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2016年12月29日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」------親子断絶の時代・後編



年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■昭和28年に封切られた二本の映画------親子断絶の時代・後編

昭和28年、「東京物語」より五ヶ月早く公開された木下恵介監督の「日本の悲劇」という映画がありました。小津、木下といえば松竹の二大巨匠です。中井貴一のお父さん、佐田啓二は小津映画にも木下映画にも出演しかわいがられた俳優ですが、佐田啓二と大船撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の娘・益子が結婚するときには、小津安二郎と木下恵介が仲人をつとめました。ふたりとも生涯、独身だったのです。木下恵介にはゲイ疑惑がありますが、小津安二郎には愛人の芸者がいたという証言もあります。

川崎長太郎という私小説作家がいて、彼は小田原の芸者に惚れて、彼女との交流を何篇かの小説にしているのですが、その中に大津監督という人物が登場します。一説によると、川崎長太郎は小津安二郎と芸者を取り合って振られたということですが、その恨みから小説に書いてしまったのでしょうか。私は昔、その小説を読みましたが、小説としてよくできていたという印象しかありません。

さて、木下監督の「日本の悲劇」も「親子の断絶」「年老いた親と成人した子供たち」の問題を描いた、それも強烈にセンセーショナルに描いた映画でした。タイトルも「日本の悲劇」と大仰なものですが、映画は冒頭に当時のニュースフィルムを編集して流し、政治の貧困や社会的課題を声高にメッセージします。公開当時、「東京物語」より「日本の悲劇」の方が衝撃を与え、高く評価されました。

東大を出て松竹に入社し、最初に「東京物語」のフォース助監督としてつき、大島渚などと共に松竹ヌーヴェルヴァーグのひとりとして何本かの映画を監督し、後に作家となって直木賞を受賞する高橋治が、「絢爛たる影絵」という小津安二郎を描いた長編で、こんなことを書いています。

----昭和二十八年、六月二日の夜、私は大船駅のフォームに座っていた。何本も電車が来ては発車していった。だが、私には乗って帰ろうという気が全く起きないのだ。いや、その気力もなかったといった方が正しいかもしれない。それはその日撮影所で試写を見てきた一本の作品にとことん打ちのめされたからに他ならない。木下恵介、脚本、監督「日本の悲劇」である。

その後、高橋治は映画評論家の佐藤忠男さんの批評を引用します。
----木下恵介の「日本の悲劇」は、「東京物語」より露骨に息子と娘に頼り切っている母親を、息子と娘が冷酷に捨ててしまう話である。木下恵介は、愛情にみちみちた家族の映画を何本もつくったことによって大衆的な名声を得たが、彼の描く家庭は、しばしば、社会の荒波の中で解体の危機にさらされているものであった。家族の結びつきのもろさを暗示することによって、逆に、その貴重さをきわだたせるということは、日本のすぐれた庶民映画の基本的な方法であった。

その後、高橋治は、こう続けます。
----「日本の悲劇」を高く評価するのは佐藤だけではない。
「思い出すよ、あの晩のことは。しんどかったな。酒を浴びるほど呑んだけど酔えない。なに考えてるかっていえば、大船やめて、荷物まとめて故郷へ帰ろうかっていうことばっかりだ。このまま撮影所にいて、一生かかったってあれ以上のものは作れっこないと思ったものな。六月二日だ。日まで覚えてる」篠田正浩もそういう。

ちなみに、高橋治は「風の盆恋歌」が代表作で、おわら風の盆を全国的に有名にした人です。その後、「風の盆恋歌」という歌もできて、誰にでも知られるようになりました。

さて、高橋治や篠田正浩にそれほどの衝撃を与えた「日本の悲劇」は、どんな作品でしょうか。日本の現状を大上段に断罪するようなニュース映像が流れた後、熱海の旅館街が映ります。旅館の二階で宴会が行われていて、酌婦の嬌声なども聞こえてきます。旅館の玄関でギターを弾いて歌っている流しがいます。何と佐田啓二です。彼は旅館の仲居である春子に呼ばれて、二階にきて酔った客の注文に応じて歌います。春子は客にもたれたりして、だらしない姿を見せます。それが、現在の春子です。

春子を演じるのは、初めて主演に抜擢された望月優子です。彼女は、この映画だけで映画史に残りました。戦争未亡人の春子は、戦後の混乱の中、闇屋をやったりして、息子と娘を育ててきました。長女の歌子を演じるのは桂木洋子です。当時のアイドル女優で、いろんな映画に出ています。音楽家の黛俊郎と結婚して引退したとき、涙したファンは多かったといいます。

息子は田浦正巳です。俳優座養成所で仲代達矢と同期でしたが、仲代より先に売れました。仲代は翌年の「七人の侍」の道を行く浪人でほんの一瞬しか映らないような役をやっていますが、それより一年前に「日本の悲劇」の重要な役で出演しました。他にも、いろいろ出ていた人でしたが、いつの間にか田浦正巳は消えてしまいました。仲代達矢が八十をとっくに過ぎた今も現役の役者をやっているのを考えると、人生は長いと感じます。

何かというと「苦労して育てた」と言う春子ですが、子供たちは小さい頃に母の仕事先を訪ねたとき、男たちに媚びを売るだらしない酌婦の姿を見て以来、母を嫌悪し恥じています。今もべたべたと子供たちを頼る母は、うとましい存在です。「おまえたちを苦労して育てた」と言われると、うんざりし、つい母親をうとんじてしまいます。そんなとき、医学生である息子には養子話が起こります。大きな病院の院長から養子になって跡を継いてほしいという話で、息子はすっかり乗り気です。

そんな現在の話の間に、苦労した母の昔のエピソードが描かれます。春子は汚いこともやったし、男にもだらしなかったし、闇屋時代には法律にそむくこともやった。きれいごとでは生きてこれなかったと春子は思っていますが、子供たちはそんな春子に反発を感じるし、恥じることも多かったのです。今の春子に優しくしてくれるのは、旅館の板前の高橋貞二と流しの佐田啓二だけです。

ある日、娘の歌子が妻子持ちの男と駆け落ちし、相談に東京の息子のところを訪れますが、すでに大きな病院の院長宅で広い自室を与えられて暮らしている息子は、早く養子の手続きをしてほしいとしか言いません。絶望して帰路に就いた春子は、乗換駅(湯河原駅)のホームで呆然とベンチに座ります。

やがて列車が近づいてきたとき、春子は衝動的に飛び込んでしまいます。このシーンは衝撃的で、本当に飛び込んでいるように見えます。映画の衝撃が強かったのは、このシーンの驚きもあったのでしょう。望月優子は「死んでもいい」と思いながら決死の撮影をしたと、後に自伝で告白しています。

「日本の悲劇」は「東京物語」の五ヶ月前の公開です。小津安二郎も六月二日の撮影所内の試写を見ています。この日、小津は日記に「木下恵介の『日本の悲劇』の試写を見る。野心作ならむも一向に感銘なく、粗雑にして、すの入りたる大根を噛むに似たり」と書いています。いかにも小津らしいですね。しかし、「日本の悲劇」が小津に何らかの影響を与えたことは間違いないと思います。

子が親を棄てること、親と子の断絶、家族の崩壊、そういったテーマを「おれはあんな風には描かない」と思ったのかもしれませんが、テーマとしては同じものを描いています。「日本の悲劇」があったから、「東京物語」は、あんな物語になり、あんな描き方になり、普遍的な価値を得たのではないか、そんな風に思います。

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