)

■映画と夜と音楽と…792 古い映画を見ると甦るもの

【野良猫ロック セックス・ハンター】

●和田アキ子の人気にあやかった映画がシリーズ化された

先日、久しぶりに「野良猫ロック セックス・ハンター」(1970年)を見ていたら、初めて見た頃の思い出が甦り、何だか落ち着かなくなった。若い頃を思い出すと、恥ずかしくなるからだ。僕は大学に入ったばかりの十九歳。痩せて、体重は五十キロしかなかった。二十七インチのジーパンを履いていた。昼飯を抜いて映画ばかり見ていたので、まったく太る様子はなく、強い風が吹けば飛ばされてしまいそうだった。一九七一年、まだ大学は荒れていて、学生会館は閉まったままだった。時々、中庭で異なるふたつの色のヘルメットをかぶり、タオルで顔を隠すようにした連中が角材を振るって殴り合っていた。機動隊が導入されると、校舎の二階から火炎瓶を投げるヘルメット姿の学生もいた。

「野良猫ロック」シリーズは、封切りでは見ていない。最初に見たのは「野良猫ロック 暴走集団'71」(1971年)で、これを一九七一年の春に四国高松の二番館で見てすごく気に入り、友人たちに「ぜひ見るべきだ」と吹聴した。四月になって上京し大学に通うようになった頃、週末になるとどこかの映画館で「野良猫ロック」シリーズ五本立てがかかるようになった。もちろん、オールナイト上映である。「女番長 野良猫ロック」「野良猫ロック ワイルド・ジャンボ」「野良猫ロック セックス・ハンター」「野良猫ロック マシン・アニマル」「野良猫ロック 暴走集団'71」の五本は、すべて一九七〇年の一年間で制作されたものだ。

監督は「女番長 野良猫ロック」「セックス・ハンター」「マシン・アニマル」の三本が長谷部安春、「ワイルド・ジャンボ」「暴走集団'71」が藤田敏八だった。作風はまったく異なり、藤田敏八監督作品は全編にシラケた雰囲気が漂い、主人公たちは「ごっこ」に夢中になっているように見えたし、笑えるシーンが多かった。主人公たちは現金輸送車を狙っても、遊び感覚でやっているようだった。それが、時代の気分を映し出し、藤田敏八は若者に支持される人気監督になった。当時の僕も、藤田作品に夢中だった。そして、その年の秋、藤田監督は「八月の濡れた砂」(1971年)を撮る。その藤田敏八監督も長谷部安春監督も亡くなって久しい。

長谷部安春監督は、アクションが得意な人だった。後にテレビでもアクションドラマを多く手がけ、「あぶない刑事」をヒットさせた。当時、僕は「女番長 野良猫ロック」や「マシン・アニマル」はさほど感心しなかったが、「セックス・ハンター」だけは大いに気に入り、これも友人たちに「ぜひ見ろ」と勧めていた。ちなみに「女番長 野良猫ロック」は日活とホリプロの共同製作で、ヒロインはデビュー間もない和田アキ子である。大型バイクにまたがり、和田アキ子が颯爽と登場する。それがヒットしたのでシリーズ化したのだが、和田アキ子は二作目「ワイルド・ジャンボ」のワンシーンにカメオ出演しただけだ。それも、一作目のフィルムの使いまわしだった。ただし、「土砂降りの雨の中で」という曲が劇中で流れた。

●シリーズを代表する顔は梶芽衣子と藤竜也のふたりだった

五本すべてに出演しているのは、藤竜也と梶芽衣子である。藤竜也はどの作品でも輝いているのだが、とりわけ「セックス・ハンター」のバロンの役は光っている。梶芽衣子は脇にもまわったが、「セックス・ハンター」では完全なヒロインでピッタリのはまり役だった。劇中、ほとんど大きなツバの黒い帽子をかぶっているのだが、その帽子のアップで映画は始まり、顔を上げると梶芽衣子(魔子)の顔になる。ラストは梶芽衣子のアップになり、彼女が顔を伏せて帽子のアップになって終わる。当時の日活ニューアクションと呼ばれた作品群は、若手俳優たちの集団劇だった(唯一、スターとして渡哲也ががんばっていた)が、その中でも藤竜也、梶芽衣子は生き生きとスクリーンの中で躍動した。

「セックス・ハンター」は、基地の街・立川が舞台である。魔子をリーダーとするスケバン・グループがあり、ジープで街を走りまわるバロン(藤竜也)率いるイーグルスというグループがある。そこへ、横須賀から幼い頃に別れた妹を探してハーフの数馬(安岡力也)がやってくる。タイマン勝負で腕を切られた魔子が基地の近くの草むらで横になっていると、遠くから歌を歌いながら数馬が登場するシーンは、とにかくかっこいい。このシーンで数馬が歌うのは、「禁じられた夜」という曲だ。なかにし礼の作詞である。僕にはスクリーンでしか聞いていないのに忘れられない曲がいくつかあるが、「禁じられた夜」もそのひとつである。

「セックス・ハンター」という、まるでポルノグラフィのようなタイトルをつけられているけれど、ここでの「セックス」は「性別」の意味に近い。子供の頃、米兵にレイプされる姉を助けることができなかったバロンは、そのことで性的不能になっていて、イーグルスのナンバー2であるススム(岡崎二朗)が「俺のもの」と思っていた女が黒人のハーフ(ケン・サンダース)と愛し合ったのをきっかけに、バロンは「おまえたちのナオンは、みんな奴らにやられちまうぞ」と扇動し「ハーフ狩り」を始めるのだ。

イーグルスは立川の街を走りまわり、ハーフと一緒にいる女を見つけると、相手の男を叩きのめし「この街から出ていけ」と追い立てる。ちなみに、その頃、「ナオン」という業界用語を使うのがナウい(これも死語)とされていた。男性週刊誌「平凡パンチ」でも使っていた気がする。劇中、ナイトクラブで当時人気のあった「ゴールデン・ハーフ」という女性グループが「黄色いサクランボ」を歌うシーンが挿入されるけれど、そのグループ名もこの映画のテーマを補っているのがおかしい。

姉を犯したアメリカ人を排斥するのではなく、犯された日本の女性が生んだハーフを狩るというのがバロンの屈折したところで、初めて見たとき僕は「ハーフ狩り」が何を意味しているのだろうと考えたものだ。何しろ、脚本を担当したのがクセモノの大和屋竺である。「沖縄奪還・米帝粉砕」の時代だった。基地の街を舞台にしたのも意図的だし、「ハーフを狩る」ということに何らかの意味を持たせているに違いないと僕は思ったのだ。ちなみに、沖縄はまだアメリカに占領されていたし、「米帝」とは「アメリカ帝国主義」の略である。

●スクリーンの若き姿に四十七年の時間が重なって見える

前にも書いたかもしれないが、園子温監督の「愛のむきだし」(2008年)の中に「野良猫ロックの墓」が出てくる。そのうえ、主人公(西島隆弘)は、かつて梶芽衣子が演じた「女囚701号 さそり」(1972年)のコスチュームで女装し、街を歩いた。「女囚701号 さそり」は大ヒットし、主題歌「恨み節」もヒットチャートを駆け上った(後年、タランティーノ監督の「キル・ビル」で使われるとは、予想もしなかったけど)。しかし、「さそり」のコスチュームは、「野良猫ロック セックス・ハンター」の魔子の扮装を継承しているのだ。「さそり」の松島ナミのキャラクターは、「セックス・ハンター」の魔子がなければ、生まれていなかった。

また、髪をきちんと七・三に分け、サングラスに口ひげという藤竜也のスタイルも、「野良猫ロック」シリーズで固まった。その中でも、「セックス・ハンター」のバロンの印象は強烈だった。後年、テレビドラマ「時間ですよ」で、船越英二が通う小料理屋(女将が篠ヒロコ)のカウンターの隅で、いつも何も言わずに飲んでいるので人気が出ることになった藤竜也の基本スタイルは、バロン役で確立されたのだった。あれから五十年近くが過ぎ去り、藤竜也はテレビドラマ「やすらぎの郷」(2017年)でも、相変わらず口ひげを生やし無口すぎる役をやっていた。

「野良猫ロック セックス・ハンター」を見ながら、僕は最近の梶芽衣子や藤竜也の姿を思い浮かべた。一九四七年生まれの梶芽衣子は、今年で七十歳になった。一九四一年生まれの藤竜也は七十六歳になる。現在、梶芽衣子は某誌で回想録を連載している。そのうち本にまとまるだろうと僕は楽しみにしているのだが、その第一回でも「野良猫ロック セックス・ハンター」に触れていた。撮影当時、二十三歳。そのクールな視線に僕は魅せられていたし、男に頼らない強い女のイメージに全面的に「異議ナーシ」と手を挙げていた。そのイメージを持続し、「さそり」シリーズや「修羅雪姫」シリーズを経て、「鬼平犯科帳」の「密偵おまさ」役でも認められ、今も「強い女」を演じている。

梶芽衣子、藤竜也の他に「セックス・ハンター」で忘れられないのは、安岡力也である。彼の数少ない主演作だ。まだ痩せていたし、歌手として人気があった頃である。体重は、後の半分くらいではなかっただろうか。背が高くスリムだった。見るからにハーフっぽい容貌だから、主演に抜擢されたのだろう。安岡力也も、当時は二十三歳だった。その後、数多くの映画に出演し、六十五歳で亡くなった。「不良番長」シリーズ(1970~72年)に出演した縁で、生涯、梅宮辰夫を「アニキ」と慕った。松田優作とは顔を合わせば、「喧嘩をしたら、どっちが勝つか」と話していた。リドリー・スコット監督作品「ブラック・レイン」(1989年)でも強面のやくざを演じているが、ほとんどがやくざの役だった。

古い映画を見ると、出演者たちのその後の長い人生にまで思いをはせてしまう。また、その頃の自分の姿を思い浮かべ、現在の自分と比較する。五十年近くの時間があっという間に甦る。遠くまできてしまった、という思いに捉われる。あの時代は、本当にあったことなのだろうかと、遙かな昔のことは夢のように見えてくる。記憶は薄暮の世界に似ている、と誰かが書いていた。薄闇の中に、おぼろげな何かの形が浮かび上がる。だが、それが何だったのかはもうわからない。あの頃、僕は自分が六十半ばまで生きているとは想像もできなかった。十九歳、一人暮らしの四畳半のアパート----、まだ本当の人生には踏み出していなかった。不安と期待に充ちた時代だった。いや、将来の不安ばかりに苛まれていた時代だったのかもしれない。自分が人生にどれほど傷つけられるか、何の予想もできなかった。

2017年10月19日 (木)

■映画と夜と音楽と…791 痛いぞ、北野武監督作品

【アウトレイジ/アウトレイジ ビヨンド/アウトレイジ最終章】

●映画が半分ほど進んだときに「火事です」のアナウンス

数え切れないほど映画館には入ったけれど、映画の途中で「火事です。二階から火が出ました。落ち着いて脱出してください」というアナウンスがあったのは初めてだった。火災報知機の作動と共に自動的にアナウンスされるもので、どこか非人間的で機械的な響きだった。朝の九時五十分から始まった一番の回である。平日とはいえ、ヒット作らしく五十人近くの観客がいた。

しかし、そのアナウンスであわてた人はいなかった。全員、半信半疑という感じではあったが、すみやかに席を立ち、われがちに----というのでもなく、また整然にとも形容できない感じで(上映が終わって普通に出ていく風に)出口に向かう。僕は「マジか」などとつぶやきつつ彼らを見送り、まだひと組のカップルが残ったままなのを確認して会場を出た。そのカップルも席を立ったから、数分のうちに全員がアナウンスに従ったわけである。

しかし、廊下へ出るとシネコンの従業員が「今、確認していますので、この近辺でお待ちください」と言っていた。火災報知器のボタンが押されたのは間違いないらしいが、本当の火事なのかどうかを確認しているという。僕は一度ロビーに出たが、大勢の人がわいわい言っていたので、従業員に「席で待っててもいいの?」と訊いて、再び劇場内に戻った。たったひとり、スクリーンを見つめていると、何となくいい気分になった。

数分後、ポツリポツリと人が戻ってくる。しばらくして若い男性従業員が姿を現し、上映を再開することを告げた。それから五分ほどが過ぎると、元のように五十人ほどの人が戻っていた。ざわめきは、まったくない。結局、中断したのは二十分足らずだったろうか。僕は映写室に近い席だったので、いつ上映が始まるか映写窓を見つめていた。今はデジタル上映だろうから、フィルムを巻き戻す作業もないのだろうなあと考えていた。

しかし、どのシーンから再開するのだろう。ちょうど真ん中あたりのシーンだった。二時間足らずの作品で、五十分ほどが過ぎたところだ。松重豊が演じる警視庁の組織暴力担当刑事が、韓国の政財界を牛耳るフィクサーの屋敷を訪ねたところだった。その邸宅に入ったところで画面が消え、真っ白なスクリーンになり、明かりが灯り、「火事です」というアナウンスがあったのだ。再開は、その少し前のシーン、韓国人のフィクサーが襲撃された喫茶店で松重豊の刑事と上司が話をしているところから始まった。二十分の中断、少し巻き戻して再生----、自宅でDVDを見ている錯覚に陥る。

中高年の観客が多かったが、「アウトレイジ最終章」(2017年)はヒットしているようだった。平日の朝一番の回に五十人くらい入っているのだから、公開した土曜日から続いた三連休にはけっこう入っていたのではないだろうか。僕は見たくてたまらなかったが、混んでいるのがイヤだったので休み明け早々に見にきたのだ。その前夜、僕は「アウトレイジ最終章」を見ている夢まで見た。それほど、公開を楽しみにしていた。「アウトレイジ」(2010年)「アウトレイジ ビヨンド」(2012年)は、何度見たかわからない。

どうも、権謀術数、謀略、裏切りが渦巻く権力争いの話が僕は好きらしい。シェイクスピアなら「リチャード三世」が好きだし、司馬遼太郎なら「関ヶ原」が好きだし、やくざ社会の跡目問題でもめる「仁義なき戦い 代理戦争」(1973年)「仁義なき戦い 頂上作戦」(1974年)がとりわけ好きだし、戦後の政界の権力闘争を描いた「小説吉田学校」(1983年)もおもしろく見た。どんな世界にも権力争いはある。その争いの中で誰が味方で、誰が敵かわからなくなり、人間の本性が見えてくる。

●北野作品とタランティーノ作品の残酷描写は平気で見られる

北野武監督作品が嫌いだという人はいる。わかる気がする。生理的な痛さ、暴力性(そうでない作品もあるけれど)が肌に合わないのだと思う。僕も残酷描写が苦手で、ホラー作品はほとんど見ないのだが、北野武監督作品とクエンティン・タランティーノ監督作品は、どんなに残酷な描写でも平気で見ていられる。もっとも、このふたりの残酷描写は質も傾向もまったく違う。タランティーノ作品には拳銃で撃たれて頭が破裂するといった描写があるが、大げさすぎて笑いたくなるユーモアを感じるのだ。

一方、北野武作品の暴力には「生理的な痛み」を感じる。「その男、凶暴につき」(1989年)の頃から暴力の描き方に独特のものがあると感じていたが、驚いたのは「ソナチネ」(1993年)を見たときだった。最初の方で、ビートたけしの村川が組の幹部である矢島健一を一方的に殴るシーンがあった。その描き方が斬新でリアルだった。ホントに痛そうに見えた。暴力の怖さのようなものが伝わってきた。この監督は、本物のやくざが人を殴るのを見たことがあるのではないか、と僕は思った。

「BROTHER」(2000年)公開前のテレビの特集番組だった。北野武監督が登場し、ある暴力シーンのことを「あれ、痛いでしょ」とインタビュアーに言っていた。それは、相手の鼻の両方の穴に箸を差し込み、下から突き上げるというシーンだった。初めて見たとき、そのシーンに僕はショックを受けた。誰でも、こんなことはされたくないよな、と思うことがある。鼻に箸を差し込み下から突き上げられるなんて、考えただけでゾッとする。それを北野武監督はやってしまう。

「アウトレイジ」シリーズは、とにかく大勢の人が死ぬ。殺され方は様々で、北野武監督はそれが描きたくて作ってるのじゃないかとさえ思えてくる。痛いシーンの連続だし、わざわざなんでこんな殺し方するの? と思う場面もある。「アウトレイジ」で言えば、水野(椎名桔平)の殺され方だ。捕らえられ車に乗せられた水野は頭から黒い袋をかぶせられ、首にロープをまかれる。そのロープの反対側をわざわざ海辺の杭に縛り付け、車を走らせる。ロープがピンと張られ、水野は勢いよく車から飛び出す。その後のシーンで「水野は首がほとんど千切れてましたよ」と刑事の片岡(小日向文世)が大友(ビートたけし)に言う。

たぶん、どう殺すか、どう痛めるつけるか、北野武監督はアイデアを絞り出しているに違いない。痛いシーンを列挙すると、カッターナイフで小指を切ろうと血だらけになるシーン、そのカッターナイフで相手の顔を×に切りつけるシーン、歯医者の椅子にいる石橋蓮司の口の中を治療用のドリルでかきまわすシーン、覚醒剤を売っている中華料理店のオヤジの耳に菜箸を突っ込むシーン、同じく中華包丁で指を切断するシーン、國村隼に舌を突き出させ下から顎を叩き上げて舌を噛ませるシーン----などなど、一作目の「アウトレイジ」を思い浮かべるだけで、こんなにもある。拳銃で簡単に射殺される方がましだと思えてくる。

●「アウトレイジ最終章」は銃弾がふんだんに飛び交う展開になった

「アウトレイジ最終章」にも様々な殺され方が出てくるが、どちらかと言えば拳銃や機関銃での撃ち合いが主流になっている。特に狭い自動車内での突然の撃ち合いは、この映画の最大の見ものだ。そのせいか、僕は「ゴッドファーザー」シリーズを連想した。大勢のパーティー客に向かって大友と市川(大森南朋)が皆殺しにする勢いで撃ちまくるシーンにはカタルシスさえおぼえた。「ゴッドファーザーPARTIII」(1990年)でホテルの会場に集まったマフィアのボスたちを、ヘリコプターから機関銃で連射するシーンを僕は思い出していた。

テレビスポットでも流れていたので見た人は多いだろうが、林の中の道に首まで埋められている花菱会の会長(大杉漣)のシーンは誰しもギョッとするだろう。しかし、生理的な痛みは感じない。大杉漣は首まで埋められて大変だっただろうが、北野武監督に命じられれば何でもするしかないのだ。文句は言えない。何しろ、それまでピンク映画やロマンポルノばかりに出ていた大杉漣を「ソナチネ」で起用し、メジャーな役者(メジャーになってから周防監督の「変態家族 兄貴の嫁さん」の老人役だったのが有名になった)にしたのは北野監督なのだから---。

しかし、首だけ出した大杉漣の場合は自動車が間近に迫るということはなかったようだ。映画はそのように見せていたが、実際にそんな危険な撮影はしていないのはわかる。編集でごまかしていた。首まで埋められたうえ、間近をジープが走りまわるという体験をしたのは、水戸黄門になる前の西村晃である。そんな危険な撮影を命じたのは、深作欣二監督だった。「北陸代理戦争」(1977年)のワンシーンである。そんなエピソードを知ると、「殺すで、人ひとり殺すで。当たるで、この映画」と興奮する「蒲田行進曲」(1982年)の監督(蟹江敬三)は深作欣二その人ではないかと思う。

たぶん、北野武監督が「アウトレイジ」シリーズで意識したのは深作欣二監督であり「仁義なき戦い」なのだと思う。「その男、凶暴につき」は、最初、深作欣二が監督する予定だった。それが、どういういきさつかは知らないが、深作欣二監督が降りた。そこで、監督経験のまったくないビートたけしが監督することになった。初めてだったとはいえ、それまでビートたけしは大島渚を始め、何人もの監督の現場を見ていたのだ。僕が初めて見た俳優ビートたけしは東陽一監督作品「マノン」(1981)年だった。ヒロイン烏丸せつこのやくざな兄の役である。

余談だが、「マノン」は、確か佐藤浩市の映画デビューではなかっただろうか。佐藤浩市が俳優としてデビューしたのは、NHKドラマ「続・続・事件」(1980年)だと記憶している。大岡昇平のベストセラー「事件」は野村芳太郎監督が映画化したが、その後、NHKが深町ディレクター・早坂暁脚本でドラマ化した。主演の弁護士役は若山富三郎である。これが好評で、富三郎主演で何作か続編が放映された。早坂暁のオリジナル脚本だ。「続・続・事件」は母親(岸恵子)に家庭内暴力を振るう息子(佐藤浩市)の物語だった。

ところで、「アウトレイジ」には、日本のやくざ映画のDNAは感じない。特に今回の「アウトレイジ最終章」は、日本映画的な要素がほとんどない。「ゴッドファーザー」のようなハリウッド的なものを感じる部分もあるが、たぶん最も近いのはフレンチ・ノアール、もっと言えばジャン=ピエール・メルヴィル監督作品ではないだろうか。北野武監督作品が、フランスで受ける理由がそこにあるのではないか。フランスにはキタノ・ファンが多い。残虐で暴力シーンばかりの北野武監督作品を僕が偏愛するのも、フレンチ・ノアールを熱狂的に愛しジャン=ピエール・メルヴィル監督を神と仰ぐ僕だから不思議はないのかもしれない。

2017年10月12日 (木)

■映画と夜と音楽と…790 祝!! カズオ・イシグロ



【日の名残り/わたしを離さないで/上海の伯爵夫人】

●女中頭への秘めた慕情を仄かに描き出し人生の重みを感じさせる

カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した。両親とも日本人だが、本人は英国籍を取得し、ずっと英語で小説を書いている。確か、五歳までは長崎で育ったはずだ。父親の仕事の関係でイギリスに渡り、そのままイギリスで暮らしている。アンソニー・ホプキンスが主演した「日の名残り」(1993年)の原作者として映画ファンには知られている。「眺めのいい部屋」(1986年)や「モーリス」(1987年)など、ジェイムズ・アイヴォリー監督は古い時代のイギリスを格調高く描く人だが、「日の名残り」もその一本である。アンソニー・ホプキンスがイギリスの執事という仕事を重厚に演じ、女中頭(エマ・トンプソン)への秘めた慕情を仄かに描き出し、人生の重みを感じさせる作品だった。

カズオ・イシグロのもうひとつの代表作として「わたしを離さないで」がある。僕が買ったハードカバーは、すでに十刷を越えていたと思うから、当時、日本でもベストセラーになっていたのだろう。翻訳小説が売れない中では珍しいことだった。それから、しばらくしてキャリー・マリガン主演の「わたしを離さないで」(2010年)が公開された。僕が初めてアンドリュー・ガーフィールドを記憶にとどめた映画である。ところで、今回の受賞のニュースで新聞やテレビが、日本でも劇化やテレビドラマ化された「わたしを離さないで」を紹介していたが、どのニュースも内容紹介でネタバレをやっていて「いいのかい」と僕は思った。初めて読むとき、「あのこと」を知らないで読むのと知って読むのとでは、大きな違いがある。

「わたしを離さないで」は、大人になり、自分の運命を知り、そのことを受け入れ、あらかじめ決められていた仕事に就いている若い女性の語りで始まる。奇妙な仕事が語られ、子供時代の集団生活をしていた学校時代が回想され、徐々に「あのこと」が明らかになっていく過程が重要なのではないだろうか。確かに、最初の章からある予感がある。しかし、「あのこと」は明確には書かれていない。ただ、奇妙な仕事に、奇妙な呼称がついているだけだ。ヒロインは、仲のよかった少年と少女の今を語り、彼らに会いにいき、不思議な会話を交わす。その会話や子供時代の回想から、「あのこと」が次第に浮かび上がる仕掛けになっているのだが、勘のいい人は早くにわかってしまうかもしれない。

僕は何の情報もなく読み始めたので、「あのこと」を明確に読みとったのは半ばまで読み進んだときだった。もちろん、それまでにある予感はあったし、「もしかしたら----」と思ってはいた。しかし、明確に「あのこと」がわかると、それまでの奇妙な会話や子供時代の不思議な出来事が、まったく別の意味を持って立ち上がってくる。それによって、描かれる世界を深い悲しみが覆うのだ。ヒロインが仲間たちとある町にいき、そこで古い音楽のテープを手に入れ、そのテープの音楽を聴くというだけのエピソードが印象深く心に刻まれるのは、「あのこと」が背景にあるからだ。その曲がタイトルになった「ネバー・レット・ミー・ゴー」である。

「わたしを離さないで」の映画版は、小説と違って最初からヒロインの環境や生活を映像で見せることになるので、早くから「あのこと」は観客にわかるだろう。それでも、「あのこと」が次第に描き出される形になっているから、それによってヒロインたちの深い悲しみが伝わってくるのだ。しかし、やはり、あの全編に漂う悲哀感は、カズオ・イシグロの文章を読むことで(翻訳だったけど)強く印象付けられるものだろう。「わたしを離さないで」を読みながら僕は、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を思い出した。映画化された「ブレードランナー」(1982年)と違い、原作にはある深い悲しみが描かれている。主人公は狩られる側に感情移入していくし、次第に自分自身のアイデンティティが崩れ始める。それが映画ではストレートに伝わってはこなかった。

●「上海の伯爵夫人」は戦前の上海の雰囲気が魅力的だった

カズオ・イシグロが脚本を書いた映画に「上海の伯爵夫人」(2005年)がある。一九三六年の上海を舞台にしている。翌年、第二次上海事変が起こる。日中戦争の本格的な始まりだ。当時、上海にはフランス租界など列強の進出があり、国際都市として様々な国の人物がいた。もちろん、日本人も多く進出していた。スビルバーグ監督が「太陽の帝国」(1987年)で描いたのと同じ頃の上海である。「上海の伯爵夫人」の主人公ジャクソン(レイフ・ファインズ)はイギリス人で、ある事件で家族を失い自らは盲目となり、抜け殻のようになって上海をさまよっていた。そんなある日、あるクラブでジャクソンは亡命ロシア貴族のソフィア(ナターシャ・リチャードソン)と出会う。

一九一七年にロシア革命が起こり、多くのロシア貴族が満州や中国に逃げてきていた時代だ。革命から十九年後の上海。ソフィアは子供の頃に父母や叔母たちと共に逃げてきたのだろう。ソフィアは旧ロシアでは貴族だったのだが、家族を養うためにクラブ・ホステスとして働いていた。ソフィアの叔母を演じているのがヴァネッサ・レッドグレーブだった。一方、ジャクソンは日本人の実業家であるマツダ(真田広之)と出会う。しかし、謎めいた言動をするマツダは、何を考えているのかわからない。ジャクソンは賭で大金を得、クラブを開き「白い伯爵夫人」と名付け、ソフィアを店に雇い入れる。ふたりは惹かれあっているのだが、過去に深い傷を負っているらしいジャクソンは心を開かない。やがて「白い伯爵夫人」には、国民党、日本軍、英米の情報部員などが集まり、複雑な政治状況を反映した謀略の場になる。

僕がレイフ・ファインズを気にいっているためか、「上海の伯爵夫人」は、ストーリーの細かなところは忘れてしまったが、とても好きな映画だ。印象的なシーンがいくつか記憶に刻み込まれている。映像は格調高く、美しい。戦前の上海の雰囲気が魅力的だった。この時代の上海を描いた映画は何本も見ているが、無国籍都市の雰囲気があって、思わずディック・ミネの「夜霧のブルース」や「上海帰りのリル」などを歌いたくなる。冒険小説の舞台にも向いているらしく、生島治郎さんの「黄土の奔流」も上海の租界のナイトクラブから始まったと記憶している。生島さんは上海生まれだった。僕の父も上海で終戦を迎えている。日本人にはなじみのあった都市である。

戦前の上海はロマンチックで創作欲をそそるのか、カズオ・イシグロは「わたしたちが孤児だったころ」で、やはり戦前の上海を舞台にしている。「上海の伯爵夫人」の方が「わたしたちが孤児だったころ」より後だから、小説を書くために調べた上海を舞台にして脚本を書いたのかもしれない。「わたしたちが孤児だったころ」は、上海の租界で暮らしていた主人公が十歳のときに両親が行方不明になり、イギリスに連れ戻された主人公はホームズのような探偵になって、両親の失踪の真相を探るために再び上海に戻るという物語だったと思う(けっこう昔に読んだので、ちょっとあやふやだけど)。

●ヴァネッサ・レッドクレーブとの母娘共演作は「上海の伯爵夫人」だけ?

「上海の伯爵夫人」が印象に残っている理由のひとつは、ヴァネッサ・レッドグレーブと実娘のナターシャ・リチャードソンが共演しているからだ。ナターシャ・リチャードソンは、ヴァネッサ・レッドグレーブとトニー・リチャードソンとの間にできた娘である。トニー・リチャードソンと言えば、僕らの世代では忘れられない監督だ。三十歳のときに「怒りを込めて振り返れ」(1958年)を発表し、続いて「土曜の夜と日曜の朝」(1960年)「密の味」(1961年)「長距離ランナーの孤独」(1962年)と、「怒れる若者たち」ムーブメントを映画の世界から発信した人である。六〇年代には、「ラブド・ワン」(1965年)「マドモアゼル」(1966年)「ジブラルタルの追想」(1967年)と絶好調だった。

一方、ヴァネッサ・レッドグレーブと言えば、英国演劇界の名優の血を引く名女優だ。お父さんはマイケル・レッドグレーブである。僕の印象に残っているマイケル・レッドグレーブは、「長距離ランナーの孤独」の少年院の偽善的な校長である。名優マイケル・レッドグレーブは、ローレンス・オリヴィエと同じようにナイトの称号を女王陛下から授けられた。息子のコリン・レッドグレーブも次女のリン・レッドグレーブも俳優として活躍した。つまり、ナターシャ・リチャードソンはマイケル・レッドグレーブの孫で、日本で言えば梨園のお嬢様である松たか子(叔父が中村吉右衛門だもの)みたいなものである。

そのナターシャ・リチャードソンはリーアム・ニーソンと結婚し、ふたりの子供をもうけた。しかし、「上海の伯爵夫人」から四年後、スキー場での事故で亡くなってしまう。まだ、四十六歳だった。ナターシャ・リチャードソンの代表作というと、やはり「上海の伯爵夫人」になるのだろう。実母だけではなく、実の叔母のリン・レッドグレーブも出演していた。それにしても、弟のコリンも妹のリンも亡くなり、娘のナターシャにも先立たれたヴァネッサ・レッドグレーブだが、八十の今も現役女優としてがんばっている。イギリス映画の老女役というと、ヴァネッサか、マギー・スミスか、ジュディ・デンチといったところだが、それぞれ持ち味が違うのが凄い。

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