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2017年8月 3日 (木)

■映画と夜と音楽と…783 大量虐殺者の素顔



【アイヒマン・ショー:歴史を映した男たち/ハンナ・アーレント/サウルの息子】

●十歳にもならない小学生たちも「アイヒマン」という名前を知っていた

アイヒマンが何者か知らないのに、「アイヒマン、アイヒマン」と口にして騒いだ。人の名前だとは思えず、何かの怪物だと思っていた節もある。それがユダヤ人を大量虐殺したナチの将校だと理解したのは、ずいぶん後のことだ。それでも、当時、十歳にもならない小学生たちも「アイヒマン」という名前を知っていた。一九六一年の初夏。僕は小学四年生で、まだ九歳だった。前年の暮れ、教室の後ろでおしくらまんじゅうをしながら、意味もわからず「アンコ反対、アンコ反対」と騒いでいたのと同じだった。その頃、僕らがテレビで夢中になっていたのは「月光仮面」や「七色仮面」「少年ジェット」などだった。しかし、もしかしたらイスラエルで行われていた「アイヒマン裁判」の映像は、日本のテレビニュースでも流れたのかもしれない。

「アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち」(2015年)は、アイヒマン裁判をテレビ中継し、その映像を世界中に配信した男たちの物語である。今も記録映像として残るアイヒマン裁判の様子は、彼らによって撮影されたのである。もちろん、この映画にも実際のモノクロームの記録映像がふんだんに使われている。カラーの横長画面がスタンダードサイズのモノクロ画面に頻繁に切り替わるが、そんなことはまったく気にならない迫力が画面から伝わってくる。また、検事側の証人として出てきたホロコーストを生き延びたユダヤ人たちの証言は、記録音声として俳優たちが演じるフィクション部分に重なるが、その衝撃的な内容は強く見る者に迫ってくる。

アメリカ人テレビ・プロデューサーのミルトンがイスラエル政府にアイヒマン裁判のテレビ中継の許可を取るところから物語はスタートした。前年、アルゼンチンでイスラエルの諜報機関(モサド?)によって逮捕されたアドルフ・アイヒマンのニュースは世界を駆けめぐり、彼がイスラエルのエルサレムの法廷で裁判に掛けられることは大きな話題になっていたのだ。日本からも新進気鋭の芥川賞作家である開高健がイスラエルにわたり、アイヒマン裁判を傍聴しその記録をまとめた。開高健は、その後、アウシュビッツ収容所を訪ね、さらに東欧諸国をまわり、岩波新書で「声の狩人」「過去と未来の国々」というルポルタージュを発表する。

時代は一九六一年だ。まだまだテレビの映像技術は発達していない。しかし、ミルトンは世界中にアイヒマン裁判の様子を知らせることに情熱を燃やす。彼はディレクターに赤狩りで仕事を失ったドキュメンタリー映画監督レオ・フルヴィッツを起用し、中継実現に向けて邁進する。中継を可能にするには判事三人の了承が必要で、テレビカメラを目立たなくするために壁を改造し、テレビカメラを隠してしまう。また、現地スタッフも揃えるが、その中には収容所から生還した年輩の人物もいる。しかし、ミルトンの元には「中継を中止しないと家族は皆殺しだ」という脅迫状が届く。戦後十六年、まだまだ「ナチの残党」などと騒がれていた頃である。

裁判が始まる。画面には、実際の映像が多用される。アイヒマンによく似た俳優を使っており、本物のアイヒマンと切り替わっても違和感なく見られる。カラーからモノクロになるのに、この辺の編集は見事だ。監督のレオはアイヒマンの正体を映像で捉えようと、次第にのめり込んでいく。「なぜ、アイヒマンばかり映す?」と責められ、アイヒマンの人間的な反応を捉えたいと彼は答える。アイヒマンは収容所から生還した証人たちの体験を聞きながら、まったく反応を示さないのだ。中継スタッフの中には、証人たちの話を聞いて胸を詰まらせ、気分を悪くする人間さえ出ているというのに----。「おまえは、何者なのだ」とレオは、ブラウン管に映るアイヒマンにつぶやく。

●「アイヒマンは思考を停止し命令に従っただけの凡庸な小役人」か

アイヒマン裁判を傍聴し発表した文章によって、非難を浴びることになったのは、哲学者のハンナ・アーレントである。彼女自身もナチスの強制収容所を逃れ、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人である。その伝記映画が「ハンナ・アーレント」(2012年)だった。ドイツ、ルクセンブルク、フランスの資本によって製作され、ドイツ人の女性監督によって演出され、ドイツ人女優によって演じられた。ハンナ・アーレントはアイヒマン裁判を傍聴し、人々が「ユダヤ人を大量虐殺したアイヒマンは怪物」と思いたがるのに対して、「アイヒマンは思考を停止し命令に従っただけの凡庸な小役人」と書いた。いわゆる「悪の凡庸」である。

それは、アイヒマンが裁判の間ずっと言い続けた「私は命令に従っただけであり、私に責任はない」という主張を肯定したと受け取られたのかもしれない。また、ハンナ・アーレントはユダヤ人の中にもナチ協力者がいたことも指摘した。それも、「すべてのユダヤ人が犠牲者だった」と主張する(したい)ユダヤ人社会の反発を招く。世界中から、ハンナ・アーレントに対しての非難が湧き起こる。しかし、彼女が主張したかったのは、同じ状況に追い込まれれば、「誰でもがアイヒマンになってしまう可能性がある」ということだったのではないか。彼女は裁判の間中、アイヒマンを観察し続け、そのことを感じ取った。だが、当時、特にユダヤ人たちにとって、そんな主張をする人間はナチを擁護しているとしか思えなかったのだろう。

ハンナ・アーレントは「ナチは私たちと同じように人間である」と書いたが、「アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち」のレオも「なぜ、被告席のアイヒマンばかりを映すのか。なぜ、悲惨な体験をした証人たちに迫らないのか」と問われ、「アイヒマンがどういう人間か知りたい。私たちは誰でもがファシストになる可能性がある」と答える。それは、ハンナ・アーレントと同じ問題意識であり、自分の中の「内なるアイヒマン」に対して自覚的であり、ユダヤ人大量虐殺という歴史的犯罪を自分たちの問題として捉えようとしたからである。しかし、現地採用の年輩スタッフは「私は絶対にファシストにはならない」と頑なに主張する。彼自身、収容所の生き残りだったのだ。彼は、被害者意識に凝り固まっている。

高校生のときに読んだ月刊COM掲載の「解放の最初の日」という樹村みのりさんのマンガが僕の中に深く刻み込まれている。ユダヤ人の少年がナチの強制収容所に入れられるが、ある日、ユダヤ人たちに対するナチの兵士たちの扱いを見て、「彼らを脅えさせてはいけません」と言い出し、自分ならもっとうまくやれると提案するのだ。彼の提案は採用され、彼は清潔さを保つためにと説明してガス室に同胞を送り込む。死体の処理も合理的に行い、積極的にナチに協力する。やがて、ナチは敗北し、収容所が解放される。しかし、その解放のトラックに乗っているのは、ナチに協力した者たちばかりである。中には、死体から金歯を盗んでいた者もいる。

「解放の最初の日」は、僕に人間社会の複雑さを教えた。「アンネの日記」などを読み、単純に「ユダヤ人はナチに迫害され虐殺された被害者」と思っていた僕は、ひどく衝撃を受けたものだ。実際に、収容所でそういう事実があったかどうかはわからない。樹村さんが史実を調べて描いたのかどうかも知らない。しかし、その短編は、人間社会の持つ業のようなものを感じさせ、普遍的な何かを描き出したのだと僕は思った。虐げられた者は、さらに自分より下の人間を作ろうとする。虐げられた者は、いつでも虐げる者に転換する。それが、人間という存在だ。私たちは、同じ状況に置かれれば、もしかしたらアイヒマンになるのかもしれない。そんなことを十六歳の僕は考えた。

●ユダヤ人たちを大量に処理する労働を手伝わされるユダヤ人収容者たち

昨年のキネマ旬報ベストテンに入った「サウルの息子」(2015年)というハンガリー映画が描いたのが、樹村みのりさんの「解放の最初の日」と同じ設定だった。「ゾンダーコマンド」という存在が映画の冒頭で説明されるが、それはユダヤ人たちを大量に処理する労働を手伝わされるユダヤ人収容者たちのことである。大量殺人とひと言でいっても、一日に千人というハイペースで殺すとなると、大変な労働力が必要になる。そこで、ナチの兵士たちは監視役になり、実際の労働はユダヤ人収容者の中から選んで行わせた。ゾンダーコマンドたちは、収容されたユダヤ人たちの衣服を脱がせて整理し、ガス室に追い込み、ガスが引くと大量の全裸の死体を運搬する。死体を積み上げて燃やしたり、大きな穴に放り込んで埋めたりする。重労働である。しかし、ゾンダーコマンドである間は生きていられる。

ゾンダーコマンドのひとりであるサウルは、ある日、ガス室で生き残った少年を見つける。医療室に運び入れると、ユダヤ人医師がいる。サウルは「死んだら遺体を私に渡してほしい」と頼み込む。しばらくして、少年は息を引きとる。それから、サウルの遺体への異常な執着が描かれる。その少年の遺体を彼は隠し、ユダヤ人収容者の間をまわってユダヤ教のラビを探そうとするのだ。サウルは「息子の葬儀をしてやりたい」と口にする。そのラビ探しが延々と描かれる。カメラはサウルひとりを描くように彼に迫り、背景ははっきりとはわからない。しかし、全裸の死体が物のように引きずられたり、死体の山が映ったりする。そのたびにゾッとするのは、キャメラワークにリアリティがありすぎるからだ。その世界に自分が入り込んだような気分になる。

まるで、サウルと共に収容所内をさまよっているかのようだ。そこでは様々なことを見聞する。新しく到着したユダヤ人たちは、収容所で行われていることを知っており、監視兵たちの言葉を聞かず一斉に騒ぎ出す。ナチ親衛隊の兵士たちが容赦なく銃撃する。人々はパニックになり、サウルも巻き込まれる。それでも、サウルは死んだ少年を息子だと思い込み、ユダヤ教式の弔いをラビに施してもらえなければ天国にいけないと、ラビ探しを続ける。ゾンダーコマンドはいくつかの組に分かれているが、その組の間には縄張り意識や対立がある。サウルの組の中には、反乱を画策している者もいる。サウルのラビ探しによって、収容所内の様々な動きが浮かび上がってくる。やがて、サウルの所属する組は近々、全員がガス室送りになるらしいと伝わってくる。

ユダヤ人の大量虐殺の細々した仕事はユダヤ人自身にやらせる、とナチが考えるのは当然だ。強制労働の対象が同胞の処分なのであるから、これほど残酷なことはない。しかし、それを担えば自分の命が長らえるのであれば、人はそれに従うだろう。日本人捕虜たちも、シベリアの収容所に長く強制収容されたが、そこでは同じようなことがあったという。胡桃沢耕史の直木賞作品「黒パン俘虜記」を読めば、日本人捕虜間の無惨な話に胸を締めつけられる。日本人捕虜たちの間で、生き残るための悲惨ないじめや裏切りがある。ソ連兵に取り入り、仲間を売り、自分だけは生き残ろうとする人間たちがいる。それは、どんな人間の集団でも起こり得ることである。

だから、戦後七十年以上が過ぎても、繰り返し繰り返し「ユダヤ人ホロコースト」の物語が作られるのだろう。「人間に、なぜそんなことができたのだろう」と問いつづけることで、普遍的な人類の業として捉えようとしているかもしれない。ナチが消滅した後もナチ的なものは存在しているし、復活の気配さえある。ひとつの民族を滅ぼす意図の下で行われた大量虐殺は、セビリア、ボスニア・ヘルツェコビナ、ウガンダなど様々な場所で起こってきた。今なら、アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントが指摘したことは、多くの人に理解されるかもしれない。「六百万人のユダヤ人を殺した男は思考を停止し命令に従っただけの小役人であり、私たちもアイヒマンになる可能性はある」と言われ、僕らは「絶対にない」と言い切れるだろうか。

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