映画・テレビ

2017年3月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…765 薬師丸ひろ子が初めてくちづけした男



【三匹の牝蜂/仁義なき戦い・代理戦争/鉄砲玉の美学/セーラー服と機関銃】

●渡哲也の三歳年下の渡瀬恒彦がデビューしたのは五年後だった

今週は何を書こうかと思っていると、渡瀬恒彦の訃報が入ってきた。えーっ、と思ったのは、渡哲也が闘病中という話は聞いていたが、渡瀬恒彦についてはまったく予想していなかったからだ。七十二歳だったという。少し早いのではないか。最初の奥さんである大原麗子が亡くなってからもう何年にもなるけれど、再婚して子供も立派な社会人になり、七十を過ぎたとはいえ、まだまだ渋い役者として活躍できたのにと思う。あの年で主演が張れる俳優は、もうそんなにいなくなった。

しかし、渡瀬恒彦のことを書こうとすると、僕の場合、渡哲也について書き始めなければならない。渡哲也より三歳年下の渡瀬恒彦が東映に入社してデビューしたのは、一九七〇年のことだった。その時点で、渡哲也はすでに大スターだったのだ。日活最期の銀幕スターと言ってもいい。日活がロマンポルノ路線になり、石原プロモーションに移籍し、テレビドラマにも出るようになった頃で、映画館にいかない一般的な人々にもよく顔を知られるようになった。NHKの大河ドラマ「勝海舟」の収録は一九七三年に始まり翌年の正月から放映されたが、十回ほどで病気により降板し松方弘樹が引き継いだ。

渡哲也は一九六五年に「あばれ騎士道」でデビューし、翌年、早くも鈴木清順監督の「東京流れ者」(1966年)に主演する。「ラ・ラ・ランド」(2016年)のデイミアン・チャゼル監督が、影響を受けた作品として挙げた伝説のカルト・ムービーである(僕は「ラ・ラ・ランド」は同じ清順監督の「肉体の門」(1964年)の影響が強いと思ったけれど)。もう一本の名作「紅の流れ星」(1967年)を経て、翌年には「無頼シリーズ」がスタートする。「無頼より・大幹部」「大幹部・無頼」「大幹部・無頼非情」「無頼・人斬り五郎」「無頼・黒匕首」があり、最後が「無頼・殺せ」(1969年)である。

その渡哲也がテレビドラマに出始めた頃、渡瀬恒彦は電通を退社して東映に入社した。渡哲也の言葉によれば、「役者をやってる兄貴の部屋にくると高いレートで麻雀をやっていて、サラリーマンの給料じゃ無理だと思ったから」俳優になったとのことだが、たぶんに照れが入っていると思う。渡哲也も自身が日活の新人としてデビューすることになったいきさつを、高平哲郎さんのインタビュー(一九七六年一月十四日)で語っているが、ここにも渡哲也特有の照れがうかがえる。

----今から十一年前ですか、ぼくが大学四年のとき----青山学院です----空手部にいましてね、ええ。新大久保にアパート借りてたんですけど、空手部の連中とか、弟とか----弟(渡瀬恒彦)は早稲田に行ってたんですけどね----いつも五、六人ゴロゴロしてましてねえ。あるとき、浅丘ルリ子さんの一〇〇本記念で『執炎』という映画なんですけど、一般募集というのが日活でありまして。それで、弟とか空手部の連中とかでいい加減な写真送りましたら、面接試験というのがありまして。「まあ、裕ちゃんでも見にいくか」くらいの気で撮影所に行きましてねえ。

渡哲也が青山学院大学空手部の現役大学生としてデビューしたときを僕は憶えている。テレビの芸能ニュースに「日活期待の新人」として映ったからである。演技は下手で(デビューの年の裕次郎主演「泣かせるぜ」を見ればよくわかる)デクノボーだった。それが、「東京流れ者」「紅の流れ星」「無頼シリーズ」を経て、見違えるほどの役者になった。僕は「無頼シリーズ」を見るたびに、藤川五郎に涙する。昔、僕のペンネームは藤川五郎だったし、大学四年の春、僕は級友が台本を書き演出した「紅の流れ星」という芝居を手伝ったことがある。舞台は渋谷の天井桟敷を借りた。主人公の名前は、もちろん「不死鳥の哲」である。

●人気女優だった大原麗子の結婚相手は「渡哲也の弟」と呼ばれた

三歳違いの渡瀬恒彦は、渡哲也に遅れること五年、一九七〇年に二十五歳でデビューした。三作めの出演作「三匹の牝蜂」(1970年)は、夏純子、大原麗子、市地洋子の主演。大原麗子とは、数年後に結婚した。いわゆる格差婚で大原麗子は誰でも知っている人気女優だったが、渡瀬恒彦は「渡哲也の弟」と呼ばれた。若い頃、渡哲也と渡瀬恒彦は双子のように似ていて、誰もが「ああ、渡哲也にそっくりな弟ね」と口にした。その頃、渡瀬恒彦は「不良番長シリーズ」など、ほとんどチンピラばかり演じていた。そして、僕が初めて「渡哲也の弟」を意識したのは、テレビ時代劇シリーズ「忍法かげろう斬り」(1972年)だった。

「忍法かげろう斬り」は、日活の路線変更によって渡哲也がテレビに出るようになった初期の時代劇だった。二十六回(半年)続く番組である。早乙女貢の原作で、松平伊豆守の密命を受けた忍者の物語だった。くの一を演じた氾文雀が、色っぽいパートを引き受けていた。渡哲也は大病を何度もやっているが、最初に倒れたのがこの番組のときだった。二十回まで演じた渡哲也の代役として抜擢されたのが渡瀬恒彦だった。残り六回ほどだったけれど、このとき主役の俳優が変わったことを気づかない視聴者は多かったのではないか。渡哲也の弟が、俳優をやっていることを知らない人もいたのだ。僕も「実によく似ているな」と感心した。時代劇でカツラをつけていたからかもしれない。

この翌年、渡瀬恒彦の役者としての存在感を僕は認めることになる。「仁義なき戦い」(1973年)の後半に出てくる戦後の愚連隊あがりのやくざ有田だった。ポン(ヒロポン)の密売で儲け、上納金を山盛組幹部(三上真一郎)におさめている役である。出演場面は少なかったものの、酷薄そうなメーキャップが怖かった。そして、次に「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年)のチンピラ役が続いた。屋台で呑んでいて酔ったプロレスラーにからまれ、包丁で刺してしまう工員役である。その後、プロレス興業を仕切っていた広能組に教師と母親に連れられてわびにくる。

教師(汐路章)は広能の恩師でもあり、「これのオヤジも極道で死んどるのよ」と渡瀬恒彦を広能組に入れてほしいと言う。第三部の重要なエピソードを担う役だった。最後は兄貴分(川谷拓三)に唆されて敵対する組長(田中邦衛)を狙い、さらにその兄貴分に裏切られて死んでいき、彼の葬儀のシーンで「代理戦争」は終わる。死んだ若者の焼けた骨を手のひらに包み込み、ぐっと奥歯を噛みしめる菅原文太と原爆ドームが重なるように編集されて、第四部「頂上作戦」に続くのである。このチンピラ役は、五部作を通して見ても強い印象を残す。渡瀬恒彦が亡くなって各局のニュースは「仁義なき戦い」を代表作に入れていたが、この役を指しているのだろう。渡瀬恒彦、二十九歳の名演だった。

同じ年、渡瀬恒彦は初めてアートシアターギルド(ATG)作品「鉄砲玉の美学」(1973年)に主演する。東映の中島貞夫監督が、杉本美樹など東映の役者を使って撮った作品である。いわゆる一千万映画で低予算だが、監督が撮りたいように撮れる作家主義の映画だった。ATG作品=作家主義のアート作品だから、このとき映画雑誌などで急に渡瀬恒彦の紹介が増えた記憶がある。ちなみに「鉄砲玉の美学」の音楽を担当したのが、荒木一郎と電脳警察だった。中島監督の「893愚連隊」(1966年)で主演した荒木一郎だから、そのつながりだったのだろう。

●渡瀬恒彦と風祭ゆきの大人のドラマが支えた「セーラー服と機関銃」

七〇年代後半、渡瀬恒彦は順調にキャリアを積み、松竹で山本薩夫監督の「皇帝のいない八月」(1978年)に出演したり、工藤栄一監督の久々の本編「影の軍団 服部半蔵」(1980年)で「裏の半蔵」として主演を張ったりしていたが、僕が「この人、うまいなあ」とうなったのは「セーラー服と機関銃」(1981年)だった。目高組の代貸し佐久間真の役である。現実にはあり得ない物語にリアリティを与えていたのは、渡瀬恒彦と風祭ゆきだった。このふたりの大人の物語がなければ、単なる荒唐無稽なアイドル映画になっていただろう。それに、薬師丸ひろ子が初めてくちづけをする(役の上とはいえ、たぶん実人生でも初めてでは?)相手は渡瀬恒彦なのだ。

僕が「セーラー服と機関銃」を見たのは、東映本社の試写室だった。僕は「小型映画」という専門誌の編集部にいて、相米慎二監督に新作のインタビューを申し込んでいた。「翔んだカップル」で監督デビューした相米さんは、瑞々しい青春映画を撮る監督として期待されていた。カットを割らない長まわしも話題になっていた。「監督インタビュー」というページを作り、加藤泰、工藤栄一、大林宣彦、鈴木清順など、神とも仰ぐ監督たちをインタビューしていた僕は、期待の新人監督として相米慎二さんに是非会ってみたかったのだった。

「セーラー服と機関銃」は、女子高生がやくざの組長になるという非現実的な物語だが、そんなものを超越してスクリーンに引き込む強い力があった。薬師丸ひろ子の魅力もすごかった。少し太り気味の丸顔に短髪で、小柄な体躯が躍動する。その動きが素晴らしく、それを捉えるキャメラワークにも惹かれた。そして、初めて薬師丸ひろ子が佐久間と父の恋人だった風祭ゆきのセックスを見てしまうシーン、その後の佐久間の心の叫びのような告白を聞くシーン、それらは印象的な場面として記憶に刻み込まれた。特に、風祭ゆきとの出会いを語る渡瀬恒彦の叫ぶようなセリフまわし、雨が降り出しても語り続ける切なさのようなものが僕の胸を打った。

僕の中で「渡哲也の弟」という要素が完全になくなり、「渡瀬恒彦」という俳優が存在し始めたのは、やはり「セーラー服と機関銃」の佐久間の告白シーンだと思う。渡瀬恒彦は三十七歳になっていた。あれから、三十六年の月日が流れ、渡瀬恒彦の訃報をテレビも新聞も大きく扱った。それだけ大きな存在の俳優になっていたのだろう。死ぬまで現役でいられたのだ。春から始まるテレビシリーズに出演したいと望んでいたという。幸せな役者人生だったと思う。

2017年3月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…764 岡本喜八監督が脚本を書いたアニメ


【COO 遠い海から来たクー/ジョーカー・ゲーム/ワイルド・ギース】

●景山民夫さんの「遙かなる虎跡」が並んでおり懐かしくなった

先日、ブックオフの百円コーナーを見ていたら、景山民夫さんの「遙かなる虎跡」が並んでおり懐かしくなって購入した。初めての長編小説「虎口からの脱出」に感心し、直木賞を受賞した「遠い海から来たCOO」も読み、テレビ局のトラブルシューターを主人公にしたシリーズも読み、エッセイ集も愛読していた作家である。「遙かなる虎跡」は読んだ記憶がなかったが、自宅に帰り「プロローグ 1942年シンガポール」を読むと、既読感が湧き起こってきた。昔、読んだ気がする。あれほど気に入っていた作家だから読んだはずだ。日本では珍しい大がかりな冒険小説を書く人だった。

景山民夫さんが自宅の火災で亡くなったのは、もう二十年近く前のことになる。五十歳だった。しかし、僕はその少し前から彼の本を読まなくなっていた。理由は、彼がある新興宗教の熱心な信者だとわかったからである。講談社の発行した雑誌がその新興宗教についての誹謗記事を掲載したとかで、信者たちが講談社前に抗議に集まったというニュースがテレビで流れたのはいつ頃だったろうか。その宣伝カーの上には、景山民夫、歌手の小川知子(好きだったなあ「初恋のひと」)、俳優の南原宏治(鈴木清順監督「殺しの烙印」の殺し屋ナンバーワンの役)が立っていた。

景山さんのエッセイを読んでいると、彼は「霊感が強い」と書いてあった。そのせいか、今では政党を作り選挙のたびに信者を立候補させているその新興宗教の教祖に会ったとき、ものすごい霊感を感じたと話していた。すごい衝撃だったらしい。しかし、作家というのは「懐疑的な人間」だと思っていた僕は、新興宗教を信仰することが信じられなかった。それまで、僕は景山さんの小説やエッセイをよく読んでいたので、特に違和感を感じたのかもしれない。景山さんが宗教にのめり込むに連れて、交友範囲はせばまったという。その景山さんのことを内藤陳さんから聞いたのは、亡くなって十年以上が経った頃だった。

「映画がなければ生きていけない」を出版し冒険小説協会から賞をいただいた二〇〇七年、僕は陳さんの新宿ゴールデン街の酒場「深夜+1」に顔を出すようになった。日本冒険小説協会公認酒場だから、冒険小説、ミステリ(特にハードボイルド)、映画などの話題ばかりが飛び交う店である。あるとき、僕は「景山さんの『虎口からの脱出』はおもしろかったですね。今でも忘れられない」と口にした。陳さんはおもむろに「民夫は、ここで宣言したんだ。『A-10奪還チーム出動せよ』よりおもしろい小説を書くって」と言った。

「A-10奪還チーム出動せよ」は当時、新潮文庫(現在は早川文庫)で出ていたと思うが、とにかくおもしろい冒険小説だった。僕も夢中で読んだものである。まだ、月刊になっていなかった『本の雑誌』でも評判になっていたと思う。物語の後半にある車による逃走と追跡がすごくて、それに影響されて景山さんが「虎口からの脱出」を書いたというのは噂で聞いていたが、酒場で宣言し、その通りに書いてしまったのはすごいことだと改めて思ったものだった。

「虎口からの脱出」の車を駆使した逃走と追跡劇は手に汗握り、今もあれをうわまわる小説は出ていないと思う。景山さんは「遠い海から来たCOO」によって直木賞を受賞したが、「虎口からの脱出」で受賞しても不思議ではなかった。ただし、放送作家をやりながらエッセイの賞はもらっていたが、「虎口からの脱出」が小説デビューだったと思う。小説の実績のない人には、直木賞を与えにくかったのかもしれない。

●岡本喜八監督が脚本を書いたアニメ「Coo 遠い海から来たクー」

「遠い海から来たCOO」は少年と絶滅したはずの恐竜の子供の交流というファンタジーの要素が強く、そこが一般受けしたのかもしれないが、僕の評価としては「虎口からの脱出」の方が上だった。もっとも、COOを奪おうとする特殊部隊が襲ってくるのに反撃するシーンなど、冒険小説としても一流だった。今もよく憶えているのは、暗視鏡をした兵士たちに強烈な光を浴びせ、一時的に視力を奪ってしまう場面である。

「Coo 遠い海から来たクー」(1993年)は、岡本喜八監督の脚本によってアニメ映画になった。絶滅した恐竜の子を実写で出すのがむずかしかったからだろう。今なら、デジタル処理でいくらでも可能だろうから、ぜひ映画化してもらいたいものだ。いや、映画化するのなら「虎口からの脱出」の方を見てみたい気がする。少なくとも亀梨くんと深キョンの「ジョーカー・ゲーム」(2014年)よりはずっとおもしろくなると思うのだけど、いかがなものだろうか。

景山民夫という人を思い出すと、僕は彼が放送台本を書いていた「出没!!おもしろMAP」というバラエティ番組を浮かべる。景山さんのスタートは放送作家だったのだ。「シャボン玉ホリデー」でデビューしたという。「出没!!おもしろMAP」は、四十年前の秋から二年間にわたって放映されていた情報バラエティである。司会は清水国昭と清水クーコ、日曜の三時からの三十分番組だった。

提供は森永製菓一社で、番組の中で「エンゼル体操」というものが披露された。古代ローマの兵士のようなコスチュームを身につけた「ムキムキマン」というキャラクターが登場し、音楽に合わせてコミカルな振り付けのエンゼル体操を行うのである。「エンゼル体操」の作詞を手がけていたのも景山さんだった。景山さん自身も登場することが多かった。

僕が毎週、その番組を見ていたのは、首都圏のいろいろな情報が紹介されていたのと映画紹介コーナーがあったからだと思う。日曜の三時である。ゆったりした気持ちでテレビの前に座っていた。月刊誌の編集部にいたので平日の夜はよく残業していたし、完全週休二日だったけれど、ときには仕事で土曜日に出ることもあった。しかし、さすがに日曜日はゆっくり休めた。

その頃、僕は妻とふたりで阿佐ヶ谷の三畳ほどのキッチンと六畳の和室しかないアパートで暮らしていた。トイレはついていたが風呂はなく、近くの銭湯に通っていた。花籠部屋(横綱の輪島がいた頃で全盛期だった)が近く、銭湯で力士と一緒になることもあった。まだ髷の結えない弟弟子が兄弟子の背中を洗っていたりした。さすがにお相撲さんの背中は大きいなあと感心したことを憶えている。

●景山さんが構成していた番組での忘れられない映画紹介

「出没!!おもしろMAP」の映画紹介で忘れられないのは、「ワイルド・ギース」(1978年)である。日本公開は一九七八年八月五日だったから、紹介されたのは七月の日曜日だったのだろう。「ワイルド・ギース」はイギリスの名優リチャード・バートン、後にジェームズ・ボンドで有名になる(その頃はセイントで名を知られていた)ロジャー・ムーア、逆おむすび顔のリチャード・ハリス、ドイツ人のハーディー・クリューガーが出演する大作で、監督も数々の西部劇を作ってきたベテランのアンドリュー・V・マクラクレンだった。

アフリカの某国で軍事クーデターが起こり、大統領が拉致されて監禁される。イギリスの巨大資本はクーデターによって莫大な利権を失いかねないと、傭兵たちを雇い大統領救出を画策する。選ばれたのがリチャード・バートンである。信頼する戦友であるロジャー・ムーアやハーディー・クリューガーを呼び寄せ、参謀格のリチャード・ハリスを誘うが、リチャード・ハリスは幼い息子との生活を優先し躊躇する。しかし、リチャード・バートンとの友情から危険な任務を引き受ける。彼らは五十人の傭兵たちを選抜し、鍛え上げる。やがて、某国へ潜入。大統領を救い出す。しかし、巨大資本は新政権と取り引きし----という展開になる。

そんな傭兵映画を紹介しながら「出没!!おもしろMAP」の出演者がワイワイ騒ぐのだが、生き残ったバートンやムーアが軍用機に乗り、最後に走ってくるリチャード・ハリスのシーンでは番組の出演者たちは「お父さん、がんばって」と声をあげ続けた。飛行機から手をさしのべるリチャード・バートン、飛び乗ろうと走り続けるリチャード・ハリス、その後ろには迫りくる某国の黒人兵士たちがいる。

つかまれば惨殺される。間に合うのか、というサスペンスである。そのシーンに向かって清水国昭や清水クーコが「お父さん、がんばれ」と本気で声をかけていた。リチャード・ハリスにはイギリスの寄宿舎で息子が待っているのだから、バートンやムーア以上に生還しなければならない理由がある。だから、観客たちは強く感情移入するのだ。まあ、物語の設定の定石ではあるのだけれど----。

もちろん、僕は「ワイルド・ギース」の公開を待ちかねて見にいった。そして、今でもお気に入りの映画になっている。昨年だったか、久しぶりにWOWOWで放映され改めて見たが、やはり好きな映画だった。物語は単純だし、パターン化したキャラクターや盛り上げ方はもう古くなっているかもしれないけれど、リチャード・ハリスが飛行機に向かって走り続けるシーンでは「がんばれ、お父さん。息子が待ってるじゃないか」と思った。

それに、僕は昔からリチャード・ハリスが大好きだったのだ。最初に見たのは半世紀以上も昔のこと。リチャード・ハリスがアカデミー賞にノミネートされた「孤独の報酬」(1963年)だった。アクション映画にも主演し、「ジャガーノート」(1974年)や「カサンドラ・クロス」(1976年)などもある。クリント・イーストウッドの「許されざる者」(1992年)でキザなイングリッシュ・ボブという賞金稼ぎを演じ、ジーン・ハックマンの保安官にボコボコにされるのはつらかったけれど、リドリー・スコット監督「グラディエーター」(2000年)では主人公を息子のように愛す賢帝マルクス・アウレリウスを重厚に演じた。

最近では「ハリー・ポッター・シリーズ」で魔法学校の校長を演じ、「ハリー・ポッターと秘密の部屋」(2002年)が最期の作品になった。しかし、リチャード・ハリスというと、やはり「ワイルド・ギース」のあのシーンが浮かんでくる。そう言えば、「深夜+1」の壁にも「ワイルド・ギース」のスチルが貼ってあったなあ。「傭兵もの映画」には、フレデリック・フォーサイス原作の「戦争の犬たち」(1980年)があるけれど、僕には「ワイルド・ギース」の方が記憶に残っている。

2017年3月 9日 (木)

■映画と夜と音楽と…763 夢は叶った、しかし----



【ラ・ラ・ランド/セッション/シェルブールの雨傘】

●作品賞の取り違えの混乱によって長く記憶されるアカデミー授賞式

今年のアカデミー賞授賞式は、最後の作品賞の取り違えの混乱によって長く記憶されることになった。僕はライブで見ていたので、最初、これも演出なのかと思ったが、突然、受賞挨拶をすませた「ラ・ラ・ランド」(2016年)のプロデューサーが「間違いがあったようです。作品賞は『ムーンライト』、私は彼らにこのオスカーを渡すのを誇りに思う」と言いながら、「ベストムービー『ムーンライト』」と書かれたカードを観客の方に向けたとき、訳がわからなくなった。司会者がジョーク混じりで場をおさめようとし、プレゼンターを務めたウォーレン・ベイティが「私が説明する」とマイクをつかんだ。結局、このドタバタで男を上げたのは「ラ・ラ・ランド」のプロデューサーだった。

改めて思い返すと、「ボニーとクライド」こと「俺たちに明日はない」(1967年)が公開から五十年という節目を迎えたことで、作品賞のプレゼンターとして登場したウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイが、「オスカー・ゴーズ・ツー」と封筒を開けたときから変な雰囲気だった。ウォーレン・ベイティはカードを何度も見返し、封筒の中を繰り返しのぞき込む。最初は、発表をじらしているのかと思った。フェイ・ダナウェイもそう思ったのか、ベイティを急かした。ベイティがフェイ・ダナウェイにカードを渡すと、彼女は即座に「ラ・ラ・ランド」と読み上げたのだ。プロデューサーたちを始め監督や主演者たちが喜んで登壇し、三人のプロデューサーは受賞の喜びを語り終えた。その後の訂正である。

どういう間違いか、ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイに渡された封筒の中のカードには「ラ・ラ・ランド/エマ・ストーン」と書かれていたらしい。つまり、主演女優賞のカードだったのだ。しかし、受賞後の記者会見で、エマ・ストーンは「私のカードは私が持っていた」と語っていたから、同じカードが二枚あったということだろうか。しかし、エマ・ストーンは「『ムーンライト』はとても素晴らしい作品で、作品賞は当然だわ」と、しきりに強調していた。「ムーンライト」の監督は、逆に「ラ・ラ・ランド」チームの寛容さを誉め称えていた。トランプが混乱させ、分断された現在のアメリカではほとんど見られない、心温まる光景だった。

ということで、授賞式の三日前から日本でも公開になっていた「ラ・ラ・ランド」を見にいくことにした。もっとも、僕が見たくなったのは、予告編でライアン・ゴズリングがエマ・ストーンをジャズ・クラブに連れていき、目の前で演奏するクィンテットを聴きながら、ジャズのセッションやインプロビゼーションについて解説するシーンがあったからだ。ライアン・ゴズリングは「今はサックスが音楽を乗っ取っている」と話し、トランペット奏者が吹き始めると「ほら、彼は自分の音楽をぶつけている」と解説し、「だから、演奏するたびに違う音楽が生まれるんだ」と熱い口調で語り、最後に「ベリー・ベリー・エキサイティング」とテーブルを叩かんばかりに言う。まるで、映画やジャズについて語っている僕自身の姿を見るようだった。

久しぶりに、かみさんとふたりで並んで見た「ラ・ラ・ランド」は、ジャズと映画(特に古いハリウッド映画)を好きな人間には、たまらなく愛おしい作品だった。アメリカでヒットしたのもよくわかる。五〇年代のハリウッド・ミュージカル(「バンド・ワゴン」や「雨に唄えば」)が大好きな日本人の僕が懐かしく思うのだから、アメリカ人は余計に郷愁を感じることだろう。ジャズおたくの主人公セブ(ライアン・ゴズリング)は、五〇年代に全盛だったジャズ(チャーリー・パーカー、若きマイルス・デイビス)を復活させたいと願っており、そのこともまた「古きよきアメリカ」を思い出させる。この映画は、「アメリカをもう一度偉大にしたい」トランプ支持者も、トランプが作り出した分断されたアメリカに絶望している反トランプ派の人たちも気に入ることだろう。

●デイミアン・チャゼルは三十二歳で監督賞の最年少受賞記録を作った

「セッション」(2014年)を見たときに、「この監督は、きっとジャズが好きなんだろうなあ」と思ったけれど、その内容の激烈さにはついていけなかった。サディスティックな音楽教師を演じたJ・K・シモンズは強烈な印象を残し、アカデミー助演男優賞を受賞した。この映画の教師像については、ジャズ奏者の菊池成孔さんが複雑かつ詳細なコメントをしていたが、僕はJ・K・シモンズが演じた人物は肯定できなかった。もっとも、彼のしごき(いじめ?)があったからこそ、主人公はものすごいドラムソロができたのであって、それは彼をギリギリまで追いつめたJ・K・シモンズの教育なのであるという解釈もできるのかもしれない。

今回、「ラ・ラ・ランド」で監督賞を受賞したデイミアン・チャゼルは三十二歳、監督賞の最年少受賞記録を作った。ということは、「セッション」は三十そこそこで監督したのだ。音楽(ドラムス奏者)を志し挫折したというから、「セッション」には自分の体験が反映されていたらしい。その後、ハーバード大学に進み、映画の世界に入る。今回、アカデミー賞の作曲賞と主題歌賞を「ラ・ラ・ランド」で獲得したジャスティン・ハーウィッツは、監督のルームメイトだったという。十七歳からの友人だと監督は言った。そんな出会いがあるのだと、驚いた。「ラ・ラ・ランド」は音楽と映像が一体化した作品だ。どちらが先ということではないだろう。若き才能が出会い、生み出したハリウッド映画史に残るミュージカルになった。

映画好きにたまらないのは、ワーナー・ブラザースのスタジオが背景になっており、映画の撮影シーンがふんだんに見られることである。ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優をめざしながら、ワーナーの撮影所内にあるカフェで働いている。そこには撮影中の有名女優がカフェ・ラテなどを買いにくる。カフェを出れば、「カサブランカ」(1942年)で使われたというセットがある。少し歩くと、スタジオの中では撮影が行われている。その様子が映画好きにはたまらない。ジェームス・ディーン主演「理由なき反抗」(1955年)の天文台のシーンが挿入され、同じ天文台でセブとミアがプラネタリウムに映し出された星空を背景に踊り出す。ミアは「理由なき反抗」でジミーが着ていたのと同じような真っ赤なブルゾンでオーディションに臨む。

ジャズと映画が好きでたまらないらしい監督は、古いジャズやジャズメン、古い映画へのオマージュをふんだんに散らしている。ジャズ・ファンでなければ知らないだろう「ケニー・クラーク」なんて名前も出てくる。「ベイシーが演奏したクラブ」なんてセリフもある。セブは、「理由なき反抗」のジェームス・ディーンのセリフを口にする。トワイライトの光景を背景にした公園でセブとミアが踊り出したときに僕が思い出したのは、「バンド・ワゴン」で初めて心を許し合ったフレッド・アステアとシド・チャリシーがニューヨークのセントラルパークで踊るシーンだったし、物語全体から僕が感じたのは「シェルブールの雨傘」(1963年)へのオマージュだった。特にラストシーンでは、それを強く感じた。

●ひとつの夢は叶っても、もうひとつの別の夢は叶わない

「ラ・ラ・ランド」が描くのは、「夢を見ること」である。セブの夢はハードなジャズが演奏できる店を自分で開くことであり、ミアの夢は女優になることである。どちらもハードルの高い夢である。その夢の周囲は叶わなかった夢で覆われているし、ほんの一部の人間だけがその夢を実現できる世界だ。実力も必要だろうが、運も必要だ。だが、夢を見続けない限り、夢が実現する可能性はない。大学を中退してハリウッドにやってきたミアは六年努力し、数え切れないオーディションに落ち、彼女のセリフを借りれば「充分、傷ついて」いる。だから、最後に自分で書いたひとり芝居の戯曲で自主公演を行い、数えるほどの観客しか集められず、その観客の「ひどい芝居だった。彼女、大根だな」という感想を漏れ聞いたときの絶望は手に取るようにわかった。「もう、あきらめよう。惨めな思いをするのはコリゴリ。私は充分、傷ついた」と思ったに違いない。

一方、セブはあれほど好きだったジャズへのこだわりを捨て、友人に誘われて「売れる音楽」を始める。そのバンドが成功し、アルバムを出し、ツアーばかりの日々を送る。ミアと長く会えなくなり、会えばミアに「あの音楽が好きなの? あんなに好きだったジャズは?」と問い詰められる始末だ。内心、忸怩たるものを抱えるセブは、自分の苛立ちをぶつけるように、ミアに言ってはいけない言葉を口にする。愛する人との生活(要するに金)のために妥協し、純粋だった夢が変質していく。若いふたりは、夢を追い続けるか、現実に妥協するか、というふたつの選択肢に晒される。それ以外の選択肢が浮かばない。それが、若さということなのかもしれないが、スクリーンのふたりを見ながら僕は改めて若い日の自分の夢を甦らせていた。

今更だけど、僕にも夢はあった。だが、僕は安定した生活のために、夢を優先しなかった人間だ。若くして結婚した妻も僕の夢には反対した。生活を賭して夢を実現するなんて----と、彼女は現実的なことを口にした。いや、妻や家族のせいではない。僕自身が、退路を断って夢に賭けるほどの自信がなかったし、安定した生活を放棄する勇気がなかったのだ。自分自身に、どんな貧しさに耐えても夢に突き進むという強さがなかった。結局、四十年の勤め人生活を送り、今は老齢年金を支給される身になった。僕の夢は勤め人生活を送りながらでも努力できるものではあったけれど、「あのとき退路を断って挑戦していれば、もしかしたら----」と今も夢想することがある。

だが、これでよかったのだと肯定する気持ちもある。五十五歳で初めての著書を出版し、多少とも評価してもらえたし賞もいただいた。昨年は、江戸川乱歩賞候補として四編の中に残った。ただ、そんな中途半端な結果しか得られていないのは、本気で夢の実現に努力しなかったからだという内心の声もある。未だに迷い続けている。しかし、何がよかったのかは、死ぬときになってもわからないだろう。あのとき、別の選択をしていたらと思い続けるのが人生なのかもしれない。「ラ・ラ・ランド」が心に残るのは、最後に「あり得たかもしれない別の人生」を数分間で見せてしまうからだ。僕は、そのシーンでちょっと涙ぐんだ。人生は、ハッピーエンドにはならない。ひとつの夢は叶っても、もうひとつの夢は叶わない。だから、「あのとき、ああしていたら、こうなっていたかもしれない」と人は夢想する。それは、誰もが抱く「夢」である。

2017年3月 2日 (木)

■映画と夜と音楽と…762 疑えば暗闇に鬼を見る



【マクベス/蜘蛛巣城/コールド・ブラッド 殺しの紋章/KT】

●映画化された「マクベス」を久しぶりに見たけれど---

昨年、マイケル・ファスベンダー主演の「マクベス」(2015年)を見た。マクベス夫人はフランス人でありながらアカデミー主演女優賞を受賞しているマリオン・コティヤールである。豪華な配役だった。「マクベス」を見たのは久しぶりだった。暗く、やりきれない物語だから、そう何度も見たくなるものではない。今回はどんな風に映画化されているのか、そんな興味があって見てみたのだ。独創的だったのが、三人の魔女だった。老婆ではないし、ひとりは子供を抱いている。荒野の霧の中に三人が立っている映像は、ちょっとゾクゾクさせた。

マイケル・ファスベンダーは正統的なイギリス人俳優らしく、シェークスピアのセリフを格調高く響かせる。マクベス夫人の独白のセリフもよくて、マリオン・コティヤールの新しい面が見えた。マクベス夫人が王の暗殺をマクベスに唆す場面では、ふたりがセックスしながら高まっていくという設定に変えており、なるほど新しい解釈だわい、と僕はうなずいた。マクベスは夫人の魅力に囚われていて、その夫人の肉体と耳元で囁く邪悪な言葉によって、高潔な正義の人と思われていたマクベスが王の血で手を汚すことを決意する。マリオン・コティヤールの起用は成功していた。

「マクベス」はシェークスピアの三大悲劇の一本と言われ、「ハムレット」や「オセロ」と並んで上演の機会が多い戯曲である。権力欲に駆られて王を暗殺し、マクベスは自らスコットランドの王になる。マクベスの未来を予言して、彼をその気にさせるのは三人の魔女であるが、それは運命というものを具現化した存在だ。彼女らはマクベスが王になることを予言し、一緒にいたバンクォーには「そなたの子孫が王位を継ぐ」と告げる。その言葉からマクベスは疑心暗鬼になり、王を暗殺した後、バンクォーと息子の暗殺を家臣たちに命じるのだ。不安に駆られるマクベスは、「女の股から生まれた者にマクベスは殺せない」という魔女の予言を信じて安心する。

しかし、「森が城を攻めてこない限り」マクベスは滅びず、女の股から生まれた者には殺せないはずのマクベスは、森が動くのを目にし、母親の腹を裂いて生まれた者によって命を絶たれる。スコットランドは暴君から解放されるのだ。しかし、マクベスは魔女の予言によって惑わされ、自ら犯した王殺しや友の暗殺にさいなまれ、亡霊を目にし、疑心が募って誰も信じられず精神を病んでいくわけで、運命の被害者のようにも見えるのだ。夫に悪心を吹き込み、王を殺せと唆したマクベス夫人も手についた王の血が落ちないと狂い、死んでいく。結局、マクベスやマクベス夫人は真の悪人にはなれず、罪の意識によって精神のバランスを崩していく。人の道を外れたマクベスの疑う心は、暗闇に鬼を見るのである。

●組織に属した人間には「マクベス」的心理は理解できる?

以前に見た「マクベス」(1971年)はロマン・ポランスキー監督版だから、もう四十数年前のことになる。もっとも、その間にジョン・タトゥーロが主演した「コールド・ブラッド/殺しの紋章」(1990年)という映画を見ている。これは、舞台を中世スコットランドから現代のマフィアの世界に移して「マクベス」を再現したものだ。タトゥーロはマフィアの幹部で、ある日、ボスを自宅に迎え、宿泊させることになる。もちろん、ボスのボディガードたちも一緒だ。タトゥーロは妻に唆されてボスを刺し殺し、ボディガードに罪を着せて射殺する。ボスの座についたタトゥーロは、親友を暗殺し、ファミリーに君臨する暴君になる。

どんな世界にもヒエラルキーは存在する。上昇志向があり、権力欲があるならば、「マクベス」が描いた世界は----少なくともその精神性は、様々な人々に共通するところがあるだろう。シェークスピア作品が何百年を経ても生き生きとしているのは、そこに普遍的な人間像が立ち現れてくるからだ。特に悪人を描くと、人間の普遍性が見えてくる。「オセロ」のイアーゴー、「リチャード三世」など、悪そのもののような存在が魅力的に見える。彼らに比べると、マクベスは殺した友の亡霊に脅えて、あらぬことを口走る臆病さが情けない気がしないでもない。

その情けなさを目いっぱいに演じていたのが、「蜘蛛巣城」(1957年)の三船敏郎だった。黒沢作品があまり好きではない僕だが、その中でも「蜘蛛巣城」は二度見る気にならなかった。暗いし、みんな目を大きく丸く見開いて大仰に叫んでいる印象があったからだ。十八のときに銀座並木座で見て以来、一度も見返していないかもしれない。しかし、一度見ただけで、物語は脳裏に焼き付いた。僕が「マクベス」を読もうと思ったのは、「蜘蛛巣城」が「マクベス」を翻案したものだと知ったからだった。僕は「マクベス」を読み、なるほど舞台を日本の戦国時代に移しただけなのだなとわかった。

三船敏郎が演じた鷲津武時は、戦場の霧の中で三人の老婆と出会い、自分が王となることを予言される。一緒にいた武将(千秋実)がバンクォーの役である。やがて夫人(山田五十鈴)に唆されて殿の寝所に忍び、槍で刺し殺す。このとき、槍を抱えて寝所から出てくる三船の顔は今でも思い出す。まるで、血管でも切れそうな張りつめた表情だった。また、自分が暗殺を命じた千秋実が亡霊となって宴席に並んでいるのを見つけたときの、三船敏郎の異常におののく姿も忘れられない。もっとも、最後に城を攻められ、顔の横に無数の矢を射かけれられたときの三船の表情は本物だったのだろう。何しろ黒澤明監督は、弓の名人たちを集め、三船の目の前から本当に矢を射させたのだから----。

●独裁者たちは誰もが同じような行動をする

先日来、大騒ぎになっているマレーシアのクアラルンプール空港での金正男暗殺事件のニュースを見ていて、僕は「マクベス」を思い出していた。金正男の長男も命が危険だと言われているが、北朝鮮(誰も「朝鮮民主主義人民共和国」という正式な国名で呼ばないなあ)の孤独な独裁者は疑心に凝り固まっているのだろう。すべての不安材料を払拭(そんなことできるわけないが)しない限り、身内でも次々に消していくに違いない。だが、自分以外は誰でも裏切る可能性があるわけだから、疑心は止めどなく鬼の姿を見せるだろう。どんなに信頼する部下であっても、彼を安心させることはできない。独裁者は、常にそんな不安を抱えることになる。

二十世紀から現在にかけて、様々な独裁国家があり独裁者が存在したが、誰もに共通しているのは恐怖政治を敷き、自分に反対する者たち、自分に脅威を与える者たちを粛清することだった。その中でもスターリンは別格だった気がする。スターリン時代に殺された人は数百万人とも言われている。ロシア革命に貢献した赤軍の幹部をほとんど粛清してしまったので、ヒトラーのドイツ軍に攻め込まれたときに軍がほとんど機能しなかった。スターリンは、自分の妻まで殺した疑惑が持たれている。自分以外、誰も信じられなかったのだろう。執念深く、メキシコに亡命していたトロツキーを暗殺させた。トロッキーはレーニンの後継者を争う存在だったとはいえ、スターリンが権力を把握して数十年も経ってからのことである。そのスターリンを手本にして、金日成は国を支配した。そのまま、三世代の独裁政権が続いている。

韓国(誰も「大韓民国」と言わないなあ)も、独裁体制が長く続いた国だった。かつて、韓国の独裁者が日本で起こした事件によって韓国と日本の間で大問題になったことがある。日本の植民地だった朝鮮は、日本の敗戦後、北をソ連が管理し、南をアメリカが管理した。北朝鮮では金日成が独裁者になり、韓国は李承晩が大統領として独裁体制を敷いた。その後、朴正煕(今の朴大統領の父親)が軍事クーデターを起こし、大統領となった。朴大統領は独裁体制を強め、大統領選挙で自分に迫る勢いを見せた野党党首の金大中(後に大統領になる)に脅威を感じたことで、一九七三年八月、日本の九段下のホテルに滞在していた金大中をKCIA(韓国中央情報部)が拉致することになる。金大中は五日後、ソウルの自宅近くで目隠しをされたまま解放された。

韓国の政府機関である情報部が、日本の主権を侵害する形で行ったこの事件は、当時、日韓関係をゆるがす大問題になった。金大中が拉致された部屋からは、駐日韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋が出たのだ。日本政府は韓国政府に金東雲の出頭を要請し、韓国政府はこれを拒否した。何だか、今回のマレーシアと北朝鮮の緊張関係に似ている気がする。その事件の一年半後、僕はそのホテルの近くにある出版社に勤めることになったが、ある日、昼食に出たときに先輩が「ここが金大中が拉致されたホテルだぜ」と教えてくれた。その後で、「プロ野球のドラフト会議もここでやってるけどね」と付け加えた。

中薗英助の「拉致・知られざる金大中事件」を原作にして「KT」(2002年)という映画を作ったのが阪本順治監督だった。主演は、阪本作品ではおなじみの佐藤浩市である。彼は自衛官で、三島事件の直後に長官室に入ろうとするところから映画は始まるのだが、その彼が金大中拉致事件に関わっていく。これは、事件の裏側を明確に描き出し、ゾクゾクさせる作品になっていた。金大中が韓国に連れ戻される船の甲板で射殺されそうになり、そのときヘリコプターの爆音を聞くのだが、それによって射殺を免れる。これは、アメリカ軍のヘリではなかったかと想像させるのだ。つまり、韓国政府に対して「金大中を殺すな」とアメリカが介入したと思わせるのである。もちろん、真相は不明だ。しかし、朝鮮半島は、今も政治的陰謀に充ちているのかもしれない。

2017年2月23日 (木)

■映画と夜と音楽と…761 調布が映画の街だった頃


【ハレンチ学園/遊び】

●Iのお母さんは東京の美しい山の手言葉を話しとても優しい人だった

数少ない友人たちを別にして、僕には恩人が三人いる。ひとりは勤めていた出版社の先輩だったHさん、ひとりは亡くなった写真家の管洋志さん、そしてもうひとりは高校時代の友人Iのお母さんである。Iのお母さんは、東京の美しい山の手言葉を話し、とても優しい人だった。僕の父母は貧しい農家の生まれで、尋常小学校を出てすぐに働き始めた。戦後はずっと香川県に暮らし、職人として建築現場で働き、讃岐弁丸出しでしゃべる。もちろん自分の親には感謝しているが、初めてIのお母さんに会ったとき、僕は「東京物語」(1953年)の三宅邦子を連想し、続いてテレビドラマ「七人の孫」の加藤治子(断っておくが、決して後年の向田邦子作品の彼女ではない)を思い浮かべた。

Iと知り合ったのは、たぶん高校一年の三学期くらいだと思う。クラスもまったく違ったが、中学以来の友人だったKが同じクラスのIと仲良くなり、それで紹介されたのではなかっただろうか。ちなみに、後に僕が結婚する相手もIと同じクラスだったが、僕が彼女と同じクラスになったのは三年になってからだった。しかし、僕はIとは同じクラスになったことがあるのだろうか。よく憶えていない。ただ、高校三年生になる前の春休みに、僕は群馬県前橋の彼の家に遊びにいっているのだ。散歩のときに見た利根川沿いにあった前橋刑務所の赤煉瓦の塀を記憶している。それはTとFという級友と三人で大阪・東京を巡る旅の途中だった。

翌年に受験する大学を見にいくという名目で、僕はその旅行を両親に認めてもらった。僕らは鈍行で大阪に出て、その夜、フォークコンサートを聴きにいった。高石友也、岡林信康、高田渡、ジャックスなどが登場するコンサートだった。そのまま東京行きの夜行列車に乗り、翌朝、東京駅に着いた。午前中にFが泊めてもらうという早稲田に住む親戚の家にいき、僕は早稲田大学を見にいった。その日は夕方から大手町の日経ホールだったか、産経ホールだったかで日野皓正クィンテットのコンサートを聴きにいった。ドラムスは日野元彦、ギターが増尾好秋だったのは記憶しているが、他のメンバーは誰だったか忘れてしまった。

コンサートが終わり、僕とTは地方の大学の先生が上京したときに泊まる本郷の施設にいき宿泊した。Tの父親が香川大学の教授だったのだ。その翌日だったか、僕はひとりでIが帰っている前橋の実家を訪ねた。Iのお父さんは金融公庫に勤めていて、頻繁に転勤をしていた。高松に転勤になっていたときにIが高松高校に入ったが、その後、前橋に転勤になった。Iは寮に入り、転校はしなかったのだ。そのときは春休みで家に帰っていたのだった。僕は初めてIの家族に会った。勤め人の家庭は珍しく、厚かましく押し掛けた僕をお母さんは優しく歓待してくれた。考えてみれば、あのときIのお母さんは四十前だったのではないか。Iの妹は小学生だったのではなかっただろうか。

しかし、僕が本格的(?)にIのお母さんにお世話になるのは、翌年の四月、僕の浪人生活が決まり、上京してひとりで暮らし始めてからだった。いろいろあって一年近く会っていなかったIと再会したのは、その年の初夏の頃だった記憶がある。久しぶりに実家に帰るというIに連れられて、僕は調布の多摩川住宅にいった。その春にIのお父さんが転勤になり一家は東京に戻っていたのだが、ずっと家を出て生活していたIはその新居にいくのは初めてだったと思う。「確か、この辺なのだけど」と言いながら団地の号数を確かめていた。Iはひとりでは帰りづらかったのかもしれない。その団地の手前に、石原プロモーションがあった。まだ小さなビルの一角だった。

●僕が初めて調布にいった頃、大映と日活は共に経営不振だった

邦画五社が健在だった頃、映画会社はそれぞれ東京近辺に撮影所を持っていた。松竹は大船、東宝は世田谷の砧、東映は大泉、そして大映と日活は調布に撮影所を構えていた。僕が初めてIに連れられて調布にいった頃、その大映と日活は共に経営不振に陥り、毎週二本の作品を系列館に配給する力をなくしていた。窮地に陥った大映と日活は、ダイニチ映配という配給システムを作り系列の映画館に作品を提供していた。それでも、客は入らなかった。日活は宍戸錠にマカロニの扮装をさせて(初代ヒゲゴジラは藤村俊二)、永井豪のヒットマンガ「ハレンチ学園」(1970-71年)を映画化し、シリーズ化した。十兵衛役は、後に「北の国から」で活躍する児島みゆきだった。

両親には心配ばかりかけるIだったが、一緒についていった僕をお母さんは再び歓待してくれた。「何かあったら、いつでもいらっしゃい」という言葉に甘えて、僕は何度多摩川住宅に通っただろうか。調布からのバス代を惜しんで、ふた駅手前の国領から歩くようになっていた。一年浪人し、何とか大学に潜り込んだ秋、僕は方南町(住所は杉並区和泉)に引っ越したため、下高井戸駅まで歩き調布へいくことがさらに増えた。「洗い物があったら持っていらっしゃい。下着でもいいのよ」と言われ、僕は汚れ物の袋を抱えてよく京王線に乗ったものだった。それでも、最初は遠慮してジーンズのような手では洗えない(コインランドリーが登場する以前の時代だ)ものにしていたが、「遠慮しなくていいのよ」と言われ、下着まで洗ってもらうようになった。

そんな頃、お母さんと「関根恵子は、調布の駅前でスカウトされたようですよ」という話をした気がする。現在は高橋伴明監督と結婚し、高橋恵子になっているけれど、確かに彼女は調布で女優としてスカウトされたのだ。調布近辺には大映や日活の関係者が多かった。浅丘ルリ子も多摩川撮影所の近くに家を建て、そこは日活の若手俳優たちのたまり場になっていたそうである。当時は、調布は映画の街だったのだ。だが、僕がIの家に通っている間に大映は倒産し、日活はロマンポルノ路線に変更になった。そんな大映の末期に活躍した若手女優が関根恵子であり、松坂慶子であり、新人男優には篠田三郎(後のウロトラマンタロウ)や大門正明(「セーラー服と機関銃」より「赤い鳥逃げた?」かな)がいた。

関根恵子は、僕が上京した一九七〇年に「高校生ブルース」「おさな妻」「新・高校生ブルース」の三本に出演した。今から見ればどうということもない映画だが、当時は際どくて、あざとい作品と思われた。十五歳の新人女優に新婚初夜を演じさせるのである。一九七一年、僕が大学に入った年には「高校生心中 純愛」「樹氷悲歌(エレジー)」「遊び」「成熟」という作品に出た。相手役は篠田三郎が多かった。大門正明が相手役を演じ、増村保造が監督した「遊び」はやはり評価が高かった。渥美マリの「でんきくらげ」(1970年)を撮っても評価の高い増村監督だ。どんな映画であっても、きちんと自分の作品として仕上げた。

あれから長い年月が経ち、十五歳だった関根恵子は還暦を過ぎた高橋恵子になり、今ではレディースアデランスのコマーシャルに出ている。十八だった僕は公的に前期高齢者になり、老齢年金が支給されるようになった。増村監督が亡くなったのは、もうずいぶん昔のことになったし、プロ野球チームを持っていた大映という映画会社があったことを知る人は少なくなった。あの当時、四十代だったはずのIのお母さんも年を重ねた。二十年ほど前、Iのお父さんが亡くなったときに久しぶりにお母さんと会ったが、その後は不義理を重ねていた。年賀状のやりとりもいつの間にか途絶えた。だが、忘れたことはなかった。僕の中では、とても大きな存在だったのだ。

●Iのお母さんが亡くなったと聞き五十年近く前の調布を思い出した

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「すいません。ご迷惑をかけて。朝早くから、本当に…」
 語尾が消え入るようだった。
「いえ、いいんです。気にしないでください。最近は早起きして、ジョギングでも始めようかと思っていたところですし。それより、礼子ちゃんが家出というのは、本当ですか」
 中山の母親に会うと、未だにいい子ぶる癖が出る。十八から二十二までの四年間、私には母親がいた。すらりとした背の高い美しい母親だ。小学二年生で亡くした母親が生きていれば、こんな風になっていたに違いないという思いで、私は中山の母親を見ていた。いや、甘えていた。
「一昨日、きつく叱ったのがいけなかったんです。何も、あんなに叱らなくても…」
 やはり、取り乱しているのだ。いつもなら、もっとはっきりした言い方をする。誰が叱ったのか、どういう状況だったのか、明晰な物言いをするはずだった。そんなところも、私が敬愛していた理由だった。
「何があったのですか。一昨日」
「とにかく、あがってくださいな」
 居間へ入っていくと中山が父親と一緒に、溜め息をつき果たしたような顔でソファに身を沈めていた。一晩中こうして、三人で顔を突き合わせていたのだろう。その情景が浮かぶようだった。
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これは、僕が昔書いた小説「黄色い玩具の鳥」(電子書店で発売中です)の一節だ。もちろん、すべてフィクションだが、この文章を書いているとき、僕はIのお母さんを思い浮かべていた。この小説の主人公は子供の頃に亡くした母親の理想の姿を、このヒロインに見出しているが、Iのお母さんに頻繁に世話になっていた頃の僕の心情がここには反映されている。実際、「この人が本当の母親だったらな」と若い僕は思ったものだ。

二月中旬、中学時代からの友人のKから電話があった。「Iのお母さんが亡くなった」という。いつかはそんな連絡が入るかもしれないと思ってはいたが、心の準備ができていなかった。それに、僕は遠く離れた四国にいる。最近、友人たちの両親の訃報が多い。現にKも立て続けに両親を亡くしたばかりだ。「Iは、高松にいるようだから無理しなくていいと言っていたけど、お母さんが会いたがっていたらしい」とKは言う。「こんなことだったら、会っとくんだったなあ」とKが口にした途端、後悔の念が湧き起こった。なぜ、もう一度、会いにいかなかったのか。きちんと、お礼を言っておかなかったのか。口では言い尽くせないほど、世話になったのに----。

Iのお母さんの告別式の日は、入院中の母親が帰宅後の生活の練習のために一日だけ実家に戻る日だった。そのために、車で病院まで迎えにいかねばならない。僕は自宅にいるかみさんに連絡して、葬儀に出てもらうように頼んだ。その夜、寝床に入って暗闇を見つめていると、様々な思い出があふれかえるように甦り、胸の奥が切なくなった。涙があふれそうになる。十八歳の僕、あの頃、Iのお母さんは四十になったばかりだったろう。結婚して挨拶にいったときも、まだまだ若かった。子供が産まれた後、「お子さんたちは元気?」といつも年賀状に書いてくれた。Iのお母さんの思い出をたどると、僕の大学時代の記憶が後から後から甦ってくる。記憶の洪水に溺れ、明け方まで眠れなかった。

2017年2月16日 (木)

■映画と夜と音楽と…760 かの国の大統領に見せたい映画


【扉をたたく人/正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官/天国の門/愛と哀しみの旅路】

●9.11以降のアメリカの移民政策がどれほど厳しくなっていたか

たったひとりの愚かな男の言動が世界を混乱に陥れている。アメリカ合衆国大統領は、それほどの権力と影響力を持つのか。日本には「××に刃物」ということわざがある。「民主的な選挙で選ばれた大統領」だと言うが、ヒトラーだって選挙で選ばれたのだ。「シン・ゴジラ」(2016年)で描かれたように、「かの国」に振りまわされるものの「かの国」に追従するしか生きる途がない日本は、尻尾を振ってご機嫌をとるペットのようにすり寄っている。しかし、かの国の大統領は、日本を従順な手下としか見ていないのではないか。日本が何かを主張すると、とたんに切れて感情を爆発させる気がする。その愚かな男の機嫌を損ねることを、日本の政治家たちはまるで腫れ物にさわるように怖れている。

愚かな大統領に見せたい映画がある。それを見て改心するほどの理性と知性を彼が持っているとはとても思えないが、9.11以降のアメリカの移民政策がどれほど厳しくなっていたか、その映画は教えてくれる。厳しい移民政策に対するアンチとして、その映画は作られたからだ。今、それ以上に移民や難民に対する厳しい対応を行おうとしているかの国の大統領は、その映画を見て己を恥じるがいい。もちろん、恥を知る気持ちなど彼は持ち合わせていないだろうし、僕がこんなことを書いても何の影響も与えないけれど、少なくとも心ある人はこの映画を見て何かを感じるに違いない。アメリカにだって、無謀な大統領令を阻止しようとする人々がいるのだから----。

リチャード・ジェンキンスは脇役として多くの映画に出ているが、「扉をたたく人」(2007年)で初めて主演をつとめたのではないだろうか。この作品でアカデミー主演男優賞にノミネートされ、一躍注目された。僕も顔は知っていたが、この作品で名前を憶えた。もちろん、映画がとてもよくできていたからだ。彼が演じたウォルターは著作も数冊ある大学教授で、社会的な成功者である。コネチカットの大学近くに立派な自宅があるし、ニューヨークには広いアパートメントを所有している。しかし、ピアニストだった妻を亡くし、今は心を閉ざして生きている。期限に遅れたレポートを受け取らないほど学生には厳しいくせに、自分は毎年同じ講義ノートを使っている。仕事に対して熱意を失っている。

彼は、ニューヨークでの学会に出席することになる。数ヶ月ぶりにニューヨークのアパートに戻ると見知らぬ荷物があり、人が住んでいる気配がある。浴室の扉を開けると若い黒人女性がバスタブに浸かっていて悲鳴をあげ、アラブ系の青年が飛び出してくる。ウォルターが自分が持ち主だと鍵を見せると、青年は警察に通報したかどうかをしきりに気にする。黒人女性は「やっぱりだまされたのよ」と青年を責める。青年はシリアから難民申請をしてアメリカにきたタレクで、申請が認められず今は不法滞在をしているとわかる。女性は恋人のゼイナブで、彼女もセネガルからきた不法移民である。彼らはだまされて部屋代を払い、ウォルターのアパートに二ヶ月も住んでいた。

警察沙汰になるのを嫌い詫びを言って出ていく、大きな荷物を持つふたりの姿を見ていたウォルターの心を何かが動かし、しばらくいてもいいと口にする。そこから奇妙な共同生活が始まる。タレクはジャンベというボンゴのような打楽器の奏者で、ある夜、ジャズクラブで彼の演奏を聴き、ウォルターはリズムを刻む心地よさに浸る。ある日、アパートに帰ったウォルターは置いてあったジャンベをたたき始め、ウォルターから手ほどきをうけることになる。それをきっかけに親しくなったふたりは、公園でジャンベを演奏したりする。しかし、その帰りの地下鉄でタレクは警官の不審尋問に遭い、いきなり逮捕されてしまう。

タレクが移送されたのは、クィーンズ地区にある移民局が管理する拘置所だった。自らも不法滞在であるゼイナブは面会にいけず、ウォルターがタレクの面会にいく。ミシガンに住んでいるタレクの母親マーナも不法移民で、連絡がないタレクを心配してニューヨークにやってくるが、やはり面会にはいけない。ウォルターは弁護士を雇い、タレクを助けようと奔走する。その弁護士もアラブ系移民で、「タレクの処遇は厳しいものになるかもしれない」と報告し、それに対して「あなたに子供はあるの?」と辛辣に問うマーナに「ふたりいる。それに二十三年暮らしていたのに強制送還になった伯父も」と答える。彼自身もグリーンカード(永住権)を取得するのに苦労したのだ。

ずっと感情を表さなかったウォルターが移民局の拘置所に面会にいき、タレクがすでに送還されたと知ったときの感情の爆発が心を打つ。同時多発テロ以降の厳しい移民政策に対する批判が、スクリーンから迸る。翌日、「あの子のそばについていてやりたい」というマーナを空港に送るウォルターは、「あなたも出てしまえば、もう帰ってこれない」と言う。二〇〇七年の制作だから、同時多発テロから六年、今から十年前の映画だった。監督は俳優として映画に出ていたトム・マッカーシー。この映画の脚本監督で注目され、昨年は「スポットライト 世紀のスクープ」(2015年)の脚本監督で高く評価された。

●いくつかのストーリーでアメリカの移民難民問題の複雑さを描く

同時多発テロ以降の厳しくなった移民政策を多層的に描いたのが、「正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官」(2009年)だった。いくつかのストーリーが平行して展開され、アメリカの移民難民問題の複雑さを描いている。ハリソン・フォードが演じたのは、I.C.E.(移民税関捜査局)に勤める捜査官である。彼は不法移民を取り締まるのが仕事だが、移民たちの事情に同情的で、仲間からは「彼らに甘すぎる」と言われている。ある日、縫製工場に抜き打ちで調査に入り、捜査官たちは逃げまどう不法移民たちを逮捕する。

しかし、彼は隠れた場所で「見逃してほしい」と必死の目をするメキシコ人女性を捕らえられない。彼女を見逃したものの別の捜査官に逮捕されたメキシコ人女性の言葉が気になり、彼女が残したメモを手かがりにして彼女の幼い子供を見つける。ハリソン・フォードは彼女のメキシコの住所を探し出し、幼い子供をそこに連れていくが、彼女はアメリカに残してきた子供が心配で再びアメリカに不法移民として入っていた。かの国の大統領が壁を作って防ごうというメキシコからの不法移民である。

また、オーストラリアからやってきた女優志願の女性がいる。彼女はグリーンカードを得ようと移民局に日参しているが、なかなか実現しない。そんなとき、移民審査官(レイ・リオッタ)と知り合う。彼は自分と寝れば、グリーンカードを発行してもいいと言い、彼女は承諾する。移民審査官の権力を使って女性を口説く卑劣な男というのは、いつものレイ・リオッタの役柄である。しかし、恋人もいるのにそんな提案を受け入れるほど、グリーンカード取得というのは厳しく困難なのだろうか。

また、学校で作文のテーマに同時多発テロを選んだバングラデシュ出身のイスラム教徒の少女は危険分子と見なされて、家庭にFBIの捜査が入り、家族全員が不法滞在とされて拘束される。彼らの弁護を引き受けた人権派の女性弁護士(アシュレイ・ジャッド)は政府機関を相手に交渉するが、壁は厚い。イスラム教徒の一家に対する偏見も根強い。一方、ハリソン・フォードの同僚でイラン人の一家がいる。アメリカで成功した一家であり、永住権も取得しているが、一家の娘が殺害される事件が起きる。といったように様々なストーリーが描かれるのだが、すべてに関係するのが9.11以降に(特にイスラム系の人々に)厳しくなったアメリカ合衆国の移民・難民政策である。

二十七年前に作られた「グリーンカード」(1990年)では、まだグリーンカード(永住権)を恋愛ドラマのモチーフとして成立させる余裕があった。オーストラリア出身のピーター・ウィアー監督は、フランス人のジェラール・ドパルデューを主演にアンディ・マクダウェルとのラブロマンスを作る。独身者は入居できない広いガーデンのあるアパートメントに入居したいプロンディ(アンディ・マクダウェル)は、グリーンカード(永住権)がほしいフランス人のジョージ(ジェラール・ドパルデュー)と書類だけの偽装結婚をするが、移民局が調査にくるというので同居しなければならないはめになる。よくあるシチュエーション・コメディの設定だが、よくできた作品だった。しかし、今、グリーンカードをこんな風には描けないかもしれない。

アメリカは「移民の国」と言われる。しかし、先に新大陸にきた移民たちが、次にやってきた移民たちを排斥しようとした負の歴史もある。それはアメリカ史の恥部として、アメリカ国民は目を背けてきた。「天国の門」(1981年)では後から移住してきたロシア・東欧系の農民たちが、先に西部にやってきて成功している牧場主たちに迫害され殺害された歴史が描かれ、アメリカの観客の反感を買った。また、マーチン・スコセッシ監督も「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2001年)で、元は移民だがアメリカ生まれの世代になった住民たちが新参者のアイルランド系移民を排斥し、対立した歴史(原作はノンフィクション)を描いた。

かつて日系移民も「安い賃金で文句も言わず働く」ことで白人たちに嫌われ、日本人をターゲットにした差別的な移民法が成立した。さらに、カリフォルニア州を皮切りに日系移民は土地の所有ができないという法律が次々に成立した。そして、日本軍の真珠湾攻撃の二ヶ月後、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは大統領令を出し、日系移民の強制収容を実施した。日系移民は財産を没収され、トランクひとつだけを許され、砂漠のキャンプに集められた。その数は十二万人とも言われる。この大統領令が間違いだったとアメリカ合衆国が認め日系人たちに補償をしたのは、戦争が終わって四十年も経ったレーガン大統領のときだった。日系移民への迫害が描かれた「愛と悲しみの旅路」(1990年)や「ヒマラヤ杉に降る雪」(1999年)も、かの国の人々に改めて見てもらいたいものだ。

2017年2月 9日 (木)

■映画と夜と音楽と…759 死者を弔う


【秋日和/海街diary/女の座】

●母との会話から忘れていた街並みが甦った

母親が入院したと兄から連絡があり、三週間ほど前から四国に戻っている。実家の裏の一軒家で暮らしているが、昔の家で断熱材など入っていないから寒くてたまらない。エアコンは一階にしかないし、暖まるのは一部屋だけだ。夏に二階にベッドを上げてしまったのだが、この時期は明け方になると二階は特に冷える。顔が冷たくなって目覚め、温度計を見ると室温が三度になっていたことがある。凍死しゃうぞ、と思った。それで、天気予報で翌日の最低気温を確認し、このところ加湿機能のあるヒーターをつけたまま一階のソファで寝ている。予定では、最も寒い時期には自宅のマンションにいるはずだったのだ。その大寒の時期に、高松で暮らしている。

母は脊椎の圧迫骨折で、暮れからコルセットを付けて寝ていたという。その知らせはなかったが、一月中旬に痛みがひどくなり救急車で入院し、兄から連絡が入った。入院したのは、自宅から歩いても五分の外科である。連絡をもらって三日後に帰郷し、病院をのぞくと母はベッドで寝たきりだったが、頭ははっきりしているようだった。九十を過ぎているので、入院して寝たきりになるとボケることがあると聞いたこともある。年寄り特有のくどさと忘れっぽさは前のままだが、話すことの辻褄は合っている。その点では安心した。

翌日から、午前と午後の散歩のときに病院をのぞいている。僕が顔を出すと、母の昔話が始まる。自分では記憶をたどったことはなかったが、小学生の六年まで住んでいた家の近所の話につきあっていると、忘れていたはずの光景や店の名前が甦ってきた。八百屋はミヤモトだったし、内科・小児科の病院はノダ医院だった。女医さんでやさしかったのを憶えている。夏になるとかき氷を売っていた、角の家の名前がどうしても思い出せなかった。もっとも、母はかき氷屋の存在そのものを憶えていなかった。

母の話はとりとめがない。子供の頃の話から戦争中の話へと飛ぶし、いつの間にか、結婚し子供が産まれた頃に話が移っている。昨年の暮れに五歳年上の兄を亡くしたのが思い出話のきっかけになっているようだった。祖父は母たちを生んだ最初の妻を早くに亡くし、何度か妻を迎えた。最後の子供は六十のときに産まれた娘で、僕には叔母に当たるが十歳ほど年下になる。僕の祖母が産んだ子供は、伯父と母と母の下にふたりの妹がいるのだが、母はそれ以外に五人の子が亡くなっていると言う。何だか「おしん」の思い出話を聞いている気分である。

九十年も昔のことだから無事に育つ子は少なかったのだろうが、早死にしたと聞いていた祖母が十人近く子を産んでいたのは驚きだった。その全員の名を母は憶えていて、ひとりひとり指を折りながら、まるで弔うように口にした。無事に育った兄と自分とふたりの妹がいたのに、妹のひとりは十年近く前に亡くなり、今度は九十六歳で兄が亡くなった。祖父は新しい家庭を持ったから、五歳年上の兄が父親代わりだったと母は泣く。その伯父は十代半ばで満州に渡り、満鉄に八年勤め、二十五で終戦を迎えた。戦後はずっと郵便局に勤めていたはずだ。伯父はふたりの子供を持ったが、ふたりとも障害があり、下の子は特にひどく生涯歩くことはできなかった。ふたりとも親より先に亡くなっている。

●叔父の四十九日で三十年ぶりに会った親戚の人々

四国に帰った週末に、伯父の四十九日があった。一年ほど前、母を車に乗せて伯父に会いにいき、そのときが結局は最後になった。伯母はデイサービスにいっていたので、そのときには会えなかったから、四十九日に会うのが三十年ぶりになる。小学生の頃、よくひとりで泊まりにいき可愛がってもらった伯母である。母方の祖父の葬儀で会ったのが最後だと思う。そのとき、母の異母妹で僕より十歳ほど年下の叔母に当たる人とも会った。そのときが初対面だった。僕は十八で上京し、ずっと東京で勤めていたので、親戚づきあいはほとんどしていない。故郷にいれば、冠婚葬祭はいろいろあって、何かと親戚たちと顔を合わすことになる。

四十九日の日は雪が舞うような荒れた天候だったが、二度めになる伯父の家への道を軽快に運転した。伯父の家のすぐ近くに父親の実家があり、そちらにも法事に出る父を乗せていったから一度も迷うことなく到着した。玄関の戸を開けて、「こんにちは、進です」と言った瞬間、「進ちゃんな」と伯母の声が返ってきた。座敷から伯母の顔がのぞいた。変わらない、というのが最初の印象だった。下半身が悪くて歩けなくなっていると聞いていた通り、板敷きの廊下を這うようにして玄関にやってきた。昔から肥えた体で、いつも明るい伯母だった。「肝っ玉かあさん」の京塚昌子に似ている。しかし、伯母の方は「何も知らんでおうた(会った)ら、わからんな」としみじみと僕の顔を見た。

田舎の家の仏間は広い。隣室とのふすまを外しているから、二十人くらいが座っても余裕がある。僕の後から母の一番下の妹にあたるU子叔母が長女と一緒にやってきた。彼女は従姉妹になるが僕よりかなり若く、会うのは初めてだった。母の異母妹で僕より年下の叔母は、夫と長女と一緒にやってきた。彼女は小学校の先生である。「初めまして」と言うので、「おじいちゃんの葬儀で会いました」と答える。僕の祖父は彼女の父親になるわけで、八十七で亡くなった。もう三十年前のことだ。やがて、僧侶がふたりやってきて袈裟を身につけ、仏壇の前に正座し、読経が始まった。途中、二度の中休みはあったけれど、二時間近く読経は続いた。僕は正座をやめて、胡座を組ませてもらった。

●生まれ故郷にいると親戚づきあいは続いていただろう

七回忌のシーンから始まる映画は、小津安二郎監督の「秋日和」(1960年)である。昔の映画には法要シーンがよく登場した。それだけ、人々がきちんと冠婚葬祭の行事を行っていたのだろう。最近の映画では「海街diary」(2015年)が四人姉妹の祖母の法事や墓参りを描いていたが、日常のディテールを丁寧に綴った作品だからだろう。家族の関係を描くのには冠婚葬祭が適している。父と別の女性の間に産まれた妹(広瀬すず)を引き取った三人の姉(綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆)の物語だが、姉たちの母方の祖母の法要に広瀬すずは「私、出てもいいのかな」と口にする。彼女の母が三人の姉の母(大竹しのぶ)から夫を奪ったからだ。

「海街diary」は次女ヨシノ(長澤まさみ)が男の部屋から朝帰りすると、長女のサチ(綾瀬はるか)に「父親が亡くなった知らせが届いたからいってきて、チカ(夏帆)をつけるから」と言われるところから始まる。父親は愛人を作って家を出たが、その女性が亡くなり、別の女性と一緒になり、山奥の温泉旅館で働いていたのだ。父には娘(広瀬すず)がいて、後から葬儀にやってきたサチを含めた三人は、その妹に「鎌倉で一緒に住まない?」と誘う。しかし、父親の葬儀のシーンも、鎌倉での祖母の法要シーンも、前後のエピソードは描かれるが、葬儀や法要そのもののシーンは省かれていた。読経のシーンを描いても仕方ないと思ったのだろうか。

小津監督の「秋日和」は、原節子の夫の七回忌から始まる。娘(司葉子)も成人している。夫の友人たち(中村伸郎、北龍二)が「アヤちゃん、きれいになっちゃって」などと言っている。そこへ故人の兄(笠智衆)がやってくる。挨拶が始まり、揃って寺の座敷に向かう。座布団が並べられていて、皆、神妙な顔で正座する。読経が始まり、友人のひとり(佐分利信)が遅れてやってくる。北竜二と目を合わせ会釈する。中村伸郎が少し身を乗り出し、「遅かったじゃないか」と小声で言う。佐分利信は「ちょっとね」と答え、中村伸郎が「今、始まったばかりだ」と教える。佐分利信は「じゃあ、早すぎたかな」とつぶやく。それだけのやりとりだが、やっぱり小津作品は味わい深いなあと思わせてくれる。

主人公を未亡人に設定することが多かった成瀬巳喜男監督だが、葬儀や法要シーンはそれほど多くない。「女の座」(1962年)のヒロインの夫の三回忌のシーンが浮かぶくらいだ。東宝の女優陣総出演のオールスター映画だから、登場人物が多く複雑だ。東京オリンピックのための高速道路が敷地を通るといった話が出てくるし、渋谷のラーメン店から近いらしいから都内にあるのだろう、古くからある荒物屋(タバコも売っている)が舞台である。隠居状態らしい老夫婦(笠智衆と杉村春子)がいる。杉村春子は後妻だ。先妻の長女が三益愛子で、夫(加東大介)とアパートを経営している。死んだ長男の妻が高峰秀子で、彼女には中学生の息子がひとりいる。

次男(小林桂樹)は渋谷でラーメン店をやっていて、いつも不機嫌な妻(丹阿弥谷津子)に頭が上がらない。先妻の次女(草笛光子)は、実家の庭に離れを建ててお茶とお花を教えており金まわりがいい。杉村春子が産んだのは、三人の娘(淡路恵子、司葉子、星由里子)である。淡路恵子は三橋達也と結婚し九州にいたのだが、ふたりで仕事を辞めて実家で居候を始める。高峰秀子の妹が団令子で、彼女はホステスのアルバイトをしながら演劇をやっている。杉村春子は息子を置いて離婚し笠智衆と再婚したのだが、三益愛子のアパートに入居した男(宝田明)が成長した息子だとわかり、一家に波風が立つ。

三益愛子の娘が東宝のヴァンプ女優だった北あけみで、宝田明の部屋に入り浸ったりしている。血はつながっていない草笛光子が宝田明に一目惚れするのだが、宝田明は高峰秀子に好意を寄せるので話はややこしくなる。独身のふたりの娘(司葉子と星由里子)にからむのが気象庁に勤めている夏木陽介だ。星由里子は渋谷の映画館のチケット売場に勤めているのに、彼女が好意を寄せる夏木陽介は「生まれてから一度も映画を見ていない」という設定がおかしい。これだけ多彩な人物たちが、一堂に会するのが高峰秀子の夫の三回忌である。小津の「東京物語」(1953年)の葬儀シーンも同じだが、冠婚葬祭を終えた会食シーンでは親戚や家族の関係が鮮明になる。

最近の映画で、そんなシーンがあまりなくなったと感じるのは、やはり現実を反映しているからだろうか。地方から出てきて都会生活をしている核家族は、親戚間の冠婚葬祭に出席する機会がほとんどない。僕は祖父母の葬儀以外は、母に頼んで僕の名で香典を包んでもらい弔電を送るだけだった。まして、法要など出席したことはない。同時に頼る親戚もなく、妻の大きな手術のときも待合室で僕はひとりで待っていた。何かあったときに相談する相手もいなかった。六十を過ぎてリタイアし故郷で過ごすことが多くなった途端、昨年から葬儀や法要への出席が多くなった。

ずっとこちらで暮らしていたら、まったく違う人生だったのだなと改めて実感している。しかし、こちらで暮らしていたら伯父にも頻繁に会えたかもしれない。もっと満鉄時代の話を聞いておくのだったと、四十九日の読経を聴きながら後悔することもなかったかもしれない。延々と続く読経を聴いていると、若い頃の伯父の姿が浮かんできた。

2017年2月 2日 (木)

■映画と夜と音楽と…758 若き写真家が撮った永遠のスター


【ディーン、君がいた瞬間(とき)/エデンの東/理由なき反抗/ジャイアンツ】

●入場料を払って見にいっていた海外の写真家の展覧会

もう三十年近く前のことになるだろうか。写真家のデニス・ストックがジェームス・ディーンを撮った写真展を日本橋のデパートで見たことがある。ニューヨークの街角でロングコートを着てたばこを吸うジェームス・ディーン、故郷の農場で作業服でたたずむジェームス・ディーンなど、映画では見せない表情が新鮮だった。特にメガネをかけた姿が珍しく、自然な日常が写っている印象を受けた。そのとき、図録を買って帰り、ときどき見返していたが、数年前に写真集関係は処分してしまった。

僕は四十年の出版社勤務で三十年を編集者として過ごし、十年を管理部門で働いた。三十年の編集者生活のうち半分の十五年ほどは、カメラ雑誌の編集部だった。アマチュア向けのカメラ誌に合計で十数年、広告写真の専門誌に三年ほど在籍した。そんな関係から写真集や写真関係の書籍がかなりたまったのだ。写真集は購入したものもあるし、贈呈されたものも多かった。写真展にいくと必ず図録を購入したから、いつの間にか本棚ひとつが写真関係の書籍ばかりになった。

メーカー・ギャラリーは新宿や銀座にいくつもあり、週替わりで写真展が開かれている。それをすべて見るのは無理だったが、機会があれば見るようにしていた。入場料を払って見にいっていたのは、海外の写真家の展覧会だった。ロバート・キャパ、アンリ=カルチェ・ブレッソン、ロベール・ドアノー、アーヴィング・ペン、ダイアン・アーバス、エリオット・アーウィット、ヘルムート・ニュートン、サラ・ムーン、ロバート・フランクなどなど、である。そんな写真展では、必ず図録を買っていた。

デニス・ストックのジェームス・ディーン写真展もその流れで見にいったのだけれど、見にきている人たちがいつもの写真展とは違っていた。ジェームス・ディーンのファンらしき人々なのである。ジェームス・ディーンの映画が日本で公開されたとき、すでに彼は事故死していたこともあり、すでに伝説になっていた。一九五六年、僕はまだ五歳になっていない。ジェームス・ディーンに夢中になったのは、僕よりひとまわり上の年代の女性たちであり、「理由なき反抗」(1955年)のジミー(赤いブルゾンにブルージーンズ)に憧れた少年たちである。その写真展当時、彼らは五十代になっていた。

ジェームス・ディーンは一九三一年二月八日に生まれ、一九五五年九月三十日に二十四歳で亡くなった。「エデンの東」(1954年)「理由なき反抗」「ジャイアンツ」(1956年)の三本の主演作を遺した。事故死したのは「ジャイアンツ」の撮影が終了した直後のことだった。主演デビュー作「エデンの東」ではアカデミー賞候補になっている。若干二十三歳だった。僕はダクラス・サークの作品で、ワンシーンだけ出てきた端役のジェームス・ディーンを見たことがある。「僕の彼女はどこ?」(1952年)かもしれない。

●ニコラス・レイ監督のパーティに参加する若きデニス・ストック

カメラマンが主人公の映画はいくつか挙げられるが、実在の写真家を主人公にした作品はあまり思いつかない。最近では「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」(2007年)があるが、あれはアニー・リーボヴィッツ自身を撮ったドキュメンタリーだった。ニコール・キッドマンがダイアン・アーバスを演じた「毛皮のエロス/ダイアン・アーバス幻想のポートレイト」(2006年)なんて映画もあったけれど、「何だかな?」という感じである。若きデニス・ストックと「エデンの東」公開前のジェームス・ディーンを描いた「ディーン、君がいた瞬間(とき)」(2015年)は、短期間のふたりの交流を事実を基に描いており、僕は面白く見た。

一九五四年の暮れ、ニコラス・レイ監督のパーティにフラッシュを付けたカメラを首から提げて参加する若きデニス・ストックから映画は始まった。ニコラス・レイ監督に会ったデニスは、「この前の作品でスチールを担当したデニス・ストックです」と言う。スチールカメラマンのことなど覚えていない映画監督は「楽しんでいってくれ」と答え、横にいたナタリー・ウッドを紹介する。彼女はニコラス・レイ監督の次回作「理由なき反抗」のヒロイン役が決まっている。今は主演俳優の候補を選んでいるところだという。

パーティになじめず、ひとりでプールサイドに出たデニス・ストックは、そこで若い俳優のジェームス・ディーンと出会う。ジェームス・ディーンは「エデンの東」の試写会にデニス・ストックを誘い、試写を見たデニスはジェームス・ディーンが主演であることに驚く。ジョン・スタインベックの小説をエリア・カザンが監督した話題作である。公開されれば、一躍、ジェームス・ディーンは注目されるに違いない。無名の若い俳優が、ハリウッド・スターになるのだ。ジェームス・ディーンの独特な雰囲気やたたずまいが気に入り、デニス・ストックは被写体になってくれと依頼するが、ジェームス・ディーンは何だかんだとはぐらかす。

一方、ジェームス・ディーンは映画会社の支配を嫌い、「エデンの東」の宣伝のためのパブリシティをすっぽかしたりするので、勝手な行動をワーナー・ブラザースのジャック・ワーナー社長(ベン・キングズレーが必見)にとがめられる。「勝手なことばかりしていると、『理由なき反抗』の主役にはしないぞ」と恫喝するジャック・ワーナーは、いかにも映画が全盛だった五〇年代ハリウッドの帝王という感じである。しかし、ジェームス・ディーンは、従順に従うようなタイプではない。いい芝居だけをしたいという思いで、自由に生きている。また、恋人であるイタリア人女優ピア・アンジェリとの生活を楽しんでいる。

●ジェームス・ディーンの最後の誕生祝いに立ち会った写真家

デニス・ストックが撮った「エデンの東」公開直前のジェームス・ディーンの写真は、「ライフ」誌に「気難しい新スター」というタイトルで四ページわたって掲載された。それが掲載されるまでの二ヶ月ほどの物語が「ディーン、君がいた瞬間」で描かれる。それにしても、もう少し何とかならなかったのか、このタイトル。原題は「LIFE」で、たぶん「ライフ」誌と「人生」のダブルミーニングだろう。ジェームス・ディーンが育ったインディアナ州の町にふたりで赴くのが後半で描かれるのだが、そのとき「先週、誕生日だったね」と祖父母や叔父夫婦にお祝いされるので、その時期が二月中旬だったとわかる。

それが、ジェームス・ディーンの最後の誕生祝いになったことは、観客たちは知っているわけだ。このとき、二十四歳を迎えたジェームス・ディーンは、七ヶ月後に自動車事故で死んでしまうのである。彼の日常のシーンを捉えた写真も、おそらくデニス・ストックが撮ったもの以外にはほとんど残っていないはずである。雨のニューヨーク・タイムズスクエアでの写真、インディアナの故郷の農場での写真、いとこの少年と本を読んでいる写真、どれも僕には見慣れたものだったから、それを撮った瞬間が映画で描かれると、本当にこんな風だったのだろうなあと思えてくる。

ジェームス・ディーンの撮影を終え、マグナム・フォトのマネージャーと「ライフ」のビルの前で会ったデニス・ストックは掲載誌を受け取り、「次のテーマは何だ?」と問うマネージャーに「ジャズメンたちを撮りたい」と答える。デニス・ストックの未来の成功をうかがわせて映画は終わるが、その後に彼が撮影したジャズ・シーンは「ジャズ・ストリート」という作品集にまとまった。五〇年代のニューヨークは、モダン・ジャズの黄金時代である。チャーリー・パーカーがいて、新人のマイルス・デイビスがいた。バードランドを始め、ジャズクラブがいっぱいあった。

村上春樹さんが翻訳したビル・クロウの「さよならバードランド」という本がある。ビル・クロウは、五〇年代からジャズ・ベーシストとして活躍したミュージシャンである。その本は「あるジャズ・ミュージシャンの回想」とあるように、「ジャズ黄金時代のニューヨークで活躍したベーシストの自伝的交友録」なのである。表紙カバーは和田誠さんのイラストで、ニューヨークの街角を背景に大きなベースを黒いカバーに入れ、背中に背負って歩いているビル・クロウを描いている。そのイラストの基になっている写真を撮ったのが、デニス・ストックだった。

ニューヨークの早朝、巨大なベースを黒いカバーに包んで歩いているビル・クロウの写真は、ジャズメンたちを撮影したデニス・ストックの作品群の中でも有名な一枚だ。今ならネットで検索すれば、出てくるだろう。もちろん、ジェームス・ディーンを撮ったデニス・ストックの写真もネットで見られる。昔なら写真集を探したり、写真展にいかなければ見ることができなかった写真が簡単に検索できる。そのこと自体は、とてもよいことだとは思うけれど、写真家の著作権保護から考えると複雑な思いもしてくるのだった。

2017年1月26日 (木)

■映画と夜と音楽と…757 プリンセス・レイアは戦うヒロインだった



【スター・ウォーズ/スター・ウォーズ フォースの覚醒/ブルース・ブラザース/ハリウッドにくちづけ】

●メリル・ストリープは「友人で親愛なる去りしレイア姫」と言った

メリル・ストリープがゴールデン・グローブ賞での受賞スピーチでトランプ批判をしたことは世界的なニュースになったけれど、その最後は「私の友人で親愛なる去りしレイア姫がかつて言ったように、砕かれたハートをもってアートにしましょう」という言葉で締めくくられた。プリンセス・レイアことキャリー・フィッシャーは昨年の暮れ、十二月二十七日に飛行機の中で心臓発作を起こし、そのまま亡くなった。六十歳では早すぎる。「スターウォーズ・フォースの覚醒」(2015年)で久しぶりにレイア役としての姿を見たのに残念だ。

ところで、メリル・ストリープが「友人で親愛なる去りしレイア姫」と言ったとき、「ああ、そうか。メリル・ストリープは『ハリウッドにくちづけ』で、キャリー・フィッシャー自身を演じていたな」と僕は思い出した。メリル・ストリープはキャリー・フィッシャーよりかなり年上だと思っていたので、最初はふたりの結び付きがピンとこなかったのだ。調べてみると、メリル・ストリープの方が七歳年上だったけれど、女優として日本で知られたのはキャリー・フィッシャーの方が早かった。彼女は、日本でも公開前から大騒ぎになった「スター・ウォーズ」(1977年)のヒロインなのである。メリル・ストリープは、まだ「ディア・ハンター」(1978年)さえ公開されていなかった。

「スター・ウォーズ」の日本公開は、アメリカ公開の翌年一九七八年の夏だった。アメリカでの評判が凄くて、雑誌(「スターログ」など)が大々的に特集したりした。「キタキツネ物語」(だったと記憶している)が大ヒットして儲かったフジテレビの映画製作チームはジェット旅客機をチャーターし、スタッフ全員でアメリカまで「スター・ウォーズ」を見にいったという話まであった。待ちきれない人たちの間では「スター・ウォーズ」をアメリカまで見にいくことが流行し、帰国して自慢そうに映画について報告した。テレビに登場する映画リポーターと称する人たちも、「冒頭の宇宙船のシーンが凄い」とか、「ライト・セーバーという光るサーベルでの戦いが美しい」などと喋り散らした。

勤めて二年目、結婚して一年半の僕にはアメリカまでいく資金も時間もなかったから、そんな騒ぎを横目に見て「チッ、どうせ特撮を売り物にしたスペースオペラだろ」と皮肉な笑みを浮かべて切り捨てた。「子供だましみたいなものさ」と、あまり振りまわされないようにしていた。会社の先輩と後輩にSF映画好きがいて、あまりに騒ぐので反発したこともあったのだろう。しかし、社会現象になるほど騒がれれば、気にならないわけがない。翌年の夏休みを当て込んで公開された「スター・ウォーズ」は大ヒットしたが、僕は世間が静まり始めた頃に人目を忍んで(?)見にいった。そして、ファーストシーンから圧倒された。

銀河系を舞台にした正邪の戦いという物語の設定はシンプルなので、冒頭で背景を説明し、いきなり巨大な宇宙船の腹を見せるというハッタリは成功していた。あれで、観客は物語の中に引き込まれる。巨大な宇宙船に小さな宇宙船が引き込まれ、邪悪そうなダースベイダー(あの息と声!)が登場し、可憐なプリンセス・レイアが捕らわれる。プリンセス・レイア役に最後まで残ったのがキャリー・フィッシャーとジョディー・フォスターだったそうだが、日本ではほとんど無名だったキャリー・フィッシャーに決まったから、プリンセス・レイアの新鮮さが映画にマッチし、キャリー・フィッシャー=プリンセス・レイアになったのだ。

しかし、三年後、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」(1980年)が公開されたとき、三年間での容貌の変化に僕は戸惑った。少女の面影を残していたキャリー・フィッシャーは完全な大人の女性になったわけだが、プリンセス・レイアが初めて登場したときには僕はちょっと唖然とした。同じように、美少年の雰囲気を持っていたルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミルも、少年から大人になってしまい容貌が変わっていた。「おまえは、桜木健一か」と、僕はスクリーンに向かって突っ込んだものだ。テレビ「柔道一直線」で有名になった桜木健一も、その後は「仁義なき戦い」のチンピラ役が目立ったくらいで、あまり見かけなくなっていたけれど----。

●キャリー・フィッシャーは麻薬中毒を克服し文才を発揮して六十年を生きた

「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」と同じ年に作られたヒット映画「ブルース・ブラザース」(1980年)に出演したキャリー・フィッシャーは、強烈な印象を僕に残した。「おいおい、あれがプリンセス・レイアかい?」と思ったものだ。ジョン・ベルーシを機関銃で撃ちまくるクレイジーな元カノ役である。後に知ったのだが、キャリー・フィッシャーが麻薬におぼれることになったのは、もしかしたらこの映画でジョン・ベルーシと共演したことがきっかけになっているのだろうか。ジョン・ベルーシは薬物の過剰摂取で死んでしまったが、キャリー・フィッシャーは麻薬中毒を克服し、文才を発揮して六十年を生ききった。

キャリー・フイッシャーが自らの麻薬中毒になった経験と、世界中で誰もが知っているミュージカル・スターだった母親との葛藤を小説にして発表したのは、「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」(1983年)から六年後のことだった。日本で翻訳が出たのは一九八九年の晩秋である。朝日新聞の書評欄で紹介された「崖っぷちからのはがき」という本が、キャリー・フイッシャーが書いた自伝的な小説だと知って僕は驚いたものだ。その年の暮れ、僕は久しぶりにキャリー・フイッシャーをスクリーンで見た。彼女はヒロインの友人役だった。その映画「恋人たちの予感」(1989年)では、ヒロイン役のメグ・ライアンが輝いていた。

「崖っぷちからのはがき」は「ハリウッドにくちづけ」(1990年)として映画化され、キャリー・フイッシャー役をメリル・ストリープ、母親のデビー・レイノルズ役をシャーリー・マクレーンが演じ、新旧ふたりの名女優の演技合戦が話題になった。キャリー・フイッシャーは自ら脚本も書いた。監督はマイク・ニコルズ。母娘の複雑な関係、心理的なやりとり、お互いの葛藤などを細かく描写する名監督である。僕はデビー・レイノルズと言えば「雨に唄えば」のヒロインしか浮かばなかったが、彼女が人気歌手のエディ・フイッシャーと結婚しキャリー・フイッシャーを生み育てたことを、その映画を見て実感した。

ちなみに、父親のエディ・フイッシャーの結婚歴は凄い。エリザベス・テイラー、コニー・スティーヴンス、デビー・レイノルズの三人を妻にしている。美女ばかりだ。そんな父親と母親を持ったキャリー・フイッシャーは、ハリウッドのサラブレッドだった。プリンセス役としては、最適だったのではあるまいか。「スター・ウォーズ」でプリンセス・レイアを演じ、薬物依存から立ち直り、女優として仕事を続け、また、脚本の執筆も行った才女である。残念ながら十二月二十七日に六十で亡くなったが、母親のデビー・レイノルズも娘の後を追うように翌日の二十八日、突然に亡くなった。娘の葬儀の相談をしているときだったという。

昨年の暮れ、僕は毎日続いた訃報に驚いてばかりいた。キャリー・フイッシャーに続くデビー・レイノルズの死には、「娘が呼んだのだろうか」と思い、その翌日の二十九日、根津甚八の六十九歳の死を惜しんだ。石井隆監督作品「GONINサーが」(2015年)で別人かと思うほど容貌が変わってしまった根津甚八を見て、僕は目を疑った。それが、彼の最後の映画出演になってしまったのだ。唐十郎の紅テントに出ていた根津甚八を見たことがなかった僕は、「娘たちの四季」というテレビドラマで初めて彼を見て、何という存在感を見せる役者かと驚いたことを今も憶えている。長女役の夏圭子の相手のCМディレクター役だった。有名な遺書を残し自殺したCMディレクター杉山登志をモデルにしているのではないかと僕は思った。

●ヒュー・グラントが「最近のハリウッドは戦うヒロインばかり求められる」と嘆く

コメディ出演が多いトボケた二枚目ヒュー・グラントがアカデミー賞女優マリサ・トメイを相手役にして出演した「Re:LIFE~リライフ~」(2014年)は「ノッティングヒルの恋人」ほど長く愛される作品にはならないだろうが、ヒュー・グラントらしい演技が見られる楽しい作品だった。十数年前にアカデミー脚本賞を受賞した名作を書いたヒュー・グラントは、その後は鳴かず飛ばずで、今はまったく仕事がない。エージェントから遠い州のカレッジでシナリオ創作コースを教える仕事を紹介され、嫌々ながら生活のために講師を始めることになる。その映画の中で、ヒュー・グラントは「最近のハリウッドは、戦うヒロイン、強い女ばかりが求められる」と嘆く。そのセリフに僕は笑ってしまった。

ハリウッド映画で「強い女」と言われて、真っ先に浮かぶのが「エイリアン2」(1986年)のリプリーことシガニー・ウィーヴァーである。一作めの「エイリアン」(1979年)でも彼女は孤軍奮闘したったひとり生き残ったが、「戦うヒロイン」と言えば「エリイアン2」が強烈な印象を残す。少女をエイリアンにさらわれたリプリーが手榴弾や銃を装備するシーンでは、僕はスタローンの「ランボー」(1982年)やシュワルツネッガーの「コマンドー」(1985年)を連想した。監督のジェームス・キャメロンは戦うヒロインが好きらしく、「アビス」(1989年)のメアリー・エリザベス・マストラントニア、「ターミネーター2」(1991年)のリンダ・ハミルトンなどを創り出した。

しかし、ハリウッド映画のヒロイン像を変えたのは、「スター・ウォーズ」のプリンセス・レイアことキャリー・フィッシャーではなかったか。それまでのプリンセスは、男たちに守られるか弱い女性だった。強いヒーローと聖なる女性という構図である。七〇年代のウーマン・リブによってハリウッド映画におけるヒロインの描かれ方も変わり始めていたが、「戦うヒロイン」がはっきりと登場したのはプリンセス・レイアだったのではないだろうか。六〇年代後半から始まったニューシネマでは「弱い男」「泣く男」たちが描かれ、「自立するヒロイン」が登場した。しかし、シリアスなドラマが多く、スペースオペラのような作品で「戦うヒロイン」が登場するまでには至らなかった。

今も、僕は憶えている。ルークが宇宙船の狭い部屋に閉じこめられていたプリセス・レイアを救い出したとき、プリンセス・レイアは先頭に立って銃を構え宇宙船の中を走っていったことを。彼女はルークやハン・ソロを従えた戦うヒロインだったのだ。その流れは、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」のヒロインへとつながっている。プリンセス・レイアことキャリー・フイッシャーはハリウッドのサラブレッドであり、ハリウッド映画に多大な貢献をした。現在では六十年は短いけれど、メリル・ストリープに「親愛なる去りしレイア姫」と惜しまれる人生である。充実した人生だったのではないか。

2017年1月19日 (木)

■映画と夜と音楽と…756   いかがなものかな、大統領


【マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙/ディア・ハンター/恋におちて/マディソン郡の橋】

●「おまえのかーちゃん、でーべそ」という類の子供の喧嘩レベルの反論

ドナルド・トランプが好きになれない。というより、嫌悪を感じる。顔を見ると虫酸が走る。その言動は下劣で、下品で、見ている方が恥ずかしくなる。マルティン・ベックのシリーズに「唾棄すべき男」というタイトルがあったと記憶しているが、その言葉が浮かんでくる。野卑で、感情的で、子供っぽくて、差別的で、攻撃的で、とにかく僕が嫌いな要素をすべて体現しているかのようだ。人格高潔な人物が大統領になるとは限らないが、ニクソン、ロナルド・レーガン、ブッシュ(息子の方)にも増して僕が嫌いなアメリカ大統領が誕生してしまった。僕がアメリカ国民だったら、耐えられないだろう。カナダへ逃げ出したくなる。

メリル・ストリープもそう感じていたのかもしれない。ゴールデングローブ賞で功労賞的なセシル・B・デミル(代表作は「十戒」かな)賞を受賞したときのスピーチ映像を見たが、トランプの名前は出さず理性的な言葉を連ねていたものの、寸鉄人を刺すような批判だった。トランプが自分に批判的な記事を書いた記者の身体的障害をネタに嘲笑したことを批判し、彼女のスピーチに人々は聞き入っていた。人前で誰かを批判するのであれば、彼女のように人々の共感を得られるような言葉を選ぶべきだと僕は思った。聞いていても不快にならないし、深い説得力に充ちていた。感動的だった。誹謗・中傷・悪声・罵倒・罵詈雑言で相手を侮辱し、罵り続けるトランプとは大違いだ。

メリル・ストリープのスピーチがニュースで話題になると、トランプは例によってツイッターで下品な反論をしつこく続けた。「ハリウッドで過大評価されているメリル・ストリープ」というフレーズには僕もちょっと笑いそうになったけれど、相変わらずの下劣さである。「おまえのかーちゃん、でーべそ」という類の子供の喧嘩レベルの反論は、本人の知性レベルがゼロだと告白しているようなものではないか。もっとも、僕も昔からメリル・ストリープのことを「メリル・あたしうまいでしょ・ストリープ」と呼んでいて、その演技は鼻につくところがあるなと感じていたので、「過大評価されている女優」というフレーズに思わず笑ってしまったのだ。

しかし、僕がメリル・ストリープを「うますぎて鼻につく」ように感じ始めたのは最近のことだ。昔、杉村春子の演技に舌を巻いたが、メリル・ストリープに対するものもそれに近い。何をやっても評価され、何度もアカデミー主演女優賞を受賞した女優である。最近では「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(2011年)を見て、嫌みなくらいうまいなあ、と思ったものだ。もっとも、「クレイマー、クレイマー」(1979年)でアカデミー助演女優賞、ウィリアム・スタイロンの小説の映画化「ソフィーの選択」(1982年)でアカデミー主演女優賞を受賞した頃、ハリウッド一番の名女優だなと素直に僕は思っていた。そう言っては何だが、それほどの美女ではない。演技力が彼女の武器だった。

一九四九年生まれのメリル・ストリープは、僕の兄と同い年になる。日本で言えば団塊の世代、アメリカではベビーブーマーのひとりだ。僕とは二歳しか違わないのだが、昔からずっと年上の名女優という気がしていた。映画デビューは「ジュリア」(1977年)だそうだが、あの映画では、女優はリリアン・ヘルマン役のジェーン・フォンダとジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーブしか記憶に残らない。男優では、ダシール・ハメット役のジェーソン・ロバーツが忘れられない。しかし、メリル・ストリープは何の役だった? という感じだ。僕が初めて、メリル・ストリープという女優を記憶に刻んだのは、「ディア・ハンター」(1978年)だった。

●公開前から非常な評判になっていた「ディア・ハンター」

「ディア・ハンター」の日本公開は一九七九年三月だったけれど、公開前から非常な評判になっていた。当時は、ずいぶんテレビで映画紹介番組があった。僕は、公開前にイヤになるくらいロシアン・ルーレットのシーンを見たものだ。ベトナム戦争に従軍したロバート・デ・ニーロやクリストファー・ウォーケンなど故郷の仲間たちがベトコンの捕虜になり、河を利用して作られた水牢に入れられている。ひとりひとり捕虜が連れ出され、ロシアン・ルーレットを強要され、ベトコンたちの賭の対象にされる。水牢に死んだ捕虜の体が無造作に投げ入れられ、彼らの恐怖は極限に高まっている。やがて、デ・ニーロとウォーケンが連れ出され、ロシアン・ルーレットを強要される。

アメリカ軍がサイゴンから撤退し、ベトナム戦争が終結してから、まだ四年も経っていなかった頃だ。「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)に参加していた人たちは多かったし、ベトナム戦争ではアメリカ軍が悪役だった。六〇年代末、「ホ、ホ、ホーチン」と北ベトナムの指導者ホーチミンを讃える歌を、有名なフォーク歌手が歌っていたくらいである。だから、左翼系知識人の中には、「ベトコンがあんな残酷なことをするわけがない」と主張し、「ディア・ハンター」を反動映画扱いする人たちもいた。また、「米帝(米国帝国主義)のお先棒を担ぐ映画だ」と批判する人もいた。

しかし、映画の力は圧倒的だった。三時間のあいだ、僕が映画館の椅子の背もたれに背中をつけたのは十分もなかったのではないか。ずっと身を乗り出し、スクリーンを食い入るように見ていた。特にロシアン・ルーレットのシーンは手を強く握りしめていたのを憶えている。「いい映画」や「好きな映画」にはけっこう出会えるが、「すごい映画」にはなかなかぶつからない。「ディア・ハンター」は、極め付きの「すごい映画」だった。「ゴッドファーザーPARTII」(1974年)や「タクシードライバー」(1976年)ですでにスターになっていたロバート・デ・ニーロのうまさを改めて実感し、初めて見たクリストファー・ウォーケンの繊細さと青い目に魅了されたものだった。

メリル・ストリープの出演場面は、それほど多くはなかった。前半の一時間近くは故郷の田舎町での結婚式が延々と続くけれど、メリル・ストリープとクリストファー・ウォーケンが淡い恋仲で、ロバート・デ・ニーロの複雑な感情が描かれる。その後、唐突にベトナムの戦闘シーンになり、ジャングルでの戦いが続く。やがて、捕虜になり、何とか生還するが、クリストファー・ウォーケンは行方不明となり、ロバート・デ・ニーロは英雄として故郷に帰る。しかし、町の入り口に張られた自分の帰還を歓迎する横断幕を通り過ぎ、デ・ニーロは歓迎式典に顔を出さず、メリル・ストリープと再会する。そのときの微妙な感情の交錯が印象に残る。美人じゃないけど、うまい女優だなと僕は思った。

あれから三十六年が経ち、こんな大女優になるとは想像もしなかった。「ディア・ハンター」出演のとき、すでに三十近かった彼女は、現在、六十七である。「ディア・ハンター」で共演したロバート・デ・ニーロは、一九四三年生まれで、彼女よりは六歳上。今年、七十四歳になる。その後、ふたりはハリウッドを代表する演技派になり、役作りのために自在に太ったりやせたりするデ・ニーロは「演技オタク」とまで言われ、メリル・ストリープはすれっからしの映画ファンである僕などに、「嫌みなほどうまい」とか「うますぎで鼻につく」などと言われるようになった。しかし、お見逸れしました、と僕は謝るしかない。ゴールデン・グローブ賞の数分間のスピーチは、何にも勝る名演技でしたと----

●「恋のおちて」のメリル・ストリープの葛藤する演技も見事

「ディア・ハンター」の後、メリル・ストリープとロバート・デ・ニーロが本格的に共演した作品に「恋におちて」(1984年)がある。家庭のある中年男女の恋愛を描いて秀逸だった。デビッド・リーン監督の「逢びき」(1945年)を下敷きにしているという話だったが、あまりそんな気はしなかった。八〇年代のアメリカだから、ヒロインはグラフィックデザイナーという仕事をしているし、ふたりが逢い引きを続けるのはニューヨーク・マンハッタンに通う通勤列車の中である。ふつうの男がふつうの女性に恋をして、次第にのっぴきならないところまで高まり、結局、家庭と恋のどちらをとるかまで追い込まれる。ただのラブ・ロマンス作品にならなかったのは、デ・ニーロとメリル・ストリープ主演だからだろう。

恋する女の切なさが観客の心に響いてくるのは、ベストセラー小説をクリント・イーストウッドが映画化した「マディソン郡の橋」(1995年)である。このとき、メリル・ストリープは原作のヒロインより実年齢は若かったが、初老の女性の揺れる心理を表現して絶妙の演技を見せた。監督のイーストウッドのうまさもあるのだが、夫とヒロインが乗る車の後ろにイーストウッドのピックアップトラックが信号で停車するところは、映画史に残る名シーンである。一言もセリフはなく、それぞれの車に乗る男と女の表情、ウィンカの点滅、車のドアの取っ手、信号のアップなどが交錯し、ふたりの心理を表現する。結局、ヒロインは車を降りず右折し、男は左折して別れてゆく。

その「マディソン郡の橋」に劣らず、「恋のおちて」のメリル・ストリープの葛藤する演技も見事だ。ふたりはマンハッタンに逢い引きのための部屋を借り、結ばれるために部屋にいく。しかし、夫と子供のいるメリル・ストリープは家庭を裏切れない。デー・ニーロの方も妻と子供の顔がちらつく。ふたりは何もせずに別れるが、デ・ニーロの様子をいぶかしんだ妻は問い詰め、「でも、何もなかったんだ」と言い訳するデ・ニーロに「なお、悪いわ」と言い返す。彼女は夫を許すことができずに家を出ていく。そんなものかなと僕は思い、妻に正直に話さない方がいいこともあるのだと学んだ。当時、僕は結婚して十年、幼いふたりの子供がいた。「恋におちて」のような状況ではなかったが、デ・ニーロが演じたふつうの男には、なんとなく共感したものだった。

そのデ・ニーロも昨年のアメリカ大統領選挙期間中、ドナルド・トランプの女性蔑視の会話が公開された後、「私はトランプの顔を殴ってやりたい」と発言し、世界にニュースとして流れた。そんなストレートなコメントをしたデ・ニーロに、僕は喝采を送ったものだった。僕だって、トランプの顔を殴りたくなったし、今だって殴りたくなる気分はおさまっていない。先日の記者会見を見ていて、さらに嫌いになった。というより、あきれ果てたというべきだろうか。トランプを見ていると、世界は悪い方にしか向かっていない気分になってくる。メリル・ストリープが発言したくなった気持ちがよくわかった。彼女にとっては、自分の国の大統領なのだから----

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