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2018年9月17日 (月)

●天皇への密使・第二章その3

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。第二章では、密使が終戦直前の日本に潜入します。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第二章その3

■1945年8月3日 01:00-04:00 茅ヶ崎
 真っ暗な海の上でも、かすかな光でけっこう見渡せるものだな、とヘンリー・スガノは人間の目の能力に感心した。目が完全に暗闇に慣れている。光が点滅した地点を目指してボートを漕ぎ続け、目的の岩場が見えてきたのだ。幸い、大きく流されることはなかった。問題は、その岩場にどれほど近付けるかだった。うまく近付けない場合は、ボートを裂いて沈め、泳いで岩場にあがるしかないかもしれない。
 その場合、今、たすき掛けにしているバッグを濡らすわけにはいかなかった。バッグもフィルムケースも防水仕様になってはいるが、完全に水が入らないかどうかは不明だ。片手でバッグを海上に出したまま、うまく泳げるだろうか。そんなことを考えると、不自由になった左手に対して悔しさが湧いてくる。服を着たまま、靴を履いたまま足だけで泳がなければならない。左手のハンデがどれほど影響するか、泳いでみなければわからない。
 幸い、岩場に飛びつけるところまで、ボートを近付けることができた。しかし、打ち寄せる波が岩にぶつかり、跳ね返る。その波の勢いで、ボートが押し返される。最も岩場に近づいたところで、飛び移るしかない。飛び移っても、右手の握力だけでしがみつかなければならない。また、失った左手の指のことを考えた。
 その左手にボートのロープを巻き付け、波が岩場にボートを寄せた瞬間、ヘンリーは跳んだ。目測で一メートルと少し。傾斜のある岩場に、昆虫のようにとりついた。右手で岩の突起をつかむ。左手が引き波にさらわれるボートに引きずられ、岩場から片身が引きはがされそうになった。足場を探す。右足がしっかり岩の突起の上に立ち、左足も落ち着いた。しかし、岩にへばりついた姿勢では振り向くことができない。
 左手に巻き付けたボートのロープが邪魔だった。しかし、ボートをナイフで裂いて沈めなければならない。ボートが発見されたら、やっかいなことになる。ボートには救命キットを搭載していたが、それは海中に投棄した。それらには、簡単な説明が英語で書かれていた。しかし、ボートそのものに艦の名前が書かれている。時間的な余裕がなく、潜水艦搭載のボートを使用するしかなかったのだ。
 その時、頭上から白いものが降りてきた。ロープだ。岩場の高さは三メートル足らずだった。それほど急な勾配ではないが、伝うものがあるのはありがたい。協力者の存在をありがたく感じた。右手にロープを巻き付け、首だけで振り返った。引き波に持っていかれそうなボートを、左手は引き寄せることがてきない。二本の指で岩を掴んでいるのが精一杯だ。
 ヘンリーは降りてきたロープを両脇の下にまわし、自分の体に巻き付けた。そのまま体を回転させて、海を向き、宙吊りになる。急に体重全部がロープにかかり、ロープがピーンと張りつめた。ロープがググッとずり下がる。足の先が海面に届いた。そのまま海に落ちそうになったが、再びロープが引かれ、ヘンリーの体が持ちあげられた。体を安定させ、右手でゲートルの間に差していたナイフを引き抜く。
 左手首にボートのロープを巻き付け、強い波の力に負けまいと引き寄せた。右手でナイフをボートめがけて投げる。ナイフが刺さった。勢いよく空気が抜けていく。そのまま空気が抜けきって沈むことを期待するしかない。左手首に巻き付けていたロープを離した。引き波が一気にボートを岩場から離れさせる。それを確認して、再び体を回転させ、右手でロープを伝って登り始めた。左手は親指と人差し指だけでロープを掴んでいる。
 もう少しで登り切ることができると思った時、ロープを引き上げる力を感じ、人間の腕が現れてヘンリーの体を強い力で持ち上げた。岩の上で体を安定させて見上げると、ヘンリーの体にまわしていた腕を引いて、男が身を起こすところだった。
「助かったよ。あんたが協力者か」
 男の表情に驚きが現れた。ヘンリーと同じ国民服を着ている。胸に名札を付けているのも同じだった。
「驚いたな。日本人ですか」
「いや、日本にきたのは生まれて初めてだ」
 その時、男の背後の暗闇から若い女が現れ、一瞬、ヘンリーを身構えさせた。美しい女だった。闇の中で白い顔が輝いているように見えた。もんぺというものらしい、奇妙なパンツを履いている。思わず、背中の拳銃に手をやった。だが、空の銃であることを思い出し、やはり役に立たないなと苦笑した。その時には、若い女も協力者なのだとわかっていた。よく見ると、少女と言ってもいいほどだった。
「あなたの日本語、少し変わった抑揚ですね」
「不自然かな。どこかの訛に聞こえないか」
「そう言えば、西の方の訛のようです」
「父母は、広島出身だと聞いている」
「日系移民ですか。すると、あなたは二世ですか」
「そうだ」
「わかりました。驚いたので、時間を無駄にしました。目立たない場所に移動しましょう。向こうに松林がある。林の中に入ってしまえば、人影は隠れてしまう。彼女については、そこで紹介します」
 男はそう言うと、先に立って歩き始めた。少女が従う。その背中を見失なわないように、ヘンリーは早足に追った。日本の土を踏んでいるという感慨はなかった。それより、すぐに使える武器として持っていた、軍用ナイフを失ったことの方が頭を占めていた。あのナイフとは、ずっと一緒だった。お守りだったのだ。あれのおかげで、フランスでも指三本ですんだのだ。あの戦闘で生き残れるとは思わなかった。今回はどうだろう、とヘンリーは思った。

 木が密集した場所ではなかったが、その松林の中にいると、確かに人目には立たなかった。男は自転車を二台、地面に横たえてある場所で足を止めた。
「おいおい、これが移動手段かい」
 余裕が出てきたヘンリーは、冗談めかして苦笑を男に向けた。しかし、わずかな明かりでは表情は見えないかもしれない。
「仕方がないのです。車を用意してもガソリンの入手が困難です。公共のバスだって木炭で走っているくらいです。それに、民間人が車に乗っていると、陸に上がった鯨くらい目立つ。吉田邸までは自転車、東京には列車でいくしかありません」
 ヘンリーは唇をへの字にして、両手をすくめた。
「そんな仕草は、アメリカでよく見ましたよ。日本人に化けるなら、やめておいた方がいいですね」
「俺は、訓練を受けたエージェントじゃない。日本人に見えるというだけで選ばれた、単なる兵士だ。まあ、なるべく目立たないようにするがね。ところで、あんた、アメリカにいたことがあるのか?」
「そんなことは、どうでもいいでしょう。私は、あなたを吉田茂に接触させること。その後、東京へいく手助けをすることを命じられています。ここから吉田邸までは、そう遠くない。今の時期は、五時前になれば明るくなります。明るくなれば、人々が動き出す。特に農家の朝は早い。自転車で移動している男がいても、そう不自然には思われません。だから、動き出すのは四時半頃を予定しましょう。まだ、二時間以上あります」
「わかった。よろしく頼む」
「紹介すると言っても、私はタロー、彼女はハナコ、そういうことにしておきます。どちらにしろ、名札には名前が書いてありますが、見なかったことにしておいてください。日本語は、読めるのでしょう」
「俺が憲兵隊に捕まっても、あんたはタロー、彼女はハナコということしか知らないわけだ。知らないものはしゃべれないな。ところで、彼女は口が利けないのか」
 男が女を振り返った。
「口は利けますわ。話す必要がないからよ。あなたは菅野さん? 名札にそうあるわ」
 この暗い中で読み取ったのか。よほど、夜目が効くらしい。
「イエス、おっと、思わず生まれが出てしまったな。正体がバレる」
 ヘンリーは、女の笑う顔を見た。改めて、美しい女だと思った。十七か十八、まだ二十歳にはなっていないだろう。女は、じっとヘンリーを見つめてくる。珍しい動物を見るようだ。ヘンリーは、目をそらした。動悸が早まる。
「不躾なことを訊きますが、その手は戦傷ですか」と、男が口を挟んだ。
「ああ、傷痍軍人に化けるのに好都合だからな。今の日本じゃ、若い男は目立つんだろ」
「そうですね。賢明な偽装かもしれません。傷痍軍人記章が役立つでしょう」
 そう男が答えた後、しばらく沈黙が続いた。ヘンリーは、松林の向こうに見える海岸を見た。先ほどより、少し明るくなったようだ。
「吉田は毎朝六時に母屋を出て、屋敷の裏手の林を抜けて海岸に出ます。海岸に立ってしばらく海を見つめ、また母屋に帰ってくる。一時間足らずです。ステッキをついてゆっくり歩くので、その帰りを林の途中で待ちます」
「わかった」
 ヘンリーは、なぜ自分はこんなところにいるのだろう、と考えていた。兄のことは、ひとつの言い訳にすぎない。兄に会えるとは考えていなかったし、消息がわかるとも思っていない。突然、陸軍長官と国務次官に呼び出され、青天の霹靂のようなミッションを言い渡された。易々と、なぜ引き受けたのだろうか。
「もし可能ならばだが、あんたに頼みがある」と、ヘンリーは口にしていた。
「何ですか?」
「兄が一九四三年の第二次日米交換船で、日本に帰国した。反米的だとして送還されたのだ。兄は、日本で軍隊に入ると言っていた。ジョニー・スガノという。交換船の乗客名簿などで、兄の消息がわかればありがたい」
 男は、じっとヘンリーを見つめた。目の前の日系二世の事情を想像しているのかもしれない。
「わかりました。交換船で帰ったのなら、名簿に名前が出ているはずだし、日系二世なら厳しく調査されたはずです。記録は残っていると思います。調べてみます」
「予定では、俺には後七十時間ほどある。その時間内で調べられることだけでいいよ」
 ヘンリーは、まったく期待せずにそう答えた。

■1945年8月3日  05:30 横浜・日吉
 早朝に呼び出された軍令部五課の草野少佐は、菅野少尉と向かい合っていた。日米交換船で日本に帰国した日系二世のジョニー・スガノは、菅野丈太郎として日本国籍を取得して海軍に入り、米国情報を収集分析する仕事に就いた。学徒動員と同等の扱いになり、菅野少尉としてすでに二年あまり勤務している。当初、米国の間諜ではないかと厳しい調査が行われたが、日系人に対する米国の扱いに心底怒りを感じ、日本人になりたくて帰国したと認められたのだ。
 二十代半ばまで米国で育った強みがあり、菅野少尉による情報分析は正確で、この二年間、大いに役立っていた。草野の信頼を集め、何かというと草野は菅野少尉に仕事をまかせている。昨日の蘭一号からの電文も、菅野少尉に分析と調査を命じた。
「昨日の電文に関係するのかどうか、まだ判明しませんが、先ほど、監視艇が相模湾でゴムボートが漂流しているのを発見しました。茅ヶ崎沖一キロの海上です。ボートにはナイフが刺さり、半分以上の空気が抜けていたようです。もう少し発見が遅かったら、抜け切って沈んでいたかもしれません」
「救命ボートか」
「そうです。ボートには、ナーカ号と英語で表記されていました。また、刺さっていたナイフですが、アメリカ合衆国陸軍の軍用ナイフです。詳細を報告させて、私が確認しました。早急に、こちらへボートとナイフを送らせています」
「発見した時間は?」
「午前四時十八分。監視艇が沿岸の見まわりを始めるのが午前四時です」
 それで、すぐに報告がきて菅野少尉が対応し、自分が呼び出されたわけか、と五時半を示す腕時計を見ながら草野は思った。発見の一時間十二分後には、責任者に報告があがる。迅速に対応している。やはり、菅野少尉にまかせてよかった。
「あの電文と関係するなら、鶴は舞い降りたことになるな」
「鶴が何を示すかです」
「ボートは何人乗れる?」
「最も小型のものですから、三人が限度と思われます」
「三人か。目的は何だ?」
「電文の菊ですが、我が国を示すか、あるいは少佐殿のご指摘通り、陛下を示す暗号ではないでしょうか」
「どちらだと思う」
「我が国のことを示すなら、わざわざ表記する必要を感じません。陛下のことではないかと推察します」
「暗殺か」
「その可能性はあります。五月の空襲で皇居の正殿が類焼しましたが、あれは皇居そのものを狙ったわけではありません。しかし、先月、御文庫近くに爆弾らしきものを落としたB29がありました。幸い模擬爆弾でしたが、米軍はついに陛下を標的にしたのかもしれません。模擬爆弾は、予行演習だったのかも----。ドイツは、ヒトラーが死んだことで降伏しました。彼らは、日本も同じだと思っている節があります」
「愚かなことだ。戦争では、相手を知ることが大事だ。相手のメンタリティもな----」
 草野は英国勤務が長かったせいか、つい、英語が出てしまう。今の時代、敵性言語を口にすれば非国民だが、そんなバカバカしい話はない。菅野の前では、草野は平気で英語を口にした。時には、傍受した米軍の英文の電文を巡って、菅野少尉と英語で話し合うこともあった。
「もっとも、敵のことを知ろうとしなかったのが、我が国だ。情報収集をおろそかにしてきたし、我々の仕事を理解しない。頭の堅い軍人たちは、我々の仕事を下賤なものと思っている。米国は戦争が始まると、すぐに日本語学校を作り、日本語がわかる人間を養成した。我が国は、敵性言語として英語を禁止した。だから、負けるのさ」
「少佐。そんなことを口にされると----」
「かまわんさ。事実だ。君も日本に帰ってこなければ、戦勝国の国民でいられたのにな」
「あの国は、日系人への偏見に充ち、日系人を差別し、血がにじむような努力をして築き上げた財産を奪って、強制収容所に隔離しました。私は、屈辱にまみれた収容所の生活が耐えられなかったのです」
 草野は、その屈辱を思い出しているような菅野少尉の顔を見つめた。なるほど、世の中には様々な苦悩があるものだ。
「きみには、向こうに残してきた家族があるのだろう」
「ええ、父母と弟ふたりと妹がふたりいます」
「彼らは?」
「収容所で暮らしているでしょう。すぐ下の弟はアメリカ合衆国に忠誠を誓い、軍に志願しました」
「消息は?」
「わかりません。おそらくヨーロッパ戦線に送られたのだと思います」
「戦死の可能性もあるのか」
「はい。もう家族とは会えないと覚悟しています」
 菅野少尉は顔を上げ、きっぱりとそう言った。

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