映画・テレビ

2017年8月17日 (木)

■映画は理想を描きたい


以下は、昨年、高知の県立美術館ホールでの「ヒマラヤ杉に降る雪」上映会で依頼されて、一時間ほど話をした時のノートです。そう言えば、最近、サム・シェパードも亡くなってしまいましたね。

■映画は理想を描きたい

十数年ほど前のことですが、アメリカの映画協会が映画史上のヒーローの投票をし、順位をつけたことがあります。そのとき、インディ・ジョーンズもジェームズ・ボンドもランボーもおさえて一位になったヒーローは、アティカス・フィンチという人物でした。みなさん、ご存知ですか。

彼は南部の弁護士です。一作しか登場しませんが、良識的なアメリカ人の誇りとなっています。彼は、ハーパー・リーが書いた「アラバマ物語」の主人公です。映画化されたのは、一九六二年。まだ、南部では『ホワイト』と『カラード』という表示がレストランやバスやトイレなどに貼られていた時代です。日本人も、もちろん『カラード』になります。

私が 「アラバマ物語/to kill a mockingbird」を初めて見たのは、小学生の高学年だったと思います。テレビ放映でしたが、いたく感動しました。原作は暮らしの手帖社から今も発売されています。原作本の表紙は、映画で主人公の娘スカウトを演じた少女の写真です。映画は、大人になった主人公が少女時代を回想する形で語られます。

一九三二年、大恐慌まっただ中のアメリカ南部が舞台です。スカウトは六歳。少し年上の兄がいて、父親は弁護士。面倒見のよい黒人のハウスキーパーがいて、子供らを厳しくしつけています。

父親を演じたのがグレゴリー・ペックです。「ローマの休日」からほぼ十年、ペックは少し歳を取って落ち着いた感じになり、相変わらず誠実そうな人柄をスクリーンで見せてくれます。ペックは長く大根役者(アメリカではハム)と言われましたが、「アラバマ物語」のアティカス・フィンチ役で、ようやくアカデミー主演男優賞を獲得します。

「アラバマ物語」でペックが演じたのは、妻に先立たれてふたりの子供を育てながら田舎町で弁護士を営む男です。彼には知性と教養があり、真面目で誠実な人物です。穏やかで落ち着いた話し方をし、感情を露わにせず、そのくせ堅物ではなくユーモアに満ちています。

子供たちには愛情に溢れた理解のある父親だし、誰にも偏見を持たず公正に接しています。また、町の中に現れた狂犬を射殺するシーンでは、射撃の名手だったことが判明しますが、そのことを誇らない奥ゆかしさも描かれます。

彼はリベラルな考え方をする人間で、「偏見」という頑迷な呪縛から解放されています。一九三〇年代のアメリカ南部の白人としては、とても珍しい存在かもしれません。彼は黒人の青年が白人女性をレイプしたとして告発されている事件で、判事の頼みによって黒人の弁護を引き受けます。

一九三〇年代のアメリカ南部。その頃、黒人たちがどのように迫害され差別されていたのか私にはわかりませんが、白人たちのリンチに遭い木に吊るされた黒人の死体を「奇妙な果実」と歌ったビリー・ホリディの名曲「ストレンジ・フルーツ」が録音されるのは一九三九年のことでした。

誰も引き受け手のなかった黒人レイプ犯の弁護を父親が引き受けたがために、主人公の少女は学校でいじめられ、彼女は「なぜ、引き受けたの」と父親に問います。まだ幼い娘に父親は「自尊心を保つため」と正面から答えます。

それは彼の信念であり、生き方のスタイルです。困難な弁護になることはわかっているし、町の人々から非難されるだろうことも予想できました。だが、彼は引き受けます。なぜなら、自尊心をなくさないでいたいから----

無知と偏見と愚かさと、いわれのない敵意に充ちた南部社会の中でペックは誇りを失わず、「黒人びいきめ」と唾をかけられても毅然とした態度を崩しません。ペックが演じる弁護士は、私が考える理想の人物でした。

そんな非の打ちどころのない人物は、とかく聖人のように描かれ血肉の通わない非人間的なものになってしまいがちですが、ペックはそんな理想的な人物が現実の世界で生きているのだと思わせてくれます。

私は「アラバマ物語」を何度見たかわかりませんが、十七年ほど前からは「アラバマ物語」を見ると、私はもうひとりの父親を思い出すようになりました。「ヒマラヤ杉に降る雪」(一九九九年)の主人公(イーサン・ホーク)の父親(サム・シェパード)です。

第二次大戦に出征し日本軍と戦って片腕を失った主人公は島へ帰り、父親が発行し続けた新聞社を継いでいます。彼は社主であり記者であり印刷工でもあります。ある日、彼は日系人の漁師が殺人罪で起訴された法廷を取材する。太平洋戦争終結から間もない頃、日系人に対する偏見はまだ払拭されていません。

その被告人の妻は、今でも彼が愛している日系女性です。彼は少年時代から彼女に憧れ、いつか森の中で密会する間柄になっています。しかし、日系人と白人という違い、太平洋戦争の勃発、その後の日系人の隔離政策などによって彼らは結ばれない。

WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)っぽいイーサン・ホークと工藤夕貴のラブシーンは見ていて少し違和感がありますが、描き方に工夫があり見応えのあるラブストーリーになっています。特に少年少女の時代のエピソードは心に沁みるものがあります。

主人公の父親は戦前から島の新聞社を運営しています。彼はリベラルで公正で、偏見からは最も遠いところにいる人物です。時は一九四一年を迎え、真珠湾攻撃が起こり、日系移民たちが迫害される。その時、公正な立場から日系移民には何の罪もないことを彼は自分の新聞でキャンペーンを張ります。

しかし、そのことによって新聞は購読拒否に遭い経営難を迎える。彼の家には嫌がらせの電話がひっきりなしにかかってくる。自宅に石を投げ込まれる。「日本人びいき」と町では誹られる。しかし、彼は自分の信念を曲げない。日系人がアメリカ政府の命令によって強制収容され、自分の土地を奪われることを彼は正義ではないと説きます。

その父親も死に、主人公は父親の偉大な幻影を感じながら同じ道を歩んでいます。取材先で出会う人々は「立派なお父さんだった」と彼に言う。誇らしい反面、彼は自分自身に忸怩たるものを感じている。彼にとって父は決して越えられないライバルなのです。彼は独自に調査を続け、殺人で告発されている日系人の漁師にとってのある事実を発見します。彼は、その事実をどうするでしょう。それが、サスペンスを醸し出します。

彼は日本人の攻撃で死に瀕し片腕を失った。彼の恋人は日系の男に奪われた……。彼は日系人に対する自らの感情を手探りします。〈俺は日本人を憎んでいるのだろうか……〉と。その時、彼は思ったはずです。〈父だったらどうするだろう〉と。彼にとって父親は指針です。あるいはひとつの価値観です。理想を求めた父親の生き方は、間違いなく子供に伝わっています。

「アラバマ物語」は黒人に対する迫害と偏見、「ヒマラヤ杉に降る雪」は日系人に対する迫害と偏見がテーマになっています。共に法廷ドラマを核に物語が進行し、意外などんでん返しがあり、悲しくせつない結末があります。

この両方の映画に共通して出てくる醜い人間たちがいます。偏見に凝り固まり、己の欲に無自覚な人間たちです。黒人の弁護を引き受けたグレゴリー・ペックを誹る男たち、日系人を正当に扱ったゆえにサム・シェパードを非難する狭量な人間たち、日系人の弱みにつけ込み土地をだまし取り「だってあいつらは敵国の人間よ」と自己を正当化して恥じない女たちです。

グレゴリー・ペックはユダヤ人に対する偏見をテーマにした「紳士協定」(一九四七年)という映画にも出演しています。ジャーナリストの役で、彼はユダヤ人に対する偏見をレポートするために「実は僕はユダヤ人」という嘘のカミングアウトをして人々の反応を見ます。そのことによって、彼はひどい迫害、選別、差別を受けるのです。

見るからにWASP風なペックだから、ユダヤ人だとわかってからの相手の態度の変化が見られるのがこの映画の面白さです。彼らは豹変します。偏見を持つ人々は普段は紳士や淑女然としていても、相手がユダヤ人だとわかった途端にソワソワし落ち着かない。皆、一様に醜い表情に変わります。

人種偏見はアメリカだけの話ではありません。コリアン・ジャパニーズを自称する金城一紀の直木賞受賞作「GO」の中に出てくる恋人の父親は、金持ちでインテリで教養もありリベラルな振りをしていますが、「韓国人の血は汚れている」と平気で口にする、やはり醜い人間です。

主人公は、日本人の恋人に在日韓国人であることを告白できない。初めて彼らがセックスをしようとする直前、主人公はそのことを告白します。その時、ヒロインは心ではわかっていても、肉体が相手を拒絶していることに気付きます。「GO」は若いふたりが、偏見という実体がないくせにやっかいなものをどう乗り越えるかがテーマでした

2001年9月11日のニューヨーク貿易センタービルへのテロ事件以来、アメリカではアラブ系移民に対する緊張感が高まったそうです。真珠湾攻撃後の日系人に対する迫害を、そのことに重ねて論じるジャーナリズムもありました。半世紀以上たっても、人間の社会はそうしたことを未だに乗り越えられません。

映画はそんな人間の醜悪さを具体化して見せてくれます。「黒人びいきめ」とペックの顔に唾を吐きかける白人男の醜さ、黒人をリンチしようと集まってくる白人たちの下卑た顔、「白人のくせに日系人の味方をするのか」とサム・シェパードの家に石を投げ込む人間たちの卑劣さ、それを映像の力で見せてくれます。

「アラバマ物語」を見て、偏見に満ちた男たちに感情移入する人間はいないと思います。「ヒマラヤ杉に降る雪」を見て、自分もサム・シェパードの家に石を投げ込みたいと思う人間はいないでしょう。

私は、映画や本の効用を信じている人間です。そして、映画は理想を描くべきだとも思っています。私が神と仰ぐフランスの映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルはこう言っています。

──映画は夢を描くものだ。
私の映画は、もし私だったらこういうふうに行動したいという願望から作られている。

ギャングが主人公なら「こうありたいギャング」を描き、殺し屋が主人公なら「こういう風に行動したい殺し屋」を描いたメルヴィルです。そういう広い意味で、僕は映画は理想(夢)を描くべきだと思っています。理想(夢)を求めないで、どうして人間は成長できるでしょうか?

2017年8月 3日 (木)

■映画と夜と音楽と…783 大量虐殺者の素顔



【アイヒマン・ショー:歴史を映した男たち/ハンナ・アーレント/サウルの息子】

●十歳にもならない小学生たちも「アイヒマン」という名前を知っていた

アイヒマンが何者か知らないのに、「アイヒマン、アイヒマン」と口にして騒いだ。人の名前だとは思えず、何かの怪物だと思っていた節もある。それがユダヤ人を大量虐殺したナチの将校だと理解したのは、ずいぶん後のことだ。それでも、当時、十歳にもならない小学生たちも「アイヒマン」という名前を知っていた。一九六一年の初夏。僕は小学四年生で、まだ九歳だった。前年の暮れ、教室の後ろでおしくらまんじゅうをしながら、意味もわからず「アンコ反対、アンコ反対」と騒いでいたのと同じだった。その頃、僕らがテレビで夢中になっていたのは「月光仮面」や「七色仮面」「少年ジェット」などだった。しかし、もしかしたらイスラエルで行われていた「アイヒマン裁判」の映像は、日本のテレビニュースでも流れたのかもしれない。

「アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち」(2015年)は、アイヒマン裁判をテレビ中継し、その映像を世界中に配信した男たちの物語である。今も記録映像として残るアイヒマン裁判の様子は、彼らによって撮影されたのである。もちろん、この映画にも実際のモノクロームの記録映像がふんだんに使われている。カラーの横長画面がスタンダードサイズのモノクロ画面に頻繁に切り替わるが、そんなことはまったく気にならない迫力が画面から伝わってくる。また、検事側の証人として出てきたホロコーストを生き延びたユダヤ人たちの証言は、記録音声として俳優たちが演じるフィクション部分に重なるが、その衝撃的な内容は強く見る者に迫ってくる。

アメリカ人テレビ・プロデューサーのミルトンがイスラエル政府にアイヒマン裁判のテレビ中継の許可を取るところから物語はスタートした。前年、アルゼンチンでイスラエルの諜報機関(モサド?)によって逮捕されたアドルフ・アイヒマンのニュースは世界を駆けめぐり、彼がイスラエルのエルサレムの法廷で裁判に掛けられることは大きな話題になっていたのだ。日本からも新進気鋭の芥川賞作家である開高健がイスラエルにわたり、アイヒマン裁判を傍聴しその記録をまとめた。開高健は、その後、アウシュビッツ収容所を訪ね、さらに東欧諸国をまわり、岩波新書で「声の狩人」「過去と未来の国々」というルポルタージュを発表する。

時代は一九六一年だ。まだまだテレビの映像技術は発達していない。しかし、ミルトンは世界中にアイヒマン裁判の様子を知らせることに情熱を燃やす。彼はディレクターに赤狩りで仕事を失ったドキュメンタリー映画監督レオ・フルヴィッツを起用し、中継実現に向けて邁進する。中継を可能にするには判事三人の了承が必要で、テレビカメラを目立たなくするために壁を改造し、テレビカメラを隠してしまう。また、現地スタッフも揃えるが、その中には収容所から生還した年輩の人物もいる。しかし、ミルトンの元には「中継を中止しないと家族は皆殺しだ」という脅迫状が届く。戦後十六年、まだまだ「ナチの残党」などと騒がれていた頃である。

裁判が始まる。画面には、実際の映像が多用される。アイヒマンによく似た俳優を使っており、本物のアイヒマンと切り替わっても違和感なく見られる。カラーからモノクロになるのに、この辺の編集は見事だ。監督のレオはアイヒマンの正体を映像で捉えようと、次第にのめり込んでいく。「なぜ、アイヒマンばかり映す?」と責められ、アイヒマンの人間的な反応を捉えたいと彼は答える。アイヒマンは収容所から生還した証人たちの体験を聞きながら、まったく反応を示さないのだ。中継スタッフの中には、証人たちの話を聞いて胸を詰まらせ、気分を悪くする人間さえ出ているというのに----。「おまえは、何者なのだ」とレオは、ブラウン管に映るアイヒマンにつぶやく。

●「アイヒマンは思考を停止し命令に従っただけの凡庸な小役人」か

アイヒマン裁判を傍聴し発表した文章によって、非難を浴びることになったのは、哲学者のハンナ・アーレントである。彼女自身もナチスの強制収容所を逃れ、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人である。その伝記映画が「ハンナ・アーレント」(2012年)だった。ドイツ、ルクセンブルク、フランスの資本によって製作され、ドイツ人の女性監督によって演出され、ドイツ人女優によって演じられた。ハンナ・アーレントはアイヒマン裁判を傍聴し、人々が「ユダヤ人を大量虐殺したアイヒマンは怪物」と思いたがるのに対して、「アイヒマンは思考を停止し命令に従っただけの凡庸な小役人」と書いた。いわゆる「悪の凡庸」である。

それは、アイヒマンが裁判の間ずっと言い続けた「私は命令に従っただけであり、私に責任はない」という主張を肯定したと受け取られたのかもしれない。また、ハンナ・アーレントはユダヤ人の中にもナチ協力者がいたことも指摘した。それも、「すべてのユダヤ人が犠牲者だった」と主張する(したい)ユダヤ人社会の反発を招く。世界中から、ハンナ・アーレントに対しての非難が湧き起こる。しかし、彼女が主張したかったのは、同じ状況に追い込まれれば、「誰でもがアイヒマンになってしまう可能性がある」ということだったのではないか。彼女は裁判の間中、アイヒマンを観察し続け、そのことを感じ取った。だが、当時、特にユダヤ人たちにとって、そんな主張をする人間はナチを擁護しているとしか思えなかったのだろう。

ハンナ・アーレントは「ナチは私たちと同じように人間である」と書いたが、「アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち」のレオも「なぜ、被告席のアイヒマンばかりを映すのか。なぜ、悲惨な体験をした証人たちに迫らないのか」と問われ、「アイヒマンがどういう人間か知りたい。私たちは誰でもがファシストになる可能性がある」と答える。それは、ハンナ・アーレントと同じ問題意識であり、自分の中の「内なるアイヒマン」に対して自覚的であり、ユダヤ人大量虐殺という歴史的犯罪を自分たちの問題として捉えようとしたからである。しかし、現地採用の年輩スタッフは「私は絶対にファシストにはならない」と頑なに主張する。彼自身、収容所の生き残りだったのだ。彼は、被害者意識に凝り固まっている。

高校生のときに読んだ月刊COM掲載の「解放の最初の日」という樹村みのりさんのマンガが僕の中に深く刻み込まれている。ユダヤ人の少年がナチの強制収容所に入れられるが、ある日、ユダヤ人たちに対するナチの兵士たちの扱いを見て、「彼らを脅えさせてはいけません」と言い出し、自分ならもっとうまくやれると提案するのだ。彼の提案は採用され、彼は清潔さを保つためにと説明してガス室に同胞を送り込む。死体の処理も合理的に行い、積極的にナチに協力する。やがて、ナチは敗北し、収容所が解放される。しかし、その解放のトラックに乗っているのは、ナチに協力した者たちばかりである。中には、死体から金歯を盗んでいた者もいる。

「解放の最初の日」は、僕に人間社会の複雑さを教えた。「アンネの日記」などを読み、単純に「ユダヤ人はナチに迫害され虐殺された被害者」と思っていた僕は、ひどく衝撃を受けたものだ。実際に、収容所でそういう事実があったかどうかはわからない。樹村さんが史実を調べて描いたのかどうかも知らない。しかし、その短編は、人間社会の持つ業のようなものを感じさせ、普遍的な何かを描き出したのだと僕は思った。虐げられた者は、さらに自分より下の人間を作ろうとする。虐げられた者は、いつでも虐げる者に転換する。それが、人間という存在だ。私たちは、同じ状況に置かれれば、もしかしたらアイヒマンになるのかもしれない。そんなことを十六歳の僕は考えた。

●ユダヤ人たちを大量に処理する労働を手伝わされるユダヤ人収容者たち

昨年のキネマ旬報ベストテンに入った「サウルの息子」(2015年)というハンガリー映画が描いたのが、樹村みのりさんの「解放の最初の日」と同じ設定だった。「ゾンダーコマンド」という存在が映画の冒頭で説明されるが、それはユダヤ人たちを大量に処理する労働を手伝わされるユダヤ人収容者たちのことである。大量殺人とひと言でいっても、一日に千人というハイペースで殺すとなると、大変な労働力が必要になる。そこで、ナチの兵士たちは監視役になり、実際の労働はユダヤ人収容者の中から選んで行わせた。ゾンダーコマンドたちは、収容されたユダヤ人たちの衣服を脱がせて整理し、ガス室に追い込み、ガスが引くと大量の全裸の死体を運搬する。死体を積み上げて燃やしたり、大きな穴に放り込んで埋めたりする。重労働である。しかし、ゾンダーコマンドである間は生きていられる。

ゾンダーコマンドのひとりであるサウルは、ある日、ガス室で生き残った少年を見つける。医療室に運び入れると、ユダヤ人医師がいる。サウルは「死んだら遺体を私に渡してほしい」と頼み込む。しばらくして、少年は息を引きとる。それから、サウルの遺体への異常な執着が描かれる。その少年の遺体を彼は隠し、ユダヤ人収容者の間をまわってユダヤ教のラビを探そうとするのだ。サウルは「息子の葬儀をしてやりたい」と口にする。そのラビ探しが延々と描かれる。カメラはサウルひとりを描くように彼に迫り、背景ははっきりとはわからない。しかし、全裸の死体が物のように引きずられたり、死体の山が映ったりする。そのたびにゾッとするのは、キャメラワークにリアリティがありすぎるからだ。その世界に自分が入り込んだような気分になる。

まるで、サウルと共に収容所内をさまよっているかのようだ。そこでは様々なことを見聞する。新しく到着したユダヤ人たちは、収容所で行われていることを知っており、監視兵たちの言葉を聞かず一斉に騒ぎ出す。ナチ親衛隊の兵士たちが容赦なく銃撃する。人々はパニックになり、サウルも巻き込まれる。それでも、サウルは死んだ少年を息子だと思い込み、ユダヤ教式の弔いをラビに施してもらえなければ天国にいけないと、ラビ探しを続ける。ゾンダーコマンドはいくつかの組に分かれているが、その組の間には縄張り意識や対立がある。サウルの組の中には、反乱を画策している者もいる。サウルのラビ探しによって、収容所内の様々な動きが浮かび上がってくる。やがて、サウルの所属する組は近々、全員がガス室送りになるらしいと伝わってくる。

ユダヤ人の大量虐殺の細々した仕事はユダヤ人自身にやらせる、とナチが考えるのは当然だ。強制労働の対象が同胞の処分なのであるから、これほど残酷なことはない。しかし、それを担えば自分の命が長らえるのであれば、人はそれに従うだろう。日本人捕虜たちも、シベリアの収容所に長く強制収容されたが、そこでは同じようなことがあったという。胡桃沢耕史の直木賞作品「黒パン俘虜記」を読めば、日本人捕虜間の無惨な話に胸を締めつけられる。日本人捕虜たちの間で、生き残るための悲惨ないじめや裏切りがある。ソ連兵に取り入り、仲間を売り、自分だけは生き残ろうとする人間たちがいる。それは、どんな人間の集団でも起こり得ることである。

だから、戦後七十年以上が過ぎても、繰り返し繰り返し「ユダヤ人ホロコースト」の物語が作られるのだろう。「人間に、なぜそんなことができたのだろう」と問いつづけることで、普遍的な人類の業として捉えようとしているかもしれない。ナチが消滅した後もナチ的なものは存在しているし、復活の気配さえある。ひとつの民族を滅ぼす意図の下で行われた大量虐殺は、セビリア、ボスニア・ヘルツェコビナ、ウガンダなど様々な場所で起こってきた。今なら、アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントが指摘したことは、多くの人に理解されるかもしれない。「六百万人のユダヤ人を殺した男は思考を停止し命令に従っただけの小役人であり、私たちもアイヒマンになる可能性はある」と言われ、僕らは「絶対にない」と言い切れるだろうか。

2017年7月27日 (木)

■映画と夜と音楽と…782 落ちぶれる



【東京五人男/羅生門/七人の侍】

●黒澤作品のプロデューサーはなぜピンク映画の監督になったか

一年ほど前に出た本だが、先日『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎』を読んだ。著者は、鈴木義昭さんである。ピンク映画の世界に詳しく『ピンク映画水滸伝・その二十年史』などの著書もある。「竹中労、映画評論家の斎藤正治、白井佳夫らに師事」とプロフィール紹介にある。四十年以上前だが、僕は斎藤正治さんが司会をした「日活ニューアクション上映会」にいったことがある。その頃、白井さんは『キネマ旬報』編集長だった。竹中労は気鋭のルポライターで、ちょっと強面の評論家でもあった。その三人に師事できたのは、ちょっとうらやましい。鈴木さんは、僕より少し下の世代になる。

その本は「東京の京橋にあるその試写室のスクリーンに、女性の裸体が延々と映し出され、絡み合う男女の声が長時間に亘って聞こえたのは、異様なことだった」というフレーズから始まった。その日、ある監督のピンク映画が京橋のフィルムライブラリーでまとめて上映されたのだ。それぞれの作品の監督名は違ったが、すべて同一人物が監督したものであるという。その人物が、本木荘二郎だった。その名前は、黒澤明監督の「素晴らしき日曜日」(1947年)に製作者としてクレジットされており、以降、「酔いどれ天使」「静かなる決闘」「野良犬」「醜聞」「羅生門」「白痴」「生きる」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛巣城」までの十一作品を製作した。

そんな人物がなぜピンク映画の監督になったのか、という謎がこの本を読み進めさせることになる。本木荘二郎は東宝の前身PCLで黒澤明と共に助監督をしていたが、戦争中にプロデューサーに転身し、十六年にわたって数多くの作品を製作した。その初期作品のひとつが「東京五人男」(1945年)である。終戦の秋に撮影され、その年の暮れに公開された作品だ。喜劇を得意とした斎藤寅次郎監督である。空襲で瓦礫の山になった東京が写しとられている。横山エンタツ、花菱アチャコ、古川ロッパ、柳屋権太楼、石田一松が出演した。今見ると、復員の様子、食料の配給事情など、終戦直後の状況がよくわかる資料的な価値もある。数年前、僕も見る機会があった。

巻末の本木荘二郎のフィルモグラフィを見ると、一九四三年に黒澤明が脚本を書いた「天晴れ一心太助」の製作に始まり、一九五九年までは黒澤明監督作品、マキノ雅弘監督作品、成瀬巳喜男監督作品など映画史に残るものを多く製作しているが、一九六二年に「肉体自由貿易」(高木丈夫名義で監督)というタイトルが現れ、翌年からは「女が泣く夜」「不貞母娘」「仮面の情事」といったタイトルが続く。その後、一九七七年まで十五年間にわたって膨大なピンク映画の作品名が列挙されている。東宝時代が十六年だから、ほぼ同じ年数をピンク映画界で過ごしたことになる。

第一章の扉ページに一九七七年五月二十七日付けの「夕刊フジ」の記事の複写が掲載されていた。縮小されているから記事の内容は読めないが、見出しはわかる。「映画バカ一代 ポルノ戦線に死す」と大きな見出しがあり、「羅生門」「七人の侍」など黒沢映画のプロデューサーだった本木荘二郎(六十二歳)さんが、「二十一日、新宿のアパートでひとりぼっちの往生」とある。その記事の後半には「来月二十三日、三船敏郎、谷口監督らが追悼会」とあった。谷口監督とは黒澤明の盟友・谷口千吉監督であり、八千草薫の夫である。しかし、ピンク映画時代の本木の弟子を自認する山本晋也が黒澤明に電話して本木の死を告げたとき、黒澤は「本木とは縁を切ったから」と答えた。

本木荘二郎は北新宿の第二淀橋荘七号室で孤独に死んでいったが、その部屋は彼自身が借りているものではなかった。仕事仲間の俳優が借りている部屋であり、彼は死ぬときも自室では死ねなかったのだ。「晩年、ほぼホームレス状態になっていた本木荘二郎」は、金に困っていたという。東宝を去ることになったのも、金にルーズだったからである。加えて女好きで、女性関係もいろいろあり、女優の妻とは離婚し家を出ることになったのだ。結局、ピンク映画の世界で映画作りを続けたが、その後もあちこちに借金をした。傍から見れば、金と女で失敗して落ちぶれ、孤独死した哀れな人生である。

●世界的巨匠の黒澤と己の人生を対比することはなかったのだろうか

同じ映画会社で助監督となり、同じ部屋で暮らしたふたりの青年は、やがてプロデューサーと監督としてコンビを組み、世界的な名作を作り続けた。日本映画で初めて外国の映画祭のグランプリも受賞する。しかし、一方は金と女で失敗して落ちぶれ、一方は世界的な巨匠に登り詰める。この極端に異なる人生を対比するとき、人は何を思うだろう。人生の不可解さ、理不尽さだろうか。そこには、「セ・ラ・ヴィ(それが人生だ)」とつぶやいてすませられない何かがある。ピンク映画の世界で名前を変え、数え切れないほどの映画を作りながら、本木荘二郎は何を考えていたのだろう。世界的巨匠となっていく黒澤明を見ながら、己の人生を対比することはなかったのだろうか。

テレビで「あの人は今」といった番組がよく作られる。飽きもせずに作られるということは、それなりに視聴率が取れるのだろう。つまり、人々は「昔、有名だった人」が今どうなっているのか、興味があるのだ。僕などは、そんな番組で「今も幸せに生きている」ことがわかるとホッとするのだけれど、多くの人は「あんなに一世を風靡した人が、今はこんなことになっている」という結果を見たいのかもしれない。そこには、平家物語の冒頭のフレーズにあるような「諸行無常」「盛者必衰」を好む日本人のメンタリティがあるのかもしれないが、ただ「落ちぶれた有名人」を見たいという意地悪な心理があるだけかもしれない。人生ってそんなものだよなあ、と安心したいのだろうか。

だから、成功者である黒澤明の人生は人々の興味をひかない。もちろん、黒澤明にも様々なことがあった。尊敬していた兄の自殺もあった。美術の道をあきらめた。自殺未遂を起こしたこともある。しかし、映画界に入り、世界的な巨匠になった。成功した人生である。ノーベル賞を受賞した大江健三郎の名を知らない人は多いだろうけど、黒澤明の名を知らぬ日本人はいない。「世界のクロサワ」である。長寿をまっとうし、子孫に様々な遺産を残した。息子は黒澤スタジオや黒澤作品の諸権利を受け継ぎ、娘は映画界で衣装デザイナーをやりながら「黒澤」の名で料理店を開いている。その店には黒澤が描いた絵コンテが飾られ、多くの政治家たちも利用すると聞いた。黒澤明の成功によって、黒澤一族は繁栄しているわけである。

一方、今や誰も本木荘二郎のことなど知らない。映画のクレジットタイトルで気にするのは出演者と監督名くらい。製作者の名など目には留めても、記憶することはない。本木荘二郎の本のために、鈴木義昭さんは黒澤明監督の写真の掲載許可を求めたが、息子の黒澤久雄氏から「本木という人物にウチは大変な迷惑を被った経緯があるので、彼をテーマとする本に黒澤プロとしては協力できない」と返事があったと書いている。死後四十年も経つのに、そんな仕打ちを受ける人生って何? と僕は思った。黒澤明がその名声を確立したのは、ほとんど本木荘二郎が製作した作品によってだった。「羅生門」「七人の侍」「生きる」などである。しかし、本木の存在はほとんど知られていなかった。鈴木義昭さんの本によって、僕は初めて本木荘二郎の生涯を知ったのだ。

●どんな境遇でも己に恥じないことをしていれば自分を憐れむことはない

ベネチア映画祭グランプリ作品を製作したプロデューサーは、ほとんどホームレスになり、知人の部屋で孤独死するまでに落ちぶれてしまったが、ピンク映画界の女優たちやスタッフたちの証言によると、屈折したルサンチマンや過去の栄光にすがるようなところは微塵も感じさせなかったという。しかし、心の中では何を思っていたかはわからない。僕はピンク映画が東宝や松竹、東映などのメジャーが作る作品に劣っているとは思わない。僕の若い頃には、ピンク映画界には若松孝二がいたし、大和屋篤がいた。その後、本木荘二郎を師匠と呼ぶ山本晋也を師匠として、「パッチギ!」の井筒和幸監督や「おくりびと」の滝田洋二郎監督なども出ている。周防正行監督だってピンク映画の出身だ。それでも、東宝で作品を作っていた本木は、ピンク映画を量産する我が身をどう見ていたのだろうか。

僕は、自己憐憫に浸る人間が許せない。落ちぶれた己を憐れむのは、恥ずべきことだと思う。どんな境遇にいても、己に恥じないことをしていれば、自分を憐れむことはない。自尊心を持っていられる。「俺も、昔はな」と過去の栄光にすがるのは、今の自分を恥じているからだ。憐れんでいるからだ。『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎」を読んでいて心が沈まなかったのは、本木荘二郎がピンク映画界の多くのスタッフや女優や俳優に愛されていたから、過去の栄光をちらつかせることがなかったから、映画作りが好きでピンク映画であっても映画作りの喜びを感じていたからである。おそらく、借金だらけで自分の部屋さえなくした状態であっても、他人から見れば落ちぶれたと見えても、本木荘二郎自身は己を恥じず、憐れみもせず、ただ映画を作っていた。

もっとも、そんな風に僕が思えるようになったのも、長く生きてきたからだ。四十を過ぎた頃から、ある種の自信のようなものが生まれた。「他人がどんな風に見ようと関係ない。己に恥じないことをしていれば、どんなに落ちぶれても、尾羽打ち枯らしても、自尊心を保っていられる。惨めになることはない」という信念だった。しかし、思い出してみれば、若い頃の僕は将来の不安にとらわれ、社会の敗残者になることを怖れていた。落ちぶれて、みじめに生きていかねばならなくなったならば、自分は耐えられないだろうと思っていた。大学卒業のときに大手出版社の入社試験を軒並み失敗し、何とか小さな出版社に潜り込んだけれど、講談社や小学館に入った高校時代からの友人たちと比較し、僕は自分の人生を惨めに感じていた。

本木荘二郎の本を書いた鈴木義昭さんに会った頃の僕が、そうだった。、四十年近く前になる。鈴木義昭さんは、白夜書房が出していた雑誌「ウィークエンド・スーパー」に書いているライターだったと記憶している。当時から新宿ゴールデン街には、「銀河系」という酒場があった。僕は同じ編集部の先輩であるH女史に連れられて、初めて入った。当時の僕は酒場のルールも知らず、ボトルキープの意味も知らなかった。「銀河系」では、いくら飲んでも(当時の僕はあまり飲まなかったけれど)五百円ですんだので、安いなあと思っていたが、それはH女史がキープしていたボトルを飲んでいたからだと、しばらくして知ったくらい無知だった。

「銀河系」には映画評論家の松田政男さんを始め、映画関係者が多く集まっていた。僕はそこで「V・マドンナ大戦争」の中村幻児監督など何人かの監督に会ったし、伝説の「無人列島」(1969年)を監督した金井勝さんにも会った。H女史は多くの映画界の人脈を持っていたが、それは「銀河系」人脈だったのかもしれない。そんな客のひとりが鈴木義昭さんだった。字面を記憶しているから、たぶん名刺をもらったのだろう。「銀河系」では、一、二度顔を合わしただけだから僕のことなど憶えてもいないだろうけれど、僕の方は十年後に書店で鈴木さんの本を見つけて「いい仕事をしているなあ」と思ったものだった。しかし、鈴木さんに会った頃の僕は将来の不安にとらわれていたし、就職時の挫折を引きずっていた。この社会で生き抜いていけるか、まったく自信はなかった。

2017年7月20日 (木)

■映画と夜と音楽と…781 裕次郎に導かれて----



【赤い波止場/赤いハンカチ/二人の世界】

●八月末をもって閉館するという挨拶文が張り出されていた

小樽築港駅を出ると広いコンコースがあり、そこから広大な敷地のショッピングモールにつながっていた。その自動ドアを入り、延々と続くモールの中を歩き続けた。冷房の効いた中を歩けるのがありがたい。五百メートルほど歩いたところにあるイタリア料理店で昼食を摂り、再びモールの中を歩き始めようやく抜けきると、北海道だというのに強い日差しに晒された。見渡すと、多くのヨットが陸揚げされているマリーナがあった。海に係留されているヨットも多い。美しい光景だった。その手前に、体育館のような大きな建物があった。駐車場も広い。かみさんが「あそこよ」と言った。

見ると建物の壁面に「yujiro」というレリーフがあった。「あれだ」と僕は叫んだ。まさか、そんなに大きく立派な建物だと思っていなかったのだ。しかし、考えてみれば日本で最も人気があった映画スターの記念館である。それくらいの規模であっても当然なのだった。広い駐車場の端、記念館の入口の横には大きなヨットが太い柱に貫かれて宙吊りになっている。あれは、きっと裕次郎が愛した自身のヨットに違いない。僕とかみさんは、北海道では百年ぶりだという暑さの中、「石原裕次郎記念館」に向かって歩き始めた。

僕には、記念写真を撮る習慣がない。しかし、そのときばかりは違った。石原裕次郎記念館の入口を背景にして、「写真、撮ってあげるわ」というかみさんの言葉に素直に従った。僕自身のカメラはうっかりバッグに入れたまま駅のコインロッカーに入れてきたので、かみさんのスマホでの撮影である。恥ずかしかったが、僕は入口の前に立った。その後、僕は記念館の中に入った。そこには、石原まき子さん(北原三枝と名乗っていた美しい姿が甦る)の署名入りの「みなさまへ」という挨拶文が張り出されていた。八月末をもって閉館するという内容だった。

ことの起こりは、四国の実家から千葉の自宅に戻る途中、今年は山陰をまわって帰ろうと思い立ち、自宅のかみさんに連絡したときだった。国内も海外もあちこちいっているかみさんは、「夏だったら北海道がいいんじゃない」と言う。「北海道?」と、まったく想定していなかった僕は驚いたが、北海道には仕事で一回いっただけだし釧路に飛んで道東をまわっただけだな、と思いめぐらした。その瞬間、小樽だ、と頭の中で声がした。思わず「裕次郎記念館がある」と口にしていた。「小樽って、札幌・小樽コース?」と、かみさんは気の乗らない返事だった(後で知ったが、かみさんは小樽・札幌・富良野・旭山動物園はいったことがあったらしい)。

電話を切った後、しばらくしてかみさんからメールが入った。「石原裕次郎記念館は今年の八月いっぱいで閉館だって。もう、小樽にいくしかないね」という文面だ。これはきっと、石原裕次郎様のお導きに違いないと僕は思った。一度はいかねば----と思いつつ、二十数年間いくことがなかった僕を、裕次郎の魂が呼んだに違いない。そういうことで、七月十一日の夕方、僕は小樽駅に降り立ったのだった。小樽駅の今は使われていない四番ホームは「裕次郎ホーム」と名付けられ、裕次郎の等身大の写真がモニュメントとして立てられていた。その横に立ち、小樽にきた感慨に僕が耽っていると、何とホームのスピーカーから「きみの横顔すてきだぜ~」と「二人の世界」が流れてきた。

●裕次郎には様々な世代のファンがいて思い入れのある作品が違う

石原裕次郎記念館に展示されているリストで、裕次郎が出演した映画作品が一〇二本だと知った。出演作の中には、ボクシング部員としてワンシーンだけ出たデビュー作「太陽の季節」(1956年)、ハリウッド映画「素晴らしきヒコーキ野郎」(1965年)、勝新太郎主演の「人斬り」(1969年)、ワンシーンだけ出た「戦争と人間 第一部 運命の序曲」(1970年)、友情出演として出た最後の出演作「凍河」(1976年)などもあり、主演作となると九十数本になる。七〇年代半ばからは、「太陽にほえろ」「大都会」「西部警察」といったテレビシリーズばかりになる。亡くなったのは三十年前の七月十七日、享年五十三歳だった。

一〇二本のリストを、僕は「見た」「見ていない」と数えていった。実に七十四作品を見ていた。たぶん、初めて見たのは父に連れられていった「風速40米」(1958年)だと思う。六歳の夏である。これは間違いない。その映画での裕次郎の登場シーンは鮮明に憶えている。北原三枝などの女子学生たちが山で嵐に遭い、山小屋に逃げ込む。そこに先にいるのが石原裕次郎で、彼の足の長さを強調するために脚から登場し、股越しショットで女子学生たちが捉えられる。後に見直して、僕は自分の記憶の正しさを確認した。最後の出演作「凍河」は五木寛之の原作で、若い精神科医と繊細な女性患者の恋物語だが、僕は見ていない。だから、スクリーンで最後に見た裕次郎は「反逆の報酬」(1973年)になる。

石原裕次郎記念館でも感じたことだが、長く活躍した裕次郎は様々な世代のファンが存在し、それぞれが大切な作品を持っている。僕より十歳上の世代は、初期裕次郎作品に非常に思い入れを持っている。映像作家のかわなかのぶひろさん、写真家の丹野清志さんなどである。初期の裕次郎作品で最もヒットしたのは「嵐を呼ぶ男」(1957年)だが、作品的な完成度で言えば「俺は待ってるぜ」(1957年)「錆びたナイフ」(1958年)「赤い波止場」(1958年)がベスト3だろう。主題歌は、すべてヒットした。かわなかさんは酔うと必ず「赤い波止場」を唄う。「裕次郎を殺してはいけない」という会社の方針があったから、ラストシーンで裕次郎は逮捕されただけだった。しかし、裕次郎に初めて手錠をかけたとして話題になった。裕次郎自身は作品の中で死にたかったが、会社が許さなかったのだ。初めて死ぬことができたのは五年後、「太陽への脱出」(1963年)だった。

僕より十歳若い世代は、「太陽にほえろ」以降の石原裕次郎が印象に残っているらしい。僕も石原プロ制作のテレビドラマは見ていたけれど、映画の裕次郎のよさは、どのシリーズでも出ていなかった。石原プロの社長であり、ドラマの中では中間管理職になった裕次郎は、部下たちの活躍を温かい目で見守る存在でしかなかった。だから、印象に残っているのは、若き松田優作であり、渡哲也である。特に倉本聰がほとんどの脚本を書いた「大都会 闘いの日々」の渡哲也(大病から復帰したばかりだった)は素晴らしかった。妹を演じた仁科明子の可憐さも忘れられない。あの頃、まさか松方弘樹と結婚するとは夢にも思っていなかった。

僕より若い世代には「西部警察」への思い入れが強いのかもしれない。石原裕次郎記念館でも「西部警察」関連の展示は多かったし、アニバーサリーショップでも「西部警察」関連グッズが取りそろえられていた。それに車である。「西部警察」で使用されたスポーツカーや特別仕様の車、それに撮影機材などが豊富に展示されていた。それだけ石原プロとして力を入れていたのだろうが、アクション偏重でドラマとしての味わいは薄くなっていったと僕は思う。車を爆発させたり燃やしたり、刑事がショットガンを撃ちまくったり、テレビとしては画期的だったかもしれないけれど、僕は地味な刑事ドラマだった「大都会」が好きだった。

●裕次郎作品には海外作品を換骨奪胎した翻案ものが多い

僕の世代にとって最も思い入れの強い裕次郎作品は、何といっても「赤いハンカチ」(1964年)である。「おとーふやさーん」「おいしんですのよ、私のおみおつけ」というセリフでニヤリとできるのは、僕らの世代だと思う。この何でもないセリフを、矢作俊彦さんは何度も自分の小説の中に登場させている。その他には「夕陽の丘」(1964年)「二人の世界」(1966年)がある。いわゆる中期裕次郎の「ムードアクション」と呼ばれる作品群だ。ほんの数年間に、石原裕次郎の代表作が数多く作られた。最も知られているのは「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)だろう。

「太った裕次郎は我らの敵だ」と書いた矢作俊彦さんは、少し太り始めた裕次郎が演じたムードアクションの主人公たちが大好きなのに違いない。初期作品の「リンゴォ・キッドの休日」ではフェリーノ・ヴァルガスという人物を登場させ、「二人の世界」へのオマージュを捧げた。さらに二十五年後、高い評価を得た「ららら科學の子」では物語の下敷きとして「二人の世界」を使い、この裕次郎映画に対する深いこだわりを感じさせた。大沢在昌さんも「二人の世界」を見たとき、日本離れしたハードボイルドなキザなセリフが、石原裕次郎の口から出ることで現実のものとして定着している日活(無国籍)ムードアクションの世界に感心したという。

「二人の世界」は日本へ向かう豪華客船の中で、フィリピン国籍のフェリーノ・ヴァルガス(石原裕次郎)と戸川玲子(浅丘ルリ子)が出会うところから物語が始まる。その船にはヴァルガスを探る日本人の週刊誌記者である川瀬(二谷英明)が乗っている。川瀬は、フェリーノ・ヴァルガスが十五年前に殺人犯として海外逃亡した北条修一ではないかと疑っているのだ。フェリーノ・ヴァルガスこと北条修一は、時効が迫る中、無実を晴らすために日本に向かっているのである。矢作俊彦さんの「ららら科學の子」は、学生運動で罪を犯して中国に逃亡していた主人公が日本に戻ってくる物語だった。

それにしても、裕次郎作品には海外作品を換骨奪胎した翻案ものが多い。「赤い波止場」はジャン・ギャバン主演のフランス映画「望郷(ペペ・ル・モコ)」(1937年)の翻案である。「帰らざる波止場」(1966年)は、フランソワーズ・アルヌール主演のフランス映画「過去を持つ愛情」(1954年)の翻案だ。妻を殺した男と夫殺しの疑惑をもたれている女との恋愛劇。それを、誤って恋人を射殺したピアニスト(石原裕次郎)と富豪の夫を殺した疑惑で刑事につけまわされている女(浅丘ルリ子)に置き換えた。さらに石原裕次郎記念館でも人気だった「夜霧よ今夜も有難う」は、ポスターに「甦るカサブランカの世界」と書かれているように、完全に「カサブランカ」(1942年)の翻案である。

そんなことを思い出しながら、記念館をじっくりと僕は見た。二時間近くが経っていた。僕は、完全にミーハーなファンになっていた。展示室を抜けると、アニバーサリーショップだった。「yujiro」のサインが入ったグッズがたくさん売られていた。普段、記念品というものを買わないのだが、僕はじっくりとグッズを見てサインが刻印されたキーホルダーと、裕次郎作品のリストが印刷された「石原裕次郎 想い出の映画手拭」を買った。それは「石原裕次郎記念館」特性のビニール袋に入れられ、「yujiro」のサインが印刷されたシールで閉じられている。中身を取り出すためには、そのシールを破らなければならないが、もったいなくて破ることができない。もう一枚買っておくべきだったなあ。

2017年7月15日 (土)

■映画と夜と音楽と…780 激しい恋は「猫の恋」


【嵐が丘/激しい季節】

●背の高い夏草から二匹の猫が飛び出し一目散に走ってきた

三ヶ月ぶりに自宅に戻り、翌朝、利根川のほとりまで散歩に出かけた。畑の隅で暮らしている猫たちに会うためだ。自宅の猫は僕のことを完全に忘れていて、僕が「ただいま」と言って玄関に入った瞬間、娘の部屋に逃げ込み、ずっと出てこなかった。翌朝、散歩に出かける前に警戒しながら姿を見せ、僕をずっとうかがっていた。元々、警戒心の強い子だったが、僕が人差し指を出すと、以前は匂いをかぐように鼻を近づけていたのに、何と威嚇するような声を出し背中を丸めた。攻撃の姿勢である。おいおい、と思いながら僕は家を出た。

利根川までは歩いて二十分ほどだが、少し大まわりをした。猫たちがいるだろうか、僕を見て逃げはしまいか、などと否定的な想像が湧いてくる。結果を怖れて、結論を先送りにする心境だった。それでも、散歩に出て三十分ほど歩くと、猫たちがいる畑が見えてきた。畑の横の野原が三ヶ月のうちに背の高い夏草に覆われ、ほとんどのものを隠している。冬の間は、その野原で猫たちとじゃれていた。最初に会ったときは三匹いたのに一匹は車にはねられ、昨年暮れからは二匹で仲良く暮らしている。畑の持ち主で猫たちに餌を与えているリリー・フランキー似のおじさんによれば、昨年の七月に捨てられていたというから、ちょうど一年になる。人間で言えば二十歳過ぎの成猫になった。

畑の前にいくと、猫たちはいなかった。しばらく立っていると、背の高い夏草の中から二匹の猫が飛び出してきた。僕を目指して一目散に走ってくる。雄と雌なので僕は「ジョンとメリー」と名付けていた(最初「ボニーとクライド」が浮かんだけど悲劇的結末を迎えるので、ハッピーエンドの「ジョンとメリー」にした)が、メリーが真っ先に走ってくる。まるで、両腕を広げて「会いたかったよ~」と言いながら駆けてくるようだった。その後ろからジョンが悠然とやってくる。それでも、ジョンも僕の顔を見て「ミャー」と鳴いた。

二匹の猫が僕の足に身をすり寄せグルグルまわる。見上げてミャーと鳴く。「どこいってたんだよう~」と言っているようだった。気になったのは、メリーの毛並みが変わってしまい、ひどく痩せたように思えることだ。ジョンの方は、ひとまわり大きくなった気がする。僕の足に寄り添うように座り込んだ二匹の背中をなでていると、毛に何か絡んでいるのに気づいた。最初は何か皮膚病にでもかかっているのかと心配したが、夏草の実が絡みついて取れないようだ。それにしても、こんなに猫に思い入れて、会えただけで幸福感に充たされるとは、一体どうなっているのだと我が身を振り返った。

その時、少し離れたところから見ている子猫に気づいた。ジョンによく似ている。まだ、生まれて一、二ヶ月といったところか。メリーが生んだのだろう。子猫を生んだから体つきや毛並みが変わってしまったのかもしれない。子猫の後ろから、もう一匹、子猫が現れた。白と黒でレッサーパンダみたいな顔になっている。メリーが身を起こし、ゆっくり子猫たちに近づいていく。そういえば、春先、ジョンがメリーの首を甘噛みし、身を寄せるのを見てドキッとしたことがあった。僕は、見てはいけない閨房の秘密を見てしまったような気になったものだ。下世話に言えば、「おまえたち、できたな」という感覚だった。

●「猫の恋」には情熱的で激しいものというイメージがある

俳句の季語に「猫の恋」がある。春の季語である。春は猫の恋の季節。その二、三ヶ月後に子猫たちが生まれる。「猫の恋」には情熱的で、激しいものというイメージがあり、「猫の恋」という言葉だけでそれを表現している。その激しさを表した俳句としては、「おそろしや 石垣崩す 猫の恋」を思い出す。正岡子規の句である。石垣を崩してでも会いにいく、その情熱を「おそろしや」と詠ったものだ。激しい恋を連想させる。「猫の恋」としているが、どことなく人間のことに重なる印象がある。「猫の恋」のように激しい恋をしてみたい、と寝たきりの子規は思っていたのではないだろうか。

「激しい恋」という言葉を浮かべると、僕は村上春樹さんの「スプートニクの恋人」の冒頭の文章を思い出す。「22歳の春にすみれは初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐに突き進む竜巻のような激しい恋だった」と始まり、「それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片っ端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした」と続く。一体どういう恋なのだ、という興味が湧き起こる。冒頭から読者のつかみはオッケーという感じである。それにしても、やはり恋に落ちるのは「春」なのだなあ。

しかし、「激しい恋」とはよく言われることだけれど、それはどのような恋のことをいうのだろうか。「恋」とは相手に執着することだから、最近ではストーカー扱いされる危険性もある。僕は「激しい恋」と聞くと、「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリンの恋を連想する。あれこそ、真の激しい恋なのだと思う。十代半ばで読んだとき、その凄さに圧倒された。以来、あの物語を越える激しい恋にはお目にかかったことはない。作者のエミリー・ブロンテは司祭の家に育ち、一生、結婚もせず生きた人で恋をしたことがあるかどうかもわからない。だからこそ、あんな激しい恋が書けたのだと思う。

「嵐が丘」は何度も映画化されているし、吉田喜重監督が松田優作を主演にして日本の室町時代に移して映画化した「嵐が丘」(1988年)もあるけれど、やはりウィリアム・ワイラー監督によって最初に映画化された「嵐が丘」(1939年)が一番いい。ヒースクリフはローレンス・オリヴィエである。「嵐が丘」撮影のためにオリヴィエは愛人のヴィヴィアン・リーを連れてハリウッドにいったのだが、そのヴィヴィアン・リーがプロデューサーの目にとまり、「風と共に去りぬ」(1939年)のスカーレット・オハラに抜擢された。インド生まれでイギリス人の女優が南部の女を演じることになったのだ。

原作では、物語が終わったところから始まる。語り手の人物が嵐が丘の屋敷に泊まる。彼は、その屋敷で幽霊のような女性の姿を見る。それを聞いた屋敷の粗暴な主人ヒースクリフは、「キャサリン、私の前に姿を見せてくれ」と闇に向かって叫ぶ。その時点で、キャサリンはすでに死んでいるのだ。映画版は時系列を整理していたと思うが、ラストシーンはヒースの生い茂る嵐が丘の荒野を抱き合ってさまようヒースクリフとキャサリンの霊魂だったと記憶している。この世で添い遂げられなかったふたつの魂は、死んで結ばれるのである。そういえば、「ガラスの仮面」でも劇中劇として「嵐が丘」が取り上げられていた。

●複雑な戦時下で燃えあがる青年と人妻の激しい恋

「激しい」という語が入っているからか、「激しい恋」と聞くと僕が連想するもう一本の映画が「激しい季節」(1959年)だ。これは名訳だと思っている。「激しい季節」という言葉が想起させる何かが昔から僕は好きだった。そのタイトルを聞いたときから見たくて仕方がなかった。ヒロインをエレオノラ・ロッシ=ドラゴが演じているのも楽しみだった。ピエトロ・ジェルミ監督の「刑事」(1959年)では殺される婦人、パヴェーゼの小説をミケランジェロ・アントニオーニ監督が映画化した「女ともだち」(1956年)ではデザイナーの役をやっていたが、何と言っても「激しい季節」で青年に一途に愛される人妻の役が最も似合っていた。

イタリア語のタイトルは「ESTATE VIOLENTA」だから、直訳すると「激しい夏」あるいは「暴力的な夏」だろうか。それを「激しい季節」と変えると、ニュアンスがまったく違ってくる。時代設定は、第二次大戦中のイタリアだ。イタリアは複雑な政治状況になっていて、ムッソリーニはヒトラーと組んで日独伊三国同盟を結び連合国側と戦争を始めたが、途中、パドリオ政権が連合国側と秘密裡に休戦協定を結んだ。そのため、ムッソリーニ支持派と内戦状態になり、ムッソリーニ派をバックアップするドイツ軍によりローマを占領される。ドイツ軍に抵抗するレジスタンス活動も起こる。内田樹さんによれば、「ドイツの傀儡政権だったフランスは第二次大戦の敗戦国で、ドイツ軍と戦ったイタリアは戦勝国」であるという。

そんな複雑な時代(一九四三年)に、青年と子持ちの人妻の激しい恋を描いたのが「激しい季節」である。青年(ジャン=ルイ・トランティニャン)はファシスト党の高官の息子で兵役を逃れて避暑地にやってくる。戦争中だというのに、高級避暑地で遊びまわっている上流階級の子弟たちがいる。青年もその仲間になる。ある日、ドイツ軍の戦闘機が浜辺に機銃掃射をする。青年は少女を救い、その母親(エレオノラ・ロッシ=ドラゴ)と知り合い、激しく愛し合う関係になる。その頃、ムッソリーニが失脚しパドリオ政権が樹立される。ファシスト党の青年の父親は逃亡し、青年も兵役を逃れられなくなる。そして、愛し合うふたりは、手に手を取って列車で逃れようとする。

ところで、「激しい恋」というけれど、「激しくない恋」というものはあるのだろうか。「おだやかな恋」と書いてみても、何だか形容矛盾のような気がしないでもない。「恋」とは自分以外の誰か(最近の傾向では、特に異性である必要はない)に強く執着することだから、精神的には異常事態だと思う。寝ても覚めてもその人のことが頭から去らず、その姿を見ると喜びに打ち震え、気がつくとその姿を求めている。猫の場合は直情径行で、まっすぐに求愛行動に突き進むが、常識や自意識のある人間の場合はそうはいかない。求愛しても拒否されるのではないかという怖れもあり、なかなか行動できない。ときには、遠くから見つめるだけで終わる恋もある。しかし、そんな場合でも、心の中では激情が渦巻いているはずだ。激しい想いが炎のように燃えている。

僕自身の過去を振り返ると、残念ながら「激しい恋」のかけらも見つからない。好きになった女性は何人かいたが、悲しいことに「見つめる恋」の記憶しか残っていない。思い切って行動に出た場合は、ことごとく失敗した。ロクな結果にならなかった。自尊心もひどく傷ついた。だいたい、自尊心が傷つくのを気にしているようでは、本当に恋をしていたのかと疑ってしまう。結局、今も美しい記憶として残っているのは、「見つめるだけだった恋」だ。いわゆる、忍ぶ恋である。すべてをなぎ倒すような激しい恋ではなかった。忍ぶれど色に出にけり----だったかもしれないけれど。

2017年7月 6日 (木)

■映画と夜と音楽と…779 ミステリアスな年上の女



【鞄を持った女/年上の女/影の軍隊】

●「年上の女」という言葉には魅力的なニュアンスがある

クラウディア・カルディナーレの「鞄を持った女」(1961年)を、久しぶりに見ていたら「年上の女」という言葉が頭の中に浮かんできた。「鞄を持った女」は、一本の広い道を男女が乗ったスポーツカーが走ってくるシーンから始まる。車が停まり、女が降りてくる。男が「早くすませろよ」と言う。女は茂みの中に入っていく。男は車のトランクを開け、女の鞄を見下ろす。女を置き去りにするのかなと観客は思うが、女が帰ってきて車に乗り、再び走り出す。しかし、結局、女は鞄と共に置き去りにされる。男は金持ちの放蕩息子で女たらしらしく、ローマのクラブでバンドの歌手をやっていた女に適当なことをいって連れ出し、面倒になって置き去りにしたのだ。

一方、大きな屋敷には十六歳の少年がいる。兄が帰ってくる。先ほど、女を置き去りにした男だ。「誰かきても、いないと言え」と言う。しばらくして電話があり、女が「××という人はいないか」と訊いてくるが、少年は「いない」と答える。どうも、初めてのことではないらしい。その後、大きな鞄を持った女が屋敷を訪ねてくる。しかし、少年は頑なに「そんな男はいない」と答える。ところが、途方に暮れた女に同情し、ホテルを紹介して泊まれるようにする。翌朝、女を訪ねた少年は、持ち金がない女に金を貸し、いろいろ親身になって世話を焼く。少年は、年上の女に惹かれているのだ。

女は、もちろんクラウディア・カルディナーレである。若くしてデビューしたカルディナーレだが、その時点ですでに子供がいた。同じように、映画の中で演じたバンドの歌手の役は、若くして産んだ子を預けている設定だった。神父に「少年の憧れる気持ちを利用した」と言われ、「私は娼婦じゃない」と答えるシーンがあるように、カルディナーレには汚れ役が似合う。だいたい、いきなり車から降りて小用を足すヒロインなんて、この映画以外では見たことがない。しかし、そんな女性でも少年には女神に見えるのだ。少年を演じたのは、ジャック・ペラン。実年齢は十九歳だったが、十六歳の初々しい少年が似合った。数十年の後、「ニュー・シネマ・パラダイス」では成功した映画監督を演じた。

最近、「熟女好き」という言葉をテレビで聞いて、いやな気分になった。僕が好きだった「青い麦」(1953年)や「おもいでの夏」(1970年)なども、「熟女好き」映画ということになるのだろうか。どちらも十代半ばの少年が夏の避暑地で、年上の女性によって初体験をする物語である。「年上の女」という言葉には、ミステリアスで魅力的なニュアンスがあるけれど、「熟女好き」には即物的で下世話な雰囲気があり、響きも下品だと思う。日本語全体がそういう方向に向かっているのは、若い人の言葉遣いを聞いていてわかっているが、僕も年寄りらしく「日本語の美しさはどこへいったんだ」と嘆くことにしよう。

●上昇志向が強く強烈な野心を抱く労働者階級の青年の恋

「年上の女」というタイトルで公開されたのは、ローレンス・ハーヴェイとシモーヌ・シニョレが出た一九五八年の作品だった。この作品で、シモーヌ・シニョレはアカデミー主演女優賞とカンヌ映画祭の主演女優賞を獲得した。確かに、それに値する演技である。若い頃は脇役の多い女優で、三十を過ぎて「嘆きのテレーズ」(1952年)でヒロインをつとめ高い評価を得た。僕はずっと「フランスの杉村春子」と呼んでいた。フランスの女優(生まれはドイツらしい)がイギリス映画にフランス人の役で出演し、英語をしゃべってアカデミー賞を受賞したわけである。

同じくローレンス・ハーヴェイも「年上の女」の打算的な貧しい青年の役で注目され、ハリウッドに進出した。ローレンス・ハーヴェイは典型的なイギリス俳優である。ハンサムというには顔がきつすぎるし、陰がありすぎる。目も鋭い。しかし、「年上の女」によってアカデミー主演男優賞にノミネートされ、アメリカ映画界に目を付けられオファーが続く。何と、絶頂期のエリザベス・テイラーの相手役に抜擢され、「バタフィールド8」(1960年)に出演し、リズに初のアカデミー主演女優賞をもたらせ、デュークことジョン・ウエインの監督主演による大作「アラモ」(1960年)に出演し、杓子定規な堅物トラビス大佐を演じた。

「年上の女」は貧しい田舎町から地方都市へ、鉄道で向かうジョー(ローレンス・ハーヴェイ)の姿から始まる。不遜で、挑戦的で、野心に燃えた目をしている。当時、イギリスはまだまだ階級の壁が厚かった。ジョーは貧しい労働者階級の生まれだが、上昇志向が強く、不相応な野心を抱いている。街に着き、彼は勤め先の役所に顔を出す。職場の同僚が下宿を手配してくれる。ある日、同僚に誘われて街のアマチュア劇団の公演を観にいくが、そこで団員のスーザンに惹かれる。スーザンは街の富豪で有力者の娘だ。彼女には、いつもエスコートしている男がいる。その男は上流階級出身で、第二次大戦にパイロットとして出征し、捕虜になったが脱走し、英雄として勲章をもらっている。

ジョーもパイロットとして戦争にはいったが、ほとんど捕虜収容所で過ごした軍曹だ。スーザンの恋人は、そのことでバカにしたように「軍曹」とジョーを呼ぶ。彼は労働者階級出身のジョーがスーザンにちょっかいを出すのが許せない。階級的な差別を繰り返す。今やジョーにとって、スーザンを自分のものにすることは、その男を見返すことであり、階級社会への復讐を果たすことである。彼はスーザンに惹かれているのか、スーザンを利用して自分の野心を実現しようとしているのかわからなくなる。だが、スーザンの両親はジョーに心を惹かれ始めている娘を危ぶみ、ふたりの仲を裂くためにスーザンを南仏に旅に出し、ジョーには故郷の街に好条件の仕事を用意する。しかし、スーザンの父の画策を知って、ジョーは転職を断る。

打算に満ちた自分がイヤになる時もあるのだろう、ある夜、ジョーは夫に冷たくされている劇団の主演女優アリス(シモーヌ・シニョレ)を目撃し、やさしく送っていく。アリスはフランスからきて教師をしていたが、イギリス人の夫と結婚した女性だ。夫が秘書と浮気旅行に出かけるのを知りながら耐えている。二十五歳のジョーより十歳ちかく年上である。しかし、ふたりは恋に落ちる。アリスといるときのジョーは、顔つきが違う。こういうとき、役者はすごいなと思う。愛し合うふたりの顔は、違って見えるのだ。確かに、どちらも主演賞にノミネートされる演技である。役者の演技がすごいと、見ている方には強い説得力がある。しかし、年上の人妻と愛し合った青年は、一体どうすればいいのか。

●シモーヌ・シニョレという女優の凄さを初めて知ったとき

こう言ってはナンだけど、シモーヌ・シニョレは美人ではない。僕が初めて見たシモーヌ・シニョレは、「パリは燃えているか」(1966年)だったから、中学生には「単なる太ったおばさん」にしか見えなかった。それに、オールスターキャストの作品だから出番が少なかったこともあり、印象は薄かった。若い頃のシモーヌ・シニョレは美人ではないけれど魅力的だったのだと知ったのは、「嘆きのテレーズ」を見たときだった。アンリ=ジョルジョ・クルーゾー監督の「悪魔のような女」(1955年)では、華奢で美人の監督夫人ヴェラ・クルーゾー(「恐怖の報酬」のヒロイン)と一緒に出てくるので、大柄なシモーヌ・シニョレは損をしている感じだった。

そのシモーヌ・シニョレが「年上の女」では、美しく見えるのだ。ジョーという野心家の青年の本質を彼女は見抜き、愛し包み込む。年上の女のやさしい愛情が見る者に伝わってくる。だから、ジョーも一度は彼女の離婚を待つつもりになる。しかし、夫がやってきて「絶対に離婚しない。今度は見逃すが、次は身の破滅だぞ」と宣言する。同じ頃、南仏から帰ってきたスーザンは、親から禁じられたが故にジョーへの想いを募らせ、ジョーに体を許す。ある日、スーザンの父に上流の倶楽部に呼び出され、「スーザンと結婚しろ」と言われる。彼女は妊娠したのだ。労働者階級出身のジョーは、成功を手に入れる。しかし、アリスへの愛を抱いたままスーザンと結婚しなければならないのか。野心が実現しそうになったとき、ジョーは自分が本当に望んでいたものに気づく。

シモーヌ・シニョレは、実生活ではイブ・モンタンと長く結婚していたことで知られる。イブ・モンタンは常に女性との噂があった艶福家である。ふたりの離婚の噂は何度も出た。しかし、シモーヌ・シニョレは「年上の女」のアリスのように耐えた(モンタンとシニュレは同い年だったけど)。だが、その忍耐が限度を超えたのは、イブ・モンタンがハリウッドに呼ばれ「恋をしましょう」(1960年)でマリリン・モンローと共演したときだった。マリリン・モンローは共演者とすぐに恋仲になるような女優だった。このときもイブ・モンタンとできてしまい、それは誰もが知ることになった。それを知ったシモーヌ・シニョレは自殺未遂を起こす。そんなに愛した相手だったのに、シニョレの死後、モンタンは再婚し、六十四歳で子供を持ち世界中の話題になった。

「年上の女」のシモーヌ・シニョレは美しいが、その十一年後に彼女はジャン=ピエール・メルヴィル監督の「影の軍隊」(1969年)に出演する。ドイツ軍に占領されていた時代のパリでレジスタンスに参加する人々を、クールに、ハードに、淡々と描いた名作である。シモーヌ・シニョレが演じたのは、レジスタンス組織の一グループのリーダーである。彼女は「鉄の女」だ。組織のために仲間を見殺しにせざるを得ないときには、冷徹に断を下す。裏切り者は、ためらわずに処刑する。ドイツ軍の本拠に乗り込むときには、勇敢で恐れを知らない女になる。見事なリーダーである。仲間たちは彼女に絶対の信頼を寄せる。

しかし、あることから彼女の娘がドイツ人の人質になり、彼女は自白を迫られる。自分が死ぬのは覚悟している。だが、最愛の娘は----。「影の軍隊」のラスト、シモーヌ・シニョレの表情が忘れられない。このシーンは涙なくしては見られないが、安易な観客の涙などは拒否される。これほど厳しく、冷徹なラストシーンを僕は知らない。初めて見た高校生のとき、僕はしばらく映画館の席を立てなかった。シモーヌ・シニョレという女優の凄さを初めて知ったときだった。

2017年6月29日 (木)

■映画と夜と音楽と…778 もう一度見たい半世紀前の映画



【恋するガリア/女王陛下のダイナマイト】

●アマゾンでは「恋するガリア」の中古CDに一万の値がついていた

四国にいる間、ほとんど実家の裏の一軒家周辺で過ごしている。朝の散歩、買い物、実家へ両親の様子を見にいくといった日常である。実家では、猫のタマともしばらく遊ぶ。車を運転するのは、両親を乗せてスーパーへいったり、病院へいったり、補聴器の店にいったりするくらいだ。朝の散歩では、まず神社にお参りし、出会う猫たちに挨拶する。運動不足にならないように一時間近く歩いているし、自分ひとりの買い物は歩いていっている。こちらの人たちはほとんど車か自転車なので、歩いている僕は目立って仕方がない。先日も琴平電鉄のターミナル駅である瓦町まで歩いたが、五十分足らずの間、ほとんど歩いている人に出会わなかった。

毎日、家の周辺だけで暮らしているのだけれど、二週間に一度ほど街中に出る。高校時代からの友人と瓦町駅で待ち合わせ、飲みにいくのだ。彼は関西の大学を出て故郷に戻り、役所を勤めあげてから再就職し、六十五歳で完全にリタイアした。僕と違って、今は孫の世話で忙しい。その彼に連れていってもらったのが、田町商店街にあるMという店だった。中古レコード、CD、VHS、DVDを売っているのだが、食事もできるし、夜はショットでウィスキーも飲める。最初に連れていってもらったとき、「役所の先輩が退職してやっている」ということだった。

店内は古いLPレコードのジャケットが飾られていたり、映画スターのサイン入りポートレートが壁に掛かっていたりする。アン・マーグレットのサイン入りポートレートは、僕もほしくなってしまった。飾られたLPレコードのジャケットで目立つのは、若きシルヴィー・ヴァルタンである。そのジャケットを見たとき、僕は友人に「ウルトラマンのバルタン星人は、シルヴィー・ヴァルタンからきているの、知ってたかい」と思わず言ってしまった。店で掛かっている音楽はジャズかポピュラーで、女性ヴォーカルが割に多いが、一度、クリフ・リチャードが掛かっていたことがある。

入口横のカウンターには音楽雑誌や映画雑誌の新刊も置いてあり、「キネマ旬報」も揃っている。レコードやCDが多いのだが、一面の壁は映画ソフトの棚になっている。ただし、VHSテープがほとんどで、テープの間にDVDソフトが少し並んでいるくらいだ。ちょっとほしくなる作品が多く、僕がLDで持っていた「愛を弾く女」(1992年)もあった。プレイヤーが壊れてLDを処分してしまったので、「愛を弾く女」は今は見られない。ただし、こちらではVHSの再生機を持っていないので、買っても自宅へ送って見なければならない。

先日、その棚でサミュエル・フラー監督の「拾った女」(1953年)のDVDを見つけた。昔に見てはいるのだが、リチャード・ウィドマークのファンであるので持っていたいと思った。しかし、根がケチなので千五百円が高いと感じてしまう。以前、その店で一枚五百円のクラシック作品を五枚ほどまとめ買いしたが、同じクラシック・シリーズなのに「拾った女」は入手しづらいので高いのだろう。そう思って棚を見ていたら「恋するガリア」(1965年)のDVDがあった。テーブルに戻り、友人のスマホでアマゾンで検索してもらうと、中古DVDに一万円を超える値が付いていた。ケチな僕は決心し、「恋するガリア」を買った。三千円だった。

●映画がファッションや音楽の情報源だった時代があった

「恋するガリア」は公開される前から、映画雑誌で主演のミレーユ・ダルクのファッションやヘアースタイルなどが話題になっていた。六〇年代半ばの話である。まだ、映画がファッションなどの情報源として成立していたのだ。特に海外の情報収集には、まだまだ映画が役立った。ビートルズだって、地方の若者は「ビートルズがやってくる/ヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1963年)や「HELP! 四人はアイドル」(1965年)が公開されたことでファンになった人間も多い。その映画で初めて、演奏するビートルズを見たのだ。当時、音楽もファッションも流行の中心はイギリスだった。ミリタリールック、モッズルックも、みんな映画で流行した。だから、映画雑誌が映画の中のファッションを特集することもあったのだ。

ミレーユ・ダルクは「恋するガリア」によって、一躍、フランスの若手トップ女優になった。ブリジット・バルドーやミレーヌ・ドモンジョ(タイムボカンのドロンジョ様は彼女の名からきているらしい)のような肉感的グラマー女優ではなく、痩せて男の子のような体つきで、オールヌード(背中側からだけど)を披露しても、あまりセクシーではなかった。後半では胸も見せちゃうのだが、ほんとに小さくて、僕は十代半ばで性欲の絶頂期にあったくせにまったく興奮しなかった。ブラジャーがいらないんじゃないか、と思った(映画の中で彼女はノーブラを通す)。もっとも、僕はスレンダーガール(死語か)が好きだったから、ミレーユ・ダルクは好みだった。スカートではなく、パンツ・スタイルがよく似合った。

「恋するガリア」の監督は、ジョルジュ・ロートネル。この作品以降、ミレーユ・ダルクを使い続けた。ミレーユ・ダルクは六〇年代末からナタリー・ドロン(「サムライ」に出演している)と別れたアラン・ドロンと同棲し始めるが、ふたりが共演した「愛人関係」(1973年)と「チェイサー」(1978年)はジョルジュ・ロートネルが監督した。ちなみに、フランス文学者の鹿島茂さんのエッセイによれば、「マディソン群の橋」は世界的ベストセラーになり、フランスでは劇化されたという。主演は、年を重ねたドロンとミレーユ・ダルク。劇中、ミレーユ・ダルクがドレスをパッと脱ぎ、ライブでオールヌードになる場面があり、変わらぬ美しさに劇場中がどよめいたとあった。

ちなみに、僕が見た最新のミレーユ・ダルクは、アラン・ドロンが久し振りに出たフランスのテレビドラマ「刑事フランク・リーヴァ」(2003~2004年制作)だ。ドロンはマフィアに潜入して壊滅させた刑事で、報復を逃れて長くフランスを離れていた設定だった。旧友の警視に乞われて数十年ぶりにパリ警察に復帰し、再びマフィアと対決する。ミレーユ・ダルクは、フランク・リーヴァの昔の恋人という実人生と重なる役だった。その時点で、一九三五年生まれのドロンは六十八歳、一九三八年生まれのミレーユ・ダルクは六十五歳だった。しかし、ふたりとも、とてもそんな年には見えなかった。

ミレーユ・ダルクには、変わった出演作がある。ジャン=リュック・ゴダール監督の「ウィークエンド」(1967年)だ。日本公開は一九六九年の秋だったが、僕は翌年に新宿紀ノ国屋ホールで見た。週末に郊外へ向かう車の渋滞が延々と続くのを移動撮影しているシーンをよく憶えているが、細かいところは忘れてしまった。アンナ・カリーナを失ったゴダールは、この作品ではミレーユ・ダルクを起用した。やがてゴダールはアンヌ・ヴィアゼムスキー(ノーベル賞作家フランソワ・モーリアックの孫ですね)という新しいミューズを得て、「中国女」(1967年)を制作する。やっぱり、ミレーユ・ダルクはジョルジュ・ロートネル監督にとってのミューズだったのだろう。

●「冒険者たち」と並ぶリノ・ヴァンチュラの代表作

ジョルジュ・ロートネル監督は、「恋するガリア」でミレーユ・ダルクを人気女優にし、翌年には「太陽のサレーヌ」(1966年)で再びミレーユ・ダルクをヒロインにして撮っているが、同じ年に「女王陛下のダイナマイト」(1966年)を作った。主演は、リノ・ヴァンチュラである。相棒役は、僕の好きなミッシェル・コンスタンタンだ。このふたりを見れば、誰だってフレンチ・ノアールだと思う。鶴田浩二と高倉健が出ていれば、やくざ映画と思うのと同じだ。しかし、これは犯罪コメディというジャンルになるだろう。痛快なアクションが続く徹底した男性映画であり、その中に紅一点的にミレーユ・ダルクも出ていた。

僕が「女王陛下のダイナマイト」を見たのは五十年前のことだけれど、「とにかく、面白かった」という記憶が今も強く残っている。ラストシーンも鮮やかだ。リノ・ヴァンチュラは、この作品の後に「冒険者たち」(1967年)に出演した。彼の絶頂期の一本である。邦題は日本の映画会社が勝手につけたもので、当時、イギリスのものは何かと「女王陛下の××」と言われた。有名なのは、「女王陛下の007」である。ビートルズもレコードが売れて外貨をいっぱい稼いだから、女王陛下から勲章をもらい「女王陛下のビートルズ」になった。

この映画では、リノ・ヴァンチュラは足を洗った元ギャングで、昔の仲間に逃亡資金を貸したことから金塊強奪計画に巻き込まれ、イギリスのギャング団と戦わなければならないはめに陥る。フランスの元ギャング対女王陛下のギャング団なのだ。ミレーユ・ダルクは、リノ・ヴァンチュラの仲間の元奥さんとして登場した。それも、ずいぶん経ってから出てくるのだ。イギリス・ギャング団に追われたヴァンチュラたちは、彼女のところに逃げ込む。ミレーユ・ダルクはボーイッシュで、アクションもこなしたと思う。

おかしいのは、イギリスのギャング団がモッズ・ルックで、ビートルズや当時のロック・グループを連想させるスタイルなのだ。当時、流行した帽子をかぶっていたし、細身でくるぶしが見える短いパンツ・スタイルである。彼らは、何でもかんでもダイナマイトで破壊する。見どころは、彼らに追い詰められたリノ・ヴァンチュラたちの反撃である。「冒険者たち」では、最後にドイツ軍が残した手榴弾をギャングたちに投げつけたヴァンチュラだが、ここではダイナマイトに火を点けて投げる。

ということで、邦題が「女王陛下のダイナマイト」というふざけたものになったわけだが、とぼけた邦題が示すようにコミカルな要素も多い。それと、犯罪ものとしてのシリアスさと、アクションシーンがほどよくシェイクされ、極上のカクテルができあがった感じだった。こういう、シャレたギャング映画はなかなかない。僕には一度だけ見て、もう一度見たいと切望する作品が何本もあるけれど、「女王陛下のダイナマイト」はそのトップにあげてもいい。今もDVDは出ていない。「恋するガリア」も十数年前に出たDVDが中古市場で流れているだけらしいが、「女王陛下のダイナマイト」をどこか出してくれないかな。

2017年6月22日 (木)

■映画と夜と音楽と…777 「非情のライセンス」を作詞した監督



【キイハンター/Gメン75/組織暴力/新幹線大爆破】

●「非情のライセンス」が一日中テレビから流れた日

六月十六日は、一日中「キイハンター」のテーマ曲「非情のライセンス」が流れた日だった。僕は、この歌を歌詞カードなしで歌える。「あーあ、あの日愛して燃えて~」と聴くと、千葉真一の顔が浮かんでくる。実は、ときどきユーチューブで聴いていた。この後に「Gメン75」のラスト・クレジットでしまざき由理が歌う「面影」を聴く。

「キイハンター」(1968年4月~)はヒットして五年も続いたが、その後は「アイフル大作戦」(1973年4月~)「バーディ大作戦」(1974年4月~)が一年ずつ放映され、「Gメン75」(1975年5月~)が再び何年も続く人気番組になった。東映が制作したアクションドラマ・シリーズである。監督は深作欣二、佐藤純彌が主に担当した。同時期、深作欣二は代表作「仁義なき戦い」(1973年)を撮り、佐藤純彌は「新幹線大爆破」(1975年)を撮っていた。

「キイハンター」のメインキャストでは丹波哲郎、千葉真一、野際陽子、谷隼人、大川栄子という名前が浮かんでくる。番組がきっかけで千葉真一と野際陽子が結婚し、後に谷隼人と松岡きっこが結婚した。野際陽子は、倉本聰の脚本で放映中の「やすらぎの郷」に出演していたので元気なのだと思っていたが、数年前からガンを患っていたという。

野際陽子の葬儀が六月十五日に行われ、その翌日は各局のニュース番組やワイドショーは長い時間を割いて報道したが、ある局は谷隼人をゲストで呼んでいて久しぶりに彼の顔を見た。残念なのは、松岡きっこが出てこなかったことである。もっとも、谷隼人と松岡きっこが結婚するきっかけになったのは、「バーディ大作戦」だったと思う。

「キイハンター」のメンバーの中でマスコット的存在として出演していたのは、僕が好きだった大川栄子である。好きだったわりには、僕は大川栄子が出ている映画としては工藤栄一監督の「十一人の侍」(1967年)しか思い浮かばない。密命をおびた主人公(夏八木勲)は偽装して脱藩しなくてはならず、愛妻(宮園純子)を置いて若い武家娘(大川栄子)と駆け落ちしたことにする。

夏八木と大川栄子は江戸へ出てふたりで長屋住まいをしているが、そこへ愛妻が訪ねてくる。そのときの大川栄子が好きだった。去年、たまたま「徹子の部屋」に大川栄子と河原崎健三が出演していて、初めて河原崎健三と結婚していたのを知った。大川栄子は年を重ねていたが、昔と変わらない清楚さだった。「キイハンター」の頃は、アイドル女優的な人気があった。

さて、野際陽子はテレビの人である。亡くなって出演作を調べてみたが、代表作はテレビドラマばかりである。公開予定の遺作「いつまた、君と」が久しぶりの出演作ではないだろうか。僕が初めて彼女を見たのは、「赤いダイヤ」というテレビドラマだった。女優に転身して、すぐの出演である。主人公が慕い続けるマドンナ的な役だった。「赤いダイヤ」とは小豆のことだ。先物取引、つまり小豆の相場を張る相場師が主人公だった。

原作は、当時のベストセラー作家の梶山季之。主演は大辻司郎(二代目)だった。なぜ「二代目」がついているかというと、父親も大辻司郎という名で活躍した役者だったからだ。放映はもっと長かったと思っていたけれど、一九六三年九月からの三ヶ月だった。僕は小学生で、父と一緒に見ていた。ちなみに野際陽子の実質的な女優デビューは、テレビドラマ化された「悲の器」だったという。文芸賞を受賞した高橋和己の小説だ。僕の青春時代の必読書だった。

●「非情のライセンス」や「面影」を作詞した映画監督

「キイハンター」のテーマ曲「非情のライセンス」も「Gメン75」のラストに歌われた「面影」や「追想」も、作詞を担当したのは佐藤純彌である。一時期、東映大泉撮影所の若手監督として深作欣二と佐藤純彌は並び称せられていた。監督第一作は「陸軍残虐物語」(1963年)だが、その後も深作欣二が監督した「狼と豚と人間」(1964年)の脚本を共同で担当している。

深作より二歳年下で、千葉真一主演「風来坊探偵 赤い谷間の惨劇」(1961年)で監督デビューした深作から、きっちり二年遅れて監督デビューした。ちなみに深作欣二は、監督デビューした年に「風来坊探偵」シリーズなど五本も監督している。千葉真一主演で四本、丹波哲郎主演が一本ある。彼らは、深作組の俳優だった。

当時、東映は観客をさらに取り込もうと第二東映を立ち上げ、制作本数を一挙に増やさなければ系列館に上映作品を配給できない状態だった。二本立てで週替わり。月に何本の作品を供給しなければならないのか。監督になったばかりの深作欣二は、一時間程度の併映作品とはいえフルに働かされていたのだろう。

日体大を出てテレビ「七色仮面」の二代目の主演でデビューし、続く「アラーの使者」の主演で人気者になったが、本編では新人俳優に過ぎなかった千葉真一の主演だった。つまり、B級扱いである。しかし、それだから自由に撮れたのかもしれない。「風来坊探偵 赤い谷間の惨劇」は、当時、好評を博した。僕は、小学校の四年生だったけれど、予告編を見たことを今も鮮明に憶えている。

深作欣二が注目されたのは、六作目の社会派ドラマ「誇り高き挑戦」(1962年)だ。鶴田浩二と丹波哲郎が主要キャストだった。深作欣二、佐藤純彌、丹波哲郎、千葉真一などは、若い頃から「同じ釜の飯を喰った仲間」だったのだ。丹波哲郎は若い頃(彼にも若い頃があったというのが、何となくおかしい)から大物ぶりを発揮して、ほとんどセリフを覚えず(脚本を読まず)に現場に入ったという。

現場では、そこら辺中にセリフを書いたカンニングペーパーを貼り、それを見ながら演技するものだから「自然と芝居が大きくなった」と、テレビのトーク番組で深作欣二が語ったことがある。丹波哲郎は深作の言葉を聞いて、豪快に笑っていた。ある俳優はテレビのトーク番組で「丹波さんに現場で『ここは、どういう場面なんだ』と聞かれ、脚本の大筋を話すと『そうか、そういう話だったのか』とうなずいた」と話していた。

佐藤純彌は、六〇年代後半に「組織暴力」(1967年)シリーズをヒットさせ、深作欣二と並び、東映大泉撮影所の主要監督になった。「組織暴力」も丹波哲郎、千葉真一などが主要キャストを担っている。その頃に、テレビシリーズ「キイハンター」をスタートさせるのだが、それが五年も続く番組になるとは思っていなかっただろう。

今のテレビ界では考えられないが、「キイハンター」は全部で二百六十二話あるそうだ。工藤栄一監督も担当し、脚本には後に「金八先生」で当てる小山内美江子も参加している。ちなみに、小山内美江子の息子の利重剛は高校生の頃、初期のぴあフィルムフェスティバルに八ミリ作品が入賞したのがきっかけだったのか、岡本喜八監督作品「近頃なぜかチャールストン」(1981年)に主演した。

●六〇年代に東映大泉撮影所を担った監督や俳優たち

「キイハンター」を思い出すと、深作欣二監督や佐藤純彌監督や彼らと縁の深かった役者たちを思い浮かべる。その佐藤純彌は、高倉健の最高傑作(と僕が思う、という但し書き付きだが)を撮った監督である。高倉健の東映専属時代の最後の作品「新幹線大爆破」は、演技者・高倉健の最高傑作だと僕は思っている。フリーになった第一作「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年)も佐藤純彌監督である。

高倉健は、佐藤純彌監督を信頼していたのだろう。中国で大ヒットした「君よ憤怒の河を渉れ」には、何度見ても涙ぐむシーンがある。気取ったしゃべり方の中野良子が今でも好きなのは、この映画のヒロインを演じた彼女が素晴らしいからだ。それは中国人も同じらしく、今も彼女は向こうでは大女優である。

その後の角川映画「人間の証明」(1978年)「野性の証明」(1978年)も佐藤純彌が監督をした。「人間の証明」にはがっかりしたが、「野性の証明」は高倉健が出てくると、さすがに締まる。ヒロインを中野良子が演じたのは、「君よ憤怒の河を渉れ」で高倉健が彼女を気に入ったからだろうか。

しかし、その後、佐藤純彌監督は「未完の対局」(1982年)や「敦煌」(1988年)などの中国と合作の大作ばかり撮るようになった。二十一世紀になってからは、テレビの仕事以外には「男たちの大和/YAMATO」(2005年)や「桜田門外ノ変」(2010年)がある。どちらも、それなりに面白く見たが、若き佐藤純彌監督の鋭さはなくなっていた。

二十一世になってからの佐藤純彌監督の仕事で僕の印象に残っているのは、WOWOWドラマ「イヴの贈り物」(2007年)である。原作は白川道の短編小説。主演は舘ひろしだった。若きヒロインはNHKの朝のドラマの主演をやる前の貫地谷しほりだった。「スウィングガールズ」(2004年)に出ていたのは知っていたが、僕はこのドラマで顔と名前が一致した。

ドラマの音楽を担当した宇崎竜童も出演していた。石倉三郎も印象的な役だった。苦界に堕ちた若い女性を中年男が救うという古くさい物語なのだが、ハードボイルドな雰囲気が好きだった。舘ひろしも抑えた演技で、いつもと違って渋かった。監督名がクレジットされたとき、僕は「佐藤純彌だあ」と叫んだものだ。「キイハンター」以来、佐藤純彌監督はテレビでもよい仕事を残している。

2017年6月15日 (木)

■映画と夜と音楽と…776 やっぱり海が好き



【虎鮫島脱獄/パピヨン】

●海から五キロ近く離れているのに海抜四メートル?

先日、散歩をしていて大通りのガードレールに「海抜四メートル」という表示板を見つけた。市か県が設置したものらしい。僕が今住んでいる場所は、海まで四キロから五キロはあるだろう。歩いて一時間くらいはかかる。一度、川に沿って海まで散歩しようと歩いてみたが、「あそこまでいけば海が見えるな」という場所で挫折した。すでに、片道四十分は歩いていたからだ。「あそこまていって帰ったら二時間近くになる」と、帰りの距離を思って心が挫けた。しかし、それだけ離れているのに、海抜が四メートルしかないのか、と少し驚いた。

十数年前だろうか、高潮と台風が一緒になったとき、高松市の海辺がかなり浸水した。僕が子供の頃に高い塀の周りを自転車で走って遊んだ高松刑務所(松島大学と呼んでいた)は、海からけっこう離れているのに、そのあたりまで水に浸かったという。友人の自宅も床上浸水になった。高松市は讃岐平野にあるのだけれど、相当に平らな陸地らしい。確かに、子供の頃から坂にはなじみがなかったから、東京に出たときは坂道が多いのに驚いたものだ。近くのため池の数メートルある土手に登ると、高松の港に建つビルがよく見えるし、その向こうの瀬戸内海の島も見える。やっぱり海が近いのだと実感する。

子供の頃は、自転車でよく海にいった。夜中に起きて友だちと自転車を走らせ、源平合戦で有名な屋島の壇ノ浦近くの海辺で投げ釣りをやったりもした。高校は高松港まで歩ける場所だったので、感傷的な気分になると港へいき、赤灯台を眺めて自己憐憫に浸ったりした。霧の深い夜など、霧笛がボーッと聞こえてくる。

夏の海水浴には、塩屋や松原が続く津田などにいったものだ。小学校の臨海学校は塩屋の浜が多かった。高松港から船で二十分の女木島では、よくキャンプをした。そう言えば、今はすっかり「アートの島」になった直島には、小学六年の臨海学校でいったことがある。島の小学校の教室にクラス全員で泊まった。その頃、精錬所のあった直島は「禿げ山の島」だった。

村上春樹さんの「海辺のカフカ」で、カフカが家を出ていきつく場所が高松だった。カフカ少年は、高松駅の近くで讃岐うどんを食べる。その後、海辺の奇妙な図書館が出てくるが、その場所を僕は津田の松原を思い浮かべながら読んだ。高松という地名は出てきたが、その他の場所は具体的には書かれていない。村上さんの頭の中で作られた場所だろうし、実際の場所を思い浮かべながら書いたとしても現実の場所ではない。

しかし、土地勘のある僕は、読んでいるとどうしても具体的な場所のイメージが浮かんでくる。「海辺のカフカ」には、高松市内の神社が出てくる。その神社は、岩清尾八幡宮のような気がした。栗林公園の近くにある大きな神社だ。「八幡さん」と呼ばれていた。「八幡さんのお祭り」には、子供の頃によくいったものだった。

●僕が偏愛する映画は海に関連するものばかり

先日、何回目になるかわからないが、「冒険者たち」(1967年)をまた見ていた。プロジェクターで左右二メートルほどの大きさに上映すると、なかなか雰囲気がいい。「冒険者たち」を見ていて、僕がこの映画を偏愛する理由のひとつに「海」があるのだと思った。映画として大好きなのだが、十六歳の僕がこの映画を宝物のように思うようになったファクターのひとつには、間違いなく「海」がある。明るいコンゴの海、そして、あの要塞島が浮かぶ海がなければ、「冒険者たち」は成立しない。

ラストシーンでは、要塞島に打ち寄せる波の音しか聞こえない。ひとり生き残ったローラン(リノ・ヴァンチュラ)を捉えたカメラはぐんぐん上昇し、海面にポツンと小さくなった要塞島があり、クレジットタイトルが海面に重なる。フランソワ・ド・ルーベのテーマ曲が静かに流れ始める(アラン・ドロンの「愛しのレティシア」が重なるバージョンは、リバイバル上映になったときのものだ)。

海が出てくる映画は無尽にある。アラン・ドロンで思い浮かべても「太陽がいっぱい」(1960年)があり、荒れた海のシーンから始まる「リスボン特急」(1972年)がある。「冒険者たち」のリノ・ヴァンチュラで思い出すと、ロベルト・アンリコ(ロベール・アンリコ)監督と組んだ「ラムの大通り」(1971年)が浮かんでくる。

夏休みが長いフランスでは、「夏のバカンスもの」という映画ジャンルがあり、「青い麦」(1953年)「ひと夏の情事」(1959年)「赤と青のブルース」(1960年)などを思いだす。フランス映画ではないけれど(ドイツ人がアメリカ人とイギリス人とフランス人を使って監督した)、南仏とパリが舞台の「悲しみよこんにちは」(1957年)も同じジャンルだ。エリック・ロメール監督にも「海辺のポーリーヌ」(1983年)を始め何本もある。

海辺のシーンが出てくるだけで、僕は心が静かになる。落ち着く。癒される。あんな海辺を歩いてみたいと思う。ちょっと思い浮かべると、「いそしぎ」(1965年)のタイトルバックのシーン、「ジュリア」(1977年)でリリアン・ヘルマン(ジェーン・フォンダ)とダシール・ハメット(ジェーソン・ロバーズ)が夜の浜辺で語り合うシーン、「男と女」(1966年)のドーヴィルの海岸を犬を連れた老人が夕日を浴びて散歩しているシーンなどだ。北野武の海のシーンも印象的だった。「あの夏、いちばん静かな海。」(1991年)や「ソナチネ」(1993年)「HANA-BI」(1997年)の海の美しさが忘れられない。

「冒険者たち」にオマージュを捧げているとしか思えない、リュック・ベッソン監督の「グレート・ブルー(グラン・ブルー)」(1988年)も海の映画だった。素潜りの名人たちの映画だから海ばかりが出てくるのは当たり前なのだけど、オープニングシーンから海面を疾走するカメラに興奮したものだ。ジャン・レノもあの映画で初めて見たのだった。ヒロインのロザンナ・アークェットも人気が出たが、最近は「6才のボクが、大人になるまで」(2014年)でアカデミー助演女優賞を受賞した妹のパトリシアの方が知られているかもしれない。

●海で隔絶された孤島は絶好の刑務所になる

改めて考えてみると、僕が偏愛する映画は海に関連がある。「ビッグ・ウェンズデー」(1978年)はサーフィンの映画だから全編ほとんど海だし、「めぐりあい」(1968年)では岩場に寝そべる酒井和歌子の白い水着姿が脳裏に焼き付いている。「おもいでの夏」(1970年)は、ひと夏を島で過ごす少年の物語だ(これはハリウッド映画で「夏のバカンスもの」のジャンルに入るだろうが、僕としては「少年の初体験もの」ジャンルに分類したい)。もちろん、海がまったく出てこない作品でも好きなものは多いし、感銘を受けたり、忘れられない作品はあるが、何度も見たくなる偏愛する映画には海が出てくるものが多い。

明るいイメージがある海だが、海の中に孤絶する島は絶好の刑務所になる。昔から海で囲まれた島は、罪人たちを収容する場所としても使われてきた。オーストラリアはイギリスの罪人が送られる地の果てだったし、フランスには「悪魔島」があった。フランスやイギリスは、たくさんの植民地を持っていたからだ。日本でも、昔から「島流し」の刑罰があった。ナポレオンも島に流されたが、崇徳上皇も讃岐に流され、俊寛は鬼界島に流された。世阿彌は佐渡に流され、木枯らし紋次郎は八丈島に流された。八丈島の罪人たちは赦免になるのを待ちわび、赦免花が咲けば御赦免船がくると喜んだ(と笹沢佐保さんは書いていた)。

監獄島を舞台にした映画には、古いところでジョン・フォード監督の「虎鮫島脱獄」(1936年)がある。この作品では海は脱獄を不可能にしている難関なので、海の美しさというものは描かれない。荒れる海、禍々しい海がモノクロームで捉えられ、主人公にとっては絶望を感じさせるものになっている。物語はリンカーン大統領暗殺から始まり、犯人の怪我を治療した医師が共犯に問われる。大統領暗殺で殺気立つ大衆を鎮めるために、裁判で有罪になった医師は重罪の囚人を収容する虎鮫島に送られる。そこから脱出できるかどうか。後半のサスペンスは、さすがにジョン・フォードだ。

「虎鮫島脱獄」も実話ベースらしいが、「パピヨン」(1973年)はフランス人の元脱獄囚が書いた体験談が世界的ベストセラーになり、映画化権をハリウッドが獲得し、スティーブ・マックィーンが主人公パピヨン(胸に蝶〈パピヨン〉の刺青をしていることからの通り名だ)を演じた。彼は無実の罪でフランス領にある「悪魔島」に送られる。送られる船中で知り合うのが経済詐欺犯のルイ・ドガ(ダスティン・ホフマン)である。

大学生で初めて見たとき、経済詐欺でフランス中の人間に憎まれているという設定がよくわからなかったが、十年ほど前、日本でも投資詐欺で捕まった投資コンサルタント会社の社長がいた。彼のところに莫大な資金を預けて、運用を依頼していた企業年金基金が破綻する事態になった。その結果、企業年金基金が解散になったり、大きく法制度が変更された。その社長は、企業年金を頼りにしていた多くのサラリーマンの憎しみを買った。彼らの老後を不安に陥れたからだ。ルイ・ドガは、そんな経済詐欺を働いたのだろう。

いつ殺されるかわからないルイ・ドガをパピヨンが守り、資金力のあるルイ・ドガがパピヨンをバックアップするという契約が成立し、ふたりはコンビになり十数年の年月の間に深い友情が生まれる。そして、ラストシーン、年老いたふたりが断崖絶壁に立つ。何度も脱獄を試みたパピヨンは、あきらめない。その断崖絶壁から青い南の海に飛び込む。しかし、ルイ・ドガはついに飛び込めない。

陽光にあふれた南洋の美しい紺碧の海が、ふたりの前に違う姿を表す。パピヨンにとって、その海は自由に続いているものだ。ルイ・ドガにとっては、死への入り口に見えたのかもしれない。海は天候によってまったく違う顔を見せるが、立ち向かう人間の内面によっても違う顔に見えるのかもしれない。もっとも、波の穏やかな瀬戸内の海を見て育った僕は、荒れた海に慣れていない。あくまで、海は美しいものだと体に沁み込んでいる。

2017年6月 8日 (木)

■映画と夜と音楽と…775 死は自分で選べるか?



【君がくれたグッドライフ/或る終焉】

●日本では十代から四十代まで死因のトップが自殺

「生まれたときは別々でも、死ぬときは一緒だ」という決めゼリフは、昔の物語にはけっこう使われていた。やくざ映画なら主人公が殴り込みに向かう途中、「ご一緒させていただきます」と待っていた相棒の心意気を表すのにはぴったりのセリフだった。また、恋愛物の場合には、ふたりの強い絆を確認し愛を誓い合うといった場面で説得力があった。

男と男でも、男と女でも、一緒に死ぬというのは結びつきの強さを表したのだ。しかし、こういうセリフが陳腐になり、今は誰も使わない。「生まれたときは別々でも、死ぬときはバラバラだ」というギャグが流行ったこともあるけれど、元のセリフが一般的ではなくなってしまったので、ギャグとして成立しなくなった。

ところで、「生まれたときは別々でも、死ぬときは一緒だ」というセリフは、生まれるのは自分でコントロールできないけど、死は自分でコントロールできる(選べる、決められる)ことが前提になっている。「子供は親を選べない」と言われるように、「いつ」「どこに」「どんな親の元に」「どんな環境で」生まれるかは、自分の意志では決められない。それは、運不運が支配する運命の領域だ。

一方、死は自分で決めようと思えば決められないことはない。先日、日本人の自殺率についての記事が新聞に掲載されていたが、世界でもかなり高い自殺率らしい(ちなみに国別の順位を見ていて驚いたのは、リトアニア、ラトビアなどが上位にいたことだ。宗教観などによって国別の違いはあるかもしれないが、バルト三国はそんなに自殺したくなるような国なのか? ロシアに虐められすぎてきたからなのか?)。

日本では十代から四十代くらいまでは、死因のトップが自殺だという。キリスト教のように「自殺は罪」という観念がないから、日本では「自殺によって救いを求める」傾向が強いのかもしれない。死ぬことで「楽になる」という発想が日本にはある。「楽にしてやるぜ」と悪役が凄むのは「殺してやる」ことだし、断末魔に苦しむ患者を見て家族が「早く楽にしてやってください」と医者にすがるシーンも見かけることがある。とどめを刺すのは「楽にしてやる」慈悲の好意として受け取られる。

「死は楽になること」だから、自殺は「救い」になるのだ。だから、日本では「自死」「自殺」「自決」「自裁」といった様々な言葉が存在している。自殺を、責任をとる、自らを裁く、といった肯定的な意味合いで捉える言葉も存在する。死は自分で決められるから、このような言葉が日本には昔から存在したのだろう。

しかし、人は本当に自分で死を選べるのだろうか。最近、「尊厳死」という言葉が使われ始めている。しかし、「安楽死」という言い方が、「尊厳死」に変わったということではないらしい。医師が患者の意志を確認して自殺幇助をするのが安楽死(不治の病の患者に死に至る注射をするなど)で、延命治療をしないという消極的なのが尊厳死だと定義する人もいる。「尊厳死」という言葉には、最近の終末医療に対する批判が感じられる。いろんな管をつながれて無理矢理生かされるより、尊厳ある死を迎えたいということだろう。

「尊厳死」は認めるが、医師が積極的に自殺を幇助する「安楽死」は認めないという国は多い。医師が致死剤を投与して患者を死に至らしめても罪に問われない国は、オランダ、ベルギー、スイス、ルクセンブルクなどヨーロッパの国とアメリカのいくつかの州だけだ。僕は「人間としての尊厳を持って死ぬ」よりは、「安楽に」死にたいと思っているが、日本ではそれはかなわないことなのだろうか。苦痛と恐怖がなく、安らかに死んでいけたら文句はない。

●ベルギーへの自転車旅行には深刻な目的があった

昨年公開された二本の映画で、「安楽死」が描かれていた。一本はドイツ映画「君がくれたグッドライフ」(2014年)である。冒頭、何人かのエピソードが並行して描かれる。室内で自転車漕ぎをしているのはハンネスだ。妻のキキが心配そうに見つめている。女性と別れ話でもめている女たらしの男、性生活がうまくいっていない夫婦などが登場する。

やがて彼らが友人同士で、毎年、長期休暇をとって自転車旅行をしている仲間だとわかる。今年の目的地ベルギーを決めたのはハンネスで、「ベルギーには何もないじゃないか」と友人は文句を言っている。キャンプ用品などを積んで走り出すと、ハンネスの体調が悪そうだ。それをキキが心配そうに見ている。

一緒に旅行するメンバーには、ハンネスの弟もいる。実家の兄もいつもは参加しているのだが、今年は怪我で欠席である。そこで、仲間たちはハンネスの実家に寄る。ハンネスの実家でみんなでテーブルを囲んで食事をしているとき、ハンネスの母親がいきなり涙ぐむ。様子がおかしいので、一堂は不審に思う。キキがハンネスに目配せして、「みんなに話したら」と言う。

ハンネスが口を開き、自分がALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかっていることを告白する。ハンネスの父親も同じ病気で、体が動かなくなって長く寝たままになり死んでいった。ハンネスは、そんな風になって死ぬのを待つだけの人生はいやだという。みんな、ハンネスがベルギーを選んだ理由に気づく。すでに事前の検査や面接も終え、ベルギーに着けば安楽死できる手はずになっているのだ。

母親は「お父さんが寝たきりになっても、生きててくれれば私は幸せだった」とハンネスの決心を翻そうとし、弟は「なぜ事前に言ってくれなかったのだ」と怒り出す。仲間たちもハンネスの安楽死に向かってペダルを踏むことをためらう。しかし、翌朝、全員がハンネスと共に再び自転車で出立することを選ぶ。

そこから、ベルギーに到着するまでに様々なエピソードがあり、新しい人物が仲間に加わったりする。妻のキキも、とうとう本心を口にする。しかし、ハンネスの決意は固い。自分には少しずつ死に向かうだけの人生しか残っていないこと。やがて体が動かなくなり、惨めな思いをするのは父を見て知っている。体が動くうちに自分の意志で、自分の望む形で死を迎えたい、と思っている。

見ている方は、結末がどうなるのか予想がつかない。安楽死を中止すれば、徐々に衰えていく死を選んだことになるし、安楽死を決行すれば、三十半ばの人生に自分で幕を下ろすことになる。自分だったらどうするだろう、と答えを迫られる。僕は「安楽死を選ぶだろうな」と口にした。まったく直る望みはないし、すでに体の衰弱を自覚しているのだ。

ベルギーが近づくに従って、仲間たちの口は重くなり、陰鬱な雰囲気が漂い出す。ひとつの深刻な状態が周囲に波及し、仲間たちも今まで露わにしてこなかった問題に直面せざるをえなくなる。やがて、ベルギーに着き、ハンネスは医者を訪ねるが、医者は別に急病の患者が出て、決行は延期されることになる。さて、ハンネスはどうするのか?

「君がくれたグッドライフ」は邦題が的外れなのだが、シリアスなテーマをそれほど重くなく描き好感が持てる作品だった。ドイツ映画で俳優もまったくなじみがないため、テーマがよけい際立つ感じだった。これを顔なじみのハリウッド俳優が演じていたら、何となく嘘くささを感じたかもしれない。結末に僕は納得したが、一年後、再び自転車旅行するエピローグは必要ないと僕は思う。

人が死んでいくのを、これほどあっさりと描いた(現実がそうなのだろう)作品は知らない。死は自分で選べることを明確に描いた作品だった。死んでしまえば当人はいなくなり、残った人間たちは再び生きていかねばならない。そんなものだ。日本人でもベルギー(あるいはスイス)にいけば、安楽死できるのだろうか。不治の病といった明確で現実的な理由がなければ、ダメだろうか。芥川龍之介のように「漠然とした不安」では、理由にならないか。

●寡黙でストイックな描き方の映画の主人公もストイック

「或る終焉」(2015年)は、寡黙な映画だった。主演のティム・ロスのセリフも少ない。映画が始まって十五分くらいは、まったくセリフがない印象だ。会話も描写もストイックだし、主人公の生き方も極端にストイックだった。僕が好むタイプの映画である。僕は、間をおかずに二度見た。一度見ただけでは理解できなかったこともあるけれど、もう一度見たいと強く思わせる力が作品にあふれていたからだ。

何の予備知識もなく見たから、オープニングシーンで「サイコ映画」なのかと僕は思った。車のフロントガラス越しにある家が映る。車が二台駐車している。そのショットが長く続き、メインタイトルが出る。やがて家の中から若い女性が出てきて車に乗り込み走り出すと、こちらの車も動き出し跡を尾ける。しばらく尾行するショットが続き、いきなりネットで少女の写真を検索して見ている男のショットになる。どう考えても、サイコ映画じゃないか。

次はシャワールームで、やせ衰えた全裸の女性の体をティム・ロスが無言で洗っているシーンになる。やっぱり、これはサイコ映画ではないかと、その時点で僕はまだ思っていた。それに、ティム・ロスという俳優は、サイコ役にもピッタリだ。きっと、目をつけた若い女性の情報をネットで調べ、跡を尾け、拉致監禁し、飼育するのを快楽とするサイコに違いないと予想しながら僕は見続けた。

シャワールームから女性を抱えてベッドに横たえ、体を丁寧に拭き、簡単服を頭から着せかける。やせ衰えた女性は明らかに病身で、末期の患者のように見える。次のシーンは、彼女の妹一家らしき数人が彼女を見舞っている。少女がふたり、母親に言われて女性に別れを告げる。そのとき、ティム・ロスが「彼女、ちょっといいかな」と声をかけ、まるで看護士のように振る舞う。あれ、ちょっと違うぞ、とようやく僕は気づいた。

女性の葬儀らしいシーンになる。ティム・ロスが黒いスーツで出席している。あの女性とティム・ロスはどんな関係なのだろうと思っていたら、女性の姪だという若い女が声をかけてくる。そのやりとりで、ティム・ロスが看護士だとわかる。しかし、その夜、バーのカウンターでひとりで飲んでいたティム・ロスに隣のカップルが話しかけ、ティム・ロスは「最近、妻を亡くした」と答える。結婚していた年数を訊かれ、「二十一年」と言うのだ。やはり、変な男かなという気がしてくる。

彼が次に担当したのは脳梗塞で倒れた元建築士の老人だ。彼は建築士の仕事の話を聞き、書店で建築の本を書う。書店員に「建築家ですか」と問われて「イエス」と答え、患者の建築士が設計した個人の邸宅を「建築士の弟」と名乗って見せてもらいにいく。やっぱり、どこか変でミステリアスな主人公である。

彼の介護は献身的だ。患者からも信頼されている。しかし、あまりに患者に尽くすため、周囲の人間から不審な目を向けられる。建築士の娘や息子は「父親は彼に操られている」と言い出し、「セクハラで訴える」と彼の会社の上司に連絡する。患者とは会わないことを条件に訴訟はやめると言われるが、患者に会いにいき娘に冷たくあしらわれ、訴えられて職を失う。

そして、冒頭のシーンの続きのショットになる。若い女性の乗った車を尾行し、女性が降りた跡を尾けていき、彼女と並ぶ。そこから、意外な展開になる。主人公は寡黙でストイックで、ほとんど自分のことを話さず説明しない。映画も同じスタイルだ。寡黙でストイックな映像で、説明しない。だから、一度見ただけでは理解しづらい部分もある。観客が想像力をフルに働かせないといけない作品だ。

職を失ったティム・ロスが昔の事務所のボスに紹介されたのは、末期のガン患者だった。彼女は放射線療法を受けているが、副作用ばかり出てガンの進行は止まらない。彼女は治療を拒否し、死を迎えようとする。ティム・ロスの看護士はプロフェッショナルで、献身的で、死に対しても心を騒がせず(表面上はまったく変わらない)に立ち向かえる。患者たちは深く信頼し、彼に何でも打ち明け相談し、依頼する。そして、末期ガンの患者は、あることを彼に頼む----。

僕が神と仰ぐジャン=ピエール・メルヴィル監督の作品のように、映像は厳しく冷たくストイックで、セリフはほとんどなく、説明しない。会話の中で出てくる過去の出来事が、きちんと描写され、何があったのかわかるように説明されると思っていると、肩すかしをくわされる。わずかなセリフで、観客は想像しなくてはならない。ただし、必要最低限の情報は観客に示される。そして、唐突に終わる。人が死んでいくのを淡々と描き、見事な感銘を残す。しばらく、立ち上がれない。凄い映画を見た。

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