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2018年10月25日 (木)

●天皇への密使・第三章その6

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第三章その6

■1945年8月4日 21:00 横浜・日吉
 京子と別れた瀬川は、いつものように組織の上部に連絡を入れた。潜入した菅野兵介が憲兵隊に連行されたことを報告し、その後の憲兵隊の動きを探れるかどうかについて問い合わせ、さらに軍令部の菅野少尉に関する調査を依頼した。その返信がくるまでには、時間がかかった。いつもの神社に参拝をするふりをして連絡文を受け取り、内容を確認して廃棄し、そのまま夜勤のために軍令部に出仕した。今は二十四時間体制で、米国の放送を確認しているのだ。このところ、瀬川はずっと深夜の担当だった。
 やはり、菅野兵介を救出する手だてはなかった。憲兵隊司令部に拘留されているのは確認できたが、そこに捕らえられている限り手の打ちようがなかった。それに組織の上部にしても、彼の具体的な使命は知らない。潜入の補助、使命達成への協力を指示されていただけだ。瀬川の方が情報を持っている。
 菅野兵介の使命は、京子に託された。明朝、京子はそれを果たすために、再び上京することになっている。問題は、憲兵に誰何されずに、そこへ親書とフィルムを届けられるかどうかだった。しかし、そのことを組織に報告すれば、本来の使命は達成できる可能性があるのだから、菅野兵介の救出は必要ないという結論になる。菅野兵介は、尊い犠牲者となるだけだ。
 あの人を助けて、と京子は言った。その時の京子の深い悲しみに沈んだ顔が浮かんだ。一年近く京子を見てきたが、あんな顔をしたのは初めてだった。特別な感情が、京子の悲しみに充ちた表情に現れていた。瀬川は、嫉妬に似た気持ちが湧き起こるのを感じたが、それはすぐに消えていった。京子の切なる願いを叶えたい気持ちが勝った。初めて、京子が十八歳らしい素直な感情を見せたのだ。
 あの男を救えるとしたら、菅野少尉しかいないのではないか。菅野少尉への京子の電話の反応を探るために、瀬川は英語放送の解釈についての協力という口実で軍令部五課の菅野少尉を訪ねた。そこで教えられたのは、菅野少尉は憲兵隊司令部に出かけており、帰りの時刻が不明だということだった。菅野は出直すことを告げて、五課の部屋を出た。
 五課の部屋のドアを閉め、振り返ると廊下を歩いてくる菅野少尉がいた。ひどく沈んだ顔をしている。考え事をしているのか、下を向いた顔に陰があった。
「菅野少尉」と、瀬川は声をかけた。
 菅野少尉が顔を上げた。じっと瀬川を見る。誰だか、わからない様子だった。しばらくして、「ああ、きみか」とつぶやいた。
「また、英語の解釈について、お訊きしたいところが出たものですから」と、瀬川は言った。
「重要なこと? 悪いが、急ぎでなかったら、後にしてくれないか」
 菅野少尉の心を、別のことが占めているのだ。もちろん、実の弟が憲兵隊に捕らえられているからだ。憲兵隊司令部にいっていたとすれば、京子の電話の内容が本当かどうか確認しにいったに違いない。この顔を見れば、菅野少尉が弟と会ったのがわかる。
「何か、ご心配なことでも?」と、瀬川は探りを入れた。
「あっ、いや、何でもない」
 そう言って、菅野少尉は扉のノブをつかんだ。
「弟さんのことですか?」
 瀬川がそう言った瞬間、菅野少尉は振り返った。鋭い視線が瀬川を射抜いた。瀬川の対応次第では、殺すことも躊躇しない目だった。その冷酷な視線にたじろいだ。
「何のことだ?」
「憲兵隊に逮捕されたヘンリーのことです」
 瀬川は、賭けに出た。自分の正体が露見し、逮捕されるかもしれない。菅野少尉は、どちらを選ぶだろう。しかし、今の瀬川には、ある確信があった。菅野少尉は、じっと瀬川を見つめる。やがて、瀬川に放っていた殺気を消し、ドアのノブを離した。
「貴様、何者だ」
「ここでは----」
 何も言わず、菅野少尉は振り返り、廊下の奥に向かう。瀬川も従った。菅野少尉は、廊下の奥の物置代わりになっている小部屋の扉を開き、中に入った。瀬川も周囲を見渡してから身を滑り込ませた。
「貴様、あの女の仲間か」と、菅野少尉が言った。
「彼女は、あなたの弟を救い出したがっている。だから、危険を冒して、あなたに電話をした」
「貴様たち、米国の間諜だな」
「それは、弟さんと会ったということですね。話はできましたか?」
「大きなお世話だ」
 瀬川の賭けは、今のところ破綻していない。軍令部米国情報担当の少尉に自らの正体を明かすことは、身の破滅を意味する。逮捕され、尋問され、国賊と呼ばれて処刑される。だが、米国スパイとして日本に潜入した男の兄だとわかれば、菅野少尉の身も安全ではない。菅野少尉自身が米国のスパイと疑われるのは間違いない。どんなに言い訳しても、信用はされないだろう。
「貴様たち、俺をはめたな」
「そんなつもりはありません。彼女は心底、あなたの弟を救いたかった。だが、我々には手も足も出ない。あなたにも、何ができるかわからない。しかし、我々よりは可能性があった。少なくともヘンリーに面会できた。彼の様子は?」
 瀬川の言葉を、菅野少尉は黙って聞いていた。
「拷問で、ひどく痛めつけられている」と、しばらくしてつぶやいた。
「やはり----」
「このままでは殺されてしまう」
 菅野少尉の苦悩が伝わってきた。それなのに、瀬川は菅野少尉の弱みにつけ込んで、ヘンリーの救出を手伝わせようともくろんでいた。いや、手伝いなどではなく、菅野少尉自らが先頭に立たなければ、菅野兵介ことヘンリー・スガノは救えない。その場合、菅野少尉は裏切り者になり、この国に居場所はなくなる。
「救えませんか」
「どうやって----」
「あなたが救うしか方法はない。あなたなら憲兵隊司令部に入れるし、もしかしたら身柄引き取りも可能かもしれない」
「身柄引き取りを軍令部として依頼したが、それは無理だ。弟は兵士をひとり射殺----」
 菅野少尉は言葉を途中で切り、瀬川を見つめた。
「貴様か。一緒にいた男は----」
 瀬川は、何も答えなかった。肯定も、否定もしない。
「くそっ、俺を身動きできないほど、はめたな」
「今更、私を間諜として突き出せない? あなた自身が疑われるかもしれませんね」
「俺の言葉など、誰も信用しなくなる。日系二世だしな。今頃は、憲兵隊も俺のことを調べているだろう」
「なぜ?」
「カンノだろうが、スガノだろうが、俺の名と捕まえた男の名が同じだからだ」
「あなたには、選択肢がほとんどない」
「それはわかっている。俺も弟は救いたい」
「では、協力していただけますね」
 菅野少尉は、あきらめたように首を縦に振った。
「だが、どんな計画だ」
 そう言われて、瀬川には明確な計画がなかった。
「明日の朝までに、逃亡用の車は準備します。こんな場合ですから、ガソリンは何とか手配します。車のあてもあります。ロールスロイス。点検して、給油し、憲兵隊司令部の前で待機しています。その車の持ち主はすぐにわかるかもしれないが、文句は言わないでしょう。『車庫から盗まれた』と、ぬけぬけと言い逃れてしまうような人物です。ところで、あなたは、もう一度、ヘンリーに会えますか?」
「ああ、再度の尋問を依頼してある」
「だとすれば----」
「単純な計画だな。取調室で誰かを人質にとる。ヘンリーを連れて、司令部を出る。人質を連れて、車に乗る。どこかで人質を解放する」
「人質にとるのは、やはり高官でないと」
「あてがある。草野少佐には悪いが----」
「草野少佐?」
「上司の名前を使わせてもらう。いい人だし、世話になったが」
「ヘンリーを救出したら、一緒に生まれた国に戻ったらどうですか」
「俺は、あの国から追放されたんだ」
「そういうことに、なっていますね」
 瀬川は、菅野少尉を見た。菅野少尉は笑ったようだった。自分が追い込まれた窮地に対する自嘲の笑いか。あるいは、瀬川の言葉に含まれた言外の意味がわかったのか。瀬川は、自分の確信が本物だったと思った。

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