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2018年9月24日 (月)

●天皇への密使・第二章その5

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第二章その5

■1945年8月3日 07:40 茅ヶ崎
 自転車が庭に入ってくる音がして、京子は納屋を出た。瀬川が自転車を押していた。その後ろに菅野が続いている。自転車を放置し誰かに発見されて通報されたら面倒なことになるので、一度はここへ戻ってくることになっていたが、ふたりの様子からすでに面倒なことになっているのがわかった。
「どうしたの?」
 真っ青な顔をした瀬川が、京子を見つめた。汗が吹き出している。
「人を殺した」と、瀬川が言った。
「殺したのは俺だ。きみじゃないだろ」
 菅野の声が苛立っていた。上着が汗で濡れているが、それだけではない。血だった。
「けがをしてるわ。すぐに入って」
 京子は、立ったままの瀬川とよろめいている菅野に母屋へ入るように言って、瀬川が乗ってきた自転車は門のそばに置いたままにし、もう一台を納屋にしまった。サドルに血が付いていたのを、納屋にあったぼろ布で拭い、すぐに母屋に戻る。
「すぐ、手当しなくちゃ」
 京子は、ふたりを仏間に案内した。気がゆるんだのか、菅野の膝が崩れた。瀬川は、まだ呆然と立っている。瀬川も、人が死んでいるのを見たことはあるはずだ。空襲で焼かれた人たちの死骸は、京子もたびたび目にしている。瀬川は、自分たちが人を殺したことに衝撃を受けているのだ。
「殺すなんて----」と、瀬川がつぶやいた。
「やむを得なかった。鞄の中を見られたら、不審に思われる。砂浜の兵隊たちに知らされて、囲まれたら逃げようがない。先手をとるしかなかったし、一瞬で相手の動きを奪わなければならなかった。あの男の体を静かに横たえていれば、彼らに気づかれないはずだった」
「すまん。気が動転して、思わず走り出してしまった」
 瀬川が菅野に詫びる言葉を聞きながら、薬や包帯の入った箱を京子は取り出した。消毒薬と傷薬くらいしかない。菅野の上着を脱がすと、白い下着は真っ赤に染まっていた。
「ひどい出血」
 ハンカチを傷に当て応急処置をしていたが、まだ血が流れ続けている。ハンカチが絞れるほどだ。ズボンも血で濡れていた。この状態で、大磯から自転車を漕いできたとは。
「肉がえぐられている。弾が少しずれていたら、死んでいたわ」
「肋骨も折れたか、ひびが入っているようだ」と、菅野が言う。
「すいません。私のせいです」と、また瀬川が言った。
「今更、後悔しても何の役にも立たんぜ。これから、どうするかだ」
 言葉とは裏腹に、菅野の上体がふらついた。京子は布団を敷き、菅野を座らせた。京子は止血をして、菅野の体にきつく包帯を巻きつける。
「これくらいの手当しかできない。大丈夫かしら」
 そう言って体を押すと、菅野は簡単に敷布団の上に横たわった。体が熱かった。菅野は、目を閉じている。京子は、菅野の額に手を当てた。
「傷のせいで、熱が出たみたい」
 京子は、瀬川を振り返った。瀬川は、ようやく落ち着いたのか、じっと菅野を見つめていた。
「彼を、東京に連れていかねばならないのです」
「今は無理よ」
「そのようですね。とりあえず、私は一度東京に戻ります。今日は午後から深夜まで、日吉の軍令部に詰めなければならない。今日一日、彼を預かってもらえないですか」
「いいわ」
「そうだな。今は、動けそうにない。休息に当てるよ。明日、何とか東京に出る」と、目を閉じたまま菅野が言った。
「私に連絡するときは、以前、教えた方法で」と、瀬川は京子に念押しのように言った。

「あいつ、自分は危険なことをやってるのに、人を殺したことはないらしいな」
 瀬川が出ていった後、菅野が小さな声で言った。口を動かすだけでも痛みがひどくなるようだ。
「誠実な人なんです」
「誠実か。今の時代、何の役にも立たないな」
「そんなこと、ないと思います」
 菅野が目を開いた。京子の強い口調が意外だったのかもしれない。
「この戦争を終わらせるために、自分のことは棄てているんです。自分が死ぬのは、覚悟しています。でも、目の前であなたが人を殺すのには、耐えられなかったのかもしれません。そんな人です」
「好きなのか」
「わかりません。私には兄弟がいなくて、まるで兄のような気がすることがあります」
 菅野がじっと見つめている。京子は、息苦しくなった。
「悪いが、俺の服を洗っておいてくれないか。明日、血だらけで列車に乗るわけにはいかない」
「わかりました」
 祖母は、奥の部屋に籠もったままだった。京子が何をしているか、祖母は気づいている。しかし、何も言わなかった。心配はしているだろう。だが、何を言っても聞く京子ではないと、あきらめているのかもしれない。
「すまんが全部脱ぐ。部屋を出ていてくれ」
 今になって、菅野は恥ずかしそうな声を出した。

■1945年 8月3日 08:30 東京・九段
 昨年七月まで東条英機が首相だった三年間、憲兵隊は東条の私兵としてあらゆることを取り締まった。東条は、閣僚たちさえ憲兵の監視下に置いた。東条が退陣せざるを得ない状況に追い込まれた時も、東京憲兵隊は東条内閣の延命を図るために奔走した。しかし、画策もむなしく東条英機は退陣を迫られ、小磯内閣が発足。憲兵隊も昭和二十年に入り、人事の刷新と組織改変が行われた。
 東部軍管区を管轄する東部憲兵隊司令部は、関東地区はもちろん長野・新潟までを担当する。神奈川県には横浜憲兵隊と横須賀憲兵隊が置かれていたが、東京憲兵隊が動くことも多かった。東京憲兵隊隊長は東条英機の側近だったが、今年、やはり人事異動によって交代した。しかし、聖戦遂行のために反戦・非戦・和平思想を徹底的に取り締まる憲兵隊の方針は変わらず、空襲の激化や食糧事情の悪化による厭戦気分が国民の間に広がり始めた今、以前に増して憲兵隊の取り締まりは厳しくなっていた。
 その日、午前八時に憲兵隊司令部に出仕した東京憲兵隊の神山大佐は、「吉田茂が大磯から東京に向かいました」と、いきなり部下からの報告を受けた。吉田茂を中心とした反戦グループをヨハンセン・グループと名づけ、重要監視対象にしてからずいぶん経つ。開戦直後から吉田は反戦を唱え、早い時期に和平工作を行おうと画策した。今年の逮捕拘留で懲りたかと思っていたが、またぞろ動き出したのか。
「樺山愛輔が大磯から東京に向かいました」と、続いて報告が入る。
「樺山も----」と、神山はいぶかしんだ。
「原田熊雄が大磯から東京に向かいました」と、しばらくして三度目の報告が入った。
「吉田と樺山と原田は一緒か?」
「いえ、別々です。樺山と原田は同じ時刻の列車ですが、別々に乗り込みました」
「東京への到着時刻は?」
「吉田が九時半、樺山と原田が十時十五分です。途中で何もなければですが」
 神山は、時計を見た。九時十分前だった。今からいけば、それぞれに監視を付けられる。神山は、古沢中尉を呼んだ。
「お呼びですか」
 古沢中尉は三十を過ぎたばかりだが憲兵としての経験は長く、神山が信頼する部下のひとりだった。肌が白く優男風なので相手はあまり警戒しない。しかし、取り調べは激烈を極め、逮捕者を何人も拷問で死なせていた。そのことが上層部で問題になったこともあるが、非常時だから----と、神山は押し切った。
「ヨハンセンの大磯組の三人が、そろって動き出した。すぐに東京駅にいき、彼らの監視を始めてくれたまえ。誰と接触するかを確認し、早急に報告しろ」
「了解です」
「富田曹長も必要だろう。古強者だからな」と、出ていこうとした古沢中尉の背中に神山は声をかけた。
「私と富田曹長、それに部下を七人連れていきます。ひとりに三人ずつ配置できますから」
「場合によっては、緊急逮捕してもかまわん。今の状況では、伯爵だの男爵だの、爵位などかまっちゃおれん」
 神山は、憲兵隊の全員に聞こえるように怒鳴った。その時、電話が鳴った。部下が取り上げ、すぐに「大佐殿」と受話器を差し出す。
「神山だ」
「大磯監視班の井川です。先ほど、浜の方が騒がしいので、確認にいきました。先日から陸軍の塹壕掘りが続いているのですが、その兵士のひとりが射殺されたというので、憲兵隊であることを明かして聴取しました。民間人らしき男がふたり、吉田邸の近くで発見され、誰何したところ、ひとりが拳銃で兵士を射殺。すぐに自転車で、海岸沿いを平塚から茅ケ崎方面に逃亡しました。兵士たちが発砲し、ひとりは傷を負った模様です」
「何だと。どれくらい前だ」
「すでに二時間以上が経っています。陸軍上部には報告がいったのですが、憲兵隊司令部に報告が入るのは、いつになるかわかりません」
 もしかしたら、報告がこないことも考えられた。部隊の不祥事は表沙汰にしない、と考える部隊長がいるかもしれない。憲兵隊は、必ずしも好かれてはいない。
「逃げた男たちの情報を集めろ。何かわかったら、すぐに連絡するんだ」
「了解しました」
 神山は、受話器をおろした。陸軍兵士が射殺されたことと、突然、吉田たちが動き出したことに関連はあるのだろうか。男たちは、吉田邸の近くで見つかっている。十中八九、関係はあるだろう。その男たちは、大磯のヨハンセングループと接触したのだ。だから、彼らは一斉に動き出した。間違いない。

■1945年8月3日 12:30 横浜・日吉
「傍受した通信です」と、菅野少尉が電文を差し出しながら言った。
「いつのことだ?」と、草野少佐が確認する。
「つい先ほど、十二時三十分でした。潜水艦から基地への報告だと思われます。潜水艦は日本近海にいると思われますが、場所は特定できません」
 草野は目を落として文面を見た。
「『鶴は解き放たれた』か。何かが、日本に潜入したということか?」
「アメリカ人は、鶴にはなじみがありません。日本人は、鶴を特別な鳥と見ています。『鶴は先年、亀は万年』と長寿の象徴と見ていますし、お祝い事に鶴の絵を使います。折り鶴に祈りを込めるのは、日本人だけではないでしょうか」
 草野は、菅野少尉を見た。
「何が言いたい?」
「鶴は、日系人チームではないかと推察します」
「なぜ、そう思う?」
「日本に潜入させるとしたら、日系人以外では目立ちます。日本人に見える顔をしていなければなりません。朝鮮人や中国人なら米国に協力的でしょうが、日本人に完全に化けるのは無理ではないでしょうか。とすると、日系移民や日系二世などしか考えられません」
「きみのように?(Like You)」と、草野は声をひそめて英語で短く言った。
 菅野は声を出さず、口の形だけで「イエス」と答えた。
「ゴムボートが見つかったのは、午前四時過ぎだったな」
「はい」と、今度は大きな声で答える。
「それから数えても八時間か。遅い報告だな。潜入が成功した報告なら、すぐに行うだろう。もしかしたら、今朝のボートは、鶴関連の通信とは関連がないのかもしれんな」
 しかし、届いたものを確認すると、間違いなく米国の艦船が積んでいる救命用ゴムボートであり、米国陸軍の軍用ナイフだった。どういうことだ? 米国の潜水艦が相模湾に潜入し、何かを探っていったのかもしれない。上陸作戦のために候補の場所を探索し、調査するのは当然のことだ。相手は、上陸場所を調べていたのだろうか。
 米軍が関東に上陸するのなら、九十九里が最も可能性が高いと陸軍は見ているらしい。しかし、相模湾から上陸する可能性も否定はできない。様々な情報を集めて分析した結果、沖縄が占領された今、米軍が次に上陸するとしたら九州だろうと草野は予想している。その後、戦況次第で関東に上陸するかもしれない。
 ゴムボートが「鶴」とは関係がないとしたら、「鶴」は何を示し、どこに解き放たれたのか。「菊」をどうするのか。今の情報だけでは不確定すぎる。報告しても、推測ばかりで上官を納得させられないだろう。アメリカ軍が陛下暗殺を計画して何かを送り込んだかもしれないなどと、どう説明する?
「不用意な通信でした」
「何?」
「この通信です。傍受してくれ、と言わんばかりでした。それから推察すると、これは敵の謀略工作ではないでしょうか。鶴は本日の十二時過ぎに、我が国のどこかに上陸したと思わせるための。実際は、今朝、未明に相模湾から潜入したのでは----」
「よし、相模湾周辺で何か変わったことが起こっていないか、調べてみてくれ。警察、それと不本意だろうが憲兵隊司令部にも問い合わせてくれ」
「その場合、先方は理由を知りたがるでしょう」
「適当に答えておくさ」
「わかりました。ボートと通信文の件は伏せておきます。しかし、憲兵隊司令部内の動きは、中佐殿の方がお詳しいのでは?」
「まあ、形式上、問い合わせをした事実が必要なのさ」
 菅野少尉は役に立つ、と草野は改めて思った。しかし、この戦争が終わるとしたら、菅野少尉はどうするのだろう。家族は米国にいる。米国に帰るという選択肢は、存在するのだろうか。
 そう言えば、四月に沈んだ戦艦大和にも、カリフォルニア出身の日系二世の少尉が通信担当として乗っていたな、と草野は思い出した。慶応大学留学中、学徒兵として徴兵されたのだ。あの少尉の弟たちも、米国陸軍兵士としてヨーロッパ戦線に従軍したと聞いた。日系人であるがために兄弟が米国と日本に分かれ、それぞれ兵士として戦っている。そんな悲劇が起こるのも戦争だからか。しかし、日本兵として戦った日系二世を、戦争が終わった後、米国が受け入れるだろうか。

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