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2018年4月 5日 (木)

■映画と夜と音楽と…812 膝を抱えて聴いたハスキーヴォイス



【奇跡/彼らが本気で編むときは、/追憶】

●暗い学生だったと語った池上彰さんの思い出の曲

ジャーナリストの池上彰さんがテレビ番組で「私の思い出の曲」についてコメントしていた。池上さんは一九五〇年八月生まれ。僕より一歳上だけれど、ほぼ同時代を生きてきたから、その思い出の曲のコメントが妙に身に沁みた。池上さんは「私の一曲は、りりィの『私は泣いています』です。実に暗い学生で、下宿でこの歌をじっと聴いていたんですね」と、いつものしゃべり方で言った。その瞬間、「私は泣いています」と歌うりりィのハスキーヴォイスが甦り、何もない四畳半のアパートの隅で膝を抱えて、何時間もじっとしている大学生の僕自身の姿が浮かんできた。四十五年前のあの頃、僕も暗い(ネクラ・ネアカという言葉は、数年後に生まれる)学生生活を送っていた。

調べてみると、りりィの「私は泣いています」のシングル盤が発売されたのは、一九七四年三月初旬だった。大ヒットしたのはその後のことだとすれば、僕は大学四年になり、オイルショック直後の不況の中、就職活動に悪戦苦闘していた時期だったことになる。その年の五月の連休に帰省し、当時は高松で暮らしていたかみさんの実家へいき、「卒業したら結婚したい」と両親に申し出た僕は、何としても生活の基盤を確立するために就職を決めなければならなかった。しかし、前年秋のオイルショックは、ずっと続いてきた高度成長を打ちのめし、戦後初めて「大卒予定者の内定取り消し」が起こったほどの就職難をもたらせた。文学部フランス文学専攻で、大学紛争によってレポート試験が二年も続いたおかげでようやく卒業できる、卒論も書かなかった(書かせてもらえなかった)劣等生を採用しようという企業はなかった。

おまけに、僕はまともに就職活動をすることに後ろめたさがあった。結婚するためという言い訳があったから、僕は出版社の就職試験をいろいろ受けてはいたのだけど、そんなことをしている自分をどこか軽蔑する気持ちがあった。僕と同じ大学の同じフランス文学専攻を一年早く卒業し、大手出版社の小学館に入っていた高校時代の同級生は、そんな僕に向かって「おまえは、就職活動に本気じゃないところがある」と説教し、初めて僕が筆記試験を通過した集英社の面接試験の直前に下宿に現れ、「集英社はうちの子会社だけど、小学館と違ってワイルドな会社なんだ。『御社一社に絞って受験しました』とハッタリかました方がいいだろう」と自信たっぷりにアドバイスした。その言葉に従って僕はその通りに面接官に答え、面接は三分で終了した。どうして自分の考えで答えなかったのか、と廊下に出た僕は深く恥じ悔やんだ。

時代は、暗かった。全共闘世代の高揚は潮が引くように消えていき、セクト間の内ゲバばかりが起こっていた。大学の中庭で色の異なるヘルメットをかぶった連中が、角材をふるって殴り合っていた。角材はおろか、すでに鉄パイプが登場していたし、少し後にはとうとうバールが用いられるようになった。学校へいくのにさえ、命がけだったのだ。二年前の二月に判明した連合赤軍事件は「革命」という言葉に暗い影を生み、幻滅した僕は二度と「革命」という言葉を口にしなくなった。そんな事件が起こったにもかかわらず、その後も内ゲバでの死者はどんどん増えていた。僕は大学に入った時からノンポリだったけれど、そんな時代のイヤな空気が学内を覆っているのに耐えられなかった。どういうわけか、ノンポリの僕でさえ一度、大学の構内でヘルメットの連中に囲まれたことがある。「おまえは意識が低すぎる。自己批判しろ」と迫られた。

「私、高松に帰ることにした」と後にかみさんになる女性に突然宣言され、彼女のアパートの部屋の整理を手伝い見送ったのは前年の暮れ近く、木枯らしが吹き始めた冬の初めだった。それ以来、下宿と学校を往復し、ときに映画館に籠もるだけになった僕は、自分の将来に不安しか感じられなかった。それでも彼女とは何度か手紙をやりとりし、五月の連休にかみさんの実家に結婚の許可をもらいにいくことになった。就職も決まらない自分なのに、責任だけが生まれるという憂鬱な気分になりながらも、それを彼女に感じさせてはいけないと言い聞かせた。ずっと準備していた天井桟敷を借りての友人たちとの芝居公演を僕は途中で放り出し、五月の連休に僕は高松に帰ったのだった。そこにも、後ろめたい気持ちがあった。そんな暗い時代の僕にとって、あのしゃがれ声で歌うりりィの「私は泣いています」は、心の底奥にまで響くような気がしたものだった。

●「夏の妹」出演が「私は泣いています」より先だった?

りりィは一九五二年二月に生まれ、二〇一六年十一月十一日に没した。六十四年間の人生だった。僕とは学年が同じだったから、同時代を生きた人だった。僕はずっと「私は泣いています」が大ヒットしたから、大島渚が「夏の妹」(1972年)のヒロイン栗田ひろみのピアノ教師で、父親の再婚相手という役でりりィを起用したのだと思っていた。十四歳の栗田ひろみは「夏の妹」でデビューし、その後、アイドルとして絶大な人気を集めた。その相手役に人気のあった若手俳優の石橋正次を起用し、「大島渚もアイドル映画を撮るようになったか」と陰口をたたかれた作品が「夏の妹」だった。沖縄がアメリカから日本に返還されたのは、一九七二年の五月。返還されたばかりの沖縄でロケを行い、登場人物たちの関係に、戦後二十七年間アメリカに占領されてきた沖縄と本土の関係を重ねた作品だった。

今回、確認してわかったのは「夏の妹」の公開は、「私は泣いています」ヒットの二年前だったことだ。これは、僕の記憶がまったく違っていたということになる。すると、ATG直営館の新宿文化で封切り公開時に「夏の妹」を見たとき、僕は栗田ひろみもりりィも新人女優として見ていたことになる。新国劇出身の石橋正次には、映画デビュー作品である藤田敏八監督の「非行少年・若者の砦」(1970年)ですでに注目していた(同じ年、日活「あしたのジョー」実写版に主演)が、その後、テレビの学園ものや特撮ドラマ「アイアンキング」に出演して人気が沸騰、その年の初めには最大のヒット曲「夜明けの停車場」を出し知名度抜群の俳優になっていた。僕は今でも、沖縄の飲み屋街を「シルバー仮面は~さすらう仮面」とギターを弾いて歌いながら歩く石橋正次と栗田ひろみのシーンを記憶している。脚本に加わっていた大島渚一派の佐々木守は、「シルバー仮面」や「アイアンキング」の脚本も書いていたのだ。

りりィも「夏の妹」のときは、まだ二十歳だった。フランソワーズ・アルディみたいな洗い晒しの長い髪で化粧っけもない(ように見えた)りりィは、当時の「先鋭的で、知的で、倦怠感を漂わせた(アンニュイな)、かっこいい」女性だった。まだヒッピー・ムーブメントが現役だった頃の話だ。新宿ゴールデン街あたりにいけば、カウンターで出会いそうな女性のイメージがあった。アングラ(アンダーグラウンドの略です。念のため)演劇やATG(アート・シアター・ギルドです。念のため)映画、ジョルジュ・バタイユの「眼球譚」やスーザン・ソンタグの「キャンプ」、あるいは金井美恵子の詩などを話題にしそうな感じだった。つまり、僕など怖ろしくて話しかけられないタイプに思えた。そんなりりィを「夏の妹」で見ていたから、「私は泣いています」がヒットしたとき、僕はあのしわがれ声をしみじみと聴いたのかもしれない。

「夏の妹」の次に印象に残ったりりィは、松田優作主演・村川透監督の鳴海昌平シリーズ「処刑遊戯」(1979年)の「謎の女」役だった。殺し屋とミステリアスな雰囲気を漂わせる女。ハードボイルド・ストーリーでは絵に描いたような登場人物たちだが、とにかくキマっていた。りりィのあの声が効果的だった。長い手足を持て余すように動かす松田優作が魅力的だった。松田優作が鳴海昌平シリーズで確立したキャラクターは、後の角川映画「野獣死すべし」などにつながっていった。しかし、それ以降、僕はりりィの消息を見失った。僕にとってりりィは、「夏の妹」と「処刑遊戯」の女優であり、「私は泣いています」一曲だけの歌手だった。しかし、その間、彼女は音楽活動を充実させ、女優としてもコンスタントに仕事をしていたのを、僕は三十年後に知ることになる。

●突然、年老いたりりィが目の前に現れた気がした「奇跡」

僕の中で三十年以上の長い時間を経て、突然、りりィが復活したのは是枝裕和監督の「奇跡」(2011年)だった。それまでにも彼女の出演作----たとえば「リンダリンダリンダ」(2005年)「休暇」(2007年)「グーグーだって猫である」(2008年)「石内尋常高等小学校 花は散れども」(2008年)など----を見ていたのに、そこに登場していた女優がりりィだと気付かなかったのだ。「奇跡」は九州新幹線開通に合わせて企画された作品で、「九州新幹線の福岡発と鹿児島発の一番列車がすれ違うところを見ると願いが叶う」という噂を信じて、少年少女たちがそれぞれの願いを抱いてその場所を目指し旅に出る物語だった。少年少女は、ある日、ひとりの少女の祖父母の家に泊めてもらうことになる。その祖母を演じていたのが、りりィだった。スクリーンを見ていた僕は、「りりィじゃないか」と驚いて席を立ちそうになった。

それ以降、僕は多くのりりィの出演作を見た。りりィがずっと女優を続け、年相応の役をやっているのだと知った後、「キツツキと雨」(2011年)「任侠ヘルパー」(2012年)「GONINサーガ」(2015年)「FOUJITA」(2015年)「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016年)などでその姿を見たが、その間、多くのテレビドラマにも出演していた。僕は一度も見ていないのだけれど、人気ドラマ「半沢直樹」にも出ていたらしい。そして、彼女の死後も二本の映画が公開された。「彼らが本気で編むときは、」(2017年)と「追憶」(2017年)である。どちらも、出演シーンは多くはないけれど、印象に残る役だった。

「彼らが本気で編むときは、」はLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)をテーマにした荻上直子監督作品で、少し前に詳しく書いた。育児放棄の姉(ミムラ)の小学生の娘を預かる弟(桐谷健太)が一緒に暮らしている相手は、トランスジェンダーの女性(生田斗真)で、介護施設で働いている。姉弟の母親(りりィ)がその施設に入っていて、桐谷健太はやさしく母を介護している生田斗真を見て恋に落ちるのである。そのりりィは認知症ぎみながらも、重要なセリフを口にする役だった。すでにこの世にいない人なのだと思いながら見たが、この作品が遺作だとすればよかったのじゃないか、と僕は思った。

五十を過ぎたりりィは老女役や母親役が増えたけれど、良妻賢母型の母親は少なかったと思う。孫の少女の髪をやさしく梳いてやる「奇跡」の祖母役は、珍しいのじゃないだろうか。汚れ役、あるいはダメな母親役が似合った。降旗康男監督作品「追憶」の母親役が、まさにそういう役だった。主人公(岡田准一)は刑事になっているが、子供の頃、母親は男を作っては子供を置いたまま出ていく、いわゆる育児放棄の母親だった。年老いてもあちこちに借金し、息子に電話をかけてきて金の無心ばかりする。息子に邪険にされると、電話で「死んでやる」と言って狂言自殺するような、縁を切りたくなる母親だ。それでも、主人公は「薬を飲んだ」と母親から電話があれば、駆けつけざるを得ない。そんな厄介者の母親役が、りりィによく似合った。

りりィは、ガンで亡くなったという。六十四歳は、今の世の中では若死にだろう。おそらく、「追憶」「彼らが本気で編むときは、」の撮影時、彼女の体はすでにガンに蝕まれていたのではないか。しかし、映画を見る限り、そんな様子はうかがえない。「ブラック・レイン」(1989年)の松田優作が末期のガンだとはとても思えないのと同じである。りりィにも松田優作にも、改めて役者魂を感じる。そのふたりが共演した四十年近く昔の「死亡遊戯」が甦ってくる。りりィは、僕にとってはずっと「私は泣いています」の歌手だった。容姿より先に、あのハスキーヴォイスが浮かんできた。しかし、今では多くの映画で老女を演じた女優として僕の記憶に残っている。僕自身、四畳半の隅で膝を抱えていたときから、遥か遠くへきてしまった。若い頃のりりィではなく、白髪頭の彼女の姿が浮かんでくるのも当然かもしれない。

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