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2018年10月 4日 (木)

●天皇への密使・第二章その8

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第二章その8

■1945年8月3日 17:00 横浜・日吉
 第九課からの依頼に答えた菅野少尉は、第五課の部屋にもどってきた。九課の依頼は、英文の解釈について意見を聞きたいということだった。話は九課の中田中佐から草野少佐を通じてあり、「文書の持ち出しが禁止されているので、申し訳ないが九課までおいで願いたい」というのが中田中佐の伝言だった。
 内容は、ポツダム宣言に関するサンフランシスコ放送を傍受したのだが、その中で使われていた単語をどう解釈するかだった。結局、連合国が主張する「無条件降伏」が何を示しているか、それを探ることになる。単語の解釈だけの問題ではなかった。ポツダム宣言の文章から、結果的に連合国側の真意を推察しなければならなかった。
 菅野少尉は、ポツダム宣言とサンフランシスコ放送を聞いて起こした英文を読み込み、自分の主観が入らないように、極力、客観的な解釈を述べた。中田中佐と軍属だという男を相手に一時間ほど話をしたが、ふたりは菅野少尉が米国生まれの日系二世であることを知っていた。それは、軍令部でも極力伏せられていたことだ。それを軍属の男にまで知らせたことに不審を抱いた。
 それにしても、あの軍属の男、気がつくと自分のことをじっと見ていた。しかし、五課にもどった菅野少尉は、そんなことはすぐに忘れた。きっと、米国生まれの人間が珍しかったのだろう。
「鶴と菊について、その後、何か情報は入りましたか?」
 五課にもどった菅野少尉は、草野少佐の机の前に立った。
「憲兵隊が動いているらしい」と、草野少佐が答えた。
「憲兵隊ですか」
「今朝、大磯の海岸で陸軍の兵士がひとり射殺された。民間人ふたりを誰何したところ、いきなりひとりが銃を出して至近距離から発射した。銃口を兵士の体に押しつけて撃ったようだ。百メートルほど離れた海岸で十人ほどの兵士が塹壕を掘っていたから、銃声を響かせないためだろう。単なる民間人とは思えない」
「大磯というと----」
「吉田さんの屋敷の近くらしい。樺山伯爵、原田男爵も住んでいる。彼らが一斉に午前中に東京に出てきた。憲兵の監視対象だから、三人には憲兵隊が張りついているだろうな」
「相模湾で救命ゴムボートが見つかり、ふたりの男が大磯に現れて陸軍の兵士を射殺。無関係とは思えません。男たちの足取りは、わかっているのでしょうか?」
「自転車で、平塚・茅ヶ崎方面に逃亡した。その後、茅ヶ崎の駅に向かう道で、血だらけのハンカチが見つかっている。ひとりは、兵士たちが撃った銃弾で負傷しているらしい」
「詳細な報告が入っているのですね、憲兵隊から。もちろん、正式ルートではありませんね」
 草野少佐は何も答えず、菅野少尉に向かってニヤリと笑った。聞くだけ野暮だ、とでも言いたげだった。陸軍大臣直轄の憲兵隊が、海軍の軍令部に情報を流すはずがない。草野少佐独自の協力者を憲兵隊の中に作っているのだ。その情報源が、逐一、草野少佐に報告してくるのか。
「鉄道は、押さえたのですか?」
「憲兵隊は、後手にまわっている。彼らの網を逃れて、その先を動いているか、あるいは、まだ茅ヶ崎近辺に潜んでいるのかもしれないな」
「彼らの狙いは、東京でしょう。いずれ、東京に潜入すると思われます。菊が陛下だとすれば----」
「その男たちが、鶴だと決まったわけじゃないぜ」
「しかし、可能性は高いですね」
「そうだな。ボートの件と無関係とは言えないかもしれんな。だとすると、拳銃は持っているにしても、軍用ナイフは無くしている。二本持っていたのなら別だが----」
 草野少佐はそう言うと、また他人事のようにニヤリと笑った。それから腕を組んで首をぐるりとまわす。首筋が凝っていたのか、ボキボキと音がした。この人は見た目とは違い、緊張していたのかもしれない、と菅野少尉は思った。

■1945年8月3日 19:00 東京・九段
「吉田は外相の東郷邸に入り、一時間ほどで出てきました。その後、麻生鉱業が持っている目白の寮に入りました。五月の空襲でも焼けなかったところです。監視要員を置いてきましたが、今夜はそこの来客用の部屋で泊まるようです。明日も東京で動くつもりなんでしょう」
 富田曹長の報告を聞きながら、古沢中尉は吉田と東郷が話した内容を推理した。この時期、ふたりが会ったなら終戦工作に間違いない。しかし、吉田の動きが急に活発になったのは、誰かから何かを知らされたからか。誰かとは、今朝、大磯で兵士を射殺した男たちではないのか。ひとりの男はあわてて自転車で逃げようとして、浜辺にいた兵士たちに気づかれた。その動きが不自然だったから、遠くからでも目立ってしまったのだ。
 兵士たちが目を向けると、もうひとりの男が抱えていた兵士の死体を投げ出し、自転車にまたがろうとした。兵士たちは銃をとり、男に向かって一斉に引き金を引いた。その一発が男に命中した。少なくとも、出血するほどの傷を負わせた。一緒にいた男があわてなければ、その男は静かに死体を横たえて浜辺の兵士たちに気取られないようにし、平然と自転車で立ち去っただろう。
 人を殺した直後に、それほど冷静でいられるとしたら、何らかの訓練を受けた男か、人を殺した経験があるに違いない。普通ならもうひとりの男のようにあわてふためき、目を引く行動をとってしまう。男は銃を兵士の胸に押し当て、引き金を引いた。兵士の服にできた穴が焦げていたという。一発で心臓を撃ち抜いている。出血も少ない。銃声はくぐもった音になっただろう。離れていた浜辺の兵士たちには届かなかったはずだ。
 それも計算していたとしたら、よほど銃の扱いにも慣れたやつだ。何者だろう。日本人に見えたというが、朝鮮人、あるいは中国人である可能性も棄てきれない。
「古沢中尉殿!」
 富田曹長の呼ぶ声に我に返った。
「ああ、聞いている。吉田の監視要員は交替させて、明日も動きを追ってくれ。どうも気になるのだ」
「吉田を引っ張ったらどうですか?」
「そうだな。それも考えられるな。今朝の大磯の事件は、吉田がらみなのは間違いないだろう。逃げた男たちは米国の間諜の可能性があり、吉田と接触した可能性がある。それだけの疑いがあれば、拘留して取り調べる理由にはなるな」
 自分の口から「米国の間諜」という言葉が出て、初めて古沢はその可能性を認めた。米国の間諜が吉田と接触した。吉田は英米の外交官を始め、様々な人脈を持っている。戦争が始まってその人脈は断ち切られたが、今ならやつらが吉田を窓口にして何かを画策してくる可能性もある。そう考えれば、辻褄が合ってくる。
 古沢中尉は立ち上がり、神山大佐の机の前で直立不動になり、音が出るほど軍靴の踵を強く合わせ敬礼をした。その音で神山大佐は顔を上げた。
「何だ?」
「明日も、吉田茂を監視します。場合によっては、逮捕拘留させていただきたいのであります」
「場合によっては、とは?」
「確証はありませんが、吉田は今朝、大磯で兵士を射殺した男たちと接触したと思われます。その接触によって得られた何かが、吉田を動かしていると推察できます。その男たちを米国の間諜と仮定すれば、吉田は何らかの謀略工作の一端を担っているのではないでしょうか。その策謀を吐かす必要があると考えます。早急に」
「わかった。しかし、吉田は阿南陸軍大臣とも親交がある。この前の逮捕の時も『特別の配慮を』と、陸相から内々に連絡があったのだ。慎重にやってくれ」
「わかりました」
 古沢中尉は敬礼をして踵を返したが、特別扱いなどするものか、と思っていた。神山大佐から陸相との関係を持ち出され、逆に吉田への反感が募った。逮捕することになったら、厳しい取り調べをするだろう。帝国陸軍兵士が殺されているのだ。大切な陛下の赤子のひとりではないか。

■1945年8月3日 20:00 茅ヶ崎
 迫撃砲の砲弾が、すぐ近くで爆発した。耳をつんざく爆発音と共に土煙が舞い上がり、身を伏せたヘンリーの上に降り注いだ。しばらくして頭を上げたが、耳の奥がキーンと鳴っている。何も聞こえない。見渡すと、少し前を匍匐前進していたジョンの姿がなかった。肉片になって、バラバラに飛び散ったのか。ヘンリーはジョンの認識票を探した。
 迫撃砲の着弾地点は、蟻地獄の巣のようにえぐれていた。底に血溜まりができている。間違いなく砲弾はジョンを直撃したのだ。手も足も首も胴体も残っていない。細かい肉片が散っていた。血にまみれた白い球体が見えた。拾うと、眼球だった。これが、ジョン・スギヤマか。あいつの片方の目なのか。俺を見上げて「たばこ、吸うかい」と笑った時の目なのか。
 気がつくと、ヘンリーはジョンの肉片を革袋に拾い集めていた。認識票は血溜まりの中から見つけた。日本人は死者を焼き、その骨を拾って壷に納める。骨ではないが、同じことだ。肉片からにじみ出た血は革袋を濡らし、真っ黒に染めた。やがて血が滴り始めるだろう。革袋の口を絞り、認識票を巻き付けた。これで、ジョンの一部でも家族の元に戻ることができる。
 だが、自分も吹き飛ばされたら、ふたり分の認識票が残るだけだ。ひっきりなしに砲弾が飛来し、着弾すると噴煙と火柱と土煙があがった。だが、耳をやられたヘンリーには、キーンという音しか聞こえない。白昼夢のような光景だった。
 その時、突然の怒りに駆られた。抑えようのない激烈な怒りだった。日系人にしても小柄なジョンの笑顔が浮かんだ。死んでいった戦友たちの顔が浮かんできた。イタリアに上陸してから、一体何人が死んだのだ。ヘンリーは立ち上がり、ドイツ兵たちに向かって小銃を連射しながら走った。自分が、何かを大声で叫んでいるのに気づいた。敵の機銃の射手が倒れるのが見えた。その時、すぐ近くに砲弾が落ち、爆発した。
「菅野さん、起きて。大丈夫?」
 日本語だった。女の声だ。誰だ。ヘンリーは目を開き、そこが茅ヶ崎という場所にある京子の家だと思い出した。日本にいる。そのことの方が、夢のようだった。だが、脇腹が痛み、現実なのだと思い知らされる。また、あの夢を見た。指を失ったあの時の夢。何度も、繰り返して見る。
「うなされていたわ」と、京子が言った。
 京子の瞳を、初めて身近で見た。日本人の黒い瞳ではない。薄い茶色だった。髪も漆黒ではなく、栗色だ。彫りの深い顔は、どことなく日本人離れしている。
「きみには、西洋人の血が入っているのか?」と、思わず口にした。
「母が英国人よ。私が子供の頃に死んだけど」
 京子の表情が凍りついた。思い出したくないことなのだろう。それ以上の質問を拒んでいる。
「あいのこ、といじめられたのか」
「そんなことじゃない。思い出したくないだけ」
「悪かった」
 ヘンリーは身を起こした。
「あなたも、いじめられたの」
「あちらじゃ、日系人は差別されている。排日移民法ができて、二十年も前から日本人の移民は禁止された。それに、日本人は土地も持てない。親父たちは、ずいぶん苦労した」
「あなたは?」
「米国生まれで、国籍もある。成人すれば土地も持てるが、そんなのタテマエだ。誰も日系人に土地なんか売らない」
「土地を持ちたいの?」
「戦争が終われば、カリフォルニアで果樹園をやりたい」
「いいわね。うらやましい」
 京子は、本当にうらやましそうに言った。
「きみは、戦争が終わったら何をする?」
「そうねぇ----」と、京子は考え込む。「いけるなら、米国へいきたいかな」
「お母さんの国じゃなくて?」
「いつかはいってみたいけど----」
「きみはいくつだ?」
「十八」
「戦争は、もう終わる。きみの未来には、いくらでも可能性がある。どこにだっていけるさ」
「その前に死ななければね」
「死にはしない」
「わからない。今の日本では、いつ誰が死んでもおかしくないの」
 無差別に空襲を繰り返しているのは、アメリカ軍だった。日本人を殺せば殺すほど勝利が近づくと、血まみれルメイ将軍は言っているらしい。戦争とは殺し合いだ。戦闘員だろうが、非戦闘員だろうが、区別してなどいられない。軍需工場だろうが、市街地だろうが、燃やせるところは燃やしてしまう。ヘンリーは、先日見た原子爆弾の爆破実験の映像を思い出した。あの爆弾を、どこへ落とそうというのだ。
「傷を見せて。包帯を取り替えるわ」
 京子は、そう言って寂しそうな笑みを浮かべた。
「きみの名前は、京子でいいのか?」
 京子はうなずいた。
「あなたの名前は?」
「ヘンリー」
「シェークスピア作品にあるわね。あなたは何世?」
「ヘンリーとしては一世だな」
「母は、シェークスピアが好きだったの。女学生たちにシェークスピアを教えていた」
 京子は、遠い記憶を思い出すかのようにつぶやいた。

■1945年8月4日 00:15  横浜・日吉
「憲兵隊は、大磯から東京に出てきた吉田茂、樺山愛輔、原田熊雄の三人を監視していたらしい」
 草野少佐は、菅野少尉を呼んで言った。深夜の五課には、他の人間はいない。ふたりだけだった。草野少佐がたばこを差し出し、菅野少尉は一本抜いて口にくわえた。草野少佐もたばこをくわえる。菅野少尉はマッチを擦って、草野少佐と自分のたばこに火を点けた。
「おそらく、今朝、兵士を射殺して逃亡した男たちと、吉田さんたちの動きを結びつけたのだろう。射殺事件は、吉田邸の近くで起きた。もっとも、樺山侯爵と原田男爵の別荘もそう遠くはない」
「彼らは、反戦思想の持ち主として、ずっと監視されていたのではないですか」
「憲兵隊では、ヨハンセン・グループと名付けて監視・盗聴を続けていたが、吉田さんが釈放された後は、監視体制をゆるめていたらしい」
「そこで、あわてて三人の監視体制を改めて敷いたわけですか」
「情報を分析してみよう。国務省の残置諜報員からの連絡があり、さらに、こちらの傍受に対して無警戒に交わされた通信があった。その電文は、何者かが菊をめざして我が国に潜入すると推察できる内容だった。それを裏付けるように、米国戦艦名のついた救命ボートが見つかった。沈めそこなったように見えるし、米国の軍用ナイフまで残っていた。これを、どう解釈する」
「こちらに、何者かが陛下を狙って潜入したと思わせたい。実際に潜入したのかもしれないし、情報の遺漏、通信のわざとらしさ、ボートと遺留品などから推察すると、敵の謀略かもしれません」
「あるいは、その計画を遂行したいと思っている人物がいて、逆にその計画を頓挫させたいと考えている人物がいる」
 菅野少尉は、草野少佐の顔を見た。日本でも、海軍と陸軍は対立してきた歴史がある。しかし、たとえば陸軍が遂行する作戦を海軍が妨害するだろうか。もっとも、過去、陸軍内部には対立するふたつの派があり、一方が何かを遂行しようとしたら、対立する派からそれを阻止する動きが起こっている。今も、聖戦遂行・本土決戦を叫ぶ徹底抗戦派がクーデターを計画している噂があり、一方では、それを阻止する動きも陸軍内部で出ているようだ。
「そうかもしれませんね」
「兵士を射殺した男たちが海から潜入したのだとしたら、救命ボートは謀略ではなく実際に使われたものだ。電文の内容は、実際の計画として遂行されている。しかし、彼らはなぜ、大磯で兵士を殺したのだ?」
「正体を見破られそうになった?」
「そうだな。それが吉田邸の近くだった」
「吉田茂と接触したと考えるのですか?」
「英国で大使館の武官として勤務していた頃、吉田さんとはよく話をした。ざっくばらんな人だった。反戦思想というより、早く戦争を終わらせたいと思っているのだろう。陛下暗殺を計画しているのなら、そんな人物と接触するかな?」
「吉田をだまして陛下に近づこう、と考えたのではありませんか。吉田茂なら陛下へのルートが作れます。義父の牧野伯は陛下の信頼が厚いと聞きました」
 菅野少尉は、あえて反対意見を述べた。菅野に話すことで、草野少佐は自分の分析を固めていく。そのためには、草野少佐の分析に対して、別の見方を提出しなければならない。草野少佐の頭は、勢いよく回転しているようだった。
「吉田さんは、簡単にだまされる人じゃないよ。なかなかのタヌキだ。それに牧野伯は、もう引退している。しかし、牧野伯が緊急で参内したら、陛下はお会いになられるかもしれんな。ただし、木戸内大臣がどう対応するかだ」
「計画は、陛下の暗殺ではないとしたら?」
「男たちが吉田さんに接触し、そのことによって吉田さんが動いたのだとしたら、吉田さんの思いと男たちの狙いが重なったということだろう。考えられるのは、終戦に関することだ。何が起こっているのか?」
 草野少佐は最後の言葉を独り言のようにつぶやき、たばこを指に挟んだまま考え込んだ。草野少佐は、情報の分析をずっと続けてきた。ここには様々な情報が入ってくるが、情報の確度、信頼性をまず分析し、判断しなければならない。確実な情報であり重要な内容だと分析できて、初めて情報を得たことになる。
 こちらを攪乱させるための情報や、どうでもいいゴミのような情報が九割方を占めるのだ。その中から必要で、重要で、正確な情報を選び出す。冷静な分析が必要である。草野少佐は、分析官として非常にすぐれた能力を持っていた。玉石混淆の情報の大海の中から、本物の真珠の一粒を拾い出すことができた。
 今年になって、ジュネーブやストックホルム、あるいはマドリッド、リスボンなど、中立国にある日本大使館の武官たちから和平交渉に関する情報が入ってきた。スイス駐在の海軍武官は、米国のヨーロッパ地域代表と称するアレン・ダレスという人物と実際に会見した。しかし、その報告を欧州担当の七課も八課も無視した。七課はソ連情報の収集を優先し、八課は英国情報を優先したからだ。
 そのスイスからの情報を拾い上げたのが、草野少佐だった。米国側の情報を分析し、アレン・ダレスという人物が欧州地域の情報機関の責任者であることを割り出し、日本の海軍武官とスイスで接触したという報告を見つけたのである。欧州担当の七課と八課に問い合わせると、スイスの海軍武官からの電文が発見された。草野少佐は、いくつかの情報をすりあわせて分析し、米国からの和平工作の動きとして上部に報告した。
 しかし、上部の判断は「アレン・ダレスという人物が和平工作に関して、どれほどの実権を持つのか不明である。敵の謀略の可能性がある」というものだった。その後、草野少佐はさらに情報を収集し、アレン・ダレスが国務長官代理のジョセフ・グルーとつながっており、ダレスと交渉を始めることで、和平交渉のとっかかりになると分析した。だが、草野少佐の再度の報告も無視される結果になった。
「整理してみよう。何者かを我が国に潜入させる計画を立て、実行した。一方、それを阻止したい勢力が存在し、情報を漏らし、上陸地点、上陸時間を類推できるような通信を傍受させた。上陸した人物たちは大磯に現れ、吉田茂元駐英大使に接触した。その後、彼らを怪しんだ兵士を射殺して逃亡。彼らが接触したと見られる吉田さんは、樺山侯爵、原田男爵と連絡を取り合い上京した」
「三人の動きは、わかっているのですか?」
「樺山侯爵は、外相と会って大磯に帰った。原田男爵は宮城で内大臣と会見して、やはり大磯へ帰宅。内大臣と会いたかったのか、陛下への謁見を申し込んで内大臣に断られたのかはわからない。吉田さんの動きは妙だ。近衛侯の荻外荘を訪ねて憲兵隊の監視をまこうとし、その後、飯田橋駅に現れた。そこから車に乗ったが、どこを訪ねたのかは不明。夕方、空襲で焼けた吉田邸を見て、外相の屋敷にいき、その後、娘婿の経営する麻生鉱業の寮に入った。明日も東京にいるらしい」
「飯田橋駅の後、誰と会ったかですね」
「憲兵隊では、吉田さんの監視と吉田邸の監視をしているらしい」
「焼けた無人の屋敷をですか?」
「吉田さんが大事にしている車は、そこにあるそうだ」
「ガソリンの入っていない車ですか。憲兵隊は、そこに何があると思っているのでしょうか?」
「わからん。ただ、重要視しているのは間違いない。二十四時間体制だそうだ」
 草野少佐は、もう一本たばこを取り出した。配給でしか手に入らない貴重な一本だった。

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