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2017年8月10日 (木)

■「若者たち」が見た夢/夢を見るから人間なのだ


今週は夏休みです。「映画と夜と音楽と----」は休載します。
以下は、十年前に「団塊パンチ」という飛鳥新社が出していた雑誌に頼まれて書いたものです。

■「若者たち」が見た夢/夢を見るから人間なのだ

三十数年前のことだが、四年ほど阿佐ヶ谷に住んでいた。一度は阿佐ヶ谷に住みたかったからだ。阿佐ヶ谷という地名は、永島慎二の「若者たち」という漫画で初めて知った。

僕の手元に、今でも「永島慎二集」という立派な函入りの作品集がある。一九七〇年、高校三年生の冬に買ったものだ。その作品集の中に「若者たち」が収録されていた。漫画家の村岡栄が街で詩人を自称する青年と歌手をめざす青年を拾うところから始まる青春物語である。彼らが住んでいたのが、阿佐ヶ谷の安アパートだった。

「嵐」の面々が出演する「黄色い涙」(2007年)の原作が「若者たち」だと知ったとき、何をおいても見にいかねばと思った。脚本は市川森一。永島慎二の漫画に過剰な思いを抱いて脚色したに違いない。映画は永島慎二への献辞で始まる。二〇〇五年六月の永島慎二の死を知って、この映画は企画されたのではあるまいか。主人公の村岡栄介(二宮和也)には永島慎二が投影されている。

昭和三十八年(一九六三年)、東京オリンピックの前年、まだ戦後の風俗が色濃く残っていた頃の話だ。その時代を再現するために町並みが組まれ、木造の阿佐ヶ谷駅が作られ、懐かしい歌が流れる。新宿駅では傷痍軍人がアコーディオンを弾いているし、ロバのパン屋が蒸かしパンを売っている。

米屋のご用聞き(松本潤)が食堂の娘(香椎由宇)から借りていた「映画の友」一月号の表紙はキム・ノヴァックである。食堂の娘が歌手志望の青年(相葉雅紀)に振られて入る映画館では、小林旭の「南国土佐を後にして」が上映されている。

しかし、この映画は「ALLWAYS 三丁目の夕日」のように過ぎ去った昭和を再現し、観客のノスタルジーにのみ訴えるような作品ではない。普遍的なドラマがある。昭和三十八年であっても、二十一世紀であっても、人は夢を見る。そのことが「黄色い涙」のテーマなのだ。

思えば、永島慎二は「夢を見ること」を描き続けた作家だった。この映画の中で村岡栄介が描く作品として使われたのは「かかしがきいたかえるのはなし」という永島慎二の代表的な短編だ。それは「夢を持った悲しみ、夢を追い続ける苦しみ」を描いた珠玉の名作である。

人は夢を見る。逆に言えば、夢を見るから人間なのだ。そして、誰にも夢を見るだけで生きていられた時代があった。漫画家になる夢、歌手になる夢、小説家になる夢、画家になる夢…、四人の若者たちは阿佐ヶ谷のぼろアパートの一室で共同生活をしながら、それぞれの夢に向かって生きている。彼らは恋をし、挫折し、妥協し、やがて大人になる。

しかし、栄介はかたくなに己の夢にこだわる。漫画家の夢を棄てない。ひと夏かかって描き上げた作品を編集者に一蹴され、その夜、母親の危篤の電報を受け取って帰郷する夜汽車の中で、その作品を隣のボックスの少年に渡すシーンに漂う切なさは、彼がこだわり続ける漫画があるが故により高まる。

彼は単に漫画家になりたいのではない。自分が理想とする漫画が描ける漫画家になりたいのである。貧乏しようが、飢えようが、彼は妥協しない。そんなかたくなさを秘めながら、心優しいまじめな普通の青年を演じた二宮和也がとてもいい。

僕としては、栄介の病気の母親を演じた松原千恵子が懐かしかった。相変わらず痩せていて、切なそうな泣き顔は健在だ。かつて日活映画のヒロインを演じた松原千恵子が重ねた長い長い年月に思いを馳せながら、己の夢はどこへいったのだ、と劇場を出ながら僕はつぶやいていた。

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