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2018年9月27日 (木)

●天皇への密使・第二章その6

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第二章その6

■1945年8月3日 12:50  茅ヶ崎
「誰か、いないか」
 玄関で大声がした。ヘンリーはとっさに身を起こし、痛みにうめき声を出しそうになったが、奥歯を噛んで声をこらえた。どれほど眠っていたのだろう。京子の姿は見えなかった。奥の部屋から誰かが出てくる気配がした。京子の祖母だろう。ゆっくりと廊下を歩いて、玄関に出ていく。
「おい、誰もいないのか」と、再び胴間声がした。
「何か?」と、祖母の声がかすかに聞こえた。
「いるのなら、早く出てこい」と、男は苛立っていた。
「はあ、何でございましょう」
「憲兵隊の者だ。あの自転車は、このうちのものか?」
 やはり、憲兵か。ヘンリーは、拳銃を引き寄せた。もう昼は過ぎている。あれから、四時間以上が経っていた。どちらに逃げたかは兵士たちに目撃されていたが、すでにここまで憲兵の捜索が及んでいるのか。しかし、祖母の返事する声が聞こえない。再び、憲兵の大声が聞こえた。
「おまえ、耳が遠いのか。あの自転車は、このうちのものか」
「そうでございます」
「他に、誰もおらんのか?」
「孫娘がおりますが、勤労奉仕に出ております」
「自転車は使わんのか、その娘は」
「はい、駅までは歩いております」
 その時、別の足音がした。走ってくる音だ。
「おい、井川。納屋にもう一台、自転車があるぞ」
「何。おい、ばあさん、そこにいろ」
 ふたつの足音が急いで遠ざかる。すぐに仏間の襖が開き、老女が顔を出した。手招きする。ヘンリーは立ち上がった。老女の跡について土間に向かう。しかし、痛みが走り、素早く動けない。
 老女が台所の板の間の敷物をずらし、その下にある床下に作った貯蔵庫らしい蓋を開けていた。人ひとりが体を丸めて、何とか入れるくらいだ。ヘンリーは体を滑り込ませた。無理な体勢になり、疼きがひどくなる。蓋が閉められ、おそらく敷物がかぶせられたのだろう。真っ暗闇になり、ヘンリーは胎児のように体を丸くした。しばらくして、屋敷内を乱暴に歩く足音がした。憲兵たちが屋敷の中を調べている。
「ばあさん、あの寝床には誰がいた」と、声が聞こえた。
「私でございます。少し具合が悪くて、横になっておりました」
「仏間でか?」
「あそこが一番涼しいのです。ご先祖様の霊がいらっしゃるので」
「何を気味悪いことを言ってる」
「はあ、何でございますか。私、耳が遠いものですから」
「まあ、いい。娘は、いつ帰る?」
 別の足音が響いた。
「井川、この先の駅に向かう道沿いの疎水で、血まみれのハンカチが見つかった。逃げた男が棄てたものらしい」
「そうか、ひとりには命中したらしいからな。しかし、この家がどうも気になる」
「使った自転車なら、あんなに目立つように玄関前に置いておくものか。駅に向かったんだろう。途中で、傷の手当てをして血まみれになったハンカチを棄てたんだ。急ぐぞ」
「わかった」
 ドタドタと足音が遠のいていく。ふたりの会話が、自分を隠れ場所からおびき出すための芝居めいたやりとりに思えた。違うかもしれない。そのまま、ヘンリーは身動きしなかった。ずいぶん長い時間が経ったように思えた頃、敷物をずらす音がして蓋が開き光が入ってきた。暗闇に慣れた目にはまぶしく、しばらく目を閉じたままだった。
「もう、大丈夫ですよ。憲兵はみんな、いってしまいました」
 ヘンリーは老女が差し出した手をつかみ、身を起こした。痛みが走り、うめき声が出る。今度は我慢できなかった。台所の床に身を伸ばして横たわった。
「あなたが何をしているのか、誰なのかは、知りません。あの子が何をしているのかも、知らないようにしています」と、老女が口にした。「ただ、あの子が心配で、心配で」と続け、言葉が途切れる。
「わかります。でも、心配しなくていい。あなたの孫娘は、大変に頭のよい人です。危険は察知し、うまく逃れるでしょう。それに、もうすぐ、戦争は終わる。間違いなく」
 確かに、あの娘はクレバーだ。自転車をわざと目立つように置き、駅に向かう途中、血をたっぷり吸い込んだハンカチを、見つけやすいように疎水にわざと棄てたのだ。そのおかげで、ヘンリーは助かった。
 ヘンリーは、老女の肩を借りて立ち上がった。熱は治まったようだ。ぐっすり眠ったせいで、心なしか体が軽くなった気がする。ふらつきながら仏間に戻り、再び床に横たわる。今は、傷の具合をよくし、体力を回復させる時だ。明日は、休む暇なく動きまわらなければならないだろう。今日一日は、ミスター吉田に動きまわってもらおう。今、自分にできることはない、とヘンリーは言い聞かせた。

■1945年8月3日 13:00 東京・荻窪
 東京駅に着いたときから、憲兵が跡を尾けているのはわかっていた。いつものことだ。しかし、今日の彼らは民間人に化けていない。憲兵の制服のまま、姿を見せつけるように吉田を監視していた。おまえのことは見張っているぞ、と威嚇しているのか。
 駅には、麻生鉱業の車が迎えにきていた。運転手もいつもの男だ。ほとんど大磯で暮らすようになってから、吉田は東京に出てきた時は麻生鉱業の電気自動車を使うようになっていた。平河町の本宅も娘婿の麻生太賀吉が手配してくれたものだったが、五月末の空襲で焼けてしまった。焼け残ったロールスロイスは、ガソリンの入手が困難で車庫に置いたままだ。
 吉田は運転手に、荻窪にある近衛文麿の屋敷にいくように命じた。近衛の本宅は目白にあったが、もうずいぶん以前から荻窪にある荻外荘と名付けた広大な別邸に住んでいた。様々な人物がそこを訪れる。その顔ぶれを見れば、近衛の人脈の広さがわかる。振り返った吉田は、憲兵隊の車が尾いてきているのを確認した。荻窪までは遠い。吉田は腕を組み、目をつむった。今朝の男が言ったことを、反芻した。
 ソ連参戦という言葉が最も衝撃的だったが、やはり、と思ったのも確かだ。今年、日ソ不可侵条約の更新をソ連が拒否した時から、スターリンの狙いはわかっていた。ソ連が参戦した後に日本が降伏した場合、ソ連は樺太、千島、そして北海道へ侵入するだろう。一度、占領した場所をソ連が手放すはずがない。ソ連占領地区は共産化される。降伏するとしたら、米国だ。
 満州はソ連に蹂躙されるかもしれないが、せめて本土だけはスターリンから守らなければならない。吉田が近衛と共に作成した「近衛上奏文」にも、日本の共産化だけは避けなければならないことを強調していた。そのためにも終戦を急ぐのだ。一時間以上かかって、車は荻外荘に到着した。訪問客が吉田だとわかると、顔なじみの女中頭が顔を出した。
「吉田様、ご存じのように----」
「わかっとる。黙って中に入れてくれ」
 吉田は女中頭の言葉を聞くまでもなく、途中で口を挟んだ。相手が何を言いたいのかはわかっていた。近衛は不在なのだ。それは知っている。女中頭は門を大きく開いた。運転手は車を乗り入れる。門を閉める時、正面に憲兵の車が堂々と駐まっているのが見えた。
「すまんが、車をしばらくここに置かせてくれ。それから、裏口からわしひとりで出る。表の連中に気づかれたくない」
「わかりました」と、女中頭が答えた。「歩いて駅までいらっしゃるのですか」と続ける。
「仕方がない。歩くしかなかろう」
「書生に自転車で送らせます」
「そうか。それはありがたい。半年ほど前に初めて、大磯にいた書生に自転車の後ろに乗せてもらった。樺山さんや原田さんの別荘に、何度かつれていってもらったものだ」
 その書生も空襲が頻繁になり、故郷の母親が心配だと辞めていった。吉田が釈放されてすぐのことだった。
「時間はおありですか?」
「多少はな」
「それでしたら、何もありませんが、お昼でも」
 時計を見ると、午後一時になっていた。
「いや、そうもしておれん。気が急く。運転手に何か振る舞ってやってくれ。ここで夕方までいてもらうことになる」
 近衛文麿は東京の空襲が激しくなり、少し前から箱根にある知人の別荘に避難していた。数人の使用人が、荻外荘を守っているだけだ。
「きみには悪いが、ここで四時までいて、それから社に帰ってくれ」
 吉田は運転手に言って、女中頭を振り返った。それまで、黙って憲兵たちが待っているだろうか。憲兵隊は、近衛文麿がここにはいないことを知っているかもしれない。近衛も監視されているはずだった。しかし、その情報が吉田を監視している憲兵たちに共有されているかどうか。吉田は、されていないことを願った。吉田茂と近衛文麿は、秘密会談を行っていると思わせたい。
 荻外荘は広い。出入り口もいくつかある。吉田は書生に案内されて庭を抜け、目立たない出入り口から自転車の後ろにまたがって荻外荘を出た。ここを憲兵隊が監視していたとしても、周囲すべてを監視するのは無理だろう。それに、おそらく監視はされてはいない。近衛の監視を担当していた憲兵は、箱根にいっているはずだ。
 吉田が駅に着いた時、すでに午後一時半を過ぎていた。朝から動いていて空腹をおぼえたが、そんなことを気にしてはいられない。今頃、樺山伯爵は東郷外務大臣を訪ね、原田男爵は木戸幸一内大臣を訪問しているはずである。それぞれ、終戦についての進言をすることになっている。しかし、彼らにも憲兵の監視がついているはずだ。
 三人が同時に動くことで、自分の動きだけに憲兵隊の注目を集めることがないようにしたかったが、うまくいっているのかどうか。陛下にグルー大使の親書が渡るようにするには、現在、最も陛下の信頼を集める人物に会わなければならない。口頭で伝えるだけでは、敵の工作だと徹底抗戦派に主張されるだろうが、グルー大使の親書があれば陛下も彼らを説得できる。グルー大使は、親書が間違いなく自分のものであることを証明しているはずだ。
 空を見上げると、真夏の太陽が照りつけていた。八月三日。もうすぐ旧盆がやってくる。どれほどの人々が新盆に帰ってくるのか。数え切れない霊が帰ってくることになる。戦地で命を落とした兵士の霊が帰ってきても、家族全員が空襲で焼け死んでいることもある。彼らの霊は、一体どこへ帰ればいいのだ。この戦争を始めた愚かな指導者たちに、改めて怒りが湧く。
 二時近くになり、混んだ電車が入ってきた。吉田は乗り込んだ。これから向かう相手を、必ず説得しなければならない。この国の命運がかかっている。しかし、一国の首相であるにもかかわらず、その屋敷も憲兵隊に監視されているかもしれない。尾行をまいたところで、徒労に終わる可能性がある。吉田は、深いため息をついた。

■1945年8月3日 13:05  東京・荻窪
 吉田茂が荻外荘の中に消えると、古沢中尉は部下をひとり正面の門の前に残し、車で屋敷の周囲をまわった。広い邸宅だから出入り口は他にもあると踏んだのだ。出入り口を見つけると、さらに部下をひとり降ろし、見張るように命じた。二人の部下を全部配置してしまったため、古沢は車で邸の周囲をぐるぐるまわって見張るしかなかった。吉田がどこから出てくるかはわからない。見張りに引っかかることを祈った。
 この屋敷に近衛文麿がいないことは、知っている。そこへわざわざ車で乗りつけたのだから、吉田の狙いは読めた。ここで近衛に会っていると思わせて、我々をまく気だろう。そこまでして自分の動きを隠したいのか。何を企んでいる? 古沢は邸内に踏み込んで吉田を逮捕し、拷問にかけたい欲求に駆られたが、さすがに五摂家のひとつ近衛家の当主であり、侯爵でもある近衛文麿の屋敷に踏み込むのはためらわれた。
 角を曲がった瞬間、若い男が吉田を自転車の後ろに乗せて出てくるのが見えた。こちらに背を向けて駅の方向に向かった。古沢の運転する車には気づいていない。自転車の速度にあわせて、古沢はゆっくり車を進めた。配置した部下たちに連絡はつかないし、車で拾う時間もない。ひとりでの監視は吉田を見失ってしまうかもしれない怖れがあったが、やむを得ない状況だ。
 吉田は、駅で自転車を降りた。古沢は車を止め、吉田がホームに立つのを確認してから駅事務所に入っていった。数名いた駅員が驚いて立ち上がる。古沢を見て、怖れが顔に出ていた。突然、憲兵隊の将校が入ってきたのだ。誰もが怖れ、不安になる。自分の制服が相手に恐怖を与えるのを、古沢はいつも楽しんだ。憲兵は私服で動くことが多かったし、多くの憲兵はその特権を活用した。しかし、古沢は制服でいることを好んだ。自分が持っている力を確認できるからだった。
「おまえ、ちょっとこい」
 中年の青白い顔の痩せた男を指さすと、男の顔がさらに青ざめた。
「はい、何でしょう」
「あそこにステッキを持った男がいるな」
 古沢はガラス窓から見えるホームにいる吉田を示して、男に言った。
「はい」と、駅員は緊張した声を出す。
「私が連絡をしている間、あいつを見張っていてもらいたい。絶対、気づかれるな」
「はい。わかりました」
 駅員は、安堵したように答えた。本当は、ため息をつきたかったのかもしれない。駅員が出ていき、古沢は勝手に電話を自分の方に寄せ、受話器を取り上げた。残った駅員は、黙って古沢の行動を見守っている。まだ不安な顔をしたままだ。誰もが、憲兵隊には協力する。腫れ物にさわるように。そんな彼らの姿を見るのが、古沢は好きだった。
「憲兵隊司令部? 古沢中尉だ。神山大佐を頼む」
「神山だ」と、しばらくして相手が出た。
「ヨハンセンはコーゲンに会う擬装を行い、今、荻窪駅です。監視を振り切って誰かと会うつもりでしょう。要員が不足して私ひとりですが、応援要請ができるようになったら、改めて連絡します。他からの報告はきていますか?」
「樺山は、外相の屋敷に入った。原田は、宮城で内大臣に面会を求めた。何かがあって、彼らが一斉に動き出したようだ」
「ヨハンセンの動きを見ていると、樺山と原田の動きは目くらましかもしれません。本命はヨハンセンの動きのように思えます」
 不用意に、樺山と原田の名前を口に出したが、古沢は気にしなかった。駅員たちに聞かれたところで、問題はない。ヨハンセンとかコーゲンなどと、暗号名で呼んでいる方が不自然だ。国賊、売国奴たちではないか。
「目くらまし?」
「ヨハンセンの動きを誤魔化すためです」
「しかし、今、外相の動きが最も危険だぞ。阿南陸相が閣議で反対し牽制しているが、外相は独自にソ連との接触を求めて動いているようだ」
「とにかく、ヨハンセンを追います。改めて連絡をいれます」
 古沢は電話を切ると、ジロリと駅員たちを睨んだ。駅員たちが目をそらす。
「今の電話も、私がここにきたことも忘れろ」
 そう言うと、事務所を出てホームの端の柱の影に立った。吉田はよほど気が急いているのか、何度も上り電車がくる方を見ている。制服を着た古沢は羊の群の中にいる狼のように目立っていたが、吉田は気づく様子がなかった。

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コメント

ワクワクしながら読ませていただいています。
誤)津島
正)千島
では?

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ハハハ、校正ミスですね。編集者時代から校正能力は弱かったんです。

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