« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月

2016年7月28日 (木)

■映画と夜と音楽と…737 手紙を待ちわびる日々があった


【けんかえれじい】

●大橋巨泉の死によって歳を重ねた浅野順子の姿が映された

テレビ界の功労者である大橋巨泉が亡くなって、連日、ワイドショーなどでは大きく報道されていた。そのたびに寿々子夫人のコメントが紹介されたり、昔の夫妻の写真が映されたりするが、寿々子夫人についてはあまり紹介がない。そう思っていたら週末のニュース番組で、昔、浅野順子というアイドルで、ニッポン放送で巨泉の番組アシスタントをしていて知り合い、十四歳の年の差を越えて結婚し、四十七年間を添い遂げたと紹介されていた。そう、半世紀以上も昔のことだが、浅野順子は少女モデルをしていて学習誌の表紙に登場したりしていた。その後、歌手になり、数少ないが映画にも出演した。しかし、その一本は映画ファンに絶大な人気を誇る作品である。

あるワイドショーでは、大橋巨泉と親しかったというので高橋英樹親娘が登場してコメントしていた。よくゴルフを一緒にしていたという。高橋英樹と大橋巨泉というつながりは意外だったが、「これは夫人の方のつながりで親しくなったのではないか」と思った。高橋英樹と浅野順子は、名作「けんかえれじい」(1966年)の不滅の恋人たちである。南部キロク(高橋英樹)とミチコ(浅野順子)。忘れられない名前だ。キロクが軍事教練を担当する軍人(佐野浅夫)と喧嘩し、さらにキロクのバックのスッポン(川津祐介)も軍人と喧嘩してしまった結果、岡山から逃げ出さなければならなくなり、ミチコに秘かに別れを告げるシーンの切なさが甦る。

キロクはスッポンに、自分が下宿するミチコの家が見える場所で車を止めてもらう。その家に向かって、キロクはまず「ミー」と大声をあげ、空中に放たれたその声を両手で蝶でも包み込むように捕まえ、自分の口に入れて飲み込む。次に「チー」と叫んで同じようにする。さらに、「コー」と大声をあげ、その声を捉えてゆっくりと口に入れ、飲み込んで自分の腹におさまるまでをなぞるようにゆっくりと胸から腹まで手をおろしていく。少年の感傷だと言ってしまえばそれまでだが、十代の少年(高橋英樹はとても旧制中学生には見えないけれど)の気持ちをよく表していた。

親戚を頼って会津に逃れたキロクは、毎日、ミチコに手紙を書き、その返事を待っている。しかし、ミチコから返事はこない。キロクは手紙を書き、その最後に「お気が向きましたら、ここに接吻をしてください」とキスマークを要求し、丸く囲んだスペースを書いた便箋を送る。次は手紙を待っているキロクのシーンだ。おばさんが「キロクちゃん、待ってるもの、もうきてるよ」と言うと、キロクは手紙を受け取って大慌てで自室に戻り、期待に充ちて封を切る。しかし、その返信には「気が向きません」としか書かれていない。その手紙に重なるミチコのそっけない声が悲しい。

「けんかえれじい」は鈴木隆という人が書いた小説で、ぶ厚い上下二巻の本だった。僕は、映画を見た後、古本屋で見つけて買った。その後、NHKが夕方の時間帯で少年向け連続ドラマとして放映したことがある。一度だけ見てみたが、原作には忠実だったものの映画版とあまりに違うので見るのはやめた。原作はかなり長く、鈴木清順監督は日活を馘首された後、「続・けんかえれじい」の脚本も用意していた。それは映画ファンの間で評判になり映画化を望む声も多かったが、ついに実現しなかった。日活を首になった後、十数年後の「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)が評判になって鈴木清順という名が一般的にも知られるようになった頃には、すでに監督自身に撮る気がなくなっていた。

●「けんかえれじい」を初めて見たのは十八のときだった

僕は「清順作品で最も好きな映画は?」と訊かれると、「けんかえれじい」を挙げる。大学時代の友人のMは「東京流れ者」(1966年)に思い入れていたし、「関東無宿」(1963年)や「野獣の青春」(1963年)が好きだという友人もいた。「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」(1981年)になると、好きというより「凄い」としか言えなくなる。やはり、僕は「鈴木清順監督の映画」として初めて見た「けんかえれじい」が忘れられないのだ。笑えるし、心躍るし、悲しみも味わえる。清順作品らしいシュールレアレスティックなシーンも散りばめられている。モノクローム作品だからこそ、絢爛豪華な色彩を駆使する清順美学は抑えられ、ストイックな美意識に充ちている。

たとえば、キロクとミチコが夜の桜並木を歩いて帰るシーンだ。教会のミサ(ふたりはクリスチャンである)を終えたふたりは、黒バックの中の満開の桜並木を歩く。キロクは何とかミチコと手をつなごうとするが、うまくいかない。やっとミチコの手を取ると勢いよく歩き出し、「どうしたの?」と問うミチコに「この前、この辺で首吊りがあったそうや」と答える。「首吊りがこわくちゃ、キロクちゃんの男がすたるでしょ」とミチコが笑う。そこへ、キロクが所属する硬派グループ・OSMS団の団長タクアンが登場する。タクアンは「メッチェンと手なぞつなぎおって」と、硬派としてあるまじき行為をしていたとキロクをなじる。

キロクはあわててミチコの手をふりほどき、一段高い土手の上に立つタクアンの前に立つ。そのふたりを映すから、ミチコは首から上しか映っていない。そこで、三人の会話があり、キロクは思わず「わてのオネェです」と言い訳をする。タクアンは「そら悪かった。お近づきの印に、その辺でうどんでも」と仁義を切るが、ミチコは「けっこうです。南部さん、帰りましょう。うどんならうちで食べましょう」と無視する。それを聞いたタクアンは「南部さん? オネェと違うんけぇ」とキロクを責め、「明日、学校でけりをつけよう」と言いおき、持っていた木刀で桜の枝を一閃して去っていく。タクアンが去った後、キロクとミチコの上にハラハラと桜の花びらが散ってくる。

「けんかえれじい」は、喧嘩という手段でしか十代の鬱積を晴らせない旧制中学生を主人公にした青春映画だ。時代背景は昭和初期だが、いつの時代にも変わらない普遍性を描いているから、決して古びることはない。初めて見たとき僕は十八歳で、喧嘩修行に励むキロクの姿に共感したものだった。喧嘩の先生であるスッポンに竹藪の中で喧嘩の奥義を教えられたり、様々な仕掛けをした喧嘩修行のシーンは笑いながらも、もの悲しい切なさを感じたものだった。だから、キロクが恋い慕うミチコも僕の心に深く刻み込まれた。十八歳の浅野順子は、輝くように美しかった。

浅野順子がヒロインを演じた映画は、唯一「けんかえれじい」だけである。子役から出ていたから、映画版「赤胴鈴之助」(1958年)シリーズにも出ていたようだが、僕の記憶には残っていない。市川雷蔵主演の「薄桜記」(1959年)にも出演しているらしいから、今度、確認しておこう。しかし、「けんかえれじい」が公開され、ジワジワと口コミで評判になり、カルトムービーとして映画ファンの間で伝説になった頃、二十一歳で彼女は大橋巨泉と結婚し、完全に芸能界をリタイアしてしまった。それから、四十七年後、大橋巨泉の死をきっかけに、僕はテレビで六十代になった彼女を見た。確かに歳は重ねていたが、「けんかえれじい」のミチコさんがそこにはいた。

●「遠距離恋愛」なんて言葉も存在していなかった

僕が初めて「けんかえれじい」を見た場所は、銀座並木座だった。十八歳。浪人をしていた。浪人することが決まったとき、僕は親に無理を言って東京の予備校にいくことにした。どうしても、故郷を出たかったのだ。しかし、上京した僕は食事代を節約して名画座に通う日々を始めた。池袋文芸坐、文芸地下、日勝文化、新宿テアトル、飯田橋佳作座、ギンレイホール、銀座並木座、渋谷全線座などなどである。予備校にはほとんど顔を出さず、たまに高校時代の友人の下宿にいき泊まったりしていた。しかし、僕は故郷に恋人を残していた。その頃、そんな言葉はなかったが、「遠距離恋愛」だったのだ。

彼女とは高校二年のときに知り合い、三年で同じクラスになった。席を並べたこともある。成績は僕よりよかったはずなのに大学には進まず、地元の洋裁学校に入った。洋服のデザインや縫い物、手芸などが好きだったのだ。そんな彼女と別れて、僕は上京した。それから頻繁に手紙のやりとりが始まった。初めての一人暮らしで僕がホームシックになり、やたらに手紙を書いたからだったと思う。誰とも口をきかない日々が続き、僕は毎日のように手紙を書いた。

僕が住んでいた滝野川の「すみれ荘」は、大家さんの家の裏にある小さな木造の二階建てアパートで、一階は六畳と共同の炊事場と洗濯場、共同トイレがふたつあった。一階の六畳間にはタクシー運転手の一家四人が住んでいた。二階は四畳半が三部屋あり、中年男と老婆と僕が借りていた。二階にも小さな共同炊事場があった。一階の一家の奥さんは、最初、僕が予備校生だと知ると親切にしてくれたのだが、僕に女の名前で頻繁に手紙が届き出すと、不良を見る目つきになった。僕宛に届く手紙は三日に一度はあったし、時には二通一緒に届くこともあった。後に出した手紙が先に届くこともあった。奥さんは「予備校生のくせに何だ」という視線を浴びせるようになっていた。

それでも、僕は手紙を書いた。ときには、キロクのようにキスマークをねだる(恥!)ような手紙を書いたこともある。書いたことを後悔し、すぐに「前の手紙は読まずに破ってほしい」と取り消しの手紙を出したこともある。そんなことをしていたから、僕は初めて見た「けんかえれじい」に感情移入したのだろう。ミチコさんの家を眺めながら「ミー・チー・コー」と叫んだキロクの気持ちも、手紙を待ちわびる気持ちも僕には手に取るようにわかったのだ。そして、あの映画史に残る障子越しのラブシーンを見たとき、叶わぬ恋の切なさが十八歳の僕を貫いた。着物姿の浅野順子は、大人びていた。

振り返れば、四十六年も前のことである。あの頃の自分が、まるで別の人間のように思える。僕は四十六年をかけて、十八歳の頃の自分自身を消滅させてきたのかもしれない。今の僕を僕は否定はしないが、あの頃の僕を懐かしむ気分は強い。僕は小心で、気弱で、臆病で、対人恐怖症で、不安と劣等感と何かに対する恨みのようなものを抱えて生きていた。自分によいところなど何もないと思っていた。自信はなく、育ちや出身や肉体的なコンプレックスばかりが強かった。讃岐弁が出るのが怖くて、ろくに口も利けなかった。そんな思いを、夜になると手紙に書き綴っていたのかもしれない。もらった方は、ずいぶん迷惑だっただろう。それでも、返事はきた。

あれから四十六年たって、僕はその相手とまだ結婚している。巨泉夫妻の結婚四十七年までには六年ほど足りないが、高校時代からカウントすれば、すでに五十年近いつきあいになる。昨年からは、いろいろな理由から別居と同居を交互に繰り返す暮らしになったが、四国と東京に遠く離れていても昔のように手紙を書くことはない。用事がない限り、メールも電話もない。同居していてもほとんど会話はないから、特に気にはならない。たまに電話しても、用件が終わると話すことがない。それでも、何となく相手のことがわかるようになっている。長い年月を共に過ごしたからだろうか。彼女は、「けんかえれじい」のヒロインと同じ名だった。

2016年7月21日 (木)

■映画と夜と音楽と…736 乗り物は常に暴走する


【ブリット/突破口/007 ゴールデンアイ/ダーティーハリー5】

●香川県の人たちは運転マナーが悪いと自覚している?

昨年、高松で七カ月ほど暮らしたとき、最初に驚いたのは運転マナーのひどさだった。実家の車を借りてひとり暮らしに必要なものを買い出しに出たときに真っ青になり、しばらく怖くて運転できなかった。その後、週に一度ほど買い物や図書館にいくので運転したのだが、毎回、車内で罵りの言葉を吐くことになった。「ウィンカーってのはな、曲がりますって合図なんだ。曲がった後で出しても意味ないだろ」とか、「車線変更するならウィンカー出せ」とか、車内で大声を出していた。

僕は信号手前二十メートルの位置で黄信号だったらブレーキを踏むが、高松ではアクセルをグッと踏み込むのが常識らしい。一度、「死ぬ気か」と思ったのは六車線の赤信号に隣を走っていた車が突っ込んだときだった。僕は当然、ブレーキを踏んで止まった。信号は黄色から赤に変わったのに、隣の車線の車は交差点に突っ込んだのである。片側三車線だから六車線を横切らねばならない。それでもアクセルを踏む車があるのだから、後は推して知るべしだ。ここに書いても信じてもらえないようなことも僕は経験した。高級車に乗った老婦人が運転していた。

そんなことで、高松でずっと暮らしてきた友人たちに会うたび、「こちらの運転マナーはひどすぎるよ。交通量が少ないから、それが前提になって自分勝手でわがままな運転になっているのだろうな」とぼやいていた。二車線の右車線を走っていると、よく車をせき止めている右折車がいる。対抗二車線を横切って右側にある店舗などに入るためである。だから、右車線を走っているときは、いきなり右折する車に注意していなければ追突してしまう。もちろん、そこには信号などない。幹線道路のど真ん中なのである。しばらく待てば対抗二車線を横切れるほどの交通量なのだ。

僕の実家の近くに、片側二車線なので四車線の広い道路がある。そこもしばらく待っていれば車がいなくなる瞬間があり、いきなり横断する歩行者がいる。ヤマダデンキなど両側に量販店が並ぶ道である。道路の真ん中で右折しようとする車が次々と現れ、その間に道路のど真ん中に人が立っていたりする。半年ほど運転してみて(週に一回、近距離しか運転しないのだが)少しは馴れたが、よく事故に巻き込まれなかったものだと思う。交通量の多い都会の常識は、まったく通じない。そんなことを実感していたら、先日、JAFの調査結果が四国新聞にも出ていた。

それによると、「運転マナーが悪い」と思っている人が最も多い県が香川県だったという。アンケートに答えた人は、「ウィンカーを出さずに右折・左折する車が多い」と憤慨しているらしい。僕に言わせれば、ウィンカーを出している人も出すタイミングが遅いと思う。曲がる三秒前には出せと教習所で教えられて以来、僕は三秒前にはウィンカーを出す。カッチ、カッチ、カッチだ。周囲の車に自分の動きを認知させるには、三秒は必要だと思う。高松では自分は早めに出していると思っている人でも、せいぜい一秒前ではないか。僕の少ない経験の中ではあるけれど----。

●映画の中では様々な乗り物が暴走を繰り返してきた

現実の交通事情は別にして、映画はその始まりからスリルを求めて、車などの乗り物が暴走するシーンを映してきた。サイレント時代に危険なアクションシーンで人気を集めたのは、バスター・キートンだった。体を張ったアクションが売り物だったから、現在のスタントマンのようなことを平気でやっている。チャップリンも自身で危険なシーンをこなしているが、バスター・キートンには負ける。危険なシーンは今の映画でも基本的には同じだ。まず高い所。キートンは落ちたら間違いなく死ぬような場所で、観客をハラハラドキドキさせた。次は乗り物の暴走だ。機関車、列車、馬車、そして車である。

以来、アクションを見せる映画ではカーチェイスは必然になった。昔、僕は石原裕次郎の初期作品「錆びたナイフ」(1958年)を見ていて、「日本でもカーチェイスをきちんと撮っていたのだなあ」と思って感心したことがあるが、あれは編集技術がうまかったのかもしれない。カーチェイスの凄さが話題になった映画としては、高校生のときに見た「ブリット」(1968年)が最初だった。自身もカーレースに出場していたスティーブ・マックィーンの主演で、カーチェイス・シーンを自分で運転しているということだった。

確か、刑事ブリットが乗っていたのはマスタング(当時はムスタングと言っていた)だったと思う。その車で、二人組の殺し屋が乗った車を追跡する。坂道の多いサンフランシスコの街を縦横無尽に、無茶苦茶に走りまわる。坂道が多いから、車の中から撮ったショットなど見ていて酔いそうになる。実際、気分が悪くなった観客もいた。そんな評判がさらに評判を呼び、カーチェイスを見るために「ブリット」を見る人もいて大ヒットした。マックィーンは、その数年後、「栄光のル・マン」(1971年)というレース映画にも主演した。

カーチェイスは、その後、さらにエスカレートする一方だったが、車と車ではなく、車と複葉機のカーチェイスとか、戦車のカーチェイスなどの変則アイデアも登場した。車と複葉機の追っかけは、犯罪映画の傑作「突破口」(1973年)で見られる。組織の殺し屋(ジョー・ドン・ベイカー)は、複葉機で農薬散布などを請け負う主人公(ウォルター・マッソー)が組織の金を奪った犯人だと知り、複葉機で飛び立とうとするところを巨大な(走るダブルベッドと呼ばれた)アメ車のオープンカーで追いかけ、離陸を阻止する。

戦車チェイスを見せたのは、ピアース・ブロスナンがジェームズ・ボンドを演じた「007 ゴールデンアイ」(1995年)だった。ソ連が崩壊した後なので、ロシアでのロケが可能になり、ペテルスブルクの街中を戦車が爆走した。ちなみに、007シリーズのスタントチームは世界一と言われているから、シリーズのアクロバティックなアクションシーンはどれを見ても目を見張る。二十数年前、二台の車がダンスを踊るように走るCMがあったけれど、あれは実写で007シリーズのスタントチームの仕事だった。「コマーシャル・フォト」という月刊誌にいたときに僕自身が取材したから間違いない。

アイデアだなあと思ったのは、「ダーティハリー5」(1988年)のカーチェイスだった。シリーズの五作めで、人を殺すことがどんどんエスカレートしてしまい映画自体の出来はイマイチなのだけれど、ハリーの乗った車を爆薬を積んだラジコンカーが追っかけるシーンには感心したものだった。最初はラジコンカーだけが映るから本物かと思うが、ラジコンカーだとわかって「あれっ」と思う。しかし、ラジコンカーはしつこくてハリーの車の下に入ろうとする。下に入れば、爆薬を爆破させるつもりなのだ。主人公が追われる逆カーチェイスだが、ハラハラさせられた。

その後も様々な工夫があり、CGの発達によるエスカレーションがあった。最近ではトム・クルーズの「スパイ大作戦」シリーズや「ワイルドスピード」シリーズを見ると、派手なカーチェイスがあり、衝突した車が巨大な炎を上げて爆発する。実写部分と特殊効果部分が完全に融合している。しかし、「また、CGでしょ」という思いがして、何となく白けてしまう。キートンの時代と同じように、数百メートルのビルの外壁を登るシーンがあり、その高さに目がくらむけれど、それもやっぱり「実写じゃないよね」と囁く声が聞こえ、映画にのめり込めない。「ブリット」を手に汗握り、身を乗り出すように見ていた十代の自分が懐かしい。

●四十二歳で免許を取り常磐高速を走りまわっていた頃

僕が免許を取ったのは、四十二歳のときだった。大学卒業の春休みに取ろうと思っていたら、二月から出社しろと言われて取り損なったままだったのだ。ここで取らないと一生取らないだろうと決意して、僕は教習所に通った。周りは高校生から大学生くらいの若い人が多かった。最初に教習車に乗ったとき、教官がいきなり「はい、走らせて」と言う。「どうやるんでしょうか」と聞き返したら、「初めてなのか」と驚かれた。免許を失効した再教習者だと思われたのだ。「あんたも大変だね」と教官に同情されたこともある。リストラに遭い、再就職のために免許を取りにきた中年男と思われたのだった。

仮免許の試験のときは、教習車に同乗する他の受験者は若い女性たちだった。縁石に二度乗り上げてしまい、僕だけが落ちた。彼女たちは「おじさーん、次、がんばってね」と去っていった。次は、通った。面目を施したのは、教習所内で二度ほど実施される学科試験の結果だった。あるとき、教官が「このクラスで二度ともトップになった人がいます」と言い、僕を立たせたのだ。娘や息子のようなクラスメイトから尊敬のまなざしを受け、面映ゆかったが、「運転技術は彼らの方がずっとうまいんだろうな」と思っていた。僕は目撃しなかったけれど、教習所に車で通ってくる強者もいたらしい。

そんな思いをして取った免許だから、それまでの二十年間分を取り戻すように僕は走った。酒を飲まずに帰宅し、毎夜、一時間ほど走り、週末は五時間ほど走りまわった。週に十数時間は車の中だった。月に百リットル以上のガソリンを消費した。一年間で一万キロ以上を走破した。常磐高速の入り口まで十分足らずだったから、やたらに常磐高速を走った。桜土浦あたりで降りて、筑波山のハイウェイを登る。山道を走るのが楽しかった。ただ、目的もなく走った。常磐高速のカーブで三車線を使った高速運転を一度だけやってみたことがある。

そんなある日、いつものように常磐高速を走っているとき、ピシッと音がして後部座席のウィンドが砕けた。狙撃されたのか、と本気で思った。といっても、止まるわけにはいかない。そのまま走り続け、高速道路を降りて止まった。銃弾が打ち込まれたようになっていたが、おそらく飛び石だろう。しかし、車内にそれらしい石は落ちていない。跳ねただけなのだろうか。僕は首をひねりながら帰宅し、かみさんに報告すると「高いのよ。修理代」と言われた。翌日、かみさんがディーラーに持っていくという。そのとき、僕は「運転の神様に、たしなめられたのかな」と思った。そう、安全運転が一番なのである。

それにしても、七月上旬からまた高松での生活を始めたので、地方都市での生活では車がないと大変困るものだとは実感している。近所の家は、みんな二、三台の車を駐めている。一人一台の世界なのだ。軽自動車がよく売れているわけだ。自転車代わりなのである。車を持たない僕は、手首を痛めて自転車にも乗れないから、移動は徒歩である。街中に出るには、バス停まで十分、電車の駅まで十五分ほど歩く。一度、街の中心地まで歩いてみたら、一時間ほどかかった。そんな距離を歩く人は、こちらではほとんどいない。「よく歩くね」と驚かれたりする。しかし、歩いている分には、運転マナーを罵る必要もないので、心穏やかでいられる。

2016年7月14日 (木)

■映画と夜と音楽と…735 女が男を守るとき


【グロリア/レオン/マーキュリー・ライジング/依頼人】

●銃の名手である美しい女が活躍する冒険小説

「リボルバー・リリー」を半分ほど読み進んだ。書店で韻を踏んだタイトルに惹かれて手にし、今のところ期待以上の面白さだ。亡くなった日本冒険小説協会会長の内藤陳さんは、毎年、国内と海外の冒険小説の「読まずに死ねるかベストテン」を発表していたが、会長が生きていたら今年は「リボルバー・リリー」を選んだに違いない。僕は作者の長浦京さんを知らなかったので、著者紹介を読んで一作めの「赤刃」から読んでみた。そちらもユニークなアクション時代小説で、小説現代長編新人賞を受賞している。五年後の受賞第一作が「リボルバー・リリー」なのだった。五年かけただけのことはある。

プロローグは、関東大震災の日の夜から始まる。すでに日が変わっている。女がふたり、今まさに双子を産み落とそうとしている娘を見守っている。ひとりは百合、ひとりは百合に忠実に付き従う奈加である。そこへ、無頼漢たちがやってくる。どさくさまぎれの火事場泥棒であり、娘たちをかどわかして売ろうというやくざたちである。男たちは美しい百合に目を付ける。しかし、百合はやくざたちのドスをかいくぐり、男たちの腕や脚をリボルバーで撃ち抜く。どれも急所を外している。果たして、百合(リリーですね)の正体は? 「お産の面倒みてるより、男五人を倒す方が楽です」とうそぶく奈加の存在も謎である。

カバーの袖には「小曽根百合。実業家・水野寛蔵の下、幣原期間で訓練を受け、十六歳で実地任務に投入。東アジアを中心に三年間で五十七人の殺害に関与し、各国から『最も排除すべき日本人』と呼ばれた美しき諜報員」とある。そんなヒロインが、家族全員を殺されたうえ日本陸軍から追われる十四歳の少年を守ることになる。少年が父親から託された書類には、陸軍が必死になって隠しておきたい秘密があるらしい。陸軍の包囲網に迫られ、百合と少年は熊谷から東京に入るまででも幾度も危難に遭遇する。しかし、陸軍という強大な権力を相手にして、どうやって逃げおおせるのか、結末が心配になっている。

こういう物語だから読んでいると、当然、ジョン・カサヴェテス監督が妻のジーナ・ローランズを主演にして撮った「グロリア」(1980年)を思い出した。マフィアの会計係だった男が裏切り、まだ十歳くらいの息子に裏帳簿を託す。妻が息子を隣室のグロリアに預けた直後、一家はマフィアの殺し屋たちに皆殺しにされる。それを見届けて、グロリアは少年を連れて逃亡する。グロリアは、昔、マフィアのボスの愛人だったらしい。度胸もあるし、リボルバーの扱いにもなれている。追ってきたマフィアたちに「子供を渡せ」と言われると、相手より先にリボルバーを取り出し、本気だと示すためにいきなり撃つ。初めて見たとき、僕は感心したものだ。

「リボルバー・リリー」の百合は、実業家とはいえ全国のやくざの元締めのような黒幕の男に買われて鍛えられた諜報員であり、その男の愛人でもあった。その男が死んで跡を継いだ息子は、百合に好意を持ちながらも、組織の利益のために陸軍と手を結んで百合と少年を追ってくる。百合たちは、軍人たちとやくざたちの両方から追われることになるのだ。そんな設定を見ると、作者の長浦さんは「グロリア」を意識したのかなと思えた。冒険小説の王道のようなストーリー・パターンであるが、そこにオリジナルの着想を生かし、新しい物語を創り出している。

●事件の目撃者になった女性や子供を守る物語は多い

少年あるいは少女が巨大な悪に狙われることになり、それを何らかのプロである大人が守るという物語の嚆矢になった作品は何だろうと考えたが、頭の片隅で何かが浮かびそうになりつつも「これだ」というものがはっきりしない。昔からよくあったのは、事件の目撃者になった弱者(女性や子供)を守る物語だ。これは、探偵スペンサー・シリーズにもあるし、ポーラ・ゴズリングの「逃げるアヒル」(シルヴェスター・スタローンが「コブラ」として映画化)などは典型だろう。守る相手が美しい女性だと、ボディガード役の主人公と恋に落ちるのがパターンである。

主人公の刑事と守られる女性の恋をメインストーリーにした作品には、リドリー・スコット監督の「誰かに見られてる」(1987年)がある。ジョージ・ガーシュインの名曲「Someone to watch over me」をタイトルにした切ないラブストーリーである。刑事役のトム・ベレンジャーもいいし、殺人を目撃し犯人に狙われるニューヨークのセレブ役のミミ・ロジャースも美しいし、何より主人公の妻を演じた女優がいい。ケヴィン・コスナーが主演した「ボディガード」(1992年)もそうだったけど、守られる人は守ってくれる人に恋をしやすいのだろう。

「グロリア」のふたりは白人の中年女グロリアと十歳ほどのヒスパニックの少年で、親子以上に歳は離れているのにまるで恋人同士であるかのように見える瞬間がある。「グロリア」の関係を逆にした「レオン」(1994年)になると、凄腕の殺し屋レオン(ジャン・レノ)と美少女マチルダ(ナタリー・ポートマン)の関係は間違いなく恋人である。シシリー出身なのだろうか、レオンはあまり英語を話せない設定(ジャン・レノ自身がまだ英語を得意ではなかった)で、マチルダが英語を教えるシーンでは彼女の方が年上にさえ見える。

執拗な麻薬取締班のリーダー(ゲイリー・オールドマン)に追いつめられ、重装備の警察隊に包囲されたとき、レオンはキッチンの壁を壊し、通気溝からマチルダを脱出させようとする。「あなたも一緒に」と言うマチルダに「俺は大きすぎて通れない」とレオンは答える。切なそうな泣き顔を見せたマチルダは、「アイ・ラブ・ユー・レオン」と口にする。それは、もう二度と会えないかもしれない恋人への告白に聞こえる。いや、レオンは間違いなく死ぬとマチルダは思ったのだ。だから、思わず、その言葉を口走る。そして、レオンも「アイ・ラブ・ユー・ツー・マチルダ」と答える。

「グロリア」は中年女と少年、「レオン」は中年男と少女、どちらの設定も相手を異性にし、親子ほどの歳の差にしてあるから、守り守られる関係の中に生まれてくる微妙な精神的なものに切なさが漂うのだ。「誰かに見られてる」のように大人の男女にしてしまうと、完全な恋愛関係にしかならない。トム・ベレンジャーはミミ・ロジャースとベッドを共にし、そのことで妻に後ろめたさを持ってしまう。その後の展開は、不倫に悩む男そのものである。もちろん、それはそれで名手リドリー・スコットによって切ないラブストーリーになったのだが、相手が少年(少女)であることの精神的抑制を越えた愛の純粋さは生まれなかった。

●依頼料一ドルで少年を守る女性弁護士もいた

守る相手が子供でも同性の場合は、次第に友情が育まれるという展開が多い。守ってくれる相手に、次第に心を開いていくのだ。ブルース・ウィリスがFBI捜査官で、国家的な陰謀を知ってしまった少年を守って逃亡することになる「マーキュリー・ライジング」(1988年)は、その典型だった。少年はコンピュータに関しては天才で、国家機関の秘密コードを解読してしまうほどだが、精神的な障害を持っていて自閉症的な反応しかしない。その少年を守る羽目になり、様々な危機を孤独に闘い切り抜けるブルース・ウィリスは、次第に少年と心を通わせる。物語が結末を迎える頃には、ふたりには堅い絆ができあがっている。

「レオン」と同じ年に制作された「依頼人」(1994年)も、中年女と少年の物語だった。原作は、弁護士でベストセラー作家のジョン・グリシャムの小説だ。当然、法廷シーンが中心になるし、主人公は弁護士である。「依頼人」が異色なのは、主人公が中年の女性弁護士であること、依頼人が十一歳の少年であることだった。少年は一ドルで弁護士を雇うのだ。このアイデアを思いついたとき、グリシャムは「今度の本もベストセラーだぜ」と思ったことだろう。アメリカは昔から陪審員制度だし、何かというと訴訟になるらしいので、法廷ものの小説や映画は多い。「アラバマ物語」(1962年)だって法廷ものだ。

「依頼人」で女性弁護士を演じたのは、脂がのりきっていた頃のスーザン・サランドンだった。スーザン・サランドンは若い頃から映画には出ているが、中年になってから主演作が増え、どんどん存在感を増してきた。代表作は「テルマ&ルイーズ」(1991年)だろうが、その数年後の「依頼人」でも印象に残る演技だった。つらい過去を持つ女性弁護士。相手は上昇志向の強い検事(トミー・リー・ジョーンズ)で、彼は殺人事件の鍵を握る少年に法をたてにして証言を迫る。しかし、少年は証言すると自身を含めて家族の命がマフィアに狙われることを怖れ、弁護士に救いを求める。スーザン・サランドンとトミー・リー・ジョーンスの演技のぶつかり合いが楽しめる作品だった。

この映画でもスーザン・サランドンは依頼人の少年に愛情を抱き始めるのだが、そこには男女の愛はない。母親が子供に対する愛情に近いものだった。そういえば、「グロリア」も大人の男女関係を連想させるようなシーンもあるけれど、ラストは老女に変装して現れたグロリアが飛びついてきた少年を抱き上げるストップモーションだった。それは、祖母と孫にしか見えない。最後にグロリアに老女の扮装をさせたのは、ジョン・カサヴェテス監督の周到な計算だった気がする。どんな映画も、画面の中のすべてに監督の計算が行き届いているのだろうけれど----

ところで、「リボルバー・リリー」を読み進むと、ラスト近くになってクリント・イーストウッドが警察内の組織的な犯罪の証人である娼婦のソンドラ・ロックを護送する「ガントレット」(1977年)のような展開になってきた。奈加は百合たちを助けるために、死を覚悟して陽動作戦に出る。奈加を数えきれないほどのやくざたちが包囲する。元馬賊の頭目だった奈加だが、助かるとは思えない。一方、霞が関のある場所にいかねばならない百合と少年は、屋形船に乗って東京湾を横切り、帝都の水路を遡る。その屋形船は、鉄板でおおわれている。陸軍は帝都に戒厳令並の封鎖を行い、百合と少年を待ち受けている。とても、切り抜けられそうにはない。やがて、日比谷公園は戦場と化す。一体、ふたりはどうなるのか。

誰か映画にしないか。最初から最後までアクションに充ちているし、追うもの・追われるもののサスペンスにワクワクする。さらに、手を変え品を変えた攻防のアイデアが散りばめられている。映像化には最適な小説だ。派手なアクション映画になるのは間違いない。しかし、主演を張れるのは誰だろう? 個人的には竹内結子(女刑事役で西島秀俊を顎でつかっているし)なんか、よさそうなのだけれど。昔だったら(四十年も前のことだけど)、志保美悦子(ちょっと明朗すぎて陰がないけれど)の役なんだけどなあ。

2016年7月 7日 (木)

■映画と夜と音楽と…734 吉祥寺にあった歌舞伎劇場


【私が棄てた女/宮本武蔵/五番町夕霧楼/月山/喜劇 女は度胸】

●吉祥寺駅から東南の方向へ歩くと劇場があった

もう四十年も昔のことになるが、仕事で吉祥寺によく通っていたことがある。当時、僕は阿佐ヶ谷に住んでいたので、吉祥寺の少し外れに住んでいるイラストレーターの自宅に原稿を受け取りにいっていたのだ。朝、直行したり、夜に受け取りにいってそのまま帰宅することが多かった。吉祥寺の駅から歩くと十分くらいかかった気がする。イラストレーターの自宅は、前進座を越すとすぐだった。

初めて前進座の劇場正面を見たときはちょっと驚いたが、前進座についてはいくぶんかの知識があったので、「ああ、ここがそうなのか」と納得したものだった。それにしても、吉祥寺の駅から十分近く歩く。ここまで、観客がくるとしたら、熱心な人たちなのだろうなと思った。当時、木下順二作「子午線の祀り」の平知盛役が印象的だった嵐圭史が好きだったので、「この劇場に出ているのだなあ」と思いながら眺めていた。当時の僕の前進座についての知識は半端で、「劇団員全員が共産党に入党している」とか、「劇場の裏に宿舎や耕作地があり、劇団員全員が共同生活をしている」といったたぐいの真偽がはっきりしないものだった。

劇団は戦前に設立され、設立メンバーは河原崎長十郎、中村翫右衛門、嵐芳三郎、河原崎国太郎などだった。僕が吉祥寺に通っている頃はすでに次世代が中心になっていて、河原崎長一郎、河原崎次郎、河原崎健三の三兄弟や前述の嵐圭史が活躍していた。また、中村翫右衛門の息子の梅之助が「黒門町の伝七」としてテレビで有名になっていた。大河ドラマ「花神」の主演もこの頃だったろうか。中村翫右衛門、中村梅之助、中村梅雀と見てくると血筋は争えないと思うけれど、だんだん優しい顔になっているのがよくわかる。

ある日、僕がイラストレーターの自宅へ向かってテクテク歩いているとき、向こうから小さな子供と一緒に河原崎長一郎さんが歩いてきた。親子で駅に向かって散歩している様子だった。「ああ、『私が棄てた女』(1969年)だ」と僕は思った。あるいは、その数年前に見てすごく好きになった東陽一監督の「やさしいにっぽん人」(1971年)を思い出していた。それから、僕は「やっぱり、劇場裏で共同生活してるんだ」と納得し、「だとしたら伊藤栄子さんもいるはずだな」と期待した。

僕が中学生の頃だから、五十年ほど前、NHKが夕方に青少年向けの連続ドラマを放映していた。手塚治虫原作の「不思議な少年」は、危機に陥ると時間が止められる能力を持つ少年の話だった。その同じ時間帯だと思うけれど、看護師をめざす四人の若い女性たちの連続ドラマがあった。その中で、しっかり者の看護学校の生徒を伊藤栄子が演じていた。彼女はクールであるが故に誤解され、ひとり孤独に生きている。しかし、その孤独に負けることがない役だった。その四人の中で、僕が好きになったのが彼女だった。

つまり、河原崎長一郎さんと子供を見かけたとき、僕の頭の中には「河原崎長一郎の奥さんは伊藤栄子である。つまり、あの子は彼女が生んだに違いない。ということは、あの劇場裏に伊藤栄子さんも住んでいるのだ。とすると、彼女に出会える可能性も否定はできない」という思いが駆けめぐっていたのである。しかし、その後、何度も同じ道を通ったのに、とうとう伊藤栄子さんには会えなかった。

先日、BS放送を見ていたら、シニア向けサプリメントか健康食品のコマーシャルに伊藤栄子さんが出てきて、印象がほとんど変わっていないのに驚くと同時に懐かしさが湧きあがってきた。彼女の本名は河原崎榮子。夫のことを「長さん」と呼んで、仲睦まじく暮らしていた。しかし、十数年前、三十年連れ添った夫は亡くなった。今の僕と同い年だったから、役者としてはまだまだ活躍できたはずだった。

●中村錦之助主演「宮本武蔵」で武蔵の批判者を演じ続けた

前進座の人たちは劇団を維持するために稼ぐ必要があったのか、映画にはよく出演している。特に河原崎長一郎は、早くから東映作品に数多く出演しており、一時期は中村梅之助と共に前進座の顔のような存在だった。最近は、梅之助の息子の中村梅雀がテレビの二時間ドラマで主演したりして、よく知られる顔になっている。河原崎長一郎の顔を僕が憶えたのは、小学生のときから見始めた内田吐夢監督の(というより、中村錦之助主演の)「宮本武蔵」シリーズだった。

「宮本武蔵」の二作目「般若坂の決斗」(1962年)から五作めの「巌流島の決斗」(1965年)まで、河原崎長一郎は同じ役で出演している。京都の吉岡道場の門弟役である。彼は武蔵の強さに刮目し、その強さの背景にあるものを知ろうとする。ある場合には、吉岡側を客観的に見、あるいは批判的な言辞を吐くので「裏切り者」と言われたりするが、武道の神髄を追求する姿勢が貫かれたキャラクターで、大変に重要な役だった。

しかし、彼は「一乗寺の決斗」(1964年)で、武蔵が吉岡方の幼い名目人を一刀両断したのを目にして、「武蔵、許せん」と斬りかかり、逆に両の目を斬られてしまうのだ。「巌流島の決闘」は一乗寺下り松の死闘をくぐり抜け寺で仏像を彫る武蔵から始まるが、幼子を殺すような男はおいておけぬと寺を放逐される。武蔵が一乗寺下り松にさしかかると、松の近くに小屋ができており、目の見えぬ河原崎長一郎が幼子の供養のために経を唱えている。武蔵の批判者として、彼の存在があるのだ。

同時期、河原崎長一郎は「五番町夕霧楼」(1963年)で主人公を演じている。ヒロインの娼婦役は、佐久間良子だった。水上勉の「五番町夕霧楼」と三島由紀夫の「金閣寺」は同じ金閣寺の放火事件を題材にしているので、主人公の金閣寺の若き修行僧は吃音で、どちらも内面に籠っているような印象を受ける。ただし、三島の「金閣寺」(映画化作品は市川雷蔵主演「炎上」)は修行僧の内面を克明に描き出すが、「五番町夕霧楼」は夕子という娼婦の視点で修行僧を描き出すので、印象的にはまったく違う。

後に松坂慶子と奥田瑛二主演で山根成之監督によってリメイクされた「五番町夕霧楼」(1980年)では、奥田瑛二の吃音症の修行僧が河原崎長一郎が演じたときによく似ているので驚いたものだった。演技に凝る奥田瑛二のことだから、先行作品を研究したのかもしれない。美しさの絶頂期にあった佐久間良子や松坂慶子がヒロインを演じたのでわかるように、これは女優を見せる映画だった。人気女優が肌襦袢の胸も露わに娼婦を演じるのだから、男性客が押し寄せたのである。

●前進座というと河原崎三兄弟を思い出してしまう

河原崎次郎の映画出演は長男の長一郎に比べると少ないが、僕の印象では、あるとき突然に主役で登場したという感じだった。新藤兼人監督の「讃歌」(1972年)である。谷崎潤一郎の「春琴抄」を原作とする作品で、河原崎次郎は佐助を演じた。山口百恵のお琴と三浦友和の佐助で「春琴抄」(1976年)がリメイクされたのは、四年後のことだった。河原崎次郎版はアートシアター系の劇場で公開されただけだったから、山口百恵・三浦友和版ほどは評判にならなかった。

六十を過ぎて芥川賞を受賞したことで話題になった森敦の小説「月山」(1979年)が映画化されたとき、主人公を演じたのは河原崎次郎だった。監督は、倒産した大映で活躍していた村野鐵太郎である。大映時代は「ごろつき犬」(1965年)や「早射ち犬」(1967年)など田宮二郎の「犬」シリーズが代表作だったが、フリーになって文芸作品を撮りたくなったのかもしれない。自らの制作で藤本義一の直木賞作品「鬼の詩」(1975年)や「月山」「遠野物語」(1982年)などを監督した。

次男の次郎と違って、三男の河原崎健三の出演作は多い。清水宏監督の「しいのみ学園」(1955年)を僕が見たのは最近のことだが、小児マヒで足が不自由になった少年が登場した途端、僕は「あっ、河原崎健三だ」と驚いた。このとき、彼は十二歳。子役から出ていたとは知らなかった。ただし、歌舞伎の前進座出身だから幼い頃から舞台を踏んでいたのだろう。僕が初めて河原崎健三を映画で見たのは、「喜劇 女は度胸」(1969年)だった。主に山田洋次監督作品の脚本を書いていた森崎東の監督デビュー作だ。

「喜劇 女は度胸」は、倍賞美津子にとっても初主演作品だった。僕は、公開の翌年、銀座並木座でフーテンの寅の第一作「男はつらいよ」(1969年)と一緒に見た。河原崎健三はまじめで気の弱い役で、男っぽく元気のよい倍賞美津子に惚れてしまう。河原崎健三の一家はめちゃくちゃで喧嘩ばかりしている。トラック運転手で気の荒い兄(渥美清)と父親(花沢徳衛だったと思う)が派手な喧嘩をしている横で、いつも黙って手仕事をしている母親(清川虹子)が、最後にとんでもない秘密を暴露したのが記憶に残っている。この映画の渥美清は女好きで暴力的で、ちょっと怖い。

その後、僕は河原崎健三を大島渚監督の「儀式」(1971年)、神代辰巳監督の「青春の蹉跌」(1974年)、澤田幸広監督の「あばよダチ公」(1974年)などで見た。さらに、忘れられないのは、テレビシリーズ「新 必殺仕置人」(1977年)の第一話に登場した河原崎健三だ。仕置人の元締(元阪神の藤村富美男)のボディガード「死神」役の河原崎健三は、竹で作った目を隠すマスクをして地中から登場した。もちろん、夜のシーンで逆光だった。

一九八〇年、「影の軍団 服部半蔵」公開直前に工藤栄一監督にインタビューできることになった僕は、一番最初にその「死神」のシーンについて「あれ、すごかったですよね」と言ってしまった。監督は苦笑いをして、「ケレンですよ。ケレン」と答えた。「影の軍団 服部半蔵」も、そんなケレンに充ちたシーンがてんこ盛りだった。火術を使う敵役の忍者を演じた緒形拳が、肌を覆う真っ黒な石膏で固めたような鎧を、カランコロンと音を立てて崩していく(もちろん逆光です)シーンは、今も鮮やかに浮かんでくる。僕は映画館で立ち上がり、拍手したくなったものだ。

ところで、前進座に関連して佐藤忠男さんが「戦後映画の展開」(岩波書店)の中で、「どっこい生きてる」(1951年)について書いていた。まだ占領中のレッドパージの時代、今井正監督は都会の最下層の労働者たちを描く「どっこい生きてる」を前進座と組んで制作することになった。今井監督は、この映画を戦後イタリアのネオ・リアリズム映画、特にヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」(1948年)を見て構想したという。しかし、独立プロとしての制作だから、資金集めから始めなければならなかった。佐藤さんは、こう記述している。

----劇団前進座が公演活動をしながら観客から一株五〇円で資金を募集して得た四百万円近い金が資金になった。前進座はかつて山中貞雄監督の時代劇などに出演して多くのすぐれた映画に貢献しているが、戦後は急激に左翼化し、一九四九年には劇団員全員が集団で共産党に入党して世間を驚かせていた。

やはり、並の歌舞伎劇団ではなかったのである。

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

無料ブログはココログ
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31