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2017年7月27日 (木)

■映画と夜と音楽と…782 落ちぶれる



【東京五人男/羅生門/七人の侍】

●黒澤作品のプロデューサーはなぜピンク映画の監督になったか

一年ほど前に出た本だが、先日『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎』を読んだ。著者は、鈴木義昭さんである。ピンク映画の世界に詳しく『ピンク映画水滸伝・その二十年史』などの著書もある。「竹中労、映画評論家の斎藤正治、白井佳夫らに師事」とプロフィール紹介にある。四十年以上前だが、僕は斎藤正治さんが司会をした「日活ニューアクション上映会」にいったことがある。その頃、白井さんは『キネマ旬報』編集長だった。竹中労は気鋭のルポライターで、ちょっと強面の評論家でもあった。その三人に師事できたのは、ちょっとうらやましい。鈴木さんは、僕より少し下の世代になる。

その本は「東京の京橋にあるその試写室のスクリーンに、女性の裸体が延々と映し出され、絡み合う男女の声が長時間に亘って聞こえたのは、異様なことだった」というフレーズから始まった。その日、ある監督のピンク映画が京橋のフィルムライブラリーでまとめて上映されたのだ。それぞれの作品の監督名は違ったが、すべて同一人物が監督したものであるという。その人物が、本木荘二郎だった。その名前は、黒澤明監督の「素晴らしき日曜日」(1947年)に製作者としてクレジットされており、以降、「酔いどれ天使」「静かなる決闘」「野良犬」「醜聞」「羅生門」「白痴」「生きる」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛巣城」までの十一作品を製作した。

そんな人物がなぜピンク映画の監督になったのか、という謎がこの本を読み進めさせることになる。本木荘二郎は東宝の前身PCLで黒澤明と共に助監督をしていたが、戦争中にプロデューサーに転身し、十六年にわたって数多くの作品を製作した。その初期作品のひとつが「東京五人男」(1945年)である。終戦の秋に撮影され、その年の暮れに公開された作品だ。喜劇を得意とした斎藤寅次郎監督である。空襲で瓦礫の山になった東京が写しとられている。横山エンタツ、花菱アチャコ、古川ロッパ、柳屋権太楼、石田一松が出演した。今見ると、復員の様子、食料の配給事情など、終戦直後の状況がよくわかる資料的な価値もある。数年前、僕も見る機会があった。

巻末の本木荘二郎のフィルモグラフィを見ると、一九四三年に黒澤明が脚本を書いた「天晴れ一心太助」の製作に始まり、一九五九年までは黒澤明監督作品、マキノ雅弘監督作品、成瀬巳喜男監督作品など映画史に残るものを多く製作しているが、一九六二年に「肉体自由貿易」(高木丈夫名義で監督)というタイトルが現れ、翌年からは「女が泣く夜」「不貞母娘」「仮面の情事」といったタイトルが続く。その後、一九七七年まで十五年間にわたって膨大なピンク映画の作品名が列挙されている。東宝時代が十六年だから、ほぼ同じ年数をピンク映画界で過ごしたことになる。

第一章の扉ページに一九七七年五月二十七日付けの「夕刊フジ」の記事の複写が掲載されていた。縮小されているから記事の内容は読めないが、見出しはわかる。「映画バカ一代 ポルノ戦線に死す」と大きな見出しがあり、「羅生門」「七人の侍」など黒沢映画のプロデューサーだった本木荘二郎(六十二歳)さんが、「二十一日、新宿のアパートでひとりぼっちの往生」とある。その記事の後半には「来月二十三日、三船敏郎、谷口監督らが追悼会」とあった。谷口監督とは黒澤明の盟友・谷口千吉監督であり、八千草薫の夫である。しかし、ピンク映画時代の本木の弟子を自認する山本晋也が黒澤明に電話して本木の死を告げたとき、黒澤は「本木とは縁を切ったから」と答えた。

本木荘二郎は北新宿の第二淀橋荘七号室で孤独に死んでいったが、その部屋は彼自身が借りているものではなかった。仕事仲間の俳優が借りている部屋であり、彼は死ぬときも自室では死ねなかったのだ。「晩年、ほぼホームレス状態になっていた本木荘二郎」は、金に困っていたという。東宝を去ることになったのも、金にルーズだったからである。加えて女好きで、女性関係もいろいろあり、女優の妻とは離婚し家を出ることになったのだ。結局、ピンク映画の世界で映画作りを続けたが、その後もあちこちに借金をした。傍から見れば、金と女で失敗して落ちぶれ、孤独死した哀れな人生である。

●世界的巨匠の黒澤と己の人生を対比することはなかったのだろうか

同じ映画会社で助監督となり、同じ部屋で暮らしたふたりの青年は、やがてプロデューサーと監督としてコンビを組み、世界的な名作を作り続けた。日本映画で初めて外国の映画祭のグランプリも受賞する。しかし、一方は金と女で失敗して落ちぶれ、一方は世界的な巨匠に登り詰める。この極端に異なる人生を対比するとき、人は何を思うだろう。人生の不可解さ、理不尽さだろうか。そこには、「セ・ラ・ヴィ(それが人生だ)」とつぶやいてすませられない何かがある。ピンク映画の世界で名前を変え、数え切れないほどの映画を作りながら、本木荘二郎は何を考えていたのだろう。世界的巨匠となっていく黒澤明を見ながら、己の人生を対比することはなかったのだろうか。

テレビで「あの人は今」といった番組がよく作られる。飽きもせずに作られるということは、それなりに視聴率が取れるのだろう。つまり、人々は「昔、有名だった人」が今どうなっているのか、興味があるのだ。僕などは、そんな番組で「今も幸せに生きている」ことがわかるとホッとするのだけれど、多くの人は「あんなに一世を風靡した人が、今はこんなことになっている」という結果を見たいのかもしれない。そこには、平家物語の冒頭のフレーズにあるような「諸行無常」「盛者必衰」を好む日本人のメンタリティがあるのかもしれないが、ただ「落ちぶれた有名人」を見たいという意地悪な心理があるだけかもしれない。人生ってそんなものだよなあ、と安心したいのだろうか。

だから、成功者である黒澤明の人生は人々の興味をひかない。もちろん、黒澤明にも様々なことがあった。尊敬していた兄の自殺もあった。美術の道をあきらめた。自殺未遂を起こしたこともある。しかし、映画界に入り、世界的な巨匠になった。成功した人生である。ノーベル賞を受賞した大江健三郎の名を知らない人は多いだろうけど、黒澤明の名を知らぬ日本人はいない。「世界のクロサワ」である。長寿をまっとうし、子孫に様々な遺産を残した。息子は黒澤スタジオや黒澤作品の諸権利を受け継ぎ、娘は映画界で衣装デザイナーをやりながら「黒澤」の名で料理店を開いている。その店には黒澤が描いた絵コンテが飾られ、多くの政治家たちも利用すると聞いた。黒澤明の成功によって、黒澤一族は繁栄しているわけである。

一方、今や誰も本木荘二郎のことなど知らない。映画のクレジットタイトルで気にするのは出演者と監督名くらい。製作者の名など目には留めても、記憶することはない。本木荘二郎の本のために、鈴木義昭さんは黒澤明監督の写真の掲載許可を求めたが、息子の黒澤久雄氏から「本木という人物にウチは大変な迷惑を被った経緯があるので、彼をテーマとする本に黒澤プロとしては協力できない」と返事があったと書いている。死後四十年も経つのに、そんな仕打ちを受ける人生って何? と僕は思った。黒澤明がその名声を確立したのは、ほとんど本木荘二郎が製作した作品によってだった。「羅生門」「七人の侍」「生きる」などである。しかし、本木の存在はほとんど知られていなかった。鈴木義昭さんの本によって、僕は初めて本木荘二郎の生涯を知ったのだ。

●どんな境遇でも己に恥じないことをしていれば自分を憐れむことはない

ベネチア映画祭グランプリ作品を製作したプロデューサーは、ほとんどホームレスになり、知人の部屋で孤独死するまでに落ちぶれてしまったが、ピンク映画界の女優たちやスタッフたちの証言によると、屈折したルサンチマンや過去の栄光にすがるようなところは微塵も感じさせなかったという。しかし、心の中では何を思っていたかはわからない。僕はピンク映画が東宝や松竹、東映などのメジャーが作る作品に劣っているとは思わない。僕の若い頃には、ピンク映画界には若松孝二がいたし、大和屋篤がいた。その後、本木荘二郎を師匠と呼ぶ山本晋也を師匠として、「パッチギ!」の井筒和幸監督や「おくりびと」の滝田洋二郎監督なども出ている。周防正行監督だってピンク映画の出身だ。それでも、東宝で作品を作っていた本木は、ピンク映画を量産する我が身をどう見ていたのだろうか。

僕は、自己憐憫に浸る人間が許せない。落ちぶれた己を憐れむのは、恥ずべきことだと思う。どんな境遇にいても、己に恥じないことをしていれば、自分を憐れむことはない。自尊心を持っていられる。「俺も、昔はな」と過去の栄光にすがるのは、今の自分を恥じているからだ。憐れんでいるからだ。『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎」を読んでいて心が沈まなかったのは、本木荘二郎がピンク映画界の多くのスタッフや女優や俳優に愛されていたから、過去の栄光をちらつかせることがなかったから、映画作りが好きでピンク映画であっても映画作りの喜びを感じていたからである。おそらく、借金だらけで自分の部屋さえなくした状態であっても、他人から見れば落ちぶれたと見えても、本木荘二郎自身は己を恥じず、憐れみもせず、ただ映画を作っていた。

もっとも、そんな風に僕が思えるようになったのも、長く生きてきたからだ。四十を過ぎた頃から、ある種の自信のようなものが生まれた。「他人がどんな風に見ようと関係ない。己に恥じないことをしていれば、どんなに落ちぶれても、尾羽打ち枯らしても、自尊心を保っていられる。惨めになることはない」という信念だった。しかし、思い出してみれば、若い頃の僕は将来の不安にとらわれ、社会の敗残者になることを怖れていた。落ちぶれて、みじめに生きていかねばならなくなったならば、自分は耐えられないだろうと思っていた。大学卒業のときに大手出版社の入社試験を軒並み失敗し、何とか小さな出版社に潜り込んだけれど、講談社や小学館に入った高校時代からの友人たちと比較し、僕は自分の人生を惨めに感じていた。

本木荘二郎の本を書いた鈴木義昭さんに会った頃の僕が、そうだった。、四十年近く前になる。鈴木義昭さんは、白夜書房が出していた雑誌「ウィークエンド・スーパー」に書いているライターだったと記憶している。当時から新宿ゴールデン街には、「銀河系」という酒場があった。僕は同じ編集部の先輩であるH女史に連れられて、初めて入った。当時の僕は酒場のルールも知らず、ボトルキープの意味も知らなかった。「銀河系」では、いくら飲んでも(当時の僕はあまり飲まなかったけれど)五百円ですんだので、安いなあと思っていたが、それはH女史がキープしていたボトルを飲んでいたからだと、しばらくして知ったくらい無知だった。

「銀河系」には映画評論家の松田政男さんを始め、映画関係者が多く集まっていた。僕はそこで「V・マドンナ大戦争」の中村幻児監督など何人かの監督に会ったし、伝説の「無人列島」(1969年)を監督した金井勝さんにも会った。H女史は多くの映画界の人脈を持っていたが、それは「銀河系」人脈だったのかもしれない。そんな客のひとりが鈴木義昭さんだった。字面を記憶しているから、たぶん名刺をもらったのだろう。「銀河系」では、一、二度顔を合わしただけだから僕のことなど憶えてもいないだろうけれど、僕の方は十年後に書店で鈴木さんの本を見つけて「いい仕事をしているなあ」と思ったものだった。しかし、鈴木さんに会った頃の僕は将来の不安にとらわれていたし、就職時の挫折を引きずっていた。この社会で生き抜いていけるか、まったく自信はなかった。

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