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2018年7月 5日 (木)

■映画と夜と音楽と…824 20分もカットされていた作品



【赤い殺意/かぶりつき人生/櫛の火】

●キャメラマン姫田眞左久さんの全作品インタビュー集

高松市立図書館の新刊コーナーを見ていたら「姫田眞左久のパン棒人生」という本があり、「これは読まねば」と思って借りて帰った。A5判の分厚い本である。版元はダゲレオ出版。かわなかのぶひろさんのところだ。「月刊イメージフォーラム」一九八六年十二月号から八年間にわたり、断続的に連載されたインタビューが元になっているらしい。発行は一九九八年七月になっているのだが、どうして今頃になって新刊コーナーに入ったのだろう。きれいな新しい本だった。内容は、戦前に大映から仕事を始めて、戦後、映画製作を再開した日活でキャメラマンを務めた姫田さんに、全作品に沿ってインタビューした資料的価値の高い本だった。

ただ、僕としては「月刊イメージフォーラム」という名前が出てくると、いろいろと思い出すことがある。僕が勤めていた出版社はビデオ雑誌も出していて、ビデオデッキやビデオカメラがよく売れていた頃には稼ぎ頭だったことがある。その頃、「イメージフォーラム」を主宰する(今は青山学院大学の近くで映画館を備えたビルになっているが、その頃は四谷にあった)かわなかのぶひろさんが(パートナーの富山さんが中心になって)ダゲレオ出版を立ち上げ、「月刊イメージフォーラム」を創刊することになった。その創刊広告が僕の勤める出版社が出していたビデオ雑誌に載ったのである。

その創刊広告にビデオ雑誌編集部にいたH女史の名前が筆者としてあったので、ビデオ雑誌編集長が騒ぎ出した。Hさんは8ミリ雑誌をやっていた頃から「自主映画の母」と呼ばれ、自主映画界で若者たちをサポートしてきた人だった。かわなかさんとも知り合いで(新宿ゴールデン街でよく飲んでいたらしい)、「月刊イメージフォーラム」での連載を頼まれたのである。僕もHさんに連れられて時々ゴールデン街で飲んでいたから、ある夜、かわなかさんと酒場で出会ったことがある。その時、かわなかさんと日活映画の話になり、「君らの世代は『紅の流れ星』だろうが、僕らの世代は『赤い波止場』だ」と言われたのをよく憶えている。なぜなら、僕も「紅の流れ星」(1967年)より「赤い波止場」派(1958年)だったからだ。

さて、僕などは自社の編集部員が他社の雑誌に執筆するというのは、その人の能力が認められたのだから問題ないじゃないかと思っていたけれど、ビデオ雑誌編集長は「競合誌に原稿を書くとは何事だ」と騒ぎ出し、社長にご注進した。当然、社内で公に問題になり、「月刊イメージフォーラム」発売前から内容も見ないでHさんの糾弾が始まった。結果から言うと、Hさんは会社を辞めざるを得なくなった。僕はHさんが好きだったのと、そんなことでやめる必要ないだろうと思っていたから、かなり憤慨したものだ。後に、僕自身がかわなかさんと飲み歩くようになったとき、「T(ビデオ雑誌編集長)さんが、あんなに狭量な人だとは思わなかったな」と言われたことがある。

かわなかさんはHさんに申し訳ないと思ったのだろうか、創刊して間もない「イメージフォーラム」の巻頭のロング・インタビューに「自主映画の母」というタイトルでHさんを登場させた。Hさんは、その後、ぴあフィルムフェスティバルのディレクターなどを経て、フリーの立場で映画界で活躍した。僕は、その後、カメラ雑誌編集部から異動して新しく創刊された別のビデオ雑誌の編集長になり、かわなかのぶひろさんを取材したのがきっかけで親しくさせていただき、「青年、青年」と呼ばれながらゴールデン街の酒場を何軒もハシゴすることになった。そんなことで、僕の「映画がなければ生きていけない1999-2002」の巻末解説はかわなかさんに書いていただいた。

●今村昌平監督と神代辰巳監督との仕事を中心に語っている

姫田さんが本の中で最も多く語っているのは、今村昌平監督との仕事だった。今村監督の二作目「果しなき欲望」(1958年)以来、「にあんちゃん」(1959年)「豚と軍艦」(1961年)「にっぽん昆虫記」(1963年)「赤い殺意」(1964年)と日活での仕事が続き、「復讐するは我にあり」(1979年)「ええじゃないか」(1981年)まで担当する。今村昌平監督の助監督だった浦山桐郎の監督デビュー作「キューポラのある街」(1962年)も姫田さんの仕事である。日活で娯楽アクション映画に徹した桝田利雄監督とも相性がよかったらしく、監督デビューから付き合い初期の「赤い波止場」も撮影した。

今村監督に続いて姫田さんが多く語っていたのが、神代辰巳監督との仕事だった。神代監督のデビュー作「かぶりつき人生」(1968年)から組んでいる。「かぶりつき人生」は田中小実昌さんの原作で、日劇ミュージックホールの人気ダンサーだった殿岡ハツ江が主演した。日劇ミュージックホールは、銀座のど真ん中でヌードショーが見られると話題だったのだが、もうずいぶん前にマリオンに変わってしまった。ストリップショーというよりストリップ・ティーズといった趣で、「はとバス夜のコース」に入っていて女性客に人気だったという。深夜番組の「11PM」などに登場した日劇ミュージックホールのダンサーが、色っぽいダンスを踊っていたのを憶えている。

その日劇ミュージックホールのダンサーから女優になったのは、「赤い殺意」の春川ますみである。当時、女優が裸になるとかリアルなセックスシーンを演じるのにはまだまだ抵抗があるため、春川ますみが主演に起用されたのは日頃からヌードを見せているダンサーだったからだと僕は思っていたが、映画を見ると春川ますみのフツーのおばちゃんっぽいところがぴったりはまっていて適役だと思った。今村監督の狙いもそうだったのではないだろうか。以降、春川ますみは名脇役として活躍する。また、最近でもテレビに顔を出しているあき竹城も元日劇ミュージックホールのダンサーだった。他に、アンジェラ浅丘とか松永てるほ、岬マコなんて名前も懐かしい。

彼女らに比べて殿岡ハツ江は「かぶりつき人生」に主演しながら、女優としては大成しなかった。浅黒い肌でスリムな体ながら、エネルギッシュな踊りを見せてくれた記憶がある。ちょっと日本人離れしている風に見えて、案外、日本的な容貌だった。彼女は「無頼・人斬り五郎」(1968年)にストリッパー役で登場していて、そのシーンで流れた音楽と共に強く印象に残っている。刑務所で死んだ弟分(藤竜也)の姉(小林千登勢)を尋ねて地方の小都市を訪れた藤川五郎は、姉が映画館でモギリをしていたと聞き映画館を訪れると、そこはストリップ小屋に変わっていた。そこで、舞台に立っていたのが殿岡ハツ江である。「かぶりつき人生」に主演したのと同じ年のことだった。

その後、しばらく神代監督は映画が撮れず、日活がロマンポルノ路線になってから立て続けに撮り始める。姫田さんも実名で一般映画と変わりなく仕事をし、神代監督とのコンビで名作を残した。姫田さんの証言の中で僕がエッと驚いたのは、ロマンポルノ作品ではなく神代監督が東宝で撮った「櫛の火」(1975年)だった。この前後の神代作品に、二十代半ばだった僕は夢中だったのだ。「青春の蹉跌」(1974年)「宵待草」(1974年)「櫛の火」「アフリカの光」(1975年)と続く純文学路線である。何しろ、原作が石川達三、古井由吉、丸山健二と新旧の芥川賞作家(石川達三は第一回目の受賞者/丸山健二は当時は最年少受賞だった)である。「宵待草」は長谷川和彦のオリジナル脚本とされていたが、石川淳の長編(「白頭吟」だったと思う)の盗作じゃないかと指摘された。

●古井由吉作品が初めて映像化されたのだったけれど----

----この映画には草刈正雄、ジャネット八田、桃井かおりといった人たちが出たんだけど、出来がすごくよかった。ところが、蔵原惟繕さんがオランダでロケーションした「雨のアムステルダム」と併映になっちゃった。どちらも長かったんですね。「雨のアムステルダム」は二時間を越えていたし、「櫛の火」も一時間四十五分ぐらいあった。そうなると蔵原さんは神ちゃんの先生格でしょ。「切れ」って言えないんですよね。東宝にしても「雨のアムステルダム」をメインにしている。で、「櫛の火」を切らざるを得なくなっちゃった。結局二十分ぐらい切ったわけです。(「姫田眞左久のパン棒人生」)

姫田さんのこの証言に僕は愕然とした。僕は「櫛の火」を封切りで見にいったのだが、「雨のアムステルダム」なんてまったく憶えていない。ショーケンと岸恵子の恋愛ものである。しかし、「櫛の火」のシーンは今も鮮やかに浮かんでくる。入院している桃井かおりの病室にいる草刈正雄が病院の中庭を見て、そこで別の芝居があり、再び病室にカメラが戻ってくる、いわゆる「3シーン1カット」と言われた神代流長まわしの場面とか、ジャネット八田と草刈正雄が一緒に公園のブランコに乗るシーンなど、倦怠感漂う名シーンだった。当時、「杳子・妻隠」「男たちの円居」「円陣を組む女たち」「行隠れ」など、僕は古井さんの小説にどっぷりはまっていたから、初めて映像化された古井ワールドに期待したのだった。

しかし、あの作品は二十分もカットされていたのだ。姫田さんは「話が分かんなくなっちゃった。だからみんな怒ってね。オールラッシュを見たときは、ホントすごかったんだよねえ。ガッカリでしたよ」と語っている。神代監督の倦怠感あふれる朦朧とした曖昧スタイルは、「内向の世代・朦朧派」と揶揄された古井さんの世界を描くにはピッタリだった。だいたい、古井由吉作品を映画化しようと考える人はほとんどいないだろう。あの文体を映像で表現するのは困難だ。「櫛の火」は、入院していた元恋人が突然自分の胸で死んだ後、主人公が人妻と知り合い逢瀬とセックスを重ねるだけの話だから、そのニュアンスの部分を描き出すのが重要だった。それなのに二十分も切られたら、ニュアンスの部分は失われてしまう。

それでも、「櫛の火」の二年後、古井ワールドの映像化に挑戦しようとする人がいた。芥川賞受賞作「杳子」の映画化である。それが、前述の僕の会社の先輩H女史だった。彼女は古井由吉さんの自宅を訪問して映画化権を取得し、プロデューサーとして自主制作した。16ミリでの制作だったが、作品は完成し(杳子の姉役の山口小夜子が妖しくてよかった)、ぴあシネマブティックの上映作品として北の丸公園の科学技術館地下ホールで何回かの上映が行われ、当然、僕も見にいった。どちらかと言えば、Hさんに古井さんを紹介してもらえるかと期待しながら----。結局、僕は当時、作品社から出ていた「古井由吉エッセイ全集」三巻のサイン入り本を入手した。それは、Hさんが古井さんに頼んでくれたのだった。

そう言えば、あの頃、僕は「古井由吉論----その曖昧な存在」という文章を四百字詰原稿用紙で三十枚くらい書いたことがあったなあ(と、突然、思い出した)。ただし、読み返してみると、当時、夢中で読んでいた蓮実重彦さんの文芸評論の文体にそっくりだったので(たとえば「古井由吉的存在」なんて表記)、「こりぁアカン」と机の奥にしまい込んだ。破り棄てるにはちょっと未練があったのだが、その後、原稿は行方不明になった。それにしても、二十分カットされる前の「櫛の火」を見てみたい。姫田さんはカット版については「ジャネット八田の裸だけがよかった」と言っているけれど、僕としても不純な動機ではなく(?)、ジャネット八田をもう一度見たいのだ。とてもきれいな人だったけれど、野球選手の田淵幸一と結婚して引退してしまった。

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