映画・テレビ

2017年4月27日 (木)

■映画と夜と音楽と…770 世界は欠けがえのないものばかりか?



【世界から猫が消えたなら/メトロポリス/道】

●利根川の二匹の猫と遊ぶのが散歩の途中の日課になった

四月中旬から再び、四国の実家の裏の一軒家で生活している。一日の生活サイクルは、自宅にいるときとほとんど変わらない。早朝に目が覚めるものだから、六時頃には散歩に出る。七時過ぎに戻り、掃除と洗濯をし、シャワーを浴びてから朝食を作る。十時くらいになると実家に顔を出し、両親が飼っている猫と遊ぶ。二ヶ月ほど離れていたので忘れられたかと思ったが、警戒心が強い猫なのに僕の顔を見ても逃げなかった。頭から首をなでると、ゴロゴロとのどを鳴らす。無愛想ではあるが、とりあえず喜んでいるらしい。子猫の頃はかわいかったのに、成長するに従って顔が黒くなり、今では姪に「盗人顔」などと言われている。もう十年近く実家で暮らしている。

自宅にいるときには、一年半ほど前に娘が拾ってきた猫をかまうのだが、この猫は体に触られたり抱かれたりするのが嫌いで、抱き上げようとすると怒って牙をむく。ときにはひっかく。四国で数ヶ月過ごして帰ると僕のことはすっかり忘れていて、最初は警戒して逃げた。数日して慣れると、以前のように餌をねだって僕の足に頭突きをするようになった。早朝だと家族はみんな寝ているので、たったひとり起きている僕に「ゴハン、ほしい」と意思表示するしかないのだ。鶏のささみをゆでて細かくほぐした餌(これを作るのも僕の役目だった)を皿に載せてやると、しばらく眺めた後、がつがつと食べ始める。

ただ、我が家の猫は食事には恵まれているせいか、きちんと全部を平らげない。いつも少し残す。「ぜいたくだなあ、利根川の猫たちは、いつだって全部きれいに平らげるよ」と猫に言い聞かせ、残ったささみをラップに包みポケットに入れる。以前に書いたことがあるが、利根川のほとりの雑木林に捨て猫され、その横の畑の持ち主であるリリー・フランキーに似たおじさんが去年の七月から育てている三匹の猫に会うのが散歩のときの楽しみになった。ただ、一番体が小さかった子が昨年十二月の頭から見あたらないと思っていたら、暮れに「車にひかれて死んだのよ」と犬を散歩させていたおばあさんに教えられた。

以来、自宅にいるときは毎朝、利根川の二匹の猫と遊ぶのが散歩の途中の日課になった。しかし、一月に母親が入院したので一ヶ月半ほど四国で生活していたため、利根川の猫たちとは別れなければならなかった。人なつっこい猫たちで僕の姿を見つけると、遠くから走り寄ってくる。僕の足下にまとわりつき、僕を見上げてニャアニャアと鳴く。僕はひざまづき、猫たちをなでてやる。雄の三毛は僕の足の上に座り込み、気持ちよさそうに目を閉じる。犬のチンみたいな顔をした雌の猫は、僕の足の間をぐるぐるまわり、ときどきニャアと鳴いて膝に身をすりつける。猫たちとの蜜月、至福のときだった。

その猫たちと一月中旬から二月末まで別れていたのだけれど、自宅に戻った翌日、利根川へいってみると別れる前と同じように僕を見つけて走り寄ってきた。自宅の猫が僕のことを忘れ、警戒して逃げていったのとは正反対である。散歩から戻って、かみさんに「利根川の子たちは、前と同じように寄ってきて足にまとわりついたよ」と言うと、「誰にでもなついてんじゃないの」とにべもない。確かに人に慣れている猫たちで、何人かの人が餌を与えているらしい。しかし、僕が帰るときには、雌の猫はずっと追いかけてきて足にまとわりつく。彼女のテリトリーの境界なのか、道の分かれ目にくると前足をそろえた猫座りをして、ずっと僕を見送ってくれる。そんな姿を見ると、胸が痛くなった。

どうして、こんなに猫好きになったのだろう。四国でも朝の散歩の途中で猫を見かけると、立ち止まらずにいられない。飼い猫だろうか、野良だろうかと気になり、ちゃんと食べているのだろうかと心配になる。無責任な餌やりは迷惑だと言われているし、住宅地のことだから、ただ心配するだけだが、散歩を終えて帰ってきても見かけた猫の姿が浮かんでくる。さらに、利根川の猫たちは元気にしているだろうかと気になり始める。リリー・フランキー似のおじさんは、毎日、朝と夕方に餌をやっているはずなので、「心配しなくても大丈夫」と言い聞かせる。しかし、追いかけてきて寂しそうな目をして猫座りする姿を思い出し、一人暮らしのせいか、ひどく切なくなった。

●語り方がうまく過去のいきさつが謎解きのように描かれる

猫と映画が重要なモチーフになっている映画が「世界から猫が消えたなら」(2016年)だった。原作がベストセラーになっていたし、青年が脳腫瘍で余命幾ばくもないと宣告されて始まる物語だというので、あまり見る気にはなれなかったのだが、映画の評判は悪くないし、何しろ「猫と映画好き」の僕だから、これは一応見ておこうかと思った。それに、あまり大きな声では言いたくないが、僕は宮崎あおいが好きなのだ。すべてを見ているわけではないので断言はできないけれど、彼女が出た映画には基本的に駄作はない(と思う)。それに、「世界から猫が消えたなら」というタイトルは、当然、逆説的ニュアンスであろうと思われた。

明日、死ぬかもしれない主人公の設定はあまりに安易だし、手垢にまみれていると思うが、これはひとつの寓話(あるいは説教話)であり、リアリティを求める物語ではない。「ファウスト」の変形だと思えば、わかりやすいだろう。つまり、「明日死ぬとして、何かをこの世から消すことで一日生き延びられるとしたら、あなたはどうしますか?」という設問なのである。その語り方がうまく、過去のいきさつが謎解きのように描かれるため、「ああ、そうだったのか」という驚きと納得がある。使い古された設定も、表現や時制の描き方で新しく見せられる。

主人公(佐藤健)は郵便局に勤める青年だ。自転車に乗っているときに意識を失い、病院で診察を受け脳腫瘍の末期で手の施しようもないと宣言される。その日、部屋に帰ると自分と同じ姿の男がいて「悪魔」だと名乗る。「この世から何かをひとつなくせば、一日命が延びる」と悪魔は話し、「何をなくすかは私が決めるのだ」と宣言する。悪魔が最初になくそうとするのは電話だった。「最後に誰かに電話しなくてもいいのか」と、悪魔はささやく。そう言われて彼が電話をするシーンはないのだが、彼はかつての恋人(宮崎あおい)に電話をしたことが、次のシーンの会話でわかる。

彼は、古い映画館の前で立っている。映画館の中から宮崎あおいが現れるが、彼女は憮然とした表情でとまどいを見せている。その会話から、ふたりがかつては恋人同士だったが別れたのだとわかり、「最後に電話する相手がわたしなの?」と宮崎あおいは口にする。やがて、ふたりが知り合ったきっかけ、何度もデートしたときの回想などが描かれる。その途中、涙を流しながら何かを叫ぶ宮崎あおいのシーンがあり、それはふたりが別れることになったシーンなのだろうかと観客に思わせる。しかし、そのシーンの謎解きは、後半になって描かれる。それは観客の予想を裏切るものだったし、この映画のハイライトシーンでもある。こういう複線と謎解きがいくつもあるのだが、これは映画的手法なのだろうか。あるいは、原作もこのように展開されているのだろうか。

宮崎あおいは映画館に住んで働いているように、無類の映画好きという設定だ。ふたりが知り合ったのは、宮崎あおいが佐藤健の家に間違い電話をかけたとき、佐藤健がフリッツ・ラング監督のドイツ時代の代表作「メトロポリス」(1926年)を見ていて、宮崎あおいはその音楽を電話で漏れ聞き、「もしかして、今、フリッツ・ラングの『メトロポリス』見てますか?」と訊くのだ。おいおい、ちょっとやり過ぎじゃないか、と僕は思った。だいたい「メトロポリス」はマニアックすぎるだろう。しかし、この映画には、さらなるシネフィル(映画狂)が登場してきたのだった。

●「最後に見るべき一本の映画」とは何なのだろうか

悪魔は電話を消し、電話の消滅と共に電話にまつわる過去も消えてしまう。間違い電話で知り合ったふたりの過去も消えてしまうのだ。そして、次に悪魔は映画を消そうと言い出す。「映画なんて、この世になくてもいいものじゃないか」と悪魔は言う。もちろん、この世には様々な人がいて、一度も映画を見たことがない人に僕も会ったことがある。その人にとっては、この世から映画が消えても何の痛痒も感じないだろう。だが、主人公が大学時代に知り合ったタツヤ(ツタヤと呼ばれる)は徹底したシネフィルで、卒業した今はビデオ店の店長をやっている男だ。

大学時代、階段教室の隅で「キネマ旬報」を呼んでいるタツヤ(濱田岳)に「映画、好きなの?」と主人公は声をかけ、ふたりは親友になる。タツヤは主人公に次々と見るべき映画(DVD)を持ってくる。見終わった映画を返すと、「次はこれだ」とタツヤは学食のテーブルに「メトロポリス」を置く。ここで、なぜ主人公が(普通の人がほとんど見ないだろう)「メトロポリス」を見ていたかの謎が解ける(ホントに、こういう細かな複線と謎解きばかりだ)。タツヤというキャラクターなら、フリッツ・ラングの「メトロポリス」を出してきても納得できるのだ。

大学を出ても、ふたりのやりとりは続く。「映画は数え切れないほどある。だから、ぼくらのやりとりも永遠に続く」とタツヤは口にする。しかし、主人公が死ぬことを知ったタツヤは、「最後に見るべき一本の映画」を探せない。主人公が死んでいなくなることで、この世界は何か変わるのだろうか。電話や、映画や、猫がなくなることで、この世界は何か変わってしまうのだろうか。それが、この映画が設定した疑問なのだが、当然、それは「世界は、欠けがえのないもので出来ている」という結論へ向かう。電話も、映画も、猫も----消えてしまったら、この世界はまったく別の世界になってしまうのだから、何ひとつとして「消えていいもの」はないのだと----。

しかし、本当に「世界は欠けがえのないものばかりで出来上がっている」のだろうか。もしかしたら、「消えたっていいもの」はあるんじゃないか、とへそ曲がりの僕は考える。しかし、そう思ったとき、かつて十代の僕が感動した、あの言葉が浮かんできた。それは、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」(1954年)の中で、「聖なる愚者」であるジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)に向かって、綱渡り芸人(リチャード・ベースハート)が口にしたセリフだった。

----前に本で読んだが、どんなものでも何かの役に立っている。たとえば、この石だって。
----どの石?
----どれでもいい。何かの役に立っているんだ。
----何の?
----それは、僕に訊いてもダメだ。神様が知っている。人がいつ生まれ、いつ死ぬか。この石もきっと何かの役に立っている。無用のものなどない。君だって、君だってそうだ。

石ころだって何かの役に立っているのだ。まして、猫や映画は----。猫と映画がこの世界から消えてしまったら、僕はきっと生きていけないだろう。

2017年4月20日 (木)

■映画と夜と音楽と…769 55年後に出版された続篇


【アラバマ物語/カポーティ/25年目の弦楽四重奏】

●村上春樹さんはあの決めゼリフをどう訳したのか

先日、気になっていた二冊の翻訳本に目を通した。一冊は、うっかりして出ているのを知らなかった村上春樹さんが訳したレイモンド・チャンドラーの「プレイバック」である。昨年末に出版されたのを、数ヶ月たった今年の三月末に気づいたのだった。「プレイバック」と言えば、あの有名なフィリップ・マーロウの決めゼリフが出てくる小説だ。村上さんも巻末に書いているが、「僕がレイモンド・チャンドラーの『プレイバック』を訳しているというと、大抵の人は同じ質問をした」という。あのセリフをどう訳すか、そればかりを訊かれたらしい。

僕は、最初に読んだ清水俊二さんの訳文になれているから、ずっと「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」と記憶してきた。しかし、生島治郎さんは「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」と訳し、それを基にして角川映画「野性の証明」(1978年)だったと記憶しているけれど、「タフでなければ生きられない」とテレビスポットのキャッチコピーに使い手垢にまみれたフレーズになった。原文は「ハード」だから、それを「タフ」と訳すのはどんなものだろうと、僕は生島訳には違和感を感じてきた。

村上春樹さんは後書きで矢作俊彦翻訳バージョンまで引用し、「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きて行く気にもなれない」を紹介している。矢作さんは、原文の「ハード」と「ジェントル」を生かしたかったのだろう。以前にも書いたことがあるのだが、僕は小鷹信光さんがエッセイ集(確か「パパイラスの舟」)の中で紹介していた、小泉喜美子(生島治郎こと小泉太郎さんの元妻)さんが(戯れに)訳したというバージョンが気に入っている。少し違っているかもしれないが僕の記憶では、「情けをかけてちゃ生きていけねぇのよ。でもな、情けのひとつもかけられねぇようじゃ生きていく資格はねぇんだ」というものである。まるで、木枯らし紋次郎みたいではないか。

ちなみに村上春樹版「プレイバック」では、ベッドを共にした女性から「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」と言われ、マーロウは「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」と答えている。「ハード」を「厳しい心」と訳したのには、村上さんなりの思い入れがあるのだろう。ただし、このマーロウのセリフが有名なのは日本に限ったことらしく、「どうやら日本人の読者がこの『優しくなければ----』に夢中になっているほどには、英米人の一般読者や研究者はこの一言にとくに注目しているわけではないようだ」と村上さんは書いている。

ちなみに僕の「映画がなければ生きていけない」という本のタイトルだけど、最初の本(メルマガ編集部が出してくれた500部限定版)の巻頭に書いたように、このマーロウのセリフが基になっている。たぶん、誰も気づかないと思うけど、その巻頭のフレーズに僕はこう書いているのです。

  しっかりしていなければ 生きていけないし
  やさしくなれなければ 生きていく資格はないけれど
  やっぱり----映画がなければ生きてこれなかった

●まさかアティカス・フィンチが白人優位主義者だったとは!!

気になっていたもう一冊の本は、ハーパー・リーの「見張りを立てよ」だった。アメリカで出版されたというニュースを読んだのは、二年ほど前のことだ。「アラバマ物語」の主人公の弁護士アティカス・フィンチが、実は人種差別主義者だったというニュースが流れ、「うそだああああああああああああああ-------」と僕は思ったものだ。そのニュースから一年足らず、今度は作者のハーパー・リーの訃報が流れた。ハーパー・リーは「風と共に去りぬ」のマーガレット・ミッチェルと同じく、一作めが圧倒的な大成功をおさめたことで二作めが書けなかった女性作家である。ふたりとも南部出身で、南部の物語を書いたのも共通している。

マーガレット・ミッチェルの場合は、「風と共に去りぬ」が全世界で売れたため、その著作権の管理やマネージメントに追われて次作が書けなかったと伝えられているのだが、ネル・ハーパー・リーはまだ三十代前半だったときに出した「アラバマ物語」がいきなりベストセラーになり、アメリカで最も知られているピューリッツァ賞までとったものだから、それを超える作品を書こうとして悪戦苦闘したのかもしれない。「アラバマ物語」は日本では「暮らしの手帖」社が出版し、半世紀を経た今も版を重ねている。ペーパーバック・サイズの日本版の表紙は、映画のスカウトの写真が印刷されている。

もう十数年前のことになったけれど、アメリカの映画協会が「映画史上のヒーロー・ベスト100」を選んだことがある。僕は、日本で放映されたそのテレビ番組を見たことがある。そのとき、ランボーやスーパーマン、インディ・ジョーンズなど並いるヒーローたちを抑えて一位になったのは、「アティカス・フィンチ」だった。アティカス・フィンチが一位に選ばれたことで「アメリカ人も棄てたもんじゃないな」と僕は口にしたが、本当のところは「アティカスを一位に選ぶなんて、アメリカの観客は素晴らしいじゃないか」と思っていた。

ハリウッド映画で僕が最も好意を抱いている(?)のは、「アラバマ物語」だ。大根役者と言われたグレゴリー・ペックが、僕は昔から好きだった。「子鹿物語」(1946年)と「ローマの休日」(1953年)と「アラバマ物語」(1962年)は、十代の頃から何度も見返してきた。ペックは「アラバマ物語」でようやくアカデミー主演男優賞を受賞し、今ではハリウッド史上の名優のひとりとされている。キャリアは五十年以上に及び多くの作品に出演したが、「ローマの休日」と「アラバマ物語」は不滅の名作として映画史上に燦然と輝いている。

「アラバマ物語」でペックが演じたのが、一九三〇年代の南部アラバマ州の田舎町の弁護士アティカス・フィンチだった。当時、南部でも特にミシシッピやアラバマは人種差別がひどく、黒人をリンチで殺しても犯人の白人は無罪になるというような時代だった。そんな頃、アティカス・フィンチは、白人女性をレイプした罪で逮捕された黒人青年の弁護を引き受けることになる。白人(プア・ホワイト)の農夫に「ニガー・ラバー(黒人びいきめ)」と唾を吐きかけられても、毅然として己の信念をまっとうする姿は「映画史上一位のヒーロー」である資格は充分だった。

しかし、「アラバマ物語」の出版から五十五年後に刊行された続編では、そのアティカス・フィンチが白人優位の考えを持つ人種差別主義者だという。「そんなバカな」と僕は思い、翻訳が出るのを待っていた。それは、「プレイバック」と同じく早川書房から昨年末に「さあ、見張りを立てよ」というタイトルで出版されたのだった。しかし、僕はカバーの袖に書かれた内容紹介の「しかし、故郷で日々を過ごすうちに、ジーン・ルイーズは、公民権運動に揺れる南部の闇と愛する家族の苦い真実を知るのだった」という文章につまずき、結局、数ヶ月の逡巡の末、ようやく読む気になったのである。

●キャサリン・キーナーが演じたネル・ハーパー・リー

「アラバマ物語」から二十年後の一九五六年、スカウト(ジーン・ルイーズ・フィンチ)は二十六歳になりニューヨークで一人暮らしをしている。毎年、二週間の休暇を取り帰省しているが、今年は幼なじみの恋人ヘンリーが出迎えてくれた。ヘンリーはアティカスが息子のように面倒を見た青年で、今は若手弁護士となりアティカスの跡を継ぐ存在だ。アティカスは七十を過ぎ関節炎を患っているが、まだ弁護士を続けている。南部アラバマ州の田舎町メイコムでも黒人の人権意識が高まり、人種隔離政策に対して黒人たちの抗議の声が挙がり始めている。

メイコムに帰省して数日後、スカウトは父アティカスと恋人ヘンリーがある集会に参加しているのを目撃する。それを見たスカウトは吐き気を催し、実際に吐いてしまう。スカウトにとってはそれほどの衝撃なのだが、それは「アラバマ物語」を深く愛してきた僕にとっても同じほどの衝撃だった。スカウトは心から愛し尊敬してきたアティカスに裏切られたと絶望し、二度と故郷に戻らないつもりでニューヨークに帰ろうとする。しかし、叔父の説得によって父と対決することを決意する。アティカスは、一体どんな言葉で娘の批判に応えるのだろう。

翻訳者の後書きによると、「この小説は『アラバマ物語』の続篇として構想されたのではなく、『アラバマ物語』を推敲していく過程で放棄した原稿をまとめたもの」という。その原稿が半世紀ぶりに発見され、刊行されたのだ。「アラバマ物語」はスカウトことジーン・ルイーズが六歳の頃のアラバマ州メイコムでの出来事を回想する形式になっていたが、最初は一九五六年の時点から二十年前を思い出す構成になっていたのだろう。結局、ハーパー・リーは「アラバマ物語」一作だけで、その後、新しい作品は書けなかったということらしい。その一作だけで名声が確立し、経済的にも成功してしまったのが、作家としては不幸だったのかもしれない。

「アラバマ物語」のスカウトは作者自身であり、作中に出てくる近眼でチビの友だちディルはトルーマン・カポーティがモデルであるのは有名だ。つまり、ハーパー・リーとカポーティは幼なじみなのである。そして、ハーパー・リーは生涯を通じてカポーティの友人だった。カポーティが代表作「冷血」を書いた時期を映画化した「カポーティ」(2005年)では、フィリップ・シーモア・ホフマン演じるカポーティは何かとハーパー・リーに電話をする。創作について、あるいは人間関係の悩みについて、カポーティは「ネル」と呼んで彼女を頼るのだ。カポーティには男性のパートナーがいて彼も作家なのだが、異性の幼なじみであるハーパー・リーには何でも言える関係だったらしい。

「カポーティ」でハーパー・リーを演じたのは、キャサリン・キーナーだった。素敵な、味のある大人の女優である。「カポーティ」ではアカデミー主演男優賞にフィリップ・シーモア・ホフマンがノミネートされ受賞したが、受賞はしなかったものの助演女優賞にキャサリン・キーナーもノミネートされた。キャサリン・キーナーとフィリップ・シーモア・ホフマンの相性はよいらしく、「25年目の弦楽四重奏」(2012年)ではヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者という音楽家同士の夫婦を演じた。ベートーヴェンの弦楽四重奏が素晴らしいうえに、今は亡きフィリップ・シーモア・ホフマンとキャサリン・キーナーが印象深い演技を見せる。

2017年4月13日 (木)

■映画と夜と音楽と…768 なりたいものになれたか?

【海よりもまだ深く】

●樹木希林のセリフが身にしみて浮かび上がってきた

昨年の四月六日、昭和史を題材にした僕の「キャパの遺言」という応募作が、乱歩賞の最終候補の四編に残ったという電話を講談社の担当者からもらった。結局、最終選考では落ちてしまい乱歩賞作家になり損なったわけだけれど、落ちた後、大沢在昌さんのオフィスにメールでそのことを報告しておいた。乱歩賞に応募するきっかけが、大沢さんとの十年前の対談だったからだ。大沢さんからは「候補になっているのは知っていました。期待していたのですが、残念です」と返信をもらった。大沢さんには「最終に残ったので、これで応募はやめようと思います。始めるのが遅かったかもしれません」とメールした。

しかし、その後、ある構想が浮かび、また選考委員たちの選評に反論したい気分もあって、改めて昭和史(終戦史)を題材にした作品を仕上げ、リベンジのつもりで今年も乱歩賞に応募した。昨年の「キャパの遺言」の選評では、湊かなえさんには「物語が書きたいのではなく、世の中を批判したいだけではないか」と書かれ、今野敏さんには「事実に即した物語を書きたいのならノンフィクションを書くべきだし、政治的な思想を述べたいのなら論文を書くべきだ」と書かれた。しかし、今回も終戦の三日間の史実を基にしたフィクションである。ただ、前作と違い、批判すべき対象として実在した人物(と思われる登場人物)を取り上げてはいない。

この九年間で、乱歩賞には六回応募した。最初に出したら二次選考を通過し二十数編の中に残り、翌年も二次選考を通過した。しかし、三年めは一次選考通過に終わった(これらの三作は加筆訂正し、現在は電子書籍でキンドルなどに出ている)。その二年後に四度めの挑戦をしたが、これも一次選考通過で「小説現代」に作品名と作者名が載っただけだった。勤めを完全にリタイアし、じっくりと仕上げた五作めが昨年の候補作になった「キャパの遺言」だ。乱歩賞は受賞者たちでも数度の応募は当たり前で、多い人は十作めの応募で受賞ということもあったという。一次通過が二度、二次通過が二度、五度めで最終候補というのは、いい方だとも言われた。しかし、乱歩賞も新人賞である。六十半ばの人間が応募するのは気が引けたし、年齢的なハンデも感じていた。選考委員は、みんな(推理作家協会理事長の今野さんでさえ)年下なのである。

今年の三次選考(四、五編の最終候補に絞られる)が行われるという四月初旬、電話はなかった。中間発表は四月下旬発売の「小説現代」に載るのだが、僕の応募作は最終候補には残らなかったということだ。初めての応募で二次選考を通過したときには喜んだものだが、その翌年は二次通過では満足できず、昨年は最終候補までいったので、今年は候補作に残らなかったことでひどく落胆した。「ラ・ラ・ランド」(2016年)の中で、女優志願(小説家志願より多そうだ)のエマ・ストーンは、オーディションを何度も落ち続けて屈辱を味わい、「私は、もう充分傷ついた」と涙を流した。あの気持ちが、よくわかる。

二十代後半から三十代にかけて僕は純文学を志し、八十枚ほどの短編を「文学界」や「群像」の新人賞に応募していた。しかし、一次選考を通り作品名と作者名が掲載されるのがせいぜいだった。文学界新人賞の七十篇ほどに残り、そのときの受賞作が芥川賞候補になったことから「芥川賞候補まで七十分の一だった」などとわけの分からないことを言っていた。村上春樹さんが受賞した「群像」新人賞にも、同じ頃に応募していた。文学好きの友人から「今度の群像新人賞の受賞作は、絶対に読め」と言われたのが「風の歌を聴け」だった。あの頃からカウントすると、この四十年間で僕は十数回、新人賞に落ち続けてきたことになる。もう充分に傷ついた。

映画コラムを書き続けて五冊の本になった。最初の本では、内藤陳さんに「読まずに死ねるか」と言ってもらえたうえに賞もいただいた。しかし、僕は今も小説を出版したいという「夢」を棄てられないようだ。若い頃、酔いつぶれては「叶わない夢なら、夢など持ちたくなかった」とつぶやき、すねたように「夢はいらない花ならば、花は散ろうし夢も散る」と「東京流れ者」の一節を帰宅する夜道で口ずさんだものだ。しかし、今年、乱歩賞の候補に残れなかったことを知った夜、僕の頭に浮かんできたのは是枝監督の「海よりもまだ深く」(2016年)の樹木希林の言葉だった。売れない小説家(阿部寛)の母親(樹木希林)は、台風の夜、眠れないまま息子と会話し、こんなことを口にする。

----いつまでも失くしたものを追いかけたり、叶えられない夢を追いかけても、毎日、つまらないでしょう。幸せっていうものは、何かをあきらめなけりゃ手に入らないのよ。

●ダメな男の情けなさを阿部寛が演じた

篠田良多(阿部寛)は二十代で島尾敏雄賞(シブイ!!)を受賞して「無人の食卓」という作品集を出版したが、その後は鳴かずとばずの売れない中年の作家だ。喰えないから、今は探偵事務所の調査員をやっている。それでも出版社との縁は切れておらず、昔なじみの編集者から「マンガの原作をやってみませんか」と誘いを受けるが、純文学作家としてのプライドから見栄を張り「今、仕上げを急いでいる作品がありまして。聞いていませんか。××さんから」といかにも嘘くさい言い方で、文芸担当編集者の名前を挙げる。文芸からマンガ担当に移ったらしい編集者は、「それだったら、僕もそっち読みたいなあ」と作家の顔をたてる。しかし、マンガ編集者は、良多がギャンブルに詳しいから原作の話を提案したのだ。良多は生活能力はないくせに、無類のギャンブル好きなのである。

良多は賃貸の団地に住む母親の留守に部屋に入り、金目のものはないかと物色するような男だし、父親の形見分けと称して質草になりそうなものを手に入れようとする男である。あちこちに借金があり、小説の取材と称して勤めている探偵事務所の仕事でも、夫から妻の浮気調査を依頼されたにもかかわらず、浮気の証拠写真をその妻に売って金を自分の懐に入れるような男だ。偽の報告書を作ることなど、何の痛痒も感じていない。おまけに、その金を競輪につぎ込みスッてしまう。そんなことだから、妻(真木よう子)には愛想を尽かされて離婚になり、ひとり息子にも月に一度しか会えない。その妻に新しい恋人ができると、ストーカーのように尾行し、年下の同僚に未練たらたらに「もう、したかな」などと口にする。最低のダメ男だ。

ここまでダメな息子でも、母親にはかわいい子供である。夫には苦労させられたが、息子には「お金、困ってるの?」と気を遣う。息子が珍しく一万円を「小遣いだよ」と言ってくれたときには、娘(良多の姉)に電話して喜びを伝える。息子が高校生のときに鉢に植えたオレンジの木を、ベランダで大事に育てている。何十年も暮らした公団住宅らしき賃貸の団地から分譲の方に移りたいのが望みだが、夫と死に別れてセイセイしたのか、毎日を楽しみながら暮らしている。彼女にとっては、今が最も楽しく幸せなのかもしれない。分譲に住むクラシック通のインテリ(橋爪功)の部屋で開かれる週に一度の鑑賞会に出て、先生の関心を惹こうと課題曲の背景などを事前に調べる。年金暮らしで、とりあえず満足している。だから、息子が小説というものに囚われ、離婚し、フラフラと暮らしているのを見て前述のような言葉を口にする。

そのくせ照れてなのか、「私、今、すごーくいいこと言ったでしょ。今度のあんたの小説に書いてもいいわよ。メモしなさい」と言う。良多は憮然と「憶えたよ」と答える。良多は、探偵事務所の仕事で会った浮気妻が口にした印象的な言葉を手帳にメモし、安アパートの机の前の壁に貼ったりしている。いつか小説に使うつもりなのだ。壁には多くのメモがあり、様々なフレーズが書かれている。僕も同じようなことをしているからわかるが、そんなメモから文章の構想が湧いたりする。それを母親も知っているのだろう。息子に「もう夢を棄てて、地道に生きてもいいんじゃないか」という意味のことを言いながら、息子が小説を書く役に立てばうれしいという気持ちも彼女にはあるのだ。

●完全に自己を肯定できる人はどれほど存在するのだろう

「海よりもまだ深く」のキーワードは、「こんなはずじゃなかった」と「なりたいものになれた?」だろう。良多は家庭教師とラブホテルに入る写真をネタに男子高校生を強請り、「あんたみたいな大人にだけはなりたくない」と言われると、「なりたい大人になんか、簡単にはなれねぇぞ」とムキになって言い返す。また、台風の夜、ふたりで籠った公園の遊具の中で息子に「パパは、なりたいものになれた?」と問われ、「パパはまだなれていないけど、そういう想いを抱いて生きることが大事なんだ」と、まるで説得力のない答えをする。本当にそうなんだろうか。母親の言うように「失ったものを追いかけたり、叶わぬ夢を追い続けたりせず、そんなものをあきらめて」楽しく幸せに生きるべきなのではないのか。

「海よりもまだ深く」の人物で見るなら、別れた妻の新しい相手(小沢征悦)が主人公とは正反対の存在として登場する。彼は年収が一千五百万あるらしく、自分に満足して生きている人間なのだろう。自分の生き方に迷いなど抱いていないように見える。彼は樹木希林が言うような「叶えられない夢などさっさと棄てて、現実の仕事に精を出し裕福な生活を送っている」人間なのかもしれない。その結果、楽しく幸せな生活を送り、新しい美人の恋人を得たし、その相手の子供にも実の父親のように接することができる。そんな人生に満足すれば、幸せに生きていけるのだ。彼は、良多の小説を読んでも「何だかよくわからなかった。時間の無駄?」と口にする。生きていくうえで小説など必要としない人種なのである。

しかし、「なりたいものになれた」と、完全に自己を肯定できる人はどれほど存在するのだろう。夢を実現し、「私が望んだものに私はなれた」と幸福感を感じている人はどれほどいるのだろうか。あるいは、「こんなはずじゃなかった」と一度も思わない人はいるのだろうか。人は誰でも「こんなはずじゃなかった」と悔やみ、昔夢見た「なりたいもの」になれなかったと、慚愧の念に耐えながら生きていくものではないのだろうか。だから、夢をあきらめられない人間は不幸だ。叶わぬ夢を、見果てぬ夢を、見続けるから彼は常に満足できない。幸せだと実感できない。「まだ、なりたいものになれていない」と、夢が彼を駆り立てる。「なりたいものになれていない自分」を責める。なりたいものになれないことで傷つき、落胆する。失意に沈む。「こんなはずじゃなかった」と悔いる。

こんなことを書くと、もちろん「おまえはどうなんだ?」と、僕自身に向かっても矢が飛んでくる。開き直るようだけれど、僕が夢をあきらめられる人間だったら、毎週、こんな文章を書いてはいない。夢を棄て、失ったものを忘れ、樹木希林のように気楽な年金生活を送っているだろう。それができないから、僕にやすらぎはやってこないのだ。幸せだと実感することがない。こうなったら、死ぬまで「なりたいものになる夢」を、あきらめきれぬとあきらめるしかないのだろう。やれやれ。

2017年4月 6日 (木)

■映画と夜と音楽と…767 完璧なボディと言われた女優



【女ガンマン 皆殺しのメロディ/殺人者にラブ・ソングを】

●四十二年前に当時千六百円もするハードカバーを買った

「ハニー・コールダー」(1971年)という映画のことを知ったのは、四十二年前のことだった。先日、WOWOWで「女ガンマン 皆殺しのメロディ」というミもフタもないタイトルで放映され、ようやく念願が叶い見ることができた。「発掘良品」という企画で、斎藤工と大友啓史監督が映画の前後に対談をする。やはり、若い世代だから、時代的なことについてはちょっとトンチンカンなコメントもあった。時代の空気感を伝えるのはむずかしい。この映画はクエンティン・タランティーノ監督が「キル・ビル」を作るときに影響を受けたと言っていて、そのため今回の企画で発掘されたらしい。

「ハニー・コールダー」は劇場公開はなく、一度テレビ放映(もしかしたらテレビ東京の昼間?)があったらしい。何年か前、「女ガンマン 皆殺しのメロディ」というタイトルでDVDが出ているのを知ったけれど、わざわざ買う必要もないと思っていた。ただし、一度は見ておきたかったのだ。四十二年前の三月十一日に僕は小林信彦さんの「われわれはなぜ映画館にいるのか」という晶文社(数年前、キネマ旬報社から復刊された)から出ていたA5判の本を買った。その頃の僕は本の見返しに購入した日付を記入し、「S.SOGO」と署名していたのだ。その習慣は社会人になって、ある程度自由に本が買えるようになってなくなったが、一九七五年三月十一日、僕はまだ卒業式を二週間後に控えていた。

その年、入社が決まっていた出版社から「卒業試験が終わったらきてくれないか」と言われ、当時の僕は断れるわけもなく二月十二日から出社していた。三月十一日は、ちょうど一ヶ月働いたところだった。初めての給与をもらって二週間ほど経っていたので、少し気が大きくなっていたのだろうか。僕は、当時千六百円もするハードカバーを買ったのである。あの頃、犀のマークの晶文社からは欲しい本がいっぱい出ていたが、どれも高くて古本屋でしか手が出なかったものだ。「われわれはなぜ映画館にいるのか」の奥付を見ると、初版は一九七五年二月二十五日になっている。方南町駅前の書店で新刊を見つけて、すぐに買ったのだと思う。

その本を僕は隅から隅まで読み、後に何度か確認のために読み返した部分も多い。鈴木清順、ハンフリー・ボガート、ジョン・フォード、マルクス兄弟、ビリイ・ワイルダー、ドン・シーゲルなどを取り上げた「架空シネマテーク」というコラムが冒頭に配置されていた。キネマ旬報に連載されたコラムである。このコラムを読んでいた時点で、僕はボギーの「ハイ・シェラ」(1941年)もドン・シーゲルの「突破口」(1973年)も見ていなかった。このコラムを読んで、ぜひ見たいと熱望したが、当時は簡単に旧作が見られる時代ではなかった。

そのコラムの一本に「B級娯楽映画を観るたのしみ 『ハニー・コールダー』その他その他」という回があった。その中にA5サイズ一ページを使って、ハニー・コールダーに扮するラクェル・ウェルチの写真が掲載されていた。全裸にポンチョをかぶった姿で、彼女は西部の街角に銃を構えて立っている。素肌にガンベルトをつけ、早く抜くためにポンチョを左手で開いている。そのためボディの右側は足の先から太股、腰、脇腹までが見えていた。左足も太股から腰の下まで露出し、股間をポンチョの先が隠しているだけだ。完璧なボディと言われたラクェル・ウェルチである。その写真は、二十二歳の僕の記憶に深く深く刻み込まれたのだった。

●リタ・ヘイワースのポスターがラクェル・ウェルチに変わる

「ショーシャンクの空に」(1994年)が好きな映画ファンは多い。僕も好きである。あの映画の原作はスティーヴン・キングの「恐怖の四季」という中編四編が入った本の中の一編「刑務所のリタ・ヘイワース」だ。「ショーシャンクの空に」の中でも囚人たちがリタ・ヘイワースの代表作「ギルダ」(1946年)を見るシーンがある。もちろん、ギルダが「ミー?」と言いながら髪を振って登場するあの有名なシーンである。主人公(ティム・ロビンス)は語り手の調達屋(モーガン・フリーマン)にリタ・ヘイワースのポスターの入手を頼む。そのポスターは、ずっと主人公の独房の壁に貼られている。

しかし、主人公は長く服役することになり、その長い年月をリタ・ヘイワースのポスターが、ラクェル・ウェルチの「恐竜100万年」(1966年)のポスターに変わることで表現した。四〇年代のセックス・シンボルが六〇年代の「完璧なボディを持つ女優」に交代し、二十年近くが経ったのだとわかるようになっている。当時、ラクェル・ウェルチのライバルは、「007 ドクターノオ」(1962年)のアーシュラ・アンドレス(後にウルスラ・アンドレスと表記されるようになった)だった。アーシュラ・アンドレスは、若きショーン・コネリーの横でビキニ姿の腰にナイフを下げて花を添えた。新しいセクシー女優たちが次々に登場していた。

僕が初めてラクェル・ウェルチを見たのは、「ミクロの決死圏」(1966年)だった。体の線を際だたせる潜水服姿(血管の中を泳ぐためだ)で男性客の目を楽しませた。続けて公開になったのが、毛皮で作ったビキニを身につけた姿で出てきた「恐竜100万年」である。昔のハリウッドの冒険映画には、こんなお色気担当の女優がいた。今、こんな役を作ったら女優たちから総スカンを食らうだろう。時代性を物語るのは、フットボール選手から俳優になった黒人のジム・ブラウンとラクェル・ウェルチが共演した「100挺のライフル」(1968年)のときのエピソードだ。ジム・ブラウンと肌を合わせるシーンがあり、ふたりの間にはカメラに写らないようにバスタオルが挟まれたという。

そういう意味では、ラクェル・ウェルチが完全な主演映画というと、「空から赤いバラ」(1967年)と「ハニー・コールダー」くらいしかないのではないだろうか。「女ガンマン 皆殺しのメロディ」というタイトルに変わった「ハニー・コールダー」は、修業して女ガンマンになったラクェル・ウェルチの復讐劇なのである。それを小林信彦さんは、「西ベルリンのクーダム通りに面した大きな劇場」で見たという。ドイツ語に吹き替えられており、「私には会話などまるで分からないのだが、そこは西部劇の有難さで、筋だけは」わかったらしい。監督は、当時、西部劇をたくさん作っていたバート・ケネディだった。

●全裸に毛布一枚をポンチョにしてかぶり荒野をさまよう

冒頭、三人の悪党(アーネスト・ボーグナイン、ストローザー・マーティン、ジャック・イーラム)が荒っぽく銀行を襲う。彼らは平気で銀行員たちを射殺し、非道な悪党であることが強調される。追われた三人は牧場を見つけ、代わりの馬を盗もうとして牧場主に阻止されるが、悪党の一人が牧場主を撃ち殺す。彼が家に入ると美しい若妻ハニー・コールダー(ラクェル・ウェルチ)がいる。三人は代わる代わるハニーを犯す。五十年近く昔の映画だから今から見るとおとなしい描写だが、当時はけっこう刺激的だったろうと思う。日活ロマンポルノが始まったのが一九七一年で、この映画と同じ年である。今見ると、ロマンポルノだっておとなしいものだ。

牧場の馬は放たれ、家は焼かれ、犯されたハニーは全裸に毛布一枚をポンチョにしてかぶり荒野をさまよう。そこに現れるのが、馬に死体を乗せた賞金稼ぎのガンマンだ。扮するのは、ロバート・カルプ。ビル・コスビーとコンビを組んだテレビシリーズ「アイ・スパイ」(1965~1968年)の主演俳優である。プロテニス選手として世界をまわりながらスパイとして活躍する物語だった。僕は彼が「ハニー・コールダー」の翌年に出演した「殺人者にラブ・ソングを」(1972年)が忘れられない。ロバート・カルプとビル・コスビーが、うらぶれた二人組の私立探偵に扮した隠れた名作である。脚本を書いたのがウォルター・ヒルで、これがデビューだったらしい。ロバート・カルプ自身が監督した。

さて、「女ガンマン 皆殺しのメロディ」のロバート・カルプは顔の下半分は髭もじゃでメガネをかけて登場するので、「アイ・スパイ」のイメージとはまったく異なる。メガネを外し、遠くを見つめるように目を細めたシーンで、「ああ、ロバート・カルプだ」と僕は納得した。この賞金稼ぎについて小林信彦さんは、「いい役者である。役もいい。『緋牡丹博徒』の健さんか、文太の役である」と書いている。ハニーはロバート・カルプに射撃を習うことになるのだが、このシーンが映画の中では一番よかった。もっとも「彼女が拳銃を抜くたびに、ポンチョがあおられて、脇腹が見えるのが、彼女のファンを楽しませる」(小林信彦)仕掛けにもなっている。

そんなわけで、「ハニー・コールダー」について書かれた小林信彦さんの文章と、全裸にポンチョとガンベルトというインパクトのある写真のおかげで、若き僕は「ぜひ見たい」と熱望したのだった。同じ頃、「野良猫ロック セックス・ハンター」(1970年)の魔子役を見て以来、僕が熱烈なファンになった梶芽衣子は「さそり」シリーズを終え、「修羅雪姫」(1973年)「修羅雪姫 怨み恋歌」(1974年)に出演していた。同じような映画体験をしたであろうクエンティン・タランティーノは、「修羅雪姫」や「ハニー・コールダー」をベースに、戦う女の復讐劇「キル・ビル」(ヒロインとオーレン・イシイとの日本刀での対決シーンには梶芽衣子が唄う「修羅雪姫」のテーマ曲が流れる)を作る。こうして、物語は引き継がれていくのだ。

2017年3月30日 (木)

■映画と夜と音楽と…766 「無私無欲」vs「私利私欲」


【殿、利息でござる/ジャージの二人/予告犯】

●異様な盛り上がり(?)を見せている森友学園問題だが

ワールド・ベースボール・クラシックの中継局以外はすべて(テレビ東京は確認していないけれど)、籠池理事長の国会での証人喚問を中継するという異様な盛り上がり(?)を見せている森友学園問題である。籠池理事長およびその夫人のキャラクターも大阪人らしくおもしろすぎて、劇場型のニュースネタとして視聴率がとれるのかもしれない。安倍首相夫妻が関係しているかどうか、自民党がひたすらかばいに入っているし、官房長官が様々な詭弁(弁解?)を弄しているのも見ていて「やれやれ」という気分になってくる。政治家には、白を黒と強弁し続けられる能力が求められるのだなあ。

首相夫人と理事長夫人のメールのやりとりも公開され、各テレビ局はワイドショーも報道番組も微に入り細にわたり分析している。フリップに拡大されたメールが映され、「三奥五千万(原文ママ)」などと変換ミスまでそのまま出されていた。籠池理事長の国会での証言は首をひねる部分もあったが、首相からの百万円の寄付金を巡る話では、何度も繰り返して話しても齟齬が出ないので、信憑性があるのではないかとの印象を持った。刑事部屋での取り調べでは(経験したことはないが)、同じ話を何度もさせるという。嘘をついていると、どこかで齟齬が出る。そこを突くのが取調の常道だという。

ところで、僕が公開されたメールで「おやっ」と思ったのは、理事長夫人のメールで「ある人から籠池さんと主人公がダブるから」と勧められて、「殿、利息でござる」(2016年)を見にいったという話が出てきた箇所だった。籠池夫人は「清められた」と書き、首相夫人に「ぜひ見てほしい」と勧めていた。確かに「殿、利息でござる」はよい映画で、見終わると清々しい気分になる。それは、登場人物たちの「無私の心」が観客の胸を打つからである。僕には籠池理事長が「無私の人」とは思えないから、あの主人公たちとダブるはずがない。

この間の森友学園事件の登場人物たちを見ていると、「私利私欲」と「自己保身」という言葉しか浮かばない。特に、政治家たちの姿にそれを見る。籠池理事長は「日本を憂う志の人」「無私無欲の愛国者」と自分を思いこんでいる節は見受けられるのだけれど、そういう言葉に自分で酔っている風にも見える。右翼系の人に多いのだが、ヒロイズムに浸って自己陶酔してしまうのだ。「維新」とか「志士」などという言葉を使う人は、僕にとっては昔から要注意だった。自分から「平成維新の志士」なんて言う人は特に信用しない。評価は他人がするものだ。自己評価は何の意味もない。

だから、籠池夫人によって「殿、利息でござる」が話題になったことは、僕には不快だった。せっかくの清らかな映画が、汚されたような気になった。「殿、利息でござる」は歴史学者の磯田さんが歴史上の実在の人たちを取り上げた、「無私の日本人」という本の中のひとつのエピソードを原作としている。そこには人のためにつくした「無私の人」たちが描かれているのだ。磯田さんはNHK-BSの「英雄たちの選択」といった歴史番組にメインキャスターのような形でずっと出演していて、口跡がよく言葉が聞き取りやすい。最初、僕は歴史を再現したシーンでのナレーションを、磯田さんがやっているのじゃないかと思ったくらいだ。実際は、松重豊が少し高い声の調子でナレーションを担当していた。

ところで、僕が勤めていた出版社のリクルート担当として入社試験問題を作ったとき、作文のテーマを「むし」としたことがある。どんな作文が出てくるか楽しみにしていたのだが、「無視」「虫」と解釈した人が大部分で、少数の人が「蒸し」をテーマにして書いていた。「無私」をテーマにした人はいなかった。「無私」という言葉は、すぐに思いつかないのだろうか。僕は「無私」とか「無欲」という語をよく使うので、「むし」をテーマに決めたときは「無私」を浮かべていた。また、「私利私欲」という言葉もよく使う。人を見るときに「私利私欲」で動いているかどうかが僕の評価基準なのだ。それは、自分自身の行動の規範にもなっている。「俺は、私利私欲で動いていないか」と常に問いかけている。

●「いい話」ばかりが続き籠池夫人も「清められた」のだろう

伊達藩の仙台に近い吉岡宿は重税と荷役でつぶれ百姓が相次ぎ、夜逃げする人たちが後を絶たない。ある夜、一家で荷車をひいて夜逃げをしていた百姓は造り酒屋の浅野屋の主人(山崎努)に呼び止められる。「あんたには××貸していたな」と彼は言う。夜毎、瓶に貯めた銭を数える守銭奴と言われる山崎努である。てっきり、厳しい取り立てがあるのだと一家の主人は身構える。そこまでがプロローグだ。それから数十年、山崎努は亡くなり、今は次男(妻夫木聡)が造り酒屋の浅野屋を継いでいる。相変わらず副業の金貸しに励み、父親と同じように多くの銭を貯めていると噂されている。

浅野屋の長男だったのに、同じ宿場の穀田屋に養子に出された十三郎(阿部サダヲ)が主人公である。彼は弟とふたり、子供の頃から父親にある教えを受けていて、その中で「自身を顧みず、人々のためにつくせ」と言われたことが身に染みついている。もちろん、そのことを誇ってはならず、人に知られることも避けよと教えられてきた。だが、長男の自分が養子に出されたのは、弟より出来が悪かったからだと思いこんでもいる。そんな十三郎は、貧しい人々を何とか救えないかと、荷役の免除を上訴するために訴状を胸に役人を待つ。それに気づいた宿場のインテリ菅原屋篤平治(瑛太)が止める。上訴すれば、訴人の命はないからだ。

十三郎の思いを知った篤平治は「お上に金を貸して、その利子を元に荷役を免除してもらう」という案を考え出す。しかし、現在の金で三億円ほどになる元金をどう集めるか、それが物語の中心になる。何年もかかるが、意外な人が大金を提供すると言い出したり、うまい儲け口だと勘違いして参加してくる商人もいたりする。藩の役人に言上すると「見上げた心がけだ」と感激し、親身になって動いてくれる役人もいる。しかし、藩の勘定方を預かる冷徹な能吏(松田龍平)はとりつく島もなく、さらに厳しい条件を出してくる。やがて宿場でも十三郎たちのやろうとしていることが知られ、様々な銭が集まってくる。

テレビスポットでも流れていたが、いきつけの飲み屋で瑛太が「お上に金を貸す」と思いついて口にしたとたん、飲み屋の女将(竹内結子)が「わたしは、お金なんか借りませんよ」と言うシーンがあるように、作品のトーンは喜劇調である。笑えるシーンが多い。しかし、銭を集めるというそのことだけで物語を展開しながら、様々な人の情や思いが立ち上がり、どんでん返しもあり、まさに笑いと涙に充ちた感動が訪れる。中村義洋監督作品だから、あざとさはなく心地よい軽さがある。すっとぼけたテイストが中村作品の持ち味だが、だからこそ見終わって清々しさが心の中を吹き抜ける。

勘定方の役人だけが憎まれ役だが、その他の登場人物は羽生結弦が演じた伊達の殿さまも含めて基本的に善人ばかりである。百姓たちよりはお上に顔が向いている世話役、儲け第一と考えているが状況によっては損な選択をする商人など、様々なタイプの人が出てくるけれど、みんな「人のために役立とう」と思う気持ちは持っている。新婚の妻におそるおそる宿場のために金を出すことを打ち明けた篤平治は、逆に新妻に「あなたは偉い」と励まされるし、十三郎は不満を感じていた自分の長男が「銭集め」のために仙台の商家に年期奉公に出たことを知って涙する。そういう、「いい話」ばかりが続くのだ。籠池夫人も「清められた」のは本当だろう。

●中村義洋監督は「上から目線」では絶対に描かない

中村義洋という名前を意識したのは、いつ頃からだっただろう。数えてみると、ほとんどの監督作を見ている。最初に印象に残ったのは、やはり「アヒルと鴨のコインロッカー」(2006年)だ。濱田岳は、この作品以来、中村作品には欠かせない役者になった。原作は伊坂幸太郎。中村監督は、この後、「フイッシュストーリー」(2009年)「ゴルデンスランバー」(2009年)「ポテチ」(2012年)と伊坂幸太郎原作を映画化する。「アヒルと鴨のコインロッカー」では瑛太と松田龍平も印象に残る。しかし、伊坂幸太郎が仙台を舞台にするのは学生時代から住んでいる街だからだが、中村監督が仙台にこだわるのは何か理由があるのだろうか。「殿、利息でござる」も仙台藩が舞台だ。

「チーム・バチスタの栄光」(2008年)「ジェネラル・ルージュの凱旋」(2009年)など商業的な王道作品を撮ったかと思うと、「ジャージの二人」(2008年)という奇妙な小品を撮るところに中村監督の幅の広さがある。「ジャージの二人」は、カメラマンの父親(鮎川誠)と会社を辞めた息子(堺雅人)が山荘で暮らす話である。様々なエピソードが描かれるが、中村作品特有のすっとぼけた味があり、いわゆる「癒される作品」になっている。田舎のことだから、女子高生たちが携帯電話の電波が「二本立った」「ここだと三本立つ」などと騒いでいるシーンが何となく僕の記憶に残っている。

ここ数年の作品を見ると、教室で通り魔的な事件に巻き込まれ、住んでいる団地から(精神的な意味で)出ることができなくなった男(濱田岳)を描いた「みなさん、さようなら」(2012年)があり、阿部サダヲを主役に実話を映画化した「奇跡のリンゴ」(2013年)があり、湊かなえ原作の「白ゆき姫殺人事件」(2014年)があり、ネット時代の複雑な犯罪を描いた「予告犯」(2015年)がある。僕にはどれもおもしろかった。ホラー作品にも多くたずさわってきた中村監督は怖がらせるのもうまく、「白ゆき姫殺人事件」「予告犯」などでのサスペンス描写もうまい。

生田斗真、鈴木亮平、濱田岳などが社会の底辺まで落ち、そこでようやく仲間たちを見つけ、社会に復讐するように様々な予告犯罪を引き起こす「予告犯」を見たときには、複雑な現代社会に落ちこぼれて生きざるを得ない人間への共感を感じた。奥田英朗さんの「オリンピックの身代金」と同じ視点である。そう、中村義洋監督は、今は亡き世界的巨匠のように、またあの売れっ子の優等生監督のように、「上から目線」では絶対に描かない。監督としての目線が低いのだ。そこが、僕の好みに合っているのかもしれない。

2017年3月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…765 薬師丸ひろ子が初めてくちづけした男



【三匹の牝蜂/仁義なき戦い・代理戦争/鉄砲玉の美学/セーラー服と機関銃】

●渡哲也の三歳年下の渡瀬恒彦がデビューしたのは五年後だった

今週は何を書こうかと思っていると、渡瀬恒彦の訃報が入ってきた。えーっ、と思ったのは、渡哲也が闘病中という話は聞いていたが、渡瀬恒彦についてはまったく予想していなかったからだ。七十二歳だったという。少し早いのではないか。最初の奥さんである大原麗子が亡くなってからもう何年にもなるけれど、再婚して子供も立派な社会人になり、七十を過ぎたとはいえ、まだまだ渋い役者として活躍できたのにと思う。あの年で主演が張れる俳優は、もうそんなにいなくなった。

しかし、渡瀬恒彦のことを書こうとすると、僕の場合、渡哲也について書き始めなければならない。渡哲也より三歳年下の渡瀬恒彦が東映に入社してデビューしたのは、一九七〇年のことだった。その時点で、渡哲也はすでに大スターだったのだ。日活最期の銀幕スターと言ってもいい。日活がロマンポルノ路線になり、石原プロモーションに移籍し、テレビドラマにも出るようになった頃で、映画館にいかない一般的な人々にもよく顔を知られるようになった。NHKの大河ドラマ「勝海舟」の収録は一九七三年に始まり翌年の正月から放映されたが、十回ほどで病気により降板し松方弘樹が引き継いだ。

渡哲也は一九六五年に「あばれ騎士道」でデビューし、翌年、早くも鈴木清順監督の「東京流れ者」(1966年)に主演する。「ラ・ラ・ランド」(2016年)のデイミアン・チャゼル監督が、影響を受けた作品として挙げた伝説のカルト・ムービーである(僕は「ラ・ラ・ランド」は同じ清順監督の「肉体の門」(1964年)の影響が強いと思ったけれど)。もう一本の名作「紅の流れ星」(1967年)を経て、翌年には「無頼シリーズ」がスタートする。「無頼より・大幹部」「大幹部・無頼」「大幹部・無頼非情」「無頼・人斬り五郎」「無頼・黒匕首」があり、最後が「無頼・殺せ」(1969年)である。

その渡哲也がテレビドラマに出始めた頃、渡瀬恒彦は電通を退社して東映に入社した。渡哲也の言葉によれば、「役者をやってる兄貴の部屋にくると高いレートで麻雀をやっていて、サラリーマンの給料じゃ無理だと思ったから」俳優になったとのことだが、たぶんに照れが入っていると思う。渡哲也も自身が日活の新人としてデビューすることになったいきさつを、高平哲郎さんのインタビュー(一九七六年一月十四日)で語っているが、ここにも渡哲也特有の照れがうかがえる。

----今から十一年前ですか、ぼくが大学四年のとき----青山学院です----空手部にいましてね、ええ。新大久保にアパート借りてたんですけど、空手部の連中とか、弟とか----弟(渡瀬恒彦)は早稲田に行ってたんですけどね----いつも五、六人ゴロゴロしてましてねえ。あるとき、浅丘ルリ子さんの一〇〇本記念で『執炎』という映画なんですけど、一般募集というのが日活でありまして。それで、弟とか空手部の連中とかでいい加減な写真送りましたら、面接試験というのがありまして。「まあ、裕ちゃんでも見にいくか」くらいの気で撮影所に行きましてねえ。

渡哲也が青山学院大学空手部の現役大学生としてデビューしたときを僕は憶えている。テレビの芸能ニュースに「日活期待の新人」として映ったからである。演技は下手で(デビューの年の裕次郎主演「泣かせるぜ」を見ればよくわかる)デクノボーだった。それが、「東京流れ者」「紅の流れ星」「無頼シリーズ」を経て、見違えるほどの役者になった。僕は「無頼シリーズ」を見るたびに、藤川五郎に涙する。昔、僕のペンネームは藤川五郎だったし、大学四年の春、僕は級友が台本を書き演出した「紅の流れ星」という芝居を手伝ったことがある。舞台は渋谷の天井桟敷を借りた。主人公の名前は、もちろん「不死鳥の哲」である。

●人気女優だった大原麗子の結婚相手は「渡哲也の弟」と呼ばれた

三歳違いの渡瀬恒彦は、渡哲也に遅れること五年、一九七〇年に二十五歳でデビューした。三作めの出演作「三匹の牝蜂」(1970年)は、夏純子、大原麗子、市地洋子の主演。大原麗子とは、数年後に結婚した。いわゆる格差婚で大原麗子は誰でも知っている人気女優だったが、渡瀬恒彦は「渡哲也の弟」と呼ばれた。若い頃、渡哲也と渡瀬恒彦は双子のように似ていて、誰もが「ああ、渡哲也にそっくりな弟ね」と口にした。その頃、渡瀬恒彦は「不良番長シリーズ」など、ほとんどチンピラばかり演じていた。そして、僕が初めて「渡哲也の弟」を意識したのは、テレビ時代劇シリーズ「忍法かげろう斬り」(1972年)だった。

「忍法かげろう斬り」は、日活の路線変更によって渡哲也がテレビに出るようになった初期の時代劇だった。二十六回(半年)続く番組である。早乙女貢の原作で、松平伊豆守の密命を受けた忍者の物語だった。くの一を演じた氾文雀が、色っぽいパートを引き受けていた。渡哲也は大病を何度もやっているが、最初に倒れたのがこの番組のときだった。二十回まで演じた渡哲也の代役として抜擢されたのが渡瀬恒彦だった。残り六回ほどだったけれど、このとき主役の俳優が変わったことを気づかない視聴者は多かったのではないか。渡哲也の弟が、俳優をやっていることを知らない人もいたのだ。僕も「実によく似ているな」と感心した。時代劇でカツラをつけていたからかもしれない。

この翌年、渡瀬恒彦の役者としての存在感を僕は認めることになる。「仁義なき戦い」(1973年)の後半に出てくる戦後の愚連隊あがりのやくざ有田だった。ポン(ヒロポン)の密売で儲け、上納金を山盛組幹部(三上真一郎)におさめている役である。出演場面は少なかったものの、酷薄そうなメーキャップが怖かった。そして、次に「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年)のチンピラ役が続いた。屋台で呑んでいて酔ったプロレスラーにからまれ、包丁で刺してしまう工員役である。その後、プロレス興業を仕切っていた広能組に教師と母親に連れられてわびにくる。

教師(汐路章)は広能の恩師でもあり、「これのオヤジも極道で死んどるのよ」と渡瀬恒彦を広能組に入れてほしいと言う。第三部の重要なエピソードを担う役だった。最後は兄貴分(川谷拓三)に唆されて敵対する組長(田中邦衛)を狙い、さらにその兄貴分に裏切られて死んでいき、彼の葬儀のシーンで「代理戦争」は終わる。死んだ若者の焼けた骨を手のひらに包み込み、ぐっと奥歯を噛みしめる菅原文太と原爆ドームが重なるように編集されて、第四部「頂上作戦」に続くのである。このチンピラ役は、五部作を通して見ても強い印象を残す。渡瀬恒彦が亡くなって各局のニュースは「仁義なき戦い」を代表作に入れていたが、この役を指しているのだろう。渡瀬恒彦、二十九歳の名演だった。

同じ年、渡瀬恒彦は初めてアートシアターギルド(ATG)作品「鉄砲玉の美学」(1973年)に主演する。東映の中島貞夫監督が、杉本美樹など東映の役者を使って撮った作品である。いわゆる一千万映画で低予算だが、監督が撮りたいように撮れる作家主義の映画だった。ATG作品=作家主義のアート作品だから、このとき映画雑誌などで急に渡瀬恒彦の紹介が増えた記憶がある。ちなみに「鉄砲玉の美学」の音楽を担当したのが、荒木一郎と電脳警察だった。中島監督の「893愚連隊」(1966年)で主演した荒木一郎だから、そのつながりだったのだろう。

●渡瀬恒彦と風祭ゆきの大人のドラマが支えた「セーラー服と機関銃」

七〇年代後半、渡瀬恒彦は順調にキャリアを積み、松竹で山本薩夫監督の「皇帝のいない八月」(1978年)に出演したり、工藤栄一監督の久々の本編「影の軍団 服部半蔵」(1980年)で「裏の半蔵」として主演を張ったりしていたが、僕が「この人、うまいなあ」とうなったのは「セーラー服と機関銃」(1981年)だった。目高組の代貸し佐久間真の役である。現実にはあり得ない物語にリアリティを与えていたのは、渡瀬恒彦と風祭ゆきだった。このふたりの大人の物語がなければ、単なる荒唐無稽なアイドル映画になっていただろう。それに、薬師丸ひろ子が初めてくちづけをする(役の上とはいえ、たぶん実人生でも初めてでは?)相手は渡瀬恒彦なのだ。

僕が「セーラー服と機関銃」を見たのは、東映本社の試写室だった。僕は「小型映画」という専門誌の編集部にいて、相米慎二監督に新作のインタビューを申し込んでいた。「翔んだカップル」で監督デビューした相米さんは、瑞々しい青春映画を撮る監督として期待されていた。カットを割らない長まわしも話題になっていた。「監督インタビュー」というページを作り、加藤泰、工藤栄一、大林宣彦、鈴木清順など、神とも仰ぐ監督たちをインタビューしていた僕は、期待の新人監督として相米慎二さんに是非会ってみたかったのだった。

「セーラー服と機関銃」は、女子高生がやくざの組長になるという非現実的な物語だが、そんなものを超越してスクリーンに引き込む強い力があった。薬師丸ひろ子の魅力もすごかった。少し太り気味の丸顔に短髪で、小柄な体躯が躍動する。その動きが素晴らしく、それを捉えるキャメラワークにも惹かれた。そして、初めて薬師丸ひろ子が佐久間と父の恋人だった風祭ゆきのセックスを見てしまうシーン、その後の佐久間の心の叫びのような告白を聞くシーン、それらは印象的な場面として記憶に刻み込まれた。特に、風祭ゆきとの出会いを語る渡瀬恒彦の叫ぶようなセリフまわし、雨が降り出しても語り続ける切なさのようなものが僕の胸を打った。

僕の中で「渡哲也の弟」という要素が完全になくなり、「渡瀬恒彦」という俳優が存在し始めたのは、やはり「セーラー服と機関銃」の佐久間の告白シーンだと思う。渡瀬恒彦は三十七歳になっていた。あれから、三十六年の月日が流れ、渡瀬恒彦の訃報をテレビも新聞も大きく扱った。それだけ大きな存在の俳優になっていたのだろう。死ぬまで現役でいられたのだ。春から始まるテレビシリーズに出演したいと望んでいたという。幸せな役者人生だったと思う。

2017年3月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…764 岡本喜八監督が脚本を書いたアニメ


【COO 遠い海から来たクー/ジョーカー・ゲーム/ワイルド・ギース】

●景山民夫さんの「遙かなる虎跡」が並んでおり懐かしくなった

先日、ブックオフの百円コーナーを見ていたら、景山民夫さんの「遙かなる虎跡」が並んでおり懐かしくなって購入した。初めての長編小説「虎口からの脱出」に感心し、直木賞を受賞した「遠い海から来たCOO」も読み、テレビ局のトラブルシューターを主人公にしたシリーズも読み、エッセイ集も愛読していた作家である。「遙かなる虎跡」は読んだ記憶がなかったが、自宅に帰り「プロローグ 1942年シンガポール」を読むと、既読感が湧き起こってきた。昔、読んだ気がする。あれほど気に入っていた作家だから読んだはずだ。日本では珍しい大がかりな冒険小説を書く人だった。

景山民夫さんが自宅の火災で亡くなったのは、もう二十年近く前のことになる。五十歳だった。しかし、僕はその少し前から彼の本を読まなくなっていた。理由は、彼がある新興宗教の熱心な信者だとわかったからである。講談社の発行した雑誌がその新興宗教についての誹謗記事を掲載したとかで、信者たちが講談社前に抗議に集まったというニュースがテレビで流れたのはいつ頃だったろうか。その宣伝カーの上には、景山民夫、歌手の小川知子(好きだったなあ「初恋のひと」)、俳優の南原宏治(鈴木清順監督「殺しの烙印」の殺し屋ナンバーワンの役)が立っていた。

景山さんのエッセイを読んでいると、彼は「霊感が強い」と書いてあった。そのせいか、今では政党を作り選挙のたびに信者を立候補させているその新興宗教の教祖に会ったとき、ものすごい霊感を感じたと話していた。すごい衝撃だったらしい。しかし、作家というのは「懐疑的な人間」だと思っていた僕は、新興宗教を信仰することが信じられなかった。それまで、僕は景山さんの小説やエッセイをよく読んでいたので、特に違和感を感じたのかもしれない。景山さんが宗教にのめり込むに連れて、交友範囲はせばまったという。その景山さんのことを内藤陳さんから聞いたのは、亡くなって十年以上が経った頃だった。

「映画がなければ生きていけない」を出版し冒険小説協会から賞をいただいた二〇〇七年、僕は陳さんの新宿ゴールデン街の酒場「深夜+1」に顔を出すようになった。日本冒険小説協会公認酒場だから、冒険小説、ミステリ(特にハードボイルド)、映画などの話題ばかりが飛び交う店である。あるとき、僕は「景山さんの『虎口からの脱出』はおもしろかったですね。今でも忘れられない」と口にした。陳さんはおもむろに「民夫は、ここで宣言したんだ。『A-10奪還チーム出動せよ』よりおもしろい小説を書くって」と言った。

「A-10奪還チーム出動せよ」は当時、新潮文庫(現在は早川文庫)で出ていたと思うが、とにかくおもしろい冒険小説だった。僕も夢中で読んだものである。まだ、月刊になっていなかった『本の雑誌』でも評判になっていたと思う。物語の後半にある車による逃走と追跡がすごくて、それに影響されて景山さんが「虎口からの脱出」を書いたというのは噂で聞いていたが、酒場で宣言し、その通りに書いてしまったのはすごいことだと改めて思ったものだった。

「虎口からの脱出」の車を駆使した逃走と追跡劇は手に汗握り、今もあれをうわまわる小説は出ていないと思う。景山さんは「遠い海から来たCOO」によって直木賞を受賞したが、「虎口からの脱出」で受賞しても不思議ではなかった。ただし、放送作家をやりながらエッセイの賞はもらっていたが、「虎口からの脱出」が小説デビューだったと思う。小説の実績のない人には、直木賞を与えにくかったのかもしれない。

●岡本喜八監督が脚本を書いたアニメ「Coo 遠い海から来たクー」

「遠い海から来たCOO」は少年と絶滅したはずの恐竜の子供の交流というファンタジーの要素が強く、そこが一般受けしたのかもしれないが、僕の評価としては「虎口からの脱出」の方が上だった。もっとも、COOを奪おうとする特殊部隊が襲ってくるのに反撃するシーンなど、冒険小説としても一流だった。今もよく憶えているのは、暗視鏡をした兵士たちに強烈な光を浴びせ、一時的に視力を奪ってしまう場面である。

「Coo 遠い海から来たクー」(1993年)は、岡本喜八監督の脚本によってアニメ映画になった。絶滅した恐竜の子を実写で出すのがむずかしかったからだろう。今なら、デジタル処理でいくらでも可能だろうから、ぜひ映画化してもらいたいものだ。いや、映画化するのなら「虎口からの脱出」の方を見てみたい気がする。少なくとも亀梨くんと深キョンの「ジョーカー・ゲーム」(2014年)よりはずっとおもしろくなると思うのだけど、いかがなものだろうか。

景山民夫という人を思い出すと、僕は彼が放送台本を書いていた「出没!!おもしろMAP」というバラエティ番組を浮かべる。景山さんのスタートは放送作家だったのだ。「シャボン玉ホリデー」でデビューしたという。「出没!!おもしろMAP」は、四十年前の秋から二年間にわたって放映されていた情報バラエティである。司会は清水国昭と清水クーコ、日曜の三時からの三十分番組だった。

提供は森永製菓一社で、番組の中で「エンゼル体操」というものが披露された。古代ローマの兵士のようなコスチュームを身につけた「ムキムキマン」というキャラクターが登場し、音楽に合わせてコミカルな振り付けのエンゼル体操を行うのである。「エンゼル体操」の作詞を手がけていたのも景山さんだった。景山さん自身も登場することが多かった。

僕が毎週、その番組を見ていたのは、首都圏のいろいろな情報が紹介されていたのと映画紹介コーナーがあったからだと思う。日曜の三時である。ゆったりした気持ちでテレビの前に座っていた。月刊誌の編集部にいたので平日の夜はよく残業していたし、完全週休二日だったけれど、ときには仕事で土曜日に出ることもあった。しかし、さすがに日曜日はゆっくり休めた。

その頃、僕は妻とふたりで阿佐ヶ谷の三畳ほどのキッチンと六畳の和室しかないアパートで暮らしていた。トイレはついていたが風呂はなく、近くの銭湯に通っていた。花籠部屋(横綱の輪島がいた頃で全盛期だった)が近く、銭湯で力士と一緒になることもあった。まだ髷の結えない弟弟子が兄弟子の背中を洗っていたりした。さすがにお相撲さんの背中は大きいなあと感心したことを憶えている。

●景山さんが構成していた番組での忘れられない映画紹介

「出没!!おもしろMAP」の映画紹介で忘れられないのは、「ワイルド・ギース」(1978年)である。日本公開は一九七八年八月五日だったから、紹介されたのは七月の日曜日だったのだろう。「ワイルド・ギース」はイギリスの名優リチャード・バートン、後にジェームズ・ボンドで有名になる(その頃はセイントで名を知られていた)ロジャー・ムーア、逆おむすび顔のリチャード・ハリス、ドイツ人のハーディー・クリューガーが出演する大作で、監督も数々の西部劇を作ってきたベテランのアンドリュー・V・マクラクレンだった。

アフリカの某国で軍事クーデターが起こり、大統領が拉致されて監禁される。イギリスの巨大資本はクーデターによって莫大な利権を失いかねないと、傭兵たちを雇い大統領救出を画策する。選ばれたのがリチャード・バートンである。信頼する戦友であるロジャー・ムーアやハーディー・クリューガーを呼び寄せ、参謀格のリチャード・ハリスを誘うが、リチャード・ハリスは幼い息子との生活を優先し躊躇する。しかし、リチャード・バートンとの友情から危険な任務を引き受ける。彼らは五十人の傭兵たちを選抜し、鍛え上げる。やがて、某国へ潜入。大統領を救い出す。しかし、巨大資本は新政権と取り引きし----という展開になる。

そんな傭兵映画を紹介しながら「出没!!おもしろMAP」の出演者がワイワイ騒ぐのだが、生き残ったバートンやムーアが軍用機に乗り、最後に走ってくるリチャード・ハリスのシーンでは番組の出演者たちは「お父さん、がんばって」と声をあげ続けた。飛行機から手をさしのべるリチャード・バートン、飛び乗ろうと走り続けるリチャード・ハリス、その後ろには迫りくる某国の黒人兵士たちがいる。

つかまれば惨殺される。間に合うのか、というサスペンスである。そのシーンに向かって清水国昭や清水クーコが「お父さん、がんばれ」と本気で声をかけていた。リチャード・ハリスにはイギリスの寄宿舎で息子が待っているのだから、バートンやムーア以上に生還しなければならない理由がある。だから、観客たちは強く感情移入するのだ。まあ、物語の設定の定石ではあるのだけれど----。

もちろん、僕は「ワイルド・ギース」の公開を待ちかねて見にいった。そして、今でもお気に入りの映画になっている。昨年だったか、久しぶりにWOWOWで放映され改めて見たが、やはり好きな映画だった。物語は単純だし、パターン化したキャラクターや盛り上げ方はもう古くなっているかもしれないけれど、リチャード・ハリスが飛行機に向かって走り続けるシーンでは「がんばれ、お父さん。息子が待ってるじゃないか」と思った。

それに、僕は昔からリチャード・ハリスが大好きだったのだ。最初に見たのは半世紀以上も昔のこと。リチャード・ハリスがアカデミー賞にノミネートされた「孤独の報酬」(1963年)だった。アクション映画にも主演し、「ジャガーノート」(1974年)や「カサンドラ・クロス」(1976年)などもある。クリント・イーストウッドの「許されざる者」(1992年)でキザなイングリッシュ・ボブという賞金稼ぎを演じ、ジーン・ハックマンの保安官にボコボコにされるのはつらかったけれど、リドリー・スコット監督「グラディエーター」(2000年)では主人公を息子のように愛す賢帝マルクス・アウレリウスを重厚に演じた。

最近では「ハリー・ポッター・シリーズ」で魔法学校の校長を演じ、「ハリー・ポッターと秘密の部屋」(2002年)が最期の作品になった。しかし、リチャード・ハリスというと、やはり「ワイルド・ギース」のあのシーンが浮かんでくる。そう言えば、「深夜+1」の壁にも「ワイルド・ギース」のスチルが貼ってあったなあ。「傭兵もの映画」には、フレデリック・フォーサイス原作の「戦争の犬たち」(1980年)があるけれど、僕には「ワイルド・ギース」の方が記憶に残っている。

2017年3月 9日 (木)

■映画と夜と音楽と…763 夢は叶った、しかし----



【ラ・ラ・ランド/セッション/シェルブールの雨傘】

●作品賞の取り違えの混乱によって長く記憶されるアカデミー授賞式

今年のアカデミー賞授賞式は、最後の作品賞の取り違えの混乱によって長く記憶されることになった。僕はライブで見ていたので、最初、これも演出なのかと思ったが、突然、受賞挨拶をすませた「ラ・ラ・ランド」(2016年)のプロデューサーが「間違いがあったようです。作品賞は『ムーンライト』、私は彼らにこのオスカーを渡すのを誇りに思う」と言いながら、「ベストムービー『ムーンライト』」と書かれたカードを観客の方に向けたとき、訳がわからなくなった。司会者がジョーク混じりで場をおさめようとし、プレゼンターを務めたウォーレン・ベイティが「私が説明する」とマイクをつかんだ。結局、このドタバタで男を上げたのは「ラ・ラ・ランド」のプロデューサーだった。

改めて思い返すと、「ボニーとクライド」こと「俺たちに明日はない」(1967年)が公開から五十年という節目を迎えたことで、作品賞のプレゼンターとして登場したウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイが、「オスカー・ゴーズ・ツー」と封筒を開けたときから変な雰囲気だった。ウォーレン・ベイティはカードを何度も見返し、封筒の中を繰り返しのぞき込む。最初は、発表をじらしているのかと思った。フェイ・ダナウェイもそう思ったのか、ベイティを急かした。ベイティがフェイ・ダナウェイにカードを渡すと、彼女は即座に「ラ・ラ・ランド」と読み上げたのだ。プロデューサーたちを始め監督や主演者たちが喜んで登壇し、三人のプロデューサーは受賞の喜びを語り終えた。その後の訂正である。

どういう間違いか、ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイに渡された封筒の中のカードには「ラ・ラ・ランド/エマ・ストーン」と書かれていたらしい。つまり、主演女優賞のカードだったのだ。しかし、受賞後の記者会見で、エマ・ストーンは「私のカードは私が持っていた」と語っていたから、同じカードが二枚あったということだろうか。しかし、エマ・ストーンは「『ムーンライト』はとても素晴らしい作品で、作品賞は当然だわ」と、しきりに強調していた。「ムーンライト」の監督は、逆に「ラ・ラ・ランド」チームの寛容さを誉め称えていた。トランプが混乱させ、分断された現在のアメリカではほとんど見られない、心温まる光景だった。

ということで、授賞式の三日前から日本でも公開になっていた「ラ・ラ・ランド」を見にいくことにした。もっとも、僕が見たくなったのは、予告編でライアン・ゴズリングがエマ・ストーンをジャズ・クラブに連れていき、目の前で演奏するクィンテットを聴きながら、ジャズのセッションやインプロビゼーションについて解説するシーンがあったからだ。ライアン・ゴズリングは「今はサックスが音楽を乗っ取っている」と話し、トランペット奏者が吹き始めると「ほら、彼は自分の音楽をぶつけている」と解説し、「だから、演奏するたびに違う音楽が生まれるんだ」と熱い口調で語り、最後に「ベリー・ベリー・エキサイティング」とテーブルを叩かんばかりに言う。まるで、映画やジャズについて語っている僕自身の姿を見るようだった。

久しぶりに、かみさんとふたりで並んで見た「ラ・ラ・ランド」は、ジャズと映画(特に古いハリウッド映画)を好きな人間には、たまらなく愛おしい作品だった。アメリカでヒットしたのもよくわかる。五〇年代のハリウッド・ミュージカル(「バンド・ワゴン」や「雨に唄えば」)が大好きな日本人の僕が懐かしく思うのだから、アメリカ人は余計に郷愁を感じることだろう。ジャズおたくの主人公セブ(ライアン・ゴズリング)は、五〇年代に全盛だったジャズ(チャーリー・パーカー、若きマイルス・デイビス)を復活させたいと願っており、そのこともまた「古きよきアメリカ」を思い出させる。この映画は、「アメリカをもう一度偉大にしたい」トランプ支持者も、トランプが作り出した分断されたアメリカに絶望している反トランプ派の人たちも気に入ることだろう。

●デイミアン・チャゼルは三十二歳で監督賞の最年少受賞記録を作った

「セッション」(2014年)を見たときに、「この監督は、きっとジャズが好きなんだろうなあ」と思ったけれど、その内容の激烈さにはついていけなかった。サディスティックな音楽教師を演じたJ・K・シモンズは強烈な印象を残し、アカデミー助演男優賞を受賞した。この映画の教師像については、ジャズ奏者の菊池成孔さんが複雑かつ詳細なコメントをしていたが、僕はJ・K・シモンズが演じた人物は肯定できなかった。もっとも、彼のしごき(いじめ?)があったからこそ、主人公はものすごいドラムソロができたのであって、それは彼をギリギリまで追いつめたJ・K・シモンズの教育なのであるという解釈もできるのかもしれない。

今回、「ラ・ラ・ランド」で監督賞を受賞したデイミアン・チャゼルは三十二歳、監督賞の最年少受賞記録を作った。ということは、「セッション」は三十そこそこで監督したのだ。音楽(ドラムス奏者)を志し挫折したというから、「セッション」には自分の体験が反映されていたらしい。その後、ハーバード大学に進み、映画の世界に入る。今回、アカデミー賞の作曲賞と主題歌賞を「ラ・ラ・ランド」で獲得したジャスティン・ハーウィッツは、監督のルームメイトだったという。十七歳からの友人だと監督は言った。そんな出会いがあるのだと、驚いた。「ラ・ラ・ランド」は音楽と映像が一体化した作品だ。どちらが先ということではないだろう。若き才能が出会い、生み出したハリウッド映画史に残るミュージカルになった。

映画好きにたまらないのは、ワーナー・ブラザースのスタジオが背景になっており、映画の撮影シーンがふんだんに見られることである。ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優をめざしながら、ワーナーの撮影所内にあるカフェで働いている。そこには撮影中の有名女優がカフェ・ラテなどを買いにくる。カフェを出れば、「カサブランカ」(1942年)で使われたというセットがある。少し歩くと、スタジオの中では撮影が行われている。その様子が映画好きにはたまらない。ジェームス・ディーン主演「理由なき反抗」(1955年)の天文台のシーンが挿入され、同じ天文台でセブとミアがプラネタリウムに映し出された星空を背景に踊り出す。ミアは「理由なき反抗」でジミーが着ていたのと同じような真っ赤なブルゾンでオーディションに臨む。

ジャズと映画が好きでたまらないらしい監督は、古いジャズやジャズメン、古い映画へのオマージュをふんだんに散らしている。ジャズ・ファンでなければ知らないだろう「ケニー・クラーク」なんて名前も出てくる。「ベイシーが演奏したクラブ」なんてセリフもある。セブは、「理由なき反抗」のジェームス・ディーンのセリフを口にする。トワイライトの光景を背景にした公園でセブとミアが踊り出したときに僕が思い出したのは、「バンド・ワゴン」で初めて心を許し合ったフレッド・アステアとシド・チャリシーがニューヨークのセントラルパークで踊るシーンだったし、物語全体から僕が感じたのは「シェルブールの雨傘」(1963年)へのオマージュだった。特にラストシーンでは、それを強く感じた。

●ひとつの夢は叶っても、もうひとつの別の夢は叶わない

「ラ・ラ・ランド」が描くのは、「夢を見ること」である。セブの夢はハードなジャズが演奏できる店を自分で開くことであり、ミアの夢は女優になることである。どちらもハードルの高い夢である。その夢の周囲は叶わなかった夢で覆われているし、ほんの一部の人間だけがその夢を実現できる世界だ。実力も必要だろうが、運も必要だ。だが、夢を見続けない限り、夢が実現する可能性はない。大学を中退してハリウッドにやってきたミアは六年努力し、数え切れないオーディションに落ち、彼女のセリフを借りれば「充分、傷ついて」いる。だから、最後に自分で書いたひとり芝居の戯曲で自主公演を行い、数えるほどの観客しか集められず、その観客の「ひどい芝居だった。彼女、大根だな」という感想を漏れ聞いたときの絶望は手に取るようにわかった。「もう、あきらめよう。惨めな思いをするのはコリゴリ。私は充分、傷ついた」と思ったに違いない。

一方、セブはあれほど好きだったジャズへのこだわりを捨て、友人に誘われて「売れる音楽」を始める。そのバンドが成功し、アルバムを出し、ツアーばかりの日々を送る。ミアと長く会えなくなり、会えばミアに「あの音楽が好きなの? あんなに好きだったジャズは?」と問い詰められる始末だ。内心、忸怩たるものを抱えるセブは、自分の苛立ちをぶつけるように、ミアに言ってはいけない言葉を口にする。愛する人との生活(要するに金)のために妥協し、純粋だった夢が変質していく。若いふたりは、夢を追い続けるか、現実に妥協するか、というふたつの選択肢に晒される。それ以外の選択肢が浮かばない。それが、若さということなのかもしれないが、スクリーンのふたりを見ながら僕は改めて若い日の自分の夢を甦らせていた。

今更だけど、僕にも夢はあった。だが、僕は安定した生活のために、夢を優先しなかった人間だ。若くして結婚した妻も僕の夢には反対した。生活を賭して夢を実現するなんて----と、彼女は現実的なことを口にした。いや、妻や家族のせいではない。僕自身が、退路を断って夢に賭けるほどの自信がなかったし、安定した生活を放棄する勇気がなかったのだ。自分自身に、どんな貧しさに耐えても夢に突き進むという強さがなかった。結局、四十年の勤め人生活を送り、今は老齢年金を支給される身になった。僕の夢は勤め人生活を送りながらでも努力できるものではあったけれど、「あのとき退路を断って挑戦していれば、もしかしたら----」と今も夢想することがある。

だが、これでよかったのだと肯定する気持ちもある。五十五歳で初めての著書を出版し、多少とも評価してもらえたし賞もいただいた。昨年は、江戸川乱歩賞候補として四編の中に残った。ただ、そんな中途半端な結果しか得られていないのは、本気で夢の実現に努力しなかったからだという内心の声もある。未だに迷い続けている。しかし、何がよかったのかは、死ぬときになってもわからないだろう。あのとき、別の選択をしていたらと思い続けるのが人生なのかもしれない。「ラ・ラ・ランド」が心に残るのは、最後に「あり得たかもしれない別の人生」を数分間で見せてしまうからだ。僕は、そのシーンでちょっと涙ぐんだ。人生は、ハッピーエンドにはならない。ひとつの夢は叶っても、もうひとつの夢は叶わない。だから、「あのとき、ああしていたら、こうなっていたかもしれない」と人は夢想する。それは、誰もが抱く「夢」である。

2017年3月 2日 (木)

■映画と夜と音楽と…762 疑えば暗闇に鬼を見る



【マクベス/蜘蛛巣城/コールド・ブラッド 殺しの紋章/KT】

●映画化された「マクベス」を久しぶりに見たけれど---

昨年、マイケル・ファスベンダー主演の「マクベス」(2015年)を見た。マクベス夫人はフランス人でありながらアカデミー主演女優賞を受賞しているマリオン・コティヤールである。豪華な配役だった。「マクベス」を見たのは久しぶりだった。暗く、やりきれない物語だから、そう何度も見たくなるものではない。今回はどんな風に映画化されているのか、そんな興味があって見てみたのだ。独創的だったのが、三人の魔女だった。老婆ではないし、ひとりは子供を抱いている。荒野の霧の中に三人が立っている映像は、ちょっとゾクゾクさせた。

マイケル・ファスベンダーは正統的なイギリス人俳優らしく、シェークスピアのセリフを格調高く響かせる。マクベス夫人の独白のセリフもよくて、マリオン・コティヤールの新しい面が見えた。マクベス夫人が王の暗殺をマクベスに唆す場面では、ふたりがセックスしながら高まっていくという設定に変えており、なるほど新しい解釈だわい、と僕はうなずいた。マクベスは夫人の魅力に囚われていて、その夫人の肉体と耳元で囁く邪悪な言葉によって、高潔な正義の人と思われていたマクベスが王の血で手を汚すことを決意する。マリオン・コティヤールの起用は成功していた。

「マクベス」はシェークスピアの三大悲劇の一本と言われ、「ハムレット」や「オセロ」と並んで上演の機会が多い戯曲である。権力欲に駆られて王を暗殺し、マクベスは自らスコットランドの王になる。マクベスの未来を予言して、彼をその気にさせるのは三人の魔女であるが、それは運命というものを具現化した存在だ。彼女らはマクベスが王になることを予言し、一緒にいたバンクォーには「そなたの子孫が王位を継ぐ」と告げる。その言葉からマクベスは疑心暗鬼になり、王を暗殺した後、バンクォーと息子の暗殺を家臣たちに命じるのだ。不安に駆られるマクベスは、「女の股から生まれた者にマクベスは殺せない」という魔女の予言を信じて安心する。

しかし、「森が城を攻めてこない限り」マクベスは滅びず、女の股から生まれた者には殺せないはずのマクベスは、森が動くのを目にし、母親の腹を裂いて生まれた者によって命を絶たれる。スコットランドは暴君から解放されるのだ。しかし、マクベスは魔女の予言によって惑わされ、自ら犯した王殺しや友の暗殺にさいなまれ、亡霊を目にし、疑心が募って誰も信じられず精神を病んでいくわけで、運命の被害者のようにも見えるのだ。夫に悪心を吹き込み、王を殺せと唆したマクベス夫人も手についた王の血が落ちないと狂い、死んでいく。結局、マクベスやマクベス夫人は真の悪人にはなれず、罪の意識によって精神のバランスを崩していく。人の道を外れたマクベスの疑う心は、暗闇に鬼を見るのである。

●組織に属した人間には「マクベス」的心理は理解できる?

以前に見た「マクベス」(1971年)はロマン・ポランスキー監督版だから、もう四十数年前のことになる。もっとも、その間にジョン・タトゥーロが主演した「コールド・ブラッド/殺しの紋章」(1990年)という映画を見ている。これは、舞台を中世スコットランドから現代のマフィアの世界に移して「マクベス」を再現したものだ。タトゥーロはマフィアの幹部で、ある日、ボスを自宅に迎え、宿泊させることになる。もちろん、ボスのボディガードたちも一緒だ。タトゥーロは妻に唆されてボスを刺し殺し、ボディガードに罪を着せて射殺する。ボスの座についたタトゥーロは、親友を暗殺し、ファミリーに君臨する暴君になる。

どんな世界にもヒエラルキーは存在する。上昇志向があり、権力欲があるならば、「マクベス」が描いた世界は----少なくともその精神性は、様々な人々に共通するところがあるだろう。シェークスピア作品が何百年を経ても生き生きとしているのは、そこに普遍的な人間像が立ち現れてくるからだ。特に悪人を描くと、人間の普遍性が見えてくる。「オセロ」のイアーゴー、「リチャード三世」など、悪そのもののような存在が魅力的に見える。彼らに比べると、マクベスは殺した友の亡霊に脅えて、あらぬことを口走る臆病さが情けない気がしないでもない。

その情けなさを目いっぱいに演じていたのが、「蜘蛛巣城」(1957年)の三船敏郎だった。黒沢作品があまり好きではない僕だが、その中でも「蜘蛛巣城」は二度見る気にならなかった。暗いし、みんな目を大きく丸く見開いて大仰に叫んでいる印象があったからだ。十八のときに銀座並木座で見て以来、一度も見返していないかもしれない。しかし、一度見ただけで、物語は脳裏に焼き付いた。僕が「マクベス」を読もうと思ったのは、「蜘蛛巣城」が「マクベス」を翻案したものだと知ったからだった。僕は「マクベス」を読み、なるほど舞台を日本の戦国時代に移しただけなのだなとわかった。

三船敏郎が演じた鷲津武時は、戦場の霧の中で三人の老婆と出会い、自分が王となることを予言される。一緒にいた武将(千秋実)がバンクォーの役である。やがて夫人(山田五十鈴)に唆されて殿の寝所に忍び、槍で刺し殺す。このとき、槍を抱えて寝所から出てくる三船の顔は今でも思い出す。まるで、血管でも切れそうな張りつめた表情だった。また、自分が暗殺を命じた千秋実が亡霊となって宴席に並んでいるのを見つけたときの、三船敏郎の異常におののく姿も忘れられない。もっとも、最後に城を攻められ、顔の横に無数の矢を射かけれられたときの三船の表情は本物だったのだろう。何しろ黒澤明監督は、弓の名人たちを集め、三船の目の前から本当に矢を射させたのだから----。

●独裁者たちは誰もが同じような行動をする

先日来、大騒ぎになっているマレーシアのクアラルンプール空港での金正男暗殺事件のニュースを見ていて、僕は「マクベス」を思い出していた。金正男の長男も命が危険だと言われているが、北朝鮮(誰も「朝鮮民主主義人民共和国」という正式な国名で呼ばないなあ)の孤独な独裁者は疑心に凝り固まっているのだろう。すべての不安材料を払拭(そんなことできるわけないが)しない限り、身内でも次々に消していくに違いない。だが、自分以外は誰でも裏切る可能性があるわけだから、疑心は止めどなく鬼の姿を見せるだろう。どんなに信頼する部下であっても、彼を安心させることはできない。独裁者は、常にそんな不安を抱えることになる。

二十世紀から現在にかけて、様々な独裁国家があり独裁者が存在したが、誰もに共通しているのは恐怖政治を敷き、自分に反対する者たち、自分に脅威を与える者たちを粛清することだった。その中でもスターリンは別格だった気がする。スターリン時代に殺された人は数百万人とも言われている。ロシア革命に貢献した赤軍の幹部をほとんど粛清してしまったので、ヒトラーのドイツ軍に攻め込まれたときに軍がほとんど機能しなかった。スターリンは、自分の妻まで殺した疑惑が持たれている。自分以外、誰も信じられなかったのだろう。執念深く、メキシコに亡命していたトロツキーを暗殺させた。トロッキーはレーニンの後継者を争う存在だったとはいえ、スターリンが権力を把握して数十年も経ってからのことである。そのスターリンを手本にして、金日成は国を支配した。そのまま、三世代の独裁政権が続いている。

韓国(誰も「大韓民国」と言わないなあ)も、独裁体制が長く続いた国だった。かつて、韓国の独裁者が日本で起こした事件によって韓国と日本の間で大問題になったことがある。日本の植民地だった朝鮮は、日本の敗戦後、北をソ連が管理し、南をアメリカが管理した。北朝鮮では金日成が独裁者になり、韓国は李承晩が大統領として独裁体制を敷いた。その後、朴正煕(今の朴大統領の父親)が軍事クーデターを起こし、大統領となった。朴大統領は独裁体制を強め、大統領選挙で自分に迫る勢いを見せた野党党首の金大中(後に大統領になる)に脅威を感じたことで、一九七三年八月、日本の九段下のホテルに滞在していた金大中をKCIA(韓国中央情報部)が拉致することになる。金大中は五日後、ソウルの自宅近くで目隠しをされたまま解放された。

韓国の政府機関である情報部が、日本の主権を侵害する形で行ったこの事件は、当時、日韓関係をゆるがす大問題になった。金大中が拉致された部屋からは、駐日韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋が出たのだ。日本政府は韓国政府に金東雲の出頭を要請し、韓国政府はこれを拒否した。何だか、今回のマレーシアと北朝鮮の緊張関係に似ている気がする。その事件の一年半後、僕はそのホテルの近くにある出版社に勤めることになったが、ある日、昼食に出たときに先輩が「ここが金大中が拉致されたホテルだぜ」と教えてくれた。その後で、「プロ野球のドラフト会議もここでやってるけどね」と付け加えた。

中薗英助の「拉致・知られざる金大中事件」を原作にして「KT」(2002年)という映画を作ったのが阪本順治監督だった。主演は、阪本作品ではおなじみの佐藤浩市である。彼は自衛官で、三島事件の直後に長官室に入ろうとするところから映画は始まるのだが、その彼が金大中拉致事件に関わっていく。これは、事件の裏側を明確に描き出し、ゾクゾクさせる作品になっていた。金大中が韓国に連れ戻される船の甲板で射殺されそうになり、そのときヘリコプターの爆音を聞くのだが、それによって射殺を免れる。これは、アメリカ軍のヘリではなかったかと想像させるのだ。つまり、韓国政府に対して「金大中を殺すな」とアメリカが介入したと思わせるのである。もちろん、真相は不明だ。しかし、朝鮮半島は、今も政治的陰謀に充ちているのかもしれない。

2017年2月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…761 調布が映画の街だった頃


【ハレンチ学園/遊び】

●Iのお母さんは東京の美しい山の手言葉を話しとても優しい人だった

数少ない友人たちを別にして、僕には恩人が三人いる。ひとりは勤めていた出版社の先輩だったHさん、ひとりは亡くなった写真家の管洋志さん、そしてもうひとりは高校時代の友人Iのお母さんである。Iのお母さんは、東京の美しい山の手言葉を話し、とても優しい人だった。僕の父母は貧しい農家の生まれで、尋常小学校を出てすぐに働き始めた。戦後はずっと香川県に暮らし、職人として建築現場で働き、讃岐弁丸出しでしゃべる。もちろん自分の親には感謝しているが、初めてIのお母さんに会ったとき、僕は「東京物語」(1953年)の三宅邦子を連想し、続いてテレビドラマ「七人の孫」の加藤治子(断っておくが、決して後年の向田邦子作品の彼女ではない)を思い浮かべた。

Iと知り合ったのは、たぶん高校一年の三学期くらいだと思う。クラスもまったく違ったが、中学以来の友人だったKが同じクラスのIと仲良くなり、それで紹介されたのではなかっただろうか。ちなみに、後に僕が結婚する相手もIと同じクラスだったが、僕が彼女と同じクラスになったのは三年になってからだった。しかし、僕はIとは同じクラスになったことがあるのだろうか。よく憶えていない。ただ、高校三年生になる前の春休みに、僕は群馬県前橋の彼の家に遊びにいっているのだ。散歩のときに見た利根川沿いにあった前橋刑務所の赤煉瓦の塀を記憶している。それはTとFという級友と三人で大阪・東京を巡る旅の途中だった。

翌年に受験する大学を見にいくという名目で、僕はその旅行を両親に認めてもらった。僕らは鈍行で大阪に出て、その夜、フォークコンサートを聴きにいった。高石友也、岡林信康、高田渡、ジャックスなどが登場するコンサートだった。そのまま東京行きの夜行列車に乗り、翌朝、東京駅に着いた。午前中にFが泊めてもらうという早稲田に住む親戚の家にいき、僕は早稲田大学を見にいった。その日は夕方から大手町の日経ホールだったか、産経ホールだったかで日野皓正クィンテットのコンサートを聴きにいった。ドラムスは日野元彦、ギターが増尾好秋だったのは記憶しているが、他のメンバーは誰だったか忘れてしまった。

コンサートが終わり、僕とTは地方の大学の先生が上京したときに泊まる本郷の施設にいき宿泊した。Tの父親が香川大学の教授だったのだ。その翌日だったか、僕はひとりでIが帰っている前橋の実家を訪ねた。Iのお父さんは金融公庫に勤めていて、頻繁に転勤をしていた。高松に転勤になっていたときにIが高松高校に入ったが、その後、前橋に転勤になった。Iは寮に入り、転校はしなかったのだ。そのときは春休みで家に帰っていたのだった。僕は初めてIの家族に会った。勤め人の家庭は珍しく、厚かましく押し掛けた僕をお母さんは優しく歓待してくれた。考えてみれば、あのときIのお母さんは四十前だったのではないか。Iの妹は小学生だったのではなかっただろうか。

しかし、僕が本格的(?)にIのお母さんにお世話になるのは、翌年の四月、僕の浪人生活が決まり、上京してひとりで暮らし始めてからだった。いろいろあって一年近く会っていなかったIと再会したのは、その年の初夏の頃だった記憶がある。久しぶりに実家に帰るというIに連れられて、僕は調布の多摩川住宅にいった。その春にIのお父さんが転勤になり一家は東京に戻っていたのだが、ずっと家を出て生活していたIはその新居にいくのは初めてだったと思う。「確か、この辺なのだけど」と言いながら団地の号数を確かめていた。Iはひとりでは帰りづらかったのかもしれない。その団地の手前に、石原プロモーションがあった。まだ小さなビルの一角だった。

●僕が初めて調布にいった頃、大映と日活は共に経営不振だった

邦画五社が健在だった頃、映画会社はそれぞれ東京近辺に撮影所を持っていた。松竹は大船、東宝は世田谷の砧、東映は大泉、そして大映と日活は調布に撮影所を構えていた。僕が初めてIに連れられて調布にいった頃、その大映と日活は共に経営不振に陥り、毎週二本の作品を系列館に配給する力をなくしていた。窮地に陥った大映と日活は、ダイニチ映配という配給システムを作り系列の映画館に作品を提供していた。それでも、客は入らなかった。日活は宍戸錠にマカロニの扮装をさせて(初代ヒゲゴジラは藤村俊二)、永井豪のヒットマンガ「ハレンチ学園」(1970-71年)を映画化し、シリーズ化した。十兵衛役は、後に「北の国から」で活躍する児島みゆきだった。

両親には心配ばかりかけるIだったが、一緒についていった僕をお母さんは再び歓待してくれた。「何かあったら、いつでもいらっしゃい」という言葉に甘えて、僕は何度多摩川住宅に通っただろうか。調布からのバス代を惜しんで、ふた駅手前の国領から歩くようになっていた。一年浪人し、何とか大学に潜り込んだ秋、僕は方南町(住所は杉並区和泉)に引っ越したため、下高井戸駅まで歩き調布へいくことがさらに増えた。「洗い物があったら持っていらっしゃい。下着でもいいのよ」と言われ、僕は汚れ物の袋を抱えてよく京王線に乗ったものだった。それでも、最初は遠慮してジーンズのような手では洗えない(コインランドリーが登場する以前の時代だ)ものにしていたが、「遠慮しなくていいのよ」と言われ、下着まで洗ってもらうようになった。

そんな頃、お母さんと「関根恵子は、調布の駅前でスカウトされたようですよ」という話をした気がする。現在は高橋伴明監督と結婚し、高橋恵子になっているけれど、確かに彼女は調布で女優としてスカウトされたのだ。調布近辺には大映や日活の関係者が多かった。浅丘ルリ子も多摩川撮影所の近くに家を建て、そこは日活の若手俳優たちのたまり場になっていたそうである。当時は、調布は映画の街だったのだ。だが、僕がIの家に通っている間に大映は倒産し、日活はロマンポルノ路線に変更になった。そんな大映の末期に活躍した若手女優が関根恵子であり、松坂慶子であり、新人男優には篠田三郎(後のウロトラマンタロウ)や大門正明(「セーラー服と機関銃」より「赤い鳥逃げた?」かな)がいた。

関根恵子は、僕が上京した一九七〇年に「高校生ブルース」「おさな妻」「新・高校生ブルース」の三本に出演した。今から見ればどうということもない映画だが、当時は際どくて、あざとい作品と思われた。十五歳の新人女優に新婚初夜を演じさせるのである。一九七一年、僕が大学に入った年には「高校生心中 純愛」「樹氷悲歌(エレジー)」「遊び」「成熟」という作品に出た。相手役は篠田三郎が多かった。大門正明が相手役を演じ、増村保造が監督した「遊び」はやはり評価が高かった。渥美マリの「でんきくらげ」(1970年)を撮っても評価の高い増村監督だ。どんな映画であっても、きちんと自分の作品として仕上げた。

あれから長い年月が経ち、十五歳だった関根恵子は還暦を過ぎた高橋恵子になり、今ではレディースアデランスのコマーシャルに出ている。十八だった僕は公的に前期高齢者になり、老齢年金が支給されるようになった。増村監督が亡くなったのは、もうずいぶん昔のことになったし、プロ野球チームを持っていた大映という映画会社があったことを知る人は少なくなった。あの当時、四十代だったはずのIのお母さんも年を重ねた。二十年ほど前、Iのお父さんが亡くなったときに久しぶりにお母さんと会ったが、その後は不義理を重ねていた。年賀状のやりとりもいつの間にか途絶えた。だが、忘れたことはなかった。僕の中では、とても大きな存在だったのだ。

●Iのお母さんが亡くなったと聞き五十年近く前の調布を思い出した

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「すいません。ご迷惑をかけて。朝早くから、本当に…」
 語尾が消え入るようだった。
「いえ、いいんです。気にしないでください。最近は早起きして、ジョギングでも始めようかと思っていたところですし。それより、礼子ちゃんが家出というのは、本当ですか」
 中山の母親に会うと、未だにいい子ぶる癖が出る。十八から二十二までの四年間、私には母親がいた。すらりとした背の高い美しい母親だ。小学二年生で亡くした母親が生きていれば、こんな風になっていたに違いないという思いで、私は中山の母親を見ていた。いや、甘えていた。
「一昨日、きつく叱ったのがいけなかったんです。何も、あんなに叱らなくても…」
 やはり、取り乱しているのだ。いつもなら、もっとはっきりした言い方をする。誰が叱ったのか、どういう状況だったのか、明晰な物言いをするはずだった。そんなところも、私が敬愛していた理由だった。
「何があったのですか。一昨日」
「とにかく、あがってくださいな」
 居間へ入っていくと中山が父親と一緒に、溜め息をつき果たしたような顔でソファに身を沈めていた。一晩中こうして、三人で顔を突き合わせていたのだろう。その情景が浮かぶようだった。
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これは、僕が昔書いた小説「黄色い玩具の鳥」(電子書店で発売中です)の一節だ。もちろん、すべてフィクションだが、この文章を書いているとき、僕はIのお母さんを思い浮かべていた。この小説の主人公は子供の頃に亡くした母親の理想の姿を、このヒロインに見出しているが、Iのお母さんに頻繁に世話になっていた頃の僕の心情がここには反映されている。実際、「この人が本当の母親だったらな」と若い僕は思ったものだ。

二月中旬、中学時代からの友人のKから電話があった。「Iのお母さんが亡くなった」という。いつかはそんな連絡が入るかもしれないと思ってはいたが、心の準備ができていなかった。それに、僕は遠く離れた四国にいる。最近、友人たちの両親の訃報が多い。現にKも立て続けに両親を亡くしたばかりだ。「Iは、高松にいるようだから無理しなくていいと言っていたけど、お母さんが会いたがっていたらしい」とKは言う。「こんなことだったら、会っとくんだったなあ」とKが口にした途端、後悔の念が湧き起こった。なぜ、もう一度、会いにいかなかったのか。きちんと、お礼を言っておかなかったのか。口では言い尽くせないほど、世話になったのに----。

Iのお母さんの告別式の日は、入院中の母親が帰宅後の生活の練習のために一日だけ実家に戻る日だった。そのために、車で病院まで迎えにいかねばならない。僕は自宅にいるかみさんに連絡して、葬儀に出てもらうように頼んだ。その夜、寝床に入って暗闇を見つめていると、様々な思い出があふれかえるように甦り、胸の奥が切なくなった。涙があふれそうになる。十八歳の僕、あの頃、Iのお母さんは四十になったばかりだったろう。結婚して挨拶にいったときも、まだまだ若かった。子供が産まれた後、「お子さんたちは元気?」といつも年賀状に書いてくれた。Iのお母さんの思い出をたどると、僕の大学時代の記憶が後から後から甦ってくる。記憶の洪水に溺れ、明け方まで眠れなかった。

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