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2016年10月

2016年10月27日 (木)

■映画と夜と音楽と…748 映画愛に充ちた映画たち


【ニュー・シネマ・パラダイス/ラスト・ショー/マイ・ファニー・レディ/シネマの天使】

●映画のポスターで自宅の壁を埋め尽くした

僕がひとりで暮らしている高松の家は、一階が六畳ほどの洋間に、六畳ほどのダイニングキッチン、洗面所と風呂、トイレがあり、二階が和室で六畳と三畳になっている。風呂と玄関が無駄に広く、トイレが狭い。階段は急で、手すりがなければ落っこちそうだ。酔ったとき(ほぼ毎晩だけど)には、気をつけなければならない。必要最低限の家具しかないので、白い壁が目立っていた。そこで、自宅から映画のスチルなどを送り、少し壁を飾っていたのだが、先日、高松のギャラリーで「外国映画ポスター展」というのが開かれ、全二百枚を即売していた。一枚三百円。嘘のような値段だった。

それに「第一弾」と銘打って開かれたのは「昭和三〇年代から五〇年代」のもので、僕にとってはストライクど真ん中だった。そこで、会場をまわりチェックしたポスターは二十枚ほどになった。少し多すぎるかと気が引けて厳選したが、それでも十二枚以下には削れない。結局、その十二枚を予約した。二週間ほどで会期が終了し、ポスターを受け取りにいき、帰宅するとすぐに壁を埋め尽くしてしまった。「ギャング」「ル・ジタン」「フリックストーリー」「マッキントッシュの男」「組織」「笑う警官」「ブリット」「眼下の敵」「北国の帝王」のオリジナルポスターである。

その結果、今、僕はリノ・ヴァンチュラ、アラン・ドロン、ポール・ニューマン、スティーブ・マックィーン、ロバート・デュバル、ロバート・ライアン、ウォルター・マッソー、ブルース・ダーン、ロバート・ミッチャム、クルト・ユルゲンス、アーネスト・ボーグナイン、リー・マーヴィンなどに囲まれて原稿を書いている。壁の一面は女優特集にしたので、「スエーデンの城」のモニカ・ビッティ、「軽蔑」のブリジット・バルドー、「いつも2人で」のオードリー・ヘップバーンの美しい顔がこちらを見つめている。

展覧会が開かれたのは朝日町にあるギャラリーMONで、コレクションの持ち主は四国新聞の元文化部長だと聞いた。ギャラリーMON代表のKさんは、「映画の楽校」のNさんに紹介してもらった。実はKさんは、映画館の支配人(だったか宣伝部長)をしていたそうで、昔の高松の映画館事情に非常に詳しい人だった。Kさんのいた中劇(中央劇場だったかな)は、僕が中学高校の六年間、毎週のように通った映画館である。中学一年生のときに中劇で「太陽がいっぱい」「リオ・ブラボー」「恐怖の報酬」の三本立てを見たせいで、僕は映画がなければ生きていけない体になった。僕をシネフィル(映画狂)にした元凶なのである。

僕が熱心に映画を見ていた十代、洋画はライオン通りにあったライオン館、田町にあったスカラ座が封切り館で、中劇のような三本立てをやってくれる映画館は救いの神だった。しかし、Kさんはそれ以前の映画全盛期を知る人で、高松市内だけで映画館が十数館あったという。東映だけでも「高松東映」「高松第二東映」「高松ニュー東映」と三館あったそうだ。Kさんは「よく客が入ったのは『シェーン』だったなあ」と言うくらいだから、昭和三十年代のもうかって仕方がない頃の映画館商売を経験しているのである。僕も父に連れられていった「第一電気館」とか「第二電気館」などを記憶しているが、僕が映画に熱中し始めた頃にはもうなくなっていた。

現在、高松にある映画館は「イオンシネマ」と名画座の「ソレイユ」だけである。「イオンシネマ」はイオンタウンの中のシネコンで、十近くのスクリーンがあるから、それだけの数の映画館があるのと同じだけれど、昔の映画館とは趣が違う。どこのシネコンも同じ作りで、映画の記憶と映画館の記憶が重なることはなさそうだ。僕には「『冒険者たち』はライオン館で見たな」とか、「『サウンド・オブ・ミュージック』は中学二年のときに満員のスカラ座で見た」という思い出があるが、そういう形ではもう映画館の記憶は残らないのではないだろうか。

●思い出の映画感が閉館するときに思うこと

映画館の思い出を持つ映画好きの人たちは、映画館の閉館に感慨深いものを感じるだろう。僕も高松にずっと住んでいたら、ライオン館やスカラ座、中劇などの閉館を知ったとき、さみしさを感じたに違いない。自分の十代の思い出が消えていくような気がしたのではないか。高校生になってからは、何度かガールフレンドと一緒にいったこともあったのだ。二十年ほど前、勤め先の近くにある飯田橋・佳作座が閉館したとき、大学時代によく通った映画館だったから、ひどくさみしい思いを抱いたものだった。僕は閉館した佳作座の前を昼休みによく通ったけれど、そこはいつの間にかパチンコ屋になっていた。

映画館の閉館に人生の思い出を重ねる物語は、映画館で映画を見てきた世代には、作品の出来の善し悪しは別にしてたまらないものがある。そのテーマだけで、作品の評価は甘くなる。映写機が映れば、それだけでゾクゾクする。その中でも、名作として名高いのは「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年)である。子供の頃から映画好きのトトは、村の教会が運営するパラダイス座の映写室に入り浸る。映写技師のアルフレード(フィリップ・ノワレ)は、トトに映写を手伝わせてくれる。戦死した父に代わる保護者のような存在だ。

ある日、可燃性のフィルムが映写機のライトで燃えだし、パラダイス座が火事になる。昔のセルロイド製のフィルムは、爆発するように燃え上がったのだ。その炎にあぶられてアルフレードは目をやられ、倒れた彼をトトは助け出す。パラダイス座は建て直され、トトは盲目のアルフレードを手伝って映写を続け、やがて青年になる。彼は恋をし、その恋が実る。しかし、ある日、理由もわからず彼女は彼の前から去る。その傷が彼の生涯をとらえ、彼は女性を信じられない。そんな彼にアルフレードは、「故郷を出ろ」と忠告する。

アルフレードの忠告に従ったトトは、ローマで映画監督として成功する。数十年後、アルフレードの訃報を聞いたトトは、初めて帰郷する。彼は自分の過去に向き合い、パラダイス座が壊されるのに立ち会う。そして、去っていった恋人の真の理由を知り、アルフレードが彼に遺したフィルムを受け取る。そのフィルムをローマに帰ったトトが試写室で映写するのがラストシーンになるのだけれど、作品全編を映画と映画館への思いがおおっていて、映画好きにはたまらない作品になった。エンニオ・モリコーネ作曲のテーマ曲も、今ではスタンダードとしてよく演奏される。

映画館の閉館を青春の終わりに重ねて描いた最初の映画は、「ラスト・ショー」(1971年)ではないだろうか。原作のタイトルは「ラスト・ピクチャーショー」で、五〇年代のテキサスが舞台だった。映画評論家として活躍していたピーター・ボグダノヴィッチ(僕は彼がジョン・フォードにインタビューした本を持っている)が監督した作品だ。ピーター・ボグダノヴィッチは映画マニアが監督になったような人で、自作の中で好きな映画にオマージュを捧げる。久しぶりの監督作品「マイ・ファニー・レディ」(2014年)でも、ヒロインを古い映画が好きな設定にしたり、ラストで映画狂クエンティン・タランティーノを登場させたり、セリフを拝借した先行作品のオリジナルシーンを流したり、ホントに映画が好きなんだなあと思わされる。

●映画はたくさんのことを教えてくれた

日本映画でも映画館の思い出を描いたり、時代の流れで閉館する映画館へのノスタルジックな思いを描いた作品はある。浅田次郎の原作を映画化した「オリヲン座からの招待状」(2007年)などは、その典型である。小説家は映画ファンが多いが、たぶん浅田次郎さんもそうなのだろう。これは想像だが、浅田さんも「ニュー・シネマ・パラダイス」にインスパイアされ、「映画館にまつわる物語」を書きたかったのではないか。浅田さんは、幽霊を登場させたり、タイムスリップを使ったりして、過去に対する思いを描く作家だ。郷愁、ノスタルジー、サウダージなどと表現される、胸の奥にせつなさが湧きあがる物語をつむぐ。

映画館を描くことは、郷愁と寂寥感を描くことに通じる。リュミエール兄弟がスクリーンに映写する形の映画シネマトグラフを発明したのが一八九五年、まだ百二十年ほどにしかならない。トーキーになってからでは、まだ九十年足らずだ。日本で最初の常設映画館「浅草電気館」ができたのが一九〇三年だから、百十三年前である。戦争があり、映画が全盛を極めるのは昭和三十年代前後のほぼ十年間に過ぎない。昭和三十年代後半からは急速にテレビが普及し、映画の観客は減り続ける。映画の歴史は短く、全盛期はさらに短い。まるで「平家物語」だ。だから、映画と映画館を描くことは、「全盛を極め滅びゆくものの美学」を描くことになる。

僕は知らなかったが、広島県福山市に百二十二年の歴史を持つ映画館があった。だとすれば、リュミエール兄弟のシネマトグラフの発明より古い。「浅草電気館」は最初の常設映画館だけど、その映画館「シネフク・大黒座」は当初は芝居などをかけていたのだろう。やがて、活動写真が人気になり、常設映画館になったのではないか。戦争で焼けて再建され、さらに改築され、二〇一四年に閉館した。「大黒座」が閉館するのを知って、企画されたのが「シネマの天使」(2015年)だった。阿藤快さん(映写技師役)の遺作になった作品である。監督は福山出身だという。自らの映画館の思い出を作品に託している。それだけで、映画好きの人間をうれしくさせてくれる。

「大黒座」に勤務するヒロインがいる。新人スタッフで映画館に思い入れがある方ではなく、そのまま系列のシネコンに移るのを屈託なく受け入れる。彼女の幼なじみのバーを営む青年は、子供の頃から大黒座に通うシネフィルで映画を作る夢を持っている。大黒座の社員のひとりは大黒座に思い入れが強すぎて、閉館するのなら辞職すると言い出す。支配人(石田えり)は、祖父が築き上げた大黒座を時代の流れで閉館せざるを得ず、複雑な思いを抱いている。彼女の古い知り合いで、元は極道だったらしい男(懐かしの岡崎二朗)は大黒座閉館に反対し、彼女に「金ならいくらでも貸す」と言う。

地方局のディレクターが「大黒座閉館」をテーマに、ドキュメンタリーを撮っている。彼は古い大黒座の写真を見ていて、ある老人がいつも写っていることに気づく。年代が違っても、その老人はいつも同じ姿なのだ。ある夜、新人スタッフのヒロインが館内を見まわっていると、その老人(ミッキー・カーチス)が観客席にいる。老人に話しかけると、「どんな映画館にも天使がいて、私が大黒座の天使だ」と告げる。この辺になると、僕は少しむずがゆい(気恥ずかしい)ものを感じたが、制作者たちの映画愛に免じて許すことにした。

そう、映画愛である。映画と映画館を描いた作品は、映画への深い愛情に充ちている。その作り手の思いが、見るものを感動させる。「シネマの天使」には、ラストのクレジットタイトルにさえ映画愛があふれていた。日本中の古い映画館、今はなくなってしまった映画館の写真が映されるのだ。僕が熱心に通った映画館もある。僕はいったことはないが、しかし、その土地の人にとっては様々な思い出があったであろう映画館が次々に現れる。「滅びゆくもの」への哀惜の念が湧きおこってくる。

劇中、シネマの天使であるミッキー・カーチスが、取り壊される大黒座の壁面を埋め尽くすように書かれた、観客たちのメッセージをひとつひとつヒロインに指し示し、語る言葉がいい。素直にグッとくる。

----映画は、彼にたくさんのことを教えてくれた。世界の国々についても、愛についても、人生についてもだ。

2016年10月20日 (木)

■映画と夜と音楽と…747 男が料理する姿は美しい


【起終点駅 ターミナル/深夜食堂】

●料理をすることは気分転換に大変向いている

亡くなった写真家の管洋志さんには、若い頃からいろいろなことを教わった。料理についても、ずいぶん教えてもらったものだ。いつ頃だろうか、管さんは「週刊現代」で「男の料理」といった連載を担当し、料理写真を撮り始めた。何を撮影してもうまい人だったが、土門拳賞受賞作家が料理写真に進出したのは意外な感もあった。その頃、料理写真の世界には二、三人の巨匠がいるだけで、料理写真家の多くは巨匠門下の人たちで占められていた。女性誌や家庭向けの雑誌には必ず料理ページがあり、料理写真家の需要は多かったのである。

その巨匠のひとりであるSさんの撮影現場を、僕もカメラ雑誌編集部にいたときに取材したことがある。様々なジャンルの写真の世界に僕が弟子入りするシリーズ企画で、その時には「料理写真家に弟子入り」というテーマだった。弟子入りするなら、料理写真家の第一人者であるSさんしか思い浮かばなかった。女性誌「JJ」の仕事のときに僕はスタジオに入れてもらい、料理写真の最初から最後までを体験させてもらったのだった。

驚くようなことがいろいろあったし、なるほど秘密兵器みたいな小道具もあるのだな、と思うこともあった。ただ、撮影のための料理だから、見た目がおいしそうでシズル感が出ていればいい。場合によっては食材は生煮えだったり、湯気をドライアイスで演出することもあり、その料理は食べることを前提には作られていなかった。

管さんは、既成の料理写真に対して、そのことを鋭く批判した。「食べられない料理を撮影して載せるのか」ということである。さすがにドキュメンタリーの人だった。「俺たちが写す料理は、撮影が終わったらみんなで食べるし、シズル感を逃さないために素早く撮ってしまう。撮り終わっても、温かくておいしいままだ」と管さんは言った。

グルメでもあり、ワインにもうるさくて(自分の事務所の定款にワインの輸入業を入れていたし、ソムリエの田崎さんとも親しかった)、アルコール全般に詳しい人だった。僕は、管さんが直木賞作家の村松さんと組んでアイルランドでウィスキーの取材をした後のある夜、事務所でシングルモルトの原酒を飲ませてもらったことがある。何にでも詳しい人だった。

その後、管さんの仕事の中でも料理撮影の比率はどんどん増えていき、雑誌「danchyu」ではレギュラーで仕事をするほどになった。老舗レストランの取材や京都の料亭の取材などもあり、素早く撮影して被写体にした料理を食べ、ますます舌を鍛えることになった。柏にある噂のそば屋「竹やぶ」についても、管さんは一冊の単行本を出したことがある。

そう言えば管さんはそばも好物で、一度、護国寺の事務所から車で池袋サンシャイン裏のそば屋に連れてってもらったことがあった。「ここは東京で三本の指に入る」と、管さんは言った。確かに、うまいそばだった。「残りの二本にも連れてってくださいよ」と僕はねだったが、残念ながらその機会はなかった。

僕は上京して一人暮らしを始めたときから自炊していたので、料理をするのには慣れている。一人暮らしのときは、ふつうのアルマイトの鍋でご飯を炊いていた。料理だってレシピなんて知らないから、見よう見まねで味を出し、かっこよく言えば創作料理に挑戦していた。数年後、自分で工夫した特製スープを作り、友達には好評を得た。あの頃、今ほどの調味料や食材があったら、かなり凝った料理を作ったのではあるまいか。

六十を過ぎ、高松の実家の裏で一人暮らしを始めてから、また料理が楽しくなった。五十年前とは違い、様々なだしがあり、調味料があり、食材がある。一時期、青梗菜を使った中華料理に凝り、中華の調味料をいくつか揃えた。餡掛けのとろみをうまく作るために、片栗粉を溶かす水との割合を試したり、いろいろ試行錯誤して中華丼を作った。一人暮らしだから、スーパーの袋詰めの野菜を買うと多いので、野菜を冷凍保存するノウハウも学んだ。スペインレストランのオーナーシェフである兄貴分のカルロスにも、いろいろ教えてもらった。

料理をしていて気づいたのは、料理は気分転換に大変よい、ということだった。本を読んだり、原稿を書いたりして頭を使うと、料理がしたくなる。台所で無心にタマネギなどをみじん切りにしていると、いつの間にか頭の中がリフレッシュされている。悩み事など忘れてしまう。鍋をかければ、煮立つのを待っているだけだ。他のことを考えていると、料理に失敗してしまう。煮立ったら何を入れるか、どれくらいの火力で何分煮るのか、そんなことだけを考えている。

●佐藤浩市が丁寧に作るザンギは味がしみていておいしそうだ

----先生、料理、得意なんですね。
----作ってると、何も考えなくてすむから。

「起終点駅 ターミナル」(2015年)は、初老の弁護士を演じる佐藤浩市の料理シーンが映画そのものの肝になっていた。いくつかの料理を作るのだけれど、特にザンギを作る手順を丁寧に描写するところが印象的だ。北海道ではザンギと呼ぶらしいが、要するに鶏の唐揚げだと思う。劇中でも敦子(本田翼)に「他に何て言うんですか?」と問われ、完治(佐藤浩市)は「唐揚げ?」と自信なさそうに答える。それを聞いた敦子は「先生、内地の人なんですね」と言い、「ザンギはザンギですよね。唐揚げだと、何だか味がしみてなさそう」と、ザンギをほおばりながら笑う。

佐藤浩市が丁寧に作るザンギは、味がしみておいしそうである。鶏のもも肉を二枚買ってきて、まな板に広げ、包丁の先でポツポツとランダムに穴をあける。それを適当な大きさにカットして、タレに漬け込む。タレも、醤油、みりん、料理酒、ウスターソースなどを混ぜ合わせるカットできちんと描写する。そのタレのレシピが後半で重要になる。新しく出直そうとする敦子に、完治はザンギのタレのレシピを書いたメモを渡すのだ。それは、初めて敦子にザンギをふるまったとき、敦子が「おいしい。今度、作り方、教えてくださいね」と言ったことを、完治が忘れていなかったからである。その完治の気持ちに敦子は感激して抱きつき、「作り方、わからなかったら訊きにきていいですか」と問いかける。

その敦子の問いに完治がどう答えたかは、映画を見ていただくのがいいと思う。親子以上に年の離れた男女の物語だ。ふたりの間に流れる感情の機微を読みとるのが、「起終点駅 ターミナル」のおもしろさである。テレビの恋愛ドラマや高校生カップルの恋愛劇ばかり演じてきた、本田翼の新しい面が見られるのも新鮮だった。彼女が演じるのは、やくざな男から覚醒剤を覚えさせられた、風俗や水商売で生きてきた若い女である。「中卒で漢字もまともに読めないから、ふつうの事務員は無理でしょ」というセリフもある。

完治は僕より若い設定だが、世代的にはわかる部分があった。七〇年代後半に学生生活を送り、司法試験に受かって判事になり、エリートコースを歩んでいたが、学生時代に一緒に暮らしていたのに突然姿を消した恋人(尾野真千子)が、ある日、自分の法廷に被告人として現れる。完治は、彼女が別れのプレゼントとして置いていったモンブランの万年筆を、ずっと使い続けているようなロマンチストだ。モンブランのケースには「戦え、鷲田完治」と書かれたメッセージが入っていた。彼女には執行猶予がつき、完治は彼女の暮らす小さな町に月に一度通うようになる。

だが、ある日、悲劇が起こり、完治は東京にいた妻子とも別れ、二十五年間、釧路の片隅で貧乏弁護士として生きてきた。個人からの依頼は受けず、仕事は国選しかやらないと決めている。まるで、自分を罰しているかのようだ。毎日、裁判所まで歩き、決まった道を歩いて帰る。途中、キャバクラの呼び込みを無視し、市場で鶏肉を買う。あばら屋と形容できそうな古い家だ。「鷲田法律事務所」とさびた郵便受けに書いてある。

そんな鷲田完治は、覚醒剤所持で裁かれる敦子の国選弁護人になり、執行猶予の判決が出た後、敦子が訪ねてくる。彼女の依頼を断った埋め合わせか、完治はできたてのザンギの食事に敦子を誘い、そこから若い女との交流が始まる。彼女は十五で家を出て、十年も帰っていない。夜の仕事で生きてきたが、どこか爽やかさを感じさせる存在だった。ある日、熱を出した敦子を完治は病院に連れていき、自分の家に泊めることになる。やがて、彼女の存在が完治を生まれ変わらせる。

●手際よく丁寧に一心に料理をする姿は本当に美しい

大人の男が料理をする姿は美しい。自分のことを言っているわけではない。佐藤浩市も、「深夜食堂」(2014年)の小林薫も、手際よく、丁寧に料理をする。一心に料理をする姿は、本当に美しい。その背中から哀愁が漂い、その手先から料理のおいしそうな香りが漂い始める。作られる料理に、長く生きてきた男の人生が込められているのではないか、とさえ思えてくる。手を抜かない。きちんと下拵えをし、仕込みをし、時間をかけた料理だ。

凝った料理とは違う。シンプルな料理でも、下拵えから始めると様々な手順が必要だ。それを面倒がらずにやるところに、料理の楽しさがある。手軽に簡単に手早く作る(最近は、そんな食品がたくさんある)のは、男の料理ではない(と力む必要もないし、女性だって同じだと思うけれど)。手抜きをせずに生きてきた男は、手抜きをした料理を作ることはできないのだ。そんなことを、「深夜食堂」の小林薫を見ながら思った。

テレビドラマ「深夜食堂」(2014年)の評判は聞いていた。それが映画になって初めて見たので、テレビドラマから見ている人には当たり前のことも新鮮に思えたのかもしれない。監督は、僕のひいきの松岡錠司。高校生のときに8ミリ作品ででPFFに入賞し、僕がその作品を見たのはもう三十数年も昔のことになった。「バタアシ金魚」(1990年)の頃は新人監督だったのに、いつの間にかベテラン監督である。

「深夜食堂」の主人は謎の人物だ。原作のマンガでは片目に丹下左膳みたいな傷のある怖い顔をしているが、懐の深い料理の達人である。毎回のエピソードは、何かの食べ物にからんでいる。映画版も、いくつかのエピソードを脚色して作っていた。どのエピソードも心に沁みる余韻を残すが、無銭飲食をするみちる(多部未華子)の物語がやはり中心だろうか。彼女も料理の腕はすぐれており、すぐれた味覚はマスターの作る料理のおいしさを理解する。

金のない彼女を雇い、食堂の二階に住まわせ、仕入れから下拵えをまかすのは、マスターが彼女の腕を認めたからである。そこには、料理を通じて人間を理解し、コミュニケーションが成立するという、昔ながらの剣豪話のような精神性がある。達人は達人を知るのである。彼女の腕は卵焼きのような単純な料理で試され、老舗料亭の女将に認められる。その女将は「深夜食堂」のマスターと何かの関係があるらしい。マスターの料理の腕は、一流料亭の女将も一目置いている。やはり、謎の人だ。だから、「深夜食堂」のマスターが作る料理には、彼の人生が反映しているように見えてならない。

2016年10月13日 (木)

■映画と夜と音楽と…746 黒澤嫌いを改める?


【幕末太陽傳/羅生門】

●京都から高松まで一本の映画を見にくるほどの熱烈なファン

先日、高松で自主上映活動をしている「映画の楽校」の102回目の上映会で少し話をさせてもらった。五月の百回記念上映会でも話をさせてもらったので、今回が二回目だった。五月のときは「1951年の原節子」というタイトルで、小津安二郎監督の「麦秋」と成瀬巳喜男監督の「めし」の二本立てだった。1951年、昭和二十六年。僕が生まれた年だ。僕は「麦秋」公開と「めし」公開の間に生まれたことになる。この年、原節子は黒澤明監督の「白痴」を含め、三本の作品に出演している。名作ぞろいの充実した年だった。

九月の「映画の楽校」は「蘇ったフィルムたち」と題して、フィルムセンターがデジタル補修したニュープリントの「幕末太陽傳(1957年)と「羅生門」(1950年)の二本に、「映画の楽校」を主宰してきたN校長の趣味(?)で舟木一夫主演「その人は昔」(1967年)を加えた三本立てだった。朝十時から始まり、終わったら夕方五時近いという長丁場である。僕のトークは、昼休み明けの四十分ほどだった。これから上映する作品についてはネタばれになっても困るので、見所のポイントを話しただけで、主に午前中に上映された「幕末太陽傳」について(というより川島雄三監督について)話した。

五月のときは四百人以上の観客だったが、今回は二百人強の入場者だった。あいにくの雨が祟ったのだろうか。昨年末に原節子が亡くなっていたのがわかり、大きくニュースになった。その余韻が続いていて、五月の原節子特集に観客が集まったのかもしれない。僕の話が受けたのかどうかはわからないが、もう一度呼んでくれたので、そうひどい評判ではなかったのかもしれない。ロビーにはNさんが手配してくれた「映画がなければ生きていけない」全五冊が並べられ、来場者はその分厚さに驚いていた。五冊まとめて買ってくれた人がいて、サインを頼まれ照れ隠しに「重いでしょう」と言いながら下手なサインをした。

今回、Nさんに聞いて驚いたのは、舟木一夫ファンの問い合わせがけっこうあったということだ。「その人は昔」はDVDも出ておらず、上映される機会もないという。京都から「その人は昔」を見るためだけにきた、熱烈な舟木ファンもいるという。確かに、僕の話が終わり、「その人は昔」の上映が始まると、けっこうな人がワサワサと入場してきた。その人たちは、「その人は昔」が終わると「羅生門」など見向きもせずに会場を出ていった。その徹底したファンぶりに驚く。ちなみに、舟木一夫の高松公演が翌月に予定されており、四国新聞やタウンペーパーなどで告知宣伝していた。

舟木一夫は東映や日活での出演作が多いので、東宝作品「その人は昔」を僕は知らなかった。相手役は、人気絶頂の頃の内藤洋子である。何しろ、始まってすぐに馬に乗って登場した内藤洋子は、大ヒット曲「白馬のルンナ」を歌う。舟木一夫の相手役というと、東映なら本間千代子、日活なら和泉雅子、松原智恵子といったところだった。「高校三年生」(1963年)は大映で映画化され、姿美千子と倉石功の恋人コンビに脇役で舟木一夫がからむ。「その人は昔」は、今年亡くなった松山善三の原作・脚本・監督である。おしどり夫婦で有名だったから、高峰秀子と再会できて喜んでいるのではないか。

「その人は昔」は、撮影監督が岡崎宏三さんだった。岡崎さんは戦前から撮影監督として活躍した人で、名キャメラマンとして名を成した。「その人は昔」の映像も見事で、特に自然風景が美しく印象に残る。岡崎宏三さんにインタビューしたのは、四十一年前だったなと思い出が甦った。出版社に入社した年の五月、僕は黒澤明監督作品をほとんど撮影していた東宝の中井朝一さんと、岡崎宏三さんを取材したのである。中井さんは黒沢監督がソ連で撮影する「デルス・ウザーラ」の準備中だったし、岡崎さんは市川崑監督の「吾輩は猫である」(1975年)を完成させたところだった。

岡崎宏三さんのインタビューをしたとき、前作「雨のアムステルダム」(1975年)の話が出た。萩原健一と岸恵子のラブ・ロマンスだった。海外ロケが多く、「エマニエル夫人」(1974年)に出ていたフランス人俳優アラン・キュニーなども登場する。三国連太郎、当時人気があった劇団四季の松橋登も出ていた。監督は蔵原惟繕である。記事を作る上で、その「雨のアムステルダム」の岡崎さんが話をしたシーンの写真がどうしても必要になり、僕はまだ二番館でかかっていた「雨のアムステルダム」を調べ、上映館に一眼レフカメラと三脚を持ち込み画面を撮影した。今なら警察に通報されるだろうなあ。その前につまみ出されるか。

●数十年ぶりに見た「羅生門」のラストで涙を流した

「幕末太陽傳」は何度も見ている好きな映画だし、川島雄三監督のファンでもあるので、とりあえず四十分ほど川島雄三監督のことについて主に話をした。しかし、いつものことだが、話す前は緊張するので、スクリーン裏の楽屋でひとりで準備をしていた。音声だけが楽屋に流れる。それで、どのシーンかはわかるし、映像も浮かんでくる。「幕末太陽傳」が終わり、僕の話も無事に終了したので、「その人は昔」の後、久しぶりにゆっくりした気分で「羅生門」を見た。何年ぶりだろうか。少なくとも三十年ぶりくらいではないだろうか。

「羅生門」は、銀座並木座で十八のときに初めて見たが、翌年、大学に入って岩崎昶先生の「映画論」を履修したら、最初の授業のときに「羅生門」を見せられた。大学一年の前期いっぱい使って「羅生門」の分析を講義として聞いた記憶がある。テキストは岩崎先生が岩波新書から出していた「映画の理論」だった。その中に、「羅生門」が詳細に分析されている。岩崎先生が、戦争前から左翼系の映画評論家として名を成し、中国に渡って映画製作に関係し、戦後、李香蘭が帰国したときに受け入れる用意をした人だと知るのは、ずいぶん後のことだった。

その岩崎先生の「羅生門」の講義が甦ってくる。大きな労働争議によって東宝で映画が作れなくなった黒澤明は、「羅生門」を大映で制作した。大映の名キャメラマン宮川一夫は溝口健二とは多く組んでいるが、黒澤明が組んだのは「羅生門」が最初である。岩崎先生の講義では、世界を驚かせた宮川一夫のキャメラワークや太陽を画面に写し込んだ大胆な構図なども詳細に分析していた。盗賊(三船敏郎)が女(京マチ子)を抱くシーンでは、ふたりを高いヤグラに乗せ、キャメラを仰角にして背景に太陽を入れ込み、ギラギラした印象の画面を作ったのは有名になった。

「羅生門」には、三つの場所しか出てこない。崩れかけた羅生門、検非違使庁の庭(お白州みたいなシンプルさ)、それに事件が起きる森の中だ。登場人物も少ない。羅生門では木こり(志村喬)、僧侶(千秋実)、下人(上田吉次郎)の三人。森の中では盗賊、武士(森雅之)、その妻だけである。お白州では巫女(本間文子)が出てきて、死んだ武士の魂を憑依させ事件のいきさつを語る。最初に森の中で武士が死んでいる事件が示され、事件の当事者三人がそれぞれに証言するのだが、みな自分の都合のいいように話を作る。

さらに、最後にその事件を目撃していた木こりが話をし、それらの話を聞いていた下人が「それが一番本当らしいな」と言う。そのとき、羅生門に赤ん坊の泣き声が響き、捨て子が見つかる。その赤ん坊をくるんでいた着物を下人が剥いで持ち去ろうとし、僧侶と木こりが「それでも人間か」と止めようとすると、「赤ん坊を棄てる親の方がよほど鬼だ」と言い返す。さらに木こりが責めると、下人はあることを木こりに告げ、「おまえだって自分の都合の悪いことは隠したじゃないか」と言う。下人が指摘したことは当たっていたのか、木こりは怯み、下人は去る。

僕が黒澤作品が苦手なのは何度も表明してきた。だから、数年ぶりに見た「羅生門」のラストシーンで涙を流すことになろうとは思いもしなかった。しかし、僕は「羅生門」のラストシーン、「わしには六人の子供がいる。六人育てるのも、七人育てるのも苦労は同じだ」と言って、赤ん坊を抱いて去っていく志村喬の姿を見たら、自然と涙が出てきてしまったのだった。「人間は自分勝手なもので、自分の都合のよいことしかいわず、自己を正当化し、美化して恥じない存在。人間は信じられるのか」というのが「羅生門」のテーマであり、それから六十六年経った現在、そんなことで観客は驚かなくなっているが、「それでも人間の善なるものは存在する」というラストシーンのメッセージは、確実に僕に届いたのだ。

僕は黒澤作品の露骨なメッセージ性、卓越した師と未熟な弟子という単純な構図、大仰な芝居、大雨や強風といった極端な自然描写などが嫌いで、何度も見る「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」といった作品もいろいろつっこみながらながら見ていたりする。あまり見たくない作品としては、「生きる」「生きものの記録」「どん底」「蜘蛛巣城」などと共に「羅生門」があった。一番好意が持てるのは「素晴らしき日曜日」であり、素直にいいなと思ったのは「静かなる決闘」だった。「天国と地獄」「悪い奴ほどよく眠る」はサスペンスがあり、よくできたスリラーで面白いが、好きではない。特に「天国と地獄」は仲代達矢が演じた警部が、「今、逮捕しても死刑にできない」と犯人を泳がせ(裁き)、その結果、麻薬中毒者の女を警察が見殺しにする設定に違和感を感じてしまう。

しかし、「羅生門」のラストの露骨なメッセージに泣いてしまった今、僕は改めて黒澤作品を見てみようかと思い始めた。しかし、その場合でも、見るのはモノクローム最後の作品「赤ひげ」までだろうな。カラー作品になった黒澤映画は、やっぱりなじめないのだ。

2016年10月 6日 (木)

■映画と夜と音楽と…745 四十年演じ続けたキャラクター


【クリード チャンプを継ぐ男/ロッキー/ランボー/勝利への脱出】

●「ロッキー」が日本で公開されたのは39年前のことだった

ひとりのボクサーの人生を四十年にわたって演じ続けることは、俳優にとってどんな意味を持つのだろうか。「クリード チャンプを継ぐ男」(2015年)を見ながら、そんなことを考えた。「ロッキー」(1976年)が日本で公開されたのは、一九七七年四月十六日だった。そのとき、僕は二十五歳だった。

アメリカにとっては一年前に、泥沼のベトナム戦争がパリ講話会議を経て終結したばかりだった。建国二百年を迎えた一九九六年、その記念の年に「ロッキー」は制作されたのだ。悪夢のようなベトナム戦争が終わり、建国二百年を迎えた年、アメリカ人は貧しく報われなかった若者が、懸命な努力の末に栄誉と恋人を勝ち取るシンプルな物語に感動し、熱狂したのだった。

三十路を迎えようとしていた貧しい無名の青年は、ある日、建国二百年祭のイベントとして企画されたボクシングの試合を見て、王者モハメド・アリと闘う挑戦者チャック・ウェブナーの姿に共感した。ほとんど知られていなかった挑戦者は果敢なファイトを見せ、売れない役者だった青年に強い印象を残した。青年は自分の人生と生活を主人公に反映させ、三日間で一本のシナリオを書き上げた。

青年の名前は、シルヴェスター・スタローン。イタリア系移民の子だ。荒れた少年時代を過ごし、大学で演劇に目覚め俳優をめざしたが、五十回以上もオーディションに落ち続け、金のためにポルノ映画にさえ出演したこともあった。三十を目前に、夢を追い続けるか、あきらめて堅実な生活を送るか、そんな岐路に立っていたのかもしれない。彼は結婚したばかりだった。

三十になっても場末のリングでファイトをやっている貧しいボクサー、ロッキーはスタローン自身だったに違いない。ボクサーでは食えず、借金の取り立てをやって、何とかその日暮らしをしているような有様だ。ボクシングからは離れられないが、将来に希望があるわけでもない。スタローンも同じだった。役者では食えなかった。

ロッキーの生活の中で、唯一の潤いは近所のペットショップで働くエイドリアン(タリア・シャイア)と話すことだった。しかし、シャイなふたりの会話は、すれ違ってばかりである。容貌に自信のないエイドリアンは、男が自分に関心を持つなどとは思えない。しかし、ロッキーは心の底からエイドリアンを恋している。

一方、最強のチャンピオンとして君臨するアポロ・クリード(カール・ウェザース)は、話題づくりのために無名のボクサーとの試合を組む。挑戦者にチャンスを与えるというのだ。その挑戦者にロッキーが指名される。とても、勝てそうにはない。しかし、老トレーナーのミッキー(バージェス・メレディス)は言う。「俺はひとりで辛い思いをした。それで得た知識をおまえに与えてやりたい。俺が面倒をみてやる。俺の二の舞を演じさせたくない」と。

ロッキーは、過酷なトレーニングを始める。フィラデルフィアの町を走り、港を走り、片手腕立てをし、生卵をいくつも飲む。そして、あのシーンがやってくる。誰もが知ることになるあのテーマ曲が流れる。トレーニングウェア姿のロッキーが、長い石段を駆け上っていく。上り切ったところは、フィラデルフィア美術館だ。

その美術館の広場で、ロッキーは両手を上げてガッツポーズをし、何度も何度もまわり続ける。やがて、試合が始まる。誰もが早いラウンドで、チャンピオンがロッキーをKOすると思っていた。しかし、ボロボロになりながら、ロッキーは最終ラウンドまでファイトを続ける。果敢なインファイターだ。

----最後のリングが鳴っても、まだ立っていられたら
  俺がゴロツキじゃないってことを初めて証明できるんだ

エイドリアンに語った決意の言葉が、ロッキーを最終ラウンドのゴングが鳴ってもリングに立たせていた。瞼を腫らし、ほとんど目がふさがった状態で、ロッキーは「エイドリアン!!」と叫ぶ。それは、映画の中でロッキーがアメリカン・ドリームを実現した瞬間であり、現実の世界で無名の俳優シルヴェスター・スタローンが一躍スターになり、アメリカン・ドリームを実現した瞬間でもあった。「ロッキー」は主人公の人生と、それを演じたスタローンの人生が交錯した、希有な感動作だった。

●スタローンのサクセスストーリーがロッキーと重なった

三日間で書き上げたシナリオは、映画会社の興味を引いた。しかし、スタローンは自分が主人公を演じることを条件にした。映画会社は誰も知らない俳優を主役に起用するほど甘くはない。だが、そのシナリオは魅力的だった。最終的に、スタローンがロッキーを演じることで制作がスタートした。しかし、そんな作品に大金はかけられない。

監督には、低予算で仕上げるのに定評があったジョン・G・アヴィルドセンが指名された。アヴィルドセンも、決して恵まれた経歴ではなかった。ハリウッドで助監督として働いていたが、初めての監督作は低予算のポルノ映画だった。しかし、「ロッキー」は彼にアカデミー監督賞をもたらせる。他にも、作品賞と編集賞を獲得した。

「ロッキー」は、奇跡的な作品だったのだ。スターの出ていない低予算の作品。監督だって、低予算で撮るからという理由で選ばれた。出演者たちも、コッポラの妹で「ゴッドファーザー」シリーズに出演して知られてはいたが、美人女優とは言えない地味なタリア・シャイアがヒロインであり、バージェス・メレディスも名脇役ではあったが地味な老優であり、エイドリアンの兄でロッキーの友人を演じたバート・ヤングも出演作の多いとぼけた俳優だったが、日本では名前を知る観客はほとんどいなかった。

そんなマイナスばかりを集めたら、びっくりするほどのプラスになったのである。テーマ曲だって、今や知らない人はいない。スタローンにとって、ロッキーは分身だったのだろう。大ヒットしてシリーズになったが、二作目からはシナリオだけでなく監督も自分で担当した。

三年後の「ロッキー2」(1979年)は脚本・監督・主演、六年後の「ロッキー3」(1982年)も脚本・監督・主演、九年後の「ロッキー4 炎の友情」(1985年)も脚本・監督・主演、十四年後の「ロッキー5 最後のドラマ」(1990年)は監督に再びアヴィルドセンを迎え、自身は脚本・主演、さらに三十年後の「ロッキー・ザ・ファイナル」(2006年)は脚本・監督・主演である。スタローンは、「ロッキー」を誰にも渡したくなかったに違いない。

その「ロッキー」シリーズからスピンオフした形の「クリード チャンプを継ぐ男」は、スタローン演じるロッキーが登場するものの、ロッキーの物語ではない。アポロ・クリードに、愛人との間に息子がいたというエピソードから物語は始まる。施設で喧嘩を繰り返すアドニス。ある日、隔離された独房に品のよい黒人の中年婦人が訪ねてくる。

父を知らないというアドニスに、「あなたのお父さんはアポロ、最強のチャンピオンだった」と教える。彼女の養子になり成長したアドニスは、ネクタイをしたビジネスマンとして成功しているにも関わらず、宿命的にボクシングの世界に入っていく。彼は、フィラデルフィアにやってきて、ロッキーに「トレーナーになってくれ」と依頼する。

「ロッキー・ザ・ファイナル」で三十年の人生に始末をつけたはずなのに、ある日、スタローンは若い監督から四十年後のロッキーの人生を演じてくれないかとオファーを受けたのだろうか。それは、自らが結末をつけたロッキーの物語を、別の視点で描くものだった。スタローンはそのオファーを受けたとき、どんな気持ちだったのだろう。

そこにはアポロと引き分け、アポロとの再試合に勝ってチャンピオンになり、アポロをリング上で殺したソ連のボクサーにリベンジし、隠退してトレーナーになり、さらに復活して闘い、息子に背かれ、恩人のトレーナーを亡くし、エイドリアンに先立たれたロッキーの人生が描かれていた。スタローンの四十年とロッキーの人生が重なるように見えた結果、「クリード チャンプを継ぐ男」でスタローンは初めてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。

●スタローンがアカデミー賞を獲得する最後のチャンスだった

今年の三月、アカデミー賞授賞式を見ながら、僕は「スタローンに助演男優賞を----」と祈り続けた。もっとも、レッドカーペットでインタビューを受けた七十を迎えたスタローンはまだまだ若かったし、鍛えた肉体は維持していたけれど、僕にはどこか寂しさを感じさせた。

四十年に及ぶハリウッド・スターの生活は華やかなものだったろう。「ロッキー」で実現したアメリカン・ドリームを、スタローンは維持し続けてきたのだ。六十を迎えて「エクスペンダブルズ」シリーズ(2010~2014年)を作り、かつてのライバルたち(アーノルド・シュワルツェネッガー、ドルフ・ラングレン、ジャン=クロード・ヴァンダムなど)を冗談のように出演させ、派手なアクションを展開していた。

「エクステンダブル」という言葉は、スタローンのもうひとつのヒットシリーズの二作め「ランボー怒りの脱出」(1985年)の中で印象的に使われている。北ベトナムの捕虜収容所に囚われているアメリカ人捕虜を救い出すランボーを助ける女案内人に、彼は「俺はエンステンダブルだ」と言い、彼女は強い調子で「ユー・アー・ノット・エクステンダブル」と否定する。そのとき、字幕には「あなたは捨て石じゃないわ」と出た。三十一年も前に見たそのシーンが、僕の記憶にくっきりと残っている。その案内人が殺され、ランボーは反撃する。

しかし、シルヴェスター・スタローンは、「ロッキー」ではアクションスターとして登場したのではなかった。確かに鍛えた肉体はボクサーらしかったが、「ロッキー」では演技そのものを賞賛されたのだ。喋りはモゴモゴしている感じはあるけれど、もしかしたら演技派の俳優になる選択肢もあったのではないだろうか。

「ロッキー」の次に彼が脚本を書き主演したのは、名匠ノーマン・ジュイソンが監督した「フィスト」(1978年)だった。全米長距離トラック組合で権力を掌握していく野心的な主人公を演じた政治的なドラマだ。続く「パラダイス・アレイ」(1978年)では原作・脚本・監督・主演をつとめ、プロレスの世界を背景にイタリア系三兄弟を描いた。

巨匠ジョン・ヒューストン監督の「勝利への脱出」(1980年)では、マイケル・ケイン、マックス・フォン・シドーなどの名優と共演し、ドイツ軍チームとサッカーで対戦する連合軍捕虜チームのゴールキーパーを演じた。彼はチームのムードメイカー的な存在であり、重要な役だった。

イギリス軍将校でありサッカーの名選手だったマイケル・ケインとは違い、サッカーの経験もないくせにチームに入りたがる軽薄なアメリカ兵士役のスタローンは健闘していた。彼らは試合の途中で脱走するはずだったが、脱走より試合を優先する。今でも僕は思い出すが、初めてこの映画を見たとき、ラストシーンで僕は涙を流した。

そんな作品に出ていたスタローンが単なるアクションスターに成り下がったのは、「ランボー」(1982年)がヒットしたからだ。それでも一作めはベトナム帰還兵の悲しみが全編を覆っていたが、二作めについてレーガン大統領が「私は『ランボー怒りの脱出』を見た。アメリカが今何をなすべきか、私にはわかっている」と発言して大ヒットした。

それ以後、スタローンは、撃ち合いや爆破シーン満載の、派手ではあるが単純なアクション映画ばかりに出るようになってしまった。「ランボー」シリーズが行き詰まると、「クリフハンガー」(1993年)に出るという具合である(面白かったけど)。その結果、六十になっても自分の過去のヒット作のパロディのような、「エクステンダブルズ」シリーズで稼ぐしかなくなった。

しかし、そのシルヴェスター・スタローンが初めてアカデミー賞にノミネートされたのだ。アカデミー会員も、これがスタローンに賞を渡すラストチャンスだと思ったのではないだろうか。これだけハリウッドに貢献してきた男だ。ここを逃せば、八十を過ぎたスタローンに名誉賞を授与するしかなくなってしまう。

しかし、それまでに死んでしまったら、死後授与になってしまうではないか。そんなことを思いながら、僕は助演男優賞の発表を待った。ノミネートされた五人の俳優たちのアップが映る。「オスカー・ゴーズ・ツー」の後「マーク・ライアンス」と呼ばれた瞬間、スタローンは落胆の表情をし、やがて寂しい笑顔を浮かべ、拍手を始めた。

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