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2018年3月29日 (木)

■映画と夜と音楽と…811 人生をやり直したいか?



【リライフ/ペギー・スーの結婚/カミーユ、恋はふたたび】

●「もっと別の人生があったのではないか」と思い始める中年期

僕は「人生はつらい」あるいは「人生は苦い」派だから、人生の持ち時間がいくらあるか知らないが早くなくなってほしいと思っている方なので、「もう一度人生をやり直してみないか」とメフィストフェレスみたいな悪魔が誘惑するように耳元で囁いても、「絶対イヤだ」と即座に断ると思うけれど、多くの人は「人生がやりなおせるなら、やり直したい」と思っているらしい。というのは、そういう物語や映画がけっこう多いからだ。タイムパラドックスをテーマにした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年)も、そういう願望から生まれたのだろうし、多くのタイムスリップものも根底は「人生をやり直したい」願望から生まれたのではないだろうか。

そんなことを考えたのは、先日の昼間、何となくかけたWOWOWで「リライフ」(2017年)という若者向けの映画をやっていたので見始めたら、つい全編見てしまいソコソコ楽しめたからである。僕は知らなかったのだが、ネットのコミックサイトで人気が出たコミックが単行本になり、百万部を越す売上げをあげた原作を映画化したものだという。実写版の前にアニメ版があり、テレビ放映されたらしい。見覚えのある人もいたが、どの登場人物も役者名は知らず、唯一知っていたのは市川実日子だけという有様だったけれど、ちょっと胸がキュンとする場面もあった。僕自身、高校の同級生と結婚しているので、高校生の恋愛物語に照れていてもしょうがないのだけれど、やっぱり気恥ずかしくなるセリフやシーンはあった。

物語は二十七歳のフリーターの青年が、ある研究所の人間に「高校生になって人生をやりなおすリライフの被験者にならないか」と誘われ、十年若返って高校三年生を一年経験し、改めて人生をやりなおすというものである。いろいろ細かな突っ込みどころはあるのだが野暮なことは言わず、二十七歳の経験と意識を持ったまま若返り、今の高校生と一緒に過ごすギャップに笑い、青春を謳歌する設定に浸かってみるのも悪くなかった。人間は二度目だと、やっぱり最初の人生で得た教訓めいたものを生かせるのだろうなあ。それに、主人公はある女生徒を好きになるのだが、そこに一種のどんでん返しがあり、おっ、この先どうなるんだ、と思わせる仕掛けもあった。ラストは大ヒット・アニメ「君の名は。」にそっくりで、今の若者たちはああいう設定や切なさに反応するのかと勉強になった。

「リライフ」は、「人生をもう一度やり直したい」というテーマを描くより、高校生活を感動的に描くために、十年若返って改めて高校生活を送る主人公の視点を借りた感じだった。どちらかと言えば、「人生をやり直したい」と思い詰めるのは、もっと生活の苦労を経験したり、愛し合って結婚したのに倦怠期に陥り「もっと別の人生があったのではないか」などと思い始める中年期、いわゆる「ミドルエイジ・クライシス(中年の危機)」の人たちではあるまいか。もうずいぶん前の映画になったけれど、フランシス・フォード・コッポラが監督した「ペギー・スーの結婚」(1986年)がそうだった。夫に愛人ができて別居中の妻が高校の同窓会に出て、パーティで興奮して失神し、気がついたら二十五年前の高校時代にタイムスリップしていたという物語である。

●人生をやり直したいと夢見ても虚しいだけだと思う

ペギー・スーを演じたのは、当時、三十二歳のキャスリーン・ターナーだった。夫役は、当時、二十二歳のニコラス・ケイジである。ふたりとも、三十半ばの倦怠期で別居中の夫婦を演じ、そのまま二十五年前の高校生も演じている。キャスリーン・ターナーの十七歳はちょっとつらいが、ニコラス・ケイジの老けメイクもつらいものがあった。キャスリーン・ターナーはパラシュートみたいなスカートでポニーテールにして踊ったりするので、ちょっと痛々しいところもあったけれど、若い頃を別の女優が演じていたらまったく違うテイストの作品になってしまっただろう。

もしかしたらコッポラ監督の強い要望に「わかったわよ。私が十七歳を演じるわ」と応えたのかもしれないが、三十二歳のキャスリーン・ターナーの決断に、公開当時、僕は拍手を送ったものだった。彼女自身が演じたから、人生の苦さのようなものが滲み出たのだ。ところで、関係ないけど初めて見たキャスリーン・ターナーは、素っ裸でウィリアム・ハートのナニ(そこはギリギリ映らなかったけど)をつかんで歩いていた。あの「白いドレスの女」(1981年)は、ミステリ映画の傑作だった。二重のどんでん返しも効いていて、悪女もの好きの僕を喜ばせてくれた。当時、僕は双葉十三郎さんの連載を担当していたが、「白いドレスの女」を絶賛した原稿を受け取った。

ちょっと脇道にそれてしまったが、ペギー・スーは高校生活をやり直すことになり、再び将来結婚することになるチャーリー(ニコラス・レイジ)と出会ってしまう。しかし、同じ人生を繰り返したくないペギー・スーはチャーリーを避ける。そこで、新たに孤独な文学青年と出会ったりする。彼女は二度目の人生を、以前の教訓を生かしてやり直そうとするので、一回目の高校生活よりは有意義な人生になる。しかし、結局、彼女は未来に残してきた子供たちが気になり、元の人生に戻ろうとする。結末は、ハリウッド映画らしく「めでたしめでたし」という感じで終わる。結局、映画を見終わった僕の感想は、「人生をやり直したいと夢見ても、むなしいだけ」というものだった。

「ペギー・スーの結婚」は同窓会で失神したペギー・スーの夢だったのではないか、という解釈ができる。現実には人生をやりなおすのは不可能なので、そういう構成にしたのかもしれないが、やはり、元のさやに収まるという終わり方以外には結末を考えにくい。自分の人生は、自分で引き受けるしかない。投げ出すとしたら自殺するしかないけれど、そう簡単には死ねない。チャップリンが言うように「死が訪れるまでは、生きるしかない」のだ。だとしたら、嫌々生きるよりは自覚的に生きた方がマシだと思う。積極的に生きろとか、そういうことではなく、どのように生きてもいいのだが、「これは私の人生であり、私はこのように自分で選択して生きている」と自覚して生きるという意味である。つまり、何かあっても、すべて自分の選択だと覚悟することである。他の何かのせいにしない。他人のせいにしない、運命のせいにしない、時代や社会のせいにしない。

●やり直したら幸福な人生が送れると思うのは勘違いである

物語を要約すると、まるで「ペギー・スーの結婚」のリメイクかと思うのが、フランス映画「カミーユ、恋はふたたび」(2012年)だった。日本公開は三年前。制作年では「ペギー・スーの結婚」と二十六年のへだたりがある。何年経っても同じ発想をする映画人がいるということは、「人生をやり直したい」と考えている人が多いということか。それにしても、古今東西を問わず、タイムスリップするのはなぜ高校時代なんだろう。やっぱり、一番楽しかった時期なんだろうなあ。性には目覚めてるし、恋のときめきはあるし、その恋が結婚につながる可能性はあるし、社会人になるにはまだ猶予があるし、といった時期を求めると、やはり高校時代になるのだろう。

「カミーユ、恋はふたたび」は、女優でもあるノエミ・ルヴォフスキーが脚本・監督・主演している。ヒロインはまったく美人じゃない中年女性なのだが、その中年女性のまま高校生をやってしまう。十代の女の子のコスチュームを着たりするので、ちょっと引く気分もある。ただし、周囲の人は彼女が十代後半に見えるらしいという設定だ。カミーユは、二十五年連れ添った夫に女ができて離婚を宣言される。荒れた気分でパーティで飲み過ぎたカミーユが目覚めると、高校生に戻っている。家へ帰ると死んだ両親が「カミーユ、どうしたの」と迎えてくれる。学校でも何人かの仲良しグループができて、二度目の高校生活が始まる。

しかし、そこへ結婚することになる夫がかっこいい青年の姿で現れ、カミーユは避けようとするが、彼はカミーユに恋をして、しつこくつきまとう。カミーユも将来結婚し、やがて若い愛人を作って離婚を言い出すことを知りながら、彼に惹かれていく。一方、カミーユはタイムスリップしたことを教師に話すのだが、だれも信じない。唯一、哲学の教師だけが彼女の言うことを半信半疑で信じ、やがて教師はカミーユを愛し始める。結局、彼女も本来の時代に戻るのだが、その時、哲学教師に会いにいき、二十五年分の歳を重ねた哲学教師との愛を確認する。しかし、結局、彼女は人生をやり直してよかったのかどうかはわからない。僕がこの映画を見て持った感想は、「やり直した人生がマシだという保証はない」ということだった。

つまり、「満足して幸福であり続けられる人生」なんてものはないのだ。どんな人生にも幸福があり、不幸がある。成功があり、失敗がある。失意の時があり、得意の時がある。高揚があり、どん底がある。期待があり、落胆がある。喜びがあり、悲しみがある。苦しみがあり、楽しみがある。出逢いがあり、別れがある。希望があり、絶望がある。要するに、プラスがあれば、マイナスもあるのだ。それは、どんな人生も変わらない。だとすれば、その人生を生きる人間は努力するしかないのではないか。夢を実現しようとするか、少しでも楽な生活をしようとするか、貧しくてもいいから楽して生きようとするか、どんな生き方でもいいけれど、自分が選択した生き方をまっとうしようと努力するしかない。

結論は、「人生をやり直したら、違う(幸福な)人生が送れると思うのは勘違いである」ということではないか。だから、どんな人生も同じであるなら、もう一度生きろと言われても「イヤだ。絶対にイヤだ」と僕は言う。ようやく、六十六年もつらい人生を生きてきたのだ。人生には間違いなくゴールがあるのだから、僕はセッセと生きて残り時間を減らし、そのゴールに近づいていくしかない。今まで一生懸命走ってきたのに、また、戻って走りなおせと言われたら、どんなマラソンランナーだって拒否するはずである。できれば、ゴールに至るまで、自覚的に生きていたいと思うけれど----。

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