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2016年6月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…731 どんなときにも日常は存在する


【ヒミズ/共喰い/この国の空】

●「ゴチになります」に二階堂ふみが出てきて驚く

少し前、ナインティナインのテレビバラエティ「ゴチになります」を見ていたら、セーラー服を着た二階堂ふみが出演していた。えっ、と思ったが、キャラクターとしては味があるからバラエティには向いているのかもしれない。かみさんは「ゴチになります」が好きらしく昔から見ているけれど、二階堂ふみのことは知らなかったらしい。僕が「映画には、いっぱい出ている人だよ」と説明し、いくつが出演作を挙げた。二階堂ふみは劇場映画にデビューして八年になるが、その間の出演本数は二十本を越え、テレビドラマにもいくつか出演している。まだ二十一歳の女優としては、かなりなハイペースだ。

二階堂ふみのフィルモグラフィを見てみると、「ガマの油」(2008年)が劇場映画デビューだったらしい。「ガマの油」は役所広司の初監督作品で僕も見ているのだが、益岡徹のガマの油売りはよく憶えているのに、二階堂ふみの印象は薄い。主人公の息子(瑛太)の恋人役だった。三年後に出た「ヒミズ」(2011年)のヒロインが強烈だったので、「ガマの油」の役は僕の記憶の中から吹っ飛んだのかもしれない。二階堂ふみは「ヒミズ」で、ベネチア映画祭のマルチェロ・マストロヤンニ賞を染谷将太と共に受賞した。マルチェロ・マストロヤンニ賞は、最優秀新人俳優・新人女優賞の意味合いを持っている。

先日、深夜の対談番組をたまたま見る機会があり、園子温と二階堂ふみが出演していた。二階堂ふみに賞を取らせたのは、「ヒミズ」を監督した園子温であるから、恩師との師弟対談風になっていた。二階堂ふみが「園さん」と繰り返していたのが印象的だった。園子温監督もこのところ絶好調で、一昨年は二本、昨年は四本の劇場映画を撮っている。僕は綾野剛が髪を金髪に染めて新宿歌舞伎町のスカウトマンを熱演した、「新宿スワン」(2014年)をおもしろく見た。ただ、「愛のむきだし」(2008年)を見たときほどの衝撃はない。少し毒が薄まったのだろうか。

「愛のむきだし」を見たときには、満島ひかりと安藤サクラという女優が記憶に残った。その後のふたりの出演作を追いかけて見るほどだった。その結果、最近の日本映画の重要な作品を見逃さずにすんだ。よい女優は、質のよい作品を選ぶのだろう。満島ひかりは映画で注目された結果、テレビドラマの主演も張るようになった。「愛のむきだし」で満島ひかりを世に送り出し、「ヒミズ」で二階堂ふみに注目させる。園子温監督は、女優の才能を見抜く目を持っているのかもしれない。いや、「ヒミズ」では染谷将太という俳優も見出している。その後の染谷将太の出演作もなかなかのラインナップだ。園作品で鍛えられた新人は、どんな現場でも活躍するのだろう。

園子温は俳優を追い込む厳しい監督らしいが、その結果、俳優としての力を認められるのならありがたいことだ。ただし、園監督作品は暴力シーンが頻繁にあるし、グロテスクな血まみれシーンも多い。「ヒミズ」でも染谷将太と父親役の光石研が殴り合うシーンで、監督は「本当に当てろ」と指示したという。染谷将太は「痛い現場だった」と、どこかで語っていた。二階堂ふみは園子温との対談で、「生傷の絶えない現場でしたね」と言っていた。映画を見ると、確かに痛そうではある。ちなみに、その後、光石研は青山真治監督の「共喰い」(2013年)でも暴力的な父親を演じた。無茶苦茶な役だったが、それだけに僕の記憶に刻み込まれた。主人公を演じた菅田将暉もよかったけれど----。

●親から「おまえはいらない」と言われた子供たち

「ヒミズ」は、親から棄てられた子供たちの物語だ。スミダ(染谷将太)の父親は借金を作り家を出ているし、その後、母親は男を作って主人公を棄ててしまう。ある日、戻ってきた父親(光石研)は、息子に向かって「おまえはいらねぇんだ」という言葉を繰り返す。殴る。蹴る。「死んでくれ」とまで口にする。クラスメイトの茶沢景子(二階堂ふみ)は母親から虐待されている。ふたりとも悲惨な十五歳だ。スミダの願いは「普通の平凡な人生を送ること」だが、現実はひとりで家業の川縁のボート屋を営み、孤独な中学生として生きている。

親に棄てられたスミダは川縁のボート小屋で暮らしているのだが、その河原には変わったホームレスたちが住み着いている。彼らとの交流が不思議な世界を作り出す。そんな世界へ、借金を作って蒸発していた父親が帰ってくる。息子を殴り、痛めつけ、金を搾り取ろうとする。そんな絶望的な状況にいるスミダを茶沢は励まし続ける。一方的に慕ってくる茶沢をスミダはうざいと思いながらも、次第に彼女の存在が彼の救いになる。また、親に棄てられたスミダを救おうとするホームレスの男(渡辺哲)もいる。

「ヒミズ」は悲惨な話が続くし、自暴自棄になったスミダが人を刺そうと、包丁を持って街を彷徨するシーンなどはハラハラして見ていられないほどだし、超現実的なシーンもあって、ときどき理解不能に陥ることもあるが、間違いなく傑作である。「ヒミズ」が傑作になっている大きな要素は、主演の新人ふたりの存在だった。マルチェロ・マストロヤンニ賞を、そろって受賞したのは当然だろう。ラストシーン、ある場所に向かってひたすらに走るスミダの横を伴走しながら、「がんばれ、スミダ」と励まし続ける二階堂ふみを見て僕は涙がこぼれた。あのとき、僕は二階堂ふみのファンになったのだ。

以来、昨年の「この国の空」(2015年)まで、十本の出演作を見た。園子温監督の「地獄でなぜ悪い」(2013年)、「四十九日のレシピ」(2013年)、「脳男」(2013年)、「私の男」(2013年)「渇き。」(2014年)があり、昨年は「味園ユニバース」(2015年)、「ジヌよさらば~かむろば村へ~」(2015年)などがある。多彩なフィルモグラフィだ。「私の男」では浅野忠信を相手にして一歩も引かず、「渇き。」では再び役所広司と渡り合い、「この国の空」では三十八の男(長谷川博巳)を相手にして処女の初々しさを見せた。今年公開になった「蜜のあわれ」では、老作家(大杉漣)を相手にコケテッシュな魅力を発揮している。

●戦争末期の東京の日常には空襲も組み込まれている

「この国の空」は「身も心も」(1997年)以来、十八年ぶりにシナリオライター荒井晴彦が監督した作品だ。「身も心も」には、おそらく全共闘世代である荒井晴彦自身の体験や心情が仮託されていたのだろうが、今回は戦中世代の高井有一の小説を映画化した。「この国の空」は、一九八三年に出版された小説である。高井有一は、古井由吉などと一緒に「内向の世代」と言われる文学世代でもある。終戦時は十三歳。古井由吉も空襲の記憶を小説やエッセイで書いているが、十代が終戦時期に重なり空襲の記憶が鮮明な世代だ。

映画は、「昭和二十年 東京・杉並」というタイトルから始まる。夜、雨戸の閉まった民家がある。庭には防空壕。雨が降っている。メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」が幽かに聞こえてくる。雨が防空壕に流れ込んでいる。翌朝、水の溜まった防空壕を前に、呆然としている母(工藤夕貴)と里子(二階堂ふみ)がいる。隣の民家の雨戸を浴衣姿の市毛(長谷川博巳)が開け、ふたりに「どうしました?」と訊く。ふたりが防空壕のことを言うと、「うちのを使えばいい。妻子を疎開させて、ひとりでこんなところに入りたくないし」と独り言のように言う。

十九歳の里子は、挺身隊逃れのために町会の事務員として働いている。転入や転出の手続き、疎開に出る人のための書類作りなど、細かなことが描かれていく。当時、東京への転入は認められなかったこと、高齢者の疎開希望は通りやすいが、壮年の男は認められなかったことなども描かれる。横浜で焼け出された伯母(富田靖子)が里子の家に転がり込んでくるが、転入が認められないので配給を受けられない。配給がなければ、伯母の食事がまかなえないのだ。そうした、細々とした戦争中の日常が描かれる。里子が「ルーズベルトが死んだそうだわ」と言うセリフがあるから、四月下旬のことだろう。

八月十四日の夜がラストシーンになる。そこに至る、戦争末期の四ヶ月が描かれる。毎日のように空襲があったが、そんな状況の中でも人々は生きていたし、日常生活は続いていく。作品の狙いは、戦争末期の人々の日常を描くことである。市毛は見たところ身体も病弱ではなさそうだが、検査が丙種だったために兵役を逃れている。勤めは銀行で、「近々、金融機関の人間は移動を禁じられるという話です。都市機能をマヒさせないためだとか」と里子に言う。ヴァイオリンを弾く優男だが、理知的で落ち着いた話し方をする。若い男などひとりもいない。落ち着いた中年男に、次第に里子が惹かれていくのは理解できる。里子の視線、仕草などが、少しずつ変わっていく。

ある日、里子は市毛から「宿直で家を空けることが増えるから、ときどき家に風を通してくれませんか」と勝手口の鍵を預かる。風を通しに市毛の家に入った里子は、積もったホコリが気になって掃除を始める。そして、市毛の寝室に敷かれたままの寝床を見つける。敷布も乱れたままだ。脱ぎっぱなしの浴衣がある。里子は、枕に顔を近づける。市毛の体臭が、男を知らない里子を刺激する。官能的である。二階堂ふみは、若いわりに官能的な役の多い人だ。桜庭一樹の直木賞受賞作を映画化した「私の男」もそうだった。

以前、「限りなき日常を生きる」というタイトルでコラムを書いたことがある。日常生活というのは不思議なものだ。異常なことでも、それが続けば日常になる。戦争末期の東京の日常には、空襲も組み込まれている。人々は、空襲にさえ馴れてしまうのか。「この国の空」を見ていると、「空襲」や「焼け出された人」「死んだ人々」「新型爆弾」などが日常会話として交わされる。そんな日常で、里子の一番の関心は隣の市毛のことである。戦争中だって、恋愛はする。男の匂いにときめき、心を熱くし、体を火照らせる。そんな、当たり前のことを当たり前のように二階堂ふみは演じた。

わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから 青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ

「この国の空」は、最後のクレジットタイトルが流れる画面に二階堂ふみが朗読する詩が流れる。戦後詩の名作として有名な茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」である。それを聞きながら、僕は「荒井晴彦は、若い頃に思潮社現代詩文庫を愛読したのではないか」と思った。荒井監督は、「身も心も」(吉野弘に同タイトルの詩がある)のときには、柄本明に長田弘の「クリストファーよ、僕たちはどこにいるのか」を朗読させた。「あれは金曜日だったと思う 疲労が大きなポピーの花束のように きみの精神の死を飾っていた日だ」という最初のフレーズを僕は暗誦できる。そのフレーズがスクリーンから聞こえてきたのだった。僕は、その長い引用を柄本明と共に口ずさんでいた。

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