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2017年8月31日 (木)

■映画と夜と音楽と…784 西川作品にまつわる××について



【蛇イチゴ/ゆれる/ディア・ドクター/夢売るふたり/永い言い訳】

●女性監督が活躍する日本映画界の中でもトップランナーか

三回、夏休みで「映画と夜と音楽と----」を休載した。今回から再開するのだけれど、これで十九年目に入ることになる。メルマガ「日刊デジタルクリエイターズ」に毎週、映画コラムを書き始めたのが一九九九年の八月下旬だった。「日刊デジタルクリエイターズ」の夏休み明けからのスタートだったのである。最初は「デジクリトーク」として始まったが、途中からタイトルを「映画と夜と音楽と----」に変えた。「あなたと夜と音楽と----」をモジっているのだが、大した意味はない。また、数年前にメルマガ連載をやめて、自分のブログで書き続けることにした。それにしても、丸十八年間を書き続けてきたのかと思うと、ちょっと感慨深いものがある。何しろスタートしたのは二十世紀だったし、僕もまだ四十代だったのだ。

夏休みの間に読んだ本の一冊に、西川美和監督の「映画にまつわるxについて2」がある。西川監督は数年に一本しか作らない(作れない)ので、本編としては「蛇イチゴ」(2003年)「ゆれる」(2006年)「ディア・ドクター」(2009年)「夢売るふたり」(2012年)「永い言い訳」(2016年)の五本しかない。西川監督の新作が公開されると僕は必ず見ているわけだから、たぶん作品を評価しているのだろうけれど、好きな監督かというと何となく違う気がする。たとえば、同世代の女性監督としては、「かもめ食堂」(2006年)の荻上直子監督(1972年生まれ)、「百万円と苦虫女」(2008年)のタナダユキ監督(1975年生まれ)の作風については僕は明確に好きだと言えるのだが、西川美和監督(1974年生まれ)の作品については、単純に「好きな映画」と言いにくいのだ。

西川監督作品はどれも評価が高く、いろいろな映画賞も受賞している。キネマ旬報ベストテンに入る作品ばかりだ。「ゆれる」は二位だったし、「ディア・ドクター」は一位だった。それに、自ら脚本を書くので、脚本での受賞も多い。それを小説化すると、三島由紀夫賞の候補になったりする。初めて先に小説として書いた「永い言い訳」は直木賞候補作品となり、それを自ら脚本にして映画化する形になった。今のところ小説作品だけである「その日東京駅五時二十五分発」は、広島出身の彼女が書かずにいられなかったのだろうが、文学の世界で高い評価を受けている。才媛である。うらやましいほどの才能だ。

誤解しないように念を押しておくと、僕も西川監督作品は高く評価しているし、新作を楽しみにしている。公開されると必ず見る。しかし、どこかに微妙な違和感のようなものを感じるのだ。雨上がり決死隊の宮迫が主演した「蛇イチゴ」以来、その微妙な何かが僕をして「西川監督作品が好きだ」と断言させないのである。それは、いったい何なのだろう、と永く思ってきたが、エッセイ集「映画にまつわるxについて2」を読んで、何となくわかった気がした。この本は「永い言い訳」を発想し、小説を書き、それを映画化していく数年間を、自らが赤裸々(ここまで書いていいのかなと思うくらい)に明かす、文字によるメイキング(製作舞台裏)の公開だった。映像によるメイキングと違って、監督のメンタルな部分が明かされているのが、とてもおもしろい。

それで、僕が何を納得したかというと、「この人は非常に頭がいい」ということだった。文章は明晰で、自己についても謙虚や自惚れとはまったく異なるレベルで客観的であり、分析力は確かで、必要なら己の生活や過去の失敗などを明かすことができ、それを無理に茶化して道化を演じることもない。たぶん優等生だったのだろうと思ったら、僕が二度失敗した早稲田大学第一文学部の出身だった。エッセイの中で、大学生の時にカメラマンのアシスタントをしていたと書いていたので、てっきり日芸写真学科とか専門学校かと思っていたのだ。僕は早稲田一文出身者には無前提的に降伏することにしているので(会社員時代に信頼していたスタッフふたりは、共に早稲田一文出身だった)、そのエッセイを読んで感心してしまったのだった。

●是枝裕和監督は入社試験の面接で彼女の才能を見抜いたのか?

これは西川監督自身も書いていることだが、彼女は映像制作関係の仕事を志望して、いくつかの会社を受けた。そのひとつがテレビマンユニオンであり、その入社試験の面接官が今や日本を代表する監督になった是枝裕和さんだった。テレビマンユニオンの試験は落ちだが、是枝監督から「フリーでいいのなら仕事をしないか」と電話があり、是枝監督や諏訪敦彦監督などの現場を経験する。是枝監督作品では監督助手的なポジションとして、監督がオッケーを出したシーンにダメ出しをしたりする役だったという。二十代半ばでそんな得難い経験をし、是枝監督の勧めもあり、二十八歳で脚本監督を務めた「蛇イチゴ」(制作は是枝監督)でデビューし、新人監督に与えられる栄誉や賞をほとんど獲得した。

もちろん、西川監督本人の才能と実力(二十八歳で大勢のスタッフを指揮するのは力業だと思う)があったのは間違いないが、是枝監督がそれを見抜いたことを凄いと僕は思ってしまう。是枝監督は、二十三歳の就職志望の女子大生の中に何を見いだしたのだろう。「こいつは才能があるぞ」と確信したのだろうか。出版社に勤めていた頃、僕はリクルート担当者として多くの面接を経験した。数え切れない若者たちを見た。最終的には面接官たちの討議によって合格者が決まるのだが、その討議は常に紛糾した。全員が一致して推すことはほとんどなく、面接官によって推薦者はバラバラだった。僕が推した人の中にも、その後、あまり活躍しなかったり、編集者として不向きだったりという人物はいた。そんな時、面接官たちは「人を見るのはむずかしいな」と嘆きあったものだ。

昔の映画会社では監督の元に数人の助監督が付き、その中から監督に育つ人が出てくる。たとえば、木下恵介監督門下では小林正樹監督、吉田喜重監督、勅使河原宏監督、脚本家の山田太一さんなどがいる。しかし、現在の映画界の状況で、是枝監督と西川監督のような師弟関係は珍しい。西川監督はエッセイ集の中で是枝監督を「師匠」と書いているし、二十代半ばの自分を是枝監督は助手として常に身近に置いていたことで、自分が「マスコット的存在」あるいは「愛人」として見られていたのではないかとさえ書いている。気負いも衒いもなく、そうすんなり書けるのが凄いなあ、とまた感心してしまう。自身を冷静に分析し、客観的に見ることは、なかなかできることではない。

ということから、僕が西川監督作品に感じる「かすかな違和感のような何か」が何となく僕にはわかってきたのだ。つまり、それは「西川監督作品が理知的過ぎるのではないか」ということだった。もっと、くだけた言い方をすると「西川美和監督作品には、どこか理屈っぽさを感じる」のである。それは、もしかしたら西川監督が自身の発想(自分が見た夢が元だったりするという)を徹底的に分析し、膨らませ、集中して脚本化(小説化)し、すべての登場人物の生い立ちまで作り上げ、完全な世界を構築した上で映像化しているからかもしれない。現場で演出をするとき、彼女の中には、ひとつの世界が完成しているのだ。すべての登場人物は、生まれてからそのシーンに登場するまでの人生が把握されているのである。

しかし、それは、ある種の不完全さが醸し出す、曖昧さやゆるさを許さないのではないか。「蛇イチゴ」の賽銭泥棒で暮らしている行方不明だったやくざな長男が、自分の祖父の葬儀にぶつかり家族と再会してしまうという設定には、ナンセンスでバカバカしいおかしさがあるし、「ディア・ドクター」の過疎の村の偽医者に心酔する若い医者という設定にも、同じようにナンセンス喜劇の要素がある。「夢売るふたり」での焼けた店を再建するために、夫婦で結婚詐欺を始めるという設定も同じである。それを喜劇にすることも可能だけれど、どちらかと言えば西川監督は、そんなブラックな喜劇的設定からシリアスな方向にいくことが多い。ユーモアはあるのだけれど、作品としては「笑えない」方向にいくのだ。そこには、人間に対する冷徹な(見方によっては意地悪な)視線がある。

●西川監督は「嘘」を物語を進める原動力としてきたが---

高く評価された二作目「ゆれる」は、笑える要素などまったくないシリアスな作品だった。その作品からは、キリキリと見る者に強く迫るものをぼくは感じた。見るのが、つらくなったのだ。田舎で暮らす兄(香川照之)と都会で派手な生活を送る売れっ子カメラマンの弟(オダギリジョー)。兄が好きだった女(真木よう子)を気まぐれのように抱いて棄て都会に出た弟。その女を自分が営むガソリンスタントで雇い、ずっと保護してきた兄。ある日、弟が母親の一周忌で帰ってくる。ガソリンスタンドで昔の女と出会った弟は、その夜に女と再び関係を持つ。翌日、兄弟と女は吊り橋のある渓谷にいく。女は弟と一緒に東京へいくと言い出す。弟が写真を撮っていると、兄と女が吊り橋の上にいる。そして、女が落ちる----。兄は、女を突き落としたのだろうか。そんな物語である。

僕が最初に見た西川監督作品が「ゆれる」だった。映画を見て、理解できない何かが残った。それを知りたくて、僕は小説化された「ゆれる」を買った。カバーは吊り橋の写真である。しかし、小説は映画とはまったく異なるものだった。第一章は「早川猛のかたり」となっていて弟の一人称、第二章は「川端智恵子のかたり」で吊り橋から落ちて死ぬヒロインの一人称、第三章は「早川勇のかたり」で兄弟の父親の一人称、第四章は「早川修のかたり」で兄弟の伯父の一人称、第五章で再び「早川猛のかたり」で弟の一人称に戻り、第六章で「早川稔のかたり」で初めて兄の一人称になる。第七章で「早川猛のかたり」になり、物語はクライマックスを迎える。そして、エピローグ的に第八章「岡島洋平のかたり」で兄弟を等しく見る人間の視点を提出する。実に巧妙に設計された小説だった。

映画「ゆれる」と小説「ゆれる」は、まったく別のものである。同じ主題が展開されていても、まるで違う解釈が生まれる。やっぱり、西川美和はただ者ではない、という思いが強くなった。そして、小説「永い言い訳」が出版されたとき、僕はそれを手に取ったのだった。その書き方も、不思議な構成になっていた。それを映像化するときには、逆にシンプルにせざるを得ない。だから、映画化された「永い言い訳」の方がずっとわかりやすくなっている。そして、「映画にまつわるxについて2」を読むと、監督は手の内をすべて晒している。そのうえで、僕は映画化された「永い言い訳」を見た。そして、今まで西川作品に感じていた「違和感のようなもの」が薄まっているのに気づいた。

「永い言い訳」は、二十年連れ添った妻が友人とバス旅行に出て事故で死んだとき、妻の留守に女性編集者と自宅でセックスしていた小説家の物語である。主人公の衣笠幸夫(本木雅弘)は売れている小説家だが、本名が有名な野球選手と同じなのでペンネームにしている。二十年連れ添った美容師の妻(深津絵里)は、結婚以来ずっと「サチオくん」と呼んでいて、そのことにサチオは苛立つ。妻に髪をカットしてもらいながら、「編集者がきたときくらいは、サチオくんと呼ぶのをやめてほしい」と言う。その後、妻が親友とバス旅行に出かけると、サチオはすぐに愛人を自宅に招き入れる。ふたりは、夫婦のベッドでセックスする。翌朝、ふたりがソファで睦みあっていると、妻が事故で死んだと警察から連絡が入る。

旅行会社が開いた遺族への説明会で、サチオは感情をむき出しにして「妻を返してくれよ」と叫ぶ男と出会う。一緒に死んだ妻の親友の夫で、トラック運転手の陽一(竹原ピストル)である。彼には小学六年生の息子と就学前の娘がいる。彼らをフランス料理屋に招待したサチオだが、娘が甲殻類アレルギーで大騒ぎになり、陽一は娘を連れて病院へ走る。息子を預かったサチオは彼らのマンションにいき、息子が母親の死で中学受験をあきらめたことを知る。娘と帰ってきた陽一にサチオは「彼はあきらめきれてないよ」と言い、仕事で留守が多い陽一に代わって、自分が子供たちの面倒を見に通ってもいいと提案する。ノートとパソコンさえあれば仕事はできるのだと----。

「蛇イチゴ」では「おいしい蛇イチゴがある」という嘘が象徴的に提出され、「ゆれる」では女をつり橋から突き落としたのかどうかという虚実が描かれた。「ディア・ドクター」では偽医者の嘘が、「夢売るふたり」は結婚詐欺という嘘が、物語を進める原動力になった。しかし、「永い言い訳」では設定の中心に「嘘」は存在しない。もちろん、人間を描くときに「嘘」は重要な要素だが、「永い言い訳」の物語を進めるのは「残された者の後ろめたさ」である。妻が死んだときに他の女とセックスしていた男、その妻の死を悲しめない男、彼は「死んだ人間の復讐」を感じているのだ。そんなダメ男の心情が、妻が死んで以来、髪を伸ばしっぱなしにしている主人公から伝わってきた。

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