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2018年10月29日 (月)

●天皇への密使・第四章その1

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その1

■1945年8月5日 8:45 東京・本郷
 鈴木邸を遠くから見つめて、京子は大きく深呼吸をした。何事もなくあの屋敷に入れれば、使命を果たすことになる。鈴木首相は、本郷丸山町の私邸で長男と共に首相官邸に出仕する支度をしているはずだった。固辞し続けていた総理大臣職を鈴木が引き受けざるを得なくなった時、長男が首相秘書官としてつきそうことを選び、鈴木は常に長男と共に行動していた。
 慶応三年生まれで七十七歳という高齢ながら鈴木貫太郎が首相に指名されたのは、徹底抗戦を主張する陸軍をのらりくらりとした対応で懐柔できると思われたからかもしれない。しかし、鈴木は海軍出身で連合艦隊司令長官を務めた硬骨漢であり、その後、侍従長として天皇の近くに仕え、天皇の厚い信頼を得ていた。天皇は、父親ほど年の差がある鈴木を愛した。
 四月に小磯内閣を引き継いだ鈴木首相は、すぐにルーズヴェルト大統領の死に遭遇し、共同通信社の短波放送を通じて哀悼の辞を米国国民に向けて送った。その月末には愛人エヴァ・ブラウンと共に自殺することになるアドルフ・ヒトラーが、死んだルーズヴェルト大統領を罵る声明を出したのとは対照的だった。
 しかし、鈴木内閣が発足した時から多くの人間が、「鈴木内閣の使命は、戦争を終わらせることではないか」と疑っていた。鈴木内閣を「バドリオ内閣」と呼ぶ人間たちもいる。二年前の一九四三年七月末、イタリアのムッソリーニは失脚して拘束され、首相となったピエトロ・バドリオは連合国側と秘密裏に休戦交渉を進め、九月には休戦協定が結ばれた。
 しかし、その動きを察知したヒトラーは、イタリアに進駐しローマを占領する。南部に逃げたバドリオ政権は、十月に日独伊三国同盟を破棄しドイツに宣戦布告したため、ヒトラーに支えられたムッソリーニ政権との内戦状態になる。そして、昨年六月、ローマは連合国側によって解放された。
 しかし、三国同盟を破棄し、連合国側と秘密裏に終戦協定を結んだバドリオ政権は、日本においては「裏切り者」としてとらえられており、「バドリオ」という名前を人々は侮蔑的に口にした。「鈴木内閣はバドリオ政権ではないか」という言葉には、勝手な終戦工作は許さないという意味があり、特に陸軍はその動きを警戒し、憲兵隊は鈴木内閣の和平派閣僚を監視していた。
 鈴木は二・二六事件の折り、侍従長を務めていたため「君側の奸」として反乱軍に狙われ、安藤輝三陸軍大尉率いる兵士たちに官邸を襲撃された。鈴木は股間と左胸と頭部左など四カ所に被弾し、士官がとどめを刺そうとした時、夫人が血まみれの夫をかばったため、指揮官の安藤大尉は礼をして去った。その後、瀕死の重傷だった鈴木は、奇跡的に命をとりとめたのだ。
 その数時間前、鈴木夫妻は在日アメリカ大使のグルー夫妻が催したアメリカ大使館での晩餐会に出席し、トーキー映画を楽しみ、夜遅くグルー大使夫妻に見送られて帰宅したところだった。グルー大使は、鈴木の奇跡的な回復を喜んだ。そのことは、グルー本人が「滞日十年」の中で書いていると、京子はヘンリーから聞いていた。その鈴木首相に、京子は親書とフィルムを託せばいいのだ。
 京子はリュックを背負い、ゆっくりした足取りで鈴木邸の勝手口をめざした。勝手口の前に立った時、どこからともなくふたりの憲兵が姿を現した。やはり、監視されていた。
「女、このうちを訪ねるのか?」
「はい」と、おどおどしながら京子は答えた。
 いきなり憲兵に声をかけられ、怖れを見せない者はいない。憲兵は、京子の胸の名札を確認するように見た。
「茅ケ崎から? 何の用だ」
「こちらで、女中を探しているというので----」
「誰から聞いた」
「大磯の吉田様の屋敷で女中をしている者がご主人から相談され、私をこちらにご紹介いただいたのですが」と、住所を知られたため京子は大磯を強調して答えた。
「何、吉田だと!」と、もうひとりの憲兵が言った。
「おい、そのリュックの中を見せてみろ」と、目の前の憲兵の口調が変わった。
 あえて吉田茂の名を出したことが、裏目に出たのだろうか。

■1945年8月5日 9:00 九段
「軍令部の菅野少尉が、あの男との面談を求めてきております」と、受付の部下から連絡が入った。
 またか、と古沢中尉は不機嫌になった。男の引き渡しを要求して、軍令部の草野少佐から神山大佐に再び連絡が入ったことは聞いていた。菅野少尉の上官か、と古沢中尉は思った。菅野少尉の顔が浮かぶ。何かが、古沢中尉の中で引っかかっていた。あの男の名は、どうせ偽名だろうが、菅野と名乗ったのは、なぜだろうか。同じ名の少尉がやってきたのは、単なる偶然なのか。
「取調室で待たせておけ」と、古沢中尉は答えた。
「それが、神山大佐との面談を求めております」
「大佐と?」
「はい。軍令部の草野少佐から話は通っているはずだと----」
「わかった。大佐と話してみる」
 何もわかっていないあのバカは、何か軍令部に約束したのだろうか。古沢中尉は立ち上がり、神山大佐の机に向かった。神山大佐の前で直立し、踵を合わせて軍靴の音を高くたて、「神山大佐殿」と声をかけて敬礼をした。あえて大仰に見せる。その皮肉に気づかず、神山は単純に喜ぶ。
「何だ?」
「軍令部の菅野少尉が、またきております」
「ああ」
「神山大佐殿との面談を求めているとのことです」
「それで、どこにいる?」
「取調室で待たせておけと命じました」
「では、私が引導を渡そう」
「引導?」
「引き渡すことはできん、と言ってやる」
「軍令部には何も?」
「きみに話したと思うが、草野少佐という男からまた連絡があった。米国に関する重要な情報を、あの男が持っているから引き渡してほしいとな。しつこく言ってきた。だが、ダメだと言ったのだ」
「では、なぜ」
「もう一度、尋問を試みたいらしい。そこに、私に立ち会ってほしいというのだ。男が何か話したら重要情報の一部だと騒いで、私に引き渡しを求めるつもりなのだろう」
「では、私が立ち会います」
「向こうは、責任者の立ち会いを求めておる。貴様が出る幕ではない」
 どうも、ご機嫌を損なったようだった。
「すぐに、あの男を取調室に連れてこい」
 そう言うと、神山大佐は靴音をたてて部屋を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、何となくイヤなものを古沢中尉は感じていた。

 神山大佐が部屋を出ていき十分ほど経った頃、古沢中尉の机に富田曹長が息せき切ってやってきた。敬礼もおざなりに、口を開く。
「中尉、菅野少尉を調べたら、ありゃ反米的だとして米国から強制送還された日系二世です。第二次日米交換船できて、志願して海軍軍令部に配属されました。米国通として米国情報を担当していますが、こりゃあ、怪しいですぜ」
 古沢中尉は、富田曹長の上官を上官とも思わない口の利き方も気にならなかった。あの男が菅野と名乗ったのは、理由があった。菅野と名乗ることで、何らかの発信をしていたのだ。菅野兵介という名前で、あの少尉が気づいたのだ。こちらの動きが、軍令部に筒抜けなのは以前から気づいていた。あの男の名前も、軍令部は知ったのだ。それで、菅野少尉がやってきた。
 その時、門の方が騒がしくなった。ドタドタと人が走りまわる音がする。ひとりの憲兵が部屋に飛び込んできた。
「大変です。軍令部の少尉が神山大佐を人質にして、捕虜を連れ去ろうとしています」
 その瞬間、それほどまでして菅野兵介を軍令部に連行したいのか、それほどの情報を持っているのか、という考えが古沢中尉の頭をよぎった。いや、あり得ない。菅野少尉と菅野兵介には、個人的な関係があるに違いない。菅野兵介が我が国に潜入した米国の間諜だとしたら、日系二世の菅野少尉と何らかの関係がある。それが、やつが菅野と名乗った理由だ。
 古沢中尉は廊下へ走った。富田曹長が拳銃を握りしめ、後を追った。

■1945年8月5日 9:10 東京・本郷
 鈴木貫太郎が官邸に出かける準備をしていると、女中が勝手口に女中の候補だという女がきていると告げにきた。女中を探していると聞いていなかったので、彼女は少し不満そうである。まさか、自分に代わる者ではあるまいと思っているようだが。
「吉田茂様にご紹介いただいて、と申しております」
「何、すぐに面接する。応接に通しておきなさい」
「旦那様、ご自身でお会いになるのですか」
「ああ、すぐにな」
 鈴木は、昨日一日、待ち続けた。吉田からは何の連絡もなく、今朝になってようやく電話が入り、「使いの者に事故があった」と吉田は言った。盗聴を警戒しているようだった。「届け物は、届かないかもしれない」と吉田は言って電話を切った。しかし、今、吉田の紹介という者がきている。女がくるとは予想していなかったが、何らかの事情があるのだろう。
 応接室に入ると、若い娘がもんぺの膝をきちんとそろえて座っていた。白い半袖の開襟シャツが女学生のように見せている。実際、本当の女学生なのかもしれない。横にリュックを置いてあった。
「吉田くんからの紹介だって」と、鈴木は声をかけた。
「はい」と、娘は立ち上がる。
「貞永京子くんか」と、鈴木は名札を見て言った。「昔、貞永さんという法律学者がいた。お会いしたことがある。もしかしたら、きみは?」
「娘です。父は亡くなりました」
 鈴木は、娘の厳しい表情に何も言えなかった。座るように手で示し、自らもソファに腰を下ろした。
「そうか、気の毒に。空襲で?」と、ようやく口にした。
「いえ、憲兵の拷問で体を弱らせました」
 鈴木は、再び言葉を失った。娘の言葉に含まれた、強い憎しみを感じたのだ。
「それは、お気の毒に。それで、吉田くんの紹介というのは----」
 娘は立ち上がり、背中に手をまわしてもんぺからシャツを引き出し、何かを取り出した。四角いケースのようだ。それからシャツの胸から白い紙に包んだものを取り出し、テーブルに並べた。別々に身に着けていれば、どちらかを発見されても、もう一方は隠しおおせるかもしれないからだろう。
「グルー大使の親書と、新型爆弾の実験を記録したフィルムです」
 そう言いながら、娘は白い包み紙を外し封筒を出した。本当に存在したのか、と鈴木は唸った。吉田の話を信じていないわけではなかったが、実際に目にすると、不思議なものを見るような気持ちだった。
「きみがなぜ、これを?」
「これを持ち込んだ人は、憲兵隊に捕まりました。私が、その使命を引き継いだのです」
「よく、これを持って、ここにこれたね。外には憲兵の監視があっただろうに」
「ええ、リュックの中を見せろと言われました」
「それで?」
「リュックには、野菜しか入れていません。フィルムはかさばるのですが、リュックを背負っていれば、シャツの背中に入れておいても目立ちません。リュックを下ろすとまた背負うのが大変だからと、憲兵には背負ったまま中を見せました。さすがに女の私の体までは調べませんでした」
「きみは、この手紙の内容とフィルムに何が写っているか、知っているのかね」
「詳しくは知りません。これを運んできた人は、ワシントンを出る前にフィルムを見たそうです。その新型爆弾の爆破実験を見れば、すぐにでも日本は降伏するはずだ、と彼は言いました」
 鈴木は、腕を組んだ。吉田が言ったように、国体の維持が保証され、ソ連の参戦が本当なら、それだけでポツダム宣言即時受託に持ち込める。新型爆弾が原子爆弾だすれば威力は計り知れない。記録フィルムには、その爆破実験が写っているという。しかし、フィルムを陛下に渡せるかどうか。親書だけなら上奏の折りに手渡せるだろうが、フィルムのように目立つものを渡すとなると木戸内大臣がどう反応するだろうか。
 今年の初めまで、木戸内大臣は軍部の報告以外、陛下への謁見を許可しなかった。戦況が厳しくなり、陛下の意向もあって今年二月に重臣たちを謁見し、現況についての意見を聴取したが、その時、近衛文麿でさえ三年ぶりの謁見だったのだ。その折の近衛上奏文の内容が憲兵隊に伝わり、四月には吉田茂が起草に協力したとして逮捕された。近衛の謁見には木戸内大臣以外は立ち会っていなかったことから、木戸から軍部へ上奏の内容が伝わったとしか考えられなかった。
 しかし、陛下から特別に鈴木が首相に指名された理由は、木戸内大臣もわかっているはずだ。今の鈴木は、緊急であっても陛下に謁見できる立場だった。だが、フィルムは手渡しできるかどうか。陛下は活動写真が好きで、かつては弟君の高松宮などを招き定期的な上映会を宮中で開いていた。だから、映写の設備は整ってはいるが----。
「その新型爆弾は、いつ落とすというのかな?」
 鈴木は原子爆弾であることについては、まだ半信半疑だった。日本の学者たちも原子爆弾の原理を研究し、その威力は未知ではあるものの想像を絶するとは聞いていた。しかし、彼らは、まだまだ開発は無理だと断言した。それを、米国は本当に開発したのだろうか。
「わかりません。すでに準備はできていて、いつでも落とせるようです。グルー大使は事前に日本に警告すべきと主張したそうですが、大統領が受け入れなかったとか。今日にでも落とされるかもしれません。だから、早急にポツダム宣言を受諾してほしいと、陛下に親書を託したのでしょう」
 鈴木は、もう四年近く会っていないグルー大使の顔を思い浮かべた。物静かな教養のある紳士だった。信頼できる人物だった。陛下もグルー大使の親書なら信頼するだろう。
「早急に陛下にお会いして、親書をお渡ししよう。しかし、フィルムは親書を読まれた後に、改めて陛下からのご要望を受けたうえでお渡しすることになるかもしれん。すべて、私が預かっておく」
「わかりました。間違いなく届くのであれば、私の役目は終わりました。これで失礼します」
「ああ、それで。女中の件は?」
「もし、また憲兵に止められたら、採用されなかったと答えます。だから、このリュックの中身はそのまま持ち帰ります。採用されたら、挨拶代わりに差し上げるつもりのものだと憲兵に説明しましたから----」
「そうか、それは残念だな」と、鈴木は本当に残念そうな声を出した。
 首相だといっても、食糧難は庶民と同じなのかもしれない、と目の前の老人を見つめて京子は思った。一国の首相としての立場上、闇の食料に手を出すようなことはしそうには見えなかった。そんな一本気で、実直そうな印象があった。

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