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2017年1月 5日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」------夜間高校の時代・前編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■高校進学が夢だった----------------夜間高校の時代・前編

夜間高校、夜間中学というものがありました。今もあるのでしょうか。古い人は「夜学」と言います。「いつでも夢を」(1963年)という映画の中で、「夜学」と言ったトラック運転手の橋幸夫に、「定時制高校」と呼び方を訂正する定時制高校生の浜田光夫が登場しますが、「定時制」という呼び方が昭和三十年代後半には定着しました。大学は「定時制」とは言わず、「一部・二部」という呼び方ですが、それはいつ頃からでしょうか。吉永小百合は仕事が忙しく、確か早稲田大学の第二文学部卒業だったと思います。

夜間中学は昭和26年(1951年)7月16日に初めて開校します。東京都足立区立四中で、入学式には四人しかいませんでしたが、9月19日には定員いっぱいの100人になりました。戦後6年、当時は教育に無理解な親が多く、貧しい家にとっては子供も一家の労働力でした。

特に足立区は2000世帯のスラム街と貧農、零細な商工業者が多かったのです。東京都教育委員会は「未就学生徒の対策に他によい方法がないので」と認可しましたが、中学は義務教育というタテマエを重んじる文部省は設置に反対をし認めておらず、現在まで黙認という形を取っています。

教育は、貧困によって敗北します。貧しい家の子供たちは、子供のうちから働き金を稼ぐことを強いられます。したがって、進学の問題は貧しい家の子供たちにとって、大きな夢となります。昭和三十年後半までは、中学を出たら働く子供たちが大勢いました。

高度成長期、彼らは「金の卵」と呼ばれましたが、結局は単なる労働力としてしか見られませんでした。しかし、東京オリンピックが開催され、高度成長が加速された頃、高校進学率が70パーセントを超えます。僕が高松市立桜町中学を卒業したのは昭和42年3月でしたが、その時、50人ほどいたクラスで就職したのは一名だけでした。

僕は中学でバスケット部にいたのですが、一年先輩でキャプテンをつとめていた人が高校受験に失敗して高校の定時制に入りました。僕が高校に入ったとき、一年定時制に通っていた彼は全日制に改めて入学し、僕と同学年になりました。当時、定時制は働きながら通う人もいたのでしょうが、そういう受験浪人の人の受け皿になりつつあったことも事実です。

今回は「高校進学が夢だった頃 夜間高校の時代」と題して、昭和を振り返ってみたいと思います。そのためのテキストは「いつでも夢を」と「キューポラのある街」です。どちらも吉永小百合主演です。「キューポラのある街」は昭和37年、1962年4月8日公開。浦山桐郎監督のデビュー作で、兄貴分の今村昌平が脚本に協力しています。吉永小百合が多くの賞に輝いた作品です。これで吉永小百合は女優になったと言われました。

余談ですが、浦山監督は作品数が少ないので有名で、「キューポラのある街」の後、和泉雅子主演「非行少女」(1963年)を撮り、六年後に三作目「私が棄てた女」(1969年)を発表し、また6年間何も作っていません。

結局、55年の人生で監督作はアニメを含めて9本です。劇場映画の最後は吉永小百合の『夢千代日記」映画版でした。浦山監督を恩師と言いつづけた吉永小百合ですが、映画の「夢千代日記」で夢千代が死ぬ時の臨終のセリフについては意見が対立し、吉永小百合は譲らなかったそうです。

「夢千代日記」は早坂暁脚本でNHKでシリーズが何度か放映された、吉永小百合の代表ドラマです。第一シリーズは林隆三だったかな、次のシリーズは松田優作、確か石坂浩二が出たシリーズもあったはずです。毎シリーズ、主要な役で男優が出ます。

夢千代は胎内被爆者で、映画では発症して死に至ります。その時、浦山監督は夢千代に「ピカが憎い」と言わせようとし、長く夢千代を演じてきた吉永小百合は「夢千代は絶対にそんなセリフは言いません」とがんばった。夢千代ファンだった僕もそう思います。夢千代はそんな性格の人じゃない。結局、監督と主演女優は妥協し、完成した映画では夢千代は「ピカが----」と言って死にます。「憎い」は言わなかったのです。

私は、一度だけ、浦山監督と呑んだことがあります。何しろ、有名な酒乱ですから、戦々恐々として呑んでいました。1980年か81年、もう三十五年近く前のことです。フリーライターの人と三人でした。いろいろ話を聞きたかったのですが、僕が勘定を持たなければいけない場だったのと、酒乱の伝説におびえてロクに話を憶えていません。今から思うと、せっかくの機会だったのに残念でした。

さて、吉永小百合は、昭和37年、橋幸夫とのデュエットで「いつでも夢を」をヒットさせ、その年の大晦日にレコード大賞を受賞します。翌年の正月1月11日に「いつでも夢を」が公開されました。昭和20年3月13日生まれの吉永小百合、17歳の一年間は彼女にとって記念すべき年になりました。

「いつでも夢を」も定時制高校が舞台になります。「キューポラのある街」で定時制高校に進むことにしたジュンですが、「いつでも夢を」では父親の病院を手伝いながら定時制高校に通うヒカルとして登場します。

昭和37年、まだ多くの若者たちが経済的理由から定時制高校で学んでいました。文部科学省の資料によると、高校進学率は昭和25年は42.5パーセント、昭和29年に50パーセントを超え、昭和36年には60パーセント、ということは10人の内4人が中学を卒業して働いていたことになります。

昭和40年に70パーセント、昭和45年には80パーセントを超え、昭和50年には91.9パーセントになります。男女別に見ると、昭和35年には男子59.6パーセント・女子55.9パーセントと3.7パーセントの開きがありましたが、昭和44年以降は女子が男子の進学率を上回ります。昭和50年には男子91パーセント、女子93パーセントで逆転します。

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