« ●天皇への密使・第二章その3 | トップページ | ●天皇への密使・第二章その5 »

2018年9月20日 (木)

●天皇への密使・第二章その4

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第二章その4

■1945年 8月3日 06:30 大磯
 吉田茂は、いつものようにステッキを持ち散歩に出た。この九月に六十七歳を迎える元駐英大使は、毎朝、海に向かって立ち、水平線の向こうで戦い死んでいく若者たちのことを思った。そのたびに、無謀な戦争を始めてしまったという思いが強くなる。その流れを止めることができなかった悔いが己を責める。今は無力感にさいなまれていた。
 しかし、始めてしまったものは、終わらせるしかない。だが、今の軍部にそれを求めても無駄だ。「和平」「終戦」という言葉を口にするだけで命の危険がある。現役閣僚でさえ、憲兵隊の監視がついているくらいである。露骨に終戦工作をやれば、逮捕される。あるいは、軍の意向を汲んだ民間右翼に襲われる。
 今にして思えば、軍部は五・一五や二・二六事件を利用して政治家に恐怖心を植え付け、勝手に暴走し始めた。岳父の牧野伸顕など「君側の奸」として五・一五で狙われ、二・二六では静養先の湯河原で襲われた。その時は娘の和子が一緒だったので、彼女がすばやく祖父を裏山に逃がして助かった。
 今の首相の鈴木貫太郎も侍従長だったため二・二六ではやはり「君側の奸」として襲われ、四発も銃弾を喰らいながら九死に一生を得た。その経験からか鈴木首相は軍部を警戒して、なかなか本心を見せないが、鈴木内閣が終戦を最大の課題にして動いているのは間違いない。それなのに、軍に配慮して「ポツダム宣言を無視する」と言わざるを得なかった首相の苦衷が、吉田にはよくわかった。
 近衛文麿が陛下に上奏した文章の作成に関連した容疑で、吉田が憲兵隊に逮捕されたのは四月十五日だった。それからひと月半、陸軍刑務所と、そこが空襲に遭ってからは一時的に小学校に移送されて拘留されたが、ろくな取り調べはなく、ある種の見せしめだったのではないかと吉田は感じていた。
 憲兵隊も近衛文麿には手を出せず、吉田と田中義一内閣の首相秘書官だった殖田俊吉、政治評論家の岩淵辰雄の三人を逮捕し、同じ大磯の別荘に暮らす元老・西園寺公望の秘書だった原田熊雄男爵や、樺山愛輔伯爵は自宅での尋問ですませている。
 釈放されて二ヶ月、空襲は日に日に激しくなり、日本の主だった都市はほとんどやられてしまった。それでも、大日本帝国陸軍は愚かにも女子供に竹槍を持たせ、本土決戦を叫び続けている。彼らはこの国を滅ぼすつもりか。このまま突き進んで敗戦になったら、国は乱れ、その混乱に乗じて共産勢力が力をつけるだろう。ソ連の後押しで革命を起こし、日本は共産国家になるに違いない。そんなことは耐えられなかった。もう遅すぎるくらいだ。すぐにも、ポツダム宣言を受諾すべきだった。
 このところ、毎日、海を見ながら吉田は焦燥感に駆られていた。自分は大磯に隠棲している老人だが、このままでは死んでも死にきれない。この国を再び立ち上げるまでは、死ぬわけにはいかなかった。吉田は、朝日を浴びてそう決意したが、隠居同然の身では自らが政治の場で活動することはできなかった。
 漏れ聞けば、東郷外相はソ連に和平の仲介を依頼し、近衛文麿を特使としてモスクワに送ることにしていたらしいが、ソ連の返事ははっきりしないまま時間だけが過ぎている。ソ連など、信用できない。ポツダム宣言受諾を、決断すべきなのだ。吉田は朝日に背を向けて、帰途についた。砂浜にゆっくりと歩を進める。磯の岩を踏み少し登ると、吉田邸に続く林が見えてくる。その小道を踏みしめて歩く。
 林の半ばまできた時、木陰から男が姿を現した。憲兵か、と思った。まだ、憲兵たちが監視しているのか。しかし、よく見ると、男は戦闘帽に国民服だった。胸に白い布で名札を縫いつけてあった。傷痍軍人記章をつけている。
「元イギリス駐在大使のミスター吉田ですね」
 わかっていることを確認するだけという口調だった。それにしても、今の時節に「ミスター」とは。そう思った時、同じことを男は流暢な英語で言った。アメリカ英語だった。ネイティブ・スピーカー独特の発音だ。
「きみは、何者だ?」
「ミスター・グルーがよろしくと言っていました」
「グルー? ジョセフ・グルー大使か?」
「現在は、アメリカ合衆国国務次官です。少し前まで、国務長官代理でした。私は、グルー国務次官から派遣された人間です」
 信じられなかった。それに、男は、どう見ても日本人ではないか。
「信じられん」
「グルー国務次官は、ミスター吉田に会ったら、こう言ってくれと言っていました。『あなたがイギリスで購入し、わざわざ日本に運んできた特別仕様のロールスロイス、まだ持っていますか。あの時、訊いたように私に譲る気はありませんか?』」
「知っているのか。その話を?」
「私がミスター・グルーから派遣されたのを証明するために、あなたとミスター・グルーしか知らないプライベートなことを、いくつか教えてもらいました」
 驚くべきことだったが、確かにそれは戦争前にグルー大使と交わした会話だった。その会話には、続きがあった。
「それでは、グルー大使が私に申し出た購入額はいくらだったか、知ってるかね」
 男は、あの時、グルーが口にした金額を正確に答えた。それは、戯れ言だとわかるように、信じられない安値で、さらに端数が付いていた。その数字は、本人でなければわからない。しかし、相手が用意した内容だけでは、信用できなかった。あり得ないことだとは思うが、グルー大使に強制的に自白させたのかもしれない。グルー大使は、真珠湾攻撃の後、半年もアメリカ大使館内に軟禁されていた。その間、憲兵隊がグルー大使を尋問した可能性もある。
「それでは、私が交換船に乗るグルー大使に贈ったものは何だった? その時、私は何と言ったかね」
 あの後、すぐにグルー大使は船に乗り込んだ。グルー自身が話さない限り、誰も知らないことである。
「その話も、ミスター・グルーから聞いています。あなたは、大切に保管していた葉巻をミスター・グルーに贈った。『日本にとって、あなたは最も大切な友人だった』という言葉と共に。このことは、ミスター・グルーが昨年、アメリカで出版した『滞日十年』の中にも書かれていません」
 まだ半信半疑だったが、吉田は目の前の男が確かにグルー大使の密使なのだと感じていた。グルー大使は、約束を果たすために男を送ったのか。日本を去る時、グルー大使は「この戦争を、我々の手で早急に終わらせましょう」と言った。しかし、あれから四年近くも経ってしまった。大使夫妻とは、家族ぐるみのつきあいだった。死んだ妻は入院中、アリス夫人手製のスープを楽しみにしていたものだ。
「それで、グルー大使はきみに何を託した?」
「天皇への手紙と、新兵器の爆破実験を記録したフィルム」
「陛下へ?」
「日本で戦争を終わらせられるのは天皇だけ、とミスター・グルーは言っていた。彼は、原子爆弾を投下せずに戦争を終わらせたいのだ」
「原子爆弾?」
「その爆破実験の記録映像を託された。百聞は一見にしかず、という日本の言葉と一緒に。そのフィルムを見れば、誰もが怖れ戦くはずだ」
「それを、私に預けるのか?」
「いえ、あなたには天皇へのルートをつくってもらいたい。あなたには、いくつかのルートがあるはずです。天皇側近だった岳父の牧野伸顕ルート、あるいは近衛文麿ルート。しかし、できれば、鈴木首相に手渡したい。首相から天皇に渡してもらうことは可能でしょう。鈴木首相への橋渡しをしてもらいたい。鈴木首相と連絡をとり、私に知らせてもらいたいのです」
「義父は陛下の信任は厚いが、今は隠退した身だ。近衛ルートも、上奏文問題で使いにくくなった。今は、木戸幸一内大臣が陛下にあまり人を近付けないようにしているらしいし、陛下に謁見できても上奏の場には木戸内大臣が必ず立ち会っている。確かに、鈴木首相に預けるのが一番だな。首相が謁見を願い出れば、ダメだとは言えまい。陛下も鈴木首相も、グルー大使と親しい間柄だった。グルー大使の親書だと証明できれば、その提言はお聞き入れになるだろう。それに、陛下は活動写真好きで、宮中には映写設備がそろっておる」
 吉田は、にわかに活力が湧いてくるのを自覚した。自分の言葉に、ある可能性が見えてきたのだ。陛下にグルー大使の手紙と、原子爆弾とかいう新兵器の実験記録を見ていただき、最後のご聖断をしていただく。この国を救うには、それしかないと思えた。
「グルー大使の手紙の内容は、知っているのかな?」
「おおよそは----」
「私に話してもらえるかね」
「知ってもらった方がよいでしょう。三点あります。アメリカ合衆国は原子爆弾の開発に成功し、使用することをためらわない。天皇制は維持し、戦後は立憲君主制で改めてスタートする。それに、近々、ソ連が参戦する」
 吉田の顔が青くなった。ステッキを持つ手が震え出す。
「親書とフィルムは、私が東京まで運びます。あなたには、すぐにルート作りを始めていただきたい。時間があまりない」と、男が言った。
「わかった。すぐに手配する。あてはあるのだ」
 すぐに、樺山伯爵と原田男爵に連絡しなければならない。しかし、吉田を自転車の荷台に乗せてあちこち連れていってくれた書生が、釈放されたすぐ後に暇をとってしまったし、迅速に動けるだろうか。いや、そんなことを心配している場合ではない。とにかく時間がない。急がねばならない。
「東京での連絡は?」
「空襲で焼けてしまったが、平河町に本宅があり、そこに例の車がある。車庫は何とか残ったのだ。政府からの『自家用車献納』でも拒否したロールスだ。空襲の後、女中頭はその車で寝泊まりしておった。その前側のバンパーの裏に連絡文を張り付けておく。そちらからの連絡がある場合も、同じようにしておきたまえ」
「わかりました。五日の二十時をリミットにします。それまでは、私も東京にいられる。もっとも、東京に入れればだが」
 男はそう言って、さみしそうな笑いを浮かべた。
「きみは、日系二世のアメリカ人かね? 名前は?」
 男が、吉田の背後を見た。吉田が振り返ると、遠くの浜辺を十数人の兵士が歩いてくる。砂浜の塹壕掘りが始まるのだろう。兵士たちは、こちらに気づいた様子はない。しかし、吉田茂が再び振り返った時には、男の姿は消えていた。

■1945年8月3日 07:00 大磯
「おい、そこの男たち、ちょっと待て」
 背後からの高圧的な声に、ヘンリーと瀬川の足が止まった。振り返ると、ひとりの兵士が立っている。銃剣をつけた小銃をこちらに向けていた。吉田茂と接触する間、周囲を監視していた瀬川と落ち合い、ふたりは林を抜け出たところだった。百メートルほど離れた砂浜に現れた兵士たちには注意していたが、林を出たところにいた兵士に気づかなかった。
 呼び止めた兵士が近寄ってきた。陸軍曹長だった。目の鋭い男だ。素早くふたりの全身を点検し、注意深く銃を構えている。
「何をしていた」
 強い語調で詰問する。ほとんどの民間人は、それで震え上がるだろう。瀬川は、そんな民間人の芝居に徹することにしたようだ。おどおどした態度になり、腰を折る。
「仕事に出る前に、林の中で何か食べられるものはないかと探しておりました」
「情けないやつだな。『欲しがりません。勝つまでは』だろ。それでも日本人か。それに、おまえ、若いくせに、なぜ、出征しておらん」
 曹長は、がっしりした瀬川の体を見て、そう言った。
「はい、胸を悪くしたことがあって----。でも、軍属として軍令部に勤めております」
「軍令部?」
「はい、証明書もあります」
「そっちの男は?」
 ヘンリーは、高圧的な相手に強い反感を感じていた。その兵士は、白人たちの日系人に対する態度を思い出させた。イエロージャップを見下す目だ。同じ顔をした男から言われると、よけいに腹立たしい。ヘンリーは、傷痍軍人記章が見えるように胸を張った。左手もポケットから出す。
「何だ、貴様、指三本くらいで、傷痍軍人のつもりか。情けないやつめ」
 その瞬間、ヘンリーは怒りに駆られて我を忘れそうになった。その気持ちが顔に出たのだろう。相手は、さらに激高した。
「何だ、その面は----」
 曹長は銃を逆に持ち替え、銃床でヘンリーの左の肩を強く突いた。反動でヘンリーは反り返り、倒れそうになって片膝をつく。その勢いで、たすき掛けにしていた鞄が大きく振れた。
 外から見るとキャンバス地で作られた、ほぼ正方形の鞄だ。直径三十センチ足らずのフィルムケースが入るサイズである。フィルムケースには親書も入っている。だが、鞄の中は防水加工され、密閉されている。外見は普通の鞄だが、中を見られると大変困ったことになる。ヘンリーは、右手で背中の拳銃をつかんだ。左手の親指と人差し指でポケットの中の装弾子を探った。
「何だ、その鞄は。見かけない鞄だな。中を見せてみろ」
 曹長は、居丈高に言った。瀬川が緊張した顔になった。ヘンリーは拳銃から手を離し、言われたように鞄を肩から外した。左手はポケットの挿弾子をつかんだままだ。曹長に鞄を渡そうと右手で差し出し、相手が受け取ろうとした瞬間、ヘンリーは手を離した。鞄が落下する。曹長は、鞄を受け取ろうと反射的に腰を下げ、手を下に延ばした。
 ヘンリーは鞄を離した右手ですばやく背中の拳銃を抜き取り、左手の二本の指でつかんでいた装弾子をポケットから取り出して装填し、薬室に弾丸を送り込んだ。立ち上がろうとしていた曹長の左胸に銃口を強く押しつけ、引き金を引く。銃弾は、一瞬で曹長の命を奪った。狙った通り曹長の体が消音器の役割を果たし、銃声は低く、くぐもった音になった。ヘンリーは振り返ったが、砂浜にいる兵士たちは銃声に気づいた様子はなかった。
「おい」と、真っ青になった瀬川が意味のない言葉を口にした。腰を曲げ、不自然なかっこうで突っ立っている。
「自転車のところまでいけ。ゆっくりだぞ」
 ヘンリーがそう言うと、我に返った瀬川は突然走り出した。その動きが砂浜の兵士たちの目を引いた。
「しまった」
 その時、まだヘンリーは崩れ落ちる曹長を抱きかかえたままだった。曹長の体を投げ出し、ヘンリーも瀬川の後を追う。
「おい、貴様ら、待つんだ」
 兵士たちが向かってきた。自転車のところまでいけば、何とか振り切れるはずだ。瀬川が寝かしていた自転車を起こし、またがった。それを見た兵士たちが発砲する。銃声が響いた。ヘンリーは左脇腹に衝撃を感じ、倒れた。しかし、すぐに立ち上がり、自転車を起こしてまたがると全力でペダルを漕いだ。
 自分が血を流しているのは、わかっていた。三八式歩兵銃の弾丸はヘンリーの脇腹の肉を削ぎ、肋骨を折った。弾丸が体内に残らなかったのが幸運だった。その場合は、おそらく死んでいたか、そう長くないうちに死ぬことになっただろう。そう思いながら、瀬川の背中を見て自転車を漕ぎ続けた。あの腰抜けのサノバビッチめ!

« ●天皇への密使・第二章その3 | トップページ | ●天皇への密使・第二章その5 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/597837/67186961

この記事へのトラックバック一覧です: ●天皇への密使・第二章その4:

« ●天皇への密使・第二章その3 | トップページ | ●天皇への密使・第二章その5 »

無料ブログはココログ
2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31