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2018年8月16日 (木)

●天皇への密使・序章

■現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」の出版準備中で、「映画と夜と音楽と----」は、当面、お休みします。以下は、63回江戸川乱歩賞で三次選考の22篇に残った応募作「天皇への密使」を全面的にリライトしたものです。400字詰原稿用紙で500枚ほどあり、順次、連載で掲載します。実在の人物が多く登場しますが、すべて完全なフィクションです。

●天皇への密使・序章

 母の元に、女学生時代の友人の訃報が届いた。貞永京子。八十八歳。茅ヶ崎の海辺の介護施設で晩年を過ごしていたらしい。同じ米寿の母は、明後日の葬儀に出席するという。まだ足腰もしっかりしているが、歩行に時間がかかるので私もつきそうことにした。それに、貞永京子は私も知らない人ではない。いや、この四十年、一度も忘れたことのない女性である。
 戦後七十年が過ぎた。新聞記事などにも、そういった見出しが目立つ。私が彼女の話を聞いた夏からは、四十年が過ぎたことになる。私は大学に入ったばかりの十九歳。貞永京子は五十までに、まだ二年を残していた。還暦を目前にした今の私よりずっと若い。あの夏、彼女は終戦時の出来事を若い私に語った。
その時点で、終戦は三十年前のことになる。十九歳の私にとって、三十年という歳月は途方もなく長かった。私が生まれる十年以上も前のことだ。三十年前の出来事は、遥かな昔のように思えた。しかし、この歳になると、三十年がほんの短い間だったことが実感できる。記憶の中では三十年なんて、あっという間に飛び越えてしまう。あの時の彼女も、そうだったに違いない。
 思い出の中に生きていたのではない。彼女にとっては、現在進行形の物語だった。彼女の人生は一本の道として続いていたし、十八歳の時の体験を反芻し続けていた。そして、彼女は今年の八月三日に亡くなった。まるで、その日に死ぬのを望んだかのようだ。七十年前の昭和二十年八月三日、十八歳だった彼女は初めてのくちづけをした。
 それは、心が慄えるような経験だったに違いない。今頃は、その相手と再会しているだろう。彼女は一瞬で恋に落ち、彼の命を救い、帰ってくるのを待ち続けていたにも関わらず、その男のプロポーズを拒み続けた。だが、もう拒む理由はない。それに、彼女を愛したもうひとりの男とも再会しているかもしれない。

 四十年前の夏も、新聞は「区切りの年」「あれから三十年」という見出しばかりだった。しかし、私は戦後十一年目に生まれた「戦争を知らない子供たち」だった。私たちが知っていたのは、ベトナム戦争である。それも、数歳年上の先輩たちから「ベトナム反戦運動」について聞かされたくらいだったから、実際にはベトナム戦争もろくに知らなかった。その年、サイゴンは陥落し、アメリカはベトナムから撤退した。
 それより以前、私が中学生になった頃には、世界的にスチューデント・パワー(当時、メディアはそう名づけた)が吹き荒れ、パリでは「五月革命」が起こり、日本では東大の安田講堂に立てこもった学生たちと、彼らを排除しようとする機動隊との攻防がテレビ中継され、アメリカのコロンビア大学の紛争を描いた映画「いちご白書」が公開された。
 一九七二年の冬には、連合赤軍事件が起こった。高校生だった私は、連合赤軍の学生たちが管理人の妻を人質にして立てこもった山荘を取り囲む圧倒的な数の機動隊に反発した。心情的には山荘にこもった学生たちにシンパシーを感じていたが、彼らが実際に警官を射殺すると心が痛んだ。
 その後、連合赤軍の山岳アジトが発見され、総括という名でリンチされた仲間たちの死体が次々に地中から発見されると、何とも形容できない嫌な気分に陥った。裏切られた気持ちもあったが、何よりおぞましさに戦慄した。妊婦まで殺されたことに驚き、人間がそんな残虐なことができるのだと絶望した。
 革命という言葉にロマンチックな幻想を抱いていたに過ぎないと、高揚した気分が醒めた。幻滅した。だから、大学に入った時、私は何に対しても積極的に関わる気分ではなかった。大学には初めから期待はしていなかったし、私の関心をひくものは何もなかった。他の学生たちはサークルに入ったり、それなりに楽しんでいるようだったが、私には彼らのように生きることはできなかった。その頃の私は、少し鬱だったのかもしれない。
 私は授業だけは出席したが、それ以外には何も関わらず、休みになると自分の体をいじめるように様々な肉体労働をして金を稼いだ。私は東京杉並の実家に住んでいたため、毎日の生活にそれほど金はかからなかったので、夏休み前までにけっこうな金額がたまった。
 夏休みの一ヶ月ほどを、どこか海の見える場所で本を読んで過ごそうと思いついたのは、七月半ばのことだった。私はアルバイト先に七月いっぱいで辞めることを告げ、本屋で関東近辺の海辺の宿を紹介したガイドブックを買い込み自宅で広げた。私は、安くて長期滞在ができる、バンガローのようなところを探していたのだ。私が居間のソファに寝転がって、ガイドブックを詳細にチェックしていると、母が言った。
「旅行でもするの?」
「一ヶ月ほど海辺で過ごしたいんだ」
「資金はたまったの?」
「長期滞在できるバンガローみたいなところを探しているんだけど、シーズンだからけっこうとるね」
「茅ヶ崎はどう?」
「そりゃあ、泊まれるところがあれば文句ないよ」
「女学校時代の友だちが、茅ヶ崎に住んでるわ。もうずいぶん会っていないけど、彼女の家は旧家で離れもあってね。昔、夏に泊めてもらったわ。今はひとりだから、夏の間、離れを貸してもらえるかも----」
「どの辺?」
「茅ヶ崎の外れ。相模川寄りね。海まで五分。潮騒が聞こえるわ」
「条件クリアー。でも、いついったの?」
「最後にいったのは、あんたを生むずっと前だから、昭和二十五年か六年ね。まだ占領が終わっていなかった。お父さんとふたりだったわ」と、母は懐かしそうな顔をした。
「もう二十年以上も前じゃん。まだ生きてるの?」
「ひどい言い方ね。年賀状は毎年きてるし、一年に一度くらいは電話で近況報告してるのよ」
「へえー、そんな友だちいたんだ」
「そりゃあ、親友のひとりくらい」
「でも、うちには一度もこないじゃん」
「あんたが生まれた時にきたのよ。赤ん坊の時に会ってるわ」
「憶えてるわけないよ」
 母は、大学に入ったばかりの息子が、いつも不機嫌な顔をしているのが気になっていたのだろう。夏休みに一ヶ月ほど海辺で過ごしたいというのは賛成だったが、誰か知り合いに監視していてほしかったのだと思う。それで、昔の友だちを思い出したのだ。母は、その友だちに電話をし、しばらく互いに近況報告をしているようだったが、「息子が一ヶ月ほど海辺で過ごしたいというのだけれど----」と切り出し、快諾を得た。
 その人は貞永京子という名前で、母と同じ四十八歳だった。母と共に女学校に通っていたのは、太平洋戦争まっただ中の時だった。終戦の頃は勤労動員で、毎日、軍需工場で働いていたという。
「昭和二十年の五月二十八日、一緒に横浜の工場で昼間に空襲に遭ったのよ」と、母は唐突に口にした。その人を思い出すと、一緒に甦る記憶なのだろう。もしかしたら、あの時死んでいたかも----、と何度も振り返ってきた体験なのかもしれない。
 そんなわけで、私は八月の一ヶ月、茅ヶ崎で過ごすことになった。貞永家は、茅ヶ崎駅から車で十分ほどの閑静な場所にあった。古い白壁の土塀で囲まれ、立派な門構えの旧家だった。門は開いていた。敷地は二百坪ほどだろうか。母屋があり、左手奥に納屋があった。母屋の裏に少し見えているのが、私が貸してもらえることになっている離れらしかった。
 私は勇気を奮い起こし、立派な門をくぐり、母屋の玄関の前に立って声をかけた。しばらくして、納屋の方から手ぬぐいで姉さんかぶりをした割烹着姿の女性が現れた。割烹着の下は、よく言えばワンピース、昔風に言えば「アッパッパ」のような涼しそうな服装だった。
 彼女は頭から手ぬぐいを取って、「修平くんね。よくきたわ」と言った。母と同い年とは思えないほど若かった。年齢を聞いていなければ、三十代だと思っただろう。身長は百七十センチ近くあり、その世代の女性としては背が高い。痩身で華奢な感じだった。
 細面の顔は色白で、まあるい両の瞳がいきいきと輝いていた。目じりが少し吊り上がり、気の強さを現している。瞳の色は明るい茶色だった。髪をひっつめにしているが、白いものはまだ混じっていない。黒髪ではなく栗毛だった。唇は小さく、鼻筋は通っている。私は、西洋人形を連想した。人形より、ずっと美人だった。
「よろしくお願いします」と、私は頭を下げた。
「ずいぶん大きな荷物ね」と、彼女は言った。
「本を詰め込んだので、重くて----」
「全部、読み切れるかしら」
 そう言って浮かべた笑みに、私は魅了された。一瞬のことだった。動悸が速くなり、汗が浮かんだ。私は、視線が外せなくなった。
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「いえ、別に----」と、私は口ごもった。
 案内された離れは六畳と三畳の和室があり、土間に簡単な台所がしつらえられていた。自炊も可能だ。しかし、彼女は「母屋で一緒に食事しましょう。一人分作るのも二人分作るのも、同じなのよ」と言う。私は、もちろんすぐに了解した。風呂も母屋に借りにいくことになる。私は、素敵な女性との一ヶ月を想像して胸を膨らませた。といって、別に性的なことを期待したわけではない。幼い憧れだった。
 彼女のことが、すべて知りたくなった。どんな人生を送ってきたのか。なぜ、ひとりで暮らしているのか。それらのことは、その日の夕食の時に少し明らかになった。荷物を片づけ、海辺を散歩し、屋敷に戻ると、もう夕方の六時を過ぎていた。夕食は七時と言われていた。私は母屋に顔を出し、薪割りをして風呂を沸かし、汗を流してから食卓に就いた。
 母屋の台所は広く、囲炉裏のある板敷きの土間に続いて八畳ほどの和室があり、昔はそこで箱膳に向かって食事していたらしいが、今は敷物をしてダイニンクテーブルが置かれ、椅子が四脚配置されていた。私は、そのテーブルで彼女と向かい合って食事をした。彼女はビールの栓を抜き、「大丈夫でしょう?」と言って私と自分のグラスに注ぎ、おいしそうに一杯目を飲み干した。
「母とは、女学校で同級だったのですか?」と、ビールをひと口飲んでから私は訊いた。
「そうよ。ふたりの青春時代」
「結婚は、しなかったんですか?」
「履歴調査? お母さんに何も聞いていないの?」
「ええ。ほとんど何も」
「結婚はしなかったわ。この家から離れたくなかったから、ここで暮らしてきたの。結婚していたら、あなたくらいの息子がいたかもね」」
 そう言って、彼女は部屋の中を見渡した。この家に強い愛着を持っているのがうかがえた。それから肩をすくめて、いたずらっぽい視線を私に向けて口を開いた。
「でも、好きな人がいなかったわけじゃないのよ。その人は、進駐軍の通訳をしていた。占領が終わった時にプロポーズされたのだけど、断わったの。その後、彼は大学の英文科の先生になった。それから十年ほどして亡くなったけど、最期まで看取ることができたわ。もう十年以上も昔のこと」
 まるで息子に秘密を打ち明けるように言って、何かを思い出したのか、遠くを見つめる目をした。なぜ、プロポーズを断ったのかが気になったが、そんな質問をするのははばかられた。
「今は、何をして暮らしているんですか?」
「戦後、その人が進駐軍関係の翻訳の仕事をまわしてくれて、そのまま仕事になっちゃった。彼が大学の先生になってからは、いくつか出版社を紹介してくれたわ」
「翻訳家? いいなあ」
「どうして?」
「自宅でできる仕事でしょ。人に会わなくてすむし、組織の面倒なしがらみもない」
「どんな仕事にも、嫌なことはあるのよ。まあ、嫌いじゃないし、仕事の評判は悪くないようだから、気楽と言えば気楽かな」
「どんな本を訳しているんですか?」
「ここ十年は、ミステリの下訳が多いわ。最近、ようやく翻訳ミステリがたくさん出るようになって仕事も増えたけど、ちょっと前までは大手出版社じゃ翻訳ミステリなんて出さなかったものよ。今はパトリシア・ハイスミスの新作を訳してるの」
「パトリシア・ハイスミスって、アラン・ドロンの『太陽がいっぱい』の原作者でしたっけ?」
「ヒッチコック映画の原作、何だっけな。それも彼女よ」
 翌日、私は早朝の散歩に出た。砂浜が続く海辺をしばらく歩き、相模川を渡り、平塚から大磯方面に向かう少し外れたところの岩場に到達した。その少し高くなった岩場の突端に立つと、水平線が見渡せた。見下ろすと、数メートル下に海面がある。夏の夜明けは早く、すでに太陽は昇っていた。その太陽が、波をきらめかせている。美しい朝の光景を見つめていると、ここへきてよかったという思いが湧き上がってきた。
 散歩から戻ると、七時を過ぎていた。彼女が庭の草花や木に水をやっていた。私を見ると、その手を止めて「お腹、すいたでしょ」と言った。母屋には、すでに朝食の用意ができていて、あじの開き、冷や奴、漬け物、味付けのり、豆腐とワカメの味噌汁などが並んでいた。
 そこで、私は家事の手伝いを申し出、庭の掃除と水やり、薪割りと風呂の準備などが私の担当になった。食事が終わり、私が洗い物をしておくと申し出ると彼女は黙ってうなずき、書斎になっている和室に向かった。その和室は仏間を通っていくようになっていて、途中、彼女は仏壇の前に座り、視線をあげてから線香を手にして火をつけた。それから、ゆっくり手を合わせ、しばらく黙祷した。その時間が、ひどく長いように私は感じた。毎日、そんな風に仏壇に向かうのだろうか。
 やがて彼女は立ちあがり、仏間を出ていった。世話になっている以上、私も貞永家の先祖に挨拶をしておいた方がいいかなと思い、洗い物を終えてから仏壇の前に正座した。もちろん、彼女の長い祈りに対する好奇心もあったからだ。私は、仏壇をじっくりと見渡した。仏壇の中の額に入れられている写真が目についた。三枚のモノクロ写真だった。
 一枚には、収容所のような柵を背景にして青年が写っていた。ワイシャツの袖をまくり上げ、一番上のボタンを外し、苦笑いのような照れた表情をしていた。日本人に見えるが、背景は日本ではなさそうだった。柵の向こうには、砂漠のような光景が広がっている。一体、どこなのだろうと私は思った。
 もう一枚には、大学のキャンパスらしき場所を背景に、やはり日本人の青年が写っていた。記念ホールのような建物も写っていて、「ハーヴァード」という文字が読める。ハーヴァード大学なのだろうか。その時、ある有名な社会学者が戦前、ハーヴァード大学に留学していたという話を私は思い出した。
 三枚めの写真には、落ち着いた感じの中年の日本人男性が写っていた。中年と言っても、四十代になったばかりだろうか。ダークスーツを身に着け、白いネクタイをしたフォーマルなかっこうだ。写真館で撮影したものらしく、グラデーションのある背景紙の前で写っている。知的な顔をしていた。この人が、十年ほど前に亡くなったという大学の先生だろうか。
 収容所のような柵を背景にした青年の写真と、ハーヴァード大学らしきキャンパスに立つ青年の写真に興味を持った。どちらも、服装から見て戦前の写真のようだった。しばらく、私はその写真を見つめたが、何もわからなかった。もう少し親しくなったら、食事の時にでも何げなく訊いてみようと私は思った。
 私の生活は、早朝の散歩、帰宅して庭掃除と水やり、朝食、午前中は読書というパターンが出来上がった。昼食をとった後は、泳ぎにいくこともあったし、離れに寝ころんでいることもあった。夕方近くになると薪割りなどの力仕事をし、風呂を沸かし、汗を流す。夜は、その日、考えたことを蚊帳の中でノートに記した。日記というより、思索録みたいなものを書き綴った。
 五日後の八月六日のことだった。私は、いつものように早朝の散歩に出た。日が出たばかりで、温度もまだ高くなっていない。太陽は雲間に隠れていて、まだ少し薄暗かった。しかし、夏のさわやかな朝だった。私は、ぶらぶらと周囲を見ながら海へ歩いていった。浜辺を歩いてあの岩場の方にいくと、私は岩の突端に彼女が立っているのを見つけた。彼女は、まるで喪服のような黒い着物を着て岩に立ち、海に向かって何かを祈るような姿でたたずんでいた。
 その姿は厳粛で、私は犯し難いものを感じて遠くから見つめた。近寄ってはいけない気がしたのだ。どれくらいの時間がたったのだろう。周りは完全に明るくなり、彼女が振り返った。すぐに私を見つけて驚いた様子だったが、笑顔を浮かべて手を挙げ、私に向かってまっすぐに歩いてきた。足場が悪く、彼女が私のところまでくるのに数分かかった。その間、私はずっと彼女を見つめていた。
「いつから見ていたの?」
「今、きたばかりです」
「うそ、ずっと見てたんでしょ」と言って、笑みを浮かべた。「何をしてるんだ、あの女、と思ってたんじゃないの」
「そんなこと----。ただ、何か近寄り難い雰囲気があったから」
「オーラが出てた?」
「ええ、そんな感じです。何をしてたか、訊いてもいいですか」
 彼女は、一瞬、迷ったような顔をした。その後、海の方を振り返り思案している風だったが、しばらくして何かを決意したように強い口調で私に答えた。
「三十年前の今日、亡くなった人たちがいるの。三人----」
 まるで改めて自分に言い聞かせているようだった。
「今日は、ヒロシマに原爆が落ちた日ですね」
「そう、でも、その人たちは原爆で死んだわけじゃない。ここで亡くなった」
 そう言って、彼女は再び海の方を向いた。
「あの時、もっと早く私がきていれば----」と、彼女はつぶやくように口にした。
 それは、私に向かって言ったのではなかった。まだ、昔に起こった何かを悔やんでいるような口ぶりだった。
「三十年前、ここで何があったんですか?」と、私は答えを急かすように言った。
 彼女が振り返り、私を見つめた。何かを訴えるような目をしていた。
「三十年前の八月六日の午前二時には、もう原爆を積んだB29がテニアン島を飛び立っていたのよ」と、唐突に彼女は言った。「何もかも----無駄だった」と囁くように続ける。
 私は、問いかける目をしたのだろう。彼女は、我に返ったような表情になった。
「ごめんなさい。やっぱり、まだ話せない。三十年経って、戦争を知らない世代のあなたになら話せるかと思ったけど----。やっぱり、駄目」
「ひどいなあ」と、私は明るく答えた。「そこまで話しておいて----、気になりますよ」
「ごめんなさい。もったいぶってるわけじゃないのよ」
「わかりました。話したくなったら、いつでも聞きます」
「そうね。帰りましょうか」
 私と彼女は、肩を並べて帰途についた。並んで歩くことで、十九歳の私は少し緊張していた。そんな私の動揺にはまったく気づく様子はなく、彼女は物思いにふけったまま着物の裾を乱さず、静かに歩き続けた。
 そんなことがあってからも彼女の態度に変化はなかったし、私の日常も変わらずに過ぎていった。毎朝、海岸を散歩し、読書をし、家事をこなした。そんな変化のない日々が、私を癒してくれるのがわかった。しかし、彼女と同じように毎日、仏壇に向かって手を合わせていると、次第に好奇心が募り、彼女が口にした言葉の端々から私なりに様々な物語を紡ぎ出すことになった。どの物語も荒唐無稽な冒険譚か、悲恋物語だった。
 それは、海岸で彼女を見かけた日から九日後、終戦記念日のことだった。朝食を終え、私が流し台に向かって洗い物をしていたとき、彼女はいつものように仏壇の前に座り、引き出しから何かを取り出した。私が横目でうかがうと、彼女は四角い箱のようなものを仏壇の位牌の横に置き、いつものように線香をあげ手を合わせた。いつもよりさらに長い祈りを終えると、再び四角い箱を引き出しに仕舞い、立ち上がって書斎にしている部屋に向かった。
 私は洗い物を終え、しばらく台所で立っていた。迷っていたのだ。好奇心を抑えるのが困難だった。彼女の仕草から、その箱が大切なものだとうかがえた。何かいわくがありそうだった。私は、その箱の中身を確認したくてたまらなくなった。その日、彼女は東京まで出かける用事があると、朝食の時に私に言った。
「終戦記念日だから?」と、私はつい口にした。
「そういうわけじゃないけど、ちょっと出版社にも寄らなければならないから」
「じゃあ、留守番をしましょうか」
「ひとりの時は完全に鍵をかけて、門も閉じて出かけるのだけど、あなたがいるから」
「いいですよ。帰ってくるまで、外出しません」
「そう、だったら母屋にいてちょうだい。どこで読書しても同じでしょ」
「わかりました」
 そういうやり取りがあり、その日は私ひとりで母屋で過ごす予定だった。書斎で一時間ほどいた彼女が出かける準備をして現れた時、私は縁側に寝そべって、本を読んでいた。慌てて身を起こし、「いってらっしゃい」と声をかけた。彼女は静かにうなずくと、「よろしく」と言って玄関に向かった。濃紺のワンピースに、柔らかな革でできた大きめの黒のショルダーバッグを持っていた。原稿が入っているのかもしれない。
 彼女を玄関まで見送った後、門を出ていく後ろ姿を見ながら、私には濃紺のワンピースが喪服のように思えた。彼女が出かけると、私の思いは今朝のいわくありそうな小さな箱に向かった。だが、黙って人のものを盗み見るようには、私は躾けられていなかった。それは、とてもいけないことなのだという考えが私を支配していた。
 気を紛らすために、私は部屋の隅にあるテレビのスイッチを入れた。ここへきてから、世の中のことを完全に忘れるためにテレビも新聞も見ていなかった。彼女もテレビを見ることはほとんどなく、たまにニュースをかけるくらいだと言っていた。
 テレビ画面に、一枚のスチル写真が映った。砂漠の中に作られた収容所のような場所を背景に、日本人の子供たちが野球をしている写真だった。といっても、きちんとしたグローブやバットではなく、棒切れのバット、手袋のような布製のグローブだった。全員が丸刈りで、粗末な服装をしている。中には裸足の子供もいた。広角レンズで背景までシャープに写された写真だった。
「彼は、この日系人キャンプで写真を覚えた。それがきっかけで、戦後、彼は写真家の道に進む。この写真は、後に世界的な写真家として様々な作品を残す石原泰秀の原点なのである」と、重々しいナレーションがかぶさった。
 それは、終戦特集として組まれたドキュメンタリーだった。その写真家は大正末期にサンフランシスコで生まれたが、三歳の時に父親の故郷である高知に帰り、十八歳で再びアメリカ式農業の勉強のためにアメリカに渡る。しかし、すぐに真珠湾攻撃があり、日系アメリカ人として一九四二年に日系人収容所に入れられたのだ。
 そこで知り合った日系人に写真を教えられ、彼は収容所内で写真を撮りまくる。その写真は、「戦後三十年の今、日系人強制収容の真実を伝える資料となった」とナレーションは語る。「しかし、強制収容された日系人たちにアメリカ政府からは、未だに何の補償もない」----そんな内容で、番組は締めくくられた。
 私は、途中からだったが、そのスチル写真を中心とした構成のドキュメンタリーに目が離せなくなった。太平洋戦争中の日系人および日系アメリカ人の強制収容のことは、何となく聞いてはいたが詳しいことは何も知らなかった。彼らは築き上げた生活を根こそぎ破壊され、鞄ひとつだけを許されて収容所に入れられ、過酷な生活を強いられたのだ。そして、あの仏壇の写真の背景は日系人収容所だったことがわかった。
 番組が終わり、テレビのスイッチを切ると、私は仏間にいき、仏壇の前に正座した。じっくりと、日本人青年が写っている写真を見る。やはり、先ほどテレビで見た写真と同じような背景だった。柵の向こうに見えるのは、いかにもアメリカ的な光景だった。間違いなく、その青年は日系人収容所に入っていたのだ。ということは、日系移民かアメリカ国籍を持つ日系アメリカ人ということになる。改めて三枚の写真を、私はじっくりと見た。だが、何もわからなかった。
 好奇心というより、先日、彼女が口走るように話した言葉の端々が私を刺激し、何があったのかを知りたいという欲求が最高潮に達した。その気持ちが私のささやかなモラルを凌駕し、私の手は仏壇の引き出しを三分の一ほど引いていた。だが、そこで私の手は止まった。迷った。しかし、結局、知りたい欲求が勝ち、私は引き出しを開けた。
 そこには、十センチ四方の桐の箱が収められていた。その下には、古い書籍が置かれている。箱の厚さは、二センチ足らずである。私は、その箱を手にした。その時、箱の下にあった書籍のタイトルが目に入った。「日本憲法概論」とあり、著者は「貞永源三」となっている。古い書籍だ。著者は、彼女の祖父か父親なのだろうか。
 私は、その書籍を取り出そうとして、予想外の重さに手首を痛めそうになった。書籍の重さではなかった。「菊判」というのだろうか、単行本サイズとは少し違っている。戦前の書籍のサイズだった。函入りで、その函は長い年月を経て茶色になっている。私は用心して両手で持ち上げ、函から本を取り出した。そして、それを開き、驚愕した。
 その本はページが拳銃の形にくり抜かれ、小型の拳銃が隠されていた。玩具ではなさそうだった。私はおそるおそる拳銃を取り出した。二十五口径、いわゆる護身用の自動拳銃だった。中学生の頃にモデルガンに熱中した経験があるので、私はそれがベレッタ1919というモデルだとわかったし、実際、そのように刻印されていた。
 私はクリップ(挿弾子)を抜き空であることを確認し、薬室に弾丸がないのを確かめてから、銃口を覗いてみた。モデルガンではなかった。間違いなく、本物だった。本物だとしたら、ずいぶん古い銃である。一九一九年にイタリアで製造が始まり、一九三四年に後継モデルが登場して製造が終了した。最後に製造されたものとしても、四十年以上前のモデルである。
 戦前、軍の将校などは自費で拳銃を購入したという。また、民間人も護身用に銃を持つことが可能だったと聞いたことがある。日本が無条件降伏して軍は武装解除になり、兵士たちは故郷へ帰還したが、その時、秘かに私物として拳銃を持ちかえることもあっただろう。もしかしたら、この拳銃もそうなのかもしれない。
 私は、そんなことを考えたが、そう長く拳銃を手にしていたわけではない。本物とわかったところで怖くなり、それを元のように本の間に戻し、函に入れ、引き出しにしまった。それから、桐の箱の蓋をとった。そこには、古びた守り袋が入っていた。手製の思いのこもったもののようだった。さすがに、その袋を開けるのはためらわれ、私はすぐに箱の蓋をして書籍の上に元のように重ね、引き出しを閉めた。胸の鼓動が早くなっていた。
 その日、夕方になって戻ってきた彼女は、東京駅のデパートの地下で買ってきたという寿司折りを下げていた。私はそれを受け取って皿に盛りつけ直し、テーブルに並べた。その間に彼女は汗を流すと言って風呂に入り、浴衣に着替えて現れた。湯上りの風情が私を困惑させたのか、あるいは黙って彼女の秘密を見てしまったことの後ろめたさがあったのか、私は思わず目をそらした。
 浴衣姿の彼女は仏間で仏壇の前に座り、朝と同じように手を合わせた。引き出しを開けたことが知られるのではないかと私は怖れた。しかし、何事もなかったように彼女は立ち上がり、「さあ、風呂上がりの一杯ね」と冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、テーブルの上のグラスを取って注いだ。私たちはビールを飲み、寿司を食べ始めた。しばらくして、彼女が口を開いた。
「修平くん、黙って人の引き出しを開けてはいけないわ」
 私は思わず、寿司を喉に詰まらせそうになった。
「仏壇の引き出しを開けたでしょう」
「-----」
「私には、わかるの。ずっとひとりでここで暮らしてきたから、自分以外の人が何をしたか、わかるようになったのね」
「すいません」
 それしか、私には言えなかった。頭を下げた。そのまま顔を上げられなかった。
「怒ってはいないわ。この前、私が思わせぶりなことを言ってしまったから----」
 そう言って、長い沈黙が続いた。下を向いたままの私には、彼女がどんな表情をしているのかもわからなかった。
「見たの? 引き出しの中のもの。本の中も?」
「はい」
 嘘はつけなかった。
「そう」と言って、彼女は深いため息をついた。「あれは父の形見。あれが、あの夜、私を守ってくれた。でも、もう処分しなければ駄目ね」
 私は何も答えられなかったし、彼女は返答を求めていたわけではない。自分に対して言い聞かせていたのだ。
「あなたが、私と同じように、毎日、仏壇の前に座ってくれているのは知っていたわ。あそこには父も母も、祖父母もいる。それに、三十年前の夏に亡くなった人たちも----。さあ、もう顔を上げて」
 私は言われるまま顔を上げ、そこににこやかに微笑んでいる彼女の顔を見て、ほっとする気分だった。
「この間は決心がつかなかったけれど、引き出しの中を見たのなら、あなたに聞いてもらいましょう。三十年前の終戦の夏のこと。日本に原爆を落とさせないように力を尽くした人たちのこと。原爆を落とす前に、日本に降伏を促そうとしたの。そのために、最後まで力を尽くした」
 予想もしない言葉だった。
「アメリカが原爆を落とすのを、知っていたんですか?」
 そんな問いが、思わず私の口を衝いて出た。
「そう、知っていた。だから、その前に日本を降伏させるためにやってきたの」
 その時、私は仏壇の写真を思い浮かべた。
「それって、仏壇の写真の人たちと関係があるんですか?」
「あの写真も、見てるのね」
「ええ」
「そう」と、彼女は下を向いた。
「スーツの人は、あなたにプロポーズした人ですか?」
 話すのをまだためらっている様子の彼女に、私は明るい口調で訊いた。
「そう。あの写真は、亡くなる一年前のもの。もう、ガンはあの人の体を蝕んでいた。だから、教え子の結婚式に出た時、記念にと言って撮ってもらったの」
「本人は、知っていたのですか?」
「あの頃は、ガンの告知なんてしなかった。ガンの告知は、そのまま死の宣告だったし。でも、本人は気づいていたと思う。それでも、あの人は最期まで静かに暮らしたわ。あの人にとって、死ぬことは特別のことじゃなかった。人の死をいっぱい見てきたから」
 彼女の話す内容に衝撃を受けた。大勢の人の死を見てきた? それってどういうことだろう。
「ふたりの青年は? 日本人に見えますが」と、私は話題を変えるように言った。
「日本が真珠湾を攻撃した後、アメリカにいた日系人は、大統領令によって収容所に強制的に送られたのは知ってる?」
「ええ、少しは。でも、詳しくは知りません」
 私は、見たばかりの日系人収容所に強制的に収容された、日系人写真家の番組のことは口にしなかった。それに、本当に詳しいことは知らないのだ。
「収容所の中で撮った写真は、日系二世の人よ。両親はふたりとも日本人だから純粋な日本人だけど、アメリカで生まれてアメリカ国籍を持つ日系アメリカ人。もうひとりは、同じ時期にハーヴァード大学に留学していた日本人」
「そんな人たちがどうして----」
「彼らは、三十年前の八月、日本に原爆を落とさせないために命をかけた。そのために、アメリカからやってきたの」
 私は、彼女の話が理解できなかった。日系二世の青年が終戦直前の日本にきていた? アメリカの原爆投下を止めるため?
「わけがわからないという顔、してるわね。誰も信じないかもしれないけれど、私が関わったことだから、間違いなく起こったことなの。ひとりでもいい。私の話を若い世代の誰かが知っておいてくれれば、それだけで、あの人たちの魂が救われる気がする」
 彼女は、語り始めた。


■参考文献(順不同)
「昭和 二万日の全記録」        講談社
「昭和史発掘」松本清張        文春文庫
「昭和史」半藤一利・著        平凡社
「昭和陸軍全史」川田稔        講談社現代新書
「日本のいちばん長い日」半藤一利      文春文庫
「日本のいちばん長い夏」半藤一利      文春新書
「原爆が落とされた日」半藤一利・湯川豊     PHP文庫
「日本崩壊」大森実         講談社文庫
「ヤルタからヒロシマへ 終戦と冷戦の覇権争い」    マイケル・ドブス/三浦元博・訳  白水社
「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃    NKH BOOKS
「終戦史 なぜ決断できなかったのか」吉見直人    NHK出版
「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民   草思社
「『スイス諜報網』の日米終戦工作」有馬哲夫    新潮社
「高松宮と終戦工作」工藤美知尋      光人社NF文庫
「カウントダウン ヒロシマ」   スティーヴン・ウォーカー/横山啓明・訳  早川書房
「日米戦争と戦後日本」五百旗頭真      講談社学術文庫
「侍従長の回想」藤田尚徳        講談社学術文庫
「回想十年」吉田茂         中公文庫
「父 吉田茂」麻生和子        新潮文庫
「吉田茂という逆説」保阪正康       中央公論新社
「赫奕たる反骨 吉田茂」工藤美代子      日本経済新聞出版社
「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」北康利    講談社
「滞日十年」ジョセフ・C・グルー/石川欣一・訳   ちくま学術文庫
「駐日米国大使ジョセフ・グルーの昭和史」大田尚樹   PHP
「ヘンリー・スティムソン回顧録」  ヘンリー・スティムソン/マックジョージ・バンディ 中沢志保/藤田怜史・訳   国書刊行会
「鈴木貫太郎自伝」鈴木貫太郎       日本図書センター
「宰相鈴木貫太郎の決断」波多野澄雄      岩波現代全書
「無念なり 近衛文麿の闘い」大野芳      平凡社
「東条英機と天皇の時代」保阪正康      ちくま学芸文庫
「戦艦大和ノ最期」吉田満        講談社文芸文庫
「日米交換船」鶴見俊輔/加藤典洋/黒川創    新潮社
「戦陣訓の呪縛 捕虜たちの太平洋戦争」
   ウルリック・ストラウス/吹浦忠正・監訳  中央公論新社
「四人の軍令部総長」吉田俊雄       文春文庫
「秘録陸軍中野学校」畠山清行/保阪正康・編    新潮文庫
「特高警察」荻野富士夫        岩波新書
「憲兵 元・東部憲兵隊司令官の自伝的回想」大谷敬二郎  光人社NF文庫
「憲兵物語 ある憲兵の見た昭和の戦争」森本賢吉   光人社NF文庫
「帝国陸海軍軍事の常識 日本の軍隊徹底研究」熊谷直  光人社NF文庫
「ノー・ノー・ボーイ」ジョン・オカダ/川井龍介・訳  旬報社
映画「愛と哀しみの旅路」(1990年)アラン・パーカー監督
映画「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)スコット・ヒックス監督
その他、いくつかのインターネットサイトを参照しました。

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