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2016年11月

2016年11月24日 (木)

■映画と夜と音楽と…752 忍者たちはプロレタリアートか?


【十七人の忍者/忍者狩り/忍者秘帖 梟の城/風の武士/赤い影法師/忍びの者】

●近鉄特急で名古屋から伊勢神宮へ向かった

仕事を完全リタイアしてから僕にしては珍しく、自宅と実家を行き来する間を利用して少し旅行をしている。京都と奈良にいき、金沢をまわり、今回、実家から自宅へ帰る途中に伊勢神宮にいったみた。年を重ねると、やはり一度はいっておきたいと思うようになったのだ。伊勢神宮を詳しく紹介するテレビ番組を見た影響もある。テレビの旅番組は昔からよく見ていたが、最近は自分でもいってみたくなる。

十一月半ば、高松から名古屋へいき、そこでかみさんと落ち合った。名古屋駅から街をブラブラして名古屋城まで歩き、金の鯱を見た。帰りは別のルートで古い町並みや商店街を抜け、名古屋駅から栄までいきホテルに泊まった。翌朝、近鉄特急で伊勢市に入り、まず外宮をまわった。内宮まで距離があるということだったけど、最近は歩くのが苦にならないのでかみさんとブラブラ歩き、途中、フレンチ・レストランでランチをして内宮に到着。後で調べたら、人気のあるレストランだったらしい。

内宮は確かに広い。テレビ番組で教えてもらった穴場の撮影場所なども見てまわり、三時過ぎにはけっこう疲れてしまった。バスで伊勢市駅まで戻り、JRの各駅で泊まる予定の津まで戻ろうと誰も乗っていない列車に腰掛けていたら、不審に思ったのか車掌さんに行き先を訊かれた。「津です」と答えると、「この電車、途中で二十分ほど止まったりしますから、松阪駅で後からくる快速に乗り換えた方がいいですよ」と教えられた。それで、二両の電車から四両の快速に乗り換えて津に到着し、ホテルに入ってから夕食に出た。

翌日は、伊賀上野にいく予定だった。JRで亀山駅までいって乗り換えなのだが、奈良方面からやってきた二両の電車が目の前で切り離され、一両で伊賀上野へ向かう。四十数分、山の中を走る各駅列車を楽しんで、伊賀上野で降りると駅前には数台のタクシーが停まっているだけで、人もいないし、店も開いていないし、何もない。駅で訊くと、そこから私鉄に乗り換えて上野市駅で降りると、観光案内所などもあるという。しかし、もう降りてしまったので、タクシーに乗り、お城に向かうことにした。

伊賀上野は、忍者と芭蕉の街である。お城を囲む公園には、忍者博物館や芭蕉の記念館もある。まず、忍者博物館に入る。入り口を間違って別の引き戸から入ると、いきなり抜き身を持ったおじさんが目の前にいた。おじさんは数人の観光客相手に、忍者刀の解説をしているのだった。持っている刀は、実際のものと同じ重さがあるという。客には手に取らせて重さを実感させるらしく、僕も抜き身を差し出されて受け取った。確かに重い。かみさんも重さを実感したらしい。

土間での解説が終わると座敷に上がり、忍者屋敷のからくりをくノ一姿の若い女性が解説してくれる。壁のどんでん返しや隠し部屋など、隣にいた中国人の若い女性はいちいち感心して声を挙げていた。今は外国の観光客の方が「ニンジャ」に興味があるのかもしれない。TBSテレビの「サスケ」は、「ニンジャ・ウォリアーズ」といった名前でアメリカでも放映されているようだし、アニメの「ニンジャ・タートルズ」も最近、ハリウッドで実写化された。

マコ岩松が東洋の某国の重要人物で、彼を守るボディガードとして雇われた主人公(ジェームス・カーン)が襲いくる忍者たちを拳銃で撃ちまくったのは、サム・ペキンパー監督の「キラー・エリート」(1975年)だった。もう四十年前の映画になった。船の墓場のような廃船が浮かんだ海の真ん中で、忍者たちは後から後から現れる。ペキンパーが全盛期から下り坂に入った時期の作品だが、僕は早川書房から出ていた原作を読んでいたので期待して見にいったものだった。もちろん、撃たれた忍者はスローモーションで海中に落ちていく。

●六〇年代の初めには司馬遼太郎も忍者小説を書いていた

僕が小学生の頃、忍者ブームが起こった。少年漫画誌の巻頭特集には「これが忍者だ」という図解が掲載され、組立付録には十方手裏剣がついていた。白土三平が「サスケ」を連載し、横山光輝が「伊賀の影丸」や「片目猿」を連載した。「伊賀の影丸」の得意技は「木の葉隠れ」で、連載を重ねるにつれて木の葉の渦はダイナミックになった。後年、山田風太郎作品をほとんど読破したとき、「伊賀の影丸」第一部に出てくる特異体質を持つ敵の忍者たちは、風太郎の忍法帖シリーズにヒントを得ているのだとわかった。

忍者ブームは、小説から始まったのだろうか。山田風太郎の忍法帖シリーズはエログロ扱いされたが、柴田錬三郎や司馬遼太郎などの忍者小説も人気があった。五味康輔の「柳生武芸帖」も忍者である霞の兄弟が活躍する。マンガでは、白土三平の功績が大きいだろう。物語の間に術を合理的に解説し、リアルな忍者物語を描いた。「忍者武芸帖」(1967年)は、大島渚監督が映画化(アレを映画化というのか自信はないけれど)した。リアルな忍者映画を大量生産したのは、東映だった。「伊賀の影丸」(1963年)だって、松方弘樹主演で映画化されたのだ。不死身の忍者・阿魔野邪鬼は、山城新伍だった。

東映は、忍者ブームで制作した作品でいくつかの名作を生み出した。「十七人の忍者」(1963年)や「忍者狩り」(1964年)などである。どれも、リアルな描写が特徴だった。忍者とは訓練された人間のことであり、スーパーマンではないという前提で、これらの集団抗争時代劇は作られている。「十七人の忍者」は城の奥深くに守られたお墨付きを奪う使命を帯びた十七人の幕府の隠密たちが、ひとり、またひとりと命を落としながら、使命を果たそうとする物語であり、「忍者狩り」は幕府隠密によって改易になった藩の浪人たちが隠密に狙われた藩に雇われ、幕府から送りこまれた忍者たちを狩り出す物語である。

「十七人の忍者」で幕府隠密の忍者たちを迎え撃つのは、雇われ忍者の近衛十四郎である。彼は根来の忍者であり、忍者の怖さを知らない城の侍たちの理解を得られないまま孤独に戦う。「忍者狩り」でも、忍者たちを狩り出す浪人たちの首領を近衛十四郎が演じている。草として藩に潜入している忍者を狩り出すために、彼は怪しいと思われる藩士数人を縛り、ひとりずつ斬っていくという残忍さを見せる。その徹底したやり方をに藩士たちが離反し、ここでも彼は孤立する。悲壮な表情の似合う近衛十四郎だから、半死半生で敵の大将・闇の蔵人と差し違えるシーンは実に壮絶だ。

こうした東映の忍者映画は六〇年代前半から作られ始めた。錦チャンやひばりの明朗時代劇が飽きられ、リアルな殺陣や残酷描写が時代劇に取り入れられたのだ。その頃、後に国民作家となる司馬遼太郎も忍者小説の担い手で、東映でいくつか映画化されている。ひとつは直木賞受賞作「梟の城」を工藤栄一監督が映画化した「忍者秘帖 梟の城」(1963年)であり、ひとつは加藤泰監督が映画化した「風の武士」(1964年)である。「風の武士」の主人公を演じた大川橋蔵には、柴田錬三郎原作の「赤い影法師」(1961年)もある。

司馬遼太郎の「梟の城」は、中井貴一主演で三十六年後にリメイクされた。監督は篠田正浩である。最初に主人公の葛籠重蔵を演じたのは、大友柳太朗だった。ヒロインは高千穂ひづるだったが、リメイク版では鶴田真由になった。伊賀忍者の重蔵は信長の伊賀攻めを生き延び、やがて太閤秀吉の命を狙うようになる。重蔵に対抗心を燃やす同じ伊賀忍者の風間五平や、敵方の甲賀忍者・魔利洞玄、徳川に雇われた服部半蔵など、様々な忍者群が登場する血沸き肉躍る大活劇だ。司馬さんも、若い頃にはこんな楽しい物語を書いていた。

●「忍びの者」は左翼思想を基調にしたプロパガンダ映画か?

映画界に忍者ブームを呼び起こしたのは、もしかしたら市川雷蔵が主演した「忍びの者」(1962年)だったのかもしれない。大映で作られたこの作品は大ヒットしてシリーズ化され、八作まで作られた。ただし、最初の主人公は石川五右衛門で、途中から「忍びの者 霧隠才蔵」(1964年)のタイトルで霧隠才蔵が主人公になった。テレビでも一年間の連続時代劇(1964年7月~1965年7月)として放映さた。主人公の石川五右衛門を演じたのは品川隆二。どちらかと言えば、僕はテレビ版の方に思い入れが強い。

「忍びの者」は、冒頭、若き石川五右衛門が頭領の百地三太夫の妻に誘惑され密通する。それをたてに五右衛門は頭領から信長暗殺を命じられ、京都に潜入する。何度か信長暗殺を試みるが失敗し、合理主義者の信長は忍者の存在が許せず伊賀攻めを行い伊賀は壊滅状態になる。その戦いの中で、五右衛門は百地三太夫と対立する一方の頭領である藤林長門守が百地と同一人物だったのを知る。百地三太夫を演じたのは怪優・伊藤雄之助で、百地三太夫として登場した彼は、忍者屋敷のからくりを使って百地砦を抜け出し、変装して藤林長門守になるシーンがある。観客には早くから二人が同一人物だと知らされるのだ。

「忍びの者」シリーズは市川雷蔵の代表作になったが、監督の山本薩夫にとっても大ヒット作となり、その後の映画製作がやりやすくなった。中学生の僕は、山本薩夫監督は左翼の人だと思っていた。戦前からマルクス主義に傾倒し、戦後は東宝の大労働争議で組合側闘士として活躍し、日本共産党に入党した人である。作る作品も共産党的なものが多かった。その監督が、何と「忍びの者」を作ったのだ。僕は意外な気がしたが、ある人から「忍びの者」の原作者である村山知義は戦前からのプロレタリア作家なのだと教えられた。

えー、だとすると「忍びの者」もプロレタリア文学なのかと思い、学校の図書館にあった分厚い「忍びの者」を借り出した。何とか読了した僕は、どこがプロレタリア文学なのかわからなかったが、「忍びの者」は一九六〇年十一月から一九六二年五月まで日本共産党の機関誌「赤旗」に連載されたのは確かだった。プロレタリア文学ではなかったにしろ、左翼的プロパガンダが展開されているのかもしれなかった。「赤旗」に連載された小説を、日本共産党御用達である山本薩夫監督が撮るのは何の不思議もないではないか。しかし、主演の市川雷蔵は、そんなことは関係なかったのだろうなあ。

もしかしたら民衆と権力の構図を、戦国時代の武将たちの権力闘争と虐げられた忍者たちの関係の中に描いたのか。そんなことを、僕は考えた。同じ頃、白土三平の「忍者武芸帖 影丸伝」は唯物史観によって描かれた作品だという批評を何かで読み、そんな小難しいものなのかとも思った。白土三平はすでに月刊漫画誌「ガロ」で「カムイ伝」を連載しており、「その唯物史観に貫かれた権力者と民衆の関係を深化させている」と、ある批評家は分析しており、単におもしろいマンガとして読んでいた僕は、そんなことはまったく理解できず、コンプレックスを抱いた。

ということで、今でも市川雷蔵(藤村志保もよいです)の「忍びの者」を見ると、僕の頭の中には「唯物史観」だとか、「左翼プロパガンダ」だとか、「プロレタリアート」だとか、「日本共産党」といった言葉が浮かんでくるのである。

2016年11月18日 (金)

■映画と夜と音楽と…751 映画は戦場だ


【最前線物語/拾った女/東京暗黒街 竹の家/四十丁の拳銃】

●「気狂いピエロ」のパーティーシーンに登場する映画監督

「サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか」は、僕の「映画がなければ生きていけない」シリーズと同じA5判・上下二段組で七百五十頁を越える枕本だった。背幅は五センチある。四百字原稿用紙に換算すると二千枚を優に越えるだろう。価格も六千円だ。しかし、一九〇二年に生まれ、二十代から映画の脚本を書き始め、第二次大戦には志願して歩兵として従軍し、戦後、「地獄への挑戦」(1949年)で監督デビューし、一九九七年に八十五歳で亡くなるまで、映画を作り続けた男の全人生を語るには足りなかったのかもしれない。

僕がサミュエル・フラーの名を知ったのは、十八歳のときに見たゴダールの「気狂いピエロ」(1965年)に印象的に登場したからだった。ジャン=ポール・ベルモンドが最初の方でパーティに出かけるのだが、そのパーティで壁にもたれてグラスを持つサングラスのアメリカ人が出てくる。彼は映画監督だという。ベルモンドは「映画とは何ですか?」と問いかけ、彼はひと言「映画は戦場だ」という印象的なセリフを吐く。それがサミュエル・フラーの初めての映画出演だった。もちろん、ゴダールはサミュエル・フラー監督にオマージュを捧げているのである。

映画監督が尊敬する監督がいる。サミュエル・フラーも後進の監督たちにレスペクトされ、その後、様々な映画に出演している。ドイツ出身のヴィム・ヴェンダース監督に乞われて、「アメリカの友人」(1977年)「ことの次第」(1981年)「ハメット」(1982年)に出ているし、フィンランド出身のアキ・カウリスマキ監督の「ラ・ヴィ・ド・ボエーム」(1992年)にも出演した。映画監督たちに尊敬され、その風貌を買われて彼らの作品によく登場したということで、昔から僕はサミュエル・フラー監督と鈴木清順監督は共通すると思っている。サミュエル・フラー作品は、日活時代の鈴木清順作品のように、カルト的な人気を誇っていた。

サミュエル・フラー監督は自伝を読むと早熟だったらしく、父親の死後、家族とニューヨークに出て十一歳から新聞の売り子を始め、やがて新聞社の小僧に潜り込んで編集長に可愛がられ、別の新聞社に十六歳の新聞記者として雇われる。その後、小説を書き始め、初めての小説は一九三五年に出る。二十三歳のときである。小説は亡くなる四年前の一九九三年まで書き続け、十二の作品を発表した。映画の脚本は一九三六年、二十四歳で手がけ、一九三八年には年間で三本が映画化されている。その後、作品数が減少するのは、軍に志願し歩兵としてヨーロッパ戦線で戦ったからである。

「戦争映画を得意とした監督」と言われることが多かったサミュエル・フラーだったが、本物の戦争を何年も経験していたのだ。自伝の中でも従軍中の話には多く割かれていて、百五十頁ほどのヴォリュームである。写真も掲載されていて、中にはロバート・キャパがフラーを撮影したものもいくつかある。フラーは三年間に及ぶ歩兵時代を後に「ビッグ・レッド・ワン」(1980年)という小説にまとめ、それを原作に「最前線物語」(1980年)を作る。日本公開は、一九八一年の一月末だった。今でも僕は、「最前線物語」の公開を待ちわびていた頃を憶えている。サミュエル・フラー監督作品としては、異例の前宣伝が行われたものだった。

百戦錬磨のベテラン軍曹を演じたのは、リー・マーヴィンだった。彼の小隊に配属される若き兵士たちは、マーク・ハミル(「スターウォーズ」の三年後ですね)などが演じた。兵士たちは軍曹に指揮され、様々な戦場を経験し、兵士として鍛えられていく。そして、ノルマンディー上陸作戦がやってくる。淡々とした描き方なのだが、戦場のリアリティのようなものがスクリーンから伝わってきた。後に「プライベート・ライアン」(1998年)が「まるで本物の戦場のようだ」と言われたが、あれは音響などによるテクニカルなもので、「最前線物語」のジワジワと伝わってくるものとは違っていた。ちなみに、スピルバーグ監督の「1941」(1979年)にもフラー監督は出演している。

●サミュエル・フラー監督はフィルム・ノアールを得意とした

サミュエル・フラーが監督として最初にヒットさせたのは、「鬼軍曹ザック」(1951年)である。僕は、この映画は朝鮮戦争を舞台にしていると思っていたが、何とアメリカ公開が一九五一年の一月だった。朝鮮戦争が始まったばかりの頃に映画化していることになる。映画の中に、おかしな仏像が登場したり、東洋の描き方に違和感を感じる部分もあるのだけれど、今では貴重な作品になっている。自伝を読むと、五作目の「パーク・ロウ」(1952年)は十代で経験した新聞業界を扱った作品らしく、興味を引かれるが僕は見ていない。六作目の「拾った女」(1953年)はフィルム・ノアールとして名高く、昔、見たことがある。主演は、僕の大好きなリチャード・ウィドマーク。冒頭、ウィドマークが電車の中でスリを働くシーンが印象的だ。

僕にとってサミュエル・フラーは「戦争映画の監督」ではなく、「フィルム・ノアールの監督」だった。まず、東京を舞台に撮った「東京暗黒街 竹の家」(1955年)がある。伝説の映画である。主演は、後にテレビシリーズ「アンタッチャブル」のエリオット・ネス役で日本でも有名になるロバート・スタックだ。彼が選ばれた理由は日本では有名ではないので、ロケでも騒がれないだろうということだった。あるアメリカ人が殺され、彼の友人がアメリカからやってくる。男は殺された男の妻(シャーリー・ヤマグチ)と恋仲になったり、日本の警部(早川雪洲)と連携したりして、東京に巣食うアメリカ人ギャング団を突き止める。

冒頭でアメリカ人が殺される場所は、富士山が見えている。フジヤマ、ゲイシャくらいの認識しかない時代のハリウッド映画だから、日本人が見ると変なところは多いのだけど、当時の東京の光景は貴重だ。最後の銃撃戦は、銀座松屋デパートの屋上遊園地を使っている。ギャング団のボスはロバート・ライアン。キャストも豪華だった。シャーリー・ヤマグチは山口淑子のこと。戦争中は、中国人スター李香蘭として活躍した。戦後、山口淑子の名で黒澤明作品などに出ていたが、ハリウッドに渡りシャーリー・ヤマグチとして出演した。当時、彼女は彫刻家イサム・ノグチと結婚していた。

昨年だったか、WOWOWで「フィルム・ノアール特集」として、「クリムゾン・キモノ」(1951年)と「殺人地帯U・S・A」(1961年)が放映された。どちらも、サミュエル・フラー監督作品だ。「クリムゾン・キモノ」は、最初に女が射殺される事件があり、戦友だったふたりの刑事が登場する。白人と日系人の刑事だ。日系人刑事を演じたのが、ジェームス繁田。年とってからのジェームス・繁田はよく見たが、若い頃の姿を見るのは初めてで、ハンサムなのに驚いた。ロサンジェルスの日本人街リトル・トーキョーが背景になっていて、タイトルからわかるように日本文化がいろいろ登場する。

ふたりの刑事は事件を追い、ある証人を見つける。美人のアーチストだ。彼女をふたりで護衛することになり、白人刑事がひと目惚れをする。しかし、ある夜、日系人刑事と彼女が親密になり、親友が惚れている相手だと日系人刑事は自分の心を抑制するが、彼女は日系人刑事に好意を寄せる。それを知った白人刑事と日系人刑事の対立があり、戦友だったふたりの間に亀裂が入る。そのとき、日系人差別の問題を出してくるのが唐突な感じがしたけれど、戦後十四年という時代性を考えれば、そういうものかとも思う。アメリカ人の多くは「ジャップ」と口にしていたし、パールハーバーを忘れていない。

「殺人地帯U・S・A」の主人公の少年が成長してクリフ・ロバートソンになって出てきたときは、懐かしいなあと思った。六十年代に主演作が何本かあるB級スターである。悪ガキだった主人公は、ある夜、路地裏で父親が三人の男たちに殴り殺されるのを目撃する。やがて成長し、刑務所から出獄した主人公は暗黒街の組織に潜り込む。そこで、父親の仇を見つけ、復讐を始めるのだ。典型的なB級ノアールだが、当時の観客にはショックを与えただろうと思えるシーンがいっぱいある。サミュエル・フラー作品には大スターは出てこないし、あまりお金もかかっていない。B級作品の扱いだったのだろうか。

●「四十丁の拳銃」は異色西部劇として突出している

サミュエル・フラー監督の人気は、日本で言えば東宝の岡本喜八、東映の加藤泰、大映の三隅研次、日活の鈴木清順といった職人監督たちの評価と共通するものがある。大作は作っていないが、戦争映画、暗黒街映画、西部劇などを地味な俳優を使って作り続け、カルト的な人気が出て、ゴダールやヴェンダースなどの芸術派監督たちにオマージュを捧げられ、そのことで改めて脚光を浴び過去の作品が注目された。「気狂いピエロ」に出演した頃、サミュエル・フラーは五年間も新作を撮っていない。その後、評価が高まり、代表作「最前線物語」を作る。映画会社も力を入れて広報宣伝をするような扱いになった。しかし、すでに七十近くになっていた。

僕が一番好きなサミュエル・フラー作品は、「四十丁の拳銃」(1957年)だ。当時、日本で名を知られていたのは、女牧場主役のバーバラ・スタンウィックくらいではなかろうか。他の出演者たちはバリー・サリヴァン、ディーン・ジャガーと言われても、今では誰も知らないだろう。もっとも、僕もバーバラ・スタンウィックを知るのは、この映画から十年近く後、テレビシリーズ「バークレー牧場」の女牧場主としてだった。新人リー・メジャースの人気が出た「バークレー牧場」の母親役バーバラ・スタンウィックは、馬に乗る姿も凛々しくて見事だった。

後に「四十丁の拳銃」を見て、この映画に出たから「バークレー牧場」の役をオファーされたのではないかと僕は思った。映画が始まってすぐ、見事なシーンがある。主人公が街道を馬でやってくると、馬の大群がやってくる。バーバラ・スタンウィックを先頭に、四十人の男たちが四十頭の馬に乗って疾駆してくるのだ。馬群が主人公をかすめて走り抜けていくのだが、その撮影がすごい。ローアングルのカットなどをインサートして細かく編集し、迫力を出す。イーストウッド監督主演「ペイルライダー」(1985年)の冒頭シーンは、このシーンに影響を受けているのではないか。「四十丁の拳銃」を見ることができたのは二十年ほど前のことで、いろんな映画を見て驚かなくなっていた僕が、「凄い」と思わず口にした。

----「四十丁の拳銃」は、異色西部劇にしたかった。キング・ヴィダーの「白昼の決闘」(46)、アンソニー・マンの「復讐の荒野」(50)、ニコラス・レイの「大砂塵」(54)といった、わたしに霊感を与えてくれた先駆的異色西部劇群に比肩するものにしたかったのだ。

フラーは、自伝にそう書いている。結果は、ここに例として挙げられた西部劇以上のものになったと僕は思う。それにしては、見ている人が少ないし、西部劇ファンの人でも見ていない人がいる。「四十丁の拳銃」は必見です。ビリー・ワイルダー監督がレイモンド・チャンドラーと喧嘩しながらシナリオを仕上げた作品「深夜の告白」(1944年)と並んで、バーバラ・スタンウィックの代表作でもある。

2016年11月10日 (木)

■映画と夜と音楽と…750 ハズレのないふたり


【ハドソン川の奇跡/フライト】

●世界中の人々が知っている事件をどのように描くのだろう

見たいなあと思っていたのだけれど、人に強く勧められてクリント・イーストウッド監督、トム・ハンクス主演の「ハドソン川の奇跡」(2016年)を見た。「イーストウッドとトム・ハンクスにハズレなし」とつぶやきながら、僕は映画館に向かったものだ。最近の映画は二時間ないとダメと思っているのか、どれもこれも二時間前後あり、長い作品だと三時間近くあるのも珍しくない。よい映画なら時間を忘れるが、二時間が長いと感じる作品も多い。しかし、「ハドソン川の奇跡」は九十六分である。ただし、ラストのクレジットタイトルも見逃してはいけないから、九十六分すべてを見てほしい。

世界中の人々が知っている事件を扱っているだけに、どのように描くのだろうと思っていたが構成がすばらしい。冒頭にワーナーのクレジットタイトルが出た途端、すぐにコクピットからの緊急通信が始まった。音声だけで、映画が始まる前から緊張させる。実は構成について詳しく書くだけでネタバレになる部分があり、あまり触れられない。しかし、回想を巧みに織り交ぜながら、現在時(不時着水後)の進行を見せていく。機長(サリーの愛称で呼ばれ、それが原題になっている)の判断は正しかったのか、空港へ引き返せたのではないか、と事故調査委員会に疑われ、パイロットの職を追われるかもしれないストレスを受けているのが現在時である。

ラストのクレジットタイトルに出てきた原作本の著者には、機長ともうひとりの名前が出ていた。機長に取材して、プロのライターが書いているのだろう。原作がどのように書かれているのか興味があるが、映画的には時制を超越する構成にしたのかもしれない。映画は、自由に回想シーンを入れられる。機長が複葉機で操縦を習い始めた青年(さすがにトム・ハンクスは演じていない)の頃の思い出、軍に入っていたのかジェット戦闘機が故障しながらも見事に着陸させた思い出などが、いきなりインサートされたりする。ちなみに戦闘機シーンのパイロットの声はトム・ハンクスだったが、ヘルメットとマスクでパイロットの顔はわからなかった。

トム・ハンクスの声としゃべり方は、僕もすっかりなじんでいる。落ち着いた穏やかなしゃべり方だし、日本風に言えば口跡がいい。ハドソン川に着水し、水が入ってくる機内で乗客たちに「救命胴衣をつけて外に出てください」と誘導するシーンがあるけれど、あの声としゃべり方で言われたらパニックは起こらないのではないか。観客はトム・ハンクスに感情移入するだろうから、調査委員会の連中がみんな悪役に見えてくる。もちろん、ラストで観客をスカッとした気持ちにさせるために、彼らは映画の中の憎まれ役に設定されているのだ。百五十五人の乗客を救った英雄を、彼らは「空港に引き返せたのに、あえて乗客を危険にさらす判断ミスをした機長」として扱う。

デンゼル・ワシントンの映画に、「フライト」(2012年)という作品がある。監督はロバート・ゼメキス。主人公の機長は突然の故障に遭遇し、とっさの判断で奇跡的な不時着をする。しかし、その後、事故調査委員会に不審を持たれ、操縦中にアルコールを摂取した疑いが浮上する。副操縦士の証言や乗員たちの証言が、それを裏付ける。真相はどうなのか、機長はどう行動するのか、と思わせ、ラストまで目が離せない。この作品は、「ハドソン川の奇跡」と騒がれた事故の後に作られたもので、僕はそれにインスパイアされたのではないかと思いながら見たものだった。

●八十六歳のイーストウッドも六十歳のトム・ハンクスも絶好調

それにしても、八十六歳のクリント・イーストウッド、六十歳のトム・ハンクス、どちらも絶好調ではないか。トム・ハンクスは僕より五歳若いが、イーストウッドの出世作であるテレビ・シリーズ「ローハイド」を子供の頃に見ていた世代だ。「荒野の用心棒」(1964年)の頃は八歳、「ダーティ・ハリー」(1971年)の頃でも十五歳である。そのふたりが初めて組んだのが「ハドソン川の奇跡」だ。イーストウッドが監督あるいは出演した作品にハズレはないし、トム・ハンクスが出ていれば落胆することはない。

自身が主演し監督した「グラン・トリノ」(2008年)で頂点を極めたと僕は思ったが、その後もイーストウッドは作品を作り続け、どの作品も水準以上というすばらしさである。「インビクタス/負けざる者たち」(2009年)「ヒアアフター」(2010年)「J・エドガー」(2011年)「ジャージー・ボーイズ」(2014年)「アメリカン・スナイパー」(2014年)と続いている。さらに、監督はしなかったが野球の老スカウトマンを演じた「人生の特等席」(2014年)は、気持ちのよい作品だった。「グラン・トリノ」と同じように偏屈で口の悪い老人を演じると、イーストウッドの魅力が満開になる。

僕が初めてイーストウッドを見たのは、たぶん「ローハイド」だと思うのだけれど、その記憶があまりない。だいたい、「ローハイド」は四国高松で放映されていなかったのではないか。長く続いたシリーズだから、後半は放映されたのだろうか。僕にとってクリント・イーストウッドは、マカロニ・ウェスタン「荒野の用心棒」の名無しのガンマンだった。その後、「夕陽のガンマン」(1965年)「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」(1966年)が続き、高校生の時に見た大長編(何しろ三時間もある)「続・夕陽のガンマン」が大のお気に入りになった。

「続・夕陽のガンマン」は本筋とは関係のないエピソードが印象に残る。ある川の両岸で橋をめぐって南軍と北軍が対峙し、一進一退の攻防が続いている。賞金稼ぎのふたり、グッドガイのイーストウッドとアグリガイのイーライ・ウォラックは、その橋を通らないと大金を埋めた墓地にたどり着けない。そこで、戦いにうんざりしている隊長の遺志を汲んで、ふたりは戦いの対象になっている橋を爆破してしまう。しかし、その長いエピソードを全部カットしても(実際、テレビ放映ではカットされた)映画は成立する。でも、十六歳の僕はそのエピソードがあるから「続・夕陽のガンマン」が気に入ったのだ。

その時から、僕はイーストウッドとつきあってきた。五十年になる。その後、イーストウッドはドン・シーゲル監督と出会い、「ダーティ・ハリー」でハリウッド・スターとして認められ、同じ年に「恐怖のメロディ」(1971年)で初めて監督をする。ちなみに「恐怖のメロディ」の原題は「私に"ミスティ"をかけて」という意味で、ジャズ好きのイーストウッドらしいタイトルだった。「ミスティ」はジャズの名曲で、僕も何人かのプレイヤーが演奏したCDを持っている。

五十年に及ぶイーストウッドの出演作・監督作の中で、僕の好きな作品を三本選べと言われたら、「アウトロー」(1976年)「ペイルライダー」(1985年)「許されざる者」(1992年)とすべて西部劇になる。この三本は数えきれないほど見た。最高の作品はと訊かれたら、「グラン・トリノ」と答える。この映画は深い。ただし、若い頃に見たら違う受け取り方をしたかもしれない。その他、「スペースカウボーイ」(2000年)もあるし、初期の出演作「奴らを高く吊るせ!」(1968年)「マンハッタン無宿」(1968年)も楽しめる。本当にハズレのない(大きな声では言えないけれど、「ペンチャーワゴン」など出演作にいくつかハズレあり)人である。

●一九九三年がトム・ハンクスのエポック・メイキングの年

「スプラッシュ」(1984年)は「ブレードランナー」(1982年)のレプリカント役で注目され、人気が出たダリル・ハンナの主演作だった。抜群のスタイルのダリル・ハンナを見せるために、人魚の役を設定したのだ。その人魚に恋する青年をトム・ハンクスが演じた。僕は「スプラッシュ」で初めてトム・ハンクスを見たのだが、何だか瓢箪か空豆みたいな顔をした奴だなあと思った。瓢箪顔と言えば、フレッド・アステアである。フレッド・アステアを見ると「うらなり」という言葉が浮かぶ。しかし、トム・ハンクスとフレッド・アステアは特に似ていない。

その後、「ビッグ」(1988年)で子供の心を持つ青年(外見だけ大人になった少年の役)を演じ印象に残ったけれど、この作品で初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。しかし、僕がトム・ハンクスを「うまいなあ」と思ったのは、「プリティ・リーグ」(1992年)の監督役だった。このとき、トム・ハンクスは三十六歳だったが、役の印象はもっと年上の中年男だった。酔っぱらいで、いい加減な奴という登場の仕方だったが、実は名監督で選手たちを導き、適切な采配をし、選手たちの心をつかんでいく。「フラガール」(2006年)のダンス・コーチ役の松雪泰子は、このトム・ハンクスの演技を参考にしたと僕は推察している。

しかし、トム・ハンクスのエポック・メイキングの年は、一九九三年だった。この年、トム・ハンクスはメグ・ライアンとの「めぐり逢えたら」に出演し、ゲイの弁護士を熱演した「フィラデルフィア」でアカデミー主演男優賞を受賞する。ロマンチックな「めぐり逢えたら」では女性ファンを獲得し、「フィラデルフィア」ではエイズにかかり弱っていく姿を迫真の演技で見せた。ゲイの相手役は、後にラテン系のセクシー男優と騒がれるアントニオ・バンデラスだった。翌年、トム・ハンクスは「フォレスト・ガンプ/一期一会」で再びアカデミー主演男優賞を獲得し、二年連続受賞はスペンサー・トレイシー以来だと騒がれた。

あれから、二十年以上の時間が過ぎていった。僕が初めてトム・ハンクスを見たときから数えると、三十二年になる。三十二年前、僕は三十半ば。いろいろ迷いながらも、仕事に没頭していた。その頃は、「ビバ・ビデオ」というビデオ作品を制作する人向けの専門誌を編集していた。ソニーからは8ミリビデオカメラ、ビクターなどVHS陣営からはCカセットを使うビデオカメラが発売された頃だった。ビデオソフトの紹介頁もあったから、毎月発売される映画ソフトをチェックするのも仕事だった。トム・ハンクスのその頃の何本かは、ビデオソフトで見たのかもしれない。

ここ数年、少し肉がつき、それなりの年齢になったトム・ハンクスは、重厚な(口ひげを生やしているような)役をやるようになった。「ウォルト・ディズニーの約束」(2013年)ではウォルト・ディズニーを演じ、「キャプテン・フィリップス」(2013年)では、アフリカの海で海賊の人質になる実在のフィリップス船長を演じた。スピルバーグ監督と組んだ「ブリッジ・オブ・スパイ」(2015年)でも冷戦期にソ連スパイの弁護を引き受け、後にそのスパイとアメリカ人パイロットを交換する交渉を引き受ける実在の弁護士を演じた。そして、「ハドソン川の奇跡」でも実在の機長を演じている。船長、弁護士、機長----、そんな役がふさわしい俳優になった。

現在の貫禄あるトム・ハンクスを見ると、「それに比べて、おまえはどうだ」と問われている気がする。振り返ると、何だかハズレばかりの人生だった気がしないでもない。「おまえは、また裏目裏目に張ろうとするのか」という深作欣二監督作品のセリフに強い思い入れを持っていた若い頃の僕は、裏目にばかり張ってきた結果、ハズレを引き続けてきた気がする。しかし、それも自分の生き方だったと納得している。どんな生き方をしてきたところで、後悔しない人はいない。「わが人生に悔いなし」という感慨は、石原裕次郎の歌の中にしか存在しない(と思う)。「後悔ばかりの年月でした」というのが、ある時期の僕の口癖だった。

2016年11月 3日 (木)

■映画と夜と音楽と…749 中途半端な破滅型


【マイ・フェア・レディ/ガス燈/スタア誕生】

●五十作品を撮ったジョージ・キューカーという映画監督

国書刊行会から出た新刊「ジョージ・キューカー、映画を語る」を読んだ。原書は二〇〇〇年に発行された「on Cukor」だ。キューカー自身は、一八九九年にニューヨークに生まれ、一九八三年にロサンゼルスで死んでいる。舞台監督として活躍していたキューカーは、一九二九年、映画のトーキー化によってダイアローグ監督としてハリウッドに呼ばれ、やがて監督となった。生涯に五十本の作品を監督し、アカデミー賞に四度ノミネートされた後、「マイ・フェア・レディ」(1964年)でようやく監督賞を受賞したときは、すでに七十を越えていた。

ジョージ・キューカーと言えば「風と共に去りぬ」(1939年)をかなり撮り終わっていたときに、プロデューサーのセルズニックによって監督を交代させられたことが有名だ。本書の中でもそのことは触れられるが、キューカーは「過ぎたこと」として真相も明かさず、恨み言も言わない。「セルズニックとは友人だよ」と、ワンマン・プロデューサーもかばう。全編通して読むとキューカーの人柄がうかがえる。穏やかな常識人だったようだ。インタビュアーは、映画評論家で作家で脚本家だったイギリス人のギャビン・ランバートである。ロバート・マリガン監督「サンセット物語」(65年)の原作者であり、脚本も担当している。

インタビューは一九七〇年に行われ、最初の版は一九七二年に発行された。キューカーの死後、筆者のギャビン・ランバートが亡くなる五年前の二〇〇〇年に増補を加えて新版が発行された。その新版には「エピローグのあとに」と題する巻末の文章が加えられており、その冒頭に「私たちは互いの性的嗜好を知ってはいるが、キューカーは"慎みは大人の義務"と見なされていた時代に育った人物である。親友のサマセット・モーム、ノエル・カワード、そして何人かのハリウッドにおける仕事仲間と同様、キューカーは自らの私生活はあくまで"自分個人のもの"という姿勢を貫いてきた」とあった。

つまり、筆者のギャビン・ランバートは自分もキューカーも「ゲイ」だったと明らかにしたうえで、そのことがキューカーの映画作りには何も影響していないと断言している。インタビューが行われた頃、ゲイ・ムービーとして評判になった「真夜中のパーティ」(1970年)が公開され、キューカーも言及しているが、あまり評価はしていない。前年に作られた「真夜中のカーボーイ」(1969年)は主人公(ジョン・ボイド、アンジェリーナ・ジョリーのパパ)が男娼になる物語だが、監督のジョン・シュレシンジャーはゲイであることを明らかにしていた。

キューカーが生きた時代にゲイであることは、とてもきついことだっただろうと思う。筆者のギャビン・ランバートも一九二四年のイギリス生まれだから同じだ。「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(2014年)で描かれたように、イギリスでは戦後もずっと同性愛は法律で禁じられており、映画は主人公のアラン・チューリング博士が同性愛の罪で逮捕されるところから始まる。その取り調べによって、彼の戦争中の暗号解読への貢献が判明していくのだ。現在もロシアでは、まだ同性愛は法律で禁じられているのではなかったか。同性婚を認めようという動きがある一方、保守的な国や人々は同性愛をタブー視している。

●代表作「スタア誕生」に登場する典型的な破滅型スター

僕はジョージ・キューカー作品を熱心に見た人間ではないが、その何本かは強く印象に残っている。彼の代表作としてはキャサリン・ヘップバーンがジョーを演じた「若草物語」(1933年)、グレタ・ガルボが美しい「椿姫」(1936年)、日本では戦後に公開された「フィラデルフィア物語」(1940年)、イングリッド・バーグマンがアカデミー主演女優賞を受賞した「ガス燈」(1944年)、ジュディ・ガーランドの代表作「スタア誕生」(1954年)などがある。キャサリン・ヘップバーンとのコンビが多く、女優を魅力的に撮ることで評価の高い監督だった。

その数多い作品の中で、ハリウッドの重要な作品と言われるのが「スタア誕生」だ。主演のジュディ・ガーランドは芸人の子に生まれ、三歳からステージに立っていた。十三歳でMGMに入社し、「オズの魔法使い」(1939年)でアカデミー特別賞を受賞して、大人気を博す。彼女が農場で「虹の彼方に」を歌うシーンは、アメリカ人なら一度は見たことがあるだろう。日本人の僕だって何度も見た。日本で言えば、終戦後の「美空ひばり」みたいだった。誰もが、彼女を愛したのである。その後、子役時代から華やかな世界で生きてきたストレスのせいか薬漬けの生活となるが、「スタア誕生」で復活。すでに三十二歳になっていた。

ジュディ・ガーランドは歌手としての評価が高く、ずっとミュージカル映画に出演していた。「スタア誕生」は歌手の役であり劇中で歌うシーンも多いけれど、ミュージカルではなくシリアスなバックステージものだった。ハリウッドの裏側を描く作品である。ジュディ・ガーランドは、初めてシリアスなドラマを演じ評価も高かった。彼女自身、アカデミー主演女優賞を期待するほどだったのだ。しかし、絶対視された主演女優賞を逃し、再び失意の日々を送る。一九六九年、四十七歳のとき、ビンセント・ミネリ監督との間にできた娘ライザ・ミネリを残し、薬物過剰摂取により死亡した。

ジュディ・ガーランドの生涯を見ると、子供の頃からショービジネスの世界で生き、子役時代からアメリカ中の人々に知られ、有名人としての生活にスポイルされて薬物に走り、やがて早すぎた死を迎えるという典型的なハリウッドスターの一生に思える。皮肉なことに「スタア誕生」では、破滅的なハリウッドスターを演じたのは夫役のジェームス・メイスンだった。ジェームス・メイスンは人気のある大スターで、酒浸りの人物ノーマン・メインとして登場する。ハリウッドの大イベントのステージに酔って乱入しようとし、バックバンドの歌手エスターに救われる。

その夜、エスターの歌を聴いたノーマンは感銘を受け、ハリウッドのスタジオに紹介すると言い出す。エスターはせっかく得たバンドの専属歌手の地位を棄てることを迷うが、ノーマンの言葉を信じて新しい夢に賭けることにする。しかし、翌朝、迎えにくると言ったノーマンは、酔いつぶれたままロケ先に連れていかれ、エスターを迎えにいけない。そのまま長期ロケで身動きも取れない。エスターはノーマンに裏切られた形になるが、またウェイトレスの仕事に戻り、安い部屋に越して改めて歌手をめざす。ロケから戻ったノーマンはエスターを捜し当て、エスターはノーマンの紹介でスタジオと契約する。ノーマンが撮影所長に彼女の歌を聴かせ、エスターは主演を射止めスターとなる。

ところが、エスターと結婚したノーマンの酒浸りと奇行はますますひどくなり、仕事を失い、いつの間にか忘れられたスターになる。しかし、ノーマンはプライドだけは失わない。ノーマンを心配した撮影所長が持ってきた役が主演ではないからと断り、さらに酒浸りになり、とうとう泥酔して逮捕されてしまう。ノーマンを救うためにエスターは「自分が必ず立ち直らせる」と判事に訴え、実刑は免れる。エスターが自分のためにスターの座を棄てると撮影所長に語るのを聞いてしまったノーマンは、自分が妻の重荷になっていること、自分がいることで妻が仕事を辞めようとしていることを知り、自殺する。落ちぶれた元スターの自滅である。

●破滅型の人間に惹かれるのは破滅への衝動を抑えるためか

ジェームス・メイスンが演じたノーマンは、破滅的な人物である。登場した段階でアルコール依存症であり、はた迷惑な奇行ばかりを行い、その後始末をさせられる映画会社の広報マンはうんざりしている。彼がなぜ酒を飲み続けるのか、なぜはた迷惑な奇行ばかり行うのか、理由はわからない。そういう人間なのだ、というしかない。彼は、まっすぐ破滅に向かって進んでいる。破滅型人間の典型である。

日本で破滅型の典型として有名なのは、やはり太宰治である。若い頃から何度も心中未遂を起こし(一度は相手の女だけ死んでいる)、薬物中毒になり、戦後、再び心中を図り死んでしまった作家である。その他、昔の作家には破滅型の人間がけっこういた。その無茶苦茶さを小説に書いて名をなした人も多い。小説で読むぶんにはおもしろく切ないかもしれないが、周囲の人間にとっては迷惑だったに違いない。作家や芸術家ではない普通の人間が同じことをやったら、性格破綻者として社会的に葬られてしまうだろう。

このコラムを始めた頃(まだ四十代だった)、ニコラス・ケイジがアカデミー主演男優賞を獲得した「リービング・ラスベガス」(1995年)と根津甚八の鬼気迫る演技が忘れられない「さらば愛しき大地」(1982年)を題材にして、「破滅への甘い誘惑」(「映画がなければ生きていけない」第一巻一〇四頁参照)という文章を書いたことがある。その中で、僕は自分が破滅型の人生に惹かれつつも、現実的な世界でスクエアに生きていかざるを得ない存在であり、映画に登場する破滅型の主人公は自分の身代わりとして破滅してくれていると書いた。

あれから十六年経ったが、今も僕は同じ思いを抱いている。人生は生き辛い。素面でなど、生きていけない。アルコールに逃げたと言われても仕方がないが、つかの間の魂の救いを酒はもたらせてくれる。しかし、酔ったあげく、バカげたことをしでかすこともある。大怪我をしたこともある。死と紙一重だったな、と酔いが醒めて思ったことは数えきれない。顰蹙を買い、迷惑がられ、「二度とくるな」と酒場を追い出された。しかし、ときにはそんなことをしないと、この世を生きていけないのだ。

しかし、僕には映画や小説があった。物語の中で、破滅的な人物が破滅に向かって進んでいくのを読んだり見たりして、僕は破滅への衝動を抑制してきたのだと思う(だから、映画がなければ生きていけないのです)。映画の中で自ら破滅に向かって突き進む人物は、僕の身代わりなのだと今も思う。ということは、僕は破滅への衝動を持ってはいるが、それを抑えられる人間(中途半端な破滅型)だったのだ。だとすれば、少々、顰蹙を買う言動はあるけれど(僕よりひどい酔っぱらいは、何人も知っている)、普通の人々の一員ではないのか。そうであるならば、誰もが僕のように破滅への衝動を抱いて生きているのだろうか?

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