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2017年9月28日 (木)

■映画と夜と音楽と…788 三十年の馬鹿騒ぎ



【仁義の墓場/暗黒街の顔役】

●「やすらぎの郷」にはいろいろな昔の映画が使われていた

倉本聰さんの久しぶりの連続ドラマ「やすらぎの郷」が話題になっている。もっとも、九月いっぱいで終わりそうだ。八千草薫が演じていた九条摂子が死に、その摂子に純愛を捧げ続けてきた「やすらぎの郷」のスポンサーである、芸能界のボス加納英吉(織本順吉)が死んで、一気に最終回に向かっている。主人公の脚本家・菊村栄は倉本聰さん自身を思わせるし、他の出演者も本人に近いキャラクターを演じている。女優たちの若く美しい頃のプロマイドやスチール、過去の映画などがときどきインサートされ、懐かしい思いにとらわれることもある。

加賀まり子が演じるマヤという女優も、もちろん彼女自身を想像させるが、若い頃のスチールで使われたのは「月曜日のユカ」(1964年)ではなかっただろうか。これは、僕が小学生のときに公開された作品で、才人監督・中平康の代表作のひとつになった。小悪魔と呼ばれた時代の加賀まり子主演で、彼女が演じたユカは金持ちの愛人(当時は二号と言った)だった。パパと呼ばれるパトロン役は、なんと加藤武だ。そのパパに隠れて会っている若い恋人が中尾彬である。

「月曜日のユカ」には、シナリオに若き倉本聰さんが加わっている。斎藤耕一との共作だった。斎藤耕一はスチルカメラマンから監督になった人である。「囁きのジョー」(1967年)で監督デビューし、後にアート・シアター・ギルド(ATG)で「約束」(1972年)や「津軽じょんがら節」(1973年)などを作るが、シナリオだけに参加することもあったらしい。若い頃、倉本さんは日活作品の脚本を多く書いている。それにしても、五十三年前の小悪魔的なイメージを今も持続している加賀まり子はすごい。

認知症のしのぶ(有馬稲子)の付き人で愛人という役で藤木孝が出ていたが、相変わらずおかっぱ頭みたいなヘアースタイルだったので嬉しくなった。ロカビリー歌手として人気が出た彼は、六〇年代前半に何本か映画に主演し、その後、悪役などを多く演じてきた。僕が思い出すのは、加賀まり子と共演した「涙を、獅子のたてがみに」(1962年)という篠田正浩監督作品だ。ストーリーはエリア・カザン監督でマーロン・ブランド主演の「波止場」(1954年)にインスパイアされたところがあるけれど、僕は好きな映画である。

「涙を、獅子のたてがみに」の加賀まり子は純情なウェイトレスを演じているが、若く溌剌としていて美しい。また、妖艶な人妻を演じた岸田今日子が印象に残る。波止場の労働者役で若き近藤正臣(「やすらぎの郷」に老ディレクター役で出演している)が出ているが、セリフもなく、ほとんどエキストラと同じ扱いだった。彼が注目されるのは、今村昌平監督の「『エロ事師たち』より 人類学入門」(1966年)の坂本スミ子の息子役である。タイトルクレジットには、「近藤正臣(新人)」と出ている。

八千草薫が演じた九条摂子という女優は戦前から活躍していた設定になっているが、八千草薫自身は戦後にデビューした人である。宝塚を経て映画デビューした。「やすらぎの郷」の中で彼女自身が見ていた昔の映画は、「夏目漱石の三四郎」(1955年)だと思う。この映画を僕は見ていないが、服装などから彼女が演じているのは、おそらく美弥子である。八千草薫は二十四歳だった。おでこが目立つが、美しさの絶頂にあった。

僕が印象に残っている若き八千草薫というと、文芸映画の巨匠と呼ばれた豊田四郎監督の「雪国」(1957年)だ。川端康成の有名な小説である。駒子を岸恵子、島村を池部良が演じ、八千草薫が葉子を演じた。おとなしい純情な役ばかりだった八千草薫だったが、「雪国」では駒子と島村に敵意を抱き、いつも怒りの表情を見せていた。「駅長さーん、駅長さーん」と、夜汽車の窓を開けて呼ぶ姿が新鮮だった。

●芸能界のボス役の織本順吉が最期に口にした辞世の句

芸能界のボスを演じた織本順吉は、いろいろな映画やテレビドラマに出ていた人である。「仁義なき戦い 完結篇」(1974年)では早川組長を演じていたのをよく憶えている。三部・四部で室田日出男が演じていた早川は、年をとって織本順吉になったわけだ。織本順吉の実年齢は九十歳。「やすらぎの郷」では、百歳近いフィクサーを演じていた。元海軍の参謀で、戦後は芸能プロ社長として芸能界を仕切ってきた男という設定である。裏社会にも通じていて、政財界にも影響力を持っていた。その男の最期に石川力夫の辞世の句をしゃべらせていた。例の「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」である。

渡哲也が石川力夫を演じた「仁義の墓場」(1975年)で、刑務所の屋上に昇った石川力夫は頭までかぶった毛布から顔を見せ、ニヤリと笑って身を投げた。その房の壁には「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」と描かれている。石川力夫は水戸の出身だった。同じ水戸出身の深作欣二監督は、個人的な興味が強くあったのではないだろうか。「仁義の墓場」は深作監督の最高傑作だと僕は思う。しかし、もう一度見ろと言われると二の足を踏む。主人公の石川力夫の生き方が凄まじすぎるのだ。初めて見たとき、こんな人間がいるのか、と衝撃を受け口も利けなくなった。

「仁義の墓場」で渡哲也は渾身の演技を見せる。せっかく大病から復帰したというのに、この映画を撮ってから再び入院した。渡哲也は「仁義の墓場」を撮る前後、倉本聰さんと多く仕事をしている。まず、NHKの大河ドラマ「勝海舟」は倉本さんが脚本を担当し、主演は渡哲也だった。しかし、渡哲也は病気で倒れ、長期入院する。代役は松方弘樹である。しかし、NHKとのトラブルで嫌気がさした倉本さんは北海道へ逃避する。それが、倉本さんが富良野に移住するきっかけになった。

一方、渡哲也は長期入院している間に「くちなしの花」が大ヒットする。このおかげで「経済的には助かった」と、どこかで渡哲也は話していた。このときの病が癒えて、復帰第一作が「仁義の墓場」だった。そこで無理をしたのか、再び渡哲也は入院した。やがてテレビドラマ「大都会--闘いの日々--」(1976年)で復帰するが、その脚本を書いていたのが倉本さんだった。渡哲也の役名は黒岩刑事。再び深作監督と組んだ「やくざの墓場 くちなしの花」(1976年)の主人公も黒岩刑事だった。

ということで、倉本さんが「やすらぎの郷」の織本順吉の最期の言葉で「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」と言わせたのは、「仁義の墓場」の印象が強かったからではないかと僕は推察した。その言葉を聞いた石坂浩二演じる菊村栄は、やすらぎの郷に帰って高井秀次(藤竜也)と白鳥(上条恒彦)に織本順吉の臨終の様子を話すのだが、「最期に『大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ』と言った。昔の極道の辞世の句だそうだ」と説明していた。

この石川力夫の辞世の句に倉本さんとしては、強い思い入れがあるのかもしれない。僕も機会があれば、死ぬときにこの辞世の句を引用するつもりだった。ただ、僕の場合は何の説明もなく、七十で死ぬのなら「大笑い、七十年の馬鹿騒ぎ」と言うつもりだった。引用ではなく、剽窃。つまり、パクリである。

●石川力夫の自殺から三年後に公開された「暗黒街の顔役」

石川力夫は、戦後すぐに新宿で闇市を開き、「光は新宿から」というフレーズで有名になった和田組マーケットの和田組に属していたやくざである。自分の親分である和田組長を日本刀で襲い、全治一ヶ月の重傷を負わせた。「仁義の墓場」で親分を演じていたのは、ハナ肇だった。狂犬のような石川力夫が現れると、腫れ物にさわるように対応していた。石川は府中刑務所に収監され、やくざ社会からは「関東ところ払い」を食らう。大阪でシャブ中になり、再び東京に戻るが、人を殺して再び刑務所に入る。その刑務所で自殺する。そのときの辞世の句が「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」であり、彼の墓には「仁義」の二文字だけが彫られているという。

石川力夫が自殺したのは、一九五六年二月二日のことだった。戦後の十年間を駆け抜けた極道だった。石川力夫が残した辞世は、当時、有名だったのかもしれない。確かに人殺しの極道が残すには、何だか心に残る辞世の句ではある。三年後のことだが、この辞世の句を映画の中で使ったのは岡本喜八監督だった。「暗黒街の顔役」(1959年)は鶴田浩二のやくざが主人公だが、彼は最後に傷つきながら車を運転して殴り込みに向かう。死を覚悟したそのとき、鶴田浩二は「三十年の馬鹿騒ぎか」と自嘲気味に口にする。

「暗黒街の顔役」には、東宝の役者が勢ぞろいした感がある。三船敏郎は自動車修理工場のオヤジの役だった。平田昭彦も似合わないやくざを演じている。冒頭に金融業者の社長が殺されるシーンがあり、その殺し屋を演じた佐藤充が怖かった。鶴田浩二はやくざで、弟(宝田明)をかばう兄でもある。同じタイトルのハリウッド映画もあり、当時は「暗黒街」や「顔役」という言葉はよく使われていた。しかし、現在、どちらも死語になってしまった。

三船敏郎と鶴田浩二は、ほとんど同じスタッフ・キャストで撮った「暗黒街の対決」(1960年)でも共演しているし、それ以前に稲垣浩監督版「宮本武蔵」(1954年)では、三船が武蔵を演じ、鶴田が佐々木小次郎を演じた。このとき、お通を演じたのが八千草薫だった。このお通役で八千草薫は人気を不動のものにした。「やすらぎの郷」の九条摂子はある監督を「先生」と慕い続けて生きてきた設定だったけれど、八千草薫自身も親子ほど年の離れた谷口千吉監督と生涯をまっとうした。

ところで、石川力夫の辞世の句は、彼の自殺当時(昭和三十一年)、かなり有名になったのだろうか。「暗黒街の顔役」のシナリオを書いたのは関沢新一。東宝で数多くのプログラム・ピクチャーを書いている。彼は印象に残っていた石川力夫の辞世の句を、死を覚悟した主人公の最期のセリフにした。それほど有名だったとすれば、倉本聰さんも同時代の事件として石川力夫の死を知っていたかもしれない。石川力夫が死んだとき、倉本さんは二十一歳、まだ東大生だったが、若かった故にその辞世の句は印象に残ったかもしれない。

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