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2018年10月15日 (月)

●天皇への密使・第三章その3

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第三章その3

■1945年8月4日 14:20 東京・神楽坂
「それで、憲兵隊の司令部に連行されましたか」
 瀬川の声はひどく切迫していたが、こんな時にも自分には丁寧な言い方をするのだと京子は思った。
「車に乗せられて、連れていかれた。九段の憲兵隊司令部だと思うわ」
 打ち合わせ通り、神楽坂下に瀬川はいた。京子の姿を見つけると瀬川は神楽坂を登り始めたので、京子は少し離れて尾いてきた。途中、路地に入り、軽子坂に出て少し歩いた神社の境内に入る。京子も続いた。そこで足を止めて待っていた瀬川に、菅野が憲兵隊に連行されたことを報告した。
「拳銃は見つかったんですね」
「ええ、すぐに取り上げられたわ」
「大磯で兵士を射殺したことは、すぐに調べられるでしょう」
「傷をしているのも、すぐにわかるわ」
「彼が持っていたものは?」
 京子は、たすき掛けにしていた布の袋を肩から外した。絞ってある袋の口を、黙ったまま開いた。そこには、フィルムを入れたケースがあった。親書も一緒に入っている。
「吉田茂が、鈴木首相経由で届けろと指示してきたわ。これを鈴木首相に届ければ、そこから陛下に手渡されるはず」
 瀬川の顔が緊張した。京子も同じだが、日本にいれば天皇に対しては特別の感情が湧く。特に京子は小学校からご真影に対して遙拝を強いられ、徹底的に天皇家を敬う教育をされてきた世代だ。
「内容を聞きましたか?」
「ええ。あなたは?」
「詳しいことは何も」
「陛下への親書と、新型爆弾の爆破実験を記録したフィルムだとか。送り主は、元駐日大使のグルーだと言っていたわ」
「ジョセフ・グルー。今は国務次官です。陛下には、大使として着任した時から何度か謁見しているはずです。吉田茂や樺山愛輔とも親しい間柄ですね」
 その時、京子はヘンリーが彼女に親書とフィルムを託した理由がわかった。自分が捕まった時には、彼女に届けてほしいと願ったのだ。最初から捕まることを想定していたに違いない。必ず届けるわ、と京子はヘンリーの顔を思い浮かべて誓った。
「彼の名前は、ヘンリー・スガノ」
「えっ」
「彼の本名よ。ヘンリー・スガノ。昨夜、聞いたわ。お父さんは誠次、お母さんは貞。お兄さんはジョニーで、弟はフランク、姉はベティ、妹はマリー。五人兄弟だそうよ」
 瀬川が、じっと自分を見つめている。ヘンリーと家族の名前を教えあうような、親密な感情が通い合ったと思っているのだろうか。
「ジョニー・スガノ----」
 瀬川が何かを考えていた。しばらくして、再び口を開いた。
「彼が消息を知りたがっていた、兄の居所がわかりました」
「ほんと?」
「驚いたことに、軍令部の米国情報担当士官です。今は菅野丈太郎。調べると、第二次日米交換船で日本にきています。その時の名簿では、ジョニー・スガノ。日系二世となっていました。反米思想の持ち主として、日本に強制送還されたようです」
「兄弟が敵と味方に別れたのね」
「そうです。戦争がそんな皮肉な運命を背負わせたのです」
「でも兄弟は、兄弟だわ」
 京子は、とんでもないことを思いついた。賭けだったが、やってみる価値はあるように思えた。しかし、そのためには瀬川が危険に晒されるかもしれない。賭けるのは、瀬川の命になるからだ。
「その人に、救えないかしら?」
「何だって!」
「菅野丈太郎は、憲兵隊司令部から彼を救い出せないかしら。その人に憲兵隊に捕まった弟のことを話し、救い出してもらうの。でも、その場合、あなたは正体を明かさなければならないかも」
「無茶だ。無理です」
 京子は、瀬川が自分の正体を明かして菅野丈太郎に近づき、弟が憲兵隊に逮捕されたことを告げ、救出を依頼することを考えた。しかし、相手がどう出るかはわからない。瀬川を逮捕し、弟を見棄てるかもしれない。でも、別の方法がある。瀬川に頼らず、自分が菅野丈太郎と接触すればいいのだ。いや、連絡するだけでもいい。そして、瀬川に菅野丈太郎の動きを監視してもらう。彼がどう動くか、瀬川に見張ってもらえばいい。
「もっといい方法を思いついたわ。その人の所属は?」
「軍令部第三部第五課です」
「私、軍令部に電話する」
 京子のそのひと言で、瀬川には通じた。京子は軍令部に匿名で電話をし、菅野丈太郎に弟が憲兵隊に拘束されていることを告げるつもりだ。自分が電話することで、瀬川を危険にさらさなくてすむ。
「私たちには、手も足も出ない。軍令部情報担当の肩書きを利用して、菅野丈太郎が動いてくれる可能性に賭けてみるわ。一パーセントの望みでもあれば、やる価値はある」
 そう言い聞かせながら、一パーセントの望みもないかもしれない、と京子は思った。

■1945年8月4日 14:30 横浜・日吉
 菅野少尉は、受話器を取り上げた。
「菅野貞という女性から電話です」と、交換手が告げる。
 一瞬、絶句した。まさか----。
「つないでくれ」
 自分の声が、かすれている気がした。周囲を見渡すが、誰も菅野の反応を気にはしていない。
「もしもし」と、若い女の声がした。
「誰だ。きみは」
「菅野少尉ですか?」
「そうだ」
「菅野貞といいます」
「知っている。だが、私の知っている貞ではないし、そんなことはあり得ない」
「私は、菅野誠次の妻の貞。三人の息子とふたりの娘がいます。長男は、遠くにいきました」
 菅野少尉は、じっとりと汗が噴き出すのを感じた。八月の暑さのせいではない。受話器をおさえて、大きく息を吸い込んだ。
「何を知っている?」
「次男から、いろいろ聞きました」
「何だって?」
「彼は兄に会いたくて、同じところへいきました」
 信じられなかった。
「でも、九段に連れていかれました」
 九段? 憲兵隊司令部に連行されたというのか。ヘンリーは、アメリカ合衆国陸軍に志願した。自分とは反対の生き方を選んだが、それは弟の生き方であり、そのことにわだかまりはなかった。別れた時のヘンリーの顔が浮かんだ。
「あなたの力で救い出せませんか」
「誰だ。何者だ」
 声を潜めて問いただした。
「彼の母親です。何とかしたいけれど、私たちには無理。だから、あなたにお願いしています」
 弟は、一体何をしにきたのだ。まさか、あの電文の----。
「きみの言う通りかどうか、とにかく調べる」
「お願い、救って」
 女は声を作っていたが、突然、感情が露わになった。弟に対する強い思いが、女の声に含まれている。
「きみは----」
 後の言葉が続かなかった。この女は、弟の何なのだろう。
「お願い----」
 そう言うと、電話は切れた。菅野少尉は、しばらく受話器を耳に当てたまま動けなかった。女の言っていることはわかった。しかし、それが何を意味するのか理解できない。いや、理解することを拒否していた。考えられない事態に、自分が混乱しているのがわかった。まず、女の言ったことの真偽を確かめなければならない。
「草野少佐殿」と、菅野少尉は草野少佐の机の前に立った。
「何だい?」
「その後、憲兵隊の動きに変化はありましたでしょうか」
「今のところ、その後の連絡はきていないが----」
「最新の動きを把握したいのです」
 草野少佐は、不審そうな顔で菅野少尉を見上げた。身を起こし、椅子の背もたれに背中をつけて顔を上げる。
「どうした? いつもと様子が違うぞ。何を焦ってる?」
「申し訳ありませんが、憲兵隊司令部の現在の動きを把握したいのであります」
 草野少佐がまじまじと見つめる。菅野少尉の言葉遣いにも、違和感を感じているようだ。
「理由は言えんか。わかった。情報源に当たってみよう」
 そう言って、草野少佐は立ち上がり、部屋を出ていった。誰もいない別の部屋から連絡をとるつもりらしい。その後ろ姿を見ながら、〈この人になら本当のことを言ってもいいのではないか〉と菅野少尉は考えたが、すぐに打ち消した。そんなことは、できるはずがない。自分がこれから何をするつもりなのか、まったくわかっていなかった。菅野少尉は、混乱し、戸惑っていた。

「憲兵隊の動きがつかめたよ」
 三十分ほどして部屋に戻った草野少佐が声をかけてきた。ちょっと首を振る。別室へいこうということらしい。菅野少尉は、五課の部屋を出る草野少佐について出た。廊下の突き当たりに、物置代わりに使用している小部屋がある。ドアを開いた草野少佐は中を見渡し、一瞬、菅野少尉を振り返ってから足を踏み入れた。
「吉田さんの焼けた本宅跡を監視していたところ、挙動不審な男が現れて尾行し、拘束したらしい。三時間ほど前のことだ。憲兵隊は男を、昨日の朝、大磯の吉田邸の近くで兵士を射殺した犯人だと断定した。まず、服装が共通している。脇腹に銃創らしい傷を負っている。それに、九四式自動拳銃を所持していた」
 そう言うと、草野少佐はたばこを取り出し、一本を菅野少尉に差し出した。菅野は受け取り、たばこをくわえた。ポケットからマッチを出し、草野少佐のたばこに火をつけてから自分のにも火をつけた。
「その男は、今、憲兵隊司令部ですか?」
「そうだ。司令部で取り調べを受けている」
「何かしゃべったのですか?」
「いや、何もしゃべらない。その場合、憲兵隊がどういう方法をとるか。きみにも想像がつくだろう」
「拷問ですね」
「ああ」
「男については、まったく何もわかっていないのでしょうか?」
「持っていた身分証明などの書類は、偽造だった。そこに書かれていた名前は、カンノ・ヘイスケ、菅野兵介と書くらしい。二十五歳。住所は三月の空襲で焼けた下町になっていた。そうしておけば、調べられにくいと思ったのかもしれん」
 菅野兵介。名前を呼ばれた時に反応できるように、偽名だとしてもファーストネームを変えただけか。それをカンノと憲兵隊は読んだ。つまり、男は何もしゃべっていない。電話の女が言ったように、本当に弟なのだろうか。弟だとしたら、何の目的で日本に潜入したのか。あの電文の「鶴」が弟だったのだろうか。
「例の電文に関連しているのでしょうか?」
「可能性は大きいと思う。何らかの使命を帯びた米国の間諜かもしれん。『鶴』と称したのは、男が日系人だからだろう。どう見ても日本人としか思えないし、日本語もしゃべるらしい」
 そう言って、草野少佐はじっと菅野少尉を見つめた。
「カンノと読むのか、スガノと読むのか、本人が何も言わないらしいからわからんが、憲兵隊ではカンノと呼んでいる。しかし、菅野という名前は、そう多いものではない。偽名に使う時に、日本人の名前として浮かぶというものではあるまい。本来の名前に近いものを使ったのかもしれん。偽名は慣れていないと、うっかり失敗してしまう怖れがある。抜擢された理由が日本人に擬装できるということだったとすれば、間諜としての訓練を受ける時間がなかったのかもしれないな」
「男は、何か所持していたのでしょうか? 『菊』に渡すような何か」
「いや、拳銃だけだ。それで『菊』を狙うつもりではなかっただろうと思うが----」
「大磯で、もうひとり逃げた男がいましたね」
「ああ、今のところ、何もわかっとらん。捕まった男は平河町の吉田邸の焼け跡の前で、不審な動きをしたらしい。自分が囮になって監視を引き寄せ、別の人物が目的を果たした可能性がある。もうひとりの男が動いていると考えると、男の行動が理解できる」
「囮ですか?」
「一度は、憲兵の尾行をまいたらしいのだが」
「憲兵隊に捕まるのを覚悟していた?」
「敵国に潜入するのだ。死を覚悟しているだろう」
「少佐、私が憲兵隊を訪ねてもよろしいでしょうか」
「男に面会したいのかね」
 菅野は、すぐに返答ができなかった。自分がどんな顔をしているのか、わからない。弟の顔が浮かぶ。
「私から憲兵隊に協力要請をしておこう」と、草野少佐が言った。「その男は軍令部米国情報担当の五課にとって、国家の存亡に関わる非常に重要な情報を持っている可能性がある。身柄の引き渡しをお願いしたいところだが、とりあえず担当の人間を送るのでよろしく、とな」
 菅野少尉は、驚いて草野少佐を見た。
「問題なのは、男が兵士を射殺していることだ。おそらく、それは事実だろう。憲兵隊はそれを盾に、身柄引き渡しには応じないに違いない」
 もし弟だったとしたらおまえはどうする、と菅野少尉は己に問いかけた。あの女が言ったように、俺に救い出せるのか。草野少佐は、どこまで想像したのだろう。まさか、弟だとは思うまい。しかし、女が言ったように弟だったら、母の元に帰してやりたい、と菅野少佐は痛切に願った。

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