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2018年10月18日 (木)

●天皇への密使・第三章その4

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第三章その4

■1945年8月4日 17:00 東京・平河町
 吉田茂は一日、じりじりと焦る心を抑えて夕方を待ち続けた。麻生鉱業の寮から一歩も出なかったが、動かないことで憲兵隊が監視をあきらめるとは思わなかった。かえって、吉田がずっと籠もっていることを不審に思うかもしれない。
 午後四時を過ぎ、吉田は自動車の手配を頼んだ。やってきた車の後部座席に身を沈め、平河町の屋敷跡まで三十分ほど焼け跡だらけの東京を走った。窓の外の光景は、もう見慣れたものになった。しかし、その無惨さには慣れることはない。それでも、人々は焼け跡にバラックを建て、何とか生き延びている。今は真夏だから、裸同然でも生活できる。これから秋がきて、冬になればどうなるのだろう。
 飢えと寒さで、死んでいく人間がどれほど出るか。上野駅の構内や地下道には、親を失った戦災孤児たちが集まっているという。毎日、どうやって生き延びているのか。この国に、こんな荒廃をもたらせたものに吉田は肚の底から怒りを感じた。英米を相手に戦争を始めるとは、愚かなことだった。もうすでに遅すぎるとはいえ、すぐにでも戦争を終わらさなければならない。
 だが、軍部は未だに本土決戦を口にし、和平工作を行おうとする者を国賊と呼ぶ。狂信的な軍人たちはクーデターを起こし、あくまで聖戦遂行を主張するだろう。現に、陸軍内部には阿南陸軍大臣を辞任させ、終戦をもくろむ鈴木内閣をつぶそうとする勢力がある。その背後には、東条がいる。彼らを抑えるには、陛下のご聖断しかあるまい。一刻も早く、ポツダム宣言受諾を連合国側に伝えなければならない。
「着きました」と、運転手が振り返った。
 吉田は窓の外を見渡し、我に返った。運転手がドアを開けてくれたので、ステッキを片手に降り立つ。何度見ても、焼けた屋敷跡は情けない。車庫だけは何とか焼け残り、愛車も無傷だったのが救いだった。吉田はその車の下を探り、自分が貼っておいたメモがなくなっているのを確認した。
「吉田茂だな」
 屋敷跡を出て車に乗り込もうとした時、憲兵が声をかけてきた。ずっと吉田を監視していたのか、あるいは、屋敷跡を監視していたのかもしれない。
「憲兵隊司令部に同行してもらいたい」
 吉田は、ジロリと憲兵を睨んだ。まだ、二十代に見える若い憲兵だ。その年頃の兵隊は前線に駆り出されていると思ったが、憲兵隊にも若い兵士が配属されているらしい。
「どういう用件ですかな?」
 吉田の高圧的で不機嫌な口調に、若い憲兵は気圧された気配だった。ムキになったように大声を出した。
「くれば、わかる」
 憲兵隊の車が少し離れた場所に停車していた。
「あれに乗るのかね。それとも、わしの車で尾いていってもいいのかね」
 一瞬、若い憲兵は言葉に詰まった。考えている。逮捕なら、有無をいわさず車に押し込むはずだ。何かの容疑をかけられているわけではないらしい。
「その車でよろしい」と、憲兵は不承不承という感じで答えた。

 十分ほどで憲兵隊司令部に到着し、吉田は取調室に通された。一度経験しているからか、吉田は落ち着いていた。あの時には、「国家反逆罪」といった大げさな容疑だった。それは、吉田を始めとする反戦グループへの脅しだったのだ。結局、憲兵隊もうやむやに決着させるしかなかった。
 この時期、和平工作を探る人間の方が愛国者だ、と吉田は信じていた。聖戦遂行などと叫んでいる輩は、国を滅ぼす国賊である。そんなことを考えて己を鼓舞していると、取調室の扉が開き目の鋭い酷薄そうな士官が入ってきた。
「憲兵隊の古沢中尉です。お訊きしたいことがあります」
 口調だけは、丁寧だった。
「昨日の朝、大磯の浜辺近くで、ある人物に会いましたね」
「いや、誰とも会ってはおらんよ」
「大磯のあなたの屋敷の近くで、昨日の朝、兵士がひとり射殺されたのをご存知ですかな」
 男の鋭い視線が刺さるようだった。
「いや、その頃は東京に出る準備で忙しくてな」
「東京へは何をしに?」
「しばらく、人に会っていなかったのでな」
「誰にお会いになりました?」
「近衛さんはおらなんだし、東郷さんに会ったな」
 鈴木首相に会ったことは言わなかった。
「本当に、昨日の朝、誰にも会っていない?」
「ああ、わしはまだ惚けてはおらんよ」
「ある人物に会ってもらいましょう」
 そう言って古沢中尉は椅子を立ち、扉を開けて誰かに声をかけた。しばらくして、ふたりの憲兵に両脇を支えられて男が連れてこられた。その姿を見て、吉田は身が震えた。
「この男、見覚えはありませんか?」
「いつも、そんな顔ではあるまい」
 殴られ続けたのか、男の顔は腫れ上がっていた。瞼が腫れて目をつぶしているし、頬は痣になっていた。両腕を支えられていないと、立っていられない様子だ。意識はあるのだろうか。
「昨日、会いませんでしたか」
「どちらにしろ、初めて見る男だよ」
「この男、拳銃と偽造した身分証明などを持っていただけで、後は何も持っていなかった。あなたが、何かを受け取ったのではないですか?」
 吉田は表情が変わらないようにするのに苦労したが、口をへの字にし憮然とした不機嫌な顔を通した。不機嫌な顔には、昔から自信があった。
「会ったこともない男から、何も受けとれんだろ」
 古沢中尉は、吉田を凝視している。睨み合いなら負けんぞ、と吉田はさらに口をへの字に結び、奥歯をかみしめ、その視線を受け止めていた。

■1945年8月4日 17:30 横浜
 京子は、茅ヶ崎に帰る列車の中にいた。もうすぐ横浜だ。菅野少尉に電話をした後、瀬川に「あなたにできることは、もう何もない。彼の使命を受け継ぐことだけです。今から帰っても、茅ヶ崎に着く頃は薄暗くなります。夜間の外出はまずい。今日は、もう帰った方がいい」と言われ、京子は素直に従ったのだ。瀬川は、憲兵隊司令部の様子を探ってみるという。
 しかし、考えても仕方がないと言い聞かせれば言い聞かせるほど、ヘンリー・スガノの姿が浮かんできた。彼の昨夜の表情や、話したこと、そして、彼とのふれあい、それらが十八歳の京子をの胸をいっぱいにしていた。
 学校に通いながら父の看病をし、父が死んでからは祖母と暮らしていた京子の身近にいた男性は、月に一度会っていた瀬川だけだった。月に一度だけとはいえ定期的に会っていた瀬川は、京子が次第に大人びてくることに戸惑っている風に見えた。言葉遣いは最初から丁寧だったが、最近ではその口調に京子との距離を縮めてはならないという意志を感じた。そこに、京子は瀬川の好意を感じ取った。だが、兄弟のいない京子は、瀬川を兄のように思っていた。
 それでも、十八歳の娘だ。男の好意を感じて、うれしくないはずがない。しかし、いつ身に危険が迫るかもしれない状況の中で、京子にときめきは生まれなかった。もちろん、瀬川も自分の中に生まれた京子への想いを顕わにすることはなく、隠し通していると思っている。戦争が終わるまで、そんな感情とは無縁なのだと瀬川も京子もわかっていた。
 しかし、初めて海から現れたヘンリーを見た時、京子の胸はざわめいた。それが、異性に対するときめきだと気づいたのは、その男が「彼女は口が利けないのか」と言った時だった。そんな言葉でも、男が自分のことを口にしたのがうれしかった。無視されていたら、きっと傷ついたに違いない。
 その後、自転車で大磯に向かったふたりを見送り、朝の散歩をしていたという言い訳が通用する時間まで林の中に潜んでいたが、ずっとふたりのことを心配していた。いや、あの米国からきた日系二世がどうしているか、そのことばかりを考えていた。その時に、自分が初めて異性を意識しているのだと自覚した。
 ヘンリーが血を流して戻った時、京子の胸に経験したことのない感情が湧き上がった。初めての気持ちだった。胸を突き刺す痛みを感じた。この人がいなくなったら、私は悲しみに暮れるだろうと確信した。これが恋をするということかしら、と京子は思った。
 勤労奉仕から戻った時、熱に浮かされてうわごとを口にするヘンリーを京子は心配し、「大丈夫よ。安心して」と寄り添う自分を夢想した。ヘンリーが目を覚まし、京子の瞳を覗き込むようにして、「きみには西洋人の血が入っているのか」と口にした時、自分に目を向けてくれたのだと歓びを感じた。その後の個人的な話の中で、京子は本当は「戦争が終わったら、あなたの国にいってみたい」と言いたかったのだった。
 昨夜、ヘンリーは家族の思い出を話してくれた。家族全員の名も、その時に教えてくれたのだ。苦労をした父母のこと、兄弟たちの保護者のようだった兄ジョニー、躾に厳しかった姉のマリー、陽気でおしゃまな妹のベティ、悪戯好きの末っ子フランク。貧しいけれど幸せな家庭が浮かんできた。そんな思い出を語ることができるヘンリーがうらやましかった。京子は、いつしか自分の父母のこと、母が撃たれたこと、十八歳になるまでのことを、何もかもヘンリーに打ち明けていた。ヘンリーは黙って耳を傾けてくれた。
 やがて、父の無惨な姿を憲兵隊の留置所で見た時のことを話し始めた京子の頬を涙が伝った。涙は後から後から流れて、止まらなくなった。静かに涙を流す京子の肩を抱き寄せ、ヘンリーは包み込むように腕をまわした。包帯を巻いたヘンリーの胸に顔を伏せて、京子は涙が止まるまでじっとしていた。その姿勢だと、ヘンリーは傷の痛みを感じ続けていたに違いない。
 京子は顔を起こした。その京子の瞳を覗き込んで、ヘンリーは力づけるようにそっとくちづけをした。電流が走った。驚いた京子は両手でヘンリーの胸を押し返し、ヘンリーが痛みに呻いた。「あっ」と京子は声を挙げ、「ごめんなさい」と謝るとヘンリーは笑った。その屈託のない笑顔に惹かれて、京子は思わず自分からヘンリーにくちづけを返していた。そんな自分に驚き、すぐに立ち上がり、京子はふすまを開いた。
「きみに頼みたいことがある」と、ヘンリーが言った。
「わかってるわ」と、京子は答えた。
 しかし、何もわかってはいなかったのだ。その部屋から逃げ出したかっただけだ。自分の行為が恥ずかしくなったからだった。しかし、京子は、自分の声が弾んでいるのがわかった。その時のことを思い出し、京子は顔が赤らむのを感じた。あわてて列車の中を見渡す。誰も自分のことなど注意を向けていない。そう思うと、改めて思い出し笑いが浮かんだ。しかし、憲兵隊に連行されるヘンリーの姿が甦り、その思い出もすぐに消える。ああ、誰かあの人を助けて、と叫びそうになる。
 兄弟たちのやさしい保護者だったという兄のジョニー。私の電話をどう受け取るだろう。救い出してくれるだろうか。憲兵隊の拷問だけは止めてくれるだろうか。いても立ってもいられない。そんな気持ちだった。時間が経つと、それだけあの人が痛めつけられている気がする。父の無惨な姿が浮かぶ。ヘンリーも同じ目に遭っているのだろうか。親書とフィルムは、京子のたすき掛けにした袋の中に入っている。何も身につけていないことで憲兵は怪しみ、あの人を拷問にかけても何かを引き出そうとするだろう。
「きみに、この親書とフィルムを預けたい。どこに届ければいいか、吉田邸の車の下に連絡文があるはずだ。しかし、監視されている可能性がある。俺が囮になっておびき出すから、その後、きみが確認してほしい。届ける先がわかったら、そこへ届けてほしいのだ」と、今朝、ヘンリーは言った。
 ヘンリーは自分が捕まるかもしれないと覚悟していたし、京子に対しては女であることで憲兵があなどり、高をくくり、見逃す可能性があると計算したのだろう。その後で、ヘンリーは身につけていた守り袋を取り出した。
「これは、僕が軍隊に入る時に母がくれたお守りだ。日本の風習らしいね。中に母の大切な思い出が入っている」
 そう言ってヘンリーが取り出して見せてくれたのは、きれいな虹色に輝く一枚の貝殻だった。
「これは、父が結婚の記念に母に贈ったものだ。父が十七で移民船で着いた時、カリフォルニアの海岸で拾ったものらしい。結婚の時にはまだ貧しくて、父はこんなものしか贈れなかった。これを、きみに持っていてもらいたい」
 その言葉には、ヘンリーのどんな気持ちが込められていたのだろう。初めてのくちずけの意味をくりかえし考えながら、京子はポケットに忍ばせた守り袋をそっと人差し指でなぞった。お願いです、あの人を私のところに返してください、と京子は初めて神に祈った。

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