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2017年9月21日 (木)

■映画と夜と音楽と…787 孤独な老人は猫を飼う



【ブロークン 過去に囚われた男】

●二カ月ぶりの高松で近所の公園に五匹の猫が住み着いていた

七月初旬に千葉の自宅へ戻り、二ヶ月たって再び高松の実家に帰ってきた。四月初旬から三ヶ月ほど高松にいて、その間、毎朝の散歩で近くの神社周辺で暮らしている猫たちと顔見知りになった。中でもキキと名付けた(「魔女の宅急便」の黒猫から名付けたつもりだったけれど、キキは主人公の名前でしたね)黒猫は、僕を見ると近づいてきて「ニャーオ」と鳴く仲になった。彼(彼女かもしれないが)は、黒猫とはいっても毛並みが悪く、近くで見ると少しグレーがかって見えた。病気なのか、ときどき「ゴホッ」と咳をするし、体も小さい。目はグリーンに見えたが、目やにが目立つときもあった。

毎朝、僕が神社の近くにいくと、神社の前の民家のガレージに駐車している車の下で待っていた。僕がじっと立って待っていると、最初は警戒しながら近づいてきた。そんなことが続いて、警戒心は少しずつ薄れていったようだ。あるとき、神社でお参りをして振り向くと、足下にキキがいたことがある。じっと、僕を見上げている。僕のお参りが終わるのを待っていたのだろうか。雨の日は、神社の軒下で待っていた。雨に濡れたみすぼらしい姿で涙を誘う。元々、病気なのか手並みにムラがあり、哀れを誘うところがあった。他にもう一匹、黒猫がいたが、その猫は艶やかな黒い毛並みで視線も凛としていた。

七月初め、自宅へ帰るのでしばらく会えなくなると、何日か前から話していたのだけれど、キキに通じたかどうかはわからない。最後の日には、「元気で待ってろよ」と声をかけたが、心なしか心配そうな顔をしていた気がする。自宅でいる間、キキのことがずっと気になっていた。九月初旬に再び高松に戻ると、翌朝、すぐに神社へいった。顔の真ん中が黒く、僕が「鼻グロ」と名付けた大柄な斑の猫はいた。あの毛並みのよい黒猫もいた。屋根の上でじっとしていたのは、二ヶ月前にはまだ小さかった三毛猫だ。キキとよく一緒にいた。二ヶ月前には見かけなかった茶色の猫もいた。しかし、キキはいなかった。

それから二週間、毎日、早朝、昼間、夜と時間帯を変えて神社とその近辺を歩いているが、キキには出会わない。他にいくところなんかないはずだ。やっぱり死んじゃったのだろうか、と考えると胸の奥が痛くなった。千葉の自宅と高松の実家をいったりきたりの生活だし、ひとり暮らしだから猫を飼うのは無理だと考えて、野良猫と散歩する猫好き老人の関係を保っていたが、やっぱり保護すべきだったのかと後悔する。先日、地方ニュースで香川県がまた犬の殺処分数が日本一になったこと、猫と合わせると全国四位であることが報じられた。まさか、殺処分されたのではあるまいな、とまで考える。しかし、あきらめきれず、毎朝、キキがいた場所を散歩している。

それにしても、実家周辺の猫の動向は激しく変化する。数度見かけただけで、いなくなった猫も多い。二ヶ月前にはいなかったのに、今度帰ってきたら近所の公園に五匹の猫が住み着いていた。茶トラ、キジトラ、三毛、レッサーパンダ風、それに白猫である。まだ、生まれて数ヶ月から半年くらいだと思う。「安易な餌やりが野良猫を増やす」と言われるけれど、誰かが餌皿を置いてキャットフードをやっている。先日、茶トラの子猫が餌をせっせと食べているのを見たら、何だか切なくなってしまった。また、自宅に戻る前に少しなついていた茶トラが近所の田圃の周辺で暮らしているのだが、先日、散歩の途中で出会い「生きてたか」と喜んだ。その後、しばらく僕の跡をついてきて、道の角で前脚を立てた猫座りをした。しばらくして振り返ると、まだじっとこちらを見つめている。たまらなくなった。

●深い孤独の中に生きる老人を癒すのは猫よりほかにいない

七十半ばになったアル・パチーノが主演した「ブロークン 過去に囚われた男」(2014年)の主人公マングルホーンは、出演シーンの半分くらいは子猫を相手にしていた気がする。画面のどこかに子猫がいるか、彼が子猫を抱いているか、子猫に話しかけているのだ。何しろ、猫のレントゲン写真が出てくるし、子猫の手術シーンが詳細に描写される。そこまでやる必要があるの、と思うくらいだった。僕はおもしろく見たが、客が入らないと思われたのか、劇場公開はされなかった。確かに地味で、ちょっと抽象的でわかりにくい作品だけど、老人の孤独は身にしみてよくわかる。ベルイマンの「野いちご」(1957年)のように、老人を主人公にすると人生の深さが描ける気がする。

マングルホーンは小さな鍵屋を営んでいる。車に子供が閉じこめられて呼ばれたり、古い金庫を開けてくれと頼まれると店名を描いたバンで出かけていく。ひとり暮らしで、家に帰るとファニーと名付けた子猫に話しかける。現在の心配はファニーが食べ物を吐き、便をしないことだ。この子猫のエピソードが映画の主要なストーリーになっている。病院でレントゲンを撮ると、飲み込んだ鍵が小腸で詰まり、腸閉塞を起こしているという。念のため別の病院の獣医の意見も聞き、マングルホーンはファニーの手術に同意する。その費用はけっこう高いので、分割での支払いにしてもらう。そして、子猫の手術の様子が詳細に描かれる。

マングルホーンはいつも金曜日に銀行へいく。窓口のドーンという年輩の女性は犬を飼っていて、互いにペットの報告をし合う仲だ。また、ある夜、気分を変えるために出かけたゲームセンターで、マングルホーンはギャリーという男と再会する。ギャリーはマングルホーンを「伝説のコーチ」と呼ぶ。かつてマングルホーンは少年野球のコーチをしていて、ギャリーは今も尊敬しているらしい。ギャリーは日焼け・マッサージサロンを経営していて、ぜひコーチにもきてほしいと名刺を出す。ギャリーの話では、マングルホーンの息子のジェイコブも少年野球チームにいたが、親子は今は疎遠になっているらしい。「ジェイコブは成功したらしいね」とギャリーが言うと、「親はこんなだがな」とマングルホーンは答える。

そのジェイコブのオフィスをマングルホーンは訪ねる。金融関係の仕事をしているらしい息子は、詐欺まがいの口調で取引の電話をしている。父親を高級レストランに連れていくが、つまらないことで親子は言い争いになる。「母さんとは話すかい」とジェイコブが言い、「いや」とマングルホーンは答える。ふたりは離婚したらしい。「妻を愛したことはない」と彼は言う。気まずい気分で息子と別れ、マングルホーンは孫娘と遊ぶ。しかし、子供相手でも気むずかしい老人である。結局、彼が愛情を注ぐのは子猫のファニーだけなのだ。そして、彼は出すあてもなく、クララへの手紙を書き続ける。クララは昔の恋人なのだろうか、彼にとっては「完璧な女性」なのである。

ある日、老人たちの集まりにドーンを誘ったことから、ふたりはデートをする間柄になる。ドーンを演じているのは、「ピアノ・レッスン」(1993年)のホリー・ハンターだ。彼女は人生を肯定的に生きている女性で、毎朝、新鮮な気持ちで新しい日を迎えているという。「友だちは人生を豊かにしてくれる宝よ」と、ポジティブな生き方をしている。そのドーンにマングルホーンは、「自分のボートにファニーを抱いて乗り、海の彼方に消えていくのが夢だ」と語る。ネガティブな夢である。偏屈で、短気で、根暗な老人を、しわがれ声のアル・パチーノが迫真の存在感で見せる。過去を振り返ることでしか幸福感を得られず、老いた先の死を待ち望む日々。その孤独は深い。彼の孤独を救うのは、猫だけである。

●非情な警部も猫を相手にしたときには「猫なで声」を出していた

孤独な老人には猫が似合う。彼の孤独を救えるのは、猫だけしかいない。ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「仁義」(1970年)でヴールヴィルが演じた初老の警部は、数匹の猫を飼っていた。誰もいないアパルトマンに帰って彼が最初にやることは、猫たちに餌を与えることである。アパルトマンの中で、捜査で何日も帰ってこない警部を猫たちはおとなしく待っているのだ。彼は一匹一匹の名前を呼びながら餌皿に餌を出し、水の器に新しい水を満たす。護送の途中で逃げられた犯罪者を探し出すために、堅気になっていた昔の仲間の息子を薬物保持容疑で逮捕し、息子の刑期を取引材料として密告を促すという卑劣な手段を用いる非情な警部も、猫を相手にしたときには「猫なで声」を出していた。

第二次大戦が終わって間もないアメリカ。日系移民が多く住む島で弁護士を開業するマックス・フォン・シドーは、漁業を営む日系移民の男が殺人罪で起訴された事件を引き受ける。島の白人たちは日系人に対する偏見を抱いたままだし、まだ十年前にしかならないパール・ハーバーへの攻撃を忘れていない。日本人は敵であり、日系人たちは感情のわからない不気味な存在なのだ。そんな中で、マックス・フォン・シドーは日系人青年の弁護を引き受ける。人種偏見が判決を左右してはならないと、彼は力説する。弁護のために様々な資料を読み込む。そんな彼のデスクの上をアメリカン・ショートヘアの子猫が歩く。資料読みの邪魔をする子猫を、マックス・フォン・シドーは愛おしそうになでる。「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)の中の最も心暖まるシーンだ。

老人とは言えないが、孤独であることは共通している「ロング・グッドバイ」(1973年)のフィリップ・マーロウ(エリオット・グールド)も猫によって救われている。原作者のレイモンド・チャンドラーが愛猫家だった(タキという黒猫を抱いた写真が残っている)ので、脚本家が原作にはない猫を登場させたのではないかと川本三郎さんは書いていた。マーロウは夜中に猫の餌を切らして買いにいく。いつものキャットフードがない。仕方なく別のものを買い、いつもの缶に入れ替えて猫に与えるが、猫は食べない。最初に見たときは笑ったが、今なら猫が食べないのは当然だとわかる。猫はキャットフードのラベルを見て食べるのではなく、匂いでわかるのだ。いつもと違う餌は食べないだろう。その猫が、友人に裏切られたマーロウの心を癒す。

ところで、今朝、散歩の途中、キキとよく一緒にいた小さな三毛猫と出会った。高松に戻って、何回か民家の屋根に寝そべっているのを見かけたが、路上で出会うのは初めてだった。僕が彼(彼女かもしれないが)の前に身を屈めると、三毛は見上げて「ニャーオ」と鳴いた。間違いなく、僕のことを憶えていた。しかし、その後、威嚇するように牙を剥いた。甘えているのではない。怒っているのかもしれない。三毛が、もう一度、「ミャーオ」と鳴いた。「おまえが勝手にいなくなったから、キキは死んでしまったじゃないか」と、責められている気がした。

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