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2016年12月

2016年12月29日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」------親子断絶の時代・後編



年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■昭和28年に封切られた二本の映画------親子断絶の時代・後編

昭和28年、「東京物語」より五ヶ月早く公開された木下恵介監督の「日本の悲劇」という映画がありました。小津、木下といえば松竹の二大巨匠です。中井貴一のお父さん、佐田啓二は小津映画にも木下映画にも出演しかわいがられた俳優ですが、佐田啓二と大船撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の娘・益子が結婚するときには、小津安二郎と木下恵介が仲人をつとめました。ふたりとも生涯、独身だったのです。木下恵介にはゲイ疑惑がありますが、小津安二郎には愛人の芸者がいたという証言もあります。

川崎長太郎という私小説作家がいて、彼は小田原の芸者に惚れて、彼女との交流を何篇かの小説にしているのですが、その中に大津監督という人物が登場します。一説によると、川崎長太郎は小津安二郎と芸者を取り合って振られたということですが、その恨みから小説に書いてしまったのでしょうか。私は昔、その小説を読みましたが、小説としてよくできていたという印象しかありません。

さて、木下監督の「日本の悲劇」も「親子の断絶」「年老いた親と成人した子供たち」の問題を描いた、それも強烈にセンセーショナルに描いた映画でした。タイトルも「日本の悲劇」と大仰なものですが、映画は冒頭に当時のニュースフィルムを編集して流し、政治の貧困や社会的課題を声高にメッセージします。公開当時、「東京物語」より「日本の悲劇」の方が衝撃を与え、高く評価されました。

東大を出て松竹に入社し、最初に「東京物語」のフォース助監督としてつき、大島渚などと共に松竹ヌーヴェルヴァーグのひとりとして何本かの映画を監督し、後に作家となって直木賞を受賞する高橋治が、「絢爛たる影絵」という小津安二郎を描いた長編で、こんなことを書いています。

----昭和二十八年、六月二日の夜、私は大船駅のフォームに座っていた。何本も電車が来ては発車していった。だが、私には乗って帰ろうという気が全く起きないのだ。いや、その気力もなかったといった方が正しいかもしれない。それはその日撮影所で試写を見てきた一本の作品にとことん打ちのめされたからに他ならない。木下恵介、脚本、監督「日本の悲劇」である。

その後、高橋治は映画評論家の佐藤忠男さんの批評を引用します。
----木下恵介の「日本の悲劇」は、「東京物語」より露骨に息子と娘に頼り切っている母親を、息子と娘が冷酷に捨ててしまう話である。木下恵介は、愛情にみちみちた家族の映画を何本もつくったことによって大衆的な名声を得たが、彼の描く家庭は、しばしば、社会の荒波の中で解体の危機にさらされているものであった。家族の結びつきのもろさを暗示することによって、逆に、その貴重さをきわだたせるということは、日本のすぐれた庶民映画の基本的な方法であった。

その後、高橋治は、こう続けます。
----「日本の悲劇」を高く評価するのは佐藤だけではない。
「思い出すよ、あの晩のことは。しんどかったな。酒を浴びるほど呑んだけど酔えない。なに考えてるかっていえば、大船やめて、荷物まとめて故郷へ帰ろうかっていうことばっかりだ。このまま撮影所にいて、一生かかったってあれ以上のものは作れっこないと思ったものな。六月二日だ。日まで覚えてる」篠田正浩もそういう。

ちなみに、高橋治は「風の盆恋歌」が代表作で、おわら風の盆を全国的に有名にした人です。その後、「風の盆恋歌」という歌もできて、誰にでも知られるようになりました。

さて、高橋治や篠田正浩にそれほどの衝撃を与えた「日本の悲劇」は、どんな作品でしょうか。日本の現状を大上段に断罪するようなニュース映像が流れた後、熱海の旅館街が映ります。旅館の二階で宴会が行われていて、酌婦の嬌声なども聞こえてきます。旅館の玄関でギターを弾いて歌っている流しがいます。何と佐田啓二です。彼は旅館の仲居である春子に呼ばれて、二階にきて酔った客の注文に応じて歌います。春子は客にもたれたりして、だらしない姿を見せます。それが、現在の春子です。

春子を演じるのは、初めて主演に抜擢された望月優子です。彼女は、この映画だけで映画史に残りました。戦争未亡人の春子は、戦後の混乱の中、闇屋をやったりして、息子と娘を育ててきました。長女の歌子を演じるのは桂木洋子です。当時のアイドル女優で、いろんな映画に出ています。音楽家の黛俊郎と結婚して引退したとき、涙したファンは多かったといいます。

息子は田浦正巳です。俳優座養成所で仲代達矢と同期でしたが、仲代より先に売れました。仲代は翌年の「七人の侍」の道を行く浪人でほんの一瞬しか映らないような役をやっていますが、それより一年前に「日本の悲劇」の重要な役で出演しました。他にも、いろいろ出ていた人でしたが、いつの間にか田浦正巳は消えてしまいました。仲代達矢が八十をとっくに過ぎた今も現役の役者をやっているのを考えると、人生は長いと感じます。

何かというと「苦労して育てた」と言う春子ですが、子供たちは小さい頃に母の仕事先を訪ねたとき、男たちに媚びを売るだらしない酌婦の姿を見て以来、母を嫌悪し恥じています。今もべたべたと子供たちを頼る母は、うとましい存在です。「おまえたちを苦労して育てた」と言われると、うんざりし、つい母親をうとんじてしまいます。そんなとき、医学生である息子には養子話が起こります。大きな病院の院長から養子になって跡を継いてほしいという話で、息子はすっかり乗り気です。

そんな現在の話の間に、苦労した母の昔のエピソードが描かれます。春子は汚いこともやったし、男にもだらしなかったし、闇屋時代には法律にそむくこともやった。きれいごとでは生きてこれなかったと春子は思っていますが、子供たちはそんな春子に反発を感じるし、恥じることも多かったのです。今の春子に優しくしてくれるのは、旅館の板前の高橋貞二と流しの佐田啓二だけです。

ある日、娘の歌子が妻子持ちの男と駆け落ちし、相談に東京の息子のところを訪れますが、すでに大きな病院の院長宅で広い自室を与えられて暮らしている息子は、早く養子の手続きをしてほしいとしか言いません。絶望して帰路に就いた春子は、乗換駅(湯河原駅)のホームで呆然とベンチに座ります。

やがて列車が近づいてきたとき、春子は衝動的に飛び込んでしまいます。このシーンは衝撃的で、本当に飛び込んでいるように見えます。映画の衝撃が強かったのは、このシーンの驚きもあったのでしょう。望月優子は「死んでもいい」と思いながら決死の撮影をしたと、後に自伝で告白しています。

「日本の悲劇」は「東京物語」の五ヶ月前の公開です。小津安二郎も六月二日の撮影所内の試写を見ています。この日、小津は日記に「木下恵介の『日本の悲劇』の試写を見る。野心作ならむも一向に感銘なく、粗雑にして、すの入りたる大根を噛むに似たり」と書いています。いかにも小津らしいですね。しかし、「日本の悲劇」が小津に何らかの影響を与えたことは間違いないと思います。

子が親を棄てること、親と子の断絶、家族の崩壊、そういったテーマを「おれはあんな風には描かない」と思ったのかもしれませんが、テーマとしては同じものを描いています。「日本の悲劇」があったから、「東京物語」は、あんな物語になり、あんな描き方になり、普遍的な価値を得たのではないか、そんな風に思います。

2016年12月22日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」-親子断絶の時代・前編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■昭和28年に封切られた二本の映画------親子断絶の時代・前編

日本映画のオールタイムベストワンに選ばれたり、海外ではイギリス映画協会が10年ごとに選出する「映画監督が選ぶベストテン」で2002年度に一位に選ばれるなど、高い評価を受けているのが小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)です。最近も山田洋次監督が「東京家族」というタイトルでリメイクし、小津監督にオマージュを捧げました。

私は日本映画のベストワンとしては、「東京物語」、成瀬巳喜男監督の「浮雲」のどちらを挙げるか迷うところですが、ベスト5なら「東京物語」「浮雲」「幕末太陽傳」「秋津温泉」などを迷わずに選びます。他に黒澤明作品を一本くらい入れるかもしれません。

「東京物語」は昭和28年、1953年11月3日に公開されました。日本が独立し、GHQの検閲がなくなって一年半です。黒澤明監督の「七人の侍」は翌年の四月公開ですから、「東京物語」公開時にはまさに撮影真っ盛り。当時、日本の映画界は観客も増え続けており活気を呈していました。

昭和28年は、どんな年だったか、検証してみましょう。

1月17日付けの朝日新聞で「意表に出る演技、代表的アプレ芸人」と紹介された芸人がいます。トニー谷です。これがマスコミ初登場でした。この後、トニー谷は日本中の人気者になります。「ざんす、ざんす、さいざんす」という言葉遣いも流行しました。そろばんをギターのように抱えたりしてチャカチャカ鳴らして踊る、変な芸人でした。

私が憶えているトニー谷は、ずっと後にテレビ「アベック歌合戦」の司会をやっている姿です。「あなたのお名前なんてぇーの」とか、「そもそもふたりの関係は?」と歌い踊りながら質問します。それに対して出演したアベック(今ならカップル?)が、「恋人同士でございます」なんてヘンな節をつけて答えます。舟木一夫と松原智恵子が主演した映画では、この番組に出るふたりが見られます。それくらい全国的に有名でした。ただし、今見ると、ちょっと恥ずかしいですね。

1月9日には今井正監督の「ひめゆりの塔」が公開され、大ヒットします。GHQの検閲があった占領中には描けなかった、その時点から八年前の沖縄戦の物語です。1月末には五味康祐と松本清張が芥川賞を受賞します。後に五味康祐は剣豪小説ブームを生み出し、松本清張は社会派推理小説ブームを生み出します。2月1日にはNHKがテレビの本放送をスタートさせます。街頭テレビが設置され、今から見れば、小さくて解像度の低いブラウン管に大勢の人が群がりました。NHKの「ジェスチャー」もスタートします。

政治の世界では吉田茂が「バカヤロー」と言って、国会が解散。海外ではソ連のスターリンが死に、7月末には3年1ヶ月ぶりに朝鮮戦争が休戦になります。それ以来、38度線を境にしての休戦状態が、今も続いているわけです。8月には民放の日本テレビが放送を開始。9月になると、ソ連書記長としてフルシチョフが登場します。この後、フルシチョフはスターリン批判を行い、粛正や暗殺などスターリンの悪行を暴き、ソ連は「雪解け」と言われます。

「東京物語」が公開された11月3日、国会では吉田茂首相が「自衛隊は憲法内での軍隊。しかし、戦力ではない」と答弁し、「戦力なき軍隊」と言われ、その年の流行語になります。「××なき××」と言い方はいろいろ言い換えられました。12月24日には奄美群島返還の日米協定の調印が行われ、八年ぶりに奄美群島が日本に戻ってきました。翌日のクリスマスの日、日本初のスーパーマーケット「紀ノ国屋」が青山にオープンします。

そんな時代を背景にして「東京物語」は制作されましたが、物語の大きなテーマは「親と子の関係」「家族の崩壊」でした。具体的に言えば「年老いた両親と成人した子供たち」の関係です。これは普遍的な課題ですが、戦後のモラルの変化を敏感に読みとった制作者たちの問題提起でもありました。すでに、家族関係は大きく変わろうとしていたのです。二十年ほど後、核家族という言葉が生まれ、やがてその言葉も死語になりますが、戦後の家族というものの変化の兆しを描いた作品かもしれません。

物語は尾道から年老いた両親が上京するところから始まります。東京には医者を開業している長男と美容院を開いている長女、それに戦死した次男の嫁がいます。また、大阪に三男がいて、尾道で両親と同居して教師をしている末の娘がいます。長男の家族は妻とまだ小学生の息子がふたり、長女のところには髪結いの亭主がいます。子供たちは自分たちの生活に精一杯で、両親の相手をしている余裕がない。別に邪険にしているつもりはないけれど、相手もできないというので、金を出し合い二人を熱海に静養にいかせますが、旅館がうるさくて老人二人はそそくさと東京に帰ってきてしまいます。

老夫婦は「私たちはなんぼかましですよ」と、言い聞かせるように子供たちのことを認めようとします。『長男は医者だし、長女は美容院をきちんとやっているし、戦死したのもひとりだけだし」と言い聞かせながら、「わたしたちゃ、なんぼかましですよ」と老いた母が言うとき、その言葉の裏には大きな落胆があると感じさせます。老いた母親役の東山千栄子が言う「ながいっきゃ、するもんじゃのう」という言葉も、年老いてこんな子供たちを見るのなら長生きなどしたくなかったという意味に聞こえてきます。それが、演出のうまさです。

結局、親身になって相手をしてくれたのは、戦死した次男の嫁の原節子だけでした。老人たちは大阪に寄って三男を訪ねますが、母親の具合が悪くなり、尾道に帰った途端に亡くなります。原節子を含めて子供たちが尾道に集まり、通夜・葬儀が続きます。葬儀を抜け出した三男が、しみじみと「孝行をしたいときには親はなし、さればとて墓に布団はきせられず」とつぶやくように、子供たちだってそんなにひどいわけじゃない。しかし、成人し自分の家族や生活を持った子供にとって、年老いた親は荷物になるということを、明確に描き出します。

超がつく高齢者社会を迎え介護が大きな問題になる現代から見れば、まだまだ深刻そうには見えませんが、「親の面倒を見ること」や「親子の断絶」は、いつの時代にもあることです。「東京物語」は、そんな普遍的なテーマを静かに感じさせるが故に、60年以上たった今も名作として高く評価されているのでしょう。

2016年12月15日 (木)

■映画と夜と音楽と…755 音のない世界で生きること


【マラソンマン/奇跡の人/愛は静けさの中に/エール!】

●耳鼻咽喉科の診察用椅子も歯医者の椅子に劣らない拷問器具になる

一年ほど前から耳鳴りがひどくなった。特に左の耳である。三年前、定期検診で左の耳の「聴力低下」を指摘され、その後、毎年、左耳は「聴力低下」の判定結果が出る。低い周波数の音か、高い周波数の音が聞こえにくくなっているのだろう。年齢と共に聞こえる音域が狭くなるのかもしれない。しかし、聴力の低下は、「老化」だとあきらめていた。赤瀬川原平さんの言い方にならえば、「老人力がついた」ことになる。物忘れをしたり、耳が遠くなったり、歯がガタついたり、歩行に時間がかかるようになると、立派な老人力がついたわけである。

しかし、起きている間、四六時中耳鳴りがしている状態は不快だった。「耳鳴りよ、耳鳴りよ、今日もまたおまえと私が残ったね」と歌ってばかりもいられない。四国から自宅に帰って以来、ここ数週間で特にひどくなった気がするのはなぜだろう。耳鳴りの原因は、ストレスの場合もあるという。家庭にストレスがあるのだろうか。とうとう我慢できず、先日、近くの耳鼻咽喉科を受診した。医者嫌いの僕が待合室で一時間近く待って診てもらったのだから、よほど耐え難かったのだ。それと、耳が聞こえなくなる不安も現実のことに思えたからだった。

今年九十一になった父は両耳に高価な補聴器を入れているが、僕の言葉をまったく理解しない。聞こえないのだ。母親は片耳に補聴器を入れると多少は聞こえるらしく、何とか会話が成り立つけれど、実家の裏で暮らしている間、父とはほとんど筆談だった。あるいは、父のアイフォンにメールを送るしかない。父が耳が遠くなるのは、早かった。二十年前には、すでに補聴器の世話になっていたのではないか。現在よりは聞こえていたらしいが、七十歳前後でかなり耳が聞こえなくなっていたと思う。

僕は子供の頃から、父親の方に似ていると言われてきた。父と十いくつ離れた叔父がいるけれど、その叔父の子供の頃にそっくりと親戚の間でよく言われた。ということは、父の遺伝が強いのだ。だから、僕も五年もすれば耳が聞こえなくなるのだろうかと心配になる。それに、僕は子供の頃、中耳炎で長く医者に通った。耳の炎症を冷やすために耳朶の周りに湿布薬を含ませたガーゼを巻き、三角形のビニールカバーをして生活していた。そのカバーには三カ所にヒモがついていて、頭の上をまわし顎の下で結んでいた。子供心に、ひどくカッコ悪いと思ったものだ。今は、そんな姿の子供を見かけない。治療法が変わったのだろう。

そんなわけで、一度診てもらえば安心する(?)のではないかと思い、思い切って重い腰を上げて耳鼻咽喉科の門をくぐった。ネットで調べた最も近い病院の耳鼻咽喉科の先生は女医さんとのこと。それも、ハードルを低くした要因かもしれない。その日も起きたときから耳鳴りがおさまらず、待合室で座っている間にもキーンという音が耳の奥で続いていた。診察の結果は「中耳に問題がある。耳抜きができないでしょ」とのこと。治療はまず左の鼻に空気を通し、細長い金属の鉗子のようなものを耳管と喉と鼻腔が一緒になるところに差し込み、空気を噴出しながら薬を吹き付けるという。「動くと危ないので動かないこと。少し痛いです」と女医は言った。

そのとき、僕は「マラソンマン」(1976年)を思い出した。何十年前であっても、あのシーンは絶対に忘れられない。歯医者の椅子に座らされたダスティン・ホフマンが元ナチの医者ローレンス・オリビエに拷問されるシーンだ。ダスティン・ホフマンは麻酔なしで歯を削られるのである。あの、歯を削る機械がキーンと回転する音は、まるで耳鳴りの音のようではないか。耳鼻咽喉科の診察用椅子も、歯医者の椅子に劣らない拷問器具に変わる。ホントに痛かったし、治療が数十秒だったから我慢できたけど、あれを数分続けられたら「勘弁してください。何でもします」と僕は言うだろう。

●「音」の記憶だけで少年時代からの生涯を描いた開高健の小説

目を瞑ると視覚を休めることはできるが、聴覚は休むときがない。そういう意味では、嗅覚も触覚も同じだけど、視覚と聴覚は人間の五感の中でも大事だし働き者だと思う。さらに耳はどんな音も聞いてしまうが、人間の聴覚には聞きたいものを選び出す能力があるらしい。雑踏の中で友人が話す言葉を聞き取れるのは、そうした選別能力のおかげだという。補聴器をしている人の話を聞くと、雑踏の中での会話が一番わからないそうだ。人の声も雑音も同じ音のレベルとして受信するからだろう。人間の能力は不思議である。

開高健に「耳の物語」という長編小説がある。少年時代から大学卒業までを描いた「破れた繭」、寿屋(サントリー)に入社し芥川賞を受賞して作家になった執筆時までを描いた「夜と陽炎」の二巻本として新潮文庫から出ていたが、その後、文庫ぎんが堂で一冊にまとまった。開高健は自伝的(十九歳で父親になった)小説をたくさん書いているけれど、「耳の物語」は聴覚の記憶を中心にした自伝小説である。文庫の裏表紙には「幼い日の耳に残る草の呼吸、虫の羽音。焼夷弾の不気味な唸り。焼け跡の上を流れるジャズのメロディ。妻と娘が浴びせかける罵声。アラスカで聞いたバロックの名曲----。『音』の記憶をたよりに生涯を再構築」とある。

開高健と言えば、味覚の人である。昔、「新しい天体」というグルメ小説を読んだら、描き出される食べ物をすべて食べたくなった。今でも、その中で紹介されたタレで食べるたこ焼きの「明石焼き」、宍道湖で獲りたての白魚を辛子醤油につけて食べる「踊り喰い」などを憶えている。短編「ロマネ・コンティ」を読めば高価なワインを飲みたくなるし、アマゾンやゴビ砂漠の旅行記を読めば、その土地で食べる豪快な食事を実際に食べたくなる。その開高健が聴覚の記憶を連ねた「耳の物語」は、「輝ける闇」「夏の闇」ほどの感銘深さはないが読んでみると不思議な世界が体験できる。

「耳の物語」を読んで、僕も自分の耳の記憶を探ってみたことがある。しかし、いくら甦らせようとしても、最初の音の記憶がわからない。五、六歳の頃に親戚の誰かが口にした言葉が浮かんできたり、ラジオ放送の断片が浮かんできたりしたものの、明確に思い出せるものがない。小学生の後半くらいからは、あのときにこんな音楽が流れていたとか、あのときにこう言われたといった記憶を時系列で浮かべることができる。テレビ番組の主題歌などを人々が懐かしがるのは、それが耳の記憶だからだろう。僕も「月光仮面」や「怪傑ハリマオ」の主題歌が、当時の音で甦る。中学生の頃に商店街のスピーカーから流れていたシルヴィー・バルタンの「アイドルを探せ」も甦ってきた。

映画だって音の記憶から甦る場合がある。トーキーになって以降、映画を構成するのは映像と音である。視覚と聴覚を働かせなければ、映画は楽しめない。映画の音には、セリフやナレーション、効果音、音楽がある。その中で特に映画の記憶と密接に結びつくのが音楽だ。「太陽がいっぱい」のニーノ・ロータが作った音楽を思い出すと、十三歳の僕自身の姿が甦る。「サウンド・オブ・ミュージック」や「HELP!四人はアイドル」なども、僕の中学生時代の思い出だ。だから、聴覚に傷害を持つ人の「音のない世界」のことは想像もできなかった。

●映画の中の描かれ方が違ってきたのは人々の意識の変化か?

ヘレン・ケラーは戦前に日本を訪れ、「見えず・聞こえず・話せない三重苦の人」なのに健常な人に勝る偉業を成し遂げた女性として日本人を驚かせた。それから何十年かして「奇跡の人」(1962年)が公開された。タイトルはヘレン・ケラーその人を指すのだと僕は思っていたが、原題(直訳すれば「奇跡の労働者」)を知って、幼いヘレンに文字を教え知性を甦らせたサリヴァン先生がタイトルになっているのだとわかった。確かに、視覚と聴覚を失い、その結果、言葉を理解できず話せない少女に言葉を教えることは奇跡的な仕事である。だからこそ、井戸端で水を手に受けたヘレンが「ウォーター」の意味を理解する瞬間が感動的なのだ。彼女には触覚しかない。あのシーンを思い出すと僕はいつも、人間はすばらしいと実感する。

同じように僕が忘れられない聾唖者の物語に、「愛は静けさの中に」(1986年)がある。「奇跡の人」と同じく原作は舞台劇である。島の聾学校に赴任した教師ジェイムズ(ウィリアム・ハート)は、学校の雑用係として働くサラ(マーリー・マトリン)と出会う。彼女は聾学校の生徒で優秀だったが、今は堅く心を閉ざしている。ジェイムズはサラに惹かれ、やがてふたりは愛し合うようになる。一緒に暮らし始めたふたりだが、サラにはジェイムズは自分を愛しているのではなく、憐れんでいるのではないかという疑念が消えない。

「愛は静けさの中に」は実際の聾唖者であり、映画出演は初めてのマーリー・マトリンをヒロインに抜擢し大成功した。彼女は、この作品でアカデミー主演女優賞を受賞し、手話で挨拶する姿を観客たちはステンディング・オベイションで称えた。しかし、同じく主演男優賞を受賞したウィリアム・ハートは、長時間演台を独占してしゃべりまくり、観客をシラケさせた。映画の役が感動的だっただけに、受賞挨拶を利用して己の考えを主張するウィリアム・ハートの姿は共感を呼ばなかった。同世代(理屈っぽい世代だ)の俳優としてウィリアム・ハートが好きだった僕は残念に思った。

昨年、「エール!」(2014年)というフランス映画を見た。フランスの田舎で農業を営むペリエ一家は父母とポーラと弟の四人家族だが、両親と弟は聴覚障害者である。家庭内では手話で会話し、ポーラは家族と村の人たちとの意志疎通の手助けをしている。買い物にも一緒にいき店の人に手話を通訳するし、父親が村長の方針に反対し選挙に立候補したときには、父親の手話での演説を通訳する。家族でひとりだけ耳が聞こえるから、彼女にはいろんな負担がかかってくる。しかし、まだ十代半ばの少女だ。自分がいなければ家族が困るとわかっていても、様々な悩みが生まれることになる。

ある日、音楽教師がポーラの声に驚く。彼女の音楽的才能を見い出し、その歌声は奇跡的だと絶賛する。彼女が淡い恋心を抱いていた男子生徒とふたりでデュエットすることになり、ポーラは家族に内緒で練習を続ける。教師はパリの音楽学校のオーディションを受けることを強く勧め、ポーラは迷いながらも受験を決意する。しかし、彼女の歌声を聴けない(才能を実感できない)家族は理解を示さず、ポーラも自分がいなくなれば家族が困ることになると思いオーディションをあきらめる。しかし----、という物語である。この作品では、聴覚障害の父母と弟が普通に描かれていて、僕は好感を抱いた。

かつては、障害者に対して過剰に思い入れた作品が多かった。センチメンタリズムに彩られた描き方だった。しかし、世の中の意識が変化したせいか、聴覚障害があるとしても、それは「怒りっぽい人」「涙もろい人」のような性格描写と同じような捉え方で、「耳は聞こえません。それが何か?」という感じの描き方になっている。「愛は静けさの中に」では、「耳が聞こえないことに対する同情を、男は愛だと思っているのではないか」という疑念が聴覚異常のあるヒロインを苦しめた。その中から、「障害者の真の意味での精神的自立とは?」というテーマが浮かび上がってきた。まだ、社会に対してそんなメッセージを送らなければならなかった時代だった。

しかし、二十八年後に制作された「エール!」が描く世界はまるで違った。両親はあけっぴろげで、子供たちの前でも手話で愛を交わしセックスについて話をし、弟は耳が聞こえないことを利用(ちょっと問題ある言葉かもしれないが、まあそんな感じなのだ)して姉の友だちを口説き、ちゃっかりセックスするし、ポーラはそんな家族を負担に思ったり、時には怒鳴ったりする。「エール!」を見ていると、耳が聞こえないことはちょっと不自由だけど、聞こえる人とそんなに大きな違いはないよ、と思えてくるのだ。たぶん、人々の意識が「障害者は特別な存在ではない」という認識に変わってきたのだろう。そういう変化は、僕には歓迎すべきことに思える。

2016年12月 8日 (木)

■映画と夜と音楽と…754 六〇年代のスパイたち


【コードネームU.N.C.L.E./0011ナポレオン・ソロ/荒野の七人/大脱走/狼の挽歌】

●五十年ぶりにリメイクされた「0011 ナポレオン・ソロ」

ガイ・リッチー監督の「コードネームU.N.C.L.E.」(2015年)をおもしろく見た。六〇年代のスパイ映画の雰囲気を再現していて、懐かしさを感じてしまう。ストーリーも、いかにも六〇年代風だった。冒頭、ベルリンのチャーリー検問所を抜けて東ベルリン側へ潜入するナポレオン・ソロの描写も、スタイリッシュな映像とキレのよいカットつなぎでワクワクさせる。ソ連のスパイのイリヤ・クリヤキンの登場で、さらに期待感が盛り上がる。イリヤ・クリヤキンの追跡は執拗で、「ターミネーター2」の液体金属ターミネーターを連想させた。

CIAのナポレオン・ソロとKGBのイリヤ・クリヤキンをどうコンビにするのかと思っていたら、ナチの残党を悪役に設定し、ナチと手を結ぶ富豪のファシストが核弾頭を開発するのを防ぐのが米ソ両国の共通利益になるため、一時的に手を結ぶことになる。ナポレオン・ソロとイリヤ・クリヤキンは、それぞれ相手を出し抜けという指令を受けながら協力する形になる。そこに、イギリス情報部MI6などもからんできて、六〇年代スパイ映画の要素がほとんど入っていた。ただ、ナポレオン・ソロを演じたヘンリー・カヴィル(「マン・オブ・スティール」主演)がクラーク・ケントに見えて仕方がなかった。

「0011ナポレオン・ソロ」シリーズがテレビ放映されていたのは、僕が中学生の頃だった。東京オリンピックがあった一九六四年に始まり、四年後に終了した。その間、映画版が八本公開されている。僕は中学への通学途中で見た映画のポスターをよく憶えているのだが、あれは第一作「0011ナポレオン・ソロ/罠を張れ」(1964年)だったのだろうか。ひび割れた鏡に、ソロの姿が何人も映っているシーンが配置されていた。二作目の「消された顔」(1965年)だったような気がする。当時、早川ポケットミステリではスパイものがやたらに翻訳されていたけれど、「ナポレオン・ソロ」シリーズも原作なのかノベライゼーションなのかはわからないが何冊も出版された。

ちなみに、当時のポケミスのカタログを調べてみると、マイクル・アヴァロン作「ナポレオン・ソロ/アンクルから来た男」が第一弾だった。919番で、ひとつ前の918番はドナルド・ハミルトン作「待伏部隊」である。これは、マット・ヘルムのシリーズ第六弾だった。部隊シリーズは、ディーン・マーチン主演で映画化されている。927番が記念すべきリチャード・スタークの第一作「悪党パーカー/人狩り」である。933番では「電撃フリント」が出ている。こちらはジェームス・コバーン主演で映画化された。「ナポレオン・ソロ」シリーズは短期間で発行され、976番「ソロ対吸血鬼」は「調査に赴いたソロとクリヤキンを恐怖のどん底に叩き込むシリーズ第八弾」と書かれている。

カタログを見て思い出したのだが、「エイプリル・ダンサー・シリーズ」というのもあった。「アンクルきっての女情報部員シリーズ」であり、その第一弾として「アンクルから来た女」(マイクル・アヴァロン作)が980番で出ていた。ただし、あまり売れなかったのか、シリーズ第二弾「燃える女」以後は出ていないようだ。もっとも、同時期にギャビン・ライアルの「最も危険なゲーム」「深夜プラス1」「本番台本」が立て続けに翻訳されているし、1007番ではディック・フランシス「興奮」が「競馬スリラー・シリーズ」と銘打って翻訳された。これが、ディック・フランシスの本邦初登場だったと記憶している。半世紀前のことだった。

●「荒野の七人」の最後のガンマンもこの世を去った

先日、ロバート・ヴォーンの死亡記事が新聞に出た。「ロバート・ヴォーン=ナポレオン・ソロ」である。彼は、ガイ・リッチー監督の「コードネームU.N.C.L.E.」は見たのだろうかと気になった。死因は急性白血病だというから、映画公開時には健康だったのではないだろうか。八十四歳だった。「ナポレオン・ソロ」に出ていた頃、政治的野心のある俳優だと言われていた。だからスティーブ・マックィーン主演「ブリット」(1968年)で上院議員の役をやったのだと、まことしやかに言われた。「タワーリング・インフェルノ」(1974年)や「復活の日」(1980年)でも上院議員の役をやっているから政治は嫌いではなかったのかもしれないが、政界に進出したとは聞いていない。

ロバート・ヴォーンを初めて見たのは、「荒野の七人」(1960年)だった。ほとんどセリフのない寡黙なガンマン役である。ユル・ブリンナー以下、七人のガンマンを演じたほとんどすべての俳優が後に主演を果たした。公開当時、すでに主演作があったのはユル・ブリンナーを別にすれば、スティーブ・マックィーンとホルスト・ブッフホルツだった。スティーブ・マックィーンはマイナーな映画に主演し、テレビシリーズ「拳銃無宿」で人気が出ていた。ホルスト・ブッフホルツは、「わが青春のマリアンヌ」(1955年)で注目されたドイツ出身の俳優である。

ナイフの名人役のジェームス・コバーン、「七人の侍」で薪割りをやっている千秋実のエピソードをそのままに演じたチャールズ・ブロンソン、それにロバート・ヴォーンは、この映画の後に主演俳優になった。もうひとりのブラッド・デクスターは、五〇年代から八〇年代までハリウッド映画の脇役として出演しているが、特に強く印象に残る作品はない。ペギー・リーの元夫らしいけれど、詳しくは知らない。もしかしたら、「荒野の七人」出演者の中で最も長生きし、長く活躍したのは山賊の頭領を演じたイーライ・ウォラックなのではあるまいか。亡くなったのは二〇一四年で、あと半年生きていれば白寿(九十九歳)を迎えることになった。僕は「ゴッドファーザーPARTIII」(1990年)のウォラックが忘れられない。

「荒野の七人」の七人のガンマンは、ロバート・ヴォーンを最後に全員が鬼籍に入った。映画が公開されて五十六年になる。ロバート・ヴォーンもスティーブ・マックィーンもチャールズ・ブロンソンもジェームス・コバーンも、みんな若かったのだなあと今更ながら感慨に耽る。マックィーンは「大脱走」(1963年)でブレイクし、大スターになった。低迷していたチャールズ・ブロンソンはヨーロッパに出稼ぎにいき、口ひげを生やした「さらば友よ」(1968年)でブレイクし、フランスとイタリアで活躍した後にハリウッドに凱旋した。ジェームス・コバーンは「電撃フリント」シリーズで主演し、その後、サム・ペキンパー作品などで主演。晩年まで渋い脇役として活躍した。

そして、ロバート・ヴォーンと言えば、やはり「ナポレオン・ソロ」シリーズである。イアン・フレミングが作り出した「007」こと「ジェイムズ・ボンド」シリーズが映画化されて大人気になり、雨後の筍のように後から後から様々な秘密情報部員たちがデビューしたあの時代、「0011ナポレオン・ソロ」は他のスパイたちとはやはり違っていた。毎週、テレビで活躍していたこともあるだろうが、映画版だって八本も作られたのだ。「0011」を使うに当たっては、イアン・フレミングの了解をとったということだったが、映画版五作めの「ナポレオン・ソロ対シカゴ・ギャング」の原作はイアン・フレミングであり、シリーズ中、最も出来がよいと言われている。

●イリヤ・クリヤキンことデビッド・マッカラムは現役の俳優だ

「0011ナポレオン・ソロ」シリーズの魅力は、相棒イリヤ・クリヤキン(デビッド・マッカラム)とチーフのウェーバリー(レオ・G・キャロル)とのチームワークにあった。特に、イリヤ・クリヤキンは子供たちに人気があった。僕も好きだったし、級友たちもクリヤキン派だった。たぶん、女と見るとデレデレし、モテモテのナポレオン・ソロは子供たちにとってはイヤラシゲーな大人に見えたのだ。真面目で、女性に対して純情なイリヤ・クリヤキンに自然と好感を持ったのだろう。ガイ・リッチー作品でも、ふたりの女性に対する対応の違いは明確に描かれていた。

「荒野の七人」のうち、スティーブ・マックィーン、ジェームス・コバーン、チャールズ・ブロンソンが「大脱走」にも出演しているけれど、デビッド・マッカラムを僕が初めて見たのも「大脱走」だった。スコットランド生まれのデビッド・マッカラムはイギリス人捕虜の役で、脱走を指揮するリチャード・アッテンボローの副官の役で活躍する。列車のホームで正体がばれ、射殺されるシーンでは僕は思わず眼を閉じた。フランクなアメリカ兵と違って、堅物で上官に絶対服従のイギリス将校役が似合っていた。真面目なキャラクターという印象が定着したのだ。

先日、WOWOWで四十六年ぶりに「狼の挽歌」(1970年)を見た。チャールズ・ブロンソン演じる殺し屋が自分を裏切った女(ジル・アイアランド)を、高層ビルの外壁を昇る透明なエレベーターの中で狙撃するラストシーンが有名になった映画だ。チャールズ・ブロンソンとジル・アイアランドは実生活では夫婦だった。その映画が公開される数年前、高校のクラスメイトに「イリヤ・クリヤキンことデビッド・マッカラムとチャールズ・ブロンソンは友だちだったけれど、マッカラムの奥さんだったジル・アイアランドを横恋慕したブロンソンが奪ったのだ」と教えられた。

以来、友だちの奥さんを奪った男という目でブロンソンを見ていた僕は、ジル・アイアランドとの共演作「狼の挽歌」(ベッドシーンまであるのだ)を見ても「いい気なもんだ」としか思えなかった。しかし、その後の長い長い人生の経験の中で、友だちの奥さんを好きになるという状況は大変一般的であり、妻の不倫相手が夫の友人というのは統計上トップになるかもしれないほど普通のことだと学んだ僕は、プロンソンへの偏見を棄て、同時にマッカラムへの同情も棄てた。そのマッカラムは、ブロンソンよりずっと長生きし、今もテレビドラマ「NCISシリーズ」に検死官役でレギュラー出演している。八十三歳の現役俳優である。彼は、ロバート・ヴォーンの葬儀に出席しただろうか。

2016年12月 1日 (木)

■映画と夜と音楽と…753 大利根河原の三兄弟


【先生と迷い猫/関の彌太ッペ/ひとり狼/座頭市物語】

●利根川沿いの畑に棄てられていた三匹の仔猫たち

千葉の自宅に戻り最初に見にいったのは、近くにある親水公園で暮らしている猫たちの様子だった。六月末まで、散歩のときに餌をやっていたのだが、その後どうしているかが気になっていた。公園の隅に餌皿があり、毎朝、定期的に餌をやっている女性がいるのは知っていたので、無事に暮らしているだろうとは思っていたのだけれど、やはり野良猫だから何があるかわからない。少しなじみになった三匹の猫に別れの挨拶はしたのだが、猫が理解したとは思えない。餌をくれていたじいさんが急にこなくなって、腹を立てていたかもしれない。

もっとも、僕以外にも朝の散歩の途中で餌をやっているおじさんとおばさんを見かけたから、たぶん生き延びていると確信していた。それで、自宅に帰った翌日の昼、親水公園までいってみた。朝の方が猫は姿を現しやすいので、もしかしたら会えないかと思っていたのに何と五匹の猫がいた。犬を散歩させている人もいるのに、堂々と公園の真ん中を歩いている猫もいる。生け垣の中で丸まっていたのは、最も人なつっこい猫だ。僕が近づいても逃げず、ニャアと鳴いた。四ヶ月以上もいなかったので、自宅の猫でさえ僕のことを忘れていたから、一ヶ月ほど餌をやっていただけのオヤジを憶えているはずはない。やはり、どの猫も近づくと逃げた。驚いたのは、猫が五匹に増えていたことだった。

翌朝、僕は散歩のコースを利根川にした。利根川のほとりの廃車置き場のようなところに猫の巣があるのだ。六月に通ったときは、子供を産んだばかりの母猫がいて、ひどく警戒し、僕に向かって威嚇するように口を大きく開き牙をむいた。あのとき、ざっと数えて十匹はいただろう。まるで、猫の梁山泊である。黒猫、白猫、三毛猫、茶虎、キジ虎など、どんな猫でもいそうだった。そんな猫たちも気になっていたので、様子を見ようと利根川コースを選んだのだった。利根川へいくと、暖かい晴天の朝だったので、道の真ん中に三匹の猫が寝そべっていた。近づくと警戒するので、立ち止まって様子を見ていると、猫たちも僕をじっと見つめてくる。梁山泊の方から、さらに数匹が出てきたので、僕はきびすを返した。

ところが、少し離れた角の畑のところにくると、三匹の猫がいた。茶色と白と黒の三色の毛が散っているのが二匹、一匹は白と黒の猫である。三毛猫のうちの一匹はライオン丸のようなタテガミで、顔は少し獰猛に見える。よく見ると、犬のチンに似た顔だ。シャム猫の血が入っているのだろうか。もう一匹の三毛猫はかわいい顔をしていた。その三毛猫より体がひとまわり小さな黒と白の猫も、顔はよく似ている。たぶん、その三匹は同じ雌猫が生んだのだ。兄弟か姉妹かわからないが、少なくとも血はつながっているのだろう。おそらく、三匹まとめて利根川の河川敷に棄てられたのではあるまいか。その三匹の中で最も獰猛な顔の毛がフサフサと立っている猫が僕の方へ寄ってきた。他の二匹もつられたのか、逃げずに近づいてきた。

猫は、警戒心の強い動物だ。たいていの野良猫は人間が近づくと逃げる。しかし、その三匹は、妙に人に懐いていた。それでも、一定の範囲には入ってこない。僕は「今日は食べ物持ってないんだよ。明日、持ってくるからね」と声をかけ、バイバイと手を振って離れた。それでも、自分を見て逃げなかった猫たちには情が移る。翌朝、キャットフードをポケットに入れて、前日に三匹の猫に会った場所へ向かった。坂道を降りていると、犬をつれて散歩しているおばあさんが鳩に餌をやるように野原に向かって何かを撒いていた。あの三匹の猫が、その足下にいた。僕が近づく前におばあさんは犬を連れて離れ、草むらにキャットフードが少し散っていた。

「餌、くれる人がいるんだね」と話しかけながら、持ってきた餌皿にキャットフードを入れると、三匹が頭をそろえて食べ始めた。ガツガツと食べるので、やっぱり満足に食べていないのかなと思った。そのうち、あの獰猛な顔をした三毛猫が餌皿から顔を上げ、僕を見つめてニャアと鳴き、何と僕の足に身を寄せてきた。スリスリと体をすり寄せる。匂いをつける猫の動作だとは知っているが、そんなことを野良猫にされたのは初めてだった。獰猛な顔の猫は足の間を抜けて、まとわりつく。その間に二匹は餌を完食し、一番体が小さな白と黒の二色の猫はクールに去っていく。もう一匹の三毛猫は「もっとくれよ」と言うように、ニャアと鳴いた。

そんなわけで、僕は毎朝、散歩の途中に彼らに餌をやることになった。もっとも、雨の朝と雪の朝には会えなかったので、少し心配した。どこか雨宿りできる、暖かい場所はあるのだろうかと不憫になった。雪が降った翌朝、ひどく冷え込んでいたけれど、六時半頃に利根川に着くと、遠くから僕を見つけた獰猛な顔の猫(ライオン丸と名付けた)が走り寄ってくる。それを見て、他の二匹も近寄ってきた。三匹が僕の足に身をこすりつけ、まとわりつく。ポケットから出したキャットフードの袋を破り餌皿に入れて草むらに置くと、三匹は頭を合わせて食べ始める。その姿を見ていると、幸せな気分になれた。

翌日、いつもより三十分遅くいくと、猫たちがいる畑の持ち主らしいおじさんがいた。軽トラックが停まっている。猫たちが僕に寄ってくると、おじさんは「捨て猫されちゃったんだよね」と話しかけてきた。「七月から面倒見てるんだ」と言う。聞くと、猫のために小屋を畑の横に造り、朝晩に餌を与えているという。僕が「よく人に懐いていますよね」と言うと、「人に慣れちゃって」と困ったような顔をした。僕が「時々、餌やっているんですが、いいですか」と訊くと、「やらないでほしいな」とおじさんは言う。猫たちが餌を食べ残すとカラスがきて困ると続けた。

「そうですか、わかりました」と、僕は答えた。明日から、あの子たちに足にまとわりつかれるという至福の喜びがなくなるのだろうか、と内心ではひどくがっかりしていた。

●大利根河原で有名なのは「天保水滸伝」の大喧嘩

という前振りなので、また猫について書くのかと思う人がいるかもしれない。最近、イッセー尾形主演の「先生と迷い猫」(2015年)という、たぶん猫好きの人たちばかりで作った映画を見たことだし、そういう方向もあるだろうけれど、今回は「利根川」について書きたいと思う。「利根川」が出てくる映画と言えば、「天保水滸伝」を元にしたものが浮かぶ。「天保水滸伝」は講談や浪曲で知られ、僕の世代くらいまでは長谷川伸原作の「一本刀土俵入り」(利根川沿いの取手の宿が舞台)や新国劇の「名月赤城山」などと同じように基礎教養のひとつだった。三波春夫のセリフ入りの歌「大利根無情」は、平手造酒を歌ったものである。

天保の頃、利根川下流に飯岡の助五郎というやくざがいた。一方、笹川の繁蔵という新興のやくざが勢いをつけてきた。飯岡の助五郎は十手を預かり、役人との二足の草鞋を履く男である。助五郎と繁蔵は最初は親しかったのだが次第に対立することになり、ついに大利根河原で大喧嘩になる。このとき、笹川の繁蔵の助っ人に浪人の平手造酒が加わる。一説によると、この大利根河原の喧嘩で飯岡方はかなりの人数がやられたけれど、笹川方で死んだのは平手造酒ひとりだと言われている。ただ、この大喧嘩の後にも対立は続き、繁蔵は殺され、助五郎は天寿をまっとうする。したがって、講談などでは飯岡の助五郎は悪役にされている。

講談、浪曲などで流布された「天保水滸伝」だが、活動写真と言われた頃から映像化もたびたび行われてきた。「忠臣蔵」と同じくらいの頻度だろう。平手造酒が主人公になった映画は、戦前だけでも数十本にのぼる。アメリカには、OKコラルの決闘でワイアット・アープとその兄弟に加勢するドク・ホリディ伝説があり、日本には笹川の繁蔵に加勢する平手造酒伝説があるのだ。調べてみると、一九二五年に大久保忠素の監督で「平手造酒」という作品が作られている。大河内伝次郎が平手造酒を演じた「平手造酒」(1928年)はその三年後の作品だが、その三年間に平手造酒が出る映画が数本あるらしい。毎年のように作られていたのだろう。

「股旅」という言葉を作ったのは、長谷川伸だと言われている。長谷川伸は大衆演劇の祖のような人で、「一本刀土俵入り」「関の弥太っぺ」「瞼の母」「沓掛時次郎」など、多くの股旅ものの戯曲を書いた。また、門下から大勢の大衆小説家が出ている。昔は、「一本刀土俵入り」の駒形茂兵衛のラストのセリフ「しがねぇ姿の土俵入りでござんす」とか、「瞼の母」の番場の忠太郎の「上の瞼と下の瞼をしっかり閉じりゃあ、会わねぇ昔のお袋の----」といったセリフは、誰でもが知っているものだった。同じように、「天保水滸伝」も人々の口に膾炙された物語だった。

そして、長谷川伸は自作に「天保水滸伝」の物語を取り込んだのだった。それは、飯岡の助五郎や笹川の繁蔵といった実在の人物たちが、実際に利根川の河原で喧嘩をやったことが元になっているため、また、そのことが人々に広く知られているため、自作に取り込んだのだろう。たとえば、「瞼の母」の冒頭のエピソードでは、番場の忠太郎に憧れる若い渡世人である半次郎は、飯岡の助五郎一家に殴り込みをかけて追われることになる。また、「関の弥太っぺ」では主人公の関の弥太郎は飯岡方の助っ人になり、兄弟分の箱田の森介は笹川の繁蔵方についている。ふたりは、大利根河原で鉢合わせする。

●股旅映画には日本人の心情を描いた名作が多かった

股旅映画は、いつ頃から作られなくなったのだろう。「木枯し紋次郎」がニュー股旅ものとして人気になったのは、七〇年代前半だった。テレビシリーズを担当した市川崑監督は、リアルな「股旅」(1973年)という作品をアートシアター・ギルドで制作した。市川崑監督は「帰って来た木枯し紋次郎」(1993年)も作っていて、もしかしたら日本映画で股旅者が主人公になった最後の映画かもしれない。時代劇だって、今ではほとんど作られていない。まして、股旅映画など、ここ何十年も見たことがない。もっとも、笹沢佐保が木枯し紋次郎を創作しニュー股旅ものがヒットするまでにも、長い空白期間があった。

しかし、六〇年代には中村錦之助や市川雷蔵が主演する、股旅映画の名作が目白押しだったのだ。錦之助には「瞼の母」(1962年)があり、「関の彌太ッペ」(1963年)があり、「遊侠一匹 沓掛時次郎」(1966年)があった。市川雷蔵には「沓掛時次郎」(1961年)があり、「中山七里」(1962年)があり、「ひとり狼」(1968年)がある。その中でも、僕が愛してやまないのは「関の彌太ッペ」であり、「ひとり狼」である。どちらも僕の生き方の根本に影響を与えた映画と言ってもいい。少なくとも、その二本の股旅映画を見ていなければ、(いいか悪いかは別にして)今のような僕にはなっていないだろう。

関の弥太郎は親切で人情あふれる旅人として登場し、利根川沿いの取手の宿の近くで女の子を助けて祖母の旅籠に送り届ける。しかし、訪ね当てた妹が死んでいたと知って絶望し、助っ人家業の一匹狼として十年を生き、今では凄惨な顔に変わり果てていた。飯岡の助五郎一家と笹川の繁蔵の大利根河原の喧嘩で、飯岡方に雇われた弥太郎は笹川方の助っ人に恩人がいることを知り、飯岡方を裏切る。飯岡の助五郎一家は、裏切り者として執拗に弥太郎を追う。一方、弥太郎は十年前に助けた娘が美しく育ったことを聞いて、遠目からそっと見届けようとするが、弟分の森介が娘を助けた恩人だと偽って旅籠に逗留していることを知る。

娘と旅籠の難儀を解決しようと急ぐ弥太郎の前に、飯岡の助五郎一家が立ちふさがる。弥太郎は今は外せない用事があるから、刻限を決めてくれれば必ずいくと告げる。娘を助けた弥太郎は、今は弥太郎が本当の恩人だと気づいた娘の呼び声を振り切って、飯岡の助五郎一家が待ちかまえる場所へ一歩一歩踏みしめながら近づいていく。その後ろ姿に「完」の字が重なり、作品完成時の撮影所内試写では絶賛されながらも「立ちまわりの直前で終わる股旅ものってありか?」という声もあがった。それでも、「監督デビュー三作めで名作を作ったな」と、山下耕作は所内で一躍話題になった。何度見ても、凄い映画だと僕も思う。何度見ても、同じところで僕は泣く。

ちなみに大利根河原の決闘を背景にしているのは、勝新太郎の代表作「座頭市物語」(1962年)だ。市が旅人として草鞋を脱いでいるのが、飯岡の助五郎一家である。ある日、市は釣りをしている浪人(天知茂)と知り合う。彼の名は、平手造酒。ラストは助五郎一家と繁蔵一家の喧嘩であり、市と平手造酒の一騎打ちが見せ場になっている。もっとも、助五郎も繁蔵もろくでもないやくざに描かれていて、市はどちらにも荷担しない形になる。それでも、市が友情を抱いた相手である平手造酒と、一騎打ちをせざるを得なくなるのが切ないラストだった。

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