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2016年8月

2016年8月25日 (木)

■映画と夜と音楽と…739 故郷の訛もいつしか消えた



【青春デンデケデデケデケ/父と暮せば/細雪/悪名/仁義なき戦い/青葉繁れる/祭りの準備】

●長い東京暮らしでディープな讃岐弁に反応できなくなった

実家の両親は今年そろって九十一なのだが、まだまだ元気で自分たちのことは自分たちでしている。なまじ手伝おうとすると、嫌がられてしまう。それはそれでありがたいことなのだが、具合が悪くなっても自分たちで始末しようとするから心配になることもある。先日、母親の足の具合が悪くなり、父が代わって食事の支度をしていた。その翌日、今度は父親が高血圧で起き上がれなくなった。そこで、僕は夕食のおかずを作りタッパーウェアふたつに詰めて届けたのだが、母親は「食べるもんは、ようけあったんや/食べるものは、たくさんあったのよ」と、あまりありがたがらない。「まあ、そのうち食べて」と言いおいて冷蔵庫にしまい、「フン、何だよ」と思いながら(?)裏の家に帰った。

毎日、午前中に一度は実家に顔を出すようにしている。実家の二階には兄夫婦が同居しているので心配はしていないが、やはり一度は様子を見ておきたいのと、新聞を読むのも目的のひとつだった。ひとり暮らしを始めてから、僕は新聞を取っていないのだ。それに、今では実家の猫の散歩につきあうのも日課になった。だから、その翌日にも僕は実家に顔を出し、両親の様子を見てから新聞を読み、猫と戯れ、帰ろうとした。そのとき、母親が「ものご、持っていにまい」と讃岐弁で言った。四十五年間の東京暮らしのせいか、僕は瞬間的に「ものご」という言葉に反応できなかった。一瞬後、「ああ、タッパーウェアのことね」と思った。「ものご」とは「入れもの」のことだ。「入れものを持って帰りなさい」と母は言ったのだ。「いぬ/帰る」「いね/帰れ」「いにまい/帰りなさい」となる。

少し前から琴平電鉄(通称コトデン)が車内や駅で「讃岐弁マナーキャンペーン」というものを展開している。「せっとるけん、こんもにして/混んでいるので(音量を)小さくしてください」とか、「おっりょんのに/降りているのに」とか、「ぐるり見てんまい/周りを見てごらんなさい」といった讃岐弁のコピーにイラストを添えて、車内マナーを教えるポスターが貼られている。僕は電車に乗るたびにしみじみと眺めるのだが、中には「こんな讃岐弁あったかな?」と思うものもある。以前にも書いたが、「青春デンデケデケデケ」は讃岐弁で会話が書かれ、その後に標準語の翻訳がついた小説で話題になった。作者の芦原すなおさんは、香川県の西部、いわゆる西讃の出身だと聞いた。

「青春デンデケデデケデケ」は文芸賞を受賞して、そのまま直木賞を獲得したと思う。団塊世代の青春物語で、ベンチャーズのエレキサウンドに雷に打たれたようにいかれてしまった主人公が、仲間を集めてバンドを結成する物語だ。僕も世代が近いのと、似たようなことを高校時代にやっていたので、共感した部分も多かった。大林宣彦監督が映画化(1992年)し、香川県でロケをした。大林監督は尾道出身なので、瀬戸内海を挟んだ四国の青春に興味があったのかもしれない。映画は異常に細かいカット割りと、やはり讃岐弁が特徴だった。母親役の根岸季衣が「しゃんしゃんしまい/さっさとやりなさい」と言ったのをよく憶えている。

しかし、原作を読んだとき、僕は「こんな讃岐弁、使わないぞ」といくつか違和感を持った。まず、最初の章のタイトルにもなっている「どんどろはん」である。「雷」のことを指すのだが、「どんどろはん」なんて聞いたことがない。それに「あんじゃるい/気持ち悪い」という言葉もよく出てくるのだが、僕は言ったことがないし聞いたこともない。僕の両親は東讃の出身だし、僕も高松市内で育ったが、高松はどちらかと言えば東讃地区になるのではなかろうか。「どんどろはん」という言葉を聞いたのは、井上ひさしの戯曲「父と暮せば」を黒木和雄監督が原田芳雄と宮沢りえで映画化(2004年)したときだった。広島弁では、雷のことを「どんどろはん」と言うらしい。

●井上ひさしは方言にこだわった作家だった

井上ひさしは、言葉にこだわった作家である。本人が東北の出身だったからだろうか、方言にこだわり様々な作品を残した。代表的なのは「吉里吉里人」だろうか。「吉里吉里語」というものを作ってしまった。「父と暮せば」も、すべて広島弁で会話が進む。井上ひさしと方言で思い出すのは、NHKで何回か放映した連続ドラマ「国語元年」である。明治維新、東京には様々な地方人が集まる。新政府の中心は、薩摩と長州だから薩摩弁と長州弁が飛び交う。そこに会津弁やら江戸弁が加わる。その当時、江戸人は薩摩弁を理解し得たのだろうか。たとえば歯切れのいい江戸弁を喋る勝海舟と薩摩弁の西郷隆盛が、江戸城明け渡しをめぐって会談したとき、現在のプーチンと安倍の会談のようにそれぞれに通訳が必要だったんじゃないだろうか。

会津藩は京都守護職を命じられ、さらに新撰組のパトロンになり、尊皇攘夷の浪士を取り締まり斬りまくったから官軍に憎まれ、戊辰戦争で徹底的に攻められ、白虎隊の悲劇なども生まれた(今も会津人は長州・薩摩を敵と思っているらしい)が、そもそも薩摩や長州の人間の言葉は理解しにくかったのではないか。会津弁も独特の訛があり、特に西の人間には通じにくかったかもしれない。「国語元年」には会津弁を喋る佐藤慶が出てきたが、彼は会津出身で普段の会話のときには会津弁の訛があったと聞いたことがある。百五十年前、ネイティブな会津弁スピーカーと生粋の薩摩弁スピーカーが初対面で会話して、コミュニケーションが成立したとは、僕には想像できない。

「メジャーな方言」というのは概念矛盾だと思う。しかし、関西弁は今や誰でも知っている言葉なのだけど、標準語からすれば方言扱いになる(?)。正確には大阪弁というべきだろうと思うが、その中には船場言葉もあれば、河内弁もある。船場言葉が聞けるのは、市川崑が監督した谷崎潤一郎の「細雪」(1983年)だ。「こいさん、たのむわ」という冒頭の言葉で、その世界に入ってしまう。河内弁が聞けるのは、勝新太郎と田宮二郎がコンビを組んだ「悪名」(1961年)シリーズである。昔、僕は今東光の原作小説を読んだのだが、主人公の朝吉はもっとバカなチンピラだった気がする。確かに河内弁で全編貫かれていて、独特の雰囲気を醸し出していた。

大阪・京都はかつて日本の中心だったので、京都弁も方言という気はしない。明治維新以降、方言で有名になったのは、南から見ていくとやはり「ごわす」の薩摩弁、「おまえくさ」の博多弁、「おえりゃせんのう」とか「ぼっけえきょうてぇ」の岡山弁、夏目漱石の「坊ちゃん」のおかげで何とか名を残す愛媛弁、夏目雅子の「なめたらあかんぜよ」の啖呵で有名な「鬼龍院花子の生涯」(1982年)のおかげで全国区になった土佐弁、近畿地方はとばして、語尾が「だぎゃあ」と聞こえる名古屋弁、関東はとばして、東北弁、中でも「津軽じょんがら節」(1973年)などの情緒にあふれた津軽弁が人気があるようだ。

振り返ってみると僕は様々な映画のおかげで、けっこう方言に詳しくなった。中でも映画が有名にしてしまった方言は、広島弁ではないだろうか。「仁義なき戦い」(1973年)シリーズで有名になった広島弁は、日本中のやくざがあんなしゃべり方をするのではないかと錯覚を起こさせる。「わしゃあよう」と語りかけ、「じゃけんのう」で終わる。あれは、第一作の舞台になった呉の言葉ではないのだろうか。だいたい「たま、とっちゃるけんのう」というのは、正式な(?)広島弁なのだろうか。しかし、「父と暮せば」の広島弁と共通している言葉も多いので、広島のネイティブ・スピーカーはあのように話しているのかもしれない。

●讃岐弁の用例を少しずつ採取し始めたのだけど----

高松で生活するようになって、少しずつ讃岐弁の採取を始めた。ノートにメモ程度に書くくらいだが、始めてみると「そうそう、昔、こう言っていたな」と懐かしい。讃岐弁は方言の中でもマイナーで有名ではないが、そこで育った人間には大切なものだ。東京あたりでは語尾に「ね・さ・よ」をつけることが多い。「あのね」「あのさ」「あのよ」という具合だ。讃岐弁では、それが「の」になる。「あんの」「ほいでの」という使用例が散見される。昔、東京からきた気取った転校生が「言葉が汚い」と作文に書いていた。確かに、語尾に「の」をつけると何だか濁った感じになる。

先日、街角で「まっついや」という言葉を耳にした。「ついや」と僕も言っていた。「同じ」という意味である。「ついや」とは「同じである」になり、「まっついや」は「まったく同じである」という意味だ。おそらく「対(つい)」からきたのではあるまいか、と僕は推理している。また「さら」という言葉がある。「新しいもの」あるいは「新品」のことである。「まっさら」とは、「まったくの新品」という意味だ。それから類推すると「まっ」が頭につく場合は「強調」なのだろう。標準語では「真っ白」という言い方があるから、この場合の「まっ」は「真」ではないのか。「真に同じである」あるいは「真に新品である」が、讃岐弁では「まっつい」「まっさら」となるのではないか。

まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか、という人は多いと思うけれど、何となくそんなことを考えているのは楽しい。今は、「こすい」とか「へらこい」、あるいは「がち」という言葉の発生について興味が湧いている。「こすい」とは「ずるい」に近いが、少しニュアンスが違う。標準語でも「こすっからい」という言葉がある。「がめつい」(これも「がめつい奴」という芝居で有名になった関西弁)という意味も少し入るのではないかと思う。「へらこい」は「欲張っている」というニュアンスに、「汚い、卑劣」という意味が加わった讃岐弁だろうか。「へらこげな奴」「こすげな奴」と香川県で言われたら、絶対に怒らなければいけない。

「がち」は、どう説明すればいいだろうか。「がちげにせんの」と子供の頃に食べ物を前にしてよく叱られたものだ。そのシチュエーションから類推すると、「餓鬼」という言葉が浮かんでくる。「腹ぺこで、待ちかねて食べ物に群がる餓鬼」のイメージである。それから推察して「がちげにせんの」を翻訳すると、「腹ぺこの子供が食べ物に群がるような浅ましい真似はしないのですよ」という意味だろうか。しかし「がち」の語感と「餓鬼」はかなり違う。「がちんこ」とか「がちで」と最近はテレビでも使われるが、あの「がち」とは違うと思う。そんなことを考えていると、謎は深まるばかりである。

「青春デンデケデケデケ」のように地方の青春を描くとき、方言は大事な要素になる。たとえば井上やすしが仙台での青春を描いた「青葉繁れる」(1974年)を岡本喜八監督はいきいきと映画にしたし、昭和三十年代に土佐中村の近くの漁村でシナリオライターを夢見る青年を描いた、中島丈博のシナリオを黒木和雄が監督した「祭りの準備」(1975年)など、方言の会話がいっそうの効果を上げた。方言が表わす地方性が、よけいに切なさを漂わせる。地方から上京して夢を叶える、というベクトルが働いていた時代が確かにあった。それは、僕が上京する頃(1970年)にも残っていた。しかし、上京して方言の訛が失われていくことが、彼ら(僕を含めて)の「ある人生」を象徴していたのではないだろうか。

2016年8月18日 (木)

■映画で振り返る昭和の日本  未亡人の時代・後編



お盆時期は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■女性映画の巨匠----------------------------------未亡人の時代・後編

もう一本の未亡人が主人公の「鰯雲」は昭和33年9月の公開ですから、かなり現代に近い感覚があります。「おかあさん」から6年、映画はカラーのワイド版ですし、かなり時間がたった気がします。冒頭、新聞記者の「ご主人は戦争で?」という質問に、「ええ」と答える淡島千景に戦争の傷跡を感じますが、それ以降は戦争の影をほとんど感じません。世の中は未来に向かっているという雰囲気だったのでしょうか。

その年、すでに東京タワーが建設中ですし、野球では西鉄ライオンズの黄金時代でした。昭和31年から33年にかけて、日本シリーズでジャイアンツ相手に三連覇。三年連続で日本一になっています。監督は高松中学出身の三原侑です。クリーンアップは、豊田、中西、大下です。ちなみに私の小学生の同級生に中西太の甥がいました。昭和33年10月の日本シリーズで、西鉄は前半の三連敗から四連勝を果たして三連覇を達成しました。「神様、仏様、稲尾様」と言われたときです。

本田スーパーカブが発売され、フラフープが流行します。日清食品から「即席チキンラーメン」が発売になったのも、昭和33年8月25日ですから「鰯雲」公開の一週間前ですね。一食35円でした。翌年には年間6000万食が生産されました。冷蔵庫も一般家庭に入り始めたのか、この年、冷蔵庫用脱臭剤「キムコ」が発売になっています。

また、缶ビールもこの年の9月15日に初めて発売になりました。スチール缶使用の「缶入りアサヒ」です。プルトップ式の缶が出るのは昭和40年ですから、まだ七年後です。したがって、穴開けの道具が必要でしたが、アウトドアでもビールが飲めるようになり、画期的な出来事でした。350ミリリットル入り75円でした。

そういったことからわかるように、人々の生活は落ち着き経済的にも余裕が出てきます。そんな時代を背景にして作られた「鰯雲」は、東京近郊である神奈川県厚木を舞台にしています。今の厚木市は東京や横浜などに通勤する人たちのベッドタウンです。当時は農地ばかりでしたが、駅前に商店街があり、映画館や新聞社の支局があるような町でした。そうした風景も「鰯雲」に出てきます。

原作は和田傳の農民文学です。それを橋本忍が脚色しました。ヒロインは戦争で夫を亡くし、長男をひとりで育てている農婦です。口うるさい姑がいます。彼女の実家、本家は兄の中村雁治郎が継いでいます。戦前は地主でしたが、農地改革で田畑を減らされ、経済的には厳しい状態です。本家には跡継ぎの小林桂樹、次男で商業学校を出て銀行勤めの太刀川寛、その下に男が二人と女が二人という大家族です。

雁治郎は若い頃は家長の父親に逆らえず、最初の妻は働きが悪いと追い出され、二度めの妻も同じように追い出されてしまい、今は三度めの妻・清川虹子です。戦前、農家の嫁は貴重な労働力だったので、俵も担げない、苗も植えられない嫁は実家に返されることもあったらしい。

そんな父親の時代と、昭和33年当時の長男の結婚観の違いが描かれます。長男の小林桂樹が司葉子と見合いをし、結婚することになるのですが、みっともないことはできないと金もないのに見栄を張ろうとする雁治郎に対して、若い二人は友人たちを招いて会費制で披露宴を開こうとします。

ヒロインの淡島千景は女学校を出たしっかりした女性で、本家の兄の古い考え方と若い甥たちの考え方の両方が理解できます。自らトラクターを使い農地を梳き、経済的には彼女がひとりで支えているのですが、姑に仕えるつらさも知っています。そんな彼女は新聞記者・木村功が農家の実態を取材にきて知り合い、不倫関係になります。

淡島千景の女学校時代の友人で厚木駅前に料亭を出した新珠三千代は、店も繁盛しているしパトロンもいるので優雅に暮らしています。パトロンが設立した自動車教習所に通って免許を取り、まだ数少ない自家用車を乗り回しています。当時、女性ドライバーはまだ少ないのですが、数年後には「一姫、二トラ、三ダンプ」と言われる交通戦争の時代になります。

「鰯雲」は旧世代と新世代、戦前の制度やモラルと戦後の改革や新しい考え方が対立し、世代間の違いが描かれます。遺産相続、舅・姑の老人問題、結婚観、男女関係などです。分家のひとり娘・水野久美が大学へいくという話を聞いた本家の雁治郎が、分家の親に怒鳴り込むシーンがあります。「大学出の娘のところに婿にくる男はいない。おまえたちは百姓をやめるつもりか」というわけです。結局、本家のクレームで娘は大学をあきらめて洋裁学校に通います。

そんな風に今から見れば、とんでもなく封建的かもしれませんが、映画の中では民主主義や個人主義といった戦後の価値観にとまどう旧世代が存在します。今の目で見ればまだまだ戦前のモラル、「個人」ではなく「家」という考え方が強い時代だったと思えますが、現代のモラルが戦後十数年のこの時代あたりから定着してきたのがわかります。

明らかに、戦後は終わっています。映画の中に田圃の真ん中を走る小田急のロマンスカーが映ります。時代は豊かになり始めていたのです。雁治郎にしても、今は農地が削られて経済的に厳しいかもしれませんが、もうしばらくすれば農地を宅地に売って、土地成金になれるはずです。

さて、この映画の冒頭は新聞記者の木村功が淡島千景に農家の現状を取材するシーンです。成瀬映画らしく、具体的な数字が羅列されます。時代的なものがよくわかりますから、その部分を拾ってみました。

木村「養鶏の方は?」
淡島「卵は安くなりましたから、今はもう50羽ほどしか飼っていないんです。月3000円にもなるかしら」
木村「卵も我々買うものの身になると安くないんだが。米が16万8千円、麦と畑もので15万円、養鶏が年に3万から4万として、一年間の収入は35万8千円になりますかね」
淡島「そんなに?」
木村「大ざっぱな計算ですがね。米が七反、畑が五反、合計一町二反の農地を持っていると、だいたい3万程度の月給取りということになりますね。くいっぱくれはないし、こりゃ、割といいですね。」
淡島「そんな計算は無茶だわ。収入だけで、それに伴う支出がないんだもの」

淡島千景は経費・コストが計上されていないこと、農家の労働がいかに大変かを語ります。また、農家の嫁にきてがいないこと、自分の娘だったら農家などには嫁がせないといったことを言います。すでに、そういう時代になっていたのですね。

この当時の大学卒の初任給は、13,000円前後だとのことです。はがきは5円、かけそばが25円、映画の封切りが150円でした。「鰯雲」の中で本家の次男と分家の娘が映画館に入りますが、かかっていたのはスタンリー・キューブリック監督の「現金に体を張れ」でした。この年、映画館の観客動員数は、11億2700万人でした。ほぼ、毎月、全人口が映画を一本見ていたわけです。結局、その年がピークになり、翌年から次第に観客動員数は下がり続けます。

2016年8月11日 (木)

■映画で振り返る昭和の日本----未亡人の時代/前編


お盆時期は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■女性映画の巨匠----------------------------------未亡人の時代・前編

未亡人という言葉は、「夫が死んだときに一緒に死ぬべきだったのに、未だに死んでいない人」という意味なので、現在、あまり使われなくなっている言葉ですが、今回は昭和の古い時代を検証するために「未亡人の時代」と題して、女性映画の巨匠と言われる成瀬巳喜男監督作品を中心にお話したいと思います。

戦後の成瀬作品は、未亡人を主人公や脇役に設定することが多くなりました。女性映画の成瀬と言われますが、内容は「自立する女性」「女ひとりで生きていく女性」を多く描いた監督です。本日、メインで取り上げようと思っている「おかあさん」では田中絹代は途中から未亡人になりますが、妹の中北千枝子は大陸からの引き揚げ者で戦争未亡人です。

時代的には戦争未亡人が多くいた時代ですから、そうした人物が頻繁に登場します。昭和28年(1953年)公開の「妻」という作品にも、主人公の上原謙が心惹かれる女性は戦争未亡人です。「川端康成の時代」の時に取り上げた「山の音」でも、主人公の息子の上原謙の愛人は戦争未亡人でした。ふたりの戦争未亡人が助け合うように一緒に住んでいます。ひとりは洋裁で身を立て、ひとりは子供たちに勉強を教えて生計を立てています。

そんな風に成瀬監督は、ひとりで生きていく女性を描きました。時代のせいか、未亡人の設定が多い。昭和26年の「銀座化粧」の田中絹代はバーのママとして生きている。成瀬作品で最も多く主演した高峰秀子は、昭和35年「女が階段を上がる時」では銀座のバーのママ、昭和37年「女の座」では雑貨屋の長男の未亡人、昭和38年「女の歴史」では美容院を経営する戦争未亡人、昭和39年「乱れる」は食料品店の長男の未亡人、というように夫を亡くした女性を演じます。成瀬映画で、一本だけ主演した淡島千景も司葉子も夫と死別した女性でした。

今回は、昭和27年6月12日公開の「おかあさん」と昭和33年、1958年9月2日に公開になった淡島千景主演の「鰯雲」の二本を見ながら、昭和の日本を振り返りたいと思います。

「おかあさん」が公開された昭和27年6月は、日本が講和条約を結んで、独立したばかりのころでした。その年の4月28日に占領が終わったわけです。6年8ヶ月におよぶ占領時代でした。その日までGHQの許可なく国旗を揚げることはできなかったのですが、その日は堂々と各省庁に国旗が掲揚されました。恩赦もあり、全国の受刑者3600人が出所しました。ただし、今に続く問題ですが、多くの基地が残され、日米地位協定に様々な条件がついたこともあり、多くの国民は「形式だけの独立」と失望したと言います。

一方、沖縄は「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治下」におかれたままです。「国際社会に復帰した祖国日本の慶事を、われわれ琉球人民は無量の感慨をこめて祝福したい。それにしても取り残された嘆息が深く、もがいたところでどうにもならぬあきらめが、われわれの胸を締め付ける」と、当時の「沖縄タイムズ」は書きました。今に続く沖縄の思いですね。

その三日後、昭和27年5月1日は「血のメーデー」事件が起こります。吉田内閣は、皇居前広場を中央メーデーの会場にすることを禁止しますが、メーデー主催者の総評は不許可は憲法違反として地裁に取り消しを求める訴訟を起こします。東京地裁は4月28日、総評の主張を認める判決を下しました。国は控訴し、やむを得ず明治神宮外苑広場を使ってメーデーが開催されますが、デモの後、学生などが警官隊をおしきって皇居前広場に入ります。それを阻止しようと警官隊は催涙弾や拳銃を発射し、デモ隊に死者2名、負傷者約1500名が出る惨事になりました。

この頃、ラジオドラマ「リンゴ園の少女」が美空ひばり主演で放送され、その挿入歌「リンゴ追分」がヒットしました。5月にレコードが発売され、またたく間に70万枚が売れたと言います。その頃になると、レコードを買う余裕も一般的に出てきたのでしょう。戦争から七年、朝鮮戦争で景気はよくなっていました。ただ、まだまだ戦争の傷跡は残っています。「おかあさん」公開の同じ日に、戦後、インドネシア独立戦争に参加した残留元日本兵・軍属20人がスマトラから帰国しています。

「おかあさん」という映画は、森永製菓が全国に「おかあさんをテーマにした綴り方」を募集し、そこで選ばれた作品を元に水木洋子が脚本を書いたものです。ですから、長女役の香川京子の作文を読み上げるようなナレーションで、一家が紹介されるシーンから映画は始まります。力持ちのお父さん、働き者のお母さん、胸を患っているお兄さん、おしゃれ好きでかわいい妹、そして、美容師になるために勉強中の叔母から預かっている従兄弟が紹介されます。一家は戦前はクリーニング屋を営んでいましたが、戦災で焼け出され、今は店を再開するためにがんばっていることが説明されます。

おかあさんは露天で駄菓子を売っている。となりの露天では沢村貞子がマッチなどの実用品を並べている。長女の香川京子は屋台で今川焼きを売っている。同級生たちが洋裁学校に通う途中に声をかけていく。この当時、洋裁はブームでした。洋裁学校は戦後、ものすごい勢いで増えました。その香川京子の屋台の床几では近くの平井ベーカリーの息子、岡田英次が本を読んでいる。今川焼きの旗がアイスキャンデーに変わり、季節が変わったことを知らせます。家では父親がクリーニング店の開店の準備をしている。そこへ療養所から長男が逃げたと電報がくる。母親が恋しくて逃げ帰ったのです。

その後、一家は不幸が続きます。長男が死に、クリーニング店を開いたものの無理がたたって父親も死んでしまいます。ただ、あっさりと描かれるので、そういうこともある。人生ってそういうものだという感じがします。いいこともあれば、不幸なこともある。田中絹代の母親は、そんな風に淡々と物事を受け入れ、子供たちを育てるために懸命に働きます。やさしい母親像が胸にしみます。

街の風景が写ります。成瀬監督はちんどん屋が好きなのか、多くの作品に登場させていますが、ここでも商店街を練り歩くちんどん屋が出てきます。子供たちがついて歩きます。しかし、この時代ですから、道は舗装されていません。土埃がたちます。雨が降れば、そこここに水たまりができます。

また、夏祭りの様子も子細に描かれます。演芸大会があり、香川京子と妹も出場します。香川京子が「花嫁人形」を歌い、妹が踊ります。ふたりとも浴衣姿です。岡田英次も参加します。彼は翻訳小説を読んだり、流行の英語を使ったりのハイカラ好みですから、歌うのは「オー・ソレ・ミオ」です。それを聴いていた両親は恥ずかしそうに会場を去ります。この大会の特等はサンヨーラジオです。ラジオが高価だった時代です。

成瀬映画は、当時の庶民の生活を知るには絶好の資料になります。物価もわかるし、こまかな生活の知恵もあります。田中絹代が子供を夏みかんを買いにやりますが、「果物屋じゃなく八百屋で買うんだよ。値段が違うからね」と指示を与えたりします。

クリーニング屋を再開し、弟弟子の加東大介がやってきます。「ハバロフスクで捕虜をやっていたので、私たちは捕虜のおじさんと呼ぶことにしました」と香川京子のナレーション。ついこの間まで戦争があったのだと身に迫って感じます。戦争はいろんなところに影を落とします。父親の通夜に手伝いにきていた沢村貞子、中北千枝子、岡田英次の母親の三人が、戦死した身内の話をします。

中北の夫は戦死、沢村貞子の夫は勤め先の銀行の宿直室で空襲で焼け死に、パン屋の長男は戦死の通知だけしかこなかった。この後、パン屋の母親が未だに長男が生きているんじゃないかと希望をもっているエピソードが描かれます。みんな、戦争を生き延びて、何とか暮らしている。そういう時代でした。

懐かしいのは、夕方になると豆腐屋のピープーという音が聞こえてきたり、夜遅くなったことを示すのに夜泣きそばが出てくるのも、この時代の映画です。この時代の観客は、夜泣きそばのチャルメラが聞こえてくるだけで、夜の何時頃かがわかったのです。夜食用ですから、夕食からけっこう時間たっています。9時とか10時くらいでしょうか。

父親が死んだ後、加東大介の手伝いを得て、田中絹代はクリーニング店を続けますが、女手ひとつで苦労します。次女は望まれて叔父の養子になります。また、預かっていた甥も、妹の中北千枝子が美容師の試験に受かり、近々、引き取ることになりそうです。加東大介も自分の店を開くために去っていき、新しい小僧と香川京子と三人になることを暗示して映画は終わります。

この映画は私が生まれてすぐの頃の公開ですが、見ているととても懐かしい。街の風景や祭りなどの様子はもちろん、母親が乗り物に乗り付けないので、酔い止めのために貼るつもりでいた梅干しを子供が食べてしまう話など、そうだったよなあ、という感じです。貧しい暮らしを描いていますが、笑えるエピソードやギャグが散りばめられていて、見終わってとてもさわやかな感じがします。

2016年8月 4日 (木)

■映画と夜と音楽と…738 猫・猫・猫


【男と女/ヒマラヤ杉に降る雪/仁義/ロング・グッドバイ/レンタネコ】

●猫好きになったらジャコメッティの言葉が好きになった

男「彫刻家のジャコメッティは知ってる?」
女「知ってるわ」
男「彼はこう言った。『火事になったら一枚のレンブラントより猫を救う』」
女「そして『後で放してやる』----素晴らしいわ」
男「そうだね。芸術より人生だ」

ドーヴィルの海岸を散歩しながら、男と女はそんな会話をする。男はレーサー、女はスクリプター。ドーヴィルの寄宿制の学校にそれぞれ子供を預けており、ある日、面会にきて列車の時刻が過ぎてしまったとき、男は教師に頼まれて女をパリまで車に乗せる。女はスタントマンだった夫を事故で亡くし、男はレース中に瀕死の重傷を負ったとき、精神的にダメージを受けた妻が病院の屋上から飛び降りた。そんな中年の男と女の恋愛を、観客のイメージを喚起する映像で見せたのが「男と女」(1966年)だった。

映像の素晴らしさは、今見ても色褪せていない。クロード・ルルーシュは監督としてより、キャメラマンとしてのセンスが抜群だ。この映画が作り出した三百六十度回転ショットはその後、多くの模倣を生んだが、海岸を犬をつれて散歩する老人のショット、夕陽に映える海岸をその犬が狂ったように跳ねまわるショットなど、映像詩のようなイメージショットが忘れられない。そこに、フランシス・レイ作曲のあまりにも有名になったスキャットがかぶさる。それだけで、スクリーンに埋没する。

しかし、久しぶりに「男と女」を見た僕が括目したのは、冒頭に書いた男と女の会話だった。今年、一月に自宅に帰ったときに我が家にいた仔猫を見て以来、僕はどんどん猫好きになり、今まで何度も見た映画の中の猫の登場シーンを新鮮に振り返ったりするのだ。猫に関心がなかったときには、完全に見過ごしていたシーンである。ということは、登場人物の感情も見過ごしていたということだ。猫を飼っている登場人物(特に孤独に暮らす初老の人物)を、僕はより深く理解できるようになったのである。

たとえば、「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)に登場する日系人に対する差別をまったく持たない老弁護士(マックス・フォン・シドー)は、かわいい猫を飼っているシーンがあるのだが、その猫に対する慈愛に充ちた表情は、この人物の心根の優しさを表していたのだなと気付いたし、僕はその猫が「アメリカン・ショートヘア」という種類だということまでわかるようになった。現在、最も人気のある猫の種類だという。今の僕は、どんな猫でもかわいいと思うが、確かにアメリカン・ショートヘアはかわいい。

また、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「仁義」(1970年)の初老の警部(ブールヴィル)は、一人暮らしで数匹の猫を飼っている。孤独な部屋へ帰った彼が最初にやることは、猫たちに餌を準備することであり、器に水を注ぎ足すことである。パリのナイトクラブのオーナー(フランソワ・ペリエ)の息子を卑劣な罠を仕掛けて逮捕し、息子の釈放を餌にオーナーに密告と裏切りを強要する冷酷非情な警察官である彼をなぜ猫好きにしたのか、改めてメルヴィル監督の意図を分析したくなった。

●朝の散歩をしているうちにいろんな猫が気になり始めた

大昔、僕が猫好きではなかった頃に読んでも面白かった長田弘さんの「猫に未来はない」と「サラダの日々」を読み返していたら、「男と女」のジャッコメッティの言葉が「猫に未来はない」の巻頭に、「火事になったら、一枚のレンブラントより一ぴきのねこを救おう。そしてその後で、そのねこを放してやろう」と引用されていた。アルベルト・ジャコメッティは、よほどの猫好きなのだろう。気持ちはわかる。

僕は仔猫の世話をするうちに、猫と暮らすことがどういう意味を持つのかを知った。一日中、自分の部屋のドアを開けておく。夜、寝ているときにモソモソと仔猫が入ってきて一巡して出ていくこともある。僕の部屋の押入で寝ていることもある。僕の部屋の本棚を登り、天井すれすれのところをゆっくり歩いていることもあった。部屋の中だけで飼っているので、網戸の前に猫座りしてじっと外を眺めている姿を見ると、何だか胸が切なくなるし、不憫に思えてくる。

猫についての体験と知識が増えるにつれ、僕は野良猫(最近は地域猫というのかな)にも感情移入し始めた。早朝の散歩をしていると、今まで気付かなかったのに、いろんな猫を見かけるようになった。そのたびに、僕は「ちゃんと食べているのだろうか」と心配になる。立ち止まり、屈み込み、猫に話しかけている。ほとんどの猫は、じっと止まって警戒しながら、僕を見つめる。僕が立ち上がったり、一歩踏み出すとサッと逃げる。そんな姿を見ると「ひどい目に遭って、警戒心が強くなったのだろうなあ」と、また不憫さが募る。

早朝の散歩コースはいろいろ変えていて、ある日、利根川沿いを歩いていたら、集団の猫に出会った。十数匹はいたと思う。よく見ると、奥の方に生まれたばかりの仔猫たちがいた。しかし、一匹の白い親猫が僕の顔を見つめて、威嚇するように口を開け牙をむいた。本当に怖くなるほどだった。子供たちを守るために、あんなに威嚇したのだろう。僕が立ち止まって仔猫たちの様子を見ようとしたので、「あっちへいけ」と必死で立ち向かってきたのだ。その母親の心情に、また泣きそうになった。ただし、翌日から散歩のコースを変更した。

新しい散歩コースには途中に親水公園があり、そこで三匹の野良猫を見つけた。茶色の猫は警戒心が強くないらしく、僕が二メートルくらいまで近づいても逃げなかった。白と黒のまだら猫は相当に警戒していて、僕の姿を遠くに見ただけで姿を消した。キジトラの猫は中間で、五メートルほどまで寄っても大丈夫だった。彼らを見て僕が心配したのは、やはり「ちゃんと食べているのだろうか」ということだった。翌日、僕は猫の餌をビニール袋に詰めて持参した。

最初は警戒していた三匹も一週間が過ぎる頃には、僕の顔を見るとニャアニャアと鳴きながら一メートルあたりまで寄ってくるようになった。僕は餌を置き、少し離れる。猫たちは警戒しながら寄ってきて、餌を食べる。そんなことを一ヶ月も続けていた。その間に、餌をやっているのが僕だけではないことを知った。ひとりは初老の男性だった。また、ふたりの中年女性は、毎日のように餌を持ってきているらしい。僕のように雨が降ったら散歩に出ないというのではなく、きちんと毎朝、餌を与えているようだった。

七月に入ると、また、四国の実家の裏で暮らすことにしていたから、僕が餌をやり始めてしまった公園の三匹の猫のことが心配だった。僕は六月だけ毎朝、餌を持ってきた気まぐれな猫爺にすぎないのだけど、とりあえず猫たちは猫好きの人々のおかげで何とかなるのだろうと安心した。しかし、早朝、人があまりいないときには、野良猫をかなり見かけたから、僕が心配しなくても彼らはたくましく生き抜いているに違いない。すべての猫の面倒を見るわけにはいかないのだ。にわか猫好きなどいなくても、きっと彼らは立派に生きていくだろう(と思いたい)。

●一人暮らしの家で一緒に暮らす猫が三カ月だけほしい

猫ブームだという。テレビでも猫が出てくる番組が増えたし、コマーシャルにやたらに猫が出てくる気がする。娘が昨秋、棄てられた仔猫を拾ってきて、我が家もにわかに猫好きになったのだが、かみさんに「うちもブームに乗り遅れていないな」と言うと、あっさり「そうね」と返された。ブームと、どこかでシンクロしてしまったらしい。ホームセンターのペットコーナーに頻繁に寄るし、かみさんと娘はいくつかの動物病院にいき、「やっぱり、あそこの先生がいいわね」などと言っている。

エリオット・グールドがフィリップ・マーロウを演じた「ロング・グッドバイ」(1973年)の冒頭、飼い猫のために深夜にマーロウがキャットフードを買いにいくエピソードがある。しかし、いつものキャットフードがなく、仕方なく別のキャットフードを買って帰り、いつものキャットフードの缶に入れ替えて猫をだまそうとする。しかし、猫は食べない。そんなエピソードを僕は何も考えずに見ていたし、「そんなあ、どんなキャットフードでも同じでしょ」などと思っていた。

しかし、猫を飼ってみてわかったのは、そのエピソードが本当だということだった。餌が変わると、猫が見向きもしないことがある。猫は、よくわかっているのだ。また、かみさんによると、最初の頃、猫のトイレ用の砂を安いものに変えたところ、そのトイレを使わなくなったので、あわてて元の高級な砂に戻したということである。環境や食べ物が変わることを嫌がる人もいる。猫も同じなのだ。そんなことがわかってくると、さらに猫に対する愛着が湧いてくる。

そんな風だったから、家族と別れて生活することには特に感慨もなかったくせに、僕は猫と別れて暮らすのが辛くなった。かみさんに「四国に連れていこうかな」と冗談めかして言ってみたが、飼い主は娘であり、あんたには権利はないと却下された。最後に、「実家のタマが待ってるでしょ」と付け足した。確かに、実家には両親が物置で飼っている猫と、兄夫婦が二階で飼っている猫がいる。実家の猫は、今では僕にもすっかりなついているし、二階の猫も人なつっこい。しかし、僕は一人暮らしの家で一緒に暮らす猫がほしいのだ。

そう言えば、「レンタネコ」(2011年)という、猫好きになった今から思えば素敵な映画があった。市川実日子が演じるヒロインはたくさんの猫を飼い、リヤカーを引いて街を歩き猫をレンタルしている。単身赴任している中年男(光石研)も猫を借りる客のひとりだった。あんな商売をしている人、いないだろうか。とぼけた味わいが忘れられない「かもめ食堂」(2005年)や「めがね」(2007年)を撮った荻上直子監督作品だった。荻上作品のテイストが僕は好きなのだが、「レンタネコ」以降、五年も新作を撮っていないみたいだ。

ちなみに、私立探偵フィリップ・マーロウは原作では猫は飼っていなかった。原作者のレイモンド・チャンドラーは猫好きで、愛猫タキを抱いている写真が残っている。それを知っていたシナリオ・ライターが「ロング・グッドバイ」で、マーロウに猫を飼わせたのだろう。ちなみに、このところチャンドラーの長編の新訳を出し続けている村上春樹さんも猫好きだ。奥さんの陽子さんも猫好きで、彼女が撮影した猫の写真がたくさん村上さんのエッセイ集には掲載されている。

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