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2017年2月

2017年2月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…761 調布が映画の街だった頃


【ハレンチ学園/遊び】

●Iのお母さんは東京の美しい山の手言葉を話しとても優しい人だった

数少ない友人たちを別にして、僕には恩人が三人いる。ひとりは勤めていた出版社の先輩だったHさん、ひとりは亡くなった写真家の管洋志さん、そしてもうひとりは高校時代の友人Iのお母さんである。Iのお母さんは、東京の美しい山の手言葉を話し、とても優しい人だった。僕の父母は貧しい農家の生まれで、尋常小学校を出てすぐに働き始めた。戦後はずっと香川県に暮らし、職人として建築現場で働き、讃岐弁丸出しでしゃべる。もちろん自分の親には感謝しているが、初めてIのお母さんに会ったとき、僕は「東京物語」(1953年)の三宅邦子を連想し、続いてテレビドラマ「七人の孫」の加藤治子(断っておくが、決して後年の向田邦子作品の彼女ではない)を思い浮かべた。

Iと知り合ったのは、たぶん高校一年の三学期くらいだと思う。クラスもまったく違ったが、中学以来の友人だったKが同じクラスのIと仲良くなり、それで紹介されたのではなかっただろうか。ちなみに、後に僕が結婚する相手もIと同じクラスだったが、僕が彼女と同じクラスになったのは三年になってからだった。しかし、僕はIとは同じクラスになったことがあるのだろうか。よく憶えていない。ただ、高校三年生になる前の春休みに、僕は群馬県前橋の彼の家に遊びにいっているのだ。散歩のときに見た利根川沿いにあった前橋刑務所の赤煉瓦の塀を記憶している。それはTとFという級友と三人で大阪・東京を巡る旅の途中だった。

翌年に受験する大学を見にいくという名目で、僕はその旅行を両親に認めてもらった。僕らは鈍行で大阪に出て、その夜、フォークコンサートを聴きにいった。高石友也、岡林信康、高田渡、ジャックスなどが登場するコンサートだった。そのまま東京行きの夜行列車に乗り、翌朝、東京駅に着いた。午前中にFが泊めてもらうという早稲田に住む親戚の家にいき、僕は早稲田大学を見にいった。その日は夕方から大手町の日経ホールだったか、産経ホールだったかで日野皓正クィンテットのコンサートを聴きにいった。ドラムスは日野元彦、ギターが増尾好秋だったのは記憶しているが、他のメンバーは誰だったか忘れてしまった。

コンサートが終わり、僕とTは地方の大学の先生が上京したときに泊まる本郷の施設にいき宿泊した。Tの父親が香川大学の教授だったのだ。その翌日だったか、僕はひとりでIが帰っている前橋の実家を訪ねた。Iのお父さんは金融公庫に勤めていて、頻繁に転勤をしていた。高松に転勤になっていたときにIが高松高校に入ったが、その後、前橋に転勤になった。Iは寮に入り、転校はしなかったのだ。そのときは春休みで家に帰っていたのだった。僕は初めてIの家族に会った。勤め人の家庭は珍しく、厚かましく押し掛けた僕をお母さんは優しく歓待してくれた。考えてみれば、あのときIのお母さんは四十前だったのではないか。Iの妹は小学生だったのではなかっただろうか。

しかし、僕が本格的(?)にIのお母さんにお世話になるのは、翌年の四月、僕の浪人生活が決まり、上京してひとりで暮らし始めてからだった。いろいろあって一年近く会っていなかったIと再会したのは、その年の初夏の頃だった記憶がある。久しぶりに実家に帰るというIに連れられて、僕は調布の多摩川住宅にいった。その春にIのお父さんが転勤になり一家は東京に戻っていたのだが、ずっと家を出て生活していたIはその新居にいくのは初めてだったと思う。「確か、この辺なのだけど」と言いながら団地の号数を確かめていた。Iはひとりでは帰りづらかったのかもしれない。その団地の手前に、石原プロモーションがあった。まだ小さなビルの一角だった。

●僕が初めて調布にいった頃、大映と日活は共に経営不振だった

邦画五社が健在だった頃、映画会社はそれぞれ東京近辺に撮影所を持っていた。松竹は大船、東宝は世田谷の砧、東映は大泉、そして大映と日活は調布に撮影所を構えていた。僕が初めてIに連れられて調布にいった頃、その大映と日活は共に経営不振に陥り、毎週二本の作品を系列館に配給する力をなくしていた。窮地に陥った大映と日活は、ダイニチ映配という配給システムを作り系列の映画館に作品を提供していた。それでも、客は入らなかった。日活は宍戸錠にマカロニの扮装をさせて(初代ヒゲゴジラは藤村俊二)、永井豪のヒットマンガ「ハレンチ学園」(1970-71年)を映画化し、シリーズ化した。十兵衛役は、後に「北の国から」で活躍する児島みゆきだった。

両親には心配ばかりかけるIだったが、一緒についていった僕をお母さんは再び歓待してくれた。「何かあったら、いつでもいらっしゃい」という言葉に甘えて、僕は何度多摩川住宅に通っただろうか。調布からのバス代を惜しんで、ふた駅手前の国領から歩くようになっていた。一年浪人し、何とか大学に潜り込んだ秋、僕は方南町(住所は杉並区和泉)に引っ越したため、下高井戸駅まで歩き調布へいくことがさらに増えた。「洗い物があったら持っていらっしゃい。下着でもいいのよ」と言われ、僕は汚れ物の袋を抱えてよく京王線に乗ったものだった。それでも、最初は遠慮してジーンズのような手では洗えない(コインランドリーが登場する以前の時代だ)ものにしていたが、「遠慮しなくていいのよ」と言われ、下着まで洗ってもらうようになった。

そんな頃、お母さんと「関根恵子は、調布の駅前でスカウトされたようですよ」という話をした気がする。現在は高橋伴明監督と結婚し、高橋恵子になっているけれど、確かに彼女は調布で女優としてスカウトされたのだ。調布近辺には大映や日活の関係者が多かった。浅丘ルリ子も多摩川撮影所の近くに家を建て、そこは日活の若手俳優たちのたまり場になっていたそうである。当時は、調布は映画の街だったのだ。だが、僕がIの家に通っている間に大映は倒産し、日活はロマンポルノ路線に変更になった。そんな大映の末期に活躍した若手女優が関根恵子であり、松坂慶子であり、新人男優には篠田三郎(後のウロトラマンタロウ)や大門正明(「セーラー服と機関銃」より「赤い鳥逃げた?」かな)がいた。

関根恵子は、僕が上京した一九七〇年に「高校生ブルース」「おさな妻」「新・高校生ブルース」の三本に出演した。今から見ればどうということもない映画だが、当時は際どくて、あざとい作品と思われた。十五歳の新人女優に新婚初夜を演じさせるのである。一九七一年、僕が大学に入った年には「高校生心中 純愛」「樹氷悲歌(エレジー)」「遊び」「成熟」という作品に出た。相手役は篠田三郎が多かった。大門正明が相手役を演じ、増村保造が監督した「遊び」はやはり評価が高かった。渥美マリの「でんきくらげ」(1970年)を撮っても評価の高い増村監督だ。どんな映画であっても、きちんと自分の作品として仕上げた。

あれから長い年月が経ち、十五歳だった関根恵子は還暦を過ぎた高橋恵子になり、今ではレディースアデランスのコマーシャルに出ている。十八だった僕は公的に前期高齢者になり、老齢年金が支給されるようになった。増村監督が亡くなったのは、もうずいぶん昔のことになったし、プロ野球チームを持っていた大映という映画会社があったことを知る人は少なくなった。あの当時、四十代だったはずのIのお母さんも年を重ねた。二十年ほど前、Iのお父さんが亡くなったときに久しぶりにお母さんと会ったが、その後は不義理を重ねていた。年賀状のやりとりもいつの間にか途絶えた。だが、忘れたことはなかった。僕の中では、とても大きな存在だったのだ。

●Iのお母さんが亡くなったと聞き五十年近く前の調布を思い出した

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「すいません。ご迷惑をかけて。朝早くから、本当に…」
 語尾が消え入るようだった。
「いえ、いいんです。気にしないでください。最近は早起きして、ジョギングでも始めようかと思っていたところですし。それより、礼子ちゃんが家出というのは、本当ですか」
 中山の母親に会うと、未だにいい子ぶる癖が出る。十八から二十二までの四年間、私には母親がいた。すらりとした背の高い美しい母親だ。小学二年生で亡くした母親が生きていれば、こんな風になっていたに違いないという思いで、私は中山の母親を見ていた。いや、甘えていた。
「一昨日、きつく叱ったのがいけなかったんです。何も、あんなに叱らなくても…」
 やはり、取り乱しているのだ。いつもなら、もっとはっきりした言い方をする。誰が叱ったのか、どういう状況だったのか、明晰な物言いをするはずだった。そんなところも、私が敬愛していた理由だった。
「何があったのですか。一昨日」
「とにかく、あがってくださいな」
 居間へ入っていくと中山が父親と一緒に、溜め息をつき果たしたような顔でソファに身を沈めていた。一晩中こうして、三人で顔を突き合わせていたのだろう。その情景が浮かぶようだった。
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これは、僕が昔書いた小説「黄色い玩具の鳥」(電子書店で発売中です)の一節だ。もちろん、すべてフィクションだが、この文章を書いているとき、僕はIのお母さんを思い浮かべていた。この小説の主人公は子供の頃に亡くした母親の理想の姿を、このヒロインに見出しているが、Iのお母さんに頻繁に世話になっていた頃の僕の心情がここには反映されている。実際、「この人が本当の母親だったらな」と若い僕は思ったものだ。

二月中旬、中学時代からの友人のKから電話があった。「Iのお母さんが亡くなった」という。いつかはそんな連絡が入るかもしれないと思ってはいたが、心の準備ができていなかった。それに、僕は遠く離れた四国にいる。最近、友人たちの両親の訃報が多い。現にKも立て続けに両親を亡くしたばかりだ。「Iは、高松にいるようだから無理しなくていいと言っていたけど、お母さんが会いたがっていたらしい」とKは言う。「こんなことだったら、会っとくんだったなあ」とKが口にした途端、後悔の念が湧き起こった。なぜ、もう一度、会いにいかなかったのか。きちんと、お礼を言っておかなかったのか。口では言い尽くせないほど、世話になったのに----。

Iのお母さんの告別式の日は、入院中の母親が帰宅後の生活の練習のために一日だけ実家に戻る日だった。そのために、車で病院まで迎えにいかねばならない。僕は自宅にいるかみさんに連絡して、葬儀に出てもらうように頼んだ。その夜、寝床に入って暗闇を見つめていると、様々な思い出があふれかえるように甦り、胸の奥が切なくなった。涙があふれそうになる。十八歳の僕、あの頃、Iのお母さんは四十になったばかりだったろう。結婚して挨拶にいったときも、まだまだ若かった。子供が産まれた後、「お子さんたちは元気?」といつも年賀状に書いてくれた。Iのお母さんの思い出をたどると、僕の大学時代の記憶が後から後から甦ってくる。記憶の洪水に溺れ、明け方まで眠れなかった。

2017年2月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…760 かの国の大統領に見せたい映画


【扉をたたく人/正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官/天国の門/愛と哀しみの旅路】

●9.11以降のアメリカの移民政策がどれほど厳しくなっていたか

たったひとりの愚かな男の言動が世界を混乱に陥れている。アメリカ合衆国大統領は、それほどの権力と影響力を持つのか。日本には「××に刃物」ということわざがある。「民主的な選挙で選ばれた大統領」だと言うが、ヒトラーだって選挙で選ばれたのだ。「シン・ゴジラ」(2016年)で描かれたように、「かの国」に振りまわされるものの「かの国」に追従するしか生きる途がない日本は、尻尾を振ってご機嫌をとるペットのようにすり寄っている。しかし、かの国の大統領は、日本を従順な手下としか見ていないのではないか。日本が何かを主張すると、とたんに切れて感情を爆発させる気がする。その愚かな男の機嫌を損ねることを、日本の政治家たちはまるで腫れ物にさわるように怖れている。

愚かな大統領に見せたい映画がある。それを見て改心するほどの理性と知性を彼が持っているとはとても思えないが、9.11以降のアメリカの移民政策がどれほど厳しくなっていたか、その映画は教えてくれる。厳しい移民政策に対するアンチとして、その映画は作られたからだ。今、それ以上に移民や難民に対する厳しい対応を行おうとしているかの国の大統領は、その映画を見て己を恥じるがいい。もちろん、恥を知る気持ちなど彼は持ち合わせていないだろうし、僕がこんなことを書いても何の影響も与えないけれど、少なくとも心ある人はこの映画を見て何かを感じるに違いない。アメリカにだって、無謀な大統領令を阻止しようとする人々がいるのだから----。

リチャード・ジェンキンスは脇役として多くの映画に出ているが、「扉をたたく人」(2007年)で初めて主演をつとめたのではないだろうか。この作品でアカデミー主演男優賞にノミネートされ、一躍注目された。僕も顔は知っていたが、この作品で名前を憶えた。もちろん、映画がとてもよくできていたからだ。彼が演じたウォルターは著作も数冊ある大学教授で、社会的な成功者である。コネチカットの大学近くに立派な自宅があるし、ニューヨークには広いアパートメントを所有している。しかし、ピアニストだった妻を亡くし、今は心を閉ざして生きている。期限に遅れたレポートを受け取らないほど学生には厳しいくせに、自分は毎年同じ講義ノートを使っている。仕事に対して熱意を失っている。

彼は、ニューヨークでの学会に出席することになる。数ヶ月ぶりにニューヨークのアパートに戻ると見知らぬ荷物があり、人が住んでいる気配がある。浴室の扉を開けると若い黒人女性がバスタブに浸かっていて悲鳴をあげ、アラブ系の青年が飛び出してくる。ウォルターが自分が持ち主だと鍵を見せると、青年は警察に通報したかどうかをしきりに気にする。黒人女性は「やっぱりだまされたのよ」と青年を責める。青年はシリアから難民申請をしてアメリカにきたタレクで、申請が認められず今は不法滞在をしているとわかる。女性は恋人のゼイナブで、彼女もセネガルからきた不法移民である。彼らはだまされて部屋代を払い、ウォルターのアパートに二ヶ月も住んでいた。

警察沙汰になるのを嫌い詫びを言って出ていく、大きな荷物を持つふたりの姿を見ていたウォルターの心を何かが動かし、しばらくいてもいいと口にする。そこから奇妙な共同生活が始まる。タレクはジャンベというボンゴのような打楽器の奏者で、ある夜、ジャズクラブで彼の演奏を聴き、ウォルターはリズムを刻む心地よさに浸る。ある日、アパートに帰ったウォルターは置いてあったジャンベをたたき始め、ウォルターから手ほどきをうけることになる。それをきっかけに親しくなったふたりは、公園でジャンベを演奏したりする。しかし、その帰りの地下鉄でタレクは警官の不審尋問に遭い、いきなり逮捕されてしまう。

タレクが移送されたのは、クィーンズ地区にある移民局が管理する拘置所だった。自らも不法滞在であるゼイナブは面会にいけず、ウォルターがタレクの面会にいく。ミシガンに住んでいるタレクの母親マーナも不法移民で、連絡がないタレクを心配してニューヨークにやってくるが、やはり面会にはいけない。ウォルターは弁護士を雇い、タレクを助けようと奔走する。その弁護士もアラブ系移民で、「タレクの処遇は厳しいものになるかもしれない」と報告し、それに対して「あなたに子供はあるの?」と辛辣に問うマーナに「ふたりいる。それに二十三年暮らしていたのに強制送還になった伯父も」と答える。彼自身もグリーンカード(永住権)を取得するのに苦労したのだ。

ずっと感情を表さなかったウォルターが移民局の拘置所に面会にいき、タレクがすでに送還されたと知ったときの感情の爆発が心を打つ。同時多発テロ以降の厳しい移民政策に対する批判が、スクリーンから迸る。翌日、「あの子のそばについていてやりたい」というマーナを空港に送るウォルターは、「あなたも出てしまえば、もう帰ってこれない」と言う。二〇〇七年の制作だから、同時多発テロから六年、今から十年前の映画だった。監督は俳優として映画に出ていたトム・マッカーシー。この映画の脚本監督で注目され、昨年は「スポットライト 世紀のスクープ」(2015年)の脚本監督で高く評価された。

●いくつかのストーリーでアメリカの移民難民問題の複雑さを描く

同時多発テロ以降の厳しくなった移民政策を多層的に描いたのが、「正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官」(2009年)だった。いくつかのストーリーが平行して展開され、アメリカの移民難民問題の複雑さを描いている。ハリソン・フォードが演じたのは、I.C.E.(移民税関捜査局)に勤める捜査官である。彼は不法移民を取り締まるのが仕事だが、移民たちの事情に同情的で、仲間からは「彼らに甘すぎる」と言われている。ある日、縫製工場に抜き打ちで調査に入り、捜査官たちは逃げまどう不法移民たちを逮捕する。

しかし、彼は隠れた場所で「見逃してほしい」と必死の目をするメキシコ人女性を捕らえられない。彼女を見逃したものの別の捜査官に逮捕されたメキシコ人女性の言葉が気になり、彼女が残したメモを手かがりにして彼女の幼い子供を見つける。ハリソン・フォードは彼女のメキシコの住所を探し出し、幼い子供をそこに連れていくが、彼女はアメリカに残してきた子供が心配で再びアメリカに不法移民として入っていた。かの国の大統領が壁を作って防ごうというメキシコからの不法移民である。

また、オーストラリアからやってきた女優志願の女性がいる。彼女はグリーンカードを得ようと移民局に日参しているが、なかなか実現しない。そんなとき、移民審査官(レイ・リオッタ)と知り合う。彼は自分と寝れば、グリーンカードを発行してもいいと言い、彼女は承諾する。移民審査官の権力を使って女性を口説く卑劣な男というのは、いつものレイ・リオッタの役柄である。しかし、恋人もいるのにそんな提案を受け入れるほど、グリーンカード取得というのは厳しく困難なのだろうか。

また、学校で作文のテーマに同時多発テロを選んだバングラデシュ出身のイスラム教徒の少女は危険分子と見なされて、家庭にFBIの捜査が入り、家族全員が不法滞在とされて拘束される。彼らの弁護を引き受けた人権派の女性弁護士(アシュレイ・ジャッド)は政府機関を相手に交渉するが、壁は厚い。イスラム教徒の一家に対する偏見も根強い。一方、ハリソン・フォードの同僚でイラン人の一家がいる。アメリカで成功した一家であり、永住権も取得しているが、一家の娘が殺害される事件が起きる。といったように様々なストーリーが描かれるのだが、すべてに関係するのが9.11以降に(特にイスラム系の人々に)厳しくなったアメリカ合衆国の移民・難民政策である。

二十七年前に作られた「グリーンカード」(1990年)では、まだグリーンカード(永住権)を恋愛ドラマのモチーフとして成立させる余裕があった。オーストラリア出身のピーター・ウィアー監督は、フランス人のジェラール・ドパルデューを主演にアンディ・マクダウェルとのラブロマンスを作る。独身者は入居できない広いガーデンのあるアパートメントに入居したいプロンディ(アンディ・マクダウェル)は、グリーンカード(永住権)がほしいフランス人のジョージ(ジェラール・ドパルデュー)と書類だけの偽装結婚をするが、移民局が調査にくるというので同居しなければならないはめになる。よくあるシチュエーション・コメディの設定だが、よくできた作品だった。しかし、今、グリーンカードをこんな風には描けないかもしれない。

アメリカは「移民の国」と言われる。しかし、先に新大陸にきた移民たちが、次にやってきた移民たちを排斥しようとした負の歴史もある。それはアメリカ史の恥部として、アメリカ国民は目を背けてきた。「天国の門」(1981年)では後から移住してきたロシア・東欧系の農民たちが、先に西部にやってきて成功している牧場主たちに迫害され殺害された歴史が描かれ、アメリカの観客の反感を買った。また、マーチン・スコセッシ監督も「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2001年)で、元は移民だがアメリカ生まれの世代になった住民たちが新参者のアイルランド系移民を排斥し、対立した歴史(原作はノンフィクション)を描いた。

かつて日系移民も「安い賃金で文句も言わず働く」ことで白人たちに嫌われ、日本人をターゲットにした差別的な移民法が成立した。さらに、カリフォルニア州を皮切りに日系移民は土地の所有ができないという法律が次々に成立した。そして、日本軍の真珠湾攻撃の二ヶ月後、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは大統領令を出し、日系移民の強制収容を実施した。日系移民は財産を没収され、トランクひとつだけを許され、砂漠のキャンプに集められた。その数は十二万人とも言われる。この大統領令が間違いだったとアメリカ合衆国が認め日系人たちに補償をしたのは、戦争が終わって四十年も経ったレーガン大統領のときだった。日系移民への迫害が描かれた「愛と悲しみの旅路」(1990年)や「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)も、かの国の人々に改めて見てもらいたいものだ。

2017年2月 9日 (木)

■映画と夜と音楽と…759 死者を弔う


【秋日和/海街diary/女の座】

●母との会話から忘れていた街並みが甦った

母親が入院したと兄から連絡があり、三週間ほど前から四国に戻っている。実家の裏の一軒家で暮らしているが、昔の家で断熱材など入っていないから寒くてたまらない。エアコンは一階にしかないし、暖まるのは一部屋だけだ。夏に二階にベッドを上げてしまったのだが、この時期は明け方になると二階は特に冷える。顔が冷たくなって目覚め、温度計を見ると室温が三度になっていたことがある。凍死しゃうぞ、と思った。それで、天気予報で翌日の最低気温を確認し、このところ加湿機能のあるヒーターをつけたまま一階のソファで寝ている。予定では、最も寒い時期には自宅のマンションにいるはずだったのだ。その大寒の時期に、高松で暮らしている。

母は脊椎の圧迫骨折で、暮れからコルセットを付けて寝ていたという。その知らせはなかったが、一月中旬に痛みがひどくなり救急車で入院し、兄から連絡が入った。入院したのは、自宅から歩いても五分の外科である。連絡をもらって三日後に帰郷し、病院をのぞくと母はベッドで寝たきりだったが、頭ははっきりしているようだった。九十を過ぎているので、入院して寝たきりになるとボケることがあると聞いたこともある。年寄り特有のくどさと忘れっぽさは前のままだが、話すことの辻褄は合っている。その点では安心した。

翌日から、午前と午後の散歩のときに病院をのぞいている。僕が顔を出すと、母の昔話が始まる。自分では記憶をたどったことはなかったが、小学生の六年まで住んでいた家の近所の話につきあっていると、忘れていたはずの光景や店の名前が甦ってきた。八百屋はミヤモトだったし、内科・小児科の病院はノダ医院だった。女医さんでやさしかったのを憶えている。夏になるとかき氷を売っていた、角の家の名前がどうしても思い出せなかった。もっとも、母はかき氷屋の存在そのものを憶えていなかった。

母の話はとりとめがない。子供の頃の話から戦争中の話へと飛ぶし、いつの間にか、結婚し子供が産まれた頃に話が移っている。昨年の暮れに五歳年上の兄を亡くしたのが思い出話のきっかけになっているようだった。祖父は母たちを生んだ最初の妻を早くに亡くし、何度か妻を迎えた。最後の子供は六十のときに産まれた娘で、僕には叔母に当たるが十歳ほど年下になる。僕の祖母が産んだ子供は、伯父と母と母の下にふたりの妹がいるのだが、母はそれ以外に五人の子が亡くなっていると言う。何だか「おしん」の思い出話を聞いている気分である。

九十年も昔のことだから無事に育つ子は少なかったのだろうが、早死にしたと聞いていた祖母が十人近く子を産んでいたのは驚きだった。その全員の名を母は憶えていて、ひとりひとり指を折りながら、まるで弔うように口にした。無事に育った兄と自分とふたりの妹がいたのに、妹のひとりは十年近く前に亡くなり、今度は九十六歳で兄が亡くなった。祖父は新しい家庭を持ったから、五歳年上の兄が父親代わりだったと母は泣く。その伯父は十代半ばで満州に渡り、満鉄に八年勤め、二十五で終戦を迎えた。戦後はずっと郵便局に勤めていたはずだ。伯父はふたりの子供を持ったが、ふたりとも障害があり、下の子は特にひどく生涯歩くことはできなかった。ふたりとも親より先に亡くなっている。

●叔父の四十九日で三十年ぶりに会った親戚の人々

四国に帰った週末に、伯父の四十九日があった。一年ほど前、母を車に乗せて伯父に会いにいき、そのときが結局は最後になった。伯母はデイサービスにいっていたので、そのときには会えなかったから、四十九日に会うのが三十年ぶりになる。小学生の頃、よくひとりで泊まりにいき可愛がってもらった伯母である。母方の祖父の葬儀で会ったのが最後だと思う。そのとき、母の異母妹で僕より十歳ほど年下の叔母に当たる人とも会った。そのときが初対面だった。僕は十八で上京し、ずっと東京で勤めていたので、親戚づきあいはほとんどしていない。故郷にいれば、冠婚葬祭はいろいろあって、何かと親戚たちと顔を合わすことになる。

四十九日の日は雪が舞うような荒れた天候だったが、二度めになる伯父の家への道を軽快に運転した。伯父の家のすぐ近くに父親の実家があり、そちらにも法事に出る父を乗せていったから一度も迷うことなく到着した。玄関の戸を開けて、「こんにちは、進です」と言った瞬間、「進ちゃんな」と伯母の声が返ってきた。座敷から伯母の顔がのぞいた。変わらない、というのが最初の印象だった。下半身が悪くて歩けなくなっていると聞いていた通り、板敷きの廊下を這うようにして玄関にやってきた。昔から肥えた体で、いつも明るい伯母だった。「肝っ玉かあさん」の京塚昌子に似ている。しかし、伯母の方は「何も知らんでおうた(会った)ら、わからんな」としみじみと僕の顔を見た。

田舎の家の仏間は広い。隣室とのふすまを外しているから、二十人くらいが座っても余裕がある。僕の後から母の一番下の妹にあたるU子叔母が長女と一緒にやってきた。彼女は従姉妹になるが僕よりかなり若く、会うのは初めてだった。母の異母妹で僕より年下の叔母は、夫と長女と一緒にやってきた。彼女は小学校の先生である。「初めまして」と言うので、「おじいちゃんの葬儀で会いました」と答える。僕の祖父は彼女の父親になるわけで、八十七で亡くなった。もう三十年前のことだ。やがて、僧侶がふたりやってきて袈裟を身につけ、仏壇の前に正座し、読経が始まった。途中、二度の中休みはあったけれど、二時間近く読経は続いた。僕は正座をやめて、胡座を組ませてもらった。

●生まれ故郷にいると親戚づきあいは続いていただろう

七回忌のシーンから始まる映画は、小津安二郎監督の「秋日和」(1960年)である。昔の映画には法要シーンがよく登場した。それだけ、人々がきちんと冠婚葬祭の行事を行っていたのだろう。最近の映画では「海街diary」(2015年)が四人姉妹の祖母の法事や墓参りを描いていたが、日常のディテールを丁寧に綴った作品だからだろう。家族の関係を描くのには冠婚葬祭が適している。父と別の女性の間に産まれた妹(広瀬すず)を引き取った三人の姉(綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆)の物語だが、姉たちの母方の祖母の法要に広瀬すずは「私、出てもいいのかな」と口にする。彼女の母が三人の姉の母(大竹しのぶ)から夫を奪ったからだ。

「海街diary」は次女ヨシノ(長澤まさみ)が男の部屋から朝帰りすると、長女のサチ(綾瀬はるか)に「父親が亡くなった知らせが届いたからいってきて、チカ(夏帆)をつけるから」と言われるところから始まる。父親は愛人を作って家を出たが、その女性が亡くなり、別の女性と一緒になり、山奥の温泉旅館で働いていたのだ。父には娘(広瀬すず)がいて、後から葬儀にやってきたサチを含めた三人は、その妹に「鎌倉で一緒に住まない?」と誘う。しかし、父親の葬儀のシーンも、鎌倉での祖母の法要シーンも、前後のエピソードは描かれるが、葬儀や法要そのもののシーンは省かれていた。読経のシーンを描いても仕方ないと思ったのだろうか。

小津監督の「秋日和」は、原節子の夫の七回忌から始まる。娘(司葉子)も成人している。夫の友人たち(中村伸郎、北龍二)が「アヤちゃん、きれいになっちゃって」などと言っている。そこへ故人の兄(笠智衆)がやってくる。挨拶が始まり、揃って寺の座敷に向かう。座布団が並べられていて、皆、神妙な顔で正座する。読経が始まり、友人のひとり(佐分利信)が遅れてやってくる。北竜二と目を合わせ会釈する。中村伸郎が少し身を乗り出し、「遅かったじゃないか」と小声で言う。佐分利信は「ちょっとね」と答え、中村伸郎が「今、始まったばかりだ」と教える。佐分利信は「じゃあ、早すぎたかな」とつぶやく。それだけのやりとりだが、やっぱり小津作品は味わい深いなあと思わせてくれる。

主人公を未亡人に設定することが多かった成瀬巳喜男監督だが、葬儀や法要シーンはそれほど多くない。「女の座」(1962年)のヒロインの夫の三回忌のシーンが浮かぶくらいだ。東宝の女優陣総出演のオールスター映画だから、登場人物が多く複雑だ。東京オリンピックのための高速道路が敷地を通るといった話が出てくるし、渋谷のラーメン店から近いらしいから都内にあるのだろう、古くからある荒物屋(タバコも売っている)が舞台である。隠居状態らしい老夫婦(笠智衆と杉村春子)がいる。杉村春子は後妻だ。先妻の長女が三益愛子で、夫(加東大介)とアパートを経営している。死んだ長男の妻が高峰秀子で、彼女には中学生の息子がひとりいる。

次男(小林桂樹)は渋谷でラーメン店をやっていて、いつも不機嫌な妻(丹阿弥谷津子)に頭が上がらない。先妻の次女(草笛光子)は、実家の庭に離れを建ててお茶とお花を教えており金まわりがいい。杉村春子が産んだのは、三人の娘(淡路恵子、司葉子、星由里子)である。淡路恵子は三橋達也と結婚し九州にいたのだが、ふたりで仕事を辞めて実家で居候を始める。高峰秀子の妹が団令子で、彼女はホステスのアルバイトをしながら演劇をやっている。杉村春子は息子を置いて離婚し笠智衆と再婚したのだが、三益愛子のアパートに入居した男(宝田明)が成長した息子だとわかり、一家に波風が立つ。

三益愛子の娘が東宝のヴァンプ女優だった北あけみで、宝田明の部屋に入り浸ったりしている。血はつながっていない草笛光子が宝田明に一目惚れするのだが、宝田明は高峰秀子に好意を寄せるので話はややこしくなる。独身のふたりの娘(司葉子と星由里子)にからむのが気象庁に勤めている夏木陽介だ。星由里子は渋谷の映画館のチケット売場に勤めているのに、彼女が好意を寄せる夏木陽介は「生まれてから一度も映画を見ていない」という設定がおかしい。これだけ多彩な人物たちが、一堂に会するのが高峰秀子の夫の三回忌である。小津の「東京物語」(1953年)の葬儀シーンも同じだが、冠婚葬祭を終えた会食シーンでは親戚や家族の関係が鮮明になる。

最近の映画で、そんなシーンがあまりなくなったと感じるのは、やはり現実を反映しているからだろうか。地方から出てきて都会生活をしている核家族は、親戚間の冠婚葬祭に出席する機会がほとんどない。僕は祖父母の葬儀以外は、母に頼んで僕の名で香典を包んでもらい弔電を送るだけだった。まして、法要など出席したことはない。同時に頼る親戚もなく、妻の大きな手術のときも待合室で僕はひとりで待っていた。何かあったときに相談する相手もいなかった。六十を過ぎてリタイアし故郷で過ごすことが多くなった途端、昨年から葬儀や法要への出席が多くなった。

ずっとこちらで暮らしていたら、まったく違う人生だったのだなと改めて実感している。しかし、こちらで暮らしていたら伯父にも頻繁に会えたかもしれない。もっと満鉄時代の話を聞いておくのだったと、四十九日の読経を聴きながら後悔することもなかったかもしれない。延々と続く読経を聴いていると、若い頃の伯父の姿が浮かんできた。

2017年2月 2日 (木)

■映画と夜と音楽と…758 若き写真家が撮った永遠のスター


【ディーン、君がいた瞬間(とき)/エデンの東/理由なき反抗/ジャイアンツ】

●入場料を払って見にいっていた海外の写真家の展覧会

もう三十年近く前のことになるだろうか。写真家のデニス・ストックがジェームス・ディーンを撮った写真展を日本橋のデパートで見たことがある。ニューヨークの街角でロングコートを着てたばこを吸うジェームス・ディーン、故郷の農場で作業服でたたずむジェームス・ディーンなど、映画では見せない表情が新鮮だった。特にメガネをかけた姿が珍しく、自然な日常が写っている印象を受けた。そのとき、図録を買って帰り、ときどき見返していたが、数年前に写真集関係は処分してしまった。

僕は四十年の出版社勤務で三十年を編集者として過ごし、十年を管理部門で働いた。三十年の編集者生活のうち半分の十五年ほどは、カメラ雑誌の編集部だった。アマチュア向けのカメラ誌に合計で十数年、広告写真の専門誌に三年ほど在籍した。そんな関係から写真集や写真関係の書籍がかなりたまったのだ。写真集は購入したものもあるし、贈呈されたものも多かった。写真展にいくと必ず図録を購入したから、いつの間にか本棚ひとつが写真関係の書籍ばかりになった。

メーカー・ギャラリーは新宿や銀座にいくつもあり、週替わりで写真展が開かれている。それをすべて見るのは無理だったが、機会があれば見るようにしていた。入場料を払って見にいっていたのは、海外の写真家の展覧会だった。ロバート・キャパ、アンリ=カルチェ・ブレッソン、ロベール・ドアノー、アーヴィング・ペン、ダイアン・アーバス、エリオット・アーウィット、ヘルムート・ニュートン、サラ・ムーン、ロバート・フランクなどなど、である。そんな写真展では、必ず図録を買っていた。

デニス・ストックのジェームス・ディーン写真展もその流れで見にいったのだけれど、見にきている人たちがいつもの写真展とは違っていた。ジェームス・ディーンのファンらしき人々なのである。ジェームス・ディーンの映画が日本で公開されたとき、すでに彼は事故死していたこともあり、すでに伝説になっていた。一九五六年、僕はまだ五歳になっていない。ジェームス・ディーンに夢中になったのは、僕よりひとまわり上の年代の女性たちであり、「理由なき反抗」(1955年)のジミー(赤いブルゾンにブルージーンズ)に憧れた少年たちである。その写真展当時、彼らは五十代になっていた。

ジェームス・ディーンは一九三一年二月八日に生まれ、一九五五年九月三十日に二十四歳で亡くなった。「エデンの東」(1954年)「理由なき反抗」「ジャイアンツ」(1956年)の三本の主演作を遺した。事故死したのは「ジャイアンツ」の撮影が終了した直後のことだった。主演デビュー作「エデンの東」ではアカデミー賞候補になっている。若干二十三歳だった。僕はダクラス・サークの作品で、ワンシーンだけ出てきた端役のジェームス・ディーンを見たことがある。「僕の彼女はどこ?」(1952年)かもしれない。

●ニコラス・レイ監督のパーティに参加する若きデニス・ストック

カメラマンが主人公の映画はいくつか挙げられるが、実在の写真家を主人公にした作品はあまり思いつかない。最近では「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」(2007年)があるが、あれはアニー・リーボヴィッツ自身を撮ったドキュメンタリーだった。ニコール・キッドマンがダイアン・アーバスを演じた「毛皮のエロス/ダイアン・アーバス幻想のポートレイト」(2006年)なんて映画もあったけれど、「何だかな?」という感じである。若きデニス・ストックと「エデンの東」公開前のジェームス・ディーンを描いた「ディーン、君がいた瞬間(とき)」(2015年)は、短期間のふたりの交流を事実を基に描いており、僕は面白く見た。

一九五四年の暮れ、ニコラス・レイ監督のパーティにフラッシュを付けたカメラを首から提げて参加する若きデニス・ストックから映画は始まった。ニコラス・レイ監督に会ったデニスは、「この前の作品でスチールを担当したデニス・ストックです」と言う。スチールカメラマンのことなど覚えていない映画監督は「楽しんでいってくれ」と答え、横にいたナタリー・ウッドを紹介する。彼女はニコラス・レイ監督の次回作「理由なき反抗」のヒロイン役が決まっている。今は主演俳優の候補を選んでいるところだという。

パーティになじめず、ひとりでプールサイドに出たデニス・ストックは、そこで若い俳優のジェームス・ディーンと出会う。ジェームス・ディーンは「エデンの東」の試写会にデニス・ストックを誘い、試写を見たデニスはジェームス・ディーンが主演であることに驚く。ジョン・スタインベックの小説をエリア・カザンが監督した話題作である。公開されれば、一躍、ジェームス・ディーンは注目されるに違いない。無名の若い俳優が、ハリウッド・スターになるのだ。ジェームス・ディーンの独特な雰囲気やたたずまいが気に入り、デニス・ストックは被写体になってくれと依頼するが、ジェームス・ディーンは何だかんだとはぐらかす。

一方、ジェームス・ディーンは映画会社の支配を嫌い、「エデンの東」の宣伝のためのパブリシティをすっぽかしたりするので、勝手な行動をワーナー・ブラザースのジャック・ワーナー社長(ベン・キングズレーが必見)にとがめられる。「勝手なことばかりしていると、『理由なき反抗』の主役にはしないぞ」と恫喝するジャック・ワーナーは、いかにも映画が全盛だった五〇年代ハリウッドの帝王という感じである。しかし、ジェームス・ディーンは、従順に従うようなタイプではない。いい芝居だけをしたいという思いで、自由に生きている。また、恋人であるイタリア人女優ピア・アンジェリとの生活を楽しんでいる。

●ジェームス・ディーンの最後の誕生祝いに立ち会った写真家

デニス・ストックが撮った「エデンの東」公開直前のジェームス・ディーンの写真は、「ライフ」誌に「気難しい新スター」というタイトルで四ページわたって掲載された。それが掲載されるまでの二ヶ月ほどの物語が「ディーン、君がいた瞬間」で描かれる。それにしても、もう少し何とかならなかったのか、このタイトル。原題は「LIFE」で、たぶん「ライフ」誌と「人生」のダブルミーニングだろう。ジェームス・ディーンが育ったインディアナ州の町にふたりで赴くのが後半で描かれるのだが、そのとき「先週、誕生日だったね」と祖父母や叔父夫婦にお祝いされるので、その時期が二月中旬だったとわかる。

それが、ジェームス・ディーンの最後の誕生祝いになったことは、観客たちは知っているわけだ。このとき、二十四歳を迎えたジェームス・ディーンは、七ヶ月後に自動車事故で死んでしまうのである。彼の日常のシーンを捉えた写真も、おそらくデニス・ストックが撮ったもの以外にはほとんど残っていないはずである。雨のニューヨーク・タイムズスクエアでの写真、インディアナの故郷の農場での写真、いとこの少年と本を読んでいる写真、どれも僕には見慣れたものだったから、それを撮った瞬間が映画で描かれると、本当にこんな風だったのだろうなあと思えてくる。

ジェームス・ディーンの撮影を終え、マグナム・フォトのマネージャーと「ライフ」のビルの前で会ったデニス・ストックは掲載誌を受け取り、「次のテーマは何だ?」と問うマネージャーに「ジャズメンたちを撮りたい」と答える。デニス・ストックの未来の成功をうかがわせて映画は終わるが、その後に彼が撮影したジャズ・シーンは「ジャズ・ストリート」という作品集にまとまった。五〇年代のニューヨークは、モダン・ジャズの黄金時代である。チャーリー・パーカーがいて、新人のマイルス・デイビスがいた。バードランドを始め、ジャズクラブがいっぱいあった。

村上春樹さんが翻訳したビル・クロウの「さよならバードランド」という本がある。ビル・クロウは、五〇年代からジャズ・ベーシストとして活躍したミュージシャンである。その本は「あるジャズ・ミュージシャンの回想」とあるように、「ジャズ黄金時代のニューヨークで活躍したベーシストの自伝的交友録」なのである。表紙カバーは和田誠さんのイラストで、ニューヨークの街角を背景に大きなベースを黒いカバーに入れ、背中に背負って歩いているビル・クロウを描いている。そのイラストの基になっている写真を撮ったのが、デニス・ストックだった。

ニューヨークの早朝、巨大なベースを黒いカバーに包んで歩いているビル・クロウの写真は、ジャズメンたちを撮影したデニス・ストックの作品群の中でも有名な一枚だ。今ならネットで検索すれば、出てくるだろう。もちろん、ジェームス・ディーンを撮ったデニス・ストックの写真もネットで見られる。昔なら写真集を探したり、写真展にいかなければ見ることができなかった写真が簡単に検索できる。そのこと自体は、とてもよいことだとは思うけれど、写真家の著作権保護から考えると複雑な思いもしてくるのだった。

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