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2018年9月 6日 (木)

●天皇への密使・第一章その6

■現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」の出版準備中で、「映画と夜と音楽と----」は、当面、休載します。代わりに冒険小説「天皇への密使」を連載中。400字詰め原稿用紙で500枚ほどなので、週2回の更新を予定しています。1945年(昭和20年)夏の物語です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第一章その6

■1945年8月1日 ワシントン
 政府機関に勤める人間は、諜報関係の人間からの誘惑に晒される。したがって、様々なところにスパイは存在していた。「マンハッタン計画」と呼ばれる原子爆弾の研究開発チームにも、ソ連のスパイが潜り込んでいた。ソ連のスパイの場合は、共産主義を信奉する思想的背景を持っている確信的な人物が多かった。ポツダムでトルーマン大統領がソ連のスターリン大元帥に「原子爆弾の実験成功」を告げた時、スターリンは実験に立ち会ったスパイからの報告ですでに詳細を知っていた。実験成功を知ったスターリンは、軍隊の満州国境への移動を急がせた。
 アメリカ合衆国の国務省にも、日本の協力者が存在した。日本の敗戦が時間の問題になったとはいえ、彼女はあくまで日本に対して忠誠を誓っていた。アン・レミック、秘書課のスタッフだった。様々な情報に触れられる職種だったが、四年前からアンに指示される仕事は、常にジャック・シモンズによってコントロールされていた。つまり、彼女が日本に協力するスパイであることは、早くから知られていたのである。
 日本との開戦前、アン・レミックが日本大使館員と恋に落ちたことは調査によって判明した。その当時、アンは三十を越えた独身者で、容貌も醜いとまでは言えないが魅力に乏しかった。ある日、レストランで声をかけてきた日本の大使館員は彼女を誘惑し、彼女は初めての経験に夢中になった。しかし、その男は日本の海軍士官で、諜報活動のためにアンを籠絡したのだった。彼は、アンが国務省で得られる情報をリークさせた。それは真珠湾攻撃の後、男が日米交換船で日本に帰った後も続いた。
 アン・レミックの裏切り行為に気づいた国務省上層部は、彼女を告発するのではなく、彼女を通して都合のよい情報を日本に流すことを選んだ。日本大使館の暗号による通信を傍受することによって、アンを誘惑した男がスパイだとは早くから判明していた。日米開戦後、FBI内部では、その海軍士官を見逃すのか逮捕するのか、交換船出航間際まで意見が対立したが、上層部からの命令で帰国を許した。上層部がそう判断したのは、逮捕すれば日本の暗号をアメリカ側が解読しているのを気づかれる怖れがあったからである。
 帰国した男は軍令部に所属し今もアンをコントロールしていたが、この四年間、アンはアメリカ側がリークを望む情報を日本に流し続けてきた。彼女の情報の信頼度を保つために、八割方は真実の情報をリークした。もっとも、それは知られても大した影響のないものばかりだった。残りの二割は、謀略のための情報だった。つまり彼女は、この四年間、アメリカ合衆国のために大いに役立ってくれたのだった。
 ジャック・シモンズは、今、アン・レミックを内線電話で呼んだところだった。昨夜、ポツダムにいる国務長官に打った電文の返答が届いたからだ。国務長官の指示は、予想した通りだった。ジャップに情報をリークする。グルー国務次官の計画は、日本の憲兵によって阻止させる。密使は、おそらく死ぬことになるだろう。しかし、ジャップひとりの命など考慮するに値しない。愛国心を見せるためにアメリカ軍兵士として戦ってきたとしても、それは真の愛国心ではない。ジャップは、ジャップだ。
「お呼びですか」と、ドアをノックしてアン・レミックが顔を出した。
「ああ、電文の口述を頼みたい。その後で、通信室に届けてほしい」
 仕事のためだとしても、この女と寝るのはごめんだな、とジャックは思った。ジャップだったから、こんな醜い三十女でも白人女と寝られることを喜んだのだろう。しかも、この女はユダヤだ。ジュウのくせに、ナチスと組んだジャップに転んだ。二重の意味で裏切り者だな。アンのひっつめた髪と広い額、左右離れた両の眼、特有の鷲鼻、大きな口を見ながらジャックは思った。
「わかりました」
「電文は『鶴は菊をめざし、数日中に舞い降りる予定』だ。宛先はポツダムのバーンズ長官。他読無用で送ってくれ」
「読み上げます。『鶴は菊をめざし、数日中に舞い降りる予定』。バーンズ長官宛。他読無用」
 アンは、メモを見ながら繰り返した。必要なこと以外は、口にしない。
「オーケー、よろしく頼む」
 ジャックがそう言うと、アンは出ていった。ジャップが無条件降伏したら、おまえを一生刑務所にいれてやると思いながら、ジャック・シモンズはその後ろ姿を睨みつけていた。

■1945年8月1日 ポツダム
 新しいイギリス首相クレメント・アトリーと別れたトルーマンは、リトル・ホワイトハウスと呼ぶ宿舎に帰ってきた。ようやく会議が終わったのだ。明日は帰途につく。洋上でゆっくりできるだろう。その間に、原子爆弾が初めて人類の頭上で炸裂するはずだ。それで、ジャップは完全に手を挙げるだろう。しかし、自分は大量虐殺者として名を残すことにはならないか、と一抹の不安も感じていた。
 それにしても、あのスターリンが目を白黒させていたな、とトルーマンは気分を変えるために大元帥の戸惑った顔を思い浮かべた。だいたい自分をスターリン(鉄の男)と呼ばせるのが滑稽だ。本名は何だったかな。あの独裁者には、民主主義の国の選挙が理解できないらしい。会議の途中で、チャーチルが総選挙の確認のために帰国した。選挙では労働党が勝利し、アトリーが新しい首相としてポツダムに戻ってきたことが、独裁者のスターリンには理解不能だったのだ。しかし、まさか保守党が負けるとは----。
 その時、ドアがノックされた。トルーマンが「入れ」と言う前に、バーンズはドアを開けていた。いつものことだ。返事をする前に、勝手に大統領の部屋へ入ってくる。それが大統領を軽んじているように思えた。しかし、トルーマンが政治の世界に入った時に、バーンズは先輩として様々なことを教えてくれた。大統領になってまだ三ヶ月、今は我慢しておこう。
「大統領、報告がある」
「何だ」
「グルーだ。スティムソンがグルーと会った」
「会っても不思議じゃないだろう」
「グルーは、日本の早期降伏を画策している。原子爆弾を落とす前に、降伏させたいのだ。そのために最後の手段を実行に移した」
「最後の手段?」
「ヒロヒトに向けて、密使を送った」
「ヒロヒトに?」
「グルーは天皇が決断すれば、日本は降伏すると考えている。狂信的な陸軍も、天皇なら抑えられると信じているのだ。バカな、ジャップがそんなことで降伏するか。ジャップは『天皇陛下バンザイ』と言いながら突撃してくる。機体に爆弾抱えて、戦艦に突っ込んでくる。クレイジーだ。まったく、信じられん」
「狂信者の群れだな」
「国民が空襲で大勢死んでいるのに、降伏しない。もっと殺すしかない。ブラッディ・ルメイの言うように」
「もう投下命令は、出したよ」
「しかし、グルーは最後の賭けに出た。ヒロヒトに親書を託した。それと、原子爆弾の爆破実験の記録フィルムも密使は持っている。それをヒロヒトや首脳陣に見られたら、まずいことになる」
「どうやって入手した?」
「スティムソンが提供したに違いない。原子爆弾開発の総責任者だからな」
「スティムソン長官は、実験には立ち会っていない。あのフィルムを見て、原子爆弾の使用に迷いが出たのだ」
「だから、我々は、あのフィルムを見なくて正解だったのだ。投下命令を出す前には、見るべきではなかった」
 トルーマンも記録映像を見ないことにした。原子爆弾の開発責任者でありながら、スティムソンは原子爆弾の威力に怖れを抱いている。実験の記録映像を見たことで、畏怖する気持ちが湧き起ったのだ。その逡巡する姿が、トルーマンに影響を与えた。スティムソンのようになってはいけない。大統領は、決断すべき時には決断しなければならない。一抹の迷いも、あってはならないのだ。
「私が、初めてスティムソンから原子爆弾開発のことを聞かされたのは、大統領になって一週間後のことだった」
「そのスティムソンが、原子爆弾の使用を迷っている。バカな話だ」
「私にも、まだ迷いはあるよ」
「相手はジャップだ。迷うことはない。原子爆弾の威力を世界中に見せつけるチャンスだ。特にスターリンには、強力な威嚇になる。戦後処理の交渉をバックアップしてくれる」
「しかし、ヒロヒトの決断で日本が降伏したら?」
「その前に落とすのだ。大統領」
「一週間以内に、投下は実行される」
 トルーマンは、原子爆弾がどれほどの威力なのか想像もできなかった。「世界の終りのようでした」というスティムソンの声が甦ってきた。「世界の終り」だって? 誰も想像できないはずだ。

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