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2017年3月

2017年3月30日 (木)

■映画と夜と音楽と…766 「無私無欲」vs「私利私欲」


【殿、利息でござる/ジャージの二人/予告犯】

●異様な盛り上がり(?)を見せている森友学園問題だが

ワールド・ベースボール・クラシックの中継局以外はすべて(テレビ東京は確認していないけれど)、籠池理事長の国会での証人喚問を中継するという異様な盛り上がり(?)を見せている森友学園問題である。籠池理事長およびその夫人のキャラクターも大阪人らしくおもしろすぎて、劇場型のニュースネタとして視聴率がとれるのかもしれない。安倍首相夫妻が関係しているかどうか、自民党がひたすらかばいに入っているし、官房長官が様々な詭弁(弁解?)を弄しているのも見ていて「やれやれ」という気分になってくる。政治家には、白を黒と強弁し続けられる能力が求められるのだなあ。

首相夫人と理事長夫人のメールのやりとりも公開され、各テレビ局はワイドショーも報道番組も微に入り細にわたり分析している。フリップに拡大されたメールが映され、「三奥五千万(原文ママ)」などと変換ミスまでそのまま出されていた。籠池理事長の国会での証言は首をひねる部分もあったが、首相からの百万円の寄付金を巡る話では、何度も繰り返して話しても齟齬が出ないので、信憑性があるのではないかとの印象を持った。刑事部屋での取り調べでは(経験したことはないが)、同じ話を何度もさせるという。嘘をついていると、どこかで齟齬が出る。そこを突くのが取調の常道だという。

ところで、僕が公開されたメールで「おやっ」と思ったのは、理事長夫人のメールで「ある人から籠池さんと主人公がダブるから」と勧められて、「殿、利息でござる」(2016年)を見にいったという話が出てきた箇所だった。籠池夫人は「清められた」と書き、首相夫人に「ぜひ見てほしい」と勧めていた。確かに「殿、利息でござる」はよい映画で、見終わると清々しい気分になる。それは、登場人物たちの「無私の心」が観客の胸を打つからである。僕には籠池理事長が「無私の人」とは思えないから、あの主人公たちとダブるはずがない。

この間の森友学園事件の登場人物たちを見ていると、「私利私欲」と「自己保身」という言葉しか浮かばない。特に、政治家たちの姿にそれを見る。籠池理事長は「日本を憂う志の人」「無私無欲の愛国者」と自分を思いこんでいる節は見受けられるのだけれど、そういう言葉に自分で酔っている風にも見える。右翼系の人に多いのだが、ヒロイズムに浸って自己陶酔してしまうのだ。「維新」とか「志士」などという言葉を使う人は、僕にとっては昔から要注意だった。自分から「平成維新の志士」なんて言う人は特に信用しない。評価は他人がするものだ。自己評価は何の意味もない。

だから、籠池夫人によって「殿、利息でござる」が話題になったことは、僕には不快だった。せっかくの清らかな映画が、汚されたような気になった。「殿、利息でござる」は歴史学者の磯田さんが歴史上の実在の人たちを取り上げた、「無私の日本人」という本の中のひとつのエピソードを原作としている。そこには人のためにつくした「無私の人」たちが描かれているのだ。磯田さんはNHK-BSの「英雄たちの選択」といった歴史番組にメインキャスターのような形でずっと出演していて、口跡がよく言葉が聞き取りやすい。最初、僕は歴史を再現したシーンでのナレーションを、磯田さんがやっているのじゃないかと思ったくらいだ。実際は、松重豊が少し高い声の調子でナレーションを担当していた。

ところで、僕が勤めていた出版社のリクルート担当として入社試験問題を作ったとき、作文のテーマを「むし」としたことがある。どんな作文が出てくるか楽しみにしていたのだが、「無視」「虫」と解釈した人が大部分で、少数の人が「蒸し」をテーマにして書いていた。「無私」をテーマにした人はいなかった。「無私」という言葉は、すぐに思いつかないのだろうか。僕は「無私」とか「無欲」という語をよく使うので、「むし」をテーマに決めたときは「無私」を浮かべていた。また、「私利私欲」という言葉もよく使う。人を見るときに「私利私欲」で動いているかどうかが僕の評価基準なのだ。それは、自分自身の行動の規範にもなっている。「俺は、私利私欲で動いていないか」と常に問いかけている。

●「いい話」ばかりが続き籠池夫人も「清められた」のだろう

伊達藩の仙台に近い吉岡宿は重税と荷役でつぶれ百姓が相次ぎ、夜逃げする人たちが後を絶たない。ある夜、一家で荷車をひいて夜逃げをしていた百姓は造り酒屋の浅野屋の主人(山崎努)に呼び止められる。「あんたには××貸していたな」と彼は言う。夜毎、瓶に貯めた銭を数える守銭奴と言われる山崎努である。てっきり、厳しい取り立てがあるのだと一家の主人は身構える。そこまでがプロローグだ。それから数十年、山崎努は亡くなり、今は次男(妻夫木聡)が造り酒屋の浅野屋を継いでいる。相変わらず副業の金貸しに励み、父親と同じように多くの銭を貯めていると噂されている。

浅野屋の長男だったのに、同じ宿場の穀田屋に養子に出された十三郎(阿部サダヲ)が主人公である。彼は弟とふたり、子供の頃から父親にある教えを受けていて、その中で「自身を顧みず、人々のためにつくせ」と言われたことが身に染みついている。もちろん、そのことを誇ってはならず、人に知られることも避けよと教えられてきた。だが、長男の自分が養子に出されたのは、弟より出来が悪かったからだと思いこんでもいる。そんな十三郎は、貧しい人々を何とか救えないかと、荷役の免除を上訴するために訴状を胸に役人を待つ。それに気づいた宿場のインテリ菅原屋篤平治(瑛太)が止める。上訴すれば、訴人の命はないからだ。

十三郎の思いを知った篤平治は「お上に金を貸して、その利子を元に荷役を免除してもらう」という案を考え出す。しかし、現在の金で三億円ほどになる元金をどう集めるか、それが物語の中心になる。何年もかかるが、意外な人が大金を提供すると言い出したり、うまい儲け口だと勘違いして参加してくる商人もいたりする。藩の役人に言上すると「見上げた心がけだ」と感激し、親身になって動いてくれる役人もいる。しかし、藩の勘定方を預かる冷徹な能吏(松田龍平)はとりつく島もなく、さらに厳しい条件を出してくる。やがて宿場でも十三郎たちのやろうとしていることが知られ、様々な銭が集まってくる。

テレビスポットでも流れていたが、いきつけの飲み屋で瑛太が「お上に金を貸す」と思いついて口にしたとたん、飲み屋の女将(竹内結子)が「わたしは、お金なんか借りませんよ」と言うシーンがあるように、作品のトーンは喜劇調である。笑えるシーンが多い。しかし、銭を集めるというそのことだけで物語を展開しながら、様々な人の情や思いが立ち上がり、どんでん返しもあり、まさに笑いと涙に充ちた感動が訪れる。中村義洋監督作品だから、あざとさはなく心地よい軽さがある。すっとぼけたテイストが中村作品の持ち味だが、だからこそ見終わって清々しさが心の中を吹き抜ける。

勘定方の役人だけが憎まれ役だが、その他の登場人物は羽生結弦が演じた伊達の殿さまも含めて基本的に善人ばかりである。百姓たちよりはお上に顔が向いている世話役、儲け第一と考えているが状況によっては損な選択をする商人など、様々なタイプの人が出てくるけれど、みんな「人のために役立とう」と思う気持ちは持っている。新婚の妻におそるおそる宿場のために金を出すことを打ち明けた篤平治は、逆に新妻に「あなたは偉い」と励まされるし、十三郎は不満を感じていた自分の長男が「銭集め」のために仙台の商家に年期奉公に出たことを知って涙する。そういう、「いい話」ばかりが続くのだ。籠池夫人も「清められた」のは本当だろう。

●中村義洋監督は「上から目線」では絶対に描かない

中村義洋という名前を意識したのは、いつ頃からだっただろう。数えてみると、ほとんどの監督作を見ている。最初に印象に残ったのは、やはり「アヒルと鴨のコインロッカー」(2006年)だ。濱田岳は、この作品以来、中村作品には欠かせない役者になった。原作は伊坂幸太郎。中村監督は、この後、「フイッシュストーリー」(2009年)「ゴルデンスランバー」(2009年)「ポテチ」(2012年)と伊坂幸太郎原作を映画化する。「アヒルと鴨のコインロッカー」では瑛太と松田龍平も印象に残る。しかし、伊坂幸太郎が仙台を舞台にするのは学生時代から住んでいる街だからだが、中村監督が仙台にこだわるのは何か理由があるのだろうか。「殿、利息でござる」も仙台藩が舞台だ。

「チーム・バチスタの栄光」(2008年)「ジェネラル・ルージュの凱旋」(2009年)など商業的な王道作品を撮ったかと思うと、「ジャージの二人」(2008年)という奇妙な小品を撮るところに中村監督の幅の広さがある。「ジャージの二人」は、カメラマンの父親(鮎川誠)と会社を辞めた息子(堺雅人)が山荘で暮らす話である。様々なエピソードが描かれるが、中村作品特有のすっとぼけた味があり、いわゆる「癒される作品」になっている。田舎のことだから、女子高生たちが携帯電話の電波が「二本立った」「ここだと三本立つ」などと騒いでいるシーンが何となく僕の記憶に残っている。

ここ数年の作品を見ると、教室で通り魔的な事件に巻き込まれ、住んでいる団地から(精神的な意味で)出ることができなくなった男(濱田岳)を描いた「みなさん、さようなら」(2012年)があり、阿部サダヲを主役に実話を映画化した「奇跡のリンゴ」(2013年)があり、湊かなえ原作の「白ゆき姫殺人事件」(2014年)があり、ネット時代の複雑な犯罪を描いた「予告犯」(2015年)がある。僕にはどれもおもしろかった。ホラー作品にも多くたずさわってきた中村監督は怖がらせるのもうまく、「白ゆき姫殺人事件」「予告犯」などでのサスペンス描写もうまい。

生田斗真、鈴木亮平、濱田岳などが社会の底辺まで落ち、そこでようやく仲間たちを見つけ、社会に復讐するように様々な予告犯罪を引き起こす「予告犯」を見たときには、複雑な現代社会に落ちこぼれて生きざるを得ない人間への共感を感じた。奥田英朗さんの「オリンピックの身代金」と同じ視点である。そう、中村義洋監督は、今は亡き世界的巨匠のように、またあの売れっ子の優等生監督のように、「上から目線」では絶対に描かない。監督としての目線が低いのだ。そこが、僕の好みに合っているのかもしれない。

2017年3月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…765 薬師丸ひろ子が初めてくちづけした男



【三匹の牝蜂/仁義なき戦い・代理戦争/鉄砲玉の美学/セーラー服と機関銃】

●渡哲也の三歳年下の渡瀬恒彦がデビューしたのは五年後だった

今週は何を書こうかと思っていると、渡瀬恒彦の訃報が入ってきた。えーっ、と思ったのは、渡哲也が闘病中という話は聞いていたが、渡瀬恒彦についてはまったく予想していなかったからだ。七十二歳だったという。少し早いのではないか。最初の奥さんである大原麗子が亡くなってからもう何年にもなるけれど、再婚して子供も立派な社会人になり、七十を過ぎたとはいえ、まだまだ渋い役者として活躍できたのにと思う。あの年で主演が張れる俳優は、もうそんなにいなくなった。

しかし、渡瀬恒彦のことを書こうとすると、僕の場合、渡哲也について書き始めなければならない。渡哲也より三歳年下の渡瀬恒彦が東映に入社してデビューしたのは、一九七〇年のことだった。その時点で、渡哲也はすでに大スターだったのだ。日活最期の銀幕スターと言ってもいい。日活がロマンポルノ路線になり、石原プロモーションに移籍し、テレビドラマにも出るようになった頃で、映画館にいかない一般的な人々にもよく顔を知られるようになった。NHKの大河ドラマ「勝海舟」の収録は一九七三年に始まり翌年の正月から放映されたが、十回ほどで病気により降板し松方弘樹が引き継いだ。

渡哲也は一九六五年に「あばれ騎士道」でデビューし、翌年、早くも鈴木清順監督の「東京流れ者」(1966年)に主演する。「ラ・ラ・ランド」(2016年)のデイミアン・チャゼル監督が、影響を受けた作品として挙げた伝説のカルト・ムービーである(僕は「ラ・ラ・ランド」は同じ清順監督の「肉体の門」(1964年)の影響が強いと思ったけれど)。もう一本の名作「紅の流れ星」(1967年)を経て、翌年には「無頼シリーズ」がスタートする。「無頼より・大幹部」「大幹部・無頼」「大幹部・無頼非情」「無頼・人斬り五郎」「無頼・黒匕首」があり、最後が「無頼・殺せ」(1969年)である。

その渡哲也がテレビドラマに出始めた頃、渡瀬恒彦は電通を退社して東映に入社した。渡哲也の言葉によれば、「役者をやってる兄貴の部屋にくると高いレートで麻雀をやっていて、サラリーマンの給料じゃ無理だと思ったから」俳優になったとのことだが、たぶんに照れが入っていると思う。渡哲也も自身が日活の新人としてデビューすることになったいきさつを、高平哲郎さんのインタビュー(一九七六年一月十四日)で語っているが、ここにも渡哲也特有の照れがうかがえる。

----今から十一年前ですか、ぼくが大学四年のとき----青山学院です----空手部にいましてね、ええ。新大久保にアパート借りてたんですけど、空手部の連中とか、弟とか----弟(渡瀬恒彦)は早稲田に行ってたんですけどね----いつも五、六人ゴロゴロしてましてねえ。あるとき、浅丘ルリ子さんの一〇〇本記念で『執炎』という映画なんですけど、一般募集というのが日活でありまして。それで、弟とか空手部の連中とかでいい加減な写真送りましたら、面接試験というのがありまして。「まあ、裕ちゃんでも見にいくか」くらいの気で撮影所に行きましてねえ。

渡哲也が青山学院大学空手部の現役大学生としてデビューしたときを僕は憶えている。テレビの芸能ニュースに「日活期待の新人」として映ったからである。演技は下手で(デビューの年の裕次郎主演「泣かせるぜ」を見ればよくわかる)デクノボーだった。それが、「東京流れ者」「紅の流れ星」「無頼シリーズ」を経て、見違えるほどの役者になった。僕は「無頼シリーズ」を見るたびに、藤川五郎に涙する。昔、僕のペンネームは藤川五郎だったし、大学四年の春、僕は級友が台本を書き演出した「紅の流れ星」という芝居を手伝ったことがある。舞台は渋谷の天井桟敷を借りた。主人公の名前は、もちろん「不死鳥の哲」である。

●人気女優だった大原麗子の結婚相手は「渡哲也の弟」と呼ばれた

三歳違いの渡瀬恒彦は、渡哲也に遅れること五年、一九七〇年に二十五歳でデビューした。三作めの出演作「三匹の牝蜂」(1970年)は、夏純子、大原麗子、市地洋子の主演。大原麗子とは、数年後に結婚した。いわゆる格差婚で大原麗子は誰でも知っている人気女優だったが、渡瀬恒彦は「渡哲也の弟」と呼ばれた。若い頃、渡哲也と渡瀬恒彦は双子のように似ていて、誰もが「ああ、渡哲也にそっくりな弟ね」と口にした。その頃、渡瀬恒彦は「不良番長シリーズ」など、ほとんどチンピラばかり演じていた。そして、僕が初めて「渡哲也の弟」を意識したのは、テレビ時代劇シリーズ「忍法かげろう斬り」(1972年)だった。

「忍法かげろう斬り」は、日活の路線変更によって渡哲也がテレビに出るようになった初期の時代劇だった。二十六回(半年)続く番組である。早乙女貢の原作で、松平伊豆守の密命を受けた忍者の物語だった。くの一を演じた氾文雀が、色っぽいパートを引き受けていた。渡哲也は大病を何度もやっているが、最初に倒れたのがこの番組のときだった。二十回まで演じた渡哲也の代役として抜擢されたのが渡瀬恒彦だった。残り六回ほどだったけれど、このとき主役の俳優が変わったことを気づかない視聴者は多かったのではないか。渡哲也の弟が、俳優をやっていることを知らない人もいたのだ。僕も「実によく似ているな」と感心した。時代劇でカツラをつけていたからかもしれない。

この翌年、渡瀬恒彦の役者としての存在感を僕は認めることになる。「仁義なき戦い」(1973年)の後半に出てくる戦後の愚連隊あがりのやくざ有田だった。ポン(ヒロポン)の密売で儲け、上納金を山盛組幹部(三上真一郎)におさめている役である。出演場面は少なかったものの、酷薄そうなメーキャップが怖かった。そして、次に「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年)のチンピラ役が続いた。屋台で呑んでいて酔ったプロレスラーにからまれ、包丁で刺してしまう工員役である。その後、プロレス興業を仕切っていた広能組に教師と母親に連れられてわびにくる。

教師(汐路章)は広能の恩師でもあり、「これのオヤジも極道で死んどるのよ」と渡瀬恒彦を広能組に入れてほしいと言う。第三部の重要なエピソードを担う役だった。最後は兄貴分(川谷拓三)に唆されて敵対する組長(田中邦衛)を狙い、さらにその兄貴分に裏切られて死んでいき、彼の葬儀のシーンで「代理戦争」は終わる。死んだ若者の焼けた骨を手のひらに包み込み、ぐっと奥歯を噛みしめる菅原文太と原爆ドームが重なるように編集されて、第四部「頂上作戦」に続くのである。このチンピラ役は、五部作を通して見ても強い印象を残す。渡瀬恒彦が亡くなって各局のニュースは「仁義なき戦い」を代表作に入れていたが、この役を指しているのだろう。渡瀬恒彦、二十九歳の名演だった。

同じ年、渡瀬恒彦は初めてアートシアターギルド(ATG)作品「鉄砲玉の美学」(1973年)に主演する。東映の中島貞夫監督が、杉本美樹など東映の役者を使って撮った作品である。いわゆる一千万映画で低予算だが、監督が撮りたいように撮れる作家主義の映画だった。ATG作品=作家主義のアート作品だから、このとき映画雑誌などで急に渡瀬恒彦の紹介が増えた記憶がある。ちなみに「鉄砲玉の美学」の音楽を担当したのが、荒木一郎と電脳警察だった。中島監督の「893愚連隊」(1966年)で主演した荒木一郎だから、そのつながりだったのだろう。

●渡瀬恒彦と風祭ゆきの大人のドラマが支えた「セーラー服と機関銃」

七〇年代後半、渡瀬恒彦は順調にキャリアを積み、松竹で山本薩夫監督の「皇帝のいない八月」(1978年)に出演したり、工藤栄一監督の久々の本編「影の軍団 服部半蔵」(1980年)で「裏の半蔵」として主演を張ったりしていたが、僕が「この人、うまいなあ」とうなったのは「セーラー服と機関銃」(1981年)だった。目高組の代貸し佐久間真の役である。現実にはあり得ない物語にリアリティを与えていたのは、渡瀬恒彦と風祭ゆきだった。このふたりの大人の物語がなければ、単なる荒唐無稽なアイドル映画になっていただろう。それに、薬師丸ひろ子が初めてくちづけをする(役の上とはいえ、たぶん実人生でも初めてでは?)相手は渡瀬恒彦なのだ。

僕が「セーラー服と機関銃」を見たのは、東映本社の試写室だった。僕は「小型映画」という専門誌の編集部にいて、相米慎二監督に新作のインタビューを申し込んでいた。「翔んだカップル」で監督デビューした相米さんは、瑞々しい青春映画を撮る監督として期待されていた。カットを割らない長まわしも話題になっていた。「監督インタビュー」というページを作り、加藤泰、工藤栄一、大林宣彦、鈴木清順など、神とも仰ぐ監督たちをインタビューしていた僕は、期待の新人監督として相米慎二さんに是非会ってみたかったのだった。

「セーラー服と機関銃」は、女子高生がやくざの組長になるという非現実的な物語だが、そんなものを超越してスクリーンに引き込む強い力があった。薬師丸ひろ子の魅力もすごかった。少し太り気味の丸顔に短髪で、小柄な体躯が躍動する。その動きが素晴らしく、それを捉えるキャメラワークにも惹かれた。そして、初めて薬師丸ひろ子が佐久間と父の恋人だった風祭ゆきのセックスを見てしまうシーン、その後の佐久間の心の叫びのような告白を聞くシーン、それらは印象的な場面として記憶に刻み込まれた。特に、風祭ゆきとの出会いを語る渡瀬恒彦の叫ぶようなセリフまわし、雨が降り出しても語り続ける切なさのようなものが僕の胸を打った。

僕の中で「渡哲也の弟」という要素が完全になくなり、「渡瀬恒彦」という俳優が存在し始めたのは、やはり「セーラー服と機関銃」の佐久間の告白シーンだと思う。渡瀬恒彦は三十七歳になっていた。あれから、三十六年の月日が流れ、渡瀬恒彦の訃報をテレビも新聞も大きく扱った。それだけ大きな存在の俳優になっていたのだろう。死ぬまで現役でいられたのだ。春から始まるテレビシリーズに出演したいと望んでいたという。幸せな役者人生だったと思う。

2017年3月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…764 岡本喜八監督が脚本を書いたアニメ


【COO 遠い海から来たクー/ジョーカー・ゲーム/ワイルド・ギース】

●景山民夫さんの「遙かなる虎跡」が並んでおり懐かしくなった

先日、ブックオフの百円コーナーを見ていたら、景山民夫さんの「遙かなる虎跡」が並んでおり懐かしくなって購入した。初めての長編小説「虎口からの脱出」に感心し、直木賞を受賞した「遠い海から来たCOO」も読み、テレビ局のトラブルシューターを主人公にしたシリーズも読み、エッセイ集も愛読していた作家である。「遙かなる虎跡」は読んだ記憶がなかったが、自宅に帰り「プロローグ 1942年シンガポール」を読むと、既読感が湧き起こってきた。昔、読んだ気がする。あれほど気に入っていた作家だから読んだはずだ。日本では珍しい大がかりな冒険小説を書く人だった。

景山民夫さんが自宅の火災で亡くなったのは、もう二十年近く前のことになる。五十歳だった。しかし、僕はその少し前から彼の本を読まなくなっていた。理由は、彼がある新興宗教の熱心な信者だとわかったからである。講談社の発行した雑誌がその新興宗教についての誹謗記事を掲載したとかで、信者たちが講談社前に抗議に集まったというニュースがテレビで流れたのはいつ頃だったろうか。その宣伝カーの上には、景山民夫、歌手の小川知子(好きだったなあ「初恋のひと」)、俳優の南原宏治(鈴木清順監督「殺しの烙印」の殺し屋ナンバーワンの役)が立っていた。

景山さんのエッセイを読んでいると、彼は「霊感が強い」と書いてあった。そのせいか、今では政党を作り選挙のたびに信者を立候補させているその新興宗教の教祖に会ったとき、ものすごい霊感を感じたと話していた。すごい衝撃だったらしい。しかし、作家というのは「懐疑的な人間」だと思っていた僕は、新興宗教を信仰することが信じられなかった。それまで、僕は景山さんの小説やエッセイをよく読んでいたので、特に違和感を感じたのかもしれない。景山さんが宗教にのめり込むに連れて、交友範囲はせばまったという。その景山さんのことを内藤陳さんから聞いたのは、亡くなって十年以上が経った頃だった。

「映画がなければ生きていけない」を出版し冒険小説協会から賞をいただいた二〇〇七年、僕は陳さんの新宿ゴールデン街の酒場「深夜+1」に顔を出すようになった。日本冒険小説協会公認酒場だから、冒険小説、ミステリ(特にハードボイルド)、映画などの話題ばかりが飛び交う店である。あるとき、僕は「景山さんの『虎口からの脱出』はおもしろかったですね。今でも忘れられない」と口にした。陳さんはおもむろに「民夫は、ここで宣言したんだ。『A-10奪還チーム出動せよ』よりおもしろい小説を書くって」と言った。

「A-10奪還チーム出動せよ」は当時、新潮文庫(現在は早川文庫)で出ていたと思うが、とにかくおもしろい冒険小説だった。僕も夢中で読んだものである。まだ、月刊になっていなかった『本の雑誌』でも評判になっていたと思う。物語の後半にある車による逃走と追跡がすごくて、それに影響されて景山さんが「虎口からの脱出」を書いたというのは噂で聞いていたが、酒場で宣言し、その通りに書いてしまったのはすごいことだと改めて思ったものだった。

「虎口からの脱出」の車を駆使した逃走と追跡劇は手に汗握り、今もあれをうわまわる小説は出ていないと思う。景山さんは「遠い海から来たCOO」によって直木賞を受賞したが、「虎口からの脱出」で受賞しても不思議ではなかった。ただし、放送作家をやりながらエッセイの賞はもらっていたが、「虎口からの脱出」が小説デビューだったと思う。小説の実績のない人には、直木賞を与えにくかったのかもしれない。

●岡本喜八監督が脚本を書いたアニメ「Coo 遠い海から来たクー」

「遠い海から来たCOO」は少年と絶滅したはずの恐竜の子供の交流というファンタジーの要素が強く、そこが一般受けしたのかもしれないが、僕の評価としては「虎口からの脱出」の方が上だった。もっとも、COOを奪おうとする特殊部隊が襲ってくるのに反撃するシーンなど、冒険小説としても一流だった。今もよく憶えているのは、暗視鏡をした兵士たちに強烈な光を浴びせ、一時的に視力を奪ってしまう場面である。

「Coo 遠い海から来たクー」(1993年)は、岡本喜八監督の脚本によってアニメ映画になった。絶滅した恐竜の子を実写で出すのがむずかしかったからだろう。今なら、デジタル処理でいくらでも可能だろうから、ぜひ映画化してもらいたいものだ。いや、映画化するのなら「虎口からの脱出」の方を見てみたい気がする。少なくとも亀梨くんと深キョンの「ジョーカー・ゲーム」(2014年)よりはずっとおもしろくなると思うのだけど、いかがなものだろうか。

景山民夫という人を思い出すと、僕は彼が放送台本を書いていた「出没!!おもしろMAP」というバラエティ番組を浮かべる。景山さんのスタートは放送作家だったのだ。「シャボン玉ホリデー」でデビューしたという。「出没!!おもしろMAP」は、四十年前の秋から二年間にわたって放映されていた情報バラエティである。司会は清水国昭と清水クーコ、日曜の三時からの三十分番組だった。

提供は森永製菓一社で、番組の中で「エンゼル体操」というものが披露された。古代ローマの兵士のようなコスチュームを身につけた「ムキムキマン」というキャラクターが登場し、音楽に合わせてコミカルな振り付けのエンゼル体操を行うのである。「エンゼル体操」の作詞を手がけていたのも景山さんだった。景山さん自身も登場することが多かった。

僕が毎週、その番組を見ていたのは、首都圏のいろいろな情報が紹介されていたのと映画紹介コーナーがあったからだと思う。日曜の三時である。ゆったりした気持ちでテレビの前に座っていた。月刊誌の編集部にいたので平日の夜はよく残業していたし、完全週休二日だったけれど、ときには仕事で土曜日に出ることもあった。しかし、さすがに日曜日はゆっくり休めた。

その頃、僕は妻とふたりで阿佐ヶ谷の三畳ほどのキッチンと六畳の和室しかないアパートで暮らしていた。トイレはついていたが風呂はなく、近くの銭湯に通っていた。花籠部屋(横綱の輪島がいた頃で全盛期だった)が近く、銭湯で力士と一緒になることもあった。まだ髷の結えない弟弟子が兄弟子の背中を洗っていたりした。さすがにお相撲さんの背中は大きいなあと感心したことを憶えている。

●景山さんが構成していた番組での忘れられない映画紹介

「出没!!おもしろMAP」の映画紹介で忘れられないのは、「ワイルド・ギース」(1978年)である。日本公開は一九七八年八月五日だったから、紹介されたのは七月の日曜日だったのだろう。「ワイルド・ギース」はイギリスの名優リチャード・バートン、後にジェームズ・ボンドで有名になる(その頃はセイントで名を知られていた)ロジャー・ムーア、逆おむすび顔のリチャード・ハリス、ドイツ人のハーディー・クリューガーが出演する大作で、監督も数々の西部劇を作ってきたベテランのアンドリュー・V・マクラクレンだった。

アフリカの某国で軍事クーデターが起こり、大統領が拉致されて監禁される。イギリスの巨大資本はクーデターによって莫大な利権を失いかねないと、傭兵たちを雇い大統領救出を画策する。選ばれたのがリチャード・バートンである。信頼する戦友であるロジャー・ムーアやハーディー・クリューガーを呼び寄せ、参謀格のリチャード・ハリスを誘うが、リチャード・ハリスは幼い息子との生活を優先し躊躇する。しかし、リチャード・バートンとの友情から危険な任務を引き受ける。彼らは五十人の傭兵たちを選抜し、鍛え上げる。やがて、某国へ潜入。大統領を救い出す。しかし、巨大資本は新政権と取り引きし----という展開になる。

そんな傭兵映画を紹介しながら「出没!!おもしろMAP」の出演者がワイワイ騒ぐのだが、生き残ったバートンやムーアが軍用機に乗り、最後に走ってくるリチャード・ハリスのシーンでは番組の出演者たちは「お父さん、がんばって」と声をあげ続けた。飛行機から手をさしのべるリチャード・バートン、飛び乗ろうと走り続けるリチャード・ハリス、その後ろには迫りくる某国の黒人兵士たちがいる。

つかまれば惨殺される。間に合うのか、というサスペンスである。そのシーンに向かって清水国昭や清水クーコが「お父さん、がんばれ」と本気で声をかけていた。リチャード・ハリスにはイギリスの寄宿舎で息子が待っているのだから、バートンやムーア以上に生還しなければならない理由がある。だから、観客たちは強く感情移入するのだ。まあ、物語の設定の定石ではあるのだけれど----。

もちろん、僕は「ワイルド・ギース」の公開を待ちかねて見にいった。そして、今でもお気に入りの映画になっている。昨年だったか、久しぶりにWOWOWで放映され改めて見たが、やはり好きな映画だった。物語は単純だし、パターン化したキャラクターや盛り上げ方はもう古くなっているかもしれないけれど、リチャード・ハリスが飛行機に向かって走り続けるシーンでは「がんばれ、お父さん。息子が待ってるじゃないか」と思った。

それに、僕は昔からリチャード・ハリスが大好きだったのだ。最初に見たのは半世紀以上も昔のこと。リチャード・ハリスがアカデミー賞にノミネートされた「孤独の報酬」(1963年)だった。アクション映画にも主演し、「ジャガーノート」(1974年)や「カサンドラ・クロス」(1976年)などもある。クリント・イーストウッドの「許されざる者」(1992年)でキザなイングリッシュ・ボブという賞金稼ぎを演じ、ジーン・ハックマンの保安官にボコボコにされるのはつらかったけれど、リドリー・スコット監督「グラディエーター」(2000年)では主人公を息子のように愛す賢帝マルクス・アウレリウスを重厚に演じた。

最近では「ハリー・ポッター・シリーズ」で魔法学校の校長を演じ、「ハリー・ポッターと秘密の部屋」(2002年)が最期の作品になった。しかし、リチャード・ハリスというと、やはり「ワイルド・ギース」のあのシーンが浮かんでくる。そう言えば、「深夜+1」の壁にも「ワイルド・ギース」のスチルが貼ってあったなあ。「傭兵もの映画」には、フレデリック・フォーサイス原作の「戦争の犬たち」(1980年)があるけれど、僕には「ワイルド・ギース」の方が記憶に残っている。

2017年3月 9日 (木)

■映画と夜と音楽と…763 夢は叶った、しかし----



【ラ・ラ・ランド/セッション/シェルブールの雨傘】

●作品賞の取り違えの混乱によって長く記憶されるアカデミー授賞式

今年のアカデミー賞授賞式は、最後の作品賞の取り違えの混乱によって長く記憶されることになった。僕はライブで見ていたので、最初、これも演出なのかと思ったが、突然、受賞挨拶をすませた「ラ・ラ・ランド」(2016年)のプロデューサーが「間違いがあったようです。作品賞は『ムーンライト』、私は彼らにこのオスカーを渡すのを誇りに思う」と言いながら、「ベストムービー『ムーンライト』」と書かれたカードを観客の方に向けたとき、訳がわからなくなった。司会者がジョーク混じりで場をおさめようとし、プレゼンターを務めたウォーレン・ベイティが「私が説明する」とマイクをつかんだ。結局、このドタバタで男を上げたのは「ラ・ラ・ランド」のプロデューサーだった。

改めて思い返すと、「ボニーとクライド」こと「俺たちに明日はない」(1967年)が公開から五十年という節目を迎えたことで、作品賞のプレゼンターとして登場したウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイが、「オスカー・ゴーズ・ツー」と封筒を開けたときから変な雰囲気だった。ウォーレン・ベイティはカードを何度も見返し、封筒の中を繰り返しのぞき込む。最初は、発表をじらしているのかと思った。フェイ・ダナウェイもそう思ったのか、ベイティを急かした。ベイティがフェイ・ダナウェイにカードを渡すと、彼女は即座に「ラ・ラ・ランド」と読み上げたのだ。プロデューサーたちを始め監督や主演者たちが喜んで登壇し、三人のプロデューサーは受賞の喜びを語り終えた。その後の訂正である。

どういう間違いか、ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイに渡された封筒の中のカードには「ラ・ラ・ランド/エマ・ストーン」と書かれていたらしい。つまり、主演女優賞のカードだったのだ。しかし、受賞後の記者会見で、エマ・ストーンは「私のカードは私が持っていた」と語っていたから、同じカードが二枚あったということだろうか。しかし、エマ・ストーンは「『ムーンライト』はとても素晴らしい作品で、作品賞は当然だわ」と、しきりに強調していた。「ムーンライト」の監督は、逆に「ラ・ラ・ランド」チームの寛容さを誉め称えていた。トランプが混乱させ、分断された現在のアメリカではほとんど見られない、心温まる光景だった。

ということで、授賞式の三日前から日本でも公開になっていた「ラ・ラ・ランド」を見にいくことにした。もっとも、僕が見たくなったのは、予告編でライアン・ゴズリングがエマ・ストーンをジャズ・クラブに連れていき、目の前で演奏するクィンテットを聴きながら、ジャズのセッションやインプロビゼーションについて解説するシーンがあったからだ。ライアン・ゴズリングは「今はサックスが音楽を乗っ取っている」と話し、トランペット奏者が吹き始めると「ほら、彼は自分の音楽をぶつけている」と解説し、「だから、演奏するたびに違う音楽が生まれるんだ」と熱い口調で語り、最後に「ベリー・ベリー・エキサイティング」とテーブルを叩かんばかりに言う。まるで、映画やジャズについて語っている僕自身の姿を見るようだった。

久しぶりに、かみさんとふたりで並んで見た「ラ・ラ・ランド」は、ジャズと映画(特に古いハリウッド映画)を好きな人間には、たまらなく愛おしい作品だった。アメリカでヒットしたのもよくわかる。五〇年代のハリウッド・ミュージカル(「バンド・ワゴン」や「雨に唄えば」)が大好きな日本人の僕が懐かしく思うのだから、アメリカ人は余計に郷愁を感じることだろう。ジャズおたくの主人公セブ(ライアン・ゴズリング)は、五〇年代に全盛だったジャズ(チャーリー・パーカー、若きマイルス・デイビス)を復活させたいと願っており、そのこともまた「古きよきアメリカ」を思い出させる。この映画は、「アメリカをもう一度偉大にしたい」トランプ支持者も、トランプが作り出した分断されたアメリカに絶望している反トランプ派の人たちも気に入ることだろう。

●デイミアン・チャゼルは三十二歳で監督賞の最年少受賞記録を作った

「セッション」(2014年)を見たときに、「この監督は、きっとジャズが好きなんだろうなあ」と思ったけれど、その内容の激烈さにはついていけなかった。サディスティックな音楽教師を演じたJ・K・シモンズは強烈な印象を残し、アカデミー助演男優賞を受賞した。この映画の教師像については、ジャズ奏者の菊池成孔さんが複雑かつ詳細なコメントをしていたが、僕はJ・K・シモンズが演じた人物は肯定できなかった。もっとも、彼のしごき(いじめ?)があったからこそ、主人公はものすごいドラムソロができたのであって、それは彼をギリギリまで追いつめたJ・K・シモンズの教育なのであるという解釈もできるのかもしれない。

今回、「ラ・ラ・ランド」で監督賞を受賞したデイミアン・チャゼルは三十二歳、監督賞の最年少受賞記録を作った。ということは、「セッション」は三十そこそこで監督したのだ。音楽(ドラムス奏者)を志し挫折したというから、「セッション」には自分の体験が反映されていたらしい。その後、ハーバード大学に進み、映画の世界に入る。今回、アカデミー賞の作曲賞と主題歌賞を「ラ・ラ・ランド」で獲得したジャスティン・ハーウィッツは、監督のルームメイトだったという。十七歳からの友人だと監督は言った。そんな出会いがあるのだと、驚いた。「ラ・ラ・ランド」は音楽と映像が一体化した作品だ。どちらが先ということではないだろう。若き才能が出会い、生み出したハリウッド映画史に残るミュージカルになった。

映画好きにたまらないのは、ワーナー・ブラザースのスタジオが背景になっており、映画の撮影シーンがふんだんに見られることである。ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優をめざしながら、ワーナーの撮影所内にあるカフェで働いている。そこには撮影中の有名女優がカフェ・ラテなどを買いにくる。カフェを出れば、「カサブランカ」(1942年)で使われたというセットがある。少し歩くと、スタジオの中では撮影が行われている。その様子が映画好きにはたまらない。ジェームス・ディーン主演「理由なき反抗」(1955年)の天文台のシーンが挿入され、同じ天文台でセブとミアがプラネタリウムに映し出された星空を背景に踊り出す。ミアは「理由なき反抗」でジミーが着ていたのと同じような真っ赤なブルゾンでオーディションに臨む。

ジャズと映画が好きでたまらないらしい監督は、古いジャズやジャズメン、古い映画へのオマージュをふんだんに散らしている。ジャズ・ファンでなければ知らないだろう「ケニー・クラーク」なんて名前も出てくる。「ベイシーが演奏したクラブ」なんてセリフもある。セブは、「理由なき反抗」のジェームス・ディーンのセリフを口にする。トワイライトの光景を背景にした公園でセブとミアが踊り出したときに僕が思い出したのは、「バンド・ワゴン」で初めて心を許し合ったフレッド・アステアとシド・チャリシーがニューヨークのセントラルパークで踊るシーンだったし、物語全体から僕が感じたのは「シェルブールの雨傘」(1963年)へのオマージュだった。特にラストシーンでは、それを強く感じた。

●ひとつの夢は叶っても、もうひとつの別の夢は叶わない

「ラ・ラ・ランド」が描くのは、「夢を見ること」である。セブの夢はハードなジャズが演奏できる店を自分で開くことであり、ミアの夢は女優になることである。どちらもハードルの高い夢である。その夢の周囲は叶わなかった夢で覆われているし、ほんの一部の人間だけがその夢を実現できる世界だ。実力も必要だろうが、運も必要だ。だが、夢を見続けない限り、夢が実現する可能性はない。大学を中退してハリウッドにやってきたミアは六年努力し、数え切れないオーディションに落ち、彼女のセリフを借りれば「充分、傷ついて」いる。だから、最後に自分で書いたひとり芝居の戯曲で自主公演を行い、数えるほどの観客しか集められず、その観客の「ひどい芝居だった。彼女、大根だな」という感想を漏れ聞いたときの絶望は手に取るようにわかった。「もう、あきらめよう。惨めな思いをするのはコリゴリ。私は充分、傷ついた」と思ったに違いない。

一方、セブはあれほど好きだったジャズへのこだわりを捨て、友人に誘われて「売れる音楽」を始める。そのバンドが成功し、アルバムを出し、ツアーばかりの日々を送る。ミアと長く会えなくなり、会えばミアに「あの音楽が好きなの? あんなに好きだったジャズは?」と問い詰められる始末だ。内心、忸怩たるものを抱えるセブは、自分の苛立ちをぶつけるように、ミアに言ってはいけない言葉を口にする。愛する人との生活(要するに金)のために妥協し、純粋だった夢が変質していく。若いふたりは、夢を追い続けるか、現実に妥協するか、というふたつの選択肢に晒される。それ以外の選択肢が浮かばない。それが、若さということなのかもしれないが、スクリーンのふたりを見ながら僕は改めて若い日の自分の夢を甦らせていた。

今更だけど、僕にも夢はあった。だが、僕は安定した生活のために、夢を優先しなかった人間だ。若くして結婚した妻も僕の夢には反対した。生活を賭して夢を実現するなんて----と、彼女は現実的なことを口にした。いや、妻や家族のせいではない。僕自身が、退路を断って夢に賭けるほどの自信がなかったし、安定した生活を放棄する勇気がなかったのだ。自分自身に、どんな貧しさに耐えても夢に突き進むという強さがなかった。結局、四十年の勤め人生活を送り、今は老齢年金を支給される身になった。僕の夢は勤め人生活を送りながらでも努力できるものではあったけれど、「あのとき退路を断って挑戦していれば、もしかしたら----」と今も夢想することがある。

だが、これでよかったのだと肯定する気持ちもある。五十五歳で初めての著書を出版し、多少とも評価してもらえたし賞もいただいた。昨年は、江戸川乱歩賞候補として四編の中に残った。ただ、そんな中途半端な結果しか得られていないのは、本気で夢の実現に努力しなかったからだという内心の声もある。未だに迷い続けている。しかし、何がよかったのかは、死ぬときになってもわからないだろう。あのとき、別の選択をしていたらと思い続けるのが人生なのかもしれない。「ラ・ラ・ランド」が心に残るのは、最後に「あり得たかもしれない別の人生」を数分間で見せてしまうからだ。僕は、そのシーンでちょっと涙ぐんだ。人生は、ハッピーエンドにはならない。ひとつの夢は叶っても、もうひとつの夢は叶わない。だから、「あのとき、ああしていたら、こうなっていたかもしれない」と人は夢想する。それは、誰もが抱く「夢」である。

2017年3月 2日 (木)

■映画と夜と音楽と…762 疑えば暗闇に鬼を見る



【マクベス/蜘蛛巣城/コールド・ブラッド 殺しの紋章/KT】

●映画化された「マクベス」を久しぶりに見たけれど---

昨年、マイケル・ファスベンダー主演の「マクベス」(2015年)を見た。マクベス夫人はフランス人でありながらアカデミー主演女優賞を受賞しているマリオン・コティヤールである。豪華な配役だった。「マクベス」を見たのは久しぶりだった。暗く、やりきれない物語だから、そう何度も見たくなるものではない。今回はどんな風に映画化されているのか、そんな興味があって見てみたのだ。独創的だったのが、三人の魔女だった。老婆ではないし、ひとりは子供を抱いている。荒野の霧の中に三人が立っている映像は、ちょっとゾクゾクさせた。

マイケル・ファスベンダーは正統的なイギリス人俳優らしく、シェークスピアのセリフを格調高く響かせる。マクベス夫人の独白のセリフもよくて、マリオン・コティヤールの新しい面が見えた。マクベス夫人が王の暗殺をマクベスに唆す場面では、ふたりがセックスしながら高まっていくという設定に変えており、なるほど新しい解釈だわい、と僕はうなずいた。マクベスは夫人の魅力に囚われていて、その夫人の肉体と耳元で囁く邪悪な言葉によって、高潔な正義の人と思われていたマクベスが王の血で手を汚すことを決意する。マリオン・コティヤールの起用は成功していた。

「マクベス」はシェークスピアの三大悲劇の一本と言われ、「ハムレット」や「オセロ」と並んで上演の機会が多い戯曲である。権力欲に駆られて王を暗殺し、マクベスは自らスコットランドの王になる。マクベスの未来を予言して、彼をその気にさせるのは三人の魔女であるが、それは運命というものを具現化した存在だ。彼女らはマクベスが王になることを予言し、一緒にいたバンクォーには「そなたの子孫が王位を継ぐ」と告げる。その言葉からマクベスは疑心暗鬼になり、王を暗殺した後、バンクォーと息子の暗殺を家臣たちに命じるのだ。不安に駆られるマクベスは、「女の股から生まれた者にマクベスは殺せない」という魔女の予言を信じて安心する。

しかし、「森が城を攻めてこない限り」マクベスは滅びず、女の股から生まれた者には殺せないはずのマクベスは、森が動くのを目にし、母親の腹を裂いて生まれた者によって命を絶たれる。スコットランドは暴君から解放されるのだ。しかし、マクベスは魔女の予言によって惑わされ、自ら犯した王殺しや友の暗殺にさいなまれ、亡霊を目にし、疑心が募って誰も信じられず精神を病んでいくわけで、運命の被害者のようにも見えるのだ。夫に悪心を吹き込み、王を殺せと唆したマクベス夫人も手についた王の血が落ちないと狂い、死んでいく。結局、マクベスやマクベス夫人は真の悪人にはなれず、罪の意識によって精神のバランスを崩していく。人の道を外れたマクベスの疑う心は、暗闇に鬼を見るのである。

●組織に属した人間には「マクベス」的心理は理解できる?

以前に見た「マクベス」(1971年)はロマン・ポランスキー監督版だから、もう四十数年前のことになる。もっとも、その間にジョン・タトゥーロが主演した「コールド・ブラッド/殺しの紋章」(1990年)という映画を見ている。これは、舞台を中世スコットランドから現代のマフィアの世界に移して「マクベス」を再現したものだ。タトゥーロはマフィアの幹部で、ある日、ボスを自宅に迎え、宿泊させることになる。もちろん、ボスのボディガードたちも一緒だ。タトゥーロは妻に唆されてボスを刺し殺し、ボディガードに罪を着せて射殺する。ボスの座についたタトゥーロは、親友を暗殺し、ファミリーに君臨する暴君になる。

どんな世界にもヒエラルキーは存在する。上昇志向があり、権力欲があるならば、「マクベス」が描いた世界は----少なくともその精神性は、様々な人々に共通するところがあるだろう。シェークスピア作品が何百年を経ても生き生きとしているのは、そこに普遍的な人間像が立ち現れてくるからだ。特に悪人を描くと、人間の普遍性が見えてくる。「オセロ」のイアーゴー、「リチャード三世」など、悪そのもののような存在が魅力的に見える。彼らに比べると、マクベスは殺した友の亡霊に脅えて、あらぬことを口走る臆病さが情けない気がしないでもない。

その情けなさを目いっぱいに演じていたのが、「蜘蛛巣城」(1957年)の三船敏郎だった。黒沢作品があまり好きではない僕だが、その中でも「蜘蛛巣城」は二度見る気にならなかった。暗いし、みんな目を大きく丸く見開いて大仰に叫んでいる印象があったからだ。十八のときに銀座並木座で見て以来、一度も見返していないかもしれない。しかし、一度見ただけで、物語は脳裏に焼き付いた。僕が「マクベス」を読もうと思ったのは、「蜘蛛巣城」が「マクベス」を翻案したものだと知ったからだった。僕は「マクベス」を読み、なるほど舞台を日本の戦国時代に移しただけなのだなとわかった。

三船敏郎が演じた鷲津武時は、戦場の霧の中で三人の老婆と出会い、自分が王となることを予言される。一緒にいた武将(千秋実)がバンクォーの役である。やがて夫人(山田五十鈴)に唆されて殿の寝所に忍び、槍で刺し殺す。このとき、槍を抱えて寝所から出てくる三船の顔は今でも思い出す。まるで、血管でも切れそうな張りつめた表情だった。また、自分が暗殺を命じた千秋実が亡霊となって宴席に並んでいるのを見つけたときの、三船敏郎の異常におののく姿も忘れられない。もっとも、最後に城を攻められ、顔の横に無数の矢を射かけれられたときの三船の表情は本物だったのだろう。何しろ黒澤明監督は、弓の名人たちを集め、三船の目の前から本当に矢を射させたのだから----。

●独裁者たちは誰もが同じような行動をする

先日来、大騒ぎになっているマレーシアのクアラルンプール空港での金正男暗殺事件のニュースを見ていて、僕は「マクベス」を思い出していた。金正男の長男も命が危険だと言われているが、北朝鮮(誰も「朝鮮民主主義人民共和国」という正式な国名で呼ばないなあ)の孤独な独裁者は疑心に凝り固まっているのだろう。すべての不安材料を払拭(そんなことできるわけないが)しない限り、身内でも次々に消していくに違いない。だが、自分以外は誰でも裏切る可能性があるわけだから、疑心は止めどなく鬼の姿を見せるだろう。どんなに信頼する部下であっても、彼を安心させることはできない。独裁者は、常にそんな不安を抱えることになる。

二十世紀から現在にかけて、様々な独裁国家があり独裁者が存在したが、誰もに共通しているのは恐怖政治を敷き、自分に反対する者たち、自分に脅威を与える者たちを粛清することだった。その中でもスターリンは別格だった気がする。スターリン時代に殺された人は数百万人とも言われている。ロシア革命に貢献した赤軍の幹部をほとんど粛清してしまったので、ヒトラーのドイツ軍に攻め込まれたときに軍がほとんど機能しなかった。スターリンは、自分の妻まで殺した疑惑が持たれている。自分以外、誰も信じられなかったのだろう。執念深く、メキシコに亡命していたトロツキーを暗殺させた。トロッキーはレーニンの後継者を争う存在だったとはいえ、スターリンが権力を把握して数十年も経ってからのことである。そのスターリンを手本にして、金日成は国を支配した。そのまま、三世代の独裁政権が続いている。

韓国(誰も「大韓民国」と言わないなあ)も、独裁体制が長く続いた国だった。かつて、韓国の独裁者が日本で起こした事件によって韓国と日本の間で大問題になったことがある。日本の植民地だった朝鮮は、日本の敗戦後、北をソ連が管理し、南をアメリカが管理した。北朝鮮では金日成が独裁者になり、韓国は李承晩が大統領として独裁体制を敷いた。その後、朴正煕(今の朴大統領の父親)が軍事クーデターを起こし、大統領となった。朴大統領は独裁体制を強め、大統領選挙で自分に迫る勢いを見せた野党党首の金大中(後に大統領になる)に脅威を感じたことで、一九七三年八月、日本の九段下のホテルに滞在していた金大中をKCIA(韓国中央情報部)が拉致することになる。金大中は五日後、ソウルの自宅近くで目隠しをされたまま解放された。

韓国の政府機関である情報部が、日本の主権を侵害する形で行ったこの事件は、当時、日韓関係をゆるがす大問題になった。金大中が拉致された部屋からは、駐日韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋が出たのだ。日本政府は韓国政府に金東雲の出頭を要請し、韓国政府はこれを拒否した。何だか、今回のマレーシアと北朝鮮の緊張関係に似ている気がする。その事件の一年半後、僕はそのホテルの近くにある出版社に勤めることになったが、ある日、昼食に出たときに先輩が「ここが金大中が拉致されたホテルだぜ」と教えてくれた。その後で、「プロ野球のドラフト会議もここでやってるけどね」と付け加えた。

中薗英助の「拉致・知られざる金大中事件」を原作にして「KT」(2002年)という映画を作ったのが阪本順治監督だった。主演は、阪本作品ではおなじみの佐藤浩市である。彼は自衛官で、三島事件の直後に長官室に入ろうとするところから映画は始まるのだが、その彼が金大中拉致事件に関わっていく。これは、事件の裏側を明確に描き出し、ゾクゾクさせる作品になっていた。金大中が韓国に連れ戻される船の甲板で射殺されそうになり、そのときヘリコプターの爆音を聞くのだが、それによって射殺を免れる。これは、アメリカ軍のヘリではなかったかと想像させるのだ。つまり、韓国政府に対して「金大中を殺すな」とアメリカが介入したと思わせるのである。もちろん、真相は不明だ。しかし、朝鮮半島は、今も政治的陰謀に充ちているのかもしれない。

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