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2018年5月 3日 (木)

■社会人になった頃


今週は黄金週間です。「映画と夜と音楽と----」は休載します。
以下は、昨年、三重県の林久登さんが出している映画誌「シネマ游人」に頼まれて書いた文章です。

■社会人になった頃

昭和六年創業と歴史はあるが、二十数人しかいない小っぽけな出版社に僕が入社したのは、大学卒業前の昭和五十年(一九七五年)二月十二日だった。石油ショック直後のひどい就職難で、その出版社の入社試験にも二名しか採らないのに百人ほどの受験者がきていた。僕は大学時代に一眼レフを持ってあちこち撮影し、四畳半の下宿を暗室にして現像・焼き付けをしていたので、その出版社が出している月刊「コマーシャル・フォト」を志望して受けたのだが、面接での応対が災い(?)し、こと志と違う編集部に配属されてしまった。

玄光社というその会社は戦前から写真関係の書籍や「写真サロン」という写真誌を出していた専門出版社で、名付けたのは北原白秋だった。写真は光と影で作るものだからと、「玄(漆黒の闇)と光の会社」としたのである。しかし、「玄」にそんな意味があるとはほとんどの人は知らず、社名を説明する時には「玄関の玄に光です」とか、「玄界灘の玄に光です」「玄米の玄です」などと説明していた。

そんな会社の試験を受けたのは前年の年末で、正月明け早々に面接があった。その時、僕は好きなものを訊かれ「映画です」と答えたうえ、観たばかりの神代辰巳監督作品「青春の蹉跌」のワンシーンについて詳細に語ってしまったのだった。それはショーケンが妊娠した桃井かおりを殺そうとして雪原をふたりで滑り落ちるシーンで、「3シーン1カット」と言われた神代の手法について、僕はかなり長くしゃべった記憶がある。

結局、僕が配属されたのは「小型映画ビギナーシリーズ」というムック編集部で、いきなり「トーキー入門」というムックを作っている現場に入ることになった。当時、ちょうどサウンド8ミリという同時録音ができるカメラが発売になり話題をさらっていたが、8ミリカメラは撮影中にジージーと大きな音を立てるので昔からの8ミリ作家には同時録音は好まれず、マニアはパルス方式というフィルムとオープンテープを同期させるトーキー作品を作っていた。その方法は本一冊で解説しなければならないほど、難しかったのである。

編集の仕事もろくに知らない僕が「トーキー入門」に貢献したのは、モデルとしてだった。二十三歳で体重が五十キロ、百七十センチ。スリムだった僕は、トーキー作品制作の過程を説明する写真のモデルをつとめるのが、入社早々の主たる仕事だった。その他、取材の仕事もやらされた。8ミリマニアだという藤子不二雄の安孫子素雄さんを新宿の仕事場で取材し、ドラえもん、パーマンなどを安孫子さんが8ミリで撮影しているカットを描いてもらったのだ。

しかし、帰社してテープを再生すると、まったく録音されていない。あわてた僕はメモだけを頼りに二ページの原稿を仕上げ、安孫子さんに送って了解を得た。その記事は意外にも編集長に好評で、その後、取材の仕事が増えることになった。あの時、安孫子さんに描いてもらったカットは返却した憶えがないので、ずっと後に机の中を捜索したが、とうとう出てこなかった。

僕がいた「小型映画ビギナーシリーズ」編集部は、編集長と先輩と僕という三人のスタッフだったが、隣に「小型映画ハイテクニックシリーズ」というムック編集部があり、そちらは編集長と入社四年目の人のふたり編集部だった。時々、僕はそちらの編集部に貸し出されることがあり、編集長と同行し取材したテープを起こすといった仕事をやらされた。

「小型映画ハイテクニックシリーズ」は8ミリだけでなく、16ミリも対象にしていた。当時、日本のメーカーから発売になっていた安価な16ミリカメラは、キヤノン・スクーピックだった。しかし、僕はボリューやボレックスといったヨーロッパメーカーの16ミリカメラに魅せられた。五月革命のパリを三本ターレットのシネカメラを持って歩くジャン=リュック・ゴダールの写真を「朝日ジャーナル」で見たのは高校生の時だった。かっこいいなー、と憧れたものである。

ある時、「小型映画ハイテクニックシリーズ」のバックナンバー「映画製作入門」を見ていたら、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」の絵コンテとそれに対応する実際の映画のカットが並べられ、監督自身の解説がついた構成で十六ページ続いているのを発見し、映画製作の裏側を知った気分になった。「これは、案外、悪くない部署かもしれないな」と思った。

そんなことで二ヶ月ほどが過ぎ、二冊目のムックが「監督入門」というテーマに決まった。その中で、ふたりのベテラン・キャメラマンを取材することになった。ひとりはフリーの岡崎宏三さん。もうひとりは東宝の中井朝一さんだった。中井朝一さんと言えば、黒澤明監督のメイン・キャメラマンである。当時は、「デルス・ウザーラ」の撮影準備で忙しいという話だったが、それでも取材を受けてもらえることになった。

この時の取材で印象に残っているのは、黒澤明監督が望遠レンズ好きになった経緯だ。「野良犬」の撮影の時、殺人があった家を写しているシーンは、出演者たちにキャメラがどこにあるかわからないほどのポジションに置き、望遠レンズで撮影しドキュメンタリータッチの臨場感を出したという。以降、黒澤組で望遠レンズは多用されるようになる。

ただし、黒澤監督は二律背反のような機能を求めた。レンズは焦点距離が長くなるほど距離感は詰まるが、被写界深度(焦点が合って見える前後の範囲)が狭くなる。被写界深度を深くするためには絞り込むしかない。たとえば「用心棒」で三船が敵対するやくざたちをあおって、火の見櫓に登るショット。三船の背中をなめて地上を写す。左右のフレームからやくざたちが刀を構えて、へっぴり腰でフレームインする。

このショットは望遠レンズで三船から地上のやくざまでの距離感を詰め、さらに三船からやくざまでを被写界深度に入れてシャープに見せている。これをやるには、f32やf64といった最小絞りまで絞り込む必要がある。とすると、めちゃくちゃ現場を明るくしなければならない。ということで、東宝砧撮影所のライトはすべて黒澤組に集められ、撮影所の全電力を使うことになり、他の撮影はストップする。

ライトをガンガン照らすから、出演者はやけどをするほど熱くなる。特に金属は持てないほど熱くなる。カツラの中はブリキになっている。三船のカツラも煙が出るほど熱くなったという。余談だが、三船の頭髪が薄くなったのは、黒澤組でライトを浴びすぎたのが原因だとも伝えられている(ホントかどうかは不明です)。

一方、岡崎宏三さんは、市川崑監督の「吾輩は猫である」を完成させたばかりだった。「試写があるから取材の前に見ておいてほしい」と言われ、ある夜、僕は日比谷の劇場試写にいき、豪華なパンフレットやニュースリリースをもらい、「吾輩は猫である」を見た。その映画では「猫の見た目ショット」があり、コンバージョンレンズをつけた超広角撮影で障子の桟などが歪曲していた。もちろん「猫の見た目」だから、ゆらゆらと揺れる手持ち撮影である。

実際の取材では、一作前の「雨のアムステルダム」のヨーロッパロケの話の方が多かった。蔵原惟繕監督でショーケンと岸恵子の恋愛ドラマである。当時、人気のあった劇団四季の松橋登も出ていた。しかし、すでに二ヶ月前に公開は終わり、二番館にまわっている時だった。

僕は編集長の命令で、飯田橋の佳作座にかかっていた「雨のアムステルダム」に一眼レフカメラと三脚を持って出かけ、最後列の真ん中の席に陣取り、岡崎さんが話したシーンになるとスクリーンをカシャカシャと撮影した。現在だとすぐに逮捕されてしまうだろうが、当時は何のおとがめもなかったのである。一九七五年五月のことだった。

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