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2017年9月 7日 (木)

■映画と夜と音楽と…785 密告者の悲哀



【トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/黒い牡牛/スパルタカス】

●ジョン・ウェインとロナルド・レーガンはゴリゴリのタカ派だった

ジョン・フォード監督作品に出演したジョン・ウェインはすばらしい。アトランダムに挙げても「捜索者」「黄色いリボン」「静かなる男」があり、「リバティ・バランスを射った男」は何度見ても泣く。また、ハワード・ホークス監督と組んだものには、「赤い河」「リボ・ブラボー」などがある。

ジョン・ウェインが六十を過ぎて初めて「勇気ある追跡」でアカデミー主演男優賞を獲得したとき、僕は我がことのように喜んだものだった。ガンに冒された体をおして出演した遺作「ラスト・シューティスト」は、ドン・シーゲル監督らしい作品で僕はとても好きだった。

ただ、ジョン・ウェインの政治的立場は好きではなかった。今生きていたら、彼はおそらくトランプ大統領を絶賛しているだろう。選挙応援も買って出たのではあるまいか。トランプ大統領はロナルド・レーガン大統領を尊敬しており、彼が行った政策をなぞろうとしているらしい。

ジョン・ウェインとロナルド・レーガンは、ハリウッドの俳優たちの中でも極端なタカ派でゴリゴリの共和党支持者だった。レーガンは二流の主演俳優だったが、ジョン・ウェインはアメリカを代表する大スターだった。高校生の頃、ジョン・ウェインが監督主演した「グリーンベレー」(1968年)を見にいった。ベトナム戦争真っ盛りのときに、「アメリカの正義」を謳いあげた時代錯誤としか思えない反共映画だった。

「グリーンベレー」では、ベトコンたちは雲霞のように押し寄せるエイリアンと同じ扱いだった。三角の傘をかぶり、アメリカ人から見ると無表情で不気味な東洋人の顔をしていて、殺しても殺しても押し寄せてきた。アメリカ兵たちは、アメリカに従順であるベトナムの善良な農民たちを救い、教え導き、自由の国を築こうとしているのだった。

ベトナム戦争に批判的なキャラクターとして、「逃亡者」で人気者になったデビッド・ジャンセンがリベラルなジャーナリストとして登場するが、彼はベトナムで戦うアメリカ兵たちの現実と英雄的行動を知ってタカ派に転向する。東洋の果てのようなベトナムの内戦に、アメリカが介入する大義を見出すのである。

ジョン・ウェインは、アメリカの英雄だった。白人で、男らしくて、豪放磊落。アメリカが世界で一番偉大な国だと思っている白人労働者たちの理想だった。トランプ大統領および彼を熱烈に支持する人々が夢見る「アメリカ男」の典型だった。(映画の中では)彼は勇敢で、死を怖れず、何より男の誇りを大切にした。

「コレヒドール戦記」(1945年)では、卑怯なジャップどもに負けてフィリピンを撤退しなければならなかったが、必ず帰ってきてジャップにめにもの見せてやると誓い、「硫黄島の砂」(1949年)では双方に多大な犠牲を出した硫黄島の戦いでジャップを殺しまくり、アメリカを勝利に導いた。擦鉢山に星条旗をたてる兵士たちは、太平洋戦争の勝利の象徴だった。しかし、ジョン・ウェインには従軍経験はなかった。彼が撃つのは、常に空砲だった。

●ダルトン・トランボの赤狩りに対する戦いを描いた作品

第二次大戦が終わると同時に、東西対立が始まった。ソ連はアメリカの敵国になり、アメリカに暮らす共産主義者は「アメリカ的なよきものに対する裏切り者」だった。共産主義者は弾劾され、排斥された。一九四七年、戦争終結から二年足らずのとき、ハリウッドでも共産主義者狩りが始まった。レッドパージである。

プロデューサーや監督、シナリオライターなど十九人の人々が、下院の非米活動委員会に召還されるという噂がハリウッドを覆った。そんな頃、ハリウッド一ギャラの高いシナリオライターであるダルトン・トランボは、仲間たちと「合衆国憲法修正第一条」についてのパンフを制作し、タカ派である「アメリカの理想を守る映画人同盟」の集会で配布しようとする。

「合衆国憲法修正第一条」とは、「思想信条および言論の自由、結社の自由」を保障するものである。つまり「国民が頭の中で考えることを、国家が裁くことはできない」とダルトン・トランボたちは主張し、「政府による公聴会に召還される義務はない」ことを訴えようとしたのだ。そのトランボたちの集まりに自宅を提供したのは、有名な俳優のエドワード・G・ロビンソンだった。

しかし、タカ派の「映画人同盟」議長ジョン・ウェインはロナルド・レーガンと組み、ハリウッドの共産主義者およびリベラリストたちを首にし仕事を奪おうとする。そこに、ハリウッド・ネタで人気のゴシップライターであるヘッダ・ホッパーが加わる。彼女は読者への影響力をバックに映画会社のボスを脅し、リベラルな人々の首を切らせる。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」(2015年)は、ダルトン・トランボの赤狩りに対する戦いを描いた作品だった。「ハリウッドに最も嫌われた男」というサブタイトルは見当外れで、「ハリウッドのブラックリストを終わらせた男」とつけるべきだろうが、「赤狩り」時代を知らない人には「ブラックリスト」がよくわからない。

共産主義者およびシンパ、さらにリベラルと目された人々がブラックリストに載り、不当に仕事を奪われ、生活を破壊され、中には自殺に追い込まれたのが、集団ヒステリーともいうべき「赤狩り」の時代だった。そして、「アカども」を憎み、彼らの仕事を奪ったひとりがジョン・ウェインだったことを、この映画では明確に描いている。この映画を見る限り、ジョン・ウェインはイヤな奴だ。

集会でパンフを配ろうとしたトランボとウェインは対立する。そのとき、トランボは「きみは自分が勝ったように戦争の勝利を誇るが、私は従軍した。きみの従軍地を言ってみたまえ。映画で撃つのは空砲だけだ」とウェインを挑発する。ウェインが怒り「何が言いたい」と身を乗り出すと、トランボは「殴るのならメガネを取る」とメガネを外して顔を突き出す。

また、その後のシーンでは、エドワード・G・ロビンソンへの仕事を妨害し、彼が音を挙げるのを待って公聴会で友を裏切る証言をさせ、その褒美のように「これからは仕事が殺到する」と高見から言うジョン・ウェインが登場する。そのときのエドワード・G・ロビンソン(本人によく似せていた)の表情が悲しい。密告者の悲哀がにじみ出す。

エドワード・G・ロビンソンは、公聴会で証言を拒否して議会侮辱罪に問われたハリウッド・テン(主にシナリオライターたち十人)の裁判闘争支援のためにカンパを募り、自らはゴッホの絵(彼は世界的な美術コレクターとして有名だった)を売って多額な資金援助をする。彼はトランボに「最高裁判事を買収するのならモネを売る」とジョーク混じりで口にする。

それほど、トランボたちを支援していたロビンソンったが、ジョン・ウェインやロナルド・レーガンたちの卑劣な妨害によって仕事を干され、公聴会で「共産主義者の知人」たちの名を告白してしまうのだ。「赤狩り」の時代が人々を傷つけたのは、権力が個人に裏切りを強要し、自分の破滅か、友人たちの破滅かを選ばせたことである。ジョン・ウェインたちは、その権力側だったのだ。

●十年以上たってハリウッドのブラックリストは有名無実化していく

ダルトン・トランボが「ローマの休日」(1952年)のシナリオを書いたことは、今ではかなり知られている。トランボの死後、遺族の元に「ローマの休日」で受賞したアカデミー原案賞が贈られた。一九九三年、「ローマの休日」公開から四十年後のことである。

トランボはハリウッドのリベラルな人々の名を載せたブラックリストによって仕事ができなくなって以後、変名でシナリオを書くしかなかったのである。彼は「ローマの休日」を書き、友人のシナリオライター(彼も後にブラックリストに載る)の名前で映画会社に売り込む。また、B級映画ばかり製作していたキング兄弟の会社で、様々な名前を使って数え切れないシナリオを書いた。一本のギャラが安かったから、数多く書くしかなかったのだ。

やがて、トランボたちが別名で書いていることを察したジョン・ウェインやヘッダ・ホッパーたちは、「彼らを雇うと、俳優たちに仕事をボイコットさせ、映画が作れなくしてやる」とキング兄弟を脅しにくる。そのときの兄のフランク(ジョン・グッドマン)の対応が痛快だ。

弁護士然とした連盟の男を、フランクはバットを振るって叩き出す。「俺たちの映画は、俳優なんて素人でもいいんだ。新聞に書くなら書け。俺たちの客は新聞を読まん」と怒鳴りながら----。そこへ、トランボが「黒い牡牛」のシナリオを持って現れる。そして、公開された「黒い牡牛」(1956年)はアカデミーのオリジナル・ストーリー賞を受賞する。しかし、作者とされたロバート・リッチは授賞式の壇上に現れなかった。

トランボたちが仕事を奪われて十数年が過ぎた頃、トランボを訪ねて人気俳優のカーク・ダグラスがやってくる。後に彼の代表作になる「スパルタカス」(1960年)のシナリオの依頼だった。同じ頃、ドイツ人でヒット作を連発しているオットー・プレミンジャー監督も、ポール・ニューマン主演を予定している「栄光への脱出」(1960年)のシナリオ執筆をオファーしてくる。オットーは第一稿を読んで、「この程度のレベルなら実名でクレジットするぞ。責任をとらせるんだ」と、苦虫をかみつぶした顔で言う。そんな言い方で、トランボを支援しているのだ。

ブラックリストに載っている人物を雇うと、映画製作を妨害され、チケットの不買運動が起こると脅されていた時代、そんなことをまったく怖れないオットー・プレミンジャーの存在は珍しい。一方、カーク・ダグラスは共同プロデューサーから「トランボをおろせ」と言われ、ヘッダ・ホッパーからも露骨な脅しを受ける。

しかし、「だったら俺は外れる。撮りなおせ」と言ってカーク・ダグラスは試写室を後にする。完成した「スバルタカス」を見たケネディ大統領は、「すばらしい映画だ。大ヒットするだろう」と絶賛する。何しろ、鬼才スタンリー・キューブリック監督が演出した作品なのだ。

「スパルタカス」「栄光への脱出」には、堂々とダルトン・トランボの名前がクレジットされた。それによって、ハリウッドのブラックリストは有名無実化していく。やがて、エイブラハム・ポロンスキーが自らの脚本で「夕陽に向かって走れ」(1969年)を監督し、六〇年代からは本名で書けるようになったトランボも自らの小説を脚色し監督した「ジョニーは戦場へ行った」(1971年)が公開され、話題になる。その前年、リング・ラードナー・Jrが脚本を担当した「M★A★S★H」(1970年)がヒットした。彼らは、レッドパージを受けた代表的な人たちだった。それらの映画が公開された頃のことは、僕も鮮明に憶えている。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」は、一九七〇年になり、シナリオ協会の賞をもらったトランボが壇上で挨拶するシーンで終わる。彼の挨拶を聞いている招待客の中には、年老いたエドワード・G・ロビンソンがいる。彼は複雑な表情だ。「あの不幸な時代。誰もが傷ついた」とトランボが言う。最も傷ついたのは、自己の破滅か、友人の破滅かを権力に迫られ、友人の名を明かすことで裏切らざるを得なかった、エドワード・G・ロビンソンのような人たちなのかもしれない。

エドワード・G・ロビンソンは数年後、ガンに冒された病床でアカデミー名誉賞の受賞を聞き、この世を去った。トランボはそれより六年長く生き、一九七九年、七十三歳で亡くなった。トランボが亡くなる三ヶ月前、ジョン・ウェインはガンのため七十二歳で死んでいた。トランボとウェインは二十世紀のアメリカで、ほとんど同じ時間を生きたが、まったく異なる生き方を選んだ。

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