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2017年6月

2017年6月29日 (木)

■映画と夜と音楽と…778 もう一度見たい半世紀前の映画



【恋するガリア/女王陛下のダイナマイト】

●アマゾンでは「恋するガリア」の中古CDに一万の値がついていた

四国にいる間、ほとんど実家の裏の一軒家周辺で過ごしている。朝の散歩、買い物、実家へ両親の様子を見にいくといった日常である。実家では、猫のタマともしばらく遊ぶ。車を運転するのは、両親を乗せてスーパーへいったり、病院へいったり、補聴器の店にいったりするくらいだ。朝の散歩では、まず神社にお参りし、出会う猫たちに挨拶する。運動不足にならないように一時間近く歩いているし、自分ひとりの買い物は歩いていっている。こちらの人たちはほとんど車か自転車なので、歩いている僕は目立って仕方がない。先日も琴平電鉄のターミナル駅である瓦町まで歩いたが、五十分足らずの間、ほとんど歩いている人に出会わなかった。

毎日、家の周辺だけで暮らしているのだけれど、二週間に一度ほど街中に出る。高校時代からの友人と瓦町駅で待ち合わせ、飲みにいくのだ。彼は関西の大学を出て故郷に戻り、役所を勤めあげてから再就職し、六十五歳で完全にリタイアした。僕と違って、今は孫の世話で忙しい。その彼に連れていってもらったのが、田町商店街にあるMという店だった。中古レコード、CD、VHS、DVDを売っているのだが、食事もできるし、夜はショットでウィスキーも飲める。最初に連れていってもらったとき、「役所の先輩が退職してやっている」ということだった。

店内は古いLPレコードのジャケットが飾られていたり、映画スターのサイン入りポートレートが壁に掛かっていたりする。アン・マーグレットのサイン入りポートレートは、僕もほしくなってしまった。飾られたLPレコードのジャケットで目立つのは、若きシルヴィー・ヴァルタンである。そのジャケットを見たとき、僕は友人に「ウルトラマンのバルタン星人は、シルヴィー・ヴァルタンからきているの、知ってたかい」と思わず言ってしまった。店で掛かっている音楽はジャズかポピュラーで、女性ヴォーカルが割に多いが、一度、クリフ・リチャードが掛かっていたことがある。

入口横のカウンターには音楽雑誌や映画雑誌の新刊も置いてあり、「キネマ旬報」も揃っている。レコードやCDが多いのだが、一面の壁は映画ソフトの棚になっている。ただし、VHSテープがほとんどで、テープの間にDVDソフトが少し並んでいるくらいだ。ちょっとほしくなる作品が多く、僕がLDで持っていた「愛を弾く女」(1992年)もあった。プレイヤーが壊れてLDを処分してしまったので、「愛を弾く女」は今は見られない。ただし、こちらではVHSの再生機を持っていないので、買っても自宅へ送って見なければならない。

先日、その棚でサミュエル・フラー監督の「拾った女」(1953年)のDVDを見つけた。昔に見てはいるのだが、リチャード・ウィドマークのファンであるので持っていたいと思った。しかし、根がケチなので千五百円が高いと感じてしまう。以前、その店で一枚五百円のクラシック作品を五枚ほどまとめ買いしたが、同じクラシック・シリーズなのに「拾った女」は入手しづらいので高いのだろう。そう思って棚を見ていたら「恋するガリア」(1965年)のDVDがあった。テーブルに戻り、友人のスマホでアマゾンで検索してもらうと、中古DVDに一万円を超える値が付いていた。ケチな僕は決心し、「恋するガリア」を買った。三千円だった。

●映画がファッションや音楽の情報源だった時代があった

「恋するガリア」は公開される前から、映画雑誌で主演のミレーユ・ダルクのファッションやヘアースタイルなどが話題になっていた。六〇年代半ばの話である。まだ、映画がファッションなどの情報源として成立していたのだ。特に海外の情報収集には、まだまだ映画が役立った。ビートルズだって、地方の若者は「ビートルズがやってくる/ヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1963年)や「HELP! 四人はアイドル」(1965年)が公開されたことでファンになった人間も多い。その映画で初めて、演奏するビートルズを見たのだ。当時、音楽もファッションも流行の中心はイギリスだった。ミリタリールック、モッズルックも、みんな映画で流行した。だから、映画雑誌が映画の中のファッションを特集することもあったのだ。

ミレーユ・ダルクは「恋するガリア」によって、一躍、フランスの若手トップ女優になった。ブリジット・バルドーやミレーヌ・ドモンジョ(タイムボカンのドロンジョ様は彼女の名からきているらしい)のような肉感的グラマー女優ではなく、痩せて男の子のような体つきで、オールヌード(背中側からだけど)を披露しても、あまりセクシーではなかった。後半では胸も見せちゃうのだが、ほんとに小さくて、僕は十代半ばで性欲の絶頂期にあったくせにまったく興奮しなかった。ブラジャーがいらないんじゃないか、と思った(映画の中で彼女はノーブラを通す)。もっとも、僕はスレンダーガール(死語か)が好きだったから、ミレーユ・ダルクは好みだった。スカートではなく、パンツ・スタイルがよく似合った。

「恋するガリア」の監督は、ジョルジュ・ロートネル。この作品以降、ミレーユ・ダルクを使い続けた。ミレーユ・ダルクは六〇年代末からナタリー・ドロン(「サムライ」に出演している)と別れたアラン・ドロンと同棲し始めるが、ふたりが共演した「愛人関係」(1973年)と「チェイサー」(1978年)はジョルジュ・ロートネルが監督した。ちなみに、フランス文学者の鹿島茂さんのエッセイによれば、「マディソン群の橋」は世界的ベストセラーになり、フランスでは劇化されたという。主演は、年を重ねたドロンとミレーユ・ダルク。劇中、ミレーユ・ダルクがドレスをパッと脱ぎ、ライブでオールヌードになる場面があり、変わらぬ美しさに劇場中がどよめいたとあった。

ちなみに、僕が見た最新のミレーユ・ダルクは、アラン・ドロンが久し振りに出たフランスのテレビドラマ「刑事フランク・リーヴァ」(2003~2004年制作)だ。ドロンはマフィアに潜入して壊滅させた刑事で、報復を逃れて長くフランスを離れていた設定だった。旧友の警視に乞われて数十年ぶりにパリ警察に復帰し、再びマフィアと対決する。ミレーユ・ダルクは、フランク・リーヴァの昔の恋人という実人生と重なる役だった。その時点で、一九三五年生まれのドロンは六十八歳、一九三八年生まれのミレーユ・ダルクは六十五歳だった。しかし、ふたりとも、とてもそんな年には見えなかった。

ミレーユ・ダルクには、変わった出演作がある。ジャン=リュック・ゴダール監督の「ウィークエンド」(1967年)だ。日本公開は一九六九年の秋だったが、僕は翌年に新宿紀ノ国屋ホールで見た。週末に郊外へ向かう車の渋滞が延々と続くのを移動撮影しているシーンをよく憶えているが、細かいところは忘れてしまった。アンナ・カリーナを失ったゴダールは、この作品ではミレーユ・ダルクを起用した。やがてゴダールはアンヌ・ヴィアゼムスキー(ノーベル賞作家フランソワ・モーリアックの孫ですね)という新しいミューズを得て、「中国女」(1967年)を制作する。やっぱり、ミレーユ・ダルクはジョルジュ・ロートネル監督にとってのミューズだったのだろう。

●「冒険者たち」と並ぶリノ・ヴァンチュラの代表作

ジョルジュ・ロートネル監督は、「恋するガリア」でミレーユ・ダルクを人気女優にし、翌年には「太陽のサレーヌ」(1966年)で再びミレーユ・ダルクをヒロインにして撮っているが、同じ年に「女王陛下のダイナマイト」(1966年)を作った。主演は、リノ・ヴァンチュラである。相棒役は、僕の好きなミッシェル・コンスタンタンだ。このふたりを見れば、誰だってフレンチ・ノアールだと思う。鶴田浩二と高倉健が出ていれば、やくざ映画と思うのと同じだ。しかし、これは犯罪コメディというジャンルになるだろう。痛快なアクションが続く徹底した男性映画であり、その中に紅一点的にミレーユ・ダルクも出ていた。

僕が「女王陛下のダイナマイト」を見たのは五十年前のことだけれど、「とにかく、面白かった」という記憶が今も強く残っている。ラストシーンも鮮やかだ。リノ・ヴァンチュラは、この作品の後に「冒険者たち」(1967年)に出演した。彼の絶頂期の一本である。邦題は日本の映画会社が勝手につけたもので、当時、イギリスのものは何かと「女王陛下の××」と言われた。有名なのは、「女王陛下の007」である。ビートルズもレコードが売れて外貨をいっぱい稼いだから、女王陛下から勲章をもらい「女王陛下のビートルズ」になった。

この映画では、リノ・ヴァンチュラは足を洗った元ギャングで、昔の仲間に逃亡資金を貸したことから金塊強奪計画に巻き込まれ、イギリスのギャング団と戦わなければならないはめに陥る。フランスの元ギャング対女王陛下のギャング団なのだ。ミレーユ・ダルクは、リノ・ヴァンチュラの仲間の元奥さんとして登場した。それも、ずいぶん経ってから出てくるのだ。イギリス・ギャング団に追われたヴァンチュラたちは、彼女のところに逃げ込む。ミレーユ・ダルクはボーイッシュで、アクションもこなしたと思う。

おかしいのは、イギリスのギャング団がモッズ・ルックで、ビートルズや当時のロック・グループを連想させるスタイルなのだ。当時、流行した帽子をかぶっていたし、細身でくるぶしが見える短いパンツ・スタイルである。彼らは、何でもかんでもダイナマイトで破壊する。見どころは、彼らに追い詰められたリノ・ヴァンチュラたちの反撃である。「冒険者たち」では、最後にドイツ軍が残した手榴弾をギャングたちに投げつけたヴァンチュラだが、ここではダイナマイトに火を点けて投げる。

ということで、邦題が「女王陛下のダイナマイト」というふざけたものになったわけだが、とぼけた邦題が示すようにコミカルな要素も多い。それと、犯罪ものとしてのシリアスさと、アクションシーンがほどよくシェイクされ、極上のカクテルができあがった感じだった。こういう、シャレたギャング映画はなかなかない。僕には一度だけ見て、もう一度見たいと切望する作品が何本もあるけれど、「女王陛下のダイナマイト」はそのトップにあげてもいい。今もDVDは出ていない。「恋するガリア」も十数年前に出たDVDが中古市場で流れているだけらしいが、「女王陛下のダイナマイト」をどこか出してくれないかな。

2017年6月22日 (木)

■映画と夜と音楽と…777 「非情のライセンス」を作詞した監督



【キイハンター/Gメン75/組織暴力/新幹線大爆破】

●「非情のライセンス」が一日中テレビから流れた日

六月十六日は、一日中「キイハンター」のテーマ曲「非情のライセンス」が流れた日だった。僕は、この歌を歌詞カードなしで歌える。「あーあ、あの日愛して燃えて~」と聴くと、千葉真一の顔が浮かんでくる。実は、ときどきユーチューブで聴いていた。この後に「Gメン75」のラスト・クレジットでしまざき由理が歌う「面影」を聴く。

「キイハンター」(1968年4月~)はヒットして五年も続いたが、その後は「アイフル大作戦」(1973年4月~)「バーディ大作戦」(1974年4月~)が一年ずつ放映され、「Gメン75」(1975年5月~)が再び何年も続く人気番組になった。東映が制作したアクションドラマ・シリーズである。監督は深作欣二、佐藤純彌が主に担当した。同時期、深作欣二は代表作「仁義なき戦い」(1973年)を撮り、佐藤純彌は「新幹線大爆破」(1975年)を撮っていた。

「キイハンター」のメインキャストでは丹波哲郎、千葉真一、野際陽子、谷隼人、大川栄子という名前が浮かんでくる。番組がきっかけで千葉真一と野際陽子が結婚し、後に谷隼人と松岡きっこが結婚した。野際陽子は、倉本聰の脚本で放映中の「やすらぎの郷」に出演していたので元気なのだと思っていたが、数年前からガンを患っていたという。

野際陽子の葬儀が六月十五日に行われ、その翌日は各局のニュース番組やワイドショーは長い時間を割いて報道したが、ある局は谷隼人をゲストで呼んでいて久しぶりに彼の顔を見た。残念なのは、松岡きっこが出てこなかったことである。もっとも、谷隼人と松岡きっこが結婚するきっかけになったのは、「バーディ大作戦」だったと思う。

「キイハンター」のメンバーの中でマスコット的存在として出演していたのは、僕が好きだった大川栄子である。好きだったわりには、僕は大川栄子が出ている映画としては工藤栄一監督の「十一人の侍」(1967年)しか思い浮かばない。密命をおびた主人公(夏八木勲)は偽装して脱藩しなくてはならず、愛妻(宮園純子)を置いて若い武家娘(大川栄子)と駆け落ちしたことにする。

夏八木と大川栄子は江戸へ出てふたりで長屋住まいをしているが、そこへ愛妻が訪ねてくる。そのときの大川栄子が好きだった。去年、たまたま「徹子の部屋」に大川栄子と河原崎健三が出演していて、初めて河原崎健三と結婚していたのを知った。大川栄子は年を重ねていたが、昔と変わらない清楚さだった。「キイハンター」の頃は、アイドル女優的な人気があった。

さて、野際陽子はテレビの人である。亡くなって出演作を調べてみたが、代表作はテレビドラマばかりである。公開予定の遺作「いつまた、君と」が久しぶりの出演作ではないだろうか。僕が初めて彼女を見たのは、「赤いダイヤ」というテレビドラマだった。女優に転身して、すぐの出演である。主人公が慕い続けるマドンナ的な役だった。「赤いダイヤ」とは小豆のことだ。先物取引、つまり小豆の相場を張る相場師が主人公だった。

原作は、当時のベストセラー作家の梶山季之。主演は大辻司郎(二代目)だった。なぜ「二代目」がついているかというと、父親も大辻司郎という名で活躍した役者だったからだ。放映はもっと長かったと思っていたけれど、一九六三年九月からの三ヶ月だった。僕は小学生で、父と一緒に見ていた。ちなみに野際陽子の実質的な女優デビューは、テレビドラマ化された「悲の器」だったという。文芸賞を受賞した高橋和己の小説だ。僕の青春時代の必読書だった。

●「非情のライセンス」や「面影」を作詞した映画監督

「キイハンター」のテーマ曲「非情のライセンス」も「Gメン75」のラストに歌われた「面影」や「追想」も、作詞を担当したのは佐藤純彌である。一時期、東映大泉撮影所の若手監督として深作欣二と佐藤純彌は並び称せられていた。監督第一作は「陸軍残虐物語」(1963年)だが、その後も深作欣二が監督した「狼と豚と人間」(1964年)の脚本を共同で担当している。

深作より二歳年下で、千葉真一主演「風来坊探偵 赤い谷間の惨劇」(1961年)で監督デビューした深作から、きっちり二年遅れて監督デビューした。ちなみに深作欣二は、監督デビューした年に「風来坊探偵」シリーズなど五本も監督している。千葉真一主演で四本、丹波哲郎主演が一本ある。彼らは、深作組の俳優だった。

当時、東映は観客をさらに取り込もうと第二東映を立ち上げ、制作本数を一挙に増やさなければ系列館に上映作品を配給できない状態だった。二本立てで週替わり。月に何本の作品を供給しなければならないのか。監督になったばかりの深作欣二は、一時間程度の併映作品とはいえフルに働かされていたのだろう。

日体大を出てテレビ「七色仮面」の二代目の主演でデビューし、続く「アラーの使者」の主演で人気者になったが、本編では新人俳優に過ぎなかった千葉真一の主演だった。つまり、B級扱いである。しかし、それだから自由に撮れたのかもしれない。「風来坊探偵 赤い谷間の惨劇」は、当時、好評を博した。僕は、小学校の四年生だったけれど、予告編を見たことを今も鮮明に憶えている。

深作欣二が注目されたのは、六作目の社会派ドラマ「誇り高き挑戦」(1962年)だ。鶴田浩二と丹波哲郎が主要キャストだった。深作欣二、佐藤純彌、丹波哲郎、千葉真一などは、若い頃から「同じ釜の飯を喰った仲間」だったのだ。丹波哲郎は若い頃(彼にも若い頃があったというのが、何となくおかしい)から大物ぶりを発揮して、ほとんどセリフを覚えず(脚本を読まず)に現場に入ったという。

現場では、そこら辺中にセリフを書いたカンニングペーパーを貼り、それを見ながら演技するものだから「自然と芝居が大きくなった」と、テレビのトーク番組で深作欣二が語ったことがある。丹波哲郎は深作の言葉を聞いて、豪快に笑っていた。ある俳優はテレビのトーク番組で「丹波さんに現場で『ここは、どういう場面なんだ』と聞かれ、脚本の大筋を話すと『そうか、そういう話だったのか』とうなずいた」と話していた。

佐藤純彌は、六〇年代後半に「組織暴力」(1967年)シリーズをヒットさせ、深作欣二と並び、東映大泉撮影所の主要監督になった。「組織暴力」も丹波哲郎、千葉真一などが主要キャストを担っている。その頃に、テレビシリーズ「キイハンター」をスタートさせるのだが、それが五年も続く番組になるとは思っていなかっただろう。

今のテレビ界では考えられないが、「キイハンター」は全部で二百六十二話あるそうだ。工藤栄一監督も担当し、脚本には後に「金八先生」で当てる小山内美江子も参加している。ちなみに、小山内美江子の息子の利重剛は高校生の頃、初期のぴあフィルムフェスティバルに八ミリ作品が入賞したのがきっかけだったのか、岡本喜八監督作品「近頃なぜかチャールストン」(1981年)に主演した。

●六〇年代に東映大泉撮影所を担った監督や俳優たち

「キイハンター」を思い出すと、深作欣二監督や佐藤純彌監督や彼らと縁の深かった役者たちを思い浮かべる。その佐藤純彌は、高倉健の最高傑作(と僕が思う、という但し書き付きだが)を撮った監督である。高倉健の東映専属時代の最後の作品「新幹線大爆破」は、演技者・高倉健の最高傑作だと僕は思っている。フリーになった第一作「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年)も佐藤純彌監督である。

高倉健は、佐藤純彌監督を信頼していたのだろう。中国で大ヒットした「君よ憤怒の河を渉れ」には、何度見ても涙ぐむシーンがある。気取ったしゃべり方の中野良子が今でも好きなのは、この映画のヒロインを演じた彼女が素晴らしいからだ。それは中国人も同じらしく、今も彼女は向こうでは大女優である。

その後の角川映画「人間の証明」(1978年)「野性の証明」(1978年)も佐藤純彌が監督をした。「人間の証明」にはがっかりしたが、「野性の証明」は高倉健が出てくると、さすがに締まる。ヒロインを中野良子が演じたのは、「君よ憤怒の河を渉れ」で高倉健が彼女を気に入ったからだろうか。

しかし、その後、佐藤純彌監督は「未完の対局」(1982年)や「敦煌」(1988年)などの中国と合作の大作ばかり撮るようになった。二十一世紀になってからは、テレビの仕事以外には「男たちの大和/YAMATO」(2005年)や「桜田門外ノ変」(2010年)がある。どちらも、それなりに面白く見たが、若き佐藤純彌監督の鋭さはなくなっていた。

二十一世になってからの佐藤純彌監督の仕事で僕の印象に残っているのは、WOWOWドラマ「イヴの贈り物」(2007年)である。原作は白川道の短編小説。主演は舘ひろしだった。若きヒロインはNHKの朝のドラマの主演をやる前の貫地谷しほりだった。「スウィングガールズ」(2004年)に出ていたのは知っていたが、僕はこのドラマで顔と名前が一致した。

ドラマの音楽を担当した宇崎竜童も出演していた。石倉三郎も印象的な役だった。苦界に堕ちた若い女性を中年男が救うという古くさい物語なのだが、ハードボイルドな雰囲気が好きだった。舘ひろしも抑えた演技で、いつもと違って渋かった。監督名がクレジットされたとき、僕は「佐藤純彌だあ」と叫んだものだ。「キイハンター」以来、佐藤純彌監督はテレビでもよい仕事を残している。

2017年6月15日 (木)

■映画と夜と音楽と…776 やっぱり海が好き



【虎鮫島脱獄/パピヨン】

●海から五キロ近く離れているのに海抜四メートル?

先日、散歩をしていて大通りのガードレールに「海抜四メートル」という表示板を見つけた。市か県が設置したものらしい。僕が今住んでいる場所は、海まで四キロから五キロはあるだろう。歩いて一時間くらいはかかる。一度、川に沿って海まで散歩しようと歩いてみたが、「あそこまでいけば海が見えるな」という場所で挫折した。すでに、片道四十分は歩いていたからだ。「あそこまていって帰ったら二時間近くになる」と、帰りの距離を思って心が挫けた。しかし、それだけ離れているのに、海抜が四メートルしかないのか、と少し驚いた。

十数年前だろうか、高潮と台風が一緒になったとき、高松市の海辺がかなり浸水した。僕が子供の頃に高い塀の周りを自転車で走って遊んだ高松刑務所(松島大学と呼んでいた)は、海からけっこう離れているのに、そのあたりまで水に浸かったという。友人の自宅も床上浸水になった。高松市は讃岐平野にあるのだけれど、相当に平らな陸地らしい。確かに、子供の頃から坂にはなじみがなかったから、東京に出たときは坂道が多いのに驚いたものだ。近くのため池の数メートルある土手に登ると、高松の港に建つビルがよく見えるし、その向こうの瀬戸内海の島も見える。やっぱり海が近いのだと実感する。

子供の頃は、自転車でよく海にいった。夜中に起きて友だちと自転車を走らせ、源平合戦で有名な屋島の壇ノ浦近くの海辺で投げ釣りをやったりもした。高校は高松港まで歩ける場所だったので、感傷的な気分になると港へいき、赤灯台を眺めて自己憐憫に浸ったりした。霧の深い夜など、霧笛がボーッと聞こえてくる。

夏の海水浴には、塩屋や松原が続く津田などにいったものだ。小学校の臨海学校は塩屋の浜が多かった。高松港から船で二十分の女木島では、よくキャンプをした。そう言えば、今はすっかり「アートの島」になった直島には、小学六年の臨海学校でいったことがある。島の小学校の教室にクラス全員で泊まった。その頃、精錬所のあった直島は「禿げ山の島」だった。

村上春樹さんの「海辺のカフカ」で、カフカが家を出ていきつく場所が高松だった。カフカ少年は、高松駅の近くで讃岐うどんを食べる。その後、海辺の奇妙な図書館が出てくるが、その場所を僕は津田の松原を思い浮かべながら読んだ。高松という地名は出てきたが、その他の場所は具体的には書かれていない。村上さんの頭の中で作られた場所だろうし、実際の場所を思い浮かべながら書いたとしても現実の場所ではない。

しかし、土地勘のある僕は、読んでいるとどうしても具体的な場所のイメージが浮かんでくる。「海辺のカフカ」には、高松市内の神社が出てくる。その神社は、岩清尾八幡宮のような気がした。栗林公園の近くにある大きな神社だ。「八幡さん」と呼ばれていた。「八幡さんのお祭り」には、子供の頃によくいったものだった。

●僕が偏愛する映画は海に関連するものばかり

先日、何回目になるかわからないが、「冒険者たち」(1967年)をまた見ていた。プロジェクターで左右二メートルほどの大きさに上映すると、なかなか雰囲気がいい。「冒険者たち」を見ていて、僕がこの映画を偏愛する理由のひとつに「海」があるのだと思った。映画として大好きなのだが、十六歳の僕がこの映画を宝物のように思うようになったファクターのひとつには、間違いなく「海」がある。明るいコンゴの海、そして、あの要塞島が浮かぶ海がなければ、「冒険者たち」は成立しない。

ラストシーンでは、要塞島に打ち寄せる波の音しか聞こえない。ひとり生き残ったローラン(リノ・ヴァンチュラ)を捉えたカメラはぐんぐん上昇し、海面にポツンと小さくなった要塞島があり、クレジットタイトルが海面に重なる。フランソワ・ド・ルーベのテーマ曲が静かに流れ始める(アラン・ドロンの「愛しのレティシア」が重なるバージョンは、リバイバル上映になったときのものだ)。

海が出てくる映画は無尽にある。アラン・ドロンで思い浮かべても「太陽がいっぱい」(1960年)があり、荒れた海のシーンから始まる「リスボン特急」(1972年)がある。「冒険者たち」のリノ・ヴァンチュラで思い出すと、ロベルト・アンリコ(ロベール・アンリコ)監督と組んだ「ラムの大通り」(1971年)が浮かんでくる。

夏休みが長いフランスでは、「夏のバカンスもの」という映画ジャンルがあり、「青い麦」(1953年)「ひと夏の情事」(1959年)「赤と青のブルース」(1960年)などを思いだす。フランス映画ではないけれど(ドイツ人がアメリカ人とイギリス人とフランス人を使って監督した)、南仏とパリが舞台の「悲しみよこんにちは」(1957年)も同じジャンルだ。エリック・ロメール監督にも「海辺のポーリーヌ」(1983年)を始め何本もある。

海辺のシーンが出てくるだけで、僕は心が静かになる。落ち着く。癒される。あんな海辺を歩いてみたいと思う。ちょっと思い浮かべると、「いそしぎ」(1965年)のタイトルバックのシーン、「ジュリア」(1977年)でリリアン・ヘルマン(ジェーン・フォンダ)とダシール・ハメット(ジェーソン・ロバーズ)が夜の浜辺で語り合うシーン、「男と女」(1966年)のドーヴィルの海岸を犬を連れた老人が夕日を浴びて散歩しているシーンなどだ。北野武の海のシーンも印象的だった。「あの夏、いちばん静かな海。」(1991年)や「ソナチネ」(1993年)「HANA-BI」(1997年)の海の美しさが忘れられない。

「冒険者たち」にオマージュを捧げているとしか思えない、リュック・ベッソン監督の「グレート・ブルー(グラン・ブルー)」(1988年)も海の映画だった。素潜りの名人たちの映画だから海ばかりが出てくるのは当たり前なのだけど、オープニングシーンから海面を疾走するカメラに興奮したものだ。ジャン・レノもあの映画で初めて見たのだった。ヒロインのロザンナ・アークェットも人気が出たが、最近は「6才のボクが、大人になるまで」(2014年)でアカデミー助演女優賞を受賞した妹のパトリシアの方が知られているかもしれない。

●海で隔絶された孤島は絶好の刑務所になる

改めて考えてみると、僕が偏愛する映画は海に関連がある。「ビッグ・ウェンズデー」(1978年)はサーフィンの映画だから全編ほとんど海だし、「めぐりあい」(1968年)では岩場に寝そべる酒井和歌子の白い水着姿が脳裏に焼き付いている。「おもいでの夏」(1970年)は、ひと夏を島で過ごす少年の物語だ(これはハリウッド映画で「夏のバカンスもの」のジャンルに入るだろうが、僕としては「少年の初体験もの」ジャンルに分類したい)。もちろん、海がまったく出てこない作品でも好きなものは多いし、感銘を受けたり、忘れられない作品はあるが、何度も見たくなる偏愛する映画には海が出てくるものが多い。

明るいイメージがある海だが、海の中に孤絶する島は絶好の刑務所になる。昔から海で囲まれた島は、罪人たちを収容する場所としても使われてきた。オーストラリアはイギリスの罪人が送られる地の果てだったし、フランスには「悪魔島」があった。フランスやイギリスは、たくさんの植民地を持っていたからだ。日本でも、昔から「島流し」の刑罰があった。ナポレオンも島に流されたが、崇徳上皇も讃岐に流され、俊寛は鬼界島に流された。世阿彌は佐渡に流され、木枯らし紋次郎は八丈島に流された。八丈島の罪人たちは赦免になるのを待ちわび、赦免花が咲けば御赦免船がくると喜んだ(と笹沢佐保さんは書いていた)。

監獄島を舞台にした映画には、古いところでジョン・フォード監督の「虎鮫島脱獄」(1936年)がある。この作品では海は脱獄を不可能にしている難関なので、海の美しさというものは描かれない。荒れる海、禍々しい海がモノクロームで捉えられ、主人公にとっては絶望を感じさせるものになっている。物語はリンカーン大統領暗殺から始まり、犯人の怪我を治療した医師が共犯に問われる。大統領暗殺で殺気立つ大衆を鎮めるために、裁判で有罪になった医師は重罪の囚人を収容する虎鮫島に送られる。そこから脱出できるかどうか。後半のサスペンスは、さすがにジョン・フォードだ。

「虎鮫島脱獄」も実話ベースらしいが、「パピヨン」(1973年)はフランス人の元脱獄囚が書いた体験談が世界的ベストセラーになり、映画化権をハリウッドが獲得し、スティーブ・マックィーンが主人公パピヨン(胸に蝶〈パピヨン〉の刺青をしていることからの通り名だ)を演じた。彼は無実の罪でフランス領にある「悪魔島」に送られる。送られる船中で知り合うのが経済詐欺犯のルイ・ドガ(ダスティン・ホフマン)である。

大学生で初めて見たとき、経済詐欺でフランス中の人間に憎まれているという設定がよくわからなかったが、十年ほど前、日本でも投資詐欺で捕まった投資コンサルタント会社の社長がいた。彼のところに莫大な資金を預けて、運用を依頼していた企業年金基金が破綻する事態になった。その結果、企業年金基金が解散になったり、大きく法制度が変更された。その社長は、企業年金を頼りにしていた多くのサラリーマンの憎しみを買った。彼らの老後を不安に陥れたからだ。ルイ・ドガは、そんな経済詐欺を働いたのだろう。

いつ殺されるかわからないルイ・ドガをパピヨンが守り、資金力のあるルイ・ドガがパピヨンをバックアップするという契約が成立し、ふたりはコンビになり十数年の年月の間に深い友情が生まれる。そして、ラストシーン、年老いたふたりが断崖絶壁に立つ。何度も脱獄を試みたパピヨンは、あきらめない。その断崖絶壁から青い南の海に飛び込む。しかし、ルイ・ドガはついに飛び込めない。

陽光にあふれた南洋の美しい紺碧の海が、ふたりの前に違う姿を表す。パピヨンにとって、その海は自由に続いているものだ。ルイ・ドガにとっては、死への入り口に見えたのかもしれない。海は天候によってまったく違う顔を見せるが、立ち向かう人間の内面によっても違う顔に見えるのかもしれない。もっとも、波の穏やかな瀬戸内の海を見て育った僕は、荒れた海に慣れていない。あくまで、海は美しいものだと体に沁み込んでいる。

2017年6月 8日 (木)

■映画と夜と音楽と…775 死は自分で選べるか?



【君がくれたグッドライフ/或る終焉】

●日本では十代から四十代まで死因のトップが自殺

「生まれたときは別々でも、死ぬときは一緒だ」という決めゼリフは、昔の物語にはけっこう使われていた。やくざ映画なら主人公が殴り込みに向かう途中、「ご一緒させていただきます」と待っていた相棒の心意気を表すのにはぴったりのセリフだった。また、恋愛物の場合には、ふたりの強い絆を確認し愛を誓い合うといった場面で説得力があった。

男と男でも、男と女でも、一緒に死ぬというのは結びつきの強さを表したのだ。しかし、こういうセリフが陳腐になり、今は誰も使わない。「生まれたときは別々でも、死ぬときはバラバラだ」というギャグが流行ったこともあるけれど、元のセリフが一般的ではなくなってしまったので、ギャグとして成立しなくなった。

ところで、「生まれたときは別々でも、死ぬときは一緒だ」というセリフは、生まれるのは自分でコントロールできないけど、死は自分でコントロールできる(選べる、決められる)ことが前提になっている。「子供は親を選べない」と言われるように、「いつ」「どこに」「どんな親の元に」「どんな環境で」生まれるかは、自分の意志では決められない。それは、運不運が支配する運命の領域だ。

一方、死は自分で決めようと思えば決められないことはない。先日、日本人の自殺率についての記事が新聞に掲載されていたが、世界でもかなり高い自殺率らしい(ちなみに国別の順位を見ていて驚いたのは、リトアニア、ラトビアなどが上位にいたことだ。宗教観などによって国別の違いはあるかもしれないが、バルト三国はそんなに自殺したくなるような国なのか? ロシアに虐められすぎてきたからなのか?)。

日本では十代から四十代くらいまでは、死因のトップが自殺だという。キリスト教のように「自殺は罪」という観念がないから、日本では「自殺によって救いを求める」傾向が強いのかもしれない。死ぬことで「楽になる」という発想が日本にはある。「楽にしてやるぜ」と悪役が凄むのは「殺してやる」ことだし、断末魔に苦しむ患者を見て家族が「早く楽にしてやってください」と医者にすがるシーンも見かけることがある。とどめを刺すのは「楽にしてやる」慈悲の好意として受け取られる。

「死は楽になること」だから、自殺は「救い」になるのだ。だから、日本では「自死」「自殺」「自決」「自裁」といった様々な言葉が存在している。自殺を、責任をとる、自らを裁く、といった肯定的な意味合いで捉える言葉も存在する。死は自分で決められるから、このような言葉が日本には昔から存在したのだろう。

しかし、人は本当に自分で死を選べるのだろうか。最近、「尊厳死」という言葉が使われ始めている。しかし、「安楽死」という言い方が、「尊厳死」に変わったということではないらしい。医師が患者の意志を確認して自殺幇助をするのが安楽死(不治の病の患者に死に至る注射をするなど)で、延命治療をしないという消極的なのが尊厳死だと定義する人もいる。「尊厳死」という言葉には、最近の終末医療に対する批判が感じられる。いろんな管をつながれて無理矢理生かされるより、尊厳ある死を迎えたいということだろう。

「尊厳死」は認めるが、医師が積極的に自殺を幇助する「安楽死」は認めないという国は多い。医師が致死剤を投与して患者を死に至らしめても罪に問われない国は、オランダ、ベルギー、スイス、ルクセンブルクなどヨーロッパの国とアメリカのいくつかの州だけだ。僕は「人間としての尊厳を持って死ぬ」よりは、「安楽に」死にたいと思っているが、日本ではそれはかなわないことなのだろうか。苦痛と恐怖がなく、安らかに死んでいけたら文句はない。

●ベルギーへの自転車旅行には深刻な目的があった

昨年公開された二本の映画で、「安楽死」が描かれていた。一本はドイツ映画「君がくれたグッドライフ」(2014年)である。冒頭、何人かのエピソードが並行して描かれる。室内で自転車漕ぎをしているのはハンネスだ。妻のキキが心配そうに見つめている。女性と別れ話でもめている女たらしの男、性生活がうまくいっていない夫婦などが登場する。

やがて彼らが友人同士で、毎年、長期休暇をとって自転車旅行をしている仲間だとわかる。今年の目的地ベルギーを決めたのはハンネスで、「ベルギーには何もないじゃないか」と友人は文句を言っている。キャンプ用品などを積んで走り出すと、ハンネスの体調が悪そうだ。それをキキが心配そうに見ている。

一緒に旅行するメンバーには、ハンネスの弟もいる。実家の兄もいつもは参加しているのだが、今年は怪我で欠席である。そこで、仲間たちはハンネスの実家に寄る。ハンネスの実家でみんなでテーブルを囲んで食事をしているとき、ハンネスの母親がいきなり涙ぐむ。様子がおかしいので、一堂は不審に思う。キキがハンネスに目配せして、「みんなに話したら」と言う。

ハンネスが口を開き、自分がALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかっていることを告白する。ハンネスの父親も同じ病気で、体が動かなくなって長く寝たままになり死んでいった。ハンネスは、そんな風になって死ぬのを待つだけの人生はいやだという。みんな、ハンネスがベルギーを選んだ理由に気づく。すでに事前の検査や面接も終え、ベルギーに着けば安楽死できる手はずになっているのだ。

母親は「お父さんが寝たきりになっても、生きててくれれば私は幸せだった」とハンネスの決心を翻そうとし、弟は「なぜ事前に言ってくれなかったのだ」と怒り出す。仲間たちもハンネスの安楽死に向かってペダルを踏むことをためらう。しかし、翌朝、全員がハンネスと共に再び自転車で出立することを選ぶ。

そこから、ベルギーに到着するまでに様々なエピソードがあり、新しい人物が仲間に加わったりする。妻のキキも、とうとう本心を口にする。しかし、ハンネスの決意は固い。自分には少しずつ死に向かうだけの人生しか残っていないこと。やがて体が動かなくなり、惨めな思いをするのは父を見て知っている。体が動くうちに自分の意志で、自分の望む形で死を迎えたい、と思っている。

見ている方は、結末がどうなるのか予想がつかない。安楽死を中止すれば、徐々に衰えていく死を選んだことになるし、安楽死を決行すれば、三十半ばの人生に自分で幕を下ろすことになる。自分だったらどうするだろう、と答えを迫られる。僕は「安楽死を選ぶだろうな」と口にした。まったく直る望みはないし、すでに体の衰弱を自覚しているのだ。

ベルギーが近づくに従って、仲間たちの口は重くなり、陰鬱な雰囲気が漂い出す。ひとつの深刻な状態が周囲に波及し、仲間たちも今まで露わにしてこなかった問題に直面せざるをえなくなる。やがて、ベルギーに着き、ハンネスは医者を訪ねるが、医者は別に急病の患者が出て、決行は延期されることになる。さて、ハンネスはどうするのか?

「君がくれたグッドライフ」は邦題が的外れなのだが、シリアスなテーマをそれほど重くなく描き好感が持てる作品だった。ドイツ映画で俳優もまったくなじみがないため、テーマがよけい際立つ感じだった。これを顔なじみのハリウッド俳優が演じていたら、何となく嘘くささを感じたかもしれない。結末に僕は納得したが、一年後、再び自転車旅行するエピローグは必要ないと僕は思う。

人が死んでいくのを、これほどあっさりと描いた(現実がそうなのだろう)作品は知らない。死は自分で選べることを明確に描いた作品だった。死んでしまえば当人はいなくなり、残った人間たちは再び生きていかねばならない。そんなものだ。日本人でもベルギー(あるいはスイス)にいけば、安楽死できるのだろうか。不治の病といった明確で現実的な理由がなければ、ダメだろうか。芥川龍之介のように「漠然とした不安」では、理由にならないか。

●寡黙でストイックな描き方の映画の主人公もストイック

「或る終焉」(2015年)は、寡黙な映画だった。主演のティム・ロスのセリフも少ない。映画が始まって十五分くらいは、まったくセリフがない印象だ。会話も描写もストイックだし、主人公の生き方も極端にストイックだった。僕が好むタイプの映画である。僕は、間をおかずに二度見た。一度見ただけでは理解できなかったこともあるけれど、もう一度見たいと強く思わせる力が作品にあふれていたからだ。

何の予備知識もなく見たから、オープニングシーンで「サイコ映画」なのかと僕は思った。車のフロントガラス越しにある家が映る。車が二台駐車している。そのショットが長く続き、メインタイトルが出る。やがて家の中から若い女性が出てきて車に乗り込み走り出すと、こちらの車も動き出し跡を尾ける。しばらく尾行するショットが続き、いきなりネットで少女の写真を検索して見ている男のショットになる。どう考えても、サイコ映画じゃないか。

次はシャワールームで、やせ衰えた全裸の女性の体をティム・ロスが無言で洗っているシーンになる。やっぱり、これはサイコ映画ではないかと、その時点で僕はまだ思っていた。それに、ティム・ロスという俳優は、サイコ役にもピッタリだ。きっと、目をつけた若い女性の情報をネットで調べ、跡を尾け、拉致監禁し、飼育するのを快楽とするサイコに違いないと予想しながら僕は見続けた。

シャワールームから女性を抱えてベッドに横たえ、体を丁寧に拭き、簡単服を頭から着せかける。やせ衰えた女性は明らかに病身で、末期の患者のように見える。次のシーンは、彼女の妹一家らしき数人が彼女を見舞っている。少女がふたり、母親に言われて女性に別れを告げる。そのとき、ティム・ロスが「彼女、ちょっといいかな」と声をかけ、まるで看護士のように振る舞う。あれ、ちょっと違うぞ、とようやく僕は気づいた。

女性の葬儀らしいシーンになる。ティム・ロスが黒いスーツで出席している。あの女性とティム・ロスはどんな関係なのだろうと思っていたら、女性の姪だという若い女が声をかけてくる。そのやりとりで、ティム・ロスが看護士だとわかる。しかし、その夜、バーのカウンターでひとりで飲んでいたティム・ロスに隣のカップルが話しかけ、ティム・ロスは「最近、妻を亡くした」と答える。結婚していた年数を訊かれ、「二十一年」と言うのだ。やはり、変な男かなという気がしてくる。

彼が次に担当したのは脳梗塞で倒れた元建築士の老人だ。彼は建築士の仕事の話を聞き、書店で建築の本を書う。書店員に「建築家ですか」と問われて「イエス」と答え、患者の建築士が設計した個人の邸宅を「建築士の弟」と名乗って見せてもらいにいく。やっぱり、どこか変でミステリアスな主人公である。

彼の介護は献身的だ。患者からも信頼されている。しかし、あまりに患者に尽くすため、周囲の人間から不審な目を向けられる。建築士の娘や息子は「父親は彼に操られている」と言い出し、「セクハラで訴える」と彼の会社の上司に連絡する。患者とは会わないことを条件に訴訟はやめると言われるが、患者に会いにいき娘に冷たくあしらわれ、訴えられて職を失う。

そして、冒頭のシーンの続きのショットになる。若い女性の乗った車を尾行し、女性が降りた跡を尾けていき、彼女と並ぶ。そこから、意外な展開になる。主人公は寡黙でストイックで、ほとんど自分のことを話さず説明しない。映画も同じスタイルだ。寡黙でストイックな映像で、説明しない。だから、一度見ただけでは理解しづらい部分もある。観客が想像力をフルに働かせないといけない作品だ。

職を失ったティム・ロスが昔の事務所のボスに紹介されたのは、末期のガン患者だった。彼女は放射線療法を受けているが、副作用ばかり出てガンの進行は止まらない。彼女は治療を拒否し、死を迎えようとする。ティム・ロスの看護士はプロフェッショナルで、献身的で、死に対しても心を騒がせず(表面上はまったく変わらない)に立ち向かえる。患者たちは深く信頼し、彼に何でも打ち明け相談し、依頼する。そして、末期ガンの患者は、あることを彼に頼む----。

僕が神と仰ぐジャン=ピエール・メルヴィル監督の作品のように、映像は厳しく冷たくストイックで、セリフはほとんどなく、説明しない。会話の中で出てくる過去の出来事が、きちんと描写され、何があったのかわかるように説明されると思っていると、肩すかしをくわされる。わずかなセリフで、観客は想像しなくてはならない。ただし、必要最低限の情報は観客に示される。そして、唐突に終わる。人が死んでいくのを淡々と描き、見事な感銘を残す。しばらく、立ち上がれない。凄い映画を見た。

2017年6月 1日 (木)

■映画と夜と音楽と…774 ホントにやるの?



【華岡青州の妻/女体/肉体の門/愛のコリーダ】

●何十匹もの猫に「死んだふり」をさせるのは可能だろうか

その日は、猫たちの受難の日だったのかもしれない。このところ、早朝の散歩の途中で顔見知りになった黒猫がいる。まだ一歳にもなっていないのではないだろうか。僕はキキ(もちろん「魔女の宅急便」です)と名付けて、毎朝、挨拶をする。キキも僕を待っていてくれる。完全に気を許しているわけではないが、僕の姿が見えると近寄ってくる。その朝、僕が「猫通り」と名付けた道に近づくと、近所のおじいさんが家の周囲を掃除していた。

ちょうど僕が角を曲がり「猫通り」に入ったとき、おじいさんはキキに罵声を発して追い払うところだった。キキは、一瞬、僕の方を見てから反対側へ走っていった。何も追い払うことはないだろうとムッとしたが、近所の家にとっては猫の排泄物などの迷惑がかかっているのだろうと思い直した。僕はおじいさんに頭を下げて通り過ぎ、三十分ほど散歩をしてから再び「猫通り」に戻ってくると、キキがいた。「大変だな」と僕は声をかけた。

帰宅して洗濯をし、二階の物干場にあがったときだった。僕の家の裏は駐車場になっていて、広く見晴らしはよい。駐車場と道の境にふたりのおばさんがいて、何かしきりに叫んでいる。どうも、車の下に逃げ込んだ猫を散歩途中の犬が追っているらしい。ワンワンと吠える。「××ちゃん、ダメよ。ひっかかれるわよ」などと気楽におばさんは言っているが、特にリードを引く様子もない。

猫が車の下から走り出ると、犬が勢いよく追いかけた。何とリードをつけず、放して散歩させていたらしい。猫が必死で逃げるのを、短い足のくせに犬が追いかける。猫と犬は角を曲がって見えなくなったが、おばさんたちは急ぐ様子もなく犬を追った。「猫をいじめるんじゃない。犬はリードをつけて散歩させるべきじゃないのか」と、僕は物干場でつぶやいた。

そのとき、不意にある映画のワンシーンが思い浮かんだ。「華岡青州の妻」(1967年)という、当時、ベストセラーになった小説の映画化だった。原作者の有吉佐和子は出す本が次々とベストセラーになり、映画化が続いていた。アルツハイマーなんて病名すらなかった頃に老人問題を書いた「恍惚の人」、食物汚染をテーマにした「複合汚染」などである。「華岡青州の妻」は姑と嫁の確執を描き、話題になったベストセラーだった。

監督は増村保造、江戸期に麻酔薬を開発して名を残す華岡青州に市川雷蔵、その母に高峰秀子、その才色兼備の高峰秀子に幼い頃から憧れ、やがて彼女に望まれて華岡青州の妻になるのが若尾文子だった。医師の華岡青州は外科手術のための麻酔薬の研究に没頭するが、その試薬の人体実験に姑と嫁が競うように志願する。その嫁と姑の壮絶な戦いが話題になっていた。

僕が思い出したのは、華岡青州が弟子たちに命じて犬や猫をいっぱい集めてきて実験に使うエピソードである。毒性の強い植物から麻酔薬を作るために、薬を与えすぎると死んだり障害が出たりする。その適度な分量を、犬や猫を使って試すのである。そして、大量の犬や猫が死んでいく。特に猫が何匹も死んでいるシーンがあり、僕には本物の猫の死体に見えた。

何十匹もの猫に「死んだふり」をさせるのは可能だろうか。犬と違って猫に芸をさせるのは、難しいのではないか。特に何十匹もそろって「死んだふり」をしなければならない。しかし、その猫たちは本物としか見えなかった。もしかしたら、本当に殺したのだろうか。あるいは、保健所で殺処分された猫を大量に借りてきたのか。増村監督ならやりかねないぞ。そんなことを考えた。

華岡青州のふたりの妹は醜い肉腫ができて、苦しみながら死んでいく。姉に続いて、妹までもが同じ病になったとき、村の人々は「犬や猫を多く殺したから、その祟りにちがいない」とささやく。麻酔薬を飲まされ、狂って死んでいく猫もいたのだ。犬は祟らないかもしれないが、猫は祟るよなあ、と僕も映画を見ながら思ったものだった

●本当にやっていなくてもやっているように見える映画の方が好み

犬に追われて逃げる猫を目撃して、僕が「華岡青州の妻」を思い出したのは、「猫をいじめるな」と思ったからだろう。「華岡青州の妻」は映画としては増村作品らしく力強くおもしろいが、昔から僕はあの猫がいっぱい死んでいるシーンが気になっている。本物の猫に見えるし、本当に死んでいるように見えるからだ。映画では、ときどき動物の死骸が登場するシーンがある。おそらく作り物なのだろうけど、あまりによくできているので気になったりする。

映画は、本当に見える、本物に見えることをめざしてきた。リアリティの追求だ。見せ物的要素の強い映画は、サイレント時代から危険な撮影を行ってきた。バスター・キートンなど、アクロバティックなシーンばかりやっている。観客をハラハラさせる必要があるからだ。バスター・キートンは本人が危険な演技をやったけれど、スタントマンという職業は映画の登場と共にできたのだろう。危険なことを本当にやって撮影する。しかし、主演スターにはさせられないから、スタント専門の職種が生まれた。

しかし、映画のリアリティとは、一体何だろう。僕は本当にやっていなくても、やっているように見える映画の方が好みである。たとえば、ヒッチコック作品。巨大な自由の女神像の上での追っかけ、崖の大きな岩に彫刻された巨大な大統領の顔の上での格闘など、絶対に本当にはやっていないけど、ヒッチコックの絶妙な映像テクニックによって、ハラハラドキドキさせられる。有名な「サイコ」のシャワーシーンでも、細かなカット割りと編集で殺人シーンを構成し、ショックを与えた。

僕は古い人間だから、直接的な描写でリアルに感じさせるのは、あまり好きではない。そのせいか、五〇年代のハリウッド映画や日本映画を見ているのが好きだ。そこには直接的なセックスシーンも登場しないし、残酷でグロテスクな描写もない。ナイフで刺されて人が殺されるとしたら、それは壁に映る影で描写されたりする。しかし、様々なタブーは年月と共に消えていき、アメリカではポルノ解禁の影響か、ハリウッド映画のセックスシーンで男女が激しく動くという表現が登場するようになった。

暴力シーンもどんどんエスカレートするし、特殊技術もどんどん発展し、目を背けたくなるグロテスクな死体が登場したりする。最近は、デジタル技術と相まって、本物より本物らしく見えるのだが、僕はリアルであればあるほどしらけた気分になることもある。最近のハリウッド映画をあまり見なくなったのは、デジタル処理によるものばかりだからだ。ただし、SF映画はデジタル・テクノロジーのおかげで格段におもしろくなったし、哲学的なテーマが扱われるようになった。

●本当にやっているところを撮りたいという誘惑?

僕はリアルとリアリティは違うと思うのだけど、映画を創る人たちは、本当にやっているところを撮りたいという誘惑から逃れられないのだろうか。僕の好きな酒井和歌子主演作品「めぐりあい」(1968年)を撮った恩地日出夫という監督がいる。彼は監督になったばかりの頃、「女体」(1964年)という団令子主演の作品で、実際に牛を殺してしまった。原作は、何度も映画化された田村泰次郎の「肉体の門」である。

戦後、パンパンたちがルールを決めて焼け跡の建物で暮らしている。ヒロインはボルネオ・マヤ。そこへ復員兵が入り込んできて、彼をめぐり様々なトラブルが起きる。「肉体の門」で話題になったのは、「男と只では寝ない」という掟を破ったパンパンがリンチされるシーンや、復員兵が牛を殺すシーンなどだった。もちろん、牛を殺すのは食べるためである。恩地監督は、そのシーンで本当に牛を殺してしまったのだ。後に出版された恩地監督の著書「砧撮影所とぼくの青春」には、そのことが詳細に書かれている。

同じ年、日活も「肉体の門」(1964年)を野川由美子主演で映画化した。監督は鈴木清順。復員兵の役は宍戸錠だった。牛を殺す場面はあるけれど、もちろん殺したように見せているだけだ。それよりは、女たちの下着(スリップ)を赤、青、黄、緑などに色分けしたり、スタジオの背景を真っ赤にしたりといった清順美学の方が印象に残る。恩地監督の「女体」は記念すべき団令子主演で作品としてもよくできてはいたが、本当に牛を殺したことで恩地監督はしばらく仕事を干された。

そういえば、大島渚監督が「愛のコリーダ」(1976年)を創ると聞いたときも、本当にそこまでやる必要があるのだろうかと思った。愛人の局部を切って持ち歩いていた阿部貞事件の映画化で、主演の俳優たちに本当にセックスをさせると話題になっていたからだ。日本で撮影したが、本当のセックスシーンが映っているので現像はパリで行った(フランス資本が入っていた)。最近、聞いた話では主演女優が見つからなかったときには、監督の妻の小山明子がサダをやる覚悟だったという。結局、主演女優の松田某は消えてしまったし、相手役の藤竜也はこの作品の後、数年、仕事がこなかったという。

やっぱり、僕はリアルとリアリティは違うと思う。本当のこと、本物を撮るのはドキュメンタリー作品だ。フィクションなら、本当らしく見せればいいのだと思う。よく「迫真の演技」と言われるが、真実に迫る演技ではあるけれど、真実ではないのだ。そんなことは百も承知で観客は見ている。だから、役作りのために歯を抜いたとか、人を殴るシーンで思いっきり殴ったとか、三國連太郎を熱演の人のように持ち上げるのは、僕は違和感を感じてきた。昔の日活作品のように、殴り合いの真似をしているのが映像ではっきりわかるような映画の方が、僕はほのぼのとした気分になる。だから、動物を本当に殺したりしないでくださいね、特に、猫は----。

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