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2017年7月

2017年7月27日 (木)

■映画と夜と音楽と…782 落ちぶれる



【東京五人男/羅生門/七人の侍】

●黒澤作品のプロデューサーはなぜピンク映画の監督になったか

一年ほど前に出た本だが、先日『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎』を読んだ。著者は、鈴木義昭さんである。ピンク映画の世界に詳しく『ピンク映画水滸伝・その二十年史』などの著書もある。「竹中労、映画評論家の斎藤正治、白井佳夫らに師事」とプロフィール紹介にある。四十年以上前だが、僕は斎藤正治さんが司会をした「日活ニューアクション上映会」にいったことがある。その頃、白井さんは『キネマ旬報』編集長だった。竹中労は気鋭のルポライターで、ちょっと強面の評論家でもあった。その三人に師事できたのは、ちょっとうらやましい。鈴木さんは、僕より少し下の世代になる。

その本は「東京の京橋にあるその試写室のスクリーンに、女性の裸体が延々と映し出され、絡み合う男女の声が長時間に亘って聞こえたのは、異様なことだった」というフレーズから始まった。その日、ある監督のピンク映画が京橋のフィルムライブラリーでまとめて上映されたのだ。それぞれの作品の監督名は違ったが、すべて同一人物が監督したものであるという。その人物が、本木荘二郎だった。その名前は、黒澤明監督の「素晴らしき日曜日」(1947年)に製作者としてクレジットされており、以降、「酔いどれ天使」「静かなる決闘」「野良犬」「醜聞」「羅生門」「白痴」「生きる」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛巣城」までの十一作品を製作した。

そんな人物がなぜピンク映画の監督になったのか、という謎がこの本を読み進めさせることになる。本木荘二郎は東宝の前身PCLで黒澤明と共に助監督をしていたが、戦争中にプロデューサーに転身し、十六年にわたって数多くの作品を製作した。その初期作品のひとつが「東京五人男」(1945年)である。終戦の秋に撮影され、その年の暮れに公開された作品だ。喜劇を得意とした斎藤寅次郎監督である。空襲で瓦礫の山になった東京が写しとられている。横山エンタツ、花菱アチャコ、古川ロッパ、柳屋権太楼、石田一松が出演した。今見ると、復員の様子、食料の配給事情など、終戦直後の状況がよくわかる資料的な価値もある。数年前、僕も見る機会があった。

巻末の本木荘二郎のフィルモグラフィを見ると、一九四三年に黒澤明が脚本を書いた「天晴れ一心太助」の製作に始まり、一九五九年までは黒澤明監督作品、マキノ雅弘監督作品、成瀬巳喜男監督作品など映画史に残るものを多く製作しているが、一九六二年に「肉体自由貿易」(高木丈夫名義で監督)というタイトルが現れ、翌年からは「女が泣く夜」「不貞母娘」「仮面の情事」といったタイトルが続く。その後、一九七七年まで十五年間にわたって膨大なピンク映画の作品名が列挙されている。東宝時代が十六年だから、ほぼ同じ年数をピンク映画界で過ごしたことになる。

第一章の扉ページに一九七七年五月二十七日付けの「夕刊フジ」の記事の複写が掲載されていた。縮小されているから記事の内容は読めないが、見出しはわかる。「映画バカ一代 ポルノ戦線に死す」と大きな見出しがあり、「羅生門」「七人の侍」など黒沢映画のプロデューサーだった本木荘二郎(六十二歳)さんが、「二十一日、新宿のアパートでひとりぼっちの往生」とある。その記事の後半には「来月二十三日、三船敏郎、谷口監督らが追悼会」とあった。谷口監督とは黒澤明の盟友・谷口千吉監督であり、八千草薫の夫である。しかし、ピンク映画時代の本木の弟子を自認する山本晋也が黒澤明に電話して本木の死を告げたとき、黒澤は「本木とは縁を切ったから」と答えた。

本木荘二郎は北新宿の第二淀橋荘七号室で孤独に死んでいったが、その部屋は彼自身が借りているものではなかった。仕事仲間の俳優が借りている部屋であり、彼は死ぬときも自室では死ねなかったのだ。「晩年、ほぼホームレス状態になっていた本木荘二郎」は、金に困っていたという。東宝を去ることになったのも、金にルーズだったからである。加えて女好きで、女性関係もいろいろあり、女優の妻とは離婚し家を出ることになったのだ。結局、ピンク映画の世界で映画作りを続けたが、その後もあちこちに借金をした。傍から見れば、金と女で失敗して落ちぶれ、孤独死した哀れな人生である。

●世界的巨匠の黒澤と己の人生を対比することはなかったのだろうか

同じ映画会社で助監督となり、同じ部屋で暮らしたふたりの青年は、やがてプロデューサーと監督としてコンビを組み、世界的な名作を作り続けた。日本映画で初めて外国の映画祭のグランプリも受賞する。しかし、一方は金と女で失敗して落ちぶれ、一方は世界的な巨匠に登り詰める。この極端に異なる人生を対比するとき、人は何を思うだろう。人生の不可解さ、理不尽さだろうか。そこには、「セ・ラ・ヴィ(それが人生だ)」とつぶやいてすませられない何かがある。ピンク映画の世界で名前を変え、数え切れないほどの映画を作りながら、本木荘二郎は何を考えていたのだろう。世界的巨匠となっていく黒澤明を見ながら、己の人生を対比することはなかったのだろうか。

テレビで「あの人は今」といった番組がよく作られる。飽きもせずに作られるということは、それなりに視聴率が取れるのだろう。つまり、人々は「昔、有名だった人」が今どうなっているのか、興味があるのだ。僕などは、そんな番組で「今も幸せに生きている」ことがわかるとホッとするのだけれど、多くの人は「あんなに一世を風靡した人が、今はこんなことになっている」という結果を見たいのかもしれない。そこには、平家物語の冒頭のフレーズにあるような「諸行無常」「盛者必衰」を好む日本人のメンタリティがあるのかもしれないが、ただ「落ちぶれた有名人」を見たいという意地悪な心理があるだけかもしれない。人生ってそんなものだよなあ、と安心したいのだろうか。

だから、成功者である黒澤明の人生は人々の興味をひかない。もちろん、黒澤明にも様々なことがあった。尊敬していた兄の自殺もあった。美術の道をあきらめた。自殺未遂を起こしたこともある。しかし、映画界に入り、世界的な巨匠になった。成功した人生である。ノーベル賞を受賞した大江健三郎の名を知らない人は多いだろうけど、黒澤明の名を知らぬ日本人はいない。「世界のクロサワ」である。長寿をまっとうし、子孫に様々な遺産を残した。息子は黒澤スタジオや黒澤作品の諸権利を受け継ぎ、娘は映画界で衣装デザイナーをやりながら「黒澤」の名で料理店を開いている。その店には黒澤が描いた絵コンテが飾られ、多くの政治家たちも利用すると聞いた。黒澤明の成功によって、黒澤一族は繁栄しているわけである。

一方、今や誰も本木荘二郎のことなど知らない。映画のクレジットタイトルで気にするのは出演者と監督名くらい。製作者の名など目には留めても、記憶することはない。本木荘二郎の本のために、鈴木義昭さんは黒澤明監督の写真の掲載許可を求めたが、息子の黒澤久雄氏から「本木という人物にウチは大変な迷惑を被った経緯があるので、彼をテーマとする本に黒澤プロとしては協力できない」と返事があったと書いている。死後四十年も経つのに、そんな仕打ちを受ける人生って何? と僕は思った。黒澤明がその名声を確立したのは、ほとんど本木荘二郎が製作した作品によってだった。「羅生門」「七人の侍」「生きる」などである。しかし、本木の存在はほとんど知られていなかった。鈴木義昭さんの本によって、僕は初めて本木荘二郎の生涯を知ったのだ。

●どんな境遇でも己に恥じないことをしていれば自分を憐れむことはない

ベネチア映画祭グランプリ作品を製作したプロデューサーは、ほとんどホームレスになり、知人の部屋で孤独死するまでに落ちぶれてしまったが、ピンク映画界の女優たちやスタッフたちの証言によると、屈折したルサンチマンや過去の栄光にすがるようなところは微塵も感じさせなかったという。しかし、心の中では何を思っていたかはわからない。僕はピンク映画が東宝や松竹、東映などのメジャーが作る作品に劣っているとは思わない。僕の若い頃には、ピンク映画界には若松孝二がいたし、大和屋篤がいた。その後、本木荘二郎を師匠と呼ぶ山本晋也を師匠として、「パッチギ!」の井筒和幸監督や「おくりびと」の滝田洋二郎監督なども出ている。周防正行監督だってピンク映画の出身だ。それでも、東宝で作品を作っていた本木は、ピンク映画を量産する我が身をどう見ていたのだろうか。

僕は、自己憐憫に浸る人間が許せない。落ちぶれた己を憐れむのは、恥ずべきことだと思う。どんな境遇にいても、己に恥じないことをしていれば、自分を憐れむことはない。自尊心を持っていられる。「俺も、昔はな」と過去の栄光にすがるのは、今の自分を恥じているからだ。憐れんでいるからだ。『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎」を読んでいて心が沈まなかったのは、本木荘二郎がピンク映画界の多くのスタッフや女優や俳優に愛されていたから、過去の栄光をちらつかせることがなかったから、映画作りが好きでピンク映画であっても映画作りの喜びを感じていたからである。おそらく、借金だらけで自分の部屋さえなくした状態であっても、他人から見れば落ちぶれたと見えても、本木荘二郎自身は己を恥じず、憐れみもせず、ただ映画を作っていた。

もっとも、そんな風に僕が思えるようになったのも、長く生きてきたからだ。四十を過ぎた頃から、ある種の自信のようなものが生まれた。「他人がどんな風に見ようと関係ない。己に恥じないことをしていれば、どんなに落ちぶれても、尾羽打ち枯らしても、自尊心を保っていられる。惨めになることはない」という信念だった。しかし、思い出してみれば、若い頃の僕は将来の不安にとらわれ、社会の敗残者になることを怖れていた。落ちぶれて、みじめに生きていかねばならなくなったならば、自分は耐えられないだろうと思っていた。大学卒業のときに大手出版社の入社試験を軒並み失敗し、何とか小さな出版社に潜り込んだけれど、講談社や小学館に入った高校時代からの友人たちと比較し、僕は自分の人生を惨めに感じていた。

本木荘二郎の本を書いた鈴木義昭さんに会った頃の僕が、そうだった。、四十年近く前になる。鈴木義昭さんは、白夜書房が出していた雑誌「ウィークエンド・スーパー」に書いているライターだったと記憶している。当時から新宿ゴールデン街には、「銀河系」という酒場があった。僕は同じ編集部の先輩であるH女史に連れられて、初めて入った。当時の僕は酒場のルールも知らず、ボトルキープの意味も知らなかった。「銀河系」では、いくら飲んでも(当時の僕はあまり飲まなかったけれど)五百円ですんだので、安いなあと思っていたが、それはH女史がキープしていたボトルを飲んでいたからだと、しばらくして知ったくらい無知だった。

「銀河系」には映画評論家の松田政男さんを始め、映画関係者が多く集まっていた。僕はそこで「V・マドンナ大戦争」の中村幻児監督など何人かの監督に会ったし、伝説の「無人列島」(1969年)を監督した金井勝さんにも会った。H女史は多くの映画界の人脈を持っていたが、それは「銀河系」人脈だったのかもしれない。そんな客のひとりが鈴木義昭さんだった。字面を記憶しているから、たぶん名刺をもらったのだろう。「銀河系」では、一、二度顔を合わしただけだから僕のことなど憶えてもいないだろうけれど、僕の方は十年後に書店で鈴木さんの本を見つけて「いい仕事をしているなあ」と思ったものだった。しかし、鈴木さんに会った頃の僕は将来の不安にとらわれていたし、就職時の挫折を引きずっていた。この社会で生き抜いていけるか、まったく自信はなかった。

2017年7月20日 (木)

■映画と夜と音楽と…781 裕次郎に導かれて----



【赤い波止場/赤いハンカチ/二人の世界】

●八月末をもって閉館するという挨拶文が張り出されていた

小樽築港駅を出ると広いコンコースがあり、そこから広大な敷地のショッピングモールにつながっていた。その自動ドアを入り、延々と続くモールの中を歩き続けた。冷房の効いた中を歩けるのがありがたい。五百メートルほど歩いたところにあるイタリア料理店で昼食を摂り、再びモールの中を歩き始めようやく抜けきると、北海道だというのに強い日差しに晒された。見渡すと、多くのヨットが陸揚げされているマリーナがあった。海に係留されているヨットも多い。美しい光景だった。その手前に、体育館のような大きな建物があった。駐車場も広い。かみさんが「あそこよ」と言った。

見ると建物の壁面に「yujiro」というレリーフがあった。「あれだ」と僕は叫んだ。まさか、そんなに大きく立派な建物だと思っていなかったのだ。しかし、考えてみれば日本で最も人気があった映画スターの記念館である。それくらいの規模であっても当然なのだった。広い駐車場の端、記念館の入口の横には大きなヨットが太い柱に貫かれて宙吊りになっている。あれは、きっと裕次郎が愛した自身のヨットに違いない。僕とかみさんは、北海道では百年ぶりだという暑さの中、「石原裕次郎記念館」に向かって歩き始めた。

僕には、記念写真を撮る習慣がない。しかし、そのときばかりは違った。石原裕次郎記念館の入口を背景にして、「写真、撮ってあげるわ」というかみさんの言葉に素直に従った。僕自身のカメラはうっかりバッグに入れたまま駅のコインロッカーに入れてきたので、かみさんのスマホでの撮影である。恥ずかしかったが、僕は入口の前に立った。その後、僕は記念館の中に入った。そこには、石原まき子さん(北原三枝と名乗っていた美しい姿が甦る)の署名入りの「みなさまへ」という挨拶文が張り出されていた。八月末をもって閉館するという内容だった。

ことの起こりは、四国の実家から千葉の自宅に戻る途中、今年は山陰をまわって帰ろうと思い立ち、自宅のかみさんに連絡したときだった。国内も海外もあちこちいっているかみさんは、「夏だったら北海道がいいんじゃない」と言う。「北海道?」と、まったく想定していなかった僕は驚いたが、北海道には仕事で一回いっただけだし釧路に飛んで道東をまわっただけだな、と思いめぐらした。その瞬間、小樽だ、と頭の中で声がした。思わず「裕次郎記念館がある」と口にしていた。「小樽って、札幌・小樽コース?」と、かみさんは気の乗らない返事だった(後で知ったが、かみさんは小樽・札幌・富良野・旭山動物園はいったことがあったらしい)。

電話を切った後、しばらくしてかみさんからメールが入った。「石原裕次郎記念館は今年の八月いっぱいで閉館だって。もう、小樽にいくしかないね」という文面だ。これはきっと、石原裕次郎様のお導きに違いないと僕は思った。一度はいかねば----と思いつつ、二十数年間いくことがなかった僕を、裕次郎の魂が呼んだに違いない。そういうことで、七月十一日の夕方、僕は小樽駅に降り立ったのだった。小樽駅の今は使われていない四番ホームは「裕次郎ホーム」と名付けられ、裕次郎の等身大の写真がモニュメントとして立てられていた。その横に立ち、小樽にきた感慨に僕が耽っていると、何とホームのスピーカーから「きみの横顔すてきだぜ~」と「二人の世界」が流れてきた。

●裕次郎には様々な世代のファンがいて思い入れのある作品が違う

石原裕次郎記念館に展示されているリストで、裕次郎が出演した映画作品が一〇二本だと知った。出演作の中には、ボクシング部員としてワンシーンだけ出たデビュー作「太陽の季節」(1956年)、ハリウッド映画「素晴らしきヒコーキ野郎」(1965年)、勝新太郎主演の「人斬り」(1969年)、ワンシーンだけ出た「戦争と人間 第一部 運命の序曲」(1970年)、友情出演として出た最後の出演作「凍河」(1976年)などもあり、主演作となると九十数本になる。七〇年代半ばからは、「太陽にほえろ」「大都会」「西部警察」といったテレビシリーズばかりになる。亡くなったのは三十年前の七月十七日、享年五十三歳だった。

一〇二本のリストを、僕は「見た」「見ていない」と数えていった。実に七十四作品を見ていた。たぶん、初めて見たのは父に連れられていった「風速40米」(1958年)だと思う。六歳の夏である。これは間違いない。その映画での裕次郎の登場シーンは鮮明に憶えている。北原三枝などの女子学生たちが山で嵐に遭い、山小屋に逃げ込む。そこに先にいるのが石原裕次郎で、彼の足の長さを強調するために脚から登場し、股越しショットで女子学生たちが捉えられる。後に見直して、僕は自分の記憶の正しさを確認した。最後の出演作「凍河」は五木寛之の原作で、若い精神科医と繊細な女性患者の恋物語だが、僕は見ていない。だから、スクリーンで最後に見た裕次郎は「反逆の報酬」(1973年)になる。

石原裕次郎記念館でも感じたことだが、長く活躍した裕次郎は様々な世代のファンが存在し、それぞれが大切な作品を持っている。僕より十歳上の世代は、初期裕次郎作品に非常に思い入れを持っている。映像作家のかわなかのぶひろさん、写真家の丹野清志さんなどである。初期の裕次郎作品で最もヒットしたのは「嵐を呼ぶ男」(1957年)だが、作品的な完成度で言えば「俺は待ってるぜ」(1957年)「錆びたナイフ」(1958年)「赤い波止場」(1958年)がベスト3だろう。主題歌は、すべてヒットした。かわなかさんは酔うと必ず「赤い波止場」を唄う。「裕次郎を殺してはいけない」という会社の方針があったから、ラストシーンで裕次郎は逮捕されただけだった。しかし、裕次郎に初めて手錠をかけたとして話題になった。裕次郎自身は作品の中で死にたかったが、会社が許さなかったのだ。初めて死ぬことができたのは五年後、「太陽への脱出」(1963年)だった。

僕より十歳若い世代は、「太陽にほえろ」以降の石原裕次郎が印象に残っているらしい。僕も石原プロ制作のテレビドラマは見ていたけれど、映画の裕次郎のよさは、どのシリーズでも出ていなかった。石原プロの社長であり、ドラマの中では中間管理職になった裕次郎は、部下たちの活躍を温かい目で見守る存在でしかなかった。だから、印象に残っているのは、若き松田優作であり、渡哲也である。特に倉本聰がほとんどの脚本を書いた「大都会 闘いの日々」の渡哲也(大病から復帰したばかりだった)は素晴らしかった。妹を演じた仁科明子の可憐さも忘れられない。あの頃、まさか松方弘樹と結婚するとは夢にも思っていなかった。

僕より若い世代には「西部警察」への思い入れが強いのかもしれない。石原裕次郎記念館でも「西部警察」関連の展示は多かったし、アニバーサリーショップでも「西部警察」関連グッズが取りそろえられていた。それに車である。「西部警察」で使用されたスポーツカーや特別仕様の車、それに撮影機材などが豊富に展示されていた。それだけ石原プロとして力を入れていたのだろうが、アクション偏重でドラマとしての味わいは薄くなっていったと僕は思う。車を爆発させたり燃やしたり、刑事がショットガンを撃ちまくったり、テレビとしては画期的だったかもしれないけれど、僕は地味な刑事ドラマだった「大都会」が好きだった。

●裕次郎作品には海外作品を換骨奪胎した翻案ものが多い

僕の世代にとって最も思い入れの強い裕次郎作品は、何といっても「赤いハンカチ」(1964年)である。「おとーふやさーん」「おいしんですのよ、私のおみおつけ」というセリフでニヤリとできるのは、僕らの世代だと思う。この何でもないセリフを、矢作俊彦さんは何度も自分の小説の中に登場させている。その他には「夕陽の丘」(1964年)「二人の世界」(1966年)がある。いわゆる中期裕次郎の「ムードアクション」と呼ばれる作品群だ。ほんの数年間に、石原裕次郎の代表作が数多く作られた。最も知られているのは「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)だろう。

「太った裕次郎は我らの敵だ」と書いた矢作俊彦さんは、少し太り始めた裕次郎が演じたムードアクションの主人公たちが大好きなのに違いない。初期作品の「リンゴォ・キッドの休日」ではフェリーノ・ヴァルガスという人物を登場させ、「二人の世界」へのオマージュを捧げた。さらに二十五年後、高い評価を得た「ららら科學の子」では物語の下敷きとして「二人の世界」を使い、この裕次郎映画に対する深いこだわりを感じさせた。大沢在昌さんも「二人の世界」を見たとき、日本離れしたハードボイルドなキザなセリフが、石原裕次郎の口から出ることで現実のものとして定着している日活(無国籍)ムードアクションの世界に感心したという。

「二人の世界」は日本へ向かう豪華客船の中で、フィリピン国籍のフェリーノ・ヴァルガス(石原裕次郎)と戸川玲子(浅丘ルリ子)が出会うところから物語が始まる。その船にはヴァルガスを探る日本人の週刊誌記者である川瀬(二谷英明)が乗っている。川瀬は、フェリーノ・ヴァルガスが十五年前に殺人犯として海外逃亡した北条修一ではないかと疑っているのだ。フェリーノ・ヴァルガスこと北条修一は、時効が迫る中、無実を晴らすために日本に向かっているのである。矢作俊彦さんの「ららら科學の子」は、学生運動で罪を犯して中国に逃亡していた主人公が日本に戻ってくる物語だった。

それにしても、裕次郎作品には海外作品を換骨奪胎した翻案ものが多い。「赤い波止場」はジャン・ギャバン主演のフランス映画「望郷(ペペ・ル・モコ)」(1937年)の翻案である。「帰らざる波止場」(1966年)は、フランソワーズ・アルヌール主演のフランス映画「過去を持つ愛情」(1954年)の翻案だ。妻を殺した男と夫殺しの疑惑をもたれている女との恋愛劇。それを、誤って恋人を射殺したピアニスト(石原裕次郎)と富豪の夫を殺した疑惑で刑事につけまわされている女(浅丘ルリ子)に置き換えた。さらに石原裕次郎記念館でも人気だった「夜霧よ今夜も有難う」は、ポスターに「甦るカサブランカの世界」と書かれているように、完全に「カサブランカ」(1942年)の翻案である。

そんなことを思い出しながら、記念館をじっくりと僕は見た。二時間近くが経っていた。僕は、完全にミーハーなファンになっていた。展示室を抜けると、アニバーサリーショップだった。「yujiro」のサインが入ったグッズがたくさん売られていた。普段、記念品というものを買わないのだが、僕はじっくりとグッズを見てサインが刻印されたキーホルダーと、裕次郎作品のリストが印刷された「石原裕次郎 想い出の映画手拭」を買った。それは「石原裕次郎記念館」特性のビニール袋に入れられ、「yujiro」のサインが印刷されたシールで閉じられている。中身を取り出すためには、そのシールを破らなければならないが、もったいなくて破ることができない。もう一枚買っておくべきだったなあ。

2017年7月15日 (土)

■映画と夜と音楽と…780 激しい恋は「猫の恋」


【嵐が丘/激しい季節】

●背の高い夏草から二匹の猫が飛び出し一目散に走ってきた

三ヶ月ぶりに自宅に戻り、翌朝、利根川のほとりまで散歩に出かけた。畑の隅で暮らしている猫たちに会うためだ。自宅の猫は僕のことを完全に忘れていて、僕が「ただいま」と言って玄関に入った瞬間、娘の部屋に逃げ込み、ずっと出てこなかった。翌朝、散歩に出かける前に警戒しながら姿を見せ、僕をずっとうかがっていた。元々、警戒心の強い子だったが、僕が人差し指を出すと、以前は匂いをかぐように鼻を近づけていたのに、何と威嚇するような声を出し背中を丸めた。攻撃の姿勢である。おいおい、と思いながら僕は家を出た。

利根川までは歩いて二十分ほどだが、少し大まわりをした。猫たちがいるだろうか、僕を見て逃げはしまいか、などと否定的な想像が湧いてくる。結果を怖れて、結論を先送りにする心境だった。それでも、散歩に出て三十分ほど歩くと、猫たちがいる畑が見えてきた。畑の横の野原が三ヶ月のうちに背の高い夏草に覆われ、ほとんどのものを隠している。冬の間は、その野原で猫たちとじゃれていた。最初に会ったときは三匹いたのに一匹は車にはねられ、昨年暮れからは二匹で仲良く暮らしている。畑の持ち主で猫たちに餌を与えているリリー・フランキー似のおじさんによれば、昨年の七月に捨てられていたというから、ちょうど一年になる。人間で言えば二十歳過ぎの成猫になった。

畑の前にいくと、猫たちはいなかった。しばらく立っていると、背の高い夏草の中から二匹の猫が飛び出してきた。僕を目指して一目散に走ってくる。雄と雌なので僕は「ジョンとメリー」と名付けていた(最初「ボニーとクライド」が浮かんだけど悲劇的結末を迎えるので、ハッピーエンドの「ジョンとメリー」にした)が、メリーが真っ先に走ってくる。まるで、両腕を広げて「会いたかったよ~」と言いながら駆けてくるようだった。その後ろからジョンが悠然とやってくる。それでも、ジョンも僕の顔を見て「ミャー」と鳴いた。

二匹の猫が僕の足に身をすり寄せグルグルまわる。見上げてミャーと鳴く。「どこいってたんだよう~」と言っているようだった。気になったのは、メリーの毛並みが変わってしまい、ひどく痩せたように思えることだ。ジョンの方は、ひとまわり大きくなった気がする。僕の足に寄り添うように座り込んだ二匹の背中をなでていると、毛に何か絡んでいるのに気づいた。最初は何か皮膚病にでもかかっているのかと心配したが、夏草の実が絡みついて取れないようだ。それにしても、こんなに猫に思い入れて、会えただけで幸福感に充たされるとは、一体どうなっているのだと我が身を振り返った。

その時、少し離れたところから見ている子猫に気づいた。ジョンによく似ている。まだ、生まれて一、二ヶ月といったところか。メリーが生んだのだろう。子猫を生んだから体つきや毛並みが変わってしまったのかもしれない。子猫の後ろから、もう一匹、子猫が現れた。白と黒でレッサーパンダみたいな顔になっている。メリーが身を起こし、ゆっくり子猫たちに近づいていく。そういえば、春先、ジョンがメリーの首を甘噛みし、身を寄せるのを見てドキッとしたことがあった。僕は、見てはいけない閨房の秘密を見てしまったような気になったものだ。下世話に言えば、「おまえたち、できたな」という感覚だった。

●「猫の恋」には情熱的で激しいものというイメージがある

俳句の季語に「猫の恋」がある。春の季語である。春は猫の恋の季節。その二、三ヶ月後に子猫たちが生まれる。「猫の恋」には情熱的で、激しいものというイメージがあり、「猫の恋」という言葉だけでそれを表現している。その激しさを表した俳句としては、「おそろしや 石垣崩す 猫の恋」を思い出す。正岡子規の句である。石垣を崩してでも会いにいく、その情熱を「おそろしや」と詠ったものだ。激しい恋を連想させる。「猫の恋」としているが、どことなく人間のことに重なる印象がある。「猫の恋」のように激しい恋をしてみたい、と寝たきりの子規は思っていたのではないだろうか。

「激しい恋」という言葉を浮かべると、僕は村上春樹さんの「スプートニクの恋人」の冒頭の文章を思い出す。「22歳の春にすみれは初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐに突き進む竜巻のような激しい恋だった」と始まり、「それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片っ端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした」と続く。一体どういう恋なのだ、という興味が湧き起こる。冒頭から読者のつかみはオッケーという感じである。それにしても、やはり恋に落ちるのは「春」なのだなあ。

しかし、「激しい恋」とはよく言われることだけれど、それはどのような恋のことをいうのだろうか。「恋」とは相手に執着することだから、最近ではストーカー扱いされる危険性もある。僕は「激しい恋」と聞くと、「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリンの恋を連想する。あれこそ、真の激しい恋なのだと思う。十代半ばで読んだとき、その凄さに圧倒された。以来、あの物語を越える激しい恋にはお目にかかったことはない。作者のエミリー・ブロンテは司祭の家に育ち、一生、結婚もせず生きた人で恋をしたことがあるかどうかもわからない。だからこそ、あんな激しい恋が書けたのだと思う。

「嵐が丘」は何度も映画化されているし、吉田喜重監督が松田優作を主演にして日本の室町時代に移して映画化した「嵐が丘」(1988年)もあるけれど、やはりウィリアム・ワイラー監督によって最初に映画化された「嵐が丘」(1939年)が一番いい。ヒースクリフはローレンス・オリヴィエである。「嵐が丘」撮影のためにオリヴィエは愛人のヴィヴィアン・リーを連れてハリウッドにいったのだが、そのヴィヴィアン・リーがプロデューサーの目にとまり、「風と共に去りぬ」(1939年)のスカーレット・オハラに抜擢された。インド生まれでイギリス人の女優が南部の女を演じることになったのだ。

原作では、物語が終わったところから始まる。語り手の人物が嵐が丘の屋敷に泊まる。彼は、その屋敷で幽霊のような女性の姿を見る。それを聞いた屋敷の粗暴な主人ヒースクリフは、「キャサリン、私の前に姿を見せてくれ」と闇に向かって叫ぶ。その時点で、キャサリンはすでに死んでいるのだ。映画版は時系列を整理していたと思うが、ラストシーンはヒースの生い茂る嵐が丘の荒野を抱き合ってさまようヒースクリフとキャサリンの霊魂だったと記憶している。この世で添い遂げられなかったふたつの魂は、死んで結ばれるのである。そういえば、「ガラスの仮面」でも劇中劇として「嵐が丘」が取り上げられていた。

●複雑な戦時下で燃えあがる青年と人妻の激しい恋

「激しい」という語が入っているからか、「激しい恋」と聞くと僕が連想するもう一本の映画が「激しい季節」(1959年)だ。これは名訳だと思っている。「激しい季節」という言葉が想起させる何かが昔から僕は好きだった。そのタイトルを聞いたときから見たくて仕方がなかった。ヒロインをエレオノラ・ロッシ=ドラゴが演じているのも楽しみだった。ピエトロ・ジェルミ監督の「刑事」(1959年)では殺される婦人、パヴェーゼの小説をミケランジェロ・アントニオーニ監督が映画化した「女ともだち」(1956年)ではデザイナーの役をやっていたが、何と言っても「激しい季節」で青年に一途に愛される人妻の役が最も似合っていた。

イタリア語のタイトルは「ESTATE VIOLENTA」だから、直訳すると「激しい夏」あるいは「暴力的な夏」だろうか。それを「激しい季節」と変えると、ニュアンスがまったく違ってくる。時代設定は、第二次大戦中のイタリアだ。イタリアは複雑な政治状況になっていて、ムッソリーニはヒトラーと組んで日独伊三国同盟を結び連合国側と戦争を始めたが、途中、パドリオ政権が連合国側と秘密裡に休戦協定を結んだ。そのため、ムッソリーニ支持派と内戦状態になり、ムッソリーニ派をバックアップするドイツ軍によりローマを占領される。ドイツ軍に抵抗するレジスタンス活動も起こる。内田樹さんによれば、「ドイツの傀儡政権だったフランスは第二次大戦の敗戦国で、ドイツ軍と戦ったイタリアは戦勝国」であるという。

そんな複雑な時代(一九四三年)に、青年と子持ちの人妻の激しい恋を描いたのが「激しい季節」である。青年(ジャン=ルイ・トランティニャン)はファシスト党の高官の息子で兵役を逃れて避暑地にやってくる。戦争中だというのに、高級避暑地で遊びまわっている上流階級の子弟たちがいる。青年もその仲間になる。ある日、ドイツ軍の戦闘機が浜辺に機銃掃射をする。青年は少女を救い、その母親(エレオノラ・ロッシ=ドラゴ)と知り合い、激しく愛し合う関係になる。その頃、ムッソリーニが失脚しパドリオ政権が樹立される。ファシスト党の青年の父親は逃亡し、青年も兵役を逃れられなくなる。そして、愛し合うふたりは、手に手を取って列車で逃れようとする。

ところで、「激しい恋」というけれど、「激しくない恋」というものはあるのだろうか。「おだやかな恋」と書いてみても、何だか形容矛盾のような気がしないでもない。「恋」とは自分以外の誰か(最近の傾向では、特に異性である必要はない)に強く執着することだから、精神的には異常事態だと思う。寝ても覚めてもその人のことが頭から去らず、その姿を見ると喜びに打ち震え、気がつくとその姿を求めている。猫の場合は直情径行で、まっすぐに求愛行動に突き進むが、常識や自意識のある人間の場合はそうはいかない。求愛しても拒否されるのではないかという怖れもあり、なかなか行動できない。ときには、遠くから見つめるだけで終わる恋もある。しかし、そんな場合でも、心の中では激情が渦巻いているはずだ。激しい想いが炎のように燃えている。

僕自身の過去を振り返ると、残念ながら「激しい恋」のかけらも見つからない。好きになった女性は何人かいたが、悲しいことに「見つめる恋」の記憶しか残っていない。思い切って行動に出た場合は、ことごとく失敗した。ロクな結果にならなかった。自尊心もひどく傷ついた。だいたい、自尊心が傷つくのを気にしているようでは、本当に恋をしていたのかと疑ってしまう。結局、今も美しい記憶として残っているのは、「見つめるだけだった恋」だ。いわゆる、忍ぶ恋である。すべてをなぎ倒すような激しい恋ではなかった。忍ぶれど色に出にけり----だったかもしれないけれど。

2017年7月 6日 (木)

■映画と夜と音楽と…779 ミステリアスな年上の女



【鞄を持った女/年上の女/影の軍隊】

●「年上の女」という言葉には魅力的なニュアンスがある

クラウディア・カルディナーレの「鞄を持った女」(1961年)を、久しぶりに見ていたら「年上の女」という言葉が頭の中に浮かんできた。「鞄を持った女」は、一本の広い道を男女が乗ったスポーツカーが走ってくるシーンから始まる。車が停まり、女が降りてくる。男が「早くすませろよ」と言う。女は茂みの中に入っていく。男は車のトランクを開け、女の鞄を見下ろす。女を置き去りにするのかなと観客は思うが、女が帰ってきて車に乗り、再び走り出す。しかし、結局、女は鞄と共に置き去りにされる。男は金持ちの放蕩息子で女たらしらしく、ローマのクラブでバンドの歌手をやっていた女に適当なことをいって連れ出し、面倒になって置き去りにしたのだ。

一方、大きな屋敷には十六歳の少年がいる。兄が帰ってくる。先ほど、女を置き去りにした男だ。「誰かきても、いないと言え」と言う。しばらくして電話があり、女が「××という人はいないか」と訊いてくるが、少年は「いない」と答える。どうも、初めてのことではないらしい。その後、大きな鞄を持った女が屋敷を訪ねてくる。しかし、少年は頑なに「そんな男はいない」と答える。ところが、途方に暮れた女に同情し、ホテルを紹介して泊まれるようにする。翌朝、女を訪ねた少年は、持ち金がない女に金を貸し、いろいろ親身になって世話を焼く。少年は、年上の女に惹かれているのだ。

女は、もちろんクラウディア・カルディナーレである。若くしてデビューしたカルディナーレだが、その時点ですでに子供がいた。同じように、映画の中で演じたバンドの歌手の役は、若くして産んだ子を預けている設定だった。神父に「少年の憧れる気持ちを利用した」と言われ、「私は娼婦じゃない」と答えるシーンがあるように、カルディナーレには汚れ役が似合う。だいたい、いきなり車から降りて小用を足すヒロインなんて、この映画以外では見たことがない。しかし、そんな女性でも少年には女神に見えるのだ。少年を演じたのは、ジャック・ペラン。実年齢は十九歳だったが、十六歳の初々しい少年が似合った。数十年の後、「ニュー・シネマ・パラダイス」では成功した映画監督を演じた。

最近、「熟女好き」という言葉をテレビで聞いて、いやな気分になった。僕が好きだった「青い麦」(1953年)や「おもいでの夏」(1970年)なども、「熟女好き」映画ということになるのだろうか。どちらも十代半ばの少年が夏の避暑地で、年上の女性によって初体験をする物語である。「年上の女」という言葉には、ミステリアスで魅力的なニュアンスがあるけれど、「熟女好き」には即物的で下世話な雰囲気があり、響きも下品だと思う。日本語全体がそういう方向に向かっているのは、若い人の言葉遣いを聞いていてわかっているが、僕も年寄りらしく「日本語の美しさはどこへいったんだ」と嘆くことにしよう。

●上昇志向が強く強烈な野心を抱く労働者階級の青年の恋

「年上の女」というタイトルで公開されたのは、ローレンス・ハーヴェイとシモーヌ・シニョレが出た一九五八年の作品だった。この作品で、シモーヌ・シニョレはアカデミー主演女優賞とカンヌ映画祭の主演女優賞を獲得した。確かに、それに値する演技である。若い頃は脇役の多い女優で、三十を過ぎて「嘆きのテレーズ」(1952年)でヒロインをつとめ高い評価を得た。僕はずっと「フランスの杉村春子」と呼んでいた。フランスの女優(生まれはドイツらしい)がイギリス映画にフランス人の役で出演し、英語をしゃべってアカデミー賞を受賞したわけである。

同じくローレンス・ハーヴェイも「年上の女」の打算的な貧しい青年の役で注目され、ハリウッドに進出した。ローレンス・ハーヴェイは典型的なイギリス俳優である。ハンサムというには顔がきつすぎるし、陰がありすぎる。目も鋭い。しかし、「年上の女」によってアカデミー主演男優賞にノミネートされ、アメリカ映画界に目を付けられオファーが続く。何と、絶頂期のエリザベス・テイラーの相手役に抜擢され、「バタフィールド8」(1960年)に出演し、リズに初のアカデミー主演女優賞をもたらせ、デュークことジョン・ウエインの監督主演による大作「アラモ」(1960年)に出演し、杓子定規な堅物トラビス大佐を演じた。

「年上の女」は貧しい田舎町から地方都市へ、鉄道で向かうジョー(ローレンス・ハーヴェイ)の姿から始まる。不遜で、挑戦的で、野心に燃えた目をしている。当時、イギリスはまだまだ階級の壁が厚かった。ジョーは貧しい労働者階級の生まれだが、上昇志向が強く、不相応な野心を抱いている。街に着き、彼は勤め先の役所に顔を出す。職場の同僚が下宿を手配してくれる。ある日、同僚に誘われて街のアマチュア劇団の公演を観にいくが、そこで団員のスーザンに惹かれる。スーザンは街の富豪で有力者の娘だ。彼女には、いつもエスコートしている男がいる。その男は上流階級出身で、第二次大戦にパイロットとして出征し、捕虜になったが脱走し、英雄として勲章をもらっている。

ジョーもパイロットとして戦争にはいったが、ほとんど捕虜収容所で過ごした軍曹だ。スーザンの恋人は、そのことでバカにしたように「軍曹」とジョーを呼ぶ。彼は労働者階級出身のジョーがスーザンにちょっかいを出すのが許せない。階級的な差別を繰り返す。今やジョーにとって、スーザンを自分のものにすることは、その男を見返すことであり、階級社会への復讐を果たすことである。彼はスーザンに惹かれているのか、スーザンを利用して自分の野心を実現しようとしているのかわからなくなる。だが、スーザンの両親はジョーに心を惹かれ始めている娘を危ぶみ、ふたりの仲を裂くためにスーザンを南仏に旅に出し、ジョーには故郷の街に好条件の仕事を用意する。しかし、スーザンの父の画策を知って、ジョーは転職を断る。

打算に満ちた自分がイヤになる時もあるのだろう、ある夜、ジョーは夫に冷たくされている劇団の主演女優アリス(シモーヌ・シニョレ)を目撃し、やさしく送っていく。アリスはフランスからきて教師をしていたが、イギリス人の夫と結婚した女性だ。夫が秘書と浮気旅行に出かけるのを知りながら耐えている。二十五歳のジョーより十歳ちかく年上である。しかし、ふたりは恋に落ちる。アリスといるときのジョーは、顔つきが違う。こういうとき、役者はすごいなと思う。愛し合うふたりの顔は、違って見えるのだ。確かに、どちらも主演賞にノミネートされる演技である。役者の演技がすごいと、見ている方には強い説得力がある。しかし、年上の人妻と愛し合った青年は、一体どうすればいいのか。

●シモーヌ・シニョレという女優の凄さを初めて知ったとき

こう言ってはナンだけど、シモーヌ・シニョレは美人ではない。僕が初めて見たシモーヌ・シニョレは、「パリは燃えているか」(1966年)だったから、中学生には「単なる太ったおばさん」にしか見えなかった。それに、オールスターキャストの作品だから出番が少なかったこともあり、印象は薄かった。若い頃のシモーヌ・シニョレは美人ではないけれど魅力的だったのだと知ったのは、「嘆きのテレーズ」を見たときだった。アンリ=ジョルジョ・クルーゾー監督の「悪魔のような女」(1955年)では、華奢で美人の監督夫人ヴェラ・クルーゾー(「恐怖の報酬」のヒロイン)と一緒に出てくるので、大柄なシモーヌ・シニョレは損をしている感じだった。

そのシモーヌ・シニョレが「年上の女」では、美しく見えるのだ。ジョーという野心家の青年の本質を彼女は見抜き、愛し包み込む。年上の女のやさしい愛情が見る者に伝わってくる。だから、ジョーも一度は彼女の離婚を待つつもりになる。しかし、夫がやってきて「絶対に離婚しない。今度は見逃すが、次は身の破滅だぞ」と宣言する。同じ頃、南仏から帰ってきたスーザンは、親から禁じられたが故にジョーへの想いを募らせ、ジョーに体を許す。ある日、スーザンの父に上流の倶楽部に呼び出され、「スーザンと結婚しろ」と言われる。彼女は妊娠したのだ。労働者階級出身のジョーは、成功を手に入れる。しかし、アリスへの愛を抱いたままスーザンと結婚しなければならないのか。野心が実現しそうになったとき、ジョーは自分が本当に望んでいたものに気づく。

シモーヌ・シニョレは、実生活ではイブ・モンタンと長く結婚していたことで知られる。イブ・モンタンは常に女性との噂があった艶福家である。ふたりの離婚の噂は何度も出た。しかし、シモーヌ・シニョレは「年上の女」のアリスのように耐えた(モンタンとシニュレは同い年だったけど)。だが、その忍耐が限度を超えたのは、イブ・モンタンがハリウッドに呼ばれ「恋をしましょう」(1960年)でマリリン・モンローと共演したときだった。マリリン・モンローは共演者とすぐに恋仲になるような女優だった。このときもイブ・モンタンとできてしまい、それは誰もが知ることになった。それを知ったシモーヌ・シニョレは自殺未遂を起こす。そんなに愛した相手だったのに、シニョレの死後、モンタンは再婚し、六十四歳で子供を持ち世界中の話題になった。

「年上の女」のシモーヌ・シニョレは美しいが、その十一年後に彼女はジャン=ピエール・メルヴィル監督の「影の軍隊」(1969年)に出演する。ドイツ軍に占領されていた時代のパリでレジスタンスに参加する人々を、クールに、ハードに、淡々と描いた名作である。シモーヌ・シニョレが演じたのは、レジスタンス組織の一グループのリーダーである。彼女は「鉄の女」だ。組織のために仲間を見殺しにせざるを得ないときには、冷徹に断を下す。裏切り者は、ためらわずに処刑する。ドイツ軍の本拠に乗り込むときには、勇敢で恐れを知らない女になる。見事なリーダーである。仲間たちは彼女に絶対の信頼を寄せる。

しかし、あることから彼女の娘がドイツ人の人質になり、彼女は自白を迫られる。自分が死ぬのは覚悟している。だが、最愛の娘は----。「影の軍隊」のラスト、シモーヌ・シニョレの表情が忘れられない。このシーンは涙なくしては見られないが、安易な観客の涙などは拒否される。これほど厳しく、冷徹なラストシーンを僕は知らない。初めて見た高校生のとき、僕はしばらく映画館の席を立てなかった。シモーヌ・シニョレという女優の凄さを初めて知ったときだった。

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