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2017年4月

2017年4月27日 (木)

■映画と夜と音楽と…770 世界は欠けがえのないものばかりか?



【世界から猫が消えたなら/メトロポリス/道】

●利根川の二匹の猫と遊ぶのが散歩の途中の日課になった

四月中旬から再び、四国の実家の裏の一軒家で生活している。一日の生活サイクルは、自宅にいるときとほとんど変わらない。早朝に目が覚めるものだから、六時頃には散歩に出る。七時過ぎに戻り、掃除と洗濯をし、シャワーを浴びてから朝食を作る。十時くらいになると実家に顔を出し、両親が飼っている猫と遊ぶ。二ヶ月ほど離れていたので忘れられたかと思ったが、警戒心が強い猫なのに僕の顔を見ても逃げなかった。頭から首をなでると、ゴロゴロとのどを鳴らす。無愛想ではあるが、とりあえず喜んでいるらしい。子猫の頃はかわいかったのに、成長するに従って顔が黒くなり、今では姪に「盗人顔」などと言われている。もう十年近く実家で暮らしている。

自宅にいるときには、一年半ほど前に娘が拾ってきた猫をかまうのだが、この猫は体に触られたり抱かれたりするのが嫌いで、抱き上げようとすると怒って牙をむく。ときにはひっかく。四国で数ヶ月過ごして帰ると僕のことはすっかり忘れていて、最初は警戒して逃げた。数日して慣れると、以前のように餌をねだって僕の足に頭突きをするようになった。早朝だと家族はみんな寝ているので、たったひとり起きている僕に「ゴハン、ほしい」と意思表示するしかないのだ。鶏のささみをゆでて細かくほぐした餌(これを作るのも僕の役目だった)を皿に載せてやると、しばらく眺めた後、がつがつと食べ始める。

ただ、我が家の猫は食事には恵まれているせいか、きちんと全部を平らげない。いつも少し残す。「ぜいたくだなあ、利根川の猫たちは、いつだって全部きれいに平らげるよ」と猫に言い聞かせ、残ったささみをラップに包みポケットに入れる。以前に書いたことがあるが、利根川のほとりの雑木林に捨て猫され、その横の畑の持ち主であるリリー・フランキーに似たおじさんが去年の七月から育てている三匹の猫に会うのが散歩のときの楽しみになった。ただ、一番体が小さかった子が昨年十二月の頭から見あたらないと思っていたら、暮れに「車にひかれて死んだのよ」と犬を散歩させていたおばあさんに教えられた。

以来、自宅にいるときは毎朝、利根川の二匹の猫と遊ぶのが散歩の途中の日課になった。しかし、一月に母親が入院したので一ヶ月半ほど四国で生活していたため、利根川の猫たちとは別れなければならなかった。人なつっこい猫たちで僕の姿を見つけると、遠くから走り寄ってくる。僕の足下にまとわりつき、僕を見上げてニャアニャアと鳴く。僕はひざまづき、猫たちをなでてやる。雄の三毛は僕の足の上に座り込み、気持ちよさそうに目を閉じる。犬のチンみたいな顔をした雌の猫は、僕の足の間をぐるぐるまわり、ときどきニャアと鳴いて膝に身をすりつける。猫たちとの蜜月、至福のときだった。

その猫たちと一月中旬から二月末まで別れていたのだけれど、自宅に戻った翌日、利根川へいってみると別れる前と同じように僕を見つけて走り寄ってきた。自宅の猫が僕のことを忘れ、警戒して逃げていったのとは正反対である。散歩から戻って、かみさんに「利根川の子たちは、前と同じように寄ってきて足にまとわりついたよ」と言うと、「誰にでもなついてんじゃないの」とにべもない。確かに人に慣れている猫たちで、何人かの人が餌を与えているらしい。しかし、僕が帰るときには、雌の猫はずっと追いかけてきて足にまとわりつく。彼女のテリトリーの境界なのか、道の分かれ目にくると前足をそろえた猫座りをして、ずっと僕を見送ってくれる。そんな姿を見ると、胸が痛くなった。

どうして、こんなに猫好きになったのだろう。四国でも朝の散歩の途中で猫を見かけると、立ち止まらずにいられない。飼い猫だろうか、野良だろうかと気になり、ちゃんと食べているのだろうかと心配になる。無責任な餌やりは迷惑だと言われているし、住宅地のことだから、ただ心配するだけだが、散歩を終えて帰ってきても見かけた猫の姿が浮かんでくる。さらに、利根川の猫たちは元気にしているだろうかと気になり始める。リリー・フランキー似のおじさんは、毎日、朝と夕方に餌をやっているはずなので、「心配しなくても大丈夫」と言い聞かせる。しかし、追いかけてきて寂しそうな目をして猫座りする姿を思い出し、一人暮らしのせいか、ひどく切なくなった。

●語り方がうまく過去のいきさつが謎解きのように描かれる

猫と映画が重要なモチーフになっている映画が「世界から猫が消えたなら」(2016年)だった。原作がベストセラーになっていたし、青年が脳腫瘍で余命幾ばくもないと宣告されて始まる物語だというので、あまり見る気にはなれなかったのだが、映画の評判は悪くないし、何しろ「猫と映画好き」の僕だから、これは一応見ておこうかと思った。それに、あまり大きな声では言いたくないが、僕は宮崎あおいが好きなのだ。すべてを見ているわけではないので断言はできないけれど、彼女が出た映画には基本的に駄作はない(と思う)。それに、「世界から猫が消えたなら」というタイトルは、当然、逆説的ニュアンスであろうと思われた。

明日、死ぬかもしれない主人公の設定はあまりに安易だし、手垢にまみれていると思うが、これはひとつの寓話(あるいは説教話)であり、リアリティを求める物語ではない。「ファウスト」の変形だと思えば、わかりやすいだろう。つまり、「明日死ぬとして、何かをこの世から消すことで一日生き延びられるとしたら、あなたはどうしますか?」という設問なのである。その語り方がうまく、過去のいきさつが謎解きのように描かれるため、「ああ、そうだったのか」という驚きと納得がある。使い古された設定も、表現や時制の描き方で新しく見せられる。

主人公(佐藤健)は郵便局に勤める青年だ。自転車に乗っているときに意識を失い、病院で診察を受け脳腫瘍の末期で手の施しようもないと宣言される。その日、部屋に帰ると自分と同じ姿の男がいて「悪魔」だと名乗る。「この世から何かをひとつなくせば、一日命が延びる」と悪魔は話し、「何をなくすかは私が決めるのだ」と宣言する。悪魔が最初になくそうとするのは電話だった。「最後に誰かに電話しなくてもいいのか」と、悪魔はささやく。そう言われて彼が電話をするシーンはないのだが、彼はかつての恋人(宮崎あおい)に電話をしたことが、次のシーンの会話でわかる。

彼は、古い映画館の前で立っている。映画館の中から宮崎あおいが現れるが、彼女は憮然とした表情でとまどいを見せている。その会話から、ふたりがかつては恋人同士だったが別れたのだとわかり、「最後に電話する相手がわたしなの?」と宮崎あおいは口にする。やがて、ふたりが知り合ったきっかけ、何度もデートしたときの回想などが描かれる。その途中、涙を流しながら何かを叫ぶ宮崎あおいのシーンがあり、それはふたりが別れることになったシーンなのだろうかと観客に思わせる。しかし、そのシーンの謎解きは、後半になって描かれる。それは観客の予想を裏切るものだったし、この映画のハイライトシーンでもある。こういう複線と謎解きがいくつもあるのだが、これは映画的手法なのだろうか。あるいは、原作もこのように展開されているのだろうか。

宮崎あおいは映画館に住んで働いているように、無類の映画好きという設定だ。ふたりが知り合ったのは、宮崎あおいが佐藤健の家に間違い電話をかけたとき、佐藤健がフリッツ・ラング監督のドイツ時代の代表作「メトロポリス」(1926年)を見ていて、宮崎あおいはその音楽を電話で漏れ聞き、「もしかして、今、フリッツ・ラングの『メトロポリス』見てますか?」と訊くのだ。おいおい、ちょっとやり過ぎじゃないか、と僕は思った。だいたい「メトロポリス」はマニアックすぎるだろう。しかし、この映画には、さらなるシネフィル(映画狂)が登場してきたのだった。

●「最後に見るべき一本の映画」とは何なのだろうか

悪魔は電話を消し、電話の消滅と共に電話にまつわる過去も消えてしまう。間違い電話で知り合ったふたりの過去も消えてしまうのだ。そして、次に悪魔は映画を消そうと言い出す。「映画なんて、この世になくてもいいものじゃないか」と悪魔は言う。もちろん、この世には様々な人がいて、一度も映画を見たことがない人に僕も会ったことがある。その人にとっては、この世から映画が消えても何の痛痒も感じないだろう。だが、主人公が大学時代に知り合ったタツヤ(ツタヤと呼ばれる)は徹底したシネフィルで、卒業した今はビデオ店の店長をやっている男だ。

大学時代、階段教室の隅で「キネマ旬報」を呼んでいるタツヤ(濱田岳)に「映画、好きなの?」と主人公は声をかけ、ふたりは親友になる。タツヤは主人公に次々と見るべき映画(DVD)を持ってくる。見終わった映画を返すと、「次はこれだ」とタツヤは学食のテーブルに「メトロポリス」を置く。ここで、なぜ主人公が(普通の人がほとんど見ないだろう)「メトロポリス」を見ていたかの謎が解ける(ホントに、こういう細かな複線と謎解きばかりだ)。タツヤというキャラクターなら、フリッツ・ラングの「メトロポリス」を出してきても納得できるのだ。

大学を出ても、ふたりのやりとりは続く。「映画は数え切れないほどある。だから、ぼくらのやりとりも永遠に続く」とタツヤは口にする。しかし、主人公が死ぬことを知ったタツヤは、「最後に見るべき一本の映画」を探せない。主人公が死んでいなくなることで、この世界は何か変わるのだろうか。電話や、映画や、猫がなくなることで、この世界は何か変わってしまうのだろうか。それが、この映画が設定した疑問なのだが、当然、それは「世界は、欠けがえのないもので出来ている」という結論へ向かう。電話も、映画も、猫も----消えてしまったら、この世界はまったく別の世界になってしまうのだから、何ひとつとして「消えていいもの」はないのだと----。

しかし、本当に「世界は欠けがえのないものばかりで出来上がっている」のだろうか。もしかしたら、「消えたっていいもの」はあるんじゃないか、とへそ曲がりの僕は考える。しかし、そう思ったとき、かつて十代の僕が感動した、あの言葉が浮かんできた。それは、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」(1954年)の中で、「聖なる愚者」であるジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)に向かって、綱渡り芸人(リチャード・ベースハート)が口にしたセリフだった。

----前に本で読んだが、どんなものでも何かの役に立っている。たとえば、この石だって。
----どの石?
----どれでもいい。何かの役に立っているんだ。
----何の?
----それは、僕に訊いてもダメだ。神様が知っている。人がいつ生まれ、いつ死ぬか。この石もきっと何かの役に立っている。無用のものなどない。君だって、君だってそうだ。

石ころだって何かの役に立っているのだ。まして、猫や映画は----。猫と映画がこの世界から消えてしまったら、僕はきっと生きていけないだろう。

2017年4月20日 (木)

■映画と夜と音楽と…769 55年後に出版された続篇


【アラバマ物語/カポーティ/25年目の弦楽四重奏】

●村上春樹さんはあの決めゼリフをどう訳したのか

先日、気になっていた二冊の翻訳本に目を通した。一冊は、うっかりして出ているのを知らなかった村上春樹さんが訳したレイモンド・チャンドラーの「プレイバック」である。昨年末に出版されたのを、数ヶ月たった今年の三月末に気づいたのだった。「プレイバック」と言えば、あの有名なフィリップ・マーロウの決めゼリフが出てくる小説だ。村上さんも巻末に書いているが、「僕がレイモンド・チャンドラーの『プレイバック』を訳しているというと、大抵の人は同じ質問をした」という。あのセリフをどう訳すか、そればかりを訊かれたらしい。

僕は、最初に読んだ清水俊二さんの訳文になれているから、ずっと「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」と記憶してきた。しかし、生島治郎さんは「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」と訳し、それを基にして角川映画「野性の証明」(1978年)だったと記憶しているけれど、「タフでなければ生きられない」とテレビスポットのキャッチコピーに使い手垢にまみれたフレーズになった。原文は「ハード」だから、それを「タフ」と訳すのはどんなものだろうと、僕は生島訳には違和感を感じてきた。

村上春樹さんは後書きで矢作俊彦翻訳バージョンまで引用し、「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きて行く気にもなれない」を紹介している。矢作さんは、原文の「ハード」と「ジェントル」を生かしたかったのだろう。以前にも書いたことがあるのだが、僕は小鷹信光さんがエッセイ集(確か「パパイラスの舟」)の中で紹介していた、小泉喜美子(生島治郎こと小泉太郎さんの元妻)さんが(戯れに)訳したというバージョンが気に入っている。少し違っているかもしれないが僕の記憶では、「情けをかけてちゃ生きていけねぇのよ。でもな、情けのひとつもかけられねぇようじゃ生きていく資格はねぇんだ」というものである。まるで、木枯らし紋次郎みたいではないか。

ちなみに村上春樹版「プレイバック」では、ベッドを共にした女性から「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」と言われ、マーロウは「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」と答えている。「ハード」を「厳しい心」と訳したのには、村上さんなりの思い入れがあるのだろう。ただし、このマーロウのセリフが有名なのは日本に限ったことらしく、「どうやら日本人の読者がこの『優しくなければ----』に夢中になっているほどには、英米人の一般読者や研究者はこの一言にとくに注目しているわけではないようだ」と村上さんは書いている。

ちなみに僕の「映画がなければ生きていけない」という本のタイトルだけど、最初の本(メルマガ編集部が出してくれた500部限定版)の巻頭に書いたように、このマーロウのセリフが基になっている。たぶん、誰も気づかないと思うけど、その巻頭のフレーズに僕はこう書いているのです。

  しっかりしていなければ 生きていけないし
  やさしくなれなければ 生きていく資格はないけれど
  やっぱり----映画がなければ生きてこれなかった

●まさかアティカス・フィンチが白人優位主義者だったとは!!

気になっていたもう一冊の本は、ハーパー・リーの「見張りを立てよ」だった。アメリカで出版されたというニュースを読んだのは、二年ほど前のことだ。「アラバマ物語」の主人公の弁護士アティカス・フィンチが、実は人種差別主義者だったというニュースが流れ、「うそだああああああああああああああ-------」と僕は思ったものだ。そのニュースから一年足らず、今度は作者のハーパー・リーの訃報が流れた。ハーパー・リーは「風と共に去りぬ」のマーガレット・ミッチェルと同じく、一作めが圧倒的な大成功をおさめたことで二作めが書けなかった女性作家である。ふたりとも南部出身で、南部の物語を書いたのも共通している。

マーガレット・ミッチェルの場合は、「風と共に去りぬ」が全世界で売れたため、その著作権の管理やマネージメントに追われて次作が書けなかったと伝えられているのだが、ネル・ハーパー・リーはまだ三十代前半だったときに出した「アラバマ物語」がいきなりベストセラーになり、アメリカで最も知られているピューリッツァ賞までとったものだから、それを超える作品を書こうとして悪戦苦闘したのかもしれない。「アラバマ物語」は日本では「暮らしの手帖」社が出版し、半世紀を経た今も版を重ねている。ペーパーバック・サイズの日本版の表紙は、映画のスカウトの写真が印刷されている。

もう十数年前のことになったけれど、アメリカの映画協会が「映画史上のヒーロー・ベスト100」を選んだことがある。僕は、日本で放映されたそのテレビ番組を見たことがある。そのとき、ランボーやスーパーマン、インディ・ジョーンズなど並いるヒーローたちを抑えて一位になったのは、「アティカス・フィンチ」だった。アティカス・フィンチが一位に選ばれたことで「アメリカ人も棄てたもんじゃないな」と僕は口にしたが、本当のところは「アティカスを一位に選ぶなんて、アメリカの観客は素晴らしいじゃないか」と思っていた。

ハリウッド映画で僕が最も好意を抱いている(?)のは、「アラバマ物語」だ。大根役者と言われたグレゴリー・ペックが、僕は昔から好きだった。「子鹿物語」(1946年)と「ローマの休日」(1953年)と「アラバマ物語」(1962年)は、十代の頃から何度も見返してきた。ペックは「アラバマ物語」でようやくアカデミー主演男優賞を受賞し、今ではハリウッド史上の名優のひとりとされている。キャリアは五十年以上に及び多くの作品に出演したが、「ローマの休日」と「アラバマ物語」は不滅の名作として映画史上に燦然と輝いている。

「アラバマ物語」でペックが演じたのが、一九三〇年代の南部アラバマ州の田舎町の弁護士アティカス・フィンチだった。当時、南部でも特にミシシッピやアラバマは人種差別がひどく、黒人をリンチで殺しても犯人の白人は無罪になるというような時代だった。そんな頃、アティカス・フィンチは、白人女性をレイプした罪で逮捕された黒人青年の弁護を引き受けることになる。白人(プア・ホワイト)の農夫に「ニガー・ラバー(黒人びいきめ)」と唾を吐きかけられても、毅然として己の信念をまっとうする姿は「映画史上一位のヒーロー」である資格は充分だった。

しかし、「アラバマ物語」の出版から五十五年後に刊行された続編では、そのアティカス・フィンチが白人優位の考えを持つ人種差別主義者だという。「そんなバカな」と僕は思い、翻訳が出るのを待っていた。それは、「プレイバック」と同じく早川書房から昨年末に「さあ、見張りを立てよ」というタイトルで出版されたのだった。しかし、僕はカバーの袖に書かれた内容紹介の「しかし、故郷で日々を過ごすうちに、ジーン・ルイーズは、公民権運動に揺れる南部の闇と愛する家族の苦い真実を知るのだった」という文章につまずき、結局、数ヶ月の逡巡の末、ようやく読む気になったのである。

●キャサリン・キーナーが演じたネル・ハーパー・リー

「アラバマ物語」から二十年後の一九五六年、スカウト(ジーン・ルイーズ・フィンチ)は二十六歳になりニューヨークで一人暮らしをしている。毎年、二週間の休暇を取り帰省しているが、今年は幼なじみの恋人ヘンリーが出迎えてくれた。ヘンリーはアティカスが息子のように面倒を見た青年で、今は若手弁護士となりアティカスの跡を継ぐ存在だ。アティカスは七十を過ぎ関節炎を患っているが、まだ弁護士を続けている。南部アラバマ州の田舎町メイコムでも黒人の人権意識が高まり、人種隔離政策に対して黒人たちの抗議の声が挙がり始めている。

メイコムに帰省して数日後、スカウトは父アティカスと恋人ヘンリーがある集会に参加しているのを目撃する。それを見たスカウトは吐き気を催し、実際に吐いてしまう。スカウトにとってはそれほどの衝撃なのだが、それは「アラバマ物語」を深く愛してきた僕にとっても同じほどの衝撃だった。スカウトは心から愛し尊敬してきたアティカスに裏切られたと絶望し、二度と故郷に戻らないつもりでニューヨークに帰ろうとする。しかし、叔父の説得によって父と対決することを決意する。アティカスは、一体どんな言葉で娘の批判に応えるのだろう。

翻訳者の後書きによると、「この小説は『アラバマ物語』の続篇として構想されたのではなく、『アラバマ物語』を推敲していく過程で放棄した原稿をまとめたもの」という。その原稿が半世紀ぶりに発見され、刊行されたのだ。「アラバマ物語」はスカウトことジーン・ルイーズが六歳の頃のアラバマ州メイコムでの出来事を回想する形式になっていたが、最初は一九五六年の時点から二十年前を思い出す構成になっていたのだろう。結局、ハーパー・リーは「アラバマ物語」一作だけで、その後、新しい作品は書けなかったということらしい。その一作だけで名声が確立し、経済的にも成功してしまったのが、作家としては不幸だったのかもしれない。

「アラバマ物語」のスカウトは作者自身であり、作中に出てくる近眼でチビの友だちディルはトルーマン・カポーティがモデルであるのは有名だ。つまり、ハーパー・リーとカポーティは幼なじみなのである。そして、ハーパー・リーは生涯を通じてカポーティの友人だった。カポーティが代表作「冷血」を書いた時期を映画化した「カポーティ」(2005年)では、フィリップ・シーモア・ホフマン演じるカポーティは何かとハーパー・リーに電話をする。創作について、あるいは人間関係の悩みについて、カポーティは「ネル」と呼んで彼女を頼るのだ。カポーティには男性のパートナーがいて彼も作家なのだが、異性の幼なじみであるハーパー・リーには何でも言える関係だったらしい。

「カポーティ」でハーパー・リーを演じたのは、キャサリン・キーナーだった。素敵な、味のある大人の女優である。「カポーティ」ではアカデミー主演男優賞にフィリップ・シーモア・ホフマンがノミネートされ受賞したが、受賞はしなかったものの助演女優賞にキャサリン・キーナーもノミネートされた。キャサリン・キーナーとフィリップ・シーモア・ホフマンの相性はよいらしく、「25年目の弦楽四重奏」(2012年)ではヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者という音楽家同士の夫婦を演じた。ベートーヴェンの弦楽四重奏が素晴らしいうえに、今は亡きフィリップ・シーモア・ホフマンとキャサリン・キーナーが印象深い演技を見せる。

2017年4月13日 (木)

■映画と夜と音楽と…768 なりたいものになれたか?

【海よりもまだ深く】

●樹木希林のセリフが身にしみて浮かび上がってきた

昨年の四月六日、昭和史を題材にした僕の「キャパの遺言」という応募作が、乱歩賞の最終候補の四編に残ったという電話を講談社の担当者からもらった。結局、最終選考では落ちてしまい乱歩賞作家になり損なったわけだけれど、落ちた後、大沢在昌さんのオフィスにメールでそのことを報告しておいた。乱歩賞に応募するきっかけが、大沢さんとの十年前の対談だったからだ。大沢さんからは「候補になっているのは知っていました。期待していたのですが、残念です」と返信をもらった。大沢さんには「最終に残ったので、これで応募はやめようと思います。始めるのが遅かったかもしれません」とメールした。

しかし、その後、ある構想が浮かび、また選考委員たちの選評に反論したい気分もあって、改めて昭和史(終戦史)を題材にした作品を仕上げ、リベンジのつもりで今年も乱歩賞に応募した。昨年の「キャパの遺言」の選評では、湊かなえさんには「物語が書きたいのではなく、世の中を批判したいだけではないか」と書かれ、今野敏さんには「事実に即した物語を書きたいのならノンフィクションを書くべきだし、政治的な思想を述べたいのなら論文を書くべきだ」と書かれた。しかし、今回も終戦の三日間の史実を基にしたフィクションである。ただ、前作と違い、批判すべき対象として実在した人物(と思われる登場人物)を取り上げてはいない。

この九年間で、乱歩賞には六回応募した。最初に出したら二次選考を通過し二十数編の中に残り、翌年も二次選考を通過した。しかし、三年めは一次選考通過に終わった(これらの三作は加筆訂正し、現在は電子書籍でキンドルなどに出ている)。その二年後に四度めの挑戦をしたが、これも一次選考通過で「小説現代」に作品名と作者名が載っただけだった。勤めを完全にリタイアし、じっくりと仕上げた五作めが昨年の候補作になった「キャパの遺言」だ。乱歩賞は受賞者たちでも数度の応募は当たり前で、多い人は十作めの応募で受賞ということもあったという。一次通過が二度、二次通過が二度、五度めで最終候補というのは、いい方だとも言われた。しかし、乱歩賞も新人賞である。六十半ばの人間が応募するのは気が引けたし、年齢的なハンデも感じていた。選考委員は、みんな(推理作家協会理事長の今野さんでさえ)年下なのである。

今年の三次選考(四、五編の最終候補に絞られる)が行われるという四月初旬、電話はなかった。中間発表は四月下旬発売の「小説現代」に載るのだが、僕の応募作は最終候補には残らなかったということだ。初めての応募で二次選考を通過したときには喜んだものだが、その翌年は二次通過では満足できず、昨年は最終候補までいったので、今年は候補作に残らなかったことでひどく落胆した。「ラ・ラ・ランド」(2016年)の中で、女優志願(小説家志願より多そうだ)のエマ・ストーンは、オーディションを何度も落ち続けて屈辱を味わい、「私は、もう充分傷ついた」と涙を流した。あの気持ちが、よくわかる。

二十代後半から三十代にかけて僕は純文学を志し、八十枚ほどの短編を「文学界」や「群像」の新人賞に応募していた。しかし、一次選考を通り作品名と作者名が掲載されるのがせいぜいだった。文学界新人賞の七十篇ほどに残り、そのときの受賞作が芥川賞候補になったことから「芥川賞候補まで七十分の一だった」などとわけの分からないことを言っていた。村上春樹さんが受賞した「群像」新人賞にも、同じ頃に応募していた。文学好きの友人から「今度の群像新人賞の受賞作は、絶対に読め」と言われたのが「風の歌を聴け」だった。あの頃からカウントすると、この四十年間で僕は十数回、新人賞に落ち続けてきたことになる。もう充分に傷ついた。

映画コラムを書き続けて五冊の本になった。最初の本では、内藤陳さんに「読まずに死ねるか」と言ってもらえたうえに賞もいただいた。しかし、僕は今も小説を出版したいという「夢」を棄てられないようだ。若い頃、酔いつぶれては「叶わない夢なら、夢など持ちたくなかった」とつぶやき、すねたように「夢はいらない花ならば、花は散ろうし夢も散る」と「東京流れ者」の一節を帰宅する夜道で口ずさんだものだ。しかし、今年、乱歩賞の候補に残れなかったことを知った夜、僕の頭に浮かんできたのは是枝監督の「海よりもまだ深く」(2016年)の樹木希林の言葉だった。売れない小説家(阿部寛)の母親(樹木希林)は、台風の夜、眠れないまま息子と会話し、こんなことを口にする。

----いつまでも失くしたものを追いかけたり、叶えられない夢を追いかけても、毎日、つまらないでしょう。幸せっていうものは、何かをあきらめなけりゃ手に入らないのよ。

●ダメな男の情けなさを阿部寛が演じた

篠田良多(阿部寛)は二十代で島尾敏雄賞(シブイ!!)を受賞して「無人の食卓」という作品集を出版したが、その後は鳴かずとばずの売れない中年の作家だ。喰えないから、今は探偵事務所の調査員をやっている。それでも出版社との縁は切れておらず、昔なじみの編集者から「マンガの原作をやってみませんか」と誘いを受けるが、純文学作家としてのプライドから見栄を張り「今、仕上げを急いでいる作品がありまして。聞いていませんか。××さんから」といかにも嘘くさい言い方で、文芸担当編集者の名前を挙げる。文芸からマンガ担当に移ったらしい編集者は、「それだったら、僕もそっち読みたいなあ」と作家の顔をたてる。しかし、マンガ編集者は、良多がギャンブルに詳しいから原作の話を提案したのだ。良多は生活能力はないくせに、無類のギャンブル好きなのである。

良多は賃貸の団地に住む母親の留守に部屋に入り、金目のものはないかと物色するような男だし、父親の形見分けと称して質草になりそうなものを手に入れようとする男である。あちこちに借金があり、小説の取材と称して勤めている探偵事務所の仕事でも、夫から妻の浮気調査を依頼されたにもかかわらず、浮気の証拠写真をその妻に売って金を自分の懐に入れるような男だ。偽の報告書を作ることなど、何の痛痒も感じていない。おまけに、その金を競輪につぎ込みスッてしまう。そんなことだから、妻(真木よう子)には愛想を尽かされて離婚になり、ひとり息子にも月に一度しか会えない。その妻に新しい恋人ができると、ストーカーのように尾行し、年下の同僚に未練たらたらに「もう、したかな」などと口にする。最低のダメ男だ。

ここまでダメな息子でも、母親にはかわいい子供である。夫には苦労させられたが、息子には「お金、困ってるの?」と気を遣う。息子が珍しく一万円を「小遣いだよ」と言ってくれたときには、娘(良多の姉)に電話して喜びを伝える。息子が高校生のときに鉢に植えたオレンジの木を、ベランダで大事に育てている。何十年も暮らした公団住宅らしき賃貸の団地から分譲の方に移りたいのが望みだが、夫と死に別れてセイセイしたのか、毎日を楽しみながら暮らしている。彼女にとっては、今が最も楽しく幸せなのかもしれない。分譲に住むクラシック通のインテリ(橋爪功)の部屋で開かれる週に一度の鑑賞会に出て、先生の関心を惹こうと課題曲の背景などを事前に調べる。年金暮らしで、とりあえず満足している。だから、息子が小説というものに囚われ、離婚し、フラフラと暮らしているのを見て前述のような言葉を口にする。

そのくせ照れてなのか、「私、今、すごーくいいこと言ったでしょ。今度のあんたの小説に書いてもいいわよ。メモしなさい」と言う。良多は憮然と「憶えたよ」と答える。良多は、探偵事務所の仕事で会った浮気妻が口にした印象的な言葉を手帳にメモし、安アパートの机の前の壁に貼ったりしている。いつか小説に使うつもりなのだ。壁には多くのメモがあり、様々なフレーズが書かれている。僕も同じようなことをしているからわかるが、そんなメモから文章の構想が湧いたりする。それを母親も知っているのだろう。息子に「もう夢を棄てて、地道に生きてもいいんじゃないか」という意味のことを言いながら、息子が小説を書く役に立てばうれしいという気持ちも彼女にはあるのだ。

●完全に自己を肯定できる人はどれほど存在するのだろう

「海よりもまだ深く」のキーワードは、「こんなはずじゃなかった」と「なりたいものになれた?」だろう。良多は家庭教師とラブホテルに入る写真をネタに男子高校生を強請り、「あんたみたいな大人にだけはなりたくない」と言われると、「なりたい大人になんか、簡単にはなれねぇぞ」とムキになって言い返す。また、台風の夜、ふたりで籠った公園の遊具の中で息子に「パパは、なりたいものになれた?」と問われ、「パパはまだなれていないけど、そういう想いを抱いて生きることが大事なんだ」と、まるで説得力のない答えをする。本当にそうなんだろうか。母親の言うように「失ったものを追いかけたり、叶わぬ夢を追い続けたりせず、そんなものをあきらめて」楽しく幸せに生きるべきなのではないのか。

「海よりもまだ深く」の人物で見るなら、別れた妻の新しい相手(小沢征悦)が主人公とは正反対の存在として登場する。彼は年収が一千五百万あるらしく、自分に満足して生きている人間なのだろう。自分の生き方に迷いなど抱いていないように見える。彼は樹木希林が言うような「叶えられない夢などさっさと棄てて、現実の仕事に精を出し裕福な生活を送っている」人間なのかもしれない。その結果、楽しく幸せな生活を送り、新しい美人の恋人を得たし、その相手の子供にも実の父親のように接することができる。そんな人生に満足すれば、幸せに生きていけるのだ。彼は、良多の小説を読んでも「何だかよくわからなかった。時間の無駄?」と口にする。生きていくうえで小説など必要としない人種なのである。

しかし、「なりたいものになれた」と、完全に自己を肯定できる人はどれほど存在するのだろう。夢を実現し、「私が望んだものに私はなれた」と幸福感を感じている人はどれほどいるのだろうか。あるいは、「こんなはずじゃなかった」と一度も思わない人はいるのだろうか。人は誰でも「こんなはずじゃなかった」と悔やみ、昔夢見た「なりたいもの」になれなかったと、慚愧の念に耐えながら生きていくものではないのだろうか。だから、夢をあきらめられない人間は不幸だ。叶わぬ夢を、見果てぬ夢を、見続けるから彼は常に満足できない。幸せだと実感できない。「まだ、なりたいものになれていない」と、夢が彼を駆り立てる。「なりたいものになれていない自分」を責める。なりたいものになれないことで傷つき、落胆する。失意に沈む。「こんなはずじゃなかった」と悔いる。

こんなことを書くと、もちろん「おまえはどうなんだ?」と、僕自身に向かっても矢が飛んでくる。開き直るようだけれど、僕が夢をあきらめられる人間だったら、毎週、こんな文章を書いてはいない。夢を棄て、失ったものを忘れ、樹木希林のように気楽な年金生活を送っているだろう。それができないから、僕にやすらぎはやってこないのだ。幸せだと実感することがない。こうなったら、死ぬまで「なりたいものになる夢」を、あきらめきれぬとあきらめるしかないのだろう。やれやれ。

2017年4月 6日 (木)

■映画と夜と音楽と…767 完璧なボディと言われた女優



【女ガンマン 皆殺しのメロディ/殺人者にラブ・ソングを】

●四十二年前に当時千六百円もするハードカバーを買った

「ハニー・コールダー」(1971年)という映画のことを知ったのは、四十二年前のことだった。先日、WOWOWで「女ガンマン 皆殺しのメロディ」というミもフタもないタイトルで放映され、ようやく念願が叶い見ることができた。「発掘良品」という企画で、斎藤工と大友啓史監督が映画の前後に対談をする。やはり、若い世代だから、時代的なことについてはちょっとトンチンカンなコメントもあった。時代の空気感を伝えるのはむずかしい。この映画はクエンティン・タランティーノ監督が「キル・ビル」を作るときに影響を受けたと言っていて、そのため今回の企画で発掘されたらしい。

「ハニー・コールダー」は劇場公開はなく、一度テレビ放映(もしかしたらテレビ東京の昼間?)があったらしい。何年か前、「女ガンマン 皆殺しのメロディ」というタイトルでDVDが出ているのを知ったけれど、わざわざ買う必要もないと思っていた。ただし、一度は見ておきたかったのだ。四十二年前の三月十一日に僕は小林信彦さんの「われわれはなぜ映画館にいるのか」という晶文社(数年前、キネマ旬報社から復刊された)から出ていたA5判の本を買った。その頃の僕は本の見返しに購入した日付を記入し、「S.SOGO」と署名していたのだ。その習慣は社会人になって、ある程度自由に本が買えるようになってなくなったが、一九七五年三月十一日、僕はまだ卒業式を二週間後に控えていた。

その年、入社が決まっていた出版社から「卒業試験が終わったらきてくれないか」と言われ、当時の僕は断れるわけもなく二月十二日から出社していた。三月十一日は、ちょうど一ヶ月働いたところだった。初めての給与をもらって二週間ほど経っていたので、少し気が大きくなっていたのだろうか。僕は、当時千六百円もするハードカバーを買ったのである。あの頃、犀のマークの晶文社からは欲しい本がいっぱい出ていたが、どれも高くて古本屋でしか手が出なかったものだ。「われわれはなぜ映画館にいるのか」の奥付を見ると、初版は一九七五年二月二十五日になっている。方南町駅前の書店で新刊を見つけて、すぐに買ったのだと思う。

その本を僕は隅から隅まで読み、後に何度か確認のために読み返した部分も多い。鈴木清順、ハンフリー・ボガート、ジョン・フォード、マルクス兄弟、ビリイ・ワイルダー、ドン・シーゲルなどを取り上げた「架空シネマテーク」というコラムが冒頭に配置されていた。キネマ旬報に連載されたコラムである。このコラムを読んでいた時点で、僕はボギーの「ハイ・シェラ」(1941年)もドン・シーゲルの「突破口」(1973年)も見ていなかった。このコラムを読んで、ぜひ見たいと熱望したが、当時は簡単に旧作が見られる時代ではなかった。

そのコラムの一本に「B級娯楽映画を観るたのしみ 『ハニー・コールダー』その他その他」という回があった。その中にA5サイズ一ページを使って、ハニー・コールダーに扮するラクェル・ウェルチの写真が掲載されていた。全裸にポンチョをかぶった姿で、彼女は西部の街角に銃を構えて立っている。素肌にガンベルトをつけ、早く抜くためにポンチョを左手で開いている。そのためボディの右側は足の先から太股、腰、脇腹までが見えていた。左足も太股から腰の下まで露出し、股間をポンチョの先が隠しているだけだ。完璧なボディと言われたラクェル・ウェルチである。その写真は、二十二歳の僕の記憶に深く深く刻み込まれたのだった。

●リタ・ヘイワースのポスターがラクェル・ウェルチに変わる

「ショーシャンクの空に」(1994年)が好きな映画ファンは多い。僕も好きである。あの映画の原作はスティーヴン・キングの「恐怖の四季」という中編四編が入った本の中の一編「刑務所のリタ・ヘイワース」だ。「ショーシャンクの空に」の中でも囚人たちがリタ・ヘイワースの代表作「ギルダ」(1946年)を見るシーンがある。もちろん、ギルダが「ミー?」と言いながら髪を振って登場するあの有名なシーンである。主人公(ティム・ロビンス)は語り手の調達屋(モーガン・フリーマン)にリタ・ヘイワースのポスターの入手を頼む。そのポスターは、ずっと主人公の独房の壁に貼られている。

しかし、主人公は長く服役することになり、その長い年月をリタ・ヘイワースのポスターが、ラクェル・ウェルチの「恐竜100万年」(1966年)のポスターに変わることで表現した。四〇年代のセックス・シンボルが六〇年代の「完璧なボディを持つ女優」に交代し、二十年近くが経ったのだとわかるようになっている。当時、ラクェル・ウェルチのライバルは、「007 ドクターノオ」(1962年)のアーシュラ・アンドレス(後にウルスラ・アンドレスと表記されるようになった)だった。アーシュラ・アンドレスは、若きショーン・コネリーの横でビキニ姿の腰にナイフを下げて花を添えた。新しいセクシー女優たちが次々に登場していた。

僕が初めてラクェル・ウェルチを見たのは、「ミクロの決死圏」(1966年)だった。体の線を際だたせる潜水服姿(血管の中を泳ぐためだ)で男性客の目を楽しませた。続けて公開になったのが、毛皮で作ったビキニを身につけた姿で出てきた「恐竜100万年」である。昔のハリウッドの冒険映画には、こんなお色気担当の女優がいた。今、こんな役を作ったら女優たちから総スカンを食らうだろう。時代性を物語るのは、フットボール選手から俳優になった黒人のジム・ブラウンとラクェル・ウェルチが共演した「100挺のライフル」(1968年)のときのエピソードだ。ジム・ブラウンと肌を合わせるシーンがあり、ふたりの間にはカメラに写らないようにバスタオルが挟まれたという。

そういう意味では、ラクェル・ウェルチが完全な主演映画というと、「空から赤いバラ」(1967年)と「ハニー・コールダー」くらいしかないのではないだろうか。「女ガンマン 皆殺しのメロディ」というタイトルに変わった「ハニー・コールダー」は、修業して女ガンマンになったラクェル・ウェルチの復讐劇なのである。それを小林信彦さんは、「西ベルリンのクーダム通りに面した大きな劇場」で見たという。ドイツ語に吹き替えられており、「私には会話などまるで分からないのだが、そこは西部劇の有難さで、筋だけは」わかったらしい。監督は、当時、西部劇をたくさん作っていたバート・ケネディだった。

●全裸に毛布一枚をポンチョにしてかぶり荒野をさまよう

冒頭、三人の悪党(アーネスト・ボーグナイン、ストローザー・マーティン、ジャック・イーラム)が荒っぽく銀行を襲う。彼らは平気で銀行員たちを射殺し、非道な悪党であることが強調される。追われた三人は牧場を見つけ、代わりの馬を盗もうとして牧場主に阻止されるが、悪党の一人が牧場主を撃ち殺す。彼が家に入ると美しい若妻ハニー・コールダー(ラクェル・ウェルチ)がいる。三人は代わる代わるハニーを犯す。五十年近く昔の映画だから今から見るとおとなしい描写だが、当時はけっこう刺激的だったろうと思う。日活ロマンポルノが始まったのが一九七一年で、この映画と同じ年である。今見ると、ロマンポルノだっておとなしいものだ。

牧場の馬は放たれ、家は焼かれ、犯されたハニーは全裸に毛布一枚をポンチョにしてかぶり荒野をさまよう。そこに現れるのが、馬に死体を乗せた賞金稼ぎのガンマンだ。扮するのは、ロバート・カルプ。ビル・コスビーとコンビを組んだテレビシリーズ「アイ・スパイ」(1965~1968年)の主演俳優である。プロテニス選手として世界をまわりながらスパイとして活躍する物語だった。僕は彼が「ハニー・コールダー」の翌年に出演した「殺人者にラブ・ソングを」(1972年)が忘れられない。ロバート・カルプとビル・コスビーが、うらぶれた二人組の私立探偵に扮した隠れた名作である。脚本を書いたのがウォルター・ヒルで、これがデビューだったらしい。ロバート・カルプ自身が監督した。

さて、「女ガンマン 皆殺しのメロディ」のロバート・カルプは顔の下半分は髭もじゃでメガネをかけて登場するので、「アイ・スパイ」のイメージとはまったく異なる。メガネを外し、遠くを見つめるように目を細めたシーンで、「ああ、ロバート・カルプだ」と僕は納得した。この賞金稼ぎについて小林信彦さんは、「いい役者である。役もいい。『緋牡丹博徒』の健さんか、文太の役である」と書いている。ハニーはロバート・カルプに射撃を習うことになるのだが、このシーンが映画の中では一番よかった。もっとも「彼女が拳銃を抜くたびに、ポンチョがあおられて、脇腹が見えるのが、彼女のファンを楽しませる」(小林信彦)仕掛けにもなっている。

そんなわけで、「ハニー・コールダー」について書かれた小林信彦さんの文章と、全裸にポンチョとガンベルトというインパクトのある写真のおかげで、若き僕は「ぜひ見たい」と熱望したのだった。同じ頃、「野良猫ロック セックス・ハンター」(1970年)の魔子役を見て以来、僕が熱烈なファンになった梶芽衣子は「さそり」シリーズを終え、「修羅雪姫」(1973年)「修羅雪姫 怨み恋歌」(1974年)に出演していた。同じような映画体験をしたであろうクエンティン・タランティーノは、「修羅雪姫」や「ハニー・コールダー」をベースに、戦う女の復讐劇「キル・ビル」(ヒロインとオーレン・イシイとの日本刀での対決シーンには梶芽衣子が唄う「修羅雪姫」のテーマ曲が流れる)を作る。こうして、物語は引き継がれていくのだ。

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