« ●天皇への密使・第四章その5 | トップページ | ●天皇への密使・第四章その7 »

2018年11月15日 (木)

●天皇への密使・第四章その6

現在、六巻目の「映画がなければ生きていけない2016-2018」出版準備中で「映画と夜と音楽と----」は休載し、冒険小説「天皇への密使」を連載中です。実在の人物が多く登場しますが、すべてフィクションです。

●天皇への密使・第四章その6

■1945年8月5日 16:00 茅ヶ崎
「兄さん」と、ヘンリーは菅野少尉であるジョニー・スガノを抱き上げて呼んだ。
 もう何度めになるだろう。何度呼んでも、兄は目を開かない。心臓は止まり、息はしていない。死んだのだ。背中に二発の銃弾が命中し、一発は心臓を貫いていた。あの時、もっと早く兄を車に引き上げていれば、と何度もヘンリーは思った。兄は、命がけで救いにきてくれたのに----。
 拷問で意識が薄れていたヘンリーの前に、日本の軍服を着た兄が現れた時は幻想だと思った。願望が幻を生んだのだ、と信じられなかった。兄に会いたいと願っていた。日本に潜入するミッションを引き受けたのも、もしかしたら兄に会えるかしれないと考えたからだった。その兄が現実に目の前にいるとわかった時、ヘンリーは日本に潜入したひとつの目的を果たした。
 日本海軍の軍服を身に着けた兄が自分を逃がそうとしているとわかると、ヘンリーは兄の身を案じた。憲兵隊の本部から逃亡するのは不可能だ。だが、兄は再びやってきた。命をかけて、弟を救い出すために、たったひとりで憲兵隊司令部に乗り込んできたのだ。あの古沢中尉さえいなければ、兄も死なずに逃げ切れたのに----。
「ここだ。彼女に教えてもらった洞窟がある」
 瀬川が車を止めた。田舎道の両側には、夏草が生い茂っている。
「そこで夜まで身を隠す。菅野少尉もそこまで運ぼう」
 なぜ、瀬川が兄と一緒にやってきたのか。ここまでの長い道中、車の中であらましは聞いていた。兄が軍令部で米国情報を担当していたこと。それを偶然に知ったこと。京子が兄に電話をしたこと。弟が憲兵隊に逮捕され、兄弟であることがわかると、兄にもスパイの嫌疑がかると半ば脅し、救出に協力させたと、瀬川は運転しながら話してくれた。
 ヘンリーが兄を後部座席から下ろすと、瀬川は再びエンジンをかけ、夏草の茂る野原に車を乗り入れた。車が夏草をなぎ倒す。道から数メートル乗り入れて止め、瀬川は降りると倒れた周囲の夏草を立てた。車が通った跡を修復する。しばらくすると、背の高い夏草が車を隠し、道から見ただけではわからなくなった。
「こっちだ。運ぼう」
 そう言って、瀬川は兄の左手を持ち上げ自分の肩にまわした。ヘンリーも兄の右手を自分の肩にまわし、ふたりは歩き始めた。ここまで長く走ってきたが、憲兵隊の追跡はどうなっているだろう、と考えた。大磯で兵士を射殺したことから、彼らも大磯から平塚・茅ヶ崎にかけての地域を逃亡先として推定するかもしれない。
 洞窟の入り口は、すぐにはわからなかった。高さ一メートル、幅五十センチほどの裂け目で、やはり夏草がおおっている。瀬川が先に潜り込んだ。瀬川の手が伸び、兄の両肩をつかんだ。ヘンリーは、兄の足を持ちあげる。兄を運び入れると、ヘンリーも続いた。狭い入り口だったが、中は意外な広がりがあった。立ち上がっても余裕があり、奥行きは五メートルほどあった。たくさんの石ころが転がっている。
 ヘンリーは、兄の遺体を一番奥に横たえた。着ていた国民服の上着を脱ぎ名札をはぎ取ると、それで兄の頭部を包んだ。石ころを拾って積み上げ、兄の体を隠していく。黙って見ていた瀬川が手伝い始める。
「必ず帰ってきて、兄さんを弔うからな」と、ヘンリーは語りかけた。
「ここなら、しばらくは見つからないだろう。いずれ、彼女に火葬にしてもらおう」と、瀬川が言った。
 兄の遺体を焼く京子の姿が浮かんだ。なぜか、背景は海に沈んでゆく夕日だった。それから骨壺を抱く京子、その骨壺を受け取る自分の姿が浮かんでくる。これは、そうありたい未来を想像しているのだろうか。
「俺が死んだら、やっぱり火葬にしてもらおう」
 ヘンリーは、そう口にした。瀬川が振り返るのがわかった。
「兄さんが命をかけて助け出したんですから、生き延びるんですね」
「生き延びても、母に何て言えばいいんだ」
「あなたが死ななければ、お母さんも喜びます」
 ヘンリーは、瀬川を見た。
「兄は、なぜ、危険を冒してまで----」
「車の中で話したことは、半分の事実です。あなたを助け出すのは肉親の情だったのでしょうが、そのためだけで彼は裏切ったのではないと思います。私の脅しに屈したように言いましたが、それはおそらく違います」
「どういうことだ?」
「菅野少尉は、米国のスパイだったと思われます」
「本当か?」
「私はジョニー・スガノが菅野丈太郎として軍令部にいることを知り、組織の上部に彼の調査を依頼しました。しかし、すぐに『彼には触るな』と警告がきました。その時にわかりました。お兄さんは、スパイだと。だから、私はお兄さんに話を持ちかけたのです。脅迫めいたやり方で彼を追いつめた時、彼はあなたを救出することにはためらいなく賛同しました。もちろん、弟を思う強い気持ちがあったからでしょうが、自分も同じ側に立っていたのだと、わからせたかったのではないでしょうか」
「兄さん」と、ヘンリーはこんもりと盛り上がった石の山に手を合わせ、首を垂れた。
「京子さんは、あなたが捕まった時、お兄さんなら何とかしてくれるのではないかと、無我夢中で電話をしました。それが、結局、あなたを救うことになったのです」
「彼女は、大丈夫なのか?」
「たぶん、今頃はあなたから引き継いだ使命を果たし、自宅に帰っているはずです。夜の道を案内してくれるので、十一時前にはここにきてくれることになっています」
「彼女に、また危険を冒させるのか」
「彼女の希望です。あなたを憲兵隊司令部から救い出せたら、ここで身を隠し、夜、予定時間に海に出る。彼女は、あなたが無事に帰還するのを確認したかったし、見送りたかった。いや、あなたにもう一度会いたいのでしょう」
 瀬川の口調には、複雑な気持ちが表れていた。その中には、たぶん嫉妬もある。
「きみは、彼女を愛しているのか?」と、ヘンリーは訊いた。
「愛しています。ずっと前から」
「そうか」
「あなたは、どうなんです。あなたが捕まった後の彼女は、ふつうではありませんでした」
 瀬川がじっと見つめてくる。ヘンリーは何も言えなかった。愛しているか。そう、愛しているのだ。あの夜、様々な鬱屈を吐き出すように、彼女にこの数年の出来事を話した。特にヨーロッパ戦線での経験。未だにうなされる指を失った時のこと。気がつくと、彼の中から何かが解放されていた。目の前の女性を愛おしく思った。
「返事はいいです。あなたの顔を見ていて、わかりました」
 そう言うと、瀬川は立ち上がった。
「日のあるうちに、車を返してきます。夜に走っていると、目立って仕方がないですから」
「どこへ?」
「大磯の吉田邸。あの車は、わざわざイギリスから運んできたものだそうです。それほど気に入っているのでしょう。大磯の吉田邸の前に乗り捨ててきますよ。ここに隠しておくと、いつまでも見つけられないかもしれないですから」
「律儀だな。監視されているかもしれないぜ」
「気をつけます」
「武器は?」
 ヘンリーは人質の大佐から奪った拳銃を取り出し、顔の前にかざしながら瀬川に訊いた。
「あなたのお兄さんの拳銃が、車の中にあります」
 瀬川は、身を屈めて出ていった。ヘンリーは銃創と拷問によって痛めつけられた体を横たえ、目を閉じる。京子の面影が浮かんできた。その時、瀬川は自分が囮になるつもりではないかと気づいた。吉田邸に車を戻しにいけば、途中で目撃されるだろうし、憲兵たちは車を発見した場所を中心にした地域に隠れていると考える。彼らの目は、吉田邸に向けられるかもしれない。
 うまく憲兵に見つからなかったとしても、車を吉田邸の近くに乗り捨て、暗い道を徒歩で一時間以上かけて戻らなくてはならない。瀬川は、危険を承知で出ていったのだ。あの男の方が京子を幸せにするだろう、とヘンリーは思った。少なくとも、俺のような人殺しではない。

« ●天皇への密使・第四章その5 | トップページ | ●天皇への密使・第四章その7 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/597837/67383001

この記事へのトラックバック一覧です: ●天皇への密使・第四章その6:

« ●天皇への密使・第四章その5 | トップページ | ●天皇への密使・第四章その7 »

無料ブログはココログ
2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31