« ■「若者たち」が見た夢/夢を見るから人間なのだ | トップページ | ■イタリアの巨匠たちの作品には喚起的な映像があふれている »

2017年8月17日 (木)

■映画は理想を描きたい


以下は、昨年、高知の県立美術館ホールでの「ヒマラヤ杉に降る雪」上映会で依頼されて、一時間ほど話をした時のノートです。そう言えば、最近、サム・シェパードも亡くなってしまいましたね。

■映画は理想を描きたい

十数年ほど前のことですが、アメリカの映画協会が映画史上のヒーローの投票をし、順位をつけたことがあります。そのとき、インディ・ジョーンズもジェームズ・ボンドもランボーもおさえて一位になったヒーローは、アティカス・フィンチという人物でした。みなさん、ご存知ですか。

彼は南部の弁護士です。一作しか登場しませんが、良識的なアメリカ人の誇りとなっています。彼は、ハーパー・リーが書いた「アラバマ物語」の主人公です。映画化されたのは、一九六二年。まだ、南部では『ホワイト』と『カラード』という表示がレストランやバスやトイレなどに貼られていた時代です。日本人も、もちろん『カラード』になります。

私が 「アラバマ物語/to kill a mockingbird」を初めて見たのは、小学生の高学年だったと思います。テレビ放映でしたが、いたく感動しました。原作は暮らしの手帖社から今も発売されています。原作本の表紙は、映画で主人公の娘スカウトを演じた少女の写真です。映画は、大人になった主人公が少女時代を回想する形で語られます。

一九三二年、大恐慌まっただ中のアメリカ南部が舞台です。スカウトは六歳。少し年上の兄がいて、父親は弁護士。面倒見のよい黒人のハウスキーパーがいて、子供らを厳しくしつけています。

父親を演じたのがグレゴリー・ペックです。「ローマの休日」からほぼ十年、ペックは少し歳を取って落ち着いた感じになり、相変わらず誠実そうな人柄をスクリーンで見せてくれます。ペックは長く大根役者(アメリカではハム)と言われましたが、「アラバマ物語」のアティカス・フィンチ役で、ようやくアカデミー主演男優賞を獲得します。

「アラバマ物語」でペックが演じたのは、妻に先立たれてふたりの子供を育てながら田舎町で弁護士を営む男です。彼には知性と教養があり、真面目で誠実な人物です。穏やかで落ち着いた話し方をし、感情を露わにせず、そのくせ堅物ではなくユーモアに満ちています。

子供たちには愛情に溢れた理解のある父親だし、誰にも偏見を持たず公正に接しています。また、町の中に現れた狂犬を射殺するシーンでは、射撃の名手だったことが判明しますが、そのことを誇らない奥ゆかしさも描かれます。

彼はリベラルな考え方をする人間で、「偏見」という頑迷な呪縛から解放されています。一九三〇年代のアメリカ南部の白人としては、とても珍しい存在かもしれません。彼は黒人の青年が白人女性をレイプしたとして告発されている事件で、判事の頼みによって黒人の弁護を引き受けます。

一九三〇年代のアメリカ南部。その頃、黒人たちがどのように迫害され差別されていたのか私にはわかりませんが、白人たちのリンチに遭い木に吊るされた黒人の死体を「奇妙な果実」と歌ったビリー・ホリディの名曲「ストレンジ・フルーツ」が録音されるのは一九三九年のことでした。

誰も引き受け手のなかった黒人レイプ犯の弁護を父親が引き受けたがために、主人公の少女は学校でいじめられ、彼女は「なぜ、引き受けたの」と父親に問います。まだ幼い娘に父親は「自尊心を保つため」と正面から答えます。

それは彼の信念であり、生き方のスタイルです。困難な弁護になることはわかっているし、町の人々から非難されるだろうことも予想できました。だが、彼は引き受けます。なぜなら、自尊心をなくさないでいたいから----

無知と偏見と愚かさと、いわれのない敵意に充ちた南部社会の中でペックは誇りを失わず、「黒人びいきめ」と唾をかけられても毅然とした態度を崩しません。ペックが演じる弁護士は、私が考える理想の人物でした。

そんな非の打ちどころのない人物は、とかく聖人のように描かれ血肉の通わない非人間的なものになってしまいがちですが、ペックはそんな理想的な人物が現実の世界で生きているのだと思わせてくれます。

私は「アラバマ物語」を何度見たかわかりませんが、十七年ほど前からは「アラバマ物語」を見ると、私はもうひとりの父親を思い出すようになりました。「ヒマラヤ杉に降る雪」(一九九九年)の主人公(イーサン・ホーク)の父親(サム・シェパード)です。

第二次大戦に出征し日本軍と戦って片腕を失った主人公は島へ帰り、父親が発行し続けた新聞社を継いでいます。彼は社主であり記者であり印刷工でもあります。ある日、彼は日系人の漁師が殺人罪で起訴された法廷を取材する。太平洋戦争終結から間もない頃、日系人に対する偏見はまだ払拭されていません。

その被告人の妻は、今でも彼が愛している日系女性です。彼は少年時代から彼女に憧れ、いつか森の中で密会する間柄になっています。しかし、日系人と白人という違い、太平洋戦争の勃発、その後の日系人の隔離政策などによって彼らは結ばれない。

WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)っぽいイーサン・ホークと工藤夕貴のラブシーンは見ていて少し違和感がありますが、描き方に工夫があり見応えのあるラブストーリーになっています。特に少年少女の時代のエピソードは心に沁みるものがあります。

主人公の父親は戦前から島の新聞社を運営しています。彼はリベラルで公正で、偏見からは最も遠いところにいる人物です。時は一九四一年を迎え、真珠湾攻撃が起こり、日系移民たちが迫害される。その時、公正な立場から日系移民には何の罪もないことを彼は自分の新聞でキャンペーンを張ります。

しかし、そのことによって新聞は購読拒否に遭い経営難を迎える。彼の家には嫌がらせの電話がひっきりなしにかかってくる。自宅に石を投げ込まれる。「日本人びいき」と町では誹られる。しかし、彼は自分の信念を曲げない。日系人がアメリカ政府の命令によって強制収容され、自分の土地を奪われることを彼は正義ではないと説きます。

その父親も死に、主人公は父親の偉大な幻影を感じながら同じ道を歩んでいます。取材先で出会う人々は「立派なお父さんだった」と彼に言う。誇らしい反面、彼は自分自身に忸怩たるものを感じている。彼にとって父は決して越えられないライバルなのです。彼は独自に調査を続け、殺人で告発されている日系人の漁師にとってのある事実を発見します。彼は、その事実をどうするでしょう。それが、サスペンスを醸し出します。

彼は日本人の攻撃で死に瀕し片腕を失った。彼の恋人は日系の男に奪われた……。彼は日系人に対する自らの感情を手探りします。〈俺は日本人を憎んでいるのだろうか……〉と。その時、彼は思ったはずです。〈父だったらどうするだろう〉と。彼にとって父親は指針です。あるいはひとつの価値観です。理想を求めた父親の生き方は、間違いなく子供に伝わっています。

「アラバマ物語」は黒人に対する迫害と偏見、「ヒマラヤ杉に降る雪」は日系人に対する迫害と偏見がテーマになっています。共に法廷ドラマを核に物語が進行し、意外などんでん返しがあり、悲しくせつない結末があります。

この両方の映画に共通して出てくる醜い人間たちがいます。偏見に凝り固まり、己の欲に無自覚な人間たちです。黒人の弁護を引き受けたグレゴリー・ペックを誹る男たち、日系人を正当に扱ったゆえにサム・シェパードを非難する狭量な人間たち、日系人の弱みにつけ込み土地をだまし取り「だってあいつらは敵国の人間よ」と自己を正当化して恥じない女たちです。

グレゴリー・ペックはユダヤ人に対する偏見をテーマにした「紳士協定」(一九四七年)という映画にも出演しています。ジャーナリストの役で、彼はユダヤ人に対する偏見をレポートするために「実は僕はユダヤ人」という嘘のカミングアウトをして人々の反応を見ます。そのことによって、彼はひどい迫害、選別、差別を受けるのです。

見るからにWASP風なペックだから、ユダヤ人だとわかってからの相手の態度の変化が見られるのがこの映画の面白さです。彼らは豹変します。偏見を持つ人々は普段は紳士や淑女然としていても、相手がユダヤ人だとわかった途端にソワソワし落ち着かない。皆、一様に醜い表情に変わります。

人種偏見はアメリカだけの話ではありません。コリアン・ジャパニーズを自称する金城一紀の直木賞受賞作「GO」の中に出てくる恋人の父親は、金持ちでインテリで教養もありリベラルな振りをしていますが、「韓国人の血は汚れている」と平気で口にする、やはり醜い人間です。

主人公は、日本人の恋人に在日韓国人であることを告白できない。初めて彼らがセックスをしようとする直前、主人公はそのことを告白します。その時、ヒロインは心ではわかっていても、肉体が相手を拒絶していることに気付きます。「GO」は若いふたりが、偏見という実体がないくせにやっかいなものをどう乗り越えるかがテーマでした

2001年9月11日のニューヨーク貿易センタービルへのテロ事件以来、アメリカではアラブ系移民に対する緊張感が高まったそうです。真珠湾攻撃後の日系人に対する迫害を、そのことに重ねて論じるジャーナリズムもありました。半世紀以上たっても、人間の社会はそうしたことを未だに乗り越えられません。

映画はそんな人間の醜悪さを具体化して見せてくれます。「黒人びいきめ」とペックの顔に唾を吐きかける白人男の醜さ、黒人をリンチしようと集まってくる白人たちの下卑た顔、「白人のくせに日系人の味方をするのか」とサム・シェパードの家に石を投げ込む人間たちの卑劣さ、それを映像の力で見せてくれます。

「アラバマ物語」を見て、偏見に満ちた男たちに感情移入する人間はいないと思います。「ヒマラヤ杉に降る雪」を見て、自分もサム・シェパードの家に石を投げ込みたいと思う人間はいないでしょう。

私は、映画や本の効用を信じている人間です。そして、映画は理想を描くべきだとも思っています。私が神と仰ぐフランスの映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルはこう言っています。

──映画は夢を描くものだ。
私の映画は、もし私だったらこういうふうに行動したいという願望から作られている。

ギャングが主人公なら「こうありたいギャング」を描き、殺し屋が主人公なら「こういう風に行動したい殺し屋」を描いたメルヴィルです。そういう広い意味で、僕は映画は理想(夢)を描くべきだと思っています。理想(夢)を求めないで、どうして人間は成長できるでしょうか?

« ■「若者たち」が見た夢/夢を見るから人間なのだ | トップページ | ■イタリアの巨匠たちの作品には喚起的な映像があふれている »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

高知のシネマ・サンライズの吉川です。

その節は、大変お世話になりました。
相変わらず上映会は続けており、昨日はファミリー向けにブラジルのアニメ「父を探して」(アカデミー賞長編アニメーション部門ノミネート作品)を上映し、来月は「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」というジェイク・ギレンホール、ナオミ・ワッツ共演の映画、10月はデジタルリマスター・リバイバル作品「ミツバチのささやき」を予定しております。

十河さんも、中西さんの久しぶりの上映会でご講演されるようですね。

ずっと先の話しになってしまいますが、もし、十河さんが来年10月頃高松にいらっしゃるようでしたら、まだ日は決まっておりませんが、「いのちぼうにふろう」をフィルム上映したいと思っておりますので、作品に絡めての高知でのご講演をお願いできないでしょうか。

現在、東京のユーロスペースさんの選出だと思いますが、theアートシアターという名称で、デジタルリマスター化された選りすぐりの名作のリバイバル上映が行われています。その第一弾が「ミツバチのささやき」で、2本目は「動くな、死ね、蘇れ!」になっています。高知でも出来るだけ上映していきたいと思っていますが、“永遠のクラシック”というようなタイトルで、洋画と邦画を毎年その時期に交互に上映することを考えています。

今年は「ミツバチのささやき」を上映しますが、来年の10月は傾向は随分違いますが、最近評伝も出た小林正樹監督の「いのちぼうにふろう」を上映したいと考えています。そこでぜひ、この映画がお好きで時代劇も山本周五郎もお好きという十河さんにお話をお願いしたいのですが、いかがでしょうか。

まだ10月につきましては会場予約ができませんので、日にちは決まっておりませんが、東宝を通してフィルムは借りられるそうです。よろしくご検討のいただきますよう、お願いします。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/597837/65675284

この記事へのトラックバック一覧です: ■映画は理想を描きたい:

« ■「若者たち」が見た夢/夢を見るから人間なのだ | トップページ | ■イタリアの巨匠たちの作品には喚起的な映像があふれている »

無料ブログはココログ
2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30