« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »

2016年6月

2016年6月30日 (木)

■映画と夜と音楽と…733 五十年後のセクシー女優


【刑事/家族の灯り/熊座の淡き星影】

●三船敏郎が「御意」の代わりに「グラッチェ」と言った

ピエトロ・ジェルミ監督主演のイタリア映画「刑事」(1959年)を見ていたら、やたらに「グラッチェ」と言うのに今更のように気付いた。買い物していて「グラッチェ」、道を歩いているときも「グラッチェ」である。「はい」と答えるべきシチュエーションだろうと思うときも「グラッチェ」だった。それは、どんなときでも使える便利な言葉のようだ。日本語では「ありがとう」の意味だと思っていたが、どちらかと言えば「どうも」に近いのではないか。

村上春樹さんのエッセイ集「遠い太鼓」だと記憶しているが、ローマで暮らしている頃、テレビで黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」(1958年)をイタリア語の吹き替えで放映していたという。護衛している姫に向かって三船敏郎が「御意」と答えたとき、イタリア語では「グラッチェ」と吹き替えていたという話を読んで笑った。「御意」を現代の日本語に置き換えると、「おおせのままに(おっしゃるとおりに)」という感じだろうか。イタリア語の「グラッチェ」とは、少しニュアンスが違うと思っていた。

しかし、「刑事」での「グラッチェ」の多彩な使用法を聞いていたら、「グラッチェ」がやはり一番適しているとイタリアの翻訳者は考えたのだろうと思った。もっとも、「御意」を英語で「サンキュー・サー」と訳したら、違和感を感じるだろう。そう思ったのだが、「イエス・サー、サンキュー・サー」と答える新兵の声が突然に頭の中に浮かんできて、それでもいいのかなという気がしてきた。

新兵たちが「イエス・サー、サンキュー・サー」と直立不動で声をそろえて答えるのは、スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」(1987年)だった。ベトナム戦争たけなわの頃、徴兵された青年たちは教官に徹底的に鍛えられる。いや、しごかれるといった方が適切か。彼らは人間扱いされない。教官の口から出るのは、卑語と罵倒だけだ。それでも、彼らは「イエス・サー、サンキュー・サー」と答え続ける。反論は許されない。パワー・ハラスメントそのものである。

最近、上司による罵倒などのパワー・ハラスメントで自殺したとして訴えられたという記事をよく見かける。セクシャル・ハラスメントが「セクハラ」として定着した現在、僕がいた職場でも女性に対する物言いには気を使うようになっていたが、それは出版社だったからかもしれない。未だに前近代的な職場は存在するらしい。僕がいた出版社はパワー・ハラスメントにも気をつけていたのか、部下を怒鳴ったりする人は(僕を除いて)いなかった。仕事の指示、ミスの指摘など、上司がやけに部下に気遣いしていた気もする。

アメリカ人は上官に罵倒されても「イエス・サー、サンキュー・サー」と言うのなら、上司に怒鳴られても同じように答えるのだろうか。イタリア人は「グラッチェ」なのだろうか。日本人は、やはり「どうも----」かもしれない。「どうも」は実に曖昧だが、便利な言葉だ。お葬式にいって「このたびはどうも----」と語尾を曖昧にするとあいさつになる。「ニッポン無責任時代」(1962年)の植木等のように「いやー、どうもどうも」と言えば笑ってごまかせるし、お祝いにも使える。何かやってもらったときに「どうも」と言えばお礼の言葉にもなる。

●五十五年のキャリアを持つイタリアのセクシー女優

久しぶりに「刑事」を見たのは、クラウディア・カルディナーレの若い頃を確認したかったからだ。「刑事」のラストシーンで、クラウディア・カルディナーレは日本の観客の心をつかんだ。そのシーンに流れる「アモーレ、アモーレ、アモレ・ミーオ」とアリダ・ケッリ(作曲したカルロ・ルスティケリの娘)が唄う主題歌「死ぬほど愛して」も大ヒットした。「アモーレ」は、最近、サッカーの人気選手が「恋人のことです」と口にして以来、話題になっているイタリア語のようだが、「刑事」の場合は「愛して、愛して、私を愛して」と訳すべきだろう。

「刑事」が大ヒットして、クラウディア・カルディナーレはマリリン・モンローが「MM」と呼ばれるのと同じように、「CC」と呼ばれるようになった。当時、「BB」と呼ばれたフランスの若手人気女優ブリジット・バルドーもいたのだが、こちらはフランス語読みで「べべ」と発音し、「赤ちゃん」の意味である。どちらにしろ、マリリン・モンロー、ブリジット・バルドーと並んで、クラウディア・カルディナーレもセクシー女優として認知された証が「CC」の名称だったのだ。

ところで、クラウディア・カルディナーレの若い頃を確認したくなったのは、ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ監督の「家族の灯り」(2012年)を見たからだった。オリヴェイラ監督は、この映画の制作時は一〇三歳である。現役監督の最長老記録を塗り替え続けていた。「家族の灯り」はオリヴェイラ監督らしい画面作りで、ワンシーンワンシーンがまるで西洋絵画のようだった。冒頭、港町の街灯に火を点けてまわる男の登場から、不思議な世界に引き込まれる。

ガス灯に火が点けられていくのを、部屋の窓から見ている女性がいる。そこから物語が始まるのだが、最初はその家の人間関係がよくわからない。オリヴェイラ作品は説明的ではないので、初めて見る人は戸惑うかもしれない。ただし、深みのある映像とゆったりと物語られるリズムに身を任せれば、オリヴェイラ監督の世界になじめるだろう。「家族の灯り」はポルトガルの作家が書いた戯曲が原作になっているらしい。

その老主人公の妻を演じていたのが、当時、七十四歳になるクラウディア・カルディナーレだった。二十歳くらいから映画に出ているから、その頃でキャリアはすでに五十年を越えていた。その後も「ローマ発、しあわせ行き」(2015年)に出ているので、五十五年の女優としてのキャリアである。「家族の灯り」にはフランスの大女優ジャンヌ・モロー(当時八十八歳、キャリア六十四年)も出ているので、ふたり合わせると(何の意味もないけれど)女優歴は百二十年近くになる。

そのふたりの女優も、一〇三歳のオリヴェイラ監督から見れば、娘の世代である。監督と女優ふたりの年齢を合計すると(何の意味もないけれど)二六一歳になる。それだけでも「何だかスゴいなあ」という感慨が湧いてくる。ジャンヌ・モローは一九二八年生まれ。日本だと昭和三年である。クラウディア・カルディナーレは一九三八年生まれだから、日本の昭和十三年になり、日華事変が始まった翌年になる。日本で彼女に匹敵するキャリアを持つ映画女優(かつてはセクシー系の女優)は思いつかない。

●ギリシャ悲劇を下敷きにした美しい姉と弟の物語

クラウディア・カルディナーレはイタリア出身で、フランス映画にも多く出たし、ハリウッドにも呼ばれて何本も出演しているが、ハリウッド映画ではお色気担当みたいな役ばかりだった。当時の(今でも?)アメリカ男はグラマーなセクシー女優は、頭が空っぽだと思っていたに違いない。バスト一メートルを超えていたジェーン・マンスフィールドはIQが相当に高かったが、間抜けな巨乳美人の役ばかりやらされた。クラウディア・カルディナーレもクルーゾー警部で有名になった「ピンクの豹」(1963年)、四人のプロが集まる西部劇「プロフェッショナル」(1966年)などで肌の露出の多い役ばかり演じた。

しかし、それらの映画の間に彼女はイタリアに戻り、重要な作品を数多く残している。ルキノ・ヴィスコンティ監督と組んだのは、「山猫」(1963年)と「熊座の淡き星影」(1965年)である。また、ジョージ・チャキリスと共演した代表作「ブーベの恋人」(1963年)があり、フェデリコ・フェリーニ監督の「81/2」では、主人公の映画監督グイド(フェリーニ自身と思えばいい)が崇める女優として彼女自身のような役を演じている。すべて、彼女が二十代のときの作品だ。

「山猫」「ブーベの恋人」「81/2」はヒットしたし、映画史的にも定着していて名作として残っているが、ビスコンティ作品の中でもあまり語られることがない「熊座の淡き星影」は、モノクロームの(特に夜の)映像が美しく僕の記憶に鮮明に残っている作品だ。もっとも、物語の方はギリシャ悲劇「エレクトラ」を下敷きにしたものという記憶しかない。美しい姉と強い精神的な結びつきを持つ弟の悲劇だった。ギリシャ悲劇の多くがそうであるように、近親相姦がテーマのひとつになっている。

その物語を現代に移しているのだが、ビスコンティ作品ならではの格調の高さが魅力的だ。古いイタリヤの屋敷。広々とした夜の庭での姉と弟の会話。現代劇でありながら、普遍的で神話的な作品になった。この作品で最も重要なのは、姉を演じるクラウディア・カルディナーレの美しさだ。このとき、彼女は二十代半ば。その美しさの絶頂にあった。女優としても世界的に認められ、演技も評価されている。その自信が、ヒロインのサンドラをオーラのように包み込む。美しく輝かせる。弟の目には、女神のように映る。

母と再婚相手の義父が、かつて密告して父を逮捕させたのではないか、というハムレット的な疑惑も全編を覆うミステリアスな雰囲気を醸し出す。セリフも抽象的で、ときに観念的であり、僕は若い頃に見たので、すっかりまいってしまった。当時、若者たちは難解であることを最も評価したし、僕も例外ではなかった。ただ、二十年以上経って見たときも、その難解さと抽象性にぞくぞくするような魅力を感じたので、やはりビスコンティの難解さは本物だと思ったものだった。本音では、美しさの頂点にあったクラウディア・カルディナーレを見たかっただけかもしれないのだけれど----。

しかし、ММことマリリン・モンローが早くに謎の死を遂げ、BBことブリジット・バルドーが四十代で事実上引退してしまった今、CCことクラウディア・カルディナーレだけが現役を続けている。前述のように二十代での代表作はたくさんあるし、三十代では「ラ・スクムーン」(1972年)や「家族の肖像」(1974年)があり、四十代には「フィツカラルド」(1982年)があり、そして、七十代で「家族の灯り」がある。こうなれば、オリヴェイラ監督にならって、現役女優の最高齢記録を期待したいものだ。

2016年6月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…732 ふたりの女優が死んだ


【兄貴の恋人/暗黒街の顔役/竜馬暗殺/恋人たちは濡れた】

●ひとりは七十九歳で心不全、ひとりは六十七歳で肺ガンだった

六月十四日、ふたりの女優が死んだ。ひとりは七十九歳で、心不全。ひとりは六十七歳で、肺ガンだった。ひとりは、気品のある美しい女優で「日本のグレース・ケリー」とさえ呼ばれたことがあった。その死は、多くのニュース番組で取り上げられ、主演ドラマを持つ後輩の人気女優たちがその人柄を忍んだ。四年前に死別した二枚目俳優だった夫との、おしどり夫婦ぶりを示す映像も流れた。ふたりの間にできた娘が人気歌手と結婚したときのインタビューも流れ、仲睦まじさが懐かしがられた。彼女は若いときに入浴シーンを演じているが、それはほんの少し肌を露出するだけのものだった。五〇年代にデビューした女優だ。映画の表現もつつましいものだった。

もうひとりは前張りをつけて大胆なヌードになり、扇情的なセックスシーンを演じることで、主演を勝ち取った女優だった。大手五社に数えられた映画会社が経営難に陥り、背に腹は替えられない思いで始めたポルノ映画がなければ、彼女が観客たちの記憶に残ることはなかっただろう。しかし、十八歳以上しか見ることができなかった作品で注目された彼女は、アートシアター・ギルド(ATG)で制作した黒木和雄監督作品「竜馬暗殺」で原田芳雄、石橋蓮司、松田優作というクセモノ俳優陣を相手に印象的な役を演じ、映画ファンの記憶に刻み込まれた。

ふたりの女優は、デビューに十数年の差はあったが、同じ映画会社に所属し、六〇年代末の同じ時期に同じ撮影所で同じ人気俳優の主演映画に脇役として出演していた。グレース・ケリーのような気品さえ漂わせる美人女優は、当時のアイドル女優だった内藤洋子が妹を演じる加山雄三主演の「兄貴の恋人」(1968年)の中で、主人公に好意を寄せる年上のバーのママを上品に演じた。後にポルノ女優と呼ばれることになるもうひとりの女優は、学生ではもう通用しなくなった加山雄三が新入社員を演じる「フレッシュマン若大将」(1969年)に出演しているが、どこに出ていたかさえ僕の記憶にはない。

気品あふれる女優は、白川由美といった。もうひとりは、中川梨絵という名だった。テレビドラマに多く出た白川由美は多くの人が知っているだろうが、中川梨絵の名を知る世代は限られるし、その世代でも限られた人しか知らないだろう。おそらく女性より、男性の認知度の方が高いに違いない。「兄貴の恋人」のとき、白川由美は三十二歳だった。「フレッシュマン若大将」のとき、中川梨絵は二十一歳だった。ふたりは、ちょうどひとまわりの年の差があったのだ。白川由美は七十九年の人生の時間を生き、中川梨絵はその十二年分短い人生を生きた。

メディアによる訃報の扱い方を見ても、ふたりの人生の違いは大きい。白川由美の訃報は、夕方のニュースでも数分間も流れた。八〇年代以降、テレビに活躍の場を移した彼女は、「家政婦のミタ」「ドクターX」などに出演し、そのドラマでの映像も放映されたし、二谷英明との映像も「おしどり夫婦」として放映され、主演作のほとんどなかった女優としては、破格の扱いだった。中川梨絵の訃報は、新聞の片隅にほんの数行で告知されただけだった。「日活ロマンポルノ初期の女優」と書かれていた。もちろん、どちらの人生がよかったとか、幸せだったという問題ではない。それぞれの個別の人生を比べることなど、ナンセンスだ。

人は、自分の人生を生きるしかないのだ。別の人生を望むこともあるだろうし、ありたかった人生を夢見続けることもあるだろう。しかし、人は与えられた人生、与えられた時間の中で生きるしかない。いつ死ぬかは、ほとんどの場合わかってはいないし、未来に何が起こるかは予測できない。だから、自分の人生の中で努力し続ける他に「生き方」はない。違う人生を夢見てもむなしいし、たどってきた人生に「if」は存在しない。

●残念だが白川由美主演と言える映画を見たことがない

僕の手元に竹書房から発行された「ゴジラ画報 東宝幻想映画半世紀の歩み」というムックがある。映画のスチルがふんだんに掲載されている。一九九三年十二月の奥付である。「ゴジラ」(1954年)に始まる東宝の怪獣・怪奇・SF・ファンタジー路線は、様々な傑作・名作・怪作を生んだ。それらの映画には、必ず紅一点的な役として清純タイプの女優が登場した。「ゴジラ」の場合は、古生物学の権威である山根博士の娘として登場する河内桃子である。「空の大怪獣 ラドン」(1956年)で紅一点的な役を担ったのは、デビューしたばかりの二十歳の白川由美だった。

僕が最初に見た怪獣映画は「ラドン」だった。阿蘇の噴火口から飛び立つラドンの姿しか記憶にないが、五歳の少年にそんなイメージを刻み込んだのだから印象深い映画だったのは間違いない。その映画の白川由美を僕が記憶しているわけはないのだけれど、スチルで確認する限り、すでにあの知的な美しい顔が完成している。そう、白川由美はデビュー当時の写真を見ても、最後の出演作になったドラマのワンシーンを見ても驚くほど変わっていない。知的で、若い頃から大人びて、美しい。

その後、白川由美は、「地球防衛軍」(1957年)「美女と液体人間」(1958年)「電送人間」(1960年)「妖星ゴラス」(1961年)といった一連のSF映画にも出演するが、「サラリーマン出世太閤記」(1957年)シリーズや「大当たり狸御殿」(1958年)といった東宝明朗喜劇路線でも便利に使われる。文芸作品や女性映画とは、あまり縁がなかった。同世代の司葉子、後輩の星由里子といった女優たちが主演作を撮り始めても、相変わらず脇で便利に使われていた。

その頃の作品で僕が好きなのは、岡本喜八監督の「暗黒街の顔役」(1959年)だ。鶴田浩二、宝田明、三船敏郎が出演するアクション映画である。女優陣は、白川由美、草笛光子、柳川慶子などである。白川由美は主要な役ではあるけれど、男たちの闘いを描く作品だから女優たちは添えもの的になるのは仕方がないのかもしれない。鶴田浩二が「三十年のバカ騒ぎか」と言いながら、悪玉を追ってオープンカーを吹っ飛ばすのは、確かこの映画だったと思う。

僕の印象では、東宝時代の白川由美は、どうも添えもの的なポジションから抜けきらなかった気がする。司葉子が「その場所に女ありて」(1962年)で宝田明を脇役にして堂々の主演を張ったり、他社(松竹)での仕事ながら「紀ノ川」(1966年)という女性文芸作品に主演したり、ファニーフェイスと呼ばれた団令子が女優開眼した「女体」(1964年)に出たような、いわゆる代表作には恵まれなかった。もちろん数多い彼女の出演作をすべて見ているわけではないから、断言はできないのではあるけれど----。

●中川梨絵を思い出すと浮かんでくる二本の映画がある

中川梨絵は、二本の作品で映画ファンの記憶に残り続ける存在になった。いつの間にか映画界からフェードアウトし、ほとんど姿を見ることもなくなったけれど、「竜馬暗殺」を思い出すと中川梨絵の姿が浮かんでくるし、「恋人たちは濡れた」(1973年)の全裸で馬跳びをする姿、自転車に乗ったまま海に消えていくラストシーンが鮮明に浮かんでくる。彼女の一本を挙げるとすれば、「恋人たちは濡れた」になるだろう。神代辰巳の四作目の監督作品である。

田中小実昌の小説を映画化した「かぶりつき人生」(1968年)で監督デビューした神代辰巳は、日活がロマンポルノ路線になる前から性的なものをテーマにする監督だった。「かぶりつき人生」は、ストリップのダンサーとヒモと客たちの話である。すでに四十を過ぎていた神代辰巳だったが、それまでは人気女優だった島崎雪子と結婚した助監督としての方が業界では有名だったかもしれない。その神代辰巳が作品を立て続けに作り始めるのは、ロマンポルノ路線がスタートしてからだった。

一九七一年秋にスタートしたロマンポルノは、初期の過激な作品が猥褻だとして警視庁に挙げられた結果、世の中の話題を集めた。田中真理、白川和子、片桐夕子などが初期の女優たちだった。翌年、神代辰巳の活躍が始まる。その年だけで「濡れた唇」「一条さゆり 濡れた欲情」を監督し、「白い指の戯れ」の脚本を書いた。「白い指の戯れ」はスリの物語で、主人公を荒木一郎が演じアンニュイな雰囲気を漂わせた。ほっぺたの膨れた伊佐山ひろ子がデビューし、鮮烈な印象を残した。監督デビューした村川透は、後に松田優作と組んで「遊技シリーズ」などで人気を博した。

神代辰巳の活躍は続いた。一九七三年には「恋人たちは濡れた」に始まり、四本の作品を監督した。一九七四年は東宝で撮った萩原健一主演の「青春の蹉跌」を含め六本も監督している。さらに、テレビシリーズ「傷だらけの天使」の演出も担当した。もっとも、池部良と荒砂ゆきがゲスト出演した神代監督のエピソードはセックス描写が当時のテレビとしては過激すぎて、再放送では放映されることがなかった。深作欣二が演出し室田日出男と中山麻里がゲスト出演したエピソードが、ストリッパーを演じた中山麻里はほとんど裸だったにもかかわらず、再放送でも問題なく放映されているというのに----。

その初期の神代作品で若者たちの共感を呼んだのが、「恋人たちは濡れた」だった。その評判を聞き、名画座に追いかけて「恋人たちは濡れた」を僕が見たのは、大学三年の冬のことだった。主人公の若者は、海の近くの町に流れ着く。港には漁船が係留されている。その町の映画館に職を得る。場末の映画館といった、わびしいたたずまいだ。自転車にフィルムを積んで運んだり、映写の手伝いをしたりする。町で会った男たちに「久しぶりだな。帰ってきたのか」と声をかけられるが、青年は何のことかわからないという顔をする。このあたり、観念的で不条理な雰囲気である。

しかし、「恋人たちは濡れた」のストーリーを語っても、実は意味がない。これは、感じる映画だし、それは時代の空気と共に見るべき映画だった。だから、今の僕が見て、あのときと同じように受け取ることはないだろう。フラフラと何をしたいのかわからない主人公の姿が描かれ、シラケていた時代を反映する。歌謡曲を口ずさみながら自転車でぐるぐるまわっているだけの映像が続くし、三人の男女が馬跳びを延々と繰り返したりする。全裸で馬跳びをやっているのが、異常とは思えなくなる。心の中の間隙を自覚し、不安と焦燥を抱えていた二十二歳の僕だったから、そんな登場人物の倦怠に鋭く反応した。

昨年、ある名画座で「恋人たちは濡れた」の上映に際して、中川梨絵のトークショーが開催されたという。そのときのトークの内容をネットで知って、僕は安堵感を抱いた。そこには、自身の女優としてのキャリアに誇りを持つ六十六歳の女性がいた。神代辰巳監督についてや、自身が出た十本のロマンポルノ作品について懐かしそうに語っていた。加藤彰や田中登という懐かしい監督の名前も出てきた。藤田敏八監督を含め、彼女の日活時代は監督に恵まれていた。四十年前を、そのように懐かしめるのは幸せな人生だと思う。

2016年6月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…731 どんなときにも日常は存在する


【ヒミズ/共喰い/この国の空】

●「ゴチになります」に二階堂ふみが出てきて驚く

少し前、ナインティナインのテレビバラエティ「ゴチになります」を見ていたら、セーラー服を着た二階堂ふみが出演していた。えっ、と思ったが、キャラクターとしては味があるからバラエティには向いているのかもしれない。かみさんは「ゴチになります」が好きらしく昔から見ているけれど、二階堂ふみのことは知らなかったらしい。僕が「映画には、いっぱい出ている人だよ」と説明し、いくつが出演作を挙げた。二階堂ふみは劇場映画にデビューして八年になるが、その間の出演本数は二十本を越え、テレビドラマにもいくつか出演している。まだ二十一歳の女優としては、かなりなハイペースだ。

二階堂ふみのフィルモグラフィを見てみると、「ガマの油」(2008年)が劇場映画デビューだったらしい。「ガマの油」は役所広司の初監督作品で僕も見ているのだが、益岡徹のガマの油売りはよく憶えているのに、二階堂ふみの印象は薄い。主人公の息子(瑛太)の恋人役だった。三年後に出た「ヒミズ」(2011年)のヒロインが強烈だったので、「ガマの油」の役は僕の記憶の中から吹っ飛んだのかもしれない。二階堂ふみは「ヒミズ」で、ベネチア映画祭のマルチェロ・マストロヤンニ賞を染谷将太と共に受賞した。マルチェロ・マストロヤンニ賞は、最優秀新人俳優・新人女優賞の意味合いを持っている。

先日、深夜の対談番組をたまたま見る機会があり、園子温と二階堂ふみが出演していた。二階堂ふみに賞を取らせたのは、「ヒミズ」を監督した園子温であるから、恩師との師弟対談風になっていた。二階堂ふみが「園さん」と繰り返していたのが印象的だった。園子温監督もこのところ絶好調で、一昨年は二本、昨年は四本の劇場映画を撮っている。僕は綾野剛が髪を金髪に染めて新宿歌舞伎町のスカウトマンを熱演した、「新宿スワン」(2014年)をおもしろく見た。ただ、「愛のむきだし」(2008年)を見たときほどの衝撃はない。少し毒が薄まったのだろうか。

「愛のむきだし」を見たときには、満島ひかりと安藤サクラという女優が記憶に残った。その後のふたりの出演作を追いかけて見るほどだった。その結果、最近の日本映画の重要な作品を見逃さずにすんだ。よい女優は、質のよい作品を選ぶのだろう。満島ひかりは映画で注目された結果、テレビドラマの主演も張るようになった。「愛のむきだし」で満島ひかりを世に送り出し、「ヒミズ」で二階堂ふみに注目させる。園子温監督は、女優の才能を見抜く目を持っているのかもしれない。いや、「ヒミズ」では染谷将太という俳優も見出している。その後の染谷将太の出演作もなかなかのラインナップだ。園作品で鍛えられた新人は、どんな現場でも活躍するのだろう。

園子温は俳優を追い込む厳しい監督らしいが、その結果、俳優としての力を認められるのならありがたいことだ。ただし、園監督作品は暴力シーンが頻繁にあるし、グロテスクな血まみれシーンも多い。「ヒミズ」でも染谷将太と父親役の光石研が殴り合うシーンで、監督は「本当に当てろ」と指示したという。染谷将太は「痛い現場だった」と、どこかで語っていた。二階堂ふみは園子温との対談で、「生傷の絶えない現場でしたね」と言っていた。映画を見ると、確かに痛そうではある。ちなみに、その後、光石研は青山真治監督の「共喰い」(2013年)でも暴力的な父親を演じた。無茶苦茶な役だったが、それだけに僕の記憶に刻み込まれた。主人公を演じた菅田将暉もよかったけれど----。

●親から「おまえはいらない」と言われた子供たち

「ヒミズ」は、親から棄てられた子供たちの物語だ。スミダ(染谷将太)の父親は借金を作り家を出ているし、その後、母親は男を作って主人公を棄ててしまう。ある日、戻ってきた父親(光石研)は、息子に向かって「おまえはいらねぇんだ」という言葉を繰り返す。殴る。蹴る。「死んでくれ」とまで口にする。クラスメイトの茶沢景子(二階堂ふみ)は母親から虐待されている。ふたりとも悲惨な十五歳だ。スミダの願いは「普通の平凡な人生を送ること」だが、現実はひとりで家業の川縁のボート屋を営み、孤独な中学生として生きている。

親に棄てられたスミダは川縁のボート小屋で暮らしているのだが、その河原には変わったホームレスたちが住み着いている。彼らとの交流が不思議な世界を作り出す。そんな世界へ、借金を作って蒸発していた父親が帰ってくる。息子を殴り、痛めつけ、金を搾り取ろうとする。そんな絶望的な状況にいるスミダを茶沢は励まし続ける。一方的に慕ってくる茶沢をスミダはうざいと思いながらも、次第に彼女の存在が彼の救いになる。また、親に棄てられたスミダを救おうとするホームレスの男(渡辺哲)もいる。

「ヒミズ」は悲惨な話が続くし、自暴自棄になったスミダが人を刺そうと、包丁を持って街を彷徨するシーンなどはハラハラして見ていられないほどだし、超現実的なシーンもあって、ときどき理解不能に陥ることもあるが、間違いなく傑作である。「ヒミズ」が傑作になっている大きな要素は、主演の新人ふたりの存在だった。マルチェロ・マストロヤンニ賞を、そろって受賞したのは当然だろう。ラストシーン、ある場所に向かってひたすらに走るスミダの横を伴走しながら、「がんばれ、スミダ」と励まし続ける二階堂ふみを見て僕は涙がこぼれた。あのとき、僕は二階堂ふみのファンになったのだ。

以来、昨年の「この国の空」(2015年)まで、十本の出演作を見た。園子温監督の「地獄でなぜ悪い」(2013年)、「四十九日のレシピ」(2013年)、「脳男」(2013年)、「私の男」(2013年)「渇き。」(2014年)があり、昨年は「味園ユニバース」(2015年)、「ジヌよさらば~かむろば村へ~」(2015年)などがある。多彩なフィルモグラフィだ。「私の男」では浅野忠信を相手にして一歩も引かず、「渇き。」では再び役所広司と渡り合い、「この国の空」では三十八の男(長谷川博巳)を相手にして処女の初々しさを見せた。今年公開になった「蜜のあわれ」では、老作家(大杉漣)を相手にコケテッシュな魅力を発揮している。

●戦争末期の東京の日常には空襲も組み込まれている

「この国の空」は「身も心も」(1997年)以来、十八年ぶりにシナリオライター荒井晴彦が監督した作品だ。「身も心も」には、おそらく全共闘世代である荒井晴彦自身の体験や心情が仮託されていたのだろうが、今回は戦中世代の高井有一の小説を映画化した。「この国の空」は、一九八三年に出版された小説である。高井有一は、古井由吉などと一緒に「内向の世代」と言われる文学世代でもある。終戦時は十三歳。古井由吉も空襲の記憶を小説やエッセイで書いているが、十代が終戦時期に重なり空襲の記憶が鮮明な世代だ。

映画は、「昭和二十年 東京・杉並」というタイトルから始まる。夜、雨戸の閉まった民家がある。庭には防空壕。雨が降っている。メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」が幽かに聞こえてくる。雨が防空壕に流れ込んでいる。翌朝、水の溜まった防空壕を前に、呆然としている母(工藤夕貴)と里子(二階堂ふみ)がいる。隣の民家の雨戸を浴衣姿の市毛(長谷川博巳)が開け、ふたりに「どうしました?」と訊く。ふたりが防空壕のことを言うと、「うちのを使えばいい。妻子を疎開させて、ひとりでこんなところに入りたくないし」と独り言のように言う。

十九歳の里子は、挺身隊逃れのために町会の事務員として働いている。転入や転出の手続き、疎開に出る人のための書類作りなど、細かなことが描かれていく。当時、東京への転入は認められなかったこと、高齢者の疎開希望は通りやすいが、壮年の男は認められなかったことなども描かれる。横浜で焼け出された伯母(富田靖子)が里子の家に転がり込んでくるが、転入が認められないので配給を受けられない。配給がなければ、伯母の食事がまかなえないのだ。そうした、細々とした戦争中の日常が描かれる。里子が「ルーズベルトが死んだそうだわ」と言うセリフがあるから、四月下旬のことだろう。

八月十四日の夜がラストシーンになる。そこに至る、戦争末期の四ヶ月が描かれる。毎日のように空襲があったが、そんな状況の中でも人々は生きていたし、日常生活は続いていく。作品の狙いは、戦争末期の人々の日常を描くことである。市毛は見たところ身体も病弱ではなさそうだが、検査が丙種だったために兵役を逃れている。勤めは銀行で、「近々、金融機関の人間は移動を禁じられるという話です。都市機能をマヒさせないためだとか」と里子に言う。ヴァイオリンを弾く優男だが、理知的で落ち着いた話し方をする。若い男などひとりもいない。落ち着いた中年男に、次第に里子が惹かれていくのは理解できる。里子の視線、仕草などが、少しずつ変わっていく。

ある日、里子は市毛から「宿直で家を空けることが増えるから、ときどき家に風を通してくれませんか」と勝手口の鍵を預かる。風を通しに市毛の家に入った里子は、積もったホコリが気になって掃除を始める。そして、市毛の寝室に敷かれたままの寝床を見つける。敷布も乱れたままだ。脱ぎっぱなしの浴衣がある。里子は、枕に顔を近づける。市毛の体臭が、男を知らない里子を刺激する。官能的である。二階堂ふみは、若いわりに官能的な役の多い人だ。桜庭一樹の直木賞受賞作を映画化した「私の男」もそうだった。

以前、「限りなき日常を生きる」というタイトルでコラムを書いたことがある。日常生活というのは不思議なものだ。異常なことでも、それが続けば日常になる。戦争末期の東京の日常には、空襲も組み込まれている。人々は、空襲にさえ馴れてしまうのか。「この国の空」を見ていると、「空襲」や「焼け出された人」「死んだ人々」「新型爆弾」などが日常会話として交わされる。そんな日常で、里子の一番の関心は隣の市毛のことである。戦争中だって、恋愛はする。男の匂いにときめき、心を熱くし、体を火照らせる。そんな、当たり前のことを当たり前のように二階堂ふみは演じた。

わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから 青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ

「この国の空」は、最後のクレジットタイトルが流れる画面に二階堂ふみが朗読する詩が流れる。戦後詩の名作として有名な茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」である。それを聞きながら、僕は「荒井晴彦は、若い頃に思潮社現代詩文庫を愛読したのではないか」と思った。荒井監督は、「身も心も」(吉野弘に同タイトルの詩がある)のときには、柄本明に長田弘の「クリストファーよ、僕たちはどこにいるのか」を朗読させた。「あれは金曜日だったと思う 疲労が大きなポピーの花束のように きみの精神の死を飾っていた日だ」という最初のフレーズを僕は暗誦できる。そのフレーズがスクリーンから聞こえてきたのだった。僕は、その長い引用を柄本明と共に口ずさんでいた。

2016年6月 9日 (木)

■映画と夜と音楽と…730 怒りは静かに燃やせ


【ランボー 怒りの脱出/ランボー3 怒りのアフガン/怒りを込めてふり返れ/怒りの葡萄】

●感じやすいために恨んだり悔やんだりする気持ちが多い

このコラムを始めた頃だから、もう十七年近く前になる。当時はけっこう読者からメールをもらったが、その中に「なんて理屈っぽいことを書く人だろうと思いました」というものがあった。自分ではまったく理屈っぽくない人間だと思っていたので、そう受け取る人もいるんだな、と少し意外だった。僕は非常に感情的な人間で、そのことで失敗ばかりしている。論理的で理屈っぽい人間なら、もう少しましな行動を取るのではないか。失敗することも少ないのではないか。そんなことを思った。

昔、五木寛之さんのエッセイで「多情多恨」の意味をどう解釈するか、ということを読んだ記憶がある。そのエッセイの中には、当時の人気作家でハードボイルドを実践していた生島治郎さんが登場した。ハードボイルドとは「多情多恨」である、と生島さんは言ったという。「多情多恨」を辞書で引くと、「感じやすいために、うらんだり悔やんだりする気持ちが多いこと。また、そのさま」とあり、用例として「芸術家は本来、多情多恨だから」という夏目漱石の「吾輩は猫である」の一節が引用されていた。

そのエッセイを読んだのは高校生の頃だから、もう五十年近く以前のことになる。そんな昔のことをなぜ憶えているかというと、そのエッセイを読んで自分が「多情多恨」であると気付いたからだった。その頃から僕は感情的で、感傷的な自分がひどく嫌いだったのだが、持って生まれた性格は変えようもなく、そのことによって子供の頃から多くの失敗を重ねてきた。失敗というのは、主に対人関係である。僕はよく「友だちいないからなあ」というボヤキを冗談めかして口にするけれど、本当は友人を失くして生きてきたのである。

ここまで書いてきて、昔も同じようなことを書いた気がしてきた。「多情多恨に生きる」というタイトルが甦ってくる。「映画がなければ生きていけない」の一巻めを見たら、そんなタイトルはなかった。二巻めに入っていた。2003年4月4日号で発表した文章だ。十三年も前である。内容は生島治郎さんとギャビン・ライアルの訃報に接したことから書き起こし、生島治郎さんの作品について展開していた。その文章の中では、僕は「多情多恨」を肯定的に捉えている。十三年たっても、ほとんど変わっていない。いや、高校生のとき以来、変わっていないのかもしれない。

僕は特に自分が「感じやすい人間」だとは思っていないが、無駄に感情過多であるとは自覚している。いや、どんな人も感情が豊富なのだろうが、それを外面に出すか出さないかの違いなのかもしれない。そういう意味では、僕は感情を外に出す、あるいは出し過ぎるきらいがある。「すぐ顔に出る」と言われるし、喜怒哀楽がわかりやすいとも言われる。もっとも、一番わかりやすいのは「怒」らしい。労働組合の委員長をやっていた頃には、社長からも組合員からも「瞬間湯沸かし器」と言われた。

怒った後は、恥ずかしい。冷静になると、感情を爆発させた自分が人にどのように見えたか、客観的に把握できるようになる。とたんに消えてしまいたくなる。穴があったら入りたくなる。昔、月刊誌の副編集長をやっていたとき、ある編集部員を怒鳴ったことがある。怒鳴った後、僕は恥ずかしくなって部屋を出てしまった。後から聞くと、怒鳴られた方は平気な顔で仕事を続けていたという。僕は興奮気味の自分の気持ちを鎮めるために、会社の外階段を上って屋上でしばらく時間をつぶした。その頃は、仕事の場で僕が怒ることはあまりなかったので、若いモンには珍しがられた。

●人が行動する原点には「怒り」があるのではないか

多くの物語には「怒り」が描かれる。ヒーローものでは、最後に主人公が怒りを燃え上がらせて反撃するのがパターンである。「無頼」シリーズの藤川五郎も、「昭和残侠伝」シリーズの花田秀次郎も、最後に耐えに耐えていた怒りを解き放つ。藤川五郎は黒匕首を握りしめるし、花田秀次郎はドスを片手に殴り込み「死んで貰います」と決めゼリフを口にする。シルベスター・スタローンのランボーは不機嫌に怒ってばかりいて、邦題には常に「怒り」がつけられた。「ランボー 怒りの脱出」(1985年)ではベトナムで暴れまくり、「ランボー3 怒りのアフガン」(1988年)ではアフガニスタンで破壊の限りを尽くす。冷戦時代の映画だから、敵はソ連軍だった。

様々な物語を分析してみると、人が行動する原点には「怒り」があるのではないかと思う。六〇年代のイギリスから発したムーブメントである「怒れる若者たち(アングリー・ヤングメン)」は、常に怒りを抱いた青年が主人公の戯曲「怒りを込めてふり返れ」(1958年)から名付けられたものだが、あの時代の若者たちは実によく怒っていたし、それを行動に移していた。「怒り」は行動を起こす原点であり、エネルギーなのかもしれない。どちらかというと、僕も「悔しさ」と「怒り」を原点に様々なことを克服してきた気がする。

どうでもいいことだけど、わかりやすいので以下の話を例にする。僕は五十のときには入社時に比べて二十数キロ太り、スーツもY体の5だったのがA体、AB体を越えてB体の5になっていた。ウエストは七十数センチだったのが、八十五センチを越えていた。そんなとき、あることがきっかけで痩せなければ----と思い始めた。その頃、会社の飲み会である先輩に「ダイエットしようと思ってるんですよね」と言ってしまったところ、「きみなんか、痩せられるわけないよ」と即座に断言された。自己管理のできない奴、欲望に負ける奴というニュアンスだった。

そのときに感じた悔しさから「今に見てろよ、痩せたろうじゃねぇか」と思った僕は、半年で十数キロを落とし、スーツはAB体を通り越しA5体に戻ったのだった。さらに、29インチのジーパンが履けるようになった。要するに、「悔しさ」を感じ「怒り」を燃え上がらせることで、目的を達したわけである。そういう意味では、あの先輩に感謝しなければならない。僕の性格をよく知っていたのかもしれない。十年近く経った今も、何とかリバウンドを防いでいる。それにしても、我ながら単純な性格だと思う。

●静かな怒りを燃やし穏やかに語る若きヘンリー・フォンダ

ギリシャ神話を読んでいても思うのだが、神は正当な理由もなく、理不尽に怒りを燃え立たせることがある。残虐に天罰を人間に加える。その結果、人間たちは振りまわされ、不幸な死を遂げたりする。ジョン・スタインベックの小説を映画化したジョン・フォード監督の「怒りの葡萄」(1940年)という作品がある。「怒りの葡萄」とは、神の怒りを表す言葉であるらしい。原題は「The Grapes of Wrath」で、Wrathには「激怒、憤怒、天罰」といった意味がある。しかし、なぜ「葡萄」なのか?

スタインベックは、聖書をベースに小説を書く。オクラホマの農民たちが「約束の地」をめざす物語「怒りの葡萄」は「出エジプト記」を連想させるし、主人公トム・ジュード(ヘンリー・フォンダ)を導く説教師ジム・ケイシーはイエス・キリスト(ジーザス・クライスト)と同じ頭文字を持ち、スト破りの警備員たちに撲殺される前に「おまえさんたちにゃ自分がやっていることがわかっちゃいねぇんだよ」と口にする。それは、キリストが十字架にかかる前に発した言葉(もっと格調高く言っているけど)と同じだ。

また、スタインベック後期の代表作「エデンの東」も「アベルとカインの物語」がベースになっている。映画版(1954年)は、父に疎まれ、双子の兄アロンを死(戦地)に追いやる弟キャル(ジェームス・ディーン)を中心に描いている。双子の名前が、アベルとカインから取っているのは明白だ。映画は原作の後半だけを使用したもので、原作の前半は双子の生まれる前の物語、父親のアダムと兄の物語が展開される。善良なアダムと邪悪な兄。そこへ悪魔のような少女ケイトが現れる。

聖書の中では、葡萄は特別な果物として描かれる。葡萄はワインを作り出すからだ。ワインはキリストの血とも例えられるし、葡萄そのものは豊穣の象徴でもある。「怒りの葡萄」というタイトルは、アメリカの女流詩人が南北戦争のときに謳った「怒りの葡萄の貯えられし瓶を主は踏みしぼりたまい----」から取られたということだが、そのフレーズの元は聖書の中の出来事から発想されたものだ。「暴虐に対する神の怒りの発酵」を意味しているという。

スタインベックの原作では「飢えた者の目にはつのっていく怒りがある。人々の魂には怒りの葡萄がみちみちて、重く、たわわに、収穫のときを待っている」と書かれている。巨大資本にオクラホマの農地を奪われた貧しい農民の一家は、新天地を求めてカリフォルニアにやってくる。しかし、そこで見たのは低賃金で果樹園で働かざるを得ない飢えた人々だった。生活のために彼らも果樹園で働き始めるが、トムは次第に権利に目覚め、労働条件の向上を求めてストライキに参加する。しかし、資本側は暴力的に反乱分子を排除しようとし、貧しい者の怒りが燃え上がる。

原作が出版されたのが一九三九年、三年前に出版された「風と共に去りぬ」以来のベストセラーになった。この正反対のようなふたつの小説は、なぜか大恐慌時代のアメリカ人に受け入れられたのである。映画版「風と共に去りぬ」は「怒りの葡萄」が出版された年に公開され、スカーレット・オハラを演じたインド生まれのイギリス人で新人女優だったヴィヴィアン・リーは一躍人気スターになった。一方「怒りの葡萄」(1940年)もジョン・フォード監督によって映画化され、翌年に公開になった。その作品で、ジョン・フォードはアカデミー監督賞を受賞する。西部劇で有名なジョン・フォードだが、西部劇ではアカデミー賞を取っていない。

僕はずいぶん映画を見てきたけれど、「怒りの葡萄」の最後の長い長いヘンリー・フォンダのシーンほど感銘を受けたことはない。ジム・ケイシーが撲殺され、やむを得ず人を殺した(彼は過失致死で服役し、刑務所から戻ってきた人間として登場するから二度めの殺人だ)トム・ジュードは、追われる身になって母親に会いにくる。そこで、「腹ぺこの連中が腹ぺこにならないように騒ぎがおこれば、おれはそこにいるよ」と、彼は自分の生き方の決意を口にする。

繰り返される「おれは、そこにいる」という言葉がキリストの教えのように響き始める。静かな怒りを燃やして、穏やかに語る若きヘンリー・フォンダの表情が忘れられない。澄んだ瞳が輝いている。あのヘンリー・フォンダの姿は、「怒りは静かに燃やせ」「決して感情的になるな」ということを教えてくれるのだが----。いい年をして言うことではないけれど、僕はまだまだ修行が足りない。

2016年6月 2日 (木)

■映画と夜と音楽と…729    溌剌と弾むように生きる


【フランシス・ハ/男性・女性】

●「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」を聴いたとき

昨年、四国の仕事場(と称している家)にいる間、テレビがなかったので、毎朝、インターネットでNHKラジオを聴きながら朝食を摂っていた。午前八時からの番組で女性アナウンサー(ハスキーな声で笑うのがとてもよい)は毎日同じだが、男のパーソナリティは交代する。ダイヤモンド・ユカイ、宮沢章夫、高橋源一郎などである。僕は、特に高橋源一郎さんの曜日を楽しみにしていた。その中に「今週の一冊」みたいなコーナーがあり、高橋さんオススメの本を読み上げてくれるのだ。

一般視聴者を相手にしていることを意識してか、小説を取り上げることはあまりなく、ちょっと変わった本を教えてくれるし、その独特の読みとり方が面白くて聞き入ったものだった。その中で、僕が全く知らずにいた素晴らしい本を教えてくれたとき、高橋源一郎という作家を僕は尊敬した。昔から僕は高橋さんの作品より、その言動および新聞の論壇時評などの独特のオピニオンを好んできたが、その本を選んだ(そして、すべて読み上げてくれた)見識と目配りに感心したのだった。

その本は「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という絵本だった。2012年にリオデジャネイロで行われた地球環境について話し合う国際会議で、ウルグアイのムヒカ大統領が行った演説を採録したものだという。その演説を読み上げる高橋源一郎さんの声を、僕はじっと真剣に聴いた。ときどき、つかえながら高橋さんは読み切り、感想を述べる。ムヒカ大統領という人は、大統領公邸には住まず、古びた愛車を自分で運転してどこでもいくような人だと紹介する。そのスピーチは、昨年、最も印象に残った言葉だった。ひどく得した気分になった。

そのムヒカ大統領が、先日、来日した。テレビのワイドショーが「世界一貧しい大統領」として時間をとって紹介し、日本でも多くの人が彼を知ることになった。朝日新聞でも大きな記事で取り上げていた。そんな報道を見ながら、僕は「世界一貧しいという言い方は適当ではない。むしろ、不適切である。世界一質素な大統領と呼ぶべきであろう」と、テレビ番組が「世界一貧しい大統領」というたびにテレビ画面に向かってダメ出しをした。別の言い方をすれば「世界一清貧な大統領」である。中野孝次さんの「清貧の思想」を思い出した。

そんなムヒカ大統領に比べると、現在騒がれている東京都知事の話題は情けなくなるほどのみみっちさである。海外出張で豪華な部屋を利用しないと「都知事としてみっともない」とか、公用車で別荘に毎週末に通っていたとか、政治資金を私的に使用していたとか、そんなニュースを見ると日本の政治家のレベルの低さに絶望的になる。自分が住んでる家を自分の政治団体の事務所にしていて、毎月、奥さん名義の口座に家賃として四十数万円を振り込んでいたとか、判明する事実が悲しくなってくる。みっともない。日本人として恥ずかしい。穴があったら入りたい。アルゼンチンまでもぐりたい。

●どんな仕事も自信や誇りといったものをもたらせてくれるが

----モノを買うとき、人はカネで買っているように思うだろう。でも違うんだ。そのカネを稼ぐために働いた、人生という時間で買っているんだよ。生きていくには働かないといけない。でも働くだけの人生でもいけない。ちゃんと生きることが大切なんだ。たくさん買い物をした引き換えに、人生の残り時間がなくなってしまっては元も子もないだろう。簡素に生きていれば人は自由なんだよ。

なるほどな、と思う言葉がムヒカ元大統領から次々に出てくる。僕も「足を知る」人生を送りたいと思っているが、それができているかどうかはわからない。しかし、特に何かをほしいと思っているわけではない。とりあえず食うには困らないだろうからと、六十三でリタイアし年金生活者になった。ときどき外で酒を飲むけれど、毎食、自分で料理して食事をし、散歩し、読書し、映画を見て過ごしている。原稿を書くのも趣味みたいなものだ。四国にいるときは庭で野菜作りなどやったが、今年は短期間でいったりきたりしたので、野菜作りは見送っている。

今の時代、僕の年齢で老け込むのは早すぎると言われることもあるが、やるべきことはやったと思っている。以前にも書いたように、「やりたいことをやる」というより「やりたくないことはやらない」生活をしようと思った。家族を含め生活のために金を稼がねばならず、金を稼ぐためにはやりたくないことをやらねばならない。仕事とはそういうものだし、どんな仕事も何かを我慢しなければならない。もっとも、どんな仕事も取り組む姿勢によって喜びをもたらせてくれるものだとは思う。それに、どんな仕事も続ければ、自信や誇りといったものをもたらせてくれる。

若い頃、僕は自分の仕事に自信も誇りも持てなかった。その仕事を四十年も続けることになるとは夢にも思っていなかった。他に自分の夢があったのだ。振り返れば、もっとのびのびと日々を過ごしていればよかったと思うけれど、そんなことは今だから思えるのだろう。四十年前の僕は、金もなく、自信もなく、将来への不安を抱えて日々を鬱々と生きていた。人生のとば口に立っていた二十代の僕が、何もわかっていなかったのは仕方がないと思う。その後の経験が今の僕を作っている。そのことによって、成長したのかどうかはわからない。相変わらず、自分の性格がイヤになることは多い。自己嫌悪ばかりの日々である。

ムヒカさんは長い長い独房生活を経験することで人生の真実を学んだという。六〇年代から七〇年代にかけての軍事政権下、平等な社会を夢見て都市ゲリラのメンバーとなり、武装闘争に加わった。投獄四回、脱獄二回、銃撃戦で重傷を負ったこともある。十四年近く収監され、十年ほどは軍の独房だった。長く本も読ませてもらえず辛い日々だった。「独房で眠る夜、マット一枚があるだけで私は満ち足りた。質素に生きていけるようになったのは、あの経験からだ。孤独で、何もない中で抵抗し、生き延びた。『人はより良い世界をつくることができる』という希望がなかったら、今の私はないね」と語っている。

----人は苦しみや敗北からこそ多くを学ぶ。以前は見えなかったことが見えるようになる。人生のあらゆる場面で言えることだが、大事なのは失敗に学び再び歩み始めることだ。

若い頃、人は多くの失敗をする。後悔を重ねる。ムヒカさんも理想に燃えてゲリラ活動に身を投じたけれど、敵と殺しあうこともあったし、自らも傷を負った。独房での長い生活が彼を哲学者にしたのだろうが、それは経験と思索がなければ育たなかったものだ。だとすれば、どれだけ寄り道をし、失敗をするか、様々な経験をする機会を持つか、というのが若い時期に求められることなのだろうか。もっとも、青春時代は、中途半端で、迷ってばかりいて、自分が何をしたいのかもはっきりしない時期である。そんな中で、どれだけ溌剌と生きていたか。青春時代がはるか昔に過ぎ去った人間である僕には、溌剌と生きられなかった後悔だけが残っている。

●いきあたりばったりに生きているような青春だが----

去年、ひどく印象に残る映画を見た。モノクロームの映像が美しい作品だった。映画が始まると、いきなりふたりの若い女性が争っている。喧嘩のマネをしているのだ。カットがポンポンと飛ぶようにつながり、僕は若い頃に夢中になって見たゴダールの「男性・女性」(1965年)を連想した。同じモノクローム作品ということもあったのかもしれない。その作品の中に確か「ジャン・ピエール・レオー」という名前が出てきたので、監督も「男性・女性」を意識していたのかもしれない。ジャン・ピエール・レオーはヌーヴェル・ヴァーグを象徴する俳優で、「男性・女性」の主人公を演じた。

その作品は「フランシス・ハ」(2012年)という奇妙なタイトルを持っていた。その意味は最後に明かされるのだが、そのシャレた結末に僕はひどく感心した。最近、これほど監督の才能を実感した作品はない。映画全体を貫く軽やかさは、出そうとして出せるものではない。映画全体のテイストが絶妙なのだ。青春映画と言えば青春映画なのだろうが、ヒロインの生きる姿が生き生きと伝わってくる。ああ、こんな風に若い時代を送れたらよかったろうに、と羨ましくなった。

モダンダンサーをめざしているフランシスは、編集者である親友のソフィーと一緒に暮らしている。ある日、恋人から一緒に住もうと言われ、「私が部屋を出たらソフィーが困る」と断る。しかし、その話の流れで恋人と別れることになる。恋人より親友を優先したのだが、ソフィーの方は「恋人と暮らすことになった」とあっさり部屋を出ていってしまう。生活用品も持っていかれたので、フランシスはお湯を沸かすのさえ苦労し、「あのヤカンは私が買ったものよ」と電話でソフィーに大声を挙げたりする。

映画は何章かに分かれていて、それぞれフランシスが住むことになる場所と番地が章立てに使われる。ソフィーと別れたフランシスは、高い家賃が払えないので住むところを探す。たまたまパーティで知り合った男友達の部屋へ行くと、彼は男のルームメイトと住んでいるが、もうひと部屋があいている。彼らはふたりとも金持ちの芸術家肌で、フランシスとも気が合う。フランシスは彼らと暮らすことになる。端から見れば奇妙な三人の男女の生活だが、天真爛漫なフランシスのキャラクターが溌剌としているから、自由で自然なライフスタイルが羨ましくなる。

ある日、フランシスはダンスグループの主宰者からクリスマスの発表会での出番はないと宣言される。彼女は、フランシスのダンサーとしての資質を買っていないようだ。失意のフランシスは父母の元でクリスマスを過ごし、手持ちの資金も尽きたので母校の大学の寮に住んで、ウェイトレスの仕事を始める。その頃、ソフィーは恋人の赴任先である東京にいるのだが、母校のパーティにふたりで現れフランシスと再会する。このとき、先にソフィーを見つけたフランシスが、ソフィーに見つからないように隠れたりするのは、ウェイトレスをしている自分を見られたくないからだろう。

その後、フランシスはダンサー仲間の部屋に転がり込んで居候したり、彼女の友人がパリにアパルトマンを持っていると聞けば、いきなりパリにいってみたり、何だか衝動的に行動しているように見えるが、二十七歳という中途半端な年齢を持て余しているのかもしれない。やがて、フランシスは振り付けに自分の将来を見い出し、新しいアパートにも引っ越す。そこで、タイトルの意味が明らかになるのだけれど、それは爽やかな笑いを誘い、フランシスの未来の明るさを伝えてくる。

こんなに爽やかで、ほろ苦くて、青春時代の中途半端さと迷いを描き出す監督なのだから、きっと充実した(常に自分を失わない)青春時代を送ったのだろうなと思う。自分の言動に内省的で、自覚的に生きてきたに違いない。僕が数十年かかって学んだことを、すでに会得している。才人というのは、こんな映画を撮れる人のことなんだろう。フランシスを演じたグレタ・ガーウィグの存在なくしては成立しない作品ではあるけれど----

« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »

無料ブログはココログ
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30