映画・テレビ

2017年6月22日 (木)

■映画と夜と音楽と…777 「非情のライセンス」を作詞した監督



【キイハンター/Gメン75/組織暴力/新幹線大爆破】

●「非情のライセンス」が一日中テレビから流れた日

六月十六日は、一日中「キイハンター」のテーマ曲「非情のライセンス」が流れた日だった。僕は、この歌を歌詞カードなしで歌える。「あーあ、あの日愛して燃えて~」と聴くと、千葉真一の顔が浮かんでくる。実は、ときどきユーチューブで聴いていた。この後に「Gメン75」のラスト・クレジットでしまざき由理が歌う「面影」を聴く。

「キイハンター」(1968年4月~)はヒットして五年も続いたが、その後は「アイフル大作戦」(1973年4月~)「バーディ大作戦」(1974年4月~)が一年ずつ放映され、「Gメン75」(1975年5月~)が再び何年も続く人気番組になった。東映が制作したアクションドラマ・シリーズである。監督は深作欣二、佐藤純彌が主に担当した。同時期、深作欣二は代表作「仁義なき戦い」(1973年)を撮り、佐藤純彌は「新幹線大爆破」(1975年)を撮っていた。

「キイハンター」のメインキャストでは丹波哲郎、千葉真一、野際陽子、谷隼人、大川栄子という名前が浮かんでくる。番組がきっかけで千葉真一と野際陽子が結婚し、後に谷隼人と松岡きっこが結婚した。野際陽子は、倉本聰の脚本で放映中の「やすらぎの郷」に出演していたので元気なのだと思っていたが、数年前からガンを患っていたという。

野際陽子の葬儀が六月十五日に行われ、その翌日は各局のニュース番組やワイドショーは長い時間を割いて報道したが、ある局は谷隼人をゲストで呼んでいて久しぶりに彼の顔を見た。残念なのは、松岡きっこが出てこなかったことである。もっとも、谷隼人と松岡きっこが結婚するきっかけになったのは、「バーディ大作戦」だったと思う。

「キイハンター」のメンバーの中でマスコット的存在として出演していたのは、僕が好きだった大川栄子である。好きだったわりには、僕は大川栄子が出ている映画としては工藤栄一監督の「十一人の侍」(1967年)しか思い浮かばない。密命をおびた主人公(夏八木勲)は偽装して脱藩しなくてはならず、愛妻(宮園純子)を置いて若い武家娘(大川栄子)と駆け落ちしたことにする。

夏八木と大川栄子は江戸へ出てふたりで長屋住まいをしているが、そこへ愛妻が訪ねてくる。そのときの大川栄子が好きだった。去年、たまたま「徹子の部屋」に大川栄子と河原崎健三が出演していて、初めて河原崎健三と結婚していたのを知った。大川栄子は年を重ねていたが、昔と変わらない清楚さだった。「キイハンター」の頃は、アイドル女優的な人気があった。

さて、野際陽子はテレビの人である。亡くなって出演作を調べてみたが、代表作はテレビドラマばかりである。公開予定の遺作「いつまた、君と」が久しぶりの出演作ではないだろうか。僕が初めて彼女を見たのは、「赤いダイヤ」というテレビドラマだった。女優に転身して、すぐの出演である。主人公が慕い続けるマドンナ的な役だった。「赤いダイヤ」とは小豆のことだ。先物取引、つまり小豆の相場を張る相場師が主人公だった。

原作は、当時のベストセラー作家の梶山季之。主演は大辻司郎(二代目)だった。なぜ「二代目」がついているかというと、父親も大辻司郎という名で活躍した役者だったからだ。放映はもっと長かったと思っていたけれど、一九六三年九月からの三ヶ月だった。僕は小学生で、父と一緒に見ていた。ちなみに野際陽子の実質的な女優デビューは、テレビドラマ化された「悲の器」だったという。文芸賞を受賞した高橋和己の小説だ。僕の青春時代の必読書だった。

●「非情のライセンス」や「面影」を作詞した映画監督

「キイハンター」のテーマ曲「非情のライセンス」も「Gメン75」のラストに歌われた「面影」や「追想」も、作詞を担当したのは佐藤純彌である。一時期、東映大泉撮影所の若手監督として深作欣二と佐藤純彌は並び称せられていた。監督第一作は「陸軍残虐物語」(1963年)だが、その後も深作欣二が監督した「狼と豚と人間」(1964年)の脚本を共同で担当している。

深作より二歳年下で、千葉真一主演「風来坊探偵 赤い谷間の惨劇」(1961年)で監督デビューした深作から、きっちり二年遅れて監督デビューした。ちなみに深作欣二は、監督デビューした年に「風来坊探偵」シリーズなど五本も監督している。千葉真一主演で四本、丹波哲郎主演が一本ある。彼らは、深作組の俳優だった。

当時、東映は観客をさらに取り込もうと第二東映を立ち上げ、制作本数を一挙に増やさなければ系列館に上映作品を配給できない状態だった。二本立てで週替わり。月に何本の作品を供給しなければならないのか。監督になったばかりの深作欣二は、一時間程度の併映作品とはいえフルに働かされていたのだろう。

日体大を出てテレビ「七色仮面」の二代目の主演でデビューし、続く「アラーの使者」の主演で人気者になったが、本編では新人俳優に過ぎなかった千葉真一の主演だった。つまり、B級扱いである。しかし、それだから自由に撮れたのかもしれない。「風来坊探偵 赤い谷間の惨劇」は、当時、好評を博した。僕は、小学校の四年生だったけれど、予告編を見たことを今も鮮明に憶えている。

深作欣二が注目されたのは、六作目の社会派ドラマ「誇り高き挑戦」(1962年)だ。鶴田浩二と丹波哲郎が主要キャストだった。深作欣二、佐藤純彌、丹波哲郎、千葉真一などは、若い頃から「同じ釜の飯を喰った仲間」だったのだ。丹波哲郎は若い頃(彼にも若い頃があったというのが、何となくおかしい)から大物ぶりを発揮して、ほとんどセリフを覚えず(脚本を読まず)に現場に入ったという。

現場では、そこら辺中にセリフを書いたカンニングペーパーを貼り、それを見ながら演技するものだから「自然と芝居が大きくなった」と、テレビのトーク番組で深作欣二が語ったことがある。丹波哲郎は深作の言葉を聞いて、豪快に笑っていた。ある俳優はテレビのトーク番組で「丹波さんに現場で『ここは、どういう場面なんだ』と聞かれ、脚本の大筋を話すと『そうか、そういう話だったのか』とうなずいた」と話していた。

佐藤純彌は、六〇年代後半に「組織暴力」(1967年)シリーズをヒットさせ、深作欣二と並び、東映大泉撮影所の主要監督になった。「組織暴力」も丹波哲郎、千葉真一などが主要キャストを担っている。その頃に、テレビシリーズ「キイハンター」をスタートさせるのだが、それが五年も続く番組になるとは思っていなかっただろう。

今のテレビ界では考えられないが、「キイハンター」は全部で二百六十二話あるそうだ。工藤栄一監督も担当し、脚本には後に「金八先生」で当てる小山内美江子も参加している。ちなみに、小山内美江子の息子の利重剛は高校生の頃、初期のぴあフィルムフェスティバルに八ミリ作品が入賞したのがきっかけだったのか、岡本喜八監督作品「近頃なぜかチャールストン」(1981年)に主演した。

●六〇年代に東映大泉撮影所を担った監督や俳優たち

「キイハンター」を思い出すと、深作欣二監督や佐藤純彌監督や彼らと縁の深かった役者たちを思い浮かべる。その佐藤純彌は、高倉健の最高傑作(と僕が思う、という但し書き付きだが)を撮った監督である。高倉健の東映専属時代の最後の作品「新幹線大爆破」は、演技者・高倉健の最高傑作だと僕は思っている。フリーになった第一作「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年)も佐藤純彌監督である。

高倉健は、佐藤純彌監督を信頼していたのだろう。中国で大ヒットした「君よ憤怒の河を渉れ」には、何度見ても涙ぐむシーンがある。気取ったしゃべり方の中野良子が今でも好きなのは、この映画のヒロインを演じた彼女が素晴らしいからだ。それは中国人も同じらしく、今も彼女は向こうでは大女優である。

その後の角川映画「人間の証明」(1978年)「野性の証明」(1978年)も佐藤純彌が監督をした。「人間の証明」にはがっかりしたが、「野性の証明」は高倉健が出てくると、さすがに締まる。ヒロインを中野良子が演じたのは、「君よ憤怒の河を渉れ」で高倉健が彼女を気に入ったからだろうか。

しかし、その後、佐藤純彌監督は「未完の対局」(1982年)や「敦煌」(1988年)などの中国と合作の大作ばかり撮るようになった。二十一世紀になってからは、テレビの仕事以外には「男たちの大和/YAMATO」(2005年)や「桜田門外ノ変」(2010年)がある。どちらも、それなりに面白く見たが、若き佐藤純彌監督の鋭さはなくなっていた。

二十一世になってからの佐藤純彌監督の仕事で僕の印象に残っているのは、WOWOWドラマ「イヴの贈り物」(2007年)である。原作は白川道の短編小説。主演は舘ひろしだった。若きヒロインはNHKの朝のドラマの主演をやる前の貫地谷しほりだった。「スウィングガールズ」(2004年)に出ていたのは知っていたが、僕はこのドラマで顔と名前が一致した。

ドラマの音楽を担当した宇崎竜童も出演していた。石倉三郎も印象的な役だった。苦界に堕ちた若い女性を中年男が救うという古くさい物語なのだが、ハードボイルドな雰囲気が好きだった。舘ひろしも抑えた演技で、いつもと違って渋かった。監督名がクレジットされたとき、僕は「佐藤純彌だあ」と叫んだものだ。「キイハンター」以来、佐藤純彌監督はテレビでもよい仕事を残している。

2017年6月15日 (木)

■映画と夜と音楽と…776 やっぱり海が好き



【虎鮫島脱獄/パピヨン】

●海から五キロ近く離れているのに海抜四メートル?

先日、散歩をしていて大通りのガードレールに「海抜四メートル」という表示板を見つけた。市か県が設置したものらしい。僕が今住んでいる場所は、海まで四キロから五キロはあるだろう。歩いて一時間くらいはかかる。一度、川に沿って海まで散歩しようと歩いてみたが、「あそこまでいけば海が見えるな」という場所で挫折した。すでに、片道四十分は歩いていたからだ。「あそこまていって帰ったら二時間近くになる」と、帰りの距離を思って心が挫けた。しかし、それだけ離れているのに、海抜が四メートルしかないのか、と少し驚いた。

十数年前だろうか、高潮と台風が一緒になったとき、高松市の海辺がかなり浸水した。僕が子供の頃に高い塀の周りを自転車で走って遊んだ高松刑務所(松島大学と呼んでいた)は、海からけっこう離れているのに、そのあたりまで水に浸かったという。友人の自宅も床上浸水になった。高松市は讃岐平野にあるのだけれど、相当に平らな陸地らしい。確かに、子供の頃から坂にはなじみがなかったから、東京に出たときは坂道が多いのに驚いたものだ。近くのため池の数メートルある土手に登ると、高松の港に建つビルがよく見えるし、その向こうの瀬戸内海の島も見える。やっぱり海が近いのだと実感する。

子供の頃は、自転車でよく海にいった。夜中に起きて友だちと自転車を走らせ、源平合戦で有名な屋島の壇ノ浦近くの海辺で投げ釣りをやったりもした。高校は高松港まで歩ける場所だったので、感傷的な気分になると港へいき、赤灯台を眺めて自己憐憫に浸ったりした。霧の深い夜など、霧笛がボーッと聞こえてくる。

夏の海水浴には、塩屋や松原が続く津田などにいったものだ。小学校の臨海学校は塩屋の浜が多かった。高松港から船で二十分の女木島では、よくキャンプをした。そう言えば、今はすっかり「アートの島」になった直島には、小学六年の臨海学校でいったことがある。島の小学校の教室にクラス全員で泊まった。その頃、精錬所のあった直島は「禿げ山の島」だった。

村上春樹さんの「海辺のカフカ」で、カフカが家を出ていきつく場所が高松だった。カフカ少年は、高松駅の近くで讃岐うどんを食べる。その後、海辺の奇妙な図書館が出てくるが、その場所を僕は津田の松原を思い浮かべながら読んだ。高松という地名は出てきたが、その他の場所は具体的には書かれていない。村上さんの頭の中で作られた場所だろうし、実際の場所を思い浮かべながら書いたとしても現実の場所ではない。

しかし、土地勘のある僕は、読んでいるとどうしても具体的な場所のイメージが浮かんでくる。「海辺のカフカ」には、高松市内の神社が出てくる。その神社は、岩清尾八幡宮のような気がした。栗林公園の近くにある大きな神社だ。「八幡さん」と呼ばれていた。「八幡さんのお祭り」には、子供の頃によくいったものだった。

●僕が偏愛する映画は海に関連するものばかり

先日、何回目になるかわからないが、「冒険者たち」(1967年)をまた見ていた。プロジェクターで左右二メートルほどの大きさに上映すると、なかなか雰囲気がいい。「冒険者たち」を見ていて、僕がこの映画を偏愛する理由のひとつに「海」があるのだと思った。映画として大好きなのだが、十六歳の僕がこの映画を宝物のように思うようになったファクターのひとつには、間違いなく「海」がある。明るいコンゴの海、そして、あの要塞島が浮かぶ海がなければ、「冒険者たち」は成立しない。

ラストシーンでは、要塞島に打ち寄せる波の音しか聞こえない。ひとり生き残ったローラン(リノ・ヴァンチュラ)を捉えたカメラはぐんぐん上昇し、海面にポツンと小さくなった要塞島があり、クレジットタイトルが海面に重なる。フランソワ・ド・ルーベのテーマ曲が静かに流れ始める(アラン・ドロンの「愛しのレティシア」が重なるバージョンは、リバイバル上映になったときのものだ)。

海が出てくる映画は無尽にある。アラン・ドロンで思い浮かべても「太陽がいっぱい」(1960年)があり、荒れた海のシーンから始まる「リスボン特急」(1972年)がある。「冒険者たち」のリノ・ヴァンチュラで思い出すと、ロベルト・アンリコ(ロベール・アンリコ)監督と組んだ「ラムの大通り」(1971年)が浮かんでくる。

夏休みが長いフランスでは、「夏のバカンスもの」という映画ジャンルがあり、「青い麦」(1953年)「ひと夏の情事」(1959年)「赤と青のブルース」(1960年)などを思いだす。フランス映画ではないけれど(ドイツ人がアメリカ人とイギリス人とフランス人を使って監督した)、南仏とパリが舞台の「悲しみよこんにちは」(1957年)も同じジャンルだ。エリック・ロメール監督にも「海辺のポーリーヌ」(1983年)を始め何本もある。

海辺のシーンが出てくるだけで、僕は心が静かになる。落ち着く。癒される。あんな海辺を歩いてみたいと思う。ちょっと思い浮かべると、「いそしぎ」(1965年)のタイトルバックのシーン、「ジュリア」(1977年)でリリアン・ヘルマン(ジェーン・フォンダ)とダシール・ハメット(ジェーソン・ロバーズ)が夜の浜辺で語り合うシーン、「男と女」(1966年)のドーヴィルの海岸を犬を連れた老人が夕日を浴びて散歩しているシーンなどだ。北野武の海のシーンも印象的だった。「あの夏、いちばん静かな海。」(1991年)や「ソナチネ」(1993年)「HANA-BI」(1997年)の海の美しさが忘れられない。

「冒険者たち」にオマージュを捧げているとしか思えない、リュック・ベッソン監督の「グレート・ブルー(グラン・ブルー)」(1988年)も海の映画だった。素潜りの名人たちの映画だから海ばかりが出てくるのは当たり前なのだけど、オープニングシーンから海面を疾走するカメラに興奮したものだ。ジャン・レノもあの映画で初めて見たのだった。ヒロインのロザンナ・アークェットも人気が出たが、最近は「6才のボクが、大人になるまで」(2014年)でアカデミー助演女優賞を受賞した妹のパトリシアの方が知られているかもしれない。

●海で隔絶された孤島は絶好の刑務所になる

改めて考えてみると、僕が偏愛する映画は海に関連がある。「ビッグ・ウェンズデー」(1978年)はサーフィンの映画だから全編ほとんど海だし、「めぐりあい」(1968年)では岩場に寝そべる酒井和歌子の白い水着姿が脳裏に焼き付いている。「おもいでの夏」(1970年)は、ひと夏を島で過ごす少年の物語だ(これはハリウッド映画で「夏のバカンスもの」のジャンルに入るだろうが、僕としては「少年の初体験もの」ジャンルに分類したい)。もちろん、海がまったく出てこない作品でも好きなものは多いし、感銘を受けたり、忘れられない作品はあるが、何度も見たくなる偏愛する映画には海が出てくるものが多い。

明るいイメージがある海だが、海の中に孤絶する島は絶好の刑務所になる。昔から海で囲まれた島は、罪人たちを収容する場所としても使われてきた。オーストラリアはイギリスの罪人が送られる地の果てだったし、フランスには「悪魔島」があった。フランスやイギリスは、たくさんの植民地を持っていたからだ。日本でも、昔から「島流し」の刑罰があった。ナポレオンも島に流されたが、崇徳上皇も讃岐に流され、俊寛は鬼界島に流された。世阿彌は佐渡に流され、木枯らし紋次郎は八丈島に流された。八丈島の罪人たちは赦免になるのを待ちわび、赦免花が咲けば御赦免船がくると喜んだ(と笹沢佐保さんは書いていた)。

監獄島を舞台にした映画には、古いところでジョン・フォード監督の「虎鮫島脱獄」(1936年)がある。この作品では海は脱獄を不可能にしている難関なので、海の美しさというものは描かれない。荒れる海、禍々しい海がモノクロームで捉えられ、主人公にとっては絶望を感じさせるものになっている。物語はリンカーン大統領暗殺から始まり、犯人の怪我を治療した医師が共犯に問われる。大統領暗殺で殺気立つ大衆を鎮めるために、裁判で有罪になった医師は重罪の囚人を収容する虎鮫島に送られる。そこから脱出できるかどうか。後半のサスペンスは、さすがにジョン・フォードだ。

「虎鮫島脱獄」も実話ベースらしいが、「パピヨン」(1973年)はフランス人の元脱獄囚が書いた体験談が世界的ベストセラーになり、映画化権をハリウッドが獲得し、スティーブ・マックィーンが主人公パピヨン(胸に蝶〈パピヨン〉の刺青をしていることからの通り名だ)を演じた。彼は無実の罪でフランス領にある「悪魔島」に送られる。送られる船中で知り合うのが経済詐欺犯のルイ・ドガ(ダスティン・ホフマン)である。

大学生で初めて見たとき、経済詐欺でフランス中の人間に憎まれているという設定がよくわからなかったが、十年ほど前、日本でも投資詐欺で捕まった投資コンサルタント会社の社長がいた。彼のところに莫大な資金を預けて、運用を依頼していた企業年金基金が破綻する事態になった。その結果、企業年金基金が解散になったり、大きく法制度が変更された。その社長は、企業年金を頼りにしていた多くのサラリーマンの憎しみを買った。彼らの老後を不安に陥れたからだ。ルイ・ドガは、そんな経済詐欺を働いたのだろう。

いつ殺されるかわからないルイ・ドガをパピヨンが守り、資金力のあるルイ・ドガがパピヨンをバックアップするという契約が成立し、ふたりはコンビになり十数年の年月の間に深い友情が生まれる。そして、ラストシーン、年老いたふたりが断崖絶壁に立つ。何度も脱獄を試みたパピヨンは、あきらめない。その断崖絶壁から青い南の海に飛び込む。しかし、ルイ・ドガはついに飛び込めない。

陽光にあふれた南洋の美しい紺碧の海が、ふたりの前に違う姿を表す。パピヨンにとって、その海は自由に続いているものだ。ルイ・ドガにとっては、死への入り口に見えたのかもしれない。海は天候によってまったく違う顔を見せるが、立ち向かう人間の内面によっても違う顔に見えるのかもしれない。もっとも、波の穏やかな瀬戸内の海を見て育った僕は、荒れた海に慣れていない。あくまで、海は美しいものだと体に沁み込んでいる。

2017年6月 8日 (木)

■映画と夜と音楽と…775 死は自分で選べるか?



【君がくれたグッドライフ/或る終焉】

●日本では十代から四十代まで死因のトップが自殺

「生まれたときは別々でも、死ぬときは一緒だ」という決めゼリフは、昔の物語にはけっこう使われていた。やくざ映画なら主人公が殴り込みに向かう途中、「ご一緒させていただきます」と待っていた相棒の心意気を表すのにはぴったりのセリフだった。また、恋愛物の場合には、ふたりの強い絆を確認し愛を誓い合うといった場面で説得力があった。

男と男でも、男と女でも、一緒に死ぬというのは結びつきの強さを表したのだ。しかし、こういうセリフが陳腐になり、今は誰も使わない。「生まれたときは別々でも、死ぬときはバラバラだ」というギャグが流行ったこともあるけれど、元のセリフが一般的ではなくなってしまったので、ギャグとして成立しなくなった。

ところで、「生まれたときは別々でも、死ぬときは一緒だ」というセリフは、生まれるのは自分でコントロールできないけど、死は自分でコントロールできる(選べる、決められる)ことが前提になっている。「子供は親を選べない」と言われるように、「いつ」「どこに」「どんな親の元に」「どんな環境で」生まれるかは、自分の意志では決められない。それは、運不運が支配する運命の領域だ。

一方、死は自分で決めようと思えば決められないことはない。先日、日本人の自殺率についての記事が新聞に掲載されていたが、世界でもかなり高い自殺率らしい(ちなみに国別の順位を見ていて驚いたのは、リトアニア、ラトビアなどが上位にいたことだ。宗教観などによって国別の違いはあるかもしれないが、バルト三国はそんなに自殺したくなるような国なのか? ロシアに虐められすぎてきたからなのか?)。

日本では十代から四十代くらいまでは、死因のトップが自殺だという。キリスト教のように「自殺は罪」という観念がないから、日本では「自殺によって救いを求める」傾向が強いのかもしれない。死ぬことで「楽になる」という発想が日本にはある。「楽にしてやるぜ」と悪役が凄むのは「殺してやる」ことだし、断末魔に苦しむ患者を見て家族が「早く楽にしてやってください」と医者にすがるシーンも見かけることがある。とどめを刺すのは「楽にしてやる」慈悲の好意として受け取られる。

「死は楽になること」だから、自殺は「救い」になるのだ。だから、日本では「自死」「自殺」「自決」「自裁」といった様々な言葉が存在している。自殺を、責任をとる、自らを裁く、といった肯定的な意味合いで捉える言葉も存在する。死は自分で決められるから、このような言葉が日本には昔から存在したのだろう。

しかし、人は本当に自分で死を選べるのだろうか。最近、「尊厳死」という言葉が使われ始めている。しかし、「安楽死」という言い方が、「尊厳死」に変わったということではないらしい。医師が患者の意志を確認して自殺幇助をするのが安楽死(不治の病の患者に死に至る注射をするなど)で、延命治療をしないという消極的なのが尊厳死だと定義する人もいる。「尊厳死」という言葉には、最近の終末医療に対する批判が感じられる。いろんな管をつながれて無理矢理生かされるより、尊厳ある死を迎えたいということだろう。

「尊厳死」は認めるが、医師が積極的に自殺を幇助する「安楽死」は認めないという国は多い。医師が致死剤を投与して患者を死に至らしめても罪に問われない国は、オランダ、ベルギー、スイス、ルクセンブルクなどヨーロッパの国とアメリカのいくつかの州だけだ。僕は「人間としての尊厳を持って死ぬ」よりは、「安楽に」死にたいと思っているが、日本ではそれはかなわないことなのだろうか。苦痛と恐怖がなく、安らかに死んでいけたら文句はない。

●ベルギーへの自転車旅行には深刻な目的があった

昨年公開された二本の映画で、「安楽死」が描かれていた。一本はドイツ映画「君がくれたグッドライフ」(2014年)である。冒頭、何人かのエピソードが並行して描かれる。室内で自転車漕ぎをしているのはハンネスだ。妻のキキが心配そうに見つめている。女性と別れ話でもめている女たらしの男、性生活がうまくいっていない夫婦などが登場する。

やがて彼らが友人同士で、毎年、長期休暇をとって自転車旅行をしている仲間だとわかる。今年の目的地ベルギーを決めたのはハンネスで、「ベルギーには何もないじゃないか」と友人は文句を言っている。キャンプ用品などを積んで走り出すと、ハンネスの体調が悪そうだ。それをキキが心配そうに見ている。

一緒に旅行するメンバーには、ハンネスの弟もいる。実家の兄もいつもは参加しているのだが、今年は怪我で欠席である。そこで、仲間たちはハンネスの実家に寄る。ハンネスの実家でみんなでテーブルを囲んで食事をしているとき、ハンネスの母親がいきなり涙ぐむ。様子がおかしいので、一堂は不審に思う。キキがハンネスに目配せして、「みんなに話したら」と言う。

ハンネスが口を開き、自分がALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかっていることを告白する。ハンネスの父親も同じ病気で、体が動かなくなって長く寝たままになり死んでいった。ハンネスは、そんな風になって死ぬのを待つだけの人生はいやだという。みんな、ハンネスがベルギーを選んだ理由に気づく。すでに事前の検査や面接も終え、ベルギーに着けば安楽死できる手はずになっているのだ。

母親は「お父さんが寝たきりになっても、生きててくれれば私は幸せだった」とハンネスの決心を翻そうとし、弟は「なぜ事前に言ってくれなかったのだ」と怒り出す。仲間たちもハンネスの安楽死に向かってペダルを踏むことをためらう。しかし、翌朝、全員がハンネスと共に再び自転車で出立することを選ぶ。

そこから、ベルギーに到着するまでに様々なエピソードがあり、新しい人物が仲間に加わったりする。妻のキキも、とうとう本心を口にする。しかし、ハンネスの決意は固い。自分には少しずつ死に向かうだけの人生しか残っていないこと。やがて体が動かなくなり、惨めな思いをするのは父を見て知っている。体が動くうちに自分の意志で、自分の望む形で死を迎えたい、と思っている。

見ている方は、結末がどうなるのか予想がつかない。安楽死を中止すれば、徐々に衰えていく死を選んだことになるし、安楽死を決行すれば、三十半ばの人生に自分で幕を下ろすことになる。自分だったらどうするだろう、と答えを迫られる。僕は「安楽死を選ぶだろうな」と口にした。まったく直る望みはないし、すでに体の衰弱を自覚しているのだ。

ベルギーが近づくに従って、仲間たちの口は重くなり、陰鬱な雰囲気が漂い出す。ひとつの深刻な状態が周囲に波及し、仲間たちも今まで露わにしてこなかった問題に直面せざるをえなくなる。やがて、ベルギーに着き、ハンネスは医者を訪ねるが、医者は別に急病の患者が出て、決行は延期されることになる。さて、ハンネスはどうするのか?

「君がくれたグッドライフ」は邦題が的外れなのだが、シリアスなテーマをそれほど重くなく描き好感が持てる作品だった。ドイツ映画で俳優もまったくなじみがないため、テーマがよけい際立つ感じだった。これを顔なじみのハリウッド俳優が演じていたら、何となく嘘くささを感じたかもしれない。結末に僕は納得したが、一年後、再び自転車旅行するエピローグは必要ないと僕は思う。

人が死んでいくのを、これほどあっさりと描いた(現実がそうなのだろう)作品は知らない。死は自分で選べることを明確に描いた作品だった。死んでしまえば当人はいなくなり、残った人間たちは再び生きていかねばならない。そんなものだ。日本人でもベルギー(あるいはスイス)にいけば、安楽死できるのだろうか。不治の病といった明確で現実的な理由がなければ、ダメだろうか。芥川龍之介のように「漠然とした不安」では、理由にならないか。

●寡黙でストイックな描き方の映画の主人公もストイック

「或る終焉」(2015年)は、寡黙な映画だった。主演のティム・ロスのセリフも少ない。映画が始まって十五分くらいは、まったくセリフがない印象だ。会話も描写もストイックだし、主人公の生き方も極端にストイックだった。僕が好むタイプの映画である。僕は、間をおかずに二度見た。一度見ただけでは理解できなかったこともあるけれど、もう一度見たいと強く思わせる力が作品にあふれていたからだ。

何の予備知識もなく見たから、オープニングシーンで「サイコ映画」なのかと僕は思った。車のフロントガラス越しにある家が映る。車が二台駐車している。そのショットが長く続き、メインタイトルが出る。やがて家の中から若い女性が出てきて車に乗り込み走り出すと、こちらの車も動き出し跡を尾ける。しばらく尾行するショットが続き、いきなりネットで少女の写真を検索して見ている男のショットになる。どう考えても、サイコ映画じゃないか。

次はシャワールームで、やせ衰えた全裸の女性の体をティム・ロスが無言で洗っているシーンになる。やっぱり、これはサイコ映画ではないかと、その時点で僕はまだ思っていた。それに、ティム・ロスという俳優は、サイコ役にもピッタリだ。きっと、目をつけた若い女性の情報をネットで調べ、跡を尾け、拉致監禁し、飼育するのを快楽とするサイコに違いないと予想しながら僕は見続けた。

シャワールームから女性を抱えてベッドに横たえ、体を丁寧に拭き、簡単服を頭から着せかける。やせ衰えた女性は明らかに病身で、末期の患者のように見える。次のシーンは、彼女の妹一家らしき数人が彼女を見舞っている。少女がふたり、母親に言われて女性に別れを告げる。そのとき、ティム・ロスが「彼女、ちょっといいかな」と声をかけ、まるで看護士のように振る舞う。あれ、ちょっと違うぞ、とようやく僕は気づいた。

女性の葬儀らしいシーンになる。ティム・ロスが黒いスーツで出席している。あの女性とティム・ロスはどんな関係なのだろうと思っていたら、女性の姪だという若い女が声をかけてくる。そのやりとりで、ティム・ロスが看護士だとわかる。しかし、その夜、バーのカウンターでひとりで飲んでいたティム・ロスに隣のカップルが話しかけ、ティム・ロスは「最近、妻を亡くした」と答える。結婚していた年数を訊かれ、「二十一年」と言うのだ。やはり、変な男かなという気がしてくる。

彼が次に担当したのは脳梗塞で倒れた元建築士の老人だ。彼は建築士の仕事の話を聞き、書店で建築の本を書う。書店員に「建築家ですか」と問われて「イエス」と答え、患者の建築士が設計した個人の邸宅を「建築士の弟」と名乗って見せてもらいにいく。やっぱり、どこか変でミステリアスな主人公である。

彼の介護は献身的だ。患者からも信頼されている。しかし、あまりに患者に尽くすため、周囲の人間から不審な目を向けられる。建築士の娘や息子は「父親は彼に操られている」と言い出し、「セクハラで訴える」と彼の会社の上司に連絡する。患者とは会わないことを条件に訴訟はやめると言われるが、患者に会いにいき娘に冷たくあしらわれ、訴えられて職を失う。

そして、冒頭のシーンの続きのショットになる。若い女性の乗った車を尾行し、女性が降りた跡を尾けていき、彼女と並ぶ。そこから、意外な展開になる。主人公は寡黙でストイックで、ほとんど自分のことを話さず説明しない。映画も同じスタイルだ。寡黙でストイックな映像で、説明しない。だから、一度見ただけでは理解しづらい部分もある。観客が想像力をフルに働かせないといけない作品だ。

職を失ったティム・ロスが昔の事務所のボスに紹介されたのは、末期のガン患者だった。彼女は放射線療法を受けているが、副作用ばかり出てガンの進行は止まらない。彼女は治療を拒否し、死を迎えようとする。ティム・ロスの看護士はプロフェッショナルで、献身的で、死に対しても心を騒がせず(表面上はまったく変わらない)に立ち向かえる。患者たちは深く信頼し、彼に何でも打ち明け相談し、依頼する。そして、末期ガンの患者は、あることを彼に頼む----。

僕が神と仰ぐジャン=ピエール・メルヴィル監督の作品のように、映像は厳しく冷たくストイックで、セリフはほとんどなく、説明しない。会話の中で出てくる過去の出来事が、きちんと描写され、何があったのかわかるように説明されると思っていると、肩すかしをくわされる。わずかなセリフで、観客は想像しなくてはならない。ただし、必要最低限の情報は観客に示される。そして、唐突に終わる。人が死んでいくのを淡々と描き、見事な感銘を残す。しばらく、立ち上がれない。凄い映画を見た。

2017年6月 1日 (木)

■映画と夜と音楽と…774 ホントにやるの?



【華岡青州の妻/女体/肉体の門/愛のコリーダ】

●何十匹もの猫に「死んだふり」をさせるのは可能だろうか

その日は、猫たちの受難の日だったのかもしれない。このところ、早朝の散歩の途中で顔見知りになった黒猫がいる。まだ一歳にもなっていないのではないだろうか。僕はキキ(もちろん「魔女の宅急便」です)と名付けて、毎朝、挨拶をする。キキも僕を待っていてくれる。完全に気を許しているわけではないが、僕の姿が見えると近寄ってくる。その朝、僕が「猫通り」と名付けた道に近づくと、近所のおじいさんが家の周囲を掃除していた。

ちょうど僕が角を曲がり「猫通り」に入ったとき、おじいさんはキキに罵声を発して追い払うところだった。キキは、一瞬、僕の方を見てから反対側へ走っていった。何も追い払うことはないだろうとムッとしたが、近所の家にとっては猫の排泄物などの迷惑がかかっているのだろうと思い直した。僕はおじいさんに頭を下げて通り過ぎ、三十分ほど散歩をしてから再び「猫通り」に戻ってくると、キキがいた。「大変だな」と僕は声をかけた。

帰宅して洗濯をし、二階の物干場にあがったときだった。僕の家の裏は駐車場になっていて、広く見晴らしはよい。駐車場と道の境にふたりのおばさんがいて、何かしきりに叫んでいる。どうも、車の下に逃げ込んだ猫を散歩途中の犬が追っているらしい。ワンワンと吠える。「××ちゃん、ダメよ。ひっかかれるわよ」などと気楽におばさんは言っているが、特にリードを引く様子もない。

猫が車の下から走り出ると、犬が勢いよく追いかけた。何とリードをつけず、放して散歩させていたらしい。猫が必死で逃げるのを、短い足のくせに犬が追いかける。猫と犬は角を曲がって見えなくなったが、おばさんたちは急ぐ様子もなく犬を追った。「猫をいじめるんじゃない。犬はリードをつけて散歩させるべきじゃないのか」と、僕は物干場でつぶやいた。

そのとき、不意にある映画のワンシーンが思い浮かんだ。「華岡青州の妻」(1967年)という、当時、ベストセラーになった小説の映画化だった。原作者の有吉佐和子は出す本が次々とベストセラーになり、映画化が続いていた。アルツハイマーなんて病名すらなかった頃に老人問題を書いた「恍惚の人」、食物汚染をテーマにした「複合汚染」などである。「華岡青州の妻」は姑と嫁の確執を描き、話題になったベストセラーだった。

監督は増村保造、江戸期に麻酔薬を開発して名を残す華岡青州に市川雷蔵、その母に高峰秀子、その才色兼備の高峰秀子に幼い頃から憧れ、やがて彼女に望まれて華岡青州の妻になるのが若尾文子だった。医師の華岡青州は外科手術のための麻酔薬の研究に没頭するが、その試薬の人体実験に姑と嫁が競うように志願する。その嫁と姑の壮絶な戦いが話題になっていた。

僕が思い出したのは、華岡青州が弟子たちに命じて犬や猫をいっぱい集めてきて実験に使うエピソードである。毒性の強い植物から麻酔薬を作るために、薬を与えすぎると死んだり障害が出たりする。その適度な分量を、犬や猫を使って試すのである。そして、大量の犬や猫が死んでいく。特に猫が何匹も死んでいるシーンがあり、僕には本物の猫の死体に見えた。

何十匹もの猫に「死んだふり」をさせるのは可能だろうか。犬と違って猫に芸をさせるのは、難しいのではないか。特に何十匹もそろって「死んだふり」をしなければならない。しかし、その猫たちは本物としか見えなかった。もしかしたら、本当に殺したのだろうか。あるいは、保健所で殺処分された猫を大量に借りてきたのか。増村監督ならやりかねないぞ。そんなことを考えた。

華岡青州のふたりの妹は醜い肉腫ができて、苦しみながら死んでいく。姉に続いて、妹までもが同じ病になったとき、村の人々は「犬や猫を多く殺したから、その祟りにちがいない」とささやく。麻酔薬を飲まされ、狂って死んでいく猫もいたのだ。犬は祟らないかもしれないが、猫は祟るよなあ、と僕も映画を見ながら思ったものだった

●本当にやっていなくてもやっているように見える映画の方が好み

犬に追われて逃げる猫を目撃して、僕が「華岡青州の妻」を思い出したのは、「猫をいじめるな」と思ったからだろう。「華岡青州の妻」は映画としては増村作品らしく力強くおもしろいが、昔から僕はあの猫がいっぱい死んでいるシーンが気になっている。本物の猫に見えるし、本当に死んでいるように見えるからだ。映画では、ときどき動物の死骸が登場するシーンがある。おそらく作り物なのだろうけど、あまりによくできているので気になったりする。

映画は、本当に見える、本物に見えることをめざしてきた。リアリティの追求だ。見せ物的要素の強い映画は、サイレント時代から危険な撮影を行ってきた。バスター・キートンなど、アクロバティックなシーンばかりやっている。観客をハラハラさせる必要があるからだ。バスター・キートンは本人が危険な演技をやったけれど、スタントマンという職業は映画の登場と共にできたのだろう。危険なことを本当にやって撮影する。しかし、主演スターにはさせられないから、スタント専門の職種が生まれた。

しかし、映画のリアリティとは、一体何だろう。僕は本当にやっていなくても、やっているように見える映画の方が好みである。たとえば、ヒッチコック作品。巨大な自由の女神像の上での追っかけ、崖の大きな岩に彫刻された巨大な大統領の顔の上での格闘など、絶対に本当にはやっていないけど、ヒッチコックの絶妙な映像テクニックによって、ハラハラドキドキさせられる。有名な「サイコ」のシャワーシーンでも、細かなカット割りと編集で殺人シーンを構成し、ショックを与えた。

僕は古い人間だから、直接的な描写でリアルに感じさせるのは、あまり好きではない。そのせいか、五〇年代のハリウッド映画や日本映画を見ているのが好きだ。そこには直接的なセックスシーンも登場しないし、残酷でグロテスクな描写もない。ナイフで刺されて人が殺されるとしたら、それは壁に映る影で描写されたりする。しかし、様々なタブーは年月と共に消えていき、アメリカではポルノ解禁の影響か、ハリウッド映画のセックスシーンで男女が激しく動くという表現が登場するようになった。

暴力シーンもどんどんエスカレートするし、特殊技術もどんどん発展し、目を背けたくなるグロテスクな死体が登場したりする。最近は、デジタル技術と相まって、本物より本物らしく見えるのだが、僕はリアルであればあるほどしらけた気分になることもある。最近のハリウッド映画をあまり見なくなったのは、デジタル処理によるものばかりだからだ。ただし、SF映画はデジタル・テクノロジーのおかげで格段におもしろくなったし、哲学的なテーマが扱われるようになった。

●本当にやっているところを撮りたいという誘惑?

僕はリアルとリアリティは違うと思うのだけど、映画を創る人たちは、本当にやっているところを撮りたいという誘惑から逃れられないのだろうか。僕の好きな酒井和歌子主演作品「めぐりあい」(1968年)を撮った恩地日出夫という監督がいる。彼は監督になったばかりの頃、「女体」(1964年)という団令子主演の作品で、実際に牛を殺してしまった。原作は、何度も映画化された田村泰次郎の「肉体の門」である。

戦後、パンパンたちがルールを決めて焼け跡の建物で暮らしている。ヒロインはボルネオ・マヤ。そこへ復員兵が入り込んできて、彼をめぐり様々なトラブルが起きる。「肉体の門」で話題になったのは、「男と只では寝ない」という掟を破ったパンパンがリンチされるシーンや、復員兵が牛を殺すシーンなどだった。もちろん、牛を殺すのは食べるためである。恩地監督は、そのシーンで本当に牛を殺してしまったのだ。後に出版された恩地監督の著書「砧撮影所とぼくの青春」には、そのことが詳細に書かれている。

同じ年、日活も「肉体の門」(1964年)を野川由美子主演で映画化した。監督は鈴木清順。復員兵の役は宍戸錠だった。牛を殺す場面はあるけれど、もちろん殺したように見せているだけだ。それよりは、女たちの下着(スリップ)を赤、青、黄、緑などに色分けしたり、スタジオの背景を真っ赤にしたりといった清順美学の方が印象に残る。恩地監督の「女体」は記念すべき団令子主演で作品としてもよくできてはいたが、本当に牛を殺したことで恩地監督はしばらく仕事を干された。

そういえば、大島渚監督が「愛のコリーダ」(1976年)を創ると聞いたときも、本当にそこまでやる必要があるのだろうかと思った。愛人の局部を切って持ち歩いていた阿部貞事件の映画化で、主演の俳優たちに本当にセックスをさせると話題になっていたからだ。日本で撮影したが、本当のセックスシーンが映っているので現像はパリで行った(フランス資本が入っていた)。最近、聞いた話では主演女優が見つからなかったときには、監督の妻の小山明子がサダをやる覚悟だったという。結局、主演女優の松田某は消えてしまったし、相手役の藤竜也はこの作品の後、数年、仕事がこなかったという。

やっぱり、僕はリアルとリアリティは違うと思う。本当のこと、本物を撮るのはドキュメンタリー作品だ。フィクションなら、本当らしく見せればいいのだと思う。よく「迫真の演技」と言われるが、真実に迫る演技ではあるけれど、真実ではないのだ。そんなことは百も承知で観客は見ている。だから、役作りのために歯を抜いたとか、人を殴るシーンで思いっきり殴ったとか、三國連太郎を熱演の人のように持ち上げるのは、僕は違和感を感じてきた。昔の日活作品のように、殴り合いの真似をしているのが映像ではっきりわかるような映画の方が、僕はほのぼのとした気分になる。だから、動物を本当に殺したりしないでくださいね、特に、猫は----。

2017年5月25日 (木)

■映画と夜と音楽と…773 描かれ続けてきた「男たちの愛」



【怒り/ブエノスアイレス/日曜日は別れの時/御法度】

●三つの物語が重なり合い錯綜し映画は進んでいく

「怒り」(2016年)を見て一番心に沁みたのは、妻夫木聡と綾野剛が演じたゲイ・カップルの物語だった。特に綾野剛の表情や細かな動きがすごい。終始、正体のわからない表情を浮かべている。もしかしたら残虐な殺人犯かもしれないと観客に思わせなければならないし、自信のなさそうな曖昧な表情と中性的な仕草が本当のゲイじゃないかと思わせる。

以前から、うまい人だと思っていたけれど、「怒り」に出ている芸達者な人たちの中でも特に印象に残る演技だった。そのせいか、ラストで妻夫木聡が涙を流すシーンで、僕も一緒になって泣いてしまった。妻夫木聡と綾野剛は激しいセックスシーンも演じていて、ウォン・カーウァイ監督「ブエノスアイレス」(1997年)のレスリー・チャンとトニー・レオンを思い出した。

「怒り」は冒頭、八王子の住宅のバスルームで殺されている夫婦のシーンから始まる。壁も床も、いたるところ血まみれである。ピエール瀧と三浦貴大の刑事が室内を調べている。壁に「怒」と大きな血文字が描かれているのを若い刑事が発見する。不気味なオープニングシーンだ。すぐに話は一年後に飛び、三つのエピソードが並行して描かれる。

まず、家出して歌舞伎町の風俗店で働く娘(宮崎あおい)を見つけて連れ戻しにきた、千葉の漁港で働く父(渡辺謙)が登場する。娘は父と漁港に戻り、そこでフラッとやってきてアルバイトとして働いている若い男(松山ケンイチ)と恋に落ちる。父は男の素性を怪しみながらも、ふたりが一緒に暮らすのを認める。

一方、ゲイを公言して都会暮らしをしているエリートらしき男(妻夫木聡)が登場し、ゲイたちの集まる場所でひとりの若い男(綾野剛)を拾う。彼を自宅に連れ帰り、「おまえを信用していないんだ。この部屋のものを盗んでいなくなったら通報するぜ。ゲイがばれるのを嫌って泣き寝入りする奴もいるけど、俺、そういうのないから」と挑戦的に言う。

その言葉に「ありがとう。僕を信用してくれて」と綾野剛は答える。確かに、妻夫木聡は口とは裏腹に、彼に深い愛情を感じ始めている。妻夫木聡の母親は死を迎えるためにホスピスに入っているが、綾野剛は勤めている妻夫木の代わりに彼女を献身的に看病する。妻夫木は母の葬儀の後、綾野剛に「一緒に墓に入るか」と口にし、相手の反応を見て「冗談だよ」と打ち消す。

沖縄の孤島に現れたのは、謎のバックパッカーの男(森山未來)だ。ある日、少女(広瀬すず)は友人の少年に頼んで、無人島へ船で連れていってもらうが、誰もいないと思っていた島でキャンプしている男と出会い驚く。食料や水をどうしているのか気になった少女は、誰にも言わずに再び島へ男の様子を見にいき仲良くなる。

ある日、少年と那覇市へ映画を見に出かけた少女はバックパッカーの男と出会い、少年と三人で居酒屋で食事をする。飲み慣れない泡盛を飲んだ少年は酔ってふらふらといなくなり、バックパッカーの男と別れた少女は夜の那覇市を探しまわるが、アメリカ兵たちのたまり場の飲み屋街に迷い込んでしまう。

こうして東京のゲイ・カップル、千葉の漁師町の若い男女、沖縄の少年少女と謎の男の三つの物語が錯綜しながら進んでいく。観客には、三人のうちの誰かが残虐な殺人者なのだとほのめかされる。綾野剛には、犯人の特徴とされる三つ並んだほくろがある。逃亡中に整形手術をした病院の、監視カメラに写っている犯人の姿が松山ケンイチに似ている。妻夫木聡は、綾野剛を疑い始める。渡辺謙も松山ケンイチに疑惑の目を向け、姪(池脇千鶴)に相談する。

まったく異なる物語が重なり合い、錯綜し、クライマックスに向かって映画は進んでいく。それぞれ劇的な展開があり、様々な謎と疑惑が提出され、やがて終局を迎える。そのラストの高まりが感動的だったのが僕にとってはゲイ・カップルの物語で、僕は妻夫木聡と一緒に涙を流してしまった。妻夫木聡と綾野剛の熱演が報われたのだ。

●ゲイ役ばかりくるようになったらどうする、綾野剛

「怒り」に出ている役者はみんなうまいけれど、改めて池脇千鶴のうまさに感心した。渡辺謙の姪の役で「おじさん」と呼んでいる。娘に甘い父の代わりに、娘にも厳しいことを言う。しかし、そこに深い愛情を感じさせるのだ。数シーンにしか登場しないが、「もしかしたら、おじさん、愛子は幸せになんかなれないと決めつけてない?」と渡辺謙に説教(忠告?)するいいシーンがあり印象に残る。

それとはまったく次元の違う感想だが、男同士でディープなキスをする妻夫木聡と綾野剛を見ながら、「役者も大変だな」と下世話なことを思ってしまった。綾野剛は同じ吉田修一原作の「横道世之介」(2012年)でも勘の悪い世之介にハッテンバの公園にまでついてこられ、「俺は男しか愛せないんだ」とカミングアウトする。「今後、ゲイ役ばかりくるようになったらどうする。綾野剛」と、僕は余計な心配をした。

ハリウッド映画で初めて男同士のキスシーンを出したのは、ジョン・シュレシンジャー監督の「日曜日は別れの時」(1971年)だった。監督自身がゲイで、前作の「真夜中のカーボーイ」(1969年)も金持ち女相手のジゴロになって儲けるつもりで、ニューヨークに出てきたカウボーイ(ジョン・ボイド)が男娼になる物語だった。カウボーイはホームレスの男(ダスティン・ホフマン)と知り合うのだが、そのふたりの関係もホモ・セクシャルな匂いがした。

当時、日本で「ゲイ」という言葉は一般的ではなく、女性の同性愛者は「レズ」、男の同性愛者は「ホモ」と呼ばれた。その頃、僕は同性愛の存在をまったく知らなかった。高校二年の時に読んだ大江健三郎の短編に同性愛をテーマにした作品があり、同性愛の存在そのものを知らない僕はその短編が理解できず、大人びていた友人に「『つきあってください。人間同士の愛です』というセリフが出てくるけど、あれはどういう意味なんだ?」と訊き、初めて男同士の愛というものを知ったのだった。

その後、大江健三郎の影響を受けた漫画家・宮谷一彦の作品で、ビジュアルとして男同士のセックスシーンを目にして激しい衝撃を受け、愛読していた司馬遼太郎の「新選組血風録」の中の一篇「前髪の惣三郎」を読んで「衆道」の存在を知った。ちなみに、後年、大島渚監督は「前髪の惣三郎」を「御法度」(1999年)として映画化し、新選組内部の男色関係を赤裸々に描いた。

●僕は様々な分野で活躍するゲイの人と会った

僕自身が男にとって欲望の対象になるのだと気づかされたのは、上京して映画館通いをしていた頃、今はなくなった新宿伊勢丹の向かいの地下にあった映画館で痴漢に遭ったときだった。たぶん、フェデリコ・フェリーニの映画(「81/2」だったと思う)を見ていたときだ。僕の尻を誰かが触っているのに気づいた。

最初、僕は女性に間違われたのだと思った。当時、十八歳の僕は痩せていて、ヒョロヒョロとした体型で五十キロの体重しかなく、ウエストも七十センチを切っていた。僕は振り向き、男であることをアピールし再びスクリーンを見つめたが、今度は僕の背後で荒い息が聞こえてきた。気味悪くなった僕は、席を移った。それでも、自分が同性愛の対象と見られたのだとは気づかなかった。

初めて男性に誘われたのは、すでに結婚していた二十代半ばのことだった。かみさんと映画を見た帰り、新宿三丁目にあった地下のトイレ(後にハッテンバだと知った)に入った。用を足していると、横からの視線を感じて顔を向けた。隣で用を足していた、三十過ぎくらいのサラリーマン風の男性と目が合った。相手は、ニコリと笑った。僕は、無表情で視線を戻した。

僕は早々にトイレを出たのだが、かみさんも女性用に入っていたので、トイレを出たところの柱にもたれて待つかたちになった。先ほどの男性が出てきて、ハッとした表情になった。まずい、と僕は思った。勘違いされたのだ。男性は一度は僕の前を通り過ぎたが、引き返してきて僕の前に立った。ますます、まずい----と僕は思った。「ねえ、お茶飲まない?」と彼は言った。

本当にまずいぞ、と僕はあわてた。何て断ればいい? 相手を傷つけずに断るにはどうすればいい? 僕は同性愛の人に偏見を持っていないと伝えつつ、どう断ればいいのだ、とパニックに陥った。ハリウッド映画に登場する乱暴なホモ嫌いのアメリカ男なら、「失せやがれ、このホモ野郎」とでも言うのかもしれないが、そんなことを言ったら自らの性的嗜好に後ろめたさ(当時はまだまだ偏見がひどかった)を抱いて生きているであろう目の前の男性に、永遠に残る精神的な傷を与えてしまう(とまでは考えなかった)。

結局、僕の口から出た言葉は、「ツ、ツ、ツマを待ってますから」だった。「せっかくのお誘いではありますが、僕は結婚していてストレートなのです。誤解させるように柱にもたれて待っていて、ヘンに期待させてしまったみたいで、大変に申し訳ありませんでした。ご容赦いただきたい」と伝えたつもりだったが、緊張して吃音になった。

あれから四十年が経って、僕は様々な分野で活躍するゲイの人と会った。デザインや映像・写真関係の専門誌を出している出版社で働いていたので、僕が出会った人の中にはグラフィックデザインの神様と言われている人もいた。高名な写真家もいた。高倉健やカトリーヌ・ドヌーヴのヘアメイクを担当したヘアメイクアップ・アーティストもいた。もちろん、誰もが知っている映画評論家もいた。みんな、穏やかで知的で物腰のやわらかな人たちだった。彼らは、そろって静かに話した。

今、国や州や区(渋谷区!!)によっては同性婚も認められるようになり、同性愛(最近はもっと広い意味で「性的マイノリティ」というのかな?)に対する偏見も徐々になくなりつつある。とても、よいことだと思う。そんな偏見をなくすことに、映画も少しは役立ってきたのではないだろうか。ルキノ・ヴィスコンティ監督(バイセクシャルを公言していた)の「ベニスに死す」(1971年)を始め、「男たちの愛」は様々な作品で描かれ続けてきたのだから。

2017年5月18日 (木)

■映画と夜と音楽と…772 川島雄三作品で輝いていた女優



【夜の牙/昨日と明日の間/あした来る人/銀座二十四帖】

●原節子と同年代の女優だった月丘夢路の死

先日、月丘夢路さんが九十五歳で亡くなったという訃報が新聞に載った。原節子の死ほど大騒ぎはされず、テレビニュースでも取り上げたところはほとんどなかったのではないか。世代的には、原節子とほぼ同じである。調べてみると一歳だけ年下だった。小津安二郎監督の「晩春」(1949年)では、原節子の親友の役をやっている。

「晩春」の原節子は父親(笠智衆)の再婚話に反発して友人のところにいき、「不潔だわ」と心の中の思いをぶちまける。その気の置けない友人役を月丘夢路は演じて印象に残る。巨匠と言われる監督の作品にはあまり出なかった人だが、映画史上の名作「晩春」によってスクリーンに若き日(といっても二十八歳だけど)の面影を残すことになった。

僕は昔から、成熟した女性に惹かれる傾向があったのかもしれない。子供の頃に見た月丘夢路は「和服を着た大人の女性」として記憶に残っている。月丘夢路は、戦後に遅れて製作を再開した日活の専属になった。石原裕次郎が登場して日活が全盛期を迎える前、日活の屋台骨を支えた人気女優だった頃の彼女を鮮明に憶えている。

石原裕次郎が登場した後、初期の裕次郎作品ではヒロインも演じている。裕次郎の初期作品の相手は、ほとんどが後に結婚することになる北原三枝である。ムード・アクションになると、浅丘ルリ子との黄金コンビが成立する。月丘夢路が出演した裕次郎作品は数本あるが、最も記憶に残っているのが「夜の牙」(1958年)だ。

街の片隅の診療所で医者をやっている裕次郎は、場末の人間たちに人気がある。やくざには「兄貴」と呼ばれ、若い女スリ(浅丘ルリ子)にも慕われている。しかし、ある日、自分が死んだことになっていることに気づく。一体、誰が、なぜ----という展開になるのだが、裕次郎作品としては珍しい本格的なミステリなので印象に残る。

謎解きとサスペンスがあり、楽しめる作品だ。監督は前年に「勝利者」「鷲と鷹」「嵐を呼ぶ男」を撮り、裕次郎を不動の人気者にした井上梅次である。「夜の牙」は、大ヒットした「嵐を呼ぶ男」に続いて、井上・裕次郎コンビが作ったものなのだ。その職人監督・井上梅次と結婚していたのが月丘夢路だった。

月丘夢路は宝塚出身だった。名前からそうではないかと思っていたが、死亡記事にはっきりと書かれていた。戦争中の作品で銀幕デビューし、戦後すぐの頃から活躍した。その頃の宝塚出身者としては、淡島千景、八千草薫、新珠三千代などがいるが、月丘夢路は彼女たちよりは先輩で同期には乙羽信子と越路吹雪がいた。ちなみに乙羽信子と越路吹雪は親友だったという。

同じ頃、松竹歌劇団(SKD)出身の女優もたくさんいた。黒澤明監督「野良犬」(1949年)で銀幕デビューした淡路恵子を始め、草笛光子、芦川いづみ、桂木洋子、野添ひとみなど幅広くいて、映画界には貢献した。少し後の世代になると、倍賞千恵子と倍賞美津子の姉妹が有名だ。

戦後遅れて製作を再開した日活は、スタッフやキャストを多く松竹から引き抜いた。今村昌平監督(小津監督の「東京物語」の助監督を務めている)や鈴木清順監督なども松竹からの移籍組だ。同時に女優陣も何人かが移籍した。北原三枝も月丘夢路も松竹から日活に移った女優である。このふたりは松竹の大ヒット作「きみの名は」(1953~1954年)で重要な役を演じている。

月丘夢路は川島雄三の松竹時代の作品「昨日と明日の間」(1954年)に出演し、川島雄三監督と共に日活に移籍する。この作品の原作は井上靖で、航空会社を立ち上げようとする若き起業家(鶴田浩二)のキャラクターが興味深い。戦後九年、日本が明るい未来に向かっていた頃の空気感がよく描かれていた。主人公につきまとう奔放な昔の恋人(淡島千景)に対して、品があり謎に充ちた人妻を月丘夢路が演じた。

●川島雄三監督作品に出た月丘夢路が印象的だった

現在でも日本映画界の巨匠と言えば、黒澤明、小津安二郎、木下恵介、市川崑、溝口健二、成瀬巳喜男などが挙げられる。それらの監督と月丘夢路はあまり縁がなく、出演作は「晩春」「二十四の瞳」(1954年)くらいだろうか。僕が月丘夢路が好きなのは、川島雄三監督作品に出た彼女が印象的だったからだ。「昨日と明日の間」に続いて、ふたりは日活で「あした来る人」(1955年)と「銀座二十四帖」(1955年)を作る。

十本足らずだが、日活時代の川島作品には駄作がない。北原三枝を使った「愛のお荷物」(1955年)、北原三枝と新珠三千代が出た「風船」(1956年)、新珠三千代の代表作になった「洲崎パラダイス 赤信号」(1956年)、南田洋子のメロドラマ「飢える魂」「続・飢える魂」(1956年)、そしてあの「幕末太陽傳」(1957年)に至る。

日活時代の川島作品に出演した女優は、月丘夢路、北原三枝、新珠三千代、芦川いづみ、南田洋子、左幸子などである。現在から見ると、多彩な女優陣だ。その中でも、月丘夢路は「和服」のイメージであり、「人妻」役が多かった。「飢える魂」「続・飢える魂」のヒロインは南田洋子なのだが、僕はよく月丘夢路と混同する。南田洋子がずっと和服で登場するのと、不倫の恋に身を灼く人妻役だからだろう。もしかしたら、川島監督も月丘夢路をイメージしていたのかもしれない。

ちなみに「飢える魂」は、小林旭のデビュー映画である。しかし、DVDソフトのパッケージに小林旭と南田洋子をあしらっているのは、いかがなものかと思う。やはり主役の三橋達也を出すべきではないだろうか。この頃、三橋達也は日活の主演男優だった。裕次郎出演の「勝利者」は、三橋達也の主演作である。その後、東宝に移籍し、主演したり脇にまわったりして、高齢で亡くなるまで現役を続けた。

さて、井上靖が紡ぎ出す物語の登場人物としてはおなじみの「ブルジョワのミステリアスな人妻」は、清楚でありながら妖艶さを見せる存在だ。夫は金持ちで何不自由のない生活を送りながら、充たされない思いを抱いて生きている。彼女は情熱的な人物に出会い、夫にはないものに心惹かれていく、というのが割に多いパターンだった。

戦後、井上靖が注目されるきっかけになった「猟銃」もそんな物語だったけれど、それ以降、井上靖はベストセラー作家として戦国物、恋愛物を多く書いた。後にノーベル賞受賞まで噂される文豪になったが、現在では当時のベストセラー小説(たとえば「その人の名は言えない」など)はほとんど入手できない。しかし、そんな小説を映画化するとき、ヒロインのイメージは月丘夢路がぴったりだった。

●シリアスな物語を喜劇腸に仕上げる不可思議な演出

「昨日と明日の間」の主人公は旅先で人妻らしき謎の女性と出会い、その後、彼女が自分が航空会社に投資を依頼している関西財界の大物(進藤英太郎)の夫人だと知る。その夫人との関係がどうなるのか、航空会社の起業は順調にいくのか、という興味でドラマは進むのだが、主人公は井上靖の小説ではおなじみの情熱型の青年だ。

同じように「あした来る人」も、冒頭、東京に向かう列車の中で人妻である月丘夢路が知り合うのは、「かじか」を研究している若い学者(三國連太郎)だ。彼は知り合った月丘夢路の気持ちも考えず、東京に着くまで「かじか」についてまくしたてる。話の内容はまったくわからないものの、その情熱と勢いに月丘夢路は好意を持つ。そして、研究のための資金援助になるかもしれないと、自分の父親(山村聰)を紹介する。

山村聰は関西財界の大物経済人で、成功した人間だ。訪ねてきた三國の援助は断るが、その研究に関連する事業をやっている関西の経済人を紹介する。東京と関西(たぶん芦屋に住んでいる)を行き来している山村聰は、若いデザイナー(新珠三千代)のパトロン(純粋な後援者)になっていて彼女の銀座の店に出資している。恋愛関係はないのだが、それが山村聰の一種の道楽なのだ。

一方、娘の月丘夢路の夫(三橋達也)は山岳家で、仲間とヒマラヤ遠征を計画しており、その費用の援助を山村聰に頼んでくる。たまたま三橋達也は新珠三千代と知り合い、彼女の店の二階を遠征隊の準備のための事務所として借りることになる。一方、月丘夢路は夫に対する不満からか、三國連太郎の「かじかバカ」ぶりに惹かれていく。

しかし、ここに出てくるふたりの男は、「かじか」の研究と山登りというように対象は異なるが、どちらもひとつのことに夢中で情熱を傾けているという意味では、よく似たキャラクターだ。しかし、月丘夢路は三國連太郎に惹かれ、新珠三千代は三橋達也に惹かれていく。そこに、月丘夢路の父親で新珠三千代のパトロンである山村聰がからんでくるという複雑な関係になる。

そんな複数の男女の関係を川島雄三監督は見事に整理し、人間関係のおもしろさを描き出した。夫婦がそれぞれ別の男女に惹かれるというダブル不倫になりかねない物語だが、何しろ六十年も前の話だから淡いプラトニックな恋愛劇になっている。たぶん、そういうところが僕の好みに合っているのだと思う。

「あした来るひと」では、月丘夢路はずっと和服だった。新珠三千代が服飾デザイナーとして洋装を通すから、対比という意味でもずっと和服にしたのかもしれない。どちらかと言えば、月丘夢路はくっきりとした顔立ちの派手めの美人である。性格的にも、はっきりした役をやっている。そのキャラクターと和装の取り合わせが印象的だった。

同じく川島雄三監督と組んだ「銀座二十四帖」でも、月丘夢路は和装を通す。こちらは夫と別れている娘のいる役だった。タイトルバックに流れるのは、森繁久彌が唄う「おいらは銀座の雀なのさ~」である。ナレーションも森繁が楽しそうに担当している。森繁の喜劇調の語りが、この映画のトーンを大きく左右する。

主人公は、銀座で花屋をやっている三橋達也だ。花屋の店員役でデビューしたばかりの浅丘ルリ子が出演している。ある日、三橋達也は銀座のギャラリーで一枚の絵を見る。その絵に描かれていたのは、若き日の月丘夢路だった。三橋達也は銀座の外れに住む月丘夢路と知り合う。その家には大阪から姪の北原三枝が出てきているのだが、彼女は旅館の前で毎日絵を描いている大阪志郎と知り合う。彼は警察官で、その旅館を見張っているらしい。一方、三橋達也は銀座の夜の世界に探りを入れ始める。

こういった犯罪がらみの物語なのだけれど、森繁のナレーション、北原三枝と大阪志郎の軽快なやりとりなどで、明るい作品に仕上がっている。川島雄三は月丘夢路と三橋達也の大人の恋愛感情と、大阪志郎と北原三枝の軽快でカラフルな現代風恋愛の両方を描き、シリアスな物語を喜劇調に仕上げるという器用で不可思議な演出をしている。ラストに悪玉の死があるのに後味がいい。やはり、鬼才(奇才?)というべきだろう。

2017年5月11日 (木)

■映画と夜と音楽と…771 結局、やっぱり酒井和歌子様



【切腹/人間の條件/日本の青春/いのち・ぼうにふろう】

●昨年に生誕百年を迎えた日本映画の巨匠

岩波書店から昨年末に発行された「映画監督 小林正樹」というぶ厚い本を読んだ。昨年は、小林正樹監督の生誕百年で、没後二十年の節目だったという。一九五二年に「息子の青春」で監督デビューし遺作になった「食卓のない家」(1985年)まで、上映時間が九時間を超える「人間の條件」六部作を一本と数えれば全部で二十作品。寡作な映画監督だった。僕は初期作品は見逃しているけれど、九作めの「黒い河」(1957年)から「人間の條件」(1959年~1961年)「からみ合い」(1962年)「切腹」(1962年)「怪談」(1965年)「上意討ち--拝領妻始末」(1967年)「日本の青春」(1968年)「いのち・ぼうにふろう」(1971年)「化石」(1975年)まで、どれも好きな作品として深く記憶に刻み込まれている。

ただし、膨大にあった記録フィルムを膨大な時間を使って整理し編集した「東京裁判」(1983年)は277分という長さに怖れをなし、公開時に気になってはいたものの見逃してしまい、未だに見ていない。また、円地文子の小説を映画化した「食卓のない家」は、一九七二年に起きた浅間山荘事件と連合赤軍事件を題材にした作品なので、公開当時(事件から十年以上が経過していたが)ではまだ見る気にはなれなかった。実際の事件に取材したもので、浅間山荘に立て籠もって警官や民間人を殺し、多くの仲間を「総括」の名でリンチして殺した、犯人の学生たちのひとり(中井喜一)の父親(仲代達矢)を主人公にして物語が展開する。

浅間山荘の攻防とその後に判明したリンチ殺人事件は、あまりの凄惨さで日本中にショックを与えた。逮捕された学生たちは鬼畜のように報道され、その家族にも厳しい非難の目が注がれた。ある学生の父親は自殺したのではなかっただろうか。そんな中、息子は独立した人格であり、家族が詫びる必要はないという姿勢を貫いた父親がいた。彼の主張はメディアで流れ、多くの人が彼を非難した。息子が犯した大罪を父親が詫びるのはあたりまえ、という日本的な感情論が彼を取り囲んだ。そんな状況になったら、家族は崩壊する。円地文子はそれを小説にし、小林正樹が映画化した。今なら、僕も冷静に見られると思うけれど、その映画に出資したのはバブル期に全盛だった貸しビル業者で、彼は「食卓のない家」のDVD化を頑なに拒否しており、現在、見ることができない状態だという。

小林正樹監督は、日本を代表する四人の監督が結成した「四騎の会」のひとりだった。他の三人は、黒澤明、木下惠介、市川崑である。一般的には、小林正樹監督の名が最も知られていなかったのではないか。それに、四人の中では一番の年下(最年長の黒澤と六歳違い)だった。今回、改めて小林正樹監督へのインタビュー、スタッフやキャストの証言、詳細なフィルモグラフィーを読んで、改めて僕はその四人の中では小林正樹監督作品が最も好きだと認識した。監督は自身のベスト作品を「切腹」と言っているが、これは異論のないところだろう。

ただし、「切腹」によって、小林正樹監督は黒澤路線にいくのではないかと、公開当時は思われていたらしい。それは僕には意外だった。「切腹」には、敗者の視線、低い位置からの視点がある。それは黒澤作品には、絶対に存在しないものだ。その後の小林作品に三船プロで撮った「上意討ち--拝領妻始末」があるので、よけい黒澤路線に似ていると思う人がいるかもしれないが、剣の達人とはいえ家付きの妻に気をつかって生きる婿養子を演じた三船敏郎は、黒澤作品とはまったく違うキャラクターになっている。

昔、僕は小林正樹監督がたいして歳の違わない木下惠介監督の助監督をやっていたと知って意外に思ったことがある。作風が全く違うからだ。しかし、初期作品を見ると松竹の伝統的ホームドラマを撮っているし、木下惠介の脚本を元にした作品もある。僕が見た「黒い河」が、当時の松竹作品としては異色だったのだ。僕が「黒い河」を見たのは、公開から十数年後のことだった。東京に出てきてすぐ、銀座並木座という名画座で見た。有馬稲子が美しく、仲代達矢が演じたやくざに目を付けられ、犯されて彼の情婦のようになってしまうのが納得いかなかった。彼女はまじめな学生(渡辺文雄)に好意を持っていたのに----と、若い僕は憤慨したものだ。

●まとめて上映すると九時間以上かかる作品がヒットした

「人間の條件」は「第一部・純愛篇」「第二部・激怒篇」が公開され、十ヶ月後に「第三部・望郷篇」「第四部・戦雲篇」が公開。その一年二ヶ月後に「第五部・死の脱出」「第六部・廣野の彷徨」が公開された超大作で、まとめて上映すると九時間以上かかる。しかし、僕が大学生の頃には、公開から十数年が過ぎていたけれど、繰り返しどこかで「人間の條件」一挙上映が行われていた。オールナイト上映も頻繁にあった。梶(仲代達矢)と妻の美千子(新珠三千代)が抱き合うポスターを、今も僕は思い出す。しかし、その長さに怖れをなし、「人間の條件」(原作は高校生のときに読んだ)も僕はなかなか見ることができなかった。

意を決して(覚悟を決めて)見た「人間の條件」は素晴らしかった。鉱山での朝鮮人や中国人鉱夫の処刑や軍隊内の陰湿ないじめも描かれるが、梶という主人公のある種のさわやかさが全編にあふれていて、見終わっても暗く落ち込むことはない。描かれるのは暗い戦争の時代であり、あくまでヒューマニストであろうとする梶の生き方は苦難に充ちているけれど、どこかに希望がある。夫婦の愛の美しさがある。落後する初年兵をかばい続ける梶の強さが見る者を力づける。今回、「映画監督 小林正樹」を読んでわかったのは、梶には小林監督自身が色濃く投影されているということだ。そして、「黒い河」で印象的な役に抜擢された仲代達矢は、その後の小林作品に欠かせない役者になった。

僕が初めて見た小林正樹監督作品は、「日本の青春」だった。なぜ、僕がその映画を東宝の封切りで見ているかというと、酒井和歌子が出ているからだった。その年の三月、「さらばモスクワ愚連隊」と「めぐりあい」の二本立てを見にいき、「めぐりあい」の酒井和歌子にすっかり夢中になった十六歳(高校二年生)の僕は、彼女の出演映画の追っかけになっていたのである。それと、当時、僕は遠藤周作の作品を愛読していて、シリアスな「沈黙」からユーモア小説の「どっこいショ」(表紙のイラストは柳原良平だった)まで幅広く読んでいた。「日本の青春」は、その「どっこいショ」が原作なのだった。しかし、「めぐりあい」と同じく酒井和歌子が黒沢年男と恋人同士を演じた「日本の青春」は、暗く重厚な作品だった。

主演は、(もしかしたら初めて)シリアスな役に挑んだ藤田まことだった。彼は冴えない無気力な中年男で、特許事務所を開設しているが、部下たちからも軽んじられている。妻は口うるさく、浪人生の息子は反抗的だ。彼の青春時代は戦争のまっただ中で、下宿先の娘(新珠三千代)とは別れ別れになり、親友は戦死し、自身は軍隊で上官に殴打されて片方の耳が聞こえなくなっている。そして、現在の変化のない日常のシーンに戦争中の過去がインサートされる。そんなある日、浪人中の息子が防衛大学を受験すると言い出し、戦争の悲惨な経験を持つ主人公は猛反対する。

不思議なことに、僕は息子(黒沢年男)が防衛大学を受験すると言い出すきっかけになるシーンを、なぜかよく憶えている。町で知り合い、憧れを抱いた私服の男(菅貫太郎)が自衛官であることを知り、彼と話すうちに黒沢年男は「国を守る」意義に目覚める。五十年近く前に一度しか見たことのないそのシーンをよく記憶しているのは、たぶんいつも悪役を演じる菅貫太郎が青年に影響を与えるさわやかな男として登場したからだろう。しかし、そのエピソード自体には僕は共感しなかった。僕は理解できないのに吉本隆明の「共同幻想論」を脇に抱え、香川大学生が開くマルクス勉強会に参加するような高校生だったのだ。

●「日本の青春」は今では見ることのできない映画

「日本の青春」は小林正樹監督作品の中では、「食卓のない家」と同じように今はなかなか見られない。名画座にかかることもほとんどなかったし、今もソフト化されていない。だから、僕は四十九年前の六月に一度見たきりなのだ。主役は藤田まことだし、その初恋の相手である新珠三千代と再会し、現在の物語が動き始めるので、酒井和歌子の出演シーンはそれほどない。それほどないけれど、やはりもう一度見てみたい作品だ。酒井和歌子は黒沢年男の恋人役であり、彼女の父親(佐藤慶)は戦争中に藤田まことを殴った上官であり、現在は成功した実業家である。主人公は、再び彼と対決しなければならなくなる。

「日本の青春」が公開された頃、長期政権だった佐藤栄作首相は、自衛隊を増強し、第三次防衛計画が進行していた。世界中でステューデント・パワー(当時、メディアはそう名付けた)が爆発していた。フランスで五月革命が起こったのは、たったひと月前のことだった。復帰前の沖縄では、五月二日に嘉手納基地入り口で「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)のデモ隊とアメリカ兵が衝突し、五月末には日本大学で全学共闘会議が発足した。六月二日にはアメリカ軍のF4Cファントム戦闘機が九州大学の構内に墜落した。六月十六日には、国鉄横須賀線の電車内で時限爆弾が爆発し二十九人が死傷した。

こう書くと、一体どんな時代だったのだと思うけれど、世の中は何かと騒がしかったものの、今と同じようにほとんどの人は平和に生きていた。僕は大ヒットしたオリヴィア・ハッセー(後に布施明と結婚しましたね)主演の「ロミオとジュリエット」を見にいったり、「卒業」のヒットによって一般的にも知られるようになったサイモンとガーファンクルのレコードを買って聴いていた。ラジオからはピンキーとキラーズの「恋の季節」がひっきりなしに流れていた。前年の秋に来日したツイッギーが拍車をかけたミニブームで、若い女の子たちのスカートがやたらに短くなった。

そんなときに僕は酒井和歌子を目的に「日本の青春」(併映は森谷司郎監督の社会派ドラマ「首」だった)を見にいき、社会意識に目覚めたのだった。当時、「問題意識の低い奴」という罵り語が存在したが、僕はそう言われるのを恥と思った。そして、「意識の高い奴」は反権力を標榜し、左翼であらねばならなかった。だから、その頃の僕が「日本の青春」の青年に共感することはなく、戦中派の主人公を描いた反戦映画として見た。しかし、小林作品としてのベストは「切腹」だが、僕が一番好きなのは「いのち・ぼうにふろう」である。仲代もいいけれど、佐藤慶、岸田森、草野大悟、近藤洋介などがいい。そして、ラストのワンシーンにしか出てこない酒井和歌子がいい。それまで一度も登場しない(会ったことがない)彼女のために、無法者たちは命を懸ける。いのちをぼうにふるのである。

2017年4月27日 (木)

■映画と夜と音楽と…770 世界は欠けがえのないものばかりか?



【世界から猫が消えたなら/メトロポリス/道】

●利根川の二匹の猫と遊ぶのが散歩の途中の日課になった

四月中旬から再び、四国の実家の裏の一軒家で生活している。一日の生活サイクルは、自宅にいるときとほとんど変わらない。早朝に目が覚めるものだから、六時頃には散歩に出る。七時過ぎに戻り、掃除と洗濯をし、シャワーを浴びてから朝食を作る。十時くらいになると実家に顔を出し、両親が飼っている猫と遊ぶ。二ヶ月ほど離れていたので忘れられたかと思ったが、警戒心が強い猫なのに僕の顔を見ても逃げなかった。頭から首をなでると、ゴロゴロとのどを鳴らす。無愛想ではあるが、とりあえず喜んでいるらしい。子猫の頃はかわいかったのに、成長するに従って顔が黒くなり、今では姪に「盗人顔」などと言われている。もう十年近く実家で暮らしている。

自宅にいるときには、一年半ほど前に娘が拾ってきた猫をかまうのだが、この猫は体に触られたり抱かれたりするのが嫌いで、抱き上げようとすると怒って牙をむく。ときにはひっかく。四国で数ヶ月過ごして帰ると僕のことはすっかり忘れていて、最初は警戒して逃げた。数日して慣れると、以前のように餌をねだって僕の足に頭突きをするようになった。早朝だと家族はみんな寝ているので、たったひとり起きている僕に「ゴハン、ほしい」と意思表示するしかないのだ。鶏のささみをゆでて細かくほぐした餌(これを作るのも僕の役目だった)を皿に載せてやると、しばらく眺めた後、がつがつと食べ始める。

ただ、我が家の猫は食事には恵まれているせいか、きちんと全部を平らげない。いつも少し残す。「ぜいたくだなあ、利根川の猫たちは、いつだって全部きれいに平らげるよ」と猫に言い聞かせ、残ったささみをラップに包みポケットに入れる。以前に書いたことがあるが、利根川のほとりの雑木林に捨て猫され、その横の畑の持ち主であるリリー・フランキーに似たおじさんが去年の七月から育てている三匹の猫に会うのが散歩のときの楽しみになった。ただ、一番体が小さかった子が昨年十二月の頭から見あたらないと思っていたら、暮れに「車にひかれて死んだのよ」と犬を散歩させていたおばあさんに教えられた。

以来、自宅にいるときは毎朝、利根川の二匹の猫と遊ぶのが散歩の途中の日課になった。しかし、一月に母親が入院したので一ヶ月半ほど四国で生活していたため、利根川の猫たちとは別れなければならなかった。人なつっこい猫たちで僕の姿を見つけると、遠くから走り寄ってくる。僕の足下にまとわりつき、僕を見上げてニャアニャアと鳴く。僕はひざまづき、猫たちをなでてやる。雄の三毛は僕の足の上に座り込み、気持ちよさそうに目を閉じる。犬のチンみたいな顔をした雌の猫は、僕の足の間をぐるぐるまわり、ときどきニャアと鳴いて膝に身をすりつける。猫たちとの蜜月、至福のときだった。

その猫たちと一月中旬から二月末まで別れていたのだけれど、自宅に戻った翌日、利根川へいってみると別れる前と同じように僕を見つけて走り寄ってきた。自宅の猫が僕のことを忘れ、警戒して逃げていったのとは正反対である。散歩から戻って、かみさんに「利根川の子たちは、前と同じように寄ってきて足にまとわりついたよ」と言うと、「誰にでもなついてんじゃないの」とにべもない。確かに人に慣れている猫たちで、何人かの人が餌を与えているらしい。しかし、僕が帰るときには、雌の猫はずっと追いかけてきて足にまとわりつく。彼女のテリトリーの境界なのか、道の分かれ目にくると前足をそろえた猫座りをして、ずっと僕を見送ってくれる。そんな姿を見ると、胸が痛くなった。

どうして、こんなに猫好きになったのだろう。四国でも朝の散歩の途中で猫を見かけると、立ち止まらずにいられない。飼い猫だろうか、野良だろうかと気になり、ちゃんと食べているのだろうかと心配になる。無責任な餌やりは迷惑だと言われているし、住宅地のことだから、ただ心配するだけだが、散歩を終えて帰ってきても見かけた猫の姿が浮かんでくる。さらに、利根川の猫たちは元気にしているだろうかと気になり始める。リリー・フランキー似のおじさんは、毎日、朝と夕方に餌をやっているはずなので、「心配しなくても大丈夫」と言い聞かせる。しかし、追いかけてきて寂しそうな目をして猫座りする姿を思い出し、一人暮らしのせいか、ひどく切なくなった。

●語り方がうまく過去のいきさつが謎解きのように描かれる

猫と映画が重要なモチーフになっている映画が「世界から猫が消えたなら」(2016年)だった。原作がベストセラーになっていたし、青年が脳腫瘍で余命幾ばくもないと宣告されて始まる物語だというので、あまり見る気にはなれなかったのだが、映画の評判は悪くないし、何しろ「猫と映画好き」の僕だから、これは一応見ておこうかと思った。それに、あまり大きな声では言いたくないが、僕は宮崎あおいが好きなのだ。すべてを見ているわけではないので断言はできないけれど、彼女が出た映画には基本的に駄作はない(と思う)。それに、「世界から猫が消えたなら」というタイトルは、当然、逆説的ニュアンスであろうと思われた。

明日、死ぬかもしれない主人公の設定はあまりに安易だし、手垢にまみれていると思うが、これはひとつの寓話(あるいは説教話)であり、リアリティを求める物語ではない。「ファウスト」の変形だと思えば、わかりやすいだろう。つまり、「明日死ぬとして、何かをこの世から消すことで一日生き延びられるとしたら、あなたはどうしますか?」という設問なのである。その語り方がうまく、過去のいきさつが謎解きのように描かれるため、「ああ、そうだったのか」という驚きと納得がある。使い古された設定も、表現や時制の描き方で新しく見せられる。

主人公(佐藤健)は郵便局に勤める青年だ。自転車に乗っているときに意識を失い、病院で診察を受け脳腫瘍の末期で手の施しようもないと宣言される。その日、部屋に帰ると自分と同じ姿の男がいて「悪魔」だと名乗る。「この世から何かをひとつなくせば、一日命が延びる」と悪魔は話し、「何をなくすかは私が決めるのだ」と宣言する。悪魔が最初になくそうとするのは電話だった。「最後に誰かに電話しなくてもいいのか」と、悪魔はささやく。そう言われて彼が電話をするシーンはないのだが、彼はかつての恋人(宮崎あおい)に電話をしたことが、次のシーンの会話でわかる。

彼は、古い映画館の前で立っている。映画館の中から宮崎あおいが現れるが、彼女は憮然とした表情でとまどいを見せている。その会話から、ふたりがかつては恋人同士だったが別れたのだとわかり、「最後に電話する相手がわたしなの?」と宮崎あおいは口にする。やがて、ふたりが知り合ったきっかけ、何度もデートしたときの回想などが描かれる。その途中、涙を流しながら何かを叫ぶ宮崎あおいのシーンがあり、それはふたりが別れることになったシーンなのだろうかと観客に思わせる。しかし、そのシーンの謎解きは、後半になって描かれる。それは観客の予想を裏切るものだったし、この映画のハイライトシーンでもある。こういう複線と謎解きがいくつもあるのだが、これは映画的手法なのだろうか。あるいは、原作もこのように展開されているのだろうか。

宮崎あおいは映画館に住んで働いているように、無類の映画好きという設定だ。ふたりが知り合ったのは、宮崎あおいが佐藤健の家に間違い電話をかけたとき、佐藤健がフリッツ・ラング監督のドイツ時代の代表作「メトロポリス」(1926年)を見ていて、宮崎あおいはその音楽を電話で漏れ聞き、「もしかして、今、フリッツ・ラングの『メトロポリス』見てますか?」と訊くのだ。おいおい、ちょっとやり過ぎじゃないか、と僕は思った。だいたい「メトロポリス」はマニアックすぎるだろう。しかし、この映画には、さらなるシネフィル(映画狂)が登場してきたのだった。

●「最後に見るべき一本の映画」とは何なのだろうか

悪魔は電話を消し、電話の消滅と共に電話にまつわる過去も消えてしまう。間違い電話で知り合ったふたりの過去も消えてしまうのだ。そして、次に悪魔は映画を消そうと言い出す。「映画なんて、この世になくてもいいものじゃないか」と悪魔は言う。もちろん、この世には様々な人がいて、一度も映画を見たことがない人に僕も会ったことがある。その人にとっては、この世から映画が消えても何の痛痒も感じないだろう。だが、主人公が大学時代に知り合ったタツヤ(ツタヤと呼ばれる)は徹底したシネフィルで、卒業した今はビデオ店の店長をやっている男だ。

大学時代、階段教室の隅で「キネマ旬報」を呼んでいるタツヤ(濱田岳)に「映画、好きなの?」と主人公は声をかけ、ふたりは親友になる。タツヤは主人公に次々と見るべき映画(DVD)を持ってくる。見終わった映画を返すと、「次はこれだ」とタツヤは学食のテーブルに「メトロポリス」を置く。ここで、なぜ主人公が(普通の人がほとんど見ないだろう)「メトロポリス」を見ていたかの謎が解ける(ホントに、こういう細かな複線と謎解きばかりだ)。タツヤというキャラクターなら、フリッツ・ラングの「メトロポリス」を出してきても納得できるのだ。

大学を出ても、ふたりのやりとりは続く。「映画は数え切れないほどある。だから、ぼくらのやりとりも永遠に続く」とタツヤは口にする。しかし、主人公が死ぬことを知ったタツヤは、「最後に見るべき一本の映画」を探せない。主人公が死んでいなくなることで、この世界は何か変わるのだろうか。電話や、映画や、猫がなくなることで、この世界は何か変わってしまうのだろうか。それが、この映画が設定した疑問なのだが、当然、それは「世界は、欠けがえのないもので出来ている」という結論へ向かう。電話も、映画も、猫も----消えてしまったら、この世界はまったく別の世界になってしまうのだから、何ひとつとして「消えていいもの」はないのだと----。

しかし、本当に「世界は欠けがえのないものばかりで出来上がっている」のだろうか。もしかしたら、「消えたっていいもの」はあるんじゃないか、とへそ曲がりの僕は考える。しかし、そう思ったとき、かつて十代の僕が感動した、あの言葉が浮かんできた。それは、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」(1954年)の中で、「聖なる愚者」であるジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)に向かって、綱渡り芸人(リチャード・ベースハート)が口にしたセリフだった。

----前に本で読んだが、どんなものでも何かの役に立っている。たとえば、この石だって。
----どの石?
----どれでもいい。何かの役に立っているんだ。
----何の?
----それは、僕に訊いてもダメだ。神様が知っている。人がいつ生まれ、いつ死ぬか。この石もきっと何かの役に立っている。無用のものなどない。君だって、君だってそうだ。

石ころだって何かの役に立っているのだ。まして、猫や映画は----。猫と映画がこの世界から消えてしまったら、僕はきっと生きていけないだろう。

2017年4月20日 (木)

■映画と夜と音楽と…769 55年後に出版された続篇


【アラバマ物語/カポーティ/25年目の弦楽四重奏】

●村上春樹さんはあの決めゼリフをどう訳したのか

先日、気になっていた二冊の翻訳本に目を通した。一冊は、うっかりして出ているのを知らなかった村上春樹さんが訳したレイモンド・チャンドラーの「プレイバック」である。昨年末に出版されたのを、数ヶ月たった今年の三月末に気づいたのだった。「プレイバック」と言えば、あの有名なフィリップ・マーロウの決めゼリフが出てくる小説だ。村上さんも巻末に書いているが、「僕がレイモンド・チャンドラーの『プレイバック』を訳しているというと、大抵の人は同じ質問をした」という。あのセリフをどう訳すか、そればかりを訊かれたらしい。

僕は、最初に読んだ清水俊二さんの訳文になれているから、ずっと「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」と記憶してきた。しかし、生島治郎さんは「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」と訳し、それを基にして角川映画「野性の証明」(1978年)だったと記憶しているけれど、「タフでなければ生きられない」とテレビスポットのキャッチコピーに使い手垢にまみれたフレーズになった。原文は「ハード」だから、それを「タフ」と訳すのはどんなものだろうと、僕は生島訳には違和感を感じてきた。

村上春樹さんは後書きで矢作俊彦翻訳バージョンまで引用し、「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きて行く気にもなれない」を紹介している。矢作さんは、原文の「ハード」と「ジェントル」を生かしたかったのだろう。以前にも書いたことがあるのだが、僕は小鷹信光さんがエッセイ集(確か「パパイラスの舟」)の中で紹介していた、小泉喜美子(生島治郎こと小泉太郎さんの元妻)さんが(戯れに)訳したというバージョンが気に入っている。少し違っているかもしれないが僕の記憶では、「情けをかけてちゃ生きていけねぇのよ。でもな、情けのひとつもかけられねぇようじゃ生きていく資格はねぇんだ」というものである。まるで、木枯らし紋次郎みたいではないか。

ちなみに村上春樹版「プレイバック」では、ベッドを共にした女性から「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」と言われ、マーロウは「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」と答えている。「ハード」を「厳しい心」と訳したのには、村上さんなりの思い入れがあるのだろう。ただし、このマーロウのセリフが有名なのは日本に限ったことらしく、「どうやら日本人の読者がこの『優しくなければ----』に夢中になっているほどには、英米人の一般読者や研究者はこの一言にとくに注目しているわけではないようだ」と村上さんは書いている。

ちなみに僕の「映画がなければ生きていけない」という本のタイトルだけど、最初の本(メルマガ編集部が出してくれた500部限定版)の巻頭に書いたように、このマーロウのセリフが基になっている。たぶん、誰も気づかないと思うけど、その巻頭のフレーズに僕はこう書いているのです。

  しっかりしていなければ 生きていけないし
  やさしくなれなければ 生きていく資格はないけれど
  やっぱり----映画がなければ生きてこれなかった

●まさかアティカス・フィンチが白人優位主義者だったとは!!

気になっていたもう一冊の本は、ハーパー・リーの「見張りを立てよ」だった。アメリカで出版されたというニュースを読んだのは、二年ほど前のことだ。「アラバマ物語」の主人公の弁護士アティカス・フィンチが、実は人種差別主義者だったというニュースが流れ、「うそだああああああああああああああ-------」と僕は思ったものだ。そのニュースから一年足らず、今度は作者のハーパー・リーの訃報が流れた。ハーパー・リーは「風と共に去りぬ」のマーガレット・ミッチェルと同じく、一作めが圧倒的な大成功をおさめたことで二作めが書けなかった女性作家である。ふたりとも南部出身で、南部の物語を書いたのも共通している。

マーガレット・ミッチェルの場合は、「風と共に去りぬ」が全世界で売れたため、その著作権の管理やマネージメントに追われて次作が書けなかったと伝えられているのだが、ネル・ハーパー・リーはまだ三十代前半だったときに出した「アラバマ物語」がいきなりベストセラーになり、アメリカで最も知られているピューリッツァ賞までとったものだから、それを超える作品を書こうとして悪戦苦闘したのかもしれない。「アラバマ物語」は日本では「暮らしの手帖」社が出版し、半世紀を経た今も版を重ねている。ペーパーバック・サイズの日本版の表紙は、映画のスカウトの写真が印刷されている。

もう十数年前のことになったけれど、アメリカの映画協会が「映画史上のヒーロー・ベスト100」を選んだことがある。僕は、日本で放映されたそのテレビ番組を見たことがある。そのとき、ランボーやスーパーマン、インディ・ジョーンズなど並いるヒーローたちを抑えて一位になったのは、「アティカス・フィンチ」だった。アティカス・フィンチが一位に選ばれたことで「アメリカ人も棄てたもんじゃないな」と僕は口にしたが、本当のところは「アティカスを一位に選ぶなんて、アメリカの観客は素晴らしいじゃないか」と思っていた。

ハリウッド映画で僕が最も好意を抱いている(?)のは、「アラバマ物語」だ。大根役者と言われたグレゴリー・ペックが、僕は昔から好きだった。「子鹿物語」(1946年)と「ローマの休日」(1953年)と「アラバマ物語」(1962年)は、十代の頃から何度も見返してきた。ペックは「アラバマ物語」でようやくアカデミー主演男優賞を受賞し、今ではハリウッド史上の名優のひとりとされている。キャリアは五十年以上に及び多くの作品に出演したが、「ローマの休日」と「アラバマ物語」は不滅の名作として映画史上に燦然と輝いている。

「アラバマ物語」でペックが演じたのが、一九三〇年代の南部アラバマ州の田舎町の弁護士アティカス・フィンチだった。当時、南部でも特にミシシッピやアラバマは人種差別がひどく、黒人をリンチで殺しても犯人の白人は無罪になるというような時代だった。そんな頃、アティカス・フィンチは、白人女性をレイプした罪で逮捕された黒人青年の弁護を引き受けることになる。白人(プア・ホワイト)の農夫に「ニガー・ラバー(黒人びいきめ)」と唾を吐きかけられても、毅然として己の信念をまっとうする姿は「映画史上一位のヒーロー」である資格は充分だった。

しかし、「アラバマ物語」の出版から五十五年後に刊行された続編では、そのアティカス・フィンチが白人優位の考えを持つ人種差別主義者だという。「そんなバカな」と僕は思い、翻訳が出るのを待っていた。それは、「プレイバック」と同じく早川書房から昨年末に「さあ、見張りを立てよ」というタイトルで出版されたのだった。しかし、僕はカバーの袖に書かれた内容紹介の「しかし、故郷で日々を過ごすうちに、ジーン・ルイーズは、公民権運動に揺れる南部の闇と愛する家族の苦い真実を知るのだった」という文章につまずき、結局、数ヶ月の逡巡の末、ようやく読む気になったのである。

●キャサリン・キーナーが演じたネル・ハーパー・リー

「アラバマ物語」から二十年後の一九五六年、スカウト(ジーン・ルイーズ・フィンチ)は二十六歳になりニューヨークで一人暮らしをしている。毎年、二週間の休暇を取り帰省しているが、今年は幼なじみの恋人ヘンリーが出迎えてくれた。ヘンリーはアティカスが息子のように面倒を見た青年で、今は若手弁護士となりアティカスの跡を継ぐ存在だ。アティカスは七十を過ぎ関節炎を患っているが、まだ弁護士を続けている。南部アラバマ州の田舎町メイコムでも黒人の人権意識が高まり、人種隔離政策に対して黒人たちの抗議の声が挙がり始めている。

メイコムに帰省して数日後、スカウトは父アティカスと恋人ヘンリーがある集会に参加しているのを目撃する。それを見たスカウトは吐き気を催し、実際に吐いてしまう。スカウトにとってはそれほどの衝撃なのだが、それは「アラバマ物語」を深く愛してきた僕にとっても同じほどの衝撃だった。スカウトは心から愛し尊敬してきたアティカスに裏切られたと絶望し、二度と故郷に戻らないつもりでニューヨークに帰ろうとする。しかし、叔父の説得によって父と対決することを決意する。アティカスは、一体どんな言葉で娘の批判に応えるのだろう。

翻訳者の後書きによると、「この小説は『アラバマ物語』の続篇として構想されたのではなく、『アラバマ物語』を推敲していく過程で放棄した原稿をまとめたもの」という。その原稿が半世紀ぶりに発見され、刊行されたのだ。「アラバマ物語」はスカウトことジーン・ルイーズが六歳の頃のアラバマ州メイコムでの出来事を回想する形式になっていたが、最初は一九五六年の時点から二十年前を思い出す構成になっていたのだろう。結局、ハーパー・リーは「アラバマ物語」一作だけで、その後、新しい作品は書けなかったということらしい。その一作だけで名声が確立し、経済的にも成功してしまったのが、作家としては不幸だったのかもしれない。

「アラバマ物語」のスカウトは作者自身であり、作中に出てくる近眼でチビの友だちディルはトルーマン・カポーティがモデルであるのは有名だ。つまり、ハーパー・リーとカポーティは幼なじみなのである。そして、ハーパー・リーは生涯を通じてカポーティの友人だった。カポーティが代表作「冷血」を書いた時期を映画化した「カポーティ」(2005年)では、フィリップ・シーモア・ホフマン演じるカポーティは何かとハーパー・リーに電話をする。創作について、あるいは人間関係の悩みについて、カポーティは「ネル」と呼んで彼女を頼るのだ。カポーティには男性のパートナーがいて彼も作家なのだが、異性の幼なじみであるハーパー・リーには何でも言える関係だったらしい。

「カポーティ」でハーパー・リーを演じたのは、キャサリン・キーナーだった。素敵な、味のある大人の女優である。「カポーティ」ではアカデミー主演男優賞にフィリップ・シーモア・ホフマンがノミネートされ受賞したが、受賞はしなかったものの助演女優賞にキャサリン・キーナーもノミネートされた。キャサリン・キーナーとフィリップ・シーモア・ホフマンの相性はよいらしく、「25年目の弦楽四重奏」(2012年)ではヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者という音楽家同士の夫婦を演じた。ベートーヴェンの弦楽四重奏が素晴らしいうえに、今は亡きフィリップ・シーモア・ホフマンとキャサリン・キーナーが印象深い演技を見せる。

2017年4月13日 (木)

■映画と夜と音楽と…768 なりたいものになれたか?

【海よりもまだ深く】

●樹木希林のセリフが身にしみて浮かび上がってきた

昨年の四月六日、昭和史を題材にした僕の「キャパの遺言」という応募作が、乱歩賞の最終候補の四編に残ったという電話を講談社の担当者からもらった。結局、最終選考では落ちてしまい乱歩賞作家になり損なったわけだけれど、落ちた後、大沢在昌さんのオフィスにメールでそのことを報告しておいた。乱歩賞に応募するきっかけが、大沢さんとの十年前の対談だったからだ。大沢さんからは「候補になっているのは知っていました。期待していたのですが、残念です」と返信をもらった。大沢さんには「最終に残ったので、これで応募はやめようと思います。始めるのが遅かったかもしれません」とメールした。

しかし、その後、ある構想が浮かび、また選考委員たちの選評に反論したい気分もあって、改めて昭和史(終戦史)を題材にした作品を仕上げ、リベンジのつもりで今年も乱歩賞に応募した。昨年の「キャパの遺言」の選評では、湊かなえさんには「物語が書きたいのではなく、世の中を批判したいだけではないか」と書かれ、今野敏さんには「事実に即した物語を書きたいのならノンフィクションを書くべきだし、政治的な思想を述べたいのなら論文を書くべきだ」と書かれた。しかし、今回も終戦の三日間の史実を基にしたフィクションである。ただ、前作と違い、批判すべき対象として実在した人物(と思われる登場人物)を取り上げてはいない。

この九年間で、乱歩賞には六回応募した。最初に出したら二次選考を通過し二十数編の中に残り、翌年も二次選考を通過した。しかし、三年めは一次選考通過に終わった(これらの三作は加筆訂正し、現在は電子書籍でキンドルなどに出ている)。その二年後に四度めの挑戦をしたが、これも一次選考通過で「小説現代」に作品名と作者名が載っただけだった。勤めを完全にリタイアし、じっくりと仕上げた五作めが昨年の候補作になった「キャパの遺言」だ。乱歩賞は受賞者たちでも数度の応募は当たり前で、多い人は十作めの応募で受賞ということもあったという。一次通過が二度、二次通過が二度、五度めで最終候補というのは、いい方だとも言われた。しかし、乱歩賞も新人賞である。六十半ばの人間が応募するのは気が引けたし、年齢的なハンデも感じていた。選考委員は、みんな(推理作家協会理事長の今野さんでさえ)年下なのである。

今年の三次選考(四、五編の最終候補に絞られる)が行われるという四月初旬、電話はなかった。中間発表は四月下旬発売の「小説現代」に載るのだが、僕の応募作は最終候補には残らなかったということだ。初めての応募で二次選考を通過したときには喜んだものだが、その翌年は二次通過では満足できず、昨年は最終候補までいったので、今年は候補作に残らなかったことでひどく落胆した。「ラ・ラ・ランド」(2016年)の中で、女優志願(小説家志願より多そうだ)のエマ・ストーンは、オーディションを何度も落ち続けて屈辱を味わい、「私は、もう充分傷ついた」と涙を流した。あの気持ちが、よくわかる。

二十代後半から三十代にかけて僕は純文学を志し、八十枚ほどの短編を「文学界」や「群像」の新人賞に応募していた。しかし、一次選考を通り作品名と作者名が掲載されるのがせいぜいだった。文学界新人賞の七十篇ほどに残り、そのときの受賞作が芥川賞候補になったことから「芥川賞候補まで七十分の一だった」などとわけの分からないことを言っていた。村上春樹さんが受賞した「群像」新人賞にも、同じ頃に応募していた。文学好きの友人から「今度の群像新人賞の受賞作は、絶対に読め」と言われたのが「風の歌を聴け」だった。あの頃からカウントすると、この四十年間で僕は十数回、新人賞に落ち続けてきたことになる。もう充分に傷ついた。

映画コラムを書き続けて五冊の本になった。最初の本では、内藤陳さんに「読まずに死ねるか」と言ってもらえたうえに賞もいただいた。しかし、僕は今も小説を出版したいという「夢」を棄てられないようだ。若い頃、酔いつぶれては「叶わない夢なら、夢など持ちたくなかった」とつぶやき、すねたように「夢はいらない花ならば、花は散ろうし夢も散る」と「東京流れ者」の一節を帰宅する夜道で口ずさんだものだ。しかし、今年、乱歩賞の候補に残れなかったことを知った夜、僕の頭に浮かんできたのは是枝監督の「海よりもまだ深く」(2016年)の樹木希林の言葉だった。売れない小説家(阿部寛)の母親(樹木希林)は、台風の夜、眠れないまま息子と会話し、こんなことを口にする。

----いつまでも失くしたものを追いかけたり、叶えられない夢を追いかけても、毎日、つまらないでしょう。幸せっていうものは、何かをあきらめなけりゃ手に入らないのよ。

●ダメな男の情けなさを阿部寛が演じた

篠田良多(阿部寛)は二十代で島尾敏雄賞(シブイ!!)を受賞して「無人の食卓」という作品集を出版したが、その後は鳴かずとばずの売れない中年の作家だ。喰えないから、今は探偵事務所の調査員をやっている。それでも出版社との縁は切れておらず、昔なじみの編集者から「マンガの原作をやってみませんか」と誘いを受けるが、純文学作家としてのプライドから見栄を張り「今、仕上げを急いでいる作品がありまして。聞いていませんか。××さんから」といかにも嘘くさい言い方で、文芸担当編集者の名前を挙げる。文芸からマンガ担当に移ったらしい編集者は、「それだったら、僕もそっち読みたいなあ」と作家の顔をたてる。しかし、マンガ編集者は、良多がギャンブルに詳しいから原作の話を提案したのだ。良多は生活能力はないくせに、無類のギャンブル好きなのである。

良多は賃貸の団地に住む母親の留守に部屋に入り、金目のものはないかと物色するような男だし、父親の形見分けと称して質草になりそうなものを手に入れようとする男である。あちこちに借金があり、小説の取材と称して勤めている探偵事務所の仕事でも、夫から妻の浮気調査を依頼されたにもかかわらず、浮気の証拠写真をその妻に売って金を自分の懐に入れるような男だ。偽の報告書を作ることなど、何の痛痒も感じていない。おまけに、その金を競輪につぎ込みスッてしまう。そんなことだから、妻(真木よう子)には愛想を尽かされて離婚になり、ひとり息子にも月に一度しか会えない。その妻に新しい恋人ができると、ストーカーのように尾行し、年下の同僚に未練たらたらに「もう、したかな」などと口にする。最低のダメ男だ。

ここまでダメな息子でも、母親にはかわいい子供である。夫には苦労させられたが、息子には「お金、困ってるの?」と気を遣う。息子が珍しく一万円を「小遣いだよ」と言ってくれたときには、娘(良多の姉)に電話して喜びを伝える。息子が高校生のときに鉢に植えたオレンジの木を、ベランダで大事に育てている。何十年も暮らした公団住宅らしき賃貸の団地から分譲の方に移りたいのが望みだが、夫と死に別れてセイセイしたのか、毎日を楽しみながら暮らしている。彼女にとっては、今が最も楽しく幸せなのかもしれない。分譲に住むクラシック通のインテリ(橋爪功)の部屋で開かれる週に一度の鑑賞会に出て、先生の関心を惹こうと課題曲の背景などを事前に調べる。年金暮らしで、とりあえず満足している。だから、息子が小説というものに囚われ、離婚し、フラフラと暮らしているのを見て前述のような言葉を口にする。

そのくせ照れてなのか、「私、今、すごーくいいこと言ったでしょ。今度のあんたの小説に書いてもいいわよ。メモしなさい」と言う。良多は憮然と「憶えたよ」と答える。良多は、探偵事務所の仕事で会った浮気妻が口にした印象的な言葉を手帳にメモし、安アパートの机の前の壁に貼ったりしている。いつか小説に使うつもりなのだ。壁には多くのメモがあり、様々なフレーズが書かれている。僕も同じようなことをしているからわかるが、そんなメモから文章の構想が湧いたりする。それを母親も知っているのだろう。息子に「もう夢を棄てて、地道に生きてもいいんじゃないか」という意味のことを言いながら、息子が小説を書く役に立てばうれしいという気持ちも彼女にはあるのだ。

●完全に自己を肯定できる人はどれほど存在するのだろう

「海よりもまだ深く」のキーワードは、「こんなはずじゃなかった」と「なりたいものになれた?」だろう。良多は家庭教師とラブホテルに入る写真をネタに男子高校生を強請り、「あんたみたいな大人にだけはなりたくない」と言われると、「なりたい大人になんか、簡単にはなれねぇぞ」とムキになって言い返す。また、台風の夜、ふたりで籠った公園の遊具の中で息子に「パパは、なりたいものになれた?」と問われ、「パパはまだなれていないけど、そういう想いを抱いて生きることが大事なんだ」と、まるで説得力のない答えをする。本当にそうなんだろうか。母親の言うように「失ったものを追いかけたり、叶わぬ夢を追い続けたりせず、そんなものをあきらめて」楽しく幸せに生きるべきなのではないのか。

「海よりもまだ深く」の人物で見るなら、別れた妻の新しい相手(小沢征悦)が主人公とは正反対の存在として登場する。彼は年収が一千五百万あるらしく、自分に満足して生きている人間なのだろう。自分の生き方に迷いなど抱いていないように見える。彼は樹木希林が言うような「叶えられない夢などさっさと棄てて、現実の仕事に精を出し裕福な生活を送っている」人間なのかもしれない。その結果、楽しく幸せな生活を送り、新しい美人の恋人を得たし、その相手の子供にも実の父親のように接することができる。そんな人生に満足すれば、幸せに生きていけるのだ。彼は、良多の小説を読んでも「何だかよくわからなかった。時間の無駄?」と口にする。生きていくうえで小説など必要としない人種なのである。

しかし、「なりたいものになれた」と、完全に自己を肯定できる人はどれほど存在するのだろう。夢を実現し、「私が望んだものに私はなれた」と幸福感を感じている人はどれほどいるのだろうか。あるいは、「こんなはずじゃなかった」と一度も思わない人はいるのだろうか。人は誰でも「こんなはずじゃなかった」と悔やみ、昔夢見た「なりたいもの」になれなかったと、慚愧の念に耐えながら生きていくものではないのだろうか。だから、夢をあきらめられない人間は不幸だ。叶わぬ夢を、見果てぬ夢を、見続けるから彼は常に満足できない。幸せだと実感できない。「まだ、なりたいものになれていない」と、夢が彼を駆り立てる。「なりたいものになれていない自分」を責める。なりたいものになれないことで傷つき、落胆する。失意に沈む。「こんなはずじゃなかった」と悔いる。

こんなことを書くと、もちろん「おまえはどうなんだ?」と、僕自身に向かっても矢が飛んでくる。開き直るようだけれど、僕が夢をあきらめられる人間だったら、毎週、こんな文章を書いてはいない。夢を棄て、失ったものを忘れ、樹木希林のように気楽な年金生活を送っているだろう。それができないから、僕にやすらぎはやってこないのだ。幸せだと実感することがない。こうなったら、死ぬまで「なりたいものになる夢」を、あきらめきれぬとあきらめるしかないのだろう。やれやれ。

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