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2017年1月

2017年1月26日 (木)

■映画と夜と音楽と…757 プリンセス・レイアは戦うヒロインだった



【スター・ウォーズ/スター・ウォーズ フォースの覚醒/ブルース・ブラザース/ハリウッドにくちづけ】

●メリル・ストリープは「友人で親愛なる去りしレイア姫」と言った

メリル・ストリープがゴールデン・グローブ賞での受賞スピーチでトランプ批判をしたことは世界的なニュースになったけれど、その最後は「私の友人で親愛なる去りしレイア姫がかつて言ったように、砕かれたハートをもってアートにしましょう」という言葉で締めくくられた。プリンセス・レイアことキャリー・フィッシャーは昨年の暮れ、十二月二十七日に飛行機の中で心臓発作を起こし、そのまま亡くなった。六十歳では早すぎる。「スターウォーズ・フォースの覚醒」(2015年)で久しぶりにレイア役としての姿を見たのに残念だ。

ところで、メリル・ストリープが「友人で親愛なる去りしレイア姫」と言ったとき、「ああ、そうか。メリル・ストリープは『ハリウッドにくちづけ』で、キャリー・フィッシャー自身を演じていたな」と僕は思い出した。メリル・ストリープはキャリー・フィッシャーよりかなり年上だと思っていたので、最初はふたりの結び付きがピンとこなかったのだ。調べてみると、メリル・ストリープの方が七歳年上だったけれど、女優として日本で知られたのはキャリー・フィッシャーの方が早かった。彼女は、日本でも公開前から大騒ぎになった「スター・ウォーズ」(1977年)のヒロインなのである。メリル・ストリープは、まだ「ディア・ハンター」(1978年)さえ公開されていなかった。

「スター・ウォーズ」の日本公開は、アメリカ公開の翌年一九七八年の夏だった。アメリカでの評判が凄くて、雑誌(「スターログ」など)が大々的に特集したりした。「キタキツネ物語」(だったと記憶している)が大ヒットして儲かったフジテレビの映画製作チームはジェット旅客機をチャーターし、スタッフ全員でアメリカまで「スター・ウォーズ」を見にいったという話まであった。待ちきれない人たちの間では「スター・ウォーズ」をアメリカまで見にいくことが流行し、帰国して自慢そうに映画について報告した。テレビに登場する映画リポーターと称する人たちも、「冒頭の宇宙船のシーンが凄い」とか、「ライト・セーバーという光るサーベルでの戦いが美しい」などと喋り散らした。

勤めて二年目、結婚して一年半の僕にはアメリカまでいく資金も時間もなかったから、そんな騒ぎを横目に見て「チッ、どうせ特撮を売り物にしたスペースオペラだろ」と皮肉な笑みを浮かべて切り捨てた。「子供だましみたいなものさ」と、あまり振りまわされないようにしていた。会社の先輩と後輩にSF映画好きがいて、あまりに騒ぐので反発したこともあったのだろう。しかし、社会現象になるほど騒がれれば、気にならないわけがない。翌年の夏休みを当て込んで公開された「スター・ウォーズ」は大ヒットしたが、僕は世間が静まり始めた頃に人目を忍んで(?)見にいった。そして、ファーストシーンから圧倒された。

銀河系を舞台にした正邪の戦いという物語の設定はシンプルなので、冒頭で背景を説明し、いきなり巨大な宇宙船の腹を見せるというハッタリは成功していた。あれで、観客は物語の中に引き込まれる。巨大な宇宙船に小さな宇宙船が引き込まれ、邪悪そうなダースベイダー(あの息と声!)が登場し、可憐なプリンセス・レイアが捕らわれる。プリンセス・レイア役に最後まで残ったのがキャリー・フィッシャーとジョディー・フォスターだったそうだが、日本ではほとんど無名だったキャリー・フィッシャーに決まったから、プリンセス・レイアの新鮮さが映画にマッチし、キャリー・フィッシャー=プリンセス・レイアになったのだ。

しかし、三年後、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」(1980年)が公開されたとき、三年間での容貌の変化に僕は戸惑った。少女の面影を残していたキャリー・フィッシャーは完全な大人の女性になったわけだが、プリンセス・レイアが初めて登場したときには僕はちょっと唖然とした。同じように、美少年の雰囲気を持っていたルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミルも、少年から大人になってしまい容貌が変わっていた。「おまえは、桜木健一か」と、僕はスクリーンに向かって突っ込んだものだ。テレビ「柔道一直線」で有名になった桜木健一も、その後は「仁義なき戦い」のチンピラ役が目立ったくらいで、あまり見かけなくなっていたけれど----。

●キャリー・フィッシャーは麻薬中毒を克服し文才を発揮して六十年を生きた

「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」と同じ年に作られたヒット映画「ブルース・ブラザース」(1980年)に出演したキャリー・フィッシャーは、強烈な印象を僕に残した。「おいおい、あれがプリンセス・レイアかい?」と思ったものだ。ジョン・ベルーシを機関銃で撃ちまくるクレイジーな元カノ役である。後に知ったのだが、キャリー・フィッシャーが麻薬におぼれることになったのは、もしかしたらこの映画でジョン・ベルーシと共演したことがきっかけになっているのだろうか。ジョン・ベルーシは薬物の過剰摂取で死んでしまったが、キャリー・フィッシャーは麻薬中毒を克服し、文才を発揮して六十年を生ききった。

キャリー・フイッシャーが自らの麻薬中毒になった経験と、世界中で誰もが知っているミュージカル・スターだった母親との葛藤を小説にして発表したのは、「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」(1983年)から六年後のことだった。日本で翻訳が出たのは一九八九年の晩秋である。朝日新聞の書評欄で紹介された「崖っぷちからのはがき」という本が、キャリー・フイッシャーが書いた自伝的な小説だと知って僕は驚いたものだ。その年の暮れ、僕は久しぶりにキャリー・フイッシャーをスクリーンで見た。彼女はヒロインの友人役だった。その映画「恋人たちの予感」(1989年)では、ヒロイン役のメグ・ライアンが輝いていた。

「崖っぷちからのはがき」は「ハリウッドにくちづけ」(1990年)として映画化され、キャリー・フイッシャー役をメリル・ストリープ、母親のデビー・レイノルズ役をシャーリー・マクレーンが演じ、新旧ふたりの名女優の演技合戦が話題になった。キャリー・フイッシャーは自ら脚本も書いた。監督はマイク・ニコルズ。母娘の複雑な関係、心理的なやりとり、お互いの葛藤などを細かく描写する名監督である。僕はデビー・レイノルズと言えば「雨に唄えば」のヒロインしか浮かばなかったが、彼女が人気歌手のエディ・フイッシャーと結婚しキャリー・フイッシャーを生み育てたことを、その映画を見て実感した。

ちなみに、父親のエディ・フイッシャーの結婚歴は凄い。エリザベス・テイラー、コニー・スティーヴンス、デビー・レイノルズの三人を妻にしている。美女ばかりだ。そんな父親と母親を持ったキャリー・フイッシャーは、ハリウッドのサラブレッドだった。プリンセス役としては、最適だったのではあるまいか。「スター・ウォーズ」でプリンセス・レイアを演じ、薬物依存から立ち直り、女優として仕事を続け、また、脚本の執筆も行った才女である。残念ながら十二月二十七日に六十で亡くなったが、母親のデビー・レイノルズも娘の後を追うように翌日の二十八日、突然に亡くなった。娘の葬儀の相談をしているときだったという。

昨年の暮れ、僕は毎日続いた訃報に驚いてばかりいた。キャリー・フイッシャーに続くデビー・レイノルズの死には、「娘が呼んだのだろうか」と思い、その翌日の二十九日、根津甚八の六十九歳の死を惜しんだ。石井隆監督作品「GONINサーが」(2015年)で別人かと思うほど容貌が変わってしまった根津甚八を見て、僕は目を疑った。それが、彼の最後の映画出演になってしまったのだ。唐十郎の紅テントに出ていた根津甚八を見たことがなかった僕は、「娘たちの四季」というテレビドラマで初めて彼を見て、何という存在感を見せる役者かと驚いたことを今も憶えている。長女役の夏圭子の相手のCМディレクター役だった。有名な遺書を残し自殺したCMディレクター杉山登志をモデルにしているのではないかと僕は思った。

●ヒュー・グラントが「最近のハリウッドは戦うヒロインばかり求められる」と嘆く

コメディ出演が多いトボケた二枚目ヒュー・グラントがアカデミー賞女優マリサ・トメイを相手役にして出演した「Re:LIFE~リライフ~」(2014年)は「ノッティングヒルの恋人」ほど長く愛される作品にはならないだろうが、ヒュー・グラントらしい演技が見られる楽しい作品だった。十数年前にアカデミー脚本賞を受賞した名作を書いたヒュー・グラントは、その後は鳴かず飛ばずで、今はまったく仕事がない。エージェントから遠い州のカレッジでシナリオ創作コースを教える仕事を紹介され、嫌々ながら生活のために講師を始めることになる。その映画の中で、ヒュー・グラントは「最近のハリウッドは、戦うヒロイン、強い女ばかりが求められる」と嘆く。そのセリフに僕は笑ってしまった。

ハリウッド映画で「強い女」と言われて、真っ先に浮かぶのが「エイリアン2」(1986年)のリプリーことシガニー・ウィーヴァーである。一作めの「エイリアン」(1979年)でも彼女は孤軍奮闘したったひとり生き残ったが、「戦うヒロイン」と言えば「エリイアン2」が強烈な印象を残す。少女をエイリアンにさらわれたリプリーが手榴弾や銃を装備するシーンでは、僕はスタローンの「ランボー」(1982年)やシュワルツネッガーの「コマンドー」(1985年)を連想した。監督のジェームス・キャメロンは戦うヒロインが好きらしく、「アビス」(1989年)のメアリー・エリザベス・マストラントニア、「ターミネーター2」(1991年)のリンダ・ハミルトンなどを創り出した。

しかし、ハリウッド映画のヒロイン像を変えたのは、「スター・ウォーズ」のプリンセス・レイアことキャリー・フィッシャーではなかったか。それまでのプリンセスは、男たちに守られるか弱い女性だった。強いヒーローと聖なる女性という構図である。七〇年代のウーマン・リブによってハリウッド映画におけるヒロインの描かれ方も変わり始めていたが、「戦うヒロイン」がはっきりと登場したのはプリンセス・レイアだったのではないだろうか。六〇年代後半から始まったニューシネマでは「弱い男」「泣く男」たちが描かれ、「自立するヒロイン」が登場した。しかし、シリアスなドラマが多く、スペースオペラのような作品で「戦うヒロイン」が登場するまでには至らなかった。

今も、僕は憶えている。ルークが宇宙船の狭い部屋に閉じこめられていたプリセス・レイアを救い出したとき、プリンセス・レイアは先頭に立って銃を構え宇宙船の中を走っていったことを。彼女はルークやハン・ソロを従えた戦うヒロインだったのだ。その流れは、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」のヒロインへとつながっている。プリンセス・レイアことキャリー・フイッシャーはハリウッドのサラブレッドであり、ハリウッド映画に多大な貢献をした。現在では六十年は短いけれど、メリル・ストリープに「親愛なる去りしレイア姫」と惜しまれる人生である。充実した人生だったのではないか。

2017年1月19日 (木)

■映画と夜と音楽と…756   いかがなものかな、大統領


【マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙/ディア・ハンター/恋におちて/マディソン郡の橋】

●「おまえのかーちゃん、でーべそ」という類の子供の喧嘩レベルの反論

ドナルド・トランプが好きになれない。というより、嫌悪を感じる。顔を見ると虫酸が走る。その言動は下劣で、下品で、見ている方が恥ずかしくなる。マルティン・ベックのシリーズに「唾棄すべき男」というタイトルがあったと記憶しているが、その言葉が浮かんでくる。野卑で、感情的で、子供っぽくて、差別的で、攻撃的で、とにかく僕が嫌いな要素をすべて体現しているかのようだ。人格高潔な人物が大統領になるとは限らないが、ニクソン、ロナルド・レーガン、ブッシュ(息子の方)にも増して僕が嫌いなアメリカ大統領が誕生してしまった。僕がアメリカ国民だったら、耐えられないだろう。カナダへ逃げ出したくなる。

メリル・ストリープもそう感じていたのかもしれない。ゴールデングローブ賞で功労賞的なセシル・B・デミル(代表作は「十戒」かな)賞を受賞したときのスピーチ映像を見たが、トランプの名前は出さず理性的な言葉を連ねていたものの、寸鉄人を刺すような批判だった。トランプが自分に批判的な記事を書いた記者の身体的障害をネタに嘲笑したことを批判し、彼女のスピーチに人々は聞き入っていた。人前で誰かを批判するのであれば、彼女のように人々の共感を得られるような言葉を選ぶべきだと僕は思った。聞いていても不快にならないし、深い説得力に充ちていた。感動的だった。誹謗・中傷・悪声・罵倒・罵詈雑言で相手を侮辱し、罵り続けるトランプとは大違いだ。

メリル・ストリープのスピーチがニュースで話題になると、トランプは例によってツイッターで下品な反論をしつこく続けた。「ハリウッドで過大評価されているメリル・ストリープ」というフレーズには僕もちょっと笑いそうになったけれど、相変わらずの下劣さである。「おまえのかーちゃん、でーべそ」という類の子供の喧嘩レベルの反論は、本人の知性レベルがゼロだと告白しているようなものではないか。もっとも、僕も昔からメリル・ストリープのことを「メリル・あたしうまいでしょ・ストリープ」と呼んでいて、その演技は鼻につくところがあるなと感じていたので、「過大評価されている女優」というフレーズに思わず笑ってしまったのだ。

しかし、僕がメリル・ストリープを「うますぎて鼻につく」ように感じ始めたのは最近のことだ。昔、杉村春子の演技に舌を巻いたが、メリル・ストリープに対するものもそれに近い。何をやっても評価され、何度もアカデミー主演女優賞を受賞した女優である。最近では「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(2011年)を見て、嫌みなくらいうまいなあ、と思ったものだ。もっとも、「クレイマー、クレイマー」(1979年)でアカデミー助演女優賞、ウィリアム・スタイロンの小説の映画化「ソフィーの選択」(1982年)でアカデミー主演女優賞を受賞した頃、ハリウッド一番の名女優だなと素直に僕は思っていた。そう言っては何だが、それほどの美女ではない。演技力が彼女の武器だった。

一九四九年生まれのメリル・ストリープは、僕の兄と同い年になる。日本で言えば団塊の世代、アメリカではベビーブーマーのひとりだ。僕とは二歳しか違わないのだが、昔からずっと年上の名女優という気がしていた。映画デビューは「ジュリア」(1977年)だそうだが、あの映画では、女優はリリアン・ヘルマン役のジェーン・フォンダとジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーブしか記憶に残らない。男優では、ダシール・ハメット役のジェーソン・ロバーツが忘れられない。しかし、メリル・ストリープは何の役だった? という感じだ。僕が初めて、メリル・ストリープという女優を記憶に刻んだのは、「ディア・ハンター」(1978年)だった。

●公開前から非常な評判になっていた「ディア・ハンター」

「ディア・ハンター」の日本公開は一九七九年三月だったけれど、公開前から非常な評判になっていた。当時は、ずいぶんテレビで映画紹介番組があった。僕は、公開前にイヤになるくらいロシアン・ルーレットのシーンを見たものだ。ベトナム戦争に従軍したロバート・デ・ニーロやクリストファー・ウォーケンなど故郷の仲間たちがベトコンの捕虜になり、河を利用して作られた水牢に入れられている。ひとりひとり捕虜が連れ出され、ロシアン・ルーレットを強要され、ベトコンたちの賭の対象にされる。水牢に死んだ捕虜の体が無造作に投げ入れられ、彼らの恐怖は極限に高まっている。やがて、デ・ニーロとウォーケンが連れ出され、ロシアン・ルーレットを強要される。

アメリカ軍がサイゴンから撤退し、ベトナム戦争が終結してから、まだ四年も経っていなかった頃だ。「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)に参加していた人たちは多かったし、ベトナム戦争ではアメリカ軍が悪役だった。六〇年代末、「ホ、ホ、ホーチン」と北ベトナムの指導者ホーチミンを讃える歌を、有名なフォーク歌手が歌っていたくらいである。だから、左翼系知識人の中には、「ベトコンがあんな残酷なことをするわけがない」と主張し、「ディア・ハンター」を反動映画扱いする人たちもいた。また、「米帝(米国帝国主義)のお先棒を担ぐ映画だ」と批判する人もいた。

しかし、映画の力は圧倒的だった。三時間のあいだ、僕が映画館の椅子の背もたれに背中をつけたのは十分もなかったのではないか。ずっと身を乗り出し、スクリーンを食い入るように見ていた。特にロシアン・ルーレットのシーンは手を強く握りしめていたのを憶えている。「いい映画」や「好きな映画」にはけっこう出会えるが、「すごい映画」にはなかなかぶつからない。「ディア・ハンター」は、極め付きの「すごい映画」だった。「ゴッドファーザーPARTII」(1974年)や「タクシードライバー」(1976年)ですでにスターになっていたロバート・デ・ニーロのうまさを改めて実感し、初めて見たクリストファー・ウォーケンの繊細さと青い目に魅了されたものだった。

メリル・ストリープの出演場面は、それほど多くはなかった。前半の一時間近くは故郷の田舎町での結婚式が延々と続くけれど、メリル・ストリープとクリストファー・ウォーケンが淡い恋仲で、ロバート・デ・ニーロの複雑な感情が描かれる。その後、唐突にベトナムの戦闘シーンになり、ジャングルでの戦いが続く。やがて、捕虜になり、何とか生還するが、クリストファー・ウォーケンは行方不明となり、ロバート・デ・ニーロは英雄として故郷に帰る。しかし、町の入り口に張られた自分の帰還を歓迎する横断幕を通り過ぎ、デ・ニーロは歓迎式典に顔を出さず、メリル・ストリープと再会する。そのときの微妙な感情の交錯が印象に残る。美人じゃないけど、うまい女優だなと僕は思った。

あれから三十六年が経ち、こんな大女優になるとは想像もしなかった。「ディア・ハンター」出演のとき、すでに三十近かった彼女は、現在、六十七である。「ディア・ハンター」で共演したロバート・デ・ニーロは、一九四三年生まれで、彼女よりは六歳上。今年、七十四歳になる。その後、ふたりはハリウッドを代表する演技派になり、役作りのために自在に太ったりやせたりするデ・ニーロは「演技オタク」とまで言われ、メリル・ストリープはすれっからしの映画ファンである僕などに、「嫌みなほどうまい」とか「うますぎで鼻につく」などと言われるようになった。しかし、お見逸れしました、と僕は謝るしかない。ゴールデン・グローブ賞の数分間のスピーチは、何にも勝る名演技でしたと----

●「恋のおちて」のメリル・ストリープの葛藤する演技も見事

「ディア・ハンター」の後、メリル・ストリープとロバート・デ・ニーロが本格的に共演した作品に「恋におちて」(1984年)がある。家庭のある中年男女の恋愛を描いて秀逸だった。デビッド・リーン監督の「逢びき」(1945年)を下敷きにしているという話だったが、あまりそんな気はしなかった。八〇年代のアメリカだから、ヒロインはグラフィックデザイナーという仕事をしているし、ふたりが逢い引きを続けるのはニューヨーク・マンハッタンに通う通勤列車の中である。ふつうの男がふつうの女性に恋をして、次第にのっぴきならないところまで高まり、結局、家庭と恋のどちらをとるかまで追い込まれる。ただのラブ・ロマンス作品にならなかったのは、デ・ニーロとメリル・ストリープ主演だからだろう。

恋する女の切なさが観客の心に響いてくるのは、ベストセラー小説をクリント・イーストウッドが映画化した「マディソン郡の橋」(1995年)である。このとき、メリル・ストリープは原作のヒロインより実年齢は若かったが、初老の女性の揺れる心理を表現して絶妙の演技を見せた。監督のイーストウッドのうまさもあるのだが、夫とヒロインが乗る車の後ろにイーストウッドのピックアップトラックが信号で停車するところは、映画史に残る名シーンである。一言もセリフはなく、それぞれの車に乗る男と女の表情、ウィンカの点滅、車のドアの取っ手、信号のアップなどが交錯し、ふたりの心理を表現する。結局、ヒロインは車を降りず右折し、男は左折して別れてゆく。

その「マディソン郡の橋」に劣らず、「恋のおちて」のメリル・ストリープの葛藤する演技も見事だ。ふたりはマンハッタンに逢い引きのための部屋を借り、結ばれるために部屋にいく。しかし、夫と子供のいるメリル・ストリープは家庭を裏切れない。デー・ニーロの方も妻と子供の顔がちらつく。ふたりは何もせずに別れるが、デ・ニーロの様子をいぶかしんだ妻は問い詰め、「でも、何もなかったんだ」と言い訳するデ・ニーロに「なお、悪いわ」と言い返す。彼女は夫を許すことができずに家を出ていく。そんなものかなと僕は思い、妻に正直に話さない方がいいこともあるのだと学んだ。当時、僕は結婚して十年、幼いふたりの子供がいた。「恋におちて」のような状況ではなかったが、デ・ニーロが演じたふつうの男には、なんとなく共感したものだった。

そのデ・ニーロも昨年のアメリカ大統領選挙期間中、ドナルド・トランプの女性蔑視の会話が公開された後、「私はトランプの顔を殴ってやりたい」と発言し、世界にニュースとして流れた。そんなストレートなコメントをしたデ・ニーロに、僕は喝采を送ったものだった。僕だって、トランプの顔を殴りたくなったし、今だって殴りたくなる気分はおさまっていない。先日の記者会見を見ていて、さらに嫌いになった。というより、あきれ果てたというべきだろうか。トランプを見ていると、世界は悪い方にしか向かっていない気分になってくる。メリル・ストリープが発言したくなった気持ちがよくわかった。彼女にとっては、自分の国の大統領なのだから----

2017年1月12日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」-------夜間高校の時代・後編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■高校進学が夢だった----------------夜間高校の時代・後編

「キューポラのある街」では、主人公ジュンの高校進学の問題が大きなテーマです。ジュンの家は、父親が埼玉県川口の鋳物工場で働いていましたが、ある日、クビになります。父親がクビになると、その日から暮らしが成り立たなくなるようなその日暮らしです。母親は家で内職に励んでいますが、大した収入にはなりません。そういえば、当時は多くの家で母親が内職をしていましたね。

貧乏人の子沢山と昔から言われますが、中学三年生のジュンを筆頭に、小学生のタカユキ、その下に次男がいるのに、父親がクビになった日、母親は四人目の赤ん坊を生みます。父親は後に水戸のご老公になる東野英治郎です。母親は杉山とく子という地味な脇役女優が起用されました。

小学生のタカユキを演じたのは、この映画で名子役と言われるようになった市川好郎です。彼は「いつでも夢を」にも、浜田光夫の弟役で出ています。大人になっても東映のやくざ映画などに出演していましたが、いつの間にかいなくなりました。子役は大成しないといいますが、坂上忍はなぜかブレイクしています。

ジュンはスーパーマンというあだ名の担任教師に、「高校はどうするんだ」と訊かれ返事に困って沈黙します。教師は「何か困ったことがあったら、先生に話すんだぜ」と優しい言葉をかけます。先頃亡くなった加藤武の若き日の姿です。若いときもごつくて、あまり変わりません。加藤武や小沢昭一は今村昌平と麻布中学で同級生だったこともあり、今村一家ですからこの映画にも出演したのでしょう。小沢昭一などワンシーンに登場するだけで、ほとんどカメオ出演です。

当時、鳩を飼育することが流行しました。恥ずかしながら私も兄と一緒に二階の外に鳩小屋を作り、鳩を何羽か飼っていました。「キューポラのある街」でもタカユキと弟が鳩を飼育しています。遠くへ連れて行って、鳩を放つという訓練をしています。次第に遠くしていくのです。

タカユキは学校で禁止されている鳩の売買をして小遣い稼ぎをしています。その売買のトラブルが元で、高校生に屑鉄の盗みをさせられるというエピソードがあります。それを知ったジュンが相手と話をつけるのですが、その時に鳩一羽の値段が900円です。ジュンは分割で返すと交渉します。

当時、900円は子供にとって大金です。この映画より2年ちょっと早く公開された大島渚監督の監督デビュー作「愛と希望の街」(1959/11/17公開)は、オリジナルのタイトルが「鳩を売る少年」です。冒頭、街角で靴磨きに並んで鳩を撃っている中学生がいます。その貧しさに同情したブルジョアの女子高生が鳩を買おうとして「800円」と言われ、「あら、高いのね」と思わず口にします。

少年は「デパートで買うと1000円はします」と答えます。デパートで鳩を売っていたのですね。この「愛と希望の街」も貧しい母子家庭の少年の高校進学問題が大きなテーマでした。「愛と希望の街」の少年は鳩を売った金で食料品を買います。八百屋の店先に、「タマネギひと山20円」「ソーセージ1本15円」と出ています。

鳩の話をつけた後、ジュンとタカユキは中華屋で食事をしますが、その時に「あたい、高校いくよ。どんなことがあっても」と宣言します。その後、ジュンが志望高校を見にいくシーンがありますが、その時の吉永小百合の表情を見ると、「高校進学が夢だった」時代があったことがよくわかります。

父親は仕事がなくやけ酒ばかり飲んでいます。ある夜「ダボハゼの子はダボハゼだ。中学出たら、みんな働くんだ」と父親は怒鳴ります。しかし、「あたいは、タボハゼじゃないよ」とジュンは、自分の人生を切り開こうと努力します。

ところが、父親が復職し、ジュンが高校にいけるようになった時、ジュンは父親に頼らず自立して学ぶために、大きな会社の工場で働きながら定時制高校に通う道を選びます。「そんなこと言ったって夜間じゃ----」と言う父親や浜田光夫を説得します。定時制高校が肯定的にとらえられています。

これは「いつでも夢を」も同じで、勤労学生をたたえる風潮が当時あったことの証明でしょう。偉いな、彼らは----という雰囲気でしょうか。ちなみに鋳物工場で働きながら組合活動をやっている浜田光夫は、高校にいけなくてグレた過去を持っています。

「キューポラのある街」を現在の視点で見て違和感を感じるのは、朝鮮人問題かもしれません。ジュンと仲のよい同級生ヨシエと、タカユキの子分のサンキチは姉弟です、父親は在日朝鮮人で、母親は日本人です。ジュンの無学な父親は「朝鮮人とつきあうな」と頭ごなしに言い、ジュンの反発を買います。時代は北朝鮮の帰国運動の頃で、新国家建設のための帰国運動が盛り上がっています。

当時、北朝鮮は「労働者の地上の楽園」でした。ヨシエたちも北朝鮮へ帰国することになります。父親とヨシエとサンキチが出発するシーンが、この映画の大きなヤマ場で、公開当時の観客を感動させました。「新国家建設中だからビー玉なんかねぇだろ」と言いながらタカユキがサンキチに餞別のビー玉を渡すのは笑えます。フィクションですが、この人たちは、その後、どうなったのか、北朝鮮の実態を知った今は心配になります。

「いつでも夢を」は、工場の健康診断シーンから始まります。工員たちが我先にと診察室に向かいます。町医者の出張健診です。助手として娘のひかる、吉永小百合がくるので工員たちは騒いでいるのです。ひかるは「我が町の太陽」と呼ばれる明るい美しい娘。人気者です。行員のひとり勝利、浜田光夫が「ぴかちゃん、昨夜、学校休んだだろ」と言い、ふたりが定時制高校の同級生だとわかります。

健診の帰り、父親を荷台に乗せて自転車で走っているとき、乱暴な運転のトラックとぶつかりそうになり、怒鳴ってきた運転手、橋幸夫に吉永小百合は立て板に水の口調で啖呵をきります。よくある設定ですが、橋幸夫はこれでいかれてしまいます。

同級生の浜田光夫と橋幸夫の恋の鞘当てめいたものが始まるわけですが、中卒で働いているトラック運転手の橋幸夫は、働きながら定時制高校で勉強している浜田光夫を尊敬します。その時、「夜学」と口を滑らせて、浜田光夫に「定時制」と訂正されます。

定時制高校は四年です。浜田光夫は高卒資格を取り、大企業に入社して背広で仕事をするのが夢です。家は貧しくて、教育がないばかりに自分も職工風情にしかなれなかったことを悔やんでいます。強烈な上昇志向、大企業志向を発散させます。

吉永小百合は、そんな浜田光夫に「幸せってそんなことじゃないと思う」と反論し、授業の終わった後の教室で生徒全員を巻き込んだ議論が起こります。体の弱い松原智恵子も加わります。

その後、生徒たちが夜の道を「寒い朝」を歌いながら帰るところは、僕が好きなシーンです。先頭に自転車を押した吉永小百合、並んで浜田光夫、すぐ後ろを松原智恵子が歩きます。引いたショットになると、背景に巨大なコンビナートのような工場が映ります。巨大な煙突から煙が無防備に出ています。

「キューポラのある街」もそうでしたが、大工場が肯定的に描かれます。そこは労働者の生活を向上させてくれる「夢の工場」のような描かれ方です。まだ、公害問題などなかった時代の脳天気な描き方というのは、その後を知っている現在の視点からの批判になります。とにかく「いつでも夢を」の工場を背景にして全員で歌いながら帰るシーンは、理屈抜きで感動させます。

昭和38年の正月映画です。終戦から18年。明るい太陽のようなひかるにも暗い過去があることがわかります。彼女は戦災孤児。育ててくれた人も死に、目ばかりギョロギョロさせていたとき、和尚の紹介でやもめの町医者の養女になったのです。吉永小百合自身、東京の下町が大空襲にあった昭和20年3月10日の三日後に生まれています。

もし、吉永小百合が三日早く下町に生まれていたとしたら、生まれてすぐに戦災孤児になっていた可能性はあるわけです。もっとも、生後すぐの赤ん坊は生き残れなかったかもしれませんが。このように、大ヒット曲を元にした明るい調子の歌謡映画にも、戦争の影がさすのは、当時の映画ではよくあることでした。

そんな時代から、半世紀が過ぎました。我々の生活は豊かになったのでしょうか。貧しくて進学できないという人はいなくなったのでしょうか。今は高校進学は100パーセントに近くなっているでしょうが、中退も多いし、いじめの問題もなくなりません。大学進学、あるいは専門学校への進学者も増えています。

だからといって、経済的理由で希望の学校へいけない人もまだ存在しています。格差社会と言われるようになって、収入格差が教育格差になり、生涯賃金の差となる、などとも言われています。東大性の親の年収調査をしたら、裕福な家庭ばかりだったとか、家庭の収入と教育の関係は未だに大きいようです。奨学金の返済も滞ったり、卒業しても教育ローン返済に苦しんでいるという話も聞きます。

それでも、半世紀前よりはましになっていると慰めるより仕方がないのでしょうか。

ちなみに、「いつでも夢を」の監督は野村孝です。「いつでも夢を」と同じ年に石原裕次郎主演「夜霧のブルース」(1963年)という秀作を撮り、翌年、隠れた名作「無頼無法の徒 さぶ」(1964年)を撮ります。山本周五郎の原作を小林旭、長門裕之、浅丘ルリ子で映画化したものです。

映画ファンに最も人気があるのは「拳銃は俺のパスポート」(1967年)です。「拳銃」と書いて「コルト」と読ませます。宍戸錠主演の殺し屋映画で、最後の埋め立て地でのひとり対大勢の対決シーンは伝説になりました。ユーチューブで、そのシーンだけは見られます。おすすめします。野村監督は、2015年の5月5日に88歳で亡くなりました。

2017年1月 5日 (木)

映画で振り返る「昭和の日本」------夜間高校の時代・前編


年末年始は「映画と夜と音楽と...」を休みます。以下はセミナー「映画で振り返る昭和の日本」の講義ノートです。1回が長いため、前後編にわけました。なお、内容は高松市在住の受講生を想定していることをご了承ください。

■高校進学が夢だった----------------夜間高校の時代・前編

夜間高校、夜間中学というものがありました。今もあるのでしょうか。古い人は「夜学」と言います。「いつでも夢を」(1963年)という映画の中で、「夜学」と言ったトラック運転手の橋幸夫に、「定時制高校」と呼び方を訂正する定時制高校生の浜田光夫が登場しますが、「定時制」という呼び方が昭和三十年代後半には定着しました。大学は「定時制」とは言わず、「一部・二部」という呼び方ですが、それはいつ頃からでしょうか。吉永小百合は仕事が忙しく、確か早稲田大学の第二文学部卒業だったと思います。

夜間中学は昭和26年(1951年)7月16日に初めて開校します。東京都足立区立四中で、入学式には四人しかいませんでしたが、9月19日には定員いっぱいの100人になりました。戦後6年、当時は教育に無理解な親が多く、貧しい家にとっては子供も一家の労働力でした。

特に足立区は2000世帯のスラム街と貧農、零細な商工業者が多かったのです。東京都教育委員会は「未就学生徒の対策に他によい方法がないので」と認可しましたが、中学は義務教育というタテマエを重んじる文部省は設置に反対をし認めておらず、現在まで黙認という形を取っています。

教育は、貧困によって敗北します。貧しい家の子供たちは、子供のうちから働き金を稼ぐことを強いられます。したがって、進学の問題は貧しい家の子供たちにとって、大きな夢となります。昭和三十年後半までは、中学を出たら働く子供たちが大勢いました。

高度成長期、彼らは「金の卵」と呼ばれましたが、結局は単なる労働力としてしか見られませんでした。しかし、東京オリンピックが開催され、高度成長が加速された頃、高校進学率が70パーセントを超えます。僕が高松市立桜町中学を卒業したのは昭和42年3月でしたが、その時、50人ほどいたクラスで就職したのは一名だけでした。

僕は中学でバスケット部にいたのですが、一年先輩でキャプテンをつとめていた人が高校受験に失敗して高校の定時制に入りました。僕が高校に入ったとき、一年定時制に通っていた彼は全日制に改めて入学し、僕と同学年になりました。当時、定時制は働きながら通う人もいたのでしょうが、そういう受験浪人の人の受け皿になりつつあったことも事実です。

今回は「高校進学が夢だった頃 夜間高校の時代」と題して、昭和を振り返ってみたいと思います。そのためのテキストは「いつでも夢を」と「キューポラのある街」です。どちらも吉永小百合主演です。「キューポラのある街」は昭和37年、1962年4月8日公開。浦山桐郎監督のデビュー作で、兄貴分の今村昌平が脚本に協力しています。吉永小百合が多くの賞に輝いた作品です。これで吉永小百合は女優になったと言われました。

余談ですが、浦山監督は作品数が少ないので有名で、「キューポラのある街」の後、和泉雅子主演「非行少女」(1963年)を撮り、六年後に三作目「私が棄てた女」(1969年)を発表し、また6年間何も作っていません。

結局、55年の人生で監督作はアニメを含めて9本です。劇場映画の最後は吉永小百合の『夢千代日記」映画版でした。浦山監督を恩師と言いつづけた吉永小百合ですが、映画の「夢千代日記」で夢千代が死ぬ時の臨終のセリフについては意見が対立し、吉永小百合は譲らなかったそうです。

「夢千代日記」は早坂暁脚本でNHKでシリーズが何度か放映された、吉永小百合の代表ドラマです。第一シリーズは林隆三だったかな、次のシリーズは松田優作、確か石坂浩二が出たシリーズもあったはずです。毎シリーズ、主要な役で男優が出ます。

夢千代は胎内被爆者で、映画では発症して死に至ります。その時、浦山監督は夢千代に「ピカが憎い」と言わせようとし、長く夢千代を演じてきた吉永小百合は「夢千代は絶対にそんなセリフは言いません」とがんばった。夢千代ファンだった僕もそう思います。夢千代はそんな性格の人じゃない。結局、監督と主演女優は妥協し、完成した映画では夢千代は「ピカが----」と言って死にます。「憎い」は言わなかったのです。

私は、一度だけ、浦山監督と呑んだことがあります。何しろ、有名な酒乱ですから、戦々恐々として呑んでいました。1980年か81年、もう三十五年近く前のことです。フリーライターの人と三人でした。いろいろ話を聞きたかったのですが、僕が勘定を持たなければいけない場だったのと、酒乱の伝説におびえてロクに話を憶えていません。今から思うと、せっかくの機会だったのに残念でした。

さて、吉永小百合は、昭和37年、橋幸夫とのデュエットで「いつでも夢を」をヒットさせ、その年の大晦日にレコード大賞を受賞します。翌年の正月1月11日に「いつでも夢を」が公開されました。昭和20年3月13日生まれの吉永小百合、17歳の一年間は彼女にとって記念すべき年になりました。

「いつでも夢を」も定時制高校が舞台になります。「キューポラのある街」で定時制高校に進むことにしたジュンですが、「いつでも夢を」では父親の病院を手伝いながら定時制高校に通うヒカルとして登場します。

昭和37年、まだ多くの若者たちが経済的理由から定時制高校で学んでいました。文部科学省の資料によると、高校進学率は昭和25年は42.5パーセント、昭和29年に50パーセントを超え、昭和36年には60パーセント、ということは10人の内4人が中学を卒業して働いていたことになります。

昭和40年に70パーセント、昭和45年には80パーセントを超え、昭和50年には91.9パーセントになります。男女別に見ると、昭和35年には男子59.6パーセント・女子55.9パーセントと3.7パーセントの開きがありましたが、昭和44年以降は女子が男子の進学率を上回ります。昭和50年には男子91パーセント、女子93パーセントで逆転します。

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