2025年11月 8日 (土)

■日々の泡----零落について

 

四方田犬彦さんの長編評論「零落の賦」を開いたら、冒頭に室生犀星の「よしや うらぶれて異土の乞食(かたゑ)となるとても」というフレーズが掲げられていた。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と始まる詩である。どんなに落ちぶれても故郷には帰らない、という決意を記した若き犀星の詩なのだろう。

四方田さんは「零落がかつて人生の高みにあった者にしか許されていない行為であることはすでに述べた。人は低所に留まっているかぎり、どこに向かっても零落することができないのだ」と規定していた。「そうかなあ」と少し疑義を感じたが、確かに一度は高いところにいないと落ちることはできない。

「零落」の同義語を調べてみたら「落魄」や「淪落」などが出てきた。では、「尾羽打ち枯らす」はどうなのかと考えたが、これは落ちぶれた様子を形容する言葉であって、落魄した状況を指すのではないから同義語とはならないのかもしれない。簡単に言えば「落ちぶれる」ことである。

犀星は「うらぶれて」と書いているが、これは「落ちぶれる」より哀愁が漂う気がする。誰もが落ちぶれるのはイヤだと思うけど、過去、小説や映画やドラマなどでは「零落の人生」が何度も描かれてきた。最近のハリウッド作品には実在の人物のサクセスストーリーを映画化するものが増えている気がするが、人は「落ちぶれていく人生」を見るのは嫌いではないらしい。

テレビや週刊誌で「あの人は今」特集があると、多くの人が興味を持って見る。一世を風靡した有名人が今は落ちぶれていたりすると、気の毒にはなるかもしれないが視聴者や読者の好奇心は満足する。「ああ、やっぱり一時的に華やかな生活を送っても、人生は長いもんね」と自らの平凡な(と思っている)人生を肯定できるからかもしれない。

「零落」を描いたドラマですぐに思い出したのは、「スタア誕生」(1954年)と「黄昏」(1951年)だった。どちらもいい年をした男が零落する。「スタア誕生」のジェームス・メイスンはハリウッドの有名スターだったが過度の飲酒のために落ちぶれ、自身のプライドのせいでさらに零落していく。一方、彼が見出した歌手(ジュディ・ガーランド)はスタアへと昇っていく。

「黄昏」のローレンス・オリヴィエは有名な高級レストランの支配人だったが、若い娘(ジェニファー・ジョーンズ)に惚れて道を外し落ちぶれていく。彼と別れた娘はスターになり、彼はホームレスとなり教会の炊き出しに並ぶまでになる。ある日、「食べないと死ぬ」とつぶやきながら娘が出演している劇場の楽屋口に現れ小銭をねだる。

ここで面白いのは、そんな状態なのに男にはまだプライドがあるのだ。男の姿を見た娘(まだ男を愛している)は驚き、有り金を差し出し男に着せるものを楽屋に探しにいく。しかし、男はその財布から小銭だけを抜き取って去っていく。ここで映画は終わるから救いはない。

名匠ウィリアム・ワイラーが名作「ローマの終日」(1953年)の前に監督した作品だ。名優ローレンス・オリヴィエの落魄ぶりがすさまじい。原作は「アメリカの悲劇」(映画「陽の当たる場所」)のセオドア・ドライサーの「シスター・キャリー」である。

「黄昏」は「男のメロドラマ」とも言われるが、「落ちていく物語」は女性の方が似合うのかもしれない。その代表作としては「哀愁」(1940年)が浮かんでくる。「風と共に去りぬ」(1939年)のヴィヴィアン・リー主演作としては「哀愁」と「欲望という名の電車」(1951年)が有名だが、スカーレット・オハラ以外は「落魄の女」なのである。

「哀愁」の美しいヒロインは夜の女にまで身を落とす。「欲望という名の電車」のブランチは容色は衰え落魄した姿で登場し、義弟(マーロン・ブランド)の容赦ない非難を浴びて精神的に追いつめられ狂う。その姿には、やがて実生活で精神に変調をきたすヴィヴィアン・リー自身が重なってくる。

若きローレンス・オリヴィエのハリウッド出演のために愛人としてイギリスから同行したヴィヴィアン・リーは、スタジオ見学をしているときにプロデューサーのセルズニックに見出されて「風と共に去りぬ」のヒロインに抜擢される。しかし、オリビエとも離婚した中年過ぎから奇矯な行動をとるようになる。彼女自身が「零落の女優」になってしまったのだった。

 

2025年11月 1日 (土)

■日々の泡----娼婦について

 

ユーチューブで古い日本映画を見ている。東映の「警視庁物語」シリーズが出てくるので、順不同で何本かを見た。50年代後半から60年代前半にかけて二十作以上製作されたもので、東映大泉撮影所の仕事だ。大変におもしろい。「南廣」が若手刑事役で出ているのが初期のもので、「(新人)千葉真一」が出ているのが後期作品だと思っていたが違うらしい。神田隆や堀雄二はずっと出演している。

警視庁第一課の課長は松本克平、主任が神田隆、部長刑事が堀雄二である。ベテラン刑事は花沢徳衛、独身の若手に山本麟一がいるのがうれしい。課長をのぞくと七名。テレビドラマ「七人の刑事」とどちらが先なのだろう。どちらにも堀雄二が出ているので混乱しそうである。「七人の刑事」の映画版もあってややこしい。「七人の刑事」では芦田伸介に人気が出た。

十五歳の少女が殺される事件を描いた「警視庁物語 十五才の女」(1961年)を見ていたら、少女の暮らしがすさまじく貧しくて目を背けたくなるほどだった。当時は珍しくなかったが、「赤貧洗うがごとし」どころではない。元パンパンの母親(菅井きん)は「アメチャンからもらった病気が今頃出て」頭がおかしくなっていて、原っぱの中の掘っ建て小屋に住んでいる。

娘は十五歳で、男たちに体を売っている。中華そばいっぱいで寝るから、男たちからは「そばパン」と呼ばれているのだ。NHKドラマ「事件記者」で人気が出た「アラさん」俳優(後に自殺した)が彼女を定期的に買う労働者役をやっていて、ちょっとショックだった。さらに、役所の福祉課の男(今井健二)は、生活保護費を餌に少女と寝ている。

やくざの組の見習いの少年が少女に恋したために事件が起き、少女が殺される。聞き込みをする中で少女が売春をしていたと知ったとき、若手刑事の千葉真一が「パンパン?」と聞き返したのを見て、ちょっとイヤな感じがした。その後、「そばパン」という言葉も出てきて、当時、普通に使っていたのだろうが、イヤな言葉だなあと思った。

「パンパン」という呼び方は、戦後のものだろう。さらに侮蔑的に言うときは「パン助」となる。戦後すぐに有楽町ガード下にたむろする「夜の女たち」(新聞や放送局は、少し品よくこう呼んだ)にインタビューしたNHKのアナウンサーがいる。どうやったのかわからないが、マイクを隠して(当時の機材で可能なのかわからないけど)話を聞いたらしい。

彼女らの中に姉御肌の女がいて「ラク町のお時」と呼ばれていた。彼女は堂々と取材を受け、女たちの苦境を語った。彼女たちは蔑みを込めて「パンパン」と呼ばれた。アメリカ兵を相手にしたのは「洋パン」である。ひとりのアメリカ人の囲い者になったのは「オンリー」と呼ばれた。数年後、混血児問題が社会の課題になる。

僕が「パンパン」という言い方を嫌うのは、蔑称だからだ。江戸時代は「遊女」「女郎」「飯盛り女」などの呼び名があったが、「花魁」には何となくリスペクトのニュアンス(僕だけかもしれないが)を感じる。大河ドラマ「べらぼう」を見ていても、有名作家が花魁を身請けして得意げにしているし、古典落語の吉原ものでもそんな扱いだ。

その頃から「淫売」という呼び方もあったのだろうが、「売春婦」「売笑婦」という言い方はいつ頃からだろう。「春を売る」というのが「性を売る」という意味になったのはどうしてなのだろう。そんな疑問もあるけれど、特に調べてはいない。

僕としては「娼婦」という呼称を推奨したい。「娼婦」という言葉を知ったのは、吉行淳之介の小説を読み始めた十五歳の頃だと思う。「娼婦の部屋」という名作短編もある。吉行の初期作品には、娼婦との交渉を描いたものが多い。当時は売春禁止法が成立する前で、あちこちに特飲街(赤線)があり、青線もあった。

吉行作品でなじんだからか、「娼婦」という言葉には何となく文学的香気を感じてしまう。たぶん僕だけではない。なかにし礼は「時には娼婦のように」と歌ったし、阿木燿子は「処女に少女に娼婦に淑女」と韻を踏んだフレーズを郷ひろみに歌わせた。したがって、映画やドラマなどでそういう職業の人たちが出てくると、できれば「娼婦」と呼んでほしいと思う。

日本映画の主人公は、昔から「男はやくざ、女は娼婦」だった。僕は加藤泰監督の「骨までしゃぶる」(1966年)という明治時代の娼婦の世界を描いた作品が好きだ。特に久保菜穂子のキャラクターが素晴らしく、彼女の代表作だと思う。

2025年10月25日 (土)

■日々の泡----片岡義男とハードボイルド音楽

 

片岡義男と小西康陽(元ピチカート・ファィブ)の共著「僕らのヒットパレード」(国書刊行会)を図書館で見つけて読んでいると、片岡義男の「ハードボイルド音楽との再会」という短文が収容されていた。一回800字で12回続いたコラムらしい。初出は機内誌「翼の王国」で2006年4月号~2007年3月号掲載とある。どの回も興味深かった。

一回目はヘンリー・マンシーニから書き起こし、「ピーター・ガン」の話になった。「ピーター・ガン」は1958年にNBC系で月曜夜に放映されて39週続いたとある。ピーター・ガンという探偵が主人公だった。この「ピーター・ガン」の音楽をヘンリー・マンシーニが担当したという。

ヘンリー・マンシーニは数多くの映画音楽を作曲したが、最も知られているのは「ティファニーで朝食を」(1961年)の中でオードリー・ヘップバーンがギターを弾いて歌った「ムーン・リバー」だろう。ジャズ畑でも多くのプレイヤーが演奏している。僕は「アイ・ラブ・マンシーニ」というテナー奏者ハリー・アレンのCDを持っている。

僕は割に最近、「プライム・ミュージック」で「ピーター・ガン」のテーマを聴いてメチャクチャ気に入ったところだった。フルート奏者のハービーマンのバンドだった。片岡さんのコラムを読んで、プライム・ミュージックで「ピーター・ガンのテーマ」を検索してみたら、いくつかのアルバムがヒットした。

三つの楽器をくわえて同時に演奏する曲芸的ジャズ・プレイヤーであるローランド・カークのアルバムも出てきたので聴いてみたが、やはり放映時のオリジナルのものが一番カッコよかった。ハードボイルド・スタイルの私立探偵ものなのだから、やはり格好良さが求められると思う。

片岡さんのコラムには、ジョン・カサベテスが主演した「ジョニー・スタッカート」や(1959年)「マイク・ハマー」(1961年)、デヴィッド・ジャンセン初主演の「私立探偵リチャード・ダイヤモンド」(1957年)などが続けて紹介されていたが、「ピーター・ガン」を含めて当時の高松(民放は日本テレビ系とTBS系しかなかった)ではどれも見ることができなかった。

5回目のコラムで、ようやく「サンセット77」(1960年にTBSで放映)が登場した。これは系列の山陽テレビで見ることができた。主題歌では「77、サンセット・ストリップ」と歌っていて、小学生の僕は「ストリップ」が「通り」だとはわからないから、何だろうと思った。英語のタイトルはその通りなのだけれど、「誤解を招くよ、というような意見を誰もが認めたからではないか」と片岡さんも書いている。

当時のアメリカの探偵ものや西部劇は主役がふたりいて交代で主演エピソードが放映されたのは、製作が毎週の放映に間に合わなかったからだろう。「サンセット77」もステュアート・ベイリー(エフレム・ジンバリスト・ジュニア)とジェフ・スペンサー(ロジャー・スミス)の二人体制だった。探偵事務所の隣のレストランの駐車場係クーキー(エドワード・バーンズ)は、いつも櫛で髪をとかしながら登場するチャラい(死語か?)キャラクターだったが主演者たちより人気が出た。

片岡さんによると「クーキーとその櫛は一世を風靡し、一九五九年にはコニー・スティーヴンスとデュエットした『クーキー、クーキー、あなたの櫛を使わせて』という歌が大きなヒットとなった」そうである。知らなんだ。しかし、今でもタイトルバックが甦るし、櫛で髪をかきあげながら登場するクーキーのシーンもくっきりと浮かんでくる。

しかし、日本人の多くが「駐車場係」という職業にはなじみがなかったのではないだろうか。僕がアメリカのクラブやレストランには駐車場係がいて、客は入口のロータリーでクルマを降りてキーを渡すと係がクルマを駐車場に入れてくれると知ったのは、中学生になって読んだレイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」の冒頭場面(駐車場係の社会的地位もわかる)によってだった。

片岡さんは、その他にロス・マクドナルド原作でポール・ニューマン主演「動く標的」(1966年)のサウンド・トラックLP、リー・マーヴィン主演「シカゴ特捜隊M」の音楽、ロバート・ミッチャムがフィリップ・マーロウを演じた「さらば愛しき女よ」(1975年)の音楽などを紹介しているが、「ハードボイルド=私立探偵」だった時代が懐かしく甦ってきた。

僕が初めて片岡義男の名前を知ったのは、たぶんリチャード・スタークの「悪党パーカー」の翻訳者としてだと思う。60年代半ばだった。その「片岡義男」が男性誌(平凡パンチなど)を中心にアメリカのサブカルチャー(音楽や映画やペイパーバック、ファッションやサーフィンなど)のコラムを書いていた「テディ片岡」だと誰かが教えてくれた。70年代に入ると、サーフィン小説やオートバイ小説で流行作家になった。

 

2025年10月18日 (土)

■日々の泡----「妬み・嫉み・僻み」の男・その3

 

Kが社長に辞表を出した、と聞いたのは僕が四十近くになったときだった。Kは三十代後半である。社長室にいくと「実家を継がなければならなくなったそうだ。編集が好きなのに、かわいそうだなあ」と、ひどく同情する口調だった。「辞めた後、経歴にビデオ本誌の副編集長と書かせてもらえないかというのでオーケーしたよ」と続ける。えっ、と僕は思った。彼は平の編集部員だったのに、まるでポツダム副編じゃないか、と内心思った。

Kは退社し、しばらくして編集制作プロダクションを立ち上げた。案内状は社にも届き、「実家に戻るんじゃなかったのか」と誰かが口にしたが、誰もがKのことだからこんなことじゃないのかと予想していたのだろう、納得する人間が多かった。起業家体質であったし、小さな専門誌出版社でおさまる器でもない、と誰もが感じていたのだ。「独立する」とは言いにくかったのでは----、と僕もかばった言い方をした。

その頃、僕は八年担当したカメラ誌からビデオ誌の別冊編集部に異動することになった。ところが、ビデオ本誌の若い編集部員たちが次々と辞表を出し始めたのだ。毎月のように誰かが辞めていく。そのとばっちりが僕が担当したばかりの別冊編集部にきた。慣れないビデオ誌を一冊作ったところで、編集部員ふたりを本誌に戻すというのだ。「そんなことされたら、ビデオ知識のまったくない人間ばかりになるじゃないですか」と、さすがに僕もキレた。

しかし、本誌は稼ぎ頭だった。本誌の利益のおかげで給料が出ている。少なくとも、ボーナス原資は間違いなく本誌の雑誌売り上げと広告収入でまかなっていた。担当するビデオの別冊は「休刊になるかもしれませんよ」と僕が自棄気味に言うと、経営陣からは「やむなし」と返ってきた。そこまで言われたら仕方がない。僕はふたりの若手編集部員を本誌に戻すことを了承した。その結果、ビデオ知識もなく編集の仕事さえ一から教えなければならない新人部員ばかり三人抱えることになったけれど、「意地でも出し続けてやる」と決意した。

ところが、本誌に戻るはずのひとりが僕に辞表を出してきた。「きみもKのところにいくのか?」と僕は訊いた。その頃には、ビデオ本誌を辞めた編集部員たちがKのプロダクションに入ったという話が聞こえてきた。「プロダクションを立ち上げるから一緒にやらないか」と、在職中からKが誘っていたのだという。「誘われたけど断った」という若手編集部員もいて、ようやく口を開くようになっていた。僕に辞表を出した若者は「僕はいきません」と言ったが、結局、辞めてしばらくしてKの会社に入った。

どれくらいの年月が経った頃だろう。ある人から「Kさん、逮捕されたって新聞に出てたそうですよ」と教えられた。詳しく訊くと、日本でもトップの世界的な電機会社と仕事をしていたのだが、背任で逮捕され起訴されたという。それ以上の詳しいことはわからなかった。ネットで検索すると、記事は出てきたが聞いたこと以上の情報はなかった。

それからしばらくした頃、「Kが実刑になった」と聞こえてきた。経済犯で初犯なのに執行猶予がつかなかったのだ。金額が多額だったのか、悪質だったのか、反省の色が見えなかったのか(Kなら強く反論し無罪を主張しそうな気もした)----、一体どうしてそういうことになるのだろう、と僕は彼がまだ二十代半ばの頃に阿佐ヶ谷の屋台で呑んだときのことを思い出した。

その後、久しぶりに聞いた消息がTさんが口にした「Kくん、死んだの知ってる?」だった。頭がよく、口が達者で説得力があり、実行力もあって枠を越えた仕事ができた、いつも何か新しい着想をする斬新な発想力もあった。僕が羨ましくなるような要素ばかり持っていたのに、どうしてそういうことになったのか、僕は納得がいかなかった。背任になるようなバカなことを本当にやったのだろうか。

僕は多くの人間に会ってきたけれど、その中でもKは独特のキャラクターとして忘れられない存在だ。羨ましい部分も多く持っていたし、ちょっと危ういと感じるところもあった。年下だったが、いつも僕の前を走っていた。組合の委員長になったのも、出版労連の役員になったのも僕はKの後だった。初めて編集責任者として本を出したのもずっと後だった。

振り返ってみると、あの頃、僕は確かに「ねたみ」と「そねみ」を自覚したし、景気のいいビデオ本誌のような環境にいない「ひがみ」も抱いていた。いつも製作経費をどう切り詰めるか、安い原稿料で仕事を引き受けてもらえるかばかりを考えていたから、潤沢に経費を使える部署が羨ましかったし僻んでもいたのだ。僕から見れば、Kは「湯水のように経費を使っている」と見えた。

しかし、今、振り返ると、どうしてあんなに人のことが気になったのだろうと思う。若い頃、僕は自信にあふれた人間を見ると、自分が卑小な人間に思えた。自分に自信がないからだ、とはわかっていた。僕に自信みたいなものが生まれたのは四十過ぎのことだ。多少の経験と実績が自信につながったのだろう。「妬み・嫉み・僻み」からも解放された。「妬み・嫉み・僻み」は、人と比べるから生まれる。そこには、最も唾棄すべき自己憐憫がある。四十を過ぎてようやく、人と比べても意味がないと僕は悟ったのだった。

2025年10月11日 (土)

■日々の泡----「妬み・嫉み・僻み」の男・その2

 

Kには強いリーダーシップがあったし、ある種のカリスマ性も持っていたと思う。僕とは正反対だと思ったが、「あんな人間になりたいな」と羨むことはなかった。しかし、彼のように自己主張できたら人生は変わるだろうな、と思ったことはある。どんな場面でも彼の主張は力強く、自説を曲げることはほとんどなく、最終的には相手が折れてしまうことが多かった。ただ、強引ではあったが、反面、愛嬌があって憎まれることはなかった。

だから社の上層部の評価は高く、社員の間でも一目置かれる存在ではあった。労働組合の委員長も早くに経験し、その後は上部団体の事務局長を引き受けた。仕事面では多大な利益を上げているビデオ誌をバックにして、考えられないような経費の使い方をし派手な頁を作っていた。僕が文字通り腰が抜けるほど驚いたのは、十人近くのスタッフを組んでグァム・ロケを行ったときだった。

「この会社で、こんなスケールの仕事ができるのか」と奇跡を見るような思いで、僕は彼の名札が下がったホワイトボードを見つめた。「グァム・ロケ」と書かれた下に出社予定日があったが、十日近く先のことだった。その頃、ビデオ誌の編集部員たちは自由に勤務していた。昼過ぎにきて、深夜までいたりする。夕方まで、ほとんど机にはいない。九時半の定時にきて、毎日、きちんとビジネスレポートを提出している僕から見るとひどく羨ましかった。

しかし、僕が本当に嫉妬したのは、三年後輩のKが初めて編集責任者としてムックを作ったときだった。Kは三十そこそこだった。タイトルは「今夜はビデオ」というもので、表紙にタモリを起用していた。その頃、タモリがホストをつとめる「今夜は最高」という日本テレビの音楽バラエティに人気があり(僕も欠かさず見ていた)、それにあやかったものだった。

そのときの気分は、万年助監督の男が才気あふれる後輩の監督デビュー作を見るような----と言えばいいかもしれない。映画監督になることを夢見て地道に下積みの仕事に耐え、いつか作品を作るぞとシナリオの習作に余念がない男が、弁も立ち人を説き伏せるのがうまく、資金面にも恵まれる環境にいる後輩が抜擢されてデビュー作を公開したのを羨むような感じであった。

さらに芸能事務所Tに所属しているタモリを使っていることが、僕にはショックだった。その頃、僕がやっているカメラ誌は表紙と口絵グラビアをタレントの写真にしていたが、自前で撮る資金も余裕もコネもなく、カメラマンの作品紹介という名目で二次使用(モデルはノーギャラ)をお願いしていた。その方法で「薬師丸ひろ子写真集」を出したYさんの作品紹介として、人気絶頂の頃の薬師丸ひろ子も口絵に掲載できたのだ。使用許可(このときは角川書店)はカメラマンにとってもらった。

しかし、ある行き違いから芸能事務所T所属の某女優の写真を表紙に使ったときには、使用許可が取れていなかったのである。それがわかったのは、印刷に入る前日のことだった。翌日、マネージャーから電話が入り「今すぐ印刷とめるか、二千万持ってくるか、どっちか決めろ」と強く脅され、僕は受話器を持ったまま絶句した。あのときほど進退窮まった経験は他にない。その後、広告代理店の人に間に入ってもらって何とか解決したのだが、芸能事務所Tの名は僕のトラウマになった。

僕が初めて編集責任者として一冊のムックを作ったのは、「今夜はビデオ」の五年ほど後のことだった。すでに三十半ばを過ぎていた。タイトルは「AF&AE一眼レフ・露出ハンドブック」だった。表紙と口絵はやはり写真家たちの作品を借りた二次使用だったが、豪華なラインナップだった。あるカメラメーカーの広報の人に「きれいな口絵ですね」と言われ、うれしかったのを記憶している。

表紙は水中写真家・中村征夫さんの海洋写真。口絵には風景写真の竹内敏信さん、アイドル写真の渡辺達生さんと野村誠一さん、スポーツ写真の水谷章人さん、それに桑田佳祐のステージ写真を出してくれたのは管洋志さんだった。当時で二千円を超える高い本だったけれど長く版を重ね、結局、僕が三十年の編集者生活で作った数百冊の雑誌・ムックの中で最も売れたものになった。(この項さらに続く)

2025年10月 4日 (土)

■日々の泡----「妬み・嫉み・僻み」の男

 

勤め人時代の僕の相棒で二年ほど前から玄光社の社長になっていた勝山が六月末に亡くなり、九月中旬に会社が開く偲ぶ会があり、数十年ぶりに会った元S出版のTさんから「Kくんが死んだの知ってる?」と訊かれ、「ああ、そうだったな。六月にFさんから聞いたな」と思い出したけれど、なぜかFさんに聞いたときより強い衝撃を受けた。

六月初めに会ったFさんとも数十年ぶりの再会で、やはりある人の偲ぶ会だった。Fさんは僕と同年だが、現役のカメラマンでスタジオを持ち、僕が現役のときは物撮りやロケをお願いした。KとFさんは編集者とカメラマンとして親密で、Kが自分の編集制作プロダクションを立ち上げた後も仕事を依頼していたから、ずっと連絡があったらしい。

S出版のTさんとKは四十年ほど前、日本出版労働組合連合会(出版労連)家庭書共闘会議の事務局長と事務局次長として三年間ほど密接につきあった関係だった。年下のKが事務局長である。僕もKの跡を継いで事務局長を三年やった。僕たちもそうだが、苦労を共にした四役仲間の結束は強い。そのTさんにKの死を告げられたのだ。数年前のことだという。

「彼は僕の三つほど下だから、まだ七十になってないでしょう。大学の後輩になるんです。向こうは優秀な法学部だったけど。あいつ、実刑くらったんですよね」と僕が訊くと、Tさんは「出所した後に会ったことがあるんだ。入所直後に軽い脳梗塞やったらしくて、記憶障害があると言ってた」と言う。

その後、しばらくKの思い出話になったが、僕は複雑な思いを隠してTさんに話を合わせていた。一時期、僕はKに嫉妬したこともあったし、あの事件を知ったときは「やっぱり詐欺師まがいのところもあったな」と納得したこともあった。Kは、卒業後しばらく代議士の鞄持ちをしていたという話で、人を(強引に)説得することに長けていた。今から思うと、誰もが「口車に乗せられ」てしまうのだった。

僕は23歳で入社し、その後の三年間、編集部に新人が入らず、ずっと一番下だったが、ようやく入ってきたのがKだった。しかし、声が大きく豪快で喋り出すと妙に説得力があり、社長からは「口八丁手八丁」と言われるような男で、三歳下の大学の後輩とはいえ、こちらが先輩だとは思えなかった。それでも、入社当時、彼と深夜まで呑み僕の阿佐ヶ谷のアパートに泊めたこともあった。

数年後、Kは僕がいた月刊の8ミリ専門誌編集部に異動になったが、すでにアマチュアでも手の届くビデオカメラが出始めていた頃で、毎号、部数を落としている状況だった。異動してきたKは最初の編集会議で、ほとんどひとりで発言した。もっと若者を取り込むべきだと。当時、大森一樹や森田芳光らが商業映画に進出し、その後の自主映画世代が話題になっていた。PFF(ぴあフィルムフェスティバル)も始まっていた。

その結果、「シネマパワー」という自主映画を紹介する頁ができた。当時の記事には、法政大学の犬童一心、立教大学の黒沢清などの名前が載っている。監督取材も加藤泰、工藤栄一、鈴木清順と続き、横浜映画学校(現・日本映画大学)の撮影実習取材では指導教官として浦山桐郎監督が登場している。「自主映画のヒロインたち」という連載コーナーでは早稲田の学生だった室井滋を紹介する予定もあった。

Kが強く主張して編集長が折れた結果、特集「ハロー・スポーツムービー」という画期的な表紙と誌面のリニューアル号が完成し、徐々に落ち続けていた部数が一気に三割ほど下落した。部下の突き上げに負けてしまう気の弱い編集長は、Kを論破する代わりに編集部から放出した。異動先は飛ぶトリを落とす勢いで部数を伸ばしていたビデオ誌だった。「結局、Kは首吊りの足を引っ張りにきただけだったな」と、先輩の編集部員がつぶやいた。半年後、8ミリ専門誌は休刊した。

その頃、ソニーのベータ方式とビクターのVHS方式で争っていたビデオ業界には勢いがあった。両社は競って専門誌に8頁にわたるカラー・マルチ広告を展開し、ビデオ誌は広告収入と倍々の勢いで伸びる部数で潤っていた。世の中はバブルに向かう時期だった。そんな状況を背景にしてKは派手に経費を使い、女性誌のグラビアのようなオシャレな口絵を展開した。

カメラ誌の編集部に異動し、筆者やカメラマンに会うたびに「おたくの原稿料は安い」と言われ続けていた僕は羨み、妬んだ。当時の僕は「俺は、妬み・嫉み・僻み----で生きてるんだぁ~」と嘯いていた。自虐癖があり、露悪趣味であり、居直りでもあった。その頃、欽ちゃんの番組で人気が出てヒット曲も生んだ三姉妹「のぞみ」「かなえ」「たまえ」にちなんで、「ねたみ」「そねみ」「ひがみ」のネクラ(根暗) 三姉妹と名付け、酒席などで騒いでいた。(この項続く)

2025年9月27日 (土)

■日々の泡----林美雄とパックインミュージック

 

先日、日本冒険小説協会の古参会員だった吉田さんからブログにコメントをいただいたのでメールでお礼したら改めて返信をいただいた。吉田さんはやたらに本を読み、たくさん映画(特にフィリピン映画に詳しい)を見る人で、本の雑誌社から「姿三四郎と富田常雄」という本を上梓している。昔、ゴールデン街の「深夜+1」で富田常雄について質問したら詳しい情報をもらったことがある。

僕は第25回の全国大会(2007年)で特別賞をもらって会員になった新参者だったけれど、古参(もしかしたら設立前から「深夜+1」の常連だったのかも)の吉田さんは、会員の中から奥さんを見つけ(けっこうな争奪戦があったと聞く)、僕が参加した大会には家族そろって参加していた。お嬢さんは大会で催されるビンゴガールを幼い頃からやっていて、会員たちに「××ちゃん」とかわいがられていた。

その吉田さんが「1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代」(柳澤健・著 集英社文庫)を読んでいたら、僕の名前が出てきたというので知らせてくれたのだった。僕はまったく知らなかったので、どういう形で出てくるのか気になり、アマゾンで検索して集英社文庫を購入した。ただ、林美雄さんのことは初期のコラムで書いており、おそらくその文章が引用されているのだろうと予想した。

それは2002年11月8日に書いたコラムで「映画がなければ生きていけない1999-2002年」(519頁)に入っている。23年前に、その時点から30年前の思い出を綴ったものだった。タイトルは「赤い鳥を飛ばせ!」である。田中角栄が日中国交回復を果たし、その記念に上野動物園にパンダがやってきた1972年の晩秋、僕は「八月の濡れた砂」(1971年)の上映と原田芳雄のミニ・コンサートを見るために神宮の青年館にいた。そのときの司会がTBSアナウンサーの林美雄だった。

それから十年ほど後、僕は大学の先輩でロック・ミュージカル劇団「ミスタースリム・カンパニー」の役者である河西健司さんの結婚披露パーティで再び林美雄さんに会う。林さんは立会人(仲人)兼司会進行役をやっていた。そのパーティで僕は池田敏春監督に挨拶し、三浦洋一・宇都宮雅代夫妻を見かけ、柴田恭兵がビンゴで最高賞を当てるのを目撃し、トイレで古尾谷雅人と並んで小用を足した。

ミスタースリム・カンパニーは、河西さんがまだ大学在学中に赤坂の都市センターホールで旗揚げした。ということは、僕が大学三年だから1973年のこと、劇団の人気が出るのは数年後だったと思う。僕は林美雄さんの深夜ラジオ「パックインミュージック」で「ミスタースリム・カンパニー」を取り上げるのを聞いた記憶がない。だから、河西さんの結婚披露パーティで新郎新婦(新婦は赤ん坊を抱いていた)と共に林美雄さんが登場したときに意外な思いを抱いた。

「パックインミュージック」で最も人気があったのは、金曜日の「ナっちゃん・チャコちゃん」の回である。野沢那智と白石冬美が掛け合いでパーソナリティをつとめていた。深夜だからエッチな話題が多く「金瓶梅」を連続ラジオドラマにしていて、その場面になると「かくて始まるピョンピョンゲーム」と野沢那智がひょうきんな声を出すのが定番だった。野沢那智と言えばアラン・ドロンの吹き替えで、すごい二枚目の声だったのに深夜ラジオでは甲高い声を出しておどけるのだった。

林美雄さんの「パックインミュージック」は金曜の第二部、午前三時から始まるので、僕もそう頻繁に聴いていたわけではない。ただ、ユーミンをデビューアルバムから取り上げたり、「八月の濡れた砂」を絶賛し、石川セリの歌う主題歌をやたらにかけてヒットさせたりといった話題にはなっていた。井上陽水と石川セリが結婚したのは、林美雄の「パックインミュージック」がきっかけだったとも聞いた。

1970年、浪人している夏に見た「反逆のメロディー」(1970年)で原田芳雄と日活ニューアクションに夢中になっていた僕は、翌年早々に公開された「野良猫ロック・暴走集団'71」で藤竜也に注目し、その年の夏公開の日活(ダイニチ映配)最後の一般映画「八月の濡れた砂」「不良少女魔子」の二本立てを友達に勧めまくっていた。だから林美雄によってそれらの映画が注目され始めたことは何となく気に入らなかった。自分が発見したんだ、と人に言いたかったのだ。若い頃の錯覚である。

さて、届いた「1974年のサマークリスマス」を読むと、林さんの「パックインミュージック」は1974年の夏で終了したとあった。数年後、再開するが第一期の熱狂はすでに失われていたらしい。僕のコラムの引用は159頁から162頁まで4ページにもわたっていた。「ずいぶん長い引用だな」と驚いたが、1972年晩秋のある夜の林美雄を描いたものとして、必要な文章量を掲載してもらっていた。予想通りの箇所だ。引用の前に「雑誌編集者の十河進は、優れた映画コラムニストでもある。達意の文章家にかかれば、当時の林美雄が、時代の空気とともに彷彿とする」とあった。

このノンフィクションは「小説すばる」に2014年から翌年にかけて連載され、2016年に単行本が刊行されたらしい。文庫本が出たのは2021年、巻末の参考文献に僕の本も紹介されていた。それにしても「達意の文章家」とは、殺し文句だなあ。かみさんに近所の天ぷら屋でお好みコースをおごったほど、僕はしばらく上機嫌だった。我ながら単純な男である。

2025年9月20日 (土)

■日々の泡----ボブ・ディランとザ・バンド

 

新刊の「ボブ・ディラン 裏切りの夏」(英語版は2015年刊)という本を見つけて読んでいる。以前、「ボブ・ディラン自伝」を読んだことはあるのだが、内容はまつたく忘れている。ディランが子供の頃、田舎町の学校で核爆弾が投下されたときの避難訓練をしたというエピソードだけが頭に残っている。1950年代の冷戦時期、アメリカはソ連の核攻撃を現実のものとして予想していたのだと実感したからだろう。

ちなみにボブ・ディランの裏切りとは、1965年7月25日、ニューポート・フォーク・フェスティバルのステージにボブ・ディランがバックバンドを従えて登場し、自らエレキギターを弾いて歌ったことを指している。アンプを通して大音量で響きわたったエレクトリック・サウンドは、観客の大ブーイングを引き起こした。ピート・シーガーは斧を持ち出しコードを断ち切ろうとした、という伝説まで生まれた。

このノンフィクションは「あとがき」では、「名もなき者」(2024年)の原作と書いてあった。ティモシー・シャラメがボブ・ディランになりきって歌い、ギターを弾きハーモニカを吹いたと話題になった映画である。ディランがニューヨークに出たのは1961年、四年後にはエレキギターを手にして「フォークソング」から「フォークロック」へと進化したのだ。しかし、当初、彼のエレクトリック・サウンドへの変節(?)は観客に理解されなかった。

先日、「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」(2020年)というドキュメンタリーを見た。「ザ・バンド」のギター担当だったロビー・ロバートソンの自伝(2016年)をベースにしたドキュメンタリーである。ロビー・ロバートソン(と奥さん)は全編に登場して証言し、エリック・クラプトンやヴァン・モリソン、ジョージ・ハリソン、映画監督のマーティン・スコセッシ、それにボブ・ディランなど様々な人がインタビューに応じている。

マーティン・スコセッシが登場するのは、彼がドキュメント「ラスト・ワルツ」(1978年)の監督をしているからだ。「ラスト・ワルツ」は「ザ・バンド」の最後のコンサートであり、ボブ・ディランなど多くのミュージシャンも登場した長時間のライブだった。それ以降、「ザ・バンド」は解散し、後に再結成されるがロビー・ロバートソンだけは参加しなかった。

ロビー・ロバートソン、リヴォン・ヘルム、リチャード・マニュエル、リック・ダンコ、ガース・ハリソンの五人はエレクトリック・サウンドに進化したボブ・ディランのバック・バンド(この時点で「ザ・バンド」とは名乗っていない)として登場し、1966年にはディランと共にワールド・ツアーを行ったが、どこへいっても観客のブーイングに遭う。ディランからは「何があっても演奏をやめるな」と言われるが、唯一のアメリカ人(他の四人はカナダ人)のドラムス担当リヴォンは心理的に落ち込みグループを抜ける。

後に復帰したリヴォンを含めて、ウッドストックに借りたピンク色の家(ビッグ・ピンクと名付けた)の地下室に作ったスタジオで曲作りを進めアルバムを制作し、「ザ・バンド」と名乗った彼らはロック史に残るグループとなる。彼らのアルバム「ミュージック・フロム・ビッグピンク」をエリック・クラプトンは「人生を変えたアルバム」と絶賛した。しかし、メンバーの何人かは薬物に手を出し、兄弟のように仲がよかった彼らの中に亀裂が生まれる。十代の頃からの仲間は、結成後16年経って解散した。

調べてみると「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」公開後、2023年にロビー・ロバートソンは死去、さらに今年の一月に最後のメンバーだったガースも亡くなっていた。他の三人はリチャードが1986年、リック・ダンコが1999年、リヴォンが2012年に死んでいる。つまり、「ザ・バンド」オリジナル・メンバーは誰もいなくなったのだ。ホブ・ディランのノーベル文学賞受賞を知り得たのは、ロビーとガースのふたりだけだった。

ちなみに佐々木讓さんの小説を映画化した若松孝二監督作品「われに撃つ用意あり」(1990年)の中に、元全共闘のマスター(原田芳雄)の酒場に昔の仲間たちが集まり「ハウメニやろ、ハウメニ」と言って歌うシーンがある。もちろん「風に吹かれて」だ。生徒たちを連れて飲みにきていた予備校教師(小倉一郎)は「俺たちの世代の聖歌だ」と説明する。そのシーンのことを日本冒険小説協会総会のときに同じ部屋になった佐々木讓さん(「警官の血」で冒険小説協会大賞受賞)に話したら「よく憶えてますね」と呆れられた。

1963年に発表された(PPMによってヒットし、一躍ディランを有名にした)「風に吹かれて/ブローイン・イン・ザ・ウインド」は、当時、ジョーン・バエズの「ウィ・シャル・オーヴァーカム」と共に若者たちの魂の歌だった。僕らは「ウィ・シャル・オーヴァーカム」を歌いながらデモ行進をした。「風に吹かれて」のフレーズに哲学的なものを感じながら共に唱和した。そして、「すべての答えは風の中にある」と僕らは解釈した。

しかし、先日、友人たちと話していたら「ブロー」という言葉の解釈について別の意見が出た。「ブローって『吹き飛ばす』という意味らしいよ」とひとりが言うと、「落ち葉を風で吹き飛ばして集める電動具があるだろう。あれ、ブロワーというんだ」と別の友人が答えた。「そう言えば、カメラのレンズのホコリを吹き飛ばしてきれいにする道具もブロアーだな。ブラシを付けたらブロアーブラシ」と僕が言った。

友よ、答えは風の中に吹き飛ばされいく

2025年9月13日 (土)

■日々の泡----和泉雅子と中山麻里

 

毎回、人の訃報をネタにしてブログを更新しているみたいで申し訳ないのだけれど、僕の年齢になると身近でも、あるいは作家や映画監督や俳優などでも死んでいく人が多く、そのニュースで自然と昔のことを思い出してしまう。先日も、日をおかずに二人の女優の訃報に接して、「えっ、もう死んじゃったの」という気持ちになった。

ひとりは日活映画で活躍した(後に探検家としても知られた)和泉雅子である。もうひとりはスポ根テレビドラマ「サインはV」(1969~1970年)で人気者になった中山麻里だ。和泉雅子が1947年7月生まれで、中山麻里が1948年2月生まれだから、半年違いの同学年だった。亡くなったのは、和泉が今年の7月9日、中山麻里が7月12日である。立て続けの訃報だったので記憶に残った。

吉永小百合(1945年生まれ)が子役時代にテレビ「赤胴鈴之助」に出演していたのは有名だが、和泉雅子も児童劇団時代に連続テレビドラマ「少年ジェット」(1959年)に出演している。「ウーヤーター」(何の意味かわからないだろうけど)と今でも言える僕は「少年ジェット」ファンなのだが、さすがに一度か二度しか出ていない和泉雅子は憶えていない。ユーチューブで「少年ジェット」の主題歌を聴いていたら背景の映像が和泉雅子出演の回だったのだ。

和泉雅子は1961年に日活に入り、浦山桐郎監督「非行少女」(1963年)の演技で高く評価される。まだ十代半ばだった。ベンチャーズが作曲し山内賢とデュエットした「二人の銀座」が大ヒットし、和泉雅子はテレビの歌番組に数多く出演して日活映画を見ない人にも知られるようになるが、同じ年(1966年)中山麻里は東宝の演技部に入る。

僕は森谷司郎監督の「兄貴の恋人」(1968年)を数え切れないほど見ているのだが、理由は酒井和歌子が最もきれいだった頃の映画だからだ。主演は人気では酒井和歌子を上回っていた内藤洋子であり、兄貴(加山雄三)の恋人に複雑な気持ちを抱く内藤洋子の物語が中心である。その兄貴に強い関心を持つ金持ちの令嬢役が中山麻里で、これが彼女の映画デビューだった。

翌年、中山麻里は「サインはV」の主人公のライバル役で闘争心丸出しの気の強い役をやっているが、見た目も気の強そうな感じがあり、「兄貴の恋人」でも強い性格ではっきりとものを言うキャラクターになっていた。水着姿を披露するシーンがあり、体の美しさは周囲が認めていたのだろう。僕も中山麻里というと、ボディラインの完璧さと美しい胸が浮かんでくる。

中山麻里は「限りなく透明に近いブルー」(1980年)でもセクシーなキャラクターだったが、その映画の主役に抜擢されて人気俳優になった三田村邦彦と結婚して引退する。だから、僕が記憶する出演作はあまりない。しかし、中でも強く印象に残っているのは、テレビドラマ「傷だらけの天使」(1974~1975年)の深作欣二監督が担当した第三話「ヌードダンサーに愛の炎を」である。

先日もNHK-BS「アナザーストーリー」で取り上げられたように、「傷だらけの天使」は伝説的テレビドラマになった。特に第一話から八話あたりまでは創り手がやりたいようにやっている感じだ。深作欣二、神代辰巳、恩地日出夫、工藤栄一などの錚々たる監督たち、それにショーケンの個性が加わって、とんでもないドラマになっていた。

その中でも第三話は忘れられない。昔気質のやくざを室田日出男が演じ、彼に惚れてヒモにするストリッパーを中山麻里が演じた。ショーケンは富豪の娘を捜してほしいという依頼を辰巳(岸田森)から引き受ける。その令嬢がストリッパーになっていたのだ。その回ではストリップシーンがふんだんにあり、中山麻里は美しい胸を惜しげもなく晒している。僕は初回放映時に見ているが、その後の再放送では放送されなかったと思う。

先日、「アナザーストーリー」で「傷だらけの天使」がいかに画期的だったか、様々なスタッフの証言を取り上げていて面白く見たのだが、そのせいか改めて初期の八話くらいと最終話(工藤栄一監督である)を見たくなり、プライムビデオで一気見してしまった。しかし、「よくテレビで放映できたな」と思った(神代辰巳が演出した池部良と荒砂みきが出た回は放送禁止になったらしいけど)。それにしても、半世紀前の中山麻里の胸は美しかった。

2025年9月 6日 (土)

■日々の泡----セバスチャン・サルガド

 

今年の五月、セバスチャン・サルガドが亡くなった。1944年生まれの81歳。白血病だったとのこと。僕は彼の生まれも年令も知らなかったが、自分と7歳しか違わなかったのだと改めて驚いた。「巨匠」のイメージがあったからだ。サルガドが写真を始めたのは遅く、もしかしたら僕の方が先に一眼レフを手にしたのかもしれない。

調べてみると、サルガドの奥さんレリアがペンタックスSPとタクマー50mmF1.4のレンズを購入したのが1970年だという。それがきっかけで写真にのめり込んだサルガドは、29歳(1973年)になって写真家としてスタートし世界的な報道写真家になっていく。1970年かあ、と僕は思う。上京した年である。三年後の1973年早々から、僕は保冷車を作る自動車工場に半年ほどアルバイトとして働き、けっこうな金額を手にした。

ある目的があって金を貯めたのだったが、その目的を果たしても手元に自由に使える金が残り、僕は自分の一眼レフを買うことにしたのだ。その一年ほど前、僕は大学のクラスメイトから名機ニコンFと交換レンズ三本を借りて京都旅行をし、様々な写真を撮っていた。そのクラスメイトは写真に詳しく、自宅に暗室を持っていた。僕は彼から写真について、いろいろ教わっていたのだ。

僕が一眼レフを買う決心をクラスメイトに告げると、彼は「新宿の淀橋浄水場跡の近くに『ヨドバシカメラ』というヘンなカメラ屋があって、そこが東京中で一番安い」と教えてくれた。「窓口だけの店だけどな」と続け、僕の予算で買うならニコマートELかキヤノンFtbあたりがいいだろうと言った。

彼が教えてくれた場所にいくと、何人かの人がひとつの窓の前に並んでいた。店舗はなく、その窓で買いたい機種を告げると値段を教えてくれ、買うことにすると奥から製品を持ってきてくれるのだ。僕が「ニコマートEL」と言うと、店の人は「今、在庫はない」と答えた。「キヤノンFtbは?」と続けると「ニューFtbはある」と言う。僕は「買います」と答えた。

その後、引伸し機や暗室用品を購入するときに、ヨドバシカメラの店舗が別の場所にあるのを知った。そこにはカメラは置いていなくて、写真関係のアクセサリーやフィルム、暗室用品などの売場だった。僕はトライXの長巻フィルムを買ったりするので、頻繁にその店に通うことになった。長巻フィルムをダークバッグの中でカットして詰めるための、空のフィルム・パトローネが店の段ボール箱に山のように入っていて自由にもらえるのだった。

サルガドの経歴を調べていて、つい自分の写真歴を思い出してしまったけれど、ほぼ同じ頃に写真を始めたのだとわかり、雲の上の存在だと思っていたサルガドが身近に感じられてきた。サルガドの写真展を見たのは、もう何十年も前だと思う。たぶん、90年代のことだ。東京都写真美術館での作品展だったはずだ。僕はカメラ雑誌の編集部にいて、様々な写真展を見るのも仕事だった。

サルガドの作品はモノクロームで白黒がはっきりしたコントラストの高いプリントだったが、どの写真もインパクトが凄かった。僕は多くの写真家の作品を見てきたが、あれほど衝撃を受けた写真展はなかった。驚いたのは、南米の金山に群がる半裸の人々の写真だった。僕は労働者たちかと思っていたが、そこで見つけた金は自分のものになるらしかった。彼らはゴールドラッシュに群がる人々だったのだ。

その後、サルガドはアフリカの民族虐殺の現場などを撮影し、やがて地球の動物たちに目を向ける。その写真も衝撃的なものばかりだった。サルガドの死を知った後、ヴィム・ヴェンダースが監督したドキュメンタリー「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」(2015年)をプライムビデオで見たら、サルガドが息子とふたりで北極熊を撮影しているシーンから始まった。初めてその写真家の姿を見たのだが、やはり巨匠に見えた。

僕も写真を続けていれば、もう少しマシなものが撮れただろうか、と思うこともある。しかし、最近は誰もかれもがすぐにスマホを向けて写真を撮る。そんな光景を見ていると、へそ曲がりの僕としてはまったく写真を撮りたくなくなる。だから、ここ二十年で数回しか撮っていない。旅行にいっても記憶に残そうと風景を熟視することはあるが、写真を撮ろうとは思わない。一時期、熱中しすぎたからかもしれない。世の中のすべてのものを一眼レフ・ファインダーを通して見ていた。遠い昔のことだ。

 

 

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