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2018年6月14日 (木)

■映画と夜と音楽と…821 さよならフィリップ・ロス



【さよならコロンバス/白いカラス/エレジー/アメリカン・バーニング】

●高校生の頃にアメリカのユダヤ系作家たちを多く読んだ

「さよならコロンバス」(1969年)という映画を見たのは、一九六九年の秋だった。僕は高校三年生である。その年の一月、東京大学の安田講堂にバリケードを組んで立て籠もっていた学生たちが、機動隊員の発射する催涙弾や放水によって強制的に排除されるのがテレビ放映され、それを見た高校生たちも「何かしなければ」という気分になった。その結果、高校紛争が全国的に広がっていた。僕の高校も例外ではなく、五月の体育祭で生徒会長として挨拶していた僕の友人は、「国家権力の象徴である日の丸の旗を引きずりおろそう」と、当時の言葉で言えば「造反演説」をして停学処分になり、その後、自主退学に追い込まれた。

体育祭の翌日、僕は生徒総会で生徒会長を処分させない運動を提起したが、オピニオンリーダーとして影響力を持っていた元新聞部部長の「彼は昔の彼ならず」という発言で、生徒総会は「彼は信念を持って行ったのだろうから、その行動の責任をとるべきである」という結論に導かれた。元新聞部部長は生徒会長とも僕とも友人であったが、元新聞部部長は太宰治の言葉を引用することで、生徒会長が過激派に影響を受けて変化したことを暗に批判したのだろう。その元新聞部部長については、学校のトイレの壁に「民青の親玉Tを殺せ」と書かれたことがあるから、「校則に則った良心的改革派」だったのかもしれない。元新聞部部長の兄は香川県では稀少な存在である日教組の組合員だったから、兄の影響を受けていたのかもしれない。

その二ヶ月ほど後、夏休み前に元新聞部部長が廊下で受験問題をクラスの仲間たちと出し合い答えているのを見て、僕は一気に受験勉強をやる気をなくした(言い訳になるけれど、その結果、僕は翌年、浪人することになる)。元々、大してやっていなかった勉強を放棄し、現代国語と日本史以外の授業では本を読んで過ごし(他の生徒は受験と関係のない授業では、『内職』と称して受験科目の勉強をしていた)、夏休みもほとんど読書ばかりしていた。その頃、僕が読んでいた作家は主に「第三の新人」と言われた、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、小島信夫、庄野潤三、まだ若手作家だった大江健三郎と開高健だった。それに、アメリカの現代作家をよく読んだ。

当時、アメリカ文壇はユダヤ系の作家が多くいた。J・D・サリンジャーは人気があったし、ノーマン・メイラーも新潮社から全集が出ていたし、ソール・ベロウは長編「ハーツォグ」を出したばかりだった。ジョン・アップダイクの「走れウサギ」が大江の「個人的な体験」に影響を与えたという情報を鵜呑みにして(どちらも主人公が「ウサギ」や「鳥〈バード〉」と呼ばれる)、アップダイクにも何冊か手を出した。しかし、僕が最も気に入ったのは、バーナード・マラマッドだった。当時、日本で翻訳されていた全作(角川文庫から鈴木武樹さんの翻訳で「汚れた白球」「アシスタント」が出ていた)を読んだものだ。それに、集英社文庫で出ていたフィリップ・ロスの「さようならコロンバス」は、薄かったのですぐに読めると思って購入した。

図書館に勤める特に将来の夢もない青年が、プールで女の子と知り合う。彼女には成功したユダヤ人の父親がいるのだが、その父親は青年のことを認めない。ふたりはセックスする関係になるが、避妊のことで口論になったりする。当時、避妊薬のピルは耳にしていたけれど、ペッサリーというのはこの小説で初めて知ったのではなかったかな(僕はそんなことが気になる十七歳だったけれど、未だにペッサリーがどういうものか、具体的には知らない)。結局、青年は彼女と別れる。ボーイ・ミーツ・ガール・ストーリーである。それが、映画化され公開されたのだ。監督は僕が気に入った「ある戦慄」(1967年)の新鋭ラリー・ピアースだった。ヒロイン役は、翌年、「愛とは決して後悔しないこと」というキャッチフレーズで大ヒットした「ある愛の詩」(1970年)でスターの仲間入りをするアリ・マッグローだった。

●クレア・ブルームは離婚の理由を「性的な節操のなさ」と語った

今年、五月二十二日に死んだフィリップ・ロスの記事が新聞に載り、その見出しは「アメリカの最も偉大な作家」となっていた。「えー、まだ生きてたの」と思ったのは、僕が高校生のときに読んでいた作家は大江さん以外みんな亡くなっており、フィリップ・ロスが生きていたのが意外だったからだ。さらに、「最も偉大な作家か?」と見出しに疑問を抱いた。ウィキペディアを見ると、トマス・ピンチョンやコーマック・マッカーシーなどと共に「現代アメリカの最も重要な作家」と認められていたらしい。また、ウィキペディアでは、「へぇー」と驚く情報が掲載されていた。ロスは一時期、女優のクレア・ブルーム(チャップリン主演「ライムライト」のヒロインです)と結婚していたが、離婚の理由を彼女は「性的な節操のなさ」と語ったという。

その話を読んで、「やっぱりね」と僕は思った。処女作「さようならコロンバス」でも「性」は重要な要素だったが、その後の作品では「性」を主要なテーマに据えた作家だったからだ。そういう意味ではノーマン・メイラーも「二十世紀に残された文学的テーマは〈性〉の領域だ」と宣言して「彼女の時の時」などを書き、そのメイラーの言葉に共感した大江健三郎は「性的人間」を書いたけれど、僕はなぜかフィリップ・ロスが書く「性的小説」になじめず、その後の作品は読まなくなった。しかし、フィリップ・ロスの小説はアメリカでの評価は高く、それにベストセラーになるほどよく売れた。

ベストセラーになる作品だったから、主要作品はかなり映画化されているのだが、調べてみると日本未公開のものが多い。日本公開された映画化作品は「さよならコロンバス」の他、「白いカラス」(2003年)「エレジー」(2008年)「アメリカン・バーニング」(2016年)であり、何と僕はすべて見ていることになる。そして、どの作品もおもしろく見たのだった。「白いカラス」については、以前にこのコラムで書いたこともある。昨年、見たのは「アメリカン・バーニング」(2016年)だ。これは、イギリス出身の俳優ユアン・マクレガーが初めて自ら監督したものだ。何だか、僕にとっては、ひどく胸に迫る作品だった。

フィリップ・ロスの作品は自己を投影した、作家とか大学教授といったインテリを主人公にすることが多い。「白いカラス」も「エレジー」も、主人公は初老と言ってもいい大学教授である。ただし、「白いカラス」には主人公の友人であるユダヤ人作家ネイサン・ザッカーマン(ゲイリー・シニーズ)が出てくる。ザッカーマンが物語の語り手なのである。ザッカーマンは、フィリップ・ロスのいくつかの作品に登場する作者の分身だ。「白いカラス」ではアンソニー・ホプキンスが演じる主人公と、ザッカーマンが会話をする夜のシーンが印象に残る。ザッカーマンの湖畔の家が印象に残っている。あんな家で原稿を書いて暮らしたい、と思った。

「白いカラス」という邦題は日本の配給会社がつけたのだろうが、黒人であることを偽りユダヤ系白人として生きてきた主人公という設定から発想したのだろう。彼は謎めいた美人の清掃員(ニコール・キッドマン)と知り合い恋に落ちる。ニコール・キッドマンが終始、憂い顔で無口な女性を演じている。ロスの作品には年の差のある男女の恋愛がよく描かれる。「エレジー」は、まさにそれがテーマだった。主人公の大学教授は、スキンヘッドのベン・〈ガンジー〉・キングスレーだ。彼は三十歳も年下の女子学生(ペネロペ・クルス)と恋に落ちるが、その年の差ゆえに嫉妬と不安を感じ始める。ちなみに、なぜかニコール・キッドマンもペネロペ・クルスもトム・クルーズと結婚していた。

●ユアン・マクレガーは初監督作品にフィリップ・ロスを選んだ

「アメリカン・バーニング」は邦題であり、原題は「アメリカン・パストラル」である。邦題は「燃え上がるアメリカ」という意味でつけたのだろうか。意味がよくわからない。「burning」だとしたら、名詞ではないので英語として成立しないのではないか。昔、「ミシシッピー・バーニング(原題も同じ)」(1988年)という人種差別を扱ったアラン・パーカー監督のよい映画があったけれど、「アメリカン」を「アメリカ人」と名詞で使っていると解釈すると、「アメリカ人炎上」という意味なのかな。確かに映画を見ると、「アメリカ炎上」と言いたくなる気持ちはわかる。

この作品も語り手としてネイサン・ザッカーマン(「グッドナイト&グッドラック」のデヴィッド・ストラザーン)が登場する。彼が何十年ぶりかで故郷の同窓会に出席すると、ハンサムでアメフトの選手としてハイスクールのヒーローだったスウィードの写真が飾られており、彼はスウィード(ユアン・マクレガー)の生涯に思いを馳せる。スウィードは結婚して手袋工場を継ぎ、妻(ジェニファー・コネリー)は娘メリーを生む。スウィードは娘を溺愛して育てるが、子供の頃から娘は感受性が強く、テレビニュースでベトナムで僧が焼身自殺する映像を見てショックを受ける。

やがて、メリー(ダコタ・ファニング)は、急進的な革命運動に傾倒していく。両親を「ファシストの豚」と罵る。彼女が大学から戻っているときに町の小さな郵便局が爆破され、主人が死亡する。警察はメリーを犯人として指名手配するが、スウィードは無実を信じて娘の行方を探す。しかし、娘は行方不明で、スウィードも娘が犯人だと信じざるを得ない証拠も出てくる。娘が行方不明になって何年も経ったある日、工場のレポートをしたいという女子学生がやってくる。スウィードとふたりになった女子学生は、メリーの伝言を口にする。しかし、ホテルに会いにいくと、女子大生と名乗った女に侮辱されただけだった。それから数年が過ぎ、街でその女を見かけて問いつめるとメリーの居場所がわかり、スウィードは会いにいく。

メリーは革命運動から脱落し、カルト宗教の信者になっている。身体を洗ってはいけないという教えに従い、メリーは汚れきった姿だ。家には帰らないというメリーは、再び姿を消し、スウィードにまた絶望の日々が戻る。やがて長い年月が過ぎていき、娘のことを気にかけながら彼が死んだとき、喪服を身につけて顔を隠した女が彼の墓前にやってくる----。公民権運動の時代に黒人たちの暴動が起こったり、ベトナム戦争の反対デモが盛り上がったり、世界的に学生たちが反旗を翻した時代に爆破テロが頻発したり、ヒッピームーブメントが起こりカルト宗教に走る人たちが増えたり、六〇年代から七〇年代にかけてのアメリカ社会の問題が娘を通して主人公に降りかかることで、アメリカ現代史を描く作品になっていた。

あの時代、メリーのような女子学生は実際にいた。僕はメリーを見ていて、過激派に誘拐されたメディア王ハースト家の娘パトリシアを思い出した。彼女は誘拐した過激派に洗脳され、過激派に加わり資金強奪のためにライフル銃を持って銀行を襲った。七〇年代前半、世界的に注目された不可思議な事件だった。その後、彼女は放送局にテープを送り、両親を「ファシストの豚」と呼んだ。それにしても、「トレインスポッティング」(1996年)でジャンキーの若者を演じて注目され、「スター・ウォーズ エピソードI/ファントム・メナス」(1999年)で若き日のオビワン・ケノビを演じたユアン・マクレガーが、監督第一作にフィリップ・ロス作品を選ぶとは思わなかったなあ。

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