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2018年9月 3日 (月)

●天皇への密使・第一章その5

■現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」の出版準備中で、「映画と夜と音楽と----」は、当面、休載します。代わりに冒険小説「天皇への密使」を連載中。400字詰め原稿用紙で500枚ほどなので、週2回の更新を予定しています。1945年(昭和20年)夏の物語です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第一章その5

■1945年8月1日 大磯
 瀬川玄一郎は、大磯の吉田茂邸が見える場所で立ち止まった。最終的な確認だった。今回の指令が初めてあってから、この半月、何回もやってきた場所だ。前駐英大使の吉田は東京・平河町の本宅が五月二十五日の空襲で焼失し、今はほとんど大磯の別邸で暮らしていた。もっとも、吉田は四月半ばに憲兵隊に連行され、五月いっぱい憲兵隊に拘留されていた。解放されて、まだ二ヶ月ほどにしかならない。
 広大な敷地を持つ吉田邸だが、養父が建てた別荘は関東大震災で倒壊し、今は夏の避暑用に建てた簡素な母屋と別棟があるだけだった。別棟には一年ほど前から、吉田とは古いなじみの元芸者の家族が住んでいた。また、離れには書生がひとり住んでいたらしいが、その男は吉田が憲兵隊から解放されてしばらくしていなくなったという。おそらく、憲兵隊か軍の防諜を担当する機関から潜入していたスパイだったのだろう。
 大磯駅から二キロ近くある小高い丘の上に吉田邸は建っているが、書生は毎日、自転車で買い物にまわり、郵便局で郵便物を受け取っていた。その間に連絡を取っていたのかもしれない。逮捕されるまで、大磯の吉田邸は日夜、憲兵に監視されていたらしい。吉田がスパイ容疑で憲兵隊の監視を受けているというのは、駅前の商店の小僧まで知っていた。しかし、現在は憲兵の姿は見あたらない。ただし、完全に監視が解けたわけではなさそうだ。憲兵の監視が続いている前提でいなければならない。
 今回の指令は、まず吉田茂との接触の可能性を探れ、ということから始まった。その目的はわからなかったが、常に目的は知らされない。先日、ある人物が上陸すると連絡があり、その人物と吉田茂を接触させよという具体的な指令が届いた。この間の瀬川が観察した吉田の日常を考えると、毎朝の散歩の途中で吉田に接触するしか方法はなさそうだった。吉田は、毎朝、決まった時間に海岸に降り、浜辺に立って海の向こうをしばらく眺める。南方で戦死した兵士たちに、思いを馳せているのかもしれない。
 早朝なので、ほとんど人はいない。その途中、人目に立たない松林の中で接触するしかないだろう。吉田邸への人の出入りは、おそらく監視されているはずだ。しかし、吉田が必ず散歩に出るとは限らない。また、雨が降ったりしたら、日常の習慣を中止することも考えられる。次善の策も必要だった。そのために周辺を探り、瀬川は吉田邸の裏山にある洞窟を見つけていた。そこは書生が防空壕に改造していたが、洞窟に潜んで夜を待ち、吉田の部屋に忍ぶしかない。
 その人物は吉田茂と接触して、何をするつもりなのだろう。吉田は同じ大磯に別邸を持つ樺山愛輔伯爵や、元老・西園寺公望の秘書を務めた原田熊雄男爵らと連絡を取っていたが、彼らは憲兵隊に勾引はされず自宅での取り調べだけですんだ。伯爵や男爵という肩書きに気を使ったのもしれないが、彼らが反戦派であると憲兵隊は認識している。今は現役の首相や閣僚でさえ憲兵隊に監視され、身動きのとれない状態だ。「和平工作」「終戦工作」という言葉を口にするだけで命の危険がある。

 瀬川玄一郎の父は、政友会の政治家だった。ただし、玄一郎は庶子である。父親が新橋の芸者に生ませた子だ。五歳で本宅に引き取られ、他の四人の子供たちと一緒に育った。彼をかわいがってくれたのは、すでに成人していた長兄だった。その他に次兄と長女と次女がいたが、彼らは妾の子を自分たちの弟とは認めなかった。
 父は大正デモクラシーを経験し議会政治に夢を託していたが、息子たちに対しては頑迷な父親にしか過ぎなかった。年の離れた長兄はマルクスに傾倒して密かに共産党に入党し、昭和初期の一斉検挙で逮捕された。父親の奔走によって半年で出所した長兄は、政治家の父の力で特別扱いされた己を恥じ、ほとんど家にこもって読書をするだけになった。元々、研究家肌の人物だった。
 十代の頃、最も影響を受けたのが長兄だった。その頃は、もうマルクスの著作など入手できなくなっていたが、長兄が隠し持っていた著作を読み、長兄の手ほどきで「資本論」にも手を出した。兄の理想が理解できた。玄一郎のマルクスへの傾倒を父が知ったのは、玄一郎が二十歳の東京帝大生の時だった。頭ごなしに怒鳴る父親を長兄がとりなし説得した。
 軍が力を持ち、中国との戦争が始まり、すでに世の中が息苦しくなっていた頃だ。兄は、父に玄一郎の米国留学を認めさせた。このまま日本にいて共産主義者になり、逮捕されたり不祥事を起こされるよりは----と考えた父は、ハーヴァードで法律を学ぶことを認めた。昭和十四年、瀬川は海を渡った。
 ハーヴァードの学生寮でルームメイトになったのは、スティーブ・ライナーという白人にしては小柄な青年だった。日本人の入寮を認めるのも珍しかったが、ジャップとルームメイトになることを了承したことにも瀬川は驚いた。スティーブはまったく偏見を持たない好青年で、慣れない瀬川をあちこち案内してくれた。やがて、スティーブと一緒に出歩いたり、旅行したりする間柄になった。ある日、瀬川が読んでいる本を見たスティーブは、「それは日本語訳のマルクスかい。きみはコミュニスト?」と訊いてきた。
「コミュニストではないが、世の中の不公平は改善されるべきだと考えている」と、瀬川は答えた。
「今の日本で、そんな考え方をしていると、生き辛くないか」と言ったスティーブは、じっと瀬川を見つめた。
「だから、アメリカにやってきたんだ。ここは自由の国だから」と、瀬川は答えた。
 ニューヨークでスティーブの兄ポールに紹介されたのは、その少し後だった。ポールも人種偏見のない好漢だった。彼らと一緒にいると、自分が日本人であることを忘れられた。ホテルのフロントも、レストランの受付係も瀬川をWASPのように扱った。もっとも、ひとりでいると、それが錯覚だとすぐに気づかされた。フロントも受付係も「ジャップ」を見る目になった。
 スティーブとポールとのつきあいが一年を過ぎた頃、ポールから「日本は今のままではファッショ勢力が支配し、やがてアメリカにも戦争を仕掛けてくるかもしれない。日本がそうならないように働いてみる気はないか」と説得され、協力者になることを要請された。連邦政府の役人だと聞いていたポールだったが、FBIの防諜課の人間だったのだ。瀬川は何回にもわたる面接を受け、詳細な心理テストを受け、訓練を受けた。
その年の暮れ、日本が真珠湾を奇襲した。翌年の二月、反米傾向の強い日系人として、FBIは瀬川を拘留した。カムフラージュのためだったが、他の反米的だとして逮捕拘留された日本人たちと一緒にエリス島の移民収容所に入れられた。ことさら反米的な言動をする瀬川は日本人たちに顔を知られ、受け入れられることになった。
 その数ヶ月後、瀬川は日米交換船でニューヨークを出航した。中立国スウェーデン籍のクリップスホルム号で、アフリカのポルトガル領ロレンソ・マルケスに到着したのは七月二十日だった。二日後、日本から駐日大使ジョセフ・グルーを始め、アメリカへ帰国する人たちを乗せた浅間丸とコンテ・ヴェルデ号が到着し、日米の帰国者が交換された。
 瀬川は浅間丸に乗り換え、八月九日に昭南島(シンガポール)に着き、軍人たちが船に乗り込んできた。彼らは、米国の風潮に染まった帰国者たちを再教育し、帰国者として紛れ込んでいるかもしれない米国の間諜を見つけ出そうと、全員の調査と面談を徹底的に行った。要注意人物リストが作成され、再度の面談が行われた。
 特に留学生は、何度も軍人たちの尋問を受けた。そんな時、瀬川は積極的に発言し、軍人たちの歓心を買った。媚びているように見えるのは避けたが、心から大日本帝国の偉大さを讃えた。瀬川は海軍中尉に接近し、英語力を生かしてお国のお役に立ちたいと申し出た。
 帰国後、中尉の推薦で軍令部の軍属になり、最初は通信関係の雑用を担当した。やがて、ボイス・オブ・アメリカの放送を聞き、それを詳細に翻訳すること、また、アメリカ兵に向けた英語放送を担当する仕事もすることになった。瀬川は次第に信頼され、重要な情報に触れる機会も増えた。
 この三年間、瀬川は様々な情報を報告してきた。露見すれば自身が死刑になるだけではなく、血族も「売国奴の家族」として指弾されるだろう。しかし、ただひとり、瀬川が家族だと思っていた長兄は、日本が真珠湾攻撃をしたひと月後、自殺した。遺書には「こんな愚かな国には絶望した」とあったという。父は、その遺書を棺に入れて焼いた。だから、今の瀬川には気にかける人間は誰もいなかった。
 ただ、留学前に教えを受けた貞永教授の存在が気になっていた。帰国して消息を訪ねると、反戦の言動をとがめられて憲兵隊に逮捕され、拷問で体を痛められ寝たきりになったと聞かされた。ようやく訪ねあてた時、教授はすでに帰らぬ人になっていた。十七になる娘は瀬川に敵意を見せ、その姿に娘の絶望を見た。彼女は、今の日本を憎んでいた。心の底から憎んでいた。
 彼女を誘ったのは瀬川の勝手な判断だったし、危険なことだった。しかし、自分の正体を明かすことで、彼女の側にいることを知らせたかったのだ。それは、彼女に好意を持ったからかもしれない。彼女に好意を持ってもらいたいという気持ちは、確かに瀬川にもあった。しかし、瀬川は彼女を守りたいと思いながら、彼女を危険な領域に誘い込んでしまったのだ。

 吉田邸を見ながら海岸に降りた瀬川は、陸軍の兵士たちが浜辺で砂を掘り返しているのを見て驚いた。十人ほどの兵士が木製のショベルで作業していた。今時、金属のショベルなどどこにもない。砂だから木のシャベルでも掘れるが、硬い土なら大変な作業である。瀬川は、彼らが本土決戦に向けて塹壕を掘っているのだとわかった。相模湾も米軍の上陸の可能性が高い場所として警戒されている。
「貴様、何を見とるか!」と、振り返った隊長らしき兵隊が瀬川を見つけて怒鳴った。
 その兵隊は、十数メートル離れた瀬川に向かって走ってきた。瀬川は驚きから抜けきっていなかった。怖れて、立ちすくんでいるように見えただろう。目の前に立った兵隊は、陸軍軍曹だった。
「貴様、ここは民間人は立ち入り禁止だ。わかっとるのか」
 怒鳴り散らすしか能がないのかもしれない。
「私、軍令部に勤めております」
 そう言って、瀬川は身分証明書を見せた。
「ここは大日本帝国陸軍が、本土決戦に備えて作業をしておる。軍令部でも何でも、すぐに出ていってもらいたい」
「わかりました」
 瀬川は、砂浜を出た。明後日の上陸予定地は、変更しなければならない。砂浜は危険だ。葉山、鎌倉、平塚、茅ヶ崎、すべての浜は同じようになっていると想定しなければならないだろう。とすると、磯か岩場になっている場所を探して上陸しなければならない。潜水艦からゴムボートに乗り換えて上陸する予定だが、ボートが波で岩に打ちつけられて困難な作業になるかもしれない。前途多難、という言葉が瀬川の頭に浮かんだ。

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